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宝永

索引 宝永

宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.

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加納城

下図をもとにした御三階櫓の東立面復元図 『御三階櫓野絵図集ノ平』部分(1728年 片野記念館蔵) 加納城跡の航空写真(1982年撮影) 国土航空写真 加納城(かのうじょう)は、岐阜県岐阜市加納丸の内にあった日本の城である。徳川家康による天下普請によって築かれた平城で、江戸時代には加納藩藩主家の居城となった。城跡は加納城跡(かのうじょうあと)として国の史跡に指定されている。.

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加納久武

加納 久武(かのう ひさたけ)は、江戸時代中期の人物。伊勢国八田藩主・加納久通の長男。正室は本多助芳の娘。通称は求馬。.

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加茂神社 (黒潮町)

加茂神社(かもじんじゃ、賀茂神社/加茂八幡宮/賀茂八幡宮)は、高知県幡多郡黒潮町入野にある神社。式内社で、旧社格は郷社。 入野松原(国の名勝)の中に鎮座する、入野地域の総鎮守である。.

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加藤泰広

加藤 泰広(かとう やすひろ、宝永7年3月17日(1710年4月15日)- 天明5年2月16日(1785年3月26日))は、伊予大洲藩の支藩・新谷藩の第4代藩主。 大洲藩主・加藤泰恒の七男。母は山田氏(法心院)。正室は大関増恒の娘。子は加藤泰宦(長男)、高力直道(六男)、安西政泰(七男)、娘(近藤用常正室、のち大久保忠温継室)。官位は従五位下、織部正。通称は右京。初名は泰春。 享保9年(1724年)閏4月16日、先代藩主で従兄の泰貫の養嗣子となる。享保12年(1727年)12月18日に叙任する。教養に優れた人物で、藩士子弟の教育化に尽くした。駿府城加番も務めている。宝暦6年(1756年)8月26日、長男・泰宦に家督を譲って隠居し、天明5年(1785年)2月16日に新谷で死去した。享年76。墓所は大洲市新谷の大恩寺。 やすひろ *04 Category:1710年生 Category:1785年没.

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加藤文麗

加藤 文麗(かとう ぶんれい、宝永3年(1706年) - 天明2年3月5日(1782年4月17日))は江戸時代中期の日本の絵師である。谷文晁の師として知られる。.

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力侍神社

力侍神社(りきしじんじゃ)は、和歌山県和歌山市川辺に鎮座する神社。鎮座地川辺を始め、上野、島、神波、楠本の総氏神として一帯の信仰を集める。摂社である八王子神社と東西に並立する。『延喜式神名帳』の紀伊国牟婁郡「天手力男神社」の後継社とする説もある(式内社論社)。旧村社。 本殿は八王子神社のそれとともに和歌山県の有形文化財(建造物)に指定。境内は九十九王子の一つである川辺王子跡として和歌山県の史跡に指定されている。.

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城輪神社

城輪神社 鳥居 城輪神社 本殿 城輪史跡公園の北西角付近から見た城輪神社の境内。城輪史跡公園の北西角は、古代政庁の北西角の位置にあたる。背後に見える山影は霊峰鳥海山。 城輪神社(きのわじんじゃ)は、山形県酒田市にある神社である。昭和6年(1931年)に神社周辺から古代の城柵址が発見され、当社が城柵の鎮守神であることが分かった。出羽国二宮で、旧社格は県社。延喜式神名帳への記載は無いが、六国史にその名が見える国史見在社である。.

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垣内重胤

垣内 重胤(かきうち しげたね)は江戸時代前期の豪商。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第4代目。紀州藩地士。.

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厳島神社 (増毛町)

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、北海道増毛郡増毛町稲葉町3丁目に所在する神社。増毛厳島神社とも表記される。.

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お夏清十郎

『お夏清十郎』(おなつ せいじゅうろう)は、寛文2年 (1662年) に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品の通称・総称。『お夏狂乱』(おなつ きょうらん)ともいう。.

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お家騒動

お家騒動(御家騒動、おいえそうどう)は、江戸時代の大名家における内紛である。現代においては、比喩的に企業(同族経営の会社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。.

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お蔭参り

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」 お蔭参り(おかげまいり)は、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。 お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。 江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。.

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とらや饅頭

とらや饅頭 とらや饅頭(とらやまんじゅう)は、酒饅頭の一種。三重県桑名市の銘菓とされる。 薄皮で中に小豆のこし餡が入っている。1704年(宝永元年)創業の、とらや老舗(桑名市本町)が製造・販売を行っている。江戸時代には桑名宿の土産物などとして武士や町人に親しまれた。 もち米と麹で発酵させた酒素を小麦粉と混ぜて発酵させて生地を作り、その生地を薄皮にして、こし餡を包んで蒸すといった伝統的な製法で作られる。.

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にんべん

株式会社 にんべんは東京都中央区日本橋室町に本社を置く主に削り節やふりかけ、調味料を製造する水産加工品メーカーである。元禄12年(1699年)の創業と非常に長い歴史を誇り、業界では最古参にあたる企業の一つでもある。首都圏や東日本では高いブランド力を持つ。.

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側用人

側用人(そばようにん)は、江戸時代、幕府および諸藩に置かれた役職。.

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まいまいず井戸

まいまいず井戸とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種である。東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られ、同様の構造を持つ井戸は伊豆諸島や群馬県の大間々扇状地などにも存在した。.

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ええじゃないか

ええじゃないか」騒動に興じる人々。 ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)『8月から12月』にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。 伊勢神宮に御札が降るおかげ参りと違い、ええじゃないかの御札は地域で信仰されている社寺の御札が降ったため、現地で祭祀が行われる事が多かった。降札があると、藩に届け出た上で屏風を置く、笹竹で家を飾る、酒や肴を供えるなどして町全体で札を祀った。名古屋の場合、降札後の祭事は7日間.

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千川上水

千川上水(せんかわじょうすい)は、玉川上水を水源とし、境橋(現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの用水路(上水)であり、江戸の六上水のひとつであった。 現在は使用されておらず、大部分が暗渠化されているが、東京都の清流復活事業により一部区間には高度処理下水を流し、水辺が復活している。.

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千呆性あん

千呆性侒(せんがい しょうあん、崇禎9年(1636年) - 宝永2年2月1日(1705年2月24日))は、中国明末に生まれ、日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧。黄檗山萬福寺第6代住持となり、黄檗流の能書家で知られた。 俗姓は陳。道号を千呆(千獃とも)・曇瑞。法諱を性侒(性安とも)。.

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千葉県の神社一覧

千葉県の神社一覧(ちばけんのじんじゃいちらん)は、千葉県にある高い特筆性を持つ神社を市町村ごとにまとめた一覧である。 記載基準としては.

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南光院

南光院(なんこういん)は、愛媛県新居浜市別子山にある高野山真言宗の寺院である。1901年(明治34年)別子山保土野にあった圓通寺がこの境内に移転された。.

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南部広信

南部 広信(なんぶ ひろのぶ、宝永6年3月7日(1709年4月16日) - 寛保元年5月2日(1741年6月14日))は、陸奥国八戸藩の第4代藩主。父は第3代藩主・南部通信(広信は長男)。母は桂七郎大夫の妹。正室は松平信庸の娘。幼名は宮内。官位は従五位下、甲斐守。子は南部信興(長男)、南部信之(三男)。 享保元年(1716年)、父の死去により跡を継いで藩主となる。藩政においては検地を行なったり、八戸三社大祭の基礎を作ったりした。また、家老の中里幸生に命じて「南部中興記三冊」や「南部家譜一冊」を編纂させている。 しかしその治世期に凶作が33度にわたって発生するなど、治世は多難を極めた。寛保元年(1741年)5月2日、33歳で死去し、跡を嫡男・信興が継いだ。墓所は東京都港区芝の金地院。 ひろのふ ひろのふ Category:1709年生 Category:1741年没.

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南部信恩

南部 信恩(なんぶ のぶおき)は、陸奥盛岡藩の第5代藩主。.

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南部利幹

南部 利幹(なんぶ としもと)は、陸奥盛岡藩の第6代藩主。 元禄2年(1689年)、第4代藩主・南部行信の四男として生まれる。初め、父の命令により三戸氏を称した。宝永5年(1706年)1月5日、兄で5代藩主の信恩が死去したため、末期養子として、家督を継いで藩主となった。同年1月15日、将軍・徳川綱吉にお目見えする。同年12月18日、従五位下信濃守に叙任する。 領内の銅減産も重なって財政難が進行し、江戸の借財が10余万両にまで膨らみ、参勤交代費用にも窮する事態となった。これにより、享保8年(1723年)には家老以下を更迭し、諸役人を減員する倹約政策を断行して一定の効果を得た。しかし、他方では強引な政策に家臣の不満が高まった。 享保10年(1725年)に死去し、跡を養子の利視(兄・信恩の次男)が継いだ。また、次男の南部信起は家格旗本寄合席の旗本となった。.

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南部利視

南部 利視(なんぶ としみ)は、陸奥盛岡藩の第7代藩主。.

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南部氏歴史年表

南部氏歴史年表(なんぶしれきしねんぴょう)では、南部氏及びその支配した領域、盛岡藩及び八戸藩等に関する歴史事件等を年代順に並べて表記する。.

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南金六町

南金六町(みなみきんろくちょう)は、1872年(明治5年) - 1930年(昭和5年)3月4日に、東京府東京市京橋区にかつて存在した町丁である''南金六町''、goo古地図、2012年5月24日閲覧。。現在の東京都中央区銀座8丁目7番地から同10番地のうち、東を三原通り、西を西五番街に挟まれた部分の南半分にあたる。旧町名芝口金六町(しばぐちきんろくちょう)、それ以前は出雲町(いずもちょう)の南部分であった犬塚、p.37.

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南海地震

南海地震(なんかいじしん)は、紀伊半島の紀伊水道沖から四国南方沖を震源域とする巨大地震の呼称。南海トラフ西側でプレート間の断層滑りが発生する低角逆断層型の地震と考えられている。 狭義の南海地震は1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称であるが、広義には安政南海地震や宝永地震(南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれ、さらに将来、南海トラフ西部で起きると想定される地震も含めて南海地震と総称される。また、南海大地震(なんかいだいじしん)や南海道地震(なんかいどうじしん)と呼称される場合もある。.

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南海トラフ巨大地震

南海トラフ巨大地震(なんかいトラフきょだいじしん)は、フィリピン海プレートとアムールプレート一般的にはユーラシアプレートとの収束型境界とされるが、石橋(2014)は南海トラフの地震を考える上ではアムールプレートの東北日本に対する東進を考慮した方が良いとしている。とのプレート境界の沈み込み帯である南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震のことである石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会』岩波出版、2014年瀬野徹三(2011):, 東京大学地震研究所, 2011年。 また、2011年8月に内閣府に設置された「南海トラフの巨大地震モデル検討会」が検討を行っている、南海トラフ沿いで発生すると想定される最大クラスの地震も「南海トラフ巨大地震」と称されており、本項でもそれを基に解説している。.

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古山師則

古山 師則(ふるやま もろのり、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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古山師継

古山 師継(ふるやま もろつぐ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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古山師政

古山 師政(ふるやま もろまさ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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古着屋総兵衛影始末

古着屋総兵衛影始末(ふるぎやそうべえ かげしまつ)は、徳間文庫から書き下ろしで刊行されている佐伯泰英の時代小説シリーズ。 第11巻の最後で「第一部 了」となる。2011年1月より『新・古着屋総兵衛』が新シリーズとしてスタートすることが佐伯通信創刊号で発表され、同年1月28日に新潮文庫より新装版「死闘!」「異心!」と共に『新・古着屋総兵衛』シリーズ1巻「血に非ず」が発売された。『新・古着屋総兵衛』シリーズの開始と同時に、新潮文庫から佐伯自身による校正を行った新装版が刊行されている。この新装版は、大きく手直ししたため、「完全版」といってよいものとなっている。。.

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古河城

古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.

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古河藩

古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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右衛門佐局

右衛門佐局(えもんのすけのつぼね、うえもんのすけのつぼね、慶安3年(1650年)- 宝永3年2月11日(1706年3月25日)は、江戸時代前期から中期の大奥女中。単に右衛門佐とも。権中納言・水無瀬氏信の娘。.

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名古屋東照宮

名古屋東照宮(なごやとうしょうぐう)は、愛知県名古屋市中区丸の内二丁目にある神社。.

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名古屋漆器

名古屋漆器(なごやしっき)は愛知県名古屋市で生産される漆器である。.

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名取三十郎正澄

名取 三十郎 正澄(なとり さんじゅうろう まさずみ、? - 宝永5年(1708年))は、江戸時代の紀州藩の軍学者。号は、一水、藤一水。 日本三大忍術伝書の一つである『正忍記』の著者であり、紀州藩主徳川頼宣の軍学指南役として仕えた。 軍学流派は名取流、新楠流。流祖は甲州武田家に仕えた名取與市之丞正俊。 2012年(平成24年)4月に和歌山県和歌山市吹上にある恵運寺で墓石、位牌、過去帳記載などが発見された。.

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名張藤堂家

名張藤堂家(なばりとうどうけ)は、江戸時代の藤堂氏の一門。代々宮内を称し、藤堂宮内家ともいう。藤堂高虎の養子・藤堂高吉を祖とする。.

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吹屋

吹屋の町並み 吹屋(ふきや)は、岡山県高梁市成羽町にある地区である。 石州瓦とベンガラ漆喰壁の赤い町並みで知られ、歴史的町並みの残る6.4ヘクタールの範囲が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 本項ではかつて同地域に所在した川上郡吹屋町(ふきやちょう)と、同町の町制前の名称である吹屋村(ふきやむら)についても述べる。.

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吹田市

吹田市(すいたし)は、日本の近畿地方中央部、大阪府北部の北摂三島地域に位置する市である。施行時特例市。 1960年代、千里丘陵に千里ニュータウンが建設されてベッドタウンになった。2016年3月31日時点の世帯数は16万6,830世帯。 1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)開催地であり、会場跡地の万博記念公園にはモニュメントの太陽の塔が現存する。また、アサヒビール創業の地で工場がある。.

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向山町 (田原市)

向山町(むかいやまちょう)は、愛知県田原市の地名。郵便番号は441-3616。当地域の人口は73世帯・243人(2010年10月1日現在、国勢調査による)。.

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向井去来

向井 去来(むかい きょらい、慶安4年(1651年) - 宝永元年9月10日(1704年10月8日))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。儒医向井元升の二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれる。堂上家に仕え武芸に優れていたが、若くして武士の身分をすてた。京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住み、松尾芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。野沢凡兆と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された。.

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吉井藩

吉井藩(よしいはん)は、上野多胡郡吉井(現在の群馬県高崎市吉井町吉井)に存在した藩。藩府は吉井陣屋に営まれた。.

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吉田城 (三河国)

吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。 戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。.

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吉田孝世

吉田 孝世(よしだ たかよ)は、土佐藩の馬廻り記録方。宝永5年(1708年)に軍記物語『土佐物語』を記述し、長宗我部氏の隆盛から滅亡へ至る過程を書き残した。吉田重俊の6代後にあたる子孫で、父は吉田正次、兄は吉田克治。.

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吉田兼直

吉田 兼直(よしだ かねなお、延宝7年(1679年) - 元文4年1月29日(1739年3月8日))は、江戸時代中期の武士。赤穂浪士の1人吉田兼亮の庶子。幼名は伝内。通称は九郎大夫。僧名は恵学。 吉田兼亮の四男として生まれる。母は熊井新八の娘。父や兄の吉田兼貞と異なり、吉良邸討ち入りに加わらなかった。それは、年齢は20を超えていたが庶子であり、部屋住ですらないので浅野家臣の資格がなかったためである。 ところが父たちの切腹後の元禄16年(1703年)4月、一族連座して伊豆大島へ流された。この遠島を知った姉の嫁ぎ先の主家本多家の当主・本多忠国から、江戸幕府に許可されている持ち込み上限の金20両・米20俵のぎりぎりに近い、金19両米19俵を与えられている。 大島では伊豆代官手代の小長谷勘左衛門の厳しい監視を受けたが、浅野長矩正室瑤泉院による赦免運動があったおかげで、宝永3年(1706年)6月に赦免。江戸へ帰着したのち、伯母が尼をしていた洞雲寺において出家し、恵学と名乗った。しかし宝永6年(1709年)頃には還俗し「吉田九郎大夫兼直」と名乗るようになった。 元文4年(1739年)に死去。父や兄と同じ泉岳寺に葬られた。戒名は雪山霊光信士。 category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:1679年生 Category:1739年没.

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吉田郡山城

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった日本の城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。.

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吉良義孚

吉良 義孚(きら よしざね)は、江戸時代中期の旗本。吉良家の支流である東条家を継ぎ、赤穂事件で絶えた吉良の家名を復興した。.

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吉良義俊

吉良 義俊(きら よしとし、寛文10年(1670年) - 寛保2年2月26日(1742年4月1日))は、江戸幕府の高家旗本。吉良家の分流で、元は蒔田氏を称していたが、赤穂事件で吉良家が断絶の後に吉良姓に戻った。通称は源六郎(げんろくろう)、式部(しきぶ)、左兵衛(さへえ)。官位は従四位下侍従、河内守、左兵衛督、左京大夫。.

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吉良義周

吉良 義周(きら よしちか/よしまさ)は、江戸時代前期の高家旗本。吉良義央の孫にして養子。.

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吉沢好謙

吉沢 好謙(よしざわ たかあき、宝永7年2月8日(1710年3月7日) - 安永6年1月1日(1777年2月8日))は江戸時代の地方史家、俳人。通称は清右衛門。号は鶏山。『千曲之真砂』の瀬下敬忠、『信濃奇勝録』の井出道貞とともに、佐久の三大郷土史家と並び称される。 信濃国中山道岩村田宿生まれ。母方の金融業を継いだが、江戸へ出て賀茂真淵、加藤宇万伎に国学を、建部凌岱に俳諧を学ぶ。市井の生活に目を向け、1736年(元文元年)『四鄰譚藪』、1744年(延享元年)『信陽雑志』、1767年(明和4年)『信濃地名考』などで信濃国の地理・歴史・民俗を編纂し、地元の方言を採集した『続譚籔』や、日常語についての弟子との問答『鄙問答』などで地域の言葉や文字の考証に当たった。 俳諧の師としても多くの門人を得て、1754年(宝暦4年)佐久の赤岩弁天堂に松尾芭蕉の句碑を建立した。.

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君帰

君帰(きみがえり)は、新潟県南魚沼市の地名。郵便番号は949-6601。 源義経がこの地を去る時、村人達が君、帰りおわすか…(君=義経のこと)と別れを惜しんで見送ったことが君帰の地名の由来と言われている。.

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坪内定鑑

坪内 定鑑(つぼうち さだかね、慶安2年(1649年) - 享保8年10月13日(1723年11月13日))は、江戸時代中期の旗本。江戸南町奉行、中町奉行。官職は能登守、但馬守。通称は源五郎、弥五郎。御先手鉄砲頭・坪内定次の次男で坪内定守の弟。養子に定富。.

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坪野神明社

坪野神明社(つぼのしんめいしゃ)は、富山県富山市婦中町速星字坪野飛地991にある神社である。.

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坂田藤十郎 (初代)

初代 坂田 藤十郎(しょだい さかた とうじゅうろう、正保4年(1647年) - 宝永6年11月1日(1709年12月1日))は、江戸時代の歌舞伎役者。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。元禄の時代を代表する名優で、上方歌舞伎の始祖の一人にかぞえられる。「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。.

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坂本義辰

坂本 義辰(さかもと よしたつ、生没年不詳)は、江戸時代後期の陸奥国会津藩士、会津松平家家臣。通称は学兵衛。父は坂本義馮(学兵衛。諱は義応とも).

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坂本義邵

坂本 義邵(さかもと よしあき、明暦2年(1656年) - 享保12年2月16日(1727年4月7日))は、江戸時代中期の近江国坂本出身の武士・神道学者で、後に陸奥国会津藩士。通称は覚之進、後に学兵衛。室町幕府最後の将軍足利義昭の子と称する一色義喬(左兵衛、後に和泉とも)の子、一色義房(筑後)の次男で母は柳原氏。苗字は初め「一色」であったが、出身地にちなんで「坂本」に改めた。子に坂本義馮、孫に坂本義辰。.

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坂時存

坂 時存(さか ときもり、延宝7年12月11日(1680年1月12日) - 宝暦9年12月2日(1760年1月19日))は、江戸時代中期の長州藩士。通称九郎左衛門。字は子淇。子は、時連、高杉春善。.

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堤町 (前橋市)

堤町(つつみまち)は、群馬県前橋市の地名。郵便番号は371-0003。2013年現在の面積は0.81km2。.

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堺市

堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.

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堂島

堂島アバンザ(旧毎日新聞大阪本社社屋跡に建設された複合ビル) 堂島(どうじま)は、大阪府大阪市北区・福島区の地域名。または、北区の町名。現行行政地名は堂島一丁目から三丁目まで。2010年10月1日現在の人口は202人、世帯数は103世帯。郵便番号は530-0003。.

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堀川広益

堀川 広益(ほりかわ ひろます、元禄7年(1694年) - 宝暦6年4月7日(1756年5月5日))は、江戸時代の高家旗本。父は公家久我通名。生母は西園寺公満の娘。広幡豊忠は実兄。通称は繁丸、左門、修理。官位は従四位上侍従・兵部大輔。 父通名は、祖父久我広通の長男であったものの、病気のために嫡子の地位を辞退していた。そのため広益は江戸に下り、幕府に仕えることになった。宝永7年(1710年)12月25日将軍徳川家宣に御目見し、12月27日御側高家に就任する。それに伴い従五位下侍従・兵部大輔に叙任し、上野群馬郡内で500石を賜る。後に従四位下、従四位上に昇進する。なお広益の高家登用をもって、全ての高家が出揃うことになった。享保元年(1716年)5月16日御側高家の廃止により、高家に転任する。宝暦2年(1752年)4月23日高家肝煎となる。宝暦6年(1756年)4月7日死去、63歳。 正妻は秀小路の養女。長男正輝(中根正美養子)、次男有馬広之ら五男四女あり。その内、一人は養女である。 ひろます Category:久我家 Category:江戸幕府旗本 Category:1694年生 Category:1756年没.

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堀田正峯

堀田 正峯(ほった まさみね)は、近江堅田藩の第2代藩主。佐倉藩堀田家分家2代。初代藩主・堀田正高の七男。母は福本氏。 享保7年(1722年)5月9日、父の隠居により跡を継ぐ。しかし享保11年(1726年)4月14日、父に先立って23歳で死去し、跡を弟の堀田正永が継いだ。 まさみね *02 Category:1704年生 Category:1726年没.

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堀田正直

堀田 正直(ほった まさなお、元禄2(1689年) - 享保2年8月9日(1717年9月13日))は、出羽山形藩の嫡子。近江宮川藩主・堀田正休の五男。母は板倉重郷の娘。幼名、林之助。通称、内記。官位は従五位下、播磨守。子に正春(長男)。 堀田正休の五男として生まれ、分家筋である山形藩主・堀田正虎の養子となる。宝永6年(1709年)、徳川家宣に拝謁し叙任するも、家督相続前の享保2年(1717年)に早世した。代わって、長男・正春が嫡子となった。 戒名は頓與眞圓正明院。墓所は東京都台東区浅草金蔵寺。 まさなお Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:山形藩の人物 Category:1689年生 Category:1717年没.

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堀田正虎

堀田 正虎(ほった まさとら)は、下野大宮藩主、陸奥福島藩の第2代藩主、出羽山形藩の初代藩主。正俊系堀田家3代。.

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堀田正陳

堀田 正陳(ほった まさのぶ、宝永6年(1709年)- 宝暦3年10月4日(1753年10月29日))は、近江宮川藩の第3代藩主。堀田家宗家5代。.

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堀田正永

堀田 正永(ほった まさなが)は、近江堅田藩の第3代藩主。佐倉藩堀田家分家3代。名は正良、俊尾とも。初代藩主・堀田正高の九男。母は田中氏。 宝永6年(1709年)、堅田にて生まれる。享保11年(1726年)に兄で先代藩主の正峯が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。 享保20年(1735年)から大坂城の守衛を勤めるが、同年8月29日に27歳で死去した。跡を養嗣子の正賓が継いだ。 *03 まさなか Category:1709年生 Category:1735年没.

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堀田正朝

堀田 正朝(ほった まさとも、延宝8年(1680年)- 享保4年8月20日(1719年10月3日))は、近江宮川藩の第2代藩主。堀田家宗家4代。 初代藩主・堀田正休の三男。母は板倉重郷の娘。正室は亀山藩主・板倉重常の娘。側室に菊沢氏。子は正陳(長男)、花房職朝(次男)。幼名は仙四郎。官位は従五位下。駿河守。 三男だったため、30歳を過ぎるまで部屋住みの身だったが、宝永7年(1710年)に嫡子だった兄・正方が廃嫡され、同年11月7日に正朝が世子となった。正徳5年(1715年)6月29日、父の隠居により家督を継いだ。享保3年(1718年)に大坂城の守衛を務めた後の翌年8月20日、江戸に帰国途中の美濃細久手にて死去した。享年40。跡を長男の正陳が継いだ。 法号は月桂台光正朝院。墓所は東京都台東区浅草の金蔵寺。 まさとも *02 Category:1680年生 Category:1719年没.

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堀田正方

堀田 正方(ほった まさかた、延宝3年(1675年) - 享保元年11月30日(1717年1月12日))は、近江宮川藩の嫡子。初代藩主・堀田正休の長男。母は板倉重郷の娘。正室は生駒親興の娘。子に娘(堀田正陳正室)。通称、左衛門。 宮川藩嫡子として生まれ、貞享2年(1685年)に徳川綱吉に拝謁する。しかし、30歳を過ぎても叙任せず、宝永7年(1710年)に廃嫡された。代わって、弟の正朝が嫡子となった。享保元年(1716年)没。 まさかた Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1675年生 Category:1717年没.

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堀直利

堀 直利(ほり なおとし、明暦4年1月1日(1658年2月3日) - 享保元年7月10日(1716年8月26日))は、越後村松藩の第3代藩主。直寄系支流堀家3代。第2代藩主・堀直吉の次男。母は堀直清の娘。正室は戸田光永の娘。子は堀直道(長男)、堀直為(次男)、堀直英(三男)、酒井忠刻(四男)、娘(成瀬正幸正室)、娘(福原資祇正室)。従五位下、左京亮、丹後守。 延宝4年(1676年)、父の死去により家督を相続した。宝永2年(1705年)、奏者番兼寺社奉行に就任した。正徳元年(1711年)、廃嫡した長男・直道に代わって世子となっていた次男・直為に家督を譲り隠居した。享保元年(1716年)に死去した。 *03 なおとし Category:江戸幕府寺社奉行 Category:1658年生 Category:1716年没.

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堀直為

堀 直為(ほり なおゆき、元禄11年10月13日(1698年11月15日) - 寛保3年3月23日(1743年4月17日))は、越後村松藩の第4代藩主。直寄系支流堀家4代。第3代藩主・堀直利の次男。正室は小出英貞の娘。子は堀直堯(長男)。従五位下、左京亮。 宝永5年(1708年)、兄・直道が廃嫡されたため嫡子となる。正徳元年(1711年)、父の隠居により藩主に就任した。大坂加番などを務め、元文元年(1736年)隠居した。跡を長男・直堯が継ぎ、寛保3年(1743年)に死去した。 *04 なおゆき Category:1698年生 Category:1743年没.

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堀直道

堀 直道(ほり なおみち、元禄4年(1691年) - 享保12年5月19日(1727年7月7日))は、越後村松藩3代藩主・堀直利の長男。従五位下、摂津守。 村松藩嫡子として生まれたが、病弱のため宝永5年(1708年)に廃嫡された。代わって、次弟の直為が嫡子となった。享保12年(1727年)死去。 なおみち Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1691年生 Category:1727年没.

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堀親庸

堀 親庸(ほり ちかのぶ、宝永4年11月8日(1707年12月1日) - 享保13年7月12日(1728年8月17日))は、信濃飯田藩の第5代藩主。信濃飯田藩堀家6代。 第4代藩主堀親賢の長男。母は村井伊右衛門の娘(貞松院)。幼名は一学。官位は従五位下、若狭守。 宝永4年(1707年)、堀親賢の嫡男として生まれる。正徳5年(1715年)、父の死により家督を相続した。幼少であったため、家老安富勘右衛門と堀新五左衛門が中心となって飯田藩を運営した鈴川 博、飯田市美術博物館 研究紀要、2012年3月。享保3年(1718年)に大地震「三河・伊那地震」が起こり、飯田城中が大破し、領内に大きな被害が出て深刻な財政難に陥った。 跡継ぎを儲けぬまま享保13年(1728年)に22歳で死去した。跡を弟の親蔵が継いだ。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。.

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堀親賢

堀 親賢(ほり ちかかた)は、信濃飯田藩の第4代藩主。信濃飯田藩堀家5代。.

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堀江 (大阪市)

堀江(ほりえ)は、大阪府大阪市西区南東部の地域名称。一般的に北堀江1~4丁目と南堀江1~4丁目を指す。郵便番号は北堀江が550-0014、南堀江が550-0015。.

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堀江藩

堀江藩(ほりえはん)は、明治維新期の短期間、遠江国に存在した藩。藩庁は遠江国敷知郡の堀江陣屋(現在の浜松市西区舘山寺町)。もともと高家旗本大沢氏の知行地(堀江領)であったが、大政奉還後の明治元年(1868年)に実高が1万石以上あると届け出、明治政府から藩として認められた。明治4年(1871年)の廃藩置県により堀江県(ほりえけん)となるが、石高の虚偽申告が発覚して知事(元藩主)の処罰に発展した(万石事件)。.

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塩山市

塩山市(えんざんし)は、かつて山梨県北東部に位置していた市。現在は甲州市に含まれる。 「塩山」は市域南西部に位置する「塩の山(しおのやま)」に由来し、古代から「さしでの磯」(山梨市)とともに歌枕として知られる。.

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塩谷氏

塩谷氏(しおやし・しおのやし・しおたにし・えんやし 等)は、日本の氏族。氏姓における塩谷の読み方については、一般的には「しおや」だが、下野国塩谷郡を発祥とする塩谷氏が「しおのや」と名乗っているほか、「しおたに」「えんや」と呼称する塩谷氏もある。宇多源氏の塩冶氏(えんやし)とは別である。.

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塩鉄論

塩鉄論(、えんてつろん)は、前漢の始元6年(紀元前81年)に当時の朝廷で開かれた塩や鉄の専売制などを巡る討論会(塩鉄会議)の記録を、後日に桓寛が60篇にまとめた著作である。.

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墨染寺 (伊丹市)

墨染寺(ぼくせんじ)は兵庫県伊丹市中央にある曹洞宗の寺院。.

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墨摺絵

墨摺絵(すみずりえ)とは、江戸時代に描かれた浮世絵の様式のひとつである。.

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境川 (東京都・神奈川県)

江の島展望灯台から、2009年5月2日撮影) 境川(さかいがわ)は、東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされた境川上流部より先では稜線、現在の町田市より下流部では境川ではなく東京湾と相模湾の分水嶺が国境であった。ことに由来し、現在でも上流部(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっている。なお、かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれていた。また、最下流部から河口にかけては片瀬川(かたせがわ)とも呼ばれる。.

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増山正任

増山 正任(ましやま まさとう)は、江戸時代前期から中期の大名。伊勢長島藩の第2代藩主。長島藩増山家3代。.

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増山正弥

増山 正弥(ましやま まさみつ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。三河西尾藩2代藩主。常陸下館藩主。伊勢長島藩初代藩主。長島藩増山家2代。 承応2年(1653年)1月22日、那須資弥の長男として誕生。幼名は仙福、通称は兵部。 寛文2年(1662年)9月22日、伯父の西尾藩主・増山正利が死去したため、その養子として跡を継ぎ、西尾藩主となる。同年9月26日、将軍徳川家綱にお目見えする。詰衆に加えられる。寛文3年(1663年)7月11日に常陸下館藩に移封される。寛文4年12月28日、従五位下兵部少輔に叙任する。元禄元年(1688年)5月4日、詰衆から外れて、帝鑑間詰となる。元禄15年(1702年)9月1日に1万石加増の2万石で伊勢長島に移封された。 宝永元年(1704年)5月20日、江戸で死去。享年52。 まさみつ Category:那須氏 Category:譜代大名 Category:西尾藩主 Category:下館藩主 Category:長島藩主 Category:1653年生 Category:1704年没.

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増山正武

増山 正武(ましやま まさたけ)は、江戸時代中期の大名。伊勢長島藩の第3代藩主。長島藩増山家4代。.

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増田家住宅

増田家住宅(ますだけじゅうたく)は和歌山県岩出市にある歴史的建造物。国の重要文化財。.

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増田立軒

増田 立軒(ますだ りっけん、延宝元年(1673年) - 寛保3年8月14日(1743年10月1日))は、江戸時代初期の儒学者。名は謙之。字は益夫。通称は文内、平内。別号は清世逸人、不染居士。.

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増毛郡

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増毛港

増毛港(ましけこう)は、北海道増毛郡増毛町にある港湾。港湾管理者は増毛町。港湾法上の「地方港湾」に指定されている。.

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壺井義知

壺井 義知(つぼい よしちか(よしとも)、明暦3年2月9日(1657年3月23日) - 享保20年10月24日(1735年12月8日))は、江戸時代の有職故実家。 河内国出身。初名は韶政、字は子安、通称は安左衛門、字は子安、鶴翁・鶴寿と号し、堂号に温故軒。 信州、加賀を遍歴した後京に出て貞享2年(1685年)四辻家に仕え、平田内匠に官職を学ぶ。公家の典拠故実に通じ、多くの著述をなし、和歌をもよくした。.

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壽法寺

壽法寺(じゅほうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺院。山号は是心山。近年では寿法寺の字を当てることも多い。.

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多久市

多久市(たくし)は、佐賀県の中央部に位置する市。.

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多久聖廟

多久聖廟(たくせいびょう)は、佐賀県多久市に設けられた孔子廟。1708年(宝永5年)竣工。.

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多田銀山

多田銀山(ただぎんざん)は旧摂津国、現在の兵庫県川西市、猪名川町および大阪府池田市の広範囲にわたり坑道が開堀されてきた銀山である。 主な鉱石は黄銅鉱、斑銅鉱、方鉛鉱、輝銀鉱および自然銀であり、鉱脈の成因は熱水鉱床である。.

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多胎児

多胎児(たたいじ)とは、同じ母親の胎内で同時期に発育して生まれた複数の子供である。多生児ともいう。つまり、双子(ふたご)・三つ子などの総称だが、三つ子以上を意識した呼び方である(多胎児と表現する時は、双子を除いている場合もある)。三つ子以上を限定して指す場合、スーパーツインズ (supertwins) と言う。なお、類人猿(ヒト上科)の多胎妊娠および多胎出産は非常に珍しいが、多胎は多くの哺乳類(犬や猫など)で一般的に観察される出生形態の一つである。 出産の時には数分から一時間程度の時間差で産まれる事が多いが、記録では数十時間から数十日の間隔が開いて生まれる場合もあるので、誕生日・誕生年が異なる兄弟姉妹もいる。また日本では後から生まれた方を兄または姉、先に生まれた方を弟または妹として扱う慣習があったが1874年12月13日の太政官指令により生まれた順に兄弟が定まるようになっている。.

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多門重共

多門 重共(おかど しげとも)は、江戸時代の幕府旗本。通称をもって多門伝八郎(おかどでんぱちろう)と呼ばれることが多い。赤穂事件において浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめ、『多門筆記』に長矩の様子を詳しく記した人物として著名。.

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大友義孝

大友 義孝(おおとも よしたか)は江戸時代前期から中期にかけての高家旗本。肥後熊本藩細川家家臣松野正照(大友吉統の三男)の三男。 従兄の義親の死によって大友氏の嫡流が断絶したため、東福門院に仕えていた佐古局(吉統の三女で義孝の伯母)の養子となり、家門を再興する。明暦3年(1657年)9月16日召し出され、12月27日蔵米500俵を賜り寄合に所属する。元禄元年(1688年)11月25日表高家に列し、あらためて下野塩谷郡内に1,000石を与えられた。元禄2年(1689年)1月11日高家職に就き、従五位下侍従・近江守に叙任、後に従四位下に昇進。元禄10年(1697年)3月6日高家肝煎吉良義央の見習を命じられ、3月8日高家肝煎となる。 ところが元禄14年(1701年)8月21日、「そのつとめに応ぜざるにより」解任され、寄合に戻される。背景には赤穂事件との関わり、すなわち吉良義央との公私にわたる親密さにあったようである。同年9月28日表高家並の出仕、翌年12月28日高家末席に列することを許される。宝永元年(1704年)6月27日に隠居して次男の義閭に家督を譲った。正徳元年(1711年)9月18日死去、享年71。 よしたか Category:江戸幕府旗本 Category:1641年生 Category:1711年没.

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大友義閭

大友 義閭(おおとも よしさと)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本。大友義孝の次男。 貞享4年(1687年)9月6日、将軍徳川綱吉に御目見する。元禄2年(1689年)11月18日、表高家衆に列する。宝永元年(1704年)6月27日、父義孝の隠居により家督を相続する。宝永2年(1705年)1月11日、高家職に就き、従五位下侍従・因幡守に叙任する。後に従四位上に昇る。正徳3年(1713年)6月18日、高家肝煎となる。享保16年(1731年)10月25日、高家肝煎を辞職する。享保17年(1732年)12月18日死去、享年71。 よしさと Category:江戸幕府旗本 Category:1665年生 Category:1733年没.

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大友義武

大友 義武(おおとも よしたけ)は、江戸時代中期の高家旗本。 宝永6年(1709年)8月15日、将軍徳川家宣に御目見する。享保18年(1732年)3月2日、家督を相続する。生涯表高家衆に列し、高家職に就くことはなかった。宝暦3年(1753年)4月8日、隠居し長男義珍に家督を譲った。安永2年(1773年)6月12日死去、享年77。 よしたけ Category:江戸幕府旗本 Category:1697年生 Category:1773年没.

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大多府島

大多府島(おおたぶじま)は岡山県備前市にある島。日生諸島の一つで同諸島の最南部、日生港から南に6kmに位置する。古くは大漂(おおたぶ)とも書かれた。 島の北側は天然の良港となっており、海水浴場もある。港には元禄時代に岡山藩の土木技術者・津田永忠の指揮で築かれたといわれる元禄防波堤があり、石垣状の往年の姿で残っている。1998年に防波堤として初めて国の登録有形文化財に登録された。また2006年には未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選に選ばれた。一方、南側は奇岩などが建ち並び洞窟も存在する。.

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大奥 (フジテレビの時代劇)

大奥 (フジテレビの時代劇)では、フジテレビジョンで製作・放送された時代劇シリーズを扱う。 記述する作品は以下のとおり。.

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大宮前新田

大宮前新田(おおみやまえしんでん)は、かつて東京府東多摩郡に属していた村。.

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大宰帥

大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)は、大宰府の長官。唐名は都督、和名は「おほみこともちのかみ」。律令制において西海道の9国2島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者となった。9世紀以降は親王の任官で、大宰府に赴任しないことが慣例となり、実権は次官の大宰権帥(だざいのごんのそち)及び大宰大弐(だざいのだいに)に移った。.

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大宜見御殿

大宜見御殿(おおぎみうどぅん)は、尚貞王の四男・美里王子朝禎を元祖とする琉球王族。第二尚氏の分家で、最初は美里間切(現・沖縄市美里地区並びにうるま市石川地区)、のちに大宜見間切(現・大宜味村)の按司地頭をつとめた琉球王国の大名である。 一世・朝禎は、宝永7年7月2日(1710年7月27日)に江戸上りの慶賀使として江戸に上っている。朝禎には子がなく、兄の小禄王子朝奇(具志頭御殿元祖)の次男・朝孝を養子にむかえて家督を継がせた。五世・朝安の時に美里間切から大宜見間切の按司地頭職に転任したことから、以後・大宜見を家名とした。五世・朝安にも子がなく、妹の嫁ぎ先の勝連御殿の勝連按司朝隆三男・朝祥を養子にむかえた。九世・朝春のとき琉球処分となった。.

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大山祇神社

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。.

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大山貞政

大山 貞政(おおやま さだまさ、宝永元年(1704年) - 安永8年12月17日(1780年1月23日))は、江戸時代中期の薩摩藩士。鹿児島城城下士。太刀流の剣術家(田中傑山の高弟)で同剣術の師範家。通称は角四郎。諱は貞政。一般には大山角四郎として知られる。.

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大岡忠宜

大岡 忠宜(おおおか ただよし)は、江戸時代中期の旗本、大名。三河西大平藩第2代藩主。大岡忠相の次男。大岡忠世家4代藩主。諱は忠宣ともいうが、誤記とされる。.

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大岡忠品

大岡 忠品(おおおか ただしな、寛文7年(1667年) - 宝永7年5月28日(1710年6月24日))は江戸時代の旗本。旗本・大岡美濃守忠高の嫡男。大岡忠相の兄。子に大岡忠陣。大岡忠吉家4代当主。 元禄6年(1693年)、5代将軍・徳川綱吉の怒りを買い、伊豆・八丈島へ島流しにされた。3年後の元禄9年(1696年)に罪を許されて復帰した。しかし従兄の大岡忠英が上役を殺害する事件を起こし、一族は連座して謹慎処分とされた。元禄14年(1701年)、父である忠高が亡くなると、その後を継いだ。宝永7年(1710年)に死去。享年44。 Category:江戸幕府旗本 Category:1667年生 Category:1710年没.

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大岡忠光

大岡 忠光(おおおか ただみつ)は、江戸時代中期の旗本、大名。江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。.

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大岡忠相

大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍・徳川家重の側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。.

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大岡忠恒 (旗本)

大岡 忠恒(おおおか ただつね)は、江戸時代中期の旗本。大岡忠行家5代当主。旗奉行などを務める。孫に大岡忠慎。 1700石を知行する旗本の大岡美濃守忠高の六男として生まれる。一族の相模高座郡堤村を領する旗本・大岡忠種の養子となり、元禄10年(1697年)に養父が亡くなったためその遺跡を継ぐ。 宝永3年(1706年)に書院番に就任。宝永6年(1709年)、東叡山からの還御の時、供奉の期日を間違えたため咎められそうになったが、5代将軍徳川綱吉の四十九日であったのと、その法要に参列したため、咎めを免れる。 享保4年(1719年)、組頭、享保12年(1727年)、新番頭、寛延2年(1749年)、江戸城西の丸留守居を歴任し、同年、従五位下播磨守に叙任された。宝暦9年(1759年)には旗奉行に就任するが、宝暦11年(1761年)に死去した。享年78。.

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大岡清相

大岡 清相(おおおか きよすけ)は、江戸時代中期の旗本。.

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大岩寺

大岩寺(だいがんじ)は愛知県豊橋市大岩町(おおいわちょう)にある曹洞宗の寺院である。山号は亀見山。境外仏堂として、天平2年(730年)に行基の開基と伝える岩屋観音(いわやかんのん)がある。本尊は千手観世音菩薩坐像。.

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大島 (江東区)

大島(おおじま)は、東京都江東区の地名。現行行政地名は大島一丁目から大島九丁目。郵便番号は136-0072。.

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大島義也

大島 義也(おおしま よしなり、万治3年(1660年) - 享保8年11月3日(1723年11月30日))は、江戸時代中期の武士。大身旗本。.

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大久保守羨

大久保 守羨(おおくぼ もりのぶ)は、高松藩の大老。大久保主計家3代。.

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大久保常春

大久保 常春(おおくぼ つねはる)は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩初代藩主。江戸幕府の若年寄、老中。烏山藩大久保家2代。.

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大久保忠増

大久保 忠増(おおくぼ ただます、明暦2年(1656年) - 正徳3年7月25日(1713年9月14日))は、江戸時代の大名、老中。相模国小田原藩第2代藩主。小田原藩大久保家4代。 初代藩主大久保忠朝の長男。正室は松平忠弘の娘(寿昌院慈岳元長尼)。子に大久保忠方(六男)、石川総陽(七男)、宇津教保(八男)、宇津教逵(十男)、岩姫(松平定逵正室)ら。寺社奉行、若年寄を経て、老中となる。.

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大久保忠胤

大久保 忠胤(おおくぼ ただたね、宝永7年7月3日(1710年7月28日) - 安永8年8月2日(1779年9月11日))は、江戸時代中期の大名。下野烏山藩2代藩主。烏山藩大久保家3代。 初代藩主大久保常春の長男。母は小林氏。正室は京極高或の娘(安藤信友の養女)。子に大久保忠卿(次男)、大久保忠喜(三男)、大久保忠定(四男)、娘(阿部正興継室)、娘(大久保忠寛室)。官位は従五位下、山城守。 享保13年(1728年)、父・常春が死去したため家督を相続し、弟の伝三郎忠篤に新墾田2000石を分知した。宝暦9年(1759年)に次男の忠卿に家督を譲って隠居した。安永8年(1779年)に70歳で死去した。墓所は東京都世田谷区太子堂の最勝寺教学院。 たたたね Category:烏山藩主 Category:譜代大名 Category:1710年生 Category:1779年没.

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大久保公忠

大久保 公忠(おおくぼ きみただ)は、高松藩の大老。大久保主計家初代。.

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大久保教寛

大久保 教寛(おおくぼ のりひろ)は、江戸時代の旗本。のちに駿河松長藩の初代藩主。荻野山中藩大久保家初代。.

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大久保教平

大久保 教平(おおくぼ のりひら、宝永5年8月26日(1708年10月9日)- 宝暦11年5月3日(1761年6月5日))は、江戸時代の旗本寄合。大久保教寛の4男として生まれる。荻野山中藩主、大久保教端の弟。江七兵衛。 享保15年(1730年)11月27日、大久保教寛は、長男の教端に家督を譲ったが、この時に教平に3000石を分知した。領地は、駿河国駿東郡3ヶ村・富士郡2ヶ村、相模国愛甲郡妻田村・及川村(現在の厚木市)、半縄村(現在の愛川町)、高座郡当麻村・磯部村(現在の相模原市)、座間宿村(現在の座間市)、大住郡小稲葉村(現在の伊勢原市)。なお、妻田村は、荻野山中藩と相給であった。元文2年(1737年)正月、使番となる。延享3年(1746年)正月~7月28日、近江から北陸の各国(若狭~越後、佐渡)の各地を巡検使として回る。寛延元年(1748年)駿府城定番となる。墓所は駒込高林寺。家督は、子の大久保教近(式部、遠江守)が継いだ。   教近の長男大久保教翅は、大久保教倫の養子となり、荻野山中藩を継ぎ、教近の次男江七兵衛教富がこの分家筋の大久保氏を継ぎ、鎌之丞教文、織部教徳、徳蔵(式部)教愛と続き、明治維新を迎える。 のりひら Category:江戸幕府旗本 Category:1708年生 Category:1761年没.

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大久保教端

大久保 教端(おおくぼ のりまさ)は、駿河松長藩の第2代藩主。荻野山中藩大久保家2代。.

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大庭 (藤沢市)

大庭(おおば)は、神奈川県藤沢市の大字。郵便番号は251-0861(藤沢郵便局管区)。.

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大徳寺

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.

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大俣八幡神社

大俣八幡神社(おおまたはちまんじんじゃ)は、徳島県阿波市市場町大俣に鎮座する神社である。.

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大國主神社 (高島市)

大國主神社(おおくにぬしじんじゃ)は滋賀県高島市新旭町饗庭に鎮座する神社である。明治維新までは、「高嶋今宮」「今宮山王宮」と称した。通称、「五十川神社(いかがわじんじゃ)」。旧社格は村社。.

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大善寺 (須崎市)

大善寺(だいぜんじ)は高知県須崎市に所在する高野山真言宗の寺院。山号は高野山。本尊は弘法大師。別名は須崎高野山、二つ石大師。四国八十八箇所霊場番外札所、四国別格二十霊場第五番札所、四国三十三観音霊場第十四番札所、土佐七福神霊場福禄寿札所。 御詠歌:みな人の 善を須崎の 高野寺 波の音さえ 法の声かな.

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大和大国魂神社

大和大国魂神社 鳥居前の鳥居が阪神・淡路大震災によって修復不能の損傷を受けた為、平成10年(1998年)12月に現在の鳥居が建立されている。 大和大国魂神社 本殿『日本の神々 -神社と聖地- 3 摂津・河内・和泉・淡路』谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 3 摂津・河内・和泉・淡路』 株式会社白水社 1984年8月 より。によれば、古代には西の播磨灘を向いて社殿が建っていたが、海上を通る舟人が礼拝をしないため盛んに祟り、現在の南南西向きに改められたのだと言う。 大和大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は、兵庫県南あわじ市にある神社である。『延喜式神名帳』へ名神大社として記載されている式内社で淡路国二宮、旧社格は県社。.

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大和川

大和川河口付近の航空写真 大和川(やまとがわ)は、奈良県および大阪府を流れ、大阪湾に注ぐ一級水系の本流。.

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大和橋

大和橋(やまとばし)は、大阪府内の大和川に架かる橋。 「浪速の名橋50選」に選定されている。.

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大和本草

『大和本草』(やまとほんぞう)は貝原益軒が編纂した本草書である。1709年(宝永7年)に刊行された。明治時代に生物学や農学の教本が西洋から輸入されるまでは日本史上最高峰の生物学書であり農学書である。現在、江戸時代までの生物学書や農学書の資料は大和本草以外は残っておらず、当時の日本独自の生物学や農学を知る上において第一級の資料である。.

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大内熊耳

大内 熊耳(おおうち ゆうじ)は江戸時代中期の儒学者、詩文家。陸奥国三春藩(福島県三春町)出身。荻生徂徠門七才子の一人。江戸で秋元子帥に学び、岡崎藩・唐津藩水野家に仕えた。.

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大石くう

大石 くう(おおいし くう、元禄3年(1690年) - 宝永元年9月29日(1704年10月27日))は、江戸時代中期の女性。 元禄3年(1690年)、赤穂藩筆頭家老大石良雄とその妻りく(香林院)の長女として赤穂の大石邸で生まれる。 赤穂藩が改易されたあと、大石家の屋敷も召し上げられたので元禄14年(1701年)5月に母りくや兄の大石良金、弟の大石吉之進、妹のるりとともにりくの実家但馬国豊岡藩石束毎公邸に移った。その後、7月に父・良雄が山科に住居を落ち着けると、りくも子らを連れて山科へ移った。その後、吉良家討ち入り計画が進む中で連座を避けるために良雄は、討ち入りに加わることを望んだ長男良金を除いて妻りくや子らを絶縁し、元禄15年(1702年)4月15日に母りくとともに但馬豊岡へ戻ることとなった(赤穂事件)。 宝永元年(1704年)9月29日に死去。享年15。豊岡の正福寺に葬られた。法名は正覚院本光妙智信女。 Category:江戸時代の女性 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:但馬国の人物 くう Category:1690年生 Category:1704年没.

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大石吉之進

大石 吉之進(おおいし きちのしん、元禄4年(1691年) - 宝永6年3月1日(1709年4月10日))は、江戸時代中期の武士、僧。名は良以(よしもち)。通称の吉之進は書状によって吉千代(きちちよ)となっているものもある。僧名は元快(げんかい)。 元禄4年(1691年)、赤穂藩筆頭家老大石良雄とその妻りくの次男として赤穂の大石邸で生まれる。元禄14年(1701年)、赤穂藩改易後、遠林寺で藩政残務処理にあたる父良雄は、事が落ち着くまで5月11日に妻のりくや子の良金・吉之進・くう・るり達を但馬国豊岡の石束毎公のもとに送った。同年7月に大石が京都の山科に住居を落ち着けると、妻子も山科へ移ったが、吉之進だけは豊岡に留めおかれた。 その後、元禄15年(1702年)4月頃に討ち入りに加わる決意をした兄・良金を除き、討ち入りに連座しないように絶縁された母達が豊岡に戻ってきた。吉之進も連座しないようにするためか、同年10月に豊岡の城崎郡竹野村須谷の円通寺に滞在していた大休(元南禅寺和尚)に弟子入りして仏門に入り、祖錬元快と称した。その後、豊岡の興国寺の雪村のもとに移ったが、宝永6年(1709年)3月1日に死去した。享年19。姉くうと同じ豊岡の正福寺に葬られた。.

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大石寺

五重塔 大石寺(たいせきじ)は、日蓮正宗の寺院であり、寺格は総本山。正応3年10月12日(1290年11月15日)、第二祖日興によって開創された。寺号の大石寺は地名の大石ヶ原(おおいしがはら)に由来する。開基檀那は南条時光。.

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大竹与茂七

大竹 与茂七(おおたけ よもしち、延宝4年(1676年) - 正徳3年6月2日(1713年7月23日))は越後国新発田藩領中之島村(旧新潟県南蒲原郡中之島町・現長岡市中之島)の名主(なぬし)である。子孫には政治家の大竹貫一、女優の大竹しのぶがいる。.

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大篠津町

大篠津町(おおしのづちょう)は鳥取県米子市の町名。郵便番号は683-0101。 本項では同地域にかつて所在した会見郡・西伯郡大篠津村についても述べる。.

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大炊御門経光

大炊御門 経光(おおいのみかど つねみつ、寛永15年8月8日(1638年9月15日) - 宝永元年9月6日(1704年10月4日))は、江戸時代前期の公卿。おもに後光明天皇(110代)・後西天皇(111代)・霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)に仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。父は従一位左大臣大炊御門経孝。母は家女房。正室は細川立孝の娘。子に内藤義竜(内藤義恭猶子)、娘(鷲尾隆長室)、養子に大炊御門信名(近衛基熙の次男)がいる。 正保2年(1645年)に叙爵。以降累進し、万治2年(1659年)従三位にすすんで公卿に列した。万治3年(1660年)に権中納言。寛文3年(1663年)に正三位権大納言・神宮伝奏となる。寛文4年(1664年)には踏歌節会外弁。延宝3年(1675年)には右近衛大将となり、延宝6年(1678年)まで在職。延宝5年(1677年)には内大臣となり、天和元年(1681年)まで在職した。延宝8年(1680年)には踏歌節会内弁。元禄3年(1690年)右大臣に任じられるが、翌年辞職。元禄5年(1692年)には従一位に昇進。宝永元年(1704年)には左大臣になるもすぐに辞職した。 Category:江戸時代の公家 つねみつ Category:1638年生 Category:1704年没.

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大炊御門経秀

大炊御門 経秀(おおいのみかど つねひで、宝永8年3月1日(1711年4月18日) - 宝暦2年11月15日(1752年12月20日))は、江戸時代中期の公卿。中御門天皇(114代)、桜町天皇(115代)、桃園天皇(116代)の三朝にわたって仕え、正二位内大臣まで進む。父は大炊御門経音(権大納言)。母は上杉綱憲(米沢藩主)の養女(吉良義央の娘)。弟に鷲尾隆煕(権大納言)がいる。室は左大臣醍醐冬熙の娘。子に右大臣大炊御門家孝がいる。 正徳2年(1712年)叙爵し、以降清華家当主として早いスピードで累進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、享保9年(1724年)に従三位に達して公卿に列した。その後も踏歌節会外弁・権大納言を経て、延享4年(1747年)に右近衛大将・右馬寮御監となる。寛延2年(1749年)に内大臣に就任するも辞職。.

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大炊御門経音

大炊御門 経音(おおいのみかど つねなり)は、江戸時代中期の公卿。大炊御門家22代当主。.

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大田原建清

大田原 建清(おおたわら たてきよ、宝永7年(1710年) - 享保16年1月29日(1731年3月7日))は、下野大田原藩の嫡子。第7代藩主・大田原扶清の三男。正室は内藤政森の娘。官位は従五位下、備前守。 宝永7年(1710年)生まれる。享保7年(1722年)徳川吉宗に初見し、享保9年(1724年)に叙任した。しかし、家督を相続することなく、享保16年(1731年)に早世した。享年22。 代わって弟の大田原友清が嫡子となった。 たてきよ Category:1710年生 Category:1731年没.

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大田原扶清

大田原 扶清(おおたわら すけきよ)は、下野大田原藩の第7代藩主。 元禄2年(1689年)、第2代藩主・大田原政清の六男・大田原晴川の長男として生まれる。元禄15年(1702年)11月に第6代藩主・清信が死去したため、その養子となり、元禄16年(1703年)2月5日に家督を継いだ。12月21日に従五位下・飛騨守に叙位・任官する。 宝永6年(1709年)5月、徳川家宣が第6代将軍に就任したとき、勅使の饗応役を務めた。正徳4年(1714年)9月から正徳5年(1715年)9月まで駿府城加番を務めている。延享2年(1745年)6月5日に江戸で死去した。享年57。 三男・建清が早世したため、家督は六男・友清が継いだ。 すけきよ すけきよ Category:1689年生 Category:1745年没.

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大隅神社 (大阪市)

大隅神社(おおすみじんしゃ)は大阪市東淀川区大桐に鎮座する神社。.

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大聖寺城

大聖寺城(だいしょうじじょう)は石川県加賀市に南北朝時代から江戸時代初期まで存在した日本の城(平山城)。別名は錦城。跡地は錦城山公園となっており、加賀市の市指定文化財(史跡)に指定されている。.

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大聖寺藩

大聖寺藩(だいしょうじはん)は、江戸時代に加賀国江沼郡にあって江沼郡及び能美郡の一部を領した藩である。加賀藩の支藩であり、石高は初め7万石、後に10万石となった。家紋は棒梅鉢。第三代藩主前田利直が宝永6年(1709年)に築いた別邸長流亭は国の重要文化財に指定されている。藩庁は大聖寺陣屋である。.

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大聖寺新田藩

大聖寺新田藩(だいしょうじしんでんはん)は、加賀前田氏の加賀藩の支藩・大聖寺藩の新田支藩だった藩。内分分知。大名に列するも江戸定府で居所はなく、便宜上「新田藩」と呼称される。.

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大菅中養父

大菅中養父(おおすが なかやぶ、宝永7年(1710年) - 安永7年1月4日(1778年1月31日))は江戸時代中期の国学者。彦根藩陪臣。名は圭、公圭、白圭。通称は権兵衛。字は瓚美。別号に芥(芹?)水。号は居住地近江国犬上郡中薮村(滋賀県彦根市中藪)に因む。 賀茂真淵に師事して日本の古典を研究し、彦根の地に国学の種を巻いた。田中道麿の師としても知られる。.

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大館城

大館城(おおだてじょう)は、かつて秋田県大館市にあった日本の城。桂城(かつらじょう)とも呼ばれる。跡地は桂城公園(けいじょうこうえん)として整備されている。.

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大谷 (海老名市)

大谷(おおや)は、神奈川県海老名市の地名。2008年に住居表示が実施され、大谷北(おおやきた)一丁目 - 四丁目と大谷南(おおやみなみ)一丁目 - 五丁目の2つの町丁および住居表示未実施の大字大谷に分かれた。本稿ではこれら3つについて記述する。.

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大谷寺 (宇都宮市)

前 大谷寺(おおやじ)は、栃木県宇都宮市にある天台宗の寺院である。山号は天開山。院号は千手院。本尊は千手観音で、坂東三十三箇所第19番札所。国の特別史跡および重要文化財に指定されている「大谷磨崖仏」の所有者となっている。.

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大谷祖廟

大谷祖廟(おおたにそびょう)は、京都府京都市東山区にある真宗大谷派(本山:東本願寺)の宗祖である親鸞の墳墓の地である。墳墓は「御廟」と呼称される。通称は、「東大谷」。江戸時代は「大谷御坊」と呼称される。 境内の「本堂」と「御廟」、ならびに大谷祖廟に隣接する「東大谷墓地」には絶えることなく参拝者が訪れる。.

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大船町 (八王子市)

大船町(おおふねまち)は、東京都八王子市の町名『角川日本地名大辞典 13東京都』角川書店、1991年再版、PP152-153、P1090。。丁番を持たない単独町名であり、住居表示未実施区域。郵便番号は193-0935(八王子南郵便局管区)。.

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大阪港

大阪港(おおさかこう)は、大阪府大阪市にある港湾。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつで、スーパー中枢港湾の指定を神戸港と共に受けている。港湾法上の国際戦略港湾である。.

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大関増興

大関 増興(おおぜき ますおき)は、江戸時代中期の大名。下野国黒羽藩7代藩主。 宝永6年(1709年)2月17日、6代藩主・大関増恒の次男として生まれる。幼児期は水野氏を称していたが、享保6年(1721年)2月に世子となった。享保7年(1722年)11月28日、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に御目見し、元文3年(1738年)3月25日に父の隠居により跡を継ぐ。元文4年(1739年)12月16日に従五位下・伊予守に叙任される。寛保4年(1744年)2月8日、大阪加番に任じられる。 宝暦13年(1763年)10月10日、長男・増備に家督を譲って隠居し、明和元年(1764年)には能登守に遷任される。 明和7年(1770年)6月26日、江戸藩邸にて死去。享年62。.

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大関増恒

大関 増恒(おおぜき ますつね)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。下野国黒羽藩6代藩主。.

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大野山町

大野山町(おおのやまちょう)は、愛知県愛西市にある地名。字が18ある。郵便番号は496-80172013年8月31日閲覧。。当地域の人口は1,110人(2010年10月1日現在、国勢調査による)。.

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大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

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大林寺 (岡崎市)

大林寺(だいりんじ)は、愛知県岡崎市魚町にある浄土宗西山深草派の寺院。山号は拾玉山。院号は阜光院。本尊は阿弥陀如来。.

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大村純富

大村 純富(おおむら すみひさ)は、肥前大村藩の第7代藩主。.

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大村純尹

大村 純尹(おおむら すみまさ)は、肥前大村藩の第5代藩主。.

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大村純庸

大村 純庸(おおむら すみつね)は、肥前大村藩の第6代藩主。.

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大村純長

大村 純長(おおむら すみなが、寛永13年8月21日(1636年9月20日) - 宝永3年8月21日(1706年9月27日))は、肥前国大村藩の第4代藩主。.

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大森善清

大森 善清(おおもり よしきよ、生没年不詳)とは、江戸時代の京都の浮世絵師。.

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大森時長

大森 時長(おおもり ときなが)は、江戸幕府の旗本。使番、目付、長崎奉行などを歴任した。.

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大橋宗桂 (5代)

五代大橋宗桂(ごだい おおはしそうけい、1636年(寛永13年) - 1713年5月29日(正徳3年5月6日))は江戸時代の将棋指し。将棋家元大橋本家当主、四世名人。初名は宗銀。二世名人大橋宗古の外孫。三世名人伊藤宗看の子。六代大橋宗銀の養父。.

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大沢基隆

大沢 基隆 (おおさわ もとたか、元禄2年(1689年) - 享保15年7月15日(1730年8月28日))は、江戸時代前期の高家旗本。遠江国堀江領主。大沢基明の子で、母は本庄宗資の娘。大沢基恒の養子。子に大沢基朝、近藤英用。官位は従四位下・侍従、右衛門督。法名、風月院殿。 元禄10年(1697年)7月11日、養父の没後家督を継ぐ。8月28日に将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄15年12月18日、従五位下侍従に叙任、右衛門督を兼ね、奥高家となる。宝永2年(1705年)3月23日、遠江国豊田、山名、敷智三郡内高塚村など7村、1000石を加増された。宝永5年11月23日、江戸城西の丸の御側高家となり、宝永6年4月15日従四位下に昇進した。正徳2年(1712年)10月7日、織田信門とともに諸事を勤める。だが正徳3年6月、不行跡とのことで、免職の上出仕を留められ、雉子橋にあった邸も没収、寄合に落とされたが、同年10月3日許され元の地位に復した。享保15年、42歳で没した。 もとたか category:江戸幕府旗本 Category:1689年生 Category:1730年没.

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大河内信相

大河内 信相(おおこうち のぶすけ)は、江戸時代中期の旗本。大河内宗家16代。石高は715石。.

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大沼 (相模原市)

大沼(おおぬま)は、神奈川県高座郡相模原町および相模原市の旧大字名。現在の同市南区の北部を占める。 元は同郡大野村の大字淵野辺の一部であり、1941年(昭和16年)に同村が合併により相模原町の一部となった際に独立した大字として起立した。1970年(昭和45年)以降、住居表示の実施された区域が当大字から分離するにつれて順次縮小し、1997年(平成9年)に消滅した。 「大沼」の名は当地域内にあった沼、およびその付近に開かれた江戸時代前期の新田集落(大沼新田)に由来する。.

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大戸神社

大戸神社(おおとじんじゃ)は、千葉県香取市大戸にある神社。香取神宮摂社で、旧社格は県社。.

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大海神社

大海神社(だいかいじんじゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社で、現在は住吉大社の境内摂社。.

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大慶寺 (藤枝市)

大慶寺(だいけいじ)は、静岡県藤枝市藤枝四丁目にある日蓮宗の寺院。山号は円妙山。旧本山は静岡感応寺、脱師法縁。日蓮御手植と伝わる久遠の松(静岡県指定天然記念物)や、太田資直(田中城の城主)、本多正供の姫、本多正珍の側室、石井縄斎(漢学者)、熊沢惟与(国学者)等の墓がある。.

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大手橋 (木曽川)

大手橋(おおてばし)は、長野県木曽郡木曽町の木曽川にかかる橋である。 橋の名称は、木曽代官所の大手にあたることからであり、江戸時代の木曽代官所設置のころに初代の大手橋が架橋されたと推測される。 現在の大手橋は、1936年(昭和11年)12月完成した鉄筋コンクリートローゼ桁橋であり、設計、建築は建築技師の中島武。2002年(平成13年)に土木学会選奨土木遺産を受賞した。.

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天塩国

天塩国(てしおのくに、古い文書では「天鹽國」)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道に含まれた。道北に位置し、現在の留萌振興局管内の全域と、上川総合振興局管内の塩狩峠以北(幌加内町は含まない)および宗谷総合振興局管内の豊富町と幌延町、さらに稚内市の最南端の一部にあたる。.

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天妙国寺

天妙国寺(てんみょうこくじ)は、東京都品川区南品川にある、顕本法華宗の別格山。山号は鳳凰山。.

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天岩戸神社

天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。旧社格は村社で、神社本庁の別表神社。.

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天皇の一覧

天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。.

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天石立神社

天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)は奈良県奈良市柳生町の岩戸谷にある神社。戸岩山という小高い山の北麓、標高330メートルの山中に本殿を有たず、鎮座する巨岩を直接拝する形態をとる。『延喜式神名帳』に「天乃石立神社」と記載される式内小社で旧社格は村社。 社辺は戸岩谷と称し「一刀石」をはじめとする巨岩、巨石が累々とする景勝地で、沢庵によって「柳生十景」の一に数えられ、「万年渓」と名付けられた『奈良県史』第13巻。。.

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天然ダム

天然ダム(てんねんダム)とは、大雨や地震、火山噴火などの自然現象のために、土砂などが河川の水の流れを堰き止めるようになった地形をいう。また、この地形によって形成された、水を大量に蓄積する現象を指す場合もある。.

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天野屋利兵衛

八文字利兵衛の墓所、京都市下京区寺町通四条下ル 天野屋利兵衛 (あまのやりへえ、寛文元年(1661年) - 享保18年8月6日(1733年9月13日))は、江戸時代の商人。名は直之(なおゆき)。.

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天満

天満(てんま)は、大阪府大阪市北区の地域名。または同地域南東部の町名。現行行政地名は天満一丁目から四丁目まで。2010年10月1日現在の人口は6,508人、世帯数は4,062世帯。郵便番号は〒530-0043。.

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天文図解

天文図解(てんもんずかい)とは、江戸時代の天文書・暦学書。元禄元年(1688年)に井口常範によって著され、翌年に刊行される。日本最初の一般向けの天文学の書籍とされ、また日本で「地球」という語が使われた最古の例ともいわれている。全5巻。 自序には、元禄元年の冬至の日付が掲げられている。冒頭に中国天文学の「天球儀」「渾天儀」「衆星図」「天地儀」「九重天之図」と仏教天文学の「須弥山図」、西洋天文学の「九重天之図」を掲げている。巻1は天文総論にあてられて、推測としながらも彗星が回帰現象である可能性を述べている。これはエドモンド・ハレーが彗星回帰を唱える17年前であった。巻2から巻4までは授時暦を中心とした暦学について解説し、巻4の最後に中国の自然哲学について述べた「運気論」を付記している。巻5では、太陽・月・五星の位置計算法について解説し、最後に「渾天地儀図序」として日本を中心とした地球の半球を掲げている。 それ以前の天文学は天文道として扱われて土御門家に代表されるような特定の家の家学とされ、また天体の動きと国家の興亡が結び付けられていたために一種の機密扱いとされて、こうした本が出された事は無かった。このため、天文に関心を抱く人々によって広く読まれたとされている。 なお、西洋天文学の「九重天之図」において「地球」という語が登場しており、これが日本の書物に出てきた最初の例とされている。ただし、井口自身が断っているようにこの図はマテオ・リッチの『両儀玄覧』(1603年)からの引用であり、「地球」という語もその中に登場するものである。また、マテオ・リッチの天文学はこの時期に日本に伝えられて当時の知識人の間で広まったものであり、元禄から宝永、正徳にかけて出された書籍に出現するようになったものとされている(新井白石の『西洋紀聞』にもマテオ・リッチの説を引用する形で登場する)。また、当時は前述のような理由で「地球」という言葉を知っている知識人はいても、井口のような著作に用いる機会がなかったとも考えられ、井口が最初に「地球」という言葉を使った日本人という訳ではなかったとみられている。.

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太田山神社

太田山神社(おおたさんじんじゃ)とは、北海道久遠郡せたな町にある神社である。北海道本土で最も西に位置する神社であり、また道南五大霊場の一つであるとされている。地元では太田神社または太田の神社とも呼ばれ、猿田彦大神を祀る。旧社格は村社(太田神社)。.

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太田資直

太田 資直(おおた すけなお)は、駿河田中藩の初代藩主。掛川藩太田家3代。.

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太田資晴

太田 資晴(おおた すけはる)は、駿河田中藩第2代藩主、陸奥棚倉藩主、上野館林藩主。江戸幕府の寺社奉行、若年寄、大坂城代。掛川藩太田家4代。.

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太田近江大掾藤原正次

太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)は、江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師の名跡。出身は近江国栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市辻)。代々「太田六右衛門」と称し、江戸深川で梵鐘や天水桶、鍋、釜などを鋳造した鋳物師の郷 (1999), pp.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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外側地震帯

外側地震帯(がいそくじしんたい)は、千島列島から、日本列島、台湾までの太平洋側海底の地震帯である。環太平洋地震帯の一部。 この地震帯上では宝永4年、安政元年の2回の地震など、多くの地震が起きている。.

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奥南旧指録

奥南旧指録(おうなんきゅうしろく)は、南部家始祖光行の文治5年(1189年)糠部五郡拝領から、南部藩5代藩主信恩死去の宝永4年(1707年)までの歴代の事蹟を記している資料。.

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奥山寺

奥山寺(おくさんじ)は、兵庫県加西市にある高野山真言宗の寺院。山号は青嶺山、本尊は千手観世音菩薩である。.

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奥平貞継

奥平 貞継(おくだいら さだつぐ、元禄16年9月27日(1703年11月6日) - 安永7年6月11日(1778年7月5日))は、伊予松山藩家老、奥平藤左衛門家4代当主。 父は松平政定。養父は奥平貞虎。兄弟は松平忠暁、小出英都。子は奥平貞幹、水野忠徳。通称次郎八、酒之丞、弾正、左門、藤左衛門。.

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奥平貞虎

奥平 貞虎(おくだいら さだとら、寛文8年(1668年) - 宝永7年10月6日(1710年11月26日))は、江戸時代の上級武士で伊予松山藩の家老、奥平藤左衛門家3代当主。 父は奥平貞守。養子は奥平貞継。通称又次郎、内匠、源兵衛、藤左衛門。.

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奥平昌成

奥平 昌成(おくだいら まさしげ)は、下野宇都宮藩の第2代藩主、丹後宮津藩主を経て、豊前中津藩の初代藩主。中津藩奥平家5代。.

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奥貫友山

奥貫 友山(おくぬき ゆうざん、宝永5年(1708年) - 天明7年11月10日(1787年12月19日))は、江戸時代の儒者・教育者・慈善家。.

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奥村利信

奥村 利信(おくむら としのぶ、生没年不詳)とは、江戸時代初期の浮世絵師。.

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奥村明敬

奥村 明敬 (おくむら あきよし、天和元年11月22日(1681年12月31日) - 宝永3年3月15日(1706年4月27日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第4代当主。 父は奥村悳輝。母は品川雅直の娘。兄弟は奥村温良、横山貴林、奥村有定。幼名茂松。通称兵部。字存義。号誠斎、稽善、憲章。.

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奥村悳輝

奥村 悳輝(おくむら やすてる、承応2年10月5日(1653年11月24日) - 宝永2年閏4月20日(1705年6月11日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第3代当主。 父は奥村庸礼。母は横山康玄の娘。正室は品川雅直の娘。子は奥村明敬、奥村温良、横山貴林、奥村有定。幼名千松。初名和広、和長、和貴。通称大蔵、兵部、因幡、壱岐。号澗宇。.

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奥村政信

奥村 政信(おくむら まさのぶ、貞享3年〈1686年〉 - 宝暦14年2月11日〈1764年3月13日〉)とは、江戸時代前期の浮世絵師、版元。.

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奥殿藩

奥殿藩(おくとのはん)は、三河国額田郡の奥殿陣屋(愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いた藩。領地は三河国額田郡・加茂郡(現在の愛知県岡崎市)のほか信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、信濃国の領地の方が大きかった。藩庁は何度か移転しており、江戸時代初期の立藩時には加茂郡の大給陣屋、幕末期には信濃国の龍岡城(田野口陣屋)に置かれた。大給藩(おぎゅうはん)、田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの項目で記述する。 大給藩としての立藩より幕末まで石高(1万6000石)は変わらず、一貫して松平家(大給松平家)が支配した。.

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奥殿陣屋

奥殿陣屋(おくとのじんや)は愛知県岡崎市奥殿町にある陣屋である。.

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女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

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奈古屋里人

奈古屋 里人(なごや さとんど)は、江戸時代中期の徳山藩士。曽祖父は下松藩成立時の家老である奈古屋元忠。祖父は奈古屋隆忠。父は徳山藩家老の奈古屋隆充。養父は、叔父の奈古屋隆吉(勘左衛門)。兄に徳山藩家老の奈古屋隆芳(玄蕃)、その子に奈古屋堯英(伊織)。禄高は120石。格式は馬廻。.

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奈良

奈良(なら)は、日本国の発祥とされる歴史的地名である。 異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)。平安京(京都)に都が遷った後は南都(なんと)とも呼ばれた。古くは大和と呼ばれ、また平城京にも相当した。.

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奈良屋 (百貨店)

奈良屋(ならや)は、1930年(昭和5年)11月1日から1972年(昭和47年)まで千葉県千葉市にあった日本の百貨店である。.

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妻木頼保

妻木 頼保(つまき よりやす、寛永14年(1640年) - 宝永4年6月8日(1707年7月7日))は、江戸時代前期の旗本(石高3,000石)。下郷妻木家3代目。妻木重直の長男。母は真田昌幸の六女清光院。通称は平四郎、藤兵衛、伝兵衛、彦右衛門。初名は頼方。子女に妻木頼隆、水谷勝阜室。 江戸に生まれる。徳川家光に仕え、使番、目付代と歴任した。この間高遠城の受け取り役などを務めた。元禄9年4月10日に東大寺大仏殿再建の調整役の任を負い奈良奉行に就任した。東大寺の公慶は大仏殿を創建当時の十一間を希望していたが、幕府は財政難から七間での進めたかった。父の重直が勘定奉行の時に二月堂の再建に尽力していることから適任とされた。着任後間もなく元禄9年7月25日に着工するが、完成の直前宝永4年に奈良で68歳で没した。嫡男の頼隆が跡を継いだ。.

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妻木頼隆

妻木 頼隆(つまき よりたか、寛文9年(1669年) - 延享2年6月27日(1745年7月26日))は、江戸時代の旗本(石高3,000石)。下郷妻木家4代目。妻木頼保の子。通称は平七郎。 宝永4年(1707年)に父が奈良奉行在任中に病死し家督を継ぐ。宝永5年に使番となり、宝永6年に大坂城目付代として大坂に赴く。宝永7年越後国村上城、正徳元年(1711年)に伊勢国桑名城の城引渡し役をこなす。享保2年(1717年)に巡検使として九州各地(豊前・豊後を除く)を回る。享保4年(1719年)9月より翌年3月迄長崎目付を務めた。享保9年(1724年)に浦賀奉行となり、退任後は西丸留守居を歴任した。延享2年に77歳で病没し江戸・赤坂の龍泉寺に葬られた。.

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妖怪

妖怪(ようかい)は、日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと。妖(あやかし)または物の怪(もののけ)、魔物(まもの)とも呼ばれる。 妖怪は日本古来のアニミズムや八百万の神の思想と人間の日常生活や自然界の摂理にも深く根ざしており、その思想が森羅万象に神の存在を見出す一方で、否定的に把握された存在や現象は妖怪になりうるという表裏一体の関係がなされてきた。.

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如意ヶ嶽

如意ヶ嶽(にょいがたけ、にょいがだけ)は日本の京都、東山に存在する山。標高472メートルで、山頂は京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。他の表記・呼称は如意ヶ嶽、如意嶽、如意岳、如意ヶ峰(にょいがみね)、如意山(にょいやま)など。また如意ヶ嶽は京都市左京区と滋賀県大津市の境ともなっており、鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」(にょいごえ)と呼ばれ、これは京と近江の近道とされ如意ヶ嶽の戦いなど合戦の舞台になったことがあるほか、城跡も残っている(後述)。また古来より信仰を集めた山であり、山中にはかつて大規模な山岳寺院・如意寺(にょいじ)が在った。 支峰(西峰)として標高465.4メートル466メートルとの表記も一般的。国土地理院の平成9年の1/10000地図では465.95メートル。国土地理院のwebによる地図閲覧サービスでは2012年5月現在、465.4メートル。京都市計画局平成19年1/2500の地図では465.44メートル。の大文字山(だいもんじやま)があり、8月16日に執り行われる京都の伝統行事、五山の送り火の大文字として著名であり、逸話も多い。この大文字山はその山上から京都市内を一望でき、ハイキングコースとしても人気がある。本項では如意ヶ嶽と同時に支峰の大文字山なども併せて解説する。.

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妙善寺 (岡山市)

妙善寺(みょうぜんじ)は、岡山県岡山市北区津島本町にある日蓮宗不受不施派の寺院。.

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妙竜

妙竜(みょうりゅう、宝永2年6月22日(1705年8月11日)- 天明6年6月10日(1786年7月5日))は、江戸時代中期の真言律宗の僧。俗姓は仙石氏。号は雲蓮社空華。美濃国の出身。尾張国八事山興正寺5世。 美濃国長安寺の岱梁に戒律を学び、15歳で真言密教の四度加行(しどけぎょう)を受けた。17歳となったとき八事山興正寺に入って具足戒を受け、同じ年に浄土宗鎮西派白旗流の璽書を受ける。30歳で八事山興正寺第5世となった。生涯を通じて密教・戒律・浄土教を学び、それらの復興に尽力した。 Category:江戸時代の僧 Category:戒律 Category:美濃国の人物 Category:1705年生 Category:1786年没.

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妙顕寺 (敦賀市)

妙顕寺(みょうけんじ)は、福井県敦賀市元町にある日蓮宗の寺院。山号は最初具足山。妙顕寺四箇聖跡の一つ。旧本山は大本山妙顕寺(四条門流)、奠師法縁(奠統会)。.

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妙法寺 (青森県中泊町)

妙法寺(みょうほうじ)は、青森県北津軽郡中泊町宝森にある日蓮宗の寺院。山号は思親山。中山妙宗として開山。伝伝教大師最澄作の子育鬼子母尊神像と久遠成院日親(京都の本法寺などを開山)の曼荼羅本尊を祀る。.

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姫路城

代表紋章:揚羽蝶 姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県の姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。坂東三津五郎 (10代目)『三津五郎城めぐり』(三月書房2010年11月)では数多くの城の最初に紹介している。。.

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孝子内親王

孝子内親王(たかこないしんのう、慶安3年10月11日(1650年11月4日) - 享保10年6月26日(1725年8月4日)は、江戸時代の皇族。後光明天皇の第1皇女。生母は右近衛中将庭田重秀の女、典侍・庭田秀子。 慶安3年(1650年)、後光明天皇の第1皇女として誕生。女一宮と称される。誕生日については10月10日、10月11日、10月15日とするものがある。 承応3年(1654年)、後光明天皇が22歳の若さで崩御。しかし天皇の子女は孝子内親王のみで皇嗣たる男子がなかったため、急遽異母弟の高貴宮(識仁親王、のちの霊元天皇)を皇嗣とし、高貴宮が成長するまでの中継ぎとして同じく異母弟の花町宮良仁親王が後西天皇として即位した。 しかし孝子内親王は後光明天皇の唯一の遺児、嫡流の皇女として重んじられ、天和3年12月(1684年1月)に内親王宣下、次いで宝永5年(1708年)には一品に叙されている。また孝子内親王は当時の女性皇族によく見られたように出家することもなく、また摂関家に嫁ぐこともなく生涯独身を通した。 さらに享保10年(1725年)に没すると、准三宮宣下、次いで女院として院号宣下がなされて礼成門院(れいせいもんいん)と称された。天皇の后妃、生母以外での女院号宣下は室町幕府3代将軍足利義満の正室北山院(日野康子)以来約320年ぶりで、現在に至るまで孝子内親王が最後の例である。 孝子内親王は76歳の長寿を保った。墓所は京都市上京区の般舟院陵内。.

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孝勝寺

孝勝寺(こうしょうじ)は、宮城県仙台市宮城野区榴岡にある仏教寺院である。山号は光明山。日蓮宗の本山(由緒寺院)である。 寺の名は大仙寺(だいせんじ)、全勝寺(ぜんしょうじ)、善勝寺(ぜんしょうじ)と変遷した。孝勝寺の名は、江戸時代の仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の夫人・振姫の法名「孝勝院」にちなむ。.

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宍戸就延

宍戸 就延(ししど なりのぶ、寛永20年(1643年) - 享保7年(1722年))は、長州藩毛利氏家臣。宍戸氏第18代当主。 父は熊谷元実。祖父は宍戸広匡。母は杉重政の娘。兄は宍戸就附、熊谷就実。正室は毛利就泰の娘。養子は宍戸広隆。通称は八助、修理、備前、志摩、丹波、主計。諱は隆道、就宗、就延。.

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宝井其角

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日))は、江戸時代前期の俳諧師。 本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。.

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宝光寺

宝光寺(ほうこうじ)は新潟県新発田市にある曹洞宗の寺院。山号は広沢山。新発田藩藩主溝口氏の菩提寺である。等級は常恒会地。江戸時代は新発田藩領内の曹洞宗録所であった。 山門は新発田市の有形文化財に指定されており、他にも市の有形文化財に指定された絵画、仏像等を有する。 境内には推定樹齢350年の徳川家光から寄進されたとされるしだれ桜がある。.

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宝暦・天明文化

宝暦・天明文化(ほうれき・てんめいぶんか)とは、宝暦・明和・安永・天明期(1751年~1789年)を中心とする江戸時代中期に発展した文化である。 上方を中心として武士や上層町人が担い手になった元禄文化と江戸を中心として中層町人以下の庶民層が担い手になった化政文化の中間期にあたる。従来は江戸中心の文化ということで、化政文化の一部として扱われてきたが、その担い手が元禄文化のように武士や上層町人を中心とし、化政文化とは異なることから独立した文化として位置づけられるようになった。.

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宝永の大火

宝永の大火(ほうえいの たいか)とは、宝永5年3月8日(1708年4月28日)に、京都で発生した火災。.

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宝永大噴火

南から見た富士山の宝永火口、火口の位置:1(第一火口)、2(第二火口)、3(第三火口)、4(宝永山) 浮世絵に見る宝永火口(歌川広重) 宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火である。2017年現在、最も新しい富士山の噴火となっている。噴火は約2週間続き、総噴出量は、約7×108 m3と推定されている。噴火による直接の死者は記録されていないが、噴出した溶岩石による火災などで甚大な被害をもたらした。.

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宝永富士宮地震

宝永富士宮地震(ほうえいふじのみやじしん)は、江戸時代の宝永4年10月5日(1707年10月29日)に駿河国富士宮付近で発生した地震。.

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宝永小判

宝永小判(ほうえいこばん)とは宝永7年4月15日(1710年)に通用開始された一両としての額面を持つ小判。乾字小判(けんじこばん)とも呼ばれる。また宝永小判および宝永一分判を総称して宝永金(ほうえいきん)あるいは乾字金(けんじきん)と呼ぶ。.

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宝永山

宝永山(ほうえいざん)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。標高は2,693m。この宝永の大噴火以降は噴火していないため、この宝永山が富士山の最新の側火山になる。.

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宝永三ツ宝丁銀

宝永三ツ宝丁銀(ほうえいみつほうちょうぎん/ほうえいみつたからちょうぎん)とは宝永7年4月2日(1710年)から鋳造開始された丁銀の一種で秤量銀貨であり、単に三ツ宝丁銀(みつほうちょうぎん)とも呼ばれる。 また宝永三ツ宝丁銀および宝永三ツ宝豆板銀を総称して三ツ宝銀(みつほうぎん)と呼ぶ。 表面には「大黒像」および「寳」の文字および両端に二箇所の「宝」字極印およびその内側に一箇所のやや小型の「宝」字極印が打たれ「常是」の極印は無い。また、「大黒像」極印を12箇所打った祝儀用の十二面大黒丁銀が存在する瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年。.

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宝永地震

井(1982), p42-43.。 宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 - 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。)を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている宇佐美(2003), p75-90.『理科年表』, p737, 767.。世にいう宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)、あるいは宝永大地震(ほうえいおおじしん)とも呼ばれ、亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。地震の49日後に起きた宝永大噴火は亥の砂降り(いのすなふり)と呼ばれる。.

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宝永四ツ宝丁銀

宝永四ツ宝丁銀 宝永四ツ宝丁銀(ほうえいよつほうちょうぎん/ほうえいよつたからちょうぎん)とは正徳元年(1711年)8月2日より鋳造された丁銀の一種で秤量銀貨であり、単に四ツ宝丁銀(よつほうちょうぎん)とも呼ばれる。発行時期は正徳に改元された後であるが、宝永期の一連の銀貨の性格を持つため宝永丁銀として分類される。 また宝永四ツ宝丁銀および宝永四ツ宝豆板銀を総称して四ツ宝銀(よつほうぎん)と呼ぶ。.

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宝永通宝

宝永通宝(ほうえいつうほう)とは、江戸時代に鋳造された銭貨の一種で宝永5年(1708年)に発行された十文銭である。江戸時代当時は大銭(おおぜに)と呼ばれた。.

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宝永正字丁銀

宝永正字丁銀(ほうえいせいじちょうぎん)とは宝永7年(1710年)に、朝鮮通信使または琉球からの使節に贈る特鋳銀として発行された丁銀の一種で秤量銀貨であり、異国被下銀(いこくくだされぎん)とも呼ばれた。 表面には、「寳」字および大黒図柄が打たれ、その極印は宝永四ツ宝丁銀のものと同一であり、これに加えて中央部に「正」字の極印が打たれる点で人参代往古丁銀と区別され、品位は慶長丁銀と同一であり、「正」とは「正銀」であり本来の銀品位であるとの意味である。人参代往古銀が貿易取引目的に対し、正字丁銀は賞賜用の色が濃いものであった。『』によると対応する「正」字極印を打った豆板銀も鋳造された様であるが、正字豆板銀は現存未確認である『図録 日本の貨幣・第4巻』 東洋経済新報社、1973年。.

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宝永永字丁銀

宝永永字丁銀(ほうえいえいじちょうぎん)とは宝永7年3月6日(1710年4月4日)より鋳造が開始された丁銀の一種。秤量貨幣である。単に永字丁銀(えいじちょうぎん)とも呼ばれる。 また宝永永字丁銀および宝永永字豆板銀を総称して永字銀(えいじぎん)あるいは永中銀(えいちゅうぎん)、また単に中銀(ちゅうぎん)と呼ぶ。.

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宝泉寺池

宝泉寺池(2011年11月) 宝泉寺池(ほうせんじいけ)は、埼玉県久喜市に所在する池である。名前は当池の付近に存在した宝泉寺(廃寺)に因む。.

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宝清寺 (あきる野市)

宝清寺 (ほうせいじ)は、東京都あきる野市に所在する日蓮宗の寺院。山号は水谷山(すいこくざん)。旧本山は身延山久遠寺。千駄ヶ谷合師法縁。.

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客殿 (大石寺)

在の客殿(2009年11月撮影) 客殿(きゃくでん)は、日蓮正宗総本山大石寺(静岡県富士宮市)にある堂宇。総本山内で最も多くの法要が執り行われる中枢の建物である。古より客殿の正面には不開門が建てられている。.

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宮原義汨

宮原 義汨(みやはら よしか、宝永5年(1708年) − 明和6年4月4日(1769年5月9日))は、江戸時代の高家旗本。宮原氏義の長男。母は水谷勝阜の娘。通称は勘五郎、市正。 正徳5年(1715年)12月26日父氏義の死去により、家督を相続する。享保8年(1723年)1月28日将軍徳川吉宗に御目見する。明和元年(1764年)8月13日隠居し、長男義潔に家督を譲る。隠居後は南楼と称する。明和6年(1769年)4月4日死去、62歳。 正妻は杉浦正奉の娘。子女に長男義潔、三男義利(宮原義潔養子)ら三男四女あり。 よしか Category:江戸幕府旗本 Category:1708年生 Category:1769年没.

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宮原氏義

宮原 氏義(みやはら うじよし、延宝7年(1679年) − 正徳5年10月25日(1715年11月20日))は、江戸時代の高家旗本。旗本・杉浦政令(すぎうら まさのり)の五男。生母は宮原義辰の娘。母方の伯父(義辰の嫡男)である宮原義真の養子。通称は伝十郎、主膳。官位は従四位下侍従・刑部大輔。 元禄3年(1690年)12月12日養父の死去により、家督を相続する。元禄4年(1691年)6月11日将軍徳川綱吉に御目見する。元禄14年(1701年)9月21日高家職に就任し、従五位下侍従・長門守に叙任する。後に従四位下に昇進する。また、和泉守、刑部大輔に改める。宝永6年(1709年)12月15日御側高家に転任する。正徳5年(1715年)10月25日死去、37歳。 正妻は水谷勝阜の娘。子女に長男義汨ら一男一女あり。 うしよし Category:江戸幕府旗本 Category:1679年生 Category:1715年没.

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宮川長春

三侍 宮川 長春(みやがわ ちょうしゅん、天和2年〈1682年〉 - 宝暦2年11月13日〈1752年12月18日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。宮川派の祖。宝永年間(1704-11年)から寛延年間(1748-51年)頃活躍、先行する菱川師宣や懐月堂派に学び、豊潤、優麗な美人画で一家を成した。.

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宗義方

宗 義方(そう よしみち)は、対馬府中藩の第5代藩主。.

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宇佐美しん水

宇佐美 灊水(うさみ しんすい、宝永7年1月23日(1710年2月21日) - 安永5年8月9日(1776年9月21日))は、江戸時代中期の儒学者。諱は恵。字は子迪。通称は恵助。号は灊水。宇佐美習翁の子。.

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宇喜多秀保

宇喜多 秀保(うきた ひでやす)は、江戸時代中期の人物。宇喜多秀親の嫡男。母は地役人菊池正武の娘イクノ。.

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宇都宮城

宇都宮城(うつのみやじょう)は栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。.

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宇都宮宏綱

宇都宮 宏綱(うつのみや ひろつな、寛文4年(1664年) - 正徳元年(1711年)5月)は下野の戦国大名宇都宮氏の嫡流の子孫で、水戸藩家老。宇都宮隆綱の子。子に宇都宮寿綱。弟に宇都宮陳綱(兵庫、尾羽城之介綱栄、綱英)、尾羽綱利(尾羽平蔵)。.

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宇都宮遯庵

宇都宮 遯庵(うつのみや とんあん、寛永10年2月30日(1633年4月8日) - 宝永4年10月10日(1707年11月3日)、異説では1709年没)は、江戸時代の儒学者。名は由的。号は遯庵の他に頑拙。また、宇都宮三近、宇都宮熊的とも呼ばれる。父は宇都宮正記。子に宇都宮圭斎。.

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宇都宮藩

宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.

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宕陰

宕陰(とういん)は、京都府京都市右京区の地名。嵯峨越畑(こしはた)と嵯峨樒原(しきみがはら)のふたつの大字で構成される 京都市右京区 にほんの里100選。美しい棚田や茅葺き民家などで知られ、特に越畑は「京都の信州」に例えられることがある京都市右京区役所区民部まちづくり推進課 (2007b)。京都市の元学区では「宕陰」全域にあたる。住民基本台帳における人口は2013年(平成25年)7月時点で229人であり 京都市、面積は8.082 km2である。.

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安場一平

安場 一平(やすば いっぺい、寛文2年(1662年) - 宝永6年2月18日(1709年3月28日))は、江戸時代前期の武士。熊本藩細川氏の家臣。名前は久幸(ひさゆき)。 熊本藩士の安場源右衛門の子として生まれた。天和元年(1681年)7月に家督を継いで熊本藩の番方に列す。同年11月には小姓組に編入されたが、元禄8年(1695年)11月に小姓を辞任して番方に戻った。元禄9年(1696年)2月に御歩頭に就任した。元禄16年(1702年)2月4日、吉良邸討ち入りの赤穂浪士の大石良雄の介錯をした。11月には御歩使番に転じた。宝永2年(1705年)、江戸に滞在中に発病し、宝永5年(1708年)5月に番方に戻った。 宝永6年(1709年)2月18日に病死。享年49。安養寺に葬られた。法名は傑心宗英居士。 子孫に明治時代に福岡県や愛知県の知事を務めた安場保和がいる。なお、安場家では大石良雄介錯の刀を伝承しており、また赤穂事件に造詣が深く代々義士会に携わり、現在の安場家の当主安場保雅も全国義士会連合会の会長をつとめている。 Category:熊本藩士 Category:赤穂事件関係人物 Category:1662年生 Category:1709年没.

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安島氏

安島氏(あじまし)は、姓氏のひとつ。安島、または安嶋とも記す。常陸国及び東北地方における武家のひとつ。また越前国や近江国にも見られる。.

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安井仙角

安井 仙角(やすい せんかく、延宝元年(1673年) - 元文2年1月4日(1737年2月3日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元安井家の四世。会津生れ、三世安井知哲門下、八段。五世春哲仙角、七世仙角仙知と区別して古仙角、親仙角とも呼ぶ。.

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安井算知 (俊哲)

安井 算知(俊哲)(やすい さんち(しゅんてつ)、文化7年(1810年) - 安政5年7月4日(1858年8月12日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元安井家の九世安井算知、七段上手。八世安井知得仙知の長男で、二世安井算知の名を継ぐ。天保四傑と呼ばれた一人で、無双の力碁とされる。息子は十世安井算英。.

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安代温泉

安代温泉(あんだいおんせん)は、長野県下高井郡山ノ内町大字平穏字安代の湯田中渋温泉郷にある温泉。.

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安倍瑞屯

安倍 瑞屯(あべ ずいじゅん、 - 宝永5年(1708年)6月25日)は、江戸時代の医師・旗本・600石。通称は吉十郎、長徳院。.

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安倍正直

安倍 正直(あべ まさなお、貞享2年(1685年) - 寛保2年(1742年)6月8日)は、江戸時代の医師・旗本・600石。.

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安禅寺 (長岡市)

安禅寺(あんぜんじ)は新潟県長岡市西蔵王3丁目にある天台宗の寺院。等級は七等。かつては蔵王権現を祀る蔵王堂(現在の金峯神社)の別当寺であった。明治時代に廃仏毀釈により一時廃絶したが、後に復興した。参道には「頼朝の塔」と呼ばれる回国六十六部の納経塔がある。.

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安積澹泊

安積 澹泊(あさか たんぱく、明暦2年11月13日(1656年12月28日) - 元文2年12月10日(1738年1月29日))は、江戸時代中期の儒学者。諱は覚、字は子先、幼名は彦六、通称は覚兵衛、号は澹泊、澹泊斎、晩年は老圃、老圃常山、老牛など。物語『水戸黄門』に登場する渥美格之進のモデルとされている。.

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安立寺 (川崎市)

安立寺(あんりゅうじ)は、神奈川県川崎市多摩区にある日蓮宗の寺院。.

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安養寺 (半田市)

安養寺(あんようじ)は、愛知県半田市板山町10丁目5番地にある西山浄土宗の寺院。山号は篠島山。本尊は阿弥陀如来『新修半田市誌 本文編下巻』。半田市東郷町にある常楽寺と関わりがある。.

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安部信峯

安部 信峯(あんべ のぶみね、万治2年(1659年) - 宝永3年5月21日(1706年7月1日))は、武蔵岡部藩の第4代藩主。 第3代藩主安部信友の長男として生まれる。母は内藤忠政の娘。正室は秋月種信の娘。子は安部信賢(次男)、内藤長頼(三男)、安部信政(四男)、安部信昌(五男)、娘(松平忠盈継室)。官位は従五位下、丹波守。 延宝2年(1674年)に初めて将軍徳川家綱に御目見する。貞享3年(1686年)10月に従五位下丹波守に叙任された。播磨国赤穂藩主の浅野長矩とは、ともに母が内藤忠政の娘、つまり母方の従兄弟の関係にあるため元禄14年(1701年)3月14日に起こった浅野長矩による吉良義央への刃傷事件の際には、一族連座して一時出仕をとめられた。しかし5月にはまず出仕が許され、6月には将軍拝謁も許されるようになった。なおこの際に、同じく従兄弟にあたる戸田氏定(美濃国大垣藩主)も一緒に出仕をとめられていた。6月29日に家督相続したが、この際に弟安部信方に2,000石を分知している。8月に初めて領地入りした。宝永2年(1705年)に岡部村に陣屋を移した。正確にはこのときから岡部藩は始まった。宝永3年(1706年)に死去した。次男・信賢が跡を継いだ。 のふみね *04 Category:赤穂事件関係人物 Category:1659年生 Category:1706年没.

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安部信平

安部 信平(あんべ のぶひら)は、武蔵岡部藩の第6代藩主。 宝永7年(1710年)、第5代藩主・安部信賢の長男として生まれる。享保8年(1723年)、父の死去により家督を継いだ。享保16年(1731年)12月、従五位下・摂津守に叙位・任官する。 寛延3年(1750年)4月5日に死去した。享年41。跡を養子の信允が継いだ。 のふひら *06 Category:1710年生 Category:1750年没.

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安部信賢

安部 信賢(あんべ のぶかた)は、武蔵岡部藩の第5代藩主。 貞享2年(1685年)、第4代藩主・安部信峯の次男として生まれる。宝永3年(1706年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の安部信政に新田1000石を分与した。宝永6年(1709年)3月に従五位下・摂津守に叙位・任官する。 享保8年(1723年)2月7日に死去した。享年39。跡を長男・信平が継いだ。 のふかた *05 Category:1685年生 Category:1723年没.

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安藤定殻

安藤 定殻(あんどう さだみ、さだよし、宝永5年(1708年)- 寛延2年7月10日(1749年8月22日))は、江戸幕府旗本で茶人。寛政譜は定穀としている。阿久和安藤氏6代目。安藤定房の子。母は大久保忠兼の娘。通称は岩之丞、大膳、治右衛門。号は鶯渓、翼々庵(斎)。室は土井利良の娘。子に水野元丈室、安藤正甫。 父定房とともに茶道南坊流の笠原道桂に師事した。寛保3年(1743年)父が没し家督を継ぐが、父の最晩年に起きた圧政による農民の駕籠訴事件で蟄居となった。延享元年(1744年)3月11日田原藩4代藩主三宅康高に南坊録を書写させた。寛延2年43歳で没した。墓所は早稲田・龍善寺。.

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安藤定房

安藤 定房(あんどう さだふさ、寛文12年(1672年)- 寛保3年4月13日(1743年5月6日))は、江戸幕府旗本で茶人。阿久和安藤氏5代目。安藤正程の子。通称は大膳、治右衛門。官途は従五位下、若狭守。号は残雪庵、妙雲庵。法名は道円。室は大久保忠兼の娘。子女に大久保忠根室、安藤定殻、大久保忠郷室、中坊秀亨(ひでみち、中坊秀成養子)ら。 延宝7年(1679年)父の没後家督を継ぎ小普請となる。元禄9年(1696年)小姓組となり、元禄13年(1700年)徒頭となり布衣を許される。宝永2年(1705年)甲斐国内の領地を武蔵国高麗郡、比企郡、入間郡内に移された。宝永4年(1707年)新番頭、享保8年(1724年)江戸城西丸留守居となり、従五位下若狭守に叙任された。享保9年(1724年)春、福岡藩士笠原道桂より茶書南方録を書写しこれの普及に尽くした。寛保元年(1741年)旗奉行となった。江戸・早稲田に龍善寺を建立する為に領民に年貢の増納を命じた。寛保3年、定房の圧政に苦しんだ農民たちが老中松平信祝に駕篭訴する事件が起き、その直後没した。家督は嫡男定殻が継ぐが蟄居処分を受けた。墓所は定房の開基した龍善寺。.

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安藤家住宅

安藤家住宅(あんどうけじゅうたく)は、 山梨県南アルプス市西南湖(にしなんご)にある、国の重要文化財に指定された民家である。.

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安藤信友

安藤 信友(あんどう のぶとも)は、江戸時代中期の大名で、備中松山藩の2代藩主、のち美濃加納藩の初代藩主となった。安藤家4代。徳川吉宗の代に老中を務めた。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった。.

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安藤信周

安藤信周(あんどう のぶちか、貞享4年(1687年) - 享保12年(1727年))は、安藤重常(上野高崎藩第2代藩主・安藤重長の三男)の次男。高崎藩主から美濃加納藩初代藩主に転じた安藤信友の養子となる。正室は長島瑞得(信友養女)の娘。子は安藤信尹(長男)、娘(安藤広猛正室)、娘(藤堂高豊正室、信友養女)、娘(戸沢正勝正室、大久保忠胤養女)。従五位下、大和守。 初め、父・重常の家督である4,600石(旗本)を宝永7年(1710年)に相続する。享保4年(1719年)、小普請組支配。翌享保5年(1720年)、布衣を許された。享保9年(1724年)、小姓組番頭に転じる。享保11年(1726年)、信友の次男・安藤信易が夭折したため、養子となって安藤家嫡子の座に就いたが、翌年死去した。5年後に、長男・信尹が嫡孫承祖により家督を相続する。 のふちか Category:江戸幕府旗本 Category:1687年生 Category:1727年没.

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安藤国近

安藤 国近(あんどう くにちか、? - 享保9年8月9日(1724年9月25日))は、美作津山藩の家老。 越後高田藩の世嗣であった松平綱国の庶子。幼名は斎宮。通称は主殿。子に安藤近倫、池田政純室。 家老安藤靱負之常に養育され安藤氏を称し、家老として津山藩松平家に仕えた。宝永3年(1706年)11月27日に元服する。宝永7年(1710年)10月、疱瘡に罹る。宝永8年(1711年)3月、名前を主殿と改める。享保8年12月10日、娘が実父松平更山(綱国)の養女となる。同年12月16日、家老職を仰せつかる。享保9年(1724年)8月9日没。 家督は嫡男の造酒助近倫が相続した。父更山の養女となった娘は、享保12年(1727年)に備前岡山藩主池田綱政の弟政純に嫁いだ。子孫は代々津山藩に家老として仕え、安藤造酒助国睦の代に永見氏に改め、明治3年(1870年)永見丹波国忠の代に松平氏に復姓した。.

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安藤直名

安藤 直名(あんどう なおな)は、紀伊田辺藩の第5代藩主。第4代藩主・安藤直清の三男。 元禄5年(1692年)に父が死去したため、その跡を継いだ。2回(元禄11年、同12年)に田辺入りしている。元禄12年(1699年)12月、家督を養嗣子で弟の陳武に譲って隠居し、宝永5年(1708年)10月4日に死去した。 なおな Category:1680年生 Category:1708年没 なおな.

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安藤東野

安藤 東野(あんどう とうや、天和3年1月28日(1683年2月24日) - 享保4年4月13日(1719年5月31日))は江戸時代中期の儒学者。名は煥図、字は東壁、通称は仁右衛門。晩年は商丘丈人とも号した。 荻生徂徠初期の門人で、。.

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安藤有益

安藤 有益(あんどう ゆうえき、寛永元年(1624年) - 宝永5年6月25日(1708年8月11日))は、江戸時代前期の和算家・暦学者。通称:市兵衛。.

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安政南海地震

安政南海地震(あんせい なんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に発生した南海地震「南海地震」とは、本来1946年南海地震を指していたが、南海トラフ沿い西側半分の南海道沖を震源域とする地震も一般的に南海道地震と呼ばれてきた。2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以来、土佐湾から紀伊水道沖を震源域として発生するとされる固有地震の名称としても使われ始め、「」(平成14年法律第92号)に明記された。である。 南海トラフ巨大地震の1つとされ、約32時間前に発生した安政東海地震と共に安政地震沢村(1959), p59-60.、安政大地震とも総称される門村(1983).。この地震は嘉永年間に起きたが、この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。.

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安政丁銀

安政丁銀(政字丁銀) 安政丁銀(あんせいちょうぎん)とは安政6年12月8日(グレゴリオ暦1859年12月31日)から鋳造が始まり、12月27日(グレゴリオ暦1860年1月19日)から通用開始された丁銀の一種である。江戸幕府最後の秤量貨幣であり政字丁銀(せいじちょうぎん)とも呼ばれる。また安政丁銀および安政豆板銀を総称して安政銀(あんせいぎん)あるいは政字銀(せいじぎん)と呼ぶ。.

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安政東海地震

安政東海地震(あんせいとうかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した東海地震である。ここでいう「東海地震」とは南海トラフ沿い東側半分の東海道沖が震源域となる地震のことであり、いわゆる東南海地震「東南海地震」とは、本来1944年東南海地震を指していたが、2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以来、熊野灘から遠州灘を震源域として発生するとされる固有地震の名称として使われ始め、「東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法」(平成14年法律第92号)に明記された。-石橋(2014), p137-138.の領域も本地震の震源域に含まれていたと考えられている。 また、南海トラフ巨大地震の一つとされ、約32時間後に発生した安政南海地震とともに安政地震沢村(1959), p59-60.、あるいは安政大地震とも総称される門村(1983).。この地震は嘉永年間に起きたが、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年であることから安政を冠して呼ばれる。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。.

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寺井玄渓

寺井 玄渓(てらい げんけい、元和8年(1622年) - 宝永8年2月20日(1711年4月7日))は、江戸時代前期から中期にかけての医師。 玄渓とその父はもともと播磨国明石藩主本多政利(6万石)に仕えていたという。しかし本多政利は何かと不行跡が多く、天和2年(1682年)藩政を咎められて陸奥国大久保藩主1万石に減知転封されてしまう。この大幅な減知にも玄渓は本多家に残れたが、主君政利はその後も些細なことで侍女を殺害するなどの不行跡が絶えず、ついに元禄6年(1693年)に完全に領地を召し上げられた。 主家を失った玄渓は京都で医業を開業していたが、元禄13年(1700年)、播磨国赤穂藩藩医として招かれ、浅野長矩に300石5人扶持で仕えた。元禄14年(1701年)3月14日の浅野長矩殿中刃傷(赤穂事件)時には江戸藩邸に詰めていたが、その後直ちに赤穂へ向かい、終始国家老の大石良雄に従って行動する。赤穂城開城後は京都へ移った。元禄15年(1702年)7月、浅野長広の広島藩お預かりが決まり、良雄が江戸へ下る決意をすると玄渓もお供しようとしたが、8月6日に良雄は書簡を送ってこれを制止している。玄渓は代わりに息子玄達を江戸へ送って赤穂浪士たちの医療を担当させたという。 宝永8年(1711年)2月20日に京都で死去。享年90。墓は京都の長楽寺にある。法名は桐庵玄渓居士。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:江戸時代の医師 Category:1622年生 Category:1711年没.

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寺田臨川

寺田 臨川(てらだ りんせん、延宝6年7月8日(1678年8月24日) - 延享元年11月24日(1744年12月27日))は江戸時代中期の儒学者。本姓は源氏、通称は立革、半蔵、諱は高通、字は鳳翼、士豹。 安芸国広島藩主浅野吉長に侍講し、また藩校講学所(現修道中学校・修道高等学校)で教授を務めた。著作に『諸士系譜』『臨川全集』等。.

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.

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寿光院

寿光院(じゅこういん、正字体:壽光院、? - 寛保元年10月10日(1741年11月17日))は、将軍・徳川綱吉の側室。通称は大典侍(おおすけ)。江戸城の北の丸に居住したことから北の丸様 とも呼ばれる。.

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富士山

富士山(ふじさん、Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。標高3776.24 m2等三角点「富士山」の標高は3775.51mである。最高地点はこの三角点から北へ約12mのところにある岩の頂上であり、その高さは、三角点より0.61mだけ高い(1991年の観測)。、日本最高峰(剣ヶ峰)日本が玉山(新高山)のある台湾を領有していた時期を除く。の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きな影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山『日本百名山』 深田久弥(著)、朝日新聞社、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp269-272、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだとしても、「ふじやま」という呼称は誤りである。.

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富士山の噴火史

富士山の噴火史(ふじさんのふんかし)では、富士火山の噴火の様子と変遷を概説する 富士山は高さと山体の大きさに於いて日本最大の活火山である。富士山は最近10万年で急速に大きく成ったと考えられており、その意味では「若い火山」に分類される。現在見えている山の外観は約1万年前から噴火活動を開始した新富士火山であり、その下に約70万年前から活動していた小御岳(こみたけ)火山と約10万年前から約1万年前に噴火した古富士火山がある。.

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富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。社家は富士氏。 全国に約1,300社ある浅間神社の総本社である。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。.

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富士信安

富士信安(ふじ のぶやす、生年不詳 - 宝暦10年5月18日(1760年6月30日))は、江戸時代の富士山本宮浅間大社大宮司で、富士氏当主。.

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富小路通

富小路通 富小路通(とみのこうじどおり)は京都市内の南北の通りの一つ。北は丸太町通から南は渉成園の北の上珠数屋町通まで。 平安京には存在せず、豊臣秀吉による天正の地割で新設された通りである。 平安京にも同名の富小路があるが、これは一本東の現在の麩屋町通である。なぜこのように名前が変わったか、理由は不明である。 当初、北は下立売通まであったが、18世紀初頭の宝永の大火後に御所域が拡大され、丸太町通までで閉塞してしまった。そのため通りの北端には京都御苑の入口「富小路口」がある。 五条通以南で通りはやや西に曲がっており、六条通以南は柳馬場通の延長とみなされる場合もある。この辺りは、往時の六条河原であり、また、秀吉の京都改造では、この現代の五条通以南にも、寺町通や寺之内通と同様に、寺院が集中して移転されたため、下寺町(しもでらまち)という別称も存在する。 日本基督教団京都教会 京都地裁、京都市中京区.

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富益町

富益町(とみますちょう)は、鳥取県米子市の町名。丁番を持たない単独町名である。2012年(平成24年)1月1日現在の人口は4,777人。郵便番号683-0103。本項では同地域にかつて所在した会見郡・西伯郡富益村についても述べる。.

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富永町

富永町(とみながちょう)は、愛知県豊田市の町名。2011年12月1日現在の人口は25人。郵便番号は441-2526。.

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富沢町 (名古屋市)

富沢町(とみざわちょう)は、愛知県名古屋市中区の地名。.

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寄合番

寄合番(よりあいばん)は、江戸幕府の職名の1つ。生類憐みに関する法令が出された5代将軍徳川綱吉政権期に、犬小屋の犬を養育する目的で新設された役職「六 犬か人か(一)」徳富蘇峰著、『近世日本国民史 元禄時代 政治篇』講談社学術文庫、201-204頁。「元鷹役人と寄合番」根崎光男著 『犬と鷹の江戸時代 綱吉と吉宗』吉川弘文館、37-39頁。。小日向台町(現・東京都文京区)の鷹部屋御用屋敷に属して、鶴場の管理や烏・鳶の巣払いも担当した(#生類方御用)。.

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寄合橋

寄合橋(よりあいばし)は、紀の川支流の市堀川に架けられている橋梁。和歌山県和歌山市の寄合町と湊本町をつないでいる。プレストレスト・コンクリート橋(PC橋)である。.

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寛永通宝

寛永通宝(かんえいつうほう)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。.

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尊賞法親王

尊賞法親王(そんしょうほうしんのう、元禄12年11月22日(1700年1月11日) - 延享3年9月24日是澤恭三「尊賞法親王」『日本人名大事典』(1746年11月7日))は、江戸時代中期の法親王。霊元天皇の第十四皇子で、母は藤式部(今城定淳の娘)。幼名は多喜宮、諱は庶賢。初名は尊昭。正式な出家が親王宣下後であるため、入道親王とする表記もある。 元禄13年(1701年)、一乗院の真敬法親王の弟子になることが決まり、宝永5年(1708年)に一乗院に入室する。翌宝永6年(1709年)3月に親王宣下を受けて庶賢と名乗り、翌月出家して尊昭と称する。正徳4年(1714年)に興福寺の別当となり、元文2年(1737年)まで務めている。 享保2年(1717年)、興福寺が火災にあって金堂など主要建物の多くを失ったため、その再建に奔走した。享保19年(1734年)には名を尊賞と改めている。 延享3年9月24日に48歳で薨去。ただし、その薨去は暫く秘され、牛車宣旨を受けた後の10月10日付で死去が公表された。諡号は広荘厳院。.

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尚歯会

尚歯会(しょうしかい)とは、江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助)。.

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小原慶山

小原慶山(おはら けいざん、生年不詳 – 1733年9月7日(享保18年7月29日))は、江戸時代中期の絵師。丹波の人。長崎奉行所から唐絵目利を任ぜられ、初期の長崎画壇において重要な位置を占めた。.

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小島藩

陣屋跡石垣 小島藩(おじまはん)は、駿河国庵原郡・有渡郡・安倍郡に存在した藩。現在の静岡県静岡市清水区小島地区が中心地にあたる。 小島藩は2万石以下であったため、城を構えることが許されず、藩主の居所は陣屋として構築された。陣屋跡の遺構があり、石垣が残っている。 なお、松會版や山泉堂、須原屋版の武鑑での在所(陣屋所在地)の記載は、立藩以降から少なくとも享保3年(1718年)までは駿州阿部入であったが、享保17年(1732年)の武鑑では駿州小島となり、以降は駿州小島や駿州庵原郡小島となる。.

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小判

小判(こばん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。金座で用いられた公式な呼称は小判であり『三貨図彙』では「小判」と明記されているが、『』および『大日本貨幣史』などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。計数貨幣であるが量目(質量)および金品位が一定に定められており、金含有量が額面を決める秤量貨幣の発展形である。.

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小出重興

小出 重興(こいで しげおき)は、和泉陶器藩の第4代(最後)の藩主。陶器藩(秀家系)小出家4代。 寛文3年(1663年)、第3代藩主・小出有重の長男として生まれる。元禄6年(1693年)、父の死去により跡を継いだ。元禄9年(1696年)4月9日、病により死去した。享年34。 重興には実子が無く、死に臨んで弟の重昌を養子にして跡を継がせようとしたが、幕府から許可が出る前に重興が死去し、陶器藩は無嗣子を理由に改易となった。 なお、陶器藩小出氏は、後に重興の叔父(有棟の四男)・小出有仍(ありより)が別家の有棟の弟小出尹明の養子として跡を継ぎ、徳川家綱の小姓から昇進して甲斐・信州・武蔵国内5000石を領し、宝永2年(1705年)幕府代官支配となった旧領のうち5000石に移された。以後、尹従、有相、有福、有里、有度、有義、有輝、有常と続き幕末を迎えた。 しけおき しけおき Category:1663年生 Category:1696年没.

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小出英利

小出 英利(こいで ふさとし)は、丹波園部藩の第3代藩主。吉親系小出家3代。.

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小出英貞

小出 英貞(こいで ふささだ)は、丹波園部藩の第4代藩主。吉親系小出家4代。 小出英貞夫人像/徳雲寺蔵.

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小出英持

小出 英持(こいで ふさよし)は、丹波園部藩の第5代藩主。吉親系小出家5代。.

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小笠原常春

小笠原 常春(おがさわら つねはる)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。.

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小笠原忠貞

小笠原 忠貞(おがさわら たださだ、宝永3年(1706年) - 元文6年1月18日(1741年3月5日))は、豊前国小倉藩の世嗣。3代藩主・小笠原忠基の長男。母は浅野綱長の娘。正室は蜂須賀綱矩の娘。子は永姫(小笠原長恭正室)。官位は織部正、遠江守。 豊前小倉藩嫡子として生まれ、享保4年(1719年)徳川吉宗に拝謁する。享保10年(1725年)叙任するが、家督を継ぐことなく元文6年(1741年)に36歳で早世した。代わって、弟の忠総が嫡子となった。 たたさた Category:小倉藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1706年生 Category:1741年没.

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小笠原信辰

小笠原 信辰(おがさわら のぶとき)は、越前勝山藩の第2代藩主。信嶺系小笠原家4代。.

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小笠原信成

小笠原 信成(おがさわら のぶなり)は、越前勝山藩の第3代藩主。信嶺系小笠原家5代。.

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小笠原真方

小笠原 真方(おがさわら さねかた、慶安5年4月20日(1652年5月27日)- 宝永6年7月5日(1709年8月10日))は、豊前小倉新田藩(千束藩)の初代藩主。 豊前小倉藩主・小笠原忠真の四男。母は永貞院。正室は黒田長興の娘。官位は従五位下、備後守、備中守。幼名は千助。 寛文11年(1671年)9月23日、兄の小倉藩主・小笠原忠雄より1万石を分与されて、支藩である小倉新田藩を立藩した。しかし藩政においては家老、並びに本家の小倉藩によって執り行なわれた上、自身は領地に赴かずに篠崎館に住んだので篠崎殿と称された。 宝永6年(1709年)7月5日、参勤交代で船により帰国途中の讃岐国小豆島の坂手浦において、暴風雨のために船が遭難し、溺死した。享年58。跡を甥で養嗣子の貞通が継いだ。墓所は北九州市小倉南区の開善寺。 *01 さねかた Category:海難死した人物 Category:1652年生 Category:1709年没.

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小笠原貞通

小笠原 貞通(おがさわら さだみち、貞享3年5月2日(1686年6月22日)- 延享4年1月5日(1747年2月14日))は、豊前小倉新田藩(千束藩)の第2代藩主。豊前小倉藩主・小笠原忠雄の三男。母は浅野光晟の娘・久姫(長寿院)。正室は伊東長救の娘。側室に藤井氏。子は小笠原定政(次男)、小笠原貞顕(六男)、縫姫(裏松祐光室、のち宮本貞弼養女)、娘(五島盛峰正室、のち小笠原長之室)。官位は従五位下。近江守。幼名は任次郎。 江戸にて生まれる。元禄13年(1700年)、叔父で先代藩主の真方の養嗣子となる。宝永6年(1709年)に養父が讃岐にて溺死したため、その跡を継いだ。正室の伊東氏とは仲が悪く、わずか2年で離別したが、側室の藤井氏との間は仲が良く、8男7女という子女に恵まれている。最初は次男・定政を世子に選んでいたが、元文4年(1739年)6月12日に早世したため、六男・貞顕を新たに世子とした。 延享4年(1747年)正月5日、小倉にて死去し、跡を貞顕が継いだ。法号は曹渓院殿安窓徹心。墓所は北九州市小倉北区の開善寺。 *02 さたみち Category:1686年生 Category:1747年没.

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小笠原長円

小笠原 長円(おがさわら ながのぶ)は、豊前中津藩の第4代藩主。忠脩系小笠原家4代。.

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小笠原長煕

小笠原 長煕(おがさわら ながひろ)は、武蔵岩槻藩の第2代藩主。のち遠州掛川藩の初代藩主。忠知系小笠原家5代。.

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小笠原長胤

小笠原 長胤(おがさわら ながたね)は、豊前中津藩の第3代藩主。忠脩系小笠原家3代。.

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小笠原長重

小笠原 長重(おがさわら ながしげ)は、江戸時代前期から中期の旗本、譜代大名、老中。三河吉田藩第4代藩主、のち武蔵岩槻藩初代藩主。忠知系小笠原家4代。.

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小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)で、北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。.

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小田原藩

小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄下郡を治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。.

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小田中古墳群

国土航空写真 小田中古墳群(こだなかこふんぐん)は、石川県鹿島郡中能登町小田中にある古墳群。親王塚古墳・亀塚古墳の2基からなる。 実際の被葬者は明らかでないが、両古墳は宮内庁により「大入杵命墓(おおいりきのみことのはか)」およびその陪冢(陪塚)に治定されているほか、中能登町指定史跡に指定されている(指定名称は「親王塚及び亀塚古墳」)。.

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小畠武堯

小畠 武堯(おばたけ たけたか、? - 享保18年(1733年)は、江戸時代の伊勢崎藩士。通称は一之丞。農業用水である八坂用水(やさかようすい)の開削を指導した治水家である。.

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小草履取り

小草履取り(こぞうりとり)は、戦国時代以後、男色の流行するにつれて、武士が、草履取りの名目で、召し抱えた少年。 『昔々物語』によれば、15、6歳の美しい少年であり、下に絹の小袖、上に唐木綿の袷を着て、風流な帯をしめ、夏は浴衣染めなどを着て、美しい脇差しをさし、客へ馳走の給仕にもだされ、供にも連れ歩かれなどもされたが、小草履取りが原因でしばしば喧嘩口論がおこったため、慶安年間には禁止されたが、寛文年間ころ再び流行し、のちに再度禁じられたという。 井原西鶴の『大矢数』には、「庄之介とて究竟の者、見立ては小草履を置かれたり」とあり、『好色一代男』には「或は小草履取の鼻すぢけだかきをかやうに仕立て、東国西国の屋敷方、一年ばかり長屋住居の人をだます物ぞかし」とある。 しかし、宝永年間ごろになると、「渡り小姓(わたりこしょう)」といって、小草履取りに似たものが大名、旗本のあいだにかかえられた(『耳嚢』)。.

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小須戸 (新潟市)

小須戸 (こすど)は、新潟県新潟市秋葉区の大字。郵便番号は956-0101。.

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小諸藩牧野氏の家臣団

小諸藩牧野氏の家臣団(こもろはんまきのしのかしんだん)は、元禄15年(1702年)に、越後国与板の陣屋から、小諸城主に栄転して、明治4年(1872年)廃藩置県まで存続した小諸藩牧野氏の家臣団である。小諸藩主牧野氏は、三河国宝飯郡牛久保城主を発祥とする徳川譜代・越後長岡藩主牧野氏の完全な支藩であるため、その家風は、本藩を見習うことが定められていた。その家風とは、「参州牛久保之壁書」と呼ばれる"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"などを家訓として掲げたものである。 以下は門閥諸士(小諸四天王家=加藤・稲垣・真木・牧野)をはじめとする重臣家系の盛衰を中心に解説し、全家臣団の概要を掲載する。.

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小鹿田焼

小鹿田焼の大皿。「飛びカンナ」と呼ばれる柔軟性のある金属製の薄いヘラで付ける削り文様が小鹿田焼の特徴のひとつ 小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市の山あい、皿山を中心とする小鹿田地区で焼かれる陶器である。その陶芸技法が1995年(平成7年)に国の重要無形文化財に指定され、2008年3月には地区全体(約14ヘクタール)が「小鹿田焼の里」の名称で重要文化的景観として選定されている。.

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小辺路

野古道小辺路・薄峠付近の尾根道(高野町) 小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。高野山(和歌山県伊都郡高野町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)を結び、紀伊山地を南北に縦走する。.

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小野路町 (町田市)

小野路町(おのじまち)は、東京都町田市の地名。旧南多摩郡小野路村。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は195-0064。 多摩ニュータウンの造成開発に伴い、北部の瓜生・一本杉・池之谷など一部地域が1973年(昭和48年)12月1日に東京都多摩市へ編入され、一時期多摩市小野路町が存在した。編入された部分の詳細については項目「小野路町 (多摩市)」を参照のこと。.

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小林秀雄 (批評家)

小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。.

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小村神社

小村神社(おむらじんじゃ)は、高知県高岡郡日高村下分にある神社。国史見在社、土佐国二宮で、旧社格は県社。.

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小汐井神社

小汐井神社(おしおいじんじゃ)は、滋賀県草津市大路に鎮座する神社である。 中山道第一の宮として旅人からも厚い信仰を受けてきた。周辺の氏子からは、安産の神としても信仰されている。 社名の「おしおい」とは、古代、人が神を祭祀するにあたり、まず海中に入り、海潮により潔斎し、その後神事に臨んだ事を指す言葉を指す。.

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小浜広隆

小浜 広隆(おはま ひろたか、慶安5年(1652年) - 宝永2年5月13日(1705年7月3日))は、江戸時代中期の旗本。小浜嘉隆の子。母は牧野信成の娘。孫三郎、民部。兄に小浜直隆(知隆)、弟に小浜良隆(小浜重隆養子)。正室は永井尚政の娘、継室は安部信之の娘。子に亀之助、大久保忠明室(のちに離縁)、小浜行隆。 兄の小浜直隆(知隆)が父より先に21歳で承応3年(1654年)に没し、その子の三之助も万治元年(1658年)に7歳で没したため、嫡男となる。父が寛文4年(1664年)に没すると家督(5,000石)を継ぎ寄合に列する。寛文10年、領地が海水に浸食され復旧の見込みがないことを言上し、相模国三浦郡、武蔵国秩父郡、安房国北三郡内に1,000石加増の上移される。貞享2年8月13日、大坂御船手となり、10月26日に領地を摂津国西成郡、東成郡、住吉郡の内に移される。元禄2年12月27日布衣を着ることを許される。元禄11年12月26日時服三領、黄金5枚を賜る。宝永元年6月7日に公務を退き、宝永2年54歳で没する。法名は道起。墓所は、東京都文京区駒込の吉祥寺。.

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小浜行隆

小浜 行隆(おはま ゆきたか、貞享元年(1684年) - 宝暦3年12月3日(1753年11月27日))は、江戸時代の旗本。小浜広隆の子。母は安部信之の娘。民松、孫三郎。兄に亀之助、姉に大久保忠明室(のちに離縁)。室は内田正衆の娘(のちに離縁)。子女に民松(早世)、小浜矩隆室(のちに離縁)、小浜季隆、高力長貫(高力長行養子)、坪内定孝室、助吉、小浜朝隆、永見為章室(のちに離縁)、仙石状久(仙石久住養子)、ほかに女子1人。 宝永2年(1705年)父の広隆が没し家督を継ぎ、同年摂津国の領地を越後国蒲原郡内6,000石に移され、知行所を沢海に置く。享保9年(1724年)3月15日大坂御船手となり、同年布衣を着ることを許される。享保14年(1729年)3月29日職を辞する。享保15年12月3日隠居し家督を子の小浜季隆に譲り、宝暦3年(1753年)70歳で没した。法名は無三。墓所は、東京都文京区駒込の吉祥寺。子孫はのちに4,000石となるが、幕末に至るまで存続した。.

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山口弘長

山口 弘長(やまぐち ひろなが)は、江戸時代中期の大名。常陸国牛久藩5代藩主。.

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山口雪渓

山口 雪渓(やまぐち せっけい、正保四年(1648年) - 享保17年9月4日(1732年10月22日))は、江戸時代中期の京都で活躍した漢画系の絵師。名は宗雪。別号を梅庵、白隠など。.

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山名隆豊

山名 隆豊(やまな たかとよ)は、江戸時代の交代寄合。 福島正長(福島忠勝の子)の次男で、福島正則の曾孫にあたる。元禄7年(1694年)10月、山名矩豊の養子となる。子女なく、元禄14年(1701年)、分家の山名光豊(山名義豊)の三男の山名豊就を養子とした。宝永元年(1704年)、隠居し豊就が家督を継いだ。 たかとよ Category:福島氏 Category:江戸幕府旗本 Category:1669年生 Category:1718年没.

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山名豊就

山名 豊就(やまな とよなり)は、江戸時代の交代寄合。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山吉田村

山吉田村道路元標 山吉田村(やまよしだむら)は、愛知県八名郡にかつて存在した村である。 現在の新城市南東部にあたる地域を村の範囲とし、静岡県に接していた。1889年(明治22年)発足。1956年(昭和31年)に鳳来町に編入されて八名郡とともに消滅した。2005年(平成17年)に鳳来町が新城市に編入されたため、現在では同市の一部である。.

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山吉盛侍

山吉 盛侍(やまよし もりひと)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。吉良義央の家臣 ・近習(吉良義周の中小姓)。通称は新八郎(しんぱちろう)。.

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山岡景助

山岡 景助(やまおか かげすけ、寛永元年(1624年) - 宝永2年4月8日(1705年4月30日)『新訂 寛政重修諸家譜』第十七 株式会社続群書類従完成会、353頁。釣洋一著 『江戸刑事人名事典 火附盗賊改』 新人物往来社、180-181頁。)は、江戸幕府の旗本。通称は十兵衛、幼名は愛蔵・弥五兵衛。官職は従五位下、対馬守。 父は山岡十兵衛景次。母は吉勝の娘で、妻は永見重貞の娘。.

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山崎久太郎

山崎 久太郎(やまざき きゅうたろう、1864年12月3日(元治元年11月5日)- 1942年(昭和17年)9月28日)は、明治期の製鋼技術者、大正期から戦前昭和期に活躍した実業家。官営八幡製鉄所に先立ち、日本で最初の民間平炉を創設した。.

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山上藩

山上藩(やまかみはん)は、近江国(現在の滋賀県東近江市山上町)に存在した藩。藩庁は山上陣屋。.

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山中常有

山中 常有(やまなか つねあり、生年不詳 - 1709年12月30日(宝永6年11月30日))は、日本の江戸時代の庄屋。出雲国の戦国武将山中幸盛の子孫。山中常夢の長男、母は不詳、または山中義明ともいい、通称は(4代目)吉和屋彌右衛門と称した。 墓所は広島市西区の海蔵寺と広島市佐伯区の光禅寺にもあり、法号は良善院盛興浄心居士、または釋常有信士。.

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山中元孚

山中 元孚(やまなか もとざね、宝永元年(1704年)- 宝暦5年(1755年)7月29日)は、日本の江戸時代の郷士。鴻池村山中総本家の7代目当主。出雲国の戦国武将山中幸盛の子孫。山中義男の子。通称は(7代)山中新右衛門と称した。 墓所は兵庫県伊丹市鴻池の慈眼寺境内墓地にある。法号は萬機宗安居士。享年51。.

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山内倫氏

山内 倫氏(やまうち ともうじ)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。土佐藩の重臣。.

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山内豊隆

山内 豊隆(やまうち とよたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。土佐藩6代藩主。.

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山内豊房

山内 豊房(やまうち とよふさ)は、土佐藩の第5代藩主。.

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山内郷俊

山内 郷俊(やまうち さととし)は、江戸時代中期の武士。土佐藩の重臣。6代宿毛領主。.

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山内晴氏

山内 晴氏(やまうち はるうじ)は、江戸時代中期の武士。土佐藩の重臣。5代宿毛領主。.

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山王祭 (富山市)

山王祭(さんのうまつり、Sannou Matsuri)は、毎年5月31日から6月2日にかけて行われる富山県富山市山王町にある日枝神社の春季例大祭で、地元では「さんのさん(はん)」、「さんのさん(はん)の祭り」と呼ばれ親しまれ、現在は毎年3日間で約40万人 - 50万人の人出で賑わう富山県内最大の祭である。.

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山田宗偏

山田 宗徧(やまだ そうへん、寛永4年(1627年) - 宝永5年4月2日(1708年5月21日))は、江戸時代前期の茶人。宗徧流茶道を興した。茶号は四方庵・不審庵・今日庵。.

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山路主住

山路 主住(やまじ ぬしずみ、宝永元年(1704年) - 安永元年12月11日(1773年1月3日))は、江戸時代中期の和算家・天文学者。本姓は平氏。幼名は久次郎。字は君樹。弥左衛門と称し、連貝軒と号した。 中根元圭・松永良弼・久留島喜内らに関流の和算を学んだ。関流三伝。師の中根が徳川吉宗の側近として西暦への改暦を目論んでいたこともあり、宝暦の改暦の際に天文方西川正休・渋川則休の手伝として上京している。しかし改暦で西洋暦は取り上げられず、結果として宝暦暦は貞享暦の改変に留まった。 明和元年(1764年)には天文方に任じられた。改暦後も息子の山路之徽や仙台藩の門人の戸板保佑らと共に西洋暦を研究し、崇禎暦書による西洋暦を完成させている。この暦は天文方の山路家・吉田家などで検証された。寛政の改暦では、麻田剛立らによる暦象考成後編による西洋暦の方が優れていたため、これも採用されなかった。 また関流の和算を集大成し、免許制度を確立するなど、関流和算を広く普及させる基盤を作り上げ、藤田貞資・安島直円・有馬頼徸・松永貞辰・船山輔之・石井雅穎など、関流の発展に大きな影響を及ぼした門人を多く輩出している。 数学の業績にはあまり独創的なものはないが、循環小数の研究は有名である。.

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山脇東洋

山脇東洋解剖碑所在墓地、京都市中京区新京極通三条下る東入 九臓背面図(『蔵志』 山脇 東洋(やまわき とうよう、宝永2年12月18日(1706年2月1日)- 宝暦12年8月8日(1762年9月25日))は、江戸時代の医学者。実験医学先駆者の一人。東洋は後の号で、はじめは移山。名は尚徳、字は玄飛、子飛。子に山脇東門、門下に永富独嘯庵らがいる。.

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山野辺義逵

山野辺 義逵(やまのべ よしみち)は、江戸時代中期の水戸藩家老職。.

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山野辺義清

山野辺 義清(やまのべ よしきよ)は、江戸時代前期から中期の水戸藩家老。.

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山梨岡神社

山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は、山梨県笛吹市春日居町鎮目(しずめ)にある神社である。式内社の「山梨岡神社」に比定されている旧郷社。 甲府盆地北縁、笛吹川支流の平等川右岸に位置し、社地は大蔵経寺山の東南麓、大蔵経寺山山頂から東に張り出した尾根筋の御室山(みむろやま)の東麓に立地し、東面して鎮座する。.

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山本常朝

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。.

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山方泰護

山方 泰護(やまがた やすもり、寛文2年1月29日(1662年3月19日) - 享保5年11月4日(1720年12月3日))は江戸時代の久保田藩家老。上杉憲顕(民部大輔)の6子・山方能登守を祖とする山方氏当主で婿養子。実家は真崎氏分家で実父は真崎五郎左衛門。初め真壁氏養子になった長兄からの分知により真壁氏を称する。諱は初め広近。山方氏時代に憲武、後に泰護。通称は初め造酒、山方氏時代に民部、太郎左衛門。家格は宿老廻座。養孫は山方助八郎。.

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屋久島町

屋久島町(やくしまちょう)は、鹿児島県大隅諸島の屋久島および口永良部島全域を行政区域とする町。.

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岡山市

岡山市(おかやまし)は、中国地方、岡山県の南東部に位置する市。政令指定都市および同県の県庁所在地である。.

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岡山平野

旭川、百間川が流れ込んでいるのが確認できる。 岡山平野(おかやまへいや)とは、岡山県南部にかけて広がり、瀬戸内海に面した平野である(#構成参照)。地質学的には高梁川、旭川、吉井川などの河川によって形成された沖積平野と新田開発による干拓地である。.

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岡山県

岡山県(おかやまけん)は、日本の都道府県のひとつ。中国地方南東部に位置し、瀬戸内海に面する県。県庁所在地は岡山市である。.

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岡山県道377号山口押撫線

岡山県道377号山口押撫線(おかやまけんどう377ごう やまぐちおしなでせん)は、岡山県の笠岡市山口と笠岡市押撫を結ぶ一般県道である。.

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岡俊直

岡 俊直(おか としなお)は江戸時代中期の神職。備前国岡山酒折宮(岡山神社)神主、岡山藩神職惣頭。藩士等を集めて社中を形成し、香川宣阿に和歌、里村昌億に連歌を学んだ。.

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岡田小八郎 (初代)

岡田小八郎 (初代)(おかだ こはちろう (しょだい)、元禄11年(1698年)頃 - 宝暦13年9月(1763年10月)は、江戸時代中期の近江商人。岡田八十次家の分家として岡田小八郎家を興す。剛毅で正直な商人として評判を得て、名古屋店は同地最大の大店になる。屋号は本家と同じ『松前屋』。.

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岡田八十次

岡田 八十次(おかだ やそじ)は、慶長から元和年間(1596年 - 1624年)に蝦夷地へ進出した老舗近江商人。屋号は松前で恵比寿屋、近江で松前屋。歴代当主が襲名した名称(なお、第6代まで弥三右衛門を当主名として用いた)「近江商人岡田弥三右衛門家の経営」(上村雅洋 滋賀大学経済学部附属史料館 1986年)。.

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岡部長泰

岡部 長泰(おかべ ながやす)は、和泉岸和田藩の第3代藩主。岸和田藩岡部家4代。 第2代藩主・岡部行隆の長男として江戸にて生まれる。初名は宣就。貞享3年(1686年)8月25日、父の隠居により跡を継いだ。藩財政は豊かで、祖父岡部宣勝や父の藩政のもとで岸和田藩は全盛期を迎えていたが、長泰は奢侈を戒めて倹約を主とした法令を定めている。また文武を奨励し、特に儒学を好んで林鳳岡に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じている。和歌をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物でもあった。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されている。 元禄16年(1703年)、京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行った。これが全国的に有名な「岸和田だんじり祭」の起源となった。 宝永元年(1704年)、姫路藩主本多忠国の死去に伴い、大和川付け替え工事の引継ぎを幕府より命ぜられ、完遂するなど、水利・治水に精通するなど民政に手腕を認められていた。 享保6年(1721年)9月22日、家督を次男の長敬に譲って隠居し、享保9年(1724年)7月18日に岸和田で死去した。享年75。墓所は大阪府岸和田市の泉光寺。.

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岡藩

岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡・直入郡・大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。.

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岡本保江

岡本 保江(おかもと やすえ)は、江戸時代の御家人。.

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岡本重之

岡本 重之 (おかもと しげゆき、慶安4年(1651年) - 宝永8年2月20日(1711年4月7日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。大阪留守居役400石。通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。 浅野家臣である大石信澄(450石)の次女べん(元禄3年(1690年)12月6日に20歳で死去)を妻に持ち、赤穂浪士の一人である大石信清(信澄の二男)の義兄にあたる。 元禄14年(1701年)3月14日の刃傷事件があったのち、筆頭家老大石良雄の指示により大阪藩邸を引き払い、4月10日に赤穂へ戻った。『江赤見聞記』によると赤穂城開城前に大石良雄に神文血判書を提出した79人の1人として名前が挙がっているが、他の書にはその名は除かれている。いずれにしても赤穂城開城後は伏見に移住して大石良雄らによる浅野家御家再興運動に助力している。しかし、元禄15年(1702年)7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。大石良雄は仇討計画に切り替えるため、一度神文返しをして脱盟希望者を募ると岡本は脱盟した。 その後は山城国乙訓郡で暮らし、宝永8年2月20日に死去した。享年61。嵯峨称念寺に改葬された。法号真堂義融居士。 Category:赤穂事件関係人物 Category:赤穂藩の人物 Category:1651年生 Category:1711年没.

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岩城秀隆

岩城 秀隆(いわき ひでたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国亀田藩4代藩主。 延宝元年(1673年)、3代藩主・岩城重隆の長男・景隆の長男として生まれる。景隆は本来、家督を継ぐ身であったが、重隆と対立して廃嫡された上に幽閉され、元禄9年(1696年)に死去した。 天和3年(1683年)5月6日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に御目見する。宝永元年(1704年)2月10日、祖父・重隆の隠居により家督を継いで4代藩主となる。宝永6年(1709年)4月15日、従五位下・伊予守に叙任された。正徳5年(1715年)8月28日、駿府加番に任じられる。 享保3年(1718年)10月25日、亀田で死去した。享年46。2人の男子は早世していたため、末期養子として隆韶を迎えた。 当初、秀隆は岩城氏17代当主・常隆の子孫・伊達村隆(仙台藩士)を養子に望んだ。しかし、仙台藩の伊達氏との交渉はまとまらず、秋田藩の佐竹氏と養子縁組の交渉に及んだ。これもまとまらず、再度伊達家との交渉に及んだ。その結果、仙台藩主・伊達吉村の弟・村興(仙台藩2代藩主・忠宗の八男・宗房の子)の子・隆韶を仮養子に指定することに成功し、死去に伴い末期養子に認められたのである。.

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岩城隆韶

岩城 隆韶(いわき たかつぐ)は、江戸時代中期の大名。出羽国亀田藩5代藩主。.

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岩城重隆 (江戸時代)

岩城 重隆(いわき しげたか)は、江戸時代前期の大名。出羽国亀田藩3代藩主。新田開発や城下町の整備などを行った。 寛永5年(1628年)、2代藩主・岩城宣隆の長男として誕生。寛永11年(1634年)3月28日、江戸幕府3代将軍・徳川家光に御目見する。明暦2年(1656年)7月25日、父・宣隆の隠居により家督を相続する。同年10月17日、江戸で発生した火事の際、火消役を務める。同年12月26日、従五位下伊予守に叙任する。 天和元年(1681年)、素行の悪さを理由に嫡男・景隆を勘当して隠居所に幽閉した。元禄6年(1693年)8月12日、人心を惑わした咎で配流された八王子の成就院の空山という僧を預かっている『人見私記続編』『憲廟実録』。元禄9年(1696年)、家臣からの声もあって景隆を赦免することにしたが、景隆はその直前に病没した。悲しみにくれた重隆は、専住山正念寺に供養のため念仏堂を建立したという。また、晩年には孫・秀隆も廃嫡し、久保田藩士・佐竹義明(後の久保田藩主ではなく、分家の佐竹北家当主)の息子・格道(又八郎)を養子に迎えようとしたようである。 宝永元年(1704年)2月18日に隠居し、孫・秀隆に家督を譲った『宝永録』。宝永4年(1707年)12月11日、死去。享年80。.

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岩倉乗具

岩倉 乗具(いわくら のりとも、寛文6年8月29日(1666年9月27日) - 享保15年8月23日(1730年10月4日))は、江戸時代前期から中期の公卿。霊元天皇(112代)東山天皇(113代)中御門天皇(114代)の三代にわたり朝廷に仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。実父は千種有維。養父は岩倉具詮。子に岩倉恒具、千種有敬、植松賞雅がいる。 初名は具統。千種家の嫡男だったが、千種家は岩倉家の分家筋にあたるため、子のない本家の具詮の養子に入って岩倉家を継いだ。延宝8年(1680年)に元服とともに叙爵。以降、右少将や右中将などの官職をつとめ、官位も累進し、元禄16年(1703年)には従三位となり、公卿に列する。宝永4年(1707年)には具偈と改名し、参議となった。正徳3年(1713年)に従二位権中納言。享保4年(1719年)に乗具と改名。享保9年(1724年)に羽林家最高位の権大納言に就任。享保10年(1725年)には正二位となった。 次男有敬を実父有維、三男賞雅を植松雅孝の養子に入れている。 のりとも Category:千種家 Category:江戸時代の公家 Category:1666年生 Category:1730年没.

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岩倉恒具

岩倉 恒具(いわくら つねとも、元禄14年7月24日(1701年8月27日) - 宝暦10年7月29日(1760年9月8日))は、江戸時代中期の公卿。主に中御門天皇(114代)から桃園天皇(116代)の3代にわたって朝廷に仕え、官位は従二位権中納言まで昇った(薨去後に正二位追贈)。父は岩倉乗具。弟に岩倉具広(千種家養子)・具金(植松家養子)がいる。養子に岩倉尚具がいる。 宝永元年(1704年)に従五位下に叙爵。初め具備と名乗った。正徳4年(1714年)に元服とともに従五位上侍従となる。享保3年(1718年)に正五位下。享保4年(1719年)に恒具と改名する。その後も累進し、左近衛少将と右近衛中将を経て、享保17年(1732年)に従三位に達して公卿に列した。その後、正三位・参議・左近衛中将を経て宝暦3年(1753年)に従二位権中納言となったが、宝暦8年(1758年)には宝暦事件に連座。宝暦10年(1760年)に薨去している。享年60。明治24年(1891年)に名誉回復し、正二位を追贈された。 実子がないため、弟植松賞雅の子尚具を養子に迎えている。.

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岩田彦助

岩田 彦助(いわた ひこすけ)は江戸時代前期の儒学者。徳島藩出身。谷村藩・川越藩主秋元喬知に重用され、「秋元に過ぎたるもの二つある、無の字の槍と岩田彦助」と称された。.

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岩村田祇園祭お船様祭り

岩村田祇園祭(いわむらだぎおんさい、いわむらだぎおんまつり)は長野県佐久市岩村田の祭。荒宿地区が中心となる祇園祭である。祭の中で行われるお船様祭り(おふなさままつり)は「岩村田祇園におけるお船様祭り」として佐久市指定無形民俗文化財となっている。.

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岩滝藩

岩滝藩(いわたきはん)は、美濃国各務郡・山県郡・方県郡(現在の岐阜県岐阜市岩滝)に存在した藩。藩庁は岩滝陣屋。.

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岩木川の支流の一覧

岩木川・津軽平野周辺略図 本項では青森県を流れる一級河川・岩木川の支流について概観する。 岩木川は青森県の白神山地に発し、津軽地方を縦断して十三湖で海に注いでいる。流路や呼称は時代によって変遷はあるが、現在は源流域の暗門川と大川の合流地点より下流を「岩木川」と称することになっている。主要な支流のうち、十川や平川、浅瀬石川などは八甲田山・十和田湖方面に源流をもつ。(詳細は岩木川参照。) 青森県の平成17年(2005年)河川調書にしたがうと、岩木川本川(湖沼1(十三湖)を含む)のほか、一次支川22(湖沼1(田光沼)を含む)、二次支川38、三次支川29、四次支川7の合計97(湖沼2、派川1(新土橋川)を含む)の川が支流として扱われている。 *各表における「2.5」「5.0」は、それぞれ国土地理院地図2万5000分の1、5万分の1での掲載の有無を示す。.

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岩手信猶

岩手 信猶(いわて のぶなお、? - 享保17年閏5月2日(1732年6月23日))は、江戸幕府の旗本。通称は藤左衛門、千五郎。.

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岸和田藩

和泉国岸和田城絵図/国立公文書館内閣文庫所蔵 岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。.

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島田組

島田組(しまだぐみ)は、京都で「蛭子屋」を名乗った江戸時代の豪商。呉服商、両替商を営んでいた。.

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島津吉貴

島津 吉貴(しまづ よしたか)は、江戸時代中期の島津氏第21代当主。薩摩藩の第4代藩主。.

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島津久豪

島津 久豪(しまづ ひさたけ)は、江戸時代中期の薩摩藩士。知覧島津家(佐多氏)17代当主。.

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島津久龍

島津 久龍(しまづ ひさたつ)は、江戸時代前期から中期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津氏19代当主。.

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島津久茂

島津 久茂(しまづ ひさもち)は、江戸時代中期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津氏20代当主。.

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島津久房

島津 久房(しまづ ひさふさ、寛文13年4月10日(1673年5月26日) - 享保17年11月1日(1732年12月17日))は、江戸時代中期の薩摩藩士。島津光久の十七男。島津氏分家で準五男家とも言われる岩崎島津家祖。家格一所持格。幼名は千代徳。通称は主馬、求馬。諱は久房。島津継豊の側室・登免の父で、島津重年の外祖父である。組頭番頭を務め、小林郷地頭を兼任。.

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島津綱貴

島津 綱貴(しまづ つなたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。島津氏20代当主。薩摩藩3代藩主。.

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島津貴儔

島津 貴儔(しまづ たかとも、宝永5年11月23日(1709年1月3日) - 寛政3年3月10日(1791年4月12日))は、薩摩藩士。大隅郡垂水領主。垂水島津家9代目当主。家格は初め一所持、のち一門家。宝暦6年(1756年)の『嶋津家分限帳』では「嶋津備中 1万7104石」とある。 薩摩藩第4代藩主島津吉貴の三男で、第5代藩主島津継豊の同母弟。幼名は小源太。諱は久典、貴儔。通称は玄蕃、備中、備前。号は静山。 娘に島津久門(のちの重年)の正室・都美ほか。第8代藩主島津重豪と佐土原藩主島津忠持の外祖父及び第11代将軍徳川家斉の御台所・茂姫(近衛寔子)の曽祖父にあたる。.

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島津惟久

島津 惟久(しまづ ただひさ)は、日向佐土原藩の第6代藩主。.

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嶋田神社

嶋田神社(しまだじんじゃ)は、奈良県奈良市八島町にある神社。式内小社、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。.

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川原町 (前橋市)

川原町(かわはらまち)は、群馬県前橋市の町名。丁目表示のない川原町、川原町一丁目及び川原町二丁目が設置されている。郵便番号は371-0046。人口は2,430人、世帯数は926世帯、面積は1.39km2(2014年9月末現在)。.

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川口宗恒

川口 宗恒(かわぐち むねつね)は、江戸時代の旗本。通称は源左衛門。官位は従五位下摂津守。父は川口宗次、母は朽木宣綱の娘。妻は菅谷範重の娘。妹に服部信成室。子に宗直、菅谷政房(範重の子の菅谷政照養子)。 寛永17年(1640年)2月13日、徳川家光に拝謁。慶安元年(1648年)8月3日に書院番となり、承応元年(1652年)12月27日に父の遺跡を継ぎ、300石を弟・宗長に分与し、1700石を領する。寛文3年(1663年)9月3日に徒頭、寛文11年(1671年)3月26日に目付となる『寛政重修諸家譜』巻第五百七十四。 延宝8年(1680年)3月25日、長崎奉行(25代)となり、下総国印旛郡で500石を加増される。オランダ商館の医師のエンゲルベルト・ケンペルと親交があり、彼の著した「江戸参府旅行日記」には、宗恒のことを温厚な人物であるが、職務には厳しいと書かれている。貞享2年(1685年)には年間貿易額を制限する御定高制度(定高貿易法)の制定に携わった。 貞享3年(1686年)7月10日、貿易統制に対する褒章として下総国印旛郡・相馬郡で500石を加増され、計2700石を領する。元禄3年(1690年)12月26日、従五位下摂津守に叙任し、元禄6年(1693年)12月1日江戸町奉行(北町)となる。元禄11年(1698年)12月1日に職を辞し、旗本寄合席に列した。なお、領地は下総国香取郡阿玉台村、須賀山村、印旛郡吉田村、松虫村、吉高村、青菅村であった。元禄12年(1699年)12月5日に致仕し、宝永元年(1704年)5月8日に75歳で死去。.

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川口神社 (川口市)

川口神社(かわぐちじんじゃ)は、埼玉県川口市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。中央・幸栄・並木地区13町村の氏神であるとともに、川口の総鎮守として崇敬される境内説明板。。.

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川又常行

川又 常行(かわまた つねゆき、延宝5年〈1677年〉 - 没年不明)とは、江戸時代中期の浮世絵師。 川又派の祖。.

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川合定恒

川合 定恒(かわい さだつね)は、江戸時代中期の前橋藩、姫路藩家老。.

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川崎宿

川崎宿(歌川広重『東海道五十三次』より) 川崎宿(かわさきしゅく、かわさきじゅく)は、東海道五十三次の2番目の宿場である。 武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に置かれた。.

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川井藤左衛門

川井 藤左衛門(かわい とうざえもん)は、江戸時代中期の安房北条藩家老。藩財政再建のために手腕を奮ったが、苛烈な増徴を強行したことから農民一揆である万石騒動を招き、幕府の裁定により死罪に処された。.

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川勝広當

川勝 広當(かわかつ ひろまさ)は、江戸時代中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の6代当主。.

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川勝広達

川勝 広達(かわかつ ひろたけ)は、江戸時代前期から中期の旗本。知氏系重氏流川勝家の5代当主。.

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川勝広豊

川勝 広豊(かわかつ ひろとよ)は、江戸時代前期から中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の5代当主。.

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川勝広能

川勝 広能(かわかつ ひろよし)は、江戸時代前期から中期の旗本。元甲府藩臣。広恒流川勝家の2代当主。.

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川勝光隆

川勝 光隆(かわかつ みつたか)は、江戸時代前期から中期の旗本。隆房流川勝家の3代当主。.

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川勝益氏

川勝 益氏(かわかつ かずうじ)は、江戸時代前期から中期の旗本。継氏系重氏流川勝家の3代当主。.

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川勝隆尚

川勝 隆尚(かわかつ たかなお)は、江戸時代前期から中期の旗本。元館林藩臣。隆尚流川勝家の初代当主。.

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川勝隆雄

川勝 隆雄(かわかつ たかかず)は、江戸時代中期の旗本。隆尚流川勝家の3代当主。.

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川勝隆成

川勝 隆成(かわかつ たかなり)は、江戸時代前期から中期の旗本。隆房流川勝家の2代当主。.

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川勝隆房

川勝 隆房(かわかつ たかふさ)は、江戸時代前期から中期の旗本。隆房流川勝家の初代当主。.

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川勝隆明

川勝 隆明(かわかつ たかあきら)は、江戸時代前期から中期の旗本。隆尚流川勝家の2代当主。.

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川勝氏令

川勝 氏令(かわかつ うじよし)は、江戸時代前期から中期の旗本。継氏系重氏流川勝家の4代当主。.

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川越市

川越市(かわごえし)は埼玉県南西部に位置する人口約35万人の市である。埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぐ第3位の人口を擁し、中核市と業務核都市、保健所政令市に指定されている。旧武蔵国入間郡。.

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川越藩

川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。.

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巡見使

巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった。.

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工藤時光

工藤 時光(くどう ときみつ)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。出家後、工藤二郎右衛門入道と称する北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』P.76「工藤杲禅」の項(執筆:末木より子)。(「南家伊東氏藤原姓大系図」宝永5年(1708年)成立。編者は日向飫肥藩主伊東祐丕の家臣・山田宗武。飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料偏 古代・中世』(2006年)にも掲載。(以上は今野、2007年による。)にも掲載あり)。奥州工藤氏の一族。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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己斐

己斐(こい)は、広島県広島市西区の地域である。古の己斐町を前身とする歴史ある地域であり、さまざまな史跡が存在するが、地域西部には戦後になって造成されたニュータウンもある。 なお、ここでは町丁名に己斐を冠する地域について扱う。己斐上は一丁目から六丁目まであり、己斐大迫は一丁目から三丁目まであり、己斐中は一丁目から三丁目まであり、己斐西町の郵便番号は、己斐東は一丁目から二丁目まであり、己斐本町は一丁目から三丁目まである。当地域の人口は26,773人、世帯数は12,698世帯も同時に更新をお願いします。 -->2013年10月末現在、住民基本台帳調査による。。。.

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上室田町

上室田町(かみむろだまち)は、群馬県高崎市の地名。旧榛名町時代は、住所で群馬郡榛名町大字上室田の大字の次にくる地名。郵便番号は370-3346。面積は11.52km2(2012年現在).

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上内間木

上内間木(かみうちまぎ)は、埼玉県朝霞市の大字。旧新座郡上内間木村『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月。『埼玉大百科事典 第1巻』埼玉新聞社、1974年3月、p411。郵便番号は351-0001。.

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上磯郡

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上田藩

上田藩(うえだはん)は、江戸時代に信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)周辺を支配した藩。藩庁は上田城。.

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上青梨子町

上青梨子町(かみあおなしまち)は、群馬県前橋市の地名。郵便番号は370-3572。面積は0.52km2(2013年現在)。.

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上野忠親

上野 忠親(うえの ただちか、貞享元年(1684年) - 宝暦5年5月9日(1755年6月18日)は、江戸時代中期の鳥取藩士。通称は小平太、幼名は小平次、または新九郎。.

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上杉吉憲

上杉 吉憲(うえすぎ よしのり)は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩5代藩主。吉良義央の孫にあたる。.

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上杉宗憲

上杉 宗憲(うえすぎ むねのり)は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩6代藩主。.

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上杉知義

上杉 知義(うえすぎ ともよし)は、江戸時代中期の高家旗本。.

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上杉綱憲

上杉 綱憲(うえすぎ つなのり)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。出羽国米沢藩4代藩主。高家肝煎・吉良上野介義央の実子(長男)で、上杉氏に養子入りする。藩主在任中は、教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立する一方、財政窮乏を悪化させた。.

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上杉義陳

上杉 義陳 (うえすぎ よしつら)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。下総国内等に領地を有した。.

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上泉町 (前橋市)

上泉町(かみいずみまち)は、群馬県前橋市の地名。郵便番号は371-0007。2013年現在の面積は3.89km2。.

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上渡合町

上渡合町(かみどあいちょう)は、愛知県豊田市の町名。.

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与板藩

与板藩(よいた はん、旧字体:與板)は、越後国三島郡(現在の新潟県長岡市与板地域周辺)に所在した藩。藩庁は与板陣屋。藩主は初め牧野氏、その後幕領を経て井伊氏。家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高(表高)は初め1万石、1705年(宝永2年)井伊氏が藩主となった際に2万石となっている。.

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与板陣屋

与板(與板)陣屋(よいたじんや)はかつて越後国三島郡与板(現新潟県長岡市与板町与板甲)に所在した陣屋。与板藩の藩庁で後に与板藩が城主格となったため与板(與板)城(よいたじょう)とも呼ばれる。.

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丁亥

丁亥(ひのとい、ていがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの24番目で、前は丙戌、次は戊子である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の亥は陰の水で、相剋(水剋火)である。.

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丁銀

丁銀(ちょうぎん)とは、日本国内において主に商取引用として室町時代後期から明治維新まで流通した銀貨である。当時は単に銀と呼ばれ、例えば品位を下げた元禄丁銀は「元字銀」などと称呼された。丁銀という名称は『』の記述によれば棒状の銀塊の意味である銀(ちょうぎん)が挺銀(ちょうぎん)を経て変化したものとされる日本の貨幣(1972, 1973).。.

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両國梶之助 (初代)

両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1664年(寛文4年) - 1708年2月15日(宝永5年1月24日))は因幡国気多郡宝木村(現・鳥取県鳥取市気高町)出身の大相撲力士。本名は澤山彌太郎。現存する最古の勧進相撲の番付(1699年(元禄12年)・京都)および大坂で初めて行われた勧進相撲の番付(1702年(元禄15年))に大関として名を載せている。.

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並河誠所

並河 誠所(なみかわ せいしょ、寛文8年(1668年) - 元文3年3月10日(1738年4月28日))は、江戸時代中期に活躍した儒学者・地理学者。名は永。字は宗永、後に尚永。並川五一、並川五一郎とも称される。儒学者の並河天民は弟。 実地調査に6年間を費やして、畿内五カ国の地誌『五畿内志』を編纂した。調査の過程で数々の延喜式式内社の比定も行っている。.

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並木 (川越市)

並木(なみき)は、埼玉県川越市の大字。旧入間郡並木村。郵便番号は350-0023。.

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中宮

中宮(ちゅうぐう)は、日本の天皇の妻たちの呼称の一つ。.

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中富町

中富町(なかとみちょう)は、山梨県南巨摩郡に存在した町である。2004年(平成16年)9月13日に南巨摩郡身延町・西八代郡下部町と合併し、新・身延町が発足したことによって消滅した。.

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中山信敏

中山 信敏(なかやま のぶとし、延宝7年(1679年)- 宝永8年3月8日(1711年4月25日))は、常陸松岡藩の第6代当主、常陸太田藩の初代当主。常陸水戸藩附家老・中山家6代。 第3代当主・中山信治の七男。正室は小城藩主・鍋島直能の養女。子に娘(中山信昌正室)。官位は従五位下、備中守、備前守。通称内記、主殿。 元禄10年、兄信成の養子となる。元禄15年(1702年)12月18日、従五位下備中守に叙任。元禄16年(1703年)10月、5代当主の兄・信成が没したが嫡子・信順は幼少だったため、信成の養子となって同年12月に家督を相続した。宝永元年(1704年)11月15日、備前守に遷任。宝永4年(1707年)、居所が常陸国久慈郡太田に知行替えとなり、陣屋を築き、5,000石加増され、組付50騎の5,000石と合わせて2万5,000石を公称することとなる。正徳元年(1711年)死去。甥で養子となっていた信順が跡を継いだ。墓所は埼玉県飯能市の智観寺。.

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中山直房

中山 直房(なかやま なおふさ、明暦3年(1657年) - 宝永3年4月29日(1706年6月9日))は江戸時代の旗本。通称は勘解由(かげゆ)。旗本・中山直守の嫡男。正室は中山信治の娘。 長じて4代将軍・徳川家綱及び5代将軍・徳川綱吉に仕える。家譜によれば、綱吉の代、天和3年1月23日(1683年2月23日))より、幕府より火附人を召し取る役(のちの火附改)に任ぜられる。同日、父直守は幕府から盗賊追捕の役を任ぜられた(のちの盗賊改)。天和3年3月2日(1683年2月23日)、「賊徒多捕らへし」を賞せられて、黄金5枚を賜う。「鬼勘解由」とあだ名され、恐れられた。「鬼勘解由」は直守との説もある。元禄6年5月10日(1693年6月13日)、使番を兼任。同年12月18日、布衣着用を許される。元禄2年(1689年)に本所二ツ目に屋敷を拝領し、吉良邸討ち入り事件のときもそこに住んでいた。火事を装っての討ち入りであったが、鬼勘解由とあだ名された中山の屋敷が近所にあったため野次馬も出なかったとされる。元禄16年(1703年)、従兄弟の黒田直邦が常陸下館に大名として封ぜられたとき、現地にて城引渡し役を勤める。宝永元年8月11日(1704年9月9日))、先手組鉄砲頭に就任し、宝永3年4月29日(1706年6月9日))、没。享年50。.

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中川久忠

中川 久忠(なかがわ ひさただ)は、豊後岡藩の第6代藩主。 元禄10年(1697年)2月24日、第5代藩主・中川久通の三男として生まれる。兄の早世で世子となり、宝永5年(1708年)からは執政代行(名代)として父と共に二元政治を行なった。宝永7年(1710年)の父の死去により家督を継いだ。 正徳元年(1711年)、従五位下、内膳正に叙任する。藩政においては正徳3年(1713年)の大火、享保9年(1724年)の大旱魃による3万5000石の被害、享保17年(1732年)の雨、虫害による飢饉などで財政難に見舞われた。享保11年(1726年)には藩校・由学館の前身である輔仁堂を創設する。 寛保2年(1742年)10月13日に死去した。享年46。跡を養子の久慶が継いだ。 ひさたた *06 Category:1697年生 Category:1742年没.

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中川久通

中川 久通(なかがわ ひさみち)は、豊後岡藩の第5代藩主。 寛文3年(1663年)5月28日、第4代藩主・中川久恒の長男として生まれる。延宝5年(1677年)閏12月に従五位下、因幡守に叙任する。元禄8年(1695年)の父の死去により家督を継いだ。 元禄10年(1697年)、幕命により臼杵藩の稲葉知通と共に豊後一図絵(元禄郷帳)の付図を献納した。しかし藩政においては、菩提寺である碧雲寺の焼失、地震による倒壊、正室の早世など災難が相次ぎ、それによる出費がもとで財政難を招いた。このため、宝永5年(1708年)に家臣から半知借り上げを実施し、さらに三男・久忠と共に二元政治を開始して藩内の安定化に努めている。また、土木政策にも尽力した。 宝永7年(1710年)2月28日に死去した。享年48。跡を三男・久忠が継いだ。 ひさみち *05 Category:1663年生 Category:1710年没.

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中川久慶

中川 久慶(なかがわ ひさよし)は、豊後岡藩の第7代藩主。 宝永5年(1708年)3月8日、安芸広島藩主・浅野綱長の四男として生まれる。元文2年(1737年)閏11月25日、第6代藩主・中川久忠の養子となる。元文3年(1738年)12月18日、従五位下山城守に叙任する。寛保2年(1742年)12月19日、養父久忠の死去により、家督を継いだ。 藩政刷新を目指して目安箱を設置しようとするなど、藩政改革に意欲を示していたが、久忠の後を追うように寛保3年(1743年)10月30日に死去した。享年36。跡を養子の久貞が継いだ。 Category:浅野氏 ひさよし *07 Category:1708年生 Category:1743年没.

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中井甃庵

中井 甃庵(なかい しゅうあん、元禄6年9月29日(1693年10月29日) - 宝暦8年6月17日(1758年7月21日))は江戸時代中期の儒学者。懐徳堂二代学主。幼名は四郎、通称は忠蔵、名は誠之(さねゆき)、字は叔貴。諡号は貽範先生。贈正四位。.

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中井正清

中井 正清(なかい まさきよ、永禄8年(1565年) - 元和5年1月21日(1619年3月7日))は、江戸時代初期の大工頭。大和国出身。中井正吉の子。通称は藤右衛門。.

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中御門天皇

中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.

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中甚兵衛

大和川治水記念公園(柏原市・安堂交差点北西角)にある中甚兵衛像 中 甚兵衛(なか じんべえ、寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日(1730年10月31日))は江戸時代初期の農民。河内国河内郡今米村(現・大阪府東大阪市今米)の庄屋。次男として生まれた。 大和川の付け替え工事に奔走した人物であり、周辺の芝村の曽根三郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛らの協力を得て、江戸幕府に大和川付け替えや治水計画を50年近くにわたって嘆願し続け、最後は農民の身でありながら並み居る幕臣に交じって、付け替え工事を指揮した。 甚兵衛の父や家族、初期に付け替え嘆願に携わった関係者等の通説や、甚兵衛の子孫による調査とでは関係者名や活動に関する記述や調査結果が異なるなど混乱が見受けられており、十代目の子孫である中九兵衛が史料の発掘・調査と通説の訂正に取り組んでいる。.

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中郷町 (小松島市)

中郷町(なかのごうちょう)は、徳島県小松島市の町名。2016年2月末現在の人口は2,052人、世帯数は1,049世帯。郵便番号は〒773-0016。.

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中野四季の都市

中野四季の都市(なかのしきのまち)は、東京都中野区中野四丁目にあった警察大学校等跡地にできた再開発地域である(「囲町」、「なかの新都心」などと呼ばれることもある)。敷地内にはオフィスビル(当該地区は中野セントラルパークと呼ばれている)、防災公園、大学キャンパスなどができ、今後も再開発がなされる予定である。.

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中院通躬

中院 通躬(なかのいん みちみ)は江戸時代中期の公卿、歌人。中院家(家格は大臣家)第18代当主。.

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中院通茂

中院 通茂(なかのいん みちしげ)は、江戸時代前期から中期の公卿・歌人。権大納言中院通純の子。.

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中村国香

中村 国香(なかむら くにか/こっこう、宝永6年12月9日(1710年1月8日) - 明和6年3月13日(1769年4月19日))は、江戸時代中期の儒者。地誌『房総志料』の編纂で知られる。 国香は号で、名は貞治・定治。字は子蘭。通称は善右衛門・勝治郎(勝治郎は幼名とも)。別号に蕙洲。 上総国夷隅郡長者町(現在の千葉県いすみ市岬町長者)生まれ。幼少より学問を好み、同地出身の儒者・宇佐美灊水の門弟となった。成人後は近隣の若者の教育にあたった。 『房総志料』(全5巻)は、彼が房総各地を訪ねて記した紀行文で、史跡や寺社を詳述し、またさまざまな伝承を採録しており、地誌として重要である。 岬町長者下宿の地蔵堂境内に墓があり、いすみ市指定文化財となっている。.

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中村正辰

『義士四十七図 中村勘助正辰』(尾形月耕画) 中村 正辰(なかむら まさとき、万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘助(かんすけ)。.

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中新井村

中新井村(なかあらいむら)は、東京府北豊島郡に存在した村。.

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帷子川

帷子川(かたびらがわ)は、神奈川県横浜市を流れる二級河川。工業用水三級。.

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丸山神社 (大分市)

丸山神社(まるやまじんじゃ)は、大分県大分市今市に鎮座する神社(八幡宮)である。今市の上(うわ)町(今市西部)の小高い丘上に鎮座する。旧社格は村社。 社前を肥後(豊後)街道が通るが、当神社付近から660メートルに亘って平石が敷き詰められた古道は「参勤交代道路」として大分県の史跡に指定されている。.

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丸亀藩

丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続きそれぞれ藩主独特の城下町を形成し廃藩置県を迎えた。 なお生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領したため、生駒氏が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。.

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常在院

常在院(じょうざいいん)は、三重県桑名郡木曽岬町に所在する曹洞宗の寺院。山号は霊鷲山。.

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常磐津文字太夫

常磐津 文字太夫(ときわづ もじたゆう)は、常磐津節宗家家元の名跡。当代は十七世家元・九代目常磐津文字太夫。常磐津は古浄瑠璃時代からの流れをくみ取り、初世家元を、大阪道頓堀で最古の人形操りの芝居小屋(出羽座)を興行した太夫「伊藤出羽掾」、二世家元をその弟子で世話物浄瑠璃元祖ともいわれる「文弥の泣き節」で好評を博した「二代目岡本文弥」、三世家元を京都南座の前身「都万太夫座」を創立し、近松門左衛門、初代坂田藤十郎とくみ元禄期の全盛を迎えた「都越後掾」、四世家元をその弟子で一中節を創始した「都太夫一中(都一中)」、五世家元をその弟子の「宮古路豊後掾(都国太夫半中)」、そして、常磐津を創始した初代常磐津文字太夫を六世家元と数えている。.

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常陸松岡藩

松岡藩(まつおかはん)は、江戸時代に常陸国に存在した藩。藩庁は多賀郡下手綱(現在の茨城県高萩市下手綱)の松岡城に置かれた。越前松岡藩との区別から常陸松岡藩とも呼ばれる。 江戸時代初期に戸沢氏が4万石で入部し、約20年間存続した。戸沢氏転封後、松岡周辺は水戸藩領となり、附家老中山家(2万石)が居館を置いた。明治維新後の1868年、中山氏を藩主とする松岡藩が立藩され、廃藩置県まで続いた。.

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常楽寺 (下京区)

常楽寺(じょうらくじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の寺院。「常楽台」とも。親鸞の玄孫(やしゃご)の存覚(ぞんかく)が開基。.

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丹羽高寛

丹羽 高寛(にわ たかひろ)は、陸奥二本松藩の第5代藩主。丹羽家第6代。藩祖・丹羽長秀の六男で1500石の旗本となった丹羽長次の子孫・丹羽長道の長男として生まれる。官位は従四位下、左京大夫。 享保7年(1722年)3月28日、旗本・丹羽長道の嫡子として、将軍・徳川吉宗に初御目見する。享保13年(1728年)6月25日、先代藩主・秀延の死により、末期養子として家督を継いだ。同年7月1日、改めて徳川吉宗に御目見する。同年9月7日、従五位下左京大夫に叙任する。享保15年6月23日、陸奥国伊達郡・信夫郡の幕領5万石を預けられる。享保19年12月18日、従四位下に昇進する。寛保2年(1742年)11月17日、預かり地を幕府に返還する。 老臣の丹羽忠亮と共に綱紀粛正と文武の奨励に取り組み、儒者の桂山彩厳の推挙により、岩井田昨非を召抱える。 延享2年(1745年)5月9日に病気のため隠居し、長男・高庸に家督を譲った。隠居後、豁如と号する。 寛延2年(1749年)、昨非の献策により、二本松城前に藩士たちへの戒めのため「戒石銘碑」を彫らせた。 と刻まれており、藩政改革と綱紀粛正の指針を示した。 明和6年(1769年)に死去した。.

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丹羽薫氏

丹羽 薫氏(にわ しげうじ)は、江戸時代中期の大名。越後高柳藩の第2代藩主、播磨三草藩の初代藩主。氏次系丹羽家7代。 元禄8年(1695年)、先代藩主・丹羽氏音の兄・丹羽氏右の長男として生まれる。元禄15年(1702年)に美濃岩村藩主だった氏音がお家騒動により高柳藩へ減転封された後、宝永2年(1705年)に氏音の末期養子となって1万石を新たに与えられ、跡を継いだ。宝永6年(1709年)3月7日に叙任する。享保4年(1719年)に奏者番、元文4年(1739年)8月に大坂城定番に任じられ、所領を河内・播磨・美作に移される。 延享3年(1746年)、越後高柳藩から播磨三草藩に転封となる。 宝暦7年(1757年)5月22日に死去した。享年63。跡を長男の氏栄が継いだ。墓所は東京都杉並区の海雲寺。 *01 Category:越後国の藩主 しけうし Category:1695年生 Category:1757年没.

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丹羽長守

丹羽 長守(にわ ながもり、寛永20年(1643年) - 享保11年4月7日(1726年5月8日))は、江戸時代の旗本。丹羽長吉の子。母は赤井忠泰の娘。幼名は吉松、通称は権十郎、左近、五左衛門。官名は遠江守。妻は三宅重貞の娘。子に長道、一色直賢、山下勝行がいる。.

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丹羽氏音

丹羽 氏音(にわ うじおと、延宝6年(1678年) - 宝永2年閏4月7日(1705年5月29日))は、美濃岩村藩第5代藩主、越後高柳藩の初代藩主。氏次系丹羽家6代。 岩村藩第2代藩主・丹羽氏定の弟・丹羽信氏の次男。正室は郡上藩主・井上正任の娘。官位は従五位下・和泉守。幼名は庄之助。 貞享3年(1686年)、第4代藩主・丹羽氏明の養子となり家督を継ぐ。その後、側用人に非門閥の山村瀬兵衛を抜擢し、財政改革に当たらせたが、山村への反対派がその排除を画策し、幕府に山村の専横を訴える騒動を起こす。裁定結果は山村の無罪となったが、氏音はその内乱を収められなかったとして9,000石没収・閉門・越後国高柳藩1万石への移封を命じられた。宝永2年(1705年)閏4月7日に子女なく没し、跡は甥で養子の薫氏が継ぎ、後に播磨三草藩主となって家は存続した。 法号は後勝院傑岑良英。墓所は東京都杉並区の海雲寺。 Category:岩村藩主 Category:越後国の藩主 うしおと Category:恵那市の歴史 Category:1678年生 Category:1705年没.

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丹絵

丹絵(たんえ)とは、江戸時代に描かれた浮世絵の彩色技法のひとつである。.

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丹生川上神社下社

丹生川上神社下社(にうかわかみじんじゃしもしゃ)は、奈良県吉野郡下市町にある神社。式内社(名神大社)及び二十二社(下八社)の論社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 社名は川上村の丹生川上神社上社に対するものである。.

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七五三

七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社などで「七五三詣で」を行いご報告、感謝、祈願を行う奉告祭。.

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七日市藩

七日市藩(なのかいちはん)は、上野甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。藩庁は七日市陣屋(現在、跡地は群馬県立富岡高等学校となっている)。遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が現地に現存する。以下はすべて個人宅に移築されている。大手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)である。.

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市川小太夫

市川 小太夫(いちかわ こだゆう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は澤瀉屋。定紋は四つ澤瀉。.

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市川團十郎

三升 杏葉牡丹 鎌輪ぬ 市川 團十郞(いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎)は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。 昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。--> -->.

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市川團十郎 (2代目)

二代目 市川團十郎(にだいめ いちかわ だんじゅうろう、元禄元年10月11日(1688年11月3日) - 宝暦8年9月24日(1758年10月25日))は、正徳から享保年間にかけて江戸で活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。俳名は三升、才牛斎、栢莚、雛助。.

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市川團蔵 (2代目)

二代目 市川團蔵(にだいめ いちかわ だんぞう、宝永7年〈1710年〉 - 元文5年10月20日〈1740年12月8日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。俳名市紅、屋号は三河屋。紋は三升。ただし享保元年(1716年)生れで延享3年6月9日(1746年7月26日)死去とする説もある。また市川團三郎を名乗っていた時期もあるという。 初代市川團蔵の次男で二代目市川團之助の弟。初名は市川市三郎と名乗り、父團蔵のもとで修業していたがのち旅回りに出る。元文5年4月、父の死で急遽江戸に帰り、江戸の舞台を勤め、同年7月には二代目市川團蔵を襲名するが10月に31歳で死去。名優の子として期待されていたが十分な活躍をすることもなく早世した。墓所は東京都杉並区の法照寺。なお團蔵の名跡は義弟の二代目市川團三郎が継いでいる。.

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市川團蔵 (3代目)

三代目 市川團蔵(さんだいめ いちかわ だんぞう、宝永6年〈1719年〉 - 明和9年6月24日〈1772年7月24日〉)とは、江戸時代の歌舞伎役者。屋号は三河屋、俳名は市紅。紋は丸に三引・三升。 森田座の手代又兵衛(坂東又九郎の親族筋)の子。享保15年(1730年) に狂言作者坂東田助の養子となり、坂東次郎三郎を名乗る。田助の師匠坂東又九郎の門下に入ったが、間もなく初代市川團蔵の門下に転じ、市川次郎三と改名。元文4年(1739年)に初代の養子となり、初代の弟が名乗っていた名跡市川團三郎を襲名するも、翌年の元文5年4月に養父の初代團蔵、10月には養家の兄の二代目團蔵が死去したのに伴い、同年11月に中村座『宮柱太平記』の村上彦四郎役で三代目團蔵を襲名した。のち延享元年(1744年)大坂に上り、中の芝居に出る。寛延元年(1748年)には京都に行き染松七三郎座に出演、以後上方にとどまって舞台を勤めた。宝暦11年(1761年)、十八年ぶりに江戸に戻り森田座に出演する。明和7年(1765年)再び大坂に行き、翌年江戸に戻る。明和9年1月、中村座での出演を最後に舞台に立つことなく、同年6月に死去した。 江戸の役者であったが、その生涯において江戸よりも上方の舞台を長く勤めている。二代目市川團十郎に似た芸風だといわれ、武道、実事、荒事を能くし、敵役も兼ねた。 四代目は三代目の位牌養子(未亡人の養子)の三代目市川團三郎が四代目市川團蔵を襲名。.

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市村羽左衛門 (8代目)

八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日〈1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号は菊屋、俳名は可江。雅号橘中庵。 芝居茶屋主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞を襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。 座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門、三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。.

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市橋直方

市橋 直方(いちはし なおかた、元禄2年(1689年)- 寛延3年9月11日(1750年10月10日))は、近江仁正寺藩の第4代藩主。仁正寺藩市橋家5代。 越後新発田藩主・溝口重雄の次男。母は嶋氏。正室は山上藩主・稲垣重定の娘。側室に和田氏、松沢氏。子は直好(三男)、松平康孝(五男)、直記(六男、市橋直挙養子)、娘(市橋直挙正室)。官位は従五位下。壱岐守。 新発田にて生まれる。幼名は大助。通称は主計、兵部。宝永2年(1705年)4月21日、先代藩主・市橋信直の養嗣子となる。宝永3年4月28日、将軍徳川綱吉にお目見えする。享保5年(1720年)4月26日、養父信直の死去で跡を継いだ。同年12月18日、従五位下壱岐守に叙任した。享保15年3月28日、大番頭に就任した。享保18年5月11日、辞職する。藩政においては仏教に対して信心深かったことから、領内の多くの廃寺を復興している。享保12年(1727年)頃から病に倒れて療養し始める。 元文元年(1736年)5月25日、養嗣子の直挙に家督を譲って隠居した。元文2年11月13日、剃髪して享山と号した。寛延3年(1750年)9月11日、江戸で死去した。享年62。法号は恭安院殿元徳享山大居士。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。 なおかた Category:溝口氏 *04 Category:新発田藩の人物 Category:1689年生 Category:1750年没.

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万寿寺殿

万寿寺殿(まんじゅじどの、万治2年3月1日(1659年4月22日) - 宝永3年7月4日(1706年8月11日))は第4代仙台藩主伊達綱村の正室。江戸幕府老中である小田原藩主稲葉正則の娘。俗称は仙姫。法謚は万寿寺殿宝蓮浄晃尼大姉。.

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万沢

万沢(まんざわ)は、山梨県南巨摩郡南部町の地名である。郵便番号は409-2103。.

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三原城

三原城(みはらじょう)は、現在の広島県三原市にあった日本の城。国の史跡。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(172番)に選定された。.

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三の丸神社

三の丸神社(さんのまるじんじゃ)は、大阪府岸和田市にある神社。.

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三宅尚斎

三宅 尚斎(みやけ しょうさい、寛文2年1月4日(1662年2月22日) - 元文6年1月29日(1741年3月16日))は、江戸時代前期の儒学者。名は重固。小字は儀左衛門、後に丹治と改める。佐藤直方・浅見絅斎と共に山崎闇斎門の三傑と称せられる。.

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三宅康高

三宅 康高(みやけ やすたか)は、三河田原藩の第4代藩主。田原藩三宅家7代。 宝永7年(1710年)4月4日、第3代藩主・三宅康徳の長男として生まれる。享保11年(1726年)12月18日、従五位下・備前守に叙位・任官する。延享2年(1745年)8月8日、父の隠居により家督を継いだ。 藩財政再建を目指すが、火事などが相次ぎ、さらに日光祭礼奉行や江戸城門番などの公役などによる出費も小藩における財政圧迫をなして再建はならなかった。宝暦5年(1755年)8月28日、婿養子で従弟の康之に家督を譲って隠居する。9月18日には剃髪して、巣鴨の下屋敷に居住した。 その後は茶人として活動した。もともと文化人としての才能があったため、南坊流10世の宗匠となり、諸大名の茶道の師匠となっている。寛政3年(1791年)3月14日、江戸で死去した(江戸幕府の死亡届では3月21日である)。享年82。 やすたか 三04 Category:江戸時代の茶人 Category:1710年生 Category:1791年没.

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三宅康雄

三宅 康雄(みやけ やすお)は、三河田原藩の第2代藩主。田原藩三宅家5代。.

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三宅藤九郎

三宅藤九郎(みやけ とうくろう)は、能楽狂言方の名跡の一つ。.

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三富村

三富村(みとみむら)は、かつて山梨県東山梨郡に存在した村。村域の北部は秩父多摩甲斐国立公園に指定されている。 村名は三箇村が合併して富むようにとの願いを込めたもの。 2005年3月22日、隣接する山梨市・牧丘町と新設合併し、新市制による山梨市となった。現在は山梨市三富地区となっている。.

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三島神社 (台東区)

三島神社(みしまじんじゃ)は、東京都台東区下谷三丁目にある神社。本社は伊予国一宮で日本総鎮守と称される愛媛県今治市(大三島)の大山祇神社である。.

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三上千那

三上 千那(みかみ せんな、慶安4年(1651年) - 享保8年4月17日(1723年5月10日))は、江戸時代中期の僧・俳人、近江蕉門。浄土真宗本願寺派の堅田本福寺11世住職、名は明式、葡萄坊・宮山子・千那堂官江などと号す。近江国の生まれ。.

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三井八郎右衛門

三井 八郎右衞門(みつい はちろうえもん)は三井家総領家である北家の当主が代々名乗った名前。.

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三保の松原

三保の松原と富士山 上空から見た三保の松原と富士山 歌川広重の描いた三保の松原 三保の松原(みほのまつばら)は、静岡県静岡市清水区の三保半島にある景勝地。その美しさから日本新三景(大沼、三保の松原、耶馬溪)、日本三大松原(三保の松原、虹の松原、気比の松原)のひとつとされ、国の名勝に指定されている。また、ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産に登録されている。 なお、「三保の松原」は名勝としての指定名称及び世界文化遺産・構成資産一覧では「三保松原」と表記され、表記にゆれが存在する。新聞等ではハンドブックにより「三保の松原」で表記を統一しているところもある。.

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三和村 (愛知県幡豆郡)

三和村(みわむら)は、かつて愛知県幡豆郡にあった村である。 現在の西尾市の東北部に該当し、矢作川南岸、矢作古川東岸の村であった。.

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三光神社

三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園にある神社である。 天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀る。.

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三国志

三国志(さんごくし、、、、転写: ilan gurun-i bithe)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。.

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三箇菅原神社

三箇菅原神社(さんがすがわらじんじゃ)は大阪府大東市三箇にある神社。.

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三熊野神社 (花巻市)

三熊野神社(みくまのじんじゃ)は、岩手県花巻市に鎮座する神社である。正式名称は熊野神社(くまのじんじゃ)。.

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三重塔

三重塔(さんじゅうのとう)は、仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)をおさめる仏塔の形式の一種。同種のものに五重塔などがある。.

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三枝守輝

三枝 守輝(さいぐさ もりてる、正保4年(1647年) - 宝永元年10月18日(1704年11月15日))は江戸時代の旗本。父は三枝守全、母は小出三尹の娘による。本文は1004頁、コマ番号は511頁。。初名は守真(もりざね)、通称は源八郎、内近、右近。官位は従五位下、能登守。法名は宗恕。妻は九鬼隆季の娘、後妻は平松時量の娘。子は源八郎(夭折)、三枝守英(時量の娘との間の子)、女子。.

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三条実顕

三条 実顕(さんじょう さねあき、宝永5年5月29日(1708年7月16日) - 安永元年12月19日(1773年1月11日))は、江戸時代中期の公卿。主に中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三代にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで進んでいる。父は左近衛中将三条公兼。母は内大臣広幡豊忠の娘。妻は三条公充の娘。子に右大臣三条季晴、権大納言河鰭実祐(河鰭季満養子)、権大納言中山忠尹室、養子に権大納言三条西延季がいる。初名は利季。 正徳4年(1714年)に叙爵。享保4年(1719年)に叔父である三条公充の養子に入った。三条家の嫡男として早いスピードで昇進し、侍従・左近衛中将・権中納言・踏歌節会外弁・権大納言などをへて、寛延2年(1749年)に右近衛大将、内大臣となった。翌年辞職。宝暦4年(1754年)には従一位・右大臣に任じられるも辞職する。.

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三条実治

三条 実治(さんじょう さねはる、慶安3年12月6日(1651年2月6日)‐享保9年8月12日(1724年9月28日))は、江戸時代前期から中期の公卿。 おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三代にわたり仕え、従一位左大臣まで昇る。初名は季房・実通といった。実治は元禄2年(1689年)から薨去までの名前。号は暁心院観照。父は右大臣三条公富。母は不詳。子に左近衛中将三条公兼・権大納言三条公充、娘に彦根藩主井伊直通室がいる。 明暦元年(1655年)に叙爵。清華家三条家の当主として速いスピードで昇進し、寛文8年(1668年)には従三位となり公卿に列している。権中納言、権大納言、神宮伝奏、踏歌節会外弁などを歴任。天和3年(1683年)には霊元天皇中宮鷹司房子の中宮大夫となり、貞享2年(1685年)には右近衛大将を兼務。貞享4年(1687年)に中宮大夫を辞した。元禄6年(1693年)に内大臣に就任したが、同年のうちに右近衛大将と内大臣を辞職。さらに宝永元年(1704年)には右大臣となったが、やはりすぐに辞職している。宝永2年(1705年)に従一位を授与された。正徳5年(1715年)に左大臣となったが、やはりすぐに辞職。享保9年(1724年)に薨去した。享年75。.

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三条公充

三条 公充(さんじょう きんあつ、元禄4年1月23日(1691年2月20日) - 享保11年9月17日(1726年10月12日))は、江戸時代中期の公卿。東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の二代にわたり仕えたが、若くして薨去したため、三条家の当主でありながら官位は従二位権大納言止まり。父は左大臣三条実治。兄に左近衛中将三条公兼。妻は彦根藩主井伊直興の娘。娘に三条実顕室。 兄公兼が元禄13年(1700年)に突然官位を止められたため、かわって三条家の当主として叙爵。朝廷へ出仕することとなった。以降累進して、宝永2年(1705年)に従三位となり公卿となる。権中納言や踏歌節会外弁を経て、享保2年(1717年)に権大納言に任じられたが、享保4年(1719年)に辞職した。享保11年(1726年)に36歳の若さで薨去。甥で公兼の子実顕が三条家を相続した。.

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三沢村清

三沢 村清(みさわ むらきよ)は、仙台藩一門第十一席・前沢三沢氏第3代当主。.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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三浦為隆

三浦 為隆(みうら ためたか、万治2年(1659年) - 享保17年11月8日(1732年12月24日))は、紀州藩家老三浦家3代当主。 父は三浦為時。母は小笠原清政の娘。弟は三浦為豊、中川元宣、垣屋為淳。妹は安藤直清室。 子は三浦為庸、三浦為恭室。養子は三浦為恭。幼名権五郎。通称玄蕃、大膳亮。官位は従五位下長門守、遠江守。.

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三浦為恭

三浦 為恭(みうら ためやす、宝永3年(1706年) - 明和4年7月14日(1774年8月8日))は、紀州藩家老三浦家4代当主。 養父は三浦為隆。実父は為隆の弟の中川元宣。正室は三浦為隆の娘。養子は三浦為脩。幼名虎太郎。諱は為親、為恭。通称左近将監。官位は従五位下長門守、遠江守。.

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下室田町

下室田町(しもむろだまち)は、群馬県高崎市の地名。旧榛名町時代は、住所で群馬郡榛名町大字下室田の大字の次にくる地名。郵便番号は370-3342。面積は8.8km2(2012年現在).

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下小田中

下小田中(しもこだなか)は、神奈川県川崎市中原区の町名。現行行政町名は下小田中一丁目から六丁目で、1990年(平成2年)11月23日に住居表示が施行されている。郵便番号は211-0041。.

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下山大工

下山大工(しもやまだいく)は、甲斐国巨摩郡下山村(山梨県南巨摩郡身延町下山)の大工集団。.

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下瀬隆十

下瀬 隆十(しもせ たかとお)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。初めは周防国下松藩(徳山藩)士だったが、後に長州藩士となる。下瀬氏10代当主。.

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下部町

下部町(しもべちょう)は、山梨県西八代郡にあった町。2004年(平成16年)9月13日に南巨摩郡身延町・中富町と合併し、改めて南巨摩郡身延町が発足したことによって消滅した。.

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下間仁田

下間仁田(しもまにた)は、群馬県安中市の地名。郵便番号は379-0122。面積は2.38km2(2010年現在)。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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下里知足

下里知足(しもざと ちそく、寛永17年11月18日(1640年12月30日)? - 宝永元年4月13日(1704年5月16日))は、江戸時代前期の俳人。通称は勘兵衛、のちに金右衛門。諱は吉親、法名は寂照。子に下郷蝶羽、下郷亀世らがいる。 尾張国鳴海村の庄屋をつとめる傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら多くの俳人・文人と交流。鳴海六俳仙の一人。現存する西鶴の書翰7通のうちの4通は知足に宛てたものである。.

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下愛子村

下愛子村(しもあやしむら)は、江戸時代から1889年まで宮城県宮城郡にあった村である。合併により広瀬村の一部となり、宮城村・宮城町を経て、現在は宮城県仙台市青葉区の一部である。 この記事では後の下愛子地区についても記述する。.

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一升ヶ森

一升ヶ森(いっしょうがもり)は、徳島県阿南市にある山である。標高は173.5m。.

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一宮町 (山梨県)

一宮町(いちのみやちょう)は、山梨県中部に存在した町である。 2004年10月12日に一宮町を含む周辺6町村と合併して笛吹市となり消滅した。.

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一中節

一中節(いっちゅうぶし)は浄瑠璃の一種。また古曲の一。国の重要無形文化財。 初代都太夫一中(1650年~1724年)が元禄から宝永ごろにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指したところに特色がある。三味線は中棹を用い、全体的に上品かつ温雅、重厚を以てその特徴とする。 当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人にひろく愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、ふたたび主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている。一中節自体ははやい時期に細い流れとなってしまったが、ここから出た豊後節および豊後節三流が邦楽に与えた影響ははかりしれない。.

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一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。 遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。.

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一ノ矢八坂神社

一ノ矢八坂神社(いちのややさかじんじゃ)は、茨城県つくば市玉取に鎮座する神社。近代社格制度に基づく旧社格は郷社であった。ニンニク祭りと通称される、祇園祭を催行する。 付近にある筑波大学一の矢学生宿舎の名称はこの神社に由来する。.

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一分金

一分金(いちぶきん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種。 金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年、『三貨図彙』には一歩判と記載されている。一方『』および『大日本貨幣史』などの古銭書には一分判金/壹分判金(いちぶばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる。また天保8年(1837年)の一分銀発行以降はこれと区別するため「一分金」の名称が普及するようになった。.

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一関藩

一関藩(いちのせきはん)は、江戸時代の藩の一つ。陸奥磐井郡一関(現在の岩手県一関市)に藩主居館を置いた。この地に陣屋を置いた大名家は、いずれも仙台藩・伊達氏の内分分知の分家に当たる一関伊達家と田村家の2家である。前者は11年で改易・廃藩となったが、後者は180年余り続いて明治維新を迎えた。以下、後者の田村家一関藩を主として記述する。.

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一柳直堅

一柳 直堅(ひとつやなぎ なおかた)は、伊予小松藩世嗣。第2代藩主・一柳直治の三男(嫡男)。 庶長兄・一柳頼徳の養嗣子となったが、家督を相続することなく早世した。.

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一柳直治

一柳 直治(ひとつやなぎ なおはる)は、江戸時代前期の大名。伊予小松藩の第2代藩主。.

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一柳頼徳

一柳 頼徳(ひとつやなぎ よりのり)は、伊予小松藩の第3代藩主。 直卿(なおあきら)の名でも呼ばれる。能書家として知られた。.

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一柳末礼

一柳 末礼(ひとつやなぎ すえひろ)は、江戸時代前期の大名。播磨小野藩の第3代藩主。.

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一条冬経

一条 冬経 (いちじょう ふゆつね )は、江戸時代中期の公卿。霊元天皇の第一の側近であり、近衛基熙と権勢を争った。初名は内房(うちふさ)、晩年には兼輝(かねてる)と称する。官位は従一位・関白及び摂政。円成寺と号した。父は、右大臣一条教輔。.

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一条兼香

一条 兼香(いちじょう かねよし/かねか、元禄5年12月16日(1693年1月12日)-寛延4年8月2日(1751年9月21日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇の側近として活躍し、従一位関白左大臣・太政大臣を歴任して14年にわたって朝廷の中枢にあった。「後円成寺」と号する。.

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一条教輔

一条教輔(いちじょう のりすけ)は江戸時代前期の公卿。名は始め伊実、次いで教良。父は一条昭良(後陽成天皇第9皇子)。正室は備前国岡山藩主池田光政の娘(徳川家光養女)・通姫。正二位・右大臣。弟に醍醐家初代の冬基、子に従一位・摂政・関白冬経(兼輝)がある。.

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平岡等庵

平岡 等庵(ひらおか とうあん、宝暦9年(1759年)- 天保6年(1835年)2月)は、日本の医師、教育者。名は正敬森納著『因伯の医師たち』169頁。字は子善。本姓は足立。.

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平岡町 (弘前市)

平岡町(ひらおかまち)は、江戸期から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8367。住民基本台帳に基づく2017年6月1日現在の人口は377人、世帯数は155世帯、面積は0.08261385km2。.

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平島義宜

平島 義宜(ひらしま よしのり)は、江戸時代中期の足利氏の支流で、8代平島公方。7代平島公方・平島義武の嫡男。石高は140石、後に1190石。.

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平住専安

平住 専安(ひらずみ せんあん、生年不詳 - 享保19年8月7日(1734年9月4日))は、元禄年間から宝永年間にかけて伊予吉田藩(伊達氏、現・愛媛県宇和島市吉田町)にて御殿医を勤めた儒医で、儒学者、朱子学者(崎門学脈(山崎闇斎)、浅見絅齋-山本復斎門下)、本草学者でもあった。名は「周道」。字は「専安」。号は「専庵」、「専菴」、「建春山人」、「橘墩」、「橘館」、「静斎」、「季直」と称した。.

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平田靱負

平田 靱負(ひらた ゆきえ)は、江戸時代中期の薩摩藩家老。宝暦3年(1753年)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者。父は平田正房、母は島津準3男家の島津助之丞忠守の娘。諱は宗武のち、宗輔、正輔。通称は初め次郎兵衛のち、新左衛門、掃部、靱負。公的には病死だが、宝暦治水の責任をとって自害したとされる。後に、孫の平田袈裟次郎が家督相続する(「平田靱負関係資料」参照)。その時の石高は533石(「嶋津家分限帳」参照)。.

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平田正房

平田 正房(ひらた まさふさ、延宝元年12月6日(1674年1月12日) - 寛保2年3月28日(1742年5月2日))は、薩摩藩鹿児島城下士。家格は寄合。本姓は桓武平氏。平田宗勝にはじまる平田家の7代目当主。薩摩藩家老平田宗正の孫で、薩摩藩家老平田靱負の父。諱は初め宗朋、のち宗房、正房。幼名は平三(あるいは平蔵)。通称は初め兵十郎、のち新左衛門。平田宗勝にはじまる同家は正房の代で、家格寄合に昇格したという。本人は家老にはならなかったが、勘定奉行まで昇進。.

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平野 (大阪市)

平野(ひらの)は、大阪府大阪市平野区の地区名。広義には平野区全体を指す場合もあるが、地区名としてはかつて環濠都市・自治都市を形成していた平野郷の本郷7町だった地区を指す。 本項では大阪市編入以前の東成郡平野郷町(ひらのごうちょう)についても述べる。.

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平野 (江東区)

平野(ひらの)は、東京都江東区の町名。現行行政地名は平野一丁目から平野四丁目。郵便番号は135-0023。.

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平野金華

平野金華(ひらの きんか、元禄元年(1688年) - 享保17年7月23日(1732年9月11日))は江戸時代中期の漢学者、漢詩人。名は玄中、字は子和、通称は源右衛門。諡号は文荘先生。号は出身地陸奥国の金華山に因む若水俊「平野金華の生涯と思想」『茨城女子短期大学紀要』第13号、1986年。 荻生徂徠門下の1人で、不真面目で攻撃的な性格からしばしば衝突を起こしたが、その詩才は周囲にも認められた。詩文面でなく、徂徠の経学面での継承も目指したが、著書が散逸しており、その具体的な思想は伝わらない。.

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平戸城

平戸城天守図、17世紀 平戸城の航空写真(1977年撮影・国土航空写真) 平戸城(ひらどじょう)は、長崎県平戸市にあった城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。別名は亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城。.

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平戸市

北松浦半島側から見た平戸市中心部 平戸城から見た平戸瀬戸(対岸が北松浦半島) 平戸市(ひらどし)は、長崎県北西部の平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港だった。 旧平戸市は、平戸島と度島などの離島を行政区域としていたが、2005年10月1日に周辺の北松浦郡田平町・生月町・大島村と合併(新設合併)して新たに平戸市となった。これにより本土にも市域が拡大した。市役所は旧平戸市役所の建物が引き続き使用されている。.

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平戸藩

平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。.

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幸子女王

幸子女王(ゆきこじょおう、延宝8年9月23日(1680年11月14日) - 享保5年2月10日(1720年3月18日))は、江戸時代の日本の皇族。東山天皇の中宮。女院号は承秋門院(しょうしゅうもんいん)。幼称は英宮。.

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幸野溝

幸野溝(こうのみぞ)は熊本県球磨郡湯前町から錦町までの水田1,900ヘクタールを潤す球磨地方を代表する農業用水路。.

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幾世橋村

幾世橋村(きよはしむら)は、1953年まで福島県浜通りに存在していた村。1896年以前は標葉郡、1896年以後は双葉郡に属した。現在の浪江町北東部にあたる。.

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乾和三

乾 和三(いぬい かずみつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。土佐藩家老。家格は知行4,500石。.

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乾正房

乾 正房(いぬい まさふさ、生年不詳 - 1721年11月14日(享保6年9月25日))は、江戸時代前期の土佐藩上士。 通称は初め市郎兵衛(世襲名)を称し、のち乾七郎左衛門と改めた。家紋は「榧ノ内十文字」。.

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乾正方

乾 正方(いぬい まさかた、生年不詳 - 1715年7月16日(正徳5年6月16日))は、江戸時代前期の土佐藩上士。禄高は500石。板垣支流乾氏の第4代。幼名は彦市で、通称は庄右衛門。家紋は「榧ノ内十文字」。.

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乃木傳庵

乃木 傳庵(のぎ でんあん  寛永15年(1638年)- 享保5年2月5日(1720年3月13日)は江戸時代の武士。長門長府藩の江戸定府の藩主侍医。後に乃木希典を輩出する長府藩士家の乃木氏祖。  .

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久世広寛

久世 広寛(くぜ ひろのり/ひろとお、宝永元年(1704年) - 明和7年1月24日(1770年2月19日))は、江戸時代の旗本。久世広隆の子。幼名は長吉。官位は従五位下長門守。室は大村純長の娘。継室は内藤正友の娘。子に織田信倉室、久世広景。 享保2年(1717年)11月2日、家督を継ぎ、齢14歳の時、将軍徳川吉宗に拝謁する。定火消になり、寛保元年(1741年)9月21日、百人組組頭となり、延享2年(1745年)9月小姓組番頭に昇進し、同年10月18日従五位下長門守に叙任された。その後は御書院番頭、宝暦9年(1759年)10月21日駿府城代(~明和元年(1764年)6月24日)となるなどし、明和7年(1770年)1月24日に67歳で没する。 ひろのり Category:江戸幕府旗本 Category:1704年生 Category:1770年没.

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久世広賢

久世 広賢(くぜ ひろかた、寛永17年(1640年) - 正徳2年7月17日(1712年8月18日))は、江戸時代中期の旗本。久世広当の次男。母は正室井上正就の娘。五郎八、三郎右衛門。正室は鳥居忠春の娘。子に久世広隆、久世広貞、川勝広英継室。兄弟に内藤重頼室、久世広重(父に先立って没す)、久世広次(久世広之養子)、養女(大久保忠当の娘、石野氏照室)。 万治3年(1660年)12月23日に父の遺跡を継ぎ、寄合に列する。元禄11年(1698年)3月7日、領地を駿河国冨士郡、駿東郡のうちに移される。宝永4年(1707年)7月21日、隠居ししたのち岫山と号する。正徳2年、73歳で没する。 ひろかた Category:江戸幕府旗本 Category:1640年生 Category:1712年没.

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久世重之

久世 重之(くぜ しげゆき、万治2年(1659年) - 享保5年6月27日(1720年8月1日))は、江戸時代中期の大名、江戸幕府老中。官位は従四位下。官名は、はじめ讃岐守のち大和守。下総関宿藩第2代藩主、備中庭瀬藩主・丹波亀山藩主、三河吉田藩主、下総関宿藩(再封)初代藩主。関宿藩久世家2代。 関宿藩初代藩主・久世広之の三男。正室は大野藩主・土井利房の娘。子に暉之(四男)、広籌(五男)、広般(九男)、娘(松平康員正室)、娘(石川総慶正室)ら。.

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久世氏

久世氏(くぜし)は、下総国関宿藩(現・千葉県野田市)藩主、譜代大名の家系である。.

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久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

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久礼八幡宮

久礼八幡宮(くれはちまんぐう)とは、高知県高岡郡中土佐町にある八幡宮。旧社格は県社。 安和(現・須崎市)、久礼、上ノ加江(中土佐町)の総鎮守で、海の守護神として古より漁業関係者に崇敬されている。.

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久留島光通

久留島 光通(くるしま てるみち、1704年(宝永元年)- 1764年10月13日(明和元年9月18日))は、豊後国森藩の第5代藩主。 2500石を領した旗本・久留島通貞(第2代藩主・久留島通春の次男)の次男。正室は木下俊量の娘。子に久留島通祐(五男)、山崎義俊(六男、筑前秋月藩主、黒田長堅父)、久留島通同(七男)、娘(青木一新正室)、娘(渡辺信綱継室)、娘(高井綽房室)、娘(青木直美正室)、娘(久留島通高室)、娘(高井綽房養女)。初名は通綜。通称は靭負、帯刀。官位は従五位下、信濃守。 世嗣だった通重の死去により、正徳5年(1715年)4月27日、先代藩主・通政の養嗣子となる。同年5月28日、将軍徳川家継にお目見えする。享保4年(1719年)12月25日、養父通政の死去に伴って家督を継いだ。享保5年12月18日、従五位下信濃守に叙任する。享保17年(1732年)、飢饉が藩内を襲うと、幕府より2000両を借用して対処した。その後、藩財政再建のため、上米制を中心とした藩政改革を行なった。駿府城番を命じられる。寛延3年(1751年)3月1日、大番頭に就任する。宝暦8年(1759年)11月18日、伏見奉行に就任する。明和元年(1764年)9月18日に61歳で死去し、跡を五男・通祐が継いだ。法号は泰竜院。 てるみち *05 Category:伏見奉行 Category:1704年生 Category:1764年没.

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久留島通孝

久留島 通孝(くるしま みちたか、生没年不明)は、豊後国森藩の世嗣。因幡国鳥取藩主・池田光仲の六男。通称は主殿。初めは長兄の池田綱清より偏諱を与えられて池田清弥(きよやす)を名乗る。 早世した久留島通用に代わって久留島通政の養子となり、通孝に改名。宝永3年(1706年)徳川綱吉に拝謁するが、まもなく廃嫡された。代わって、通政の実弟である通重が嫡子に迎えられた。 Category:美濃池田氏 みちたか Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:鳥取藩の人物.

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久留島通用

久留島 通用(くるしま みちもち)は、江戸時代中期の武士。豊後国森藩の世嗣。.

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久留島通重

久留島 通重(くるしま みちしげ、? - 正徳5年2月4日(1715年3月9日))は、豊後国森藩の世嗣。3代藩主・久留島通清の六男。正室は榊原喬長の娘。通称、民部。 元禄11年(1698年)、叔父の久留島通迥の家督を相続し500石を領する旗本となる。寄合となり徳川綱吉への拝謁を果たす。元禄16年(1703年)に中奥番、宝永5年(1708年)には書院番組頭となり布衣を許された。宝永6年(1709年)、兄・久留島通政の養子となり森藩嫡子となるが、家督を相続することなく正徳5年(1715年)2月に早世した。代わって、従兄弟の久留島光通が嫡子に迎えられた。 みちしけ Category:江戸幕府旗本 Category:17世紀生 Category:1715年没.

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久留島通政

久留島 通政(くるしま みちまさ、1661年(寛文元年) - 1719年12月23日(享保4年11月13日))は、豊後国森藩の第4代藩主。 第3代藩主・久留島通清の長男。母は山内忠義の娘。正室は戸沢正誠の娘、継室は山内豊昌の養女(山内忠義の甥・山内一俊の娘)。子は娘(永井尚品正室)。幼名は万千代。通称は帯刀。初名は通総、通厚。官位は従五位下、伊予守。 寛文9年(1669年)7月11日、将軍徳川家綱にお目見えする。元禄13年(1700年)12月5日、父の死去により家督を継ぐ。宝永6年(1709年)4月15日、従五位下伊予守に叙任する。藩政には不明な点が多い。通政は正室を2人迎えたが、いずれも嗣子に恵まれず、元禄16年(1703年)に脇坂安照三男の久留島通用(織部)を養子にするが、翌年に病没した。その後、池田光仲の六男・久留島通孝(主殿)を養子にするもすぐに廃嫡している。そして、他家に養子に出ていた六弟の通重を養嗣子としたが、宝永4年(1707年)2月に先立って死去したため、叔父・久留島通貞の次男で従弟にあたる光通を養子として跡を継がせた。享保4年(1719年)11月13日に死去した。享年59。 みちまさ *04 Category:1661年生 Category:1719年没.

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久貝正方

久貝 正方(くがい まさかた、慶安4年(1651年) - 享保4年11月14日(1719年12月24日))は、江戸幕府旗本、勘定頭。 松平氏信の次男。母方の祖父・久貝正世の養子となる。通称、甚三郎、弥右衛門、忠左衛門。号は意閑(致仕ののち)。官位は従五位下、因幡守(元禄12年)。妻は大久保教勝の娘、後妻は水野忠久の娘。養子に久貝正順(徳川水戸家家臣久貝正武の子)、正順室(松平氏清の娘)。.

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久野宗俊

久野 宗俊(くの むねとし、寛永20年(1643年) - 宝永3年(1706年))は、紀州藩田丸城代家老久野家3代当主。 父は紀州藩田丸城代久野宗晴。母は山本正春の娘。正室は小笠原庄太夫の娘。子は久野俊正。幼名千松。通称三郎左衛門。官位は従五位下丹波守、和泉守。.

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久野俊純

久野 俊純(くの としずみ、宝永2年(1705年) - 安永元年11月23日(1772年12月17日))は、紀州藩田丸城代家老久野家5代当主。 父は紀州藩田丸城代久野俊正。母は穂出氏。正室は安藤陳武の娘。子は久野輝純。幼名藪千代、千松。通称織部。官位は従五位下丹波守。号華峯。.

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久野俊正

久野 俊正(くの としまさ、延宝2年(1674年) - 享保11年(1726年))は、紀州藩田丸城代家老久野家4代当主。 父は紀州藩田丸城代久野宗俊。母は鈴木常悦の娘。子は久野俊純、五条為範室。幼名千松。通称左門。官位は従五位下和泉守、備後守。.

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久松氏 (長崎町年寄)

久松氏(ひさまつし)は、江戸時代の長崎の地役人。 久松家は、長崎の出島築造の出資者・出島町人の久松新兵衛の家系で、『長崎名家略譜』によれば「西浜町に住す、高十五人扶持、受用銀十五貫目、屋敷千三百八十四坪、除税地」という長崎町年寄の名家。先祖は武州大串を領して源頼朝に属したが、4代目が肥前国に移って大村の旗下に属した。実子が無いため、讃岐国丸亀の城主・生駒帯刀の末子の堀尾作十郎を養子にした。作十郎にも子ができなかったため長崎町年寄・高木作右衛門の子を養子とし、それが名を改め、初代久松善兵衛となる「久松家」簱先好紀著 『長崎地役人総覧』 長崎文献社、46-47頁。。 西浜町(長崎市銅座町・浜町のあたり)にあった屋敷はかつて長崎町年寄筆頭の高木彦右衛門のものだったが、深堀事件によって高木家が断絶した後、久松家の屋敷となった。.

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久我通兄

久我 通兄(こが みちえ、宝永6年11月4日(1709年12月4日) - 宝暦11年5月19日(1761年6月21日))は、江戸時代中期の公卿 デジタル版 日本人名大辞典+Plus。号は含華光院。おもに中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。父は右大臣久我惟通。母は左近衛少将細川綱利(熊本藩主)の養女(細川利重(熊本新田藩主)の娘)。息子に権大納言久我敏通・左近衛少将中院通維・権中納言東久世通積がいる。娘に左近衛権少将細川重賢(熊本藩主)の室、権大納言千種有政の室、修理大夫酒井忠貫(小浜藩主)の室がいる。 享保3年(1718年)叙爵して以降清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛中将を経て、享保9年(1724年)には従三位となり公卿に列する。権中納言を経て、享保16年(1731年)権大納言、享保17年(1732年)踏歌節会外弁となる。寛保元年(1741年)武家伝奏に就任。寛延3年(1750年)に武家伝奏を辞職し、右近衛大将・右馬寮御監に転じた。さらに同年のうちに内大臣に任じられている。宝暦4年(1754年)には従一位となり、さらに右大臣へと進む。しかし翌年には辞職した。子の久我敏通とともに徳大寺家お抱えの学者竹内敬持に入門し垂加神道や尊王論を学んだ。.

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久我通誠

久我 通誠(こが みちとも)は、江戸時代前期から中期の公卿。初名は時通、通縁、通規。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の三代にわたり朝廷につかえ、官位は従一位内大臣まで進んだ。.

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度津神社

度津神社(わたつじんじゃ)は、新潟県佐渡市羽茂飯岡にある神社。式内社、佐渡国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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享保小判

享保小判(きょうほうこばん)とは正徳4年8月2日(1714年)に発行された一両としての額面を持つ小判である。また享保小判および享保一分判を総称して享保金(きょうほうきん)と呼ぶ。 なお、正徳金銀発行および通用に関する触書は正徳4年5月15日に出されているが、享保金銀については若干品位を上げたとされるものの、本質的な吹替えではないため改めて触書が出されたわけでもなく、享保金銀の発行時期については諸説あり、正徳5年(1715年)とするものや、徳川吉宗が将軍職に就いた享保元年(1716年)とする説まである。.

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享保丁銀

享保丁銀 享保丁銀(きょうほうちょうぎん)とは正徳4年8月2日(1714年)から鋳造開始された丁銀の一種で秤量貨幣である。正徳丁銀(しょうとくちょうぎん)と呼ぶ場合もある。享保丁銀(正徳丁銀)および享保豆板銀(正徳豆板銀)を総称して享保銀(きょうほうぎん)あるいは正徳銀(しょうとくぎん)と呼ぶ。.

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京終地蔵院

京終地蔵院(きょうばてじぞういん)は、奈良県奈良市にある寺院。.

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京都御所

京都御所(模型) 京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。 14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。.

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京極宮家仁親王

京極宮家仁親王(きょうごくのみや やかひとしんのう、宝永元年4月1日(1704年5月4日) - 明和4年12月6日(1768年1月25日))は江戸時代中期の日本の皇族。京極宮(桂宮)第 8代。京極宮文仁親王の第 1王子。母は滋野井公澄女藤原直子。幼称は若宮。 宝永5年(1708年)12月東山天皇の猶子となり、茶々丸(ちゃちゃまる)の名を賜る。翌宝永6年(1709年)4月親王宣下を受け、家仁と命名される。正徳3年(1713年)12月元服し、式部卿に任ぜられる。 享保5年(1720年)関白鷹司兼熙の女基子(尚君)と結婚する。享保9年(1724年)二品に叙せられる。明和4年(1767年)12月3日一品に叙せられるが、同月6日薨去。65歳。法名は、後桂光院。 王子女に公仁親王の他、知恩院宮尊峰入道親王、一乗院宮尊映入道親王、豊子女王(有馬頼僮室)などがいる。 Category:日本の親王 Category:江戸時代の男性皇族 Category:1704年生 Category:1768年没.

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京極宮文仁親王

京極宮文仁親王(きょうごくのみや あやひとしんのう、延宝8年8月16日(1680年9月8日) - 宝永8年3月6日(1711年4月23日))は江戸時代中期の日本の皇族。京極宮(桂宮)第7代。.

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京極高甫

京極 高甫 (きょうごく たかすけ、寛文2年(1662年) - 享保14年5月28日(1729年6月24日))は江戸時代の高家旗本。京極高国の三男。初名は高武、高茂、親信。通称は杢之助、大膳。官位は従五位下侍従・大膳大夫。 一時、落合姓を称す。寛文6年(1666年)5月7日、実父高国の改易により、池田光仲のもとに預けられる。延宝8年(1680年)9月2日、赦免される。その後、実兄京極高規の養子になる。元禄12年(1699年)12月28日、将軍徳川綱吉に御目見する。宝永2年(1705年)11月29日、高規の隠居により、家督を相続する。同日、実弟の京極高林(ただとき)に500石を分知する。宝永4年(1707年)12月15日、高家職に就任し、従五位下侍従・大膳大夫に叙任する。享保9年(1724年)12月9日、辞職する。享保14年5月28日、死去、68歳。 正室はいないが、側室との間に京極高本(嫡男)、北条氏応(うじたか、玉縄北条氏へ養子入り)など三男あり。 たかすけ Category:江戸幕府旗本 Category:1662年生 Category:1729年没.

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京極高盛

京極 高盛(きょうごく たかもり)は、丹後田辺藩の第3代藩主、のち但馬豊岡藩の初代藩主。豊岡藩京極家3代。 田辺藩第2代藩主京極高直の長男として、江戸向柳原邸で生まれる。寛文3年(1663年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、弟の高門に2,000石を分与した。寛文8年(1668年)5月3日、田辺藩から豊岡藩に移封される。しかしもともと病弱だったため、寛文7年(1667年)から養嗣子に迎えていた弟の高住に延宝2年(1674年)3月18日、家督を譲って隠居した。 宝永6年(1709年)2月1日、60歳で死去した。.

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京極高規

京極 高規 (きょうごく たかのり、寛永20年(1643年) - 宝永5年10月19日(1708年11月30日))は江戸時代の高家旗本。丹後宮津藩主京極高国の嫡男。生母は千菊姫。初名は高頼。通称は兵勝丸、采女、近江。官位は従四位下侍従、対馬守。 父が改易されなければ国持大名・丹後宮津藩主だったはずの人物である。曽祖父は関ヶ原の戦いで大功をあげ、家康より丹後一国を与えられた京極高知である。 明暦元年(1655年)1月28日将軍徳川家綱に御目見する。明暦3年(1657年)12月27日従四位下近江守に叙任する。後に対馬守に改める。寛文6年(1666年)5月3日父高国の改易により、藤堂高次のもとに預けられる。扶助料3,000俵を賜る。延宝8年(1680年)9月2日赦免されて、母方の実家伊達家の領地常陸竜崎に暮らす。 元禄3年(1690年)8月18日幕府の旗本となり、蔵米2,000俵を賜る。寄合に所属する。元禄8年(1695年)12月15日、高家職に就き、18日侍従に任官する。元禄10年(1697年)7月26日あらためて安房朝夷郡などで2,000石を賜る。元禄14年浅野長矩の刃傷事件に際し、その刀を奪い取ったのは自分だと主張をし、梶川頼照と論争を生んだ。宝永2年(1705年)7月25日辞職し、寄合に所属する。11月29日隠居し、養子高甫(実弟)に家督を譲る。宝永5年(1708年)10月19日死去、66歳。 正妻はいない。二男一女あり。その他に養子二人あり。 たかのり Category:江戸幕府旗本 Category:宮津藩の人物 Category:1643年生 Category:1708年没.

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京極高通 (多度津藩主)

京極 高通(きょうごく たかみち、元禄4年6月23日(1691年7月18日) - 寛保3年4月20日(1743年5月13日))は、江戸時代中期の外様大名。讃岐多度津藩初代藩主。多度津藩京極家初代。 丸亀藩2代藩主・京極高豊の四男。母は側室。正室は越前松平直丘の娘、継室は山崎義方の娘。子は京極高慶(長男)、京極高伴(次男)。官位は従五位下、壱岐守。.

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京極高栄

京極 高栄(きょうごく たかよし / たかしげ)は、但馬豊岡藩の第3代藩主。豊岡藩京極家5代。 元禄3年(1690年)7月23日、第2代藩主・京極高住の長男として江戸向柳原邸で生まれる。宝永元年(1704年)に世嗣に指名される。初名は高継であったが、正徳3年(1713年)に将軍徳川家継の諱を避けて高栄と改名した。正徳4年(1714年)7月29日に父の隠居にともない家督を継ぎ、従五位下、加賀守に叙任する。 弟の善興(重次)に2000俵を分与し、小普請組京極三右衛門家を創設した。享保6年(1721年)6月13日、麹町邸で急死した。享年32。 跡を長男の高寛が継いだ。 たかよし Category:豊岡藩主 Category:1690年生 Category:1721年没.

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京極高或

京極 高或(きょうごく たかもち)は、江戸時代中期の大名。讃岐丸亀藩3代藩主。丸亀藩京極家5代。.

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京極高明

京極 高明(きょうごく たかあき、万治3年4月25日(1660年6月2日)- 享保11年12月2日(1726年12月24日))は、丹後峰山藩の第3代藩主。第2代藩主・京極高供の長男。母は松平忠明の娘。正室は熊谷依貞の娘。子は京極高之(長男)、京極高重(次男)、本間季明(四男)。官位は従五位下、隼人正、備後守、主膳正。 万治3年(1660年)4月25日、近江にて生まれる。延宝2年(1674年)、父の死去により跡を継ぐ。藩政では検地に尽力した。元禄12年(1699年)4月29日、病気を理由に家督を長男・高之に譲って隠居し、宝永7年(1710年)閏8月に剃髪して道意と号した。享保11年(1726年)12月2日、67歳で死去した。 *03 たかあき Category:近江国の人物 Category:1660年生 Category:1726年没.

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京橋 (岡山市)

京橋(きょうばし)は、岡山県岡山市の北区と中区区境の旭川に架かる橋である。歩道のある片側1車線で橋の中央には岡山電気軌道東山本線の併用軌道がある。 毎月第1日曜日には橋のふもとで備前岡山京橋朝市が行なわれている。日本百名橋の一つである。.

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人参代往古銀

人参代往古銀(にんじんだいおうこぎん)とは宝永7年9月(1710年)から、高麗人参貿易取引専用に鋳造された丁銀の一種で秤量銀貨である。単に往古銀(おうこぎん)また人参丁銀(にんじんちょうぎん)とも呼ぶ。この「往古」は慶長銀の品位への復帰を意味する。.

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府中家具

府中家具(ふちゅうかぐ、)は、広島県府中市で造られている家具。家具としては初の地域団体商標で府中家具工業協同組合が管理する。.

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府中市 (広島県)

府中市(ふちゅうし)は、広島県の南東部に位置する市である。 「府中」は国府所在地を表す一般名詞で日本各地にあり、また東京都には同一市名の府中市(武蔵府中)が、広島県内にも安芸郡府中町(安芸府中)が存在する。広島県府中市は備後国の府中であり、他の府中と区別するために「備後府中」とも呼ぶ。.

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二伝寺

山門 二伝寺(にでんじ)は、神奈川県藤沢市にある浄土宗の寺院。山号は戒法山。.

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二条吉忠

二条 吉忠(にじょう よしただ)は、江戸時代中期の公卿。関白左大臣二条綱平の子で、母は霊元天皇皇女・栄子内親王である。安祥院と号する。「吉」の字は将軍徳川綱吉からの偏諱。.

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広峯神社

廣峯神社(ひろみねじんじゃ、略体など: 広峯神社、広峰神社)は、兵庫県姫路市の広峰山山頂にある神社である。 全国にある牛頭天王の総本宮(ただし、八坂神社も牛頭天王総本宮を主張している)。 旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。別称広峯牛頭天王。天平の昔から名の見える古社である。.

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広幡長忠

広幡 長忠(ひろはた なかただ、宝永8年4月4日(1711年5月21日) - 明和8年9月27日(1771年11月3日))は、江戸時代中期の公卿。主に中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三朝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで進んでいる。父は第2代当主の広幡豊忠(内大臣)。妻は醍醐冬熙(左大臣)の娘。子に広幡輔忠(前豊)(内大臣)、久我信通(久我家養子・内大臣)、娘に西園寺賞季室、伊達重村室観心院がいる。 父・豊忠の跡を継いだ三人の兄が相次いで没したため、広幡家の当主となり、1720年(享保5年)に叙爵。以降累進して1728年(享保13年)に従三位に達して公卿に列する。1729年(享保14年)に踏歌節会外弁となり、1730年(享保15年)に権中納言。1731年(享保16年)から1735年(享保20年)の間には皇太子昭仁親王(桜町天皇)の春宮大夫となる。同年正三位。1735年(享保20年)に権大納言となった。1744年(延享元年)に正二位を授与された。しかし1756年(宝暦6年)に出家し、四十六歳にして朝廷を去った。法名は承恵。1771年(明和8年)に入寂。享年61。.

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広瀬惟然

広瀬 惟然(ひろせ いぜん / ひろせ いねん、慶安元年(1648年)? - 宝永8年2月9日(1711年3月27日))は江戸時代の俳人である。.

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広野町

広野町(ひろのまち)は、福島県浜通り南部にある町である。双葉郡(1896年以前は楢葉郡)に属する。.

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広津藍渓

広津 藍渓(ひろつ らんけい、宝永6年5月5日(1709年6月12日) - 寛政6年11月13日(1794年12月5日)) は、筑後国久留米藩の儒者。名は省・弘恒、字は有修、通称は善蔵。.

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五島盛佳

五島 盛佳(ごとう もりよし)は、肥前福江藩の第6代藩主。五島家第26代当主である。.

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五島盛道

五島 盛道(ごとう もりみち)は、肥前福江藩の第7代藩主。五島家第27代当主である。.

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五ヶ所浦

五ヶ所浦(ごかしょうら)は、三重県度会郡南伊勢町の地名。郵便番号は516-0101。2016年6月30日現在の「男女別行政区別人口統計表」による人口は1,510人、2010年10月1日現在の面積は4.827,730km2。一般に「浦」を省略して五ヶ所と呼ばれている。 五ヶ所湾沿岸および南伊勢町の中心的な地区である。.

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五剣山 (高松市の山)

五剣山(ごけんざん)は香川県高松市に存在する山。.

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五條新町

新町通り(紀州街道)、左手は栗山邸(栗山本家) 五條新町(ごじょうしんまち)は、奈良県五條市の五條新町通り(伊勢街道)界隈に位置する重要伝統的建造物群保存地区の名称である。 慶長13年(1608年)に筒井氏の家臣であった松倉重政が二見城城主に封じられて五條・須恵を領し、五條と二見の間に形成された新町村を町場として発展させた城下町を起源とする地区で、新町村は東・中・西町からなり、元和9年(1623年)には約95軒の家があり、現状の約110軒と大差がない町並みが形成されていた。現在、当地区内の建造物330棟のうち143棟が伝統的建築物として特定されている。.

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庄内竿

庄内竿(しょうないざお)は、山形県庄内地方に伝わる伝統的な釣り竿である。.

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庄田安利

庄田 安利(しょうだ やすとし、慶安3年(1650年) - 宝永2年9月5日(1705年10月22日))は、江戸時代前期の旗本。江戸幕府大目付。幼名は万千代(まんちよ)。通称は三左衛門(さんざえもん)、小左衛門(こざえもん)。別称は荘田下総守。官位は従五位下下総守。.

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了翁道覚

『江戸名所図会』より) 了翁道覚(りょうおうどうかく、寛永7年3月18日(1630年4月29日) - 宝永4年5月22日(1707年6月21日))は、江戸時代前期、教育文化、社会福祉、公共事業など各種の社会事業に貢献した黄檗宗の僧。出羽国雄勝郡八幡村生まれ。初め名を祖休といい、後に道覚とあらためた。号も初めは了然といい、後に了翁にあらためた。.

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井上道節因碩

井上 道節因碩(いのうえ どうせついんせき、1646年(正保3年) - 1720年1月16日(享保4年12月7日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の四世井上因碩、五世名人碁所。元の名は桑原道節で、井上道節因碩、名人因碩と呼ぶ。難解さで古今唯一とされる『囲碁発陽論』の著者。本因坊道策の弟子であったが、道策流の理論的な布石よりは力戦的な碁であったとされる。 (井上家相続時は三世であったが、後の家系書き換えに基づき四世とする).

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井上道経

井上 道経(いのうえ みちつね)は、江戸時代の武士。毛利氏の家臣で長州藩士。父は井上就貞。知行は200石。.

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井上蘭台

井上 蘭台(いのうえ らんだい、宝永2年1月1日(1705年1月25日) - 宝暦11年11月27日(1761年12月22日))は、江戸時代中期の儒学者、戯作者である。備前岡山藩に仕える。江戸生れ。 名を通煕、字は子叔もしくは叔。子字に鍋助、縫殿、さらに嘉膳とした。通称も嘉膳。最初、璠菴、玩菴と号し、のちに蘭台とするが、本多忠統侯がこの号を用いたことに配慮して図南と号するようになる。忠統侯が歿すると蘭台の号に復した。また戯作のときは玩世教主と称した。.

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井上正富

井上 正富(いのうえ まさとみ、元禄2年(1689年) - ?)は、常陸笠間藩の嫡子。旗本井上正晴の長男。母は植村忠朝の娘。官位は従五位下、土佐守。 笠間藩分家の旗本の子として生まれるが、宗家の笠間藩主井上正岑に男子がなかったため、養子となった。元禄13年(1700年)徳川綱吉に拝謁し、同15年(1702年)に叙任するが、宝永元年(1704年)に廃嫡された。代わって正岑の甥にあたる正之が嫡子となった。 まさとみ Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:笠間藩の人物 Category:1689年生.

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井上正岑

井上 正岑(いのうえ まさみね、承応2年(1653年) - 享保7年5月17日(1722年6月30日))は、江戸時代中期の大名、老中。美濃八幡藩第2代藩主、丹波亀山藩主、常陸下館藩主、常陸笠間藩初代藩主。浜松藩井上家4代。 美濃八幡藩初代藩主・井上正任の次男。母は本多忠義の娘。正室は伊予西条藩主松平頼純の娘・清姫。弟に甲府藩家老のち側衆の井上正長。養子に井上正富、井上正之。養女に水野忠輝正室。官位は従四位下大和守、のち侍従河内守。.

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井上正之

井上 正之(いのうえ まさゆき)は、常陸笠間藩の第4代藩主。浜松藩井上家5代。.

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井上正矩

井上 正矩(いのうえ まさのり、元禄4年(1691年)- 享保5年10月13日(1720年11月12日))は、常陸国下妻藩の嫡子。5000石を領した大身旗本・井上正晴の次男。母は植村忠朝の娘。正室は初代藩主・井上正長の娘。子は娘(井上正敦正室)、娘(五島盛道正室)。官位は従五位下。伊勢守。 元禄12年(1699年)、正長の養子となり3000石を分与されて徳川綱吉に書見する。宝永2年(1705年)、正式に下妻藩嫡子となる。宝永5年(1708年)叙任するが、享保5年(1720年)に家督を相続することなく早世した。代わって、一族から井上正敦を娘婿に迎えて嫡子とした。正敦は同年家督を継いだ。 まさのり Category:1691年生 Category:1720年没.

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井上正森

井上 正森(いのうえ まさもり)は、下総国高岡藩5代藩主。 宝永7年(1710年)、3代藩主・井上政蔽の六男として生まれる。享保15年(1730年)2月3日、4代藩主で兄・政鄰の養子となる。享保16年(1731年)8月7日、兄の隠居により家督を継ぎ、12月に従五位下、山城守に叙位・任官する。享保20年(1735年)に大坂加番に任じられた。 実子は早世していたため、宝暦5年(1755年)、尾張藩主・徳川宗勝の十男である正国を養子に迎える。宝暦10年(1760年)12月7日に隠居した。 寛政12年(1800年)5月13日、死去。享年91。 まさもり *05 Category:1710年生 Category:1800年没.

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井上正敦

井上 正敦(いのうえ まさあつ、宝永4年(1707年)- 宝暦3年6月20日(1753年7月20日))は、江戸時代中期の大名。常陸下妻藩の第2代藩主。1500石の旗本である井上政式の次男。正室は井上正長の養女(井上正矩の娘)。子は井上正賀(長男)。官位は従五位下、遠江守。.

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井上正晴 (旗本)

井上 正晴(いのうえ まさはる、寛文4年(1664年) - 元文元年3月29日(1736年5月9日))は、日本の江戸時代前期から中期の旗本。通称は伝左衛門、織部、頼母。官位は従五位下、讃岐守、越中守。.

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井上春碩因碩

井上春碩因碩(いのうえ しゅんせきいんせき、宝永4年(1707年) - 安永元年(1772年)12月)は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家六世井上因碩(相続時は五世、家系書き換えで六世)。下総国出身、八段準名人。元の名は伊藤春碩。本因坊秀伯、本因坊察元と2度の争碁を打った。.

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井伊直員

井伊 直員(いい なおかず)は、越後与板藩の第3代藩主。直勝系井伊家7代。 近江彦根藩の家老・木俣守吉(木俣守長の次男)の長男ただし『彦根藩家中貞享異譜』は、宝永6年(1709年)に早世した守吉の家督を相続した従兄弟の守嘉(守長の弟守閑の次男)と直興の娘の長男としている。として彦根で生まれる。享保17年(1732年)10月11日、母方の従弟にあたる藩主・直陽が重病に倒れるとその養嗣子となり、3日後に直陽が死去したのにともない襲封した。この時に名を直寛と改め、後に直員と名乗った。3年後の享保20年(1735年)4月5日に江戸で死去し、跡を養嗣子の直存が継いだ。.

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井伊直矩

井伊 直矩(いい なおのり)は、遠江掛川藩の第4代藩主、越後与板藩の初代藩主。直勝系井伊家5代。近江彦根藩主・井伊直興の四男。 彦根藩の分家である掛川藩主・井伊直朝(正室は直矩の姉妹であった)の養嗣子となり、宝永2年(1705年)12月3日に跡を継いだ。翌年1月16日、越後三島郡などに2万石を与えられて与板藩に移封となる。正徳5年(1715年)には徳川家康100回忌において日光祭礼奉行を務めた。享保16年(1731年)2月27日、長男の直陽に家督を譲って隠居し、寛保2年(1742年)3月19日に江戸で死去した。享年49。 なおのり Category:譜代大名 井01 Category:掛川藩主 Category:1694年生 Category:1742年没.

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井伊直興

井伊 直興(いい なおおき)は、江戸時代前期から中期の譜代大名。江戸幕府大老。近江彦根藩の第4代藩主および第7代藩主。直治(なおはる)、直該(なおもり)とも名乗る。 井伊直縄(第2代藩主・井伊直孝の四男)の長男。母は桜居氏。正室は蜂須賀隆重の娘と縁組するが、婚儀までに死去。側室は平石氏、田山氏、玉米氏、大橋氏。子に直通(次男)、直恒(三男)、直矩(四男)、直惟(五男)、直定(六男)、娘(井伊直朝正室)、娘(阿部正喬正室)、娘(三条公充室)、娘(木俣守吉室、後に木俣守嘉室)、娘(松平康弘室)、娘(印具保重室)ら。幼名は吉十郎。官位は正四位上左中将、掃部頭。.

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井伊直通

井伊 直通(いい なおみち)は、近江彦根藩の第5代藩主。.

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井伊直恒

井伊 直恒(いい なおつね)は、近江彦根藩の第6代藩主。.

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井村勝吉

井村 勝吉(いむら かつよし、生没年不詳)とは、江戸時代の京都の絵師、職人。.

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亀山公園 (日田市)

鏡坂公園から見た亀山公園 隈町沿岸から見た亀山公園 亀山公園入口 亀山公園(きざんこうえん)は、大分県日田市亀山町にある公園。日隈公園とも呼ばれることがある。.

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亀井茲親

亀井 茲親(かめい これちか、寛文9年4月(1669年) - 享保16年5月29日(1731年7月3日))は、江戸時代前期の外様大名。石見津和野藩第3代藩主。津和野藩亀井家4代。第2代藩主・亀井茲政の三男。母は側室・水崎豊庵の娘。正室は対馬府中藩主・宗義真の娘。子は茲長(長男)、菅沼定好(次男)、茲満(六男)らがいる。通称は松之助。官位は従五位下、能登守、のち隠岐守。.

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亀田郡

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今川範主

今川 範主(いまがわ のりぬし)は、江戸時代の高家旗本。今川氏17代当主。家祖・国氏から数えた代数。.

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今川範高

今川 範高(いまがわ のりたか)は、江戸時代の高家旗本。今川氏16代当主家祖・国氏から数えた代数。ただし、14代氏堯以降直系の子孫ではない。。.

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今井 (川崎市)

今井(いまい)は、神奈川県川崎市中原区に存在した大字「角川日本地名大辞典 14 神奈川県」、p.129。。旧橘樹郡今井村、橘樹郡住吉村今井、橘樹郡中原町今井。 1940年(昭和15年)に耕地整理が行われた結果、今井上町・今井仲町・今井南町・今井西町が設置され「川崎地名辞典(上)」、p.244。、大字としての今井は東急東横線の高架下に残っていたが 川崎市、2013年12月2日(2014年11月15日閲覧)。、2015年(平成27年)実施の住居表示により今井南町に編入され消滅した。.

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今井町

今井町の町並 今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市の中部に位置する地区で、1~4丁目からなる。戦国時代の寺内町が原型となり、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、2017年(平成29年)4月28日に日本遺産に認定された。.

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今出川伊季

今出川 伊季(いまでがわ これすえ、万治3年5月29日(1660年7月6日) - 宝永6年2月26日(1709年4月5日))は、江戸時代前期から中期にかけての公卿。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二帝にわたり仕え、官位は正二位内大臣まで昇った。父は右大臣今出川公規。母は刑部少輔京極高和の娘。子に左近衛中将今出川公香(のち無位無官)、権大納言今出川公詮がいる。 寛文元年(1661年)に叙爵。以降清華家当主として速いスピードで累進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、延宝3年(1675年)には従三位となり、公卿に列する。延宝6年(1678年)には権中納言と神宮伝奏に就任。貞享元年(1684年)に権大納言となる。貞享4年(1687年)には皇太子朝仁親王の春宮大夫に任じられるも同年中に皇太子が東山天皇として即位したので辞す。元禄2年(1689年)には権大納言を辞したが、元禄6年(1693年)には権大納言と神宮伝奏に再任する。元禄12年(1699年)には右近衛大将・右馬寮御監となる。宝永5年(1708年)には内大臣に就任するも辞す。晩年には京を離れて遠江国金谷へ隠遁し、同地で死去。 なお子息の公香は、従三位左近衛中将まで昇るも突然に官位官職を返上して、無位無官の一般人になってしまう。そのため次男である公詮の家系が今出川家を継いでいくことになる。 伊季は、琵琶の名手としても知られた。琵琶にまつわるこんな逸話がある。ある時、醍醐天皇の愛用品と伝わる琵琶を所蔵する者がいることを知った伊季はこの者のところへ通ってその琵琶を貸してほしいと頼みこんだ。しかし先方にとっても秘蔵の宝であるから拒否された。それでも諦めきれない伊季は今度は北野天満宮に通って借りられるようにと毎日祈りをささげるようになった。たとえ暴風雨の日であっても怠ることなく毎日通ったという。この話を聞いて恐れ入った相手方はとうとうこの秘蔵の琵琶を伊季に渡したのだという。.

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今出川公香

今出川 公香(いまでがわ きんよし、元禄4年5月1日(1691年5月28日) ‐ 享保6年11月14日(1722年1月1日))は、江戸時代中期の公卿。父は右大臣今出川伊季。母は不詳。弟に権大納言今出川公詮がいる。 元禄5年(1692年)に叙爵。以降累進して、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、宝永2年(1705年)に従三位となり、公卿に列する。 しかし宝永3年(1706年)所労を理由に東山天皇に官位官職を返上して出た。その後は生涯無位無官になっている。このため今出川家では急遽、弟の公詮を当主に立てた。.

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今出川公詮

今出川 公詮(いまでがわ きんあきら、元禄9年3月29日(1696年4月30日) - 享保16年2月14日(1731年3月21日))は、江戸時代中期の公卿。主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の二帝にわたり仕え、官位は従二位権大納言まで昇る。父は右大臣今出川伊季。母は不詳。兄に左近衛中将今出川公香(のち無位無官)がいる。室は伏見宮邦永親王王女。子息に今出川実興(夭折)。養子に権大納言今出川誠季(西園寺致季の子)。娘に徳子(紀州藩主徳川宗将室)、今出川誠季の室がいる。初名は清季(きよすえ)。 宝永2年(1705年)に叙爵。宝永3年(1706年)、兄公香が官位官職を返上する事件があり、かわって今出川家を継いだ。侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、正徳2年(1712年)に従三位となり、公卿に列する。その後も踏歌節会外弁や権中納言を経て、享保8年(1723年)に権大納言に任じられ、同年内教坊別当も拝命。享保12年(1727年)から15年(1730年)にかけては神宮伝奏をつとめた。この間の享保14年(1729年)には皇太子昭仁親王(桜町天皇)の春宮大夫に任じられている。享保16年(1731年)に病となり、すべての任職を辞した。.

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今石動城

今石動城(いまいするぎじょう)は富山県小矢部市に在った日本の城。.

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仁右衛門島

仁右衛門島(にえもんじま)は、太平洋にある島。全島砂岩よりなる。千葉県鴨川市太海の沖合約200mにあり、周囲約4kmの千葉県でもっとも大きな島で個人所有。源頼朝や日蓮の伝説で知られる。千葉県指定名勝。新日本百景にも選ばれている。 島主である平野仁右衛門の名に因み、この名前になったといわれている。夏涼しく冬暖かい風光明媚な自然の楽園。金銀針茄子(キンギンハリナス)という珍しい植物もみられる。島の南側は荒々しい海岸線がみられ、自然の防波堤の役割も果たしている。.

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仁王門通

仁王門通、京都市左京区 仁王門通(におうもんどおり)は京都市左京区の東西の通りの一つ。鴨川東岸に位置し、西は川端通から、東は白川通との交差点から南東に進み三条通と合流する。.

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仁正寺藩

仁正寺藩(にしょうじはん)は、近江国蒲生郡仁正寺(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩(にしおおじはん)とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。.

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水木しげるロードに設置されている「くだん」のブロンズ像 件(くだん)は、19世紀前半ごろから日本各地で知られる妖怪。「件」(=人+牛)の文字通り、半人半牛の姿をした怪物として知られている。 その姿は、古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとするが、第二次世界大戦ごろから人間の体と牛の頭部を持つとする説も現れた。 幕末頃に最も広まった伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされている。生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされている。また、件の絵姿は厄除招福の護符になると言う。 別の伝承では、必ず当たる予言をするが予言してたちどころに死ぬ、とする話もある。また歴史に残る大凶事の前兆として生まれ松山ひろし 『壁女-真夜中の都市伝説』 イースト・プレス、2004年、74頁。、数々の予言をし、凶事が終われば死ぬ、とする説もある。 江戸時代から昭和まで、西日本を中心に日本各地で様々な目撃談がある。.

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延壽寺 (台東区)

延寿寺(えんじゅじ)は、東京都台東区谷中一丁目にある日蓮宗の寺院。山号は六浦山。旧本山は身延山久遠寺(身延門流)、潮師法縁。.

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延命寺 (今治市)

アセビのトンネルを越え大師堂 含霊堂 延命寺(えんめいじ)は、愛媛県今治市阿方にある真言宗豊山派の寺院。近見山(ちかみざん)、宝鐘院(ほうしょういん)と号す。本尊は不動明王。四国八十八箇所霊場の第五十四番札所。 本尊真言:のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん ご詠歌:くもりなき 鏡の縁と ながむれば 残さず影を うつすものかな.

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仙台藩家臣

仙台藩家臣(せんだいはんかしん) 本項では、仙台藩主・伊達氏の江戸時代における家臣団(明治維新に際して、士族戸数4262戸、卒族戸数3050戸があった)についての説明の一部として、重臣である門閥の一覧を示す(召出については家名のみ。太刀上以上については知行高・居館・歴代当主を付記)。各々が拝領した居城・居館等の詳細については仙台藩の城砦の項を参照のこと。.

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仙石久尚

仙石 久尚(せんごく ひさなお、承応元年8月19日(1652年9月21日) - 享保20年7月23日(1735年9月9日))は、江戸時代中期の旗本。江戸幕府大目付。通称は次兵衛(じへえ)。官位は従五位下丹波守・伯耆守。隠居後には丹波入道と呼ばれた。.

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仙石忠俊

仙石 忠俊(せんごく ただとし、寛永17年(1640年) - 寛文7年2月29日(1667年3月23日))は、江戸時代の大名世子。信濃国上田藩の世嗣。 仙石政俊の長男。正室は浅野光晟の娘(仙寿院)。子は仙石政明(長男)。官位は従五位下兵部少輔。幼名は主税助(ちからのすけ)。 寛永17年(1640年)政俊と側室の好陽院との子供として生まれる。ために、(当時の大名子息は多く江戸藩邸で出生し、成長するのだが)幼少期は上田にて成長したと思われる。承応3年(1654年)12月28日、15歳で従五位下兵部少輔に叙任された。『改選仙石家譜』によると、明暦3年(1657年)以降は忠俊も参勤交代をしており、父政俊在府の年は子忠俊が上田在城、その翌年は政俊は上田で、忠俊は江戸というように、父子交代で参勤する態勢をとっていたようである。 しかし、家督を相続しないうちに、寛文7年(1667年)に江戸に於いて28歳で死去した。法名「春光院殿梅心日香大居士」。 遺骸は上田に送られたが、菩提寺ではなく太郎山麓の和合沢の入口の台地に葬られ、「山の御廟所」と呼ばれた。宝永3年(1706年)に仙石氏が所替となるに及んで本場寺(上田市鍛冶町)の仙石氏墓所へ改葬されている。相続できなかった、あるいは側室の子であることを慮ってのことであったのかもしれない。生母である好陽院もこの山の御廟所に葬られ、のち所替の際に本場寺仙石氏墓所へ改葬されている。.

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仙石政房

仙石 政房(せんごく まさふさ)は、但馬出石藩の第2代藩主。出石藩仙石家5代。初名は政時。.

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仙石政明

仙石 政明(せんごく まさあきら)は、信濃上田藩の第3代藩主、のち但馬出石藩の初代藩主。出石藩仙石家4代。.

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伊奈忠順

伊奈 忠順(いな ただのぶ、生年不詳 - 正徳2年2月29日(1712年4月4日))は江戸時代中期の関東郡代。通称は半左衛門。関東郡代・伊奈忠常の次男。兄に忠篤。室は折井正辰の娘。嫡男に忠辰。また、伊奈貞長の次男・忠逵を養子とした。 はじめ稲葉正篤の養子となり、兄・忠篤が死去すると兄の養子として、関東郡代職と武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)4000石の赤山城の遺領を継いだ。伊奈氏の代々の仕事を引き継ぎ、幕府代官として架橋工事、治水工事を主に行った。.

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伊奈忠辰

伊奈 忠辰(いな ただとき、宝永2年(1705年)- 明和4年10月15日(1767年12月5日))は江戸時代中期の関東郡代。通称造酒助、半十郎、半左衛門。.

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伊孑志

伊孑志(いそし)は兵庫県宝塚市の武庫山(六甲山)山麓武庫川右岸の地名。行政地名としては大字の部分(伊孑志字武庫山)と町名としての1~4丁目を有し、両者は分断されている。 平成21年9月末現在の住民基本台帳人口は1~4丁目が世帯数2,245・人口5,070うち男2,365・女2,705、大字伊孑志が世帯数1・人口1(女1)。.

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伊勢亀山藩

伊勢亀山藩(いせかめやまはん)は、伊勢国に存在した藩の一つ。藩庁は伊勢亀山城(三重県亀山市)。.

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伊勢神宮

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」法人としての名称も「神宮」であり、事務をつかさどる機関として「神宮司庁」がある。主たる事務所の所在地は伊勢市宇治館町1番地(神宮司庁の所在地)。。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社のひとつ神宮で神階が無いのは、伊勢神宮と日前神宮、國懸神宮の3宮だけである。。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。.

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伊勢神宮奉納全国花火大会

ワイドスターマイン(2011年(平成23年) 第59回大会) 伊勢神宮奉納全国花火大会(いせじんぐうほうのうぜんこくはなびたいかい)は三重県伊勢市中島の宮川下流畔において開催される花火大会である。宮川の花火ともいわれる。日本三大競技花火大会の1つ。.

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伊美別宮社

伊美別宮社(いみべつぐうしゃ)は、大分県国東市国見町伊美に鎮座する神社である。.

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伊達吉村

伊達 吉村(だて よしむら)は、陸奥仙台藩第5代藩主。伊達氏宗家第21代当主。はじめ仙台藩一門宮床伊達氏第2代藩主。仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏 出身の宮床伊達氏は元々、伊達崎氏、田手氏を称していた。伊達氏初代当主伊達朝宗の六男・実綱を祖とする伊達一門の家柄であるが、江戸時代初期に第2代藩主伊達忠宗の子・宗房が名跡を継承していた。その子が吉村である。出身の藩主である。また、歴代仙台藩主中で最長在職の藩主であり、その治世は40年に及んだ。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから、仙台藩「中興の英主」と呼ばれる。.

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伊達実氏

伊達 実氏(だて さねうじ)は、江戸時代の前期の武士。仙台藩一門第二席・亘理伊達氏第5代当主。.

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伊達宗利

伊達 宗利(だて むねとし、寛永11年12月18日(1635年2月5日)- 宝永5年12月21日(1709年1月31日))は、伊予国宇和島藩の第2代藩主。 初代藩主・伊達秀宗の三男。母は浅井氏。正室は松平光長の娘・大通院(稲姫)。側室に昆陽野氏、元泉氏、田部氏、入野氏、古谷氏がいる。子は豊姫(真田幸道正室)、三保姫(伊達宗贇正室)、娘(京極高或正室)、娘(伊達宗職養女)。官位は従四位下。大膳大夫、侍従、遠江守。.

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伊達宗純

伊達 宗純(だて むねずみ、寛永13年5月5日(1636年6月8日) - 宝永5年10月21日(1708年12月2日))は、伊予吉田藩の初代藩主。 伊予宇和島藩初代藩主・伊達秀宗の五男。母は吉井氏。正室は庄内藩主・酒井忠勝の娘。子は宗保(次男)、娘(池田由道正室)。幼名は長松、のち小次郎。官位は従五位下、宮内少輔。.

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伊達宗相

伊達 宗相(だて むねすけ、元禄10年(1697年) - 宝永6年1月7日(1709年2月16日))は、伊予国宇和島藩の世嗣。第3代藩主・伊達宗贇の長男。幼名は兵五郎。院名は瑶樹院。 宇和島藩嫡子として育ち、宝永5年(1708年)に徳川綱吉に拝謁する。しかし、家督を継ぐことなく宝永6年(1709年)に13歳で早世した。代わって、弟の村年が嫡子となった。.

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伊達宗贇

三代藩主 伊達宗贇の墓 (龍華山等覚寺東墓所) 伊達 宗贇(だて むねよし、寛文5年1月15日(1665年3月1日宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105)- 宝永8年2月18日(1711年4月5日宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105))は、伊予宇和島藩の第3代藩主。 陸奥仙台藩第3代藩主・伊達綱宗の三男宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105。母は三沢氏(初子)宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105。正室は伊達宗利(宇和島藩第2代藩主)の次女・三保姫宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P105。側室に佐藤氏、高橋氏、鴇田氏、中里氏、宮部氏など。仙台藩第4代藩主伊達綱村の次々弟にあたる宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P104。 子は宗相(長男)、村年(三男)、村顕(四男)、桑折宗恒(六男)。官位は従四位下、遠江守、紀伊守、侍従。.

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伊達宗興 (一関藩嫡子)

伊達 宗興(だて むねおき)は、江戸時代前期の武士。陸奥仙台藩支藩の陸奥一関藩主・伊達宗勝(兵部)の嫡男。.

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伊達宗時

伊達 宗時(だて むねとき)は、伊予宇和島藩の初代藩主伊達秀宗の次男。母は井伊直政の娘。伊達政宗の孫にあたる。子は卯之松、於千。官位は従五位下、左京亮。.

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伊達村年

四代藩主 伊達村年の墓 (龍華山等覚寺西墓所) 伊達 村年(だて むらとし、宝永2年1月16日(1705年2月9日宇神『シリーズ藩物語 宇和島藩』、P110)- 享保20年5月28日(1735年7月18日宇神『シリーズ藩物語 宇和島藩』、P110))は、伊予宇和島藩の第4代藩主。.

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伊達村緝

伊達 村緝(だて むらつぐ)は、仙台藩一門第八席・岩出山伊達氏第5代当主。.

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伊達村直

伊達 村直(だて むらなお、寛文6年10月28日(1666年11月24日) - 宝永6年2月12日(1709年3月22日))は、江戸時代前期の仙台藩伊達氏の一門。3代藩主伊達綱宗の四男で、登米家の伊達宗倫の養子となった。 登米家を継ぐ時、仙台家より「随身像」を持参した。登米神社本門に置かれている。 村直の時の石高は、新田開発などにより祖白石宗直の頃から5千石増え、約2万石であった。.

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伊達村豊

伊達 宗春(だて むねはる) / 伊達 村豊(だて むらとよ、天和2年11月8日(1682年12月6日) - 元文2年6月30日(1737年7月27日))は、江戸時代中期の外様大名。伊予吉田藩第3代藩主。.

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伊達村永

伊達 村永(だて むらなが、元禄2年(1689年) - 享保9年閏4月26日(1724年6月17日))は、江戸時代前期の伊達氏一門登米伊達氏当主。 父は梁川元頼。母は西大立目蔵人の娘。養父は伊達村直。正室は針生盛信の娘。養子は伊達村倫。幼名百助。通称は若狭、近江。初名は宗永。.

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伊達村望

伊達 村望(だて むらもち)は、江戸時代中期の武士。陸奥国仙台藩一門第六席・岩谷堂伊達氏5代当主。.

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伊達村成

伊達 村成(だて むらしげ)は、江戸時代中期の仙台藩一門第二席・亘理伊達氏第6代当主。.

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伊達敏親

伊達 敏親(だて としちか)は、仙台藩一門第八席・岩出山伊達氏第3代当主。.

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伊豆大島

伊豆大島(いずおおしま)は、伊豆諸島北部に位置する伊豆諸島最大の島。本州で最も近い伊豆半島からは南東方約25kmに位置する。大島と名のつく島は日本各地にあるが、国土地理院では伊豆大島と表記する。面積は91.06km2。行政区域は、東京都大島町である。.

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伊豆実成寺

伊豆実成寺(いずじつじょうじ)は、静岡県伊豆市柳瀬353にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。日興の法脈を継承する富士門流に属し、静岡県の駿東地方に分布する富士五山:北山本門寺、西山本門寺、大石寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、および、京都要法寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」のひとつに数えられる。.

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伊豆諸島

伊豆諸島(いずしょとう)は、太平洋(フィリピン海)に連なる日本領の島々の総称。 伊豆半島の南東方向、伊豆大島から孀婦岩までの間にある100余りの島嶼からなる。最南部のベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩は「豆南諸島(ずなんしょとう)」とも呼ばれる。行政区画としてはいずれも東京都であるが、歴史的経緯から「伊豆諸島」の名称が定着している。 現在、人が定住している島(有人島)の数は9。大島のほか、利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島・青ヶ島の8島がそれである。かつては鵜渡根島や八丈小島・鳥島にも定住者がいたが、今は無人島になっている。また、地内島・早島・大野原島・藺灘波島・ベヨネース列岩・須美寿島・孀婦岩などは有史以来の無人島である。 伊豆諸島の八丈島以北が富士箱根伊豆国立公園に属する。.

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伊藤印達

伊藤 印達(いとう いんたつ、1698年(元禄11年) - 1712年(正徳2年)9月)は江戸時代の将棋指し。五段。五世名人二代伊藤宗印の子(長男)。七世名人三代伊藤宗看、八代大橋宗桂(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(贈名人)は弟。法名は不明。 大橋本家と伊藤家の次期将棋所争いに翻弄された、悲劇の棋士として知られる。.

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伊藤宗看 (3代)

三代伊藤宗看(さんだいいとうそうかん、1706年(宝永3年)-1761年6月2日(宝暦11年4月29日))は江戸時代の将棋指し。七世名人。将棋三家の一つである伊藤家当主。別名に政長、印寿。 父は五世名人二代伊藤宗印(次男)。兄に伊藤印達(五段)。弟に八代大橋宗桂(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(八段、贈名人)。子に四代伊藤得寿(五段)。養子に弟の初代看寿。 指し将棋、詰将棋ともに優れ、「鬼宗看」とも呼ばれる。御城将棋では、18勝6敗1持将棋と圧倒的な強さを誇った(名人就位前の戦績は10勝1敗)。.

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伊藤仁斎

伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年7月20日(1627年8月30日) - 宝永2年3月12日(1705年4月5日))は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。 諱は、はじめ維貞、のち維禎。仮名 (通称)は、源吉、源佐、源七。屋号は、鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。.

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伊藤祐清

伊藤祐清(いとう すけきよ、延宝6年(1678年) - 延享2年(1745年))は、盛岡藩士。.

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伊集院俊方

伊集院 俊方(いじゅういん としかた、宝永3年5月24日(1706年7月4日) - 寛保元年8月13日(1741年9月22日))は、江戸時代の薩摩藩士。通称ははじめ後藤左衛門、後藤兵衛、後に平六。諱は俊方。示現流四代目の東郷実満の三男で、実勝、実賢の同母弟にあたる。 根白坂の戦いで戦死した伊集院日向忠兼の子孫である伊集院為兵衛俊陳の養子となった。.

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伊東祐崇

伊東 祐崇(いとう すけたか)は、江戸時代中期の武士。日向国飫肥藩の世嗣。表向御礼衆交代寄合・伊東祐春の長男。同母弟に表向御礼衆交代寄合・祐連(靱負)。 天和2年(1682年)12月26日、徳川綱吉に初お目見えする。元禄6年(1693年)3月2日、叔父で飫肥藩5代藩主・伊東祐実に男子がいなかったため養嗣子となり、12月18日に従五位下、駿河守に任官する。 宝永4年(1707年)、病気を理由に廃嫡される。しかし、皮肉にも婿・祐永、外孫・祐之よりも長生きした。 延享4年(1747年)、79歳で死去。.

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伊東祐隆

伊東 祐隆(いとう すけたか)は、江戸時代中期の大名。日向国飫肥藩の第8代藩主。 第6代藩主・伊東祐永の3男。正徳6年(1716年)正月13日生まれとも、宝永7年(1710年)生まれとも言われている。庶長子のため父・伊東祐永から家督を継げなかったが、延享元年(1744年)に異母弟で7代藩主・祐之が没すると家督を継いだ。 宝暦7年(1757年)8月18日に死去。家督は長男・祐福が継いだ。 すけたか *08 Category:1716年生 Category:1757年没.

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伊東祐春

伊東 祐春(いとう すけはる)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本。家格は表向御礼衆交代寄合。日向国飫肥藩分家である江戸幕府表向御礼衆交代寄合の伊東氏の祖。 伊東祐久の三男として誕生。明暦2年(1656年)8月15日、将軍・徳川家綱に初お目見えする。翌明暦3年(1657年)12月27日、兄・祐由より那珂郡のうち3千石を分地され、江戸幕府表向御礼衆交代寄合となり、飫肥城下に居住する。寛文3年(1663年)4月、私領地の視察を許可される。これ以降、私領視察は江戸幕府表向御礼衆交代寄合伊東氏の慣例となる。元禄13年(1700年)12月5日、隠居した。長男・祐崇は弟・祐実の養子となったので、家督は次男・祐連が継承した。 享年72。.

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伊木忠義

伊木 忠義(いぎ ただよし、寛文9年5月21日(1669年6月19日) - 享保5年8月1日(1720年9月3日))は、岡山藩筆頭家老。第5代伊木家当主。通称は将監。主君は池田綱政、継政。.

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伊木忠親

伊木 忠親(いぎ ただちか、承応元年(1652年)11月 - 宝永元年8月22日(1704年9月20日))は、岡山藩筆頭家老。第4代伊木家当主。官位は従五位下。通称は清兵衛。主君は池田綱政。.

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会所 (中世)

会所(かいしょ)とは、文字通り解釈すれば、なんらかの会、催し物、寄合・会合が行われるところであるが、日本の中世期に発展して、ある特定の区画、さらには独立した建物が「会所」と名づけられることもあった。特に、会所が最も発達した室町時代については、節を設けて詳しく解説する。また、江戸時代における会所については会所 (近世)を参照のこと。.

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伏見宮貞建親王

伏見宮貞建親王(ふしみのみや さだたけしんのう、元禄13年12月21日(1701年1月29日) - 宝暦4年7月21日(1754年9月7日) )は、江戸時代中期の皇族。伏見宮第15代。伏見宮邦永親王の第三王子。母は、霊元天皇第五皇女福子内親王(よしこないしんのう)。幼称は若宮。 宝永5年(1708年)東山天皇の猶子となり、翌宝永6年(1709年)5月親王宣下を蒙り、貞建と命名される。正徳5年(1715年)10月元服し、兵部卿に任ぜられる。享保4年(1719年)正月東山天皇の第一皇女秋子内親王と結婚。 享保12年(1727年)二品に叙され、宝暦4年(1754年)7月21日一品に叙せられる。同21日薨去。55歳。法名、後乾徳院。 王子女に邦忠親王のほか、邦頼親王(尊宝入道親王)、尊英入道親王、千代宮寿子女王(東本願寺乗如室)、尊真入道親王、安津宮賢子女王(広幡前豊室)、田鶴宮貞子女王(徳川重好室)がいる。また、養子に富宮徳子女王(今出川公詮女、徳川宗将室)、賀伝宮近子女王(専修寺円超女、専修寺円遵室)がいる。.

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伝馬宿入用

伝馬宿入用(てんましゅくにゅうよう)とは、江戸幕府が直轄領(天領)に対して賦課した付加税で高掛三役の1つ。.

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弥富市

弥富市(やとみし)は、愛知県の西南部の市である。.

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似雲

似雲(じうん、寛文13年1月2日(1673年2月18日)- 宝暦3年7月8日(1753年8月6日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧・歌人。俗姓は河村氏。通称は金屋吉右衛門。安芸国の出身。.

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弘メ

弘メ(ひろめ)は、江戸時代の風習。同業者の株仲間に加入した者や、新規に土地の地主になった者、役職に就いた大名・旗本などが、先輩に当たる者たちやその他の関係者に、その事実を周知して金銭や贈り物を配る慣習である鈴木浩三著『江戸のお金の物語』日本経済新聞出版社、124-125頁。。「広め」「披露目」とも記述される鈴木浩三著『江戸商人の経営 生き残りを賭けた競争と協調』日本経済新聞出版社、175-176頁。。現代の結婚披露宴は、その民俗的な名残である。.

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弘前市

弘前市(ひろさきし)は、青森県西部の市である。日本で最初に市制施行地に指定された都市のひとつ。弘前藩の城下町として発展し、現在も津軽地方の中心都市として、周辺自治体に広がる人口約31万人(2005年時点)の弘前都市圏を形成している。.

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住友吉左衛門

住友 吉左衛門(すみとも きちざえもん)は、住友財閥の創業家・住友家が3代目から代々、襲名した名前。名乗り始めた3代目以降、14代目と当代(17代目)以外は名前に「友」の字を持つ者が襲名している。.

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住吉大社

住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。.

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住吉具慶

住吉 具慶(すみよし ぐけい、寛永8年(1631年) - 宝永2年4月3日(1705年4月23日))は、江戸時代前期の絵師。住吉如慶の長男で住吉派の2代目。名は広純、のち広澄。通称は内記、別号に松岩。弟に広夏(鶴州)。江戸前期を代表する大和絵師のひとり。.

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佐太神社

佐太神社(さだじんじゃ)は、島根県松江市鹿島町佐陀宮内にある神社。出雲国二宮である。出雲國神仏霊場第四番。.

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佐久間信忠

佐久間 信忠(さくま のぶただ)は、江戸時代中期の旗本。 宝暦2年(1752年)12月26日、義父・佐久間信厚から家督(蔵米250俵)を継いだ。宝暦3年(1753年)5月6日、御納戸番に列せられた。 宝暦4年(1754年)12月11日、新番に転任。 宝暦9年(1759年)10月28日、死去。享年55。 のふたた Category:江戸幕府旗本 Category:1705年生 Category:1759年没.

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佐久間信精

佐久間 信精(さくま のぶよし)は、江戸時代中期の旗本。 貞享元年(1684年)、7歳で将軍綱吉に拝謁。 元禄六年(1693年)、御小姓組の番士に列せられ、蔵米300俵を給わった。 宝永4年(1707年)、父・佐久間信房に先立ち死去。享年30。 のふよし Category:江戸幕府旗本 Category:1678年生 Category:1707年没.

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佐久間信編

佐久間 信編(さくま のぶつら)は、江戸時代中期の旗本。 神田の館において将軍任官前の徳川綱吉に仕え、小姓組を勤めた。延宝8年(1680年)、綱吉の子・徳松の西の丸入りに父と共に従う。徳松逝去後は小普請を勤めた。 元禄2年(1689年)閏正月14日桐間番に列したが、2月13日には小普請に戻された。元禄3年(1690年)2月16日、大番となった。元禄10年(1697年)7月11日、家督(蔵米300俵)を継いだ。元禄15年(1702年)11月4日、大番を辞す。 宝永4年(1707年)11月27日、死去。享年58。 のふつら Category:江戸幕府旗本 Category:1650年生 Category:1707年没.

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佐久間信登

佐久間 信登(さくま のぶたか)は、江戸時代中期の旗本。 元禄14年(1701年)7月12日、将軍・徳川綱吉に初めて拝謁。宝永5年(1708年)閏1月5日、家督(蔵米300俵)を相続。 享保4年(1719年)10月18日、大番に列せられた。享保6年(1721年)閏7月26日、御納戸番となり、享保18年(1733年)12月28日に辞した。 享保20年3月10日、死去。 のふたか Category:江戸幕府旗本 Category:生年不明 Category:1735年没.

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佐久間信詮

佐久間 信詮(さくま のぶのり)は、江戸時代中期の旗本。 寛文10年(1670年)、佐久間信就の子として誕生。宝永6年(1709年)4月6日、御小姓組に列する。享保5年(1720年)5月23日に家督を相続、1700石のうち1300石を自ら知行し、400石を義弟・佐久間信仍に分知した。享保8年(1723年)3月12日、勤務の褒賞として黄金一枚を賜った。 享保17年閏5月19日に死去。享年63。 のふのり Category:江戸幕府旗本 Category:1670年生 Category:1732年没.

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佐久間信貞

佐久間 信貞(さくま のぶさだ)は、江戸時代前期の旗本。.

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佐久間信房

佐久間 信房(さくまのぶふさ)は、江戸時代中期の旗本。 寛文7年(1667年)12月14日、将軍・家綱に拝謁。寛文12年(1672年)5月26日、御書院番に列せられる。貞享元年(1684年)12月16日、家督(武蔵国児玉郡、横見郡の内1000石)を相続。 元禄元年(1688年)3月28日から進物番に就く。元禄6年(1693年)5月11日、筑前国と肥前国の間で争いになっていた土地の検分に派遣された。元禄7年(1694年)4月14日、目付に任ぜられ、同年12月18日、布衣を許された。元禄10年(1697年)5月11日、駿府町奉行に転任、元禄13年(1700年)4月25日に職を辞して寄合に列した。 宝永元年(1704年)10月9日、御先弓頭となる。宝永3年(1706年)11月26日から西の丸に出仕となり、宝永6年(1709年)に本丸に復帰。正徳元年(1711年)5月25日、盗賊追捕役を命ぜられ、正徳3年(1713年)8月29日まで勤めた。享保5年(1720年)1月11日、御槍奉行となる。 享保7年(1722年)10月15日死去。享年73。 のふふさ Category:江戸幕府旗本 Category:江戸幕府目付 Category:遠国奉行 Category:火付盗賊改方 Category:武蔵国の人物 Category:1650年生 Category:1722年没.

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佐久間豊信

佐久間 豊信(さくま とよのぶ)は、江戸時代中期の旗本。。 宝永4年(1707年)8月21日、僅か7歳にして父・佐久間信精の跡(蔵米300俵)を継ぎ、小普請となった。享保2年(1717年)5月12日、初めて将軍吉宗に拝謁。 享保7年(1722年)12月25日、祖父・信房の家督(1000石)を継ぎ、そのうちから200石を叔父・房元に分知したが、父から受けた蔵米は返上した。享保9年(1724年)10月9日、御小姓組に列せられた。後に西城御書院番に転任した。 元文元年(1736年)5月30日、死去。享年36。 とよのふ Category:江戸幕府旗本 Category:1701年生 Category:1736年没.

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佐伯城

佐伯城(さいきじょう)は、大分県佐伯市にあった日本の城である。江戸時代には佐伯藩の藩庁が置かれた。「さえき」と読むのは誤り。 大分百景、 続日本100名城(194番)に選定されている。.

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佐伯藩

佐伯藩(さいきはん佐伯藩の仮名表記については、『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985)135頁「佐伯藩」の項などに見える通り、大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)制定)と同様に「さいき」と表記するのが通例だが、『日本歴史大事典』第5巻(河出書房新社、1979)46頁「佐伯藩」の項のように、改編前の「さえき」表記を用いる例も見られる。)は、江戸時代に豊後海部郡に存在した藩の一つ。藩祖は毛利高政。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯市)に置かれた。.

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佐佐木広高

佐佐木 広高(ささき ひろたか、正保3年(1646年)- 宝永7年9月10日(1710年10月31日))は、江戸時代中期の長州藩士。尼子氏(佐佐木氏)の10代目当主である。実父は宍道元兼で、先代尼子就易の父宍道就兼の兄にあたり、広高はその元兼の次男である。初名は氏久(うじひさ)、のちに藩主毛利綱広より偏諱を賜って広高に改名。子には佐佐木元氏、娘2人が粟屋元興室・粟屋元興継室と粟屋氏へと嫁いでいる。 先代就易には実子が無かったため、その従弟である広高が養子となった。宍道氏は近江佐々木氏の一家である京極氏5代目当主京極高秀の四男の秀益が、出雲国意宇郡宍道に居を構えたことから始まっているが、秀益は尼子氏の祖である尼子高久とは兄弟である。また、就易と元兼の曽祖父宍道隆慶の母が尼子国久の娘であり、こういった経緯から、先代就易と同じく広高も尼子氏の養子に入ったと推測される。 宝永7年(1710年)9月10日に死去した。享年64。家督は子の元氏が継承した。 Category:尼子氏 Category:宍道氏 Category:長州藩士 Category:1646年生 Category:1710年没.

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佐々木定賢

佐々木 定賢(ささき さだかた)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。加賀藩士。佐々木左近大夫家3代当主。1000石を有した。.

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佐竹寺

佐竹寺(さたけじ)は、茨城県常陸太田市にある真言宗豊山派の寺である。山号は妙福山、院号は明音院。本尊は十一面観音。坂東三十三観音霊場の二十二番札所。.

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佐竹義命

佐竹 義命(さたけ よしかた)は、佐竹氏一門の佐竹北家第10代当主。佐竹北家角館第3代所預。公家高倉家出身の祖父義隣や、三条西家出身の母の影響を受けた教養人で、子孫も代々書画や俳諧、和歌に秀でた当主を輩出した。  .

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佐竹義都

佐竹 義都(さたけ よしくに)は、出羽国久保田新田藩の初代藩主。佐竹義寘の長男。 父義寘は久保田藩主佐竹義隆の長男であったものの庶子であり、本家を相続できなかった。天和2年(1682年)12月21日、将軍徳川綱吉に御目見する。元禄元年(1688年)3月1日、小姓となる。同年4月12日、解任される。元禄14年(1701年)2月11日、久保田藩主佐竹義処から1万石を分与された。宝永6年(1709年)3月7日、従五位下式部少輔に叙任される。享保5年(1720年)11月27日、隠居して長男の義堅に家督を譲る。享保9年(1724年)4月23日、乱心のために幽居の身となり、同年6月28日に江戸・深川邸において囲いの身となる。享保10年2月15日死去、享年61。 よしくに *01 Category:1665年生 Category:1725年没.

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佐竹義村

佐竹 義村(さたけ よしむら、宝永3年(1706年) - 明和5年(1768年))は、佐竹氏一門の佐竹西家当主。久保田藩大館第6代所預。 父は小場處慶。養父は西家佐竹義方。正室は石塚義敬の娘。子は佐竹義休。幼名は元千代。通称は石見、大和。.

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佐竹義格

佐竹 義格(さたけ よしただ、元禄7年12月11日(1695年1月25日) - 正徳5年7月19日(1715年8月17日))は、出羽久保田藩の第4代藩主。父は第3代藩主・佐竹義処(義格は三男)。母は布施氏(智清院)。幼名は千代助、千代丸。通称は源次郎。官位は従四位下侍従、大膳大夫。.

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佐竹義方 (西家)

佐竹 義方(さたけ よしかた、天和3年(1683年) - 宝永7年(1710年))は、佐竹氏一門の佐竹西家当主。久保田藩大館第5代所預。 父は東家佐竹義秀。養父は西家佐竹義武。養子は佐竹義村。幼名は亥之助。通称は六郎。.

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佐貫城

佐貫城(さぬきじょう)は、千葉県富津市佐貫にあった日本の城。江戸時代には佐貫藩の藩庁が置かれた。.

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佐貫藩

佐貫藩(さぬきはん)は、江戸時代の上総国に存在した藩。藩庁は天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市佐貫字城山)の佐貫城に置かれた。 徳川家康の関東入部時に内藤氏が佐貫を与えられて以降、幕府領となった時期を挟みつつ譜代大名が交代して治めた。1710年以降は阿部氏が藩主となり、廃藩置県を迎えている。.

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佐藤酒造店 (郡山市)

佐藤酒造店(さとうしゅぞうてん)は、福島県郡山市富久山町の清酒製造業者である。商標は二本松藩主丹羽氏から授けられた『藤乃井』。 グループ会社として山形県東置賜郡川西町の嵐山酒造がある。 福島県新酒鑑評会金賞、南部杜氏自醸清酒鑑評会優等賞、仙台国税局清酒鑑評会優等賞などの受賞歴あり。.

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佐脇嵩之

佐脇 嵩之(さわき すうし、宝永4年(1707年)‐明和9年7月3日(1772年8月1日))は江戸時代の英派の絵師。.

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影向寺

影向寺(ようごうじ)は、川崎市宮前区にある天台宗の寺院。本尊は薬師如来である。「稲毛薬師」とも称する。 中原街道沿いに位置する。創建当時の建造物は無く、遺物もほとんど残されていないが、「関東の正倉院」とも言われる関東地方屈指の古刹。縁起によれば創建は天平12年(740年)、開基は行基とされているが、近年の発掘調査により創建は7世紀後半にまで遡ることが確実とされている。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御城碁

御城碁(おしろご)は、江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局。寛永3年(1626年)頃に始まり、毎年1回、御城将棋とともに2、3局が行われ、幕末の元治元年(1864年)に中止となるまでの230年余りに渡って続いた。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとってもっとも真剣な勝負であった。また碁によって禄を受けている家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露する義務としての意味もあり、寺社奉行の呼び出しによるという形式で行われた。実際に将軍が観戦することは多くなかったが、代行として老中などが列席した。 全部で536局の対局が行われ、出仕した棋士は67名。代表的な成績としては、本因坊秀策の、嘉永2年(1849年)から文久元年(1861年)にかけての19連勝が有名。.

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御嶽山

御嶽山(おんたけさん)は、長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である日本山名辞典 (1992)、116頁新日本山岳誌 (2005)、972-973頁。大きな裾野を広げる独立峰である深田久弥 (1982)、227-230頁。 2014年9月27日に7年ぶりに噴火。山頂付近にいた登山客が巻き込まれ、1991年雲仙普賢岳の火砕流による犠牲者数を上回る事態となった。.

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御仕置裁許帳

御仕置裁許帳(おしおきさいきょちょう)とは、宝永年間に江戸町奉行所の官僚によって作成されたと推定されている判例集のこと。現存するものは全12巻(国立国会図書館所蔵本)であるが、元は上中下の全3巻であったとされている。.

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御神酒頂戴式

御神酒頂戴式(おみきちょうだいしき)は、栃木県益子町指定無形文化財で、江戸時代から続く伝統行事。 祇園祭の祭禮記録によると宝永2年(1705年)からの伝統を誇る。 関東三大奇祭の一つと云われ、五穀豊穣、無病息災を祈る。祭の当番引継ぎの儀式でもある。.

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御霊神社 (福知山市)

御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、京都府福知山市にある神社。.

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徳大寺

徳大寺(とくだいじ)は、東京都台東区上野4丁目アメヤ横丁の商店街の中にある日蓮宗の寺院。山号は妙宣山。本尊は大曼荼羅。開運摩利支天を祀ることから摩利支天山(まりしてんさん)とも呼ばれる。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。 周囲を商店に囲まれた環境の中で立体構造型の特異な寺院様式を呈しており、参道上にアメ横周辺では異色の空間といえる境内が広がる。正午と夕暮れ時6時の商店街に響きわたる鐘の音は、徳大寺の鐘楼堂によるものである。.

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徳大寺公全

徳大寺 公全(とくだいじ きんたけ、延宝6年7月10日(1678年8月26日) - 享保4年12月2日(1720年1月11日))は、江戸時代中期の公卿。主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)の二帝にわたり仕え、官位は正二位内大臣まで昇った。父は権大納言醍醐冬基。母は権大納言藪嗣孝の娘。養父は内大臣徳大寺実維。正室は関白近衛家熙の娘・徳君、のち継室として対馬藩主宗義真の娘。子に権大納言徳大寺実憲がいる。 天和2年(1682年)に叙爵して以降清華家当主として速い速度で昇進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将などを歴任し、元禄5年(1692年)に従三位となり公卿に列する。権中納言・踏歌節会外弁を経て元禄12年(1699年)に権大納言に就任。元禄13年(1700年)から宝永元年(1704年)にかけては神宮伝奏をつとめ、正徳2年(1712年)から享保4年(1719年)にかけては武家伝奏をつとめた。享保4年(1719年)には内大臣に任じられた。 きんとも きんとも Category:江戸時代の公家 Category:1678年生 Category:1720年没.

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徳島県

徳島県(とくしまけん)は、日本の県の一つ。四国の東部に位置する。県庁所在地は徳島市。.

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徳川吉孚

徳川 吉孚(とくがわ よしざね)は、水戸藩第3代藩主徳川綱條の世子。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川吉通

徳川 吉通(とくがわ よしみち)は、尾張藩の第4代藩主。.

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徳川大五郎

徳川 大五郎(とくがわ だいごろう、宝永5年12月22日(1709年2月1日) - 宝永7年8月12日(1710年9月5日))は、江戸時代中期の江戸幕府第6代将軍・徳川家宣の三男。第7代将軍・徳川家継の異母兄である。.

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徳川家千代

徳川 家千代(とくがわ いえちよ)は、江戸幕府の第6代将軍・徳川家宣の次男である。第7代将軍・徳川家継の異母兄にあたる。.

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徳川家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.

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徳川家継

徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。 第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。.

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徳川宗堯

徳川 宗堯(とくがわ むねたか)は、常陸国水戸藩の第4代藩主。.

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徳川宗勝

徳川 宗勝(とくがわ むねかつ)は、尾張徳川家の尾張藩第8代藩主。御連枝川田久保松平家第2代当主、高須藩四谷松平家の第3代藩主でもあった。 川田久保松平家初代・松平友著(尾張徳川家第2代当主・徳川光友の十一男)の長男。母は側室湯本氏(繁、円珠院)。尾張徳川家第4・6・7代当主である吉通・継友・宗春兄弟の従弟に当たる。正室は第4代藩主・徳川吉通の次女・三姫(宝蓮院)。側室は倉林氏(すめ・寿光院)・馬場氏(とせ・清光院)・寺嶋氏(そよ・仙宥院)と多数。.

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徳川宗直

徳川 宗直(とくがわ むねなお)は、伊予西条藩の第2代藩主、のち紀州藩の第6代藩主。西条藩初代藩主・松平頼純の五男(次男、四男との記述も)。母は太田氏(観樹院)。官位は従二位大納言。幼名は甚太郎、西条藩主時代は松平頼致(まつだいら よりよし)を名乗る。.

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徳川宗春

徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。尾張徳川家第7代当主・第7代尾張藩主。尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。 尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。 歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前の諱は兄徳川吉通の「通」の字を得て通春。.

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徳川将軍一覧

徳川将軍一覧(とくがわしょうぐんいちらん)では、江戸幕府(徳川幕府)の歴代征夷大将軍を一覧にしている。15人をまとめて徳川十五代と呼ぶこともある。 秀忠を除く14人が征夷大将軍と同時に源氏長者に任じられ、没後に正一位を贈られている。ほとんどが、生前または没後に太政大臣まで昇進している。ちなみに15代の将軍のうち、家康・家光・慶喜のみ(父親の)正室から産まれている。.

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徳川光貞

徳川 光貞(とくがわ みつさだ)は、紀州藩の第2代藩主。初代藩主・徳川頼宣の長男で、徳川家康の孫。正室は伏見宮貞清親王の娘。子に5代藩主から8代将軍となった吉宗の他、綱教(3代藩主)・頼職(4代藩主)などがいる。極位極官は従二位権大納言。贈従一位。 3代将軍徳川家光や、他の徳川御三家の第2代当主(尾張藩主徳川光友・水戸藩主徳川光圀)とは従兄弟関係にある。.

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徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.

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徳川綱重

徳川 綱重(とくがわ つなしげ)は、甲斐甲府藩主。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の三男。母は側室の夏(順性院)、養母は天樹院(千姫)、乳母は松坂局。.

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徳川綱條

徳川 綱條(とくがわ つなえだ)は、江戸時代中期における常陸水戸藩の第3代藩主。.

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徳川綱教

徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、紀州藩の第3代藩主。.

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徳川頼職

徳川 頼職(とくがわ よりもと)は、紀州藩の第4代藩主。.

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徳光神社

徳光神社(とっこうじんじゃ)は鹿児島県指宿市山川岡児ケ水にある神社。別名「からいも神社」。旧社格は村社。.

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徳浄寺 (大阪市)

徳浄寺(とくじょうじ)は、大阪府大阪市浪速区にある浄土真宗本願寺派の寺院。本尊は阿弥陀如来。.

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後藤庄三郎

後藤 庄三郎(ごとう しょうざぶろう)は、近世日本の金座の当主、すなわち御金改役に与えられた名称である。初代の後藤庄三郎光次に始まり、以後世襲制の家職となった。.

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後藤四郎兵衛

後藤四郎兵衛家(ごとうしろべえけ)は、室町時代から江戸時代にかけて御用達の彫金を家職としてきた。 代々、後藤家の当主は後藤四郎兵衛(ごとうしろべえ)を通称とした。小判鋳造を手がけた金座の後藤庄三郎家と区別するため大判座後藤(おおばんざごとう)とも呼ばれた。.

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後楽園

後楽園から岡山城を望む 唯心山から沢の池を望む 後楽園(こうらくえん)は、岡山県岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、日本三名園のひとつである。 江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。.

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保科正寿

保科 正寿(ほしな まさひさ)は、上総飯野藩の第5代藩主。 宝永元年(1704年)、第3代藩主・保科正賢の三男として生まれる(生年には元禄15年(1702年)説もある)。異母兄で第4代藩主の正殷に嗣子が無かったため、享保2年(1717年)2月にその養子となり、享保3年(1718年)11月22日に正殷が隠居すると家督を継いだ。12月には従五位下、弾正忠に叙位・任官する。 享保4年(1719年)、享保6年(1721年)、享保7年(1722年)に和田倉門番、享保5年(1720年)、享保18年(1733年)に日光祭礼奉行、享保10年(1725年)、享保11年(1726年)、享保17年(1732年)、元文2年(1737年)に半蔵口門番、享保8年(1723年)、享保13年(1728年)、享保15年(1730年)に大坂加番、元文2年(1737年)7月に大坂定番に任じられるなど、諸役を歴任した。 元文4年(1739年)5月29日、大坂で死去した。享年36。跡を次男の正富が継いだ。 まさひさ *05 Category:1704年生 Category:1739年没.

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保戸野金砂町

金砂神社 保戸野金砂町(ほどのかなさまち)は秋田県秋田市にある町。郵便番号は010-0902。住居表示実施済み地区。.

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忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵 夜討人数ノ内 堀辺弥津兵衛 堀辺弥次兵衛肖像」 歌川国貞画。 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)は、 人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。 なお、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分もある(赤穂事件参照)。.

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信受院

信受院(しんじゅいん、宝永3年9月29日(1706年11月4日) - 宝暦7年11月15日(1757年12月25日))は、九条幸教の正室。尾張藩主・徳川吉通の長女。名は千姫(せんひめ)。 宝永3年(1706年)、江戸で生まれた。母は側室・さん。享保5年(1721年)12月21日、叔父徳川継友の養女となり、幸教と縁組した。享保8年(1723年)9月23日に上京し、27日に婚礼を挙げた。享保10年(1725年)に長男・九条稙基を、享保12年(1727年)に次男・二条宗基を出産した。宝暦7年(1757年)、京都で死去。享年52。東福寺に葬られた。.

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心中物

心中物(しんじゅうもの、歴史的仮名遣:しんぢゆうもの)とは、心中や情死を題材とした江戸時代の人形浄瑠璃・歌舞伎・歌謡のジャンルのひとつ「心中物」世界大百科事典2版。近松門左衛門の人形浄瑠璃で知られる。.

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心光院 (京都市)

心光院(しんこういん)は京都府京都市左京区岩倉下在地町にある、浄土宗知恩院派(鎮西派)の寺院。山号は紫雲山。知恩院末寺。.

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土屋定直

土屋 定直(つちや さだなお、元禄2年(1689年) - 宝永2年閏4月9日(1705年5月31日))は、常陸土浦藩の嫡子。老中を務めた第2代藩主・土屋政直の三男。官位は従五位下、出羽守。 兄・昭直が早世したため代わって嫡子となる。元禄9年(1696年)に徳川綱吉に初御目見し、元禄16年(1703年)に叙任する。兄と同様、宝永2年(1704年)に早世した。代わって弟の陳直が嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 さたなお Category:1689年生 Category:1705年没.

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土屋喬直

土屋 喬直(つちや たかなお、寛文6年(1666年) - 享保10年8月23日(1725年9月29日))は、江戸時代の旗本。土屋利直の三男。通称、数馬・刑部。初名は宗直。兄に土屋直樹、相馬忠胤。子に土屋安直、土屋縄直、土屋倫直、娘に三浦明喬室(土屋政直養女)、滝川利章室(後に離縁して松田貞居室)、小栗正辰室がいる。 延宝3年(1675年)に兄の土屋直樹襲封にあたり、上総国市原郡の新墾田2000石を分知され旗本となった。その後、延宝7年(1679年)に下総国相馬郡川原代村のほか、常陸国河内郡、茨城郡内に移された。書院番などを歴任。宝永7年(1710年)、幕府巡見使にとして九州各地に赴く。この時に河合曾良が随員として同行している。墓所は君津市久留里の円覚寺。 たかなお Category:江戸幕府旗本 Category:1666年生 Category:1725年没.

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土屋陳直

土屋 陳直(つちや のぶなお)は、常陸土浦藩の第3代藩主。 元禄8年(1695年)12月11日、第2代藩主土屋政直の四男として生まれる。兄の昭直、定直が早世したため嫡子となり、宝永6年(1709年)に従五位下・左京亮に叙位・任官する。享保4年(1719年)5月28日、父が隠居したため家督を継いだ。6月9日に紅葉山三の丸火の番に任じられ、8月16日に大手御門番に任じられる。 享保8年(1723年)3月25日に奏者番に任じられる。享保11年(1726年)2月16日に西の丸大手御門番に任じられる。藩政では新田開発(森沖新田・下沼新田)や城下町の拡大などに尽力している。しかし、享保15年から翌年にかけて洪水により領内が大被害を受けたため、享保16年(1731年)12月には岩間領で強訴が起きている。 享保19年(1734年)1月16日に死去した。享年40。跡を次男の篤直が継いだ。 のふなお Category:土浦藩主 Category:1696年生 Category:1734年没.

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土岐頼泰 (高家)

土岐 頼泰(とき よりやす)は江戸時代の高家旗本。土岐頼晴の子で、土岐頼次の玄孫に当たる。 元禄15年(1702年)7月11日、徳川綱吉に拝謁。9月29日、父の遺跡を継いで700石を知行、弟・頼行に300石を分知し、父に先立って亡くなった兄・頼茂の子・頼盈を養嗣子とする河原芳嗣『江戸の旗本たち -墓碑銘をたずねて-』(アグネ、1997年)86-87頁。 堅苦しい役目になじめず、日々酒に溺れたとされる。宝永3年(1706年)6月28日、泥酔して江戸市中を徘徊、小普請・志村金五郎政豊の下僕と商人に斬り付け、負傷させる。これにより、評定所の裁断を受けて大和新庄藩主・永井直圓に預けられる。同年8月18日、日頃の不行跡もあったため改易され、上野国伊勢崎藩主・酒井忠告の元に永預けとなる。宝永5年(1708年)5月、配所で死去、享年不明。これにより頼次流高家土岐氏は断絶した。.

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土崎神明社祭の曳山行事

7月21日昼、土崎の南端・穀保町にて撮影 土崎神明社祭の曳山行事(つちざきしんめいしゃさいのひきやまぎょうじ)は、土崎神明社例祭で、秋田県秋田市土崎港地区で18世紀から続いている祭典行事。毎年7月20日の宵宮(よみや)と21日の本祭りの2日間に渡って行われる。 日本の重要無形民俗文化財。 土崎神明社例祭の俗な呼称としては、「みなと祭り曳山行事の直前に土崎経済同友会が土崎地区全世帯に毎年配布しているガイド冊子の名称は現在『港曳山祭りのしおり』であるが、2004年(第33号)までは『みなと祭りのしおり』であった。」、「土崎港曳山まつり」などがある。なお、土崎地区以外の秋田市民であれば、単に「土崎の祭り」という呼び方をすることが多い。.

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土井利意

土井 利意(どい としもと)は、三河西尾藩の第2代藩主。刈谷藩土井家2代。.

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土佐光成

下赤坂城の戦い) 『楠公一代絵巻』(千早城内でわら人形を作っている光景) 土佐 光成(とさ みつなり、正保3年12月20日(1647年1月25日) - 宝永7年3月21日(1710年4月19日))は、江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。.

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土佐物語

『土佐物語』(とさものがたり)は、土佐国の戦国大名・長宗我部氏の興亡を描いた軍記物。作者は吉田孝世。宝永5年(1708年)成立。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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土倉一ミチ

土倉 一涂(とくら かずみち、元禄4年(1691年)- 正徳元年12月21日(1712年1月28日))は、岡山藩の家老。 兄弟は山崎尭治、京極高通室。正室は鴨方藩主池田政言の娘。養子に土倉一貞。幼名は大五郎。通称は市正。.

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土方豊義

土方 豊義(ひじかた とよよし)は、伊勢菰野藩の第4代藩主。 元禄2年(1689年)8月3日、第3代藩主・土方雄豊の嫡男・豊高の長男として江戸で生まれる。父が1698年に早世したため祖父の養子となり、宝永2年(1705年)の祖父の死去で跡を継いだ。ただし、若年のために叔父の久長が後見人とした。このとき、久長に1000石を分与したため、菰野藩は1万1000石となった。 享保3年(1718年)、大坂加番となったが、まもなく発病して享保4年(1719年)7月1日、在任中のまま大坂城で死去した。享年31。跡を長男の雄房が継いだ。 とよよし *04 Category:1689年生 Category:1719年没.

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土方雄豊

土方 雄豊(ひじかた かつとよ、寛永15年11月19日(1638年12月24日) - 宝永2年7月1日(1705年8月19日))は、伊勢菰野藩の第3代藩主。 土方氏久(初代菰野藩主・土方雄氏の次男)の三男。母は松本藩主・水野忠清の娘。子は豊高(長男)、久長(次男)。通称は清十郎、主殿助、杢助。官位は従五位下・備中守、市正。 京都に生まれる。慶安3年(1650年)5月11日、伯父にあたる第2代藩主・雄高の娘と結婚してその養子に入った。慶安4年(1651年)9月に雄高が死去したため、翌承応元年(1652年)2月8日に15歳で家督を相続した。寛文元年(1661年)12月13日、将軍・徳川家綱に初御目見し、28日に従五位下・備中守に叙任された。寛文2年(1662年)4月に初めて菰野に入った。寛文3年(1663年)12月には江戸で火消し大名として活躍し、将軍・家綱からも表彰された。延宝7年(1679年)、官職を市正に改めた。延宝8年(1680年)に志摩鳥羽藩主・内藤忠勝が刃傷事件のために改易に処された際には、雄豊が鳥羽城受け取り役に命じられ、志摩国鳥羽へ赴いた。 天和3年(1683年)に院使饗応役を命じられているが、このとき播磨赤穂藩主・浅野長矩が相方の勅使饗応役を勤めていた。指南役は吉良義央であった。この時に浅野と土方は親しくなったようで、長矩の養子長広(長矩の実弟)は、雄豊の養女(長男・豊高の娘)と縁組することになる。 宝永2年(1705年)7月31日に死去した。享年68。菰野の見性寺に葬られた。法名は通霄院殿玄峯孤順大居士。家督は長男・豊高が父に先立って死んでいたため、孫(豊高の長男)の豊義が継いだ。 かつとよ *03 Category:1638年生 Category:1705年没.

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土方雄房

土方 雄房(ひじかた かつふさ)は、伊勢菰野藩の第5代藩主。 宝永8年(1711年)4月1日、第4代藩主・土方豊義の長男として菰野で生まれる。享保4年(1719年)に父が死去したためその跡を継ぐ。しかし幼少のため、先代からの重臣で大叔父にあたる土方久長の補佐を受けた。藩政においては武芸より文治政策を採用し、学問を奨励している。 寛延3年(1750年)1月25日に弟で養子の雄端に家督を譲って隠居する。 宝暦8年(1758年)11月20日、直前に死去した雄端の後を追うように江戸で死去した。享年48。 かつふさ *05 Category:1711年生 Category:1758年没.

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土手町通

土手町通(どてまちどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。北は丸太町通から、南は七条通まで至る。途中、夷川通と上ノ口通との間で中断し、通りは二つの区間に大きく分断される。そのため全長は約700メートルと短い。 全ての区間において北行きの一方通行となっている。.

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江戸時代に両替商で用いられた後藤分銅貳拾両(200匁:749.07g), 拾両(100匁:374.62g) 匁(もんめ)(記号:mom)には、以下の二つの用法があった『廣漢和辞典 上巻』「勹部-匁(1410)」,p416.。.

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地割役

地割役(じわりやく)は、江戸の町の地割を担当する役人。町地の受渡しに町奉行所の役人や町年寄とともに立合った。町方を支配する町奉行の下に町年寄三家があり、地割役はその下に付随した。.

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地福寺 (奈良市)

地福寺(じふくじ)は、奈良県奈良市北椿尾町にある融通念仏宗の寺院。山号は医王山。本尊は十一面観音立像。 由緒は不詳。津藩の藩政史料である『宗国史』には、寛永12年(1635年)の寺院明細帳によると、北椿尾の融通念仏宗地福寺の檀徒が304人であったとの記録が残されている。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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地震の年表 (日本)

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北一色町 (豊田市)

北一色町(きたいしきちょう)は、愛知県豊田市の町名。.

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北畠物語

北畠物語(きたばたけものがたり)とは、七巻から構成される軍記物語。伊勢国司北畠氏の盛衰を描いている。1694年(元禄7年)と1705年(宝永2年)の二度に渡って再刊された。 北畠顕能が伊勢国司に就任したのを皮切りに、最後の当主北畠具教の弟北畠具親が1586年に没するまでを記述しているが、末期の具教、具親時代の趨勢や人物の事績に、記述の大半が割り当てられている。織田信長の伊勢侵攻や、伊勢長島の一向一揆に関しても、詳らかに描かれている。 成立年代は不詳だが、具親の死没で記述が終わっていることと、奥書に1628年に書写されたと記載されていることから、1586年から1628年までの成立であると推定されている。.

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北越軍談

『北越軍談』(ほくえつ ぐんだん)は、江戸時代の軍学書。元禄10年(1697年)に成立。著者は『関東古戦録』を著した槇島昭武でのちに「駒谷散人」と号し、近江膳所藩本多家の浪人とされる。 近世には戦国期の軍事・合戦への関心が強まり、多くの軍学者が出現し、『甲陽軍鑑』をはじめとする軍学書が成立するが、『甲陽軍鑑』が甲斐武田氏に関する軍学書であるのに対し、『北越軍談』は越後国上杉氏に関する軍学書で、謙信・景勝期に関する事績や上杉家臣団に関する豊富な記述を含む。 寛永20年(1643年)洛東隠士雲庵の序文が添えられるが、著者は紀州徳川家に仕えた宇佐美定祐であると考えられている。近世には写本・刊本など諸本が流布し、宝永8年(1711年)には大阪高麗橋の野村長兵衛胃が同系統の諸本を校合し刊行する。 上杉氏の記述だけでなく、戦国期に北信地域を巡り川中島の戦いを繰り広げた甲斐国武田氏に関する記述も豊富。川中島の戦いにおける武田信玄と上杉謙信の一騎討ち伝承などを記し、謙信の伝説的軍師である宇佐美定行(駿河守)の活躍を豊富に記すなど、『甲陽軍鑑』と同様に文書上からは確認されない事象や年紀の誤りなどを含む。 『北越軍談』は定祐の創始した越後流軍学の教本として用いられ、『武門要鑑抄』を教本とする要門流などの庶流も分出した。また、近世には川中島の戦いが合戦図屏風として盛んに製作されているが、和歌山県立博物館所蔵の「川中島合戦図屏風」(江戸前期、六曲一双)は『北越軍談』の記述に基づいた合戦の様相が描かれ宇佐美定行の活躍が強調されていることが指摘されている。.

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北条氏平

北条 氏平(ほうじょう うじひら)は、江戸時代の旗本。 娘が今川氏睦の正室となっており、後北条氏と今川氏のつながりを示す上で重要な人物となっている。法名は常円。.

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北村季吟

北村 季吟(きたむら きぎん、寛永元年12月11日(1625年1月19日) - 宝永2年6月15日(1705年8月4日))は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。名は静厚、通称は久助・再昌院、別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。.

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北村湖元

北村 湖元(きたむら こげん、延宝4年(1676年) - 寛延2年5月4日(1749年6月18日))は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。通称は季根、湖源、別号は信安斎、再昌院。北村季吟の孫。.

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北新地

北新地(きたしんち)は、大阪府大阪市北区の歓楽街。 また、本項目では北区の町名である曽根崎新地についても述べる。現行行政地名は曾根崎新地一丁目から二丁目まで。2010年10月1日現在の人口は219人、世帯数は280世帯。郵便番号は530-0002。.

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園田成苗

園田 成苗(そのだ なりなえ、宝永元年(1704年) - 天明5年12月29日(1786年1月28日))は、江戸時代中期の薩摩藩士。甲州別伝流兵学師範。諱は成苗。通称は与藤次。父で島津綱貴草履取りであった薩摩藩の初代甲州別伝流 師範の園田成芳より甲州別伝流を相伝。宝暦6年10月の『松平又三郎家中分限帳』に『無役之中通 蔵米50俵 異国船手当方 園田与藤次』とある。また、「三州御治世要覧」の『(安永7年10月2日の)当時役人』の無役之御近習通に園田与藤次の名がある。薩摩藩初代御軍師の園田成庸(与藤次)は孫にあたる。また門人に久保之英がいる。享年82。法号通發軒普山英傑居士。墓は松原山南林寺洲崎にあった。.

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園部藩

園部藩(そのべはん)は、丹波国船井郡(現在の京都府南丹市園部町小桜町)に存在した藩。.

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ミソサザイ

ミソサザイ(鷦鷯安部直哉 『山溪名前図鑑 野鳥の名前』、山と溪谷社、2008年、308頁。、学名 Troglodytes troglodytes (1758))は、スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属に分類される鳥類の1種。.

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チリ

チリ共和国(チリきょうわこく、República de Chile)、通称チリは、南アメリカ南部に位置する共和制国家である。東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接しており、西と南は太平洋に面している。首都はサンティアゴ・デ・チレ。 1818年にスペインより独立した。アルゼンチンと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の大部分がコーノ・スールの域内に収まる。太平洋上に浮かぶフアン・フェルナンデス諸島や、サン・フェリクス島、サン・アンブロシオ島及びポリネシアのサラ・イ・ゴメス島、パスクア島(イースター島)などの離島も領有しており、さらにアルゼンチンやイギリスと同様に「チリ領南極」として125万平方キロメートルにも及ぶ南極の領有権を主張している。.

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プリニー式噴火

プリニー式噴火(プリニーしきふんか、Plinian eruption)とは、火山の噴火活動の形式の一つである。プリニアン噴火ともいう。.

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ドアマイガーD

『ドアマイガーD』(ドアマイガーディー)は、2015年1月から同年3月まで放送された日本のテレビアニメ作品。.

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別府町 (加西市)

別府町(べふちょう)は、加西市の町名である。万願寺川の支流である普光川の中流域に位置している。郵便番号は、679-0103。2012年3月31日現在、人口は、344人(男190人、女154人)、世帯数133世帯である。.

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別所氏

別所氏(べっしょし)は、播磨の戦国大名を輩出した氏族。 播磨の守護大名・赤松氏の庶流であり、三木城を本拠とした。.

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利根川

利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ河川。河川法に基づく政令により1965年(昭和40年)に指定された一級水系である利根川水系の本流である一級河川。「坂東太郎(ばんどうたろう)」の異名を持つ。河川の規模としては日本最大級で、東京都を始めとする首都圏の水源として日本国内の経済活動上で重要な役割を果たしている、日本を代表する河川の一つである。.

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刈谷藩

刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。.

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切支丹屋敷

切支丹坂(江戸図、菅原茂兵衛、明和8年 切支丹屋敷跡の碑 切支丹屋敷(きりしたんやしき)は、江戸時代に江戸小石川小日向(現在の東京都文京区小日向1-24-8)にあったキリシタンを収容する屋敷である。キリシタン屋敷とも表記され、山屋敷とも呼ばれる 文京区。.

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嵩山宿

嵩山宿(すせじゅく)は、三河国八名郡嵩山(すせ。現在の愛知県豊橋市嵩山町)にあった宿場。明和元年(1764年)に江戸幕府の道中奉行により、東海道に付属する街道の1つである本坂通(姫街道)の宿場とされた。三河吉田藩領にあった。.

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喜多元規

喜多元規(きた げんき、生卒年不詳)は、江戸時代前期の黄檗画像(黄檗僧の頂相)の代表的画家。 通称を長兵衛。薩摩の人。.

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喜多村政方

喜多村 政方(きたむら まさかた)は、江戸時代中期の陸奥弘前藩の武士。北村正方、津軽正方とも。津軽校尉。.

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善光寺

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。.

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善光寺 (東京都港区)

善光寺(ぜんこうじ)は、東京都港区北青山三丁目にある浄土宗の寺院。詳名は南命山無量寿院善光寺。.

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和佐範遠

和佐 範遠(わさ のりとお)は、江戸時代前期の紀州藩士。紀州竹林派の弓術家であり、通し矢の天下一。.

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和歌山県

和歌山県(わかやまけん)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。県庁所在地は和歌山市。日本最大の半島である紀伊半島の西側に位置し、県南部には大規模な山地を有する。.

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カボス

ボス(臭橙、香母酢、学名:Citrus sphaerocarpa)は、ミカン科の常緑広葉樹、または、その果実で、柑橘類のひとつである。.

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カピタン江戸参府

ピタン江戸参府(カピタンえどさんぷ、Hofreis naar Yedo)は、オランダ商館責任者である商館長=カピタンの、日蘭貿易「御礼」のための江戸への旅。「御礼参り」「拝礼」とも称される。.

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キャベツ

ャベツ(古くはキャベジ、英語:Cabbage、Brassica oleracea var.

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ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

ョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(シドッチ、Giovanni Battista Sidotti、寛文8年(1668年) - 正徳4年10月21日(1714年11月27日))は、イタリア人のカトリック司祭。江戸時代中期の日本へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉された。時の幕政の実力者、新井白石はシドッティとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著した。.

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スリ

リ(pickpocketing、)とは、他人の懐などから金品などを気づかれないようにかすめとる行為、またそれを行う者のこと。 行為には「掏摸」、行う者には「掏児」の字を当て、読みはどちらも「スリ」。別称として「巾着切り」(きんちゃくきり)、また京阪神地方では「チボ」などがある。.

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傾城反魂香

『傾城反魂香』(けいせい はんごんこう)は歌舞伎・人形浄瑠璃の演目。三段構成のうち、現在は上の段の「土佐将監閑居の場」、通称「吃又」(どもまた)がよく上演される。 元は近松門左衛門作の人形浄瑠璃で、宝永5年 (1708) 大坂竹本座初演。狩野元信の150回忌を当て込んで書かれた作品で、絵師狩野元信と恋人・銀杏の前の恋愛に、正直な絵師又平(岩佐又兵衛がモデル)の逸話と、名古屋山三と不破伴左衛門との争いから来るお家騒動をないまぜにしたものである。歌舞伎化は享保4年 (1719) 大坂。初演後ほどなく、人形浄瑠璃・歌舞伎ともに「吃又」の部分が単独で繰り返し上演されるようになった。 歌舞伎の初演で三代目嵐三右衛門が又平をつとめて以来、多くの役者によって又平の人間像が練り上げられた。片岡仁左衛門のお家芸「片岡十二集」の一つでもある。.

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タイムスクープハンター

『タイムスクープハンター』は、NHK総合テレビのドキュメンタリー・ドラマ風歴史教養番組。.

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タイ捨流

タイ捨流(タイしゃりゅう)は、丸目長恵によって新陰流から創始された兵法。 現在、人吉藩に伝わった系統が現存している。この系統の12代目小田夕可は、1963年7月31日に「熊本県無形文化財」の指定を受けていた。.

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備中国分寺

備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)は、岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院。山号は日照山。本尊は薬師如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である備中国分寺跡・備中国分尼寺跡(ともに国の史跡)についても解説する。 田園風景の中に建つ五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっている。.

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備後福山藩

福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備籾制

備籾制(そなえもみせい)は、江戸時代の出羽国米沢藩で凶作による飢饉対策の一つとして行われた米を貯穀し、飢饉のときに放出する米沢藩当局による義倉制度。上杉治憲の藩政改革として再興、中央施策として実施された制度でもある。備籾の他に備麦、備粟、備銭も行われた。農民や町人だけでなく藩士にも貯穀を行った。.

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品川寺

品川寺(ほんせんじ)は、東京都品川区南品川三丁目にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は海照山。本尊は水月観音と聖観音で、江戸三十三箇所観音霊場の第31番である。.

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品川伊氏

品川 伊氏(しながわ これうじ)は、江戸時代の高家旗本。高家肝煎を務め、1500石まで加増された。.

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品川高清

品川 高清(しながわ たかきよ)は、江戸時代の旗本。.

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品川高房

品川 高房(しながわ たかふさ)は、江戸時代の旗本。.

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品川氏

品川氏(しながわし/しながわうじ)は、日本の氏族。.

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唐絵目利

唐絵目利(からえめきき)とは、江戸時代中期に設けられた長崎奉行所の職種。清国から船載されてきた書画や器物の鑑定と価値の評価。さらに輸出入の交易品や鳥獣類などの写図の作成が主な職務であった。また長崎奉行所の御用絵師を兼務することが多かった。.

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冠嶺神社

冠嶺神社(さかみねじんじゃ)は、福島県南相馬市にある神社である。 陸奥国延喜式式内社百座のうち行方郡にある八座の一座である。鹿島区上栃窪と原町区信田沢に鎮座する二社が主な論社とされている。.

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冥途の飛脚

『冥途の飛脚』(めいどのひきゃく)とは、人形浄瑠璃の演目のひとつ。全三段、大坂竹本座にて初演。近松門左衛門作。.

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円妙寺 (桑名市)

円妙寺(えんみょうじ)は、三重県桑名市にある日蓮宗の寺院である。定綱系久松松平家第2代当主で伊勢桑名藩主の松平定良の菩提寺として建立され、定良霊廟と一族縁者の墓が存在する。定良霊廟、養仙院の墓は桑名市指定文化財に指定されている。旧本山は身延山久遠寺、勇師法縁。.

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円空

円空(えんくう、寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。.

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冕冠

冕冠(べんかん)は、東アジアの漢字文化圏諸国で皇帝、天皇、国王などが着用した冠。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内川 (大阪府)

内川(うちかわ)は、大阪府堺市堺区を流れる二級河川。土居川(どいがわ)合流点より下流は竪川(たてかわ)と呼ばれる。.

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内田正偏

内田 正偏(うちだ まさゆき)は、江戸時代の大名。下野鹿沼藩の第3代藩主。小見川藩内田家3代。.

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内田正親

内田 正親(うちだ まさちか)は、江戸時代中期の大名。下野鹿沼藩の第4代藩主、のち下総小見川藩の初代藩主。小見川藩内田家4代。 宝永7年(1710年)、第3代藩主・内田正偏の長男として生まれる。享保9年(1724年)10月29日、父が狂気により妻女を傷つけた罪を咎められて蟄居処分となったため、その跡を継ぐこととなった。このとき、1万3000石を1万石に減らされた上で下総小見川藩に移封されている。享保12年(1727年)12月に叙任する。延享3年(1746年)5月18日に死去した。享年37。 まさちか 内04 Category:小見川藩主 Category:1710年生 Category:1746年没.

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内藤家 (信成系)

内藤家(信成系)として本項で扱うのは、戦国期に三河国松平氏家臣であった内藤清長の養子・内藤信成を開祖とする家系のこと。この家は譜代に属するが、信成が徳川家康の異腹の弟であるとの説があり、それゆえ松平氏庶流と考えることもできる。しかし「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」ともにこの説を採らず、清長とその実子である内藤家長によって継承された内藤家と同じく「藤原氏(秀郷流)」として扱っている。.

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内藤弌信

内藤 弌信(ないとう かずのぶ)は、越後国村上藩の初代藩主。養父は内藤信良。実父・内藤信光は家祖・内藤信成の次男・内藤信広(旗本5000石)の子。生母は前川氏と記すものがあるが(『村上郷土史』77頁)「寛政重修諸家譜」は「某氏」、国立公文書館蔵「内藤家譜」は「家女」とする他に所見がない。.

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内藤忠次

内藤 忠次(ないとう ただつぐ、正保2年(1645年) - 宝永元年5月25日(1704年6月26日))は、江戸時代前期に志摩国鳥羽藩の世嗣だった人物。鳥羽藩2代藩主・内藤忠政の長男。母は板倉重宗の娘。正室は板倉重郷(重宗の子)の養女(形原松平典信の娘)。娘は板倉重常(重郷の子)の養女となった後、酒井忠親に嫁いだ。官位は従五位下、志摩守。 鳥羽藩嫡子として生まれ、明暦2年(1656年)に徳川家綱に御目見し、万治2年(1659年)に叙任された。しかし、寛文11年(1671年)に病気により廃嫡され、代わって弟の忠勝が嫡子となった。忠勝は寛文13年(1673年)に家督を継いだが、延宝8年(1680年)に永井尚長を刺殺した咎で切腹し、内藤家は絶家となった。忠次はその後の宝永元年(1704年)、60歳で死去した。 たたつく Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:廃嫡された人物 Category:鳥羽藩の人物 Category:1645年生 Category:1704年没.

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内藤信積

内藤 信積(ないとう のぶつみ、宝永元年(1704年) - 享保6年3月18日(1721年4月14日))は、江戸時代中期の越後国村上藩2代藩主・内藤信輝の長男。母は蜂須賀隆重の娘。三郎右衛門。 村上藩世子だった父・信輝の嫡子として生まれたが、享保6年(1721年)に夭折した。4年後の享保10年(1725年)、父が藩主に就任したものの間もなく死去し、弟の信興が跡を継いで藩主となった。 のふつみ Category:江戸時代の武士 Category:村上藩の人物 Category:1704年生 Category:1721年没.

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内藤信輝

内藤 信輝(ないとう のぶてる)は、越後国村上藩の第2代藩主。.

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内藤頼由

内藤 頼由(ないとう よりゆき)は、信濃高遠藩の第3代藩主。高遠藩内藤家8代。.

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内藤貫俊

内藤 貫俊(ないとう つらとし)は、江戸時代初期の人物。毛利氏の家臣で、長州藩士。父は内藤就貫。.

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内藤正敬

内藤 正敬(ないとう まさゆき)は、江戸時代中期の大名。信濃岩村田藩の第2代藩主。岩村田藩内藤家3代。 宝永2年(1705年)、初代藩主・内藤正友の次男として生まれる。兄の正能がすでに早世していたため、代わって嫡子となる。正徳元年(1711年)、父の死去により7歳で家督を継ぎ、弟の正直に1000石(岩村田知行所)を分知した。 享保2年(1717年)、徳川吉宗に御目見する。 延享3年(1746年)8月13日に死去した。享年42。長男の正弼が家督を継いだ。.

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内藤清行

内藤 清行(ないとう きよゆき)は、江戸時代中期の武士。信濃国高遠藩の世嗣。.

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内藤清枚

内藤 清枚(ないとう きよかず)は、江戸時代初期から中期の旗本、のち大名。河内富田林藩第2代藩主、後に信濃高遠藩の初代藩主。高遠藩内藤家第6代(第7代とする説あり)。.

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内藤政貞

内藤 政貞(ないとう まささだ)は、江戸時代前期から中期の大名。陸奥湯長谷藩の第3代藩主。 貞享2年(1685年)、土方雄賀(かつよし、土方雄隆の弟)の次男として生まれる。はじめ200石の旗本として幕府に仕えていたが、元禄16年(1703年)に第2代藩主・遠山政徳が死去したため、その養子として跡を継いだ。このとき、姓を遠山から本来の姓である内藤(初代藩主遠山政亮の父・内藤忠興の姓)に戻している。 祖父の土方雄次は母(内藤政長の娘)と妻(内藤忠興の娘)共に内藤家出身であり、政貞が忠興の曾孫であったことから内藤家の分家である遠山家に養子入りした。 宝永6年(1709年)3月に叙任し、日光祭礼奉行などを務めた。享保7年(1722年)4月23日に死去。享年38。 跡を長男の政醇が継いだ。.

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内藤政森

内藤 政森(ないとう まさもり、1683年(天和3年)- 1738年6月28日(元文3年5月12日))は、陸奥国泉藩の第3代藩主、上野国安中藩の初代藩主。挙母藩内藤家3代。 泉藩第2代藩主内藤政親の三男。正室は柳沢吉保の娘、継室は柳沢吉保の養女(曽雌定秋の娘)。子に内藤政里(次男)、内藤政則(三男)、娘(大田原建清正室のち佐竹義道継室)ら。官位は従五位下、丹波守、山城守。 幼名は金一郎。通称は右近。元禄9年(1696年)、跡を継いで泉藩主となる。元禄14年(1701年)に御小姓となる。元禄15年(1702年)7月、泉から安中に移封された。宝永2年(1705年)1月、城主格となり、安中城を改修する。正徳4年(1714年)1月11日に奏者番となった。しかし安中藩の藩政においては新田開発を行いながら百姓に重税を強いたため、享保12年(1727年)4月に百姓一揆が起こった。享保18年(1733年)4月6日、家督を次男の政里に譲って隠居し、元文3年(1738年)5月12日に56歳で死去した。法号は惣持院大誉得法向山。墓所は東京都港区高輪の光台院。 著作に「臣軌」上下2巻がある。.

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出石城

本丸西隅櫓 出石城(いずしじょう)は、兵庫県豊岡市出石町にあった日本の城である。.

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出石そば

例1 例2 出石そば(いずしそば)は、兵庫県豊岡市出石町を中心に食されている郷土料理の蕎麦。.

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出石藩

出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。 出石城本丸から城下町を俯.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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入来院明雅

入来院 明雅(いりきいん あきまさ)は、江戸時代中期の薩摩藩士。薩摩入来領主、入来院氏22代当主。.

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入江町 (名古屋市)

入江町(いりえちょう)は、愛知県名古屋市中区の地名。1丁目から3丁目があった。.

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入浴

入浴する人々 入浴(にゅうよく)とは、主に人が身体の清潔を保つことを目的として、湯や水・水蒸気などに身体を浸すことを指す。 入浴施設の構造物に関しては風呂を参照。.

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八十村路通

八十村 路通(やそむら ろつう、慶安2年(1649年)頃 - 元文3年7月14日(1738年8月28日)頃)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。.

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八坂神社 (大阪市大正区)

八坂神社(やさかじんじゃ) 大阪市大正区三軒家東に鎮座する神社。下之宮の八阪神社と区別して上の宮、上のやさかさんと呼ばれる。.

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八坂神社 (日田市)

八坂神社(やさかじんじゃ)は、大分県日田市に鎮座する神社。同市には隈と北豆田に2社存在する。.

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八塔寺ふるさと村

八塔寺ふるさと村(はっとうじふるさとむら)は岡山県備前市吉永町加賀美にある岡山県指定の町並み保存地区の名称。 標高約400メートルの台地に現在も茅葺き屋根の民家や段々畑が残り、日本古来の農村の景観を今に伝えている。.

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八幡神社 (大和町)

吉岡八幡神社(よしおかはちまんじんじゃ)と通称される八幡神社(はちまんじんじゃ)は、宮城県黒川郡大和町吉岡にある神社。石の間造の社殿で知られ、焼失する以前は宮城県から重要文化財の指定を受けていた。.

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八王子市の歴史

八王子市の歴史(はちおうじしのれきし)では、現在の東京都八王子市に属する地域の歴史を解説する。.

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八省卿の一覧

八省卿の一覧 日本の律令官制における八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)の長官(卿)を務めた人物の一覧。.

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八瀬童子

八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は山城国愛宕郡小野郷八瀬庄(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた村落共同体の人々を指す。室町時代以降は天皇の臨時の駕輿丁も務めた。伝説では最澄(伝教大師)が使役した鬼の子孫とされる。寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。 昭和3年(1928年)、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって社団法人八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。平成22年(2010年)には同会所有の資料741点(文書・記録類 650点、装束類 91点)が重要文化財に指定された。 また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。.

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八百屋お七

月岡芳年 松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七) 八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。 なお、本項では日付表記は各原典に合わせ、原則は旧暦表記とする。.

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八阪神社 (奈良市)

八阪神社(やさかじんじゃ)は、奈良県奈良市押上町(おしあげちょう)にある神社。押上町祇園社とも呼ばれ奈良市史 社寺編 p.12、拝殿の扁額には『祇園社』と記されている。.

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八阪神社 (日田市)

八阪神社(やさかじんじゃ)は、大分県日田市豆田町に鎮座する祇園神社。同市隈町の八坂神社を「隈八坂神社」とも呼ぶのに対して、豆田八坂神社とも呼ぶ。祭神は素盞嗚命他1柱を祀る。 隈八坂神社、竹田若宮神社(竹田地区・若宮町)との3社で日田祇園祭が行なわれる。.

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八重姫 (徳川吉孚正室)

八重姫(やえひめ、元禄2年(1689年) - 延享3年6月17日(1746年8月3日))は、水戸藩第3代藩主徳川綱條の嗣子徳川吉孚の正室。鷹司輔信の娘。関白鷹司兼熈の養女、後に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の養女。院号は初め養仙院、死後随性院。.

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八雲神社 (足利市)

本項目では栃木県足利市にある八雲神社について述べる。 足利市内に現存する八雲神社は以下の5社である。.

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八戸市史

八戸市史(はちのへしし)は、八戸市で編纂された自治体史である。.

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公家町

公家町(くげまち)とは、近世の京都にあった内裏(土御門東洞院殿・京都御所)周辺に設けられた公家の居住空間。現在の京都御苑およびその周辺部にあたる。.

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公弁法親王

公弁法親王(こうべんほっしんのう、寛文9年8月21日(1669年9月16日) - 正徳6年4月17日(1716年6月6日))は、江戸時代の天台宗僧侶。後西天皇の第6皇子、貴宮秀憲親王。出家後、親王宣下を受け法親王となる。 毘沙門堂門跡のほか日光山(東照宮、輪王寺門跡)、東叡山寛永寺貫首、東叡山輪王寺門跡、比叡山延暦寺天台座主を兼任した。一品、准三宮。号は脩礼、玄堂。隠居後は大明院と称した。 狩野常信に書を学び能筆家としても知られる。.

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公慶

公慶(こうけい、慶安元年11月15日(1648年12月29日) - 宝永2年7月12日(1705年8月30日))は、江戸時代前期の日本における、三論宗の僧の一人である。東大寺の大仏および大仏殿の再建に尽力した人物。丹後国宮津(現・京都府北部宮津市)の生まれである。.

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六句町

六句町(ろっくちょう)は、愛知県名古屋市西区の地名。1丁目と2丁目があった。現在の新道一丁目・二丁目および幅下一丁目・二丁目の各一部に相当する。また、名古屋市営バス名駅12号系統のバス停名などに名をとどめている。.

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六孫王神社

六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)は、京都府京都市南区にある神社。旧社格は郷社。 清和源氏始祖の源経基を祭神とすることで知られる。多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つとされる。.

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六地蔵

六地蔵(ろくじぞう)、非略体: 六地藏(ろくぢざう)とは、.

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六角広豊

六角 広豊(ろっかく ひろとよ)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本。高家六角家3代当主。.

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六角広治

六角 広治(ろっかく ひろはる)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本。高家六角家2代当主。.

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六角獄舎

六角獄舎(ろっかくごくしゃ)は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄である。正式名は三条新地牢屋敷。移転を繰り返して宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通りに移転されてからは六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった。.

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六郷政長

六郷 政長(ろくごう まさなが)は、江戸時代中期の大名。出羽国本荘藩5代藩主。.

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六郷政英

六郷 政英(ろくごう まさふさ)は、江戸時代中期の武士。出羽国本荘藩の世嗣。.

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兼重政宣

兼重 政宣(かねしげ まさのぶ)は、江戸時代の武士。毛利氏の家臣で、長州藩士。家格は遠近附、300石。父は兼重元可。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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元安橋

元安橋(もとやすばし)は、広島県広島市の元安川にかかる道路橋。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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元禄小判

元禄小判(げんろくこばん)は、元禄8年9月10日(1695年10月17日)から通用開始された一両としての額面を持つ小判である。江戸時代の金貨としては慶長小判に次ぐものである。また元禄小判、元禄一分判および元禄二朱判を総称して元禄金(げんろくきん)あるいは元字金(げんじきん/げんのじきん)と呼ぶ。.

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元禄丁銀

元禄丁銀 元禄丁銀(げんろくちょうぎん)とは元禄8年9月15日(1695年10月22日)から鋳造開始、同9月27日(11月3日)から通用開始された丁銀。慶長丁銀に次ぐ江戸時代2番目の秤量貨幣である。元禄丁銀および元禄豆板銀を総称して元禄銀(げんろくぎん)あるいは元字銀(げんじぎん、げんのじぎん)と呼ぶ。.

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元禄地震

元禄地震(げんろくじしん)は、元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。 震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地上投影である震央ではない。にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されている。元禄大地震(げんろくおおじしん、げんろくだいじしん)あるいは元禄の大地震(げんろくのおおじしん)とも呼ばれ、大正関東地震に対比して元禄関東地震(げんろくかんとうじしん)の名称もしばしば使用される。 大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、地殻変動は大正関東地震よりも大きいものであった大正関東地震の震源域に加えて、房総半島南東沖も震源域となる連動型地震であった可能性が指摘されている(詳細は「相模トラフ巨大地震#再来間隔」参照)。。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。 江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、噴火が続発した時期であり、本地震の4年後の宝永4年(1707年)にはM 8.4-8.6(Mw 8.7-9.3)と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生している安藤雅孝(1974): 東海沖か房総沖で大地震, 科学朝日, 34, No.3, 34-37.

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元禄文化

尾形光琳筆 「燕子花図屏風」 元禄文化(げんろくぶんか)とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。 17世紀中ごろ以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた深井(2012)pp.12-15高埜「元禄の社会と文化」(2003)pp.85-90。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした深谷(2000)pp.80-89。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった尾藤『元禄時代』(1975)pp.16-25。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった原田 他(1981)p.247。 元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる尾藤『元禄時代』(1975)pp.26-51小澤(1993)pp.60-69。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。 なお、日本における1960年代の高度経済成長期の文化隆盛を指すものとして、「昭和元禄」(しょうわげんろく)という言葉が生まれている1964年に政治家福田赳夫が言いだした、経済成長下での天下泰平・奢侈安逸の風潮を評した言葉。。.

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前田吉徳

前田 吉徳(まえだ よしのり)は、加賀藩の第5代藩主。加賀前田家6代。先代藩主前田綱紀の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。.

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前田孝行

前田 孝行(まえだ たかゆき、寛文3年10月17日(1663年11月16日) - 享保6年9月14日(1721年11月3日))は、加賀藩大年寄。加賀八家前田対馬家5代当主。 父は加賀藩年寄前田孝貞。兄弟は前田孝和、小幡長時、前田孝近。子は前田孝資、村井長堅、前田孝寧、前田孝覩、三条西公福室(前田綱紀養女)、奥村温良室。幼名萬勝。通称与十郎、対馬。官位は従五位下、美作守。名は行孝とも。.

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前田孝貞

前田 孝貞(まえだ たかさだ、寛永5年(1628年)4月 - 宝永4年8月19日(1707年9月14日))は、加賀藩大年寄。加賀八家前田対馬家4代当主。 父は加賀藩人持組頭前田直正。母は安見元勝の娘。正室は本多政重の娘。子は前田孝行、前田孝和、小幡長時、前田孝近、本多政敏室。幼名長松。通称対馬、佐渡。官位は従五位下、駿河守。.

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前田孝資

前田 孝資(まえだ たかすけ、天和3年7月4日(1683年8月25日) - 宝暦3年3月9日(1753年4月12日))は、加賀藩年寄。加賀八家前田対馬家6代当主。 父は加賀藩年寄前田孝行。正室は前田綱紀の娘豊姫。子は前田孝昌、今枝直郷、村井長穹。通称市之助、大炊。官位は従五位下、対馬守。.

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前田利右衛門

前田 利右衛門(まえだ りえもん、出生年不明 - 1719年(享保4年)に死没した説あり)は、江戸時代中期(17世紀から18世紀にかけて)の薩摩国の人物で、1705年(宝永2年)に琉球からサツマイモを持ち込んだと言われている。.

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前田利子

前田 利子(まえだ としこ、元禄6年10月19日(1693年11月16日) - 寛延元年12月6日(1749年1月24日))は、関白二条吉忠の北政所。加賀藩主・前田綱紀の六女。直姫、栄君(まさぎみ)。後桜町天皇の外祖母である。.

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前田利秀

前田 利秀(まえだ としひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。前田氏の家臣。今石動城主。前田秀継の子(次男か)。通称は又次郎。秀次、俊秀、利次、利継とも。.

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前田利章

前田 利章(まえだ としあきら)は、江戸時代の大名。加賀大聖寺藩の第4代藩主。.

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前田利直

前田 利直(まえだ としなお)は、江戸時代の大名。加賀大聖寺藩の第3代藩主。.

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前田利隆

前田 利隆(まえだ としたか)は、越中富山藩の第4代藩主。 元禄3年(1690年)11月11日、第2代藩主・前田正甫の五男として富山で生まれる。宝永2年(1705年)11月27日に元服する。宝永3年(1706年)8月21日、兄で第3代藩主の利興から150人扶持の知行を与えられる。享保9年(1724年)6月に兄・利興の養子となり、兄が7月18日に隠居したため家督を継いで第4代藩主となる。 しかし、自らが寵愛する藩士だけを重用し、頻繁に加増を繰り返したりして財政難を招き、借金や倹約令、年貢取立ての強化、享保16年(1731年)の銀札発行なども効果は無かった。延享元年(1744年)12月20日に死去した。享年56。跡を長男の利幸が継いだ。 としたか *04 Category:1690年生 Category:1745年没.

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前田利興

前田 利興(まえだ としおき)は、越中富山藩の第3代藩主。.

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前田利英

前田 利英(まえだ としふさ、元禄2年3月17日(1689年5月6日) - 宝永5年2月15日(1708年4月5日))は、上野国七日市藩の第5代藩主。七日市藩前田家5代。 第3代藩主・前田利広の次男。母は三浦安次の娘。幼名、長十郎。官位は不詳。 元禄8年(1695年)、兄で先代藩主の利慶が死去、もしくは病に倒れたときに家督を継いで藩主となったと言われている。元禄13年(1700年)、将軍徳川綱吉に御目見した。宝永5年(1708年)1月頃から病に倒れる。嗣子がなく、一族(初代藩主・利孝の曾孫で又従弟にあたる)の利理を養嗣子として迎えて、2月15日に七日市陣屋で死去した。墓所は群馬県富岡市の長学寺。 としふさ *05 Category:1689年生 Category:1708年没.

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前田利昌 (大聖寺新田藩主)

前田 利昌(まえだ としまさ)は、江戸時代中期の大名。大聖寺新田藩主。大聖寺藩の2代藩主前田利明の四男。 元禄5年(1692年)、3代藩主である兄利直から1万石を分知され大聖寺新田藩を立藩、大名となる。同藩は領地を持たず、大聖寺藩の収入分から1万石分を与えられただけで、独自の藩庁などの行政機関は持っていなかった。 宝永6年(1709年)1月15日、東叡山寛永寺で行われた5代将軍徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられる。同役の大准后使饗応役は以前から仲が悪かった大和国柳本藩主の織田秀親であった。2月15日、翌日の将軍徳川家宣の参詣の行事について書かれた老中の奉書が届けられた際、饗応役はそれを回覧することになっていたが、秀親は利昌に見せようとしなかった。その場で利昌は一時小刀に手をかけるも、赤穂事件のことを考えて一旦踏みとどまった。翌2月16日、利昌は寛永寺吉祥院の宿坊で、家老の木村九左衛門に秀親を後ろから羽交い絞めにさせた上で刺殺した。その後山城国淀藩主石川義孝に預けられ、同月18日に切腹となった。凶行前日、利昌は家臣の木村九左衛門に赤穂事件について感想を求め、木村は「内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた」と返答したという。 大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されたが、すぐに大聖寺藩に還付された。.

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前田知頼

前田 知頼 (まえだ ともより、寛文2年(1662年) - 寛保2年3月19日(1742年4月23日)) は、加賀藩家老。人持組前田修理家第4代。 父は前田知臣。母は今枝近義の養女(日置忠治の娘)。正室は奥村悳輝の娘。子は前田知久、大槻朝元室。通称萬之助、修理、斎宮。号秋庵。.

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前田玄長

前田 玄長(まえだ はるなが)は、江戸時代中期(18世紀前半)に活動した高家旗本。公家の押小路家の出身で、享保16年(1731年)から宝暦2年(1752年)まで21年にわたり高家肝煎を務めた。武家となるのに際して前田玄以との所縁から前田を称し、高家前田家(藤原北家公季流)初代当主となった。.

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前田綱紀

前田 綱紀(まえだ つなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家5代。先代藩主前田光高の長男。母は徳川家光の養女・水戸藩主徳川頼房の娘、清泰院。.

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前田長泰

前田 長泰(まえだ ながやす)は、江戸時代中期の高家旗本。式部権大輔高辻長量の次男。 宝永4年(1707年)7月25日、将軍徳川綱吉に御目見した。それに伴い幕臣となり、小姓並として蔵米300俵を支給されることになった。同年12月18日従五位下侍従・伊豆守に叙任され、後に信濃守に遷任された。宝永5年(1708年)1月9日300石を加増されて、武蔵国多摩郡内で600石を支配することになった。宝永6年(1709年)2月21日、高家職に就いた。正徳3年(1713年)12月23日遠江国内で400石を加増された。延享4年(1747年)1月12日高家肝煎となる。その後、従四位上左少将にまで昇進した。宝暦13年(1763年)10月3日死去、74歳。 なかやす Category:江戸幕府旗本 Category:1690年生 Category:1763年没.

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前田正甫

前田 正甫(まえだ まさとし)は、越中富山藩の第2代藩主。.

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前田房長

前田 房長(まえだ ふさなが、宝永7年(1710年) - 安永10年2月26日(1781年3月20日))は、江戸時代の高家旗本。藤原北家閑院流高家前田家第2代当主。旗本寄合松平康郷(松井松平氏)の三男。幼名は長九郎。通称は式部。官位は従四位上侍従・出羽守。後に長覚と号す。 父方の曽祖父は和泉岸和田藩主松平康重、祖父は旗本松平康敬(康重の五男)。実兄に石見浜田藩主松平康豊(康郷の長男)らがいる。 享保19年(1734年)、高家肝煎役前田玄長の養子となる。享保20年(1735年)5月15日将軍徳川吉宗に御目見し、それに伴い表高家に列した。寛延3年(1750年)12月14日、部屋住みより新規に召し出され、高家役見習となった。同年12月18日、従五位下侍従・出羽守に叙任。宝暦2年(1752年)7月3日、養父の死去により家督を相続。宝暦10年(1760年)に従四位下に昇進。明和4年(1767年)閏9月26日、高家肝煎役となる。明和8年(1771年)、従四位上に昇進。安永元年(1773年)正月2日、京都へ年始御使。安永2年(1774年)4月8日、隠居し長男清長に家督を譲る。安永10年(1781年)2月26日死去、72歳(内実は82歳)。墓所は市ヶ谷自證院。法号は了達院前拾遺慧萼即性大居士。 正妻は大田原扶清の女。後妻は青木直宥の女・紋(もん)。長男隠岐守清長、四男松平康定(浜田藩主松平康福の養子)ら4男2女あり。.

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前橋藩

前橋藩(まえばしはん)は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩。はじめ厩橋藩(うまやばし/まやばし はん)といい、藩庁は厩橋城に置かれた。後に酒井家第5代藩主・酒井忠挙の時代に地名・藩名・城名を一括して前橋・前橋藩・前橋城と改めた。.

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割り箸

割り箸、割箸(わりばし)とは、割れ目を入れてあり、使うときに二つに割る箸のことである。.

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勝山城 (越前国)

勝山城(かつやまじょう)は、戦国時代に柴田勝家の一族である柴田勝安によって、現在の福井県勝山市に築かれた日本の城。江戸時代には勝山藩の藩庁が置かれた。.

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勝願寺 (鴻巣市登戸)

山門 勝願寺(しょうがんじ)は、埼玉県鴻巣市登戸にある新義真言宗(真言宗豊山派)の寺院である。本尊は不動明王蘆田 1981、45頁。市内本町にある浄土宗の勝願寺と区別して登戸勝願寺とも表記される。.

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勝願寺 (鴻巣市本町)

勝願寺(しょうがんじ)は、埼玉県鴻巣市本町8丁目にある浄土宗の寺院である。浄土宗の関東十八檀林の1つであり、号は天照山良忠院。本尊は阿弥陀如来。市内登戸地区にはもう一つの勝願寺が存在し、こちらの宗派は新義真言宗(真言宗豊山派)である鴻巣市 2000、556-557頁。.

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勝沼町

勝沼町(かつぬまちょう)は、山梨県にあった町で、東山梨郡に属した。.

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勝手神社 (奈良市)

勝手神社(かつてじんじゃ)は、奈良県奈良市油阪町(あぶらさかちょう)にある神社。.

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勅旨

勅旨(ちょくし)とは、律令制における天皇の命令書である勅書の一種である公文書。大宝律令以後において天皇の私的命令あるいは特定個人に対する命令である勅について原則的にはこの形式で出されていた。 公式令によれば、まず天皇が勅の内容を侍従などに伝えてそれを中務省に伝達する。中務省ではこれに基づいて内記が草案を作成し、天皇に覆奏して内容を確認する。確認後、中務省の責任者3名(卿・大輔・少輔)が内記の記した官位姓の下に自署を行い正文を作成した後に、その写本を太政官に送付し、太政官の史が「奉勅旨如右、符到奉行」の文言を加えて署名し、弁官の署名がこれに続く。弁官は改めて写本を作成し、その内容の実施を命じる太政官符を添付、地方に対しては勅旨をそのまま太政官符化した騰勅符の形式で施行することになっていた(なお、公式令には緊急時などに太政官での手続きを省略して中務省符で出す略式の勅旨の規定も存在するが、現存の記録では実施が確認できていない)。 なお、公式令の規定に従えば、詔書と違って天皇が直接署名などの行為を行うことはないが、実際の運用においては、法的には勅旨で出される事項であった場合でも天皇が重要と認識した場合には、天皇が詔書と同様に日付などを加えた勅旨を特に発給されるケースもあった。.

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国崎町

国崎町(くざきちょう)は、三重県鳥羽市の町名。国崎は文字通り「くにざき」と読むこともある「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):423ページ。紀伊半島および志摩半島の最東端に位置し、それが町名の由来となった。郵便番号は517-0031。住民基本台帳に基づく2015年7月31日現在の人口は344人、2010年10月1日現在の面積は3.572644km2。 伊勢神宮の神饌として代表的なアワビはこの国崎町で調製されている。「石鏡女に国崎男」と言われ、国崎町には美男が多いとされている。.

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国重就信

国重 就信(くにしげ なりのぶ)は、江戸時代の武士。毛利氏の家臣で長州藩士。父は国重元恒。.

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国昌寺 (大津市)

国昌寺(こくしょうじ)のち近江国分寺(おうみこくぶんじ)は、近江国滋賀郡古市郷にあった古代寺院(廃寺)。寺跡は滋賀県大津市光が丘町付近に推定される。 定額寺で、平安時代初期に近江国分寺の寺格を継承した(後期近江国分僧寺)。最澄が僧籍を置いたことが知られる。.

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四十八人目の忠臣

『四十八人目の忠臣』(しじゅうはちにんめのちゅうしん、よんじゅうはちにんめのちゅうしん)は、諸田玲子による歴史小説。『毎日新聞夕刊』にて2010年6月3日から2011年6月6日まで連載された後、毎日新聞社より2011年10月に刊行された。2012年、第1回歴史時代作家クラブ賞作品賞受賞作。 赤穂藩浅野家の江戸屋敷に奥女中として仕えるきよを主人公に、四十七士の1人・磯貝十郎左衛門と恋仲になり、吉良邸討ち入りを助け、本懐後は将軍家に近づいて赤穂浅野家の再興を図る姿を描く。 2016年9月から2017年2月までNHK土曜時代劇にて『忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣〜』(ちゅうしんぐらのこい〜しじゅうはちにんめのちゅうしん〜)と題してテレビドラマ化された。.

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四万十川

四万十川(しまんとがわ)は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で、一級河川 。全長196km、流域面積2186km2187kmとする文献も存在する。海津正倫(1982)愛媛県の地形地域区分.『愛媛県の地域区分と地域設定に関する研究』.

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犬小屋 (江戸幕府)

小屋(いぬごや)は、江戸幕府が設置した犬を収容する施設。生類憐みに関する法令が出された5代将軍徳川綱吉政権期に設けられた。「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ根崎光男著 『生類憐みの世界』 同成社、125頁。「中野犬小屋の建設」根崎光男著 『犬と鷹の江戸時代 綱吉と吉宗』 吉川弘文館、82-85頁。、特に中野に造られた犬小屋は「中野御用御屋敷」とも呼ばれた。犬小屋に収容された犬や、村預けされた犬(#村預け参照)は、当時の史料・記録に「御犬(おいぬ)」と記されており、野犬か飼犬かを問わず、犬小屋に収容されたことで幕府管理の犬となり、将軍の権威を帯びた「御犬」となった「犬小屋の建設」根崎光男著 『犬と鷹の江戸時代 綱吉と吉宗』 吉川弘文館、76-78頁。。 犬小屋の広さは、中野は16万坪、大久保がおよそ2万5000坪、四谷の犬小屋は1万8928坪7合だった(『東京市史稿』市街篇十二根崎光男著 『生類憐みの世界』 同成社、128頁。「御犬様々」児玉幸多著 『日本の歴史 16 元禄時代』 中公文庫、328-333頁。「犬小屋」大石学著 『江戸幕府大事典』 吉川弘文館、572頁。)。若年寄の所管で、中野犬小屋の作事総奉行・米倉昌尹は若年寄に昇進して、犬小屋支配を命ぜられ、元禄11年(1698年)2月14日には4人いた若年寄のうち本多正永が中野の犬小屋の専任担当となり、本多の退任後は同じく若年寄の久世重之が宝永2年(1705年)9月29日から犬小屋を管掌した(「常憲院殿御実紀」「犬小屋の管理」根崎光男著 『犬と鷹の江戸時代 綱吉と吉宗』 吉川弘文館、86-88頁。)。 かつて、犬小屋設置は「犬を溺愛した将軍綱吉が、江戸中の野良犬を養うよう強要した政策」とされてきた。しかし一方で、伝通院門前町付近の町人が周辺一帯の相当数の犬を犬小屋へ移送することを請願したように、犬小屋の設置が歓迎されていたことを示す文書も少ないながらも存在し、生類憐れみの令の見直しも進み「生類憐みの令」『国史大辞典』第7巻 吉川弘文館、654頁。、犬小屋は犬同士または犬と人とのトラブルを回避するために野犬を収容する施設と解釈されるようになっている。.

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皆川広隆

川 広隆(みながわ ひろたか、慶安元年(1648年)- 宝永7年1月13日(1710年2月11日))は、江戸幕府旗本。皆川秀隆の子。母は松平成重の娘。通称、左京。 明暦3年(1657年)父が没し家督を継ぐ。元禄10年(1697年)頃に領内の常陸国行方郡中根村、繁昌村、吉川村の広大な田(30余町歩余)の水不足解消の為灌漑用水事業を行った。水不足が無くなり、舟の通行をできる運河を造成したので、善行としてたたえられ皆川堀と呼ばれた。元禄11年領地を遠江国豊田郡、山名郡、周智郡内に移された。元禄14年に家督を嫡男皆川広逵に譲り、隠居し説翁と号した。宝永7年、63歳で没した。.

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皇居の生物相

皇居の生物相(こうきょのせいぶつそう)では、東京都千代田区にある皇居内で、特に豊かな自然環境が見られる吹上御苑を中心に、皇居の生物相について説明する。また東京23区内には皇居以外にも緑地が点在しているが、この項では適宜皇居以外の東京23区内にある緑地の生物相についても触れていく。.

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矢尾板三印

尾板 三印(やおいた さんいん・寛永17年(1640年) - 宝永2年(1705年))は、江戸時代中期の出羽国米沢藩の藩医にして藩儒。幼名は玄春。通称は柏章。号は三印、拙谷。一般的には矢尾板三印で知られる。自宅には後の藩校興譲舘の前身となる学問所が建設されるなど、米沢藩内の学問興隆に貢献した。.

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矢切神社

切神社(やぎりじんじゃ)は、千葉県松戸市矢切にある神社である。.

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矢部新田

部新田(やべしんでん)は神奈川県相模原市中央区の大字。郵便番号252-0208。.

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石原正氏

石原 正氏 (いしはら まさうじ、生年不詳 - 宝永7年9月14日(1710年11月4日))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府の旗本。通称は新左衛門(しんざえもん)。.

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石山寺

本堂 (国宝) 珪灰石 (国の天然記念物) 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁。当寺は京都府の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。 紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年に日本夜景遺産に認定された。 洋画家の三谷祐幸から寄付される形で関西美術院の所有者となっている。.

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石川勝之

石川 勝之(いしかわ かつゆき、延宝3年(1675年) - 宝永3年1月27日(1706年3月11日))は、山城国淀藩の世嗣。 嫡子のまま早世した石川昌能の長男。母は藤堂高次の娘。正室は水野忠直の娘。子に石川総慶(長男)。官位は従五位下、下野守。 天和2年(1682年)父・昌能が世嗣のまま死去したため、代わって世嗣となり徳川綱吉に御目見。元禄3年(1690年)、叙任された。しかし、父同様に世嗣のまま早世した。代わって叔父の義孝が嫡子となり、跡を継いだ。のちに長男の総慶が義孝の跡を継いでいる。 Category:江戸時代の大名の嫡男 かつゆき Category:1675年生 Category:1706年没.

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石川章長

石川 章長(いしこ あきなが)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第3代当主。.

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石川総朗

石川 総朗(いしかわ ふさあきら)は、江戸時代中期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)3代。.

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石川総昌

石川 総昌(いしかわ ふさまさ)は、江戸時代前期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)2代。.

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石川総慶

石川 総慶(いしかわ ふさよし)は、江戸時代中期の大名。山城淀藩の第3代藩主、備中松山藩主を経て、伊勢亀山藩の初代藩主となった。伊勢亀山藩石川家6代。.

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石川義孝

石川 義孝(いしかわ よしたか)は、山城淀藩の第2代藩主。伊勢亀山藩石川家5代。.

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石川村満

石川 村満(いしかわ むらひろ)は、江戸時代中期の武士。陸奥国仙台藩一門筆頭・角田石川氏7代当主。.

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石川流宣

中間。 石川 流宣(いしかわ とものぶ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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石川憲之

石川 憲之(いしかわ のりゆき)は、近江膳所藩の第2代藩主、伊勢亀山藩主、山城淀藩の初代藩主。伊勢亀山藩石川家4代。石川廉勝(初代膳所藩主・石川忠総の長男)の長男。.

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石上布都魂神社

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は、岡山県赤磐市にある神社。式内社、備前国一宮。旧社格は郷社。.

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石田散薬

石田散薬(いしださんやく)とは、新選組の副長を務めた土方歳三の生家が製造・販売していた薬である。骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、また切り傷等に効用があるとされていた。河童明神から製造方法を教わったという伝説がある。 宝永年間(1704年 - 1711年)より、1948年(昭和23年)の薬事法改正まで約250年間製造・販売されていた家伝薬である。土方家に残る資料によれば江戸御府内以外の得意先だけで400軒以上あり、関東近県の取次所と呼ばれる雑貨商や薬種商に卸して販売していたようである。.

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石銭

石銭(こくせん)は、江戸時代に、港に入津する船の積荷の石高に応じて徴収した金である。 石銭という呼称は、『堺市史』『長崎奉行の研究』鈴木康子著 思文閣出版 (278 - 279頁)。によれば、「船舶及び諸問屋の貨物取扱の石数に応じて入港料を徴収し、之を港湾浚渫費に充てた」ためと記されている。.

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石飛町

石飛町(いしとびちょう)は、愛知県豊田市の町名。.

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石谷榮清

石谷 榮清(いしがや よしきよ)は、江戸時代の旗本。.

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石谷武清

石谷 武清(いしがや たけきよ)は、江戸時代前期の旗本。.

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石谷清のぶ

石谷 清夤(いしがや きよのぶ、元禄15年(1702年) - 宝暦元年閏6月11日(1751年8月2日))は、江戸時代の旗本。.

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石谷清定 (兵四郎)

石谷 清定(いしがや きよさだ)は、江戸時代の旗本。.

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石谷清候

石谷 清候(いしがや きよとも)は、江戸時代の旗本。.

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石谷清職

石谷 清職(いしがや きよもと)は、江戸時代の旗本。.

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石谷清胤

石谷 清胤(いしがや きよたね)は、江戸時代の旗本。.

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石谷清長

石谷 清長(いしがや きよなが、慶安元年(1648年) - 元禄17年1月6日(1704年2月10日))は、江戸時代の旗本。.

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石河忠喜

石河 忠喜(いしこ ただよし)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石河家第5代当主。.

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石河正章

石河 正章(いしこ まさあき)は、尾張藩家臣、美濃駒塚領主、石川(石河)家第4代当主。名字を石川から石河に改めた。.

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玉串川

玉串川(たまくしがわ)は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。.

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玉木春政

玉木 春政(たまき はるまさ、天和元年(1681年) - 宝永2年1月17日(1705年2月10日))は、江戸時代中期の長府藩士、後に長州藩士。本姓は宇多源氏佐々木氏。幼名は久太郎。通称は金右衛門。諱は春政。父は江戸定府の長府藩士乃木傳庵、母は毛利綱広継室の昌寿院(梨木氏)とその娘で毛利匡広の正室である放光院(幸姫)に仕えた玉木。.

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火付盗賊改方

火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で、幕府常備軍の御先手弓・筒之頭から選ばれた。御先手頭の職務との兼役なため「加役」(かやく)とも呼ばれ、時代劇などでは「火盗改」(かとうあらため)、或いは「火盗」(かとう)と略して呼ばれることがある。.

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火災の年表

火災の年表(かさいのねんぴょう)は、火災の歴史に関する年表の一覧のことである。.

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火消

火消(ひけし、火消し)とは、江戸時代の消防組織とその構成員である。.

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理子女王

子女王(まさこじょおう、元禄4年8月18日(1691年9月10日) - 宝永7年6月4日(1710年6月30日))は、江戸時代中期の女性。後に江戸幕府第8代将軍となった徳川吉宗が紀州藩第5代藩主だった頃の御簾中(正室)。伏見宮貞致親王の王女。 紀州藩第2代藩主・徳川光貞の御簾中・照子女王は伯母、第4代将軍・徳川家綱の御台所・顕子女王は叔母、第9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中・増子女王は姪に当たる。幼称は真宮(さなのみや)。院号は寛徳院(かんとくいん)。 宝永3年(1706年)、吉宗と婚姻。その後、懐妊したが宝永7年(1710年)5月27日に死産となり、産後の肥立ちが悪く、同年6月4日に死去。戒名は寛徳院玄真日中大姉。墓所は報恩寺と池上本門寺にある。吉宗はこの後二度と正室を迎えることはなかった。.

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理豊女王

豊女王(りほうじょおう、寛文12年5月26日(1672年6月21日) - 延享2年5月12日(1745年6月11日))は、後西天皇の第十一皇女。母は典侍清閑寺共子。幼名は橿宮、追号は本覚院、法名は徳巌理豊。 天和3年(1683年)宝鏡寺に入って理忠女王のもとで得度し、元禄2年(1689年)宝鏡寺22世門跡となり寺勢の興隆につとめ中興の祖ともされる。宝永4年(1707年)景愛寺住持となり紫衣を許された。絵を狩野周信に学び、また能書家であり各地に額字を揮毫している。墓所は 真如寺内の宝鏡寺宮陵にある。.

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砥川 (長野県)

砥川(とがわ)は、長野県下諏訪町西部を流れる一級河川である。車山に源を発し、諏訪湖へ流入している。.

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破損奉行

損奉行(はそんぶぎょう)は、江戸幕府における職名の1つ。駿府に置かれた駿府破損奉行(すんぷはそんぶぎょう)と、大坂城の大坂破損奉行(おおさかはそんぶぎょう)の2つがあった。.

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碁所

碁所(ごどころ)は江戸幕府の役職の一つ。職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた。 寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)10月18日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりである。 各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている。 また各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあった。.

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碧川道夫

碧川 道夫(みどりかわ みちお、明治36年(1903年)2月25日 - 平成10年(1998年)3月13日)は日本の映画カメラマン。日本の映画色彩技術の草分け的存在である。多くの名作映画の撮影を担当し、『地獄門』で1954年度文部省芸術祭文部大臣賞。 詩人の三木露風は異父兄、映画監督の内田吐夢は義弟(妹の夫)。.

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碓氷関所

碓氷関所東門(復元) 碓氷関所(うすいせきしょ)は、中山道で上野国の松井田宿と坂本宿の間にあった関所である。江戸時代には、東海道の箱根関所、中山道の福島関所とともに重要な関所とされた。碓氷関所の跡地は、群馬県指定文化財に指定されている。現在の群馬県安中市松井田町に相当する。.

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磯部町檜山

磯部町檜山(いそべちょうひやま)は、三重県志摩市の地名。郵便番号は517-0215。住民基本台帳に基づく2014年(平成26年)1月31日現在の人口は97人で、志摩市で最も人口の少ない大字である。.

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礒村吉徳

村 吉徳(いそむら よしのり、? - 1711年2月11日(宝永7年12月24日))は、江戸時代初期に活躍した数学者。文蔵、喜兵衛とも名乗った。号は泥竜、琢鳴である。1660年頃に書かれた『算法闕疑抄』の作者で知られている。また、本来ならば代数を使用しなければ解けない問題でさえ、そろばんで解いたことからそろばんの名人でもあった。.

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神原神社

原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社である。旧社地にあった古墳から「景初三年」の銘を有する三角縁神獣鏡が出土したことで知られる。.

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神宮備林

宮備林(じんぐうびりん)とは、かつて、帝室林野局(現宮内庁、林野庁)が、伊勢神宮の式年遷宮用のヒノキを確保、育成を目的とした林、および指定された地域である。現在の長野県木曽郡と岐阜県中津川市の阿寺山地にある。 伊勢神宮の神宮林の備え(予備)という事から名づけられたという。 現在は神宮備林という名ではなく、国有林の一部の扱いである。しかし、旧神宮備林、神宮備林、旧御料林、御料林などの名称で呼ばれている。.

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神之池

之池(11月)鹿島臨海工業地帯の煙突が見える。 神之池(ごうのいけ)は、茨城県神栖市にある池である。.

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神倉神社

倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山県新宮市の神社。熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。境内地は国の史跡「熊野三山」の一部、および世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。.

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神王寺 (伊賀市)

王寺(じんのうじ)は、三重県伊賀市下柘植にある、真言宗豊山派の仏教寺院。山号は大宮山(おおみやさん)、院号は密厳院(みつごんいん)。本尊は薬師如来。.

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神祇伯

祇伯(じんぎはく)は、日本の律令官制における神祇官の長官。唐名は「大常伯」「大常卿」「大卜令」「祠部尚書」など。和訓は「かみ(かん)づかさのかみ」。定員は1名。官位相当は従四位下・勲四等。令制四等官の内、長官を伯と称するのは神祇官だけであるので、単に伯(はく)と見える場合はこの神祇伯を指す。.

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神田感応寺

感応寺(かんだかんのうじ)は、東京都台東区谷中六丁目にある日蓮宗の寺院である。山号を光照山と号する。区内には感応寺が3つあったため、「神田感応寺」と称して区別する。渋江抽斎や平木白星の墓がある。.

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神沢杜口

沢杜口(かんざわ とこう、宝永7年(1710年) - 寛政7年2月11日(1795年3月11日))は江戸時代中期の随筆家、歴史家、俳人。通称は与兵衛、諱は貞幹。別号に可々斎、其蜩庵、静坐百六十翁など。京都町奉行所の与力を務めた後、晩年『翁草』200巻を書き上げた。.

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神津神社

津神社(かみつじんじゃ)は大阪市淀川区十三東に鎮座する神社。.

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祐徳稲荷神社

徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は、佐賀県鹿島市にある神社である。旧社格は県社。別名鎮西日光。 伏見稲荷大社、笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷の一つに数えられる。年間300万人の参詣者が訪れる。これは九州の神社では太宰府天満宮に次ぐ参拝客数である。衣食住、生活全般の守護神として、商売繁盛、家運繁栄などで尊崇されている。.

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祥雲寺 (豊島区)

祥雲寺(しょううんじ)は、東京都豊島区池袋三丁目にある曹洞宗の寺院。山号は瑞鳳山。本尊は薬師如来。.

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祇園祭

祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。 祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。 宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。 祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。.

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祇園梶子

祇園梶子(ぎおんかじこ、生没年不明)は江戸時代中期の歌人。本名は梶。本姓不明。梶女とも。 梶子は京都祇園の八坂神社近くで茶店を営む店主であった。幼少の頃より、草子や歌物語を好み、特別な師を持たなかったが、歌才に恵まれ、公家の冷泉為村から和歌を贈られるほどであった。 宝永3年(1706年)に歌集『梶の葉』を出版。挿絵は友禅染めで有名な宮崎友禅斎が描いた。和歌を口ずさむ店主がいる珍しい店として、梶子の和歌目当てに訪れた客で茶店は繁盛し、梶子の歌名は、洛中のみならず全国に知られたという。また、町絵師でもあった友禅斎が絵を描いた扇子に、客の頼みで梶子が和歌を書き、客がそれを京都の土産にすることもあったという。 梶子は生涯独身であったが、百合という養女を貰い、茶店を継がした。百合も養母梶子と同じく歌才に恵まれ、歌集『佐遊李葉』を残している。百合は旗本徳山氏との間に一女町をもうけており、この町が後に池大雅と結婚し自らも画家として知られる玉蘭である。梶子、百合、町の三人で祇園三女として知られた。.

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福原就澄

福原 就澄(ふくはら なりずみ、生没年未詳)は、江戸時代の人物。長州藩永代家老、宇部領主福原家の出身。 父は毛利家家老福原隠岐守広俊。兄弟に福原広頼、福原広泰などがいる。 安芸福原氏は代々本家筋の毛利氏に仕え、江戸時代に入ってからは長州藩の永代家老となっていた家柄である。歴代当主は藩主の毛利氏から偏諱を賜る慣習があり、父・広俊は毛利綱広から、兄弟の広頼は家督相続した元禄8年(1695年)に、広泰(初めは毛利広為)は宝永元年(1704年)に、当時の藩主毛利吉広から、それぞれ「広」の1字を受けている。これに倣えば、就澄も同様に「就」の1字を受けている筈で、該当する藩主は(綱広と吉広の間の)毛利吉就しかあり得ない。ましてやこれまでの福原氏に「就」の字を用いた、或いは毛利氏(元就や秀就)からその字を受けた人物が一人もおらずその可能性は極めて高い(但し、今のところその史実は確認されていない)。 多くの系図類では、就澄は広頼と広泰の間とされているが、就澄が吉就から偏諱を賜っていたとする説が正しければ、(就澄が何かしらの事情で元服が遅かったということがない限り)吉就の弟である吉広から1字を受けた後者二人よりも年長であった可能性がある。肝心の就澄の生涯・事績についても全く不明であり、本来ならば広俊の嗣子となる筈が早世し、代わって弟の広頼が嫡子となったと推測される。 Category:長州藩士 なりすみ Category:生年不明 Category:没年不明.

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福原元貞

福原 元貞(ふくばら もとさだ、宝永5年(1708年) - 寛保元年3月15日(1741年4月30日))は、長州藩永代家老・宇部領主福原家18代。 父は益田就賢。母は側室の女。養父は福原広泰。正室は福原元房の娘。兄に益田元道、子に福原広門がいる。初名は福原国禎(くにさだ)。通称は主殿、豊後。.

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福山 (城下町)

正保城絵図「備後国福山城図」 福山市街の航空写真。青線(総構え)の内側が概ね城下町となっていた。1981年度 国土航空写真 福山(ふくやま)は広島県福山市の福山城周囲に元和8年(1622年)頃に造られた城下町で明治6年(1873年)に福山城が廃城されるまで備後国の中心地として栄えた。.

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福山城 (備後国)

福山城(ふくやまじょう)は広島県福山市丸之内1丁目にあった日本の城で、城跡は国の史跡に指定されている。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれる。日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定された。.

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福岡市指定文化財一覧

福岡市指定文化財一覧(ふくおかししていぶんかざいいちらん)は、福岡県福岡市が福岡市文化財保護条例(昭和48年3月31日条例第33号)に基づき指定または登録している文化財の一覧。 2018年3月15日現在、指定文化財数は222件4,908点、登録文化財数は21件21点。以下、種類別の指定・登録文化財数は同日現在(登録文化財はすべて建造物)。 ※特記なき場合は福岡市内。.

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福島大火

福島大火(ふくしまたいか)は、福島城下町及び近代の福島市市街地で起きた大火災。.

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福王寺 (佐久市)

福王寺(ふくおうじ)は、長野県佐久市にある真言宗智山派の寺院。山号は雫田山、院号は竹仙院。.

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福田町 (高松市)

福田町(ふくだまち)は、香川県高松市中心部の町丁。郵便番号は760-0048。住居表示に関する法律に基づく住居表示は実施されていない。.

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禰寝清純

寝 清純(ねじめ きよずみ、元禄9年(1696年) - 享保9年3月25日(1724年4月18日))は、江戸時代中期の薩摩藩士。吉利郷私領主の禰寝家当主。 正室は禰寝清雄の娘。子は禰寝清方。徳慈丸、仙十郎。.

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秋子内親王

秋子内親王(あきこないしんのう、貞建親王妃 秋子内親王、元禄13年1月5日(1700年2月23日) - 宝暦6年3月29日(1756年4月28日)は、江戸時代の皇族。東山天皇の第一皇女で、伏見宮貞建親王の妃。生母は有栖川宮幸仁親王の王女、中宮幸子女王(承秋門院)。幼称は姫宮。法号は光顕院宮。 宝永4年(1707年)に内親王宣下を受け、宝永7年(1710年)、従弟(父東山天皇の同母妹福子内親王の子)にあたる貞建親王と婚約し、享保4年(1719年)、20歳で入輿。 入輿後は猷子女王、豊子女王の二女を儲けるが男子には恵まれず、家女房の産んだ邦忠親王を実子と公称した。その後、寛保3年(1743年)に二品に叙され、宝暦6年(1756年)、57歳で薨去。相国寺(京都市上京区)内の伏見宮墓地に葬られた。.

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秋山仙朴

秋山 仙朴(あきやま せんぼく、生没年不詳、17世紀-18世紀)は、江戸時代の囲碁棋士、著述家。元の名は小倉道喜(おぐら どうき)。武蔵国生まれ、本因坊道悦、本因坊道策門下、六段。『新撰碁経大全』、『古今當流新碁経』などの著作があり、その記述のために絶版、戸締めの刑を受けた。 道喜は本因坊道悦に入門し、その後道策門下となる。道策とは二子で対局して1勝2敗、本因坊道知と先番で打ち分け白番で負け、上手(七段)に先相先の手合(六段)に進む。道策の死後は道知門下となるが、不品行により道悦、井上道節因碩からたびたび咎められた。1707年(宝永4年)に出奔して泉州堺に移り秋山正廣と改名、仙朴と号す。これにより碁家より破門とされる。 1720年(享保5年)に、囲碁心得や定石について記した『新撰碁経大全』二巻を出版。1725年(享保10年)に再版する際に、前書において「今道策流學者予外無之、為後之書置者也」(道策流を学ぶ者は予の他にいない)と書いたのを、京都で隠居の身にあった道悦が目にし、これを不届きとして江戸の道知に処分を求めた。道知は他の家元の主だった者と協議し、碁所の立場上差し置き難しとして寺社奉行小出信濃守に訴え出て、町奉行を通じて同書は絶版、仙朴は十日間の戸締めに処せられた。 他の著作として、『新撰碁経大全』の別版で名古屋の版元から出した『當流碁経大全』、道策時代の打碁集『古今當流新碁経』がある。.

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秋元喬知

秋元 喬知(あきもと たかとも)は、江戸時代前期から中期の大名。甲斐谷村藩主、武蔵川越藩主。老中を元禄12年(1699年)から正徳4年(1714年)まで務めた。館林藩秋元家4代。実父の戸田忠昌、実弟の戸田忠真共に老中を務めた。.

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秋元氏

秋元氏(あきもとし)は、日本の氏族。本姓は藤原氏で宇都宮氏の一族と伝える。 江戸時代に譜代大名となった。.

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秋月種封

秋月 種封(あきづき たねくに、寛文2年(1662年) - 宝永6年1月10日(1709年2月8日))は、江戸時代前期の旗本寄合。高鍋藩主秋月種信の三男。母は松浦隆信の娘。初名は種重。通称は宗吉、重三郎。式部。室は織田長頼の娘。子女は、種羽(たねのぶ)、牧野忠列(牧野忠貴養子)、秋月種輔(種羽の跡を継ぐ)、松浦棟養女、真田信清室、松浦信秀(松浦信福養子、求馬)、中村道重(本藩家臣中村道安養子)。 元禄2年(1689年)2月末日、父の種信の封地より日向国諸県郡、宮崎郡内3,000石を分封され寄合となる。宝永6年、48歳で没する。法名は宗本。墓所は下谷広徳寺の梅雲院。没後、種羽が跡を継いだ。 たねくに Category:江戸幕府旗本 Category:高鍋藩の人物 Category:1662年生 Category:1709年没.

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秋月種弘

秋月 種弘(あきづき たねひろ)は、日向高鍋藩の第5代藩主。第4代藩主・秋月種政の長男。母は松浦棟の娘。正室は中川久通の娘。側室は多数。.

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秋月種政

秋月 種政(あきづき たねまさ)は、日向高鍋藩の第4代藩主。第3代藩主・秋月種信の次男。母は松浦隆信の娘。正室は松浦棟(隆信の孫)の娘。側室は多数。.

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稚内市

内市(わっかないし)は、北海道にある市。宗谷総合振興局所在地。日本国内の最北端に位置しており、宗谷地方の行政・経済の中心地、ロシアサハリン州をはじめとする北方圏への玄関口になっている。.

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種子島久基

子島 久基(たねがしま ひさもと、寛文4年9月5日(1664年10月23日) - 寛保元年7月16日(1741年8月26日)は、薩摩藩(鹿児島藩)家臣、種子島氏第19代当主。 父は種子島久時。母は北郷久精の娘。正室は島津光久の十一女の千代松。継室は島津光久の十四女の袈裟千代。子は種子島憲時、種子島久達。幼名は鶴袈裟丸、初名は義時、伊時。通称は三郎次郎、左内、弾正、号栖林。.

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稲垣定享

稲垣 定享(いながき さだかず、宝永7年(1710年)- 元文5年4月25日(1740年5月20日))は、近江山上藩の第3代藩主。 第2代藩主稲垣重房の長男。正室は北条氏朝の娘。官位は従五位下、安芸守。 宝永7年(1710年)、もしくは正徳4年(1714年)3月7日生まれとも言われている。幼名は熊次郎。享保5年(1720年)4月26日、父の死去により後を継ぐ。享保11年5月28日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年12月18日、従五位下安芸守に叙任する。享保17年4月、日光祭礼奉行を命じられる。享保19年5月、駿府加番を命じられる。江戸の大火で上下両屋敷が焼失して出費が相次いだため、質素倹約や新田開発を主とした藩政改革を断行したが、効果が見込めず、また定享自身が元文5年(1740年)4月25日に早世したため、失敗に終わった。跡を養嗣子の定計が継いだ。墓所は群馬県伊勢崎市の天増寺。 さたかす い03 Category:1710年生 Category:1740年没.

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稲垣重定

垣 重定(いながき しげさだ、慶安元年(1648年)- 宝永4年11月10日(1707年12月3日))は、近江山上藩の初代藩主。 大身旗本・稲垣重大の長男。正室は牧野康成の娘。子に稲垣重房(長男)、娘(大久保忠庸正室)、娘(市橋直方正室)。官位は従五位下、備後守。安芸守。.

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稲垣重富

垣 重富(いながき しげとみ、延宝元年(1673年) - 宝永7年4月17日(1710年5月15日))は、江戸時代前期の大名。三河刈谷藩3代藩主、上総大多喜藩主、下野烏山藩初代藩主。鳥羽藩稲垣氏4代。.

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稲垣重房

稲垣 重房(いながき しげふさ、寛文10年(1670年) - 享保5年3月4日(1720年4月11日))は、近江山上藩の第2代藩主。 初代藩主・稲垣重定の長男。正室は大久保忠高の娘。子は稲垣定享(長男)。官位は従五位下。長門守。 通称は主水。寛文7年(1667年)生まれとも言われている。天和元年(1681年)3月1日、将軍徳川綱吉にお目見えする。貞享3年(1686年)12月26日、従五位下長門守に叙任する。宝永4年(1707年)に父が死去したため、翌年閏正月5日に後を継いだ。正徳元年(1711年)5月1日、大番頭となる。享保5年(1720年)3月4日に死去し、後を長男の定享が継いだ。法号は芳厳院歓宗良喜大居士。墓所は群馬県伊勢崎市の天増寺。 しけふさ い02 Category:1670年生 Category:1720年没.

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稲垣昭賢

稲垣 昭賢(いながき てるかた、元禄11年4月10日(1698年5月19日) - 宝暦2年12月29日(1753年2月1日))は、江戸時代前期の大名。下野国烏山藩2代藩主、志摩国鳥羽藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家5代。 烏山藩初代藩主稲垣重富の長男。母は木下俊長の娘。正室は小出英貞の娘。官位は従五位下和泉守。 宝永7年(1710年)、父が死去したため家督を相続した。享保10年(1725年)、烏山藩から鳥羽藩に移封される。宝暦2年(1752年)12月29日、55歳で死去した。嗣子がなかったため、弟稲垣昭辰の子の昭央が養子となって跡を継いだ。 てるかた Category:譜代大名 Category:烏山藩主 Category:鳥羽藩主 Category:1698年生 Category:1753年没.

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稲爪神社

(いなづめじんじゃ)は、兵庫県明石市大蔵本町に鎮座する神社。旧社格は郷社。延喜式神名帳の伊和都比売神社に比定される神社のひとつ。.

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稲田植幹

植幹(いなだ たねみき、正保3年(1646年) - 享保5年9月14日(1720年10月15日))は、徳島藩筆頭家老。淡路洲本城代稲田家5代当主。 子は稲田植治、稲田植政。幼名小八郎。通称九郎兵衛、大蔵。.

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稲葉知通

葉 知通(いなば ともみち、承応元年9月19日(1652年10月21日)- 宝永3年4月15日(1706年5月26日))は、豊後国臼杵藩の第6代藩主。 第4代藩主・稲葉信通の三男。母は織田信良の娘。正室は溝口重雄の娘。子は稲葉恒通(次男)、稲葉通大(三男)。官位は従五位下、能登守。初名は通周。通称、市正。 元禄7年(1694年)、兄で先代藩主の景通が死去したため、その跡を継いだ。藩政においては道路改修や商業発展などに尽力した。宝永3年(1706年)4月15日、55歳で死去し、跡を次男・恒通が継いだ。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。.

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稲葉菫通

葉 菫通(いなば まさみち)は、豊後国臼杵藩の第8代藩主。 享保5年(1720年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし翌年には、天候不順により藩内に大飢饉が襲って大被害を受け、それによってただでさえ悪化していた藩財政がさらに悪化した。このため、享保14年(1726年)には49か条にわたる倹約令を出して藩財政再建を目指したが、享保17年(1732年)には城下にて大火事が起こるなどして大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も破綻寸前となった。このような中で失意のうちに元文2年(1737年)正月17日に29歳で死去し、跡を長男・泰通が継いだ。.

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稲葉恒通

葉 恒通(いなば つねみち)は、豊後国臼杵藩の第7代藩主。 稲葉知通の次男。宝永3年(1706年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし幕命による普請手伝いが相次いだため、藩財政が窮乏化した。このため恒通は倹約令を出し、御用金を課し、さらに運上金制度や借上制度を制定することで藩財政を再建しようとしたが、享保5年(1720年)6月25日に31歳で死去したこともあって、改革は失敗に終わった。跡を長男・菫通が継いだ。.

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稲葉正往

葉 正往 / 正通(いなば まさみち)は、江戸時代の譜代大名、老中。相模小田原藩3代藩主、越後高田藩主、下総佐倉藩初代藩主。稲葉正則の長男、母は毛利秀元の娘。正成系稲葉家宗家4代。.

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稲葉正知

葉 正知(いなば まさとも、貞享2年(1685年) - 享保14年5月29日(1729年6月25日))は、下総佐倉藩の第2代藩主、山城淀藩の初代藩主。正成系稲葉家宗家5代。.

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稲葉正恒

稲葉 正恒(いなば まさつね、宝永3年(1706年) - 享保15年3月24日(1730年5月10日))は、山城淀藩の第3代藩主。正成系稲葉家宗家7代。 淀藩稲葉家分家の7000石の大身旗本である稲葉正倚(稲葉正則の次男)の三男。正室は毛利元次の娘。官位はなし。通称は平佐衛門、玄蕃。 正徳4年(1714年)11月25日、実父正倚の死去により、旗本稲葉家の家督を継ぎ、寄合に所属する。旗本稲葉家は常陸国新沼郡内なとで7000石を支配していた。享保元年8月9日、将軍徳川吉宗にお目見えする。 享保15年(1730年)1月14日、本家の先代藩主稲葉正任が早世したため、末期養子として、その跡を継いだ。旗本稲葉家は絶家となった。同年3月24日、25歳で死去した。家督は叔父の稲葉正直の家督2000石を継いでいた正親が継いだ。法号は剛節院。墓所は東京都墨田区向島の弘福寺。 まさつね Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:江戸幕府旗本 Category:1706年生 Category:1730年没.

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穂波経尚

波 経尚(ほなみ つねひさ、正保3年8月14日(1646年9月23日) - 宝永3年6月12日(1706年7月21日))は、江戸時代の公家(公卿)。 堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流勧修寺庶流)である穂波家の初代。.

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童子問

童子問(どうじもん)は、江戸時代前期の儒学者伊藤仁斎が著した漢文体による問答形式の儒教の概説書。全3巻。.

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竹取物語

かぐや姫を籠に入れて育てる翁夫妻。17世紀末(江戸時代後期)メトロポリタン美術館蔵。 『竹取物語』(たけとりものがたり)は、平安時代初期に成立した日本の物語。成立年、作者ともに未詳。.

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竹内町

竹内町(たけのうちちょう)は、鳥取県境港市にある町。.

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竹田出雲

竹田 出雲(たけだ いずも)とは、江戸時代の浄瑠璃作者。また三代に亘って竹本座の座本(興行責任者)にもなった。.

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竹田近江 (初代)

初代 竹田近江(しょだい たけだおうみ、生年不明 - 宝永元年7月3日〈1704年8月3日〉)とは、江戸時代のからくり師。また、そのからくりを使って興行をした人物。.

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竹腰友正

竹腰 友正(たけのこし ともまさ、延宝元年(1673年) - 宝永3年4月19日(1706年5月30日))は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第3代当主。官位は従五位下、筑後守。2代当主・竹腰正晴の長男。 延宝5年(1677年)1月19日、父・正晴が死去したため、同年2月10日に5歳で跡を継いだ。正晴の従兄弟にあたる尾張藩主の徳川光友より偏諱を賜って友正と名乗る。元禄2年(1689年)に初めて将軍の徳川綱吉に拝謁、12月に従五位下筑後守に叙任、友正には嗣子がなかったために従兄弟の正映を養子とした 。宝永3年(1706年)4月19日に死去し、跡を養子の正映が継いだ。法号は友正院殿賢誉皓哲居士。墓所は愛知県名古屋市の相応寺。.

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竹腰正辰

竹腰 正辰(たけのこし まさたつ)は、美濃国今尾藩の初代当主(幕藩体制下では藩主として認められていない)竹腰正信の三男。正室は樋口信康の娘の立。長男に竹腰正映。徳川義直の甥。 正保2年(1645年)父の没後、次兄正晴が跡を継ぎ、6000石を分与された。長男の正映は、宝永3年(1706年)4月19日に先代の友正が死去すると、同年5月25日に家督を継ぎ、宗家4代目となった。 まさたつ Category:尾張藩の人物.

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竹腰正武

竹腰 正武(たけのこし まさたけ)は、尾張藩の御附家老、美濃今尾領の第5代領主。石川章長の四男。 尾張藩附家老の竹腰家とは別家の竹腰正辰家の養子となり正辰家を相続していたが、本家の正映が宝永6年(1709年)1月18日に死去したため、同年3月22日に跡を継いだ。 宝永7年(1710年)3月、将軍・家宣に初めて拝謁、12月に従五位下山城守に叙任、元文4年(1739年)4月に藩主・宗勝に従って尾張に帰藩、延享2年(1745年)には将軍代替わりに宗勝の名代として江戸に上った。 宝暦9年(1759年)12月8日に死去。 正武の長男・正方は家督相続前の元文5年(1740年)に29歳で死去、寛保元年(1741年)に養子として正喜(植村家包の弟)を迎えたが宝暦3年(1753年)に34歳で病没、結局尾張藩主・徳川宗勝の五男・勝起が養子となって竹腰家の家督を継いだ。.

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竹腰正映

竹腰 正映(たけのこし まさてる、元禄2年(1689年)- 宝永6年1月18日(1709年2月27日))は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第4代当主。初代当主・竹腰正信の三男竹腰正辰の長男。官位は従五位下、山城守。 正辰は別家を立てていたが、元禄11年(1698年)に正映を本家友正の養子に出した(代わりに正辰家は石河正武を養子に迎えた)。宝永3年(1706年)4月19日に附家老竹腰家の先代で従兄の友正が死去したため、同年5月25日に正映が3万石の家督を継いだ。9月には将軍の徳川綱吉に初御目見得となり、12月には従五位下山城守に叙任した。 宝永6年(1709年)1月18日に21歳で死去し、跡を養子の正武が継いだ。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。.

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竹本政太夫

竹本 政太夫(たけもと まさたゆう)は、義太夫節の太夫。竹本派でも重要な名跡。.

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立羽不角

立羽 不角(たちば ふかく、寛文2年(1662年) - 宝暦3年7月21日(1753年8月19日))は、江戸時代中期の俳諧師。旧姓は橘。通称は定之助、平八。別号に遠山、千翁、松月堂、虚無斎、虚雲斎、南々舎、生風斎、温故知新斎。 松永貞徳の流れを汲む岡本不卜門下で、貞門派を一歩進めてより通俗的な句風を志向した。自らは温故知新流を標榜したが、他派からは化鳥風と揶揄された。.

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立花実山

立花 実山(たちばな じつざん、明暦元年(1655年) - 宝永5年11月10日(1708年12月21日))は、江戸時代の茶人で、福岡藩の家老。福岡藩の重臣立花重種(しげたね、黒田平左衛門、薦野増時の孫)の次男。通称は五郎佐衛門。実山は道号で、諱(実名)は重根(しげもと)。出家して宗有と号する。織部流を基本とし、道安流と遠州流を加え、南坊流(立花流)を開いた。若くして貝原益軒や京の木下順庵に学び書や和歌を能くし、また禅にも通じ禅寺を開基した。兄に立花重敬(黒田次郎太夫)、弟に立花増武、立花峯均、立花重躬、子に立花不白、甥に笠原道桂がいる。妻は野村太郎兵衛裕春の次女。.

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立花不白

立花 不白(たちばな ふはく、生年不詳 - 享保19年5月19日(1734年6月20日))は、江戸時代の茶人で、福岡藩士。諱は道暠(みちあきら)。通称は太左衛門。立花実山(重根)の子。号は虚谷斎。叔父の立花峯均と父の実山に南坊流を学び2代目をとなる。.

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立花種長

立花 種長(たちばな たねなが)は、筑後三池藩の第2代藩主。.

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笠野原台地

野原台地(かさのはらだいち)は、大隅半島中央部にある南北約13キロメートル、東西約10キロメートル、面積約60平方キロメートルの台地であり、肝属平野の北西部を構成する。単に笠野原(かさのはら、かさのばる、かさんばい)とも呼ばれる。九州南部において最も広いシラス台地である。ほぼ全域が鹿児島県鹿屋市に属する。.

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筑後川

筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に流れ有明海に注ぐ川である。河川法に基づき国土交通省政令によって1965年(昭和40年)に指定された一級水系・筑後川水系の本流で、一級河川に指定されている。 流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で規模としては九州地方最大の河川である。利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれることもある。また、上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる(詳細は後述)。.

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等覚寺 (宇和島市)

等覚寺(とうがくじ)は、愛媛県宇和島市に所在する寺院である。山号は龍華山(りゅうげさん)。宗派は臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。大隆寺と並んで宇和島藩主伊達家の菩提寺である。.

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篠原弥助長重

原 長重(しのはら ながしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士。加賀藩篠原家の祖。前田利家の正室・まつの実兄。家紋は左三つ巴。.

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米倉忠仰

米倉 忠仰(よねくら ただすけ)は、江戸時代中期の大名。下野国皆川藩4代藩主、武蔵国六浦藩(金沢藩)初代藩主。六浦藩米倉家4代。.

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米倉昌照

米倉 昌照(よねくら まさてる)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。下野国皆川藩3代藩主。六浦藩米倉家3代。.

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米相場

米相場(こめそうば)とは、江戸時代における米の先物相場を指す用語である。なお本項では、日本における江戸時代から現代に至るまでの米の先物取引市場について記述する。.

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米沢彦八

米沢 彦八(よねざわ ひこはち)は落語家の名跡。現在は空き名跡であるが、過去4~5人ほど確認されている。米澤 彦八とも表記する。.

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米津政武

米津 政武(よねきつ まさたけ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。武蔵国久喜藩初代藩主。.

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粟嶋神社 (佐伯市)

粟嶋神社(あわしまじんじゃ)は、大分県佐伯市米水津(よのうづ)にある神社(旧郷社)。鎮座地は北から米水津湾に突き出す岬の北西部つけ根に当たり、湾に面して位置する。.

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粟嶋神社 (海南市)

粟嶋神社(あわしまじんじゃ)は、和歌山県海南市下津町方に鎮座する神社。 下津港の入江に望む加茂川の支流、宮川左岸の丘陵東中腹に、東面して鎮座する。境内に旧別当寺院である淡嶋山龍泉寺があり、明治の神仏分離を免れた神仏習合時代の名残をとどめている。旧村社。.

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糠塚 (八戸市)

糠塚(ぬかづか)は、青森県八戸市の町名・地名の一つである。26の小字がある。当地域の人口は3,786人である。.

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細川吉利

細川 吉利(ほそかわ よしとし、元禄2年(1689年) - 宝永3年4月25日(1706年6月5日))は、肥後国熊本藩の世嗣。第3代藩主・細川綱利の次男。官位は従四位下、侍従、兵部大輔。.

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細川綱利

細川 綱利(ほそかわ つなとし)は、第3代肥後熊本藩主。熊本藩細川家4代。第2代藩主細川光尚(光利)の長男。 吉田司家を肥後に招き、当時衰退していた相撲道を後援したことや、赤穂事件後に大石良雄らのお預かりを担当したことで知られる。.

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細川興誠

細川 興誠(ほそかわ おきざね、貞享4年(1687年) - 享保13年9月20日(1728年10月22日))は、常陸谷田部藩の嫡子。大納言姉小路公量の四男。正室は細川興栄の娘。子は細川興虎(長男)。通称は主馬。.

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細川興貞

細川 興貞(ほそかわ おきさだ、元禄7年(1694年) - 宝永6年2月28日(1709年4月7日))は、常陸谷田部藩の嫡子。第4代藩主・細川興栄の長男。通称は大学。 宝永2年(1705年)、徳川綱吉に初見するが、叙任前の宝永6年(1709年)に早世した。代わって、姉小路家から細川興誠が興栄の婿養子に迎えられて嫡子となった。 おきさた Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1694年生 Category:1709年没.

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細川興虎

細川 興虎(ほそかわ おきとら)は、常陸谷田部藩の第5代藩主。.

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細川興栄

細川 興栄(ほそかわ おきなが)は、常陸谷田部藩の第4代藩主。 万治元年(1658年)、第3代藩主・細川興隆の長男として生まれる。元禄2年(1689年)閏1月14日、父の隠居により家督を継ぐ。宝永6年(1709年)3月、従五位下・長門守に叙位・任官する。 短慮な上に粗暴で、殺生を好んだとされており、藩政では重税を強いて領民を苦しめ、家臣に対しても些細なことで厳罰に処するなど、悪政を行なったといわれる。享保13年(1728年)11月23日、家督を婿養子の細川興誠の長男・興虎に譲って隠居し、軸雲と号した。元文2年(1737年)7月19日に死去した。享年80。 おきなか *04 Category:1658年生 Category:1737年没.

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細草檀林

細草檀林(ほそくさだんりん)は、寛永18年(1641年)、上総国の法雲山遠霑寺に設置された日蓮宗勝劣派の学問所(檀林)の一つ。名称は所在地の字(あざ)にちなむ。.

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紺屋高尾

紺屋高尾(こうやたかお)は浪曲、古典落語の演目の一つである。大正末期に出た篠田実の浪曲レコード、当時異例となるほどの売れ方をした。そこから数多く落語家が演じたり、日本の時代劇映画の題材となった。 花魁の最高位である高尾太夫と、一介の紺屋の職人との純愛をテーマに据えた名品。モデルとなったのは、五代目の高尾-通称『紺屋高尾』『駄染高尾』-にまつわるエピソードで、この高尾の記録から舞台は宝永年間から正徳年間に掛けての江戸であることが推測することができる。 主な演者は、浪曲師では篠田実が得意とした。落語家で4代目柳亭左楽、6代目三遊亭圓生、7代目立川談志、立川志の輔など、最近では、芸人でラジオパーソナリティーの日高晤郎が演じたことでも知られている。.

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紅葉山文庫

紅葉山文庫(もみじやまぶんこ)は、江戸時代、幕府によって江戸城内・紅葉山に設けられた文庫(現代における図書館)である。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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紀三井寺

紀三井寺(きみいでら)は、和歌山県和歌山市紀三井寺にある仏教寺院。正式名は紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさん こんごうほうじ ごこくいん)。西国三十三所第2番札所。救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)総本山。.

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紀伊新宮藩

新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市(紀伊国)を治めた藩。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は紀州藩の御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。.

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紀海音

紀 海音(きの かいおん、寛文3年(1663年) - 寛保2年10月4日(1742年10月31日))は、江戸時代中期の浄瑠璃作家、狂歌師、俳人。本名は榎並善右衛門。大坂生まれ。父は大阪御堂前の菓子商鯛屋善右衛門(俳号:貞因)で、兄に狂歌師油煙斎貞柳がいる。 若い頃は、京都宇治黄檗山萬福寺の悦山に師事して僧となり高節と号した。その後還俗して大坂に出、和歌を契沖に、俳諧を安原貞室に、狂歌を兄に学んだ。1707年(宝永4年)から1723年(享保8年)頃まで大坂豊竹座の浄瑠璃作家として活躍し、竹本座の近松門左衛門と対抗していたが、それ以降は俳諧、狂歌に専念した。1736年(元文元年)には法橋に叙せられている。.

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続善隣国宝記

続善隣国宝記(ぞくぜんりんこくほうき)は、江戸時代に編纂された外交文書集。室町時代に編纂された『善隣国宝記』の継承する意味を有した書名と考えられている。ただし、内容の異なる3系統の同名書が存在する上、その派生とも言われている続善隣国宝外記・善隣国宝別記の2種類の外交文書集も存在している。.

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継桜王子

継桜王子の鳥居と一方杉 継桜王子(つぎざくらおうじ、次桜王子・続桜王子とも)は和歌山県田辺市中辺路町にある神社。熊野九十九王子社のひとつ。国の史跡「熊野参詣道」(2000年〈平成12年〉11月2日指定)および名勝「南方曼荼羅の風景地(2015年〈平成27年10月7日指定)の一部。.

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総社町総社

総社町総社(そうじゃまちそうじゃ)は、群馬県前橋市の地名。郵便番号は371-0852。2013年現在の面積は2.61km2。.

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総社町高井

総社町高井(そうじゃまちたかい)は、群馬県前橋市の地名。郵便番号は371-0856。2013年現在の面積は0.21km2。.

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繁沢学文

繁沢 学文(はんざわ さとふみ)は、江戸時代前期の武士。毛利氏家臣で長州藩士。父は繁沢直久。.

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繁沢芝貞

繁沢 芝貞(はんざわ しげさだ)は、江戸時代中期の武士。毛利氏家臣で長州藩士。父は繁沢学文。.

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織田信常

織田 信常(おだ のぶつね、宝永2年(1705年)- 寛政2年1月27日(1790年3月12日))は、上野小幡藩の第4代藩主・織田信就の次男。初名は信村。通称は亀次郎、蔵人。 『寛政重修諸家譜』によれば、「多病によりて嫡子たらず」とある。そのため、織田家の家督を相続せず、家中で津田蔵人と称し、生涯を終えた。寛政2年(1790年)1月27日死去、86歳。出羽高畠城下の貞泉寺に葬られた。 一説によれば、金田房輝の娘を妻に迎えて子女をもうけたという。 のふつね Category:江戸時代の武士 Category:1705年生 Category:1790年没.

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織田信義

織田 信義(おだ のぶよし、宝永5年(1708年) - 天明6年11月27日(1787年1月16日))は江戸時代の旗本。旗本織田長喬の次男。養父は旗本織田信政。生母は遠藤信澄の娘。通称は十次郎、刑部、弥十郎、竹翁。官位は従五位下肥後守。.

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織田信門

織田 信門(おだ のぶかど)は、江戸時代の旗本。長男信有の死去により、養子長善(大和芝村藩主織田長清の四男)、養子信倉(旗本能勢頼寛の三男)を迎える。.

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織田信朝

織田 信朝(おだ のぶとも、宝永6年9月28日(1709年10月30日) - 元文2年1月6日(1737年2月5日))は、丹波柏原藩第2代藩主。高長系織田家5代。 初代藩主・織田信休の次男。生母は生田氏。正室は美作津山藩主松平宣富の五女。子女はなし。幼名は菊千代、右近。官位は従五位下出雲守。.

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織田信成 (旗本)

織田 信成(おだ のぶなり、慶安3年(1650年) - 宝永7年12月1日(1711年1月19日))は江戸時代の旗本。織田信高の長男。通称は虎之助、隼人、図書。織田信行、明智光秀の玄孫。.

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織田信明

織田 信明(おだ のぶあきら、寛文2年(1662年) - 元文元年9月20日(1736年10月24日))は、江戸時代前期の旗本。交代寄合織田長政の長男。生母は松平英親の養女。初名は信秋。通称は仙千代、式部、退翁。官位は従四位下侍従、讃岐守。 元禄3年(1690年)12月12日、家督を相続する。同日父長政の遺言により、弟信清に300石を分与した。その結果、支配する領地は2700石となった。.

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織田信旧

織田信旧(おだ のぶひさ、宝永7年(1710年) - 天明3年4月29日(1783年5月29日))は、丹波柏原藩第3代藩主。高長系織田家6代。 初代藩主・織田信休の三男。生母は生田氏。正室は細川宣紀の十女岑。子女に織田信応(三男)、織田長貴(四男)ら4男。初名は長旧。通称は豊次郎、織部。官位は従五位下山城守。.

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織田秀親

織田 秀親(おだ ひでちか、寛文2年11月5日(1662年12月15日)- 宝永6年2月16日(1709年3月26日))は、大和柳本藩の第4代藩主。尚長流織田家4代。 第3代藩主・織田秀一の長男。母は側室(名は不詳)。正室は土井利房の養女光曜院(土井利隆の娘)。子は織田秀行(四男)など4男5女。初名は長昌。通称は源七郎、監物。.

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織田貞幹

織田 貞幹(おだ さだもと)は、尾張藩家老。織田信長九男・信貞の子孫。尾州有楽流茶人。.

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織田貞則

織田 貞則(おだ さだのり、慶安2年(1649年) - 宝永6年4月4日(1709年5月13日))は江戸時代の旗本。高家旗本織田貞置の三男。生母は織田長政の娘。通称は半弥、三省。 寛文7年(1667年)11月21日、書院番に加えられる。寛文9年(1669年)12月21日、蔵米300俵を与えられる。天和2年(1682年)6月2日父貞置から近江神崎郡境村・南村内で300石を分け与えられ、蔵米は幕府に返上した。後に書院番を辞め、小普請組に所属する。宝永元年(1704年)12月2日隠居し、養子信種(旗本織田信成の三男)に家督を譲る。以後、三省と号する。宝永6年(1709年)4月4日死去、61歳。 正妻は稲葉通義の娘。子女はいない。 さたのり Category:江戸幕府旗本 Category:1649年生 Category:1709年没.

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織田貞置

織田 貞置(おだ さだおき、元和3年(1617年) - 宝永2年6月2日(1705年7月22日))は江戸時代前期から中期の高家旗本で茶人。織田信貞の次男。織田信長の孫。幼名は出来丸。通称は左京亮、五郎左衛門、主計頭。官位は従五位下侍従。号は一谷茅翁、永年堂、黄雀軒、文芳翁、山花、三過老人など。.

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織田長喬

織田 長喬(おだ ながたか、寛文12年(1672年) - 寛延4年9月28日(1751年11月15日))は江戸時代の旗本。交代寄合織田長政の三男。養父は織田貞輝。生母は松平英親の養女。通称は八十郎、権十郎。.

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織田長能

織田 長能(おだ ながよし)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。織田信貞系高家織田氏当主。.

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織田長清

織田 長清(おだ ながきよ、寛文2年9月25日(1662年11月5日) - 享保7年10月7日(1722年11月15日))は、大和国戒重藩第4代藩主。同国芝村藩(初代)藩主。長政流織田家4代。 宇陀松山藩主織田長頼の三男。正室は織田政時の長女。継室は内田正衆の長女。子は織田衛保(次男)、織田長弘(三男)、織田長善(四男、高家旗本織田信門の養子)、織田長亮(五男、兄長弘の養子)、藤助(七男、近江総見寺住職)、娘(宝寿院行快室)など8男2女。通称は安千代、内匠。官位は従五位下丹後守。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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織田成純

織田 成純(おだ なりとし(しげずみ、しげとし)、延宝4年6月5日(1676年7月15日) - 享保14年11月2日(1729年12月21日))は、大和柳本藩の第5代藩主。尚長流織田家5代。 第3代藩主・織田秀一の次男。母は小出有棟の娘。正室は土方豊高の娘(慈福院)。子はなし。通称は源三郎、右京、左京。初名は秀将、長教、秀俊、成純、信紀。官位は従五位下豊後守、播磨守。.

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美代姫 (徳川宗堯正室)

美代姫(みよひめ、宝永5年2月1日(1708年3月22日) - 延享3年5月18日(1746年7月6日))は、水戸藩第4代藩主徳川宗堯の正室。第3代藩主徳川綱條の嗣子徳川吉孚の娘。母は第5代将軍徳川綱吉の養女・八重姫。水戸藩5代藩主徳川宗翰の母。院号は初め長松院、のち泰受院。諡号は純懿夫人。.

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美濃衆

美濃衆(みのしゅう)は江戸時代の交代寄合(江戸幕府に代々仕えた旗本)。美濃国石津郡多良郷(現在の岐阜県大垣市)を所領としており、西高木家2,300石を筆頭に、東高木家1,000石、北高木家1,000石の高木氏3家からなる。伊那衆・那須衆・三河衆とともに美濃衆は交代寄合のうち「四衆」に分類される。.

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義安寺

義安寺(ぎあんじ)は愛媛県松山市道後姫塚に所在する寺院である。山号は護国山。正しくは、護国山義安禅寺と号する。宗派は曹洞宗。本尊は釈迦如来。通称、お六部(ろくぶ)さま。四国八十八箇所番外札所。.

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義経=ジンギスカン説

義経=チンギス・ハン説(よしつね=チンギス・ハンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日)と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。.

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羽根谷だんだん公園

羽根谷だんだん公園(はねだにだんだんこうえん)は、岐阜県海津市(旧海津郡南濃町)にある公園。 1980年(昭和55年)から整備が始められ、1994年(平成6年)に完成する。 養老山地の扇状地である羽根谷(同名の川もある)の砂防用堰堤を中心とした公園である。岐阜県選定の「飛騨・美濃さくら三十三選」に選ばれている桜の名所となっている。.

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真如院 (前田吉徳側室)

真如院(しんにょいん、宝永4年(1707年) - 寛延2年2月15日(1748年3月13日))は、加賀藩5代藩主・前田吉徳の側室。名は貞。父は江戸芝神明宮の神主・鏑木政幸。加賀騒動における浄珠院(6代藩主宗辰生母)毒殺未遂事件の主犯とされた。.

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真宗大谷派高須別院二恩寺

真宗大谷派高須別院二恩寺(しんしゅうおおたにはたかすべついんにおんじ)は、岐阜県海津市にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。通称は、「高須御坊」、「ご坊さん」、「助命壇」。助命壇は、この地域が洪水になるとこの二恩寺に避難し、命が助かったことから。 二恩とは、「仏恩」「世恩」を受けて成就したことを意味する。.

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真宗寺 (飛騨市)

真宗寺(しんしゅうじ)は岐阜県飛騨市古川町にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は朝光山。近隣の円光寺や本光寺とともに1月9日から16日まで開かれる報恩講は三寺まいりとして知られている。 文亀2年(1502年)に照蓮寺8世明誓の法嗣祐念により、白川郷萩町に開かれる。天文11年(1542年)には古川町に移転したが、金森氏が飛騨の領主になると新しく作られた町である現在地に移転した。浄土真宗の東西分立において大谷派に属していたが、宝永3年(1706年)転派して本願寺派となった。明治37年(1904年)に起きた古川大火によって輪転蔵を遺して伽藍が焼失する。現在の本堂は明治45年(1912年)に建てられたものである。.

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真光寺町

真光寺町(しんこうじまち)は、東京都町田市の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は195-0051。.

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真田信弘

真田 信弘(さなだ のぶひろ)は、江戸時代中期の大名。信濃国松代藩第4代藩主。.

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真田信音

真田 信音(さなだ のぶおと、明暦2年(1656年) - 宝永4年10月1日(1707年10月25日))は、江戸時代前期の旗本。上野国沼田藩の嫡子だった。真田信利の長男。母は山内忠豊の娘。正室は形原松平典信の娘。幼名は仙千代。官位は従五位下弾正忠、後に采女正。 寛文9年(1669年)、従五位下弾正忠に叙任。 天和元年(1681年)、幕府から命じられた普請工事の遅滞や磔茂左衛門一揆に代表される治世不良により、沼田藩は改易される。このため、父の信利は山形藩奥平家に、長男の信音も赤穂藩浅野家にお預けとなった。元禄元年(1687年)に許され、旗本として1000俵を賜り、旗本寄合席に列する。 元禄7年(1694年)、官位を采女正に改める。元禄10年(1697年)、武蔵国足立郡・男衾郡、伊豆国君沢郡・田方郡の4郡で1000石を賜った。しかし宝永4年(1707年)、52歳で死去した際、嗣子が無かったため無継絶家で改易となる。一門の真田信興がその名跡を継ぐが、信興の子の真田政賢の不行跡のため改易追放となった。この時、先代信興の兄弟の真田信清も連座して改易された。 のふおと Category:江戸幕府旗本 Category:沼田藩の人物 Category:1656年生 Category:1707年没.

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猫股の火

『大和怪異記』より「猫人をなやます事」 猫股の火、猫又の火(ねこまたのひ)は、越後国(現・新潟県)に伝わる怪火。宝永年間の怪談集『大和怪異記』に記述がある。「猫股の火」の名は漫画家・水木しげるの著書によるもので、原典は「猫人をなやます事」と題されている。.

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烏山藩

烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。.

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爪木晩山

木 晩山(つまき ばんざん、寛文2年(1662年) - 享保15年8月15日(1730年9月26日))は江戸時代中期の俳人。京都の人。初号は永可、別号に唫花堂、ニ童斎。.

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経世論

経世論(けいせいろん)は、近世(江戸時代)の日本で「経世済民」のために立案された諸論策、もしくはその背景にある思想。「経世思想」「経世済民論」とも称する。 他の東アジア諸国における同種の思想については、経世致用の学などを参照のこと。.

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終南浄寿

終南 浄寿(しゅうなん じょうじゅ、 宝永7年(1710年) – 明和4年 8月22日(1767年))は、江戸時代中期の黄檗宗の僧侶で書家・篆刻家である。 俗称は小島氏。法諱は浄寿、字を天年、終南は法号で、他に介石と号した。 伊勢松阪の人。.

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疋田氏 (牧野家重臣)

疋田氏(ひきたし)は、譜代大名牧野氏の重臣として、越後長岡藩では真木氏・野瀬氏とともに、特に先法三家と呼ばれた。先法家の概要については先法家を参照のこと。.

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瑤泉院

泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。 夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。「ようぜいいん」と読まれることが多いが、これは冷泉家の「泉」を「ぜい」と読むことにつられた読み癖(誤読)で、正しくは「ようぜんいん」と読む。.

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炭太祇

炭 太祇(たん たいぎ、宝永6年(1709年) - 明和8年8月9日(1771年9月17日))は、江戸時代中期の俳人。水語・三亭・不夜庵などと号した。出身は江戸。.

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瓦堂の芝居小屋

堂の芝居小屋(かわらどうのしばいごや)は、かつて奈良県奈良市瓦堂町付近にあった芝居小屋。形態や経営者を変えながら、江戸時代中期より昭和初期まで存続した。.

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生き吊り胴

生き吊り胴(いきつりどう)は、江戸時代、金沢藩の死刑のひとつである。.

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生島半六

生島 半六(いくしま はんろく、生年不明 - 宝永元年4月3日(1704年5月6日)ただし、没年月日も諸説ある。)は、江戸時代中期の歌舞伎役者。市川團十郎 (初代)を刺殺したことで知られている。.

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生出神社

生出神社(おいでじんじゃ)は、山梨県都留市四日市場に鎮座する神社。祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)・八坂刀売命(やさかとめのかみ)『山梨県の地名』、p.161。四日市場・下谷村の産神。旧郷社。江戸時代の谷村藩・秋元氏時代には秋元氏の産神。 生出神社は山梨県東部の郡内地方に所在し、都留市谷村から北東に位置する。都留市四日市場・井倉の境界にあたる生出山の北西麓に鎮座している。南には桂川の支流である菅野川(御祓川)が流れる。北には甲州街道・大月宿(大月市)から分岐し、吉田(富士吉田市)へ向かう富士道(現在の国道139号の一部)や、富士急行線・中央自動車道が通過している。 「四日市場」は中世に定期市が開かれたことに由来する地名とされ、戦国時代には『勝山記』天文2年(1533年)条に大月市猿橋町猿橋に架橋する猿橋が焼失した記事において、四日市場も火災に遭ったことを記している。江戸時代には四日市場村が成立し、富士道沿いの宿場町となった。 四日市場の西南方向には谷村が所在し、戦国時代には郡内領主の小山田氏が谷村館を築き、郡内領の支配拠点とした。江戸時代には谷村藩の城下町が築かれ、享保9年(1724年)に甲斐一国が幕府直轄領となると、谷村には谷村代官所が設置された。 生出山は標高701.4メートルの山で、山頂には生出山山頂遺跡があり、縄文時代早期や弥生時代中期の遺物が出土している。生出山には当社のほか井倉・法能に同一の祭神を祀る同社名の「生出神社」が鎮座する。『甲斐国志』によれば、当社を含む三社の生出神社は生出山山頂の小池東方の祠跡を奥宮としていたという。この小池や祠跡は現在では消失している。 井倉の生出神社に伝わる社伝によれば、生出山頂の小池にすむ白蛇が人々を脅かし、山頂に諏訪明神を祀ったことが創始で、延長7年(929年)に四日市場・井倉・法能の三箇所に遷宮し、旧社が奥宮とされたという。 『都留市社記』によれば、江戸時代初期に谷村藩主・秋元富朝が世子誕生を望み諏訪明神に祈願し、成就したため社名を「生出神社」に改めたという。近世には井倉村の生出神社神主である紫村美濃が兼帯している。 社殿は再建されており、『甲斐国志』によれば先代の社殿は元和年間に徳川氏家臣で郡内支配を担った鳥居成次により造営されたという。社蔵の棟札によれば、現在の社殿は明和5年(1768年)に再建されたもので、江戸の彫刻師による獅子の彫刻が残されている。.

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生類憐れみの令

当時中野犬小屋の区域に含まれていた、中野区役所前に建立されたモニュメント 生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代前期、第5代将軍徳川綱吉によって制定された、「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である。 保護する対象は貞享4年の法令に観られるように横行する捨て子や病人、(捨て子これ有り候はば、早速届けるに及ばず、その所の者いたはり置き、直に養ひ候か、または望みの者これ有り候はば、遣はすべく候。急度付け届けるに及ばず候事)、そして動物である犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類などにまで及んだ。 一般庶民や町人の生活にも大きな影響を与え、「天下の悪法」と評価される事が多く、綱吉への評価を下げる原因となっているが、近年では儒教に基づく文治政治の一環であると考えられ、「生類憐れみ政策」として把握しようとする動きが進んでいる東京都公文書館。.

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生駒正親

生駒 正親(いこま まさちか、延宝6年(1678年) - 宝永3年1月27日(1706年3月11日))は、江戸時代の旗本。幼名は長松、通称は小次郎、玄蕃。.

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生野銀山

慶寿ひ(金香瀬旧坑露頭群) 代官所門(入場門) 生野銀山(いくのぎんざん)は、兵庫県朝来市(但馬国)に開かれていた戦国時代から近代にかけての日本有数の銀山である。 明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために最初に官営(直轄)鉱山とした模範鉱山である。.

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生没同日

生没同日(せいぼつどうじつ)は、誕生日と命日が同じ日であること。.

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用明天皇職人鑑

『用明天皇職人鑑』(ようめいてんのうしょくにんかがみ)は近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃の物語。全五段。.

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田尻惟信

尻 惟信(たじり これのぶ )は江戸時代の筑後国柳河藩の家臣で、一時期浪人となる。藩職は普請役。矢部川改修や回水路新設、柳河藩領の有明海海岸埋め立てや磯島、唐男、高碇井堰の新設などの土木事業に貢献。 諱は惟信。通称は惣馬、惣次、惣右衛門。家格は組外書院番。石高は100石。「田尻惣馬」で一般的に知られる。.

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田中休愚

中 休愚(たなか きゅうぐ、寛文2年3月15日(1662年5月3日) - 享保14年12月22日(1730年2月9日))は江戸時代中期の農政家、経世家である。旧名・窪島喜六。田中丘隅・田中休愚右衛門・田中喜古(たなか よしひさ)とも名乗り、号は冠帯老人・武陽散民。武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都あきる野市平沢)出身。大岡越前守忠相に見出され、その下で地方巧者として活躍した。なお、共に大岡支配の役人として活動した蓑正高は休愚の娘婿にあたる。.

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田中盛親

中 盛親(たなか もりちか、慶安2年(1649年) - 享保18年7月24日(1733年9月2日))は江戸時代の薩摩藩の武士。剣術太刀流の剣客で、2代目宗家。諱は盛親。通称は喜之助。入道して傑山と号す。本姓は佐々木源氏。一般的には田中傑山で知られ、太刀流も傑山流といわれることがある。 弟子に大山貞政や野崎次郎右衛門、常陸流開祖和田助員や飛太刀流の小野郷右衛門、大脇主右衛門がいた。この5人の弟子は演武館師範を勤める。.

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田中藩

中藩(たなかはん)は、駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期に酒井忠利が入り、城下町・藤枝宿の整備を行ったが、以後藩主はめまぐるしく変わった。享保15年(1730年)に本多家が4万石で入り、明治維新まで7代約130年続いた。本多家時代には水戸藩の弘道館とともに武道の二関と呼ばれた藩校・日知館を有した。なお、田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、田中藩主になることは幕政参加への登竜門のひとつであったといえる。.

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田代陣基

代 陣基(たしろ つらもと、延宝6年(1678年) - 寛延元年(1748年))は、江戸時代の武士、佐賀藩士。通称又左衛門。『葉隠』の筆記者。口述者山本常朝、その師であった湛然和尚、石田一鼎等と共に「葉隠の四哲」の一人に数えられている。.

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田付流

付流(たつけりゅう)は近江国出身の田付景澄(たつけ かげすみ)を祖とする日本の砲術の流派。初代田付景澄が徳川家康に召し抱えられ、江戸幕府の鉄砲方として幕末まで仕えた流派。国産の火縄銃を扱う外記流の井上家に対し、田付流は主に外国産の火縄銃や大筒を担当した。江戸時代初期は500石の旗本で、3代目田付景利からは火付盗賊改方も兼任する。 田付流の火縄銃は銃床が直線に切断されている特徴がある。.

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田付新助

付 新助(たづけ しんすけ)は、蝦夷地進出の先駆けとなった近江商人、屋号は松前で『福島屋』。歴代当主が襲名した名称。;歴代当主「北海道『海』の人国記」(伊藤孝博著 無明舎出版 2008年).

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田村建顕

村 建顕(たむら たつあき)は、江戸時代前期の大名。陸奥岩沼藩第2代藩主、のち田村氏一関藩初代藩主。.

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田村神社 (高松市)

村神社(たむらじんじゃ)は、香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。.

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田村誠顕

田村 誠顕(たむら のぶあき)は、陸奥一関藩の第2代藩主。 寛文10年(1670年)2月1日、旗本の田村顕当の五男として生まれる。元禄9年(1696年)2月に先代の藩主田村建顕の養嗣子となり、宝永5年(1708年)の建顕の死去により跡を継ぐ。 享保12年(1727年)6月16日に死去した。享年58。最初の養子で外孫の泰顕は夭折しており、婿養子の村顕が跡を継いだ。 のふあき 田02 Category:1670年生 Category:1727年没.

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田村村顕

田村 村顕(たむら むらあき)は、陸奥一関藩の第3代藩主。 宝永4年(1707年)5月24日、伊予宇和島藩の第3代藩主・伊達宗贇の次男として宇和島で生まれる。享保11年(1726年)10月に田村誠顕の養子となり、翌年に誠顕が死去したために跡を継いだ。従兄(父・宗贇の兄・綱村の子)で仙台藩主の伊達吉村から偏諱を受け村顕と名乗る。藩政に見るべきところはないが、鷹狩や狩猟を好んだと言われている。宝暦5年(1755年)8月3日に死去した。享年49。子は女児しかいなかったため、吉村の五男・村隆が養子となって家督を継いだ。 むらあき Category:宇和島伊達氏 田03 Category:1707年生 Category:1755年没.

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田沼意行

沼 意行(たぬま おきゆき/もとゆき、貞享3年(1686年) - 享保19年12月18日(1735年1月11日))は、江戸時代中期の紀州藩士、幕臣(旗本)。田沼義房の子。田沼意次・意誠兄弟の父。 紀州藩の足軽の子。父義房(意房とも)は病にかかり、紀州藩の禄を離れて和歌山城下で静養することになったため、子の意行は田代七右衛門高近(紀州藩家臣)に養われることとなり、その娘婿となった。紀州藩に仕官し、部屋住みで主税頭と称していたころの徳川吉宗の仕え、以降の側近であった。宝永2年に吉宗が紀州藩主となると奥小姓を務めた。享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任した際に200人以上の紀州藩士を幕臣へ編入し、特に側近に配置したが、意行も将軍小姓として召されて、幕府旗本に列した。6月、将軍の小姓となり、29歳の時に300俵を受けた。享保4年(1719年)7月27日、のちに幕府老中となる子の田沼意次が生まれる。享保9年(1724年)11月に従五位下主殿頭(小姓上位者の通例である諸大夫への任官)に叙任し、享保18年(1733年)9月には300石を与えられて、それまで支給されていた切米も石高に改められて、相模国高座大住郡に600石を賜った。享保19年(1734年)8月、小納戸頭取となったが、12月18日に死去。享年47。田沼家の家督は意次が継いだ。 吉宗の将軍就任によって紀州藩から江戸幕府へ組み入れられた同僚には、同期で家重付になった藪忠通(後に御側御用取次)や吉宗小姓になった岩本正房がいる。.

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田津原町

津原町(たつはらちょう)は、愛知県豊田市の地名。地名の読みについては「たっぱら」という表記も見受けられる『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:803ページ。.

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由良貞長

由良 貞長(ゆら さだなが)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本。由良氏6代当主。.

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甲府城

府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった日本の城である。別名、舞鶴城(まいづる(ぶかく) じょう)。山梨県史跡に指定されている。.

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甲府徳川家

府徳川家(こうふとくがわけ)は、江戸時代の大名。甲府宰相家。甲斐国甲府藩主家(甲府城主)。25万石(のちに35万石)徳川将軍家の一支系で、4代将軍家綱の弟綱重とその子綱豊(のちの将軍家宣)の2代を指す。単に甲府家ともいわれる。.

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甲府新田藩

府新田藩(こうふしんでんはん)は、柳沢氏時代の甲府藩の新田支藩だった藩。内分分知。諸侯に列するも江戸定府で居所はなく、便宜上「新田藩」と呼称される。.

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甲賀三郎 (伝説)

賀三郎(こうがさぶろう)は、長野県諏訪地方の伝説の主人公の名前。地底の国に迷いこみ彷徨い、後に地上に戻るも蛇体(または竜)となり諏訪の神になったなど、さまざまな伝説が残されている。近江を舞台にした伝説もある。.

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甲斐善光寺

斐善光寺(かいぜんこうじ)は山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院。山号は定額山(じょうがくざん)。正式名称は定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)と称する。長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺(かいぜんこうじ)と呼ばれることが多く、甲州善光寺(こうしゅうぜんこうじ)、甲府善光寺(こうふぜんこうじ)とも呼ばれている。.

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甲斐八景

斐八景とは、甲斐国(山梨県)の8つの情景を詠んだ和歌。甲府藩主の柳沢吉里が近江八景の様式に基づいて定めた 広報こうふ2006年10月号p-24 2015年1月8日閲覧。別称に「甲府八景」。.

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男木島

男木島(おぎじま、おぎしま)は瀬戸内海中部の備讃瀬戸に位置する、面積1.34 km2の島である。2017年(平成29年)現在で107世帯163人。行政上は香川県高松市男木町に属する。隣島である女木島とは、雌雄島(しゆうじま)の関係にある。.

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町奉行

奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。幕府だけでなく諸藩もこの役職を設置したが、一般に町奉行とのみ呼ぶ場合は幕府の役職である江戸町奉行のみを指す。また、江戸以外の天領都市の幕府町奉行は大坂町奉行など地名を冠し、遠国奉行と総称された。.

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町年寄

年寄(まちどしより)は、江戸時代の町政を司る町役人の筆頭に位置するものである。地域によってその名称は異なり、江戸や長崎・京都・甲府・福井・鳥取・敦賀・小浜・尾道・酒田などでは町年寄だが、大坂や岡山・高知・堺・今井・平野・鹿児島では惣年寄(総年寄)、名古屋で惣町代、姫路・和歌山・松江・松坂では町大年寄、岡崎では惣町年寄頭、青森では町頭、新潟では検断と呼んだ『国史大辞典』13巻 吉川弘文館 「町年寄」(同書77頁)。。選任方法は、世襲制の場合と選挙で決められる場合とがあった。.

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町野幸重

野 幸重(まちの ゆきしげ、生年不詳 - 宝永元年5月20日(1704年6月21日))は、旗本。町野幸宣の三男。左門、酒之丞。室は岡部豊明の娘(岡部行隆の養女)。継室は稲葉正吉の娘(寛政重修諸家譜による。断家譜では稲葉正休の娘)。 江戸に生まれ、天和3年(1683年)12月、家督を継ぐ。弟町野幸次に500石を分知し、4,500石を知行する。貞享元年(1684年)父の幸宣の時代から年貢が重かったが、さらに幸重が年貢を課したので、海老名郷大谷村名主鈴木三太夫が幕府に直訴を企て発覚し斬首される事件が起こった。貞享4年(1687年)9月25日駿府加番となり、元禄10年(1697年)閏2月28日、使番となり12月18日に布衣を許される。元禄12年(1699年)7月12日、新番頭となる。元禄14年(1701年)5月大坂城番引渡御用を務め、金三枚時服二羽織賜る。7月12日に江戸に帰り、8月5日、父に対する親不孝により改易となり、前田利昌に預けられる。宝永元年(1704年)、配流先で死去。墓所は善昌寺。法名涼樹院仁徳休心。娘2人をもうけたが、ともに夭折している。すぐ下の弟利有は斎藤利意の養子となり、次弟幸次は家名存続、三弟幸政(初名幸通)は尾張藩に仕えた(のちに職を辞し利有のもとに)。.

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熊ヶ根村

ヶ根村(くまがねむら)は、1889年まで宮城県宮城郡の西部にあった村である。広瀬川上流、青下川との合流点にあり、1889年に合併して広瀬村の一部になった。現在の仙台市青葉区熊ヶ根にあたる。2008年現在の人口は、819人である。 この記事では合併後の熊ヶ根地区についても記述する。.

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熊谷寺 (阿波市)

谷寺(くまだにじ)は徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第八番札所。普明山(ふみょうざん)真光院(しんこういん)と号する。本尊は千手観世音菩薩。 本尊真言:おん ばさら たらま きりく ご詠歌:薪とり 水くま谷の 寺に来て 難行するも 後の世のため.

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熊谷県

谷県(くまがやけん)は、1871年(明治4年)に武蔵国北部、上野国のほぼ全域を管轄するために設置された県。現在の埼玉県の大半、群馬県のほぼ全域にあたる。.

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熊野三所大神社

鳥居 浜の宮王子社跡と夫婦楠 熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)、または大神社(おおみわやしろ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神を主祭神とすることが名称の由来とされる。主祭神像三躯は重要文化財に指定されている(美術工芸品、1982年〈昭和57年〉6月5日指定)。 九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。浜の宮王子の守護寺である補陀洛山寺が隣接しており、神仏習合の名残をみることができる。境内は浜の宮王子社跡として、国の史跡「熊野参詣道」の一部(2000年〈平成12年〉11月2日指定)。.

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畠山基玄

山 基玄(はたけやま もとくろ)は、江戸時代前期から中期の高家旗本。畠山政長の子孫。.

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畠山義寧

山 義寧(はたけやま よしやす、寛文4年(1664年) - 延享3年6月4日(1746年7月21日))は、江戸幕府の高家旗本。通称は修理、官位は従四位下・左少将・下総守。江戸木挽町築地に居住。石高は初め3000石、宝永年間に1100石となり、後に3100石。 正妻は前田利意の娘。長男義躬、次男勝尹(内藤勝良養子)、三男知義(上杉義陳養子)ら三男二女あり。.

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畑山神社

畑山神社(はたけやまじんじゃ)は、大阪府高槻市梶原に鎮座する神社。.

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畑中権内

畑中 権内(はたなか ごんない、宝暦3年(1753年)? - 文化13年(1816年)?)は日本の江戸時代寛政期に実在した庄屋である。出身地は摂津国島下郡車作村(現在の大阪府茨木市車作)。 地元・車作のかんがい用水路を完成させ、地域に大きな貢献をした人物として知られる。.

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牟禮神社

牟禮神社(むれじんじゃ、簡体字:牟礼神社)は、大阪府茨木市にある神社。式内社で、旧社格は村社。.

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牧庵鞭牛

牧庵 鞭牛(ぼくあん べんぎゅう、宝永7年(1710年) - 天明2年9月2日(1782年10月8日))は、江戸時代中期に陸奥国で活動した僧。 1710年(宝永7年)、和井内村(現在の岩手県宮古市)の農家にて出生。成長後は炭鉱夫などに従事していたが、22歳の時、母の死を機に仏門に入る。1748年、32歳の時に栗林村(現在の岩手県釜石市)曹洞宗常楽寺住職、38歳で林宗寺住職になる。 1755年、46歳の時に三陸・閉伊地方を襲った飢饉の被害のあまりの大きさに直面し、古くから陸の孤島であったこの地方と内陸とを結ぶ道を築く事を決意し、以後は三陸沿岸の海辺道をはじめ、宮古から盛岡に至る往路(現在の国道106号線の元となる)などの開削に生涯を捧げることとなる。 鑿や玄翁といった基本的な道具を使用し、道を塞ぐ巨岩に対しては薪で熱し冷水をかけ、脆くしてから破壊するという当時としては画期的な方法を用い、様々な難所を切り開くことに成功する。始めは鞭牛の行為を不信に思っていた住民らも、朝晩雨天構わず己の心身を省みない彼の献身に感銘を受け、次第に協力するようになっていった。 1765年(明和4年)には、盛岡藩より長年の開削の功績を称えられ、終身扶持を賜る。 鞭牛が開いた、宮古(閉伊)街道と呼ばれる往路は、総延長109kmに及ぶ。現在の国道106号線はこの街道を元に整備されたものである。 鞭牛が73歳で没する1782年(天明2年)までに携わった道路は、宮古〜盛岡間の宮古街道をはじめ、吉里吉里〜山田間、腹帯〜南川目間、宮古〜岩泉間、橋野〜鵜住居間などの改修の総延長は、およそ400kmという驚異的な距離であった。.

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牧野康周

牧野 康周(まきの やすちか、宝永4年(1707年) - 宝暦8年1月8日(1758年2月15日))は、信濃小諸藩の第2代藩主。越後長岡藩分家牧野家4代。 小諸藩初代藩主牧野康重の長男。生母は孝壽院。正室は六郷政晴の娘・玉子。子に牧野康満(長男)、本庄道堅(次男)、富田明親(三男)、座光寺為貴(四男)、娘(水野忠友正室)、娘(小堀政方正室)、娘(阿部正依正室)。官位は従五位下、内膳正。 幼名は弥吉。大蔵。享保5年(1720年)11月9日、将軍徳川吉宗に拝謁する。享保6年(1721年)12月8日、従五位下内膳正に叙任する。享保7年12月24日、父康重の死去より家督を相続する。享保10年3月12日、初めてお国入りする許可を得る。享保16年4月2日光祭礼奉行を務めた。寛保2年(1742年)12月、領内を襲った風水害により、幕府から2000料を拝借する。寛延4年(1751年)6月、財政危機のため、本家にあたる長岡藩主牧野忠利に対し、康満・康周父子の連名で支援を願い出る。宝暦8年(1758年)正月8日に死去し、跡を長男の康満が継いだ。墓所は長野県小諸市の牧野家墓地。 Category:小諸藩主 Category:譜代大名 やすちか Category:1707年生 Category:1758年没.

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牧野忠寿

牧野 忠寿(まきの ただかず)は、越後長岡藩の第4代藩主。長岡藩系牧野家宗家5代。江戸幕府奏者番。.

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牧野忠貴

牧野 忠貴(まきの ただたか)は、江戸時代中期の旗本。第3代三根山領主。.

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牧野貞通

牧野 貞通(まきの さだみち)は、江戸時代中期の大名。日向延岡藩の第2代藩主、常陸笠間藩の初代藩主。成貞系牧野家4代。.

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牧野成央

牧野 成央(まきの なりなか、元禄12年11月11日(1699年12月31日) - 享保4年5月16日(1719年7月3日))は、三河吉田藩の第2代藩主、日向延岡藩の初代藩主。成貞系牧野家3代。 初代吉田藩主牧野成春の長男。母は松平清照の娘。正室は壬生藩主鳥居忠英の娘。官位は従五位下、備後守。 宝永4年(1707年)、父の死により9歳で家督を相続した。しかし、幼少のため正徳2年(1712年)、日向延岡に転封された。翌正徳3年(1713年)、従五位下備後守に叙任されたが、享保4年(1719年)に21歳で早世した。家督は、義祖父牧野成貞の長男の貞通が継いだ。 なりなか Category:三河吉田藩主 Category:延岡藩主 Category:1699年生 Category:1719年没.

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牧野成貞

牧野 成貞(まきの なりさだ、寛永11年11月29日(1635年1月17日) - 正徳2年6月5日(1712年7月8日))は、上野館林藩家老、のち第5代将軍・徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主。名は成恒とも。通称は蔵人、兵部、大夢。越後長岡藩主、三河牧野氏の支族。成貞系牧野家初代。.

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牧野成春

牧野 成春(まきの なりはる)は、下総関宿藩の第2代藩主。のちに三河吉田藩の初代藩主。成貞系牧野家2代。 天和2年(1682年)10月23日、牧野氏家臣の大戸吉房の子として江戸で生まれ、関宿藩主牧野成貞の養子となる。元禄8年(1695年)11月29日、成貞の隠居により家督を継ぐ。宝永2年(1705年)に7000石加増の8万石で三河吉田藩に加増移封された。 しかし病弱で、一度も城主として在城することもなく、宝永4年(1707年)3月26日に死去した。享年26。跡を子の成央が継いだ。.

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牧野明成

牧野 明成(まきの あきしげ)は、丹後田辺藩の第4代藩主。丹後田辺藩牧野家5代。 宝永元年(1704年)4月6日(江戸幕府の記録では宝永2年(1705年)閏4月)、第3代藩主牧野英成の次男として田辺で生まれる。兄の良成が早世したために世子となり、元文2年(1737年)10月2日の父の隠居により家督を継いだ。 延享元年(1744年)7月に奏者番に任じられる。寛延2年(1749年)2月に大坂加番に任じられた。寛延3年(1750年)10月5日(記録では10月7日)、江戸で死去した。享年47。跡を三男の惟成が継いだ。 あきしけ Category:丹後田辺藩主 category:譜代大名 Category:1704年生 Category:1750年没.

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片山尚景

片山 尚景(かたやま なおかげ、寛永5年(1628年) - 享保2年9月9日(1717年10月13日))は、江戸時代前期から中期にかけて活躍した狩野派の絵師。狩野尚信の弟子で、肥前平戸藩御用絵師。名は親信。通称は弥兵衛。.

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片桐貞経

片桐 貞経(かたぎり さだつね、貞享2年(1685年) - 宝永6年4月18日(1709年5月27日))は、大和小泉藩の世嗣。第3代藩主・片桐貞房の次男。正室は小出英利の娘。通称、隼人。 兄の片桐貞寛が早世したため嫡子となる。元禄10年(1697年)徳川綱吉に拝謁するが、家督相続前の宝永6年(1709年)に25歳で早世した。代わって、従兄弟の片桐貞起が養子に迎えられ嫡子となった。 さたつね Category:1697年生 Category:1709年没.

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片桐貞起

片桐 貞起(かたぎり さだおき)は、大和小泉藩の第4代藩主。.

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片桐貞房

片桐 貞房(かたぎり さだふさ)は、大和小泉藩の第3代藩主。.

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片棒

片棒(かたぼう)は古典落語の演目の一つ。東京でも上方でも同題で演じられる。.

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牛地町

牛地町(うしじちょう)は、愛知県豊田市の地名。.

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牛ヶ峰山

牛ヶ峰山(うしがみねさん、うしがみねやま)は、兵庫県と鳥取県にまたがる山。ふるさと兵庫100山の一座。.

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狩野寿石

狩野 寿石(かのう じゅせき、寛永16年(1639年) - 享保3年7月17日(1718年8月18日))は、日本の江戸時代前期から中期にかけての絵師。名は秀信、のち敦信。号は寿碩、のち寿石。通称は外記。.

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狩野岑信

狩野 岑信(かのう みねのぶ、寛文2年(1662年) - 宝永5年12月3日(1709年1月13日))は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師。江戸幕府に仕えた御用絵師で、浜町狩野家の祖。名は吉之助、通称は主税、号は随川、覚柳斎など。.

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狩野常信

狩野 常信(かのう つねのぶ、寛永13年3月13日(1636年4月18日) - 正徳3年1月27日(1713年2月21日))は、江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・朴斎・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋・弄毫軒、篁渚山人などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。.

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狩野周信

狩野 周信(かのう ちかのぶ、万治3年7月2日(1660年8月7日) - 享保13年1月6日(1728年2月15日)は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師。江戸幕府に仕えた御用絵師で、最も格式の高い奥絵師4家のひとつ木挽町狩野家の3代目。幼名は生三郎、初名は右近で、如川、泰寓斎と号した。父は狩野常信、弟に狩野岑信、子に狩野古信がいる。.

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狩野雅信

狩野 雅信(かのう ただのぶ、文政6年2月14日(1823年3月26日) - 明治12年(1879年)8月8日))は、日本の幕末から明治に活躍した狩野派の江戸幕府御用絵師、旗本。代々幕府の奥絵師を勤めた木挽町狩野家の10代目で、最後の当主。幼名は栄次郎。号は勝川(院)、素尚斎。.

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狩野探雪

狩野 探雪(かのう たんせつ、明暦元年(1655年) - 正徳4年7月13日(1714年8月22日))は、日本の江戸時代前記から中期に活躍した狩野派の絵師。狩野探幽の四男で、江戸幕府御用絵師。兄に狩野探信 (守政)。.

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独湛性瑩

湛性瑩(どくたんしょうけい、崇禎元年9月27日(1628年10月23日) - 宝永3年1月26日(1706年3月10日))は、江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は陳氏。福建省興化府莆田県の出身。.

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狭山池 (大阪府)

西側の池畔にて 狭山池(さやまいけ)とは、大阪府大阪狭山市大字岩室にある日本最古のダム式ため池とされ、現在では狭山池土地改良区が維持管理している。.

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益田就賢

就賢(ますだ なりかた、寛文13年(1673年) - 享保17年(1733年))は、益田家第26代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家7代。 父は益田就武。母は毛利元任の娘。養父は益田就恒。正室は福原広俊の娘。子は益田元道、福原元貞。娘は毛利広包室、毛利元雅室、国司通忠室。養子は兼慶。幼名は百合亀。通称は小四郎、右衛門、越中、玄蕃。.

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益田広尭

広尭(ますだ ひろたか、宝永7年(1710年) - 明和2年2月2日(1765年3月22日))は、益田家第28代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家9代。通称は采女、越中、孫吉、勘解由。.

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直島町

島町(なおしまちょう)は、香川県香川郡に属する町。瀬戸内海上に浮かぶ直島を中心とした直島諸島の島々で構成される。.

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直信流

信流柔道(じきしんりゅうじゅうどう)とは、寺田勘右衛門満英が開いた柔術の流派。.

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相原可碩

原 可碩(あいはら かせき、元禄11年(1698年) - 安永5年(1776年))は、江戸時代の囲碁棋士。伊予国生まれ、四世井上道節因碩門下、七段。琉球碁士との対戦がある他、本因坊知伯、本因坊秀伯、本因坊伯元の時代に碁界を支えたとも言われる。.

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相馬叙胤

叙胤(そうま のぶたね、延宝5年4月4日(1677年5月5日) - 宝永8年4月20日(1711年6月6日))は、江戸時代前期から中期の大名。.

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相馬尊胤

相馬 尊胤(そうま たかたね、元禄10年閏2月19日(1697年4月10日) - 明和9年4月6日(1772年5月6日))は、江戸時代中期から後期の大名。相馬氏第23代当主。陸奥相馬中村藩第7代藩主。第5代藩主・相馬昌胤の次男。正室は本多康慶の娘。幼名は千代松。通称は民部。初名は清胤(きよたね)、宗胤(むねたね)。官位は従五位下、弾正少弼。 相馬昌胤の次男(庶子)として生まれた。しかし、元禄9年(1696年)7月5日、実父昌胤は正室松平氏の生んだ姉・品姫に婿養子叙胤(佐竹義処の次男)を迎えていた。宝永5年(1708年)12月3日、義兄であった叙胤の養子となる。同年12月15日、将軍徳川綱吉に御目見する。宝永6年(1709年)6月5日、養父叙胤の隠居により、家督を相続した。宝永7年(1719年)閏8月23日、従五位下讃岐守に叙任する。藩主在任中、幕府から利根川・荒川普請助役などを命じられた。 宝永5年(1708年)12月3日、養父叙胤の三男・徳胤を養子にした。享保13年(1728年)11月28日、弾正少弼に転任。しかし宝暦2年(1752年)5月15日、家督を相続する前に徳胤は死去した。明和2年(1765年)5月21日、隠居し、徳胤の次男・恕胤に家督を譲った。明和9年(1772年)4月9日、死去した。 たかたね たかたね Category:1697年生 Category:1772年没.

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相良藩

良藩(さがらはん)は、遠江国榛原郡相良(現在の静岡県牧之原市相良)周辺に存在した藩。藩庁は相良陣屋(一時、相良城)。.

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盛岡山車

盛岡山車(もりおかだし)は、岩手県盛岡市の盛岡八幡宮例大祭にて毎年9月14日(団体によっては13日)から16日まで運行される山車である。 また、岩手県各地などで運行される人形山車(風流山車)の総称として用いられることもある。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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瀧尾神社

瀧尾神社(たきおじんじゃ)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は村社。.

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瀬川菊之丞 (初代)

初代 瀬川菊之丞(しょだい せがわ きくのじょう、元禄6年〈1693年〉 - 寛延2年9月2日〈1749年10月12日〉)とは、享保年間に活躍した歌舞伎役者。女形の名優。俳名は路考、屋号は濱村屋。通称は濱村屋路考。女形役者の初代瀬川菊次郎はその弟。.

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瀬下敬忠

下敬忠(せじも のぶただ、宝永6年(1709年) - 寛政元年6月4日(1789年6月26日))は江戸時代の地方史家、俳人。幼名は猪之助、通称は園右衛門。号は玉芝、鶴巣、子信、南軒、極月楼、樵路庵など多数。『四鄰譚藪』の吉沢好謙、『信濃奇勝録』の井出道貞とともに、佐久の三大郷土史家と並び称される。 信濃国佐久郡野沢村生まれ。岩村田藩御用達や村役人を勤め郷士身分となった父の敬豊から家督を継ぐ。従来の立羽不角流の俳諧に飽き足らず 、元文4年(1734年)江戸に出て五色墨派の俳人・松林珪琳に師事し帰郷した。俳諧の他、和歌、書画、謡曲、蹴鞠などの諸芸に通ずる。著作は数十に上るが、殊に生涯をかけて信濃の地理・歴史などの研究に打ち込み、宝暦3年(1753年)『千曲之真砂』を著し、また諸国歴訪の紀行文も多く残した。その他『こよみぐさ』『長春随津』『極月楼記』などがある。.

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瀬波大祭

波大祭 本祭り 渡御行列 瀬波大祭 宵祭り 瀬波大祭 本祭り 瀬波大祭(せなみたいさい)は、新潟県村上市で毎年9月3日から同4日にかけて行われる西奈彌神社(せなみじんじゃ)の例大祭。西奈彌羽黒神社の例大祭である村上大祭(毎年7月6日・7日)および石船神社の例大祭である岩船大祭(毎年10月18日・19日)と並ぶ村上市の三大祭りの一つとされている。.

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白子神社 (白子町)

白子神社(しらこじんじゃ)は、千葉県長生郡白子町 関(上総国長柄郡)にある神社。旧社格は郷社。 大国主大神を主祭神とし、大日霎大神と月読大神を配祀する。.

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白山神社 (高島市宮野)

白山神社(はくさんじんじゃ)は、滋賀県高島市宮野にある神社である。.

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白山比め神社

体とする白山 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社。式内社、加賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。神紋は「三子持亀甲瓜花」。.

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白幽子

白幽子(はくゆうし、? - 宝永6年(1709年))は、江戸時代前期から中期にかけての隠士・書家。京都北白川の山中の岩窟に住んだ。 禅僧白隠慧鶴に「内観の法」を伝えた人物として名が知られている。数百年を生きた仙人という伝説が生じ、白幽子仙人、白幽仙人、白川の仙人ともいわれた。.

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白須賀宿

歌川広重『東海道五十三次・白須賀』 白須賀宿(しらすかしゅく、しらすかじゅく)は、東海道五十三次の32番目の宿場である。現在の静岡県湖西市白須賀。遠江国最西端で、且つ、現在の47都道府県でも静岡県最西端の宿場町である。西の加宿境宿で売られていた柏餅は、白須賀宿の名物として有名だった。.

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白木屋 (デパート)

白木屋(しろきや)は、東京都中央区日本橋一丁目に存在した江戸三大呉服店の一つで原田伴彦 『日本歴史展望 第8巻 江戸幕府と三百諸侯の支配』 旺文社、1981年10月15日。ISBN 978-4010705285、かつ日本の百貨店の先駆的存在の一つである。かつて日本を代表した百貨店の一つ。 法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続しており、1967年(昭和42年)に商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称した。その後、売れ行き不振のため1999年(平成11年)1月31日に閉店し油井宏子 『古文書はこんなに面白い』 柏書房、2005年2月。ISBN 978-4760126767、白木屋以来336年の永い歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設されて2004年(平成16年)3月30日に開業した“三井不動産、SC「コレド日本橋」オープン、新業態テナントに注目”.

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百太郎溝

太郎堰旧樋門 百太郎溝(ひゃくたろうみぞ)又は百太郎堰(ひゃくたろうせき)は、熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町に古くから作られた、全長18kmにおよぶ灌漑用用水路で、一説には宝永7年に完成した。.

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百物語

物語(ひゃくものがたり)は、日本の伝統的な怪談会のスタイルのひとつである。怪談を100話語り終えると、本物の怪が現れるとされる。起源は不明だが、主君に近侍して話し相手を務めた中世の御伽衆に由来するとも、武家の肝試しに始まったとも言われている。 こうした怪談を集めた本も多く刊行されており、延宝5年(1677年)の『諸国百物語』、宝永3年(1706年)の『御伽百物語』、享保17年(1732年)の『太平百物語』などが知られている。怪談文学と称され、室町時代に始まり、江戸時代に一種のブームになったという。 現代では森鴎外の作品に同名の小説があるほか、手塚治虫、杉浦日向子の作品にも同名の漫画がある。『妖怪百物語』という映画も製作された。 また「百物語」の語は、多数のエピソードを集めたとの意味で、「○○百物語」などとしてよく使われる成句となっている。.

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百拙元養

拙 元養(ひゃくせつ げんよう、寛文8年10月15日(1668年11月19日) – 寛延2年9月6日(1749年10月16日))は、江戸時代の画僧。文人画風の水墨画を善くした。 俗姓は原田。法諱を元養。一時元椿としたが再び元養とし、道号を百拙と称した。雅号に釣雪・葦庵叟・葦庵山人など。京都の人。.

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随筆百花苑

随筆百花苑(ずいひつひゃっかえん)は、近世日本の未刊行の随筆・日記・紀行文を選んで校勘をした上で刊行した叢書。全15巻。.

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芝山定豊

芝山 定豊(しばやま さだとよ、寛永15年4月10日(1638年5月23日) - 宝永4年5月2日(1707年6月1日)は、江戸時代の公家(公卿)。 堂上家(家格は名家、藤原北家高藤流勧修寺庶流)である芝山家の第 2代当主。.

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芝山宣助

芝山 宣助(しばやま のぶすけ、寛永16年(1639年) - 宝永1年(1704年))は、江戸時代の武士。 尾張藩の家臣、武家・芝山家の祖。.

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芝区

芝区(しばく)は、1878年から1947年にかけて東京に存在した区。.

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芝村 (兵庫県)

芝村(しばむら)は兵庫県武庫郡に所属した村の一つで、現在で言うJR西宮駅の北側と阪急西宮北口駅の南側に囲まれた、西宮市西福町・神明町・芦原町・両度町・高松町・南昭和町・丸橋町に当たる範囲に存在した。明治の大合併を経ずして行政村となったため非常に狭く、民家の犇いている場所だった。明治4年の「解放令」時点での人口1049人で武庫郡最大のかわた村(後の被差別部落)として知られ、芝村水平社が設立され、全国水平社運動の拠点の一つとなった地域である。.

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芝村藩

芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に芝村陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。.

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芦原橋駅

芦原橋駅(あしはらばしえき)は、大阪府大阪市浪速区浪速東一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)大阪環状線の駅である。駅番号はJR-O17。駅シンボルフラワーは「なでしこ」である。.

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芦川村

芦川村(あしがわむら)は、山梨県にあった村。 2006年8月1日、笛吹市への編入合併により同村及び東八代郡は消滅した。.

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銭座

亀戸銭座跡 銭座(ぜにざ)とは、江戸時代に寛永通寳を始めとする銭貨を鋳造した組織あるいは機関である。 飛鳥時代、奈良時代から平安時代に発行された皇朝十二銭を鋳造するために設置された組織は、鋳銭司(じゅせんし・ちゅうせんし)と称した。.

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銭貨

銭貨(せんか)は、主に東アジアで流通した硬貨を指す。同音で泉貨とも記述される。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨の対義語として、卑金属製の硬貨を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは銅貨であるが、銅の不足などにより、鉄製のものや錫等との合金とした真鍮製の物が銭貨として発行されたこともある。 銭貨の通貨単位としては、一般に文が用いられた。.

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花山院定誠

花山院 定誠(かざんいん さだのぶ、寛永17年2月26日(1640年4月17日) - 宝永元年10月21日(1704年11月18日))は、江戸時代前期の公卿。おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕えた。官位は正二位内大臣。 従一位左大臣花山院定好の第三男として京都に生まれる。母は正室鷹司信尚(関白)の姫。正室は公卿大炊御門経孝(左大臣)の姫、さらに継室として臼杵藩主稲葉信通の姫。正室との間に嫡子となる花山院持実を儲けた。 二人の兄(花山院忠広(正五位下侍従)と花山院定教(従三位左近衛中将))が若くして死去したあと、承応2年(1653年)に藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となる。 承応元年(1652年)に叙爵。以降累進し、寛文5年(1665年)に権大納言に就任。その後辞職したが、天和3年(1683年)には再び権大納言に再任された。延宝3年(1675年)から貞享元年(1684年)にかけて武家伝奏役をつとめ、その後は貞享3年(1686年)まで内大臣をつとめた。元禄5年(1692年)、52歳で出家して自寛と号した。宝永元年(1704年)に死去。享年65。.

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花岳寺

花岳寺(かがくじ)は、兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で、歴代赤穂藩主の菩提寺。山号は台雲山(たいうんざん)。 現在の住職はパーリ仏教研究者で駒澤大学仏教学部教授の片山一良。.

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花鳥画 (日本)

花鳥画(かちょうが)とは、日本の絵画における画題のひとつ。花や鳥を主体に描いたもの。.

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花水川

花水川(はなみずがわ)は、神奈川県の中西部を流れる二級河川金目川の下流部における別称。.

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芳徳寺

柳生家一族累代之墓所 芳徳寺(ほうとくじ)は、奈良県奈良市柳生下町にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は神護山(じんごさん)で、本尊は釈迦如来。芳徳禅寺とも称される。.

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隆光

隆光(りゅうこう、慶安2年2月8日(1649年3月20日)- 享保9年6月7日(1724年7月26日))は、江戸時代中期の新義真言宗の僧。出自は大和国の旧家河辺氏。初名は河辺隆長、字(あざな)は栄春。.

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銀座 (歴史)

銀座(ぎんざ)とは、中近世の日本の政権において銀地金の買売、および銀地金への極印打つまり貨幣の鋳造を担った場所に与えられた呼称である。.

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蟹養斎

蟹養斎(かにようさい、宝永2年(1705年) - 安永7年8月14日(1778年10月4日))は、江戸時代の崎門派の儒家。名は維安、字は子定、通称は佐左衛門、別の号は東溟。.

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鞆城

鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城である。.

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遠山友央

遠山 友央(とおやま ともなか、宝永2年10月9日(1705年11月24日) - 明和9年6月13日(1772年7月13日))は、美濃国苗木藩の第7代藩主。 第4代藩主・遠山友春の三男で、第5代藩主・遠山友由の弟。子に遠山友清(長男)、娘(遠山友明正室)、娘(浅野長寿継室)、娘(山村良景室)。官位は従五位下、和泉守。 幼名は左兵衛。享保7年(1722年)6月15日、兄友由の遺言により、美濃国加茂郡などにおいて500石を分知されて、旗本となる。寄合に所属する。同年6月28日、将軍徳川吉宗に拝謁する。享保17年(1732年)閏5月25日、第6代藩主で甥の友将の死去により、末期養子として家督を相続した。友央の藩主相続にあたり、分知されていた500石を幕府に返上した結果、表高が1万21石となった。同年7月21日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年12月16日、従五位下和泉守に叙任する。 倹約令を緩和しているほかは、病弱であったために藩政において特段の治績は見られない。元文5年(1740年)8月27日、家督を養嗣子の友明に譲って隠居し、明和9年(1772年)6月13日に68歳で死去した。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。 ともなか *07 Category:中津川市の歴史 Category:1705年生 Category:1772年没.

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遠藤胤親

遠藤 胤親(えんどう たねちか)は、近江三上藩の初代藩主。徳川綱吉の側室・お伝の方(瑞春院)の甥にあたる。.

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遠沾日亨

遠沾日亨(えんてんにちこう、正保3年(1646年) - 享保6年12月26日(1722年2月11日))は、身延山久遠寺三十三世、江戸時代中期日蓮宗の僧。号は、遠沾院。.

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聖宝

源大師 (江戸後期) 聖宝(しょうぼう、天長9年(832年) - 延喜9年7月6日(909年8月29日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。俗名は恒蔭王。天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)という。諡号は理源大師。『古今和歌集』に歌1首あり。.

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聖神社 (秩父市)

聖神社(ひじりじんじゃ)は、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する神社である。 秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える簑山から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されている。 慶雲5年(708年)に自然銅が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされる。旧村社。.

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聖神社 (鳥取市)

聖神社(ひじりじんじゃ)は鳥取市行徳地区の西端部にある神社である。鳥取城と鹿野城を結ぶ鹿野往来(現在の県道41号・21号などに相当)という街道に面し、街道が鳥取市を流れる千代川に差し掛かる場所に位置する。 鳥取市中心市街地の商店街の大半を氏子にしており、2年に一度神輿や屋台が巡幸する神幸祭が行われることで有名。地元では聖神社と神幸祭のことを親しみを込めて、聖(ひじり)さんと呼んでいる。.

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道中諸法度

道中諸法度(どうちゅうしょはっと)は、道中条目(どうちゅうじょうもく)とも呼ばれ、江戸幕府が大名・公家や幕府役人などの特定身分の者に対して出した交通法規。また、広義においては江戸幕府及び諸藩が一般民衆をも含めて対象とした各種の交通法規を総称したものを指す。 寛永3年(1626年)及び同11年(1634年)に行われた将軍上洛の際に供奉者の道中作法を定め、違反者には死罪を含めた厳しい処罰を課すこととした。同12年(1635年)の武家諸法度で参勤交代が法制化された際にはあわせて大名行列の従者制限が定められた。同19年(1642年)に将軍の日光社参が行われると、上洛の例にあわせた供奉規定が設けられ、供奉規定制定が以後日光社参時の恒例とされた。 その後、明暦2年(1656年)には二条番衆に対する道中作法定書が出され、翌年には大坂番衆を含める形で改正された。更に宝永元年(1704年)には参勤交代における供奉者・人馬利用・宿泊に関する道中規制が出された。 これらの法制の集大成が正徳2年(1712年)に出された道中筋条目である。これらは大名・旗本・在番衆・町奉行・遠国奉行などを対象とし、添人馬利用・賃金不払・通日雇人足の非分・三度飛脚や町人請負荷物の過貫目をはじめとして各種不法行為を取締るものであった。ほぼ同時に五街道など主要道の宿駅・助郷の村々にも添条目を付けて通知された。道中筋条目はその後、延享4年(1747年)、宝暦8年(1758年)、寛政元年(1789年)と改正され、文政4年(1821年)10月には道中制法・道中取締触書と3点セットにして公布された(ただし、道中取締触書の実際の公布は11月)。その他にも享保6年(1721年)には参勤交代の供奉者を禄高別に規制した他、天保7年(1836年)には前述の道中取締触書の改正を行った。 また、こうした幕府の動きに合わせて諸藩でも自主的に道中の行動を規制する規則(名称は藩によって異なる)を定めた。.

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道後温泉

道後温泉(どうごおんせん)は、四国・愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の一といわれる。 その存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。伊予国(いよのくに)という名前も湯国(ゆのくに)が転じたものという説がある。 夏目漱石の小説『坊つちやん』(1905年)にも描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。2007年8月に地域団体商標(地域ブランド)として認定された(申請者は、登録商標第5071495号)。.

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道具屋 (落語)

道具屋(どうぐや)は古典落語の演目の一つ。古くからある小咄を集めて、一席の落語にしたオムニバス形式の落語である。 主な演者として、東京の5代目柳家小さんや林家彦六、4代目春風亭柳好、上方の2代目桂春蝶などがいる。.

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道鏡慧端

道鏡 慧端(どうきょう えたん、寛永19年10月22日〈1642年12月13日〉 - 享保6年10月6日〈1721年11月24日〉)は江戸時代の臨済宗の僧侶。正受老人の名で知られている。信州松代藩主真田信之の庶子。 19歳で出家し、至道無難などの指導を受ける。臨済宗中興の祖と称される白隠慧鶴の師で、白隠が大悟したと思い込み慢心していたところを厳しく指導し、正しい悟りに導いた。.

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道頓堀

道頓堀(どうとんぼり)は、大阪府大阪市中央区の繁華街および町名。または、同所の北を流れる道頓堀川の略称。 一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している。(なお、かつては「どとんぼり」、「どとんほり」と呼ばれていたとする出典もある。).

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道成寺

道成寺 (どうじょうじ)は、和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺院。新西国三十三箇所観音霊場の第五番札所である。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い、「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。 拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる。.

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荷田在満

荷田 在満(かだ の ありまろ、宝永3年(1706年) - 寛延4年8月4日(1751年9月23日))は、江戸時代中期の国学者。父は荷田春満の弟羽倉高惟で、春満の養子となった。通称は東之進。字は持之。号は仁良斎。生れは山城国紀伊郡。 1728年(享保13年)江戸に出て有職故実について幕府の下問に答え、その後御三卿の一人田安宗武に仕えた。1739年(元文4年)『大嘗会便蒙』(だいじょうえべんもう)を出版したが、朝廷の秘儀を公開した罪で筆禍をこうむり、100日間の閉門に処せられた。また、賀茂真淵を田安宗武に推挙している。 著書に有職故実関係の『令三弁』『装束色彙』や、『国歌八論』『白猿物語』がある。 Category:国学者 Category:18世紀の学者 Category:山城国の人物 Category:1706年生 Category:1751年没.

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荻原重秀

荻原 重秀(おぎわら しげひで、万治元年(1658年) - 正徳3年9月26日(1713年11月13日))は、江戸幕府の旗本。勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。.

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荻生徂徠

荻生 徂徠(おぎゅう そらい、正仮名遣:をぎふそらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、実名としては「しげのり」、字としては「もけい」と読む。通称は総右衛門。徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物茂卿」とも号した。父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。その弟の影響を受けて、『明律国字解』を著している。.

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荒尾勝就

荒尾 勝就(あらお かつなり)は、鳥取藩家老。倉吉荒尾家4代。.

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荒尾甫就

荒尾 甫就(あらお ひろなり)は、鳥取藩家老。倉吉荒尾家5代。.

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荒尾成倫

荒尾 成倫(あらお なりとも)は、江戸時代の武士(鳥取藩家老)。米子荒尾家4代目。.

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荒川 (山梨県)

荒川(あらかわ)は、山梨県の主に甲府市を流れる富士川水系の一級河川である。.

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荒川定由

荒川 定由(あらかわ さだよし)は、江戸時代の旗本。御使番として巡見使に任じられたが、報告書が粗略だったため御使番を罷免された。.

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荒川定昭

荒川 定昭(あらかわ さだあき)は、江戸時代初期の旗本。.

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荒町 (仙台市)

荒町(あらまち)は、宮城県仙台市若林区、市中心部から見ると南東に位置する町である。もと米沢にあった新町(あらまち)が、領主の伊達氏に従って16世紀末に住民ごと岩出山に、続いて17世紀初めに仙台に移転して荒町と改称、さらに一度仙台の中で移転して現在地に落ち着いた。伊達御供の御譜代町の一つで、古くからの商店街として続いている。.

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鍋島吉茂

鍋島 吉茂(なべしま よししげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥前国佐賀藩4代藩主。.

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鍋島宗茂

鍋島 宗茂(なべしま むねしげ)は、肥前佐賀藩の第5代藩主。第2代藩主・鍋島光茂の十五男。.

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鍋島元延

鍋島 元延(なべしま もとのぶ)は、江戸時代中期の大名。肥前国小城藩4代藩主。.

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鍋島綱茂

鍋島 綱茂(なべしま つなしげ、慶安5年5月5日(1652年6月10日) - 宝永3年12月2日(1707年1月5日))は、肥前国佐賀藩の第3代藩主。将軍徳川家綱より偏諱を授与されて綱茂と名乗る。 第2代藩主・鍋島光茂の長男。母は上杉定勝の娘・虎姫。正室は越前松平光通の娘・布与(寂光院)。子は娘(榊原政邦正室)。幼名は左衛門、号は至徳斎。官位は従四位下、信濃守、侍従。 元禄8年(1695年)、父・光茂が隠居したため家督を継承し、佐賀藩主に就任する。宝永3年(1706年)に56歳で死去した。男子が無かったため、実弟で養子の鍋島吉茂が跡を継いだ。法名は玄梁院殿卓巌道印大居士。 「学問を好み給ひ、詩をも能し、書画にも達し給ひぬ」(堤範房著『雨中の伽』「文学」、文化9年(1812年)自序)と評され、文事を得意とした藩主だった。絵事は、藩御用絵師の小原友閑斎が師範を務め、河村若芝門人である上野若元を召し抱えたことなどが知られる。綱茂自身の絵も」(鍋島徴古館蔵)など、狩野派をよく学んだ事が解る作品が残っている。 つなしけ つなしけ Category:1652年生 Category:1706年没.

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鍋島直堅

鍋島 直堅(なべしま なおかた)は、肥前鹿島藩の第5代藩主。 元禄8年(1695年)4月28日、第2代藩主・鍋島直條の五男として江戸青山邸で生まれる。宝永2年(1705年)に父が死去したため、家督を継いで第3代藩主となる。しかし生来から病弱だった。享保12年(1727年)12月4日に鹿島で死去した。享年33。跡を長男・直郷が継いだ。 なおかた 203 Category:1695年生 Category:1728年没.

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鍋島直之

鍋島 直之(なべしま なおゆき、寛永20年1月18日(1643年3月8日) - 享保10年4月28日(1725年6月8日))は、江戸時代前期の外様大名。肥前蓮池藩第2代藩主。5万2,600石を領した(ただし蓮池藩は独立した藩ではなく佐賀藩35万7,000石のうちからの知行であり、内分知行なので本来大名にはならないはずだが、幕府から特別に大名と認められていた)。 初代藩主・鍋島直澄の次男。母は奥平松平忠明の娘。正室は諫早茂敬の娘、継室は鍋島光茂の養女(榊原照清の娘)。子は鍋島直富(次男)。幼名・通称は、千熊丸。官位は従五位下、摂津守。.

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鍋島直称

鍋島 直称(なべしま なおのり)は、肥前蓮池藩の第3代藩主。.

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鍋島直條

鍋島 直條(なべしま なおえだ)は、肥前鹿島藩の第4代藩主。.

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鍋島直朝

鍋島 直朝(なべしま なおとも)は、肥前鹿島藩の第3代藩主。前2代に鍋島忠茂・正茂がいるが、正茂系は5000石の旗本として存続したため、別家として扱われる。.

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鍋島茂昭

鍋島 茂昭(なべしま しげあき)は、江戸時代中期の武士。肥前国佐賀藩士。武雄鍋島氏6代当主。25代佐賀藩自治領武雄領主。文献の中では鍋島十左衛門の名で呼ばれる事が多い。.

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菰野藩

菰野藩(こものはん)は、伊勢国三重郡(現在の三重県三重郡菰野町菰野)に存在した藩。.

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萩城下町

萩城下町(はぎじょうかまち、Hagi Castle Town)は、長州藩 (萩藩)の萩城を中心に形成された城下町。1604年(慶長9年)に関ヶ原の戦いに敗れ、周防国・長門国2か国に減封された毛利輝元が萩城と並行して建設を進め、長州藩の拠点として機能した。「萩城跡」、「萩城城下町」(いずれも国の史跡に指定)、「堀内地区」(重要伝統的建造物群保存地区)がよく当時の面影をとどめており、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録されている明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域。.

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萩原諏訪城

萩原諏訪城(はぎわらすわじょう)は岐阜県下呂市の日本の城(平城)。.

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落堀川 (大阪府)

落掘川(おちぼりがわ)は、大阪府内を流れる大和川水系の一級河川である。.

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青山幸実

青山 幸実(あおやま よしざね)は、江戸時代前期の摂津国尼崎藩の世嗣。.

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青山幸督

青山 幸督(あおやま よしまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。摂津国尼崎藩3代藩主。郡上藩青山家3代。.

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青山幸秀

青山 幸秀(あおやま よしひで)は、江戸時代中期の大名。摂津尼崎藩4代藩主、信濃飯山藩主、丹後宮津藩初代藩主。郡上藩青山家4代。.

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青山忠重

青山 忠重(あおやま ただしげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。遠江浜松藩3代藩主。後に丹波亀山藩初代藩主となる。青山家宗家5代。.

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青山忠朝

青山 忠朝(あおやま ただとも)は、江戸時代中期の大名・大坂城代。丹波国亀山藩3代藩主、丹波篠山藩初代藩主。青山家宗家7代。.

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青龍寺 (土佐市)

本堂まで続く石段 本坊への鐘楼門 青龍寺(しょうりゅうじ)は、高知県土佐市にある真言宗豊山派の寺院。独鈷山(どっこざん)、伊舎那院(いしゃないん)と号す。本尊は波切不動明王。四国八十八箇所霊場の第三十六番札所。波切り不動さんの愛称がある。 本尊真言:のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん ご詠歌:わずかなる 泉に棲める 青龍は 仏法守護の 誓ひとぞきく.

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静神社

静神社(しずじんじゃ)は、茨城県那珂市静にある神社。式内社(名神大社)、常陸国二宮で、旧社格は県社。神紋は「丸に桜」。.

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蠣崎広武

蠣崎 広武(かきざき ひろたけ)は、江戸時代中期の松前藩の家老。松前藩守広系蠣崎家5代。 4代・蠣崎広明の子。延宝9年(1681年)に父が死去したため、跡を継いだ。宝永5年(1707年)に家老となる。清廉潔白な人物と伝わり、藩主・松前矩広の補佐をよく務め、アイヌにも雑穀栽培を教えて奨励するなどした。 享保元年(1716年)7月8日に変死した。享年38。跡を子・広栄が継いだ。 松前藩では広武の死の前年、(正徳5年(1715年))に矩広の継嗣である富広が早世して継嗣問題が発生しており、また広武自身の著である『官庫日記』の正徳6年(1716年)3月から5月半ばの記載が欠けており、継嗣問題に巻き込まれた自殺との説がある。.

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須々木村

々木村(すすきむら)は、かつて静岡県榛原郡南部(現・牧之原市南端)にあった村である。現在、牧之原市の南部の区である須々木区として同市に所属している。.

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領国貨幣

国貨幣(りょうごくかへい)とは、戦国時代から江戸時代初期に掛けて、各地大名が領内通用として鋳造を命じた金貨および銀貨であり、領国金銀(りょうごくきんぎん)とも呼ばれる。 地方貨幣というべきものでもあるが、地方貨幣は諸藩により主に幕末に盛んに発行された領内通用貨幣の意味として用いられているため区別する。.

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表米神社

表米神社(ひょうまいじんじゃ)は、兵庫県朝来市和田山町竹田にある神社である。.

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行基寺

行基寺(ぎょうきじ)は、岐阜県海津市にある浄土宗の寺院である。山号は臥龍山。 別名「月見寺」、「隠れ城」、「お月見の寺」。行基入定の地の伝承がある。美濃高須藩藩主松平氏菩提寺である。本尊は大日如来。西美濃三十三霊場27札所。.

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行徳塩田

行徳塩田(ぎょうとくえんでん)は、江戸から近代を通じて下総国(千葉県)行徳(現在の市川市行徳地区及び浦安市)とその周辺地域に設置された塩田。関東地方で最も大規模に製塩が行なわれ、行徳塩田で作られた塩は行徳の塩と呼ばれた。.

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行願寺

行願寺(ぎょうがんじ)は、京都府京都市中京区にある天台宗の寺院。山号は霊麀山。本尊は千手観音。通称革堂(こうどう)。西国三十三所第十九番札所である。.

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顕証寺 (八尾市)

顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。.

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風神雷神図

雷神図(ふうじんらいじんず)とは、風袋から風を吹き出し、下界に風雨をもたらす風神と、太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神の活動の姿を描写する絵画である。 俵屋宗達筆の屏風画が有名で、琳派の絵師をはじめ、多くの画家によって作られた模作や模写が多数ある。.

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裏宿七兵衛

裏宿七兵衛(うらじゅく しちべえ、生年不詳 - 元文4年11月25日(1739年12月25日))は、江戸時代中期(宝永頃?~元文年間)の青梅裏宿出身の義賊。本業は農民。 まれにみる俊足で、遠方の悪徳商人宅などに盗みに出向き、一夜のうちに甲斐、秩父、相模を引き返しては、盗んだ金品を貧者の軒先に恵み、素知らぬ顔で日中は畑仕事をしたとの伝承がある。 Category:江戸時代の人物 Category:盗賊 Category:武蔵国の人物 Category:刑死した人物 Category:1739年没.

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飯塚染子

飯塚 染子(いいづか そめこ、寛文5年(1665年) - 宝永2年5月10日(1705年6月30日))は、江戸時代の女性で、甲斐甲府藩主・柳沢吉保の側室。父は飯塚正次。.

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飯山藩

飯山藩(いいやまはん)は、信濃国(現在の長野県飯山市飯山)を支配した藩。藩庁は飯山城。.

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飛島新田

飛島新田(とびしましんでん)は、愛知県海部郡飛島村の地名(大字)である。13の字がある。また、南接して大字飛島新田番外地(以下、番外地と記す)が所在するが、当項であわせて記述する。.

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養浩館庭園

養浩館庭園(ようこうかんていえん)は、福井県福井市宝永三丁目にある日本庭園。国の名勝に指定されている。 養浩館西門 庭園 庭園 櫛形ノ間.

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館林藩

林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.

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西大路家

西大路家(にしおおじけ)は、羽林家の家格を持つ公家である。藤原北家末茂流であり四条家の分家である。家業は、書道である。家紋は、田字草。江戸時代の家禄は100石。明治維新後、華族令施行により隆修が子爵に叙せられた。.

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西尾忠成

西尾 忠成(にしお ただなり)は、駿河田中藩の第2代藩主、後に信濃小諸藩主、遠江横須賀藩初代藩主となる。横須賀藩西尾家4代。絵画に秀でた文化人であった。.

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西川傳右衛門

西川 傳右衛門(西川伝右衛門、にしかわ でんえもん)は、蝦夷地に進出した老舗近江商人、屋号は松前で『住吉屋』、近江で『松前屋』。歴代当主が襲名した名称。;歴代当主「近江商人西川傳右衛門家の松前経営」(上村雅洋 滋賀大学経済学部附属史料館 1985年).

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西川傳右衛門 (初代)

初代西川 傳右衛門(にしかわ でんえもん、寛永4年(1628年) - 宝永6年2月(1709年3月))は、江戸時代初期、蝦夷地に進出した近江商人西川傳右衛門家の初代。越後に生まれ、西川家本拠の近江で育った。屋号は近江八幡で松前屋・松前(現北海道松前郡松前町)では住吉屋と称した。.

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西川祐信

西川 祐信(にしかわ すけのぶ、寛文11年(1671年) - 寛延3年7月19日(1750年8月20日))とは、江戸時代前期から中期にかけての浮世絵師。江戸を中心とした1枚摺の作品で主に語られる浮世絵の歴史の中で、祐信は京都で活躍し、絵本を主に手がけたためやや等閑視されるきらいがある。しかし、当世風俗描写を主体としていたそれまでの浮世絵に、祐信は古典の知識を作中に引用してこれを当世風に表すなど、抑揚の効いた理知的な美を追求し、次代の浮世絵師たちに大きな影響を与えた。.

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西川照信

西川 照信(にしかわ てるのぶ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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西上磯部

西上磯部(にしかみいそべ)は、群馬県安中市の地名。郵便番号は379-0126。面積は0.28km2(2010年現在)。.

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西念寺 (富士吉田市)

西念寺(さいねんじ)は、山梨県富士吉田市上吉田にある寺院。時宗寺院で、山号は吉積山(きっしゃくさん)。富士吉田市内では、月江寺とともに江戸時代に御朱印地を有した有力寺院。甲斐百八霊場第三十番札所。.

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西園寺致季

西園寺 致季(さいおんじ むねすえ、天和3年11月9日(1683年12月26日) - 宝暦6年7月4日(1756年7月30日))は、江戸時代中期の公卿。長寿で、霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)の四朝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。 父は権中納言西園寺実輔。母は家女房。子に内大臣西園寺公晃、権大納言飛鳥井雅香、権大納言小倉宣季、権大納言今出川誠季、権大納言橋本実理、参議大宮貞季。 貞享2年(1685年)に叙爵してから清華家として速いスピードで昇進し、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、元禄9年(1696年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言・権大納言・宝永3年(1706年)から宝永5年(1708年)にわたってと正徳2年(1712年)から正徳3年(1713年)にわたっての二度にわたり神宮伝奏をつとめた。この間踏歌節会外弁をつとめる。享保9年(1724年)右近衛大将となる。享保13年(1728年)には内大臣。翌年従一位を授与された。元文3年(1738年)には右大臣。延享2年(1745年)には左大臣となったが同年中に辞職している。.

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西ノ内紙

西ノ内紙(にしのうちし)は茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産される和紙である。コウゾのみを原料として漉かれ、ミツマタやガンピなどが用いられないことに特徴がある。江戸時代には水戸藩第一の特産物となり、各方面で幅広く使われた。強靱で保存性に優れたその性質から、江戸では商人の大福帳として用いられた。 1754年(宝暦4年)に刊行された『日本山海名物図絵』では「凡日本より紙おおく出る中に越前奉書、美濃のなおし、関東の西ノ内、程村、長門の岩国半紙もっとも上品也」と称された。.

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西芳寺 (横浜市)

西芳寺(さいほうじ)は、横浜市港北区新羽町にある真言宗の寺院。横浜七福神(恵比寿)、子年観音霊場(旧小机領三十三観音霊場)第十五番札所、武相不動尊二十八所第九番札所。.

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西谷善太郎

西谷 善太郎(にしたに ぜんたろう)家は近江国神崎郡小幡庄(滋賀県五個荘町小幡を経て、現東近江市五個荘小幡町)出身、出羽最上地方に最も早く進出した老舗近江商人、屋号は『最上屋』。歴代当主が襲名する名称。.

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西林寺 (松山市)

仁王門 西林寺(さいりんじ)は、愛媛県松山市高井にある真言宗豊山派の寺院。清滝山(せいりゅうざん)、安養院(あんよういん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第四十八番札所。伊予十三仏霊場の第八番札所。 本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか ご詠歌:弥陀仏の 世界を訪ね 行きたくば 西の林の 寺に詣れよ.

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西江邸

西江邸(にしえてい)は、岡山県高梁市成羽町坂本に現存する江戸中期の家屋。国の登録有形文化財。.

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西浜町 (大阪府)

西浜町(にしはまちょう)は、かつて大阪府西成郡にあった町。現在の大阪市浪速区の一部にあたる。.

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西方寺 (京都市左京区)

西方寺(さいほうじ)は、京都府京都市左京区にある浄土宗知恩院派の寺院。山号は願海山。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。開基(創立者)は平安末期の左大臣大炊御門経宗と伝える。藤原氏一門の大炊御門家、宇多天皇の一門である綾小路家、五辻家の菩提寺。普段は非公開であるが、京都非公開文化財特別公開などの特別な機会に公開されることがある。.

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西方寺 (仙台市)

西方寺(さいほうじ)は、宮城県仙台市青葉区大倉字上下(じょうげ)にある浄土宗の寺院。山号は極楽山。本尊は阿弥陀如来画像軸。観蓮社良念により開基された。正式名称で呼ばれることはまれで、一般に「定義如来」(じょうげ にょらい)と呼ばれる。 年間約100万人の観光客が訪れており、門前町を含む観光施設が発達している(後述)。.

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饗庭氏

饗庭氏(あえばし/あいばし)は、日本の氏族。源頼光を祖とする摂津源氏の流れを汲む土岐氏(美濃源氏)の支流。 土岐光行の子・饗庭光俊を祖とする。相場氏や相羽氏と同音であり、これに通じている。.

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覚城院

覚城院(かくじょういん)は、香川県三豊市仁尾町にある真言宗御室派別格本山の寺院。詳しくは大寧山 不動護国寺 覚城院と号する。本尊は千手観世音菩薩。さぬき三十三観音霊場第十九番札所。.

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覚運 (大石良雄の養子)

覚運(かくうん、元禄元年(1688年) - 宝永2年4月11日(1705年5月3日)もしくは宝暦9年(1759年)1月8日)は、江戸時代中期の僧。『忠臣蔵』で知られる大石良雄の養子。 赤穂藩足軽頭小山良師の末子であるが、家老大石良雄の養子に入っている。小山良師は大石良雄の叔父にあたるので、分家から本家に養子に入った形になるが、大石家にはすでに大石良金が生まれていた。したがって家督を継がせるための養子縁組としては特に必要性のないものであるが、おそらく覚運の出自を良くする権威付けのため小山から頼まれて内蔵助が受けたものではないかと思われる。 いずれにせよ出家の上、八幡山大西坊に入山しており、大石良雄の実弟専貞の弟子となった(神仏習合時代の石清水八幡宮の周りには多くの宿坊があり、その中の一つの大西坊の住職が専貞であった)。 没年については従来よくわかっておらず、宝永2年と宝暦9年二つの説があったが、2013年春に善法律寺境内にて覚運の墓塔が発見され、没年が明確になった。このことから宝暦9年説が有力となっている。.

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要法寺

要法寺(ようぼうじ)は、京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町にある日蓮本宗の本山。山号は、多宝富士山。日興の法脈を継承する富士門流に属し、静岡県駿東地方に分布する富士五山や、保田妙本寺、伊豆実成寺とともに、同門流の興門八本山を構成している。 開基は日尊。1308年(延慶元年)、日尊は、諸国を遍歴し、京都山城に法華堂を建立した。1550年(天文19年)、日辰により上行院と住本寺を統合して要法寺が建立された。日蓮本宗は、宗祖日蓮、二祖日興、三祖日目、日尊は日蓮本宗第4代である。市街地の中に1万3500平方mの境内をもち、歴史ある建築が並ぶ。.

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親子酒

親子酒(おやこざけ)は、古典落語の演目の一つ。原話は上方の初代露の五郎兵衛が宝永4年(1707年)に出版した笑話本「露休置土産」の一遍である「親子共に大上戸」。 主な演者として、5代目古今亭志ん生や5代目柳家小さん、8代目三笑亭可楽、10代目金原亭馬生、5代目鈴々舎馬風などがいる。.

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観世重賢

観世 重賢(かんぜ しげかた、万治元年(1658年)表(2008)、p.275 - 延享3年4月23日(1746年6月11日))は、江戸時代の猿楽師。12世観世大夫。通称は初め三郎次郎、大夫就任と同時に左門を名乗る表(2008)、p.292。隠居してのちは服部十郎左衛門、さらに出家して服部周雪と改めた。 宝生家からの養子として観世大夫を嗣ぐが、29歳の若さでその地位を去る。以後は前大夫として尊重を受けつつ京・江戸で隠居暮らしを送り、89歳の長命を保った。.

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首切島

首切島(くびきりじま)は、瀬戸内海にある無人島である内外アソシエーツ編(1991)、192頁。菅田(1995)、275頁。。岡山県備前市日生町に属する。別名見付島(みつけじま) 。.

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香川県

香川県(かがわけん)は、瀬戸内海に面し四国の北東部に位置する日本の県の一つ。令制国の讃岐国に当たる。県庁所在地は高松市。県名は旧讃岐国のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡である香川郡から採られた。面積が全国一小さい県だが、災害が少なくコンパクトな中に都市の利便性と豊かな自然が調和した生活環境を併せ持つ特徴を有するかがわ暮らしガイドブック(香川県発行)。.

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駒形

駒形堂吾嬬橋」 名所江戸百景より。歌川広重画。 駒形堂 駒形(こまがた)は、東京都台東区の町名。現行行政地名は駒形一丁目及び駒形二丁目。郵便番号は111-0043。.

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角筈

角筈(つのはず)は、東京都新宿区にかつてあった地名。町名設置当初は、一丁目から三丁目まであった。現在は、新宿区西新宿、歌舞伎町および新宿の一部。.

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角避比古神社

角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)は、遠江国浜名郡にあった神社である。延喜式神名帳では遠江国で2つだけの大社の一つであり、名神大社に列している。明治4年(1871年)に「角避比古神社」として国幣中社に列せられたが、論社のどれが「角避比古神社」であるかを特定することができず、結局「鎮座地不明」として社格が除かれた。『特選神名牒』には「角避比古神は津の幸彦の神にして、湖口の開塞を知りて民の幸福を知ります神と云義にて、実は水門の功徳を称へ奉れる御名ならん」と記されている。元は浜名湖口の現在の湖西市側に鎮座していたが、明応7年(1498年)8月25日の大地震・大津波で流出した。 旧浜名郡内にこの名前の神社は現存せず、以下の3つの神社が論社とされている。.

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駒沢利斎

駒沢利斎(こまざわ りさい)は千家十職の一つ。三千家御用達の棚や香合、炉縁などを製作する指物師が代々継承する名跡である。 当代は14代が1977年(昭和52年)に逝去後、長く空席が続いており、14代の甥の息子である吉田博三が後を嗣ぐべく修行中である。.

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試鋳貨幣

試鋳貨幣(しちゅうかへい)は、新貨幣を発行する前に様々な図案、直径などの形式のものの中から新貨幣に採用すべきものを決定するにあたり試作される貨幣である。試作貨幣(しさくかへい)ともいう。このため通常は市場で使用されることは無い。 また、流通を前提として製造されたが、何らかの事情により発行には至らなかった不発行貨幣(ふはっこうかへい)とは異なるが、不発行貨の製造が少量にとどまり事実上の試鋳貨幣となることもある。.

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説経節

天下無双佐渡七太夫正本『せつきやうしんとく丸』(正保5年3月刊、九兵衛板)の挿図 説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸『世界大百科事典』(1988)pp.576-577, 岩崎・山本「説経節」。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である郡司(1953)pp.388-389。近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった室木「解説」(1977)pp.393-399。 単に「説経(せっきょう)」でこの芸能をさすこともある。古くは「せつきやう」と仮名書きする場合が多く、「説経」「説教」両方の字があてられるが、現代では「説経」と表記するのが一般的である。説経(説教)はまた、これを演ずる芸能者をさすこともあり、その意味では「説経の者」、「説教者」(蝉丸神社文書)や「説経説き」(『日葡辞書』)のことばがある。 説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり、哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する唱門師(声聞師)は、陰陽師を源流として当初は庶民向けに読経や卜占をおこなっていたが、曲舞や猿楽などもおこなうようになった。「しょうもじ」「しょうもんじ」「しょもじ」と読み、「唱聞師」「聖問師」「唱文師」「誦文師」とも表記する。散所(寺社の附属地でその雑役にあてられた)に集住したところから「散所非人」ないし単に「散所」と称されることもあった。塩見(2012)pp.87-93。また、近世以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある。 徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な5曲をまとめて「五説経」と称する場合がある(詳細後述)岩崎(1973)pp.7-30。.

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誕生寺 (鴨川市)

誕生寺(たんじょうじ)は、千葉県鴨川市小湊にある、日蓮宗の大本山。山号は小湊山。日蓮の誕生を記念して出身地に建立された。.

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諏訪忠尋

諏訪 忠尋(すわ ただひろ、元禄8年10月16日(1695年11月22日) - 享保2年4月23日(1717年6月2日))は、信濃高島藩の第4代藩主諏訪忠虎の三男で嫡男。母は越前松平昌勝の娘。正室は永井直敬の娘。官位は従五位下、出雲守。幼名は菊之丞、小太郎。 宝永元年(1704年)9月15日、将軍徳川綱吉に初御目見する。宝永6年(1709年)6月27日に従五位下出雲守に叙任されるが、享保2年(1717年)に家督相続前に早世した。戒名は景耀院霊淵空恵。代わって嫡子には分家旗本から忠林が迎えられた。.

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諏訪頼久

諏訪 頼久(すわ よりひさ、寛永21年7月18日(1644年8月20日) - 享保元年9月10日(1716年10月24日))は江戸時代の旗本。 信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の三男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は吉田氏。正室は坂部広慶の娘、後妻は青木義継の娘。官位は従五位下、対馬守、壱岐守。通称は右衛門。養子を迎え、岡田善次の三男・頼等を長男とし、兄頼蔭の次男・頼深を次男とする。 承応3年(1654年)11月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。明暦3年(1657年)3月25日、兄の忠晴が家督を相続した際、同国筑摩郡1,000石(百瀬知行所)を分知され、寄合に列する。 寛文3年(1663年)11月19日に御書院番、天和元年(1681年)1月11日、御小姓組頭となる。天和2年(1682年)4月21日上野国邑楽郡・下野国安蘇郡に500石加増される。元禄3年(1690年)7月16日桐間の番頭、元禄6年(1693年)8月9日小普請となる。 宝永3年(1706年)11月27日に致仕、享保元年(1716年)9月10日に江戸で死去。享年73。白金の瑞聖寺微笑院に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。.

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諏訪頼蔭

諏訪 頼蔭(すわ よりかげ、寛永20年8月9日(1643年9月21日) - 享保10年10月1日(1725年11月5日))は江戸時代の旗本。 信濃国諏訪藩2代藩主諏訪忠恒の次男。3代藩主諏訪忠晴の弟。母は中嶋氏。正室は有馬康純の娘。子に頼戡、頼深(頼久の養子となる)がいる。官位は従五位下、下総守。通称は兵部。初名は頼尚(よりなお)。 承応3年(1654年)11月10日、将軍徳川家綱に拝謁する。明暦3年(1657年)3月25日、兄の忠晴が家督を相続した際、同国筑摩郡1,000石(埴原知行所)を分知され、寄合に列する。 寛文9年(1669年)9月11日、御小姓組頭となり、天和2年(1682年)4月21日上野国邑楽郡・新田郡に500石を加増される。元禄2年(1689年)閏正月26日には火付盗賊改方、御先銕炮頭、元禄5年(1692年)4月22日には盗賊追捕役、元禄8年(1695年)2月18日には御持筒頭、元禄9年(1696年)3月28日には長崎奉行に就任し、下野国河内郡に500石を加増される。元禄11年(1698年)9月26日、家臣の不祥事で解任され、閉門を言い渡される。元禄13年(1700年)5月9日に許されて小普請に入るが、出仕を憚り、元禄16年(1703年)4月25日に恩免となる。 宝永4年(1707年)12月14日に致仕。 享保10年(1725年)10月1日に江戸で死去。享年83。法名は節山。麻布の曹渓寺に葬られた。子孫は幕末まで旗本として存続する。.

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諏訪明神 (相模原市)

諏訪明神(すわみょうじん)は、神奈川県相模原市緑区大島にある神社である。「大島諏訪明神」、あるいは「お諏訪さま」とも呼ばれる。なお、相模原市教育委員会発行『相模原風土記稿』(神社編)では「諏訪神社」と表記されている。.

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高富藩

富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。.

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高山繁文

山 繁文(たかやま しげふみ、慶安2年6月20日(1649年7月29日) - 享保3年2月7日(1718年3月8日))は、江戸時代の甲斐谷村藩と武蔵川越藩の国家老、俳人。通称は高山傳右衛門。俳号は麋塒(びじ)。.

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高屋敷稲荷神社

屋敷稲荷神社(たかやしきいなりじんじゃ)は福島県郡山市にある神社である。 境内まで数多くの鳥居が連なっている独特の景観が特徴の稲荷神社である。商売繁盛の祈願に良いとされる。.

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高崎市

崎市(たかさきし)は、関東地方の北西部、群馬県中部よりやや南西に位置する中核市。1900年(明治33年)の市制施行当時の区域は旧:群馬郡。現在の市域は、旧:群馬郡・碓氷郡・甘楽郡・多野郡(多胡郡・緑野郡)の区域で構成される。中核市に指定されており、群馬県内では最大の人口を擁する都市である。.

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高倉盛任

倉 盛任(たかくら もりとう)は、江戸時代中期の弘前藩の武士。.

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高倉盛保

倉 盛保(たかくら もりやす)は、江戸時代前期の弘前藩の武士。.

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高倉通

倉通(蛸薬師通付近より北方向を望む) 高倉通(たかくらどおり)は京都市の南北の通りの一つ。平安京の高倉小路にあたる。 北は丸太町通から南は十条通に至る。途中、渉成園により中断している。高倉跨線橋で大きくカーブしており、竹田街道に接続している。以南は筋違いとなっている。.

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高玄岱

岱(こう げんたい、男性、慶安2年2月15日(1649年3月27日) - 享保7年8月8日(1722年9月18日))は、江戸時代前期の儒学者、書家・篆刻家である。 字を子新・斗瞻、 号を天漪・婺山、通称を新右衛門と称した。姓が深見氏であったので深見玄岱とも呼ばれる。また玄岱は元泰とも書く。長崎の人。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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高照神社

照神社(たかてるじんじゃ)は、青森県弘前市に鎮座する神社である。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。 平成18年(2006年)に境内の主要な建物が国の重要文化財に指定された。.

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高輪大木戸跡

輪大木戸跡全景 高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)とは、東京都港区高輪二丁目19番地に所在する交通遺跡である。国道15号の泉岳寺交差点の北東側に位置している。1928年(昭和3年)2月7日、国の史跡に指定されている。.

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高野保春

野 保春(たかの やすはる、慶安3年3月3日(1650年4月3日) - 正徳2年5月26日(1712年6月29日))は、江戸時代前期の公卿。主に霊元天皇・東山天皇の御世の朝廷に仕えた。持明院基定の三男。母は持明院基久の娘。高野家の祖にあたる。また浅野長矩が元禄14年(1701年)に接待役を命じられていた勅使の一人(もう一人は柳原資廉)としても知られる。.

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高野蘭亭

野 蘭亭(たかの らんてい、宝永元年5月7日(1704年6月8日)? - 宝暦7年7月6日(1757年8月20日))は江戸時代中期の盲目の漢詩人。諱は惟馨、字は子式。別号に東里。 明の格調派を志向した作風は当時の人々に学びやすいものとして受け入れられ、参勤交代で江戸に赴任した全国各地の大名や、南郭と確執のあった太宰春台の門人など、多くの人物に漢詩を教授した。.

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高松家

松家(たかまつけ)は、藤原北家閑院流武者小路支流の公家である。江戸時代前期の准大臣武者小路実陰の子・参議重季を祖とする。家格は羽林家。江戸時代の石高は30石3人扶持。.

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高森藩

森藩(たかもりはん)は、越前国丹生郡(現在の福井県越前市高森町)に存在した藩。丹生に陣屋を構えたことから当初は丹生藩(にうはん)と呼ばれた。.

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高橋友碩

橋 友碩(たかはし ゆうせき、1681年(延宝9年)頃 -1726年(享保11年))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の五世井上策雲因碩の跡目井上友碩。美濃国生まれ、四世本因坊道策のち四世井上道節因碩門下、七段。御城碁5局を務めた他、『傅信録』編纂に携わった。.

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高津比め神社

津比咩神社(たかづひめじんじゃ)は千葉県八千代市高津にある神社である。旧社格は村社。.

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高源院 (世田谷区)

源院(こうげんいん)は、東京都世田谷区北烏山にある寺院。臨済宗大徳寺派に属し、本山は大徳寺、山号を「瑞泉山」という。創建は1703年(元禄16年)で、旧地は品川であった。1893年(明治26年)を境に無住となり、関東大震災の被害にも遭ったため復興を図って1939年(昭和14年)に現在の地に移転してきた。高源院は「烏山寺町」を構成する26の寺院の1つで、敷地内にある泉水(弁天池)は「烏山の鴨池」として「せたがや百景」に指定されている『せたがや百景』56-59頁。『せたがや百景』93頁。。1985年(昭和60年)3月1日には「烏山弁天池特別保護区」(2,322平方メートル)に指定された『宙水をご存知ですか? -地下水を保全し水辺環境を守るために- 平成25年10月』。.

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高木正府

高木 正府(たかぎ まさもと/まさくら、元禄9年(1696年) - 享保4年10月5日(1719年11月16日))は、河内丹南藩の世嗣。 第6代藩主・高木正陳の長男。母は本多正永の娘。正室は内藤清枚の娘。官位は従五位下、播磨守。 丹南藩嫡子として生まれ、宝永5年(1708年)徳川綱吉に拝謁。正徳元年(1711年)叙任するが、家督相続前の享保4年(1719年)に24歳で早世した。代わって、従弟にあたる正恒が養子に迎えられ嫡子となった。 まさもと Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1696年生 Category:1719年没.

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鬼界ヶ島 (奈良市)

ヶ島(きかいがしま)とは、奈良市高畑町付近にかつてあった地名・名勝。単に鬼界とも。近世より近代、明治までの地誌や名所案内に広く記録が残るが、現存せず所在した正確な場所もはっきりしない。.

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講談

講談(こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつ。 演者は高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。上方講談においては、張り扇と拍子木を併用する。.

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議奏日次案

議奏日次案(ぎそうひなみあん)とは、江戸時代に議奏が日々の公務に関して記述した公的日記のこと。.

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魂胆色遊懐男

『魂胆色遊懐男』(こんたんいろあそびふところおとこ)は、江島其磧の浮世草子である。.

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讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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鯰江町

江町(なまずえちょう)は、大阪府東成郡にあった町。現在の大阪市城東区の一部にあたる。 なお、前身となる鯰江村の当初の範囲は、現在の大阪市都島区の一部を含んでいた。.

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鰊場作業唄

鰊場作業唄(にしんばさぎょううた)とは、北海道の日本海沿岸に伝わる民謡である。.

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鰍沢河岸

鰍沢河岸(かじかざわかし)は、山梨県南巨摩郡富士川町にあった河岸。近世には黒沢河岸(西八代郡市川三郷町)や青柳河岸(南巨摩郡富士川町)とともに甲州三河岸として整備され、三河岸の主力である鰍沢河岸は甲斐国と駿河国間の物流を結ぶ富士川水運の拠点で、江戸時代後期から昭和初期まで機能した。.

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谷川士清

谷川 士清(たにかわ ことすが、宝永6年2月26日(1709年4月5日) - 安永5年10月10日(1776年11月20日))は、江戸時代の国学者である。通称は養順。字は公介。号は淡斎。.

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谷貝宿

谷貝宿(やがいしゅく、やがいじゅく)は、江戸時代の日光東街道(関宿通多功道)における下総国の宿場。現在は茨城県古河市谷貝に相当する。 日光東街道の起点となる水戸街道小金宿・我孫子宿間の追分から数えて5番目の宿場である。.

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谷村城

谷村城(やむらじょう)は、山梨県都留市上谷一丁目にあった日本の城(城郭)。甲斐国東部の郡内地方を領した国衆である小山田氏の居館または近世の大名居館。谷村館。.

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谷村藩

谷村藩(やむらはん)は、江戸時代初期に甲斐国にあった藩。 甲斐国4郡のうち東部の都留郡一帯にあたる郡内地方を支配した。古くから独立性の強い郡内領を治め、別名郡内藩(ぐんないはん)と呼ばれる。領内支配の中心であった谷村城は、郡内地域では数少ない城跡として現在でも残されている。.

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谷村陣屋

谷村陣屋跡石碑 谷村陣屋(やむらじんや)は、山梨県都留市中央にある陣屋の史跡。現在の甲府地方裁判所都留支部には「谷村陣屋跡」の石碑が立っている。.

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豊原 (大奥女中)

豊原(とよはら、生没年不詳)は、江戸時代前期から中期の大奥女中(御年寄、のち上臈御年寄)。本名は不詳。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉から7代将軍・徳川家継までの3代に渡って仕えた。.

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豊川町 (伊勢市)

豊川町付近の航空写真(1983年、国土航空写真) 豊川町(とよかわちょう)は、三重県伊勢市の町名「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):751ページ。郵便番号は516-0042。住民基本台帳に基づく2013年9月30日現在の人口は89人、2012年(平成24年)10月1日現在の面積は1.054km2伊勢市情報調査室""平成24年10月1日現在(2013年10月28日閲覧。)。 地域内はほぼ豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の宮域であるが、南東部には住宅が点在する。.

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豊前善光寺

豊前善光寺(ぶぜんぜんこうじ)は、大分県宇佐市にある浄土宗の寺院。山号は梵天山(ぼんてんざん)。詳しくは梵天山法性院善光寺(ぼんてんざんほっしょういんぜんこうじ)と称する。長野県長野市にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため豊前善光寺(ぶぜんぜんこうじ)と呼ばれ、芝原善光寺(しばはらぜんこうじ)、あるいは豊前芝原善光寺とも呼ばれる。芝原の読みは”しばわら”である。.

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豪商

越後屋」の復元看板 豪商(ごうしょう)とは、めざましい近世日本の経済発展のなかで巨万の富を蓄えた大商人である五味・野呂(2006)p.75。.

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豆板銀

豆板銀(まめいたぎん)は、江戸時代に流通した銀貨の一種。小粒銀(こつぶぎん)、小玉銀(こだまぎん)とも呼ばれる。当時、銀座において用いられた正式名称は「小玉銀」であり田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年、『三貨図彙』にもこの名称で記述されているが、『』および『大日本貨幣史』などの古銭書には「豆板銀」という名称で収録されている。.

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貞観大噴火

thumb thumb 貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。 この噴火は、山頂から北西に約10km離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火である。長尾山ほか2、3のスコリア丘を形成し、膨大な量の溶岩を噴出させた。噴出物の総量は約14億m3にも及び、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くした末に、北麓にあった広大な湖・剗の海(せのうみ)の大半を埋没させた。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた宝永大噴火とともに、富士山の噴火災害の特異例として数え上げられ、文献記録に残る富士山噴火のうちで最大規模とも言われている。 なお、この噴火で埋没した剗の海の残片が現在の富士五湖のうちの2つ、西湖と精進湖であり、溶岩流の上に1100年の時を経て再生した森林地帯が青木ヶ原樹海である。.

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財光寺

財光寺(ざいこうじ)は、宮崎県日向市中部の地域である。山下、長江団地、往還、切島山1~2、松原、比良、川路団地、山下町1丁目、往還町、 沖町、比良町1~5丁目がある。.

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貨幣改鋳

貨幣改鋳(かへいかいちゅう、money recasting )は、経済政策の1つ。.

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鳥居忠瞭

鳥居 忠瞭(とりい ただあきら)は、江戸時代中期の大名。下野壬生藩の第2代藩主。壬生藩鳥居家6代。.

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鳥居忠英

鳥居 忠英(とりい ただてる)は、江戸時代中期の大名。能登下村藩主、近江水口藩主、下野壬生藩の初代藩主。壬生藩鳥居家5代。.

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鳥居清信

鳥居 清信(とりい きよのぶ、寛文4年〈1664年〉 - 享保14年7月28日〈1729年8月22日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。鳥居派の祖。.

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鳥居清倍

市川団十郎の竹抜き五郎。清倍画。 鳥居 清倍(とりい きよます、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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鳥居清倍 (2代目)

二代目市川海老蔵の役者絵(演目名・役名不明)。二代目清倍画。 二代目 鳥居清倍(にだいめ とりい きよます、宝永3年〈1706年〉 - 宝暦13年11月2日〈1763年12月6日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。鳥居家二代目。.

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鳥羽藩

鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。.

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鳥飼家

桑名藩鳥飼家(とりかいけ)は、関ヶ原の戦いの頃に福島正則の家臣であった鳥飼助右衛門に始まり、伊勢桑名藩の士族で、戊辰戦争の鳥飼次郎正時、桑名の初等教育発展に尽力した鳥飼演廣、そして現在へと続いている。 丸に三盛右三つ巴.

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鳥海山大物忌神社

体山とされた霊峰鳥海山 鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)は、山形県飽海郡遊佐町にある神社。式内社(名神大社)、出羽国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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鳥海修験

霊峰 鳥海山 鳥海修験(ちょうかいしゅげん)は、山形県と秋田県に跨る鳥海山において行われた修験道。古代より神そのものとされた鳥海山は、登山口ごとに修験が発展していった。.

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鳳凰山

鳳凰山(ほうおうざん)は山梨県の南アルプス北東部にある3つの山の総称である。後述の通り、鳳凰山とはどの山を指すのか歴史的には諸説あったため、地蔵岳・観音岳・薬師岳の3山の総称として特に鳳凰三山とも呼ばれる。南アルプス国立公園内にあり、日本百名山、新日本百名山、新・花の百名山および山梨百名山に選定されている。.

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鳳潭

鳳潭(ほうたん、承応3年(1654年)- 元文3年2月26日(1738年4月14日))は、江戸時代中期の学僧。出身については越中国西礪波郡とされるが、一説では摂津国ともされる。 比叡山に入って出家・得度し、天台における教相と観相を学んだ。その後、中国・インドに渡ろうとしたが国禁のため果たすことができず、京阪で大乗・小乗・顕教・密教仏教各宗を研究した。とくに南都において華厳を極め、その復興に尽力した。1704年(宝永元年)江戸へ下り、大聖道場で華厳を講義する一方、華厳に対する自らの考えを著し、いろいろな宗の学僧と交流している。1723年(享保8年)京都松尾に大華厳寺を建立。浄土宗・浄土真宗・日蓮宗と議論を行い、当時の仏教界に大きな刺激を与えた。.

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鳴尾

尾(なるお)は、兵庫県西宮市南東部、武庫川とかつての分流枝川(現在は浜甲子園甲子園口停車場線)・申川の三角州上の地域。古くから松の景勝地として知られ、謡曲『高砂』に〈遠く鳴尾の沖過ぎて〉とあるのは目印とされた一本松(現在五代目)に由来する。 古くは「成尾」とも見え、武庫川右岸に位置する。地名は緩やかな傾斜を示す「ナル」(「均(なら)す」と同根)と武庫川の河口端の「尾」の合わさったものとみられる(田岡香逸『西宮地名考』民俗文化研究会)。 明治22年(1889年)武庫郡鳴尾村となり、昭和26年(1951年)西宮市に合併された。そのとき西宮市役所の支所が設けられ鳴尾村域は鳴尾支所管区となった。.

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賀多神社

賀多神社(かたじんじゃ)は、三重県鳥羽市にある神社。.

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賀島政朝

賀島 政朝(かしま まさとも、宝永3年(1706年) - 享保18年9月20日(1733年10月27日))は、徳島藩家老賀島家7代当主。 父は賀島政之。養子は賀島政良。幼名は延蔵。通称は六右衛門、伊織。.

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賀茂真淵

賀茂 真淵(かも の まぶち)は、江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。 荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を「県居(あがたい)学派」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。.

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鴻池新田

鴻池新田(こうのいけしんでん)とは、かつて河内国(現在の大阪府東大阪市)で開墾された新田のひとつ。.

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越後長岡藩の家臣団

越後長岡藩の家臣団(えちごながおかはんのかしんだん)は、元和4年(1618年)4月、越後長岡藩に入封し明治3年(1870年)10月に廃藩となるまで在封した譜代大名牧野氏表高7万4,000石(初め表高6万4,000石余のち増封1万石・実高約14万石)の家臣団である。彼らは戦国時代より"常在戦場・鼻を欠いても義理を欠くな"を家訓として掲げた三河国宝飯郡を発祥とする近世大名・牧野氏宗家に仕えた武士たちである。 以下は主要家臣を中心に特に提示しないものは【由緒記】(=「諸士由緒記」、参考文献の1 所収)を基本出典として記述する。なお、【由緒記】以外の出典については必要に応じて【 】を用いた略号または脚注・傍注により各項毎に示し、当該略号と該当参考文献の説明は当ページの下部の凡例及び参考文献欄を参照とする。また、越後長岡藩の機構に関しては越後長岡藩を参照。.

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越前松岡藩

松岡藩(まつおかはん)は、越前国(現在の福井県吉田郡永平寺町)に存在した藩。藩庁は松岡館。.

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足守陣屋

足守陣屋(あしもりじんや)は、岡山県岡山市北区足守(備中国加陽郡)に築かれた江戸時代の足守藩木下氏の居館である。岡山市の史跡に指定されている。陣屋遺構 陣屋跡記念碑 1615年(元和元年)、木下利房(2代)の代に慶長19年(1614年)大坂冬の陣での功績が徳川家康に認められ賀陽郡内2万5千石の知行を与えられて再び足守に居館を構えた。足守陣屋と呼ばれている足守木下家の居館については足守藩第4代藩主・木下利貞の時代の寛文2年(1662年)から延宝7年(1679年)の間に築かれたと言われる。 1708年(宝永5年)、5代㒶定は幕命によって仙洞御所造営に参加した際に、その残財を貰い受けて陣屋の東側に「吟風閣」を建設。 明治維新後は、足守県の県庁として利用されたが、深津県に併合し消滅。陣屋の建物は取壊されたが、1874年(明治7年)、陣屋跡中央部分に旧藩士の屋敷を移築し、木下子爵家(旧藩主家)が居住した。1886年(明治19年)1月1日に後の歌人木下利玄はこの屋敷で誕生した。 陣屋跡は現在の足守小学校の北西隣にあり、現在は公園となっている。陣屋の建物は現存していないが、陣屋跡を囲む堀と石垣が残っている。中世の宮地山城のあった宮地山(御殿山)を借景にした庭園「近水園(おみずえん)」に数奇屋建築の吟風閣が現存している。 1959年(昭和34年)3月27日、近水園は岡山県の名勝に指定された。 2002年(平成14年)4月10日、陣屋跡は「足守藩主木下家屋形構跡」(あしもりはんしゅきのしたけやかたがまえあと)として岡山市史跡に指定された。.

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足利藩

足利藩(あしかがはん)は、下野国足利郡足利に存在した藩。藩庁は足利陣屋(栃木県足利市雪輪町)。.

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足利陣屋

足利陣屋(あしかがじんや)は現在の栃木県足利市雪輪町(下野国足利郡足利)にあった陣屋で、宇都宮藩の支藩の足利藩の藩庁である。.

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鶴の湯温泉 (秋田県)

の湯温泉(つるのゆおんせん)は、秋田県仙北市の乳頭温泉郷内にある温泉である。旅館「鶴の湯温泉」と、その別館である「山の宿」がある。.

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鶴姫 (徳川綱吉長女)

姫(つるひめ、延宝5年3月7日(1677年4月8日) - 宝永元年4月12日(1704年5月15日))は、江戸幕府将軍徳川綱吉の長女。母は小谷正元の娘瑞春院。紀州藩主・徳川綱教の正室。 1681年に紀州藩嫡子の綱教と縁組し、1685年に婚姻した。1683年に綱吉の世子であった弟の徳松が死去した後、御三家の一人で将軍の姫を娶った綱教が次期将軍の有力候補になった。しかし、鶴姫は疱瘡のため27歳で死去し、さらにその翌年に綱教も死去した。 法名は明信院殿澄誉恵鑑光燿大姉。墓所は東京都港区の増上寺。.

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鶴崎踊

崎踊(つるさきおどり)は、大分県大分市鶴崎地区に伝わる盆踊り。400年以上の歴史を有する大分県を代表する盆踊りであり、1982年12月17日に国の選択無形民俗文化財に選択されている。毎年8月の旧盆直後の土・日曜日に、本場鶴崎踊大会が開催される。.

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鶴ヶ岡城

ヶ岡城(つるがおかじょう)は、山形県鶴岡市馬場町にあった日本の城(平城)である。.

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鶴見川橋

見川橋(つるみがわばし)は、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見川に架かる、旧東海道の橋梁である。.

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鶴澤探山

澤 探山(つるさわ たんざん、1655年(明暦元年)または1658年(万治元年) - 1729年8月7日(享保14年7月13日))は、日本の江戸時代前期から中期に活躍した狩野派の絵師。名は守見、良信、兼信。探山は号で、別号に幽泉、探春、探川など。狩野探幽の門人で、後に京都へ移り鶴澤派の祖となった。.

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鶴澤探鯨

澤 探鯨(つるさわ たんげい) 1687年(貞享4年) - 1769年9月20日(明和6年8月21日))は、日本の江戸時代中期に活躍した狩野派の絵師。鶴澤探山の息子で鶴澤派の2代目。名は守実。探鯨は号で、別号に幽皓。.

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鷹司信子

鷹司 信子(たかつかさ のぶこ、慶安4年(1651年) - 宝永6年2月7日(1709年3月17日))は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の正室(御台所)。院号は浄光院(じょうこういん)。左大臣従一位・鷹司教平の娘。母は冷泉為満女(鷹司家譜)。兄に関白・鷹司房輔、妹に霊元天皇中宮・鷹司房子(新上西門院)がいる。また、3代将軍・徳川家光の正室・鷹司孝子は大叔母、6代将軍・徳川家宣の正室・近衛熙子は再従妹にあたる。.

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鷹司兼熙

鷹司 兼煕(たかつかさ かねひろ、万治2年12月5日(1660年1月17日) - 享保10年11月20日(1725年12月24日))は、江戸時代前期の公家、関白。主に霊元天皇と東山天皇の在位中の朝廷政治の中枢として活躍した。.

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鷹司松平家

鷹司松平家(たかつかさまつだいらけ)は、五摂家の鷹司家の一支流で、紀州徳川家縁者として徳川家の親藩。定府。.

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鷹司房熙

鷹司 房煕(たかつかさ ふさひろ、宝永7年8月13日(1710年9月6日) - 享保15年4月24日(1730年6月9日))は江戸時代の公卿。父は近衛家熙。母は町尻兼量女。養子は鷹司尚輔。号は清浄林院。従二位。.

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鹽竈神社

志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)は、宮城県塩竈市にある神社(二社が同一境内に鎮座)。志波彦神社は式内社(名神大社)。鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「塩竈桜」。 鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。.

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鹿久居島

鹿久居島の東部(右上) 鹿久居島の西部(日生港・みなとの見える丘公園から望む) 鹿久居島(かくいじま)は、日本の瀬戸内海にある有人島のひとつで、岡山県備前市に属す日生諸島の島である。.

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黒島神社 (姶良市)

黒島神社(くろしまじんじゃ)は、鹿児島県姶良市上名に所在する神社である。.

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黒田吉之

黒田 吉之(くろだ よしゆき、天和2年6月15日(1682年7月19日) - 宝永7年7月3日(1710年7月28日))は、筑前国福岡藩の世嗣。第4代藩主・黒田綱政の長男。母は立花忠茂の娘(立花鑑虎の養女)・心空院。正室は、冨姫(本多忠常の養女、本多忠利の娘)。娘の幸姫(圭光院)は(黒田継高正室)。初名は政之(まさゆき)。 官位は従四位下、大隅守。 元禄9年(1696年)叙任。将軍徳川綱吉の偏諱を授かり、吉之に改名。宝永7年(1710年)、父に先立って死去した。享年29。代わって、弟の政則改め宣政が嫡子となった。男子はなかったが、娘の幸姫はのちに第6代藩主・継高(吉之・宣政の従兄弟にあたる)の正室となっている。 遺物として書と、正室本多氏の娘との婚礼調度一部が今日まで伝わり(黒田資料)、福岡市美術館に所蔵されている。また広尾祥雲寺にある吉之の墓標は、藩祖の黒田長政に次いで巨大である。 よしゆき Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:福岡藩の人物 Category:1682年生 Category:1710年没.

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黒田光之

黒田 光之(くろだ みつゆき)は、筑前福岡藩の第3代藩主。.

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黒田綱之

黒田 綱之(くろだ つなゆき、承応4年3月8日(1655年4月14日) - 宝永5年7月6日(1708年8月21日))は、筑前福岡藩の世嗣。第3代藩主・黒田光之の長男。母は小笠原忠真の娘・宝光院。幼名万千代。初名は長良(ながよし)。官位は従四位下、筑前守。.

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黒田直純

黒田 直純(くろだ なおずみ)は、上野沼田藩の第2代藩主、のちに上総久留里藩の初代藩主。久留里藩黒田家2代。 宝永2年(1705年)4月23日、本多正矩の次男として江戸で生まれる。 沼田藩の先代藩主黒田直邦の婿養子だった直基が早世したため、その未亡人(直邦の娘)と結婚して享保6年(1721年)12月に新たな養嗣子となる。 享保20年(1735年)の直邦の死去により家督を継いだ。 寛保2年(1742年)7月28日、沼田から久留里へ移封された。久留里城再建のため、5千両を給わる。 翌年6月に大坂城加番を命じられる。 寛延2年(1749年)12月18日、奏者番に任じられた。 宝暦13年(1763年)12月18日、従四位下に昇進する。同日、奏者番の職を解かれる。 安永4年(1775年)閏12月27日に死去した。享年71。 跡を先代の直邦の実子で養子の直亨が継いだ。 Category:本多氏 なおすみ Category:沼田藩主 Category:久留里藩主 Category:1705年生 Category:1776年没.

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黒田長軌

黒田 長軌(くろだ ながのり、1686年8月16日(貞享3年6月28日)- 1715年11月29日(正徳5年11月4日))は、筑前国秋月藩の第3代藩主。 第2代藩主・黒田長重の長男。母は黒田光之の娘・勝真院。正室は佐竹義処の娘・養真院。官位は従五位下。隠岐守。幼名は千之助。 江戸芝の藩邸にて生まれる。宝永7年(1710年)、父の死去により家督を継いだが、家督相続からわずか5年後の正徳5年(1715年)11月4日、江戸藩邸にて死去した。享年30。嗣子が無く、養嗣子の長貞が跡を継いだ。法号は興陽院三峯宗玄。 なかのり *03 Category:1686年生 Category:1715年没.

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黒田長重

黒田 長重(くろだ ながしげ、1659年4月26日(万治2年3月5日)- 1710年12月19日(宝永7年10月29日))は、筑前国秋月藩の第2代藩主。 初代藩主・黒田長興の次男。母は佐竹義隆の娘・法流院。正室は黒田光之の娘・勝真院(富貴子)。子は黒田長軌(長男)。官位は従五位下。甲斐守。奏者番。幼名は千之助。 江戸にて生まれた。寛文5年(1665年)、父の死去により家督を継ぐ。秋月藩では長興の晩年からすでに財政窮乏化が始まっていた。このため長重は厳しい倹約令を出して藩札を発行し、京都や大坂の商人に対して借金返済の停止を行い、上米制度を実施するなどの藩政改革を行った。また、家老制度も確立している。元禄5年には外様大名でありながら奏者番となった。宝永7年(1710年)10月29日、52歳で秋月において死去し、跡を長男・長軌が継いだ。 なかしけ *02 Category:1659年生 Category:1710年没.

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黒田正玄

黒田 正玄(くろだ しょうげん)は千家十職の一つで、竹細工・柄杓師を務める家が代々襲名している名称。柄杓の他、台子、香合、花入など竹を使う茶道具を製作し、千家に納めてきた家系。 当代は14代。.

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黒葛原俊宗

黒葛原 俊宗(つづらばら としむね、寛永12年9月19日(1635年10月29日) - 正徳3年10月15日(1713年12月2日))は、江戸時代前期の薩摩藩士。島津氏庶流である伊集院氏の分流黒葛原氏の嫡家当主。諱は初め忠澄、正徳3年(1713年)の本家である伊集院嫡家の伊集院蔵人久矩の令達により俊宗と改名。通称は弥蔵、周八、左近、周右衛門。のち入道して可水と号す。 勘定奉行、船奉行、納戸奉行、奏者番を勤め、平松郷、踊郷、馬越郷などの地頭を兼任する。 示現流高弟の薬丸兼陳の娘と結婚し、4男2女を儲ける。後に義兄弟薬丸兼福に子がなかったので、次男忠長を養子に出すが、天和2年(1682年)7月3日に長男の周八忠朝が夭折したために、養子に出して薬丸半介武兼と称していた次男を呼び戻し、嫡子とする。後に改めて三男を兼福の養子に出す。これが薬丸兼慶である。.

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黒沢琴古

黒沢 琴古(くろさわ きんこ)は、尺八琴古流の家元の名跡。4代目が没して以降途絶えているがその後も何人か継いだが何代続いたか不明。.

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鼠璞十種

『鼠璞十種』(そはくじっしゅ)は江戸学者三田村鳶魚が江戸についての未刊随筆を集めた叢書。幕末成立の『燕石十種』の影響を受ける。.

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龍谷寺 (八王子市)

龍谷寺(りゅうこくじ)は、東京都八王子市大谷町にある曹洞宗の寺院。山号は両輪山。仏師藤四郎吉勝作の弁財天・大黒天・毘沙門天の三天像(宝永8年(1711年)制作)を安置する。.

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龍野藩

龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。.

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辰巳の辻占

辰巳の辻占(たつみのつじうら)は、古典落語の演目のひとつ。同演題では東京落語で広く演じられる。この項では、同演題のもととなった上方落語の辻占茶屋(つじうらぢゃや)についても記述する。.

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農書

農書(のうしょ)とは、広義には農業に関する書物の総称である。 より狭義には、近代的農学が成立する以前の農業技術・農民生活についての著作物を指し、「古農書」とも呼ばれる(当然この場合、近代以後の農学書(農学を参照のこと)は農書に含まれない)。以下は狭義の「農書」について述べる。.

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辻の薬師堂

辻の薬師堂 辻の薬師堂(つじのやくしどう)は、神奈川県鎌倉市大町にある仏堂。小さな堂の中に薬師三尊像、十二神将像等が安置されている。.

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辛味大根

辛味大根(からみだいこん)は、ダイコンの品種。別名は吹散大根。京野菜の一つであり、「京の伝統野菜」に指定されている。また、小ぶりで辛味の強いダイコンの総称とされる事もある。.

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近衛基熙

近衞 基熙(このえ もとひろ)は、江戸時代前・中期の公卿。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主。.

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近衛家熙

近衞 家熈(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。.

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近衛熙子

近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日) - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。.

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近衛脩子

近衞 脩子(このえ しゅうし、宝永3年(1706年) - 享保12年10月2日(1727年11月14日))は、江戸時代の皇族・閑院宮直仁親王の御息所(妃)。関白近衛基熙の娘で、姉に江戸幕府6代将軍徳川家宣の正室・近衛熙子、兄に近衛家熙などがいる。西本願寺16世宗主湛如の裏方・治子女王の母。.

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近藤清春

近藤 清春(こんどう きよはる、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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近松門左衛門

近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん、承応2年〈1653年〉 - 享保9年11月22日〈1725年1月6日〉)とは、江戸時代の浄瑠璃及び歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛(すぎもり のぶもり)。平安堂、巣林子(そうりんし)、不移山人(ふいさんじん)と号す。 家紋は「丸に一文字」。.

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近江国分寺

近江国分寺(おうみこくぶんじ)は、近江国にあった寺院(廃寺)。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、近江国国分僧寺にあたる。奈良時代の所在地は明らかでないが、平安時代初期に国昌寺(寺跡は滋賀県大津市光が丘町付近)が寺格を継承した。 本項では近江国分尼寺の推定地についても解説する。.

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霧島温泉郷

林田温泉より。遠方に櫻島。 霧島温泉郷(きりしまおんせんきょう)は、鹿児島県霧島市から湧水町にかけての霧島山中腹に点在する温泉群の総称。狭義では大浪池の南西斜面、中津川(天降川の支流)流域にある古くから知られている温泉群を指す。1959年(昭和34年)5月4日、「霧島温泉」として、旧・霧島町の霧島神宮温泉とともに国民保養温泉地に指定された。.

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茶屋四郎次郎

茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう、ちゃや しろじろう)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。.

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茶屋辻

茶屋辻(ちゃやつじ)は和服の文様の一種。水辺の風景を細かい文様で著した物を指し、基本的に夏の着物に適用されるが、近年は例外も多い。.

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鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「蜃気楼」 寺島良安『和漢三才図会』より「蜃」 『和漢三才図会』より「車螯」 蜃(しん)とは、蜃気楼を作り出すといわれる伝説の生物。古代の中国と日本で伝承されており、巨大なハマグリとする説と、竜の一種とする説がある。蜃気楼の名は「蜃」が「気」を吐いて「楼」閣を出現させると考えられたことに由来する。霊獣の一種とされることもある。.

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蜂須賀宗員

蜂須賀 宗員(はちすか むねかず)は、阿波富田藩の第3代藩主。のち阿波徳島藩の第6代藩主。.

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蜂須賀玄寅

蜂須賀 玄寅(はちすか はるとら、1607年8月3日(慶長12年6月11日) - 1674年11月7日(延宝2年10月10日))は、江戸時代初期の人物。徳島藩蜂須賀氏の家臣。家老。山城守。諱は鶴松、由秀、由英、由清、玄寅。通称は内膳、山城。号は斉藤不白。別名池田玄寅。 父は備前国岡山藩池田家家老・池田由之(元助の子・輝政の甥)。母は徳島藩主・蜂須賀家政の長女・即心院。同母兄は岡山藩家老の池田由成。異母弟に岡山藩番頭の池田忠義、鳥取藩家老の池田之政。 子は養子の興龍(蜂須賀隆矩)、実子の三尾正長(池田正長)。 姪(兄・由成の娘)に熊子(大石良昭室)。 妻は近江三井寺山内円満院坊官の西坊胤清(にしのぼうたねきよ)法印の長女亀(かめ)(宝永4年1月2日(1707年2月)死去、法号は芳林院殿真空妙心大姉、葬は近江錦織屋敷(信天舎・藤の堂)、後に大津新光寺へ移葬)。.

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蜂須賀隆寿

蜂須賀 隆寿(はちすか たかひろ、元禄7年(1694年) - 宝暦5年12月16日(1756年1月17日))は、阿波富田藩の世嗣。徳島藩5代藩主・蜂須賀綱矩の三男。母は綱矩の側室の横山氏。子は蜂須賀重隆(次男)、千姫(池田長甫室)。官位は従五位下、下総守。幼名は万次郎。初名は豊龍。.

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蜂須賀隆重

蜂須賀 隆重(はちすか たかしげ、寛永11年8月18日(1634年10月9日) - 宝永4年8月24日(1707年9月19日))は、阿波富田藩の初代藩主。初名は至照、正武。通称は万之助、下総。 徳島藩主蜂須賀忠英の次男。母は小笠原忠脩の娘・繁姫。正室は清田氏。側室は上里氏、本性院。子は蜂須賀正上(長男)、次女(水戸支流松平頼貞正室)、三女(内藤信輝正室)、七女(蜂須賀隆長養女。南部利幹正室)ら1男7女。官位は従五位下、飛騨守。.

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蜂須賀隆長

蜂須賀 隆長(はちすか たかなが、延宝2年4月13日(1674年5月18日) - 正徳4年9月17日(1714年10月25日))は、阿波富田藩の第2代藩主。阿波徳島藩2代藩主・蜂須賀忠英の五男・蜂須賀隆喜の長男。母は岡本氏(要受院)。 正室は慈光寺仲学の娘。子は1男1女。養子に蜂須賀隆寿(蜂須賀綱矩の三男)、蜂須賀正員(蜂須賀綱矩の四男)、養女(蜂須賀隆重の七女、南部利幹正室)がいる。官位は従五位下。飛騨守。通称は吉之助、頼母。.

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部田春日神社

部田春日神社(へたかすがじんじゃ)は愛知県愛知郡東郷町大字春木字西前6067に鎮座する神社である。旧社格は村社。宮司は名古屋市瑞穂区の津賀田神社の宮司が兼任しており、普段は氏子が神社を管理している。なお、氏子地区は部田地区、部田山地区(藤坂、三ツ池、清水等)である。.

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能仁寺 (飯能市)

能仁寺(のうにんじ)は、埼玉県飯能市飯能にある曹洞宗の寺院である。山号は武陽山。本尊は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。.

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能代市

能代市(のしろし)は、秋田県北部に位置する日本海に面した市である。 能代工業高校のバスケットボールでの活躍が有名。旧能代市時代の1989年度(平成元年度)からバスケットボールの街づくり事業に取り組んでいる。.

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能代地震

能代地震(のしろじしん)は、元禄7年(1694年)6月19日、陸奥国野代(現秋田県能代市)を震源として発生した。能代南方地震 地震 第1輯 Vol.8 (1936) No.2 P51-56_1、能代大地震とも呼ばれる。地震の規模はM7前後と推測されている。.

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能勢頼一

能勢 頼一(のせ よりかず、元禄3年(1690年) - 宝暦5年5月11日(1755年6月20日) )は、江戸時代中前期の旗本で、江戸北町奉行となった人物。能勢頼雄の子。通称、甚四郎。官位は従五位下肥後守。室は竹田政就の娘。子女は菅沼武勝室、能勢一英、ほかに女子ひとり。 父の能勢頼雄が没し、元禄3年12月に1歳で跡目相続し小普請となった。宝永4年(1707年)11月、小性組番士、宝永6年12月に小納戸、享保12年(1727年)6月、小十人頭を歴任し、同12月、布衣を着することを許された。宝永14年11月、小性組組頭に昇進し、宝永20年10月、目付となった。寛保元年には、500石を加増されそれまでの蔵米100俵も知行地に改められ、武蔵国埼玉郡、上野国邑楽郡内600石を知行することとなった。延享元年(1744年)6月には町奉行にまで昇進し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。宝暦3年(1753年)3月、西ノ丸旗奉行となった。宝暦4年11月、職を辞し寄合となり、宝暦5年(1755)5月に66歳で没した。.

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都留市

都留市中心部周辺の空中写真。1975年撮影の4枚を合成作成。国土航空写真。 都留市(つるし)は、山梨県東部に位置する市である。古くからの甲斐絹の産地である。.

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舞阪宿

歌川広重『東海道五十三次・舞坂』 舞阪宿(まいさかしゅく、まいさかじゅく)で、正式名:舞坂宿 である。東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて30番目の宿場町で、旧国は遠江国にある。現在の静岡県浜松市西区舞阪町に相当する。.

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興徳寺 (瑞浪市)

興徳寺(こうとくじ)は岐阜県瑞浪市稲津町小里にある釈迦如来を本尊とする臨済宗妙心寺派(龍泉派)の寺院で、山号は全源山。美濃瑞浪三十三霊場13番札所である。当地を支配した小里氏の菩提寺であった。 慶長6年(1601年)に小里城主であった小里光親がその父である小里光明の菩提を弔うために当林和尚を招いて創建した。その後、元和9年(1623年)に小里氏が滅亡したため、檀越を失い寺運が傾いた。寛永11年(1634年)に全源宗耽が当寺の住持となり中興している。元禄9年(1696年)に伽藍が焼失したが、宝永元年(1704年)に再建を果たしている。また、江戸時代には市原の禅躰寺、須之宮の陽光寺(現在は廃寺)及び小里の永泉寺(現在は廃寺)を末寺としていた。 寺宝として岐阜県の文化財に指定されている延文2年(1357年)制作の木造菅公像を所蔵する。.

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興国寺 (長岡市)

興国寺(こうこくじ)は新潟県長岡市千手2丁目にある曹洞宗寺院。山号は太平山。等級は二等法地。本尊は上品上生阿弥陀如来。.

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興正寺 (名古屋市)

興正寺(こうしょうじ)は、愛知県名古屋市昭和区八事本町にある真言宗系の寺院。包括団体は高野山真言宗。山号は八事山。通称は八事観音。本尊は大日如来。境内は本堂などがある西山普門院と奥之院がある東山遍照院に分かれており、全域が興正寺公園として開放されている。.

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蘭谷元定

蘭谷 元定(らんこく げんじょう、承応2年(1653年) - 宝永4年5月1日(1707年5月31日))は、江戸時代前期の黄檗宗の和僧。法号が蘭谷で、法諱が元定である。画・篆刻・彫刻に秀でた。.

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阿仁鉱山

阿仁鉱山(あにこうざん)は、秋田県北秋田市にあった鉱山である。金、銀、銅が採掘され、とくに銀鉱、銅鉱の産出が多く、1716年(享保元年)には産銅日本一となり、長崎輸出銅の主要部分を占めた。御用鉱山から久保田藩(秋田藩)の藩営となり、明治初年に官営鉱山となったのち、1885年(明治18年)に古河市兵衛に払い下げられた。閉山されたのは、1978年(昭和53年)のことであった。.

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阿児町安乗

阿児町安乗(あごちょうあのり)は、三重県志摩市の地名。郵便番号は517-0507。「行政区別人口・世帯数一覧表」による2012年6月1日現在の人口は1,937人、1996年1月1日現在の面積は1.21km2である。 あのりふぐなどが水揚げされる水産業が盛んな地域である。また、安土桃山時代の文禄年間(1592年 - 1596年)より続く重要無形民俗文化財の安乗の人形芝居(安乗文楽)が継承されている地域でもある「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編(1983):97ページ。.

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阿賀 (呉市)

right 阿賀(あが)とは、広島県呉市の一地区。本項では同地域にかつて所在した賀茂郡阿賀村(あがむら)・阿賀町(あがちょう)についても述べる。.

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阿部正府

阿部 正府(あべまさもと)は、江戸時代中期の旗本。側衆。実兄に老中を務めた阿部正喬がいる。 元禄10年(1697年)、武蔵忍藩主阿部正武の四男として生まれる。宝永2年(1705年)9月1日、徳川綱吉にはじめて拝謁する。 享保4年(1719年)11月27日、旗本で叔父の阿部正明の養嗣子となり家督を継ぐ。享保9年(1724年)10月9日、使番に列し火事場見廻役を兼任。同年12月18日、布衣の着用を許可された。享保12年(1726年)3月15日、小姓組番頭に昇進し、同年12月18日に従五位下・志摩守に叙された。享保17年(1732年)3月1日に書院番頭、元文2年(1737年)6月1日に江戸城西丸の側衆となり、延享2年(1745年)9月1日から本丸勤めに異動。 寛延2年(1749年)6月10日、死去。享年53歳。実子がいなかったため、甥の正韶(正晴の三男)を養嗣子にむかえ家督を継がせた。.

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阿部正喬

阿部 正喬(あべ まさたか)は、江戸時代中期の大名、老中。武蔵忍藩主。忠秋系阿部家4代。.

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阿部正員

阿部 正員(あべ まさかず)は、江戸時代の旗本。忍藩主阿部正能の四男。 寛文5年(1665年)阿部正能の四男として生まれる。延宝5年(1677年)7月4日、兄正武の所領から上総国夷隅郡の内2000石を分与され、寄合に列する。同年7月18日、徳川家綱にはじめて拝謁する。 元禄7年(1694年)3月9日、江戸城中奥の小姓となり、元禄9年(1696年)12月22日、従五位下・壱岐守に叙任された。宝永元年(1704年)1月11日、小姓組番頭となるが、宝永5年(1708年)6月23日に職務に適していないという理由で小普請に左遷。 享保13年(1728年)10月9日に隠居し随運と名乗る。7年後の享保20年(1735年)10月2日に死去。享年71歳。長男の正苗(まさみつ)が早世したので、家督は甥で養嗣子の正甫が継いだ。.

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阿部正鎮

阿部 正鎮(あべ まさたね)は、三河刈谷藩の第2代藩主、後に上総佐貫藩の初代藩主。備後福山藩阿部家分家2代。.

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阿部正邦

阿部 正邦(あべ まさくに、万治元年4月19日(1658年5月21日) - 正徳5年1月27日(1715年3月2日))は、江戸時代前期の大名。武蔵国岩槻藩5代藩主、丹後国宮津藩主、下野国宇都宮藩主、備後国福山藩初代藩主。阿部家宗家5代。 岩槻藩第3代藩主阿部定高の次男。正室は山内豊昌の娘、継室は春日氏。子に阿部正羽(三男)、阿部正福(四男)、阿部正容(五男)、娘(榊原政倫と婚約、早世)、娘(土井利実正室)、娘(丹羽秀延正室)、娘(井伊直矩正室)、娘(六郷政長正室)。幼名は作十郎。.

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阿部正武

阿部 正武(あべ まさたけ)は、江戸時代前期の大名、老中。武蔵忍藩主。忠秋系阿部家3代。阿部正能の長男。.

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阿部正房

阿部 正房(あべ まさふさ)は、江戸時代の旗本。忍藩主阿部正能の三男。 万治元年(1658年)阿部正能の三男として生まれる。寛文12年(1672年)12月8日、徳川家綱にはじめて拝謁する。延宝5年(1677年)7月4日、兄正武の所領から上総国夷隅郡の内3000石を分与され、寄合に列する。 貞享4年(1687年)6月13日、小姓組番頭となり、同年12月25日、従五位下・越中守に叙任された。元禄10年(1697年)8月28日、書院番頭。宝永3年(1706年)11月26日に江戸城西の丸に勤務し、宝永6年(1709年)から本丸勤めになった。 享保7年(1722年)7月1日、辞職。そして同年12月22日に隠居し以信と名乗る。この時、息子の正興から隠居料として600石与えられた。享保13年(1728年)9月晦日、死去。享年71。家督は実子の正興が継いだ。.

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阿部正晴

阿部 正晴(あべ まさはる)は、江戸時代の旗本。忍藩主阿部正武の三男。子息の正允が阿部正喬の養嗣子となった。 宝永元年(1704年)10月29日、父の所領から武蔵国埼玉・男衾・秩父郡の内新墾田5000石を分与され、寄合に列する。享保元年(1716年)12月18日、中奥の小姓となり、享保3年(1718年)12月18日、従五位下讃岐守に叙任された。享保15年(1730年)7月12日、27歳で死去した。息子の正允は前述したように正喬の養嗣子となり、三男の正韶は阿部正府の養嗣子となったため遺領は収公された。.

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阿部房豊

阿部 房豊(あべ ふさとよ、寛永16年(1639年) - 宝永3年(1706年))は、江戸時代の武士。 陸奥国湯長谷藩(福島県いわき市)の家臣、阿部五次右衛門家の2代当主。.

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阿蘇地震

阿蘇地震(あそじしん)では、熊本県の阿蘇地方で発生した顕著な地震活動について記述する。.

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赤坂 (東京都港区)

赤坂(あかさか)は、東京都港区の町名または地区。.

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赤神神社

赤神神社(あかがみじんじゃ)は、秋田県男鹿市にある神社である。一般には赤神神社五社堂として知られる。五社堂5棟は国の重要文化財(建造物)に指定されている。旧社格は郷社。.

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赤福餅

赤福餅 赤福餅(あかふくもち)は、三重県伊勢市の和菓子屋赤福の和菓子商品である。餅菓子であり、いわゆるあんころ餅の一種。餅を漉し餡でくるんだもので、漉し餡には三つの筋が付き、五十鈴川の川の流れを表しているとされる。餅は傾けて持ち帰ると崩れることがあるほど非常にやわらかい。 「ええじゃないか」のテレビCMと「赤太郎」というキャラクターで知られ、中京・近畿圏のJR線主要駅や近鉄沿線の特急停車駅、サービスエリア、百貨店、空港売店などで、広範囲に発売されている(遠くは岡山県でも販売された)。この販売エリアは伊勢神宮の信仰が特に強い地域とほぼ等しいという説もある。基本的に直営店と在庫を管理する営業所の近辺に限られる。 茶店風の本店が伊勢神宮内宮前のおかげ横丁にあり、そこでは例年、夏場に「赤福氷」という、抹茶氷に赤福餅を入れたもの、冬場は赤福の餅と餡を使った「ぜんざい」が供されている。この「赤福氷」と「赤福ぜんざい」は、本店の他に、伊勢志摩地区・名古屋地区・大阪地区の一部の直営店でも、季節限定品として供されている。本店前には、山口誓子が早朝の様子を詠んだ句碑が置かれている。.

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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。.

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赤穂事件を題材とした作品

ここでは、赤穂事件を扱った演劇、文芸作品、映像作品その他のフィクション、および評論について説明する。.

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赤穂義人録

赤穂義人録(あこうぎじんろく)とは、元禄14年(1701年)に発生した赤穂事件を称揚する立場から書かれた室鳩巣による漢文体の歴史書。全2巻1冊。 室鳩巣の自序は元禄16年(1703年)10月の日付が記されているが、その後も改訂が行われて宝永6年(1709年)に定稿が成立している。また、同じ宝永6年には鳩巣の弟子らが同書を読んだ感想や同書にちなんで作成した詩などを収めた『鳩巣先生義人録後語』(編者は大地昌言)が編纂され、その中の鳩巣の弟子・奥村脩運の跋文には鳩巣が『赤穂義人録』を編纂した経緯が述べられている。この中で鳩巣は大石良雄らの忠義は中国の史書に記された忠臣のそれに劣らないのに彼らを顕彰する文章がなくただ雑説だけが流布するのを憂慮して著したとする。同じく弟子で赤穂藩の本家筋である広島藩の家臣でもあった小谷勉善の跋文には自分が広島藩の江戸藩邸で赤穂藩や事件を良く知る人たちから話を聞いて師である鳩巣に報告をしたところそれを元に改訂が行われたと証言している。上巻は赤穂藩主浅野長矩が江戸城松の廊下で吉良義央に刃傷を起こした事件から、赤穂藩の家老であった大石良雄ら四十七士が吉良を討ち取って江戸幕府から切腹を命じられた経緯が時系列に記され、下巻は大石以下四十七士の経歴や逸話を記す。 当時、江戸幕府の処分を受けた四十七士の擁護を行うことは、一歩間違えれば幕府に対する政治批判として処罰を受ける可能性があった。鳩巣もそれを承知しており、序文の中で鳩巣と弟子3名(奥村脩運・小谷勉善・石黒知微)との問答の形で借りてこれに応え、古代中国で周の武王が殷を伐った際に伯夷・叔斉兄弟がこれを諌めた話を挙げ、武王の行為も伯夷・叔斉の行為も称賛される行為であるとして四十七士の擁護と幕府の処分は矛盾しないと結論づけ、武王が伯夷・叔斉をその場で殺そうとした際にこれを諌めた太公望のように、金沢藩に仕える自分が幕府の処分に対して何も出来なかった無力さを嘆いている。また、四十七士の行動に対しても全てを肯定している訳ではなく、特に大石良雄に対しては家老は主君が誤った判断をしないように補佐するのが最も重要な任務であるのに、主君の浅野長矩が刃傷事件を起こして本人は切腹、藩は改易に至ったのは、大石の家老としての能力にも問題があったと批判している。 鳩巣は同書を単に四十七士の称賛する目的だけで作ったのではなかった。奥村の跋文には『資治通鑑綱目』に比するものを目指し、上は朝廷から下に士庶に至るまで、更に異域(海外)でも読まれるようになることを期待していたと記している。実際、鳩巣は日本の慣習を知らない海外の読者を意識して、朝廷と幕府の二重体制や公武関係の説明を省いて幕府を含めて「朝廷」と表記し、日本独自の習慣と思われるもの(名乗りの方法、月代のスタイル、仏教による葬儀など)は全て「和俗」であると断りを入れている。そして、鳩巣の門人である青地兼山の『兼山秘策』によれば、新井白石や対馬藩士との話で四十七士に関心を持った朝鮮通信使のために漢文体による赤穂事件の史料を求めていた対馬藩家老・平田直右衛門の要請を受けて、鳩巣が通信使に『義人録』の写本を与えることになり、鳩巣は兼山への書状で「四十七士に対して、私もずいぶん奉公したものです」と報告している。 『赤穂義人録』は江戸時代においては主に写本として流布されたが現在確認できるだけでも100冊以上知られ、後に安中藩主・板倉勝明によって甘雨亭叢書に所収・刊行されたことでより流布されていった。また、鳩巣の草稿は前田育徳会が所蔵して尊経閣文庫に伝存されており、昭和10年(1935年)に複製本が刊行されている。また、昭和49年(1974年)に岩波書店『日本思想大系』「近世武家思想」に所収された石井紫郎による校注本は甘雨亭叢書・尊経閣文庫所蔵草稿を校合した上で書き下し体にして広く普及している。また、史料的な制約から鳩巣の記述内容に正確さに欠ける部分もあり、明治5年(1872年)に国枝惟凞により『赤穂義人録』の誤謬を訂正した『赤穂義人録補正』が出されている。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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赤猫斎全暇

赤猫斎 全暇(せきみょうさい ぜんか、生没年不詳)とは、江戸時代の京都の浮世絵師。.

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赤蝦夷風説考

『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)は、江戸時代中期の医師・経世家(経済学者)である工藤平助が著したロシア研究書。「赤蝦夷」はロシア人を意味する当時の用語。天明初年(1781年)ごろの刊行(上巻序文には「天明三年癸卯正月日」とある)。上下2巻。写本の中には『加摸西葛杜加(カムチャトカ)国風説考』の書名を持つものがあり(むしろこちらの方が多い)、また「魯西亜略説」などの異名もある。またのちに最上徳内が『別本赤蝦夷風説考』という書を著しているが、内容は全くの別物である。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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赤松氏満

赤松 氏満(あかまつ うじみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。.

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赤木氏

赤木氏(あかぎし)は、日本の氏族のひとつ。.

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関孝和

関 孝和 記念切手1992年 関 孝和(せき たかかず/こうわ、寛永19年(1642年)3月? - 宝永5年10月24日(1708年12月5日))は、日本の江戸時代の和算家(数学者)である。本姓は藤原氏。旧姓は内山氏、通称は新助。字は子豹、自由亭と号した。.

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関宿藩

関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.

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関ヶ原の戦いの戦後処理

関ヶ原の戦いの戦後処理(せきがはらのたたかいのせんごしょり)では、1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いの後の、東軍・徳川家康方に加担した武将の論功行賞と、西軍・石田三成方へ加担した武将への戦後処理についてまとめた。 各武将の動向は主に『戦国人名辞典』『日本史総覧』に典拠するものである。また、表は五十音順である。.

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関長広

関 長広(せき ながひろ)は、備中新見藩の第2代藩主。新見藩関家3代。 元禄7年(1694年)6月29日、初代藩主・関長治の兄・森長俊の次男として美作に生まれる。 宝永3年(1706年)4月、叔父長治の養子となる。享保10年(1725年)3月5日、養父の隠居により家督を継いだ。しかし生来から病弱で政務が執れず、惰弱な藩主の下で家臣団は博打に走るなど綱紀が乱れ、財政難も起こった。 享保17年(1732年)5月4日、養父に先立って死去した。享年39。跡を長男の政富が継いだ。 なかひろ なかひろ *02 Category:1694年生 Category:1732年没.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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薬師池 (町田市)

薬師池(やくしいけ)は、東京都町田市野津田町にある池(ため池)。薬師池公園の中央部より東側に位置し、昔は福王寺溜池(ふくおうじためいけ)とも呼ばれていた。面積は7,650平方メートル、貯水量は10,430立方メートル、水深は0.9~1.8m。.

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薬丸兼福

薬丸 兼福(やくまる かねとみ、寛永19年(1642年) - 元禄6年(1693年))は、江戸時代前期の薩摩藩士。幼名を新蔵。通称ははじめ大炊兵衛、後に刑部左衛門。諱は兼福。薬丸兼陳の子。.

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薬丸兼雄

薬丸 兼雄(やくまる かねたか、元禄6年(1693年) - 宝暦4年(1754年))は江戸時代の薩摩藩士。通称は新蔵。諱は兼雄。示現流の達人として知られた薬丸兼慶の子。息子は薬丸兼中。父の地頭就任により父とともに家格代々小番となる。また、久保之英の「見聞秘記」に登場している。藩職は記録方添役を勤める.

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薬丸兼慶

薬丸 兼慶(やくまる かねよし、寛文13年4月13日(1673年5月29日) - 宝暦8年9月17日(1758年10月18日))は、江戸時代中期の薩摩藩士。剣客。初名は黒葛原周次郎。通称は長左衛門。諱は兼慶。晩年になって活慶と号した。薬丸兼陳の外孫で黒葛原俊宗の三男であり、薬丸兼福の養子となった。息子は兼雄、長右衛門。家格は、はじめ一代小番。須木郷地頭就任をもって代々小番。 須木郷地頭の他に高隅郷地頭を勤める。.

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薬王寺 (可児市)

清涼山薬王寺は、岐阜県可児市東帷子1644番地に位置する天台宗の寺院である。.

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薬缶なめ

薬缶なめ(やかんなめ)は、古典落語の演目の一つ。原話は、万治2年(1659年)に出版された笑話本・「百物語」の一遍である『題薬缶』。 元々は『茶瓶ねずり』という上方落語で、主な演者に2代目桂小文治や10代目柳家小三治、柳家喜多八などがいる。.

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薬草

草 桂皮 柴胡 薬草(やくそう)、薬用植物(やくようしょくぶつ、medicinal plant)とは、薬用に用いる植物の総称である。そのままであったり、簡単な加工をしたり、有効成分を抽出したりするなどして用いられる。草本類だけでなく木本類も含むため、学問的な場面では、より厳密な表現の「薬用植物」のほうが用いられることが多い。.

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薮田重守

薮田重守(やぶたしげもり、寛文4年(1664年) - 延享4年(1747年))は、江戸時代の武家家臣。甲斐国甲府藩主・大和国大和郡山藩主である柳沢氏家臣で、柳沢家の家老。別名は柳沢市正。子に里守。 『甲斐国志』に拠れば、柳沢保格(権太夫)、鈴木主水(主馬、大内蔵)、近藤図書、川口石見、柳沢矢柄とともに家老を務めたという。.

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閑羅瀬町

閑羅瀬町(しずらせちょう)は、愛知県豊田市の地名。.

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閑谷学校

閑谷学校(しずたにがっこう)は、江戸時代前期に岡山藩によって開かれた庶民のための学校。所在地は岡山県備前市閑谷。「旧閑谷学校」として特別史跡に指定され、講堂は国宝に指定されている。.

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閑院宮

閑院宮(かんいんのみや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。 閑院宮の宮号は平安時代の清和天皇の皇子である貞元親王が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。2代直仁親王の王子祐宮が後桃園天皇の崩御に伴い践祚して以来、閑院宮系の血統が皇統として続いている。.

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閑院宮直仁親王

閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう、宝永元年9月9日(1704年10月7日) - 宝暦3年6月3日(1753年7月3日))は江戸時代の皇族。弾正尹。准三宮。幼名は秀宮。宝永7年(1710年)に世襲親王家の一つ、閑院宮家を創設する。.

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間瀬正明

『義士四十七図 間瀬久太夫正明』(尾形月耕画) 間瀬 正明(ませ まさあき、寛永18年(1641年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は久大夫、久太夫(きゅうだゆう)。間瀬の読みは一説に「まなせ」。 .

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間部詮之

間部 詮之(まなべ あきゆき)は、江戸時代中期の旗本。間部詮房の実弟。徳川家宣・家継に仕え、本家の鯖江藩主の間部家とは別に分家の本所間部家を興した。.

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間部詮衡

間部 詮衡(まなべ あきひら)は、江戸時代中期の旗本。間部詮房・詮之の実弟。徳川家宣・家継に仕え、本家から独立し赤坂間部家という分家を興した。.

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間部詮言

間部 詮言(まなべ あきとき)は、越後村上藩の第2代藩主、のち越前鯖江藩の初代藩主。間部家2代。.

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間部詮房

間部 詮房(まなべ あきふさ)は、江戸時代中期の大名。相模厚木藩主、上野高崎藩主、越後村上藩間部氏初代藩主。側用人、老中格。 徳川家宣・家継の二代にわたり、将軍の側近として幕政を主導した。.

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間部詮方

間部 詮方(まなべ あきみち)は、越前鯖江藩の第2代藩主。間部家3代。間部詮貞(西田清貞の次男、初代藩主・間部詮言の実兄)の長男。母は家臣・田中氏の娘。正室は間部詮言の娘・見知。継室は有馬一準の娘。.

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開聞十町

開聞十町(かいもんじゅっちょう Kaimonjutcho)は、鹿児島県指宿市の大字。旧薩摩国頴娃郡頴娃郷拾町村、頴娃郡頴娃村大字十町、揖宿郡頴娃町大字十町、揖宿郡開聞村大字十町、揖宿郡開聞町十町。人口は2,342人、世帯数は963世帯(2010年10月1日現在)。郵便番号は891-0603。.

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開聞仙田

開聞仙田(かいもんせんた Kaimon-senta)は、鹿児島県指宿市の大字。旧薩摩国頴娃郡頴娃郷仙田村、頴娃郡頴娃村大字仙田、揖宿郡頴娃町大字仙田、揖宿郡開聞村大字仙田、揖宿郡開聞町仙田。人口は1,669人、世帯数は619世帯(2010年10月1日現在)。郵便番号は891-0604。.

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藍島

藍島(あいのしま)は、福岡県北九州市小倉北区に属する響灘にある島である。 また、地名(行政区画)としての「藍島」は福岡県北九州市小倉北区の大字となっており、全島がこれに該当する。.

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藤堂高睦

藤堂 高睦(とうどう たかちか)は、伊勢国津藩の第4代藩主。藤堂家宗家4代。.

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藤堂高治

藤堂 高治(とうどう たかはる)は、伊勢津藩の第6代藩主。元は津藩の支藩である伊勢久居藩の第4代藩主。藤堂家宗家6代、久居藩藤堂家4代。父は、津藩の藩祖・藤堂高虎の弟・藤堂高清の孫で、一門の藤堂出雲家第3代の藤堂高明。久居陣屋の主。.

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藤堂高明

藤堂 高明(とうどう たかあき、正保2年(1645年)- 宝永8年(1711年))は、伊勢国津藩藩一門藤堂出雲家第3代。第6代藩主藤堂高治の父。.

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藤堂長定

藤堂 長定(とうどう ながさだ、寛文11年(1671年) - 宝永4年(1707年)は、津藩士藤堂修理家第2代。 通称修理、九兵衛。俳号は橋木。名張藤堂家(藤堂宮内家)第2代長正の三男。子は藤堂長熙、藤堂長桓。 叔父長則の養子となって跡を継いだ。知行石高は1500石。高知役(母衣組)、加判奉行を勤めた。家臣に松尾芭蕉の甥の山岸半残がいる。宝永4年(1707年)没。享年37。家督は次男の長桓が相続した。長男の長熙は本家の名張藤堂家を相続している。 なかさた Category:津藩の人物 Category:1671年生 Category:1707年没.

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藤堂長源

藤堂 長源(とうどう ながもと、元禄2年(1689年) - 享保元年(1716年))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第4代。伊賀国名張1万5000石の領主。 通称右近、宮内。父は名張藤堂家第3代・長守。娘に藤堂長熙室・知久。 生来病弱であった。享保元年(1716年)、療養先の京都で客死した。跡を婿養子として分家・藤堂修理(九兵衛)家出身で従弟にあたる長熙が継いだ。宝永7年(1710年)の名張大火で屋敷が焼失しており、現在残っている名張藤堂家邸はその後再建されたものである。.

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藤岡和泉 (初代)

藤岡 和泉 (初代)(ふじおか いずみ、、元和3年8月1日(1617年8月31日) - 宝永2年9月15日(1705年11月1日))は、江戸前期に活躍した彫刻師。和泉甚兵衛と通称され、和泉壇・浜壇(長浜仏壇)の創作者。近江国の人物。.

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藤川宿

藤川宿(ふじかわしゅく、ふじかわじゅく)は、東海道五十三次の37番目の宿場である。現在の愛知県岡崎市藤川町辺り。詳しくは岡崎市を参照。 但し、藤川宿周辺の住民はほとんどの場合、(ふじかわじゅく)と読む。 藤川宿資料館があり、資料が閲覧できるほか、専用の駐車場もある。また国道1号沿いには道の駅藤川宿が整備されている。 近くの旧東海道には1kmほどの松並木がある。松並木やむらさき麦等とともに藤川宿は岡崎観光きらり百選に選定されている。 また、1996年(平成8年)3月には歴史国道にも認定されている。.

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藤沢宿

藤沢宿(ふじさわしゅく、ふじさわじゅく)は、東海道五十三次の6番目の宿場である。 神奈川県藤沢市にあった。 藤沢宿(歌川広重『東海道五十三次』より) 清浄光寺門前の遊行寺橋(大鋸橋).

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藩札

備後福山藩が享保15年に発行した藩札。額面は銀1匁、発行元の「濱口屋」の名称も見える。 藩札(はんさつ)は、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣である。.

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葦守八幡宮

葦守八幡宮(あしもりはちまんぐう)は岡山県岡山市北区下足守にある神社。旧社格は郷社。建立年代の明らかなものとしては日本最古の鳥居がある。.

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葛飾北斎と甲斐国

葛飾北斎と甲斐国(かつしかほくさいとかいのくに)は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎と甲斐国(山梨県)に関する総説。.

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葛野藩

葛野藩(かずらのはん)は、越前国葛野(現在の福井県丹生郡越前町)に江戸時代中期の短期間存在した藩。藩庁は葛野陣屋に置かれた。.

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蒸ノ湯温泉

蒸ノ湯温泉(ふけのゆおんせん)は、秋田県鹿角市八幡平(旧国陸奥国、明治以降は陸中国)にある温泉。.

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蒔田定矩

蒔田 定矩(まいた さだのり)は、備中国浅尾の寄合旗本。旗本・戸田忠辰(蒔田定正の三男)の次男。.

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肝付久兼

肝付 久兼(きもつき ひさかね)は、江戸時代前期から中期にかけての薩摩藩士。喜入肝付氏4代当主。 喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。 寛永18年(1641年)、肝付兼屋の子として生まれる。慶安3年(1650年)、喜入の屋敷を訪問した藩主・島津光久の面前で元服する。家久の外孫であることから、「久」の字を賜り「久兼」と名乗る。寛文7年(1667年)、大目付となる。 寛文10年(1670年)、家老となる。同年、末吉地頭職となる。延宝8年(1680年)、谷山地頭職。天和2年(1682年)、出水地頭職。天和3年(1683年)、藩主・綱貴に従い江戸に下向し、江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。貞享4年(1687年)、綱貴に従い、将軍綱吉に拝謁する。元禄8年(1695年)、高岡地頭職。 宝永4年(1707年)、病を理由に職を辞し、隠居して家督を子・兼柄に譲る。 宝永6年(1709年)2月8日没。享年69。.

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肝付兼柄

肝付 兼柄(きもつき かねえだ)は、江戸時代中期の薩摩藩士。喜入肝付氏5代当主。薩摩喜入領主。 喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。 寛文5年(1665年)、肝付久兼の子として生まれる。延宝3年(1675年)、藩主・島津光久の面前で元服する。天和3年(1683年)、藩主光久の娘を室に迎える。貞享2年(1685年)、大目付となる。宝永4年(1707年)、父の隠居により家督相続する。同年、国分地頭職。 宝永6年(1709年)、藩主・吉貴より家老職を拝命する。正徳2年(1712年)、一所持ちに列する。正徳4年(1714年)、藩主吉高の参勤に従って江戸に下向する琉球尚敬王の将軍就任慶賀使を監督する。共に江戸城に登城し、将軍・家継に拝謁する。享保2年(1717年)、幕府の巡見使を領内に迎える。 享保3年(1718年)3月17日没。享年54。家督は嫡男・兼逵が相続した。.

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那珂川

那須野が原と那珂川及びその支流 写真下箒川が那珂川に合流し八溝山地鷲子(とりのこ)山塊と鶏足山塊の間を東折する。 那珂川を渡る東北自動車道と那須インターチェンジ。 那珂川(なかがわ)は、栃木県北部那須郡那須町の那須岳山麓を源とし同県東辺部を南に流れ、芳賀郡茂木町で東に向かい、茨城県を南東に流れてひたちなか市と東茨城郡大洗町の境界部で太平洋に注ぐ、一級水系那珂川の本流である。.

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那須資弥

那須 資弥(なす すけみつ)は、江戸時代前期の旗本・大名。那須氏24代当主。下野国烏山藩初代藩主。.

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那須資徳

那須 資徳(なす すけのり)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本・大名。下野国烏山藩2代藩主。 陸奥国弘前藩4代藩主・津軽信政の三男として誕生。天和3年(1683年)閏5月1日、母方の大叔父・那須資弥の養子となる。同年7月11日、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に御目見する。貞享4年(1687年)8月25日、資弥の死去により家督を相続するが、同年10月14日、改易となり、実父・津軽信政の許に預けられた。 元禄7年(1694年)閏5月から翌年3月にかけて、信政に従って弘前城に赴き、寺社参詣・湯治などをする 元禄13年(1700年)5月20日、信政の運動により旗本に取り立てられて、小普請に所属する。後に寄合に所属する。元禄14年(1701年)12月25日、下野那須郡内1000石を与えられた。宝永2年(1705年)6月3日、津軽家より合力米3000石を得る。宝永5年(1708年)4月5日、交代寄合となる。同年6月25日、死去、享年37。.

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肉筆浮世絵

肉筆浮世絵(にくひつうきよえ)とは、江戸時代に成立した浮世絵のジャンルのひとつ。通常、一般的に錦絵と呼ばれる浮世絵版画と区別して、浮世絵師が自らの筆で直接絵絹や紙に描いた浮世絵を指す美術用語である。形式上、肉筆浮世絵は屏風絵、絵巻、画帖、掛物絵、扇絵、絵馬、画稿、版下絵の8種類に分類される。また、ガラス絵、鏝絵、泥絵、凧絵なども含まれる。.

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蓬莱氏

蓬莱氏(ほうらいし)は伊勢神宮内宮の社家。伊勢国宇治中之切町(三重県伊勢市宇治中之切町)長之世古奧に屋敷を構え、蓬莱大夫と称して御師業を営み、会合年寄役、内宮権祢宜兼副物忌父を世襲した。なお、大物忌父(おおものいみのちち)とは子良(こら)と呼ばれる神官の童女を補佐する役職。.

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蓮蔵坊

蓮蔵坊 蓮蔵坊(れんぞうぼう)は、日蓮正宗総本山大石寺の塔中坊の一つ。古来、学頭が住職を務めることから、「学頭寮」、「学寮」ともよばれる。.

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蓮長寺 (佐渡市)

蓮長寺(れんちょうじ)は、新潟県佐渡市相川下寺町にある日蓮宗の寺院。山号は妙法山。旧本山は京都妙覚寺。境内には不受不施派六僧の一人日庭が配流居住した本敬寺があったという。.

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蓮根 (板橋区)

蓮根(はすね)は、東京都板橋区の町名『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1991年再版、P795 『いたばしの地名』板橋区教育委員会、1995年、P189-190。現行行政地名は蓮根一丁目から蓮根三丁目。住居表示実施済み。郵便番号は174-0046。.

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蓮浄院

蓮浄院(れんじょういん、? - 明和9年4月18日(1772年5月20日))は、江戸幕府第6代将軍徳川家宣の側室。名は須免。別称に二之御部屋、新典侍局。.

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脇坂安利 (旗本)

脇坂 安利(わきざか やすとし)は、江戸時代中期の旗本。.

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脇坂安照

脇坂 安照(わきさか やすてる)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩2代藩主。龍野藩脇坂家4代。.

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脇坂安親

脇坂 安親(わきさか やすちか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国龍野藩7代藩主。龍野藩脇坂家9代。.

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脇坂安村

脇坂 安村(わきざか やすむら)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。播磨国龍野藩の世嗣。.

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脇坂安清

脇坂 安清(わきさか やすずみ)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩3代藩主。龍野藩脇坂家5代。.

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脇町南町

脇町南町(うだつの町並み) 脇町南町(わきまちみなみまち)は徳島県美馬市脇町大字脇町にある。通称「うだつの町並み」ともよばれる。 とくしま88景・にし阿波お勧めビューポイント100選・都市景観100選・日本の道100選・美しい日本の歴史的風土100選に選定。阿波歴史文化道に指定。.

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醍醐冬熙

醍醐 冬熙(だいご ふゆひろ)は、江戸時代中期の公卿。主に東山天皇(113代)・中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の四帝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。初名は冬実(ふゆざね)・昭尹(あきただ)。一字名は召。号は後信性普明寺。.

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野村増右衛門

野村 増右衛門(のむら ますえもん)は、江戸時代中期の武士で桑名藩の久松松平家の家臣。.

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野村尚房

野村 尚房(のむら なおふさ)は江戸時代の歌人、国学者。備中鴨方藩郡奉行。備前国岡山在住。宣阿門下。湯浅常山の師。.

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野村立栄 (初代)

初代野村 立栄(のむら りゅうえい)は江戸時代の尾張藩の町医。美濃国高須藩出身。.

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野村騒動

野村騒動(のむらそうどう)は、江戸時代中期に伊勢桑名藩で起こったお家騒動である。.

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野津田町

野津田町(のづたまち)は、東京都町田市の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。郵便番号は195-0063。.

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重源

俊乗房重源上人坐像のレプリカ(大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財) 重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。.

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自身番

自身番(じしんばん)は、江戸時代に江戸や大坂などの町人地に設けられた番所。町内警備を主な役割とし、町人によって運営された。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれた。江戸町奉行所の出張所・町年寄が詰める江戸町会所の連絡所・町内事務所・町内会所・消防団詰所・交番の機能を兼ねた施設であった。ここに詰めた番人は番太と呼ばれた。.

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里村紹巴

里村紹巴像(東京国立博物館蔵) 里村 紹巴(さとむら じょうは、大永5年(1525年) - 慶長7年4月14日(1602年6月2日))は、戦国時代の連歌師。里村姓は後世の呼称であり、本姓は松井氏ともいわれる。号は臨江斎・宝珠庵。奈良の生れ。長男に里村玄仍、次男に里村玄仲、娘婿に里村昌叱。.

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釈奠

釈奠(せきてん/しゃくてん/さくてん・釋奠)とは、孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式のこと。儒祭(じゅさい)・孔子祭(こうしまつり)とも。 本来は学問・教育において広く先聖(学問の体系を生み出した偉大な先哲)・先師(学問の発展に貢献した有道有徳な先哲)を祀る儀式であったが、中国において儒教が国教として扱われるようになると、儒教における孔子などを祀る祭祀のことを特に釈奠と呼ぶようになった。.

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金井町 (町田市)

金井町(かないまち)は、東京都町田市の町名。丁番のない単独町名である。郵便番号は195-0071。.

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金光市左衛門

金光 市左衛門(かなみつ いちざえもん、寛文11年(1671年) - 享保12年3月19日(1727年5月9日))は、岡山藩士。金光清右衛門の子。 天和2年(1682年)1月15日御目見え。 元禄12年(1699年)11月18日、福山御拾地御帳御用を皮切りに御用拠御通役などの役目をこなし、宝永4年(1707年)10月13日、御小姓組・四十五俵四人扶持となる(四公六民の年貢の基準で言えば、110石程度の価値に相当)。 宝永7年(1710年)父・清右衛門死去のため家禄を相続(六十俵四人扶持・四公六民の年貢の基準で言えば、150石の価値に相当)し自身の禄は返上となる。正徳元年(1711年)12月11日から28日(命令は6月)にかけて、牛窓(岡山県瀬戸内市)にて朝鮮通信使の接待の役目(朝鮮人御用)をこなし、その功績により御料理を頂戴する。 正徳2年(1712年)より江戸詰めが多く、その間に正徳5年(1715年)主君・池田継政が伊達吉村の娘和子と婚約したため、結納祝儀進呈に仙台藩江戸屋敷に赴き役目を果たしたり、享保4年(1719年)9月8日に御蔵奉行なるなど各種役目・奉行を勤めた。 享保12年(1727年)3月18日、岡山藩江戸屋敷の侍長屋にて平井安兵衛(360石・大組組頭)が不意に斬りかかって来たため抜合となり、見事平井を仕留めたものの喧嘩両成敗とされ、翌3月19日夜切腹となる。 跡目は、養子の藤之丞が相続した。 いちさえもん Category:岡山藩士 Category:1671年生 Category:1727年没.

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金光清右衛門

金光 清右衛門(かなみつ せいえもん、寛永15年(1638年) - 宝永7年8月(1710年))は、岡山藩士。金光安兵衛の子、金光太郎右衛門は祖父、金光与次郎は兄に当たる。 寛文2年(1662年)2月22日に池田光政に仕官し、三十俵三人扶持で山田弥太郎(300石のち350石、徒頭・大目付などを歴任)の組下となる。 翌寛文3年(1663年)4月1日、江戸御蔵奉行申付となり江戸へ赴任となる。その後は、各種役目を歴任しつつ国許と江戸を往復する日々が続いた。 延宝2年(1674年)1月9日、九俵壱人扶持加増。同年6月、馬見所厩長屋横目付となる。延宝3年(1675年)2月4日、蔵奉行。 延宝3年4月9日、京都大火災によって焼失した御所の禁裏作事(再建工事)のため、京都にて石方横目付として御所再建に尽力した。延宝4年(1676年)4月16日から翌延宝5年(1677年)まで京都と江戸を往復する日々が続いた。 延宝6年(1678年)7月9日、江戸より岡山に帰国。7月27日小姓組・さらに禁裏作事の功績により四拾七俵四人扶持に加増。 延宝7年(1679年)10月3日、銀札(藩札)方御銀奉行となり、天和元年(1681年)10月29日まで務めた。 天和2年(1682年)7月21日から24日まで牛窓(現・瀬戸内市)で朝鮮通信使の接待(朝鮮人御用)に務めていたことが確認される。 貞享元年(1684年)3月25日より江戸と国元を往復する日々が続き各種御用・役目を務めた。 行年72。死去までに度重なる加増で六十俵四人扶持(四公六民の税率で考えると150石分の価値がある)までになっている。 跡目は、子の市左衛門が相続した。 せいえもん Category:岡山藩士 Category:1638年生 Category:1710年没.

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金銀糸

金糸と銀糸 金銀糸(きんぎんし)とは金糸(きんし)・銀糸(ぎんし)・ラメ糸などの総称である。.

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金森可寛

金森 可寛(かなもり よしひろ、元禄5年(1692年) - 享保13年2月3日(1728年3月13日))は、江戸時代前期の武士。飛騨高山藩、出羽上山藩、美濃郡上藩の嫡子。金森頼時の長男。子は頼錦(長男)。官位は従五位下長門守。 宝永4年(1707年)、徳川綱吉に拝謁し叙任する。本来であれば藩主の座を継ぐはずだったが、享保13年(1728年)父に先立ち37歳で死去した。代わって長男の頼錦が嫡子となり、藩主の座を継いだ。 よしひろ Category:郡上藩の人物 Category:上山藩の人物 Category:1692年生 Category:1728年没.

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蕎麦

蕎麦の提供例 蕎麦(そば)とは、穀物のソバの実を原料とする蕎麦粉を用いて加工した、日本の麺類、および、それを用いた料理である。今日、単に「蕎麦」と呼ぶ場合、通常は蕎麦切り(そばきり)を指す。中華そばなどと区別して日本蕎麦(にほんそば)とも呼ばれる。 歴史は古く、寿司、天ぷらと並ぶ代表的な日本料理である。この蕎麦の調味として作られる「つゆ(蕎麦汁)」は、地域によって色・濃さ・味になどに明らかな違いがあり、その成分も各地によって好みが分かれる。蕎麦を供する場合には皿(竹簾が敷かれている専用の蕎麦皿など)やざる(ざるそば用)、蕎麦蒸籠などが用いられる。蕎麦つゆを供する場合には徳利(蕎麦徳利)と猪口(蕎麦猪口)が用いられることが多い。また汁を張った丼に蕎麦をいれて供するものもある。蕎麦は専門店のみならず、外食チェーンなどのメニューにも載っており、小売店などでも麺が乾麺、生、または茹で麺の状態で販売され、カップ麺としても販売されている。.

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長坂用水

| 長坂用水(ながさかようすい)とは、加賀藩が金沢市野田山山麓の丘陵農地の灌漑を目的に、犀川の支流である内川の中流部左岸(金沢市小原町)を取水口として、 1671年(寛文11年)に完成させた水路(疏水)であり、 長坂用水土地改良区 が管理している。.

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長坂町

長坂町(ながさかちょう)は、山梨県北西部の北巨摩郡にあった町。 町内の三分一湧水、女取湧水が名水百選に「八ヶ岳南麓高原湧水群」として選定されている。 2004年(平成16年)11月1日に長坂町を含めた北巨摩郡7町村が合併、北杜市となった。.

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長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。 長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げる。しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去った。.

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長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.

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長崎くんち

長崎くんち(ながさきくんち)、長崎おくんちは、長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼である。10月7日から9日までの3日間催される。国の重要無形民俗文化財に指定されている(昭和54年指定、指定名称は「長崎くんちの奉納踊」)。 「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国・ベトナムなど南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としており、傘鉾、曳物(山車・壇尻)、太鼓山など、京都や堺の影響も窺える。 地元では一般的に「くんち」と呼ばれるが、お諏訪様(諏訪神社)への敬意を表し「おくんち」という人もいる。「くんち」には「宮日」「供日」という字があてられることがあるが、その名称は旧暦の重陽の節句にあたる9月9日(くにち、九州北部地方の方言で「くんち」)に行ったことに由来するという説が有力である。 博多おくんち(福岡県福岡市櫛田神社)、唐津くんち(佐賀県唐津市唐津神社)と並んで日本三大くんちと呼ばれる。.

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長崎ぶらぶら節

『長崎ぶらぶら節』(ながさきぶらぶらぶし)は長崎県長崎市に伝わる民謡。単に『ぶらぶら節』ともいう。 江戸時代の初期から明治初期にかけて長崎市内を中心に歌われた作者不詳のお座敷唄で、昭和初期にレコード化され全国に知られるようになり、長崎くんちの本踊に欠かせない長崎を代表する民謡となった。歌詞には長崎の風俗・風習・時事が歌い込まれ、時代とともに付け加られて、市井で生まれた多様な歌詞が伝承されている。 民謡を題材に小説家、作詞家のなかにし礼が1999年に同名の小説を発表。同作は同年の第122回直木賞を受賞し、後に映像・舞台化された。.

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長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

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長篠村

長篠村(ながしのむら)は、愛知県南設楽郡にかつて存在した村である。 豊川・宇連川沿いの地域を村の範囲とした。1889年(明治22年)に町村制施行により発足、1956年(昭和31年)に周辺の村と合併し鳳来町となって消滅した。直後に一部の地区は新城町(後の新城市)に編入されたが、2005年(平成17年)に鳳来町が新城市に編入されたため現在は全域が新城市の一部である。.

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長高連

長 高連(ちょう たかつら、元禄15年3月7日(1702年4月3日) - 享保20年3月24日(1735年4月16日))は、加賀藩年寄。加賀八家長家第5代当主。 父は長尚連の弟長連房。母は永原主税孝定の娘。正室は前田孝行の娘。子は長善連。幼名栄之助。通称又三郎、九郎左衛門。官位は従五位下、甲斐守。.

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長谷寺 (東京都港区)

長谷寺(ちょうこくじ)は、東京都港区西麻布二丁目にある曹洞宗の永平寺東京別院。山号は補陀山(ほださん)。本尊は釈迦牟尼佛。また、観音堂には十一面観世音菩薩(通称、麻布大観音)が奉安され、江戸三十三箇所観音霊場の第22番札所でもある。 禅の修行道場として僧堂がある。.

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長谷川雪朝

長谷川 雪朝(はせがわ せっちょう、生没年不詳)とは、江戸時代の絵師。.

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長興寺 (大分市)

長興寺(ちょうこうじ)は、大分県大分市松岡にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は松岡山(しょうこうざん)。.

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長野 (長野市)

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長野堰

長野堰(ながのぜき)は、群馬県高崎市中部に農業用水を供給する用水路である。.

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長陽堂安知

長陽堂 安知(ちょうようどう あんち、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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長沢資親

長沢 資親(ながさわ すけちか、長澤 資親とも、天和元年〈1681年〉 - 寛延3年5月22日〈1750年6月25日〉)は、高家旗本。公家外山光顕の次男。初名は博宣。通称は茂丸、要人。官位は従四位上左少将、壱岐守。家紋は鶴丸、子日松丸、五三桐。 元禄12年(1699年)閏9月15日将軍徳川綱吉に御目見する。蔵米300俵を賜り、寄合に所属する。同年11月9日小姓並に召しだされて、11月28日従五位下侍従・壱岐守に叙任する。後に従四位上にまで昇進し、左少将に任官する。また、蔵米を改めて武蔵入間郡600石を与えられる。宝永4年(1707年)1月9日相模愛甲郡内500石を加えられるなどして、家領は1400石となる。 宝永6年(1709年)2月11日、高家職に就く。享保14年(1729年)3月28日高家肝煎となる。延享4年(1747年)11月22日と寛延元年(1748年)12月10日の二度にわたって病気を理由に辞職を願うものの、許可されなかった。寛延3年(1750年)5月22日死去、70歳 法名日明。 正室は酒井重英の養女。長男資祐、娘(松下之郷妻)の一男一女あり。 Category:江戸幕府旗本 Category:外山家 Category:1681年生 Category:1750年没.

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長沢楽浪

長沢 楽浪(ながさわ らくろう)は、下野宇都宮藩の藩士。 下総佐倉藩200石の藩士である長沢粋庵の次男。元禄14年(1701年)に戸田忠真の越後高田藩移封に従い移住する。だが宝永4年(1707年)、疱瘡が原因で9歳で失明した。宝永7年(1710年)に忠真が宇都宮藩に移封されると、それに従って移住した。翌年から江戸に出て勉学に励み、享保4年(1719年)に朝鮮通信使が来日したときには使節と詩文を交わしたり対話したという。 寛延2年(1749年)に戸田忠余が肥前島原藩に移封されると、それに従う。この頃には20人扶持となっていた。安永3年(1774年)に戸田忠寛が宇都宮に移封されると、それに従って宇都宮に移住。5年後に宇都宮城内の武家屋敷で死去した。享年81。 朝鮮語が堪能な文化人であり、著書にも「経史」・「詩文篇王道内外編」・「論語俗界」など多数ある。.

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長湯温泉

長湯温泉(ながゆおんせん)は、大分県竹田市直入町(旧国豊後国)にある温泉である。炭酸濃度、湧出量、温度から「世界屈指の炭酸泉」、「日本有数の炭酸泉」 環境省、2015年5月とされ、その効能(飲泉含む)で知られている。.

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蕉門十哲

蕉門十哲(しょうもんじってつ)は、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。蕉門の十哲とも。 蕉門十哲とされるのは以下の10人である。; 宝井其角(たからい きかく); 服部嵐雪(はっとり らんせつ); 森川許六(もりかわ きょりく); 向井去来(むかい きょらい); 各務支考(かがみ しこう); 内藤丈草(ないとう じょうそう); 杉山杉風(すぎやま さんぷう); 立花北枝(たちばな ほくし); 志太野坡(しだ やば); 越智越人(おち えつじん) 杉風・北枝・野坡・越人の代わりに以下の4人を加える説もある。; 河合曾良(かわい そら); 広瀬惟然(ひろせ いねん); 服部土芳(はっとり とほう); 天野桃隣(あまの とうりん) 他に、以下のような説もある。.

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酒垂神社 (豊岡市)

境内 酒垂神社(さかたれじんじゃ)は、兵庫県豊岡市法花寺(ほっけいじ)に鎮座する神社。式内社で旧社格は村社。 円山川の支流である鎌谷川が形成した谷の平坦部東端、京都府京丹後市久美浜町へ通じる峠の口に位置し、境内は同府京都市右京区高雄から紅葉を移植し、社前を流れる鎌谷川を高雄の清滝川に見立てており、紅葉の名所として知られている『兵庫県大百科事典』。『式内社調査報告』。。本殿は国の重要文化財。.

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酒屋

酒屋(さかや)は、酒を醸造し、販売する業者である。.

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酒井忠寄

酒井 忠寄(さかい ただより)は、江戸時代中期の出羽庄内藩の第5代藩主。左衛門尉酒井家第7代当主。老中。官位は従四位下、摂津守、左衛門尉、侍従。正室は前田綱紀の養女(浅野吉長の娘)。.

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酒井忠告

酒井 忠告(さかい ただつぐ)は、江戸時代中期の大名。上野伊勢崎藩の第2代藩主。雅楽頭系酒井家支流2代。 元禄2年(1689年)12月28日、遠江横須賀藩主・西尾忠成の五男として横須賀に生まれる。元禄16年(1703年)に酒井忠寛が嗣子無くして死去したため、養子として宝永元年(1704年)に跡を継いだ。宝永4年(1707年)に叙任し、延享4年(1747年)6月に大坂定番となる。宝暦元年(1751年)には奏者番となるが、宝暦8年(1758年)6月に辞職する。宝暦13年(1763年)6月27日、嫡男の忠儔が早世していたため、養子の忠温に家督を譲って隠居し、明和4年(1767年)7月19日に死去した。享年79。 たたつく たたつく 酒22 Category:1690年生 Category:1767年没.

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酒井忠囿

酒井 忠囿(さかい ただその)は、若狭小浜藩の第4代藩主。小浜藩酒井家5代。 第3代藩主酒井忠隆の長男。貞享3年(1686年)、父の死去により家督を継いだ。元禄10年(1697年)、病気のため辞退した水野勝種に替わって、美作津山藩主森長成が徐封となった津山城の受け取りを、松平直明と共に務める。宝永3年(1706年)9月8日、嗣子無くして小浜で死去した。享年37。このため、分家の敦賀藩から忠音を養嗣子に迎えて家督を継がせた。.

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酒井忠稠

酒井 忠稠(さかい ただしげ)は、越前敦賀藩の初代藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家初代。若狭小浜藩の第2代藩主・酒井忠直の次男。 承応2年(1653年)3月30日、江戸竜の口の小浜藩邸で生まれる。 天和2年(1682年)9月29日、父・忠直の死去で1万石を分与され、小浜藩の支藩である敦賀藩を立藩した。その後は大番頭などを歴任している。 宝永3年(1706年)6月3日、54歳で死去し、跡を子の忠菊が継いだ。 *01 たたしけ Category:小浜藩の人物 Category:1653年生 Category:1706年没.

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酒井忠真

酒井 忠真(さかい ただざね)は、江戸時代前期の出羽庄内藩の第4代藩主。左衛門尉酒井家6代当主。酒井忠義の長男、母は松平輝綱の娘。幼名は小五郎。従四位下、左衛門尉。.

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酒井忠相

酒井 忠相(さかい ただみ)は、上野前橋藩の第6代藩主。雅楽頭系酒井家宗家6代。.

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酒井忠音

酒井 忠音(さかい ただおと、元禄4年10月20日(1691年12月9日) - 享保20年5月18日(1735年7月8日)は、江戸時代中期の若狭小浜藩第5代藩主。老中。小浜藩酒井家6代。.

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酒井忠菊

酒井 忠菊(さかい ただきく、延宝7年9月23日(1679年10月27日) - 享保7年2月6日(1722年3月22日))は、越前敦賀藩の第2代藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家2代。初代藩主・酒井忠稠の長男。母は土井利房の娘。正室は堀田正休の娘。継室は青山忠重の娘。子に酒井親本(長男)、酒井忠武(三男)、酒井忠恭(四男)、酒井忠敬(七男)、酒井忠香(八男)。官位は従五位下、飛騨守。 宝永3年(1706年)、父の死去で家督を継ぐ。正徳4年(1714年)3月、大番頭となる。享保7年(1722年)2月6日に44歳で死去し、跡を三男の忠武が継いだ。 *02 たたきく Category:1679年生 Category:1722年没.

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酒井忠辰

酒井 忠辰(さかい ただとき、元禄13年6月29日(1700年8月13日) - 宝永6年1月19日(1709年2月28日))は、出羽庄内藩第4代藩主・左衛門尉酒井家6代当主の酒井忠真の長男。通称、小五郎。 忠真唯一の男子だったが、夭折した。忠真には他に男子がなく、支藩・松山藩から忠寄を養子に迎えた。 たたとき Category:庄内藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1700年生 Category:1709年没.

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酒井忠胤

酒井 忠胤(さかい ただたね)は、安房勝山藩の第2代藩主。初代藩主・酒井忠国の長男。 天和3年(1683年)、父の死去により後を継ぐ。このとき、弟の忠成に3000石を分与した。宝永6年(1709年)3月に叙任する。正徳2年(1712年)7月20日、34歳で死去し、跡を長男の忠篤が継いだ。 たたたね Category:安房勝山藩主 Category:1679年生 Category:1712年没.

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酒井忠能

酒井 忠能(さかい ただよし)は、江戸時代前期の大名。上野伊勢崎藩(那波藩)主、後に信濃小諸藩主を経て、駿河田中藩主となる。4代将軍・徳川家綱時代に大老を務めた酒井忠清の弟塩川『シリーズ藩物語 小諸藩』、P127に当たる。.

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酒井忠恭

酒井 忠恭(さかい ただずみ)は、江戸時代中期の大名、老中首座。上野前橋藩第9代藩主。のち播磨姫路藩初代藩主。雅楽頭系酒井家宗家9代。.

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酒井忠武

酒井 忠武(さかい ただたけ、1709年2月3日(宝永5年12月24日) - 1731年9月21日(享保16年8月21日))は、越前敦賀藩の第3代藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家3代。第2代藩主・酒井忠菊の三男。母は堀田正休の娘。官位は従五位下。右京亮。 正徳5年(1715年)、忠菊の嫡子となって将軍・徳川吉宗に御目見した。享保7年(1722年)、父の死により家督を継いだが、翌年の自邸での失火を理由に出仕を停止させられた。嗣子無くして享保16年(1731年)8月21日、24歳で死去した。法号は一運元利天梁院。家督は弟の忠香が継いだ。 *03 たたたけ Category:1709年生 Category:1731年没.

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酒井忠挙

酒井 忠挙(さかい ただたか)は、江戸時代前期の譜代大名。上野厩橋藩(前橋藩)の第5代藩主。雅楽頭系酒井家宗家5代。第4代将軍・徳川家綱時代に大老を務めた酒井忠清の長男。正室は筑前福岡藩主・黒田光之の娘、筑姫。幕府役職は奏者番兼寺社奉行、後に大留守居。第8代将軍・徳川吉宗の政権下では政治顧問として老中並に重用された。号は咸休子。.

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酒井親本

酒井 親本(さかい ちかもと)は、上野前橋藩の第8代藩主。雅楽頭系酒井家宗家8代。.

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酒井親愛

酒井 親愛(さかい ちかよし)は、上野前橋藩の第7代藩主。雅楽頭系酒井家宗家7代。.

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酒井重喬

酒井 重喬(さかい しげたか)は、出羽庄内藩一門家老。酒井吉之允(玄蕃)家第5代。.

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酒井重盈

酒井 重盈(さかい しげみつ、慶安4年(1651年) - 宝永3年6月20日(1706年7月29日))は、江戸時代の出羽庄内藩の家老、番頭、組頭。酒井家次の曾孫。幼名は松千代。通称は吉之丞。.

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酒井重頼

酒井 重頼(さかい しげより)は、江戸時代の武士。出羽庄内藩組頭。酒井吉之允(玄蕃)家第6代。.

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酒株

酒株(さけかぶ)とは、日本の江戸幕府が酒造統制の基本政策として行った、醸造業の免許制の1つ。酒造株ともいう。 酒株そのものは、将棋の駒の形をした木製の鑑札である。表に酒造人の名前と住所、そして酒造石高が書かれ、裏には「御勘定所」と書かれ、焼印が押してあった。 これが、酒株または酒造株と呼ばれるものであるが、日本史の中で「酒株」というときには、この酒株をとりまく制度全般を酒株もしくは酒株制度と呼ぶようになった。 明暦3年(1657年)、幕府は初めて酒株を発行し、これを持っていない者には酒造りを禁じるとともに、それぞれの酒造人が酒造で消費できる米の量の上限を定めた。これを以て酒株制度の始まりとする。.

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酒泉竹軒

酒泉 竹軒(さかいずみ ちくけん)は江戸時代の儒学者。筑前国福岡出身。水戸藩彰考館総裁。酒泉氏始祖。『大日本史』編纂者の一人。書道、篆刻、中国語にも通じた。.

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鉦叩

撞木。 鉦叩(かねたたき)は、中世・近世(12世紀 - 19世紀)の日本に存在した民俗芸能、大道芸の一種であり、およびそれを行う者である''鉦叩''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月22日閲覧。''鉦叩き''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月22日閲覧。''鉦たたき''、世界大百科事典 第2版、コトバンク、2012年8月22日閲覧。。鉦叩き、鉦たたき、金タタキとも表記する脇田、p.68, p.161-162.

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鉄心道胖

鉄心道胖(てつしんどうはん、寛永18年10月24日(1641年11月26日) - 宝永7年10月3日(1710年11月23日))は、江戸時代の僧侶(黄檗宗)。俗姓西村氏。 長崎出身。父は唐人の陳朴純、母は地元の商家西村家の娘。異父兄に唐通事の西村七兵衛がある。幼時より隠元の弟子木庵に学び、1661年(寛文元年)より師に従い京都萬福寺において修行した。 1677年(延宝4年)、既に名僧の誉れ高かった鉄心のために母の実家西村家や当時の長崎奉行、在崎唐人等の支援により聖福寺が建立され、同寺の開山として迎えられた。その後は1705年(宝永2年)から4年間、江戸白金の瑞聖寺の住持を務めたほかは同寺にあり、堂宇の整備などにつとめた。 とうはん とうはん Category:肥前国の人物 Category:1641年生 Category:1710年没.

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若宮八幡宮 (常陸太田市)

若宮八幡宮(わかみや はちまんぐう)は茨城県常陸太田市にある神社。旧社格は郷社。.

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若狭国分寺

若狭国分寺(わかさこくぶんじ)は、福井県小浜市国分にある曹洞宗の寺院。山号は護国山。本尊は釈迦如来。 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、若狭国国分僧寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、古代寺院跡である若狭国分寺跡(国の史跡)についても解説する。.

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若林 (松原市)

若林(わかばやし)は、大阪府松原市の地名。一丁目・二丁目があり郵便番号は580-0001。平成6年(1994年)に住居表示を実施。 松原市の北東部、大和川に接する古くからの住宅地。遠里小野などと同様、大和川の付け替えにより旧村域が分断された歴史を持つ。.

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英一蝶

雷神(もしくは落雷図。絹本着色) 英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、のちに信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(いさぶろう)、次右衛門(じえもん)、助之進(すけのしん。もしくは、助之丞[すけのじょう])。剃髪後に多賀朝湖(たが ちょうこ)と名乗るようになった。俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂(きょううんどう)、夕寥(せきりょう)。 名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。なお、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。.

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雲林院

雲林院門前 紫野雲林院町から撮影 雲林院境内に残る観音堂 雲林院(うんりんいん、うりんいん)は、京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡でもある。なまって「うじい」とも呼ばれた。.

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零羊崎神社 (石巻市湊)

零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)は、宮城県石巻市湊にある神社。式内社(名神大社)論社で、旧社格は県社。 北上川の左岸、標高約250mの牧山の頂上に鎮座している。.

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雄嶽日枝神社

嶽日枝神社(おたけひえじんじゃ)は、長崎県新上五島町荒川郷に鎮座する神社である。同郷の山王山(標高439.2m)山頂に上社山王宮が、南麓に下社が鎮座する。.

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進士氏

進士氏(しんじし、しんしし、にいがたし)は、日本の氏族のひとつ。.

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進藤長之

進藤 長之(しんどう ながゆき)は、江戸時代前期から中期の青侍。近衛家諸大夫を務めた。 青侍の進藤長昌(輪王寺宮守澄法親王の家臣)の次男として生まれる。父・長昌の母は大石良勝の娘。長昌の跡は長男の泰通が継いだため、長之は親族で近衛家家臣の進藤長房の養子に入った。その後、近衛基煕・家煕・家久の三代にわたって近衛家に仕えた。摂関近衛家の諸大夫であるため天皇よりしばしば官位を下され、延宝8年(1680年)には正六位下修理大進に叙任し、修理亮任官をへて、元禄14年(1701年)には正五位下刑部大輔に補された。 元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件のあった同年3月には、勅使の柳原資廉、高野保春らにお供して江戸へ下向していた。事件の後、京都へ戻った長之は、主の近衛基煕に経緯を報告し、さらに基煕から東山天皇に報告された。『近衛基煕日記』では基煕も天皇もこの事態を喜んでいるような反応を示している。 長之は赤穂城開城後に親族の赤穂藩士進藤俊式や大石良雄を、管理していた近衛家領の山科へ迎え入れた。なお、良雄が江戸に下向する際に金の無心をすると断っており、後で仇討ちのためだったと知ると、金を貸さなかったことを後悔したという逸話が伝わっている。 元禄16年(1703年)に従四位下。宝永5年(1708年)に従四位上。さらに享保元年(1716年)には正四位下となる。享保10年(1725年)に隠居して落飾し、鴨河西涯三本木に移った。 享保12年(1727年)に死去し、浄華院に葬られた。享年63。 Category:江戸時代の青侍 Category:赤穂事件関係人物 Category:1666年生 Category:1727年没.

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逸見元長

逸見 元長(へんみ もとます)は、江戸時代中期の旗本寄合。新発田藩溝口氏から分家して幕臣となるが、幕府からではなく代々本家の新発田藩より蔵米を給される内分分家であった。.

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陰徳太平記

『陰徳太平記』(いんとくたいへいき)は享保2年(1717年)に出版された日本の古典文学書の1つである。.

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陶器藩

陶器藩(とうきはん)は、和泉国大鳥郡北村(現在の大阪府堺市中区陶器北)に存在した藩。.

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陸奥のみち、肥薩のみちほか

* 『陸奥のみち、肥薩のみちほか』(むつのみち、ひさつのみちほか)は、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の第3巻。 「週刊朝日」の1972年2月11日号から1972年9月29日号に連載された。 上代より中央からの独立性が強かった2つの地域、奥州と九州南部を旅した。この2つの地域は米作という面では対照的な地域であり、そのことの歴史や思想への影響について語られている。最後に司馬が居住する河内地方での数度にわたる旅について書かれている。.

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陽明文庫蔵近衛基熙筆源氏物語

陽明文庫蔵近衛基熙筆源氏物語(ようめいぶんこぞうこのえもとひろひつげんじものがたり)は、源氏物語の写本。現在陽明文庫に所蔵されている近衛基熙による書写本であることからこのように呼ばれる。.

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折平町

折平町(おりだいらちょう)は、愛知県豊田市の町名。.

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柏崎市

柏崎市(かしわざきし)は、新潟県の中越地方西端にある日本海に面した市。.

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柳原資廉

柳原 資廉(やなぎわら すけかど)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿。権大納言・柳原資行の次男。官位は従一位。柳原家12代当主。.

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柳窪 (東久留米市)

柳窪(やなぎくぼ)は、東京都東久留米市の西端に位置する町名である。柳窪一丁目から柳窪五丁目まである。柳久保とも表記する。住民基本台帳に基づく2017年(平成29年)4月1日現在の人口は5,412人、2013年(平成25年)1月1日現在の面積は0.89km2。郵便番号は203-0044。 東久留米市内を流れる黒目川の源流域の柳窪には、江戸時代末期から昭和初期までに建築された伝統的な造りの大・中型民家、白壁の土蔵群、古民家を取り囲むヒイラギの生垣、ケヤキ・カシなどの高木・巨木がそびえ立つ屋敷林が見られ、周辺の畑地と併せて、江戸時代の武蔵野の農村集落の面影を今に残している。黒目川源流域に沿った一帯1.3592ヘクタールは東京都が管理する「柳窪緑地保全地域」に指定されている。.

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柳生宗盈

柳生 宗盈(やぎゅう むねみつ、元禄5年(1692年) - ?)は、大和柳生藩の世嗣。和泉国岸和田藩主・岡部長泰の五男。通称、帯刀。宗重とも名乗る。 子がなかった柳生藩主・柳生俊方の養子となり、宝永2年(1705年)に徳川綱吉に拝謁する。しかし、宝永5年(1708年)に廃嫡された。代わって、因幡国鹿奴藩から矩美が養子に迎えられ、嫡子となった。 むねみつ Category:岡部氏 Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:岸和田藩の人物 Category:柳生藩の人物 Category:1692年生 Category:没年不明.

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柳生久寿

柳生 久寿(やぎゅう ひさとし、元禄9年(1696年) - 天明元年7月19日(1781年9月7日))は、江戸時代の旗本。剣術家。柳生久辰(村田十郎右衛門久辰)の長男。はじめ村田伊十郎(猪十郎)といった。通称、主水。官位、従五位下、播磨守。子に長男柳生久隆、二男高尾孫兵衛信喜(旗本800石)、三男美濃部内膳茂孫(旗本510石) 。 宝永5年(1708年)、将軍徳川綱吉に拝謁し、後継者の徳川家宣に配属されて西の丸小姓となり、300石を賜わる。 宝永6年(1709年)、家宣が6代将軍に就任し本丸へ移るに伴い、将軍付属の小姓となる。 正徳2年(1712年)、剣術の師匠に当たる大和柳生藩主柳生俊方より柳生姓を名乗ることを許され、村田を改め柳生を称した。従五位下播磨守に叙任され、子孫は旗本となった。その後、10代将軍徳川家治の剣術指南を務めた。 ひさとし Category:江戸幕府旗本 Category:江戸時代の剣客 Category:1696年生 Category:1781年没.

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柳生矩美

柳生 矩美(やぎゅう のりよし、宝永2年(1705年)- 享保6年6月24日(1721年7月18日))は、大和柳生藩の世嗣。因幡国鹿奴藩主・池田仲澄の五男。通称、隼人。 柳生藩主・柳生俊方の養子となっていた宗盈が廃嫡された後、新たな養子に迎えられる。享保2年(1717年)徳川吉宗に拝謁するが、享保6年(1721年)に家督を相続することなく早世した。代わって、伊勢国桑名藩から俊平が養子に迎えられ、嫡子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 のりよし Category:美濃池田氏 Category:柳生藩の人物 Category:1705年生 Category:1721年没.

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柳町 (仙台市)

柳町(やなぎまち)は、日本の宮城県仙台市青葉区に位置した町である。伊達氏に従って米沢から岩出山に、次いで仙台に移転し、仙台の中でさらに一度移転して現在地に落ち着いた。6つの御譜代町の一つで、24の町人町の中では5位につけたが、江戸時代から現在まで豪商や大店舗を見ない庶民的な商工業地である。1970年の住居表示で一番町一丁目に属して地図から消えたが、町内会が柳町でまとまり、街路に歴史的町名の表示がなされ、存在感を残している。2008年現在の世帯数は610。.

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柳沢吉保

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。.

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柳沢吉里

柳沢 吉里(やなぎさわ よしさと)は、江戸時代中期の大名で、甲斐甲府藩の第2代藩主、後に大和郡山藩の初代藩主となる。郡山藩柳沢家2代。.

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柳沢保経

柳沢保経(やなぎさわ やすつね、宝永3年7月26日(1706年9月2日) - 宝暦10年6月6日(1760年7月18日))は、越後三日市藩の2代藩主。側用人として有名な柳沢吉保の七男。母は側室上月氏。子は柳沢信著(長男)、柳沢信始(次男)、娘(米倉昌晴正室)、娘(日野資直室)。官位は従五位下、弾正少弼。幼名は頼母、図書。宝永7年(1710年)6月22日生まれとする説もある。 享保9年(1724年)、隠居した兄・時睦の跡を継いで三日市藩主に就任する。元文元年(1736年)、松平姓は一代限りという約定であったので、改めて柳沢姓を称す。江戸城警備、大坂・駿府両加番、日光祭礼奉行などを歴任した。宝暦10年(1760年)に死去し、跡を長男・信著が継いだ。 やすつね やすつね Category:1706年生 Category:1760年没.

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柳沢信孝

柳沢 信孝(やなぎさわ のぶたか、元禄4年(1691年)‐元文4年2月16日(1739年3月25日))は、江戸幕府旗本。柳沢信尹の長男。母は横山刑部左衛門の娘。通称は武次郎のち兵庫、八郎右衛門、右近。子に、娘(小宮山昌雄、妻)らがいる。妻は、浅野長恒の娘。後妻は、岡部定長の娘。 男子が皆、早世したため致仕後に養子の信武が家督を継いだ。.

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柳沢信尹

柳沢 信尹(やなぎさわ のぶただ、万治2年(1659年)‐享保9年7月15日(1724年9月2日))は、江戸幕府旗本。官位は従五位下。柳沢吉次の養子。旗本山高信吉の次男。実母は柳沢安忠の娘。通称は助九郎のち八郎右衛門、豊後守、備後守。妻は、横山刑部左衛門の娘。後妻は、山高信澄の娘。 子に柳沢信孝、酒井忠道(酒井忠成・養子)、娘(赤井盤公・養女)、娘(大久保忠香・養女)、娘(武田(川窪)信安・養女)、娘(兄信孝・養女)、娘(山高信蔵のち植村泰郡・妻)、娘(神保定興・妻)ら7男9女がいる。 宝永6年(1709年)、日本に密入国したイタリア人宣教師のシドッチが江戸・小石川の切支丹屋敷に収監されると、当時宗門改役を務めていた信尹は儒者の新井白石らと共に彼の取調べを行った。 信尹の死後、長男の信孝が家督を継いだ。 なお、5代将軍徳川綱吉の元で側用人として活躍した柳沢吉保は、叔父(母方)にあたる。.

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柳沢信武

柳沢 信武(やなぎさわ のぶたけ、宝永3年(1706年)‐宝暦7年7月6日(1757年8月20日))は、江戸幕府旗本。旗本大久保忠位の3男。母は高木守勝の娘。柳沢信孝の養子。通称は忠武、忠甫、忠宜、千十郎、傳之助、左膳、八郎右衛門。 子に、娘(末高信門のち松平房熟妻)、娘(大久保忠篤のち保々貞丈妻)らがいる。妻は、信孝の養女(信孝の父信尹の娘)。 男子が皆、早世したため致仕後に養子の信門が家督を継いだ。.

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柳沢経隆

柳沢 経隆(やなぎさわ つねたか、元禄7年11月16日(1695年1月1日) - 享保10年8月23日(1725年9月29日))は、甲斐甲府新田藩主、のち越後黒川藩の初代藩主。側用人として有名な柳沢吉保の四男。母は側室正親町町子(田中氏とも)。正室は大納言正親町実豊の娘・直子。官位は従五位下、刑部少輔。 江戸神田橋邸にて生まれる。幼名は安通、伊織。元禄8年(1695年)6月19日、将軍徳川綱吉の命令を受けて横手姓に改姓した。その後の元禄14年(1701年)11月26日、松平姓を名乗ることを許される。宝永6年(1709年)6月3日、父より1万石を分与されて甲府新田藩主となった。宝永7年(1710年)4月7日に元服する。 享保9年(1724年)閏4月28日、甲斐から越後黒川に移封されたが、翌年8月23日に32歳の若さで死去した。子がなく、跡を養嗣子の里済が継いだ。法号は実山勝義天休院。墓所は東京都新宿区市ヶ谷河田町の正覚山月桂寺。 つねたか Category:甲斐国の藩主 つねたか Category:1695年生 Category:1725年没.

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柳沢里済

柳沢 里済(やなぎさわ さとずみ、宝永6年(1709年) - 享保20年11月2日(1735年12月15日))は、越後黒川藩の第2代藩主。大和郡山藩士・柳沢保教(柳沢吉保の姉婿である柳沢信花の養子)の五男。母は田中氏。官位は従五位下、刑部少輔、伊勢守。名は里住とも。 享保10年(1725年)、先代藩主の経隆が早世したため、その養嗣子として跡を継ぎ、同年12月18日に叙任する。大坂加番や日光祭礼奉行を務めるなどしたが、養父同様に享保20年(1735年)11月2日、27歳の若さで江戸牛込の藩邸にて死去した。跡を養嗣子の里旭が継いだ。なお、里済の代から松平姓を改めて柳沢姓を称することを命じられている。法号は鷲峰院一枝道華。墓所は東京都新宿区市ヶ谷河田町の正覚山月桂寺。 さとすみ さとすみ Category:1709年生 Category:1735年没.

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柳沢氏

柳沢氏(やなぎさわし)は、日本の氏族。武士の家系。甲斐武田氏の遺臣で、近世には柳沢吉保(房安、保明)が将軍徳川綱吉に仕え、甲府城主15万1200石となる。.

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柳沢淇園

柳沢 淇園(やなぎさわ きえん、元禄16年7月18日(1703年8月30日) - 宝暦8年9月5日(1758年10月6日))は、江戸時代中期の武士、文人画家、漢詩人。服部南郭、祇園南海、彭城百川らとともに日本文人画の先駆とされる。 幼名は権之助、名ははじめ貞貴、元服後は里恭(さととも)と名乗る。後に中国風に修して柳里恭(りゅうりきょう)と名乗ることを好んだ。代々権太夫と称し、字は広美(こうび)もしくは公美、淇園と号し、ほかに竹渓、玉桂の別号がある。よく知られた淇園の号は、40歳頃から使用したと推測される。.

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柳沢時睦

柳沢時睦(やなぎさわ ときちか、元禄9年6月12日(1696年7月10日) - 寛延3年4月24日(1750年5月29日))は、甲斐甲府新田藩主、のち越後三日市藩の初代藩主。将軍綱吉のいわゆる「側用人」で甲斐甲府藩主である柳沢吉保の五男。母は吉保側室の正親町町子(田中氏)。兄弟に経隆ほかがいる。官位は従五位下、式部少輔。幼名は左門。 誕生の年、将軍徳川綱吉の柳沢邸御成の時に御目見し、元禄14年(1701年)に松平姓を名乗ることを許される。宝永6年(1709年)、経隆とともに吉保から甲斐山梨郡・八代郡内に1万石を分地されて帝鑑間詰の甲府新田藩主となった。享保9年(1724年)、柳沢氏の大和郡山転封に伴い、時睦も越後三日市に移封される。まもなく藩主を弟の保経に譲って隠居した。寛延3年(1750年)に死去した。 ときちか Category:譜代大名 Category:甲斐国の藩主 ときちか Category:1696年生 Category:1750年没.

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柳沢時附

柳沢 時附(やなぎさわ ときます、生年不詳‐寛保1年10月13日(1741年11月20日))は、江戸幕府旗本。旗本山高信吉の4男。母は柳沢安忠の娘。柳沢時憲の養子。通称は信尚、熊之助、弥一郎、源七郎。号は遊澤。妻は、伴政継の娘。 時憲には男子がいなかったため致仕後、娘婿の安弘が家督を継いだ。.

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柳本藩

柳本藩(やなぎもとはん)は、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡を領有した藩。藩庁は柳本陣屋(現在の奈良県天理市柳本町黒塚古墳)。なお、藩庁は陣屋であるが、家格は城主格大名であった。.

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柳本陣屋

柳本陣屋(やなぎもとじんや)は、大和国式上郡(現 奈良県天理市柳本町)にあった陣屋で、柳本藩の藩庁である。.

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柴任三左衛門

柴任 三左衛門(しばとう さんざえもん、寛永3年(1626年)- 宝永7年閏8月20日(1710年10月12日))は、江戸時代前期の武士、剣豪、兵法家。剣豪宮本武蔵の二天一流兵法第3代師範で、武蔵の兵法と『五輪書』を肥後国を出て江戸、筑前国、播磨国などへ伝えた。柴任が福岡黒田藩に伝えた武蔵の逸話は、後に最古の武蔵伝記『武州伝来記』として著されることとなった。 本姓本庄、改姓して柴任三左衛門、後に助右衛門、諱は重斎、秀正、美矩、最後は重矩、号は固学道随、また一鑑道随。.

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枝廣直幹

枝廣 直幹(えだひろ なおき、1955年9月29日 - )は日本の政治家、財務官僚。第13代福山市長。 石川県総務部長、財務省主計局主計官、内閣官房内閣審議官、財務省近畿財務局長等を歴任。.

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林忠四郎

林 忠四郎(はやし ちゅうしろう、1920年(大正9年)7月25日 - 2010年(平成22年)2月28日)は、日本の宇宙物理学者2010年3月1日 アストロアーツ、産経ニュース,、2010.3.1 12:16、京都新聞, 2010年03月01日 12時43分、稲盛財団ニュース, No.71.

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林光寺 (鈴鹿市)

林光寺(りんこうじ)は、三重県鈴鹿市にある、真言宗智山派の仏教寺院。山号は 金井山(かないざん)。本尊は千手観世音菩薩。.

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林玄悦門入

林玄悦門入(はやし げんえつもんにゅう、1678年(延宝6年) - 1719年12月27日(享保4年11月17日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元林家の三世林門入。二世林門入の長子で、幼名は長太郎、五段。退隠後に玄悦を名乗る。 8歳の時に父門入が病死したが、父が生前に長太郎に林家を相続させることを本因坊道策に託していて、道策は長太郎12歳時に門入を名乗らせて家督相続させた。道策の門人により指導を受け、18歳の時に初段となって、御城碁初出仕。道策死後はその遺命により井上道節因碩が教授したが生来の病弱もあって進境芳しくなく、因碩は他家と協議し、道策の門人片岡因的を養子因竹として跡目とさせた。門入は御城碁では1704年(宝永元年)まで7局を勤め、1707年(宝永4年)には玄悦と改めて退隠し、因竹を四世門入として家督を継がせた。玄悦はその後五段まで進むが、42歳で死去。法名は幽譽玄悦居士、浅草誓願寺快楽院に葬られた。.

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林門利門入

林門利門入(はやし もんりもんにゅう、1707年〔宝永4年〕 - 1746年3月20日〔延享3年1月29日〕)は、江戸時代の囲碁棋士で、家元林家六世林門入。元の名は岡田門利。常陸国出身、五世林因長門入門下、七段上手。七世井上春達因碩は甥にあたる。 1736年(元文元年)に因長門入の跡目となり、同年より御城碁に出仕。1743年(寛保3年)に因長が碁所を断念して隠居し、門利が家督を継いで六世林門入となり、七段昇段。御城碁は6局を勤め、因長の没した翌1746年(延享3年)死去。法名は到岸悟入信士。死後は実子の轉入が林家を継いだ。.

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林永喜

林 永喜(はやし えいき)は江戸時代初期の儒学者、歌人。兄林羅山と江戸幕府に仕え、初期の幕政に参画した。.

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林朴入門入

林 朴入門入(はやし ぼくにゅうもんにゅう、1670年(寛文10年) - 1740年8月21日(元文5年7月29日))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元林家の四世林門入、七段。本因坊道策門下、元の名は片岡因的、林家跡目となって林因竹。隠居後に朴入を名乗り、後世には朴入門入と呼ばれる。.

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掛川藩

掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。.

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恩赦

恩赦(英:Pardon、おんしゃ)とは、行政権(又は議会)により国家の刑罰権の全部又は一部を消滅若しくは軽減させる制度のことを言う。赦免復権とも。 現在はその権限が行政機関に帰属する例が多いが、フランスなどのように議会(立法機関)に一般的な恩赦の権能を与え、行政機関に個別的な恩赦の権能を与える仕組みになっていることもある。現在、共和制・君主制、大統領制・議院内閣制の政体の差に関係なく、多くの国で行われているhttp://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20170309/frn1703091130003-n1.htm。.

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恵林寺

恵林寺(えりんじ)は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院。山号は乾徳山(けんとくさん)。臨済宗妙心寺派に属する寺院である。甲斐武田氏の菩提寺として知られる。.

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材木問屋

材木問屋(ざいもくどいや/ざいもくどんや)は、木材を扱う問屋。近代以後には木材問屋(もくざいどんや)という名称も用いられている。.

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杭全神社

拝殿 杭全神社(くまたじんじゃ)は、大阪市平野区平野宮町にある神社。旧社格は府社。.

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東南海地震

東南海地震(とうなんかいじしん)は、紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海トラフの東側)で周期的に発生するとされている海溝型地震。規模は毎回M8クラスに達する巨大地震で、約100年から200年周期の発生と考えられている。東南海大地震(とうなんかいだいじしん)とも呼称される。 最新のものは、1944年(昭和19年)12月7日に、紀伊半島南東沖を震源として発生したものであり、元来「東南海地震」はこの昭和東南海地震を指す名称であった。この地震により、遠州灘沿岸(東海道)から紀伊半島(南海道)に渡る一帯で被害が集中したために「東南海」と呼ばれるようになり、現在では過去の同地域の地震についても東南海地震と呼ばれるようになっている。東海地震や南海地震と発生がほぼ同時もしくは時期が近いなど連動する場合があるが、震源域が異なっており別の地震に区別される(詳細は後述)。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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東大寺の仏像

本項東大寺の仏像(とうだいじのぶつぞう)では、奈良県奈良市にある聖武天皇ゆかりの寺院・東大寺に伝来する仏像について説明する。 8世紀に日本の首都であった奈良を代表する寺院である東大寺は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。東大寺には、「奈良の大仏」として知られる、高さ約15メートルの盧舎那仏(るしゃなぶつ)像をはじめ、日本仏教美術史を代表する著名作品が多く所蔵されている。 本項では東大寺に所在する仏像彫刻について概観する。なお、東大寺の概要については「東大寺」の項を、大仏については「東大寺盧舎那仏像」の項を参照のこと。.

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東大寺大仏殿の戦い

東大寺大仏殿の戦い(とうだいじだいぶつでんのたたかい)は、永禄10年(1567年)4月18日から10月11日のおよそ半年間にわたり松永久秀、三好義継と三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦。松永久秀の居城であった多聞山城の周辺でも戦闘があったため「多聞山城の戦い」とも呼ばれている。.

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東大寺盧舎那仏像

東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。 聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。 正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.

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東山天皇

東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.

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東上磯部

東上磯部(ひがしかみいそべ)は、群馬県安中市の地名。郵便番号は379-0128。面積は0.97km2(2010年現在)。.

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東市来町美山

東市来町美山(ひがしいちきちょうみやま Higashiichiki-Chō Miyama)は、鹿児島県日置市の大字。旧日置郡伊集院郷苗代川村、日置郡下伊集院村大字苗代川、日置郡東市来町美山。人口は537人、世帯数は206世帯(2010年10月1日現在)。郵便番号は899-2431。 安土桃山時代に島津氏によって連行された朝鮮人陶工らが江戸時代になり、薩摩藩の各地からこの地に移され、苗代川村が成立した。現在でも多くの窯元で薩摩焼が生産されており、この地で作られた薩摩焼は苗代川焼とも呼ばれる。.

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東万町

東万町(ひがしまんちょう)は、愛知県名古屋市中区の地名。.

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東光寺 (下関市)

東光寺(とうこうじ)は、山口県下関市豊前田町にある寺院。正治元年(1199年)、文覚上人の開基と伝えられる。本尊の薬師如来像は聖徳太子の作と伝えられている。.

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東光院 (白井市)

東光院(とうこういん)は、千葉県白井市にある真言宗豊山派の寺院である。正式名は茲眼山東光院観音寺。.

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東福寺 (渋谷区)

東福寺(とうふくじ)は、東京都渋谷区渋谷三丁目5番8号にある、天台宗の寺院。山号は渋谷山(しぶやさん)。.

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東高野街道錦織一里塚

指定時に立てられた「史跡東高野街道錦織一里塚」の碑(大阪府富田林市) 東高野街道 錦織一里塚(ひがしこうやかいどう にしきおりいちりづか)は、大阪府富田林市錦織東3丁目に存在する東高野街道の一里塚である。大阪府下では街道両脇に一対の塚が残る唯一の例であり、1970年2月2日に大阪府指定史跡に指定された。また、東高野街道沿道に11箇所あった一里塚で現存するものは、垣内(八尾市)にあるものとここのみとなっている。.

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東郷実はる

東郷 実昉(とうごう さねはる、宝永8年1月28日(1711年3月16日) - 寛政元年(1789年))は薩摩藩城下士。通称は弥八左衛門、藤右衛門。東郷位照の嫡子で東郷実満の孫。剣術示現流五代目。「三州御治世要覧 巻37」によると久保之英や大山後角右衛門、山本権兵衛の親族である山本五郎左衛門、奈良原喜左衛門の先祖である奈良原助左衛門と同じ4番与小番に所属していた。演武館初代剣術師範の一人でもある。.

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東郷実賢

東郷 実賢(とうごう さねかた、宝永6年5月11日(1709年6月18日) - 安永9年3月25日(1780年4月29日))は、江戸時代中期の薩摩藩鹿児島城下士。剣術示現流宗家師範である東郷実満の4男。諱は実賢。通称は藤弥左衛門、後に善助。東郷位照や東郷実勝の異母弟(但し、示現流聞書喫録付録系図では実勝同母弟とも)であり母は二階堂源右衛門行格(「旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集三」の『二階堂氏正統系図』参照)の娘で、伊集院俊方の同母弟である。伯母は島津綱貴の側室で伯父は二階堂行宅。 上の2人の兄が遠島になり、さらに3番目の兄が伊集院家に養子入りしており、実満の子としては示現流東郷家に残った唯一の人物であったが、父の死後に家督相続した2つ年下の甥である実昉同様に若年ゆえに示現流を皆伝するまでにいたらず、門弟を統べる力量はなかった。島津吉貴の許可を得て、薬丸兼慶を東郷家の代理として指南させることにした。 後に小野村西之谷(現在の鹿児島市小野)に移住。72歳で死去し、曹洞宗松原山南林寺に埋葬された。.

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東郷実満

東郷 実満(とうごう さねみつ、1672年(寛文12年) - 1733年(享保18年))は江戸時代の薩摩藩士、剣客(示現流第4代)。通称は藤兵衛。諱ははじめ重通、重治、後に実満将軍家世子・徳川家重の元服によるもの。江戸時代には、将軍の諱やその字の訓読みは藩主レベルでも将軍が下賜しない限り使用しない慣習があり、長州藩の毛利重就や桑名藩の松平定猷のように、藩主でも改名や読みを変える場合があった。薩摩藩では将軍や藩主の本名の字を使ってならないという藩法がある(「薩藩政要録」参照)。これにより通字が「重」の字であった薩摩の渋谷氏一族(実満一家や入来院重教(定恒)など)はいっせいに改名している。なお、「実」の字は東郷家始祖の車内実重にちなむ。示現流第3代・東郷重利の子。.

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東郷重方

東郷 重方(とうごう しげまさ、慶長9年(1604年) - 万治2年(1659年))は、江戸初期の薩摩藩士。剣客。通称は藤兵衛、肥前。諱は重方。示現流の流祖東郷重位の子で示現流二代目。なお、「示現流聞書喫緊録附録系図」では慶長12年生まれとしている。.

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東条義叔

東条 義叔(とうじょう よしすえ)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府の旗本。吉良氏の分家として東条家を興した。.

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東条義武

東条 義武(とうじょう よしたけ)は、江戸時代中期の旗本。吉良義央の弟が立てた東条家を継いだ。.

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東氏

東氏.

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東湖八坂神社

東湖八坂神社(とうこやさかじんじゃ)は、日本の東北地方、秋田県潟上市天王天王(江戸時代における出羽国秋田郡天王村、幕藩体制下の久保田藩天王村)に所在する神社である。古名・別名については後述。.

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東海地震

東海地震(とうかいじしん)は厳密には2通りの用法があり、.

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東海・東南海・南海地震

東海・東南海・南海地震(とうかい・とうなんかい・なんかいじしん)は、想定東海地震と東南海地震、南海地震が同時発生するという仮定の下で想定された南海トラフにおける連動型巨大地震のことである。3連動地震とも呼ばれる。 想定東海地震は駿河湾、東南海地震は遠州灘沖および熊野灘沖(浜名湖沖から潮岬やや東寄り沖)、南海地震は紀伊水道沖および土佐湾沖(潮岬やや東寄り沖から足摺岬沖)が、それぞれ震源域と想定されていた。このように震源域が分かれる要因は、海底の地形、沈み込んだプレートの傾斜角、トラフ軸の向きなどが関係しているとされる。.

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松岡城 (常陸国)

松岡城(まつおかじょう)は、常陸国多賀郡(現在の茨城県高萩市下手綱)にあった日本の城。龍子山城(たつごやまじょう)・手綱城(たづなじょう)とも呼ばれる。明治時代初期には常陸松岡藩の藩庁が置かれた。.

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松川橋 (福島市)

松川橋(まつかわばし)は福島県福島市にある道路橋である。.

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松平基知

松平 基知(まつだいら もとちか)は、江戸時代前期から中期の大名。陸奥白河藩の第2代藩主。直基系越前松平家3代。.

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松平友著

松平 友著(まつだいら ともあき、延宝6年10月7日(1678年11月20日) - 享保13年3月30日(1728年5月8日))は、川田久保松平家初代当主。尾張藩第2代藩主徳川光友の十一男。母は梅香院(鈴木氏または大橋氏)、幼名は大蔵、初名は友親。徳川宗勝の実父。官位は従四位下但馬守。.

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松平吉邦

松平 吉邦(まつだいら よしくに)は、江戸時代の大名。越前福井藩の第8代藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第6代となる。。越前松岡藩主松平昌勝の六男。母は秋山氏。正室は中納言・日野西国豊(ひのにし くにとよ)の娘。側室に辻氏。子に勝姫(福井藩第10代藩主松平宗矩正室)。最高時の官位は従四位下、左近衛権少将。.

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松平吉透

松平 吉透(まつだいら よしとお)は、出雲松江新田藩主、のち松江藩第4代藩主。直政系越前松平家宗家4代。.

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松平君山

松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) - 天明3年4月18日(1783年5月18日))は、江戸時代中期の尾張藩士・儒学者(古註学派)・地理学者。諱は秀雲。字は士竜、幼名は弥之助・太郎助、通称は太郎右衛門(太郎左衛門?)。号は君山の他に竜吟子・富春山人・吏隠亭・群芳洞・盍簪窩主人。尾張藩士千村秀信の四男、母は堀忘斎の三女。松平久忠の娘・阿艶を正室としてその婿養子となった。.

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松平定知 (旗本)

松平 定知(まつだいら さだとも、正保2年(1645年) - 宝永5年3月6日(1708年4月26日))は江戸時代の旗本。三河国刈谷藩の嫡子だった。松平定政の長男。母は永井尚政の娘。弟に松平定清、松平定澄。 刈谷藩2代藩主となるはずだったが、父定政が慶安4年(1651年)に3代将軍徳川家光の死去後、無届で東叡山寛永寺で遁世落髪したため、狂気の沙汰として改易される。このため父に連座して蟄居した。寛文12年(1672年)に父が死去した後、江戸に召し返され1500俵を与えられて寄合に列する。元禄10年(1697年)に下野国安蘇郡で1500石を与えられ、弟の定澄とともに定政系の旗本久松松平家として存続した。 さたとも はたもと Category:江戸幕府旗本 Category:刈谷藩の人物 Category:1645年生 Category:1708年没.

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松平定直

松平 定直(まつだいら さだなお、万治3年1月19日(1660年2月29日) - 享保5年10月25日(1720年11月24日))は、伊予松山藩4代藩主。定勝系久松松平家宗家5代。 伊予今治藩2代藩主・松平定時の長男。実母は側室嶺頂院殿(平岡氏の娘)。正室は佐倉藩主・稲葉正往の娘。子に定仲(長男)、鍋之助(次男)、定英(三男)、定章(四男)。官位は従四位下、隠岐守、侍従。幼名は鍋之助。.

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松平定賢

松平 定賢(まつだいら さだよし、宝永6年(1709年) - 明和7年7月12日(1770年9月1日))は、越後高田藩の第5代藩主、陸奥白河藩の初代藩主。定綱系久松松平家7代。 陸奥守山藩主・松平頼貞の六男。母は松本氏。正室は高田藩第4代藩主松平定儀の養女(定儀の兄の第2代藩主定逵の娘)、継室は烏丸光栄の娘。子に定邦(長男)、娘(真田幸弘正室)。官位は従四位下、越中守。正徳3年(1713年)6月12日生まれとする説もある。 初名は頼儀、頼軌。通称は左門。享保11年(1726年)12月22日、松平定儀の養子となる。定儀には2人の男子がいたが、いずれも早世していた。同年12月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。享保12年11月18日、養父定儀の死去により、家督を継いだ。同年12月18日、従五位下越中守に叙任する。寛保元年(1741年)11月1日、陸奥白河に移封される。寛延2年(1749年)12月18日、従四位下に昇進する。明和7年(1770年)7月12日に死去し、跡を長男の定邦が継いだ。法号は俊徳院殿無誉鎮岩二譲大居士。 さたよし さたよし Category:親藩 Category:高田藩主 Category:白河藩主 Category:守山藩の人物 Category:1709年生 Category:1770年没.

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松平定輝

松平 定輝(まつだいら さだてる、宝永元年(1704年) - 享保10年10月1日(1725年11月5日))は、越後国高田藩の第3代藩主。定綱系久松松平家5代。 第2代藩主・松平定逵の次男。母は烏丸光雄の娘。正室は浅野吉長の娘。官位は従五位下、日向守。 享保3年(1718年)、父の死去により跡を継ぎ、同時に叙任する。享保10年(1725年)、越後質地騒動を鎮圧したが、同年10月1日に死去した。享年22。跡を叔父の定儀が継いだ。法号は玄万院殿松誉月峯了智大居士。 さたてる Category:譜代大名 Category:高田藩主 Category:1704年生 Category:1725年没.

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松平定重

松平 定重(まつだいら さだしげ)は、伊勢桑名藩、のち越後高田藩初代藩主。定綱系久松松平家3代。伊予松山藩主・松平定頼の三男。.

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松平定英

松平 定英(まつだいら さだひで、元禄9年9月6日(1696年10月1日) - 享保18年5月21日(1733年7月2日))は、伊予松山藩5代藩主。定勝系久松松平家宗家6代。4代藩主松平定直の三男。母は側室光樹院殿(渡部氏の娘)。正室は薩摩藩主・島津綱貴の娘、お菟(お栄)。子に定喬(長男)、定功(次男)。官位は従四位下、隠岐守。幼名は百助。通称は刑部。.

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松平宣維

松平 宣維(まつだいら のぶずみ)は、出雲松江藩の第5代藩主。直政系越前松平家宗家5代。.

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松平宗弥

松平 宗弥(まつだいら むねみつ、貞享2年(1685年) - 正徳元年11月26日(1712年1月4日))は、常陸笠間藩、のち遠江浜松藩の世嗣。 笠間藩第2代藩主(のち浜松藩初代藩主)・松平資俊の次男。母は佐野勝由の娘。正室は松平定重の娘。子は松平資順(長男)。官位は従五位下、日向守、美作守、主税頭。 資俊の嫡男として育ち、元禄12年(1699年)徳川綱吉に御目見する。翌元禄13年(1700年)叙任し、宝永2年(1705年)には父とともに松平姓を賜る。しかし、家督相続前の正徳元年(1711年)に27歳で早世した。死去した時、長男・資順はまだ生まれておらず、弟はいずれも早世または他家に養子に出ていたため、母方の叔父である資訓が養子に迎えられ、代わって嫡子となった。 むねみつ Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:笠間藩の人物 Category:1685年生 Category:1712年没.

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松平宗胡

松平 宗胡(まつだいら むねひさ、1704年(宝永元年) - 1712年1月3日(正徳元年11月25日))は、越前高森藩の第2代藩主。遠江浜松藩主松平資俊の六男。母は川村氏。 1709年(宝永6年)、兄の宗長が嗣子なくして死去したため、その養子として家督を継いだ。しかし幼少だったため、一度も入国することなく1711年(正徳元年)11月25日に8歳で死去した。嗣子がいるはずもなく、高森藩は断絶した。法号は性与円水覚泡澄元院。墓所は東京都台東区浅草の安養寺。 むねひさ Category:譜代大名 むねひさ Category:1704年生 Category:1712年没.

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松平宗長

松平 宗長(まつだいら むねなが)は、江戸時代中期の大名。越前高森藩の初代藩主。松平資俊の三男。.

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松平乗真

松平 乗真(まつだいら のりざね)は、三河大給藩の第3代藩主。のち三河奥殿藩初代藩主。奥殿藩大給松平家3代。.

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松平乗賢

松平 乗賢(まつだいら のりかた)は、美濃国岩村藩第2代藩主、老中。岩村藩大給松平家3代。 岩村藩初代藩主・松平乗紀の長男。享保2年(1717年)、父の死により家督を相続する。奏者番、若年寄、西丸老中を歴任し、延享2年(1745年)に本丸老中となったが翌年没した。跡を養嗣子の乗薀が継いだ。.

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松平乗邑

松平 乗邑(まつだいら のりさと)は、江戸幕府の老中。肥前唐津藩第3代藩主、志摩鳥羽藩主、伊勢亀山藩主、山城淀藩主、下総佐倉藩初代藩主。大給松平家宗家10代。.

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松平康宦

松平 康宦(まつだいら やすのり)は、石見浜田藩の第2代藩主。松井松平家3代。名前の読みは「やすひろ」とも。.

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松平康員

松平 康員(まつだいら やすかず)は、石見浜田藩の第3代藩主。松井松平家4代。.

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松平康豊

松平 康豊(まつだいら やすとよ)は、石見浜田藩の第4代藩主。松井松平家5代。.

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松平康房

松平 康房(まつだいら やすふさ、貞享3年(1686年) - 宝永6年2月5日(1709年3月15日))は、石見浜田藩の嫡子。2代藩主・松平康宦の次男として生まれる。正室は井上正幸の娘(井上正岑養女)。子は娘(松平康豊の養女)。官位は従五位下、信濃守。 3代藩主となった兄・康員に男子がなかったため、養子となる。宝永2年(1705年)に徳川綱吉に拝謁し、翌年叙任するが、家督相続前の宝永6年(1709年)に早世した。代わって、分家の旗本家から康豊が養子に入った。 やすふさ Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:浜田藩の人物 Category:1686年生 Category:1709年没.

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松平忠俔

松平 忠俔(まつだいら ただみ)は、肥前島原藩の第3代藩主。島原藩深溝松平家4代。 正徳元年(1711年)12月1日、分家の松平次章の四男として生まれる(宝永4年(1707年)生まれとの説もある)。本家の島原藩第2代藩主・松平忠雄の実子が早世したため、忠雄は養子として忠俔の実兄である忠救(定方)を迎えていたが、忠救も享保19年(1734年)10月15日に早世したため、忠俔が享保20年(1735年)5月16日に忠雄の養子となった。12月2日に忠雄が隠居したため家督を継いだ。 忠雄時代、藩主の寵愛を良いことに専権を振るっていた黒川政勝を元文元年(1736年)12月に処刑するなどして綱紀粛正を図り、家臣への貸銀貸米を免除する救恤策も採ったが、もともと病弱だったことから元文3年(1738年)3月21日、吐血して間もなく死去した。享年28。跡を養子の忠刻が継いだ。 たたみ Category:譜代大名 Category:島原藩主 Category:1712年生 Category:1738年没.

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松平忠喬

松平 忠喬(まつだいら ただたか)は、信濃飯山藩の第2代藩主、のち遠江掛川藩主を経て、摂津尼崎藩の初代藩主。尼崎藩桜井松平家4代。 天和2年(1682年)(異説として天和3年(1683年)1月9日)、飯山藩初代藩主・松平忠倶の長男・忠継の次男として生まれる。父の忠継は病弱だったために廃嫡され、忠喬の兄・忠敏が祖父の世子に指名されていたが、その忠敏も早世したため、忠喬が祖父から世子として指名された。元禄9年(1696年)の祖父の死去により家督を継いだ。 宝永3年(1706年)1月28日、遠江掛川に移封される。宝永8年(1711年)2月11日に摂津尼崎に移封され、その初代藩主となった。幕命により朝鮮通信使の接待役、江戸城西の丸大手門番、日光東照宮の警護役などを務めている。寛延4年(1751年)3月20日、家督を次男の忠名に譲って隠居する。宝暦6年(1756年)2月5日に死去した。享年75。.

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松平忠周

松平 忠周(まつだいら ただちか)、または松平 忠徳(まつだいら ただのり)、は、江戸時代中期の大名。伊賀守流藤井松平家3代。はじめ丹波亀山藩の第3代藩主、のち武蔵岩槻藩主、但馬出石藩主、信濃上田藩の初代藩主。幕府では側用人、京都所司代、老中を歴任した。.

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松平忠隆 (丹波亀山藩庶子)

松平 忠隆(まつだいら ただたか、天和2年12月5日(1683年1月2日) - 寛保3年3月27日(1743年4月21日))は、藤井松平家支流の松平伊賀守家2代・丹波亀山藩主・松平忠昭の庶子。幼名は石松。通称は勘助、多四郎、靭負など。生母は柘植氏。 江戸藩邸にて生まれる。家臣間の争いで、叔父にして義兄に当たる忠周への対抗に祭り上げられる。翌天和3年(1683年)5月、父・伊賀守忠昭が死去する。石松を擁するのは、浅見杢之介を中心とする一派で、忠隆の祖父・忠晴の遺命に想定されていない事態ではあるが、忠昭の直系であることを全面的に主張する。しかし当時の石松は数え2歳、生後半年程度の乳飲み子であった。それに対し忠周は23歳、幼少時からの聡明さは周知の事実で、成長後の人品に不足の無い上に、忠晴の遺命があった。家督相続は叶わず、石松は部屋住みの生活を送った。ただ、これは家臣間の諍いに限ったことで、当人同士の関係は極めて良かったと伝わる。 しかし、擁立した浅見杢之介は後に処罰された。理由は、庶出の石松を嫡出であると出生を偽装していたのが、岩槻への転封後に発覚したことであった。もともと、先君・忠昭、先々君・忠晴へ取り入り、着々と地位を築いていた浅見は、対立する重臣を排斥するなど目に余る振る舞いを見せていたため、忠周の藩主就任後は減石させられていた。御家を騒がせたる罪により、浅見と偽装に加担した奥医師・太田松陸は入牢・獄死した。浅見の家族らには永年の暇を取らせたという。 元禄16年(1703年)12月に忠隆は、大和生駒5,000石の旗本で又従兄に当たる藤井松平家の支族・松平信周の養嗣子に迎えられた。ところが健康面で優れず、生駒での家督相続者としての評価を次第に下げていった。宝永5年(1708年)4月、不縁となる。つまり、生家の松平伊賀守家へ送り返された。 寛保3年(1743年)3月27日、忠隆は71歳で死去した。健康面を不安視されたにもかかわらず長命であった。法号は普閑院殿廊誉後彫軒干丘大居士。 自身は不遇であったが、長男・直隆は藤井松平家の嫡流・松平山城守家に家督相続者として貰われていった。そして多四郎忠隆の手元には、次男・忠敏が残った。家老格として藤井松平伊賀守家に尽くした忠敏は、松平姓を遠慮してか、藤井を姓としたという。 Category:1683年生 Category:1743年没 Category:江戸時代の武士 Category:丹波亀山藩の人物 たたたか Category:柘植氏 Category:亀岡市の歴史 Category:廃嫡された人物.

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松平忠輝 (旗本)

松平 忠輝(まつだいら ただてる、寛文10年(1670年) - 享保3年12月24日(1719年2月12日)は、江戸時代中期の武士。江戸幕府旗本。通称は左内(さない)、造酒丞(みきのじょう)。 旗本松平(櫻井)忠治の五男として生まれる。母は不詳。兄に松平忠郷、岡林直之がいる(ただし享年から逆算すると次兄直之より忠輝のほうが年上になる。また長兄の忠郷よりも庶子の忠輝のほうが将軍への拝謁が早い)。 貞享3年(1686年)閏3月14日にはじめて将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄3年(1690年)12月12日、父忠治の家督1,000石300俵のうち、1,000石は兄忠郷が継いだが、300俵は忠輝に与えられ、分家の旗本家を興した。元禄4年(1691年)3月29日に桐間番となり、11月7日には御次番に転じたが、12月2日に職を免じられた。元禄5年(1692年)3月18日に書院番となり、元禄9年(1696年)12月22日には将軍より精勤ぶりを賞されて黄金2枚を与えられた。 元禄15年(1702年)12月14日に、元赤穂藩士大石良雄らによる吉良家討ち入りが起きると、義盟に加わらなかった赤穂藩士だった兄・直之に対し、忠郷は激怒、12月28日に切腹を命じ、介錯は忠輝がつとめた。 宝永元年(1704年)11月14日に幕府の役職を辞し、享保3年(1718年)12月24日に死去した。享年49。深川の霊巌寺に葬られた。妻は佐藤氏の娘。その間に生まれた子忠恒が家督を継いだ。 Category:江戸幕府旗本 たたてる Category:1670年生 Category:1719年没.

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松平忠雄

松平 忠雄(まつだいら ただお)は、肥前島原藩の第2代藩主。島原藩深溝松平家3代。.

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松平忠雅

松平 忠雅(まつだいら ただまさ)は、江戸時代前期から中期の大名。親藩であった松平家出羽山形藩2代藩主、備後福山藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。奥平松平家3代。.

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松平忠救

松平 忠救(まつだいら ただすけ、宝永2年(1705年) - 享保19年10月15日(1734年11月10日))は、肥前島原藩の世嗣。島原藩分家旗本・松平次章の子。官位は従五位下、飛騨守。 島原藩2代藩主・松平忠雄の実子が全て早世したため、本家島原藩の養子に迎えられる。享保13年(1728年)、徳川吉宗に御目見し叙任するが、家督を継ぐことなく享保19年(1734年)に30歳で早世した。代わって、実弟の忠俔が養子に迎えられ嫡子となった。 たたすけ Category:島原藩の人物 Category:1705年生 Category:1734年没.

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松平信岑

松平 信岑(まつだいら のぶみね)は、丹波篠山藩の第5代藩主。後に丹波亀山藩の初代藩主となる。丹波亀山藩形原松平家6代。.

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松平信庸 (篠山藩主)

松平 信庸(まつだいら のぶつね)は、江戸時代中期の大名、老中。丹波篠山藩第4代藩主。丹波亀山藩形原松平家5代。.

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松平信応

松平 信応(まつだいら のぶまさ)は、江戸時代中期の旗本(寄合)。堅綱系大河内松平家4代。石高は1000石。 元禄10年(1697年)に旗本・松平信定の十三男として江戸で生まれる。宝永元年(1704年)9月20日に松平信連の末期養子となり、12月2日に遺領を相続する。幼少のため小普請に入り、正徳元年(1711年)10月19日に初めて将軍家宣に御目見する。享保20年(1735年)11月28日に寄合に列する。延享2年(1745年)10月5日に死去した。享年49。 信応の代から、菩提寺を大河内一族の菩提寺である野火止の平林寺から、小日向の深光寺へと変更している。.

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松平信嵩

松平 信嵩(まつだいら のぶたか)は、駿河小島藩の第3代藩主。小島藩滝脇松平家3代。.

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松平信祝

松平 信祝(まつだいら のぶとき)は、江戸時代中期の大名・老中。下総古河藩の第2代藩主、三河吉田藩主、遠江浜松藩初代藩主。松平伊豆守系大河内松平家4代。.

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松平信輝

松平 信輝(まつだいら のぶてる)は、江戸時代前期から中期の大名。武蔵川越藩の第3代藩主。のち下総古河藩の初代藩主。松平伊豆守系大河内松平家3代。.

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松平信連

松平 信連(まつだいら のぶつら)は、江戸時代中期の旗本(寄合)。堅綱系大河内松平家3代。石高は1000石。 延宝6年(1678年)に旗本・天野長顕の子として江戸で生まれる。元禄7年(1694年)7月7日に伯母の夫にあたる松平信義の末期養子となり、12月12日に遺領を相続する。寄合に列し、宝永元年(1704年)9月24日に死去した。享年27。.

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松平信治

松平 信治(まつだいら のぶはる、延宝元年(1673年) - 享保9年3月29日(1724年4月22日))は、駿河小島藩の第2代藩主。小島藩滝脇松平家2代。 6400石の旗本・戸田重恒の次男。母は松平典信の娘(松平信孝の妹)。初名は重秀。正室は田村建顕の娘。子に娘(戸田忠位正室)。官位は従五位下。下野守。 幼名は助十郎。元禄3年(1690年)に先代藩主・信孝が死去した際、母方で甥に当たることからその養嗣子となって跡を継いだ。宝永元年(1704年)、陣屋を小島に移した。このため、正式に小島藩となったのは、この信治の時代からである。また、奥詰・御小姓・大番頭となった。 2人の男児はいずれも早世していたため、享保9年(1724年)3月29日に信治が52歳で死去した後、家督は従弟で養嗣子の信嵩が継いだ。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。 のふはる Category:戸田氏 *02 Category:1673年生 Category:1724年没.

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松平信清

松平 信清(まつだいら のぶきよ)は、上野吉井藩の初代藩主。鷹司松平家3代。.

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松平信望

松平 信望 (まつだいら のぶもち、延宝2年(1674年) - 宝暦7年9月4日(1757年10月16日))は、江戸幕府の旗本。通称は玄蕃(げんば)、登之助(のぼりのすけ)。官位は従五位下駿河守。養子に松平信晴。.

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松平光煕

松平 光煕(まつだいら みつひろ)は、美濃加納藩の第3代藩主。山城淀藩の初代藩主。戸田松平家5代。名は戸田光熙と記される場合も多い。.

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松平光長

松平 光長(まつだいら みつなが)は、越後高田藩の藩主。越前北ノ荘藩主・松平忠直の長男で、結城秀康の孫。徳川家康の曾孫、徳川秀忠の外孫に当たる。.

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松平光永

松平 光永(まつだいら みつなが、寛永20年(1643年) - 宝永2年2月29日(1705年3月24日))は、江戸時代前期の大名。美濃加納藩第2代藩主。戸田松平家4代。 初代藩主松平光重の長男。母は側室栗山氏。正室は松平典信の娘。子は松平光煕(長男)、戸田光規(三男)、娘(堀直利正室)、娘(戸田冬房室)。幼名・幸松、孫四郎。官位は長門守、丹波守従五位下。 寛文8年(1668年)、父・光重の死去により家督を相続する。相続時、弟の戸田光正(文殊戸田家)と戸田光直(北方戸田家)にそれぞれ5000石を分知した。宝永2年(1705年)没。跡を長男の光煕が継いだ。 みつなか Category:加納藩主 Category:1643年生 Category:1705年没.

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松平勝以

松平 勝以(まつだいら かつゆき)は、下総多胡9000石の旗本。後に下総多胡藩の初代藩主。.

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松平綱国

松平 綱国(まつだいら つなくに、寛文2年(1662年) - 享保20年3月5日(1735年3月28日))は、越後高田藩の世嗣。 松平忠直の次男・永見長頼の長男。幼名は万徳丸。永見市正。官位は従四位上、侍従、三河守。子は安藤国近。.

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松平綱近

松平 綱近(まつだいら つなちか)は、出雲松江藩の第3代藩主。直政系越前松平家宗家3代。第2代藩主・松平綱隆の四男。別名、綱通(つなみち)。.

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松平義方

松平 義方(まつだいら よしかた)は、江戸時代中期の大名。陸奥国梁川藩2代藩主。.

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松平直常

松平 直常(まつだいら なおつね)は、江戸時代中期の大名。播磨明石藩第2代藩主。直良系越前松平家3代。.

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松平直之 (糸魚川藩主)

松平 直之(まつだいら なおゆき)は、江戸時代中期の大名。越後糸魚川藩の初代藩主。福井藩越前松平家分家3代。.

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松平直知

松平 直知(まつだいら なおとも)は、江戸時代中期の大名。福井藩越前松平家分家2代。.

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松平頼如

松平 頼如(まつだいら よりゆき、延宝元年10月14日(1673年11月22日) - 宝永4年12月7日(1707年12月30日))は、常陸府中藩の第2代藩主。初代藩主・松平頼隆の三男。母は高橋氏。正室は熊本藩主・細川綱利の娘とされていたが、婚礼前に頼如が死去した。幼名は七丸。任官叙位前は外記または左兵衛を称する。水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、徳川光圀の甥にあたる。 兄の頼方と頼寧が早世したため、元禄4年(1691年)閏8月に世子として指名された。宝永2年(1705年)9月28日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし宝永4年(1707年)12月7日、父の後を追うように35歳で死去した。嗣子がなく、養嗣子の頼明が跡を継いだ。.

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松平頼常

松平 頼常(まつだいら よりつね)は、讃岐高松藩の第2代藩主。.

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松平頼芳

松平 頼芳(まつだいら よりよし、寛文7年5月18日(1667年7月9日) - 宝永3年8月3日(1706年9月9日))は、讃岐高松藩の藩主一門。初代藩主・松平頼重の六男。幼名は千松。通称は帯刀。母は三好氏。子に頼煕。 延宝4年(1676年)、第2代藩主頼常(従兄にあたる)より3000石を賜う。宝永3年(1706年)8月3日没。享年40。孫の頼桓は高松藩第4代藩主、蜂須賀宗鎮は徳島藩第7代藩主、至央は第8代藩主となった。 よりよし Category:高松藩の人物 Category:1667年生 Category:1706年没.

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松平頼隆

松平 頼隆(まつだいら よりたか、寛永6年11月29日(1630年1月12日) - 宝永4年11月30日(1707年12月23日))は、江戸時代の大名。常陸保内藩主、常陸府中藩の初代藩主。 常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の五男。徳川光圀の弟。母は興正寺18世・准尊(藤原昭玄)の娘。側室に高橋氏。片岡氏。子に頼方(長男)、頼寧(次男)、頼如(三男)、娘(水谷勝美正室のち毛利元次継室)、娘(池田仲澄正室)。官位は従四位下、侍従、播磨守。母方の祖父は石山戦争で知られる本願寺門主・顕如の孫にあたる。叙位任官前は、右近また、頼母を称し、諱は頼安から頼隆に改める。 寛永6年(1629年)11月29日生まれ。寛文元年(1661年)9月、兄・光圀より保内郷33ヶ村、およそ2万石を分与されて水戸藩の支藩である保内藩を立藩した。元禄13年(1700年)9月幕府によって所領を吹上から府中に移されたため、常陸府中藩を立藩する。宝永2年(1705年)9月28日、三男の頼如に家督を譲って隠居し、宝永4年(1707年)11月30日に79歳で死去した。.

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松平頼雄 (西条藩嫡子)

松平 頼雄(まつだいら よりかつ)は、紀州藩支藩の伊予西条藩の世子。実父により無実の罪によって廃嫡され、非業の最期を遂げたとされる。.

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松平頼渡

松平 頼渡(まつだいら よりただ)は、伊予西条藩の第3代藩主。初代藩主・松平頼純の7男(6男との説もある)。 宝永3年(1706年)11月14日生まれ。幼名は万吉丸。享保元年(1716年)、兄で先代藩主であった頼致(徳川宗直)が、従弟にあたる徳川吉宗の後を受けて紀伊藩主に転出したため、その後をうけて西条藩主となった。山井崑崙を登用して文学の奨励を行ったり、窮民の救済、多喜浜塩田などの塩浜築造に尽力している。 元文3年(1738年)3月16日、33歳で死去し、跡を長男・頼邑が継いだ。.

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松平頼明 (常陸府中藩主)

松平 頼明(まつだいら よりあき、元禄4年5月11日(1691年6月7日) - 享保18年9月6日(1733年10月13日))は、常陸府中藩の第3代藩主。松平頼福(徳川頼房の八男・松平頼泰の子)の長男。母は進藤氏。正室は右大臣・今出川公規の娘で、徳川綱條の養女となった益姫。側室に久野氏、林氏。子に頼永(長男)、武元(次男)、遠山友明(三男)、頼幸(四男)、亀井茲胤(五男)、娘(織田信右正室)、娘(松平信友正室)。幼名は源三郎。任官叙位前は通称を掃部を称した。 宝永4年(1707年)12月、先代藩主の松平頼如(頼房の五男で初代藩主・松平頼隆の子)が嗣子なくして死去したため、その養嗣子として翌年の閏正月5日に家督を継いだ。享保18年(1733年)9月6日、43歳で死去し、跡を長男の頼永が継いだ。.

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松平資俊

松平 資俊(まつだいら すけとし)は、江戸時代前期の旗本、のち大名。常陸笠間藩第2代藩主、遠江浜松藩初代藩主。本庄松平家2代。.

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松平輝貞

松平 輝貞(まつだいら てるさだ)は、江戸時代中期の大名。側用人、老中格。大河内松平家の上野高崎藩主では初代。高崎藩系大河内松平家2代。.

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松平近禎

松平 近禎(まつだいら ちかよし)は、豊後府内藩の第3代藩主。一生系大給松平家5代。 第2代藩主・松平近陳の次男。母は阿部重次の娘。 宝永2年(1705年)11月11日、父の隠居により家督を継ぐ。奏者番、寺社奉行を兼務した。藩政においては新川新港の建設や、城下でたびたび起こる火事に備えての防水路拡大建設に努めている。長男の虎之助は早世していたため、甥で婿養子の近貞が跡を継いだ。 ちかよし Category:江戸幕府寺社奉行 Category:府内藩主 Category:譜代大名 Category:1665年生 Category:1725年没.

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松平近陳

松平 近陳(まつだいら ちかのぶ)は、豊後府内藩の第2代藩主。一生系大給松平家4代。.

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松平重休

松平 重休(まつだいら しげやす)は、豊後杵築藩の第3代藩主。杵築藩能見松平家6代。 第2代藩主・松平重栄の次男。宝永5年(1708年)11月23日、父の隠居により家督を継ぐ。正徳2年(1712年)、幕府から与えられた朱印状で「木付」を「杵築」と誤記されていたことを機に、「杵築」に改めた。民政に尽力し、領民に慕われる善政を布いたといわれているが、正徳5年(1715年)8月10日に25歳の若さで死去した。跡を甥で養嗣子の親純が継いだ。 しけやす *03 Category:1691年生 Category:1715年没.

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松平重栄

松平 重栄(まつだいら しげよし)は、豊後杵築藩の第2代藩主。杵築藩能見松平家5代。 杵築藩初代藩主・松平英親の長男。元禄5年(1692年)12月4日、父の隠居により跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行を務めた。元禄10年(1697年)、近隣の日出藩の百姓が逃散してきたとき、それを保護しながら日出藩と交渉し、無難に解決している。宝永5年(1708年)11月23日、次男の重休に家督を譲って隠居し、享保5年(1720年)2月18日に76歳で死去した。 しけよし *02 Category:江戸幕府寺社奉行 Category:1645年生 Category:1720年没.

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松平英親

松平 英親(まつだいら ひでちか)は、豊後高田藩の第2代藩主、のち豊後杵築藩の初代藩主。杵築藩能見松平家4代。 高田藩初代藩主・松平重直の長男。寛永20年(1643年)正月に家督を継ぐ。正保2年(1645年)、高田から杵築3万2000石に移封された。藩政を確立するために25か条の法令をはじめ、寛文2年(1662年)からは検地を実施して新田開発などに尽力した。明暦2年(1656年)の日根野吉明改易時の府内城受け取り役も務めている。 元禄5年(1692年)12月4日、長男の重栄に家督を譲って隠居し、宝永3年(1706年)3月10日に82歳で死去した。 江戸(台東区竜泉)の正燈寺の開基。法号は瑞竜院殿大宙宗閑大居士。 ひてちか Category:譜代大名 *01 Category:1625年生 Category:1706年没.

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松平通温

松平 通温(まつだいら みちまさ、元禄9年5月28日(1696年6月27日) - 享保15年5月19日(1730年7月3日))は、尾張徳川家3代当主・尾張藩主徳川綱誠の十九男。母は側室唐橋(里見氏・卓然院)で、同母兄に義孝(美濃高須藩主)がある。幼名喜之進。従四位下、侍従、安房守、左近衛権少将。.

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松平正億

松平 正億(まつだいら まさやす)は、江戸時代中期の旗本(寄合)。正朝系大河内松平家3代。石高は3500石。.

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松平正貞

松平 正貞(まつだいら まささだ)は、江戸時代中期の大名。上総大多喜藩の第2代藩主。大河内松平宗家4代。.

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松平正邦

松平 正邦(まつだいら まさくに)は、陸奥国会津藩主・松平正容の長男。付役は梶原傳九郎。正容の嫡子だったが、家督を相続することなく夭折した。代わって弟の正甫が嫡男となった。 まさくに Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:会津藩の人物 Category:1696年生 Category:1709年没.

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松平正恒

松平 正恒 (まつだいら まさつね、? - 享保9年(1724年)) は、福井藩家老。福井藩高知席松平家第3代、第5代当主。 松平正詮の子。子は松平正村、松平高正。幼名金蔵。通称主馬。 延宝5年(1677年)新知行1000石を賜る。元禄2年(1689年)1000石加増され家老となる。元禄9年(1686年)父正詮の死去により家督と知行3000石を相続。宝永6年(1709年)隠居して家督を嫡男正村に譲る。正徳2年(1712年)に正村が37歳で先立って没し嫡男金蔵(正明)が幼いため再家督する。享保7年(1722年)藩主昌平(松平宗昌)の家督相続の御礼言上の際に、将軍吉宗に拝謁する。享保9年(1724年)没。家督は嫡孫正明(正般)が相続した。 藩主松平吉品が茶亭を建設しようとしていることを聞き、将軍家に対して憚りがあると強く諫言して中止させている。 藩主が発駕、帰城の際に正恒が家臣を代表して挨拶するのが通例であった。例えば、参勤交代のため藩主が発駕した際には、大広間に家臣一同席に付き、正恒が「今日は、御機嫌よう御発駕遊ばされ、御同時に恐悦に存じ奉る」と挨拶して一同が退出した。.

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松平清武

松平 清武(まつだいら きよたけ)は、上野館林藩の藩主。第6代将軍徳川家宣の同母弟。越智松平家初代。甥に家宣の四男で第7代将軍徳川家継がいる。家継没後に第8代将軍候補となるが、徳川吉宗が就任した為、将軍になることはなかった。.

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松平清方

松平 清方(まつだいら きよかた、元禄10年1月9日(1697年1月31日) - 享保9年1月24日(1724年2月18日))は、上野国館林藩の世嗣。初代藩主松平清武の長男。正室は前田利直の娘(酒井忠真の養女)・須和。官位は従五位下靱負佐、内蔵頭。第3代将軍徳川家光の曾孫で甲府藩主・徳川綱重の孫。第6代将軍徳川家宣の甥。 甲府藩士・越智吉忠(松平清武の初名)の長男として生まれる。伯父・綱豊(のち家宣)が将軍家世子となったため、父の吉忠改め清宣(のち清武)も松平姓を与えられて幕臣となる。その後、宝永4年(1707年)に館林藩主となった。清方も同年、大叔父で第5代将軍の徳川綱吉に拝謁した。家宣が将軍職を継いだ後の正徳元年(1711年)には叙任している。しかし、享保9年(1724年)に家督を継ぐことなく父に先立ち28歳で死去した。代わって、尾張徳川家支藩の高須藩から武雅が養子に迎えられて嫡子となり、同年に清武が没すると家督を継いだ。 正徳6年(1716年)に7代将軍・徳川家継が死去した時、父・清武は次期将軍候補に挙がったが、高齢かつ他家に養子に出ていることが理由で、支持を得ることができなかった。清方は年齢的には問題がなかったが、候補者にはならなかった。 清武・清方父子の死により、家光の男系子孫は断絶した。 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:館林藩の人物 きよかた Category:1697年生 Category:1724年没.

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松平昌親

松平 昌親(まつだいら まさちか)は、江戸時代前期の大名。越前福井藩の第5代・第7代藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えばそれぞれ第3代・第5代となる。。第3代藩主松平忠昌の五男。母は浦上氏(高照院)。正室は津山藩主・森長継の娘。官位は従四位下。左近衛権少将。第7代藩主のときの名は松平 吉品(まつだいら よしのり)。.

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松前嘉広

松前 嘉広(まつまえ よしひろ)は、江戸時代中期の旗本。松前泰広の長男。 家禄として当初の石高は1千100石。書院番となり、以降は使番、目付を歴任したのち、元禄5年(1692年)4月14日、京都東町奉行となり500石を加増される。元禄10年(1697年)4月14日、江戸南町奉行となる。嘉広の町奉行在任中の元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起こる(赤穂事件)。事件後、犯人らの処分について、幕閣では助命か切腹かで意見は割れたが、嘉広は事件に対し、過去に類を見ない忠義の事件であるとして感激していたとする話が伝わる。元禄16年(1703年)11月13日、大目付に転進し、加増されて2000石となる。宝永2年(1705年)、江戸城本丸留守居となりさらに600石加増される。 享保16年(1731年)、80歳で死去した。家督は婿養子の勝広(かつひろ、北条氏平の次男で嘉広の従兄弟にあたる)が継いだ。他に猶子として松前道広(みちひろ、旗本)がいる。 よしひろ Category:江戸幕府旗本 Category:京都町奉行 Category:江戸幕府町奉行 Category:江戸幕府大目付 Category:江戸幕府留守居 Category:1652年生 Category:1731年没.

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松前邦広

松前 邦広(まつまえ くにひろ)は、江戸時代の大名。蝦夷地松前藩の6代藩主。.

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松蔭寺

松蔭寺(しょういんじ)は、静岡県沼津市原にある臨済宗系の寺院。往時の東海道原宿東町に当たり、白隠慧鶴所縁の寺として知られる。.

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松野親信

立美人図」 松野親信筆。 松野 親信(まつの ちかのぶ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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松長藩

松長藩(まつながはん)は、駿河国駿東郡松長村(現在の静岡県沼津市松長)にあった相模国小田原藩の支藩である。藩庁は松長陣屋に置かれた。.

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松永春門

松永 春門(まつなが はるかど、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵師。.

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松江藩

藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。.

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松波良利

松波 良利(まつなみ よしとし、? - 宝永7年11月19日(1711年1月7日))は、江戸時代前期の財政家。勘十郎(かんじゅうろう)の通称で知られている。各地の大名家の財政再建を請負った。.

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松波正春

松波 正春(まつなみ まさはる、寛文5年(1665年) - 延享元年6月2日(1744年7月11日))は、江戸時代中期の旗本。通称は勘四郎・三郎兵衛・甚兵衛。官名は筑後守。書院番三宅政広の3男。『寛政重修諸家譜』に収める松波家の系譜によれば、戦国大名斎藤道三(前名・松波庄九郎)の子、松波政綱の子孫だという。.

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松浦信英

松浦 信英(まつら のぶひで)は江戸時代の旗本。小姓、使番、先鉄砲頭等を歴任した。.

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松浦信正 (河内守)

松浦 信正(まつら のぶまさ)は、江戸時代中期の江戸幕府幕臣。駿府町奉行、大坂町奉行、勘定奉行、長崎奉行、勘定奉行長崎掛を歴任した。長崎貿易改革において長崎会所と長崎町年寄・地下役人との二重行政による弊害解消に努め、成果を上げたが、用行組事件に関連して失脚した。.

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松浦鎮信

松浦 鎮信(まつら しげのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。平戸の松浦氏第26代当主。肥前国平戸藩初代藩主。 戦国大名大友義鎮(宗麟)より偏諱を与えられ鎮信を名乗る。晩年、山城上醍醐行樹院にて出家し、法号は宗信、後に無外庵宗静と称した。出家後は法眼に叙されて法印に昇り、式部卿に任ぜられたため式部卿法印、平戸法印とも呼ばれた。なお、曾孫にあたる第4代平戸藩主も、隠居後に重信から同じ字の鎮信に改名しており、改名後の表記で主に知られる。.

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松浦邑

松浦 邑(まつら さとし、寛文10年(1670年) - 宝永5年10月29日(1708年12月10日))は、肥前国平戸新田藩の第2代藩主。 初代藩主・松浦昌の長男。母は加藤泰興の娘。正室は旗本・本田正信の娘。子は松浦鄰(長男)。初名は厚。通称は玄蕃。 元禄3年(1690年)2月15日、将軍徳川綱吉にお目見えする。宝永3年(1706年)5月7日、父昌の隠居により、家督を継いた。宝永5年(1708年)10月29日に39歳で早世した。跡を長男・鄰が継いだ。法号は松林院。墓所は東京都港区南麻布の光林寺。 さとし さとし Category:1670年生 Category:1708年没.

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松浦鄰

松浦 鄰(まつら ちかし、宝永2年(1705年) - 享保13年9月24日(1728年10月26日))は、肥前国平戸新田藩の第3代藩主。 父は第2代藩主・松浦邑。通称は大助、勝十郎、弾正。官位は従五位下。豊後守。 宝永5年(1708年)12月27日、父が死去したためにわずか4歳で家督を継いだ。宝永7年1月15日、江戸城の柳間詰めとなる。正徳5年(1715年)3月15日、将軍徳川家継にお目見えする。享保4年(1719年)12月18日、従五位下豊後守に叙任する。享保13年(1728年)9月24日、24歳で早世した。嗣子がなかったため、養嗣子の到が跡を継いだ。法号は天球院。 ちかし ちかし Category:1705年生 Category:1728年没.

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松浦有信

松浦 有信(まつら ありのぶ、1710年6月4日(宝永7年5月8日) - 1728年9月28日(享保13年8月25日))は、肥前国平戸藩の第7代藩主。 第6代藩主・松浦篤信の長男。母は小宮氏。正室は大河内松平信祝の娘・多代。官位は従五位下。壱岐守。 享保12年(1727年)、父が病気を理由に隠居したため、その跡を継いで藩主となった。そして父の後を受けて藩政改革に乗り出したが、翌年に病に倒れ、8月25日に平戸城にて死去した。享年19。嗣子が無く、弟の誠信を養嗣子として後を継がせた。墓所は平戸市の雄香寺。法号は等覚院殿前壱州太守天麟英心大居士。 ありのふ ありのふ Category:1710年生 Category:1728年没.

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松浦昌

松浦 昌(まつら まさし、慶安4年10月18日(1651年11月30日) - 享保21年1月10日(1736年2月21日))は、肥前国平戸新田藩の初代藩主。 平戸藩第4代藩主・松浦鎮信の次男。母は志佐氏。正室は加藤泰興の娘。子は松浦邑(長男)、松浦馮(次男)、松浦信守(五男)、千本倶隆(六男)。通称は織部、大膳。 寛文5年(1665年)6月14日、将軍徳川家綱にお目見えする。元禄元年(1688年)4月27日、江戸城の中奥に勤務する。元禄2年(1689年)7月3日、父鎮信の隠居により、志佐・調川に1万石を分与されて支藩である平戸新田藩を立藩した。江戸城の帝鑑の間詰めとなる。宝永3年(1706年)5月7日に家督を長男・邑に譲って隠居した。隠居号は退入と号した。享保21年(1736年)正月10日に86歳で死去した。法号は万松院。墓所は東京都港区南麻布の光林寺。 まさし まさし Category:1651年生 Category:1736年没.

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板倉勝里

板倉 勝里(いたくら かつさと)は、江戸時代中期の大名で、陸奥福島藩主。.

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板倉勝清

板倉 勝清(いたくら かつきよ、宝永3年(1706年) - 安永9年5月28日(1780年6月30日))は、江戸時代中期の大名。官位は従四位下・佐渡守・侍従。はじめ15,000石。陸奥泉藩主→遠江相良藩主→上野安中藩主。老中。重形系板倉家3代。.

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板倉重冬

板倉 重冬(いたくら しげふゆ)は、伊勢亀山藩の第2代藩主。板倉家宗家5代。.

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板倉重種

板倉 重種(いたくら しげたね)は、江戸時代前期の大名、老中。下野烏山藩主、後に武蔵岩槻藩主、信濃坂木藩主。重昌流板倉家第3代。.

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板倉重治

板倉 重治(いたくら しげはる)は、江戸時代中期の大名。伊勢亀山藩主、のち志摩鳥羽藩主を経て、再び亀山藩主として再封された。板倉家宗家6代。.

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杵屋六三郎

杵屋 六三郎(きねや ろくさぶろう)は、長唄三味線方の名跡。近世中期以来、13代を数える。.

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村上藩

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.

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村井親長

村井 親長 (むらい ちかなが、承応元年(1652年) - 宝永8年4月4日(1711年5月21日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第5代当主。 父は加賀藩年寄村井長朝。養子は村井長堅。通称藤十郎、出雲。官位は従五位下豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村井長堅

村井 長竪 (むらい ながかた、元禄10年(1697年)- 宝暦7年1月4日(1757年2月21日)) は、加賀藩年寄。加賀八家村井家第6代当主。 父は加賀藩大年寄前田孝行。養父は加賀藩年寄村井親長。養子は前田八十五郎、村井長穹。幼名右源太、通称主膳。初名孝通。官位は従五位下豊後守。本姓は平氏(桓武平氏)。家紋は「丸ノ内上羽蝶」。.

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村松秀直

『義士四十七図 村松喜兵衛秀直』(尾形月耕画) 村松 秀直(むらまつ ひでなお、寛永19年(1642年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は喜兵衛(きへえ)。.

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杉山成武

杉山 成武(すぎやま なるたけ)は、江戸時代前期から中期の弘前藩の武士。.

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根津神社

表参道鳥居 根津神社(ねづじんじゃ)は、東京都文京区根津にある神社。旧社格は府社で、元准勅祭社(東京十社)。 古くは「根津権現」とも称された。.

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根津権現

根津権現(ねづごんげん)は、江戸の根津(現在の東京都文京区根津)にて神仏習合の様式で祀られたスサノオであり、十一面観音菩薩を本地仏とする。相殿に祀られた山王権現と八幡神と合わせて、根津三所権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、根津権現社(現在の根津神社)で祀られた。.

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栃木城

栃木城(とちぎじょう)は、下野国都賀郡栃木(現在の栃木県栃木市城内町)にあった日本の城(平城)である。皆川広照が築城し、栃木町を繁栄させる基盤となった。.

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栃木市

栃木市(とちぎし)は、栃木県の南部にある人口約16万人の市。栃木県内人口は宇都宮市、小山市に次ぐ第3位。市街地には蔵造りの家屋が並ぶ街並みが保存されていることから小江戸、小京都、関東の倉敷などと呼ばれ、観光地としての人気も高い。また、市南部にはラムサール条約登録湿地に指定されている渡良瀬遊水地を保有している。.

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栗原宿

栗原宿(くりばらしゅく)は、山梨県山梨市下栗原に所在した宿駅。甲州街道の宿駅で、別称に下栗原宿(『甲斐国志』)。.

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栗山潜鋒

栗山 潜鋒(くりやま せんぽう、寛文11年(1671年) - 宝永3年4月7日(1706年5月18日))は、江戸時代中期の朱子学者。水戸藩士。 山城国淀に生まれ、山崎闇斎の門士、桑名松雲に学んだ。1692年に水戸藩主徳川光圀に招かれ、三宅観瀾・安積澹泊らと共に、『大日本史』の編集に従事した。 著書として『保建大記』などを著している。 Category:江戸時代の儒学者 Category:17世紀の学者 Category:山城国の人物 Category:1671年生 Category:1706年没.

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栗野岳温泉

栗野岳温泉(くりのだけおんせん)は、鹿児島県姶良郡湧水町木場にある温泉である。.

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栗橋町

栗橋町(くりはしまち)とは、かつて埼玉県の東部北に存在した人口約2万7千人の町である。北葛飾郡の最北端に位置していた。通勤率は、東京都特別区部へ20.1%、さいたま市へ12.2%(いずれも平成17年国勢調査)。 江戸時代には日光街道が利根川を越える要地として栗橋関所がおかれた水陸交通の要衝の宿場町(栗橋宿)であった。現在も、日光や東北へ至る鉄道は栗橋を経由する。 埼玉県内有数の米どころであったり、いちごも県内有数の栽培面積、収穫量で農業が盛んな町である一方、東京都心より約50キロと比較的近い地点に位置することもあり、都心方面へのベッドタウンでもある。また、優良な物流施設地、工業地としても発展している。 2010年(平成22年)3月23日、久喜市、南埼玉郡菖蒲町及び北葛飾郡鷲宮町との新設合併により消滅した。現在でも旧栗橋町域を総称して栗橋地区という。.

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栄光院 (松平正容継室)

栄光院(えいこういん、延宝7年(1679年) - 元文2年3月4日(1737年4月3日))は、陸奥会津藩藩主・松平正容の継室。松平正甫の生母。父は本多家浪人・横山常定。名は祐、ゆら。.

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桶狭間

桶狭間(おけはざま)は、愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域の汎称地名・歴史的地名である。 本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:320-321ページ、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2013年(平成25年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち9つに桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北3丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」)。 他方、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に知多郡北部から愛知郡南部にかけて展開された桶狭間の戦いの故地の名としてもよく知られている。名古屋市の桶狭間古戦場調査委員会が1966年(昭和41年)にまとめた『桶狭間古戦場調査報告』で桶狭間を「漠とした広がりを持った地名語」と表現しているように『桶狭間古戦場調査報告』:12ページ、その戦跡は桶廻間村の村域を大きく越えて広く残され、桶狭間の名を冠した地名・史跡・神社・公共施設・店舗・イベント、また桶狭間の戦いに由来するという同種のものが名古屋市と豊明市の両方に散見される。.

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桶狭間神明社

桶狭間神明社(おけはざましんめいしゃ)は、名古屋市緑区桶狭間神明にある神社である。正式名称は神明社(しんめいしゃ)という。旧社格は村社、祭神として天照大神を祀る。.

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桜山 (逗子市)

桜山(さくらやま)は、神奈川県逗子市の町名。逗子中心市街地の南側、ほぼ田越川南岸に沿い、町名は桜山1丁目から9丁目まである。このほかに、逗子市沼間・葉山町長柄を隔て、飛地として丁目が振られていない「桜山大山」がある。両区域の合計面積は4.01平方キロメートルで、逗子市全域17.28平方キロメートルの約23%にあたり、逗子市を構成する8地区中最も広い。郵便番号は249-0005。.

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桃園川

桃園川(ももぞのがわ)は、東京都杉並区および中野区を流れる河川。全区間暗渠化されている。中野区内では「中野川」とも呼ばれる。.

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桑名城

桑名城(くわなじょう)は、三重県桑名市にあった日本の城である。江戸時代は伊勢桑名藩の藩庁が置かれた。.

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桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。.

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桑嶋忠純

桑嶋 忠純(くわしま ただずみ)は、江戸時代の御家人。.

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桂昌院

桂昌院廟(善峯寺) 桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。通称は玉。『徳川実紀』によれば、父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。母は鍋田氏。兄に北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいる。.

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梶川頼照

梶川 頼照(かじかわ よりてる)は、江戸時代前期の旗本。.

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梶野良材

梶野 良材(かじの よしき、安永2年(1773年) - 嘉永6年6月14日(1853年7月19日))は、江戸時代後期の幕臣。久隅矩信の次男、初名は秀名。梶野平九郎矩満の養子。通称は斧次郎、平助、平大夫。御庭番より勘定奉行まで大出世した。.

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梅嶺院

梅嶺院(ばいれいいん、寛永20年6月11日(1643年7月26日) - 宝永元年8月8日(1704年9月20日))は、江戸時代中期の女性。高家・吉良義央の正室。俗名上杉富子。.

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梅ヶ島金山

梅ヶ島金山(うめがしまきんざん)は、駿河国安倍郡(現・静岡県静岡市葵区)で採掘されていた金山である。現在は閉山。 梅ヶ島金山は梅ヶ島村の日影沢金山(ひかげざわきんざん)、関之沢金山(せきのさわきんざん)、および入島村の湯ノ森金山(ゆのもりきんざん)などの総称であり、井川村の笹山金山(ささやまきんざん)を中心とする井川金山(いかわきんざん)も含めて、安倍金山(あべきんざん)と呼ばれる『日本歴史地名大系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。.

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梅祐軒勝信

梅祐軒 勝信(ばいゆうけん かつのぶ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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梅谷寺

梅谷寺(ばいこくじ)は、徳島県阿南市桑野町にある真言宗大覚寺派の寺院。 本尊は十一面観音菩薩。元は隣接する天神社の別当寺。.

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棚倉藩

棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。.

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棟方清久

棟方 清久(むなかた きよひさ)は、江戸時代中期の弘前藩の武士。.

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森川俊胤

森川 俊胤(もりかわ としたね)は、下総生実藩の第4代藩主。江戸幕府の若年寄である。.

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森川許六

森川 許六(もりかわ きょりく)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。.

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森川重信

森川 重信(もりかわ しげのぶ)は、下総生実藩の第3代藩主。.

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森甚五兵衛

森 甚五兵衛(もり じんごべえ)は、戦国時代・江戸時代に蜂須賀家で阿波水軍を率いた森家が代々襲名した名称。.

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森衆利

森 衆利(もり あつとし)は、江戸時代中期の大名。美作津山藩の第5代藩主。赤穂藩森家5代。.

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森長直

森 長直(もり ながなお)は、備中西江原藩の第2代藩主、後に播磨赤穂藩の初代藩主となる。 寛文12年(1672年)11月22日、美作津山藩第2代藩主(後に西江原藩初代藩主)森長継の八男として生まれる。父は延宝2年(1674年)に隠居し、兄の長武が跡を継いだ。長武も貞享3年(1686年)に隠居し、長武と長直の甥である長成が跡を継いだ。長直は元禄7年(1694年)に長成から1500俵を分与されている。長成は生来虚弱であったが、中野村(現東京都中野区)の犬屋敷お手伝い普請に伴う、多大な借財が原因の藩内の混乱に心労を深め元禄10年(1697年)に死去した。しかし、嗣子がなかった。 隠居の長継は長直の弟である関衆利(森衆利)を長成の継嗣として認めてもらうよう幕府に訴え、幕府もこれを承諾した。しかし、衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)8月2日に領地を召し上げ、津山藩森家は改易された。 ただし、幕府は長継に与えていた隠居料である美作国内の2万石を改めて安堵することで、森家の存続を許した。こうして長継は新たに西江原藩を立藩し、長直は8月26日に世子として指名された。そして元禄11年(1698年)に父が死去すると、家督を継いで西江原藩主となった。西江原では新田開発を積極的に行った。 宝永3年(1706年)1月28日、播磨赤穂藩に同じく2万石で移封される。藩財政が早くから悪化したため、長直は今度は塩田開発に積極的に取り組んだ。享保7年(1722年)8月24日に死去した。享年51。跡を婿養子の長孝が継いだ。 なかなお Category:外様大名 森01 Category:備中国の藩主 Category:1672年生 Category:1722年没.

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森政房

森 政房(もり まさふさ)は、播磨赤穂藩の第4代藩主。赤穂藩森家10代。 宝永7年(1710年)、各務利直の六男として生まれる(生年は正徳4年(1714年)11月5日ともいう)。 享保16年(1731年)、同母兄で第3代藩主の長生が死去したため、その養子として家督を継ぎ、12月23日に従五位下・伊勢守に叙位・任官する。 延享3年(1746年)12月8日に死去した。享年37。跡を養子の忠洪が継いだ。 まさふさ Category:加賀美氏 森04 Category:1710年生 Category:1746年没.

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植松賞雅

植松 賞雅(うえまつ たかまさ、宝永2年7月24日(1705年9月11日) - 天明5年10月26日(1785年11月27日))は、江戸時代中期の公卿、華道家。公卿としては中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)の五代にわたって朝廷につかえ、官位は従二位権中納言まで昇っている。華道家としては松月堂古流の継承者として知られる。.

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植松雅永

植松 雅永(うえまつ まさなが、承応3年10月23日(1654年12月1日) - 宝永4年12月16日(1708年1月8日))は、江戸時代前期から中期の公卿。公家植松家の祖。主に霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕え、正三位参議まで昇った。父は千種有能。母は久我通前の娘。兄に千種有維がいる。子に植松雅孝。 寛文3年(1663年)、千種家から分家して植松家を興すとともに叙爵。寛文7年(1667年)に元服して従五位上侍従となるが、名誉職としての就任ではなく、近習として霊元天皇の側近くにおかれて重用された。霊元上皇と仲の悪いことで知られる東山天皇の時代にもそのまま近習として留め置かれているので立ち回りの上手い人物であったと思われる。元禄7年(1694年)に正三位。元禄14年(1701年)に参議となっている。 まさなか Category:千種家 Category:江戸時代の公家 Category:1654年生 Category:1708年没.

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植村家包

植村 家包(うえむら いえかね / いえかつ)は、大和高取藩の第5代藩主。.

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植村正朝

植村 正朝(うえむら まさとも)は、上総勝浦藩の第2代藩主。忠朝系植村家2代。.

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植村政勝

植村 政勝(うえむら まさかつ、元禄8年(1695年) - 安永6年1月8日(1777年2月15日))は、江戸時代の隠密・本草学者。号は新甫。通称は佐平次。 紀伊藩領である伊勢国大津杉村(現在の三重県松阪市)の郷士植村政恭の子。宝永7年(1710年)に紀伊藩主徳川吉宗に召されて御庭方となり、吉宗が将軍に任ぜられるとこれに従って江戸城に入り、江戸幕府御庭番となった。享保5年(1720年)に幕府駒場薬園の園監に任ぜられ、採薬使を兼ねる。以後、宝暦4年(1754年)に職を退くまで30年以上にわたって諸国の草木の実地踏査を行い、各地で未知の動植物を発見して『諸州採薬記』に記録として残し、退任翌年の宝暦5年(1755年)に幕府に献上された。ただし、これは長年公刊されることはなかった。これは、政勝が実際には隠密としての諸国探訪であったからだと言われている。江戸で没して、郊外の森巌寺(東京都世田谷区代沢)に葬られた。法号は明浄院殿曜誉観山新甫居士。.

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植木屋曽吉

植木屋 曽吉(うえきや そきち?、安永3年3月4日(1774年4月14日) - 慶応元年6月15日(1865年8月6日))は江戸時代の尾張国名古屋の植木屋。尾張藩薬園掛。小栗曽吉、花戸曽吉としても知られる。 各地に採薬に出かけて嘗百社中に植物見本を提供し、尾張本草学の発展に貢献した。テガタチドリは曽吉が駒ヶ岳で採集し、命名したもの。.

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椹木町通

椹木町通(さわらぎちょうどおり)は、京都市の東西の通りの一つで丸太町通の一筋北。烏丸通から西へ千本通まで。全区間中央線のない狭い通りである。 もともとは寺町通まで通じていたが、宝永5年に発生した宝永の大火により、現在の寺院および町家と御所の拡張が行われ閉塞することになった。.

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楞厳寺 (綾部市)

楞厳寺(りょうごんじ)は、京都府綾部市にある高野山真言宗の寺院である。山号は塩岳山(えんがくさん)。長井一禾により描かれた四季の鴉の襖絵が有名であり、丹波のカラス寺とも呼ばれている。関西花の寺二十五カ所の第2番である。春はミツバツツジ、夏はハスが見どころである。.

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楠根川

楠根川(くすねがわ)は、大阪府を流れる淀川水系の一級河川。.

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楢林鎮山

楢林 鎮山(ならばやし ちんざん、慶安元年12月14日(1649年1月26日) - 宝永8年3月29日(1711年5月16日))は、江戸時代前期の阿蘭陀通詞・医師。諱は時敏、法号は栄休。通称は彦五郎・新右衛門・新五兵衛・得生軒。子に楢林栄久がいる。 長崎の出身。9歳よりオランダ語を学び、19歳の時に出島出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。オランダ商館長の江戸入りに8回通詞として同行したほか、リターン号事件などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、オランダ商館医官より蘭方医学を学んだ。 だが、元禄11年9月27日(1698年10月30日)、突如オランダ人との内通の疑いをかけられて閉戸(武家の閉門と同義)に処せられて通詞を解任。 その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年(1706年)には、フランスの外科医アンブロワーズ・パレの著書のオランダ語版を翻訳した『紅夷外科宗伝』を刊行しており、同書には本草学者・朱子学者として名高かった貝原益軒が序文を寄せている。宝永5年(1708年)には、名声を聞いた時の将軍徳川綱吉が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、福岡藩主黒田綱政の招聘も同様の理由で辞退している。.

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榊原篁洲

榊原 篁洲(さかきばら こうしゅう、明暦2年(1656年) - 宝永3年1月3日(1706年2月15日))は、江戸時代前期の儒学者。名は玄輔、字を希翊、号は篁洲のほかに惕々子、勃窣散人。通称は小太郎、のちに元輔。和泉の生まれ。.

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榊原政祐

榊原 政祐(さかきばら まさすけ、宝永2年5月21日(1705年7月11日) - 享保17年8月29日(1732年10月17日))は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第2代藩主。榊原家7代当主。 榊原政祐の墓(圓教寺).

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榊原政邦

榊原 政邦(さかきばら まさくに)は、江戸時代中期の大名。越後村上藩第2代藩主。播磨姫路藩初代藩主。榊原家6代当主。 分家の旗本榊原家の榊原勝政(榊原康勝の庶子。1,000俵)の子の榊原勝直(1,000石)の長男として誕生する。若くして嗣子なく没した榊原本家の政倫の養嗣子となり、越後村上藩を相続、その後に姫路藩に転封となる。.

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榎本就正

榎本 就正(えのもと なりまさ)は、江戸時代の武士。毛利氏の家臣で、長州藩士。父は榎本就宣。.

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榛名湖

榛名湖(はるなこ)は、群馬県西部にある湖。榛名山のカルデラ内に生じた火口原湖で、水系としては利根川に属する。周囲は約4.8キロメートル、面積は約1.2平方キロメートル、最深部は約12メートルから15メートル。 『万葉集』の時代から上野国を象徴する歌題「伊香保の沼」として知られる。榛名神社とともに、江戸時代以降は関東地方を中心とする雨乞い信仰「榛名講」の目的地となった。明治以降は近接する伊香保温泉に集まった文化人によって文芸作品に描かれた。大正時代からは本格的な観光開発がはじまり、年間百数十万人(1987年)の観光客を集め 、一年を通じて群馬県を代表する観光地の一つとなっている。.

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様似郡

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横山任風

横山 任風(よこやま とうかぜ、万治元年(1658年) - 宝永元年5月9日(1704年6月10日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第5代当主。 父は加賀藩家老横山忠次。母は岡山藩家老日置忠治の養女(実父日置忠隆)。兄は横山玄位。正室は横山定治の娘。子は奥村有輝室、富田方巣室、横山貴林室。養子は横山貴林。官位は従五位下山城守。幼名権八郎。初名は貞次、別名英盛。通称左衛門。.

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横山貴林

横山 貴林(よこやま たかもと、元禄8年5月25日(1695年7月6日) - 延享5年3月10日(1748年4月7日))は、加賀藩年寄。加賀八家横山家第6代当主。 父は加賀藩年寄奥村悳輝。兄弟は奥村明敬、奥村温良、奥村有定。正室は横山任風の娘。子は横山長世、横山隆達、奥村隆振、横山隆明、本多政行室。通称求馬。官位は従五位下大和守。.

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横浜市の市民の森

横浜市の市民の森(よこはましのしみんのもり)は横浜市に存在する市民の森のことであるが、本項では同市の緑地保護制度のひとつである「市民の森」について解説する。.

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樽屋

樽屋(たるや)は、江戸の町政を司る町年寄三家の1つ「樽屋藤左衛門」『国史大辞典』第9巻 吉川弘文館、320頁。吉原健一郎著 『江戸の町役人』 吉川弘文館、(20 - 23頁)。。家紋は桔梗。江戸草創期以来の旧家で、町年寄を世襲で勤め、当主は樽屋藤左衛門と名乗った。 三家に順位をつけると、奈良屋・樽屋・喜多村家ということになり、町年寄の家格としては第2位となる。 樽屋の拝領屋敷は本町二丁目にあり、場所は江戸城の常盤橋御門を出た本町通りに面した角地であった吉原健一郎著 『江戸の町役人』 吉川弘文館、(136-138頁)。。160坪ある屋敷地の表側は他の町人に貸し、それぞれ横町から長屋門を入って屋敷に達するようになっていた。樽屋は4人の町人に屋敷を貸しており、その分の年収は明治2年の記録では87両余であった「町年寄の収入(寛政元年)」 吉原健一郎著 『江戸の町役人』吉川弘文館 (138-141頁)。。拝領屋敷の間口13間(京間)のうち東側の5間を享保16年(1731年)に呉服問屋の富山(とみやま)に売却している。この拝領屋敷は武家や他の町年寄と同様、役宅を兼ねており、これがいわゆる町年寄役所である。樽屋の居宅は拝領地の南側にあった本革屋町の自己所有地にあったようである。.

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樋口基康

樋口 基康(ひぐち もとやす、宝永3年7月11日(1706年8月18日) - 安永9年6月27日(1780年7月28日))は江戸時代中期の公卿。藤原北家長良流樋口家の第4代当主。正室は高松藩3代藩主松平頼豊の娘。子女に樋口冬康、信子(二条治孝側室)、藤子(光格天皇勾当内侍)など。号は観無量寿院。正二位、権大納言。 昭和天皇の高祖母(信子)の父である。.

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樋脇町市比野

樋脇町市比野(ひわきちょういちひの Hiwaki-Chō Ichihino)は、鹿児島県薩摩川内市の大字。旧薩摩郡樋脇郷市比野村、薩摩郡樋脇村大字市比野、薩摩郡樋脇町市比野。郵便番号は895-1203。人口は3,844人、世帯数は1,085世帯(2011年3月1日現在)。.

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櫛笥賀子

櫛笥 賀子(くしげ よしこ、延宝3年(1675年) - 宝永6年12月29日(1710年1月28日))は江戸時代中期の女性。東山天皇の後宮で、中御門天皇の生母。初名は慶子(読み同じ)だったが、父・隆慶が隆賀に改名したのに伴って賀子に改名した。.

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正受庵

正受庵(しょうじゅあん)は長野県飯山市にある臨済宗の寺院。山号は小畝山(こうねさん)。臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴の師であった道鏡慧端の住まいとして知られている。長野県史跡(1960年〈昭和35年〉2月11日指定)。.

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正受院

正受院(しょうじゅいん)は、東京都新宿区新宿二丁目にある浄土宗の寺院である。正式には明了山正受院願光寺という。靖国通りに面し、成覚寺と隣接している。.

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正宣寺 (大阪市)

正宣寺(しょうせんじ)は、大阪府大阪市浪速区にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は瑞華山。本尊は阿弥陀如来。.

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正一位

正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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正徳の治

正徳の治(しょうとくのち)は、江戸時代の正徳年間を中心に進められた政治改革である。 正徳は江戸幕府の6代将軍徳川家宣・7代将軍家継の治世の年号で、主に将軍侍講(政治顧問)の新井白石と側用人の間部詮房らが実権を担った。白石の儒学思想を基に、文治主義と呼ばれる諸政策を推進した。次代の8代将軍徳川吉宗が行った享保の改革により相当部分は修正されるが、継続された政策も多い。.

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正行寺 (青森県中泊町)

正行寺(しょうぎょうじ)は、青森県北津軽郡中泊町小泊字小泊にある日蓮宗の寺院。山号は法広山。旧本山は弘前本行寺。境内からは竜飛崎や北海道松前郡等が一望に見える。.

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正覚寺 (横須賀市)

正覚寺(しょうかくじ)は、神奈川県横須賀市佐原にある日蓮宗系単立寺院。山号は大谷山。旧本山は佐原常勝寺、奠師法縁(奠統会)。.

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正親町公通

正親町 公通(おおぎまち きんみち、承応2年閏6月26日(1653年8月19日) - 享保18年7月12日(1733年8月21日))は、江戸時代中期の公家。おもに霊元天皇(112代)・東山天皇(113代)の二代に仕えた。垂加神道の布教に努めたことで知られる。また朝廷政治においては武家伝奏役などをつとめ、朝幕関係の取次ぎに活躍した。号に守初斎、須守霊社。雅号に白玉翁・風水軒。 公家正親町実豊(権大納言)の長男として京都に生まれる。母は公家藤谷為賢(権中納言)の姫。妹に正親町町子(柳沢吉保の側室)がいる。万治元年(1658年)に叙爵。寛文元年(1661年)従五位上侍従となり、寛文5年(1665年)に元服した。その後、右近衛少将・右近衛中将をへて、延宝5年(1677年)に参議となり、公卿に列する。天和元年(1681年)に正三位権中納言となり、貞享2年(1685年)には従二位に昇進。踏歌節会外弁などをつとめて、元禄6年(1693年)から武家伝奏役をつとめた。元禄8年(1695年)から翌年にかけては権大納言となった。ところが、元禄13年(1700年)に東山天皇から武家伝奏を罷免されてしまう。江戸時代の武家伝奏の任命権は江戸幕府が持っており朝廷が関与出来なかったが、東山天皇は伝奏の人事権は天皇にあるとして幕府に無断で罷免を強行したのである。親幕府派であった関白の近衛基煕は公通の垂加神道に批判的であったためにこの決定を止めなかった。また、幕府でも京都所司代の小笠原長重は江戸に通報することなくこれに同意し、幕閣もこれに対抗措置を取らずに黙認してしまったために、武家伝奏の人事権が朝廷に移ることになった。元禄15年(1702年)に朝廷から将軍徳川綱吉の生母桂昌院に対して従一位が下されたが、この異例の叙任の背景には義弟柳沢吉保から朝廷重臣への取り成しを依頼されたこの公通の働きが大きかったといわれる。宝永2年(1705年)に正二位。さらに正徳2年(1712年)に従一位となった。享保18年(1733年)7月12日に薨去。享年81。 山崎闇斎の門下生の1人であり、闇斎が創設した垂加神道を朝廷に普及することにつとめた。公通が唱えた垂加神道は俗に正親町神道などと呼ばれる。晩年は絵画と狂歌に没頭した。 子が六人いたが、長男公成と次男公梁は若くして死に、三男実本は裏辻家へ、四男隆叙は四条家へ、五男定俊は野宮家へそれぞれ養子に入ったため、正親町家の家督は末子正親町実連が継いだ。 孝明天皇は公通の来孫に当たる。.

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正野玄三

正野 玄三(しょうの げんぞう、1659年(万治2年) - 1733年(享保18年))は江戸時代中期の近江商人、日野売薬の先駆け。日野薬品工業の遠祖。.

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武家官位

武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。.

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武家伝奏

武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。.

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武川衆

武川衆(むかわしゅう、武河衆、六河衆とも)は、甲斐国の辺境武士団。甲斐源氏の武田氏支流である甲斐一条氏に連なる一族で、戦国期には武田家臣化し国境防衛などを行った。「武川」は武川筋を意味する地理的呼称で、甲斐北西部(現北杜市域、旧北巨摩郡域)の釜無川以西、御勅使川以北地域にあたる。.

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武節町

武節町(ぶせつまち)は、愛知県豊田市の町名。.

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武田定清

武田 定清(たけだ さだきよ、承応2年(1653年) - 正徳2年2月13日(1712年3月19日))は、江戸時代前期の津軽藩家臣。櫛引建貞の子。通称・源左衛門。初名・櫛引孫次郎。.

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武田信安

武田 信安(たけだ のぶやす、宝永4年(1707年) - 天明8年4月11日(1788年5月16日))は、江戸時代中期の高家旗本。武田信興の長男。母は大久保忠鎮の娘。通称は市之丞、主水、菫山。 享保20年(1735年)12月12日将軍徳川吉宗に御目見する。元文3年(1738年)10月4日父信興の死去により、家督を相続する。表高家衆に列し、生涯高家職に就くことはなかった。安永8年(1779年)12月3日隠居し、養子信明に家督を譲る。天明8年(1788年)4月11日死去、享年82。 正室は梶川頼照の娘。一男あり。長男信用は早世した。そのため、上述のとおり、同根で旧臣の柳沢氏から養子を迎え、信玄の血脈は、信安の死を以て途絶えた。 のふやす Category:江戸幕府旗本 Category:1707年生 Category:1788年没.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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武田信興

武田 信興(たけだ のぶおき、寛文12年(1672年) - 元文3年7月9日(1738年8月23日))は、江戸時代の高家旗本。武田信正の子(武田信玄の玄孫)。初名は信冬。通称は虎之助、織部。 はじめは内藤忠興のもとにあった。父信正の死後、柳沢吉保のもとに寓居する。元禄13年(1700年)12月27日幕府に召し出されて、甲斐国八代郡内500石を与えられる。寄合に所属する旗本となる。元禄14年(1701年)1月15日将軍徳川綱吉に御目見する。同年9月11日表高家衆に列する。こうして武田氏は高家旗本として再興したが、信興自身は生涯高家職に就くことはなかった。宝永2年(1705年)8月19日領地を相模国高座郡内に移される。元文3年(1738年)7月9日死去、享年67。葬地は芝の西信寺。長男信安が家督を相続した。 正室は大久保忠鎮の娘。長男に武田信安がいる。 のふおき Category:江戸幕府旗本 Category:1672年生 Category:1738年没.

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武者小路実陰

武者小路 実陰(むしゃのこうじ さねかげ)は、江戸時代前期から中期にかけての公卿・歌人。官位は従一位・准大臣。武者小路家2代当主。.

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武江年表

『武江年表』(ぶこうねんぴょう)は、斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。「武江」とは「武蔵国江戸」の意。徳川家康が江戸城に入った天正18年(1590年)から明治6年(1873年)までの市井の出来事が編年体で纏められている。正編が嘉永3年(1850年)、続編が明治15年(1882年)に出版された。.

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歴史地震

en) 挿絵/同年の作。 安政の大地震絵図/1855年に発生した安政江戸地震による災禍を伝えている。 日本の岩手県宮古市にある大津浪記念碑/1933年(昭和8年)に発生した昭和三陸地震の教訓を永く後世に伝えるべく同年に建立された災害記念碑。 歴史地震(れきしじしん)とは、歴史時代に発生した地震のうち、地震計を始めとする近代的観測機器が存在しなかった時代に属するもので、なおかつ、記録で確かめられるものをいう。それらは、古文書や災害記念碑という形で今日まで伝えられてきた。英語には "historical earthquake" という語 (cf. en) があるが、日本語の「歴史地震」よりやや広義かも知れない。 日本語(専門用語)「歴史地震」において定義されている「歴史」は、記録された人間社会の出来事の変遷を指すため、時期的に該当していようとも、伝わっていながら信頼するに足る記録の見当たらないものや、考古学的・地球科学的知見(遺跡発掘や地質調査を始めとする様々な学問から得られる情報と見解)によってその発生が推測あるいは確認されながら歴史として検証できないものは、歴史地震と見なされない。つまり、確かな記録の残っていることが「歴史地震」の定義上の前提である(2011年6月1日時点のアーカイブ) - 「歴史地震 -宝永地震を中心に-」出典先の定義するところでは「史料が残っていることが前提」ということであるが、定義上「史料」には記録だけでなく遺物・遺跡・口頭伝承なども含まれ、「記録」とは意味が大きく異なる。したがって、本項では狭義で「確かな記録の残っていることが前提」とした。このように、本項では「記録」と「史料」を明確に書き分ける。。 一方、先史時代(記録が残されるようになる以前の時代)に発生した地震は先史地震といい、地質学的成果や考古学的成果などがこれを証明し得る。なお、日本の歴史では、中央政権の勢力範囲において古墳時代以前を先史時代としているが、地域によって差異が大きく、例えば蝦夷地(北海道)は江戸時代以降に歴史時代が始まる出典先は歴史地震の範疇を奈良時代以降としているが、奈良時代の前の飛鳥時代を先史時代と見なすことには無理があるため、調整した。。日本では1885年(明治18年)に地震計を始めとする近代的観測体制の整備が開始されたため、歴史地震は一般的に1884年(明治17年)以前に発生したものを指す。 また、先史時代と歴史時代の別無く、さらには、歴史的(歴史学的)検証の有無を問わず、近代的観測機器の登場以前に発生した地震を総じて古地震という。 歴史地震の調査研究は、将来の発生を想定される地震の予測など、防災上欠かすことのできないもので、巨大地震の発生周期などを論ずる地震学の一分野であり、ある地域の地震災害の正確な評価を行うためには、地震によって開放されるエネルギーを見積もる必要があるが、計器観測が始まって以来の地震のみではデータの蓄積として不充分であり、古地震学の助けを借りる必要性が生じるT.レイ・T.C.ウォレス 『地震学 下巻』 柳谷俊訳、古今書院、2002年, ISBN 9784772230162。 また、歴史地震は歴史研究の一部を担う考古学の知見でもあり、地震考古学の分野も開拓されている寒川旭 『地震考古学 -遺跡が語る地震の歴史』 中公新書、1992年, ISBN 9784121010964寒川旭 『地震の日本史 大地は何を語るのか』 中公新書、2011年, ISBN 9784121919229。.

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死神 (日本)

死神(しにがみ)は、人間を死に誘う、または人間に死ぬ気を起こさせるとされる神。死に神とも書かれる。本項では日本の宗教、古典、民間信仰、大衆文化における死神について記述する。日本以外の神話や民間伝承上の死神については「死神」の項を参照。.

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歌舞伎役者の屋号一覧

歌舞伎役者の屋号一覧(かぶき やくしゃの やごう いちらん)では、過去・現在に存在した歌舞伎役者の屋号をあげる。ただし、伝統的な歌舞伎の屋号を継承しない新派や前進座の役者の屋号は省いた。.

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殺生奉行

殺生奉行(せっしょうぶぎょう)は、江戸幕府の職名の1つ。将軍の狩り全般を担う役職で「殺生奉行」大石学著 『江戸幕府大事典』、279頁。、殺生方とも呼ばれる。 記録上では、寛永18年(1641年)8月25日から殺生奉行を務める安藤忠五郎定武が、同僚の筒井久平正成とともに慶安3年(1650年)に斑毛の鴨を獲ったことで褒美の時服を賜わったことが見える(「大猷院殿御実紀」『徳川実紀』三「殺生奉行」『江戸時代奉行職事典』 川口謙二、池田孝、池田政弘 東京美術選書、97-98頁。)。 万治2年(1659年)に、江戸城内での席が躑躅間北より二の間と定められる(『徳川実紀』四)。 延宝8年(1680年)には200石と300石の者2人が殺生奉行の名で記録されている他、元禄4年(1691年)の『武鑑』には筒井久兵衛・安藤忠次郎・志村与兵衛の名が、宝永3年(1706年)の『武鑑』には3人の殺生奉行の名が載っている。.

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毘沙門町

毘沙門町(びしゃもんちょう)は、奈良県奈良市の中央部、市街地の中央部に位置する地区である。ならまちに位置する町の一つ。郵便番号は630-8383。.

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毛利吉広

毛利 吉広(もうり よしひろ)は、長州藩の第4代藩主。第2代藩主・毛利綱広の次男。.

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毛利就直

毛利 就直(もうり なりなお、寛永13年(1636年) - 宝永6年12月15日(1710年1月17日))は、長州藩一門家老である吉敷毛利家の4代。 父は長州藩主毛利氏一門の毛利元法。兄に毛利就信。養父は毛利元包。正室は毛利元包の娘。継室は春日仲義の姉。継々室は北尾重三の娘。子は毛利広規、毛利就包(はじめ村上武真)、毛利広政、毛利広包、村上元敬室。幼名は萬吉。通称は外記、市正、主殿。.

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毛利師就

毛利 師就(もうり もろなり、宝永3年8月26日(1706年10月2日)- 享保20年4月22日(1735年6月12日))は、長門長府藩の第7代藩主。 第6代藩主・毛利匡広の五男。母は下村氏(相子・超俊院)。正室は毛利吉元の娘・心涼院(寧子)。側室に林氏(春光院)。子は毛利教逵(のりみち、長男)。官位は従五位下、主水正。幼名は百助、財之丞。諱ははじめ親就(ちかなり)、後に師就。.

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毛利広包

毛利 広包(もうり ひろかね、元禄11年(1698年) - 元文2年4月23日(1737年5月22日))は、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代。 父は毛利就直。兄は毛利広政。正室は益田就賢の娘。継室は福原広俊養女(福原俊応の娘)。子は毛利元直。通称は清三郎、伊豆。.

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毛利広規

毛利 広規(もうり ひろのり)は、江戸時代中期の武士。長州藩の一門家老である阿川毛利家の6代目当主。父は毛利就芝。正室は毛利就包(吉敷毛利広包の兄)の娘。子は毛利広漢、毛利就貞、柳沢就章。.

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毛利広豊

毛利 広豊 (もうり ひろとよ)は、周防徳山藩の第5代藩主。就隆系毛利家5代。3代藩主・毛利元次の三男。兄は4代藩主・毛利元堯。毛利輝元の男系の曾孫にあたる。.

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毛利広政

毛利 広政(もうり ひろまさ、貞享4年(1687年) - 享保18年3月27日(1733年5月10日))は、長州藩一門家老である右田毛利家の5代。 父は吉敷毛利家毛利就直。養父は毛利就信。正室は厚狭毛利家毛利就久の娘。子は毛利広信、毛利広定室。通称は八十郎、長之助、久之丞、山城。.

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毛利元矩

毛利 元矩(もうり もとのり、宝永元年1月23日(1704年2月27日)- 享保3年3月20日(1718年4月20日))は、長門長府藩の第5代藩主。 第3代藩主・毛利綱元の四男。母は貞性院。正室なし。幼名は仁八郎。初め氏姓を那波、後に毛利に復す。.

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毛利元直 (大野毛利家)

毛利 元直(もうり もとなお)は、江戸時代の長門長州藩の一門大野毛利家第3代当主。 長州藩5代藩主・吉広の同母弟元重の子として萩で生まれた。一門大野毛利家2代当主毛利就詮の養嫡子広為(福原広俊次男)が、実兄広頼の死去により6代藩主吉元の命で福原家を継いだために、就詮の遺跡を継いだ。 1713年10月21日に死去。享年9。家督は山内広直の次男元雅が相続した。.

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毛利元重

毛利 元重(もうり もとしげ、延宝4年(1676年)- 宝永3年8月12日(1706年9月18日))は、長州藩2代藩主・毛利綱広の五男。母は梨木永祐の娘・昌寿院(房子)。5代藩主・毛利吉広の同母弟。福井藩7代藩主・松平昌明(のちの吉品)の養子。官位は従四位下・大監物。後に監物。息子に大野毛利家を継いだ元直がいる。.

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毛利元雅

毛利 元雅(もうり もとまさ、元禄15年(1702年) - 享保21年2月23日(1736年4月3日))は、長州藩一門家老である大野毛利家の4代。 兄は山内広通。正室は益田就賢の娘。子は毛利広圓、国司就将室、福原広門室。幼名幾之進。初名尭登。通称伊勢。.

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毛利元朝

毛利 元朝(もうり もととも、元禄16年1月19日(1703年3月6日)- 享保6年4月19日(1721年5月14日))は、長門長府藩の第4代藩主。のち長州藩の嗣子。諱は後にと改めている。 長州藩主・毛利吉元(長府藩第3代藩主毛利綱元の長男)の長男。母は池田綱政の娘・法林院。津山藩藩主松平宣富の娘と婚約。官位は従四位下。佐渡守。幼名は又四郎。.

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毛利綱元

毛利 綱元(もうり つなもと)は、長門長府藩の第3代藩主。第2代藩主・毛利光広の長男。.

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水の森公園

水の森公園(みずのもりこうえん)は、宮城県仙台市青葉区と泉区にまたがってある公園。七北田川の支流に造られた丸田沢堤・三共堤の2つの池沼、および、それらを囲む森林がほとんどを占めるが、公園の各入口付近に温水プールやキャンプ場などのレクリエーション施設もある。.

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水谷神社

水谷神社(みずたにじんじゃ)は、兵庫県養父市奥米地(おくめいじ)に鎮座する神社。「みたに」神社とも通称される。奥米地集落の北西部、3段に分かたれた境内地の最上段に東面して鎮座する。式内名神大社で、旧社格は村社。.

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水間沾徳

水間 沾徳(みずま せんとく、寛文2年(1662年) - 享保11年5月30日(1726年6月29日))は、江戸時代初期、松尾芭蕉、宝井其角と同時代の俳人である。芭蕉および宝井其角の没後、享保期の江戸俳壇の中心となった。 江戸に生まれる。姓は門田、のち水間、名は友兼。通称治朗左衛門。16歳で福田露言(保守派の岸本調和の門の門人で調也とも)に入門、露言に伴われて、奥州磐城平藩主・内藤義概(俳号風虎)の江戸藩邸の句会に参加し、内藤風虎の嗣子・義英(俳号露沾)の知遇を得て、沾葉と名乗った。風虎の句会は芭蕉を世にだす契機となったとされている。沾徳は磐城平藩の扶持を受け、諏訪闡幽、大村蘭台など大名俳人と交わった。貞享2年(1685年)、23歳の時、風虎が没し、露沾が廃嫡となると内藤家を致仕し、貞享4年(1687年)、名を沾徳と改め、立机した(俳句宗匠となった)。芭蕉と親交を持ち、元禄7年(1694年)、沾徳が33歳の時、芭蕉が没すると、宝井其角とともに江戸俳諧の中心となった。宝永4年(1707年)、沾徳が46歳の時、其角が没す。其角没後は江戸俳壇の諸派を集めて大宗匠と仰がれるに至った。.

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水野忠丘

水野忠丘(みずの ただおか、寛永18年(1641年)- 宝永4年12月4日(1707年12月27日))は、江戸時代の旗本。水野成貞の次男。母は蜂須賀至鎮の娘・正徳院。又八郎。初名、成春。室は幡頭氏の娘。.

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水野忠幹 (松本藩主)

水野 忠幹(みずの ただもと、元禄12年5月5日(1699年6月2日) - 享保8年5月10日(1723年6月12日))は、信濃国松本藩第5代藩主。沼津藩水野家5代。 正室は浅野綱長の娘。官位は従五位下・日向守。.

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水野忠之

水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。.

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水野忠穀

水野 忠穀(みずの ただよし、宝永4年(1707年) - 寛保2年8月24日(1742年9月22日))は江戸時代の旗本。沼津藩水野家7代。 信濃国松本藩3代藩主水野忠直の九男。4代藩主水野忠周の弟。子は水野忠友(長男)、松平信志(三男)、娘(中根正均正室)、娘(水野忠隣室)、娘(牧野成如正室)。官位は出羽守。 甥の松本藩主水野忠恒が、享保10年(1725年)7月28日、長府藩世子(後に7代藩主)の毛利師就に対して刃傷沙汰を起こし、忠恒は改易となり、川越藩にお預けとなった。しかし、水野氏は徳川家康の母於大の方の生家であることから家名存続を願う声が強く、分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、同年8月27日、叔父にあたる忠穀に相続は許されたが、信濃国佐久郡7000石(高野町知行所)の旗本として辛うじて名跡を保つこととなった。その後、江戸屋敷に忠恒を預かっている。 高禄の旗本として元文元年(1736年)1月28日に定火消、同年10月15日に書院番頭となる。同年12月16日には従五位下出羽守に叙任している。元文4年(1739年)3月15日に大番頭となり、後に大坂城の守衛となるが、寛保2年(1742年)に36歳で死去した。 世子の忠友は、のちに田沼意次の元で加増を受け、大名に返り咲いている。.

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水野忠直

水野 忠直(みずの ただなお)は、江戸時代の大名。信濃松本藩の第3代藩主。沼津藩水野家3代。 2代藩主水野忠職の次男。.

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水野忠輝

水野 忠輝(みずの ただてる、元禄4年5月22日(1691年6月18日) - 元文2年7月2日(1737年7月29日))は、江戸時代中期の大名。三河国岡崎藩の5代藩主。忠元系水野家6代。水野忠之の次男。正室は井上可安(井上正任の子)の娘(井上正岑の養女)。子は水野忠辰(長男)、水野忠則(次男)、水野忠勧(三男)、娘(阿部正敏正室)。右衛門大夫、右衛門佐、大監物。 宝永元年(1704年)、将軍徳川綱吉に初御目見し、従五位下右衛門大夫に任官した。正徳2年(1712年)に右衛門佐に改める。享保14年(1729年)には大監物に改め、翌享保15年(1730年)に父・忠之の隠居に伴って藩主に就任した。享保18年(1733年)には領内治世を賞せられた。元文2年(1737年)岡崎にて死去した。跡を長男の忠辰が継いだ。 たたてる Category:岡崎藩主 Category:1691年生 Category:1737年没.

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水野忠房

水野 忠房(みずの ただふさ、元禄6年(1693年)- 正徳2年1月16日(1712年2月22日))は、江戸時代の大名・水野忠位の嫡子。信濃国松本藩主・水野忠直の三男。官位は従五位下、周防守。 忠位の養子となり、宝永3年(1706年)徳川綱吉に拝謁。正徳元年(1711年)に叙任したが、翌年早世した。代わって、水野忠定を養子に迎え嫡子とした。 たたふさ Category:松本藩の人物 Category:1693年生 Category:1712年没.

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水野騒動

水野騒動(みずのそうどう)は、江戸時代中期に起こった三河岡崎藩でのお家騒動。.

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水野重上

水野 重上(みずの しげたか、寛永11年11月1日(1634年12月20日) - 宝永4年3月1日(1707年4月3日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第3代藩主。 第2代藩主・水野重良の長男。母は水野忠元の娘。正室は飯山藩主・松平忠倶の養女・覚応院(柏原藩主・織田信勝の長女)。養子に重孟(弟)、重富(水野忠春の六男)、重期(新庄直恒の長男)。松平忠倶の養女となった娘(田中定賢室)が一人。官位は従五位下土佐守。初名は良安(よしやす)。他に重直(しげなお)。号は良庵。通称は左門。 慶安4年(1651年)7月22日、第4代将軍・徳川家綱に拝謁し、万治元年(1658年)9月25日に父の隠居により跡を継ぐ。同年12月30日、従五位下対馬守に叙任。寛文3年(1663年)7月、紀州藩主・徳川頼宣に従って紀伊国に入国している。徳川綱教と鶴姫(第5代将軍・徳川綱吉の長女)との縁組に際して、延宝9年(1681年)7月25日に納幣の使者を務めた。 宝永4年(1707年)3月1日に死去し、跡を養嗣子の重期が継いだ。享年74(満72歳没)。法号は知徳院殿常感日応大居士。墓所は神奈川県鎌倉市の高松寺。.

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水野重期

水野 重期(みずの しげとき、元禄8年(1695年) - 元文5年7月2日(1740年7月25日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第4代藩主。 常陸麻生藩分家・新庄直恒の長男。母は水野良全(第2代藩主・水野重良の次男)の娘。養父は第3代藩主・水野重上であり、重上は母方の大伯父に当たる。養子に忠昭(水野重矩の子)。官位は従五位下淡路守。初名は直泰(なおやす)。他に重矩(しげのり)、良達(よしみち)を名乗っている。幼名は市三郎。通称は主計。 宝永4年(1707年)3月1日に養父が死去したため、同年4月7日に跡を継いだ。同年5月28日、第5代将軍・徳川綱吉に初御目見を果たす。宝永6年(1709年)12月18日には従五位下淡路守に叙任される。 正徳4年(1714年)7月18日、家督を養嗣子の忠昭に譲って隠居し、元文5年(1740年)7月2日に死去した。享年46。法号は知泉院殿静山日体大居士。墓所は東京都新宿区須賀町の戒行寺。.

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水戸八幡宮

水戸八幡宮(みとはちまんぐう)は、茨城県水戸市八幡町にある神社。正式名称は「八幡宮」である。古くは白旗山(しらはたやま)八幡宮、または白幡山八幡宮と呼ばれていた。旧社格は県社。創祀以来の水戸城主代々の崇敬社で、常陸国水府総鎮守とされてきた。.

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氷室 (京都市北区西賀茂)

氷室(ひむろ)は、 京都市北区西賀茂地区の西域山間部に位置する地名具体的には、現在の西賀茂氷室町、西賀茂西氷室町を中心とする地域に該当する(おおみや1990 p.90)。であり、また同地内でかつて氷を製造、貯蔵した場所をも示す。 氷室地区の風景.

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氷川神社 (川越市)

氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県川越市宮下町にある神社。太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。 国の重要無形民俗文化財である川越まつり(川越氷川祭)は毎年10月14日に氷川神社にて斎行される「例大祭」、直後に行われる「神幸祭」や「山車行事(祭礼)」から成り立っている。 氷川神社に古くから伝わる「境内の玉砂利を持ち帰り、たいせつにすると良縁に恵まれる」との言い伝えにちなみ、本殿前の白い玉砂利を巫女が麻の網に包み、神職がお祓いした「縁結び玉」が毎朝8時より20体頒布されている。 毎年、七夕を含む夏には境内に飾られた2,000個以上の江戸風鈴に、願いを書いた短冊を結ぶ祭事「縁むすび風鈴」で賑わう。 敷地内には、結婚式場の氷川会館があり、埼玉県内では唯一の神社隣接の専門結婚式場として知られる。また、結婚式で執り行われる誓いの儀式「結い紐の儀」は川越氷川神社独自の儀式として商標登録されている。 埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社と区別するため、川越氷川神社と称されることもある。 なお、川越市内に氷川神社は当社を含めて14社ある。.

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氷川神社 (渋谷区東)

氷川神社 (ひかわじんじゃ)は、東京都渋谷区東二丁目にある神社。渋谷氷川神社とも称される。.

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永井直亮

永井 直亮(ながい なおすけ)は、江戸時代中期の大名。大和新庄藩の第2代藩主。永井家宗家6代。 元禄6年(1693年)、初代藩主永井直圓の次男として生まれる。長兄の直達が伯父である摂津高槻藩主永井直種の婿養子となったため、宝永7年(1710年)11月3日の父の隠居により家督を継いだ。同時に従五位下、播磨守に叙任された。享保8年(1723年)3月1日に大番頭となったが、病のため享保13年(1728年)6月11日に辞した。享保17年(1732年)閏5月4日に大坂定番となる。 前年に死去した父の後を追うように、元文2年(1737年)6月27日に死去した。享年45。跡を次男の直国が継いだ。 なおすけ Category:大和新庄藩主 Category:譜代大名 Category:1693年生 Category:1737年没.

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永井直圓

永井 直圓(ながい なおみつ)は、江戸時代前期から中期の大名。大和新庄藩の初代藩主。永井家宗家5代。 寛文11年(1671年)、丹後宮津藩主永井尚征の六男として生まれる。父の跡は兄の尚長が家督を継いだが、その尚長が延宝8年(1680年)6月26日に志摩鳥羽藩主内藤忠勝に殺されたため、永井氏は改易となった。しかし同年8月7日、弟の直圓が1万石で大和新庄藩主として家名を再興することを許された。ただし、この頃はまだ桑山一尹が藩主として存続していたため、恐らくは名義だけの領主だったものと思われる。 元禄14年(1701年)12月18日、能登守に叙任。 宝永7年(1710年)11月3日、病気を理由に家督を次男の直亮に譲って隠居し、元文元年(1736年)5月8日に死去した。享年66。.

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永井直達

永井 直達(ながい なおたつ)は、摂津高槻藩の第4代藩主。 元禄2年(1689年)、大和新庄藩主・永井直圓(永井宗家5代)の長男として生まれる。元禄8年(1695年)、伯父の高槻藩主永井直種が死去した際、直種の実子直英は乳飲み子であったため、婿養子として6月19日に跡を継いだ。元禄16年(1703年)12月21日、岳父と同様に日向守として叙任される。 宝永3年(1706年)7月30日に死去した。享年18。養子となった直英が跡を継いだ。なお、のちに直英も早世すると、直達の弟の直期がその跡を継いでいる。 なおたつ Category:高槻藩主 Category:1689年生 Category:1706年没.

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永井直英

永井 直英(ながい なおひで)は、摂津高槻藩の第5代藩主。 元禄8年(1695年)4月、第3代藩主永井直種の長男として生まれる。同年同月に父が死去した際には幼少のため家督を継げなかったが、宝永3年(1706年)に第4代藩主であった従兄で姉婿の直達が早世すると、その養子として跡を継いだ。 しかし正徳5年(1715年)1月17日に死去した。享年21。実子がなく、直達の弟の直期が養子となり跡を継いだ。 なおひて Category:高槻藩主 Category:1695年生 Category:1715年没.

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永井直敬

永井 直敬(ながい なおひろ)は、江戸時代中期の譜代大名。下野烏山藩主、播磨赤穂藩主、信濃飯山藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。尚庸系永井家2代。.

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永田政純

永田 政純(ながた まさずみ)は、江戸時代の武士、歴史家。毛利氏家臣で長州藩士。禄高は143石。長州藩主・毛利吉元の命を受けて『閥閲録』の編纂を行い、『新裁軍記』や『江氏家譜』等の編集も行った。.

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永慶寺

永慶寺(えいけいじ)は、奈良県大和郡山市永慶寺町にある寺院。黄檗宗寺院で、山号は龍華山。本尊は釈迦三尊。.

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気賀宿

気賀宿(きがしゅく)とは、17世紀初めに江戸幕府が気賀(現在の浜松市北区細江町)に設置した本坂通(姫街道)の宿場である。町の東端に気賀関所がある要害の町として知られ、地頭の気賀近藤氏が関所を管理した。.

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江島其磧

江島 其磧(えじま きせき、寛文6年(1666年) - 享保20年6月1日(1735年7月20日))は、浮世草子作者。京の大仏餅屋・村瀬正孝の子で名は権之丞、通称:庄左衛門。 元禄期には浄瑠璃を書いていたが、役者評判記、そして元禄14年(1701年)から浮世草子を書き始めた。宝永期まで、板元の八文字屋自笑の代作者だったが、宝永7年(1710年)頃から不和となり、享保3年(1718年)に和解したのち、江島其磧の名で執筆を始める。70以上の浮世草子を書き、最も売れた浮世草子作者であった。三味線物や気質物の分野を作った。自笑の作品とあわせて「八文字屋本」と呼ばれる。.

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江源武鑑

『江源武鑑』(こうげんぶかん)は、「佐々木氏郷」が著者とされている近江の戦国大名・六角氏に関する日次記形式の歴史書。天文6年7月(1537年)から元和9年7月(1623年)までを記している。全18巻。18世紀に至り世に知られたが、一般的には偽書と見られている。また佐々木氏郷とは沢田源内の偽名であると本書を偽書とする立場の者からは、『江源武鑑』そのものを疑問視されている。.

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江戸上り

江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。.

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江戸六地蔵

江戸六地蔵(えどろくじぞう)は、宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像である。.

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江戸時代の三貨制度

江戸時代の三貨制度(えどじだいのさんかせいど、Tokugawa coinage)とは、江戸時代の日本において金(小判、一分判)、銀(丁銀、小玉銀)および銭(寛永通寳)という基本通貨が併行流通した貨幣制度のことである。 これらの金貨、銀貨および銭貨の間には幕府の触書による御定相場も存在したが、実態は互いに変動相場で取引されるというものであり、両替商という金融業が発達する礎を築いた。 江戸時代は徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ幕府が置かれた慶長8年(1603年)に始まり、大政奉還が行われた慶應3年(1867年)を終焉とする見方もあるが、両を基軸とするこの貨幣制度は関ヶ原の戦いの直後すなわち慶長5年(1600年)ないし慶長6年(1601年)に始まり、明治4年(1871年)の新貨条例が制定されるまでの270年間にも及ぶものであった。 なお、幕府は公式に「三貨制度」として触書を出したわけではないが、「三貨」という用語は文化12年(1815年)に両替屋を営んでいた草間直方が貨幣学研究の集大成として刊行した『三貨図彙』に見られる草間(1815).。.

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池坊専好

三十二世(二世)池坊専好の立花、六角堂、京都市中京区 池坊 専好(いけのぼう せんこう)は、華道の流派池坊の家元およびその継承予定者が名乗る名跡。安土桃山時代から現代にかけて4人がこの名を名乗った。;池坊専好(初代)(天文5年(1536年)? - 元和7年6月24日(1621年8月11日);池坊専好(二代)(天正3年(1575年)? - 万治元年11月7日(1658年12月1日);池坊専好(三代)(延宝8年(1680年) - 享保19年5月12日(1734年6月13日);池坊専好(四代)(昭和40年(1965年)9月20日 - ).

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池田友政

池田 友政(いけだ ともまさ、慶安3年(1650年) - 宝永元年9月26日(1704年10月24日))は、江戸時代前期の旗本。池田長信の長男。母は朝比奈氏。妻は安部信秀の娘。子に池田政応、池田政相、池田政長、雨宮正景、荒尾成庸、荒尾成令、池田甚九郎、坪内定次、娘(神尾元陳の妻)、娘(三枝守秀の妻)がいる。通称、修理。官位は従五位下、筑後守。 慶安3年(1650年)、池田長信の長男として生まれる。明暦2年(1656年)11月5日、遺領を継ぐ。小普請となる。この時、弟・池田利重に300石を分与し、所領は700石となった。寛文7年(1667年)11月21日、書院番に列し、延宝8年(1680年)2月6日、小姓組の組頭となった。天和2年(1682年)4月21日、上野国山田郡・下野国足利郡のうちにおいて500石を加増され、所領は1200石となった。元禄3年(1690年)1月11日、新番頭となり、翌年(1691年)11月1日、桐間の番頭となり、さらにその翌年(1692年)の12月2日には、従五位下筑後守に叙任した。宝永元年(1704年)9月26日、死去。55歳。跡を子の政応が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 ともまさ Category:備中国の人物 Category:1650年生 Category:1704年没.

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池田吉泰

池田 吉泰(いけだ よしやす、貞享4年6月24日(1687年8月1日) - 元文4年7月23日(1739年8月27日))は、江戸時代中期の大名。因幡国鳥取藩3代藩主。鳥取藩池田家宗家5代。 鹿奴藩初代藩主池田仲澄の長男。母は水戸徳川家分家・常陸国保内藩初代藩主松平頼隆の娘・涼月院菊子。義父は鳥取藩2代藩主池田綱清。正室は加賀藩4代藩主前田綱紀の三女・敬姫(宝林院)。子は池田宗泰(長男)、娘・亀姫(瑤台院、佐賀藩6代藩主鍋島宗教と婚約するも早世)。幼名を長吉、のち鳥取藩世嗣となり勝五郎と改める。初名は輝清(てるきよ)、吉明(よしあき)。官位は従四位下、侍従・右衛門督のち相模守・左近衛少将。.

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池田太寅

池田 太寅(いけだ たいしん、天和2年7月2日(1682年8月4日) - 享保8年10月9日(1723年11月6日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第7代当主。 父は6代池田宗春(長尚)。母は日置忠治の娘恵明院。正室は伊木忠義の養女てる(随松院)。養子に池田俊清。通称は刑部。 天和2年(1682年)7月2日、岡山藩家老池田長尚の嫡男として誕生。貞享2年(1685年)、父長尚の死により4歳で家督相続した。幼少のため、当初は家老森寺庄右衛門が名代となった。元禄11年(1698年)2月、母恵明院(日置金子)が死去した。元禄12年(1699年)、刑部と名を改める。元禄13年(1700年)、江戸家老となる。宝永元年(1704年)、日置忠明と共に、江戸藩邸を訪れた伯父の加賀藩家老今枝直方(忠明の弟で、母恵明院の兄)と初めて対面する。宝永3年(1706年)、仕置家老となる。享保8年(1723年)10月9日没。享年42。家督は母方の従弟俊清(日置忠明末子)を養子に迎えた。正室てる(随松院)は寛保3年(1743年)没している。.

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池田仲央

池田 仲央(いけだ なかてる)は、因幡鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の第2代藩主。 元禄5年(1692年)11月1日、初代藩主・池田仲澄の次男として鳥取で生まれる。元禄16年(1703年)9月6日、父の隠居により家督を継ぐ。宝永3年(1706年)12月19日に従五位下・豊前守に叙位・任官する。享保17年(1732年)9月に摂津守に遷任する。 朝鮮通信使や公家の接待、江戸城御門番など、幕府の公役に従事した。また、文学の奨励にも尽力した。 宝暦3年(1753年)1月11日、鳥取で死去した。享年62。跡を長男・仲庸が継いだ。 曽祖父の徳川頼宣は徳川家康の十男であるため、仲央は家康の玄孫に当たる。 曾孫の勧修寺婧子は仁孝天皇の生母であるため、仲央は仁孝天皇の高祖父に当たる。 なかてる なかてる Category:1692年生 Category:1753年没.

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池田俊清

池田 俊清(いけだ としきよ、宝永4年12月2日(1707年12月25日) - 明和2年6月9日(1765年7月26日))は、岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第8代当主。 父は岡山藩家老日置忠明。母は理性院。正室は広島藩家老上田主水妹。子は池田勝敬、乾長孝、池田博道(清煕)。養女に五条為俊室里子(土肥経平の娘)。幼名七介。通称右膳、隼人。 宝永4年(1707年)12月2日、日置忠明の子として誕生する。享保8年(1723年)、従兄の家老池田太寅の養子となり、建部池田家を相続する。同年、藩主池田継政に御目見する。名を右膳と改める。寛保3年(1743年)閏4月、仕置家老となり名を隼人と改める。宝暦6年(1756年)、実母の理性院が死去する。宝暦12年(1762年)、嫡男の政之介(勝敬)が死去し、四男の民之助(清煕)を新たに嫡男とする。宝暦14年(1764年)、牛窓で朝鮮通信使の接待役を務める。明和2年(1765年)4月、隠居し清煕に家督を譲る。同年6月9日没。墓所は阿光山建部池田家墓所(岡山県岡山市北区建部町)。 次男の長孝は鳥取藩家老乾家を継いでいる。また、長男勝敬の許婚であった里子(土肥経平の娘)を養女として公家五条為俊に嫁がせている。.

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池田利恭

池田 利恭(いけだ としやす、宝永2年12月22日(1706年2月5日)- 延宝7年(1761年))は、鳥取藩家老。 父は岡山藩家老日置忠明。養子は池田利久。幼名三之助。通称長門、豊後、大蔵。諱は知之、利恭。 宝永2年(1706年)12月22日、日置忠明の六男として岡山に生まれる。鳥取藩重臣池田知定の養子として家督を継いでいた知至が、若桜藩主池田清定の末期養子となったため、代わって知定の家督を継ぐこととなった。後に加増を受けて禄高3000石となり家老を務めた。延宝7年(1761年)没。享年56。 Category:鳥取藩の人物 としやす Category:日置氏 Category:1706年生 Category:1761年没.

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池田光仲

池田 光仲(いけだ みつなか)は、因幡鳥取藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家3代。幼名は勝五郎。徳川家康の外曾孫であり、別姓は松平氏。.

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池田継政

池田 継政(いけだ つぐまさ)は、備前岡山藩の第3代藩主。天城池田家第5代当主。岡山藩池田家宗家5代。第2代藩主・池田綱政の四男。母は綱政の側室で京都出身の栄光院。.

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池田由勝

池田 由勝(いけだ よしかつ)は、江戸時代前期の岡山藩の家老。天城池田家第4代当主。.

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池田頼教

池田 頼教(いけだ よりたか、宝永3年(1706年) - 寛保2年4月18日(1742年5月22日))は、江戸時代の旗本。池田由道の長男。妻は池田政森の娘。子に娘(戸田氏香妻)、娘(松平乗純妻)、娘(池田長置妻)、娘(井戸弘凌妻)がいる。養子に池田頼致がいる。 宝永3年(1706年)、池田由道の長男として生まれる。享保7年(1722年)6月11日、初めて将軍・徳川吉宗に拝謁し、同19年(1734年)12月22日、父の致仕(隠居)により家督を継ぐ。寛保2年(1742年)4月18日、37歳で死去。跡を養子の頼致が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 よりたか Category:1706年生 Category:1742年没.

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池田豊常

池田 豊常(いけだ とよつね、宝永6年(1709年) - 享保18年6月14日(1733年7月24日))は、江戸時代中期の旗本。池田政応の長男。母は池田利重の娘。通称は万之丞、修理。 宝永6年(1709年)、池田政応の長男として生まれる。享保10年(1725年)9月2日、遺領を継ぐが、同18年(1733年)6月14日、25歳で死去した。 跡を養子の池田政倫が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 とよつね Category:備中国の人物 Category:1709年生 Category:1733年没.

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池田輝廉

池田 輝廉(いけだ てるきよ、貞享4年(1687年) - 宝永3年9月6日(1706年10月12日))は、備中生坂藩の世嗣。初代藩主・池田輝録の次男。母は石原氏。初名、輝致(てるむね)。官位は従五位下、大隅守。 生坂藩嫡子として育ち、元禄9年(1696年)徳川綱吉に御目見した。元禄15年(1702年)叙任するが、宝永3年(1706年)に20歳で早世した。代わって、本家岡山藩主・池田綱政の次男・池田軌隆の長男である池田政晴が養子に迎えられ、嫡子となった。 てるきよ Category:岡山藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1687年生 Category:1706年没.

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池田長元

池田 長元(いけだ ながもと、元禄10年(1697年) - 享保3年6月23日(1718年7月20日))は、江戸時代中期の旗本。池田長清の子。母は野村氏。妻は三浦便次の娘。幼名は鍋五郎。 元禄10年(1697年)生まれる。宝永7年(1710年)10月22日、遺領を継ぐが、享保3年(1718年)6月23日、22歳で死去。跡を弟の長令が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 なかもと Category:1697年生 Category:1718年没.

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池田長泰

池田 長泰(いけだ ながやす、寛永3年(1626年) - 明暦3年2月26日(1657年4月9日))は、備前岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第5代当主。 父は備中松山藩主・池田長幸。正室は池田利政の娘・森昌院。子は嫡男の長尚(宗春)、土倉一長室。通称下総。 寛永3年(1626年)、池田長幸の四男として備中松山で誕生した。岡山藩家老の叔父長政の養子となり、寛永12年(1635年)に家督相続、建部1万4,000石の領主となる。寛永18年(1641年)、実家の松山藩が、藩主の長兄長常が没し末期養子を認められず改易となる。三兄長信は1,000石を与えられ旗本となった。明暦3年(1657年)2月26日没。享年32。家督は嫡男長尚が相続した。正室の森昌院は、宝永4年(1707年)12月6日に84歳で没している。.

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池田長清

池田 長清(いけだ ながきよ、寛永21年・正保元年(1645年) - 宝永7年閏8月10日(1710年10月2日))は、江戸時代前期の旗本。池田長賢の子。母は内藤忠重の娘。妻は内藤忠吉の娘。子に池田長元、池田長令、娘(坪内定堅の妻)がいる。幼名、五郎助、三五郎。通称は帯刀。初名は長政。官位は従五位下、備中守。 寛永21年・正保元年(1645年)に生まれる。万治元年(1658年)閏12月27日、従五位下備中守に叙任し、寛文4年(1664年)4月29日、遺領を継ぐ。同8年(1668年)12月9日、定火消となる。延宝5年(1677年)6月4日、小姓組の番頭となり、同7年(1679年)8月12日、書院番の番頭となった。天和2年(1682年)10月21日、上野国山田郡・勢多郡の内において1,000石を加増され、合わせて7,000石を知行する。元禄6年(1693年)9月15日、大番頭となる。 宝永7年(1710年)閏8月10日、死去。66歳。跡を子の長元が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 なかきよ Category:1645年生 Category:1710年没.

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池田武憲

池田 武憲(いけだ たけのり、正保2年(1645年) - 元禄8年7月22日(1695年8月31日))は、岡山藩士。番頭、中老、仕置家老。 元山崎藩主池田輝澄の八男。正室は熊沢蕃山の次女厚子。幼名万千代。通称三郎左衛門、兵庫、内膳。 正保2年(1645年)、因幡鹿野に池田輝澄の八男として生まれる。父輝澄は播磨山崎藩主であったが、寛永17年(1640年)お家騒動のため改易となり、甥の鳥取藩主池田光仲に預けられ、鹿野に堪忍料1万石を与えられていた。武憲は父の死後、寛文3年(1663年)に従兄の岡山藩主池田光政に仕え知行1000石。寛文9年に1000石加増され番頭。天和3年(1683年)に1000石加増、元禄2年7月(1689年)にも1000石加増され、合わせて知行高4000石。仕置家老となる。任期中は対立する津田永忠の追放を画策した。元禄8年(1695年)7月22日没。享年51。 家督を継ぐ男子が居ないため、元禄9年(1696年)に旗本池田政武の四男政矩が養子入りし名跡を継ぐも、宝永2年(1705年)池田政因に養子入りのため離籍した。その後に養子入りした善太郎(池田軌隆長男)、豊次郎(池田綱政五男)、亀治郎(軌隆次男)も相次いで他家に養子入りのために離籍した。享保3年(1718年)家老日置忠明の子森臻(勘解由)が養子入りして名跡を継ぐこととなった。 なお、武憲五女通子は番頭土肥貞平に嫁ぎ、有職故実家の土肥経平を産んでいる。.

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池田清定

池田 清定(いけだ きよさだ)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)の初代藩主。.

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池田政応

池田 政応(いけだ まさたか、延宝4年(1676年) - 享保10年6月27日(1725年8月5日))は、江戸時代中期の旗本。池田友政の長男。母は安部信秀の娘。妻は小堀政利の娘。後妻は池田利重の娘。子に池田豊常、娘(池田政胤の妻)がいる。通称は兵蔵、修理。 延宝4年(1676年)、池田友政の長男として生まれる。元禄16年(1703年)12月21日、中奥番士となる。宝永元年(1704年)12月2日、遺領を継ぐ。この時、弟・池田政長に300石を分与したため、所領は900石となった。同4年(1707年)8月28日、御徒頭となり、さらに、同6年(1709年)4月6日、小姓組の組頭となった。享保10年(1725年)6月27日、死去。50歳。跡を子の豊常が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 まさたか Category:備中国の人物 Category:1676年生 Category:1725年没.

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池田政勝

池田 政勝(いけだ まさかつ、宝永6年(1709年) - 天明2年6月2日(1782年7月11日))は、江戸時代中期の旗本。池田政親の子。母は菊地氏。子に池田定常、池田政富、養子に池田政貞がいる。通称は半蔵。 宝永6年(1709年)、生まれる。寛延3年(1750年)12月27日、遺領を継ぐ。明和8年(1771年)12月7日、家督を養子の政貞に譲って致仕した。天明2年(1782年)6月2日、死去。74歳。 Category:江戸幕府旗本 まさかつ Category:1709年生 Category:1782年没.

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池田政因

池田 政因(いけだ まさよし、延宝5年(1677年) - 宝永2年4月28日(1705年5月20日))は、江戸時代前期の旗本。池田政済の子。母は小出有棟の娘。官位は従五位下、伊豆守。 延宝5年(1677年)生まれる。元禄10年(1697年)12月10日、遺領を継ぐ。同13年(1700年)1月11日、小姓となり、同15年(1702年)12月3日、従五位下伊豆守に叙任した。宝永2年(1705年)4月28日に29歳で死去し、跡を末期養子の政職が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 まさよし Category:1677年生 Category:1705年没.

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池田政倚

池田 政倚(いけだ まさより、寛文9年1月27日(1669年2月27日) - 延享4年7月4日(1747年8月9日))は、備中国鴨方藩の第2代藩主。 初代藩主・池田政言の長男。母は浦上氏。正室は池田綱政の養女(滝川一宗の娘、宝雲院)。子に池田政含(長男、鍛治之助・早世)、娘(池田政晴正室)。養子に池田輝言(池田軌隆の次男、病により廃嫡され本家に戻る)、池田軌明(池田軌隆の三男、病により廃嫡され本家に戻る)、池田政方(池田由道の次男)。官位は従五位下。内匠頭。通称は内匠。初名は政熙。 元禄13年(1700年)、父の死去で家督を継ぐ。宝永6年(1709年)7月、内裏の造営手伝い普請を務めた。元文3年(1738年)2月16日、養嗣子の政方に家督を譲って隠居し、延享4年(1747年)7月4日に岡山で死去した。享年79。法名は禅通院殿蘭渓良秀大居士。墓所は岡山県岡山市中区小橋町の国清寺。 まさより *02 Category:1669年生 Category:1747年没.

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池田政純

池田 政純(いけだ まさずみ)は、岡山藩の家老。天城池田家第6代当主。.

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池田政相

池田 政相(いけだ まさすけ、延宝6年(1678年) - 元文3年3月4日(1738年4月22日))は、江戸時代の旗本。池田友政の二男。母は安部信秀の娘。池田利重の婿養子。子に池田政胤、池田政倫、熊三郎(早世)、娘(坪内定喜の妻)、娘(町野清諱の妻)がいる。 延宝6年(1678年)池田友政の二男として生まれる。後に池田利重の婿養子となり、元禄8年(1695年)7月11日、遺領を継ぐ。宝永2年(1705年)12月14日、大番に列する。享保4年(1719年)12月25日、新番の組頭となり、廩米百俵を加えられる。同10年(1725年)6月28日、小十人頭となる。同20年(1735年)7月28日、御先鉄炮の頭となる。元文3年(1738年)3月4日、死去。61歳。跡を子の政胤が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 まさすけ Category:1678年生 Category:1738年没.

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池田政職

池田 政職(いけだ まさもと、貞享3年(1686年) - 享保17年7月28日(1732年9月16日))は、江戸時代中期の旗本。池田政武の四男。初め池田武憲の養子、後に池田政因の婿養子・末期養子。妻は池田政因の養女(池田政済の娘)。子に池田政休、娘(駒井政潔の妻)らがいる。 貞享3年(1686年)生まれる。初め岡山藩家臣池田武憲の養子となっていたが、政因の末期養子となり、宝永2年(1705年)7月30日、遺領を継ぐ。享保17年(1732年)7月28日、死去。47歳。跡を子の政休が継いだ。 まさもと Category:江戸幕府旗本 Category:岡山藩士 Category:1686年生 Category:1732年没.

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池田政順

池田 政順(いけだ まさゆき〈まさより〉、元禄9年8月19日(1696年9月15日) - 宝永6年2月29日(1709年4月8日))は、岡山藩の世嗣。2代藩主池田綱政の三男。通称、三左衛門。 綱政の嫡男であった長兄の吉政は政順が生まれる前の元禄8年(1695年)に早世していたため、幼くして嫡子となり、宝永2年(1705年)に将軍徳川綱吉に拝謁した。しかし、宝永6年(1709年)に14歳で早世した。代わって、弟の継政が嫡子となり、家督を継いだ。 まさゆき Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:岡山藩の人物 Category:1696年生 Category:1709年没.

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池田政親

池田 政親(いけだ まさちか、天和4年・貞享元年(1684年) - 寛延3年12月5日(1751年1月2日))は、江戸時代中期の旗本。池田政武の子。母は赤羽氏。池田政森の弟。子に池田政朝(早世)、池田政勝、娘(中根正義の妻、後、離縁)らがいる。 天和4年・貞享元年(1684年)生まれる。貞享4年(1687年)7月11日、父の遺領の内播磨国神崎郡において1000石を分与され寄合に列する。元禄15年(1702年)6月21日、小姓となり、宝永2年(1705年)12月28日、小普請となった。寛延3年(1750年)12月5日、死去。67歳。跡を子の政勝が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 まさちか Category:1684年生 Category:1751年没.

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池田政胤

池田 政胤(いけだ まさたね、宝永3年(1706年) - 明和3年2月4日(1766年3月14日))は、江戸時代中期の旗本。池田政相の子。幼名は吉之丞、通称は数馬。妻は池田政応の娘。子に池田政永、又次郎(早世)、娘(池田政倫の養女となり、池田長恵の妻となる)、養女(大岡忠恒の娘。初め池田政永の妻となり、政永の死後、政胤の養女となり、池田政能の妻となった)がいる。 宝永3年(1706年)生まれる。元文3年(1738年)6月2日、父の遺跡を継ぐ。宝暦8年(1758年)5月15日、書院番の組頭となる。同12年(1762年)5月24日に職を辞し、明和3年(1766年)に61歳で死去。跡を養子の政能が継いだ。 まさたね Category:江戸幕府旗本 Category:1706年生 Category:1766年没.

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池田政晴

池田 政晴(いけだ まさはる、宝永元年(1704年) - 寛延元年9月11日(1748年10月3日))は、備中生坂藩の第2代藩主。 池田軌隆(岡山藩主・池田綱政の次男)の長男。母は広田氏。正室は池田政倚の娘。子に鵜殿政長(長男、峯之助・徳十郎、鳥取藩士・鵜殿央堯養子)、池田政員(次男)、池田政弼(三男)、池田長恵(四男、辰之助・與五郎、池田政倫養子)、娘(池田長仍室)、娘(山内豊産正室)、娘(松平忠庸正室)、娘(甲斐庄正堅正室)。官位は従五位下、丹波守。幼名は善太郎。 先代藩主・輝録の世子・輝廉が早世したため、宝永5年(1708年)に輝録の養嗣子として迎えられた。正徳3年(1713年)11月に輝録が死去したため、翌年2月19日にその跡を継いだ。 寛延元年(1748年)9月11日に45歳で死去した。法名は隆興院殿雲巌宗観大居士。跡を次男・政員が継いだ。 まさはる *02 Category:1704年生 Category:1748年没.

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河合乙州

河合 乙州(かわい おとくに、生没年不詳)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。近江国の人。俳人河合智月(智月尼)の弟で姉の養子となった。.

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河合曾良

河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日)頃)は、江戸時代中期の俳諧師。没年月日については、巡見使随員の日誌に無いため、不正確なものとなっている。 松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる。.

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河井継之助

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぎのすけ」。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが.

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河内十七箇所

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)は、鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。単に十七ケとも言う。.

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河内山本

河内山本(かわちやまもと)とは、大阪府八尾市 (旧河内国若江郡) のほぼ中央部にある地域。一般には単に山本と称するが、他の山本地域と区別するために「河内」を冠することがあるため、本ページは河内山本としている。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河内長野市

河内長野市(かわちながのし)は、大阪府南河内地域に位置する市。 この市は、1954年(昭和29年)に長野町をはじめとする6町村が合併しており、市の中心部に対しては旧町名を用いて長野と呼称される。南部の山麓地域では奥河内という観光名称が使われ、滝畑四十八滝や岩湧山などの大自然、観心寺や金剛寺、高野街道などの歴史的価値のある史跡や建造物が残る。楠木氏ゆかりの地としても知られており国宝・重要文化財数に関しては全国の市町村のうち日光市に次いで12番目に多い自治体であることから「文化財のまち 河内長野」と称される。 大阪都心まで約30分、関西国際空港へは約1時間という交通至便の地にありながら、市を囲む山並みは壮観で、市内に居ながらにして大自然を満喫できることなどから、市制施行以降、市内各地にニュータウン(新興住宅地)が造成され、衛星都市として発展してきた。 週刊東洋経済の「日本のいい街ランキング」によると2012年発表の総合ランキングで全国788市中149位(大阪府内33市中8位)と2010年の288位より大きく順位を上げた。同誌の「安全・安心な街ランキング」においては、大阪府内で第1位を記録している。 市内全域において10月2週目にはだんじり祭が盛んに行われており、ぶんまわし(全地区)や、曳き歌(市町東、向野町、三日市地区)、やりまわし(三日市地区)などの泉州や南河内など様々な形態の祭りが盛んに行われている。 また、河内長野市は、爪楊枝(つまようじ)の産地としても知られており、全国の爪楊枝の生産の大半がここ河内長野で行われている。.

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河野李由

河野 李由(こうの りゆう、寛文2年(1662年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸時代前期の僧・俳人、近江蕉門。浄土真宗本願寺派の彦根明照寺(光明遍照寺)14世住職、律師。字は買年、諱は通賢と言い、釈名を亮爾と号す。近江国の生まれ。父は河野通仁。子に河野通惠(自蹊)。.

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河村若芝

河村 若芝(かわむら じゃくし、寛永15年(1638年) - 宝永4年10月1日(1707年10月25日))は、江戸時代前期に長崎で活躍した画家・工芸家。逸然に就いて画を修め、長崎漢画の発展に尽くした。その奇矯な画様は伊藤若冲や曾我蕭白などの「奇想の画家」のルーツとされる。また、腐食象眼の技を学び鍔細工に優れた。 字を蘭渓、道号を道光、煙霞比丘(師から襲名)・風狂子・紫陽山人・散逸道人・普馨などと号した。また釈道光・意山和尚とも呼ばれた。.

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油ヶ淵

油ヶ淵(あぶらがふち)は、碧南市と安城市の境に位置する愛知県唯一の天然湖沼である。二級河川に指定されている。.

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治水

治水(ちすい)とは、洪水・高潮などの水害や、地すべり・土石流・急傾斜地崩壊などの土砂災害から人間の生命・財産・生活を防御するために行う事業を指し、具体的には、堤防・護岸・ダム・放水路・遊水池などの整備や、河川流路の付け替え、河道浚渫による流量確保、氾濫原における人間活動の制限、などが含まれる。 河川と堤防(千種川,日本) オランダの大堤防.

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沼津市

沼津市(ぬまづし)は、静岡県の東部、伊豆半島の付け根に位置する市。施行時特例市。.

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沖田神社

沖田神社(おきたじんじゃ)は、岡山県岡山市中区にある神社。岡山市の干拓地総鎮守。祭神は天照大御神、素戔嗚尊、軻遇槌命、倉稲魂命、句句廼智命、おきた姫。旧社格は県社。.

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波平安国

波平 安国(なみのひら やすくに、生没年不詳)は江戸時代元禄期・薩摩の刀工。本名:橋口四郎兵衛、のち三郎兵衛。 波平57代・大和守安行の四男。本家を継ぎ波平58代となった。 宝永5年(1708年)大和大掾を受領。享保5年(1720年)没。 息子は波平59代・ 安常。 門人に一平安代がいる。 作風はよく詰んだ板目の地鉄に柾目が交じり地沸つく。刃紋は直刃調、小湾れ、小互の目が交じるものもある。小沸出来に荒沸交じり、砂流し入る。帽子は小丸または中丸に返り、茎鑢目は檜垣、先栗尻。 池波正太郎の時代小説「剣客商売」で、安国の脇差が主人公秋山小兵衛の差料として登場している。.

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法如

法如(ほうにょ、宝永4年1月9日(1707年2月11日) - 寛政元年10月24日(1789年12月10日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第17世宗主。西本願寺住職。諱は光闡。院号は信慧院。法印大僧正。父は第13世良如の10男寂円。九条稙基の猶子。母は円成院(法寿)。妻は如教(誠心院)。第18世文如は長男。.

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法心院

法心院(ほうしんいん、天和2年(1682年) - 明和3年6月2日(1766年7月8日))は、江戸幕府第6代将軍徳川家宣の側室。名は古牟。別称に一之御部屋、右近局。.

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法福寺 (長岡市)

日蓮聖人獅子吼の銅像 法福寺(ほうふくじ)は、新潟県長岡市寺泊(旧寺泊町)にある日蓮宗の寺院である。山号は寺泊山。旧本山は、京都妙覚寺。奠師法縁。.

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法照寺 (藤沢市)

法照寺(ほうしょうじ)は神奈川県藤沢市にある浄土宗の寺院。山号は善光山。.

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法隆寺

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院。聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問寺など。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。 法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。.

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法華寺

南門 法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、平成11年(1999年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。.

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法霖

法霖(ほうりん、1693年(元禄6年)- 1741年11月24日(寛保元年10月17日))は、江戸時代中期の浄土真宗本願寺派の僧。日渓法霖、正崇寺法霖とも呼ばれる。西本願寺学林4世能化を務めた。諱は慧琳。号は日渓・松華子。諡は演暢院。.

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法蓮寺 (塩竈市)

鹽竈神社 裏参道(東参道)入口鳥居奥に見える林の東側(写真右手方向)に法蓮寺があったとされる。右に写っている白い建物は塩竈市役所宮町分庁舎。 鹽竈神社 裏参道(東参道)終点付近樹木に隠れて見えないが、階段を登りきった右側に鹽竈神社博物館がある。奥には鹽竈神社の鳥居が見える。 法蓮寺(ほうれんじ)は陸奥国宮城郡塩竈村、現在の宮城県塩竈市にあった真言宗寺院で、戦国時代末期から江戸時代にかけて陸奥国一宮である鹽竈神社の別当であった。院号を「金光明山 法蓮華院 法蓮密寺」と言い、山号「一森山」、別名「塩竈寺」とも呼ばれた。別当として脇院12房と社家29家からなる「一山」の中心となって社務を取り仕切り、鹽竈神社の裏参道(東参道)入り口から一森山中段(現在の東参道、塩竈市役所宮町分庁舎付近から鹽竈神社博物館付近まで)に脇院など多数の建物があったとされる。明治の廃仏毀釈により廃寺となった。本尊は大日如来であったと言われる。.

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法量神社

法量神社(ほうりょうじんじゃ)は青森県十和田市法量に鎮座する神社。鎮座地は小高い丘の上で法量集落を見渡し、眼下には田園等のどかな風景が広がる。.

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泉福寺 (川崎市)

泉福寺(せんぷくじ)は、神奈川県川崎市宮前区馬絹にある天台宗の寺院。.

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津山まつり

津山まつり(つやままつり)は、岡山県津山市で行われる東の大隅神社、総鎮守の徳守神社、西の高野神社の秋祭りの総称。 例年、10月第3週の土日と第4週の土日に行われる。元は津山城下の大隅神社と徳守神社の秋祭りの総称だったが、近年高野神社が加わった。総鎮守・徳守神社の祭礼は美作津山藩初代藩主森忠政が慶長9年(1604年)に同宮を再建して間もなく始まったとされ、400年の歴史を持つ。.

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津嶋神社 (三豊市)

津嶋神社(つしまじんじゃ)は、香川県三豊市の北部に浮かぶ津島にある子供の守り神として信仰を集める神社。.

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津田孟昭

津田 孟昭(つだ たけあきら、慶安4年(1651年) - 享保9年8月3日(1724年9月19日))は、加賀藩の家老、人持組津田玄蕃家第4代当主。 父は津田正真。子は津田敬脩、津田孟正、竹田好徳。通称逸角、右兵衛、玄蕃。初名は正卿、正加。号義門。 延宝3年(1675年)、父正真の死去により家督と知行8000石を相続する。天和3年(1683年)、若年寄となる。貞享2年(1685年)、定火消となる。貞享3年(1686年)、2000石を加増され家老となる。元禄3年(1690年)、金沢の大火の際に、鷹狩で不在だったことを咎められ、藩主前田綱紀に家老を解任される。宝永年中、神護寺天徳院証取火消となる。享保5年(1720年)、再び家老に登用され、世子吉徳の守役を兼任する。 享保9年(1724年)、隠居して家督を嫡男敬脩に譲り、隠居料700石を賜り義門と号す。同年8月3日没。享年74。.

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津田信栄

津田 信栄(つだ のぶえい?)は、江戸時代前期の尾張藩士。吉原仲治の子。岩倉織田氏の系統で、家紋は織田木瓜。.

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津田永忠

津田 永忠(つだ ながただ、寛永17年(1640年) - 宝永4年2月5日(1707年3月8日))は、江戸時代前期の岡山藩士。岡山藩主の補佐役として土木事業を行い、藩の産業・生活の基盤造りに尽力した。.

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津軽信政

津軽 信政(つがる のぶまさ)は、陸奥国弘前藩の第4代藩主。.

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津軽政たけ

津軽 政兕(つがる まさたけ)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。陸奥国弘前藩分家・黒石領(4,000石)3代当主。日本最古の釣り指南書『何羨録』の著者として知られる。.

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津軽政朝

津軽 政朝(つがる まさとも)は、江戸時代前期の弘前藩の武士。.

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津野神社 (高島市)

津野神社(つのうじんじゃ)は、滋賀県高島市にある神社である。.

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津治姫

津治姫(つじひめ、宝永7年6月23日(1710年) - ?)は、越後村松藩第5代藩主・堀直堯の正室。父は陸奥守山藩藩主・松平頼貞。母は側室の松本氏(多美)。初名は与志、満佐、頼など。兄弟には松平頼尚、松平頼寛、松平定賢、松平頼恭、松平頼済などがいる。.

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洲崎神社

大鳥居 海岸に面する。 洲崎神社(すさきじんじゃ/すのさきじんじゃ)は、千葉県館山市洲崎にある神社。式内社(大社)論社で、江戸時代に安房国一宮とされた。旧社格は県社。 御手洗山中腹に鎮座する。.

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淨願寺

淨願寺(じょうがんじ)は、和歌山県紀の川市にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。.

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深堀事件

深堀事件(ふかほりじけん)は、元禄13年12月19日(1701年1月16日)から12月20日(同1月17日)にかけて起こった、肥前国天領長崎(現・長崎県長崎市)において長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士(家老格深堀鍋島家の家中のこと)の間に起こった騒動。これにより双方に死者を出す騒ぎになった。別名「深堀騒動」(長崎側から)、「長崎喧嘩」「大音寺坂事件」とも。 この事件の起きた背景には、香焼瀬戸を通る長崎入港の貿易船から礼物を徴収する慣例があったが、長崎町人によってこの慣行を侵すなんらかの事態があったためとも言われている。.

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深尾繁峯

深尾 繁峯(ふかお しげみね)は、江戸時代中期の武士。土佐藩の家老。深尾氏5代当主。5代佐川領主。.

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深尾重方

深尾 重方(ふかお しげかた)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。土佐藩の重臣。深尾氏4代当主。4代佐川領主。.

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深田武雄

深田 武雄(ふかだ たけお、明治24年(1891年)3月 - 昭和45年(1970年)7月30日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』219頁。)は、日本の政治家。元貴族院議員、元鳥取県会議員。元五千石村長。銘酒「御車」醸造元、御車酒造(限)社長『新日本人物大観』(鳥取県版)1958年 ヒ・フ…232頁。米子酒販(株)社長。.

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深野池

深北緑地内にある深野池 深野池(ふこうのいけ、ふこのいけ)は、現在では大阪府大東市から寝屋川市にかけて存在する深北緑地内にある池のことを言う。 歴史的名称としては、江戸時代まで河内国の広範囲(現在の寝屋川市南部・門真市東部・大東市中央部・東大阪市北部・四條畷市西部)にかけて存在した大きな池のことを言う。門真市の弁天池もかつての深野池の一部である。.

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淵野辺

淵野辺(ふちのべ)は、神奈川県相模原市中央区の地名。現行行政地名は淵野辺一丁目から淵野辺五丁目。郵便番号252-0206。.

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淀屋

淀屋の碑 淀屋(よどや)とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。 米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。 淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。 淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目~六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。.

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淀藩

淀藩(よどはん)は、山城国(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。.

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渡辺始興

渡辺 始興(わたなべ しこう/もとおき、天和3年(1683年) - 宝暦5年7月29日(1755年9月5日))は京都出身の江戸時代中期の絵師。通称求馬。狩野派や大和絵など多様な様式で描いたが、一般に琳派の絵師に分類されることが多い。.

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渡辺幸庵

渡辺 幸庵(わたなべ こうあん、天正10年(1582年) - 宝永8年(1711年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。諱は茂、通称は久三郎、号は幸庵。柳生新陰流を修めた剣客ともいわれる。ただし、これらは事実と異なる可能性がある(後述)。.

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渡辺秀石

渡辺秀石(わたなべ しゅうせき、寛永16年(1639年) - 宝永4年1月16日(1707年2月18日))は、江戸時代前期に長崎で活躍した画家。逸然に就いて画を修め、長崎奉行所から唐絵目利を命ぜられると写生画を基調とする唐絵目利派の祖となった。 本姓は岩川氏。字を元章、仁寿斎・嬾道人などと号し、師の画号である煙霞比丘も襲名している。通称は甚吉。.

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渡辺綱保

渡辺 綱保(わたなべ つなやす)は、江戸時代中期の武士。尾張藩家老。渡辺半蔵家7代当主。.

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渡辺直綱 (尾張藩士)

渡辺 直綱(わたなべ なおつな)は、江戸時代中期の武士。尾張藩士。渡辺半蔵家6代当主。.

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渥美勝之

渥美 勝之(あつみ かつゆき)は、伊予西条藩家老。藩主・松平頼純の娘婿。.

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温泉津焼

温泉津焼(ゆのつやき)は、島根県大田市温泉津町で焼かれる陶磁器。.

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渓斎英泉

時世美女競 東都芸子」 渓斎英泉画。 渓斎 英泉(けいさい えいせん、寛政3年(1791年)- 嘉永元年7月22日(1848年8月20日))とは、江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師。.

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清心院

清心院(せいしんいん、旧字体:淸心院、寛文7年(1667年) - 元文4年11月19日(1739年12月19日))は、江戸時代の5代将軍・徳川綱吉の側室。諱は不詳。通称は新典侍(しんすけ、新助)。.

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清芳寺

清芳寺(せいほうじ)は、三重県津市美里町南長野にある真宗高田派の寺院。山号は 龍華山。.

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清閑寺熈定

清閑寺 熙定(せいかんじ ひろさだ、旧字体:淸閑寺 煕定)は、江戸時代中期の公卿。明正天皇・後光明天皇・後西天皇・霊元天皇・東山天皇の五代に仕えた。浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際に江戸に下向していた院使として知られる。本姓は藤原。.

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清水坂 (台東区)

清水坂(しみずざか)は、東京都台東区上野公園9,10番地と池之端四丁目2,1,16,19番地の間を通る、鈎状に折れ曲がった坂。円地文子が住んでおり短編小説『妖』の舞台となっている。上野恩賜公園内にある寛永寺清水観音堂の石段は清水坂(きよみずさか)という名称であり異なる。.

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清水充親

清水 充親(しみず みつちか)は、江戸時代の武士。毛利氏家臣で長州藩士。父は長州藩士・清水元親。子は清水親全。.

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清水谷実業

清水谷 実業(しみずだに さねなり)は、江戸時代前期から中期にかけての西園寺家一門の公家・歌人。.

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渋江光重

渋江 光重(しぶえ みつしげ、寛文7年(1667年) - 寛保3年9月14日(1743年10月30日))は、江戸時代前期の久保田藩の執政。渋江政光の三男の渋江五郎左衛門を祖とする渋江氏分家(家格は廻座宿老)当主で婿養子。実家は梅津政景を祖とする梅津氏分家。通称は富之輔、十兵衛、播磨。諱は梅津氏時代は忠和、渋江氏になってから光重。号は松陰軒。子は今宮永教夫人、今宮義透夫人などの4男2女。 藩主佐竹義格の治世中に江戸幕府より命じられた荒川と利根川の堤防修復工事の副奉行などを勤める。.

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湯の山温泉 (三重県)

湯の山温泉(ゆのやまおんせん)は、三重県三重郡菰野町にある温泉である。.

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湯浅常山

湯浅 常山(ゆあさ じょうざん)は、江戸時代中期の岡山藩士・儒学者。常山は雅号で、諱は元禎。字は之祥(士祥)。通称は新兵衛。『常山紀談』で著名。.

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源三郎

源三郎(げんざぶろう、生没年不詳)は江戸時代の奈良の浮世絵師。.

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源氏物語の写本の一覧

源氏物語の写本の一覧(げんじものがたりのしゃほんのいちらん)は、源氏物語の写本の一覧である。:Category:源氏物語の写本も見よ。.

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源氏物語忍草

『源氏物語忍草』(げんじものがたりしのぶくさ)は、江戸時代に出版された『源氏物語』の梗概書である。.

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溝口 (川崎市)

溝口(みぞのくち)は、日本の関東地方南西部、神奈川県川崎市高津区に所在する地域・地名である。呼称は言語的ゆれが大きく、この件については後述する(※本項で地名〈駅名など固有名詞以外〉を表記する際には「溝口」を用いる) なお、本項では、JR南武線武蔵溝ノ口駅、および、東急田園都市線溝の口駅を中心に発展した同市北部の中核都市、並びに、その駅前市街地に集積する各種施設についても解説する(この場合、溝口および周辺の町域を含.

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溝口直治

溝口 直治(みぞぐち なおはる、宝永4年7月26日(1707年8月23日) - 享保17年閏5月11日(1732年7月7日))は、越後国新発田藩の6代藩主。5代藩主溝口重元の次男。初め重貞(しげさだ)と称し、のち直治と改める(将軍世子徳川家重の「重」を憚ったため)。幼名は虎之助、のち久三郎。官位は従五位下。信濃守。母は重元の側室で藩士山崎定右衛門の娘・角(信号院)。 江戸において生まれる。享保元年(1716年)徳川吉宗に初御目見する。同3年11月21日(1719年1月11日)、父・重元の死去により家督を継ぎ、翌享保4年(1719年)に家督の礼として重元の遺品である青江助次の太刀を将軍家に献上する。同年、従五位下信濃守に叙任する。 享保9年(1724年)、越後国蒲原郡の幕府領4万3000石を預けられ、同14年(1729年)にはさらに2万石を預けられた。同15年(1730年)には叔父逸見元長に年々蔵米1000石を与え、幕臣とすることを願って許された。 享保17年(1732年)、江戸において26歳で死去した。法号は天真全用大機院(大機院殿前信州大守天真全用大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬る。直治は播磨姫路藩主榊原政邦の娘と結納まで交わしていたが、婚儀を行う前に病に倒れ、縁談は解消された。嗣子はなく、一族の旗本・溝口直道の四男・亀之助(溝口直温)を急養子に迎えて家督を継がせた。 直治の治世は財政窮乏がひとつの頂点に達した時期であり、新発田藩では下級藩士の召し放ちや、藩士からの知行・俸禄の借り上げを行うのやむなきに至った。ことに国元において例年のように繰り返される水害は、藩財政に大きな打撃を与えた。このために加治川や阿賀野川の水系において大規模な治水工事が行われたのも、またこの時期の特徴であった。.

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溝口重元

溝口 重元(みぞぐち しげもと、延宝8年9月23日(1680年11月14日) - 享保3年11月21日(1719年1月11日))は、越後国新発田藩の5代藩主。4代藩主溝口重雄の長男。初め宣盛(のぶもり)と称し、のち重元と改める(将軍世子徳川家宣の「宣」を憚ったため)。幼名は久三郎。官位は従五位下。伯耆守。母は重雄の側室三木氏(三枝氏とも)の娘よつ(智光院)。 正室は加賀大聖寺藩主・前田利明の娘・佐野(死別)、継室は公家・中院通躬の娘・誠(まさ)。子は2男1女。長男(早世)、溝口直治(次男)、長女・まん(早世)がいる。 新発田にて生まれる。元禄2年(1689年)、将軍徳川綱吉に初御目見する。同7年(1694年)、従五位下伯耆守に叙任する。宝永3年(1706年)、父・重雄の隠居により家督を継ぐ。正徳5年(1715年)には伊藤仁斎の門人である緒方維純を召し抱えて家中の者に講釈をさせ、また同年国元下向の際には甲州流軍学者の川西隆直を召し連れて翌年より家中に稽古を付けさせるなど、学問・武芸の奨励に力を注いだ。 享保3年11月21日(1719年1月11日)、江戸において39歳で死去し、跡を次男・直治が継いだ。法号は智應道海陽元院(陽元院殿前伯州大守智應道海大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬る。.

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溝口重雄

溝口 重雄(みぞぐち しげかつ、寛永10年7月10日(1633年8月14日) - 宝永5年9月4日(1708年10月17日))は、越後国新発田藩の4代藩主。3代藩主溝口宣直の長男。母は森川重俊の娘。 初め宣廣(のぶひろ)と称し、のち重雄と改める(将軍世子徳川家宣の「宣」を憚ったため)。幼名は久三郎。官位は従五位下。信濃守。正室は大河内松平正綱の娘(松平信綱の養女)、継室は酒井忠勝の娘。子は4男7女。溝口重元(長男)、大助(次男、初め家老堀図書の養子となって堀主計と改め、のちに近江仁正寺藩主・市橋信直の養子となって名を市橋兵部直方と改めた)、外記(三男、早世)、逸見元長(四男、幼名・金弥、分家独立して旗本となる)。娘は長女(早世)、次女・よめ(備中庭瀬藩主・戸川安宣継室)、三女・かい(豊後臼杵藩主・稲葉知通正室)、四女・きい(出羽松山藩主・酒井忠予正室)、五女・せい(伊予今治藩主・久松松平定陳正室)、六女・峯(対馬府中藩主・宗義倫正室)、七女(早世)。 寛永17年(1640年)徳川家光に初御目見する。慶安4年(1651年)に従五位下信濃守に叙任する。寛文12年(1672年)父の致仕(隠居)により家督を継ぐ。天和元年(1681年)以後数度にわたり、松平光長改易後の高田城三の丸の守衛を務める。また元禄12年(1699年)には江戸麻布新堀の普請を務めた功によって、幕府より褒美を賜った。宝永3年(1706年)7月19日に致仕して家督を長男・重元に譲り、悠山と号す。同5年(1708年)9月4日に76歳で死去した。法号は勝林宗慧悠山院(悠山院殿前信州大守勝林宗慧大居士とも)。墓所は江戸駒込の吉祥寺。 重雄の治世は、前代に大火と震災で焼失・破損した新発田城の再建をはじめ、法制の整備や総検地の実施など積極的な政策がとられ、新発田藩政の確立期であると評される。重雄自身は文芸・芸能にも心を寄せた人物で、致仕に際しては刀剣のほかに冷泉為尹筆の「古今和歌集」や冷泉持為筆の「後撰和歌集」を将軍家に献上している。溝口悠山の名で茶人としても知られ、怡渓宗悦の教えを受けて同人の流派を藩内に伝え、越後怡渓派の基礎を築いた。また父・宣直が造営した清水谷御殿に、江戸より幕府庭方の県宗知を招いて庭園を築いた。これが現在の清水園(国指定名勝・旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園)である。.

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満願寺 (京都市左京区)

満願寺(まんがんじ)は、京都府京都市左京区岡崎法勝寺町にある日蓮宗の寺院。山号は示現山。東山天皇の勅願寺で幕末の志士山崎久三郎の墓がある。洛陽十二支妙見5番札所。旧本山は身延久遠寺、勇師法縁。.

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滝川利錦

滝川 利錦(たきがわ としかね、寛永20年(1643年) - 宝永7年6月24日(1710年7月20日))は、江戸時代の旗本。村上源氏北畠庶流滝川家(常陸片野藩主滝川雄利の子孫)当主。初名は利昌(としまさ)。通称は式部、左兵衛、官位は従五位下、若狭守、長門守、越前守、隠岐守。 旗本滝川利貞の次男。母は片野藩主滝川正利の娘。妻は旗本服部保忠(元延、服部保長の長男保俊(半蔵正成の兄)の曾孫)の娘、婿養子に滝川利元(旗本土岐頼利(滝川利貞の四男、利錦の実弟)の子)、実子に滝川利章(義兄利元の養子となり、のち家督を相続)、女子3人(長女は新庄直澄室、次女は滝川利元室)がいる國民圖書, 1923, p. 425(コマ番号221)。。.

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滝脇松平家

滝脇松平家(たきわきまつだいらけ)は、松平親忠の九男・乗清を祖とする松平氏の庶流。三河国加茂郡滝脇(現在の愛知県豊田市)を領したことから滝脇松平家と称した。須原屋版武鑑などで世良田松平氏と表記されている場合もある。.

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滋野井実全

滋野井 実全(しげのい さねまさ、元禄13年4月5日(1700年5月23日)-享保20年10月20日(1735年12月4日))は、江戸時代中期の公卿。父は滋野井公澄。子に滋野井公麗がいる。 3歳で叙爵を受け、宝永4年(1707年)に元服して従五位上侍従に任じられる。その後、昭仁親王の立太子とともに春宮亮に任じられ、享保18年(1733年)には参議に任じられ、翌年には従三位に叙せられる。享保20年(1735年)、皇太子昭仁親王が即位して桜町天皇となると、実全も権中納言に任命された。だが、間もなく病に倒れて35歳で死去。 父と同様に有職故実に詳しく、皇太子に近侍していたために、立太子や皇太子元服に関する記録を多く残している。 Category:1700年生 Category:1735年没 Category:江戸時代の公家 さねまさ.

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滋野井公澄

滋野井 公澄(しげのい きんすみ、寛文10年11月21日(1671年1月2日)-宝暦6年7月25日(1756年8月20日))は、江戸時代中期の公卿。高倉永敦の末子。初名は兼成。号は五松軒。法号は良覚。子に滋野井実全・正親町三条実彦、娘(堀河冬輔室)、直子(京極宮文仁親王室)。 天和元年(1681年)に滋野井実光の養子となる。貞享3年(1686年)に元服して従五位上侍従に叙せられる。貞享4年12月3日に養父が45歳で死去して家督を継ぐ。元禄元年(1688年)に公澄に改名。宝永元年(1704年)に参議に任じられ、翌年に従三位に叙せられる。同6年に霊元上皇の院評定衆に任じられて享保9年(1724年)まで務める。享保5年6月2日に権大納言に任じられる。享保9年(1724年)正二位に昇進する。享保16年(1731年)に出家するが、4年後に嫡男・実全が急逝したためにその遺児である公麗の養育にあたった。 吉見和幸のもとで有職故実を学び、霊元院政のもとで東園基量、平松時方、野宮定基とともに「有職四天王」とも称された。また元禄3年(1690年)から享保6年の日記『公澄卿記』26巻や『羽林類葉抄』、『松蔭拾葉』、『簾中装束抄』などの著書がある。 きんすみ きんすみ Category:江戸時代の公家 Category:1671年生 Category:1756年没.

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服岡

服岡(ふくおか)は、愛知県海部郡飛島村にある地名。1丁目から9丁目まである。郵便番号は490-1431。当地域の人口は142世帯、641人(2010年10月1日現在、国勢調査による)。.

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服部嵐雪

服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。淡路国三原郡小榎並村(現:兵庫県南あわじ市榎列小榎列)出身。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。.

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朝陽

朝陽(あさひ)は長野市北東部の地域。本項ではかつて概ね同地域に所在した上水内郡朝陽村(あさひむら)についても述べる。.

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朝日茂保

朝日 茂保(あさひ しげやす、宝永2年2月17日(1705年3月12日) - 天明3年4月10日(1783年5月10日))は、江戸時代後期の松江藩の家老。朝日丹波とも呼ばれる。経世家とされることもある。 6代藩主・松平宗衍および7代藩主・松平治郷に仕え、特に治郷の代には、任命されて後に「御立派の改革」(おたてはのかいかく)と呼ばれる藩政改革を行った。後年は治郷から一字を与えられ郷保(さとやす)を名乗るなど、厚遇された。.

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朝日重章

朝日 重章(あさひ しげあき、延宝2年(1674年) - 享保3年9月14日(1718年10月7日))は、江戸時代の尾張藩士。幼名は甚之丞。のち、亀之助、文左衛門。家督を譲られた後は父の名前を嗣いで定右衛門。日記『鸚鵡籠中記』の著者である。.

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木下俊保

木下 俊保(きのした としやす、宝永3年7月23日(1706年8月30日)- 元文3年8月29日(1738年10月12日))は、豊後日出藩の第6代藩主。 第3代藩主・木下俊長の四男。生母は長沢氏。官位は従五位下和泉守。初名は長保(ながやす)。幼名は千五郎。通称は右京、主税。 第4代藩主・俊量のすぐ下の弟だが、34歳も年齢が離れている。享保2年(1717年)12月21日、一族の木下長胤の養子となり、家督を相続した。同家は木下延俊の六男延重を初代とする分家であり、幕府から三百俵を支給される旗本であった。享保9年10月9日、書院番に加えられた。享保15年9月3日、進物役になった。 享保16年(1731年)11月28日、兄の子で本家を継いでいた俊在が早世したため、その養嗣子(ただし俊保が8歳上)となって跡を継いだ。なお、旗本の木下家は絶家となった。享保17年1月28日、将軍徳川吉宗にお目見えする。享保18年12月18日、従五位下和泉守に叙任する。 享保の大飢饉などで藩内が大被害を受け、幕府より3000両を借用したり、悪化した藩財政を再建するために藩札を発行したりしたが、家督から7年後の元文3年(1738年)8月29日、日出で死去した。享年33。跡を甥(俊在の弟)で養嗣子の俊監が継いだ。法号は竜渓院円応浄覚。墓所は速見郡日出町の松屋寺。 としやす *06 Category:1706年生 Category:1738年没.

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木下俊量

木下 俊量(きのした としかず、寛文12年(1672年)- 享保14年11月13日(1730年1月1日))は、豊後日出藩の第4代藩主。 第3代藩主・木下俊長の長男。母は朽木稙綱の娘。正室は加藤明英の娘。側室に黒川氏、中村氏など。子に木下量道(五男)、木下俊在(六男、第5代藩主)、木下長監(八男、第7代藩主)、木下俊能(九男、第8代藩主)、木下俊泰(十男、第9代藩主)、娘(相良長興正室)、娘(久留島光通正室)、娘(木下栄俊正室)、娘(大久保忠肥正室)、娘(竹谷松平義著正室)、娘(横山清章正室)。官位は従五位下。式部少輔。 幼名は万千代。宝永4年(1707年)9月12日、父の隠居で跡を継いだ。藩政においては長河原・富水池の治水工事を行なって成功している。享保14年(1729年)11月13日、58歳で死去し、跡を六男・俊在が継いだ。法号は徳音院。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。 としかす *04 Category:1672年生 Category:1730年没.

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木下俊長

木下 俊長(きのした としなが、慶安元年12月1日(1649年1月13日)- 享保元年9月8日(1716年10月22日))は、豊後日出藩の第3代藩主。 第2代藩主・木下俊治の長男。母は安藤氏。正室は土浦藩主・朽木稙綱の娘。子に俊量(長男)、公福(三男)、長保(四男)、娘(木下公定正室)、娘(伊東長救正室)、娘(稲垣重富正室)。官位は従五位下、右衛門大夫、内蔵頭。 寛文元年(1661年)、父の死去により跡を継ぐ。延宝3年(1675年)、城下の整備に努めた。天和3年(1683年)、大久保忠宣改易後の身柄を預かる。藩政はそれほど悪政とは記されていないが、農民が治世中に逃散したことで、自ら反省するために謹慎したと言われている。宝永4年(1707年)9月12日、家督を長男・俊量に譲って隠居し、享保元年(1716年)9月8日に69歳で死去した。 法号は桂峰院。墓所は大分県速見郡日出町の松屋寺。 としなか *03 Category:1649年生 Category:1716年没.

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木下公定

木下 㒶定(きのした きんさだ、承応2年6月7日(1653年7月1日) - 享保15年12月24日(1731年1月31日))は、備中足守藩の第5代藩主。足守藩木下家5代。 第4代藩主・木下利貞の長男。母は金森重頼の娘。正室は木下俊長の娘。官位は従五位下、肥後守。幼名は熊之助。弟に木下藤栄(内記)。養子に木下利安、木下公福、木下利潔。養女に浅野長恒妻(遠山友貞娘)。 延宝7年(1679年)8月14日、父の死去により跡を継ぐ。元禄14年(1701年)3月、赤穂事件で有名な浅野長矩の改易の際、龍野藩主脇坂安照とともに赤穂城の受け取り役を務めた。宝永5年(1708年)5月には仙洞御所と中宮御所の普請で功を挙げた。 藩政においては「桑華蒙求」を著して家臣教育に務めるとともに、果樹栽培を奨励し、領民を豊かにしたと言われている。また、祖父の利当が開いた淡路流槍術の達人でもあった。享保14年(1729年)5月2日、養嗣子の利潔に家督を譲って隠居し、享保15年(1730年)12月24日に78歳で死去した。 法号は敬文院殿観翁慧定大居士。墓所は京都市東山区の高台寺円徳院と岡山市北区足守の大光寺。 弟の利安を養嫡子とするが、不行状を理由に廃嫡。替わって同じ木下一族の豊後日出藩から木下公福を養子としたが、最終的には弟の藤栄(内記)の子・利潔が跡を継いだ。.

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木俣守長

木俣 守長(きまた もりなが、寛永21年(1644年) - 享保7年4月17日(1722年5月31日)は、彦根藩筆頭家老、木俣家第4代当主。父は木俣守明。子に守盈、守吉。通称は半弥、清左衛門。号は良閑。 寛永21年(1644年)、井伊家家老木俣守明の子として生まれる。延宝元年(1673年)に家老となる。天和元年(1681年)、父の隠居により家督相続し、知行8000石となる。元禄元年(1688年)に1000石の加増を受け知行9000石。元禄4年(1691年)、4代藩主井伊直興より家中由緒書の作成を命じられる。元禄14年(1701年)、直興が隠居して5代藩主井伊直通の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で5代将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄15年(1702年)、次男の守吉が井伊直治(直興)の娘と婚約。宝永7年(1710年)、長男の守盈に家督を譲り隠居、隠居料2000石を賜る。享保7年(1722年)4月17日死去。享年79。 享保元年(1716年)、直興より、幼くして父を亡くした直興に守長がむべの木(成長に応じて葉の数を、3、5、7と増やすことから七五三の木とも呼ばれ、縁起の良い木とされる)を贈って励ましたことを述懐する書状を送られている。 守吉は直興の娘と婚約し、新知1000石で分家するも、宝永6年(1709年)に早世。守吉の家督を継いだ守嘉(守長の実弟守閑の次男)が正徳4年(1714年)に直興の娘と結婚し、その長男守次は享保17年(1732年)従兄弟の越後与板藩藩主井伊直陽の養子となり第3代藩主井伊直員となる。.

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木瀬町

木瀬町(きせちょう)は、愛知県豊田市の町名。.

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木辻遊郭

木辻遊廓(きつじゆうかく)は、奈良県奈良市にあった遊廓である。現在の東木辻町・鳴川町・瓦堂町一帯に存在した日本歴史地名大系.

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木村庄之助

木村 庄之助(きむら しょうのすけ)は、大相撲に於ける立行司の名称。行司の最高位で、相撲の番付に例えると東正横綱に相当する。2015年3月場所限りで37代目が引退し、現在は襲名者が不在である。.

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木村庄之助 (2代)

2代 木村 庄之助(にだい きむら しょうのすけ、生没年不詳)は、大相撲の立行司。本名は木村喜左衛門。貞享から宝永期にかけて行司として活動した。.

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木村庄之助 (4代)

4代 木村 庄之助(よんだい きむら しょうのすけ、生没年不詳)は、大相撲の立行司。江戸相撲草創期の人物で、「木村庄之助」としての活動が確認できる最初の人物であり、実質的な初代である 。.

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木津川 (大阪府)

道頓堀川(右手の水門)が合流 木津川(きづがわ)は、大阪府大阪市南西部を流れる淀川水系の下流における分流で一級河川。流域北部は住宅地、南部は倉庫・造船所などの工業地帯を流れる。 干潮水深は昭和5年(1930年)に10.5メートル、昭和15年(1940年)9.4メートル、昭和27年(1952年)3.2メートルと次第に浅くなっている。平均幅員は昭和27年時の調査で169メートル。.

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木挽町 (名古屋市)

木挽町(こびきちょう)は、愛知県名古屋市中区にあった地名。現在の丸の内一丁目・錦一丁目・栄一丁目の一部に相当する。1丁目から8丁目が設定されていた。.

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木戸番

木戸番(きどばん)は、江戸時代に江戸・京都・大坂をはじめとする城下町で町ごとに作られた木戸の番人。.

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木曽五木

木曽五木(きそごぼく)は、江戸時代に尾張藩により伐採が禁止された木曽谷の木。ヒノキ・アスナロ(アスヒ)・コウヤマキ・ネズコ(クロベ)・サワラの五種類の常緑針葉樹林のことを指す。木曽節にも唄われている。.

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木曽漆器

木曽漆器(きそしっき)は、長野県塩尻市(旧木曽郡楢川村)とその周辺で製造される漆器。流れをくむものとして八沢漆器と呼ぶものもある。 1975年(昭和50年)2月17日に経済産業省(当時の通商産業省)の伝統的工芸品に指定された。中心的産地である木曽平沢は、2006年(平成18年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、毎年6月に木曽漆器祭を開催している。 堅地塗り、堅地漆器ともいい、丈夫で美しいのが特徴で、主な製品には座卓、盆、膳、重箱、鉢、椀、箸などがある。.

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末広町 (名古屋市)

末広町(すえひろちょう)は、愛知県名古屋市中区の地名。1丁目から3丁目までがあった。同区栄二丁目・栄三丁目・大須二丁目・大須三丁目の各一部に相当する。.

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本坂通

本坂通と東海道 本坂通(ほんさかどおり/ほんさかどおし)は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して東海道見附宿と御油宿を結ぶ街道である。道程約60キロメートル。古くは東海道の本道で、二見の道と呼ばれ、中世以降、本坂峠を経由したことから本坂越、本坂道、本坂街道などと呼ばれた。 戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされ、宿が置かれた。 幕末頃から姫街道の呼称が見られている。 ここでは、近世以前について説明をし、記事での表記は基本「本坂通」に統一する。近代以降については姫街道(東海道)を参照。.

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本多康明

本多 康明(ほんだ やすあきら、宝永6年(1709年)- 享保15年8月10日(1730年9月21日))は、信濃飯山藩の第2代藩主。広孝系本多家6代。 飯山藩初代藩主本多助芳の三男。母は小笠原長重の養女。官位は従五位下。豊後守。 1709年正月、江戸藩邸で生まれる。幼名は猪三郎、直三郎。三男だったが長兄と次兄が早世していたため、1725年の父の死去により跡を継いだ。1730年、帰国中に病に倒れ、同年8月10日に飯山城にて死去した。享年22。嗣子がなく、家督は弟の助有が継いだ。 墓所は飯山市奈良沢の忠恩寺。 やすあきら Category:譜代大名 Category:飯山藩主 Category:1709年生 Category:1730年没.

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本多忠央

本多 忠央(ほんだ ただなか)は、江戸時代中期の大名。三河挙母藩主、のち遠江相良藩主。.

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本多忠孝

本多 忠孝(ほんだ ただたか、元禄11年(1698年) - 宝永6年9月13日(1709年10月15日))は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第2代藩主、越後村上藩初代藩主。忠勝系本多家宗家7代。姫路藩主・本多忠国の三男。官位はなし。 宝永元年(1704年)5月10日に父の死により家督を相続する。しかし、姫路は西国の要となる場所であることから、幼少を理由に忠孝は5月28日に越後村上藩に移封された。 村上城に一度も入城しないまま、宝永6年(1709年)9月13日に12歳で死去した。無嗣であったため本来であれば断絶であったが、本多忠勝以来の名門の家系であったため、幕命により一族の本多忠良が家督を相続した。しかし、禄高は15万石から5万石に減封され、さらに、三河刈谷藩に移封された。 Category:譜代大名 Category:村上藩主 Category:姫路藩主 たたたか Category:1698年生 Category:1709年没.

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本多忠常

本多 忠常(ほんだ ただつね)は、大和国郡山藩の第2代藩主。 寛文元年(1661年)、本多忠義の六男として生まれる。初代藩主本多忠平の実弟。延宝5年(1677年)閏12月26日、従五位下、能登守に叙位・任官する。元禄8年(1695年)、兄の死去によりその養嗣子として家督を継いだ。 元禄12年(1699年)、城下町の大火、江戸屋敷の火事、京都御所の造営などによる再建・造営費用などで出費が重なり、藩財政が窮乏化した。宝永4年(1707年)10月10日、四兄忠晴の長男の忠直を養子とした。 宝永6年(1709年)4月17日、49歳で死去し、忠直が跡を継いだ。 忠常の墓碑は大和郡山市の指定文化財となり、林信篤によってその墓碑には忠常一代の経歴が刻銘されている。 Category:郡山藩主 Category:白河藩の人物 たたつね Category:1661年生 Category:1709年没.

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本多忠国

本多 忠国(ほんだ ただくに)は、大和郡山藩、陸奥福島藩を経て播磨姫路藩の藩主。忠勝系本多家宗家6代。.

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本多忠統

五言絶句 本多猗蘭筆 本多 忠統(ほんだ ただむね)は、河内西代藩主。のち伊勢神戸藩初代藩主となる。江戸幕府の若年寄として、享保の改革期における幕政に参与した。神戸藩本多家2代。「猗蘭侯」と称し、書画や儒学に通じた文人大名としても知られた。.

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本多忠直 (大和国郡山藩主)

本多 忠直(ほんだ ただなお、寛文10年(1670年) - 享保2年5月8日(1717年6月16日))は、大和郡山藩の第3代藩主。第2代藩主本多忠常の兄に当たる大名(忠直の出生当時は浅川藩主)本多忠晴の長男。正室は石井氏。子に本多忠通(長男)、本多忠村(次男)、本多忠如(三男)、本多忠烈(四男)、娘(土井利庸正室)、娘(米倉忠仰正室)、娘(戸田忠久正室)。官位は従五位下、越中守、信濃守。幼名は大藤。 元禄15年(1702年)12月18日、従五位下、越中守に叙任される。宝永4年(1707年)10月10日、叔父の忠常の養嗣子となり、同年12月12日に信濃守に任官される。宝永6年(1709年)の忠常の死去により跡を継いだ。 享保2年(1717年)5月8日、48歳で死去し、跡を次男の忠村が継いだ。法号は遷妙院殿顕忠日直大居士。墓所は山梨県南巨摩郡身延町の身延山久遠寺。 Category:郡山藩主 たたなお Category:1670年生 Category:1717年没.

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本多忠良

本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人、老中を務めた。越後村上藩第2代藩主、三河刈谷藩主、下総古河藩初代藩主。忠勝系本多家宗家8代。.

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本多忠英

本多 忠英(ほんだ ただひで)は、大和郡山新田藩第2代藩主、のち播磨山崎藩初代藩主。政信系本多家2代。大和郡山藩主本多政勝の三男。初名は政貞。.

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本多忠通

本多 忠通(ほんだ ただみち)は、遠江相良藩の第2代藩主。忠以系本多平八郎家3代。 宝永2年(1705年)、初代藩主・本多忠晴の長男で大和郡山藩主となった本多忠直の長男として生まれる。父の忠直が本家の大和郡山藩の養嗣子となったため、正徳5年(1715年)、祖父・忠晴の死去により家督を継いで第2代藩主となる。享保4年(1719年)12月13日、従五位下・弾正少弼に叙位・任官する。 しかし、享保6年(1721年)7月2日に17歳の若さで死去した。嗣子が無かったため、養嗣子で弟の忠如が跡を継いだ。 Category:相良藩主 たたみち Category:1705年生 Category:1721年没.

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本多忠恒

本多 忠恒(ほんだ ただつね、明暦3年(1656年) - 宝永元年11月10日(1704年12月6日))は、江戸時代前期の大名。河内西代藩初代。伊勢神戸藩本多家藩祖。 近江膳所藩主・本多康将の次男。子は本多忠統(次男)、娘(藤堂良端継室)など。官位は従五位下、河内守。幼名、団七郎。通称、織部。 延宝7年(1679年)、父の隠居に伴い近江国高島郡・甲賀郡、河内国錦部郡で1万石を分与されて立藩する。宝永元年(1704年)没し、跡を次男の忠統が継いだ。 たたつね Category:河内国の藩主 Category:近江国の藩主 Category:譜代大名 Category:1656年生 Category:1704年没.

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本多忠村

本多忠村(ほんだ ただむら、宝永7年(1710年) - 享保7年9月30日(1722年11月8日))は、大和郡山藩の第4代藩主。第3代藩主本多忠直の次男。母は石井氏。幼名は唐之助。 享保2年(1717年)、父の死去により跡を継ぐ。幼少のため、幕府は郡山の重要性から忠村を別の領地に移封しようとしたが、将軍の徳川吉宗が許したため、移封を免れた。享保7年(1722年)9月晦日、天然痘のため江戸で死去し、跡を弟の忠烈が継いだ。享年13。墓所は東京都文京区湯島の麟祥院。 松浦清(静山)の『甲子夜話』によれば、忠村の死に際し、吉宗が「天然痘というものは、ずいぶん容貌が変わるそうだ」とたびたび語っていたという。これは、他の人物を忠村ということにしてすり替えても分からない、と暗にすり替えを勧めていたのではないかとされるが、本多家中の者は忠村の死をそのまま幕府に報告したため、減封の上で幼少の弟・忠烈に継がせることとなった。.

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本多忠方

本多 忠方(ほんだ ただみち)は、播磨山崎藩の第2代藩主。政信系本多家3代。初代藩主・本多忠英の次男。.

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本多忠晴

本多 忠晴(ほんだ ただはる)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本、大名。陸奥浅川藩の第2代藩主、三河伊保藩主、遠江相良藩の初代藩主。忠以系本多家2代。文武両道の名君だったと言われている。.

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本多道重

本多 道重 (ほんだ みちしげ、寛永21年(1644年)- 宝永4年(1707年)) は、福井藩家老。 父は本多重方。祖父は本多成重。正室は公家竹屋光長の娘。子は本多成広。通称左兵衛、図書、作太夫。.

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本多重益

本多 重益(ほんだ しげます)は、越前丸岡藩の第4代藩主。.

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本多重貞

本多 重貞(ほんだ しげさだ)は、江戸時代中期の武士。.

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本多正珍

本多 正珍(ほんだ まさよし、宝永7年7月8日(1710年8月2日) - 天明6年8月27日(1786年9月19日))は、江戸時代中期の大名。駿河田中藩第2代藩主、江戸幕府の老中。正重系本多家7代。.

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本多正永

本多 正永(ほんだ まさなが)は、江戸時代前期から中期の旗本、大名。下総舟戸藩主、上野沼田藩初代藩主。正重系本多家4代。.

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本多成広

本多 成広(ほんだ なりひろ、寛文7年(1667年)- 寛保2年8月3日(1742年9月1日)) は、江戸時代中期の福井藩家老。 父は本多道重。通称は次郎太夫、民部、縫殿。号は道山。.

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本多政利

本多 政利(ほんだ まさとし)は、江戸時代前期の大名。大和郡山新田藩主、播磨明石藩主、陸奥大久保藩主。本多政勝の次男。.

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本多政冬

本多 政冬 (ほんだ まさふゆ、万治3年(1660年)- 享保13年5月19日(1728年6月26日)) は、加賀藩の家老、人持組本多図書家初代当主。 父は加賀藩の年寄・本多政長。子は本多政恒、本多政行、本多政昌室、横山隆達室。通称は長五郎、図書。.

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本多政長 (加賀本多家)

本多 政長 (ほんだ まさなが、寛永8年8月21日(1631年9月17日) - 宝永5年8月9日(1708年9月14日)) は、加賀藩の家老、加賀八家本多家第2代当主。父は加賀藩家老本多政重。母は西洞院時直の娘。正室は前田利常の娘・春姫。子は本多政敏、本多政孝、本多政則、本多政冬、本多政広、本多政寛、八幡新善法寺行清。幼名長松。通称左馬助、安房。号素立軒。官位は従五位下安房守。.

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本多政恒

本多 政恒 (ほんだ まさつね、宝永2年(1705年)- 宝暦10年10月6日(1760年11月13日)) は、加賀藩の家老、人持組本多図書家第2代当主。 父は加賀藩家老本多政冬。正室は本多政質の娘。子は本多政成室。養子は本多政康。通称は頼母、図書。.

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本妙寺 (京都市)

本妙寺(ほんみょうじ)は、京都府京都市左京区仁王門通東大路東入北門前町にある日蓮宗の寺院。山号は祥光山。旧本山は京都妙覚寺、奠師法縁(奠統会)。境内には赤穂義士の吉田忠左衛門と沢右衛門父子、貝賀弥左衛門の墓があり、赤穂義士の寺と呼ばれる。.

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本妙院 (松平正容側室)

本妙院(ほんみょういん、宝永7年(1710年) - 享保17年7月13日(1732年9月1日))は、陸奥会津藩3代藩主・松平正容の側室。4代藩主・松平容貞の生母。父は塩見平右衛門行重。名は伊知、市、のちに美崎。家臣に妻として下げ渡された後、城に戻された拝領妻として知られる。.

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本山寺 (高槻市)

本山寺(ほんざんじ)は大阪府高槻市にある天台宗の仏教寺院。山号は北山。本尊は毘沙門天。鞍馬寺、朝護孫子寺とともに「日本三毘沙門天」とも言われている。.

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本庄家系譜

『本庄家系譜』(ほんじょうかけいふ) は、旧熊本藩士本庄家の家系譜。 本庄家は初代喜助重正が肥後熊本藩初代細川忠利(妙解院)に殉死した19人の内の一人であり、「妙解院様殉死之家」である。柴任三左衛門と改名した二男熊介は、宮本武蔵の弟子となり二天一流兵法を極め、のちに『五輪書』と共に兵法3代目を継承した。のちに肥後を離れ武蔵の兵法と逸話を福岡藩黒田家へ伝えたことにより、その弟子立花峯均(丹治峯均)によって伝記『武州伝来記』が書かれ、武蔵の多くの逸話が現代にまで伝わることとなった。 近年に発見された『本庄家系譜』は、不詳であった柴任三左衛門の出自とその生涯の事跡を裏付ける重要史料であり、これにより三左衛門の青年期と武蔵の肥後在住5年間が重なり『武州伝来記』記事の信憑性が格段に高まることとなった。 また4代本庄喜助高房(初め柴任角兵衛)の項には、元禄15年(1703年)12月15日の赤穂事件において大石良雄以下赤穂浪士17士が細川綱利預かりとなった時、大目付仙石久尚邸へ受け取りに派遣され、駕籠を熊本藩下屋敷まで護送する役目を果たしたこと、預かりの期間中は監視の番役を務め、同16年(1704年)2月4日赤穂浪士切腹の際、間瀬正明の介錯を務めたことが記されている。 柴任三左衛門は播州明石で死期を悟った宝永7年(1710年)4月に肥後の実家である本庄家に家来を派遣し、自身有馬の陣(島原の乱)着用の甲冑・雑具並びに、筑前黒田家、大和郡山本多家、姫路本多家よりの知行宛行状など(形見として)この本庄喜助に贈っている(同年閏8月20日死去)。.

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本庄道矩

本庄 道矩(ほんじょう みちのり、宝永6年1月25日(1709年3月6日)- 延享2年9月8日(1745年10月3日))は、美濃高富藩の第2代藩主。 初代藩主・本庄道章の長男。母は水島氏。正室は大田原扶清の娘。側室は松田氏、金沢氏。官位は従五位下・大和守。幼名は久太郎。 享保10年(1725年)、父の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下・大和守に叙任。日光御祭礼奉行や大坂御加番代、大番頭などを歴任した。延享2年(1745年)9月8日、37歳で死去した。嗣子がなかったため、養嗣子の道倫が跡を継いだ。法号は円徳院覚誉本光涼然。墓所は東京都足立区伊興町狭間の法受寺(浅草の安養寺)。 *02 みちのり Category:1709年生 Category:1745年没.

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本庄道章

本庄 道章(ほんじょう みちあきら/みちあき)、天和3年4月28日(1683年5月24日)- 享保10年7月27日(1725年9月3日))は、美濃岩滝藩主、のち美濃高富藩の初代藩主。 大身旗本・本庄道高の長男。母は六角広賢(六角院広賢、烏丸広賢)の娘。側室に松田氏、水島氏。子は本庄道矩(長男)、娘(酒井忠候正室)、娘(酒井忠儔正室)、娘(本庄道倫正室)。官位は従五位下、和泉守。後、宮内少輔と改める。 元禄10年(1697年)7月11日に4000石の家督を継いだ。元禄12年(1699年)12月18日、和泉守に叙せられる。元禄16年(1703年)8月22日、宮内少輔と改めた。 徳川綱吉の生母・桂昌院の異母兄・本庄道芳の孫に当たることから、宝永2年(1705年)3月23日、6000石加増の上で1万石の大名として諸侯に列し、岩滝藩主となった。宝永6年(1709年)8月、藩庁を岩滝から高富に移し、高富藩主となった。 享保10年(1725年)7月27日、43歳で死去し、跡を長男の道矩が継いだ。法号は威音院栄岳喜繁。墓所は東京都足立区伊興町狭間の法受寺。 *01 みちあきら Category:1683年生 Category:1725年没.

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本光院 (徳川家宣側室)

本光院(ほんこういん、元禄5年(1692年) - 宝永7年7月25日(1710年8月19日))は、甲府藩主(後の6代将軍)・徳川家宣の側室。俗名は斎宮(いつきのみや)。名はいつき、または園。.

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本因坊知伯

本因坊知伯(ほんいんぼう ちはく、宝永7年(1710年) - 享保18年8月20日(1733年9月27日))は江戸時代の囲碁棋士で、六世本因坊。武蔵国生まれ、本因坊道知門下、六段。本姓は井口、道知の甥にあたる。法名は日了。 父は武州多摩郡井草村の百姓井口半衛門で、母は本因坊道知の姉。享保7年(1722年)に、13歳四段格で本因坊道知の跡目となる。この年から御城碁に出仕。享保11年から部屋住みのまま十人扶持を受けるようになる。享保12年に道知が死去し、知伯が家督を継いで六世本因坊となる。しかし享保18年8月20日に突然卒倒し、家族が医師と各家元に急報したが、その参集を待たずに24歳で死去。急遽家元三家にて、門人で奥州帰郷途中であった18歳五段の佐藤秀伯を家督と定めて寺社奉行に跡目届けを出し、呼び戻した秀伯の帰府後に相続させて七世本因坊とした。墓所は杉並区の妙正寺で、1983年に杉並区指定史跡文化財となっている。 本因坊家は、六世知伯24歳、七世秀伯26歳、八世伯元29歳と、三代続けて当主がいずれも六段位で早世して七段に至らず、この30年ほどの時期は本因坊家衰微の時代とも、碁道中衰の時代とも呼ばれる。.

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本因坊秀伯

本因坊 秀伯(ほんいんぼう しゅうはく、1716年(宝永7年) - 1741年3月27日(寛保元年2月11日))は江戸時代の囲碁棋士、七世本因坊。本因坊知伯門下、六段。本姓は佐藤、法名は日宥。 陸奥国信夫郡大飯田村(現福島市)農家の生まれ。享保18年(1733年)の帰省中に師の知伯が死去し、家元会議にて五段の秀伯を跡目とする。秀伯は急使によって江戸へ戻り、寺社奉行に出頭して家督を認められ、七世本因坊となる。同年から御城碁に出仕。享保20年六段。 この頃の本因坊家は知伯、秀伯と2世続いて六段(ちなみに、次の伯元も六段)という不振な時代であった。そのため元文2年(1737年)に「碁将棋名順訴訟事件」が起きている。これは当時の将棋名人伊藤宗看が、碁打ち優先の慣行を廃止して平等にせよと提訴したことで始まった。宗看は寺社奉行井上正之の支持も得ておりこの要求は通ると思われたが、正之が急逝し、後任の大岡忠相によって訴えは棄却され、この事件は終結した。 元文4年(1739年)に七段昇段を、安井春哲仙角、林因長門入、井上春碩因碩に諮ったが、門入、因碩は承知せず、秀伯は因碩と争碁を打つことになる。第1局は同年の御城碁で秀伯先相先で行われ、翌年6月までに8局打って秀伯4勝3敗1ジゴとなったところで秀伯が吐血して倒れ、中断となる。翌年2月に病床にて門人の伯元を跡目に定め、同月26歳で死去する。;御城碁戦績.

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本因坊道知

本因坊 道知(ほんいんぼう どうち、1690年〔元禄3年〕 - 1727年7月28日〔享保12年6月10日〕)は江戸時代の囲碁棋士。五世本因坊。生国は江戸。本姓は神谷。本因坊道策門下、名人碁所。法名は日深。.

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本禅寺

本禅寺(ほんぜんじ)は、京都府京都市上京区にある寺院。法華宗陣門流の京都本山。山号は光了山。塔頭が三院ある(心城院、詮量院、玄妙院)。.

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本町 (伊勢市)

本町(ほんまち)は三重県伊勢市の地名。郵便番号は516-0074。人口は432人(2010年10月31日現在、住民基本台帳人口による伊勢市環境生活部戸籍住民課(2010)""(2010年12月16日閲覧。) )。伊勢神宮外宮の鳥居前町であると共に、伊勢市の経済の中心としての機能をも有する。.

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本荘八幡宮

本荘八幡宮(ほんじょうはちまんぐう)は、岡山県倉敷市児島通生(こじまかよう)にある神社。祭神は品陀別命、足仲彦命、息長帯比売命。社格は郷社。.

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本行寺 (荒川区)

本行寺(ほんぎょうじ)は、東京都荒川区西日暮里にある日蓮宗の寺院。山号は長久山。本尊は一塔両尊四菩薩。旧本山は平河山法恩寺。潮師法縁。.

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本郷 (海老名市)

本郷(ほんごう)は、神奈川県海老名市の地名。丁番を持たない単独町名で、住居表示未実施。郵便番号は243-0417。面積は3.08km2。.

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本成院 (大田区)

本成院(ほんじょういん)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の寺院。池上本門寺の子院。.

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本所松坂町公園

本所松坂町公園 (ほんじょまつざかちょうこうえん)は、東京都墨田区両国にある区立公園。赤穂事件で有名な吉良義央の邸宅があったところで、赤穂浪士によって討ち入りが決行された現場である(本所松坂町は当地の旧名)。.

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振舞銀

振舞銀(ふるまいぎん)とは、江戸時代の都市において町屋敷を購入する際に、買主が町内の家持を饗応する代わりに支払った金品のこと。地域によっては振舞金(ふるまいきん)とも称した。 町屋敷を購入することは、その町における地縁共同体としての「町」に加入することを意味しており、水帳と呼ばれる台帳への登録と地子などをはじめとする「町」の一員として義務付けられた負担を行う必要があった。「町」に加入する際には、同じ「町」の一員である町役人以下の家持に対して挨拶代わりに饗応する慣習があったが、後にそれに代わって金銀を振舞うようになった。また、相続や婚姻などの家持の家に関わる変動が生じた場合にも振舞銀が実施された。 だが、時代が下るにつれて過度な振舞が「町」側から強要されるケースがみられ、江戸町奉行はたびたび江戸市中に向けて町触を出して規制を計っている。例えば、宝永5年(1708年)6月には、事情・立場の如何を問わず、名主には銀2枚、五人組には金100疋、その他の町中家持には鰹節1連に制限する町触が出されている。また、株仲間などの入会などに際しても振舞料・加入銀・顔見世銀などの類似の制度が存在していた。.

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朽木玄綱

朽木 玄綱(くつき とうつな)は、丹波福知山藩の第5代藩主。福知山藩朽木家6代。.

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朽木稙元

朽木 稙元(くつき たねもと)は、丹波福知山藩の第2代藩主。福知山藩朽木家3代。.

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朽木稙綱 (福知山藩主)

朽木 稙綱(くつき たねつな、宝永7年11月21日(1711年1月9日) - 享保11年5月5日(1726年6月4日))は、江戸時代中期の丹波国福知山藩の第3代藩主。福知山藩朽木家4代。従五位下、伊予守。 第2代藩主朽木稙元の長男として生まれる。幼名は吉三郎、通称は大膳。享保5年(1720年)4月25日、将軍徳川吉宗に拝謁する。享保6年(1721年)12月25日、稙元の死去により家督を継ぐ。享保9年12月、従五位下伊予守に叙任する。享保11年5月5日に死去。享年17。子がなかったため、跡を叔父の稙治が継いだ。 たねつな Category:福知山藩主 Category:譜代大名 Category:1711年生 Category:1726年没.

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朽木稙治

朽木 稙治(くつき たねはる)は、丹波福知山藩の第4代藩主。福知山藩朽木家5代。.

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朽木稙昌

朽木 稙昌(くつき たねまさ)は、常陸土浦藩の第2代藩主、後に丹波福知山藩の初代藩主。福知山藩朽木家2代。.

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月岡雪鼎

月岡 雪鼎(つきおか せってい、享保11年〈1726年〉 - 天明6年12月4日〈1787年1月22日)〉とは、江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師。.

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月待塔

月待塔(つきまちとう)は、日本の民間信仰。特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待信仰塔ともいう。.

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月光院

月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は、江戸幕府6代将軍徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。本名は勝田輝子(かつたてるこ)で、家宣が死去してから月光院と呼ばれる。側室としての名は喜世(きよ)が知られる。また局としての名に左京の局(さきょうのつぼね)がある。.

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月江寺

月江寺(げっこうじ)は、山梨県富士吉田市下吉田に所在する寺院。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は水上山。本尊は地蔵菩薩。.

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月日神社

月日神社(つきひじんじゃ)は奈良県奈良市下三条町にある神社。.

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有川神楽

有川神楽(ありかわかぐら)は、長崎県新上五島町有川郷(旧有川町)有川神社に伝わる神楽である。鯛ノ浦地区を除く旧有川町内各地と西海市平島の神社の例祭の際に奉納される。平成14年(2002年)2月12日、有川神楽を含む五島列島の6つの神楽が五島神楽として国の選択無形民俗文化財に選択された。 有川.

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有珠善光寺

有珠善光寺(うすぜんこうじ)は、北海道伊達市にある寺院。「善光寺跡」として国の史跡に指定されている。.

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有馬一準

有馬 一準(ありま かずのり)は、越前丸岡藩の第2代藩主。晴信系有馬家5代。後述するが一準は隠居後の名前であり、藩主時代は真純(まさずみ)、純寿(すみひさ)、寿純(ひさずみ)を名乗っていた。 元禄10年(1697年)12月2日(異説として12月4日)、初代藩主有馬清純の長男として丸岡城で生まれる。元禄15年(1702年)12月に父が死去したため、元禄16年(1703年)2月5日に家督を相続した。正徳元年(1711年)に譜代大名に昇格し、同時に従五位下、左衛門佐に叙任する。しかし宝永3年(1706年)、享保6年(1721年)、享保8年(1723年)と連年のように洪水に悩まされて凶作となり、享保9年(1724年)にはそれが原因で一揆も起こるなど、藩政は多難を極めた。このため、財政難打開のために銀札の発行、家臣の知行借上げなどを行なったが、失敗した。 享保18年(1733年)4月1日、家督を長男の孝純に譲って隠居する。寛延2年(1749年)に名を一準に改めた。宝暦7年(1757年)8月20日、孝純の後を追うように死去した。享年61。 かすのり Category:丸岡藩主 Category:譜代大名 Category:1698年生 Category:1757年没.

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有馬則維

有馬 則維(ありま のりふさ)は、筑後久留米藩の第6代藩主。久留米藩有馬家7代。.

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有馬則故

有馬 則故(ありま のりふる)は、江戸時代前期の旗本。.

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有馬頼元

有馬 頼元(ありま よりもと)は、筑後久留米藩の第4代藩主。久留米藩有馬家5代。.

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有馬頼旨

有馬 頼旨(ありま よりむね、貞享2年6月3日(1685年7月4日) - 宝永3年4月8日(1706年5月19日))は、筑後久留米藩の第5代藩主。久留米藩有馬家6代。 第4代藩主・有馬頼元の次男。母は小野氏。生涯独身のため、正室・側室はなし。官位は従四位下、筑後守。幼名は万吉。 父の跡を受けて藩主となるが、宝永3年(1706年)4月8日に22歳の若さで死去した。子は無く、跡を養嗣子の有馬則維が継いだ。法号は昌林院。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。 よりむね *05 Category:1685年生 Category:1706年没.

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有栖川宮正仁親王

有栖川宮正仁親王(ありすがわのみや ただひと しんのう 元禄7年2月11日(1694年3月6日)-享保元年9月24日(1716年11月7日))は、江戸時代の皇族。有栖川宮第4代。父は幸仁親王。宝永7年(1710年)、清閑寺熙定の女で徳川綱吉養女の竹姫と婚約したが、6年後に婚儀を目前にして早世。嗣子無く薨したため、霊元天皇第17皇子の職仁親王が有栖川宮を相続した。 Category:日本の親王 Category:江戸時代の男性皇族 たたひと Category:1694年生 Category:1716年没.

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有楽町

有楽町(ゆうらくちょう)は、東京都千代田区の町名である。住居表示実施済みの地域で、現行行政地名は有楽町一丁目及び有楽町二丁目。郵便番号は100-0006。.

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成仏寺 (横浜市)

成仏寺(じょうぶつじ)は、神奈川県横浜市神奈川区にある浄土宗神奈川教区の寺院。山号は正覚山(しょうがくざん)、院号は法雨院(ほうういん)。.

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成田山新勝寺

成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)は、日本の千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院であり、同派の大本山のひとつである。山号を成田山、寺号を新勝寺というが、山号を省略せずに呼ぶのが通常で、寺号のみで呼ぶことは少なく、むしろ山号のみで呼ぶことが珍しくない。本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山は平安時代中期にあたる天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋は葉牡丹。 参詣者数において関東地方屈指の寺である。初詣の参拝客数は、2006年に約275万人、2007年に約290万人を数えており、神社仏閣としては、明治神宮に次ぐ全国第2位(千葉県内第1位)、仏閣に限れば全国第1位である。現在ではおおむねこの順位を維持しているが、以前は神社仏閣として川崎大師に次ぐ全国第3位であった。今も昔も加持祈祷のために訪れる人が多いことでも知られる。.

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成瀬正泰

成瀬 正泰(なるせ まさもと、宝永6年6月26日(1709年8月1日)- 天明5年6月20日(1785年7月25日))は、尾張藩の附家老、尾張犬山藩の第5代当主。 第4代当主・成瀬正幸の長男。子に成瀬正純(長男)、成瀬正典(次男)、娘(四条隆叙室)など。官位は従五位下、隼人正。御附家老をしていたときは名は成瀬正太と名乗っていた。尾張九代藩主徳川宗睦の嫡男五郎太が誕生した際に、「太」の字を避けて正泰とする。 宝永6年(1709年)6月26日生まれとも、同年6月29日生まれとも言われている。享保17年(1732年)8月15日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月に従五位下隼人正に叙任。宗春によく仕え、元文3年の尾張藩の混乱期には、もう一人の御附家老竹腰正武と対立した。宗春が隠居謹慎の際も、幕府と一戦交じうべしという強硬論を唱えたとも言われる。元文4年に徳川宗春が隠居謹慎した後に犬山に戻り、犬山城に白帝城の別名を与える。 明和5年(1768年)1月28日、次男の正典に家督を譲って隠居し、蔵人を名乗り大雅と号する。天明5年(1785年)6月20日に77歳で死去した。法号は諦幻院殿泰翁宗峻大禅定門。墓所は愛知県名古屋市中区栄の白林寺。.

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戸川安廣

戸川 安廣(とがわ やすひろ、承応3年(1654年) - 宝永6年9月21日(1709年10月23日)は、江戸時代の幕臣(旗本)・知行3000石。官位は従五位下・備前守、のち日向守。通称は、大九郎のち主膳、平右衛門など。.

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戸川安聡

戸川 安聡(とがわ やすとし、宝永4年(1707年)- 宝暦5年6月8日(1755年7月16日)は、江戸時代の幕臣(旗本)。通称は、初太郎のち内蔵助。 先代・安晴の子として生まれ、父・安晴の死により家督相続。室は松平忠周の娘で、継室も松平忠周の娘。 安晴時代に起こった江戸屋敷焼失(享保3年(1718年))や旱魃(享保5年(1720年))、水害(享保6年(1721年))に加えて、商品経済発達による物価上昇により早島領の財政が急速に悪化したため財政再建が急務であったが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉により財政がさらに悪化し幕府から600両の貸与金を受けている(しかし、享保の大飢饉では庄屋や年寄の努力により餓死者を一人も出さなかったという)。 晩年の宝暦4年(1754年)には、干拓地における国境の線引きについて村民が高松領(岡山市高松、旗本・花房氏7220石の飛地)の箕島村(岡山市箕島)民(宝暦6年(1756年)には妹尾戸川家領・妹尾村(岡山市妹尾)民も加わる)と共に幕府へ訴え出て岡山藩と争うことが起こった(この争いは安熈時代まで続いた)。 江戸では、関東川々普請奉行や小普請組支配を勤めた。 宝暦5年6月8日没。跡目は子の安泰が継いだ。 やすとし Category:江戸幕府旗本 Category:1707年生 Category:1755年没.

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戸川安貞

戸川 安貞(とがわ やすさだ、寛文3年(1663年)-正徳4年4月1日(1714年5月14日)は、江戸時代の幕臣(旗本)・知行3000石。通称は、平吉のち三左衛門、内蔵助。 先代・重明の子として生まれる。 元禄15年(1702年)3月、父の隠居により家督相続。その際、自身の知行高3400石のうち中島村の一部(岡山県倉敷市中庄の近辺)400石を弟の安通に分知した。 父同様に新田開発に力を入れ、戸川安廣と共同で宝永4年(1707年)沖新田(倉敷市茶屋町)の開発に着手した。 旗本としては、御使番などを勤め、布衣の着用を認められている。 父に先立ち、正徳4年3月31日に没した。跡目は弟で養子の安晴に継がせた。 やすさた Category:江戸幕府旗本 Category:早島町 Category:1663年生 Category:1714年没.

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戸川安村

戸川 安村(とがわ やすむら、万治元年(1658年) - 享保14年4月30日(1729年5月27日)は、江戸時代の幕臣(旗本)。知行3000石。初名は安親。通称は、犬之助のち左門、五左衛門など。 戸川安利の子として生まれる。 寛文4年(1664年)12月、兄・安廣より東庄村(岡山県倉敷市)の一部300石の分知を受ける。 宝永6年(1709年)兄の死により帯江戸川家の家督を相続したが、東庄村の領地は幕府に収公された。 安村は父や兄と異なり、新田開発をせず領地の生産性の向上に目を向けたが困難を極めた。父や兄の新田開発は遠浅の干潟(児島湾)を干拓したものであるため実際に作物が収穫出来るまで時間がかかる。特に、兄が宝永4年(1707年)に開発した沖新田(倉敷市茶屋町)の知行地では年貢が納められる状態になるのに、安村の死の2年後の享保16年(1731年)までかかっている。 江戸では、使番・先弓頭などを歴任した。 享保14年(1729年)4月30日没。跡目は養子の村由が継いだ。.

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戸川氏

戸川氏(とがわし)は、戦国時代から江戸時代にかけての武家。家紋は「三本杉」「梅鉢」紋など。.

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戸田忠久

戸田 忠久(とだ ただひさ、宝永5年(1708年) - 享保13年8月8日(1728年9月11日))は、下野国宇都宮藩の嫡子。初代藩主・戸田忠真の六男。正室は本多忠直の娘。通称、彦六。 父が58歳の時の子で、既に従兄弟の忠余が嫡子となっていたため、忠余の養子となる。享保3年(1718年)、徳川吉宗に初御目見したが、享保13年(1728年)に早世した。代わって、忠余の次男・忠盈が嫡子となった。 たたひさ Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:宇都宮藩の人物 Category:1708年生 Category:1728年没.

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戸田忠囿

戸田 忠囿(とだ ただその)は、下野足利藩の第2代藩主。宇都宮藩戸田家分家2代。 寛文9年(1669年)、初代藩主・戸田忠時の四男として生まれる。兄・忠勝が早世したため嫡子となり。宝永2年(1705年)12月19日に従五位下・大隅守に叙位・任官する。宝永5年(1708年)6月29日に父が隠居したため家督を継いだ。 大坂定番に任じられて大坂に赴くが、そこで病に倒れ、享保17年(1732年)5月2日に大坂で死去した。享年64。跡を長男・忠位が継いだ。 戸02 たたその Category:1669年生 Category:1732年没.

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戸田忠真

戸田 忠真(とだ ただざね)は、江戸時代中期の大名、老中。下総佐倉藩主、越後高田藩主、下野宇都宮藩主。宇都宮藩戸田家4代。父は老中で佐倉藩主戸田忠昌、母は秋元富朝の娘。同じく老中の秋元喬知は兄に当たる。.

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戸田忠時

戸田 忠時(とだ ただとき)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本、のち譜代大名。下野足利藩の初代藩主。江戸幕府の側用人。宇都宮藩戸田家分家初代。.

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戸田光規

戸田 光規(とだ みつのり、延宝6年(1678年) - 正徳6年閏2月19日(1716年4月11日))は江戸時代の旗本。 美濃加納藩2代藩主松平光永の次男。3代藩主松平光煕の弟。母は都筑氏。幼名は幾松、孫之丞。通称は内記、大膳。官位は従五位下、播磨守。子に娘(菅沼定用室)がいる。 元禄8年(1695年)7月25日、将軍徳川綱吉に拝謁し、宝永元年(1704年)1月13日中奥の御小姓となる。宝永2年(1705年)兄の光煕から俵米3,000俵を分知される。 正徳6年(1716年)閏2月19日没。享年39。法名は弧天。小石川の祥雲寺に葬られた。 甥の松平光慈を末期養子とし家督を相続させたが、後に信濃松本藩主に転じた。.

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戸田茂睡

戸田茂睡 戸田 茂睡(とだ もすい、寛永6年5月19日(1629年7月9日) - 宝永3年4月14日(1706年5月25日))は、江戸時代前期の歌学者。名は恭光。通称は茂右衛門。号は遺佚軒・不求橋・梨本など。.

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戸田氏

戸田氏(とだし)は、日本の氏族、また名字の一つ。発祥を異にする複数の系統が存在する(次項を参照)。もと、三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。 三つ葉葵(松本藩) 六星(松本藩)他 九曜(大垣藩).

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戸田氏尹

戸田 氏尹(とだ うじただ、元禄11年(1698年) - 明和7年10月25日(1770年12月11日))は、江戸時代中期の高家旗本。内藤信有の四男。通称は岩之助、大学、寛休。 高家旗本戸田氏興の末期養子。実父信有の後妻は戸田氏豊の娘で旗本中条信慶の養女として嫁いでいた。ただし氏尹の生母は戸田氏ではない。 宝永6年(1709年)12月25日養父氏興の死去により、家督を相続する。表高家に列する。生涯高家職に就くことはなかった。宝永7年(1710年)4月19日将軍徳川家宣に御目見する。寛保2年(1742年)7月26日隠居し、長男氏富に家督を譲る。明和7年(1770年)10月25日死去、73歳。 うしたた Category:内藤家 (信成系) Category:江戸幕府旗本 Category:1698年生 Category:1770年没.

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戸田氏興 (旗本)

戸田 氏興(とだ うじおき)は、江戸時代の高家旗本。.

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戸田氏房

戸田 氏房(とだ うじふさ)は、江戸時代中期の大名。美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の第2代藩主。大垣藩戸田家分家2代。.

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戸隠神社

戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社である。.

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戸隠神社 (桜井市)

戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。.

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戸板保佑

戸板 保佑(といた やすすけ、宝永5年1月27日(1708年2月18日) - 天明4年9月7日(1784年10月20日))は江戸時代中期の仙台藩の天文学者・数学者である。宝暦の改暦に参加した。また山路主住とともに、関孝和に始まる関流算学の集大成である全511冊の『関算四伝書』を編纂した。幼名は重豊、通称は善太郎。号に格九、取譬甫、黄海、統天斎、植、蕃、多植、茂蕃、多植茂などがある。.

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戸沢正庸

戸沢 正庸(とざわ まさつね)は、出羽新庄藩の第3代藩主。.

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戸沢正誠

戸沢 正誠(とざわ まさのぶ)は、出羽国新庄藩の第2代藩主。初代藩主・戸沢政盛の次男。.

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星合顕行

星合 顕行(ほしあい あきゆき、承応3年(1654年) - 享保20年6月4日(1735年7月23日))は、江戸時代の旗本。北畠家の庶家である星合家の出身である。通称は庄蔵、七兵衛、伊左衛門による。本文は415頁、コマ番号は216頁。。官位は従五位下、摂津守。法名は雄盛。星合顕恒の次男、母は井戸重弘の娘。星合基顕の養子となる。妻は松浦信正の娘、後妻は大岡清重の娘。子に具郡、親輝、幸茂、道治、定親、助能、ほか女子4人。.

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星田神社

星田神社(ほしだじんじゃ)は、大阪府交野市星田にある神社。.

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星野長太郎

星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治41年(1908年)11月27日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員当選1回(当初は甲辰倶楽部で、後の大同倶楽部に所属)。農民出身であったが外国人居留地外商を介さず日本初の日本人による生糸直輸出を実現した。産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本製生糸の品質向上と輸出の飛躍的拡大の先駆者となった。.

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明石慶弘

明石 慶弘(あかし よしひろ、宝永元年(1704年) - 明和5年10月8日(1768年11月16日))は、江戸時代中期の軍学者、福井藩士。通称は甚左衛門。柏堂と号した。.

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明泉寺 (神戸市)

明泉寺(みょうせんじ)は兵庫県神戸市長田区明泉寺町にある臨済宗の仏教寺院。寺名よりも大日寺、大日さんで知られている。.

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春山町 (鹿児島市)

春山町(はるやまちょう Haruyama-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。旧日置郡伊集院郷春山村、日置郡上伊集院村大字春山、日置郡松元町春山。郵便番号は899-2704。人口は5,458人、世帯数は2,084世帯(2017年10月1日現在)。.

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春日神社 (高岡市戸出春日)

春日神社(かすがじんじゃ)は、富山県高岡市戸出春日452番地にある神社である。.

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春日神社 (春日市)

春日神社(かすがじんじゃ)は、福岡県春日市にある、同市の名称の由来ともなっている神社である。.

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春日移し

春日移し(かすがうつし)とは、春日大社の20年に一度の式年造替において、建て替えられた旧社殿を近隣や関係の深い神社に下賜し、移築していた習わしのこと。.

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春日部市

春日部市(かすかべし)は、埼玉県東部に位置する市。人口は草加市に次ぐ県内7位。特例市、業務核都市に指定。.

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春日若宮社 (奈良市中辻町)

春日若宮社(かすがわかみやしゃ)は、奈良県奈良市中辻町にある神社。春日造の小祠に覆屋がある奈良市史編集審議会編『奈良市史 社寺編』、吉川弘文館、1985、p.147。手前に天保12年(1841年)と嘉永2年(1849年)の石灯籠がある。 祭神は天児屋根命の御子、天忍雲根命である。.

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浮島の森

浮島の森 浮島の森(うきしまのもり、うきじまのもり)とは、和歌山県新宮市に存在する植物群落である。新宮藺沢浮島植物群落(しんぐういのそうきしましょくぶつぐんらく)として、1927年(昭和2年)4月8日に国の天然記念物に指定された。植物群落の全体が、沼池に浮かぶ泥炭でできた島(東西85 m、南北60 m、面積約5000 m2)和歌山県環境衛生研究センターの上にあることから、こう呼ばれる。.

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浮世床

浮世床(うきよどこ)は、.

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浮田継真

浮田 継真(うきた つぐまさ、宝永2年(1705年) - 正徳2年10月23日(1712年11月21日))は、江戸時代後期の人物。八丈島に配流となった宇喜多一族。父は浮田秀真。兄に秀徳、継栄、継高。.

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浮田正道

浮田 正道(うきた まさみち、宝永1年(1704年) - 寛延3年6月15日(1750年7月18日))は、江戸時代中期の人物。八丈島に配流となった宇喜多一族。通称は、作大夫、忠平。父は浮田正忠。子に正平、正休、正生、継諦、娘(浮田秀玄の妻)、娘(三太夫の妻)。兄に正寿。.

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海坊主

歌川国芳 『東海道五十三対 桑名』の海坊主 北尾政美による黄表紙『夭怪着到牒』。鱗とヒレを持つ海坊主が登場する。 水木しげるロードに設置されている「海坊主」のブロンズ像。 海坊主(うみぼうず)は、海に住む妖怪、海の怪異。「海法師(うみほうし)」、「海入道(うみにゅうどう)」と呼ばれるものも含まれる。.

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海女房

鳥取県境港市・水木しげるロードに設置されている「海女房」のブロンズ像。 海女房(うみにょうぼう)または海夫人(うみふじん)は、島根県出雲地方を始め、三陸海岸など日本の沿岸地方に伝わる妖怪。磯女に類するもの。.

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海舶互市新例

海舶互市新例(かいはくごししんれい)は、新井白石が1715年2月14日(正徳5年1月11日)、国際貿易額を制限するために制定した法令。長崎新令・正徳新令とも呼ばれる。.

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海津市

海津市歴史民俗資料館の敷地内に再現されている堀田 木曽三川公園展望タワー 千本松原 長良川国際レガッタコース 海津市(かいづし)は、岐阜県の南西に位置する市である。旧南濃町区域に山地があるが、旧海津町、平田町域はほぼ全域が海抜ゼロメートル地帯であり、輪中地帯として有名。.

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浜寺公園

浜寺公園(はまでらこうえん)は、大阪府堺市西区および高石市の沿岸部に広がる大阪府営の都市公園。約5,500本の松林で知られる。.

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浜御殿奉行

浜御殿奉行(はまごてんぶぎょう)は、江戸幕府における職名の1つ。.

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浜益村

浜益村(はまますむら)は、北海道石狩支庁の最北端に位置していた浜益郡に所属していた村。 村名の由来は、アイヌ語の amam-suke アマスケからとする説と、浜-maske-i はまマケイとする説、浜-mas-ke はまマケとする説があり、後二者が有力視されている。現在の増毛町が同じ地名であったので区別する為に「浜」を接頭したとされる。何が余っていたのか明らかではないが、ニシンではないかとする説がある。前者でも「穀物を煮る地」というものがどういうものであったかは、明らかにされていない。 2005年(平成17年)10月1日、厚田村と共に石狩市へ編入され、浜益村区域は、石狩市の地域自治区「浜益区」となった。.

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浄岸院

浄岸院(じょうがんいん、宝永2年2月19日(1705年3月14日) - 安永元年12月5日(1772年12月28日))は、薩摩藩第5代藩主島津継豊の継室。権大納言清閑寺熈定の娘。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉及び第8代将軍徳川吉宗の養女。名は竹姫(たけひめ)。なお、徳川宗直の娘で吉宗養女となり、仙台藩の伊達宗村の正室となった利根姫とは養姉妹関係にある。.

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浄円院

浄円院(じょうえんいん、明暦元年(1655年) - 享保11年6月9日(1726年7月8日))は、紀州藩主徳川光貞の側室で、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の生母。俗名は由利、紋。.

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浅井図南

浅井 図南(あさい となん、宝永3年11月13日(1706年12月17日) - 天明2年8月5日(1782年9月11日))は、江戸時代中期の医者。名は政直、後に惟寅。通称は頼母。幹亭、篤敬斎とも号した。.

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浅田家文書

無足人(郷士) 許状 城和奉行渡辺高之助  文政十亥年四月 (浅田周宏 蔵) 浅田家文書(あさだけ もんじょ)とは、山城国相楽郡西法花野村(現・京都府木津川市山城町上狛)の浅田家(戸籍上では淺田)に伝来した古文書(18,120点)。 西法花野村庄屋文書、狛四ケ村文書、野日代村庄屋文書、狛組(加茂組)大庄屋文書、近代地方行政・諸役職関係文書、浅田家・家文書、大和郡山茶町文書、岡崎村文書、下島村文書、相楽村河辺善右衛門関係文書の各まとまりからなる。これらの文書の初出期は天文15年(1546年)、終期は大正年間。.

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浅野吉長

浅野 吉長(あさの よしなが)は、安芸広島藩の第5代藩主。浅野家宗家6代。.

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浅野綱長

浅野 綱長 (あさの つななが)は、江戸時代前期の国主外様大名。安芸広島藩第4代藩主。浅野家宗家5代。.

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浅野直道

浅野 直道(あさの なおみち、生年不詳 - 宝暦13年5月13日(1763年6月23日))は、大石良雄の娘大石るりの夫となった武士。.

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浅野長広

浅野 長広(あさの ながひろ、旧字体:淺野 長廣)は、江戸時代前期から中期の旗本。幼名は戌千代(いぬちよ)。通称は大学。一般に浅野 大学(あさの だいがく)として知られる。赤穂事件で改易・切腹となった赤穂藩主・浅野長矩の弟、のち養子。.

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浅野長純

浅野 長純 (あさの ながずみ、宝永4年(1707年) - 宝暦4年7月13日(1754年8月30日))は、江戸時代中期の旗本。浅野長広の子。通称は政次郎、大学、長兵衛。 赤穂藩主・浅野長矩の弟・浅野長広の長男として生まれる。母は伊勢国菰野藩主土方雄豊の養女(雄豊の早世した嫡子土方豊高の娘)。 父は浅野長矩の刃傷事件に連座して広島藩浅野家にお預かりになっていたが、宝永7年(1710年)9月16日幕府に500石の旗本として出仕することが許された。享保8年(1723年)2月9日はじめて将軍徳川吉宗に謁見。享保9年(1724年)7月19日に父の隠居で家督500石を相続。延享2年(1745年)9月13日に小姓組番士に列したが、後に小普請役に落とされた。 宝暦4年(1754年)7月13日に死去。享年48。赤穂浅野家の菩提寺である江戸高輪泉岳寺に葬られた。法名は伊園。妻は村上正方の娘。後妻は牧野忠列の娘。家督は子の長延が継いだ。 なかすみ category:江戸幕府旗本 Category:1707年生 category:1754年没.

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浅野長経

浅野 長経(あさの ながつね、宝永6年11月14日(1709年12月14日) - 享保4年4月23日(1719年6月10日))は、備後三次藩の第4代藩主。第3代藩主・浅野長澄の三男。幼名は撫三郎、又六郎。官位は夭折したため受けていない。.

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浅野長照

浅野 長照(あさの ながてる、慶安5年1月17日(1652年2月26日) - 宝永2年11月15日(1705年12月30日))は、第2代備後三次藩主。通称は長蔵(ながぞう)、官位は従五位下・式部少輔(しきぶしょうゆう)。 父は安芸広島藩主浅野光晟、母は前田利常の娘・満姫。兄に浅野綱晟、浅野長尚。室は公家の広幡忠幸の娘・園姫。.

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浅野長賢 (広島新田藩主)

浅野 長賢(あさの ながかた、元禄6年(1693年) - 延享元年9月25日(1744年10月30日))は、安芸国広島新田藩の初代藩主。 広島藩主浅野綱長の三男。子に浅野長喬(長男)、養寿院(小笠原忠総正室)、瑞仙院(毛利広寛正室)。幼名は万吉、民部、大膳。官位は従五位下。兵部少輔。宮内少輔。 宝永7年(1710年)9月18日、将軍徳川家宣に拝謁し、松平姓を名乗ることを許される。同年12月18日、従五位下兵部少輔に任官する。後に宮内少輔に改める。享保15年(1730年)5月11日、兄で広島藩主の吉長から3万石を分与されて、支藩である広島新田藩を立藩した。延享元年(1744年)9月25日、52歳で死去し、跡を長男・長喬が継いだ。法号は大通院。墓所は東京都品川区北品川の東海寺。 なかかた *01 Category:1693年生 Category:1744年没.

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浅野長澄

浅野 長澄(あさの ながずみ、寛文11年12月1日(1671年12月31日) - 享保3年8月4日(1718年8月29日))は、第3代備後三次藩主。 安芸広島藩主浅野綱晟の次男。母は左大臣九条道房の娘・八代姫。兄は第4代広島藩主・浅野綱長。正室は小笠原忠雄の娘。子に浅野長経(長男)、浅野長寔(次男)。通称は大助(だいすけ)、官位は従五位下・土佐守。.

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斎藤就幸

斎藤 就幸(さいとう なりゆき)は、江戸時代初期の武士。毛利氏家臣で長州藩士。知行は200石。父は斎藤就実。.

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斯波園女

斯波 園女(しば そのめ、寛文4年(1664年) - 享保11年4月20日(1726年5月21日))は江戸時代の俳人。伊勢国 山田(現在の三重県 伊勢市)出身。.

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新宮城

新宮城(しんぐうじょう)は、和歌山県新宮市にあった日本の城である。別名は丹鶴城(たんかくじょう)。また、沖見城(おきみじょう)とも称された水島 (1995)、198頁。城跡は「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されている。.

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新居宿

歌川広重『東海道五十三次・荒井』 新居宿(あらいしゅく)は、東海道五十三次の江戸・日本橋から数えて31番目の宿場。旧国名は遠江国、現在の静岡県湖西市新居町新居に相当する。.

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新居関所

新居関所(あらいせきしょ)は、江戸時代の東海道の関所である。現在、静岡県湖西市新居町新居に相当する。正式名称が今切関所(いまぎれせきしょ)である。.

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新川 (東京都中央区)

新川(しんかわ)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区にあたる京橋地域内である。現行行政地名は新川一丁目及び新川二丁目。郵便番号は104-0033。隅田川、日本橋川、亀島川に囲まれた地域で、霊岸島とも呼ばれる。.

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新川町 (愛知県碧海郡)

新川町(しんかわちょう)は、かつて愛知県碧海郡にあった町である。 現在の碧南市の北部に該当する。油ヶ淵からの排水のために1705年(宝永2年)に開削された新川が名称の由来であり、町域は新川北岸に位置していた。.

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新庄直祐

新庄 直祐(しんじょう なおすけ)は、常陸麻生藩の第8代藩主。.

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新庄直詮

新庄 直詮(しんじょう なおのり)は、江戸時代中期の大名、常陸麻生藩の第7代藩主。.

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新井信之

新井 信之(あらい のぶゆき、1916年(大正5年) - 1944年(昭和19年)5月4日)は、国文学者。栃木県生まれ『竹取物語の研究 本文篇』国書出版、1944年 p.436。池田亀鑑、横山重に師事し、中古文学、特に『竹取物語』の本文研究の礎を築いた。.

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新井白石

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.

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新地蔵所

新地蔵所(しんちくらしょ)は、江戸時代に長崎の新地町に造られた貨物倉庫である。新地土蔵とも呼ばれ、唐人は貨庫と呼んだ。.

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新・古着屋総兵衛

『新・古着屋総兵衛』(しん・ふるぎやそうべえ)は、佐伯泰英による日本の時代小説シリーズ。新潮文庫から書き下ろしで刊行されている。徳間文庫から刊行された『古着屋総兵衛影始末』シリーズの続編である。.

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新鹿町

新鹿町(あたしかちょう)は、三重県熊野市の町名。江戸時代には木材を積み出す港町として発展し、現代では海沿いの農山村地域であるとともに新鹿海水浴場を中心とした観光地でもある。俳諧師の三浦樗良や、作家の中上健次が滞在したことがあり、彼らの作品の舞台となった。 熊野市が公表する2017年(平成29年)11月1日現在の人口は777人であり、2010年(平成22年)10月1日現在の面積は18.573370km2、郵便番号は519-4206である。.

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新開池

新開池(しんかいいけ)は、かつて河内国に広い範囲(現在の大阪府大阪市鶴見区東南部、 東大阪市北西部、大東市南西部)で存在した大きな池。江戸時代に行われた大和川の付け替え工事と新田開発により消滅した。.

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新橋 (東京都港区)

新橋」。下を汐留川が流れていた。背後の建物は現在の「博品館TOY PARK」の敷地にあった帝国博品館勧工場。大正時代の絵葉書より。 新橋(しんばし)は、東京都港区にある町名。現行行政町名で新橋一丁目から新橋六丁目まである。日本の鉄道発祥の地として知られる。芝地区総合支所管内に属する。郵便番号は105-0004(芝局集配区)。 丸の内・品川に連なるビジネス街であり、サラリーマンの街として有名である。東に汐留、北に千代田区内幸町、中央区銀座に接する。 「新橋」とは、狭義には現在の新橋一丁目、新橋二丁目、新橋三丁目、新橋四丁目、新橋五丁目、新橋六丁目の区域を指す。また、広義には隣接する汐留(港区東新橋)・旧木挽町(中央区銀座の東部)にまたがる地域全体を指すことがあり、新橋演舞場や新橋芸者・新橋の料亭街などという場合はすべてこの広義の「新橋」に該当する。.

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新潟町奉行

新潟町奉行(にいがたまちぶぎょう)は江戸時代に新潟町(現在の新潟県新潟市)が越後長岡藩の所領であった時代に存在した越後長岡藩の役職。新潟町は天保14年(1843年)に江戸幕府に上知されて天領となるが、天領になって以降の新潟町統治の幕職である新潟奉行については遠国奉行#新潟奉行を参照。.

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於保多神社

於保多神社(おおたじんじゃ)は、富山県富山市にある神社である。旧社格は県社。 菅原道真公・富山藩初代藩主前田利次・二代藩主正甫・十代藩主利保を祀る。「富山の天神様」として崇敬を受ける。.

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文治政治

文治政治(ぶんちせいじ)は、江戸幕府4代将軍徳川家綱から7代将軍徳川家継までの時期の政治をさす。.

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文政小判

文政小判(新文字小判) 文政小判(ぶんせいこばん)とは文政2年7月18日(1819年)から鋳造開始され同年9月20日より通用開始された一両としての額面を持つ小判であり、新文字小判(しんぶんじこばん)あるいは草文小判(そうぶんこばん)とも呼ばれる。また文政小判および文政一分判を総称して文政金(ぶんせいきん)、新文字金(しんぶんじきん)、あるいは草文金(そうぶんきん)と呼ぶ。.

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日宥

日宥(にちゆう、寛文9年(1669年) - 享保14年12月28日(1730年2月15日))は、日蓮正宗総本山大石寺第25世法主。.

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日寛

日寛(にちかん、寛文5年8月7日(1665年9月15日) - 享保11年8月19日(1726年9月14日)、1718年登座)は、日蓮正宗総本山第26世の法主(大石寺貫首)。 日蓮正宗では、第9世日有とともに中興の祖としてあがめている。 中興の祖と言われた理由として、六巻抄を後世に残した事が大きく関係している。.

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日忠 (大石寺)

日忠(にっちゅう、1687年 - 1743年10月11日)は、大石寺第30世法主。.

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日啓 (大石寺)

日啓(にっけい、慶安元年(1648年) - 宝永4年11月14日(1707年12月7日))は、日蓮正宗総本山大石寺第23世法主。.

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日因 (大石寺)

日因(にちいん、1687年10月17日 - 1769年6月14日)は、大石寺第31世法主。経道院。能化補任前は覚応坊日相と号した。.

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日立鉱山

日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出した。1905年(明治38年)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山であったが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始された。久原の経営開始以後大きく発展し、1905年(明治38年)から閉山となった1981年(昭和56年)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなった井上(2005)によれば日立鉱山における鉱石生産量は、日立鉱山や日本鉱業の各資料に記載されている数字が産出される粗鉱量であったり精錬所で精練が行われた精鉱量であったりして統一的な記載がなく、また各資料から導き出される数字に矛盾も見受けられるとする。実際、岩間(1983)のように日立鉱山での鉱石産出量を1000万トンとする研究者もいる。ここでは日本鉱業株式会社日立精錬所(1986)、鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)、「阿武隈山地 日立鉱山」日本地質学会編(2008)など、広く採用されている3000万トンとした。。日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成され、また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生しており、日立鉱山は日本の近代産業史に大きな足跡を残している。 日立鉱山の南隣には硫化鉄鉱を主に産出した諏訪鉱山があり、1917年(大正6年)に久原鉱業によって買収された後は日立鉱山の支山となり、1965年(昭和40年)の閉山まで稼動が続けられた。ここでは日立鉱山とともに諏訪鉱山についても説明を行う。.

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日立鉱山の鉱害問題

日立鉱山の鉱害問題(ひたちこうざんのこうがいもんだい)では、茨城県日立市にあった日立鉱山で発生した、鉱毒に汚染された排水と亜硫酸ガスを含んだ排煙による鉱害問題とともに、鉱害解消に向けて採られた様々な対策と鉱山経営者と鉱害被害者との交渉によって問題の解決へと導いた経緯について記述する。.

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日置忠明

日置 忠明(へき ただあき、慶安元年閏1月13日(1648年3月7日)- 享保3年11月29日(1719年1月19日))は、備前岡山藩の家老。備前金川1万6,000石の領主。 父は岡山藩家老日置忠治。母は池田利政の娘心珠院。通称左門、猪右衛門。正室は桑山一玄の娘源水院。子は日置忠昌、山脇源太夫、池田要人信延室、池田森臻、今枝恒明、池田知之(利恭)、池田俊清。 慶安元年(1648年)閏1月13日、岡山藩家老日置忠治の嫡男として誕生する。承応2年(1653年)、6歳で藩主光政に拝謁、幕府の証人として5回江戸に下向した。延宝5年(1677年)10月、父の隠居により家督を継ぎ、仕置家老となる。.

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日置忠昌

日置 忠昌(へき ただまさ、貞享元年9月24日(1684年11月1日)- 元文4年8月10日(1739年9月12日))は、備前岡山藩の家老。備前金川1万6,000石の領主。 父は岡山藩家老・日置忠明。母は新庄藩藩主・桑山一玄の娘・源水院。正室は稲葉四郎右衛門正勝の娘。通称左門、隼人、伊織、猪右衛門。子は日置忠盈、日置忠寿、日置忠芳、土倉一信室。.

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日生諸島

日生港のみなとの見える丘公園から望む日生諸島 日生諸島(ひなせしょとう)は、瀬戸内海の諸島。岡山県の東部および一部は兵庫県南西部に位置する。.

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日高国

日高国(ひだかのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。領域は現在の日高振興局管内にあたる。.

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日永 (日蓮正宗)

日永(にちえい、慶安3年(1650年) - 正徳5年2月24日(1715年3月29日))は、日蓮正宗総本山大石寺第24世法主。.

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日本のインフレーション

本項では、歴史的観点からの日本のインフレーションについて記述する。 2009年現在から120年前に遡ると日本の物価は約3000倍となっている。.

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日本の皇后一覧

日本の皇后一覧(にっぽんのこうごういちらん)は、日本の皇后の一覧。.

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日本の貨幣史

日本の貨幣史(かへいし)では日本の貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の歴史を指す。日本に流入した海外の貨幣や、海外で流通した日本の貨幣についても取り上げる。また、歴史的に蝦夷地や琉球と呼ばれてきた地域の貨幣についても記述する。世界各地の貨幣の歴史については、貨幣史を参照。.

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日本の貿易史

日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷地や琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。世界各地の貿易の歴史については、貿易史を参照。.

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日本舞踊

日本舞踊(にほんぶよう)は、日本のいわゆる伝統的な踊りの総称である。日本の伝統的なダンスである舞(まい)と踊(おどり)を合わせたもの。 近年、日本舞踊の国際化に伴い欧米諸国やアジアにも Nihombuyo といった呼称が定着しつつある。.

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日本教育史

日本教育史(にほんきょういくし)では、古代から現代までの日本の教育のあり方とその歴史、教育観、教材、制度などの変遷を掲載する。教育学の一般的な教養の一つの部門でもある。.

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日教 (日蓮正宗)

日教(にっきょう、1704年 - 1757年8月12日)は、大石寺第32世法主。.

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旧大國家住宅

旧大國家住宅(きゅうおおくにけじゅうたく)は、岡山県和気郡和気町にある国の重要文化財の民家である。.

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旧矢掛本陣石井家

旧矢掛本陣石井家(きゅうやかげほんじんいしいけ)は、岡山県小田郡矢掛町にある旧西国街道矢掛宿の本陣である。.

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旧西川家住宅

旧西川家住宅(きゅうにしかわけじゅうたく)は、滋賀県近江八幡市にある歴史的建造物。江戸時代から明治時代前半にかけて活躍した近江商人西川利右衛門の屋敷で、国の重要文化財に指定されている。 昭和5年(1930年)に子孫が途絶えてからは土地と建物は市に寄贈され、郷土資料館・歴史民俗資料館・旧伴家住宅と併せて一般公開されている。また、建物は新町通りに面しており、八幡伝統的建造物群保存地区に含まれている。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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悦峯道章

悦峯道章(えっぽうどうしょう、1655年 - 1734年)は、江戸時代初期の僧。黄檗宗の僧で、黄檗宗総本山萬福寺の八代住持。 浙江省杭州府銭塘県に生まれる。「道章」は名で、俗性は顧氏。法名に法賢。貞享3年(1686年)に日本へ渡り、長崎興福寺住職となる。宝永4年(1707年)8月には江戸へ赴き将軍徳川綱吉に拝謁する。 将軍綱吉の側用人で大老格の柳沢吉保の帰依を受け、宝永7年(1710年)8月15日には、柳沢家家老薮田重守に招聘され甲斐国岩窪村に創建された永慶寺の開山となる。享保19年(1734年)に死去。.

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愛宕神社 (笠間市)

愛宕神社(あたごじんじゃ)は、茨城県笠間市泉の愛宕山に鎮座する神社。元は愛宕権現で、俗に「泉の愛宕」と呼ばれた。平田篤胤の「仙境異聞」では「愛宕宮」として描かれた。旧社格は村社。日本三大火防神社(日本火防三山)の一社を称する。 境内社(奥社)の飯綱神社(いづなじんじゃ)は、延喜式神名帳に記載されている常陸国茨城郡小三座の一社「夷針神社」の論社である。例祭が奇祭「悪態まつり」として知られている。.

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懐月堂安度

立姿美人図」(萩模様) 安度筆。 懐月堂 安度(かいげつどう あんど、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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懐月堂度秀

懐月堂 度秀(かいげつどう どしゅう、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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懐月堂度種

懐月堂 度種(かいげつどう どしゅ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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懐月堂度繁

立姿美人図」 度繁筆、出光美術館所蔵。 懐月堂 度繁(かいげつどう どはん、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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懐月堂度辰

懐月堂 度辰(かいげつどう どしん、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。.

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懐月堂派

懐月堂派(かいげつどうは)とは、懐月堂安度を起りとする浮世絵師の一派のこと。.

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敷津村

敷津村(しきづむら)は、大阪府東成郡にあった村。現在の大阪市住之江区の一部にあたる。.

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敵討

敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世日本の制度。武士が台頭した中世期からの慣行であり、江戸期には警察権の範囲として制度化された。基本的に、子が親の仇を討つなど、血縁関係がある目上の親族のために行う復讐を指した。.

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慧日寺 (大牟田市)

慧日寺(えにちじ)は福岡県大牟田市岩本に所在する黄檗宗寺院。等級は別格。山号は大慈山。本尊は観世音菩薩で伝承では聖徳太子作。筑後三十三観音霊場第25番札所である。.

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慶元寺

慶元寺(けいげんじ)は、東京都世田谷区喜多見四丁目にある浄土宗の寺院。.

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慶長地震

慶長地震(けいちょうじしん)は、江戸時代初期の慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった地震である。震源については諸説があり、南海沖(南海トラフ)単独地震説と南海沖と房総沖の連動地震説、遠地地震説など。津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、地震による陸地の揺れが小さいのが特徴である。また震源や被害規模も不明な点が多い。 以上のことから津波を想起させる大きな地震動が発生しない津波地震であったとされ、同様の地震が将来発生した場合に避難が遅れ大きな被害が出る可能性があり、問題となっている。.

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慶長豊後地震

慶長豊後地震(けいちょうぶんごじしん)は、1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)に豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。別府湾地震、大分地震などとも呼ばれる。死者800余人。 この地震によって別府湾にあった瓜生島及び久光島の2島が沈んだと伝えられる。ただし、これらの島は実在自体が未確認であり、瓜生島は島ではなく沖ノ浜と呼ばれる沿岸の港町であったとする説等もある。.

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慈受院

慈受院(じじゅいん)は、京都市上京区にある臨済宗単立の門跡尼院。山号は広徳山。本尊は釈迦如来。薄雲御所とも称する。.

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慈眼寺 (大東市)

慈眼寺(じげんじ)は、大阪府大東市野崎にある寺院。山号は福聚山(ふくじゅさん)。宗派は曹洞宗。本尊は十一面観世音菩薩。本尊にちなみ、野崎観音(のざきかんのん)の通称で知られる。.

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手力雄神社 (館山市)

手力雄神社(たぢからおじんじゃ)は、千葉県館山市にある神社。.

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手伝普請

手伝普請(てつだいふしん)は、豊臣政権や江戸幕府が諸大名に命じて行わせた大規模な土木建築工事のことである。近世の統一政権の成立が前提となる。.

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曽根崎川

曽根崎川(そねざきがわ)は、大阪府大阪市北区・福島区にかつて存在した河川である。別名は蜆川(しじみがわ)。.

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曽根崎心中

露天神の境内にあるブロンズ像 『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう/旧字曾根崎心中、そねざきしんぢゅう)は世話物浄瑠璃(江戸時代における現代劇浄瑠璃)。一段。近松門左衛門作。1703年(元禄16年)竹本座初演の人形浄瑠璃・文楽。のちに歌舞伎の演目にもなる。相愛の若い男女の心中の物語である。 「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まる有名な道行の最後の段は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれ、お初と徳兵衛が命がけで恋を全うした美しい人間として描かれている。.

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曾根崎

曾根崎(そねざき)は、大阪府大阪市北区の地域名および町名。略字で「曽根崎」とも表記される。現行行政地名は曾根崎一丁目から二丁目まで。2016年(平成28年)9月30日現在の人口は249人、世帯数は180世帯。郵便番号は〒530-0057。 本項では概ね同地域にかつて所在した西成郡曾根崎村(そねざきむら)についても述べる。.

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曾我兄弟の仇討ち

一万丸 箱王丸(曾我兄弟) 歌川国芳画 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた。.

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智現院

智現院(ちげんいん、生年不詳 - 寛延3年10月14日(1750年11月12日))は、陸奥会津藩藩主・松平正容の側室。松平正邦の生母。父は浪人・榎本遺倫。名はもん。.

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時の鐘 (川越市)

時の鐘(ときのかね)は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼(時計台)。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている - 川越市、2016年10月18日閲覧。。.

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10月10日 (旧暦)

旧暦10月10日(きゅうれきじゅうがつとおか)は、旧暦10月の10日目である。六曜は先勝である。.

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10月13日 (旧暦)

旧暦10月13日は旧暦10月の13日目である。六曜は仏滅である。.

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10月14日

10月14日(じゅうがつじゅうよっか、じゅうがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から287日目(閏年では288日目)にあたり、年末まであと78日ある。.

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10月15日

10月15日(じゅうがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から288日目(閏年では289日目)にあたり、年末まであと77日ある。.

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10月18日 (旧暦)

旧暦10月18日は旧暦10月の18日目である。六曜は先負である。.

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10月23日

10月23日(じゅうがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から296日目(閏年では297日目)にあたり、年末まであと69日ある。.

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10月24日 (旧暦)

旧暦10月24日は旧暦10月の24日目である。六曜は先負である。.

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10月25日

10月25日(じゅうがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から298日目(閏年では299日目)にあたり、年末まであと67日ある。.

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10月27日

10月27日(じゅうがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から300日目(閏年では301日目)にあたり、年末まであと65日ある。.

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10月28日

10月28日(じゅうがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から301日目(閏年では302日目)にあたり、年末まであと64日ある。.

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10月4日 (旧暦)

旧暦10月4日(きゅうれきじゅうがつよっか)は旧暦10月の4日目である。六曜は先勝である。.

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11月15日

11月15日(じゅういちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から319日目(閏年では320日目)にあたり、年末まであと46日ある。.

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11月20日

11月20日(じゅういちがつはつか、じゅういちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から324日目(閏年では325日目)にあたり、年末まであと41日ある。.

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11月23日 (旧暦)

旧暦11月23日は旧暦11月の23日目である。六曜は先負である。.

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11月25日

11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。.

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11月5日

11月5日(じゅういちがついつか)はグレゴリオ暦で年始から309日目(閏年では310日目)にあたり、年末まであと56日ある。.

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11月6日

11月6日(じゅういちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から310日目(閏年では311日目)にあたり、年末まであと55日ある。.

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12月10日

12月10日(じゅうにがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から344日目(閏年では345日目)にあたり、年末まであと21日ある。.

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12月15日

12月15日(じゅうにがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から349日目(閏年では350日目)にあたり、年末まであと16日ある。.

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12月16日

12月16日(じゅうにがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から350日目(閏年では351日目)にあたり、年末まであと15日ある。.

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12月17日 (旧暦)

旧暦12月17日は旧暦12月の17日目である。六曜は仏滅である。.

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12月18日 (旧暦)

旧暦12月18日は旧暦12月の18日目である。六曜は大安である。.

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12月5日

12月5日(じゅうにがついつか)はグレゴリオ暦で年始から339日目(閏年では340日目)にあたり、年末まであと26日ある。.

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12月8日

12月8日(じゅうにがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から342日目(閏年では343日目)にあたり、年末まであと23日ある。.

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1700年代

1700年代(せんななひゃくねんだい)は、.

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1704年

記載なし。

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1705年

記載なし。

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1706年

記載なし。

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1707年

記載なし。

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1708年

記載なし。

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1709年

記載なし。

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1710年

記載なし。

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1711年

記載なし。

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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1月10日 (旧暦)

旧暦1月10日(きゅうれきいちがつとおか)は、旧暦1月の10日目である。六曜は仏滅である。.

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1月16日

1月16日(いちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から16日目に当たり、年末まであと349日(閏年では350日)ある。誕生花はデンドロビューム、ラッパズイセン、ジンチョウゲ、黄色のヒヤシンス。.

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1月17日 (旧暦)

旧暦1月17日は旧暦1月の17日目である。六曜は大安である。.

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1月20日 (旧暦)

旧暦1月20日(きゅうれきいちがつはつか)は、旧暦1月の20日目である。六曜は友引である。.

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2月18日

2月18日(にがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から49日目にあたり、年末まであと316日(閏年では317日)ある。.

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2月19日

2月19日(にがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から50日目にあたり、年末まであと315日(閏年では316日)ある。.

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2月19日 (旧暦)

旧暦2月19日は旧暦2月の19日目である。六曜は友引である。.

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2月1日

2月1日(にがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から32日目にあたり、年末まであと333日(閏年では334日)ある。.

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2月24日 (旧暦)

旧暦2月24日は旧暦2月の24日目である。六曜は先勝である。.

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2月26日 (旧暦)

旧暦2月26日は旧暦2月の26日目である。六曜は先負である。.

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2月30日 (旧暦)

旧暦2月30日は旧暦2月の30日目である。年によっては2月の最終日となる。六曜は先勝である。 太陽太陰暦では月名に関係なく1か月は29日または30日であるため、年によって、現行の太陽暦であるグレゴリオ暦では存在しない2月30日という日も存在した(グレゴリオ暦以外の例外については2月30日を参照のこと)。.

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3月12日 (旧暦)

旧暦3月12日は旧暦3月の12日目である。六曜は友引である。.

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3月13日 (旧暦)

旧暦3月13日は旧暦3月の13日目である。六曜は先負である。.

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3月17日

3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。.

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3月1日

3月1日(さんがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から60日目(閏年では61日目)にあたり、年末まであと305日ある。.

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3月6日 (旧暦)

旧暦3月6日(きゅうれきさんがつむいか)は旧暦3月の6日目である。六曜は友引である。.

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3月8日 (旧暦)

旧暦3月8日は旧暦3月の8日目である。六曜は仏滅である。.

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4月10日

4月10日(しがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から100日目(閏年では101日目)にあたり、年末まではあと265日ある。誕生花はチューリップ、ベニバナアセビ。.

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4月23日

4月23日(しがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から113日目(閏年では114日目)にあたり、年末まではあと252日ある。誕生花はハナミズキ、ボタン。.

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4月25日 (旧暦)

旧暦4月25日は旧暦4月の25日目である。六曜は仏滅である。.

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4月28日

4月28日(しがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から118日目(閏年では119日目)にあたり、年末まではあと247日ある。誕生花は日本サクラソウ、ローズマリー。.

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4月5日

4月5日(しがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から95日目(閏年では96日目)にあたり、年末まであと270日ある。誕生花はカイドウ、コデマリ。.

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5月14日 (旧暦)

旧暦5月14日は旧暦5月の14日目である。六曜は赤口である。.

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5月15日

5月15日(ごがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から135日目(閏年では136日目)にあたり、年末まではあと230日ある。誕生花はドクダミ。.

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5月18日 (旧暦)

旧暦5月18日は旧暦5月の18日目である。六曜は仏滅である。.

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5月19日

5月19日(ごがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から139日目(閏年では140日目)にあたり、年末まであと226日ある。誕生花はクルミ。.

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5月22日 (旧暦)

旧暦5月22日は旧暦5月の22日目である。六曜は友引である。.

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5月25日

5月25日(ごがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から145日目(閏年では146日目)にあたる。年末まで220日ある。誕生花はアスパラガス。.

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5月26日

5月26日(ごがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から146日目(閏年では147日目)にあたり、年末まではあと219日ある。誕生花はワサビ。.

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5月2日

5月2日(ごがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。誕生花はスズラン。.

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5月6日

5月6日(ごがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から126日目(閏年では127日目)にあたり、年末まではあと239日ある。誕生花はシャクナゲ。.

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6月15日 (旧暦)

旧暦6月15日は旧暦6月の15日目である。六曜は友引である。.

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6月18日

6月18日(ろくがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から169日目(閏年では170日目)にあたり、年末まであと196日ある。誕生花はスイセンノウ、サギソウ。.

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6月22日 (旧暦)

旧暦6月22日は旧暦6月の22日目である。六曜は先負である。.

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7月11日 (旧暦)

旧暦7月11日は旧暦7月の11日目である。六曜は大安である。.

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7月12日 (旧暦)

旧暦7月12日は旧暦7月の12日目である。六曜は赤口である。.

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7月16日

7月16日(しちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から197日目(閏年では198日目)にあたり、年末まであと168日ある。誕生花はジンジャー、ツユクサ。.

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7月22日

7月22日(しちがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から203日目(閏年では204日目)にあたり、年末まであと162日ある。誕生花はペチュニア、ナツツバキ。.

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7月3日

7月3日(しちがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から184日目(閏年では185日目)にあたり、年末まではあと181日ある。誕生花はハス、バラ。.

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7月3日 (旧暦)

旧暦7月3日(きゅうれきしちがつみっか)は旧暦7月の3日目である。六曜は先負である。.

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7月6日 (旧暦)

旧暦7月6日(きゅうれきしちがつむいか)は旧暦7月の6日目である。六曜は赤口である。.

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7月8日

7月8日(しちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から189日目(閏年では190日目)にあたり、年末まであと176日ある。誕生花はホオズキ、クロユリ。.

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8月11日

8月11日(はちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から223日目(閏年では224日目)にあたり、年末まであと142日ある。.

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8月11日 (旧暦)

旧暦8月11日は、旧暦8月の11日目である。六曜は赤口である。.

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8月20日

8月20日(はちがつはつか、はちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から232日目(閏年では233日目)にあたり、年末まであと133日ある。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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8月29日 (旧暦)

旧暦8月29日は旧暦8月の29日目である。年によっては8月の最終日となる。六曜は赤口である。.

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8月4日

8月4日(はちがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から216日目(閏年では217日目)にあたり、年末まであと149日ある。.

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8月8日

8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.

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8月8日 (旧暦)

旧暦8月8日(きゅうれきはちがつようか)は、旧暦8月の8日目である。六曜は先負である。.

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9月10日 (旧暦)

旧暦9月10日は旧暦9月の10日目である。六曜は赤口である。.

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9月11日 (旧暦)

旧暦9月11日は旧暦9月の11日目である。六曜は先勝である。.

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9月16日 (旧暦)

旧暦9月16日は旧暦9月の16日目である。六曜は赤口である。.

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9月25日

9月25日(くがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から268日目(閏年では269日目)にあたり、年末まであと97日ある。.

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9月4日

9月4日(くがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から247日目(閏年では248日目)にあたり、年末まであと118日ある。.

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9月6日 (旧暦)

旧暦9月6日(きゅうれきくがつむいか)は旧暦9月の6日目である。六曜は友引である。.

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9月8日 (旧暦)

旧暦9月8日は旧暦9月の8日目である。六曜は仏滅である。.

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