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1518年

索引 1518年

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358 関係: 原胤清てんかんいとこ同士の夫婦一覧印刷古河公方右大臣右田弘詮吉川興経吉田孝頼塩冶興久境川 (富山県・新潟県)夏目吉信大友義鑑大友義長大友親治大宝寺晴時大徳大徳 (黎榜)大内義興大石寺住職一覧大炊御門経名大田原資清大田原氏大関増次大関宗増天徳太政大臣姉小路済俊姉小路済継孝貞王皇后実孝実順宍戸隆家宣和 (陳昇)宇喜多能家宇田川氏安義県安房国小山田氏小田原城尹之任尹汝弼尼子経久尼子氏尼子政久尼子晴久山口大神宮岡豊城左大臣上杉藤王丸...上杉朝興上杉朝良中世ヨーロッパにおける教会と国家中院通為世尊寺行季三吉致高三好之長三好氏三条実香下田中城一条房通年の一覧久喜市享禄・天文の乱二条尹房井上元貞今川氏親今出川公彦延暦寺根本中堂得珍保土岐頼芸土岐頼武在フランスイギリス大使北畠材親北畠晴具北高全祝北条氏綱北条早雲マヤ人マヤ文明ノルトハルベンマルティン・ルターマンスール (モグーリスタン)マヌエル1世 (ポルトガル王)ノストラダムスノストラダムス関連人物の一覧マゾフシェ公ハンス・バルドゥングハンス・ア・ダンマーク (1518-1532)ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパハイデラバード (インド)バルバロス・ハイレッディンバルバロス・オルチバルトロメオ・トロンボンチーノバート・イーブルクバーブルポルトガル海上帝国ポート・ロイヤルヤヌシュ3世ユートピア (本)ユグノーヨーロッパにおける政教分離の歴史ラテン語学校リウネルネサンス建築ルネサンス音楽の作曲家一覧ルートヴィヒ・ゼンフルルターシュタット・ヴィッテンベルクレムゴーロレンツォ2世・デ・メディチロレートの聖母 (ラファエロの絵画)ロイゼ・コンペールロシア・カザン戦争ヴァノッツァ・カタネイヴェルルトマス・ウルジートラールヘリザウブルターニュの聖アンナ崇敬プラス記号とマイナス記号ヒヴァ・ハン国ヒエロニムス・コックピエール・ド・ラ=リューティントレットデマルカシオンディエゴ・コロンデカン・スルターン朝フランチャビージオフランシスコ・デ・ペニャローサフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ (ユカタン半島の発見者)フランシスコ・エンリケスフランス元帥フランソワ3世 (ブルターニュ公)フリードリヒ2世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)フルドリッヒ・ツヴィングリフアン・デル・エンシーナフィリップ・メランヒトンフィリップ・ヴェルドロドゥマク王国ニコラス・デ・オバンドホムベルク (エフツェ)ダルムシュタットの歴史ダレント川ベラクルスベルベラベストヴィヒ和平県和知氏アルジェアロンソ・ベルゲテアントワーヌ (ヴァンドーム公)アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオアンドレア・デル・サルトアヴィス王朝アフリカ史アイルランド総督 (ロード・デピュティ)アウクスブルクアゼ=ル=リドー城イブラーヒーム・ローディーイブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーウィリアム・ポーレット (初代ウィンチェスター侯爵)エンリケ2世 (ナバラ王)カビールカザン・ハン国カザフ・ハン国カザフスタンカジミール (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)クラスヌイ・ホルムグリハルバ川グルジアのイスラム教グスタフ1世 (スウェーデン王)ゲオルク・アグリコラコンラドゥス・リュコステネスコーヴェリゴールコンダゴールコンダ王国ザクセン選帝侯領シク教ジャン・ムートンジョヴァンナ・ディ・ナポリジーレンバッハスルターン・クリー・クトゥブ・シャーストックホルムの血浴スイスの歴史ズザンナ・フォン・バイエルンセーナ王国ゼッケンドルフ家ターラー (通貨)サンティアーゴ・デ・クーバサングラーム・シング内大臣内藤元泰 (中務丞)准大臣八丈島六角定頼六角氏綱光紹矢沢頼綱玉縄王陽明研究砂越氏砂越氏雄祥啓稲村の変穴地蔵古墳竹内家笈ヶ岳策彦周良等持院の戦い簗田政助細川高国細川氏細川澄元細川政権 (戦国時代)細川政春綾小路家織田達勝羅教真里谷恕鑑真清田神社結城義綱田原町 (田原市)申用漑町資将畠山稙長益田宗兼益田尹兼相良義滋相良長祗相良長毎白岩氏花山院忠輔菊池義武菊池武包菅谷政貞青山忠門蠣崎光広顕証寺 (八尾市)飢饉の一覧香川元景香川勝雄香西元成諏訪頼満 (安芸守)諏訪氏高崎山城高倉永家高県高齢で死去した著名人一覧高辻章長高源寺 (丹波市)谷村城貨幣史越水城足利義稙足利義明趙光祖鷲見氏船岡山合戦船田合戦蘆名盛高蘆名盛滋赤穴氏赤松義村赤松氏関口親永薬草閑吟集間宮康俊著作権の歴史肖柏蓮恵蓮淳里見義豊里見義通金胎寺金林寺金星の太陽面通過長存寺長宗我部兼序長宗我部国親長宗我部氏長井長弘長建寺 (高梁市)長泉寺 (岡山県和気町)長洲荘長源院長浜の戦い英俊雲水君李時珍来迎寺 (守口市)東坊城和長松平張忠森好之横須賀市正徳 (明)正親町三条公兄正木通綱武田信虎歌いもの水野氏水晶城 (安芸国)永正永正の錯乱泉奘洞雲寺 (仙台市)朝倉孝景 (10代当主)朝比奈泰以本福寺 (大津市)本草綱目本蓮寺 (宮崎県新富町)朽網親満朽木晴綱望月信雅戊寅明宗 (僧)明眼院明朝の藩王一覧 (熙祖、仁祖系)浄永寺斎藤彦四郎斎藤利良日笠頼房日野内光日野晴光日院 (大石寺)日根野弘就曲淵吉景景徐周麟10月10日11月17日11月20日11月24日1440年1442年1445年1448年1456年1460年1468年1469年1470年1486年1488年1492年1498年1573年1594年16世紀2月12日3月25日5月30日5月31日6月21日8月16日9月29日9月6日 (旧暦) インデックスを展開 (308 もっと) »

原胤清

原 胤清(はら たねきよ、生年不詳 - 弘治2年2月12日(1556年3月23日))は、戦国時代の武将。千葉氏の家臣。官途名は式部大夫(少輔)。原胤隆の嫡男。下総国小弓(生実)城城主。子に原胤貞がいる。 下総原氏宗家の嫡男であるが、胤清が生まれた当時には胤隆は既に弟の朝胤を養子に迎えて家督を譲っていたとされ、このため当初は一族の養子に出されていたとも言われている。だが、永正15年(1518年)、足利義明が小弓城を落とした際に城主の原基胤(朝胤の嫡子)が戦死、朝胤系が断絶したためにその後を継いだ。だが、義明の追及によって高城胤吉の根木内城(あるいは小金城)に逃れ、更に北条氏綱を頼ったと言われている。 だが、天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が戦死すると、氏綱の後ろ盾を受けて小弓城を奪回した。その後、城名を「生実城」と改めて改築したとされている(異説あり)。その後、千葉氏の親北条氏路線の中心的な立場に立ち、千葉昌胤・利胤・親胤の3代にわたって千葉氏の実権を握った。特に幼少の親胤時代には胤清主導による千葉妙見宮(現在の千葉神社)の再建が行われ、その権力を内外に誇示している。.

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てんかん

20年、バチカン美術館蔵)右下の上半身裸の子供はてんかんの症状を表しているhttps://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/3522219 "Epilepsy,Viewed Metaphysically:An Interpretation of the Biblical Story of the Epileptic Boy and of Raphael's Transfiguration" Dieter Janz, Epilepsia, 27(4):316-322,1986,Raven Press,New York http://www.asanogawa-gh.or.jp/1730tenkangaido201207.pdf てんかんガイド 湯の川総合病院脳神経センター てんかん・機能外科部門 部長 川村哲朗、2ページ目、表紙説明 「ラファエロ・サンツィォの筆による「キリストの変容」には、てんかん発作を起こしている少年が描かれている。この作品は、イエス・キリストがてんかんを患う少年を治したというマタイ、マルコ、あるいはルカによる福音書に記されている逸話を題材とした。」http://www.kksmile.com/neuro/shikkan/epilepsy_qa/column_02.html vol.2 「キリストの変容」とてんかんの少年 コラム てんかんアラカルト、松浦雅人(東京医科歯科大学名誉教授/田崎病院副院長)精神神経疾患と脳波2.ラファエロとてんかんの少年、篠崎和弘 et.al.、「臨床脳波」44 号、pp.457-462、2002年07月01日。この絵画は、聖書におけるてんかんの記述に基づいているこのてんかんの記述は、同一の少年についてのものであり、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記述されている。マタイ17章15節https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#17:15 マルコ9章18節https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#9:18、9章20節https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#9:20、ルカ9章39節https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#9:39、9章42節https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#9:42 。てんかん(癲癇、英: epilepsy)は、脳細胞に起きる異常な神経活動(以下、てんかん放電)のためてんかん発作をきたす神経疾患あるいは症状。神経疾患としては最も一般的なものである。 古くから存在が知られる疾患のひとつで、古くはソクラテスやユリウス・カエサルが発病した記録が残っている。特に全般発作時の激しい全身の痙攣から、医学的な知識がない時代には狐憑きなどに代表される憑き物が憑依したと誤認され、時に周囲に混乱を起すことがあり差別の対象となることがあった。 全世界の有病者数は5000万人ほどで、患者のおよそ80%は発展途上国の国民である。各国の疫学データでは発症率が人口の1%前後となっている。昔は「子供の病気」とされていたが、近年の調査研究で、老若男女関係なく発症する可能性があるとの見解も示され、80歳を過ぎてから発病する報告例もあるが、エーミール・クレペリンなどは老年性てんかんは別個のものとして扱っている。 てんかんは予防不可能かつ根治不可能だが、大部分は安価に管理可能な病気であり抗てんかん薬が用いられる。年間の医薬品コストはわずか5ドルにすぎないが、通院、入院、検査には費用がかかり、日本では医療費自己負担額軽減のための制度もある。 完治の可能性は十分あり得る(真面目に薬を飲み続ければ).

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いとこ同士の夫婦一覧

いとこ同士の夫婦一覧は、いとこ婚を行った有名人の一覧である。 本記事で扱う「いとこ」は、厳密に4親等の親族にとどまらず、いとこ違いやはとこなど、4親等から8親等までの関係にある傍系親族同士とする。.

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印刷

印刷(いんさつ、printing)とは、インキにより、紙などの媒体に文字や絵、写真などの画像を再現することを指し、印刷された物を印刷物という。 現代では2次元の媒体に限らず、車体など3次元の曲面に直接印刷する技術も多数開発されている。印刷がカバーする範囲は極めて広く、気体以外の全ての物体に対して可能であるとされている(ゲル状の物体にすら印刷が可能な技術がある)。.

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古河公方

古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.

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右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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右田弘詮

右田 弘詮(みぎた ひろあき)は戦国時代の武将。大内氏の重臣。長門国諏訪山城主。同じく長門国矢田城主とも伝えられる。.

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吉川興経

吉川 興経(きっかわ おきつね)は、戦国時代の武将。安芸国国人・吉川氏14代(藤姓吉川氏としては最後の)当主。「興」の字は大内義興より偏諱を受けたものである。.

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吉田孝頼

吉田 孝頼(よしだ たかより)は、戦国時代の武将。長宗我部氏の家臣。.

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塩冶興久

塩冶 興久(えんや おきひさ)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。尼子経久の3男。.

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境川 (富山県・新潟県)

境川(さかいがわ)は、富山県と新潟県の県境あたりを流れる二級河川で、境川水系の本流。古称は神済(かんのわたり)。.

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夏目吉信

夏目 吉信(なつめ よしのぶ)は、戦国時代の武将。松平氏(徳川氏)の譜代家臣。一次史料上で確認できる実名は広次である。.

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大友義鑑

大友 義鑑(おおとも よしあき、異体字:大友義鑒)は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国大友氏の20代当主。 初めは親安(ちかやす)、親敦(ちかあつ)を名乗っていたが、後に室町幕府将軍・足利義晴より偏諱を賜って義鑑に改めた。.

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大友義長

大友 義長(おおとも よしなが)は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国の大友氏19代当主。初名は親匡(ちかただ/ちかまさ)、親元(ちかもと)、義親(よしちか)。.

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大友親治

大友 親治(おおとも ちかはる)は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国大友氏の18代当主。15代当主・大友親繁の五男。.

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大宝寺晴時

大宝寺 晴時(だいほうじ はるとき)は、戦国時代の武士。大宝寺氏15代当主。武藤晴時とも呼ばれる。.

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大徳

大徳(だいとく).

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大徳 (黎榜)

大徳(だいとく)はベトナム後黎朝で昭宗に対抗する鄭綏らに擁立された黎榜が使用した元号。1518年 - 1519年?。『欽定越史通鑑綱目』は天徳に作る。.

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大内義興

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。 父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。.

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大石寺住職一覧

大石寺住職一覧(たいせきじじゅうしょくいちらん)は、日蓮正宗の総本山である大石寺の歴代住職の一覧。.

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大炊御門経名

大炊御門 経名(おおいのみかど つねな、文明12年(1480年) - 天文22年3月24日(1553年5月6日))は、室町時代後期の公卿。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣に昇った。父は右大臣大炊御門信量。母は権大納言正親町持季の娘。 文明16年(1484年)叙爵。その後、左近衛少将・左近衛中将・権中納言を経て、永正7年(1510年)には権大納言となった。この職にある際の永正8年(1511年)加賀国へ下向している。おそらく他の公卿と同様に経済的理由によると思われる。永正12年(1515年)に帰洛。右近衛大将に任じられて再び朝廷政務に復帰した。永正15年(1518年)内大臣に任じられる。さらに大永元年(1521年)には右大臣に昇格した。翌年に従一位を授与された。大永3年(1523年)に右大臣を辞する。天文11年(1542年)出家し、自性院と号した。天文22年(1553年)に薨去、嗣子がいないために大炊御門家は一時断絶となるが、その後、中山孝親の子の経頼が相続した。.

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大田原資清

大田原 資清(おおたわら すけきよ)は、戦国時代の武将。那須氏の家臣。.

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大田原氏

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大関増次

大関 増次(おおぜき ますつぐ)は、戦国時代の武将。那須氏の家臣。下野国白旗城(現在の栃木県大田原市(旧黒羽町))主。 大関氏は武蔵七党・丹党流とされ、那須七騎の一つ。永正15年(1518年)、大関宗増の子として誕生。 天文11年(1542年)、かつて父・宗増の讒言によって追放された大田原資清の復讐の的とされ、増次が少人数で鷹狩りに出た隙に、資清の奇襲を受け、石井沢で戦うが敗死した。享年25。 後継者を失った父・宗増は資清の子である高増を養子に迎えざるを得なくなった。.

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大関宗増

大関 宗増(おおぜき むねます)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。那須氏の家臣。 大関氏は武蔵七党・丹党流とされ、那須七騎の一つ。寛正3年(1462年)、大関増雄の子として誕生。 那須資房による那須氏再統一に功があったが、永正15年(1518年)、同僚の大田原資清の才を妬んで主君に讒言し、これを追放して専横を極めた。 天文11年(1542年)、越前国の朝倉氏の支援を受けたともされる大田原資清が帰参し、宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死、宗増は資清の長男・大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた。.

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天徳

天徳(てんとく)とは.

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太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

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姉小路済俊

姉小路 済俊(あねがこうじ なるとし/なりとし)は、戦国時代の公家。飛騨国司。姉小路家当主。.

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姉小路済継

姉小路 済継(あねがこうじ なりつぐ/さだつぐ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。飛騨国司。姉小路家(古川家)当主。.

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孝貞王皇后

孝貞純皇后王氏 王皇后(おうこうごう、? - 1518年)は、明の成化帝の皇后。孝貞純皇后(こうていじゅんこうごう)と諡された。.

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実孝

実孝(じっこう、明応4年(1495年)- 天文22年1月26日(1553年2月8日)は戦国時代の浄土真宗の僧。本善寺住持。本願寺第8世法主蓮如の12男。母は畠山政栄の娘蓮能。妻は蓮芸の娘妙宗(南向)。子に証祐、証珍室。諱は兼成、のち兼継。侍従。.

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実順

実順(じつじゅん、明応3年(1494年)- 永正15年3月11日(1518年4月20日)は戦国時代の浄土真宗の僧。西証寺住持。本願寺第8世法主蓮如の11男。母は畠山政栄の娘蓮能。妻は蓮淳の娘妙祐。子に実真、実従室。諱は兼性。右衛門督。.

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宍戸隆家

宍戸 隆家(ししど たかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国高田郡甲立(現在の広島県安芸高田市甲田町甲立)の五龍城を本拠とする国人領主・宍戸氏の当主。後に毛利氏の家臣となり、毛利元就の娘(五龍局)を妻として一門衆となった。.

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宣和 (陳昇)

宣和(せんわ)はベトナムの後黎朝時代に陳昇が使用した私年号。1516年 - 1521年?。.

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宇喜多能家

宇喜多 能家(うきた よしいえ)は、戦国時代の武将。浦上氏の家臣。宇喜多久家の子。備前国豊原荘砥石城主。.

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宇田川氏

宇田川氏(うだがわし)とは.

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安義県

安義県(あんぎ-けん)は中華人民共和国江西省南昌市の管轄下にある県。.

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安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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小山田氏

小山田氏(おやまだし、こやまだし)は、日本の氏族の一つ。小山田氏(おやまだし)は武蔵国、小山田氏(こやまだし)は薩摩国に由来する。他にも陸前、陸中、羽後、越後、筑前、豊前などに「小山田(おやまだ)」の地名が存在した。.

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小田原城

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)で、北条氏の本拠地として有名である。江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。.

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尹之任

尹之任(윤지임、ユン・ジイム、1475年 - 1534年5月26日)は李氏朝鮮中期の文臣、外戚。字は「重郷」、爵号は「坡山府院君」、諡号は「靖平」。本貫は坡平尹氏。尹頊の長男。母は鄭済の娘。娘に中宗の第三王后文定王后がおり、国舅となっている。また明宗代に政権を掌握した尹元衡は息子の一人である。 坡平尹氏は公侯の家門であるが、近親は要職には在らず、家門は没落している。そのため元々軍卒であり末端の官職にあったが、文定王后が王妃になると、外戚として堂上官の官職を経て政治的立場が強くなる。そのため幾度も弾劾され、また行動に節操が見られないものもある。また五男尹元衡が明宗代に政権を掌握すると純忠積徳輔祈功臣の称号と大匡輔国崇禄大夫領議政を追贈されている。.

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尹汝弼

尹汝弼(朝鮮語: 윤여필、ユン・ヨピル、1466年 - 1555年)は李氏朝鮮中期の文臣、外戚。字は「伯翊」、爵号は「坡原府院君」後に「坡平府院君」に改称、諡号は「靖憲」。本貫は坡平尹氏。尹甫の次男。母は朴仲善の娘。中宗反正により靖国三等功臣となり、娘を淑媛の地位で後宮に入れ、中宗の本望により、章敬王后となり、国舅国舅: 国王の義父となっている。 燕山期には連座により、2回の流刑を受け、釈放後に中宗反正に関与する事で、靖国三等功臣となり、章敬王后が王妃になると、要職を担い、各官の支持を集めた。だが倫理を外れた行動によって、次第に弾劾を受け、息子尹任が小尹派によって逆賊とされ賜死されると、各所からの激しい弾劾を受けた末、爵位を剥奪され、京畿道龍仁県に赴く事となる。死後は靖国四等功臣と爵位を復権された。.

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尼子経久

尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。 下記の事から十一ヶ国太守と言われる。.

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尼子氏

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。こちらの一族は出雲尼子氏と呼ばれ最盛期には中国八カ国を領域に起き120万石の広大な領土を支配した。通字は「久」(ひさ)。.

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尼子政久

尼子 政久(あまご まさひさ)は、戦国時代の武将。尼子経久の嫡男。.

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尼子晴久

尼子 晴久(あまご はるひさ)は、戦国時代、出雲国の戦国大名、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護大名。尼子経久の嫡孫に当たる。山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し中国地方一の大大名となった。また大内、毛利両軍をよく制した。八カ国守護とも言われる。.

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山口大神宮

山口大神宮(やまぐちだいじんぐう)は、山口県山口市にある神社である。旧社格は県社。.

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岡豊城

岡豊城(おこうじょう)は高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡で、戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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上杉藤王丸

上杉 藤王丸(うえすぎ ふじおうまる、永正15年4月21日(1518年5月30日)-天文元年12月3日(1532年12月29日))は、戦国時代の人物。扇谷上杉家の当主・上杉朝良の嫡男。母は長尾顕忠の娘。 父である朝良が亡くなった日に誕生したと言われており佐脇栄智「上杉藤王丸」『戦国人名辞典』、以前より名目上の家督継承者であった甥の上杉朝興(藤王丸のいとこ)が名代の名目でそのまま家督の座を継いだ。 その事績については不明であるが、『快元僧都記』によれば、15歳になった天文元年12月に上杉朝興によって武蔵国江戸で殺害されたと記されている。これは朝興が扇谷上杉氏の家督を保持するために正当な後継者である藤王丸を殺害したとされているが、天文元年当時の江戸は扇谷上杉家と対立する後北条氏の支配下にあること、『快元僧都記』の記述も本文ではなく、後に記された追記部分に書かれていることから、快元自身の記述かという問題がある。 この問題についてはいくつか説がある。佐脇栄智はこの記述自体が後世の加筆で実際にあった事件であったかを疑問視する。黒田基樹は何らかの事情で敵地である後北条方にいたものとし、殺害をしたのも朝興ではなく後北条氏であったと推定している。.

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上杉朝興

上杉 朝興(うえすぎ ともおき)は、戦国時代の武将・大名。扇谷上杉家当主。.

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上杉朝良

上杉 朝良(うえすぎ ともよし)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。扇谷上杉家当主。.

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中世ヨーロッパにおける教会と国家

The Cross of Mathildel 教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと教皇領は世俗国家に回収された。現在ローマ教皇庁は独立国家バチカン市国にある。 中世ヨーロッパ史においては、西欧諸国の学界においても日本の学界においても「教会と国家」と称せられる巨大な研究領域が存在する。前近代社会においては政教分離を基本的な原則とする現代の先進国とは異なり、宗教と政治は不可分の要素として存在しており、西ヨーロッパ中世世界の特有なあり方に多くの研究者の興味が寄せられて来た。 本記事では、中世ヨーロッパにおける教会(カトリック)と国家のありかたの推移を概説する。この期間は一般に封建時代と呼ばれる。ここでは西ローマ帝国滅亡後、キリスト教普遍世界の成立期から宗教改革の起こるまでの、およそ500年から1500年までの約1000年間を取り扱う。.

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中院通為

中院 通為(なかのいん みちため)は、室町時代後期の公卿。権中納言中院通胤の子で、母は姉小路済継の女である。父祖と同じく、たびたび加賀に下向・在国し、家領額田庄などの直務支配に努めた。本名は通右・通量。.

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世尊寺行季

世尊寺 行季(せそんじ ゆきすえ、文明8年(1476年) - 享禄5年2月11日(1532年3月17日))は、戦国時代の公卿・書家。世尊寺家の最後の当主。参議・世尊寺行康の養子。実は権大納言・清水谷実久の子。官位は正二位・参議。.

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三吉致高

三吉 致高(みよし むねたか)は、戦国時代の武将。備後国三次郡三吉郷現在の広島県三次市畠敷町。の比叡尾山城を本拠とする国人・三吉氏の当主。初めは山名氏、後に大内氏、尼子氏に属し、毛利氏の家臣となる。三吉豊高の長男。.

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三好之長

三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。.

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三好氏

三好氏(みよしし)は、日本の氏族の一つ。信濃源氏の一族で鎌倉時代の阿波守護・小笠原氏の支流。室町時代には阿波守護細川氏の守護代を務め、戦国時代に細川氏に対して下剋上を起こし、阿波をはじめとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有し、三好政権を築いた。.

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三条実香

三条 実香(さんじょう さねか、文明元年(1469年) - 永禄2年2月25日(1559年4月2日))は室町時代の公卿。三条公敦の子。子には三条公頼、三条香子(伏見宮貞敦親王室、伏見宮邦輔親王母)がいる。号は後浄土寺。法名は諦空。.

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下田中城

下田中城(しものたなかじょう)は、兵庫県三田市下田中周辺にあった日本の城(平城)、方形居館。曲輪跡等の遺構が残っていたようだが河川改修に伴い消滅し、正確な城郭については不明である。.

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一条房通

一条 房通(いちじょう ふさみち、永正6年(1509年) - 弘治2年10月30日(1556年12月1日))は、戦国時代の公卿・関白。土佐一条氏第2代当主一条房家の次男。大叔父の一条冬良の婿養子になった。子に兼冬・内基、養子に兼定(実子とする説もある)がいる。妻は冬良の娘。官位は従一位左大臣、内覧。 永正14年(1517年)4月30日に9歳で元服。正五位に叙せられる。同年に従四位上、右少将・左中将に叙せられ、翌永正15年(1518年)には従三位に叙任。 天文14年(1545年)6月2日には養父・冬良と同じく関白にもなった(-天文17年(1548年)12月27日)。土佐一条氏からの関白就任は、冬良の兄、そして房通自身にとって祖父でもある初代当主教房以来2度目である。また、実家の土佐一条氏では一条房基、兼定と幼い当主が続いたために、土佐国に下向して当主代理として政務をとっていた時期がある。 弘治2年(1556年)、48歳で死去した。 Category:摂関 Category:室町・安土桃山時代の公家 ふさみち ふさみち ふさみち Category:1509年生 Category:1556年没.

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年の一覧

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久喜市

久喜市(くきし)は、埼玉県東部に位置する市。人口は狭山市に次ぐ県内12位。2017年(平成29年)7月1日現在の人口は154,033人(男性76,884人、女性77,149人)。.

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享禄・天文の乱

享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)は、戦国時代初期の浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争の総称。.

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二条尹房

二条 尹房(にじょう ただふさ)は、戦国時代の公家。二条家第13代目当主。父は関白二条尚基。母は家女房。.

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井上元貞

井上 元貞(いのうえ もとさだ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。安芸井上氏は清和源氏の流れを汲む信濃源氏井上氏の支流。.

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今川氏親

今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.

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今出川公彦

今出川 公彦(いまでがわ きんひこ、永正3年(1506年) - 天正6年1月23日(1578年3月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。菊亭家は別号を今出川家とも称した。 後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)・正親町天皇(106代)の三帝にわたり仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。父は権大納言今出川季孝。子に右大臣今出川晴季、興福寺大僧正空慶がいる。 永正4年(1507年)に叙爵。以降累進して、侍従・左近衛中将を経て、永正15年(1518年)に従三位・参議となり、公卿に列する。権中納言・踏歌節会外弁を経て、大永5年(1525年)権大納言に就任する。大永6年(1526年)から天文元年(1532年)まで神宮伝奏を務めた。天文8年(1539年)に右近衛大将、さらに天文11年(1542年)には左近衛大将へと昇進。天文12年(1543年)内大臣に任命される。同年に左近衛大将を辞職。天文14年(1545年)には右大臣、天文15年(1546年)には左大臣を拝命するも翌年に辞職。天文16年(1547年)に従一位を授与された。永禄2年(1559年)に出家。.

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延暦寺根本中堂

延暦寺根本中堂 延暦寺根本中堂(えんりゃくじこんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺の総本堂である。.

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得珍保

得珍保(とくちん の ほ)は日本の中世、遅くとも鎌倉時代頃から戦国時代まで近江国蒲生郡(現・東近江市)に存在した延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒領の荘園である。保内の今堀日吉神社に保蔵されていた文書によって座商人たちの商業活動が判明している数少ない例であり、後の近江商人につながる中世後期商人たちの拠点となった荘園でもある。また惣結合(郷村の自治結合)が発達した地としても有名。.

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土岐頼芸

土岐 頼芸(とき よりあき/ - よりなり/ - よりのり/ - よりよし)は、戦国時代の美濃国の守護大名。土岐政房の次男。 土岐氏当主で兄の頼武及びその子・頼純の嫡流と対立、美濃国とその周辺国を巻き込んだ争乱の末、土岐氏当主、美濃守護となった。しかし、後に重臣の斎藤道三に追放された。.

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土岐頼武

土岐 頼武(とき よりたけ)は、戦国時代の大名で美濃国の守護大名である。土岐政房の嫡男で弟に頼芸、治頼、揖斐光親らがいる。別名の諱として政頼(まさより、「政」は父の偏諱であろう)、盛頼(もりより)が伝わる。次郎と称す。官位は修理大夫。妻は朝倉貞景の3女。子に頼純。.

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在フランスイギリス大使

女王陛下のフランスへの大使(じょおうへいかのフランスへのたいし、Her Majesty's Ambassador to France、L'Ambassadeur britannique en France)は、伝統的にイギリスの外交職でも最上級の名門職であったが、18世紀から19世紀初頭にかけて、両国間の戦争のゆえに外交官の派遣はしばしば中断した。.

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北畠材親

北畠 材親(きたばたけ きちか)は、伊勢国の守護大名・公家。伊勢国司北畠家の第6代当主でもある。.

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北畠晴具

北畠 晴具(きたばたけ はるとも)は、戦国時代の大名・公家。伊勢国国司北畠家の第7代当主。子に具教、木造具政、具親ら。.

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北高全祝

北高 全祝(ほっこう ぜんしゅく、永正4年(1507年) - 天正14年12月2日(1587年1月10日))は戦国時代の曹洞宗の禅僧である。北殿の子。法興ともいう。.

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北条氏綱

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.

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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

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マヤ人

マヤ系の言語が使用されていた歴史上の領域 マヤ人(マヤ系先住民族)とは、メキシコ南部から中央アメリカ北部にかけての地域に居住するアメリカ州の先住民族である。ただし、"マヤ"というまとまった一つの民族として存在しているわけではなく、文化と言語の一部を共有する、異なる多くの集団、社会、エスニックグループを総称したもので、それぞれは彼ら自身の伝統、文化、歴史的なアイデンティティを保持している。 この地域に居住しているマヤ人の人口は、21世紀初頭では700万人と推定されている。グアテマラ、メキシコ南部とユカタン半島、ベリーズ、エルサルバドル、それにホンジュラス西部に大きな共同体が存在しており、今も古代の文化が多く継承され残っている。多数派のメスティーソのスペイン文化に大きく影響を受けつつも、そこから離れた伝統的な生活を続け、しばしば主要な言語としてマヤ語族の言語を使用する。.

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マヤ文明

マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。.

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ノルトハルベン

ノルトハルベン (Nordhalben)は、ドイツ バイエルン州 オーバーフランケン行政管区 クローナハ郡の市場町。.

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マルティン・ルター

マルティン・ルター(Martin Luther 、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、ドイツの神学者、教授、作家、聖職者である。 1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。.

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マンスール (モグーリスタン)

マンスール(満速儿、? - 1545年)は、モグーリスタン・ハン国のハン(君主、在位:1501年濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、100頁/02年/03年佐口「マンスール」『アジア歴史事典』8巻、394頁 - 1545年)。アフマド・アラクの長子。.

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マヌエル1世 (ポルトガル王)

マヌエル1世(Manuel I, 1469年5月31日 - 1521年12月13日)は、ポルトガル王(在位:1495年 - 1521年)。傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王 と称される。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した。.

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ノストラダムス

ミシェル・ノストラダムス(Michel Nostradamus、1503年12月14日 - 1566年7月2日)は、ルネサンス期フランスの医師、占星術師ノストラダムス本人は、「占星術師」(Astrologue) ではなく「愛星家」(Astrophile) という肩書きを名乗ることが度々あった。、詩人。また料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。 本名はミシェル・ド・ノートルダム (Michel de Nostredame) で、これはフランス語による。よく知られるノストラダムスの名は、姓をラテン語風に綴ったものである。しばしば、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。.

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ノストラダムス関連人物の一覧

ノストラダムス関連人物の一覧(ノストラダムスかんれんじんぶつのいちらん)は、ノストラダムス(ミシェル・ド・ノートルダム)本人や、その主著『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(以下『予言集』)などに関連がある人物の一覧である。.

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マゾフシェ公

マゾフシェ公は、ピャスト家のうちのマゾフシェ系が有していた称号である。以下にマゾフシェ公国及びその一部の統治者を全て列挙する。 一覧を簡素にするため、マゾフシェ公の称号に対する名目上の権利を有する者に関してはここでは全く列挙していない。 また、年号のいくつかは単に概算であることと、土地の確かな領有者については争いがあったということには注意。最後に、この図表では分割時の他のポーランドの公やヴァーツラフ2世及びヴァーツラフ3世 によって統治された土地は含まない。 * Category:君主の一覧.

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ハンス・バルドゥング

ハンス・バルドゥング・グリーン(Hans Baldung Grien/Grün, 1484年/1485年 - 1545年)は、ルネサンス期のドイツの画家、版画家(木版画)。アルブレヒト・デューラーの最も優れた弟子と考えられている。.

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ハンス・ア・ダンマーク (1518-1532)

ハンス・ア・ダンマーク(Hans af Danmark, 1518年2月21日 - 1532年8月11日)は、デンマーク王クリスチャン2世と王妃イサベラ・ア・ブアグンの間の長男。.

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ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ

ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ (Heinrich Cornelius Agrippa von Nettesheim, 1486年9月14日 - 1535年2月18日) は、16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師。 通常アグリッパと略される。フルネームはネテスハイムのハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ。ラテン語風にヘンリクス・コルネリウス・アグリッパとも。貴族の家柄を示すものとも読み取れるフォン・ネテスハイムを自称した由来は、ネテスハイム家という貴族の血筋であることを示すものという説と、ケルンの創設者の名またはその近くのネテスハイム村にちなむものという説とがある。.

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ハイデラバード (インド)

ハイデラバード(హైదరాబాదు,Hyderabad)は、インド中南部のテランガーナ州ハイデラバード県の都市。同州の州都であり、アーンドラ・プラデーシュ州の州都も兼ねる。.

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バルバロス・ハイレッディン

バルバロス・ハイレッディン(خير الدين Khair ad Din、ヨーロッパなどではハイレッディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa), 1475年 – 1546年7月4日)は、オスマン帝国の提督。「バルバロス」(赤髯、またはバルバリアの王の意)と呼ばれ、バルバリア(北アフリカ)の海賊たち(バルバリア海賊)の中でもヨーロッパ人から特におそれられた大海賊。1538年のスペインとのプレヴェザ海戦の勝利を導いた。 バルバロス・オルチ(ウルージ、Aruj, 1474年 - 1518年)とは兄弟で、地中海域では海賊「バルバロス兄弟」として知れ渡っていた。ギリシャのミディルリ島(現在のレスボス島)出身である。.

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バルバロス・オルチ

ルチ(あるいはウルージ)(Oruç Reis、عروج بربروس、Arrudye、1474年 - 1518年)は、16世紀初頭に地中海で活動したバルバリア海賊である。オスマン帝国からアルジェのベイ(軍司令官)、地中海のベイレルベイ(提督)の地位を与えられた。同じバルバリア海賊のバルバロス・ハイレッディンは彼の弟である。 ヨーロッパ人からは「バルバロッサ(Barbarossa、トルコ語ではバルバロス)」の仇名で呼ばれたが、仇名の由来は彼が赤ひげを蓄えていたことに由来するともコーディングリ『図説海賊大全』、151-154頁、部下からの呼び名である「ババ・オルチ(オルチの親父)」が訛ったものとも言われる。 オスマン帝国領のミディッリ島(現在のレスボス島)の出身であり、1518年にアルジェリアのトレムセンでスペイン人と戦い、落命した。.

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バルトロメオ・トロンボンチーノ

バルトロメオ・トロンボンチーノ(Bartolomeo Tromboncino, 1470年ごろ ヴェローナ - 1535年かそれ以降 ヴェネツィアかその近郊)は、イタリア・ルネサンス音楽の作曲家、殺人者。主にフロットーラの作曲家として名を残すとともに、カルロ・ジェズアルドと並ぶ妻殺し作曲家としても悪名高い。.

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バート・イーブルク

バート・イーブルク (Bad Iburg) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスナブリュック郡南西部の市である。州指定のクナイプ浴場となっている。 最も重要な建造物は街の高台に存在し、旧ベネディクト会修道院を伴ったイーブルク城である。この城は、7世紀以上にわたってオスナブリュック司教の居館であった。 バート・イーブルクはヴェストファーレン・ハンザ同盟に属し、1980年からはの一員となっている。 バート・イーブルクを自転車道のフリーデンスルート(直訳すると「平和ルート」)が通っている。これは、オスナブリュックとミュンスターで協議され、三十年戦争を終結させた1648年の平和条約(ヴェストファーレン条約)にちなんで命名された。遊歩道ヘルマンスヴェークも本市の市域にあたるデーレンベルクやグローサー・フレーデンを通っている。.

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バーブル

バーブル(ظهیرالدین محمد بابُر、Ẓahīr al-Dīn Muḥammad Bābur、1483年2月14日グプタ「バーブル」『世界伝記大事典 世界編』7巻、432-433頁 - 1530年12月26日加藤『中央アジア歴史群像』、139頁)は、北インド、ムガル帝国の創始者であり初代君主(在位:1526年 - 1530年)。ティムール朝サマルカンド政権の君主(在位:1497年 - 1498年)でもある。 16世紀初頭に中央アジアからインドに移り、ムガル帝国を建国した。名前の「バーブル」はトラを意味する。バーブルはティムールの三男ミーラーン・シャーの玄孫であり、母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスはチンギス・カンの次男チャガタイの後裔にあたる。 軍事力に優れた指導者、優れた文人として評価されている。自らの半生を著述した回想録『バーブル・ナーマ』は文学性・史料的価値を高く評価されており、多くの言語に翻訳された。.

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ポルトガル海上帝国

1410年から1999年までにポルトガルが領有したことのある領域(赤)、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大航海時代に探索、交易、影響が及んだ主な海域。 ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語:Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、既存の大国であったアステカ帝国やインカ帝国の、それぞれの中心地域であったメキシコおよびペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は、とくに「海上帝国」とは言わない(スペイン帝国)。.

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ポート・ロイヤル

ポート・ロイヤル一帯の海岸線の変遷震災前(赤)と震災後(青)・黒線は現在の海岸線 ポート・ロイヤル(Port Royal)は、17世紀のジャマイカの海運業の中心地。 ジャマイカはパナマ地峡やキューバなどの中間点にあり、カリブ海の貿易にとって理想的な位置にあった。1655年に行われたスペインとイギリスの小戦争によりポート・ロイヤル湾の入り口の城塞をイギリスが奪取し、その後入植が行われた。1683年にスコットランド人の一団が入植したが、その3年後にはスペイン人の襲撃を受け退避している。1687年にジャマイカ総督はスペイン人と抗争中のバッカニアたちにポート・ロイヤルへの定住を持ちかけ、私掠免許を与えた。 その後、ポート・ロイヤルは「世界で最も豊かで最もひどい町」の両方の名声を得た。ヘンリー・モーガンや「黒髭」(エドワード・ティーチ)をはじめとするバッカニア(海賊)たちが奪った宝物を持って来て、消費することで有名な場所だった。17世紀、英国は海賊を奨励し、ポート・ロイヤルを海賊の拠点として、スペイン船やフランス船を攻撃していた。 1692年6月7日の地震(en)は、ポート・ロイヤルに甚大な被害を与え、町の3分の2がカリブ海に沈んだ。この惨事の後、商業の中心地はキングストンに移される。 沈没船などから中国などからの財宝なども出てきて、当時の繁栄が解明されつつある。 ウォルト・ディズニー製作のファンタジー映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』(2003年)の始まりの場所となったことで知られる。.

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ヤヌシュ3世

ヤヌシュ3世(ポーランド語:Janusz III Mazowiecki, 1502年 – 1526年3月9日/3月10日)は、ポーランドのマゾフシェ公国の統治者。マゾフシェ・ピャスト家最後の当主。マゾフシェ公コンラト3世ルディの次男で、母はリトアニア大法官ミカロユス・ラドヴィライティスの娘アンナ。1518年まで公国では母アンナによる摂政政治がしかれ、その後1524年に兄スタニスワフが死ぬまで兄の共同統治者であった。1526年にヤヌシュ3世が死ぬと、マゾフシェ公国はポーランド王国に併合された。.

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ユートピア (本)

『ユートピア』(正式名: Libellus vere aureus, nec minus salutaris quam festivus, de optimo rei publicae statu deque nova insula Utopia )は、イングランドのトマス・モアによる1516年の著作。 タイトルは直訳すれば「共和国の最高の州の、そしてユートピア新島の、楽しいのと同様に有益な、真実の金の小著」となるが、伝統的には『社会の最善政体とユートピア新島についての楽しく有益な小著』と訳される(タイトルを参照)。『ユートピア』はラテン語で書かれており、その内容は主に、虚構の島の社会、宗教、社会的政治的習慣について述べた枠物語である。 現代人が「ユートピア」という言葉の響きから受けるイメージにもかかわらず、トマス・モアがこの本で語った社会とは、実際には決して「完全な社会」ではないと、広く受け止められている。むしろ、想像上の土地の通常とは違った政治的考えと、現実世界での混沌とした政策とを対比して、ヨーロッパの社会問題について議論するための、政策要綱とすることをモアは望んでいた。.

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ユグノー

ユグノー(Huguenot)は、フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)またはカルヴァン派。フランス絶対王政の形成維持と崩壊の両方に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて亡命先の経済を著しく発展させた。その活躍は、まずとびぬけてイギリスでみられたが、ドイツでは順当な規模であった。 関連項目と記事下部のカテゴリからのリンクが充実している。.

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ヨーロッパにおける政教分離の歴史

Pierre Joseph Célestin François画 ヨーロッパにおける政教分離の歴史(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、ヨーロッパにおける政教分離原則の成立史、すなわちヨーロッパの諸国家・政治社会と宗教(キリスト教)との関係性の歴史について叙述する。ヨーロッパにおいて、政教分離原則の成立は突発的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果成し遂げられたものである日比野(1988)pp.270-271。したがってここでは、その成立史を、近代以前の政治社会にもさかのぼって、その国制や宗教政策を軸に、社会的背景や政治思想史・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて統治機構と宗教組織が分離していく過程として説明する。.

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ラテン語学校

ラテン語学校(ラテンごがっこう、Latin school)は、14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ(特にカトリック圏)における中等教育のための学校で、イングランドにおけるグラマースクールに相当する。入学が許されていたのは男子のみで、女子はアカデミックな教育は必要ないとされていたためだった。教育の重点が置かれたのは、その名の通りラテン語の修得であった。ラテン語学校における教育においては、複雑なラテン語文法の学習が重視され、特に初期においては中世ラテン語がその対象となっていた。文法学は、トリウィウム(三学)の中でもリベラル・アーツ(自由七科)の中でも最も基礎的な学科であり、文法学を象徴する図像は、教師が生徒の懲罰に用いるカンバの枝むちであった。ラテン語学校は、生徒に大学への準備をさせるところであり、中流階級の生徒たちには社会的上昇を可能にする途でもあった。このため、平民の子弟がラテン語学校に学ぶことも珍しくなく、その多くは聖職を目指す者であったWiesner-Hanks, p122.

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リウネ

リウネ(ウクライナ語:Рівне)は、北西ウクライナに位置する都市で、リウネ州の州庁所在地である。.

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ルネサンス建築

ルネサンス建築(~けんちく)は、一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。古典古代を理想とするルネサンスの建築における表現といえる。 人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。 ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。当初これらの国々では、主にルネサンス建築の表層的な意匠が導入されたため、各国独自の嗜好が表れており、それぞれ特徴を持った建築になっている。.

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ルネサンス音楽の作曲家一覧

ルネサンス音楽の作曲家一覧(ルネサンスおんがくのさっきょくかいちらん)は、生誕1400年~1600年頃であるクラシック音楽の作曲家の一覧で、国別、生年の順、生年が同じなら没年の順である。 他の時期のクラシック音楽の作曲家については、クラシック音楽の作曲家一覧から参照されたい。.

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ルートヴィヒ・ゼンフル

ルートヴィヒ・ゼンフル ルートヴィヒ・ゼンフル(Ludwig Senfl, 1486年ごろ - 1542年12月2日 / 1543年8月10日)はスイス出身のドイツ・ルネサンス音楽の作曲家。イザークの高弟やルターの友人としても歴史的に名を残している。神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の宮廷で楽師を務めた後、フランドル楽派の作曲様式をドイツに伝えた。.

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ルターシュタット・ヴィッテンベルク

ルターの像 ルターシュタット・ヴィッテンベルク (Lutherstadt Wittenberg) は、ドイツ連邦共和国ザクセン=アンハルト州の都市。単にヴィッテンベルクとも呼ばれる。現在の都市名は1938年以降である。宗教改革の立役者であるマルティン・ルターが神学部の大学教授として教鞭をとった地として有名である。同州のルターシュタット・アイスレーベンと共に、彼の足跡を記念し「ルター都市」を都市名に冠している。人口は約人。.

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レムゴー

レムゴー(Lemgo, 、低地ドイツ語: Lemge, Lemje)は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州デトモルト行政管区リッペ郡に属す市である。この街は大学都市であり、約 41,000人の人口を擁するリッペ郡第3の都市である。ビーレフェルトの東 25 km に位置し、オストヴェストファーレン=リッペ地方に属す。 レムゴーは、重要な交易路が交差する地点にリッペの領主によって1190年に建設された計画都市であった。現在ゾースト郡に属すリップシュタットと並んでリッペで最も古い都市の一つである。レムゴーは1245年から都市権を有しており、中世後期にはハンザ同盟に加盟した。このため「アルテ・ハンゼシュタット・レムゴー」(古いハンザ都市レムゴー)を自称している。町の風景は数多くの中世後期の建築によって形作られている。レムゴーは1973年までレムゴー郡の群庁所在地であったが、郡域再編に伴ってリッペ郡に編入された。 本市はリッペ山地の田舎の環境にあり、最大の産業分野は金属加工業、歯科機器製造、機械製造、工業電子工学、およびサービス業である。レムゴーはの本部所在地である。この街は、ハンドボール・ブンデスリーガにおける の成功でも全国的に知られている。.

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ロレンツォ2世・デ・メディチ

ウルビーノ公ロレンツォ2世 ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(Lorenzo di Piero de 'Medici, 1492年9月12日 - 1519年5月4日)は、イタリアのフィレンツェの僭主(1516年から1519年までその権力を保った)、ウルビーノ公。ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』はロレンツォに献上された。 ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチとアルフォンシーナ・オルシーニの子として、フィレンツェで生まれた。父方の祖父母は、ロレンツォ・デ・メディチとクラリーチェ・オルシーニである。 1516年、叔父である教皇レオ10世によりウルビーノ公に叙任された。それまでウルビーノ公であったフランチェスコ・マリーア1世から公位を短期間だが奪取し、ロレンツォは1万人の兵を要する司令官となった。ウルビーノ戦争と呼ばれたこの戦いで、いったん負傷してトスカーナへ退却するが、同年9月のうちにウルビーノ公領を再獲得した。 1518年6月、オーヴェルニュ伯女マドレーヌと結婚。翌年4月に長女カテリーナが生まれるが、その21日後にロレンツォは梅毒で急死した。これによりウルビーノ公にはフランチェスコ・マリーア1世が返り咲いた。のちにカテリーナは遠縁にあたるローマ教皇クレメンス7世の政略により、フランス王アンリ2世妃となった(フランス語名はカトリーヌ・ド・メディシス)。 ろれんついお2 ろれんついお2 ろれんつお2 ろれんつお2 めていち ろれんつお2 めていち ろれんつお2 めていち.

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ロレートの聖母 (ラファエロの絵画)

『ロレートの聖母』(ロレートのせいぼ(Madonna del Velo、a Vierge de Lorette))は、盛期ルネサンスの画家ラファエロ・サンティが描いた絵画。板に油彩で描かれた板絵で、現在はシャンティイのコンデ美術館 (fr:Musée Condé) が所蔵している 。 『ロレートの聖母』は数世紀にわたって同じくラファエロの『ローマ教皇ユリウス2世の肖像』 (en:Portrait of Pope Julius II (Raphael)))とともに保管されていた。最初はサンタ・マリア・デル・ポポロ教会 (en:Santa Maria del Popolo)、次にプライベートコレクションで、このときに保管されていた場所ははっきりとしていない。これら2点の絵画の歴代所有者と来歴を明らかにするのは難しい。どちらの作品にも多くの模写が存在するために誤った記録も多く、重要な記録の精査が遅れていたりするためである。さらには『ロレートの聖母』という現在の通称も、もともとはロレートのサントゥナリオ・デッラ・サンタ・カーザに所蔵されていた、一時期はラファエロの真作と考えられていた模写に付けられていた名前である。現在ではこのサントゥナリオ・デッラ・サンタ・カーザに所蔵されていたのは間違いなく模写とされているが、作品名は誤った名称のままに定着してしまった。.

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ロイゼ・コンペール

イゼ・コンペール (Loÿset Compère, 1445年頃~1518年8月16日)は16世紀初頭のフランスの作曲家。ジョスカン・デ・プレの同世代人のうち、モテットやシャンソンの最も重要な作曲家の一人で、軽快なイタリア・ルネサンス音楽の様式をフランスに最初にもたらした一人でもある。「ロイゼ」は中世フランス語の読みに従った表記で、現代フランス語では「ロワゼ」とするのが一般的である。.

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ロシア・カザン戦争

ア・カザン戦争は1437年から1552年にかけてモスクワ大公国(後にロシア・ツァーリ国)とカザン・ハン国との間で起きた一連の戦争である。 今日に至るまでカザン・ハン国自身の一次資料は殆ど残っておらず、汗国の歴史は基本的には、大部分はロシアの歴史家自身による外国の資料に依拠して研究されている。 ロシア人が、ロシアとの関係を持つカザン・ハン国、これをより正しく言うならばロシア・カザン相関関係及び戦争に関心がある以上、ロシア・カザン戦争はカザンの歴史で最も研究されている分野であるАлишев С. X. Казань и Москва: межгосударственные отношения в XV—XVI вв..

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ヴァノッツァ・カタネイ

ヴァノッツァ・カタネイ ヴァノッツァ・カタネイ (Vannozza Catanei, 1442年 - 1518年11月24日) は、教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジャ)の愛人で、チェーザレ、フアン、ルクレツィア、ホフレの母。金髪で骨太の美女だったという。姓はカッタネイ (Cattanei) とも。「ヴァノッツァ」は愛称で、本名はジョヴァンナ (Giovanna) と一般に言われているが、ジョヴァンノッツァ (Giovannozza) と記述された文献も残っている。.

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ヴェルル

ヴェルル (Werl) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州アルンスベルク行政管区のゾースト郡に属す市である。この街は2015年1月14日から「ヴァルファールツシュタット」(巡礼都市)という添え名を公式に名乗っている。.

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トマス・ウルジー

トマス・ウルジー (Thomas Wolsey, 1475年 - 1530年11月28日29日)は、イングランドの聖職者、政治家。ウルジー枢機卿( –すうきけい、英: )の名で知られる。ヘンリー8世治世の初期に信任を得て内政・外交に辣腕を振るった。なお の原語での発音はウォーズィーに近い。.

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トラール

トラール(tolar)は、1991年10月8日より2006年12月31日まで使用されていたスロベニアの通貨単位。国際通貨記号(ISO 4217)は SIT。複数形はトラーリャ (tolarja)。補助単位はストティン(stotin)で、1トラール.

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ヘリザウ

ヘリザウ(Herisau)は、スイス・アッペンツェル・アウサーローデン準州にある基礎自治体 (ベツィルク) で、同準州の州都である。ただし地方政府と議会はあるが、裁判所はトローゲンにある。 中央広場周辺の村落と家々、1580年に建てられたプロテスタントの教会、1737年に建てられたWetterとzur Roseの家、Schwänberg 村落、準州の記録保管所が併設された地方政府庁舎は国の重要文化財に登録されている。.

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ブルターニュの聖アンナ崇敬

ブルターニュの聖アンナ崇敬 (Culte de Sainte Anne en Bretagne)では、フランス、ブルターニュにおける聖アンナ(フランス語ではアンヌ)への強い崇敬について述べる。 聖アンナは、多かれ少なかれ神話的な、アルモリカ時代の原始キリスト教時代から崇敬されているブルトン聖人の1人とされ、マリアの母アンナと同一視されている。 19世紀以降、聖アンナはブルターニュの守護聖人としてみなされてきたが、1914年7月26日、ローマ教皇ピウス10世によって正式に認められた。.

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プラス記号とマイナス記号

プラス記号 (+) とマイナス記号 (&minus) は、正負や加法および減法の表記に使われる数学記号である。これらの記号は多かれ少なかれ類似点のある他のいろいろな意味にも拡張されて使われてきた。プラス (plus) とマイナス (minus) は、それぞれ「より多い」と「より少ない」を意味するラテン語の表現である。日本語においては、プラス記号については、加算記号として用いる場合には足す(たす)と読み、マイナス記号については、減算記号として用いる場合には引く(ひく)と読む。プラスとマイナスを合わせて「プラスマイナス」「プラマイ」と呼ぶこともある。.

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ヒヴァ・ハン国

ヒヴァ・ハン国(-こく、Xiva Xonligi)は、1512年から1920年にかけて、アムダリヤの下流及び中流地域に栄えたテュルク系イスラム王朝。シャイバーニー朝、シビル・ハン国と同じくジョチ・ウルスのシバン家に属する王朝である。建国当初はクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半からヒヴァに遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる本田「ヒヴァ・ハン国」『アジア歴史事典』8巻、1-2頁堀川「ヒヴァ・ハン国」『中央ユーラシアを知る事典』、439-440頁。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもあるバルトリド『トルキスタン文化史』1巻、245頁。.

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ヒエロニムス・コック

ヒエロニムス・コック(Hieronymus Cock、1518年 - 1570年10月3日)は、フランドルの彫版職人、画家、出版人。 ピーテル・ブリューゲルが描いた下絵をもとにした版画を出版した。 File:Charity (Charitas) from The Virtues MET DP825750.jpg|「慈愛(カリタス)」ピーテル・ブリューゲルの連作『七つの美徳』によりフィリップ・ハレが版刻、1559年、メトロポリタン美術館蔵 File:HolyFamilyJohnBaptistCockDelSarto.jpg|アンドレア・デル・サルト「洗礼者ヨハネと聖家族」の複製版画、1560年頃.

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ピエール・ド・ラ=リュー

ピエール・ド・ラ=リュー(Pierre de La Rue, 1460年頃~1518年11月20日)はルネサンス音楽の作曲家。ジョスカン・デ・プレと同世代の作曲家で、アレクサンダー・アグリーコラやアントワーヌ・ブリュメル、ロイゼ・コンペール、イザーク、ヤーコプ・オブレヒト、ガスパル・ファン・ヴェールベケらと並んで、15世紀末から16世紀初頭にかけてネーデルラント楽派様式の指導力を担った一人。フラマン語名ペテレス・ファン・ストラーテン(Peteren van Straten)も伝えられている。.

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ティントレット

ティントレット(Tintoretto, 本名:Jacopo Comin (Jacopo Robusti), 1518年9月29日 - 1594年5月31日)は、イタリアのルネサンス期の画家。 師匠のティツィアーノ、そしてヴェロネーゼとともにルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家。ティツィアーノの色彩とミケランジェロのマニエリスムの形体を結びつけ、情熱的な宗教画を描いた。.

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デマルカシオン

デマルカシオン(西:demarcación)は、大航海時代にスペイン・ポルトガルのイベリア両国が定めた、世界分割の取り決め。日本語訳では「分界」、英語でデマルケイション (demarcation) 、ポルトガル語でデマルカサン (demarcação)「1 国土回復運動と分界の起源」合田昌史著 『マゼラン 世界分割を体現した航海者』 京都大学学術出版会、16-20頁。。第一義的には「境界線」「区分」を意味するが、ここでは分界線を設定することで非キリスト教世界における支配領域をあらかじめ分配するという概念や、分界線によって分配された2つの領域や分界線そのものを意味する言葉として用いる安野眞幸著 『教会領長崎 イエズス会と日本』 講談社選書メチエ、136頁。。 大西洋に引かれた教皇子午線と呼ばれる世界分割の境界線に対し、教皇子午線の正反対の位置(東アジア付近)にあるもう1つの境界線を「対蹠分界線」と呼ぶ合田昌史著 『マゼラン 世界分割を体現した航海者』 京都大学学術出版会、8-10頁。。.

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ディエゴ・コロン

ディエゴ・コロン・イ・モニス・ペレストレーリョ(Diego Colón y Moniz Perestrello、Diogo Colombo 1474年?, 1479/1480年? - 1526年)は、第2代インディアス提督、第2代インディアス副王、第3代インディアス総督。クリストーバル・コロン(クリストファー・コロンブス)と妻フィリーパ・モニス・ペレストレーロ(Filipa Moniz Perestrelo)の長子であり、1479/1480年にポルトガルのポルト・サント島で生まれたとも、1474年にポルトガルのリスボンで生まれたともいわれている。1526年2月23日ないし2月26日に、スペインのラ・プエブラ・デ・モンタルバン(La Puebla de Montalbán)で死去した。 ディエゴ・コロンは成人後の人生のほとんどを、父が探検の恩賞として与えられ1500年に剥奪された、様々な称号や特権の回復をするために費やした。アラゴン国王フェルナンド2世の従兄弟である第2代アルバ公爵ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(Fadrique Álvarez de Toledo y Enríquez)の姪、マリア・デ・トレド・イ・ロハス(María de Toledo y Rojas)との結婚は、ディエゴがこの目的を追求する上で大いに役立つことになった。.

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デカン・スルターン朝

デカン・スルターン朝(デカン・スルターンちょう、ヒンディー語:दक्खिन के सल्तनत、英語:Deccan sultanates)は、インドのデカン地方に存在したイスラーム王朝の総称(1489年 - 1687年)。アフマドナガル王国、ベラール王国、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国、ビーダル王国の5つの王国を指したので、ムスリム5王国とも呼ばれる。.

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フランチャビージオ

フランチャビージオ(Franciabigio, 1482年 - 1525年1月24日)はルネサンス期イタリアの画家。フィレンツェ派に属する。彼の本名はフランチェスコ・ディ・クリストファーノ(Francesco di Cristofano)だったかも知れないが、マルカントニオ・フランチャビージオ( Marcantonio Franciabigio)またはフランチャ・ビージオ(Francia Bigio)と呼ばれることもある。また、フランチャビージォ、フランチャビージョとも表記される。.

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フランシスコ・デ・ペニャローサ

フランシスコ・デ・ペニャローサ(Francisco de Peñalosa, 1470年ごろ – 1528年4月1日 セビーリャ)はスペイン盛期ルネサンス音楽の作曲家。タラベラ・デ・ラ・レイナ出身。「教会楽長」として長らくセビーリャで活躍するが、ブルゴスにも滞在し、1518年から1521年までローマで教皇庁にも仕えた。 ペニャローサは、モラーレス以前のスペイン人作曲家では最も著名な一人であり、その作品は当時としては高い評価を受けていた。不幸にして出版術の恩恵に浴せず、また出版業の中心地であるヴェネツィアやアントウェルペンとは遠く離れたスペインに長年とどまっていたことから、ペニャローサの作品は広くは流布しなかった。後輩スペイン人作曲家のゲレーロやモラーレス、ビクトリアらが、ローマに行って経歴を築き、16世紀のヨーロッパを支配したフランドル楽派の作曲家と同じように作品が出版され、各地に流通したのとは対照的である。 ミサ曲、マニフィカト、モテット、イムヌスなどの宗教曲を手懸けたが、世俗曲も6声のクォドリベットなど11曲が現存する。ペニャローサは明らかに対位法やカノンに凝っており、単旋律聖歌の定旋律を、ハイネ・ヴァン・ギゼゲムの有名な世俗歌曲の逆行形と組み合わせるといった趣向も見せている。 長年ジョスカン・デプレの作品と推測されてきたモテット《 Sancta mater istud agas 》は、ペニャローサの作品である。このことは、両者の様式的な類似や、ペニャローサ作品の質の高さを示していよう。 Category:1470年生 Category:1528年没 Category:スペインの作曲家 Category:ルネサンスの作曲家.

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フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ (ユカタン半島の発見者)

フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(Francisco Hernández de Córdoba、? – 1517年)は、スペインのコンキスタドール。ヨーロッパ人による最初のユカタン半島発見の報告をもたらした1517年の遠征で知られる。 エルナンデス・デ・コルドバのユカタン探検以前の経歴についてはほとんど知られていない。1517年、キューバに住んでいたエルナンデス・デ・コルドバは、現状の生活に不満を持つ110人の開拓者とともにキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに新しい土地と資源を得るための遠征の許可を求めた。押し問答の末許可が下り、1517年2月8日にエルナンデス・デ・コルドバの指揮する3隻の船がサンティアーゴ・デ・クーバを出発した。 遠征隊はユカタン半島への上陸を果たし、マヤ文明を発見した。しかし、チャンポトンでマヤ人の襲撃に遭遇し、メンバーの多数が死亡した。エルナンデス・デ・コルドバ自身も負傷したが、何とかキューバに帰還することができた。しかし、そこで待っていたのはディエゴ・ベラスケスがフアン・デ・グリハルバを次のユカタン遠征の指揮官に任命したとの知らせだった。落胆したエルナンデス・デ・コルドバは、遠征中の負傷と極限の渇きがもとでキューバ帰還の数日後に死去した。 エルナンデス・デ・コルドバが遭遇したマヤ文明は、ヨーロッパ人が新世界で最初に遭遇した、旧世界のものと比較しうる頑丈な建築物と複雑な社会構造を備えた文明だった。この遠征の報告は1518年のフアン・デ・グリハルバの遠征と1519年のエルナン・コルテスの遠征を促し、最終的にスペインによるメキシコの征服につながった。 ベルナル・ディアス・デル・カスティリョはこの遠征隊のメンバーであり、『メキシコ征服記』にこの時の記録を残している。 Category:コンキスタドール Category:スペインの探検家 Category:スペイン史の人物 Category:メキシコ史の人物 Category:15世紀生 Category:1517年没.

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フランシスコ・エンリケス

フランシスコ・エンリケス (Francisco Henriques, 生年不詳 - 1518年)は、フランドル出身で16世紀初頭にポルトガルで活躍した画家。 フランシスコ・エンリケスは、1500年前後にヘラルト・ダヴィトの門弟であったブルッヘからポルトガルへやってきた。彼のポルトガルでの最初の仕事は、ヴィゼウ大聖堂(1501年から1506年。現在大聖堂はグラォン・ヴァスコ美術館となっている)の祭壇画を描くものであり、画房にはヴァスコ・フェルナンデスもいた。 彼の次の重要な仕事は、エヴォラのサン・フランシスコ教会の主礼拝堂のために、巨大なポリプティク(4枚もしくはそれ以上に分割された祭壇画の枠)を描くことだった(1503年-1508年)。同じ教会で祭壇画を1509年から1511年に描いている。これらの絵は、リスボンの国立古美術館やエヴォラ美術館、アルピアルサのドス・パトゥドス美術館の所蔵となっている。 1518年まで、とともに働いていたが、大流行した黒死病にかかり急死した。 Category:ポルトガルの画家 Category:16世紀の美術家 Category:1518年没.

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フランス元帥

在の元帥杖 フランス元帥の臂章 フランス元帥(フランスげんすい、Maréchal de France, 複数形: )は、フランス軍の称号。軍隊の階級でなく栄典であり、特別な武功を立てた将校に授与された。1185年に栄典が創設されて以来、342人の将校がフランス元帥の栄典を授与された。6人のフランス元帥は、フランス大元帥というさらに高位の栄典を授与された。 現在、1972年7月13日の法律第4条には「フランス陸軍元帥及びフランス海軍元帥の称号は、国家より与えられる栄誉である」と定められており、したがって、フランス元帥は軍隊の階級ではなく名誉称号にあたる。陸軍大将が五つ星の臂章をつけるのに対して、フランス元帥は七つ星の臂章を身につけ、さらに、元帥位のもう一つの象徴である星をちりばめた青いビロード張りの元帥杖を授与される。そこにはこう銘記されている「Terror belli, decus pacis」(戦時には恐るべく、平時には輝かしく)と。 ファイル:Musee-de-lArmee-IMG 1071.jpg|Terror belli... ファイル:Musee-de-lArmee-IMG 1070.jpg|...

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フランソワ3世 (ブルターニュ公)

フランソワ3世・ド・ブルターニュ(, )またはフランソワ・ド・フランス(, 1518年2月28日 - 1536年8月10日)は、フランス王フランソワ1世と王妃クロード・ド・フランスの長男。.

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フリードリヒ2世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)

フリードリヒ2世(Friedrich II., 1460年5月8日、アンスバッハ - 1536年4月4日、アンスバッハ)は、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯(在位:1486年 - 1515年)、ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯(在位:1495年 - 1515年)。フリードリヒ老伯(Friedrich der Ältere)と呼ばれ、またフリードリヒ5世とする文献もある。ブランデンブルク選帝侯アルブレヒト・アヒレスと後妻のザクセン選帝侯フリードリヒ2世の娘アンナとの一番上の息子で、成人したアルブレヒト・アヒレスの息子の中では2番目に年長となる人物。ヨハン・ツィーツェロの弟、ジークムントの兄。 1486年にブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯となり、1495年に弟のジークムントの死を承けてブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯を兼ねた。しかし、その浪費癖から1515年に長男のカジミールによって退位させられ、13年間にわたりクルムバッハのプラッセンブルクに幽閉された。1527年のカジミールの死により解放され、1536年に没した。 1497年からゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンが騎士修行のために仕えていた。ゲッツは1500年にアンスバッハから去った後、ランツフート継承戦争で右腕を失い、義手を付けて鉄腕ゲッツとして名を馳せていく。.

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フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)

フリードリヒ3世(1532年、ルーカス・クラナッハ画。クラナッハはフリードリヒ3世の御用絵師であった。) フリードリヒ3世(1510年、ルーカス・クラナッハ画) 若き日のフリードリヒ3世(1500年、アルブレヒト・デューラー画) フリードリヒ3世(Friedrich III., 1463年1月17日 - 1525年5月5日)は、ヴェッティン家のザクセン選帝侯(在位:1486年 - 1525年)。賢明公、賢公(ドイツ語:der Weise)と称される。宗教改革の指導者であるマルティン・ルターを保護しプロテスタントを承認したことと、ヴィッテンベルク大学設立の功績で知られる。日本の高等学校用世界史教科書・参考書等でザクセン選帝侯フリードリヒといえば、ふつうこの人物を指す。.

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フルドリッヒ・ツヴィングリ

ハンス・アスパーによるフルドリッヒ・ツヴィングリの肖像画(1531年) フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli、1484年1月1日 - 1531年10月11日)は、スイス最初の宗教改革者。スイス改革派教会の創始者で、チューリッヒに神聖政治を確立しようとした。「聖書のみ」を信仰の基準としたこと、信仰そのものが大事だと説いたこと、万人祭司説を説いたことはマルティン・ルターと変わらなかったが、それ以外の部分においてルターと意見を異にしていた。彼らはマールブルク会談で多くの論点について合意したが、聖餐論で一致することができなかった。カトリック諸州との内戦の中で戦死した。47歳だった。 ルターと並んで宗教改革の初期の立役者の一人だが、ルターと対立したことや、これもルターとは違い志半ばにして戦死したことなどからルターほどの知名度はない人物である。ツヴィングリの残したものは、今日も改革派教会の信仰告白、礼拝、教会などの内に見る事が出来る。他の名として「フルドライヒ」(Huldreych)と表記されたり、ウルリヒ(Ulrich)と表記されることもある。.

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フアン・デル・エンシーナ

フアン・デル・エンシーナ(Juan del EncinaまたはEnzina, 1469年 - 1533年)はスペイン・ルネサンスの作曲家・詩人・劇作家。カトリック両王時代を象徴する文芸人であり、しばしばスペイン演劇(スペイン黄金世紀演劇)の創立者と呼ばれる。サラマンカ近郊の、おそらくエンシーナ・デ・サンシルベストレの出身。サラマンカ大学を卒業してすぐアルバ公に執事として仕える。 1492年に、グラナダ陥落を記念して執筆した戯曲『名誉の勝利 Triunfo de la fama 』によってアルバ公を楽しませる。1496年に、叙事的な戯曲や抒情詩を集めた『カンショネーロ Cancionero 』を上梓すると、この戯曲はそれから20年間にたびたび版を重ねた。数年後にローマを訪れ、音楽的力量によってローマ教皇アレクサンデル6世を魅了し、ローマ教皇庁の聖歌隊長に任命される。1518年頃に上級聖職者に叙階されると聖地エルサレムに巡礼して、初めてミサ曲の作曲を着想。1509年にはマラガ司教座で参事会員に就任し、1519年になるとレオン地方の小修道院長に任命される。1533年に地元サラマンカで亡くなったと伝えられている。 エンシーナの『カンショネーロ』は、韻律論の序文があり、スペインにおける詩作の状況が論じられている。14の戯曲は、中世ヨーロッパの神聖劇からルネサンスの世俗劇への変遷が特徴的である。いくつかの牧歌劇は、『ラ・セレスティーナ』に影響されて、羊飼いの冒険を舞台化している。エンシーナの戯曲に対する本質的な関心は微々たるものだが、歴史的観点からするとこれらの作品は重要である。世俗的な作品は新たな出発点を創り出し、宗教的な牧歌劇は、17世紀のスペイン演劇に至る道のりをつけたからである。しかもエンシーナの抒情詩は、表裏のなさと優雅さが際立っている。.

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フィリップ・メランヒトン

フィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon, 出生名:Philipp Schwartzerd, 1497年2月16日 – 1560年4月19日 )は、ドイツの人文主義者、キリスト教神学者。ルター派。 ルターの宗教改革において、ルターの思想の体系化に尽力『キリスト教大事典』1054頁 - 1055頁、教文館、昭和48年 改訂新版第2版。プロテスタント正統の基礎を築いたという面でカルヴァンと並び称される 。.

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フィリップ・ヴェルドロ

フィリップ・ヴェルドロ(Philippe Verdelot)は、フランス出身の作曲家。生涯のほとんどをイタリアで暮らした。一般にイタリア・マドリガーレの創始者と見なされており、マドリガーレ草創期に最も数多くこのジャンルを手懸けた作曲家であった。サヴォナローラの信奉者からメディチ家がフィレンツェを奪還した後、同地の音楽界で重要な立場にあり、ジャック・アルカデルトらに影響を与えた。生没年は不詳で、1480年ごろ(±5年)に生まれ、1531年前後もしくは1552年に没したとされている。.

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ドゥマク王国

ドゥマク王国(ドゥマクおうこく、Kesultanan Demak、Sultanate of Demak)は、15世紀から16世紀にかけてジャワ島北岸に栄えたイスラム国家。.

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ニコラス・デ・オバンド

ニコラス・デ・オバンド ニコラス・デ・オバンド (Fray Nicolás de Ovando y Cáceres、1460年 - 1518年5月29日) は、貴族出身のスペイン軍人でアルカンタラ騎士団の騎士。 1502年から1509年まで、西インド諸島のイスパニョーラ島の第3代統治者であった。.

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ホムベルク (エフツェ)

ホムベルク (エフツェ) (Homberg (Efze)) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州シュヴァルム=エーダー郡に属す小都市であり、同郡の郡庁所在地である。ホムベルク/エフツェ、ホムベルク・アン・デア・エフツェとも表記される。この街の名前は、市の高台に当たる円錐形の玄武岩の山上に建つホーエンブルク城 (Hohenburg) に由来する。この街の 30 km 圏内に約 30 万人が住んでいる。.

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ダルムシュタットの歴史

本項では、ドイツ連邦共和国ヘッセン州南部の都市ダルムシュタットの歴史について詳述する。 ダルムシュタットは、フランク人入植地から中世になって築かれた都市である。16世紀のヘッセン分割後は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯領の宮廷所在地として、政治的中心地となった。19世紀にはヘッセン大公国の首都となり、ドイツ帝国滅亡後はヘッセン民主国の首都となった。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受け、戦後、ヘッセン州の州都には大戦の被害をほとんど受けなかったヴィースバーデンが選ばれ、政治的重要性を喪失した。しかし、ユーゲントシュティール運動の中心地として、あるいはダルムシュタット夏季現代音楽講習会などで国際的に知られる芸術文化都市としてその存在感を保っている。.

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ダレント川

ダレント川(River Darent)は、イギリスのケントを流れる川であり、テムズ川の支流。 名前の由来はケルト語であるとされており、「オークの木が育つ川」という意味である。 ウェスターハムの南の丘から地下水の供給を受け、セブンオークの泉を源泉としている。そこからオットフォード村、ショアハム村を北に抜け、アインズフォード、ファーニンガム、ホートン・キルビー、サウス・ダレンス、サットン・アット・ホーン、ダレンス、ダートフォードの街を抜けていく。ダートフォードは『ドゥームズデイ・ブック』の中ではタレントフォート (Tarentefort) と記載されており、ロンドンからケント沿岸へ向かう道にあり、ダレント川を渡る (ford) 場所であった。ローマ帝国の記録にも渡し守がいたことが記されていた。1235年から隠者によって渡しが行われるようになった。15世紀初期のヘンリー4世の時代に歩行者用の橋が作られたが、1518年まで隠者が渡しをする慣習が残っていた。この橋は18世紀の中ごろまで存在していた。 ダードフォードの北で、ダレント側は西から来たクレイ川と合流し、ダートフォード湿地とクレイフォード湿地を通り、クレイフォード・ネスの近くでテムズ川と合流する。セブンオークからテムズ川に合流するまでのダレント川の地図上から推測される長さは27kmほどである。 1989年に川の水量が急激に減少していることが観測され、イギリス中で最も水量が少ない川であると公式に確定された。野生生物の生息域が破壊されていることが認識され、川の水量を回復させるために様々な手段がとられた。環境省の指導の下、川沿いのボーリングによる穴が数多く封鎖され、水量は回復してきている。川の環境保全の成功を記念して、2004年にダレント川の野生生物を模した彫像が公開された。 Category:テムズ川水系 Category:イングランドの河川 Category:ケント州.

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ベラクルス

ベラクルス (Veracruz) は、メキシコ湾に面するメキシコ合衆国ベラクルス州の基礎自治体である。.

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ベルベラ

ベルベラ(,, بربرة)は、ソマリア北部の港町。人口は約20万人。アデン湾に面しており海上交通の要衝である。海の無いエチオピアの輸出港であり、またソマリランドのメインの貿易港である。 現在はソマリランド共和国が実効支配し、2008年5月15日までサークシル州の州都、それ以降はサヒル州の州都である。大型船の港湾施設として1969年に整備され、現在もソマリランドの商用港湾として重要。.

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ベストヴィヒ

ベストヴィヒ (Bestwig)はドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州アルンスベルク行政管区のホーホザウアーラント郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。町域の多くの部分が広大な自然・景観保護地区に指定されている。ノルトライン=ヴェストファーレン州で最高の自然滝プレスターレッゲは、同名の自然保護地区内に位置している。 ルール川沿い、アルンスベルクの森の辺縁部に位置するこの町は、14世紀にはメシェデ修道院の農園との農園がある小集落であった。オーベラー・ルールタール鉄道の駅建設後、19世紀後半にこの小集落は鉄道町に発展した。さらに当時隣村であったラムスベックの鉱業によって人口が増加した。ベストヴィヒは、1975年のノルトライン=ヴェストファーレン州の市町村再編によって現在の姿となった。これにより、商業や工業を主体とする町村が農業を主体とする町と合併した。.

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和平県

和平県(わへい-けん)は中華人民共和国広東省河源市に位置する県。.

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和知氏

和知氏(わちし)は、日本の氏族。.

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アルジェ

アルジェ(、)は、北アフリカ、アルジェリア民主人民共和国の首都であり、アルジェリア最大の都市である。西部地中海に面している。2010年の都市的地域の人口は335万人であり、世界の第90位、同国では第1位である。地中海の要塞として古くから発達した都市である。.

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アロンソ・ベルゲテ

アロンソ・ベルゲーテことアロンソ・ゴンサーレス・ベルゲーテ(、1488年頃 - 1561年)は、スペインの画家、彫刻家、建築家。スペイン・ルネサンスで最も重要な彫刻家と見なされている。その情緒的な彫刻群は、宗教の法悦と苦悩を描写していることで知られている。.

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アントワーヌ (ヴァンドーム公)

アントワーヌ・ド・ブルボン(Antoine de Bourbon, 1518年4月22日 - 1562年11月17日)は、16世紀フランス、ヴァロワ朝末期の貴族でブルボン家の当主。ヴァンドーム公(duc de Vendôme)。ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ(フアナ3世)と結婚してナバラ王となった(アントニオ1世、在位:1555年 - 1562年)。ブルボン朝の初代、フランスとナバラの王アンリ4世は2人の間の息子である。.

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アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ

アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ(Antonio da Sangallo il Vecchio 1453年頃 - 1534年)は、盛期ルネサンスの建築家。ジュリアーノ・ダ・サンガッロの弟で、ジュリアーノと共同作品もある。甥のアントニオと区別するため、イル・ヴェッキオと呼称される。.

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アンドレア・デル・サルト

アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto, 1486年7月16日 - 1531年1月21日)は、ルネサンス期のイタリアの画家。 本名はアンドレア・ダニョーロ・ディ・フランチェスコ(Andrea d'Agnolo di Francesco)。イタリアのゴシック期、ルネサンス期の画家には、もっぱら通称で呼ばれる者が多いが、彼もその1人で、「アンドレア・デル・サルト」は「仕立て屋のアンドレア」の意である。ミケランジェロやラファエロらがローマで華々しく活躍していたのと同じ頃、フィレンツェの美術の伝統を守っていた画家である。 1486年、フィレンツェに生まれ、徒弟時代はフィレンツェ派の巨匠の一人であるピエロ・ディ・コジモに師事する。1518年から翌年にかけてフランス王フランソワ1世に招かれ、フォンテーヌブローへ赴いた。代表作である『アルピエ(ハルピュイア)の聖母』には、安定した三角形構図(中央の聖母の頭部と、両脇の聖人の頭部を結んだ線が三角形をなす)、甘美な色彩、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響が見られるスフマート(もやのかかったように表す描法/霧状効果)技法などの、アンドレアの画風の特色が見られる。アンドレアの弟子からはポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノなど、次世代のマニエリスム絵画を担う画家が出ている。.

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アヴィス王朝

アヴィス王朝(Dinastia de Avis、)は、ポルトガルの王朝。ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ王朝に次いで、1385年から1580年までポルトガル王国を支配した。 創始者であるジョアン1世から最後の国王であるエンリケ1世に至る200年近くの期間のほとんどはポルトガルの「大航海時代」と重複する金七「アビス朝」『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版、11頁。エンリケ航海王子が実施したアフリカ大陸への進出、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によって、大西洋とインド洋にまたがる「ポルトガル海上帝国」が出現した。香料交易の衰退とともにポルトガルの国力は低下し、1580年にスペイン王フェリペ2世が空位となったポルトガル王位に就き、王朝は滅亡を迎える。.

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アフリカ史

アフリカ大陸 本項ではアフリカ史、すなわちアフリカ大陸の歴史について解説する。.

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アイルランド総督 (ロード・デピュティ)

アイルランド総督(アイルランドそうとく、Lord Deputy, ロード・デピュティ)は、アイルランド島の君主がアイルランド卿と称された時代からアイルランド王国の時代にかけて、イングランド王国による支配体制の下における君主の名代であり、アイルランドにおける行政の長であった。英語では、複数形はLords Deputyとなる。.

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アウクスブルク

市庁舎(向かって右)とペルラハ塔(向かって左)はアウクスブルクを象徴する建造物である フッゲライ 市庁舎前のアウグストゥスの泉。街の創始者アウグストゥスの像 アウクスブルク(Augsburg, アレマン語:Augschburg(アウクシュブルク))は、ドイツ連邦共和国バイエルン州南西部に位置する郡独立市である。.

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アゼ=ル=リドー城

アゼ=ル=リドー城(Azay-le-Rideau)は、フランスのロワール渓谷、アンドル=エ=ロワール県にある城である。1518年から1527年にかけて建設された、ごく初期のフランス・ルネサンス様式の城の一つである。アンドル川の中州に建てられ、城の基礎部分は直接水の中に建築されている。 世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に含まれる。.

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イブラーヒーム・ローディー

イブラーヒーム・ローディー(Ibrahim Lodi, 生年不詳 - 1526年4月21日)は、北インドのデリー・スルターン朝、ローディー朝の君主(在位:1518年 - 1526年)。.

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イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー

イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャー(1518年 - 1580年)は、ゴールコンダ王国の第4代の王(在位:1550年 - 1580年)。 スルターン・クリー・クトゥブ・シャーの末子である彼は、1543年兄ジャムシード・クリー・クトゥブ・シャーが父を殺すと、ヴィジャヤナガル王国に亡命し、その摂政ラーマ・ラーヤの保護を受け生活を送っていた。彼は滞在中にテルグ語習得に熱中し、第2の母国語のように話すことができるまでに達した。 1550年ジャムシードが死ぬとヴィジャヤナガルを離れ、その子スブハーン・クリー・クトゥブ・シャーを殺し、王位についた。彼はそれまでの王達が一顧だにしなかったテルグ語の読み書きを保護・奨励し、そのため、彼の宮廷は、デカン高原中の詩人達で賑わったと言われている。 だが、かつて保護を受けたヴィジャヤナガル王国が圧迫してくると、イブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーはほかのムスリム5王国と同盟し、1565年ヴィジャヤナガル王国軍をターリコータの戦いで撃破した(ラーマ・ラーヤはこの戦いで死亡している)。 彼の治世中に、ゴールコンダ要塞はさらに強化された。また、彼は多くのモスク、学校、救貧院を建設させたことでも知られる。フセイン・サガールのダム建設なども彼の功績であり、有能な統治者として、その名を残している。.

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ウィリアム・ポーレット (初代ウィンチェスター侯爵)

初代ウィンチェスター侯爵ウィリアム・ポーレット(William Paulet, 1st Marquess of Winchester, 、1483年か1485年 - 1572年3月10日)は、イングランドの政治家、廷臣、貴族。 ヘンリー8世からエリザベス女王までのテューダー朝の王に仕えた。激動の中でも失脚することなく多年にわたって地位を維持した。1531年にセントジョン男爵、1550年にウィルトシャー伯爵、1551年にウィンチェスター侯爵に叙せられた。 ウィンチェスター侯爵ポーレット家の祖にあたる。.

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エンリケ2世 (ナバラ王)

ンリケ2世(スペイン語:Enrique II, 1503年4月18日 - 1555年5月25日)は、ナバラ王国の名目上の国王(在位:1517年 - 1555年)。ナバラ王フアン3世(ジャン・ダルブレ)とその妻で女王のカタリナ(カトリーヌ)の長子。アルブレ領主。アンリ・ダルブレ(Henri d'Albret)とも呼ばれる。.

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カビール

ビール(Kabīr, Kabīra, ヒンディー語: कबीर, グルムキー文字: ਕਬੀਰ,کبير. 1440年-1518年)は、インドの宗教改革者。.

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カザン・ハン国

ン・ハン国 (カザン・ハンこく、Qazan xanlığı、Казанское ханство (Kazanskoe khanstvo)) は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、国名は首都はカザンに置いたことに由来する小松「カザン・ハーン国」『ロシアを知る事典』、134頁。.

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カザフ・ハン国

フ・ハン国(カザフ・ハンこく、قازاق حاندىعى、Қазақ хандығы、Qazaq xandığı、Казахское ханство、Kazakhskoye khanstvo)は、15世紀から19世紀にかけて現在のカザフスタンに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスのトカ・テムル家の子孫が建てた。.

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カザフスタン

フスタン共和国(カザフスタンきょうわこく、)、通称カザフスタンは、中央アジアの共和制国家である。北をロシア連邦、東に中華人民共和国、南にキルギス、ウズベキスタン、西南をトルクメニスタンとそれぞれ国境を接する内陸国。カスピ海、アラル海に面している。首都はアスタナ、最大都市はアルマトイ。.

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カジミール (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)

ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミール ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミール カジミール(Kasimir、1481年9月27日、アンスバッハ - 1527年9月21日、ブダ)は、ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯。フリードリヒ2世とポーランド王カジミェシュ4世の娘ゾフィアの間の長男。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク、プロイセン公アルブレヒトの兄。 フリードリヒ5世は、1498年から度重なる旅の間は、老練な参謀の指導下ではあるが、17歳のカジミールに辺境伯領の運営を早くも任せている。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の従士であったカジミールは、シュヴァーベン戦争にの将帥として参軍し、後にバーゼルの和約成立に導いた。その後、ハプスブルク宮廷の将帥ならびに外交官に任じられた。 1515年に、浪費癖の強い生活スタイルから辺境伯領に重大な負担を強いていた父を退位させた。弟のゲオルクはハンガリーの王宮に身を寄せることが多かったため、カジミールは弟のためにブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領も父から剥奪した。 1518年8月25日、バイエルン公アルブレヒト4世の娘ズザンナと結婚した。アウクスブルク帝国会議にあわせて行われた壮麗な結婚式には、花嫁の伯父に当たるマクシミリアン1世も列席した。 カジミールは、弟のゲオルクとは対照的に宗教改革を拒んだ。フランケンにおけるドイツ農民戦争鎮圧の際、特に無慈悲な処置を行ったため、"Bluthund"(『血まみれの犬』)というあだ名を付けられた。 1527年9月、サポヤイ・ヤーノシュ討伐の軍旅の途中で赤痢に罹り、亡くなった。.

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クラスヌイ・ホルム

ラスヌイ・ホルムの紋章 クラスヌイ・ホルム(Кра́сный Холм, Krasny Kholm)は、ロシアのトヴェリ州北東部にある都市。街の名は「赤い丘」の意味。人口は2002年全ロシア国勢調査で 6,396人(1989年調査では7,900人)。 州都トヴェリからは北東へ175km。モロガ低地に位置し、ヴォルガ川支流のネレディナ川とモゴチャ川が流れる。またモスクワからサヴョロヴォ・ソンコヴォを経てきた鉄道が通り、この50kmほど北でヴェシエゴンスク行きとペストヴォ-サンクトペテルブルク行きに分かれている。東には人造湖ルイビンスク湖とルイビンスク市がある。.

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グリハルバ川

リハルバ川(Río Grijalva)は、メキシコの南東部を流れる川である"Grijalva.", 3rd ed.

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グルジアのイスラム教

本項目ではグルジアのイスラム教について記述する。.

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グスタフ1世 (スウェーデン王)

タフ1世(Gustav I, Gustav Eriksson Vasa, 1496年5月12日 - 1560年9月29日)はスウェーデン国王(在位:1523年 - 1560年)。ヴァーサ王朝の祖。.

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ゲオルク・アグリコラ

ルク・アグリーコラ(Georg Agricola、ゲオルギウス・アグリコラ、Georgius Agricola、本名 ゲオルク・バウエル、Georg Pawer、1494年3月24日 - 1555年11月21日)は、ドイツの鉱山学者、鉱物学者、人文学者、医者。「鉱山学の父」として知られる。彼の本名であるバウエル Bauer は「農夫」の意味であり、Agricola はそのラテン語名。 探鉱術や冶金術、鉱床、鉱脈、断層などに関する記述がある。多くの鉱物についての記述もある。鉱山書を出版する前彼は『化石の本性について』、という本も書いており、化石を生物の遺物としていたり、鉱物の肉眼鑑定で今日も行われている諸特徴を記載して後世に基準を与えている。代表作は1533年頃から編集され1550年に完成した全12巻からラテン語で構成される『デ・レ・メタリカ(De re metallica)』である。 実際に鉱山で働く人々の経験や発見、発明を科学の言葉に持ってきた、ひとつの新しい体系を創出したアグリーコラは、そのように自然や実業に密着していたため、錬金術など頭から否定し、軽蔑していた。.

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コンラドゥス・リュコステネス

ンラドゥス・リュコステネス(Conradus Lycosthenes, 1518年8月8日 - 1561年3月25日)は、アルザス出身の文献学者、モラリスト。箴言集の出版やユリウス・オブセクエンスの補訂などで知られる。本名はコンラート・ヴォルフハルト (Konrad Wolffhard) で、リュコステネスは「勇猛な狼」を意味する姓をギリシャ語化した変名である。コンラッド・リュコステネス (Conrad Lycosthenes) とも呼ばれる。.

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コーヴェリ

記載なし。

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ゴールコンダ

ールコンダ(英語:Golkonda, テルグ語:గోల్కొండ)は、南インドのテランガーナ州ハイダラーバード県の都市。旧市街地でもある。都市名は「羊飼いの丘」を意味する。 かつてはゴールコンダ王国の首都として栄え、16世紀末に近郊のハイダラーバードへと遷都された。現在ではゴールコンダ城を中心とした市街地は廃墟となっている。 また、この都市近郊の鉱山からは多数の有名な宝石が採掘され、コーヒ・ヌール、ダリヤーイェ・ヌール、ホープ・ダイヤモンドなどのダイヤモンドが有名である。.

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ゴールコンダ王国

ールコンダ王国(ゴールコンダおうこく、Golconda Sultanate)は、16世紀初頭から17世紀末にかけてインドのデカン地方に存在した、バフマニー朝が分裂してできたデカン・スルターン朝のひとつであるイスラーム王朝。クトゥブ・シャーヒー朝(Qutb Shahi dynasty)とも呼ばれる。首都はゴールコンダ、ハイダラーバード。.

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ザクセン選帝侯領

ン選帝侯の旗 ザクセン選帝侯領(ザクセンせんていこうりょう、Kurfürstentum Sachsen)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。クーアザクセン(Kursachsen)とも呼ばれる。1356年の金印勅書により、神聖ローマ皇帝カール4世がザクセン=ヴィッテンベルク公爵を選帝侯に指定したことで成立した。選帝侯領は1806年にザクセン王国となった。.

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シク教

金寺院 アムリトサルの黄金寺院とシク教徒 シク教(シクきょう、パンジャーブ語:ਸਿੱਖੀ、)は、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。シク(スィク)とはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。 総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。 世界で五番目に大きい宗教で、約3000万人の信者がいる。少数だが、日本にもコミュニティが存在する。.

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ジャン・ムートン

ャン・ムートン(Jean Mouton, 1459年? - 1522年10月30日)はフランス・ルネサンス音楽の作曲家。モテット作曲家として、またアドリアン・ヴィラールトの恩師として名声を馳せた。.

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ジョヴァンナ・ディ・ナポリ

ジョヴァンナ・ディ・ナポリ(Giovanna di Napoli, 1478年 - 1518年8月27日)は、ナポリ王フェルディナンド2世の王妃。ナポリ王フェルディナンド1世と2番目の妃ジョヴァンナ・ダラゴーナの娘。アルフォンソ2世、フェデリーコ1世の2人の王の異母妹である。 1496年、異母兄アルフォンソ2世の息子であるフェルディナンド2世と結婚した。この年ジョヴァンナは18歳、ジョヴァンナの甥であるフェルディナンド2世は27歳であった。フェルディナンド2世は同年9月7日に死去し、子供を残さなかった。王位はフェルディナンド2世の叔父、ジョヴァンナの異母兄であるフェデリーコ1世が継承した。ジョヴァンナは1518年に死去するまで再婚しなかった。 Category:トラスタマラ家ナポリ系 Category:ナポリの后妃 Category:1478年生 Category:1518年没.

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ジーレンバッハ

ーレンバッハ (Sielenbach) はドイツ連邦共和国バイエルン州シュヴァーベン行政管区のアイヒャッハ=フリートベルク郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)で、ダージング行政共同体を構成する自治体の一つである。この町は第三紀の丘陵地に形成されたエックハナ川の渓谷に位置し、郡庁所在地のアイヒャッハから南東約7kmにあたる。.

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スルターン・クリー・クトゥブ・シャー

ルターン・クリー・クトゥブ・シャー(1444年 - 1543年)は、ゴールコンダ王国の創始者(在位1518年 - 1543年)。スルターン・クリー・クトゥブル・ムルクとも呼ばれる。 彼は、当初、バフマニー朝のムハンマド・シャー3世の時代である1463年にテランガーナー地方に総督として派遣された。次のムハンマド・シャー4世からも幾つかの称号を授けられ、バフマニー朝は激しい党争で衰退が著しくかつての力を失っていた。 1518年、彼はゴールコンダに独立を宣言してクトゥブ・シャーヒー王国をうちたてた。首都ゴールコンダの拡張にはそれほど力を注がなかったが、カーカティーヤ朝時代の古ぼけた泥の砦を基礎に、それを巨大なゴールコンダ要塞へと強化した。さらに彼は、ゴールコンダ要塞をモスクや宮殿や庭園などで美しく飾った。この要塞都市はムハマンダナガルと呼ばれ、急速に成長するとともに、ダイヤモンドや宝石の交易で有名となり、瞬く間に第一級都市のひとつとしての名声を得た。 スルターンの家臣は、彼を非常に高貴に感じており、彼もまた慈悲深く領地を統治した。彼は99歳の時、息子のジャムシード・クリー・クトゥブ・シャーにより殺害された。.

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ストックホルムの血浴

トックホルムの血浴 ストックホルムの血浴(デンマーク語:Stockholms blodbad)とは、デンマーク王クリスチャン2世が1520年に行なったスウェーデン人に対する処刑ないし粛清である。.

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スイスの歴史

イスの歴史ではスイス連邦の歴史について述べる。 スイス連邦は、1848年以来カントンと呼ばれる州による連邦共和制をとってきた。スイス連邦の原型がつくられたのは今から700年以上前のことであるため、見方によっては現存する世界最古の共和国であるということもできよう。連邦が成立する1291年以前の歴史に関しては、本稿では現在のスイス領で起こった歴史的出来事について概説していくこととする。1291年以降、永久盟約によって結成された不安定な連合体がどのように発展・拡大していったかを簡潔にまとめる。.

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ズザンナ・フォン・バイエルン

ンナ・フォン・バイエルン(Susanna von Bayern, 1502年4月2日 - 1543年4月23日)は、バイエルン公アルブレヒト4世と妃クニグンデの末娘。姉はヴュルテンベルク公ウルリヒ妃ザビーナ。ミュンヘンで生まれた。 1518年8月、ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯カジミールと結婚した。2人は4子をもうけた。.

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セーナ王国

ーナ王国(セーナおうこく、英語:Sena Kingdom)は、ネパールに存在した王朝(15世紀頃 - 1804年)。.

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ゼッケンドルフ家

Siebmachers Wappenbuch』より)。 ゼッケンドルフ家(Seckendorff/Seckendorf)は、フランケンの古来の貴族である。.

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ターラー (通貨)

ターラー(ターレル、Thaler、Talerとも)は16世紀以来数百年にわたりヨーロッパ中で使われていた大型銀貨。その名残は、現在もアメリカ合衆国ドルをはじめとするドル(dollar)や、2007年までスロベニアで使われていたトラール(tolar)などの通貨名に残る。 ターラー(ターレル)の語源は「ヨアヒムスターラー」(Joachimsthaler)という銀貨の名が短縮されたものである。ヨアヒムスターラーは、16世紀初めに大きな銀山が発見され、1518年以来この種の銀貨が鋳造されてきたボヘミア(現在のチェコ)の町、ザンクト・ヨアヒムスタール(現在のヤーヒモフ)に由来する。.

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サンティアーゴ・デ・クーバ

ンティアーゴ・デ・クーバ (Santiago de Cuba) は、キューバ南東部の都市である。サンティアーゴ・デ・クーバ州の州都。人口は40万4100人。 カリブ海に面したマエストラ湾岸にある港湾都市かつ工業都市である。.

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サングラーム・シング

ングラーム・シング(Sangram Singh, 1482年4月12日 - 1528年1月30日)は、北インドのラージャスターン地方、メーワール王国の君主(在位:1508年 - 1528年)。ラーナー・サンガー(サンガ、サーンガーとも、Rana Sanga)とも呼ばれる。.

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内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。.

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内藤元泰 (中務丞)

内藤 元泰(ないとう もとやす)は、戦国時代の武将。安芸国の国人・毛利氏の家臣。.

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准大臣

准大臣(じゅんだいじん)とは、日本の朝廷において、大臣に准ずる待遇のこと。またその称号、およびその称号を与えられた者。唐名は儀同三司(ぎどうさんし)。 准大臣という官職は存在しない。三位以上の公卿に大臣の下・大納言の上の席次を与えて朝議に参加させる待遇を意味し、本来は「大臣に准ず」と文として読むのが正しかった。これが後代になると准大臣宣下が昇進過程に加えられ、更に時代が下ると実質上の極官として扱われるようになることから、制度上は待遇に過ぎない准大臣が実際には官職と同様に扱われるようになっていった。.

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八丈島

八丈島(はちじょうじま)は、伊豆諸島の島。行政区分は東京都八丈町。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。日本の気象庁による火山活動度ランクCの活火山である。1964年、富士箱根伊豆国立公園に指定された。.

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六角定頼

六角 定頼(ろっかく さだより)は、戦国時代の武将・守護大名。室町幕府管領代、近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏14代当主。.

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六角氏綱

六角 氏綱(ろっかく うじつな)は、戦国時代の武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏13代当主。.

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光紹

光紹(こうしょう)は、ベトナム後黎朝の昭宗が使用した元号。1516年旧4月27日 - 1522年旧7月。.

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矢沢頼綱

沢 頼綱(やざわ よりつな)は、戦国時代の武将。諱は綱頼(つなより)とも。.

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玉縄

玉縄(たまなわ)は神奈川県鎌倉市玉縄地域、および同地域に含まれる地名。現行行政地名は玉縄一丁目から玉縄五丁目。住居表示未実施区域。.

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王陽明研究

『王陽明研究』(おうようめいけんきゅう)は、安岡正篤の政治哲学書である。陽明学の著者自身による研究成果の公表と出版当時の現代青年のための陽明研究の入門書の制作とを目的として、1922年(大正11年)に玄黄社から出版された。.

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砂越氏

越氏(さごしし)は、日本の氏族のひとつ。出羽国飽海郡砂越邑発祥の出羽国の豪族。本姓は不明。確認されているだけで2度再興されている。.

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砂越氏雄

越 氏雄(さごし うじたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。出羽国飽海郡砂越城主。.

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祥啓

祥啓(しょうけい、生没年不詳)は、室町時代中期から後期にかけて活躍した画僧・禅僧。賢江祥啓(けんこうしょうけい)とも。賢江は号で、僧名は元英祥啓。雪村と並び、室町後期の関東を代表する画人である。.

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稲村の変

村の変(いなむらのへん)/天文の内訌(てんぶんのないこう)は、戦国時代の天文2年(1533年)から翌3年(1534年)にかけて、安房里見氏で発生した内紛。稲村の変という名称は稲村城で発生した里見実堯殺害が発端だったことに由来する。だが、近年の里見氏研究によって、これまでの伝承と史実が全く正反対であることが明らかになった。.

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穴地蔵古墳

地蔵古墳(あなじぞうこふん)は、福井県敦賀市櫛川にある古墳。7世紀に築造された円墳で、横穴式石室の奥に石棚を持つ点が特徴的である。1978年(昭和53年)10月11日に福井県の史跡に指定されている。.

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竹内家

竹内家(たけのうちけ)は公家のひとつ。本姓は源氏。いわゆる堂上源氏で家系は清和源氏の一家系・河内源氏傍流の信濃源氏平賀氏の一族の流れである。家格は半家、家業は弓箭と笙と和歌。.

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笈ヶ岳

ヶ岳(おいずるがたけ)は、石川県、富山県、岐阜県の3県にまたがる標高1,841m山。白山国立公園内の両白山地の北側に位置し、日本二百名山に選定されている。.

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策彦周良

『集古十種』より 策彦周良(さくげんしゅうりょう、文亀元年4月2日(1501年4月19日) - 天正7年6月30日(1579年7月23日))は、戦国時代の臨済宗の禅僧、外交官。号は策彦のほか謙斎、怡斎、怡雲子など。.

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等持院の戦い

等持院の戦い(とうじいんのたたかい)は、戦国時代の永正17年(1520年)5月5日に山城国等持院(現在の京都府京都市北区)で細川高国軍と三好之長軍との間で行われた戦い。この戦いで勝利した高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い(両細川の乱)に一旦決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るった。.

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簗田政助

簗田 政助(やなだ まさすけ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。足利氏(古河公方)の家臣。.

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細川高国

細川 高国(ほそかわ たかくに)は、戦国時代の武将、大名。第31代室町幕府管領。摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。第15代細川京兆家当主。 細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。弟に晴国(高国の実子とも)、通政(輝政)。実子に稙国ほか、養子に氏綱がいる。 養父政元が暗殺された後の混乱(永正の錯乱)を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を結果的に排除し、京兆家の家督を手中にした。澄元とは両細川の乱と呼ばれる抗争を長期にわたって継続したが、管領として幕政の掌握を続けた。ところが、細川氏の権力構造の基礎である「内衆」とよばれる分国の重臣達が、京兆家の抗争に伴って各々対立し大いに疲弊。外様である大内氏を頼ったが、大内勢の帰国後は圧倒的な支持基盤を構築できず、最終的には澄元の嫡男・晴元に敗れて自害に追い込まれた。.

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細川氏

細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏の名門足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。 南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。.

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細川澄元

細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代の武将・守護大名。第30代室町幕府管領。丹波・摂津・讃岐・土佐守護。第14代細川京兆家当主。 細川高国と争い(両細川の乱)管領に就任し一時的に政権を樹立するも短期間で崩壊、管領の座も高国に奪われる形で解任。養父の細川政元には嫡子として認められていたものの、管領としての力は無きに等しかった。.

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細川政権 (戦国時代)

細川政権(ほそかわせいけん)は、明応2年(1493年)から天文18年(1549年)まで存在した日本の戦国時代における武家政権である。この時期に足利将軍の権威は弱体化していた室町幕府で、細川家宗家の京兆家当主が管領を独占して実権を握っており、足利将軍を推戴しつつも実質的に政権を担った。細川京兆家による専制であることから「京兆専制」とも呼称される。.

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細川政春

細川 政春(ほそかわ まさはる)は、戦国時代の武将。父は細川教春。細川野州家当主。「政」の字は将軍足利義政から偏諱の授与を受けたものである。 兄の勝之と子の高国が細川京兆家に養子入りし、高国は京兆家当主になった。また甥の尹賢は細川典厩家当主、高基は和泉守護となっている。.

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綾小路家

綾小路家(あやのこうじけ)は宇多源氏の流れを汲む堂上家。左大臣・源雅信の子孫綾小路信有(正二位・権中納言)(1269年 - 1324年)を祖とする。兄は庭田家の祖庭田経資(正二位・権中納言)(1241年 - 没年未詳)である。 家格は羽林家。当初の極官は権中納言。戦国時代の綾小路俊量(正二位・権中納言)(1451年 - 1518年)以降中絶。慶長18年(1613年)に五辻家から綾小路高有(正三位・参議)(1595年 - 1644年)が入り家名再興。そして綾小路俊宗(1690年 - 1770年)以降は権大納言を極官とする。 雅楽の中で郢曲や和琴・箏・笛関する知識は庭田家ではなく綾小路家に伝わったために、以降は雅楽の師範家として朝廷に仕えることとなる。 江戸時代の家禄は200石。明治時代後は、有良が子爵に叙せられた。.

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織田達勝

織田 達勝(おだ たつかつ/みちかつ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。室町幕府管領斯波氏の家臣。尾張下四郡の守護代。官位は大和守『寛政重修諸家譜』。『信長公記』によると父は織田寛定(織田勝秀とも)。尾張清洲城主。子または養子に織田信友(彦五郎)。娘は織田信秀正室(後に離縁される)。.

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羅教

羅教(らきょう)は、明の正徳年間(1506年 - 1518年)に羅祖が開創したとされる中国の民間宗教である。また、無為教(むいきょう)とも呼ばれる。教祖自らの宗教観を説いた『五部六冊』を作成し、その後の中国に多数現れた宝巻形式の経典を持つ民間宗教結社に影響を与えた。.

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真里谷恕鑑

真里谷 恕鑑(まりやつ じょかん、? - 天文3年7月1日(1534年8月10日))は、上総国の戦国大名。真里谷武田氏(上総武田氏の一族)の当主。真里谷信勝(信嗣)の子。真里谷全方(信保、信秋)、女子(三浦義意妻)の兄(異説あり)。真里谷全鑑?、真里谷信隆、真里谷信応の父。八郎五郎、式部丞、式部大夫、三河守。法名は寿里庵恕鑑又は円邦恕鑑。.

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真清田神社

真清田神社(ますみだじんじゃ、眞清田神社)は、愛知県一宮市真清田にある神社。式内社(名神大社)、尾張国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

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結城義綱

結城 義綱(ゆうき よしつな)は、戦国時代の武将。白河結城氏9代当主。.

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田原町 (田原市)

原町(たはらちょう)は、愛知県田原市の地名。郵便番号は441-3421。当地域の人口は4109世帯・10080人(2010年10月1日現在、国勢調査による)。.

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申用漑

申 用漑(シン・ヨンゲ、しん ようがい、朝鮮語:신용개、1463年10月5日 - 1519年10月3日)は、李氏朝鮮前期の文臣、政治家と儒学者、哲学者である。本貫は高霊、初名は白岳、字は漑之、白岳、纔踰、号は二楽亭、松渓、休休子、睡翁、諡号は文景。世祖代の権臣申叔舟の孫である。.

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町資将

資将(まち すけまさ)は、戦国時代の公卿。町家4代当主。高辻章長の次男。官位は正三位・権中納言。.

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畠山稙長

山 稙長(はたけやま たねなが)は、戦国時代の守護大名。河内・紀伊・越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で河内畠山氏の一流である畠山尾州家(高屋畠山氏)の当主。 畠山尚順(のち尚長)の子で長経、政国、晴熙の兄とされる。通称は次郎。家の慣例により、第10代将軍足利義稙より偏諱を賜い稙長(別名:稙家(たねいえ))と名乗る。官位は右衛門佐、尾張守。法名は大和寺殿覚源悟公。.

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益田宗兼

宗兼(ますだ むねかね)は石見国人益田氏第17代当主。 文明15年(1483年)に家督を譲られ、父と祖父から知行を譲り受けた。石見西部の領土を巡って吉見氏や三隅興兼と争う一方、大内義興に従って明応6年(1497年)の少弐政資討伐に従軍、永正5年(1508年)、義興が足利義稙を擁立して上洛すると嫡男の尹兼と共に上洛、在京して外様の有力国人となった。船岡山合戦にも参加、戦功を挙げた。永正15年(1518年)の義興の帰国に伴い石見へ帰還、崇観寺塔頭医光寺を建立した。 天文13年(1544年)に死去。孫の藤兼が家督を継いだ。尹兼は家督を継がなかったとされている。 雪舟と交流があり、文明15年の家督相続で雪舟から『花鳥図屏風』を寄贈された。.

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益田尹兼

尹兼(ますだ ただかね)は、戦国時代の武将。石見国の国人である益田氏の第18代当主。幼名は熊童丸。通称又次郎。官位は越中守。父は益田宗兼、母は陶氏の娘。子に益田藤兼。.

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相良義滋

良 義滋(さがら よししげ)は、肥後の戦国大名。相良氏の第16代当主。第13代当主相良長毎の庶長子で、第14代当主長祗は異母弟。初名を長為(ながため)、通称を左兵衛尉としたが、後に長唯(ながただ)と改名し、近江守を称した。義滋を名乗るのは最晩年であり、相良長唯の名をより長く用いた。.

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相良長祗

良 長祗(さがら ながまさ、文亀元年3月13日(1501年3月31日)- 大永5年1月8日(1525年1月31日))は、相良氏の第14代当主。第13代当主相良長毎の嫡子で三男。官位は左兵衛尉。幼名は満乗丸。通称は太郎。初名は長聖(ながのり)。母は伊東祐国の娘。.

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相良長毎

良 長毎(さがら ながつね)は、相良氏の第13代当主。第12代当主・相良為続の第一子。初名を長輔(ながすけ)とし、通称は太郎。.

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白岩氏

白岩氏(しらいわし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は白岩城(現在の山形県寒河江市白岩)。.

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花山院忠輔

花山院 忠輔(かざんいん ただすけ、文明15年2月10日(1483年3月18日) - 天文11年1月20日(1542年2月4日))は、室町時代後期の公卿。一字名は忠。後土御門天皇(103代)・後柏原天皇(104代)・後奈良天皇(105代)の三帝にわたって仕え、官位は正二位権大納言まで昇進。父は花山院政長。子に花山院兼雄と花山院家輔がいる。 延徳4年(1492年)に叙爵。以降累進して左近衛中将を経て、文亀2年(1502年)に従三位となり公卿に列する。永正3年(1506年)に権中納言、永正15年(1518年)に正二位権大納言となる。しかし経済的に困窮し、永正17年(1520年)には若狭国へ下向している。一度帰京して参内し、大永4年(1524年)に右近衛大将の任命を受けたが、翌大永5年(1525年)には再び北国へ下向していった。後に再度帰京したが、享禄元年(1528年)には官職を辞して、以降朝廷に出仕することはなかった。.

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銀(ぎん、silver、argentum)は原子番号47の元素。元素記号は Ag。貴金属の一種。.

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菊池義武

菊池 義武(きくち よしたけ)は、戦国時代の武将。肥後国の名族菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身で、大友重治とも言う。菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持っており、菊池氏の血を引く人物でもある。.

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菊池武包

菊池 武包(きくち たけかね)は、菊池氏の第25代当主。詫摩氏出身で詫摩武安の子。幼名を宮松丸。官途は肥後守。.

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菅谷政貞

菅谷政貞(すげのや まささだ、永正15年(1518年) - 文禄元年(1592年))は小田氏の家臣。左衛門大夫、摂津守を称した。 後に入道して全久と号す。菅谷勝貞の子。子に菅谷範政。父同様、小田氏治に忠義を尽くした。氏治が佐竹氏に小田城を奪われると、氏治を居城の土浦城へ迎えて、小田城を何度も奪還した。しかし1583年、氏治が佐竹氏に臣従したため、やむなくこれに従い、臣従したという。 Category:戦国武将 まさたた Category:1518年生 Category:1592年没.

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青山忠門

青山 忠門(あおやま ただかど )は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三河松平氏の家臣。 青山氏は、上野国の出身で、忠門の時に近江国から三河国へ移り、額田郡百々村を領して松平広忠に仕えたという。第二次小豆坂の戦いにも参戦した。広忠死後は一時、今川義元の麾下に入るが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは広忠の子・元康(のちの徳川家康)の寄騎となり、義元死後は元康に帰属する。永禄6年(1563年)、三河一向一揆の際も元康側につき、岡崎城を守備した。 死に関しては諸説あり、元亀2年(1571年)武田氏の三河侵攻に際しては良く防戦したが、その時の傷が元で死亡したという説と、天正3年(1575年)、武田氏との戦いで討ち死にしたという説がある。1571年説では享年54、1575年説では享年65。 子の忠成は徳川氏に仕え、江戸期を通じて譜代大名として列せられた。.

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蠣崎光広

蠣崎 光広(かきざき みつひろ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。 父・信広の後を継いで本拠をそれまでの上国から松前の大館に移し、蝦夷の経営に力を注いだ。永正12年(1515年)または同16年(1519年)のショヤコウジ兄弟の戦い等にも関与している。 みつひろ Category:北海道史の人物 Category:1456年生 Category:1518年没.

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顕証寺 (八尾市)

顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。.

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飢饉の一覧

ャガイモ飢饉の被害者の描写、1845-1849 飢饉の一覧(ききんのいちらん)は、主な飢饉を時代順に列挙する。.

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香川元景

香川 元景(かがわ もとかげ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。西讃岐国の守護代。讃岐国天霧城主。細川京兆家の家臣。基景とも。香川氏に関する資料では複数の「元景」なる人物が存在するが、ここでは天文年間前後に活躍し、之景の父とされる人物を取り上げる。.

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香川勝雄

香川 勝雄(かがわ かつたか)は、戦国時代の安芸国の武将。安芸国中城主。安芸香川氏の家臣。剛勇な武将で大蛇退治などの伝説をもつ。.

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香西元成

香西 元成(こうざい もとなり)は、戦国時代の武将。細川氏の家臣。讃岐国勝賀城主。 細川氏の忠実な家臣で、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いに参戦、内藤氏や三宅氏と共に軍を率いて功績を挙げた。天文18年(1549年)の江口の戦いにおいては摂津国三宅城を守り三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、政長は敗死し、主君の細川晴元も長慶に京から近江国へ追われることになる。それからは三好政長の子・政康・為三兄弟と行動を共にして丹波国を拠点に長慶への抵抗を始め、天文20年(1551年)3月に為三と共に丹波から下向して京都を襲撃、一旦引き上げた後7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れ逃亡した(相国寺の戦い)。 天文22年(1553年)、室町幕府13代将軍・足利義輝が細川晴元支持を表明すると7月に京都へ進み義輝・晴元と合流、8月に霊山城が落とされ義輝らが近江へ逃れた後も反長慶の姿勢を崩さず、9月に三好為三・波多野晴通と組んで丹波守護代・内藤国貞を討ち取り八木城を奪ったが、松永長頼に奪い返された。播磨国国人の明石氏と結託したが、こちらも天文24年(1555年)に長慶に降伏、かえって長慶の勢力拡大に繋がった。その後も長慶に徹底して対立・抵抗したが、永禄3年(1560年)、山城国炭山城で三好氏と戦い討死した。 三好宗渭、為三らと共に織田信長と戦い、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いで降伏した後、再び本願寺に味方して天正3年(1575年)に堺の近辺の新堀の出城に籠城して織田軍に捕えられ誅殺された「香西越後守」は、名乗りから考えて元成の後継者と考えられるが、その素性は明らかでない。.

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諏訪頼満 (安芸守)

諏訪 頼満(すわ よりみつ)は、戦国時代の武将。信濃の戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。.

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諏訪氏

諏訪氏(すわし)は、日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。.

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高崎山城

崎山 高崎山城(たかさきさんじょう)は、大分県大分市の高崎山にあった日本の城である。高崎城とも呼ばれる。.

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高倉永家

倉 永家(たかくら ながいえ、明応5年1月1日(1496年1月25日) - 天正6年11月23日(1578年12月31日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。高倉家当主。官位は正二位権大納言。高倉永康の子。.

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高県

(こう-けん)は中華人民共和国四川省宜賓市に位置する県。.

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高齢で死去した著名人一覧

100歳以上の著名人を掲載。年齢は満年齢。生没年月日の表記について1582年10月4日以前はユリウス暦、同年10月15日以後はグレゴリオ暦に準拠。ただし前近代には現代のような本格的な戸籍制度がまだなかったことに加え、僧侶伝・縁起や系図など拠るべき史料の信憑性にも疑わしいものが少なくない。.

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高辻章長

辻 章長(たかつじ あきなが、文明元年(1469年)-大永5年1月4日(1525年1月27日)は、室町時代後期・戦国時代の公卿。高辻長直の嫡男。母は藤波秀忠の娘。子に高辻長雅・町資将。.

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高源寺 (丹波市)

源寺(こうげんじ)は、兵庫県丹波市青垣町桧倉にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は瑞巌山。本尊は釈迦如来。もみじ(天目かえで)の寺として知られる。関西花の寺二十五霊場4番。.

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谷村城

谷村城(やむらじょう)は、山梨県都留市上谷一丁目にあった日本の城(城郭)。甲斐国東部の郡内地方を領した国衆である小山田氏の居館または近世の大名居館。谷村館。.

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貨幣史

貨幣史(かへいし)は貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の研究を指す。関連する学術分野としては、貨幣とその形態を研究する貨幣学の他に、経済史をはじめとする歴史学や考古学、文化と貨幣の関わりも研究する文化人類学などがある。.

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越水城

越水城(こしみずじょう)は摂津武庫郡(兵庫県西宮市)にあった日本の城。現在は西宮市立大社小学校に案内看板・石碑が建っている。.

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足利義稙

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府第10代将軍。父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。母は裏松重政の娘(日野富子の妹に当たる人物であるが名は伝わらない)。 初名は義材(よしき)。将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。.

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足利義明

足利 義明(あしかが よしあき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称。.

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趙光祖

趙 光祖(ちょう こうそ、チョ・グァンジョ、조광조、1482年 - 1519年)は、16世紀前半の朝鮮時代中期の儒学者、政治家。高麗末の鄭夢周以来の儒学の伝統を受け継ぎ、朝鮮性理学の学問としての端緒を確立した儒家で、自ら提唱した「道学政治」を実践した改革派の政治家でもあった。 本貫は漢陽趙氏で、字は孝直、号は静庵で、著書としては『静庵集』が遺されている。.

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鷲見氏

鷲見氏(すみし)は、日本の氏族の一つ。美濃国郡上郡鷲見郷の国人領主。通字は「保」。.

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船岡山合戦

船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)は、永正8年(1511年)8月23日、室町幕府将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、幕府の政権と細川氏の家督をめぐる戦いである。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。.

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船田合戦

船田合戦(ふなだがっせん)は、戦国時代前期に発生した、美濃守護土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光の合戦。近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となった。.

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蘆名盛高

蘆名 盛高(あしな もりたか)は、室町時代から戦国時代の武将。蘆名氏第13代当主。父は12代当主・蘆名盛詮。.

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蘆名盛滋

蘆名 盛滋(あしな もりしげ)は、戦国時代の武将。蘆名氏第14代当主。.

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赤穴氏

赤穴氏(あかなし、あかなうじ)は、日本の氏族のひとつ。漢族系三善朝臣流佐波氏の一族。出雲飯石郡赤穴荘を所領とし、出雲国人として活動した。.

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赤松義村

赤松 義村(あかまつ よしむら)は戦国時代前期(室町時代後期)の播磨の守護大名・戦国大名。赤松家の第10代当主(当主在職:明応4年(1496年)4月 - 永正17年(1520年))。 播磨・備前・美作の3国を支配した戦国大名で、赤松家中興の第9代当主・赤松政則の婿養子に当たる。義村の家系は第5代当主・範資から始まる七条家の家系で、義村は範資の6代孫に当たる。父は七条政資(まさすけ)で、以後の赤松宗家は江戸時代直前に滅亡するまで義村の家系が家督を相続した。 義村は政則の代から行われていた赤松家の戦国大名化をさらに推し進めるべく大名権力の強化を図ったが、守護代の浦上村宗がそれに反発して対立。播磨など赤松領で内紛となる。義村は村宗に敗れ、家督を嫡子の才松丸(のちの晴政)に譲って隠居したが、復権を図って再度村宗と対立したため、村宗により暗殺されて赤松家は没落した。.

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赤松氏

赤松氏(あかまつし)は、日本の氏族の1つ。鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した武家である。.

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関口親永

関口 親永・瀬名 義広(せきぐち ちかなが/せな よしひろ)は、戦国時代の武将。今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。駿河持船城主。妻は今川義元の妹(養妹とも)であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。.

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薬草

草 桂皮 柴胡 薬草(やくそう)、薬用植物(やくようしょくぶつ、medicinal plant)とは、薬用に用いる植物の総称である。そのままであったり、簡単な加工をしたり、有効成分を抽出したりするなどして用いられる。草本類だけでなく木本類も含むため、学問的な場面では、より厳密な表現の「薬用植物」のほうが用いられることが多い。.

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閑吟集

閑吟集(かんぎんしゅう)は日本の小歌の歌謡集。永正15年(1518年)に成立。.

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間宮康俊

間宮 康俊(まみや やすとし、永正15年(1518年) - 天正18年3月29日(1590年5月3日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。豊前守、豊前入道を称す。法名は宗閑。父は間宮信元。子に間宮康次、間宮康信、間宮善十郎、間宮信高、間宮元重の男子と、徳川家康の侍女、足利義氏の家臣・豊前氏盛の室となった二人の娘がいる。 歴代相模玉縄城主の北条綱成・氏繁・氏舜・氏勝に仕えた。1532年から北条氏綱がはじめた鶴岡八幡宮の造営工事に天文5年(1536年)から奉行として参加している。以後、里見氏との関係が悪化してくると伊豆衆の水軍を管理し、江戸湾岸の監視警備も担当した。永禄2年(1559年)の役帳では698貫を知行されている。 天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐では、松田康長が守る山中城へ援軍として赴き、康俊の部隊は一柳直末を討ち取るなど奮戦したものの衆寡敵せず、最期は「白髪首を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して戦死した。享年73。.

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著作権の歴史

このページは著作権の歴史(ちょさくけんのれきし)について述べる。 著作権という概念は、印刷技術の出現とその後の一般大衆の識字率の上昇に伴い、考え出されたものである。著作権を表す英単語 copyright が示す様に、その起源は印刷業者による複製 (copy) の権利 (right) であり、18世紀初頭の英国において、印刷技術の独占権として発生した。英国において、国王は無秩序に本が複写されることを問題視しており、国王の大権 (royal prerogative) により1662年のライセンスに関する法律を成立させた。この法律では、ライセンスを受ける本の登録方法を確立した。そのためには、書籍出版業組合にその複写を預ける必要があった。本のライセンスは永久に永続し、長期にわたる利益を印刷業者に与えた。 最初の著作権法はヴェネツィアにおいて1545年に制定されている。しかし、現代の著作権法に一番影響を与えた最初の著作権法は、1710年、英国において制定されたアン法である。著者に新たな権利を一定期間与え、その期間が経過後、その権利がなくなるというものであった。各国において同様の法律が成立し、国際的には1887年のベルヌ条約が今日でも有効な著作権保護の範囲を定めた条約となっている。 現在の著作権は、作品を創作した作者の著作隣接権や、複製を作るために出資を行った後援者の経済的な権利や、複製を個々に所有する者の財産権や、印刷業者を管理し検閲する支配者の権利などを含む、古くから歴史を通して認められてきた多数の権利により影響されたものである。 技術の発達に伴い、著作権の概念は、初期に定義された、書籍や地図の印刷物を複写する権利から、録音、映画、写真、ソフトウェア、建築作品の様に近代産業に対し重大な影響を与えるものをカバーするようになった。近年では、デジタル化された作品のネットワークでの共有 (P2P) 等、当初の法律制定当時では予想の付かない概念が出てきている。 なお、copyright の語が最初に使用されたのは、オックスフォード英語辞典では1734年となっているが、それ以前に使用されていたかは不明である。.

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肖柏

牡丹花肖柏像 肖柏(しょうはく、嘉吉3年(1443年) - 大永7年4月4日(1527年5月4日))は、室町時代中期の連歌師、歌人。准大臣中院通淳の子。号は、夢庵・牡丹花(ぼたんげ)・弄花軒(ろうかけん)など。.

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蓮恵

蓮恵(れんえ、生没年不詳)は、戦国時代の浄土真宗の僧である。加賀小松本覚寺住持。和田本覚寺住持蓮光の子。子に実恵、下間照賢室。 本覚寺は越前に拠点を持っており(和田本覚寺)、加賀にも勢力を持ち小松に本覚寺を建立、超勝寺と並んで北陸の有力寺院として発展していた。先代蓮光は延暦寺から追われた本願寺第8世法主蓮如を保護、後に蓮如の3人の息子(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が北陸の本願寺代行の役目を担った時も有力寺院の地位は変わらなかった。 だが、永正3年(1506年)、蓮恵は越前の朝倉貞景討伐の一揆を率いて越前に攻め入ったが、朝倉宗滴が率いる朝倉軍に九頭竜川の戦いで敗れて婿の下間照賢が戦死、超勝寺と共に加賀へ亡命、和田本覚寺を失った。しかも永正15年(1518年)、第9世法主実如が門徒に他国への侵攻禁止の布告を発したので越前復帰も不可能になり、蓮恵は朝倉攻めの責任者の蓮悟に抗議をしたが逆に破門されてしまった。西光寺を通して破門は解除されたが不満を募らせて行った。 大永5年(1525年)に実如が没し、孫の証如が第10世法主を継ぐと後見人である蓮淳(蓮如の6男で証如の外祖父)の意を受けた蓮淳の婿で超勝寺住持実顕が代官に任命され、下間頼秀・頼盛兄弟と共に荘園の横領と本願寺代行寺院を無視する態度を取ると、本泉寺蓮悟と松岡寺蓮慶(蓮綱の子)、光教寺顕誓(蓮誓の子)は反発、享禄4年(1531年)に大小一揆が起こった。蓮恵は実顕ら大一揆に与して本泉寺蓮悟ら小一揆と戦い、先手を打って7月に松岡寺を占領、蓮綱・蓮慶・実慶(蓮慶の子)らを捕らえた。蓮綱は10月18日に没し、1ヶ月後の11月18日に蓮慶・実慶も自殺した。この中には下間頼宣・頼康兄弟や従兄弟の下間頼継も含まれており、頼宣兄弟は下間照賢の遺児で蓮恵の孫でもあった。 小一揆に朝倉宗滴・畠山家俊らが加勢、大一揆方は勝利して小一揆方を亡命に追い込み、本願寺の加賀における直接支配が確立、超勝寺と本覚寺は加賀一向一揆の指導者層に立った。天文6年(1537年)の小一揆残党による本覚寺襲撃事件も乗り切り、天文15年(1546年)に尾山御坊が建立されるまで加賀の支配を超勝寺と共に担った。.

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蓮淳

蓮淳(れんじゅん、寛正5年(1464年) - 天文19年8月18日(1550年9月28日)は、室町時代・戦国時代の浄土真宗の僧である。称徳寺(堅田御坊)、願証寺、顕証寺(久宝寺御坊)兼住、恵光寺開基。本願寺第8世法主蓮如の6男で、母は伊勢貞房の娘蓮祐。正室は滋野井教国の娘。子に実淳、実恵、実玄室、実顕室、円如室・慶寿院、実順室。幼名は光徳、諱は兼誉。三位。.

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里見義豊

里見 義豊(さとみ よしとよ、?- 天文3年4月6日(1534年5月18日))は、戦国時代の大名。安房里見氏の第4代当主。里見義通の長男。左馬頭。高巖院殿長義居士。子に小原貞通、里見家宗がいるとされ、家宗は越後里見氏の祖となったという。孫に義宗、中澤忠宗(家宗の子)、曾孫に宗基、中澤忠重(義宗の子)、玄孫に宗助、岡藩士の中澤義虎(宗基の子)がいるという。.

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里見義通

里見 義通(さとみ よしみち、文明13年(1481年)? - ?)は、戦国時代の大名。安房里見氏の第3代当主。弟に実堯、子には義豊がいる。民部大輔。天昭院商山正皓居士。 従来の説では、第2代当主であった成義の嫡男で里見氏第3代当主になったものの、病弱のために永正15年2月1日(1518年3月12日)に38歳で病死したと言われていたが、実際には初代義実(系譜上は祖父)の嫡男であり、その没年は大幅に繰り下げられて、安房一国の戦国大名としての基礎を築いた人物とするのが今日の有力説である。 史料上の初見は永正5年(1508年)であるが、この時には既に安房の大半を掌握しており(『北条五代記』には安西氏に対して下克上を起こして安房を平定したのは義通であるという)、安房国稲村城を本拠とし、弟の実堯に命じて安房北部から上総国南部を攻略させ、正木通綱ら安房・上総の三浦氏一族を服属させた。当初は古河公方足利政氏に仕え、自らを副師と称したが、のちに小弓公方足利義明に従った。永正17年(1520年)には小弓公方足利義明から千葉一族の臼井氏とともに、古河公方派の下総国本佐倉城および下総国関宿城攻略への助力の依頼を受けている。古文書などで確認できる里見氏出身の初代「安房国主」である。 旧来はその没年を永正15年あるいは大永元年(1521年)とされてきたが、大永5年(1525年)ごろまで義通に関する古文書が存在するために実際の死没はそれ以後であり、50歳近くまで健在していた可能性が高い。また、系譜上では父とされている里見成義を架空の人物として、初代・義実の子とする説を採るならば、義通の生年も現存の系譜より以前に遡る可能性が強く、それ以上の高齢であったとも考えられる。更に息子・義豊の里見家当主としての活動が永正年間後半には既に見られるため、それ以前の段階で安房国白浜城に隠居していたとも考えられている。 よしみち Category:戦国大名 Category:安房国の人物 Category:1481年生 Category:16世紀没.

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金胎寺

金胎寺(こんたいじ)は、京都府相楽郡和束町原山にある真言宗醍醐派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶせん、じゅうぶさん)。本尊は弥勒菩薩。開基は役小角(役行者)と伝えるが詳細は不明である。大和(奈良県)の大峯山に対し「北大峯」と称された、山岳信仰の霊地であり、山内には現在も奇岩怪石が連なる行場(ぎょうば)がある。 多宝塔(鎌倉時代後期・重文).

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金林寺

金林寺(こんりんじ)は、高知県安芸郡馬路村にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は月光山。詳名は月光山珠勝院金林寺。通称は馬路薬師堂。開基は空海(弘法大師)と伝える。薬師堂は国の重要文化財。.

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金星の太陽面通過

2004年6月8日の金星の太陽面通過。ドイツのイェーナにて。 地球における金星の太陽面通過(きんせいのたいようめんつうか)は、金星が太陽面を黒い円形のシルエットとして通過していくように見える天文現象である。金星が地球と太陽のちょうど間に入ることで起こる。日面通過や日面経過、太陽面経過とも呼ばれる。記録に残る初の観測は、1639年にエレミア・ホロックスによってなされた。 金星の太陽面通過は非常に稀な現象で、近年では、8年、105.5年、8年、121.5年の間隔で発生する。直近では協定世界時2012年6月5日から6日にかけて起こった。次回は2117年12月10日から11日にかけて起こる。 金星の太陽面通過を観察することで、地球と太陽の間の距離(1天文単位)が算出可能となる。1天文単位の距離を得るために、1761年と1769年の太陽面通過では欧州を中心として国を超えた国際的な観測事業が行われ、世界各地に天文学者が派遣された。この観測プロジェクトは科学における初の国際共同プロジェクトとも評される。.

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長存寺

長存寺(ちょうそんじ)は、愛知県蒲郡市にある法華宗陣門流の寺院。山号は正禱山。本尊は十界曼荼羅。安楽寺、長泉寺、天桂院とともに西郡の四大寺のひとつ。.

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長宗我部兼序

長宗我部 兼序(ちょうそかべ かねつぐ)は、戦国時代の武将。土佐の国人領主。長宗我部雄親の子。.

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長宗我部国親

長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)は、戦国時代の土佐国の大名。長宗我部兼序の嫡男。長宗我部氏復興に尽力し、野の虎と評される。.

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長宗我部氏

長宗我部氏(ちょうそかべし)は、日本の武家の一つ。平安時代末から戦国時代の武家。戦国時代に土佐を統一し四国に進出した戦国大名、長宗我部元親で有名。長曽我部・長曾我部とも記される。 本姓は秦氏を称した。家紋は「七つ酢漿草かたばみ」。室町時代以降、通字に「親」を用いた。 現・当主は長宗我部(ちょうそ'''が'''べ)友親。.

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長井長弘

長井 長弘(ながい ながひろ)は、戦国時代の武将。諱は利道・政利『古代氏族系譜集成』の「斎藤氏系図」、長広、長張「美濃国諸旧記」とも。父は長井秀弘または長井利隆とも。美濃小守護代。通称は藤左衛門尉、弥二郎?。越中守。子に長井景弘、長井道勝?、長井道利?『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子。『美濃国雑事記』の中の「長井系図」では長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。?。美濃関城主。一説には(長井斎藤利安)と同一人物とも。.

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長建寺 (高梁市)

長建寺(ちょうけんじ)は、岡山県高梁市備中町布賀にある寺院。山号は補陀山。岡山県指定重要文化財の木造聖観音菩薩立像(彫刻)と金銅阿弥陀三尊懸仏(工芸品)を所蔵する。.

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長泉寺 (岡山県和気町)

長泉寺(ちょうせんじ)は、岡山県和気郡和気町日笠上にある日蓮宗の寺院。山号は常立山。旧本山は大本山小湊誕生寺(身延門流)、生師法縁。 町内には實成寺、妙應寺、本久寺などがある。.

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長洲荘

長洲荘(ながすのしょう)は、摂津国川辺郡(現在の兵庫県尼崎市付近)にあった荘園。賀茂社の社領になった時期もあることから、長洲御厨(ながすのみくりや)とも。.

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長源院

長源院(ちょうげんいん)は、静岡県静岡市葵区沓谷一丁目、谷津山の北西麓にある、曹洞宗の寺院。山号は大森山(だいしんざん)。大森山長源院は、茨城県笠間市箱田にある国見山鳳台院の末寺である。開山の覚山見知和尚は1523年(大永3年)正月16日に示寂したが、その後、長源院には代々高徳の僧が在住して寺門が栄え、新たな寺を建立して開祖となり、末寺も多く全国二十数ケ寺に及んだ。.

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長浜の戦い

長浜の戦い(ながはまのたたかい)は永禄3年(1560年)5月28日に戦国時代の土佐国に割拠していた長宗我部氏と本山氏の間で行われた合戦。長浜表の戦いとも呼ばれる。長浜の戦いの本戦である戸ノ本での戦いは、長宗我部元親が初陣を飾った戦いとして有名である。.

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英俊

英俊(えいしゅん、永正15年(1518年) - 文禄5年(1596年))は、戦国時代の僧侶。興福寺多聞院主。号は長実房。多聞院英俊と呼ばれることが多い。 永正15年(1518年)、大和の豪族で興福寺大乗院方坊人の十市氏の一族として、父・盛眼、母・某の間に生まれた。享禄元年(1528年)、11歳の時に興福寺妙徳院へ入り、天文2年(1533年)に妙徳院長蓮房英繁を師として得度し、長実房の号を称した。天文3年(1534年)に没した母の忌中に病にかかり、赤童子に救われた夢をみて、一生を修学にささげる決心をした。その後、学問を修めて多聞院主となり、法印権大僧都に昇進。大乗院門主の尋憲の後見となる。 英俊は、発心院祐算のもとで唯識の研鑽を積み、大乗院尋円・尋憲の御同学となり、尋円・尋憲が対立したときには、その関係修復に奔走した。晩年、一乗院尊政からも師匠として尊敬され、英俊のもとにあった書籍が一乗院へゆずられた。 戦国時代の事件や畿内要人の動向・噂などを記録した『多聞院日記』は英俊よりも前の応仁の乱の時代から作成されていたが、英俊もこれを受け継ぎ、天文3年(1534年)から死の直前の文禄5年(1596年)に至るまでの60年間以上もの間を執筆したため、同書の主著者といえる。慶長4年(1599年)の日記の登場人物は英俊時代のものと変わらないので、英俊の弟子が多聞院で書いたことは間違いない。混在する文明期・永正期の日記は、恐らく英俊が借覧筆記したものであろう。同書は戦国時代の時流を知る上での基礎史料となっている。徳川光圀や前田綱紀の修史事業、江戸幕府書物方・下田師古による抜書で世に知られたが、原本は失われた。大乗院記録所による近世中期の写本が明治維新の波をかいくぐり、現在の公刊史料の底本となっている。 文禄5年(1596年)正月、死去。.

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雲水君

雲水君(うんすいくん、ウンスグン、운수군)は、李氏朝鮮中期の宗親(王族)。諱は李孝誠、諡号は襄胡。本貫は全州李氏。徳泉君李厚生の三男。祖父は定宗。母は長川府院君李従茂の娘。 宗親の中では聡明で、特に弓の名手として高名があり、李施愛の乱や中宗反正に加担して靖国二等功臣となっている。.

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李時珍

李時珍、生家にて 李時珍(り じちん、1518年7月3日(正徳13年5月26日) - 1593年(万暦21年))は、字を東璧、号を「瀕湖仙人」といい、中国・明の医師で本草学者。中国本草学の集大成とも呼ぶべき『本草綱目』や、奇経や脈診の解説書である『瀕湖脈学』、『奇経八脈考』を著した。.

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来迎寺 (守口市)

来迎寺(らいこうじ)は、大阪府守口市佐太中町にある浄土宗の寺院。山号は紫雲山。.

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東坊城和長

東坊城 和長(ひがしぼうじょう かずなが、寛正元年(1460年)-享禄2年12月20日(1530年1月19日)は、室町時代・戦国時代の公卿。東坊城家。東坊城長清の長子。子に東坊城長淳など。日記に『和長卿記』、著書に『内局柱礎鈔』・『桂林遺芳抄』・『元号字抄』・『明応凶事記』・『永正九年若宮御元服記』など。.

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松平張忠

松平 張忠(まつだいら はるただ、生没年不詳)は、戦国時代の西三河地方の武将。国人領主松平氏の庶流矢田松平家の初代当主。松平宗家第4代(安城松平家初代)親忠の子。通称は右京亮、助十郎。.

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森好之

森 好之(もり よしゆき、1518年(永正16年) - 1581年(天正9年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。筒井氏の家臣。志摩守。妻は筒井順昭の妹。嫡子に森好高。 島清興(左近)の島氏、松倉重信(右近)の松倉氏と並んで「筒井の三家老」と称された。 家老として大和国森本に7千石余を領したと記録に残る。順慶が大和守護となり、安定期を迎えていた天正9年(1581年)筒井城にて死去したという。.

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横須賀市

横須賀市(よこすかし)は神奈川県南東部の三浦半島に位置する都市である。中核市に指定されている。.

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正徳 (明)

正徳(せいとく)は中国、明代の元号(1506年 - 1521年)。第11代皇帝武宗の在位中に使われた。このため武宗は正徳帝と呼ばれる。.

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正親町三条公兄

正親町三条 公兄(おおぎまちさんじょう きんえ、明応3年(1494年) - 天正6年1月20日(1578年2月26日))は、室町時代後期(戦国時代)の公卿。後土御門天皇(103代)から正親町天皇(106代)の四帝にわたり仕えた廷臣で、官位は正二位内大臣まで進んだ。 父は内大臣正親町三条実望。母は今川義忠女。子息に侍従正親町三条実兄、権中納言正親町三条実福、左近衛中将三条実教、松陰居士(四条隆憲・櫛笥隆致の父)がいる。娘に三条西実枝室がいる。 生後すぐに叙爵。以降、侍従・右近衛少将・右近衛中将・蔵人頭を経て、永正15年(1518年)には参議となり、公卿に列する。その後、備前権守・左近衛中将を歴任したが、経済的に困窮し、天文9年(1540年)より今川氏との縁を頼って駿河国に下った。天文13年(1544年)に一度帰京して朝廷へ出仕。参議に叙せられ、公卿に列した。ついで権中納言となり、天文15年(1546年)には権大納言となったが、天文16年(1547年)には再び甲斐国へ下向してしまった。のちふたたび帰京し、天文21年(1552年)には大宰権帥に任じられ、さらに天文23年(1554年)には内大臣を務めた。たびたび地方に下向して朝廷への奉仕を放棄しながら、正親町三条家の極官にまで官位昇進を遂げたことは、当時の朝廷の人事管理や廷臣統制がいかにいいかげんになものであったかを物語る。.

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正木通綱

正木 通綱(まさき みちつな)は、戦国時代の武将。里見氏の家臣。正木時茂・時忠の父。別名は時綱(ときつな)。通称は弥次郎、大膳亮。安房国山之城(現在の千葉県鴨川市)城主(異説あり)。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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歌いもの

伊予切 『和漢朗詠集』 歌いもの(うたいもの)または謡物(うたいもの)とは、日本の伝統音楽(邦楽)における一ジャンルで、.

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水野氏

水野氏(みずのし)は、清和源氏を称する日本の氏族。戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び最盛期には24万石と称される勢力となった。 宗家のほか、大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏があった。宗家は徳川家康の母・伝通院の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇された。『柳営秘鑑』では、岡崎譜代とされる。近世大名家を輩出した一族の一つであり、また江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続け、享保の改革や天保の改革に関与するなど、国政を握った。 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏であった。その他、寛文7年(1667年)に改易となった上野安中藩の藩主や紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族であった。.

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水晶城 (安芸国)

水晶城(すいしがじょう)は、安芸国佐西郡(佐伯郡)石内(現在の広島市佐伯区石内)にあった日本の城。 この城の呼称である水晶城は、後にこの城地周辺から水晶が産出されたために名づけられたとされ、文献では石道本城もしくは石道新城の呼称があったことが窺える。呼称については、広島県埋蔵文化財調査センター「山陽自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告」(1986年)で、本城、新城ともに水晶城を指し示すと判断したが、広島市歴史科学教育事業団の「有井城跡発掘調査報告」(1993年)では、石道本城を有井城とし、石道新城が現在の水晶城と結論付けている。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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永正の錯乱

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。.

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泉奘

象耳 泉奘(しょうじ せんじょう、永正15年(1518年) - 天正16年5月18日(1588年6月11日))は、日本の律宗の僧侶。 今川氏の出身とされ、今川氏親の4男とされる。今川義元の次男とする説もあるが各人の生年とは矛盾する。 幼少時から僧侶となり、後に、泉涌寺の長老となる。その後、唐招提寺の長老にもなる。 また、筒井氏の菩提寺である伝香寺の中興開山にもなった。.

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洞雲寺 (仙台市)

洞雲寺(どううんじ)は、宮城県仙台市泉区にある曹洞宗の寺院。山号は龍門山。本尊は釈迦如来。砂山寺とも称される。.

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朝倉孝景 (10代当主)

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)は、戦国時代の越前国の大名。朝倉氏10代目当主。朝倉貞景の子。朝倉義景の父。母親は美濃守護代格・斎藤利国の娘。妹は美濃守護・土岐頼武に嫁ぎ、嫡男・土岐頼純を産んだ。曾祖父(7代)孝景にあやかって、自身も「孝景」と名乗った。今日においては区別するため便宜上、法名から「宗淳孝景」(大岫孝景)と呼んで区別する。.

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朝比奈泰以

朝比奈 泰以(あさひな やすもち)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。今川氏の家臣。.

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本福寺 (大津市)

本福寺(ほんぷくじ)は、滋賀県大津市本堅田一丁目22番30号に所在する浄土真宗本願寺派の寺院。山号は夕陽山(せきようさん)。.

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本草綱目

本草綱目(ほんぞうこうもく)は、中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作である。作者は明朝の李時珍(1518年 - 1593年)で、1578年(万暦6年)に完成、1596年(万暦23年)に南京で上梓された。日本でも最初の出版の数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼした。中国では何度も版を重ねたが、日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版され、それら和刻本は3系統14種類に及ぶ。 慶長12年(1607年)、林羅山が長崎で本草綱目を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上している。これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となる。 2011年、ユネスコが主催する世界記録遺産にも登録された。.

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本蓮寺 (宮崎県新富町)

本蓮寺(ほんれんじ)は、宮崎県児湯郡新富町新田に所在する日蓮正宗の寺院。山号は図子山(ずしさん)。開山は妙本寺(千葉県鋸南町)11世日要。元は郷門寺院。.

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朽網親満

朽網 親満(くたみ ちかみつ)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。.

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朽木晴綱

朽木 晴綱(くつき はるつな、永正15年(1518年) - 天文19年(1550年))は戦国時代の武将。朽木稙綱の子。室は飛鳥井雅綱の娘。子に朽木元綱。近江朽木谷城城主。.

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望月信雅

望月 信雅(もちづき のぶまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国望月城主。 滋野氏の後裔望月氏の庶流。望月氏宗家の望月昌頼に仕え、天文12年(1543年)に長窪城主・大井貞隆と共に武田晴信(信玄)の侵攻に抵抗するが望月城が落城すると、弟の新六らと共に布引城へ逃れる。以降も甲斐武田氏への抵抗を続けるが、天文17年(1548年)真田幸隆の仲介を得て武田氏に降伏し、望月氏惣領を継承する。武田氏に臣従後、武田晴信の偏諱を受け信雅と名乗った。 武田信繁の子・義勝を養子とするが、永禄4年(1561年)に信頼(義勝)が急逝すると、その実弟信永を養子として家督を譲り出家した。天正3年(1575年)長篠の戦いで信永が戦死すると復帰し、その実兄・武田信豊と共に望月領を治めた。 天正10年(1582年)の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、続く天正壬午の乱では後北条氏に仕えるが、間もなく依田信蕃の斡旋で徳川家康に仕える。織田・徳川の連合軍が信州を平定した後、同10年10月24日には家臣村田但馬守に知行を与えている。 天正12年(1584年)5月18日、村田但馬守に大日向の地を与え、7月12日には、原宮に一貫五百文の地を寄進している。その後、家禄800貫を依田氏に託し、弟新六らと共に駿河国庵原郡の山中に遁世した。 永禄元年(1558年)には佐久郡の布引観音(小諸市)を再興させた。.

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戊寅

戊寅(つちのえとら、ぼいん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの15番目で、前は丁丑、次は己卯である。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の寅は陽の木で、相剋(木剋土)である。.

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明宗 (僧)

明宗(みょうそう、文明元年(1469年) - 天文9年6月6日(1540年7月19日))は、戦国時代の浄土真宗の僧である。近江堅田本福寺第5世住持。本福寺第4世住持明顕の養子で、実父は伊予守護大名家河野氏出身の河野宣高。子に明誓。.

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明眼院

明眼院(みょうげんいん)は、愛知県海部郡大治町にある天台宗の寺院である。日本最古の眼科専門の医療施設として知られる。なお、現在医療行為は行っていない。.

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明朝の藩王一覧 (熙祖、仁祖系)

明朝の藩王一覧 (熙祖、仁祖系) では、明代の藩王のうち、朱元璋(洪武帝)の祖父・朱初一(熙祖)を祖とする藩王、および朱元璋の父・朱世珍(仁祖)を祖とする藩王を一覧で挙げる。.

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浄永寺

浄永寺(じょうえいじ)は、神奈川県小田原市城山にある日蓮宗の寺院。山号は光秀山、開山は日行。旧本山は身延久遠寺、通師堀之内法縁。.

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斎藤彦四郎

斎藤 彦四郎(さいとう ひこしろう、生没年不詳)は、戦国時代の武将。美濃守護代。斎藤氏持是院家2代目の斎藤妙純の3男。利親、又四郎の弟、姉妹に朝倉貞景室、京極高清室らがいる。 次兄の又四郎が明応8年(1499年)に没すると、持是院家5代目当主となる。永正3年(1506年)に11代将軍足利義澄から出された御内書の宛先も「斎藤彦四郎とのへ」であり、美濃守護代になっていることがわかる。 永正9年(1512年)、守護土岐政房と対立し一旦尾張へ逃れ、織田氏の援助を得て再び美濃に戻り、墨俣城に籠城した。しかし、土岐政房と甥の大黒丸(又四郎の遺児)の軍勢に敗れ、8月23、24日頃に再度尾張へ亡命した。 永正14年(1517年)、美濃では政房の後継をめぐって対立が起こり、12月27日には遂に合戦となった。彦四郎の甥の斎藤利良(長兄利親の遺児)は嫡男頼武を、政房と小守護代長井長弘は次男頼芸を推して戦ったが、この時は頼武派が勝利した。この合戦後、彦四郎は頼芸派と密かに連絡を取り、永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起きた。その結果、勝利した彦四郎は美濃に再び入国し、頼武は斎藤利良と共に越前の朝倉氏の元へ亡命した。 永正16年(1519年)6月16日に政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景(宗淳)は弟である朝倉景高に美濃出陣を命じ、景高は頼武・利良と共に3000の兵で美濃に侵攻、連戦連勝して頼武の守護就任を実現させた。この頃、彦四郎は失脚、または戦死したと思われる。.

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斎藤利良

斎藤 利良(さいとう としなが、生年不詳 - 天文7年9月1日(1538年9月23日))は、戦国時代の武将。美濃守護代。美濃斎藤氏持是院家6代目当主。持是院家3代目当主斎藤利親の嫡男で斎藤妙純の孫。兄弟に花村外記利房。幼名は勝千代、新四郎と称す。大和守。法名は権大僧都法印岱宗妙全、持是院妙全。 父と祖父が明応5年(1497年)12月に近江で戦死した時は幼少の為、2人の叔父又四郎、彦四郎が持是院家の当主を継いだ。 美濃守護土岐政房に仕えたが、その後継をめぐり意見が対立した。利良は政房の嫡男頼武を推し、政房と小守護代長井長弘は次男頼芸を推した。それぞれ派閥を組み、永正14年(1517年)12月27日には遂に合戦となる。この合戦は利良(頼武派)の勝利に終わり、頼芸派は永正9年(1512年)に尾張へ亡命した前守護代彦四郎と連絡を取り合い、逆襲の機会を狙った。 永正15年(1518年)8月10日、再び合戦が起こり今度は頼芸派の勝利となった。彦四郎は美濃に再入国し、逆に頼武と利良は、利良の従兄である越前の朝倉孝景(宗淳)を頼って亡命した。頼芸派は室町幕府に御内書を出してもらい、頼武を上洛させるよう朝倉氏に迫ったが、朝倉孝景はこれを無視した。この間も美濃国内で頼武派と頼芸派の合戦が続いている。 永正16年(1519年)6月16日に土岐政房が没し、美濃守護職が空位となると、朝倉孝景は弟の景高に美濃出陣を命令、景高は兵3000を率いて頼武、利良と共に美濃に侵攻、連戦連勝し、頼武は美濃守護となることができた。彦四郎は失脚か戦死したと見られる。 頼武政権下で利良は守護代として力を揮うが、永正18年(1521年)には目立った活動は見られなくなり、天文7年(1538年)9月1日に死去して、利親の弟斎藤利茂(斎藤利為の子とも)が新守護代として登場する。 殺害されたとされる。その後持是院家は近衛稙家の庶子とされる多幸丸が斎藤道三の養子となり、斎藤正義と名乗って持是院家の名跡を継いだと思われる。.

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日笠頼房

日笠 頼房(ひかさ よりふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浦上氏の家臣。備前国日笠青山城主。.

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日野内光

日野 内光(ひの うちみつ、延徳1年(1489年)- 大永7年2月13日(1527年3月15日))は戦国時代の公家・公卿。.

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日野晴光

日野 晴光(ひの はるみつ、永正15年1月1日(1518年2月10日) - 天文24年9月18日(1555年10月3日))は戦国時代の公家。父は徳大寺実淳の次男・日野内光。子に日野晴資(はるすけ)、養子に日野輝資がいる。法名は照岳。正二位、権大納言。.

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日院 (大石寺)

日院(にちいん、永正15年(1518年) - 天正17年7月6日(1589年8月16日))は、日蓮正宗総本山大石寺第13世法主。.

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日根野弘就

日根野 弘就(ひねの ひろなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃本田城主。.

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曲淵吉景

曲淵 吉景(まがりぶち よしかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏、徳川氏の家臣。.

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景徐周麟

景徐周麟(けいじょしゅうりん、永享12年(1440年)- 永正15年3月2日(1518年4月11日))は、室町時代後期の臨済宗の僧。父は大舘持房、母は赤松則友の娘。諱は周麟。道号は景徐。別に宜竹・半隠・対松。 幼い時に京都相国寺の用堂中材に師事して出家し、長じてその法を継いだ。応仁の乱の際には難を避けて近江永源寺に身を寄せていた時期もある。長享元年(1487年)に等持寺に住み、延徳2年(1490年)に遣明使の正使の命を受けたがこれを辞退している。明応4年(1495年)、相国寺に住し、翌5年(1496年)に3代将軍足利義満の檀那塔である鹿苑院に移り、永正5年(1508年)には相国寺に戻った。晩年は相国寺内に慈照院を建てて退隠した。 Category:大舘氏 Category:日本の禅僧 (臨済宗) Category:室町・安土桃山時代の僧 Category:1440年生 Category:1518年没.

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10月10日

10月10日(じゅうがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から283日目(閏年では284日目)にあたり、年末まであと82日ある。.

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11月17日

11月17日(じゅういちがつじゅうななにち、じゅういちがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から321日目(閏年では322日目)にあたり、年末まであと44日ある。 毎年この日ごろしし座流星群が観測できる。.

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11月20日

11月20日(じゅういちがつはつか、じゅういちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から324日目(閏年では325日目)にあたり、年末まであと41日ある。.

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11月24日

11月24日(じゅういちがつにじゅうよっか、じゅういちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から328日目(閏年では329日目)にあたり年末まであと37日ある。.

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1440年

記載なし。

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1442年

記載なし。

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1445年

記載なし。

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1448年

記載なし。

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1456年

記載なし。

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1460年

記載なし。

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1468年

記載なし。

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1469年

記載なし。

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1470年

記載なし。

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1486年

記載なし。

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1488年

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1492年

記載なし。

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1498年

記載なし。

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1573年

記載なし。

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1594年

記載なし。

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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2月12日

2月12日(にがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。.

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3月25日

3月25日(さんがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から84日目(閏年では85日目)にあたり、年末まであと281日ある。.

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5月30日

5月30日(ごがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から150日目(閏年では151日目)にあたり、年末まではあと215日ある。誕生花はオリーブ。.

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5月31日

5月31日(ごがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から151日目(閏年では152日目)にあたり、年末まであと214日ある。5月の最終日である。誕生花はルピナス。.

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6月21日

6月21日(ろくがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から172日目(閏年では173日目)にあたり、年末まであと193日ある。誕生花はツキミソウ、マツヨイグサ、サツキ、ウマゴヤシなどがある。.

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8月16日

8月16日(はちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から228日目(閏年では229日目)にあたり、年末まであと137日ある。.

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9月29日

9月29日(くがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から272日目(閏年では273日目)にあたり、年末まであと93日ある。.

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9月6日 (旧暦)

旧暦9月6日(きゅうれきくがつむいか)は旧暦9月の6日目である。六曜は友引である。.

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