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浦添ようどれと浦添朝満

ショートカット: 違い類似点ジャカード類似性係数参考文献

浦添ようどれと浦添朝満の違い

浦添ようどれ vs. 浦添朝満

浦添ようどれ 浦添ようどれ(うらそえようどれ、ウラシーユードゥリ)は、沖縄県浦添市にある琉球王国の陵墓。西室(英祖王陵)と東室(尚寧王陵)の二つの墓室を中心に墓庭、門、石牆(石垣囲い)からなる。国の史跡・浦添城跡の一部。英祖が1261年に築き、尚寧王が1620年に修築したと伝えられる。. 浦添 朝満(うらそえ ちょうまん、弘治7年(1494年) - 嘉靖19年11月11日(1540年12月19日))は琉球王国第二尚氏王統・第3代尚真王の長男。向氏小禄御殿の元祖。唐名は尚維衡、童名は思徳金。 本来は父王尚真の世子であったが、二度にわたり廃嫡され、結局王位を継ぐことはなく、尚真王が亡くなると弟の尚清が践祚し、第二尚氏王統4代王となった。 この廃嫡の理由については、最初は尚真の母:おぎやかの思惑による(後述)もの、二度目は尚真夫人である思戸金按司(華后)の計略によりそうなったとされる。いずれにしても王位継承を巡っての骨肉の争いがあり、朝満はその戦いに敗れたということであろう。 なお、死後は浦添ようどれに一旦葬られるが、のちに弟の尚清王によって王家の陵墓、玉陵へ移葬された。.

浦添ようどれと浦添朝満間の類似点

浦添ようどれと浦添朝満は(ユニオンペディアに)共通で6ものを持っています: 尚寧王尚懿小禄御殿玉陵琉球王国浦添朝喬

尚寧王

尚寧王(しょうねいおう、1564年(嘉靖43年) - 1620年10月14日(万暦48年/泰昌元年9月19日))は琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王(在位1589年 - 1620年)。.

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尚懿

尚 懿(しょう い、生年不詳 - 万暦12年3月23日(1584年5月3日))は琉球王国第二尚氏王統の人。祖父:尚維衡・浦添王子朝満を元祖とする向氏小禄御殿の三世。童名を思太郎金といい、尚弘業・浦添王子朝喬の長男。王子位であり与那城王子朝賢を称するが、長男:尚寧が琉球王朝第二尚氏王統7代王となったため、王の父たるをもって康熙38年2月7日(1699年3月8日)に王号を追贈された。 生年不詳であるが、弟:向秉義・豊見城按司朝重の生年が嘉靖25年(1546年)であるため、それ以前の誕生であることはわかる。 祖父は3代尚真の世子であったが、廃嫡され浦添の地に隠遁していた。その子(つまり尚懿の父)も同じように隠遁生活を送ったのか、史書にはなんらその足跡を残していない。尚懿自身も祖父や父と同じだったのか、史書に登場することは皆無である。 墓所は浦添市仲間の浦添ようどれ。.

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小禄御殿

小禄御殿(おろくうどぅん)は、尚真王の長男・尚維衡、浦添王子朝満を元祖とする琉球王族。第二尚氏の分家。琉球王国末期に小禄間切(現・那覇市小禄)の按司地頭を務めた琉球王国の大名。 1世朝満は王世子であったが、異母の讒言により廃嫡された。本来は第二尚氏の嫡流であるが、分家の地位を余儀なくされた悲劇の家柄である。しかし、その後小禄御殿とその門中からは、国王(尚寧王)1人、摂政4人、三司官14人を輩出するなどして、琉球屈指の名門として活躍した。.

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玉陵

玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。.

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琉球王国

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。 最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。 勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。 外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。.

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浦添朝喬

浦添 朝喬(うらそえ ちょうきょう、正徳7年(1512年) - 万暦4年4月20日(1576年5月28日))は琉球王国第二尚氏王統の人。向氏小禄御殿の二世で唐名は尚弘業、童名を松金といい、尚維衡・浦添王子朝満の長男。 父:尚維衡・浦添王子朝満は、第二尚氏王統3代王尚真の世子であったが廃嫡され、王位を継がなかった。朝喬はその父のあとを継ぎ浦添間切の按司地頭となるが、父と同じく隠遁生活を送っていたのか、さしたる功績も残さず没している。.

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浦添ようどれと浦添朝満の間の比較

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参考文献

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