目次
647 関係: 加世田市、加賀、加治木町、原口清、厩務員、垂水市、博文館、千葉県、南部信順、南部利剛、南関東、南洲翁遺訓、吹上町 (鹿児島県)、吉川弘文館、坂時秀、堺事件、堅田少輔、士族反乱、多度津藩、大垣藩、大坂城、大多喜城、大多喜藩、大山巌、大山綱良、大給恒、大隅町、大館城、大鳥圭介、大阪、大関増勤、大村純熈、大村益次郎、大村藩、大槻磐渓、大河ドラマ、大河内正質、大政奉還、天保暦、天皇、天童藩、天草市、太平洋戦争、太政官 (明治時代)、夜、外城制、奥女中、奥羽、奥羽鎮撫総督府、奥羽越列藩同盟、... インデックスを展開 (597 もっと) »
- 1868年の日本
- 1869年の日本
- アジアの内戦
- 日本の戦争
加世田市
加世田市(かせだし)は、鹿児島県の薩摩半島西岸にあった市。2005年11月7日、川辺郡大浦町・笠沙町・坊津町、日置郡金峰町と合併し、南さつま市となり消滅した。 太平洋戦争末期には、最後の特攻隊の出撃地、万世飛行場が吹上浜にあった。
見る 戊辰戦争と加世田市
加賀
加賀(かが、かか)。
見る 戊辰戦争と加賀
加治木町
加治木町(かじきちょう)は、鹿児島県の中部にあった町である。姶良郡に属していた。 2010年(平成22年)3月23日付けで同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。
見る 戊辰戦争と加治木町
原口清
原口 清(はらぐち きよし、1922年2月17日 - 2016年11月14日)は、日本の歴史学者。専門は日本近代史。名城大学名誉教授。静岡県榛原郡地頭方村新庄(現牧之原市)出身。
見る 戊辰戦争と原口清
厩務員
厩務員(きゅうむいん)とは、広くは馬の世話をする人のこと。特に競馬においては厩舎に所属し、調教師の指示のもとで担当する競走馬の身の回りの世話を行う者をいう。
見る 戊辰戦争と厩務員
垂水市
垂水市(たるみずし)は、鹿児島県(離島以外の地域)の中部、大隅半島の北西部に位置する市。
見る 戊辰戦争と垂水市
博文館
博文館(はくぶんかん)は、東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊すると共に、取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、日本最大の出版社として隆盛を誇った。 2016年現在、博文館グループの株式会社博文館新社(はくぶんかんしんしゃ)および株式会社博友社(はくゆうしゃ)として存続している。
見る 戊辰戦争と博文館
千葉県
千葉県(ちばけん)は、日本の関東地方に位置する県。県庁所在地は千葉市。 首都圏を構成し、都道府県人口・人口密度は第6位、県の財政力指数は全国第5位、面積は第28位、県内総生産は7位の規模である。
見る 戊辰戦争と千葉県
南部信順
南部 信順(なんぶ のぶゆき)は、江戸時代後期の大名。陸奥国八戸藩の第9代(最後)の藩主。官位は従四位下・侍従、遠江守。
見る 戊辰戦争と南部信順
南部利剛
南部 利剛(なんぶ としひさ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国盛岡藩の第14代藩主。官位は従四位下・美濃守、侍従。
見る 戊辰戦争と南部利剛
南関東
南関東(みなみかんとう)とは、関東地方の南部または中南部地域を指す一般名称である。東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の1都3県を指す場合が多い。同じく主に関東地方北部の茨城県、栃木県、群馬県を指す呼称として北関東がある。
見る 戊辰戦争と南関東
南洲翁遺訓
『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)は西郷隆盛の遺訓集である。遺訓は41条、追加の2条、その他の問答と補遺から成る。「西郷南洲翁遺訓」、「西郷南洲遺訓」、「大西郷遺訓」などとも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と南洲翁遺訓
吹上町 (鹿児島県)
吹上町(ふきあげちょう)は、鹿児島県の西部、薩摩半島の中北部に位置した町。 2005年5月1日に、伊集院町・東市来町・日吉町と合併し、日置市となった。
吉川弘文館
株式会社吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は、日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。
見る 戊辰戦争と吉川弘文館
坂時秀
坂 時秀(さか ときひで)は、江戸時代後期(幕末)の仙台藩の重臣。通称は英力(えいりき)。家格は一族。近習、申次兼祭祀奉行、小姓頭、奉行と進む。
見る 戊辰戦争と坂時秀
堺事件
堺事件(さかいじけん、)は、慶応4年2月15日(太陽暦1868年3月8日)に和泉国堺の堺港で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)、摂津国堺の妙国寺において処刑が行われたため、妙国寺事件(みょうこくじじけん)とも呼ばれる。 慶応4年に近畿で起こった外国人殺傷事件は三度ある(神戸事件、堺事件、パークス英公使襲撃事件)が、外国側・日本側ともに最も多くの犠牲者を出した。
見る 戊辰戦争と堺事件
堅田少輔
堅田 少輔(かただ しょうすけ、嘉永3年10月26日(1850年11月29日『明治維新人名辞典』272頁。)- 大正8年(1919年)11月29日『増補 近世防長人名辞典 第2刷』93頁。『山口県百科事典』161頁。『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』174-175頁。)は、幕末の長州藩士、明治から大正初期の教育者、政治家。長州藩家老、衆議院議員、山口県都濃郡湯野村長。旧姓・高洲。諱・信義、親正。通称・健助、大和、少輔。
見る 戊辰戦争と堅田少輔
士族反乱
士族反乱(しぞくはんらん)は、日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。
見る 戊辰戦争と士族反乱
多度津藩
多度津藩(たどつはん)は丸亀藩の支藩である。多度津周辺(香川県仲多度郡多度津町)で1万石を領し、多度津に陣屋を構えた(前半は丸亀城内に居館を置いた)。
見る 戊辰戦争と多度津藩
大垣藩
大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(今の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田家が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。
見る 戊辰戦争と大垣藩
大坂城
大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、現在の大阪府大阪市中央区大阪城(上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった、安土桃山時代に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。 「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おおさかじょうこうえん)として整備されている。1931年に復興された天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。
見る 戊辰戦争と大坂城
大多喜城
大多喜城(おおたきじょう)は、千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代にかけての日本の城(平山城)。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。
見る 戊辰戦争と大多喜城
大多喜藩
大多喜藩(おおたきはん)は、上総国(現在の千葉県)夷隅郡に存在した藩。藩庁を大多喜城(跡地:大多喜町大多喜四八一)に置いた。
見る 戊辰戦争と大多喜藩
大山巌
大山 巌(おおやま いわお、、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。
見る 戊辰戦争と大山巌
大山綱良
大山 綱良(おおやま つなよし、文政8年11月6日(1825年12月15日) - 明治10年(1877年)9月30日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。初代鹿児島県令を務めたが、西南戦争時に西郷隆盛方を援助したため逮捕され、戦後処刑された。
見る 戊辰戦争と大山綱良
大給恒
大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、江戸時代後期の大名。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。三河国奥殿藩8代藩主、のちに信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代。江戸幕府の老中格、老中、若年寄。明治維新後は伯爵となる。日本赤十字社の創設者の一人。
見る 戊辰戦争と大給恒
大隅町
大隅町(おおすみちょう)は鹿児島県東部、曽於郡に属していた町。現在の曽於市南部、菱田川中流の左岸から西の一帯にあたる。
見る 戊辰戦争と大隅町
大館城
大館城(おおだてじょう)は、秋田県大館市にあった日本の城。桂城(かつらじょう)とも呼ばれる。城跡は桂城公園(けいじょうこうえん)として整備されている。
見る 戊辰戦争と大館城
大鳥圭介
大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、江戸時代後期の幕臣(幕府伝習隊長、歩兵奉行)、医師、蘭学者、軍事学者、工学者、思想家、発明家。明治時代の教育者(工部美術学校校長、工部大学校校長、学習院第3代院長、華族女学校校長)、政治家、外交官、官吏。位階勲等は正二位勲一等男爵。 別名、大鳥純彰。号は如楓(じょふう)。家紋は鶴の丸。
見る 戊辰戦争と大鳥圭介
大阪
大阪(おおさか、Osaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名、都市。 律令国では摂津国の範囲であり、近畿の経済・文化の中心地。 かつては大坂と表記し、古墳時代から江戸時代以降の長きにわたり、日本経済と文化の中心地であった。そのため、京都と共に上方と呼ばれ、古都・副都・水都としての歴史も持つ。 現在の「大阪」は、近畿地方に位置する包括的地方公共団体・大阪府や、その府庁所在地であり西日本最大の都市・大阪市を指し、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏〈阪神都市圏〉、京阪神大都市圏、近畿圏など)を漠然と総称することにも使われる。
見る 戊辰戦争と大阪
大関増勤
大関 増勤(おおぜき ますとし)は、江戸時代末期の大名。下野国黒羽藩16代(最後)の藩主。明治維新後は子爵。
見る 戊辰戦争と大関増勤
大村純熈
大村 純熈(おおむら すみひろ)は、肥前国大村藩の第12代(最後)の藩主。
見る 戊辰戦争と大村純熈
大村益次郎
靖国神社参道の中央にある大村益次郎像 大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉 - 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉)は、幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。 戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。
見る 戊辰戦争と大村益次郎
大村藩
大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。中世以来の領主で、戦国期には戦国大名化した大村氏が、豊臣政権下で大名としての地位を安堵され、近世大名に移行したものである。大村藩は幕末・廃藩置県まで存続した。
見る 戊辰戦争と大村藩
大槻磐渓
大槻 磐渓(おおつき ばんけい、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年)6月13日)は、日本の幕末から明治初頭にかけて活躍した仙台藩士、儒者、漢学者。文章家としても名高い。名は清崇。 仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。 父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭の大槻平泉がいる。
見る 戊辰戦争と大槻磐渓
大河ドラマ
『大河ドラマ』(たいがドラマ)または『NHK大河ドラマ』は、1963年度から放送されているNHKによる歴史ドラマシリーズの総称。略称は大河。 日本史上実在した人物の生涯を描いた作品や群像劇が多いが、ドラマオリジナルの架空の人物を通して時代そのものを描き出す作品もある。 1984年から1986年にかけて放送された新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。
見る 戊辰戦争と大河ドラマ
大河内正質
松平 正質(まつだいら まさただ)または大河内 正質(おおこうち まさただ、弘化元年4月11日(1844年5月27日) - 明治34年(1901年)6月2日(グレゴリオ暦))は、幕末の上総国大多喜藩の第9代(最後)の藩主。奏者番・若年寄・老中格。大河内松平宗家11代。
見る 戊辰戦争と大河内正質
大政奉還
大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に日本の二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。
見る 戊辰戦争と大政奉還
天保暦
天保暦(てんぽうれき)は、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である。過去に中国に同名の「天保暦」が存在するため、「天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)」と呼ぶこともある。太陰太陽暦は、日本において改暦を繰り返しながら何度か採用されたが、天保暦はそれらの中で最後に使用された暦法である。 明治改暦により新暦のグレゴリオ暦に改暦され、天保暦は旧暦となった。その後現在まで日本では改暦が無いことから、「旧暦」で狭義には天保暦を指すことがあるなお明治維新の際、陰陽頭・土御門晴雄が太陽暦導入に反対して太陰太陽暦に基づく改暦を企図したが、晴雄の急逝により計画が中止されたため、天保暦に代わる太陰太陽暦への改暦は実施されなかった。
見る 戊辰戦争と天保暦
天皇
天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。
見る 戊辰戦争と天皇
天童藩
天童藩(てんどうはん)は、羽前国(旧出羽国)高畠藩から移転した織田家が同国天童周辺(現在の山形県天童市)を支配した藩。藩庁は天童陣屋。
見る 戊辰戦争と天童藩
天草市
牛深ハイヤ大橋と旧牛深市中心部 天草市(あまくさし)は、熊本県の天草地方にある市。熊本県では熊本市・八代市に次ぎ3番目に人口が多く、全国の離島自治体の中では最も人口が多い。
見る 戊辰戦争と天草市
太平洋戦争
太平洋戦争(たいへいようせんそう、Pacific War)は、1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで行われた戦争であり、第二次世界大戦の局面の一つである。 日本などの枢軸国とアメリカ、イギリス、中国などの連合国の間で行われた戦争であった。1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃とマレー作戦によって始まったが、実際には以前から日中戦争(支那事変)が続いており、その継続としての側面もある。1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言の無条件受諾による降伏を連合国に通告、翌8月15日の玉音放送で日本国民に終戦が伝えられた。同年9月2日、日本政府が降伏文書に署名し、戦争は正式に終結した。なお、これ以降もソ連軍の侵攻などにより戦闘状態は一部で継続した。
見る 戊辰戦争と太平洋戦争
太政官 (明治時代)
太政官(だじょうかん)とは、明治維新が開始された慶応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された最高行政機関である。立法・行政・司法の機能を備えていた。職名は律令制の名称がそのまま使われていたが、その組織に関しては幾度か改革がされた。明治18年(1885年)に内閣制度の発足に伴い、廃止された。
夜
夜(よる)または夜間(やかん)は、日没から日の出までの時間のことである。太陽が地平線や水平線の向こう側にある時間帯である。宵(よい)ともいう。反対に日の出から次の日没までの間の時間は昼・昼間という。 十二時辰では酉・戌・亥・子・丑・寅(午後5時から午前5時)が夜枠となる。
見る 戊辰戦争と夜
外城制
入来麓(現薩摩川内市入来町) 外城制(とじょうせい)とは薩摩藩(鹿児島藩)が行った地方支配の制度薩摩藩による琉球王国支配体系はこれと異なる。支藩である日向国宮崎郡佐土原藩の外城制は、農山漁村主要部や交通の要衝に設置された仮屋を中心としていた。隣藩の人吉藩でも同様の制度が導入されていた。詳細は「人吉藩の略史」参照。。1784年(天明4年)、この呼称を郷と改めた郷の表記は「○○郷」でほぼ統一されているが、外城の表記は文献により様々である。「○○外城」の例(『肝付町の文化財』2007年)もあれば「外城○○」(『宮崎県史 通史編 近世 下』2000年)の例もある。。
見る 戊辰戦争と外城制
奥女中
奥女中(おくじょちゅう)は、主に江戸時代の藩邸奥や、江戸城大奥に仕えた女中のことを指す。御殿女中(ごてんじょちゅう)とも。 御守殿に仕えた女中は、御守殿女中ともよばれた。
見る 戊辰戦争と奥女中
奥羽
奥羽(おうう)は、日本の令制国の陸'''奥'''国(奥州)と出'''羽'''国(羽州)を合わせた地域である。奥羽地方、奥州とも呼ばれる。基本的に、現在の東北地方と一致する。 1869年1月19日(明治元年12月7日)、陸奥国は磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥国に5分割、出羽国は羽前国・羽後国に2分割された。これらを東北七州と呼ぶ。この後も「奥羽」の名は従来どおりの地域に対して用いられる。ただし高校野球の地方大会で「奥羽」の名が、新陸奥国+出羽国にほぼ一致する青森県+秋田県+山形県に対し(1925年~1934年)、あるいは青森県+秋田県に対し(1974年~1977年)使われたことがある。
見る 戊辰戦争と奥羽
奥羽鎮撫総督府
奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)とは、鳥羽・伏見の戦いの後、慶応4年2月初旬に新政府が江戸をはじめ東国を鎮圧するための東征大総督府(親征大総督府)の下に、朝敵に指定した会津藩討伐と東北の鎮圧を目的に設置した機関。
見る 戊辰戦争と奥羽鎮撫総督府
奥羽越列藩同盟
奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王 を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権 日本大百科全書(井上勲執筆項)。 奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している。
見る 戊辰戦争と奥羽越列藩同盟
姫路藩
姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田家で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏で続いた。石高ははじめ52万石、のち15万石。
見る 戊辰戦争と姫路藩
姶良市
姶良市(あいらし)は、鹿児島県の中央部に位置する人口約7万7000人の市。鹿児島湾(錦江湾)の奥側に位置する。鹿児島市のベッドタウンとして発展している。
見る 戊辰戦争と姶良市
孝明天皇
孝明天皇(こうめいてんのう、1831年7月22日〈天保2年6月14日〉- 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)は、日本の第121代天皇(在位: 1846年3月10日〈弘化3年2月13日〉‐ 1867年1月30日〈慶応2年12月25日〉)。諱は統仁(おさひと)。称号は煕宮(ひろのみや)。 仁孝天皇の第4皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。一世一元の詔発布前(日本における一世一元の制制定以前)、そして生涯平安京内で過ごした最後の天皇でもある。 今上天皇(第126代天皇・徳仁)の5世祖先である。
見る 戊辰戦争と孝明天皇
定府
定府(じょうふ)は、江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態を示す。
見る 戊辰戦争と定府
宮城県
宮城県(みやぎけん)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は仙台市。
見る 戊辰戦争と宮城県
宮古湾海戦
宮古湾海戦(みやこわんかいせん、明治2年3月25日(1869年5月6日))は、箱館戦争における戦闘のひとつで、盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖の宮古湾で発生した。海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦を決行したが、失敗に終わった。宮古港海戦とも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と宮古湾海戦
宮之城町
宮之城町(みやのじょうちょう)は、かつて鹿児島県に存在した町。2005年3月22日に鶴田町、薩摩町と合併、さつま町となった。現在の、さつま町宮之城地区にあたる。 かぐや姫の里ともよばれ、竹林の町として有名であった。温泉地としても著名。 北薩の中心都市として永く栄え、それはさつま町となった現在も同様である。
見る 戊辰戦争と宮之城町
宮津藩
宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は与謝郡宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。
見る 戊辰戦争と宮津藩
家老
家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。
見る 戊辰戦争と家老
官位
日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。
見る 戊辰戦争と官位
官軍
官軍(かんぐん/すめらみいくさ)は、君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指し「皇軍」、「皇師(みいくさ)」、「王師」とも書かれる『日本書紀』。
見る 戊辰戦争と官軍
宇多郡
福島県宇多郡の範囲 宇多郡(うだぐん)は、福島県(陸奥国・磐城国)にあった郡。
見る 戊辰戦争と宇多郡
宇都宮城
宇都宮城(うつのみやじょう)は、栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。別名、亀ヶ岡城(かめがおかじょう)。
見る 戊辰戦争と宇都宮城
宇都宮城の戦い
宇都宮城の戦い(うつのみやじょうのたたかい)は、戊辰戦争の戦闘の一つ。慶応4年4月19日と23日(1868年5月11日、15日)、現在の栃木県宇都宮市にある下野国宇都宮城で2度攻城戦が行われた。 宇都宮藩兵をはじめ野州世直しを鎮圧するために武蔵国板橋から宇都宮に派兵された東山道総督府軍を中心とする新政府軍と、下総国市川の国府台から次期戦闘地日光廟へ向けて行軍中の伝習隊を中心とする旧幕府軍の間で起きた戦役。 この戦いの結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失した。
見る 戊辰戦争と宇都宮城の戦い
宇都宮市
宇都宮市(うつのみやし)は、栃木県のほぼ中央に位置する市。栃木県の県庁所在地および人口が最多の市で、中核市に指定されている。周辺市町を含め宇都宮都市圏を構成する。明治29年(1896年)4月1日市制施行。
見る 戊辰戦争と宇都宮市
寛永寺
旧寛永寺五重塔(重要文化財) 広重『名所江戸百景』より寛永寺清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。 寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光であり、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務めて朝廷との繋がりが深かった。日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、幕末の動乱期に主要な伽藍が焼失した。かつての境内の大部分は上野公園となっている。
見る 戊辰戦争と寛永寺
尊王
尊王(そんのう)。
見る 戊辰戦争と尊王
尊王攘夷
尊王攘夷(そんのうじょうい、尊皇攘夷)とは、天皇を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。
見る 戊辰戦争と尊王攘夷
小原鉄心
小原 鉄心(おはら てっしん)は、江戸時代後期(幕末)の美濃大垣藩の城代である。鉄心は号で、諱は忠寛(ただひろ)。
見る 戊辰戦争と小原鉄心
小山宿
小山宿(おやましゅく、おやまじゅく)は、江戸時代に日光街道(日光道中)に設けられた下野国の宿場。現在は栃木県小山市の中心部に相当する。 日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場である。
見る 戊辰戦争と小山宿
小笠原長国
小笠原 長国(おがさわら ながくに)は、江戸時代後期の大名。肥前国唐津藩第5代(最後)の藩主。官位は従五位下・佐渡守、中務大輔。忠知系小笠原家13代。
見る 戊辰戦争と小笠原長国
小笠原長行
小笠原 長行(おがさわら ながみち)は、唐津小笠原家の世嗣(藩主とする資料もある)。江戸幕府の老中、外国事務総裁。
見る 戊辰戦争と小笠原長行
小田原藩
小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄上郡足柄下郡、駿河国駿東郡の一部などを治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。
見る 戊辰戦争と小田原藩
小銃
小銃(しょうじゅう)は、銃の分類の一つ。兵士が個人用に使うための軍用銃として軍隊では最も一般的な小火器で、カービン・狙撃銃・自動小銃などの総称である。ライフル(英:Rifle)あるいはライフル銃とも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と小銃
小松宮彰仁親王
小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう、1846年2月11日〈弘化3年1月16日〉 - 1903年〈明治36年〉2月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王第8王子である。妃は、旧・久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。明治維新時には三職のうち議定となり仁和寺宮嘉彰親王と名乗っていた。
見る 戊辰戦争と小松宮彰仁親王
小栗忠順
小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗った。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。
見る 戊辰戦争と小栗忠順
小浜藩
小浜城本丸の石垣(現存) 小浜藩(おばまはん)は、若狭国一国および近江高島郡の一部、越前敦賀郡を領した藩。藩庁は小浜城。
見る 戊辰戦争と小浜藩
尾張徳川家
尾張徳川家(おわりとくがわけ)もしくは尾州徳川家(びしゅうとくがわけ)は、徳川将軍家の分家である御三家の筆頭であり、江戸時代には名古屋藩主を世襲し、諸大名の中で最高の格式(家格)を有したが、当主から将軍はでなかった。尾張大納言家、単に尾張家、尾州家とも言った。明治維新後には華族の侯爵家に列した。
見る 戊辰戦争と尾張徳川家
尾張藩
尾張藩(おわりはん)は、尾張一国(愛知県西部)と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。
見る 戊辰戦争と尾張藩
将軍
将軍(しょうぐん)は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。 古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお、古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。
見る 戊辰戦争と将軍
山口県
山口県(やまぐちけん)は、日本の中国地方に位置する県。県庁所在地は山口市。
見る 戊辰戦争と山口県
山岡鉄舟
山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、)は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎(てつたろう、)。諱は高歩(たかゆき、)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。
見る 戊辰戦争と山岡鉄舟
山崎
山崎(やまざき、やまさき)は、日本語の名前の一つ。山﨑、山嵜と記す場合もある。
見る 戊辰戦争と山崎
山形藩
山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。
見る 戊辰戦争と山形藩
山内容堂
山内 容堂 / 山内 豊信(豊茂)(やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ、文政10年10月9日〈1827年11月27日〉 - 明治5年6月21日〈1872年7月26日〉)は、幕末の外様大名、明治初期の華族。土佐藩15代藩主。位階は従一位。諱は豊信。隠居後の号は容堂。土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった。
見る 戊辰戦争と山内容堂
山縣有朋
山縣 有朋(やまがた ありとも、、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。
見る 戊辰戦争と山縣有朋
山田顕義
山田 顕義学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。-->(やまだ あきよし、、天保15年10月9日〈1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人。諱は顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将。正二位勲一等伯爵。
見る 戊辰戦争と山田顕義
山田方谷
山田 方谷(やまだ ほうこく)は、幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士。 方谷は号。諱は、字は、通称は安五郎。備中聖人、小蕃山と称された。
見る 戊辰戦争と山田方谷
山陰道
山陰道(さんいんどう、せんいんどう、そとものみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の西部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
見る 戊辰戦争と山陰道
岡山藩
岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国および備中の一部を領有した外様の大藩である。備前岡山藩、備前藩ともいう。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現・岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。
見る 戊辰戦争と岡山藩
岡谷繁実
岡谷 繁実(おかのや しげざね、天保6年3月12日(1835年4月9日) - 大正9年(1920年)12月9日)は、上野館林藩士。通称は鈕吾。 江戸で高島流砲術を学び、その後水戸に遊学し、江戸昌平黌に学ぶ。幕末、館林藩主秋元志朝が長州藩と血縁関係であったため、勤王家として活動する(尊皇派の公家・高松実村(高松保実の継嗣)の家老)。 安政元年(1854年)から明治2年(1869年)にかけて、戦国時代から江戸時代までの192人に及ぶ武将たちのエピソードを記した『名将言行録』を著述。
見る 戊辰戦争と岡谷繁実
岩倉具定
岩倉 具定(いわくら ともさだ、1852年1月18日〈嘉永4年12月27日〉 - 1910年〈明治43年〉4月1日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』7頁。)は、日本の政治家。第4代宮内大臣、貴族院議員。岩倉家第16代当主。
見る 戊辰戦争と岩倉具定
岩倉具視
岩倉 具視(いわくら ともみ、、1825年10月26日〈文政8年9月15日〉- 1883年〈明治16年〉7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。
見る 戊辰戦争と岩倉具視
岩村高俊
志士時代の岩村高俊 岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の江戸時代後期から明治期の武士(土佐藩士)、官僚、華族である。初名は精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。
見る 戊辰戦争と岩村高俊
岩槻藩
岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区太田3丁目)に存在した藩。居城は岩槻城。
見る 戊辰戦争と岩槻藩
島津久光
島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期の薩摩藩主・島津忠義の実父、明治時代の日本の政治家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・叟松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、後に島津宗家に戻り、29代当主(12代薩摩藩主)となった息子の島津忠義を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を起こしてその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた。 同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。
見る 戊辰戦争と島津久光
島津忠寛
島津 忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩第11代(最後)の藩主。通称は又之進、徳次郎、佐嘉郎。号は蠖堂。
見る 戊辰戦争と島津忠寛
島津忠義
島津 忠義(しまづ ただよし、1840年5月22日(天保11年4月21日) - 1897年(明治30年)12月26日)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の大名、華族。薩摩藩12代(最後の)藩主で、島津氏29代当主。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。 幼名は壮之助。通称は又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。 第125代天皇明仁(上皇)の曾祖父、第126代天皇徳仁(今上天皇)の高祖父にあたる。
見る 戊辰戦争と島津忠義
川井貞一
川井 貞一 (かわい ていいち、1933年(昭和8年)1月16日 - )は、日本の政治家。元・宮城県白石市長(5期)。
見る 戊辰戦争と川井貞一
川辺町 (鹿児島県)
川辺町(かわなべちょう)は、鹿児島県薩摩半島南部の川辺郡に存在した町。2007年12月1日に川辺郡知覧町、揖宿郡頴娃町と合併し南九州市となった。 乗馬が体験できる馬事公苑がある。
上士
上士(じょうし)は、武士の身分のひとつ。江戸時代の上級藩士である。上士や平士、郷士などと分けたときの最上位の家格のことである。騎乗が許されたことから騎士とも。
見る 戊辰戦争と上士
上奏
上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。
見る 戊辰戦争と上奏
上山藩
上山藩(かみのやまはん)は、江戸時代、出羽国(羽前国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。
見る 戊辰戦争と上山藩
上野
上野(うえの)は、東京都台東区の町名。また、上野駅を中心とした副都心隣接する浅草とともに上野・浅草副都心として指定。。現行行政地名は上野一丁目から上野七丁目。郵便番号は110-0005。
見る 戊辰戦争と上野
上野戦争
上野戦争(うえのせんそう、慶応4年5月15日〈1868年7月4日〉)は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。
見る 戊辰戦争と上野戦争
上杉斉憲
上杉 斉憲(うえすぎ なりのり)は、江戸時代末期(幕末)の大名。出羽国米沢藩12代藩主。山内上杉家28代当主。
見る 戊辰戦争と上杉斉憲
与力
与力(よりき)とは、江戸幕府における代表的な職名。寄騎とも書くが、与力・寄騎は時代によって意味が異なる。 備(そなえ)などを編成するため、江戸時代以前には、足軽大将(足軽組頭)などの中級武士が大身の武士の指揮下に入る事を意味する語句としても用いられていた。
見る 戊辰戦争と与力
中央公論新社
株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。
見る 戊辰戦争と中央公論新社
中公新書
中公新書(ちゅうこうしんしょ)は、中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している新書レーベル9の1つ。現行の新書レーベルでは岩波新書に次ぐ歴史がある。サブレーベルとして中公PC新書、中公新書ラクレがある。
見る 戊辰戦争と中公新書
中立
中立(ちゅうりつ、neutrality)とは、理念が無い状態。対立した際に、そのどちらにも属さない第三者の立場のことである。
見る 戊辰戦争と中立
中村勇吉
中村 勇吉(なかむら ゆうきち、生年不詳 - 1868年7月7日(慶応4年5月18日))は、水戸藩士。天狗党筑波山浪士。薩摩御用盗。戊辰戦争(上野戦争)参戦者。板垣退助に水戸学の影響を与え、戊辰戦争の前哨戦となる江戸薩摩藩邸の焼討事件を誘発した人物。
見る 戊辰戦争と中村勇吉
中津藩
中津城 中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。
見る 戊辰戦争と中津藩
丸亀藩
丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒家、山崎家、京極家と続き、それぞれ藩主独特の城下町を形成し廃藩置県を迎えた。 なお、生駒家は高松城を本城とし、讃岐一国を領したため、生駒家が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。
見る 戊辰戦争と丸亀藩
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。現在の茨城県の南西部を除いた地域にあたる。
見る 戊辰戦争と常陸国
丹後国
六十余州名所図会「天橋立」 丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。丹波国の北部(現在の丹後半島)が分国して作られた(和銅6年(713年))。
見る 戊辰戦争と丹後国
丹後田辺藩
丹後田辺藩の藩庁がおかれた田辺城(舞鶴城) 田辺藩(たなべはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。明治維新後に舞鶴藩(まいづるはん)と改称した。藩庁は田辺城(京都府舞鶴市)。
見る 戊辰戦争と丹後田辺藩
丹羽長国
丹羽 長国(にわ ながくに)は、江戸時代後期の大名。陸奥国二本松藩10代藩主。官位は従四位上・左京大夫、侍従。のち子爵。
見る 戊辰戦争と丹羽長国
丹波亀山藩
亀山藩(かめやまはん)は、江戸時代に丹波国にあった藩のうちの一つ。現在の京都府亀岡市を拠点とした。山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視された。伊勢亀山藩との区別から丹波亀山藩とも呼ばれる。明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため、これ以降は亀岡藩(かめおかはん)と呼ばれる。藩庁は亀山城。
見る 戊辰戦争と丹波亀山藩
丹波国
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。
見る 戊辰戦争と丹波国
七北田村
七北田村(ななきたむら)は、かつて宮城県にあった宮城郡の村。
見る 戊辰戦争と七北田村
世直し一揆
世直し一揆(よなおしいっき)は、江戸時代後半から明治時代初期にかけて多発した一揆。
見る 戊辰戦争と世直し一揆
世良修蔵
世良 修蔵(せら しゅうぞう)は、幕末の長州藩士。 奇兵隊士として鳥羽・伏見の戦いに参加した。その後、奥羽鎮撫総督府下参謀となり、会津藩討伐を主張した。新政府軍方への密書の内容に激怒した仙台藩士によって暗殺された。その死によって、当初受理されていた会津藩の助命嘆願が撤回され、会津戦争で徹底攻戦される原因となった。
見る 戊辰戦争と世良修蔵
市川市
市川市(いちかわし)は、千葉県の北西部に位置する市。 人口は約50万人。千葉県内では千葉市、船橋市、松戸市に次いで第4位の人口規模である。旧東葛飾郡。計量特定市に指定されている。 1934年(昭和9年)市制施行。
見る 戊辰戦争と市川市
市来町
市来町(いちきちょう)は、かつて鹿児島県にあった町。日置郡に属した。 2005年10月11日、隣接する串木野市と新設合併しいちき串木野市が発足したため消滅した。
見る 戊辰戦争と市来町
三国山脈
三国山脈(みくにさんみゃく)は、群馬県と新潟県の県境沿いに位置する山脈。 広義の越後山脈のうち、谷川岳周辺の谷川連峰を中心として、西は新潟-長野-群馬県境の白砂山付近から、東は新潟-福島-群馬県境に近い平ヶ岳付近までの山々を指す。上信越高原国立公園、魚沼連峰県立自然公園、越後三山只見国定公園に跨っている。
見る 戊辰戦争と三国山脈
三田
三田。
見る 戊辰戦争と三田
三根山藩
三根山藩(みねやまはん)は、江戸時代末の越後国蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)にあった藩。藩主は譜代大名の牧野家。
見る 戊辰戦争と三根山藩
三池藩
三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は立花家であり、柳河藩の立花家とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。
見る 戊辰戦争と三池藩
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。
見る 戊辰戦争と三河国
三津浜 (松山市)
宮前川 三津浜(みつはま)は愛媛県松山市の西部にあたり、旧三津浜町域周辺に当たる地区の名称である。
三春城
三春城(みはるじょう)は、陸奥国田村郡(福島県田村郡三春町)にあった日本の城。三春町指定史跡。別名舞鶴城。三春藩の藩庁であった。
見る 戊辰戦争と三春城
三春藩
三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在した藩の一つ。藩庁は三春城である。
見る 戊辰戦争と三春藩
三浦義建
三浦 義建(みうら よしたつ、1840年(天保11年7月)- 1890年(明治23年)10月2日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。
見る 戊辰戦争と三浦義建
下参謀
下参謀(しもさんぼう)は、明治維新の戊辰戦争の際に東北地方(奥羽)を従えるための奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)に置かれた役職。総督の下に副総督・参謀と共に置かれ、このうち総督・副総督・参謀には公家が任命され、下参謀には武家の代表者が任命された。公家の総督・副総督・参謀はいわば“お飾り”に過ぎず、総督府の実権は武家である2人の下参謀(薩摩藩・長州藩出身)が握った。 当初、薩長下参謀には、薩摩藩の黒田清隆(のちの第2代内閣総理大臣)と長州藩の品川弥二郎(のちの内務大臣)が就くはずだった。しかし、黒田と品川は下参謀への就任を辞退し、黒田・品川のそれぞれの先輩に当たる、薩摩の大山綱良(のちの鹿児島県令)と長州の世良修蔵(第二奇兵隊軍監)が下参謀に就任した。
見る 戊辰戦争と下参謀
下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県北部と茨城県南西部が主たる領域にあたる。
見る 戊辰戦争と下総国
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属し、現在の栃木県にあたる。
見る 戊辰戦争と下野国
下手渡藩
下手渡藩(しもてどはん)は、政争に敗れた三池藩立花家が、文化3年(1806年)、陸奥国伊達郡下手渡(福島県伊達市月舘町下手渡)に左遷されたことにより、1万石にて立藩した。藩庁は下手渡陣屋に置かれた。初代藩主種善は三九か条の御条目により、統治の基礎を定めた。
見る 戊辰戦争と下手渡藩
一関藩
一関藩(いちのせきはん)は、江戸時代の藩の一つ。陸奥磐井郡一関(現在の岩手県一関市)に藩主居館を置いた。石高は3万石。この地に陣屋を置いた大名家は、いずれも仙台藩伊達家の内分分知の分家に当たる一関伊達家と田村家の2家である。前者は11年で改易・廃藩となったが、後者は180年余り続いて明治維新を迎えた。以下、後者の田村家一関藩を主として記述する。
見る 戊辰戦争と一関藩
九条道孝
九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 貞明皇后(大正天皇后)の父。昭和天皇の外祖父、第125代天皇・明仁(上皇)の曽祖父、第126代天皇・徳仁(今上天皇)の高祖父にあたる。
見る 戊辰戦争と九条道孝
干支
干支(かんし、えと、干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。古代中国にはじまる暦法上の用語。 暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。
見る 戊辰戦争と干支
平佐 (薩摩川内市)
平佐(ひらさ)は、鹿児島県薩摩川内市の町丁。旧薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村、薩摩郡平佐村大字平佐、薩摩郡川内町大字平佐、薩摩郡川内町平佐町、川内市平佐町。郵便番号は895-0012。人口は8,340人、世帯数は3,819世帯(2020年10月1日現在)。平佐一丁目及び平佐町がある。
平田篤胤
平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日〈1776年10月6日〉 - 天保14年閏9月11日〈1843年11月2日〉)は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。 出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。 幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。大角(だいかく)または大壑(だいがく)とも号した。医者としては玄琢(のちに玄瑞)を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。 復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人(しうし)の中の一人として位置付けられている。
見る 戊辰戦争と平田篤胤
平潟
平潟(ひらかた)は、常陸国(茨城県)の北東部(平潟町)に位置する、太平洋に面した港町。陸奥国(福島県)との境に近い。現在の北茨城市にある。また近くには、岡倉天心らが滞在したことでも有名な五浦海岸がある。 古くから港町として栄え、現在も漁港にアンコウなどの水揚げがあるほか、旅館・民宿も多くある。どぶ汁と呼ばれるあんこう鍋が郷土料理として名物となっている。
見る 戊辰戦争と平潟
年末時代劇スペシャル
『年末時代劇スペシャル』(ねんまつじだいげきスペシャル)は、日本テレビで1985年から1993年に、12月30日・31日の2夜連続(1991年・1992年は12月31日のみ、1993年は12月28日のみ)で放送された時代劇の特別番組である。
乾行 (砲艦)
乾行(けんこう / 旧仮名:けんかう)は日本海軍の軍艦#近世帝国海軍史要(1974)p.883。元薩摩藩所有の3檣バーク型砲艦。 乾行は「正道に従ってすこやかに努め行う」意味で、『易経』にある「渉大川乾行也」(大川をるや乾行なり)の句に由来する『聯合艦隊軍艦銘銘伝』pp.194-195。
見る 戊辰戦争と乾行 (砲艦)
幕府陸軍
幕府陸軍(ばくふりくぐん)は、幕末に江戸幕府が整備した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の陸軍である。文久2年(1860年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験し、大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。幕府陸軍に対して海上任務を想定した幕府海軍も存在しており、これらをまとめて幕府軍と呼称する場合が多い。
見る 戊辰戦争と幕府陸軍
幕府海軍
幕府海軍(ばくふかいぐん)は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年)4月11日の江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。
見る 戊辰戦争と幕府海軍
幕臣
幕臣(ばくしん)は、幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のことである。
見る 戊辰戦争と幕臣
幕末
は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1868年)までの時代を主に扱う。
見る 戊辰戦争と幕末
幕末の外国人襲撃・殺害事件
ここでは、開国後から維新直後にかけて攘夷運動から頻発した、外国人襲撃・殺害事件を述べる。
久保田藩
『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つ。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とし、藩主は佐竹氏が治めた。佐竹氏は室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。表高は約20万石、実高は約40万石。家格は大広間詰国持大名。 支藩として新田分知された家が2家ある他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。
見る 戊辰戦争と久保田藩
乙部町
乙部町(おとべちょう)は、北海道南西部、檜山振興局中部にある日本海に面した町。爾志郡に属する。
見る 戊辰戦争と乙部町
交戦団体
交戦団体(こうせんだんたい)は、内戦において既存の国内政府と対立して一部の地域に対する支配を確立し、既存の国内政府または外国政府から承認を受けた反乱団体である杉原(2008)、468-469頁。山本(2003)、136-138頁。。ただし現代ではこうした交戦団体承認は行われていない。
見る 戊辰戦争と交戦団体
京屋敷
京屋敷(きょうやしき)は、江戸時代に諸藩が京都に設置した藩邸のこと。
見る 戊辰戦争と京屋敷
京都
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyoto)は、日本の地名、都市。794年以降日本の首都であった平安京が位置し、都もしくは京などとも呼ばれていた。古くから日本の政治・文化の中心地として栄え、金閣寺や清水寺をはじめとする文化財が多く残る地域である。 現在京都といえば、広義では京都府を、狭義ではその府庁所在地たる自治体の京都市、もしくはその中心部の地域を指す。
見る 戊辰戦争と京都
京都守護職
京都守護職(きょうとしゅごしょく)は、幕末の文久2年(1862年)に将軍後見職、政事総裁職とともに設けられた江戸幕府の三要職の一つである。役料五万石。大阪城代、京都所司代、京都・大阪・奈良・伏見の各奉行の上位。非常時は畿内諸藩の軍事指揮権を有する国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第四巻』吉川弘文館、1984年、p.341。
見る 戊辰戦争と京都守護職
京都見廻組
京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織。
見る 戊辰戦争と京都見廻組
京都所司代
京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において京都に設置された行政機関である。 永禄11年(1568年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。「所司」の本来の意味においては、鎌倉幕府の侍所の次官を所司と呼んだが、室町幕府の侍所では長官を所司と呼び、その代理を所司代と呼んだ。
見る 戊辰戦争と京都所司代
人別帳
#転送宗門人別改帳。
見る 戊辰戦争と人別帳
府内藩
府内藩(ふないはん)は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩の一つ。藩庁は府内城(現在の大分県大分市)。
見る 戊辰戦争と府内藩
二股口の戦い
二股口の戦い(ふたまたぐちのたたかい、明治2年4月13日 - 4月29日(1869年5月24日 - 6月9日))は、箱館戦争における戦闘のひとつである。箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦し、2週間にわたって新政府軍の進撃を阻止した。
見る 戊辰戦争と二股口の戦い
二条城
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある日本の城。江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である。 京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが(旧二条城跡について)、現存するものは徳川宗家の城のみである。当城は京都御所の裏鬼門に位置する。築城理由には都および朝廷のある京都に江戸城の分身の役割として徳川家康は京都御所・公家町(現:京都御苑および冷泉家一帯)および洛中の守護並び上洛時の居城として造営した城である。 二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所である。 明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した。その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称、そして現在に至る。
見る 戊辰戦争と二条城
二本松城
二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内にある日本の城(平山城)。日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。平成19年(2007年)7月26日、二本松城跡として国の史跡に指定された。「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている。
見る 戊辰戦争と二本松城
二本松の戦い
二本松の戦い(にほんまつのたたかい)は、戊辰戦争時、徳川旧幕府軍に参加した二本松藩の居城二本松城を巡って行われた明治新政府軍との一連の戦いの総称である。二本松城の落城に際し、動員された少年兵(幼年隊幼年兵)が犠牲となった。
見る 戊辰戦争と二本松の戦い
二本松少年隊
二本松少年隊群像 二本松少年隊顕彰碑 二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)は、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊。幕府側で戦った。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。
見る 戊辰戦争と二本松少年隊
二本松藩
二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国南部(岩代国)安達郡(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した藩。居城は二本松城(霞ヶ城)。
見る 戊辰戦争と二本松藩
広島藩
広島城 広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩(国主)。現在の広島県の大半を占める浅野家時代は備後国の南西部が福山藩。。藩庁は安芸国佐東郡(1664年に沼田郡に改称)広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
見る 戊辰戦争と広島藩
広沢安任
広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。
見る 戊辰戦争と広沢安任
五井戦争
五井戦争(ごいせんそう)は1868年(慶応4年)閏4月6日~閏4月7日に市川・船橋戦争で敗走してきた幕府軍の一隊と新政府軍が戦った房総最後の戦闘である。
見る 戊辰戦争と五井戦争
五稜郭
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭。 予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。
見る 戊辰戦争と五稜郭
五稜郭 (テレビドラマ)
『五稜郭』(ごりょうかく)は、1988年12月30日・12月31日に日本テレビで放映された日本テレビ年末時代劇スペシャルの第4作で、「昭和」最後の作品。放送時間は2回とも20:03 - 23:00(JST)で、20:00 - 20:03(JST)では予告番組『五稜郭のみどころ』が別途放送された。
庄内藩
庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。 転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。現代でも酒井宗家は庄内に居住しており、当主は殿と呼ばれることすらある(酒井忠明を参照のこと)。
見る 戊辰戦争と庄内藩
井伊直憲
井伊 直憲(いい なおのり)は、江戸時代末期の大名で、近江彦根藩第17代(最後)の藩主。明治維新後に華族(伯爵)となった。 安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。号は稲香軒。最初の妻は有栖川宮幟仁親王の王女・宜子女王。2番目の妻は鍋島直紀の娘。子は井伊直忠(二男)。孫に昭和28年(1953年)から36年間にわたって彦根市長を務めた井伊直愛がいる。
見る 戊辰戦争と井伊直憲
亀田藩
亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)由利郡亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)の亀田城に政庁を置いた藩。藩主は岩城家。
見る 戊辰戦争と亀田藩
代官
代官(だいかん)とは、君主ないし領主に代わって任地の事務を司る者又はその地位をいう。日本では、武家政権における役職の1つとなった。
見る 戊辰戦争と代官
延岡藩
延岡藩(のべおかはん)は、日向国北部と現在の宮崎市の北部を領有した藩で、牧野氏以降明治維新までは豊後国等の一部をも領有した。また、有馬氏期までの延岡は縣(県)と称していたので縣(県)藩(あがたはん)とも呼ばれる。藩庁は縣城(延岡城)(宮崎県延岡市)。
見る 戊辰戦争と延岡藩
仙台城
仙台城(せんだいじょう)は、宮城県仙台市青葉区(陸奥国宮城郡)の青葉山にあった日本の城(平山城)。雅称は「青葉城」で「五城楼」の別名もある(→仙台参照)。国の史跡。 1本丸 2二の丸 3勘定所 O三の丸 H大手門。
見る 戊辰戦争と仙台城
仙台藩
仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代から明治初期にかけて陸奥国仙台城に藩庁を置き、外様大名の伊達本家が治めた藩である。伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。表高は62万石であり、所領として現在の宮城県全域、岩手県南部および福島県新地町計約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があったが、戊辰戦争後に28万石に減封となり、その石高で廃藩置県を迎えた。
見る 戊辰戦争と仙台藩
伊予松山藩
松山城大天守(国の史跡・重要文化財) 伊予松山藩(いよまつやまはん)は、江戸時代、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した藩。藩庁は松山城。
見る 戊辰戦争と伊予松山藩
伊地知正治
伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。
見る 戊辰戦争と伊地知正治
伊達市 (北海道)
伊達市(だてし)は、北海道の道央地方南部に位置し、胆振総合振興局の西いぶり地域に属する市。市名は、明治時代初期に東北地方から入植した亘理伊達氏が開拓したことに由来する。
伊達氏
伊達氏(だてし/いだてし)は、武家・華族だった日本の氏族。鎌倉時代に朝宗が陸奥国伊達郡を与えられて伊達と称したのに始まる。陸奥の有力豪族となり、戦国時代には戦国大名と化し、政宗の代に陸奥の南半分を征服したが、豊臣秀吉の天下統一で領国を削減された。江戸時代には宗家が仙台藩藩主家、政宗の庶長子・秀宗の家系が宇和島藩藩主家となり、明治維新後には侯爵に叙された宇和島伊達家を筆頭に7家が華族に列した(侯爵家1家、伯爵家1家、子爵家1家、男爵家4家)。
見る 戊辰戦争と伊達氏
伊達慶邦
伊達 慶邦(だて よしくに)は、江戸時代後期から幕末にかけての大名。仙台藩13代藩主。伊達氏29代当主。官位は正四位下・左近衛権中将。
見る 戊辰戦争と伊達慶邦
会津藩
若松城 は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。別名に会藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡、河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。別途越後国内にも領地が点在していた(後述の『領地』を参照)。
見る 戊辰戦争と会津藩
会津戦争
戊辰戦争の白河口の戦いで焼失した白河小峰城 会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。 同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として別記する。
見る 戊辰戦争と会津戦争
伝習隊
伝習隊(でんしゅうたい)とは、江戸幕府が陸軍(幕府歩兵)編成し、フランス軍事顧問団の直接指導を受けた西洋式軍隊のこと。精鋭部隊として戊辰戦争では旧幕府軍の主力となり、隊長の大鳥圭介は箱館政権において陸軍最高位の陸軍奉行となった。
見る 戊辰戦争と伝習隊
弾薬
弾薬(だんやく)は、銃や砲などの火器を撃つときに必要な弾丸と火薬を組み合わせた物。近代の銃では一体化され、実包と呼ばれる。武器使用のために部隊に補給すべき消耗品全般を指す事もある。
見る 戊辰戦争と弾薬
弘前藩
弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、江戸時代に陸奥国の津軽地方にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。現在の青森県西部を領し、支藩として黒石藩があった。藩庁は弘前城(青森県弘前市)にあった。弘前への改称以前を高岡藩(陸奥高岡藩)、高岡移転以前を堀越藩ともいう。領地や藩主津軽家から、現代では津軽藩と呼ばれることもある。 津軽家の家格は柳間詰め外様大名で城主。幕末に10万石に高直しをした事により 家格が向上し、大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。
見る 戊辰戦争と弘前藩
弘道館戦争
弘道館戦争(こうどうかんせんそう)は、明治元年10月1日(1868年11月14日)に水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館において行われた、水戸藩内の保守派(諸生党)と過激派(天狗党)の戦い。
見る 戊辰戦争と弘道館戦争
佐幕
佐幕(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と佐幕
佐竹義堯
佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、江戸時代後期の大名。出羽国岩崎藩の第7代藩主、のちに出羽久保田藩12代にして最後の藩主。佐竹壱岐守家7代当主、佐竹氏第30・32代当主。
見る 戊辰戦争と佐竹義堯
佐賀藩
佐賀城の鯱の門 佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。 藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。
見る 戊辰戦争と佐賀藩
彦根藩
近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国犬上郡など近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊家。支藩として一時、彦根新田藩があった。
見る 戊辰戦争と彦根藩
彰義隊
彰義隊(しょうぎたい)は、幕末期の1868年(慶応4年)、江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。江戸幕府より江戸市中取締の任を受け、江戸の治安維持を行ったが、戊辰戦争の一環である上野戦争で明治新政府軍に敗れて解散した。
見る 戊辰戦争と彰義隊
使者
使者(ししゃ)とは、命令・依頼を受けて、それを伝達する者。特に戦国時代、上級者の書状と共に相手先に赴いた人物。
見る 戊辰戦争と使者
但木土佐
但木 土佐(ただき とさ)は、幕末の仙台藩の奉行。諱は成行(なりゆき)で、土佐は通称。
見る 戊辰戦争と但木土佐
征夷大将軍
江戸幕府を創設した徳川家康(在任:慶長8年 - 同10年) は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。
見る 戊辰戦争と征夷大将軍
征討大将軍
征討大将軍(せいとうたいしょうぐん)とは、鳥羽・伏見の戦いにおいて明治新政府が設置した臨時の官職のこと。
見る 戊辰戦争と征討大将軍
御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人を指す。なおその身分は、中世と近世とでは意味合いが多少異なる。
見る 戊辰戦争と御家人
御館の乱
御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)3月13日の上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって、ともに謙信の養子である上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。景虎と、景虎に加担した山内上杉家元当主・上杉憲政らは敗死した。 御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を越後に迎えた時に、その居館として春日山城下に建設された関東管領館のことで、後に謙信も政庁として使用した。現在の直江津駅近くに当時の御館の跡が御館公園として残っている。
見る 戊辰戦争と御館の乱
御所
御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。
見る 戊辰戦争と御所
徳川家達
徳川 家達(とくがわ いえさと、、1863年8月24日〈文久3年7月11日〉 - 1940年〈昭和15年〉6月5日)は、日本の政治家、名望家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。幼名は亀之助。号は静岳。世間からは「十六代様」と呼ばれた。 1865年(元治2年)に御三卿の田安徳川家第7代当主、徳川慶喜謹慎後の1868年(慶応4年)に徳川宗家第16代当主となり、明治初期に静岡藩主(知藩事)を務める。廃藩置県後に貴族院議員となり、1903年(明治36年)から1933年(昭和8年)までの30年にわたって第4代から第8代までの貴族院議長を務めた。またワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピック組織委員会委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長なども歴任。
見る 戊辰戦争と徳川家達
徳川宗家
徳川宗家(とくがわそうけ)は、徳川氏の宗家。徳川氏は1566年に徳川家康が松平から改称したのにはじまり、江戸時代には江戸幕府の征夷大将軍を世襲した。明治維新後に華族に列し、1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられた。
見る 戊辰戦争と徳川宗家
徳川氏
徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、武家・華族だった日本の氏族。永禄9年(1566年)に松平氏当主・松平家康が改姓したのに始まる。江戸時代には幕府将軍を世襲した徳川将軍家、およびその限られた親族(御三家・御三卿など)の家名となった。維新後には徳川氏からは12家が華族に列した(公爵家 3家、侯爵家 2家、伯爵家 2家、子爵家 1家、男爵家 4家)。
見る 戊辰戦争と徳川氏
徳川昭武
京都時代(1866年)の昭武 徳川昭武(1867年) ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武 徳川 昭武(とくがわ あきたけ、、1853年〈嘉永6年〉10月26日 - 1910年〈明治43年〉7月3日)は、幕末から明治にかけての大名、華族。位階勲等は従一位勲一等。清水徳川家第6代当主を経て水戸徳川家を継ぎ、水戸藩第11代(最後)の藩主・藩知事を務めた。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。初名は松平 昭徳(まつだいら あきのり)初名の昭徳は、元は異母兄の池田慶徳に付けられていた。慶徳は、昭武の誕生以前に水戸家を出て、鳥取藩池田家を継いでいる。
見る 戊辰戦争と徳川昭武
徳川慶喜
徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。 天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致(まつだいら あきむね)、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に死去。
見る 戊辰戦争と徳川慶喜
徳川慶勝
徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名・政治家・華族。尾張徳川家(尾張藩)第14代・第17代当主。明治維新後に議定、名古屋藩知事。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。
見る 戊辰戦争と徳川慶勝
後藤象二郎
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。名は象次郎とも表記される。栄典は正二位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。
見る 戊辰戦争と後藤象二郎
土佐藩
'''土佐藩'''の居城・'''高知城 ''' 土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正式名称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内家が支配した。 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』。
見る 戊辰戦争と土佐藩
土方歳三
土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年5月5日〈1835年5月31日〉- 明治2年5月11日〈1869年6月20日〉)は、幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷島政府陸軍奉行並。 諱は義豊(よしとよ)、雅号は豊玉(ほうぎょく)、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、現代では鬼の副長の通称が有名である。戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。
見る 戊辰戦争と土方歳三
匝瑳郡
千葉県海上郡の位置(水色・薄水色:後に他郡から編入した区域 薄水色・薄黄:後に他郡に編入された区域) 匝瑳郡(そうさぐん)は、千葉県(下総国)にあった郡。令制国成立以前からの郡とされるが - 市の紹介(プロフィール)、匝瑳市、平安時代末には荘園に分割されるなどの変遷を経て、その後再発足、平成の大合併で消滅した。 海上郡と合わせた地域が海匝と呼ばれ、香取郡も合わせて香取海匝と呼ばれる場合がある。
見る 戊辰戦争と匝瑳郡
北白川宮
北白川宮(きたしらかわのみや)は、日本の皇室における宮家の一つ。ここでは、前身の聖護院宮(しょうごいんのみや)についても触れる。
見る 戊辰戦争と北白川宮
北白川宮能久親王
北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日〉 - 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。 伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。
北越戦争
北越戦争(ほくえつせんそう、慶応4年5月2日〈1868年6月21日〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、長岡藩(現新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。 なお、同時期に進行していた会津藩をめぐる戦闘については会津戦争を参照。
見る 戊辰戦争と北越戦争
北関東
北関東(きたかんとう)は、関東地方の北部または中北部地域を指す名称である。茨城県、栃木県、群馬県の3県、若しくは埼玉県を加えた4県。同じく関東地方の南部または中南部地域を指す呼称として南関東がある。
見る 戊辰戦争と北関東
北陸地方
北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部(中部地方)の日本海に面した地域を指す名称である。畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。 現代においては北陸道と同じ範囲である新潟県、富山県、石川県、福井県の4県『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7、あるいは新潟県を除く3県のことを指すことが多い。範囲を明確に指す場合、前者は「北陸4県」または「新潟県を含む北陸地方」、後者は「北陸3県」などと表現されることがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。域内の最大都市は新潟県新潟市、北陸3県の最大都市は石川県金沢市である。
見る 戊辰戦争と北陸地方
北陸道
北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つで、本州の日本海側の中部の行政区分であった。また、古代から近世にかけて、同所を通る幹線道路を指す名称であった。
見る 戊辰戦争と北陸道
北海道
北海道(ほっかいどう)は、日本の北海道地方に位置する道。道庁所在地は札幌市で、47都道府県中唯一の「道」である。 行政区画の「北海道」を構成する最大の島自体も北海道と称されるが、区別するときには北海道本島とも称する。
見る 戊辰戦争と北海道
園部藩
園部藩(そのべはん)は、丹波国船井郡(現在の京都府南丹市園部町小桜町)に存在した藩。
見る 戊辰戦争と園部藩
マツノ書店
マツノ書店(マツノしょてん)は、山口県周南市にある古書店。松村勇(初代)が行商の貸本屋から始め、古書店を開いた。2021年10月現在の店主は3代目の松村健。 かつては、徳山駅の北向かいにあったが、1960年代半ばに近鉄松下百貨店脇の路地に移った。2020年10月31日「徳山駅前地区市街地再開発事業」の関係で、周南市銀南街4 徳山銀南街ビル 1Fに移転した。 山口県の地誌、方言、文化から長州藩を中心とした幕末史の文献を特に手広く揃えている。1970年代の半ばから幕末史の重要な原典資料の稀覯本の復刻出版を手がけている。1974年から2018年までで、その総出版点数は、280冊を越えている。この復刻出版は、3代目店主になってから止めている。
見る 戊辰戦争とマツノ書店
ハリー・パークス
サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes, 1828年2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官。幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。
レオン・ロッシュ
ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Léon Roches、1809年9月27日 - 1900年6月23日)は、フランスの外交官。駐日フランス帝国公使。幕末期の江戸幕府を支援した。
ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ
ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ(英:Robert B. Van Valkenburgh、1821年9月4日 - 1888年8月1日)はニューヨーク代表のアメリカ合衆国下院議員。南北戦争では北軍の将校だった。幕末日本に駐在し、第3代アメリカ代理公使を務めた(1866–1869)。
ワーナー ブラザース ジャパン
ワーナー ブラザース ジャパン合同会社()は、エンターテインメント事業を行う日本の企業。アメリカ合衆国の映画会社ワーナー・ブラザースの日本法人。日本映像ソフト協会正会員、日本レコード協会・日本動画協会準会員。 事業部門として、映画製作・配給部門「ワーナー・ブラザース映画」、家庭用ソフト・デジタルコンテンツ部門「ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント」(旧:ワーナー・ホーム・ビデオ&デジタル・ディストリビューション部門)、テレビ・映像配信部門「ワーナー・ブラザース テレビジョン」、キャラクター商品ライセンス部門「ワーナー・ブラザース コンシューマープロダクツ」がある。 米国法人製作作品に加え、日本のコンテンツとして邦画・アニメ・モバイルゲーム・コンテンツアクイジションの4つの事業を展開している。
トーマス・ブレーク・グラバー
トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人。トマス・ブレイク・グローバーとも表記。 武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。 維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。
トータルウォー:ショーグン2
『トータルウォー:ショーグン2』(TOTAL WAR:SHOGUN 2)は、The Creative Assembly社が開発し、2011年に発売されたRTS(リアルタイムストラテジー)である。略称としてTWS2、もしくは旧作風にS2TWと呼ばれる。
プロイセン王国
プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領である。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいてプロイセン王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた。
見る 戊辰戦争とプロイセン王国
パーセント
パーセント(percent, percentage, %)、百分率(ひゃくぶんりつ)は、割合を示す単位で、全体を百として示すものをいう。 割合を示す単位には、他に全体を千とするパーミル(千分率、‰)や、万とするパーミリアド(ベーシスポイント、万分率、‱)などがある。
見る 戊辰戦争とパーセント
テレビ東京
株式会社テレビ東京(テレビとうきょう、TV TOKYO Corporation)は、テレビ東京ホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送事業を行う日本の特定地上基幹放送事業者である。東京都港区六本木に本社を置く。 愛称はテレ東(てれとう)。略称はTX。呼出符号は「JOTX-DTV」(東京 23ch)。リモコンキーIDは「7」。TXNネットワークのキー局である。 日本のアナログテレビ放送で親局の周波数がVHFで開局した最後の放送局であり、これ以後に開局した民放の親局は全てUHFである(アナログ放送の超短波放送のチャンネルは12チャンネル)。
見る 戊辰戦争とテレビ東京
フランス第二帝政
フランス第二帝政(フランスだいにていせい、Second Empire Français)は、1852年から1870年まで存在したフランスの君主政体である。ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が1851年12月2日にクーデターによって議会を解散し、新たな憲法を制定した上で国民投票によってフランス皇帝に即位した。 第二共和政期において、とりわけ六月蜂起後に保守・反動化した議会は、幅広い民衆の支持を得ることに失敗していた。こうして反議会に傾いた民衆をルイ=ナポレオン大統領は取り込むことに成功した。クーデターによる議会打倒を経て成立した第二帝政(第二帝国)は、権威主義的・反議会主義的な統治体制である一方、国民投票によって指導者を選出し、幅広い民衆に支持基盤をおいた点で、人民主権的、民主主義的な性格も有していた。
ドライゼ銃
ドライゼ銃(ドライゼじゅう、Dreyse Zündnadelgewehr)は、1841年にプロイセン軍に採用された軍用小銃であり、世界初の実用的ボルトアクション小銃である。 この銃はプロイセンの銃工であったヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼによって発明された。開発は1824年に始まり、数多くの試作を経て1836年に完成した。この功績により、ドライゼは1864年に爵位を与えられている。 先進的すぎる存在だったため開発当初はほとんど注目されなかったが、1860年代のプロイセンが国土拡張に転じたことによって、幾多の戦場でプロイセン軍を勝利に導く原動力となり、その名声を全世界に轟かせた。 ドライゼ銃は、長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させる撃発機構、および弾薬から「ドライゼのニードルガン」とも呼ばれ、日本では火針銃または針打式、撃針銃、旧日本軍の公文書にはドイツ語の Zündnadelgewehr の発音「ツュントナーデルゲヴェーア」から“普式ツンナール銃”と記されている。
見る 戊辰戦争とドライゼ銃
列強
代替文。
見る 戊辰戦争と列強
刑場
刑場(けいじょう)とは、死刑を執行する部屋・建物・機関・敷地や、過去に死刑が行われていた場所などを指す。「処刑場」「処刑室」とも表現される。
見る 戊辰戦争と刑場
切腹
切腹(せっぷく、Seppuku)は、刃物などで自らの腹部を切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)・伐腹(ばっぷく)・斬腹(ざんぷく)ともいう。日本では、主に武士などが行った独特の習俗。 海外でも日本独自の風習として知られ、「hara-kiri」や「seppuku」として辞書に掲載されている。
見る 戊辰戦争と切腹
咸臨丸
咸臨丸(かんりんまる)は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットである。オランダ語の旧名は「Japan」で、ヤパン号、ヤッパン号、ヤーパン号とも書かれる。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
見る 戊辰戦争と咸臨丸
アーネスト・サトウ
サー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow、枢密顧問官、GCMG、1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(さとう あいのすけ)または 薩道 愛之助(読み同じ)。雅号に薩道静山。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。植物学者の武田久吉は次男。
アームストロング砲
アームストロング砲(アームストロングほう、)は、イギリスのウィリアム・アームストロングが1854年に発明した大砲。初めて大規模に実用化された後装式のライフル砲である。
アドテクノス
アドテクノス(AD TECHNOS)は、日本のボードゲームメーカー。1980年代にボード・ウォー・シミュレーションゲームを出版していた。 バンダイのウォー・シミュレーションゲームをデザインしてきた広告デザインチームが独立したメーカーであり、独立当初は朝日出版社からシミュレーションゲームブックスという書籍販売形式のシリーズを6冊出版していた。 その後、日本のメーカーとしては珍しく、ナポレオニックゲームを4作、古代戦ゲームも出版、また海外を含めても希少なルネサンス期のラヴェンナの戦いも出版している。また、ツクダホビーなどの他社製品にもゲームデザインとして積極的に携わっている。 倒産時には株式会社ランダムに版権の一切を譲渡した。
見る 戊辰戦争とアドテクノス
イリュストラシオン
イリュストラシオン(L'Illustration)は、1843年3月4日から1944年8月19日まで、フランスのパリで発行されていた週刊の挿絵入り新聞である。 フランスで最初の挿絵入り週刊新聞である。
ウォーゲーム日本史
『ウォーゲーム日本史』は、国際通信社が発行する解説書付きウォーシミュレーションゲームである。アナログゲームとしてのウォーゲームを扱う。1,4,7,10月の季刊として発行され、発売は発行前月の20日前後である。国際通信社ではコマンドマガジン日本版の姉妹誌として紹介している。2012年5月現在、一般書店で入手可能(取り扱いは星雲社)。26号を最後に休刊することが、ホームページで告知され無期休刊となった。2016年10月、単発刊行の27号がボックス仕様で発売された。
オトメイト
オトメイトは、アイディアファクトリー株式会社とデザインファクトリー株式会社の女性向け恋愛ゲーム(乙女ゲーム)ブランド。ここでは姉妹ブランドのオトメイトf(フォルテ)についても解説する。
見る 戊辰戦争とオトメイト
グレートブリテン及びアイルランド連合王国
グレートブリテン及びアイルランド連合王国(グレートブリテンおよびアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Ireland)は、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が合同して成立した王国である。1922年にアイルランド自由国が樹立され、残りの地域は1927年にグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国と改称された。
グレゴリオ暦
グレゴリオ暦(グレゴリオれき、、、)は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。 グレゴリオ暦は、現行太陽暦として日本を含む世界各国で用いられており、グレゴリオ暦を導入した地域では、ユリウス暦(旧暦)に対比して新暦()と呼ばれる場合もある。紀年法はキリスト紀元(西暦)を用いる。 大辞林 第三版、など。、暦法と紀年法とが混同されている。--> グレゴリオ暦の本質は、平年では1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を 365日 + (97/400)日。
見る 戊辰戦争とグレゴリオ暦
ゲームジャーナル
ゲームジャーナルは、シミュレーションジャーナルが発行するゲーム雑誌。主にアナログゲームとしてのウォーゲームを扱っており、毎号付録としてウォーゲームが付属する(打ち抜きカウンターシートと紙製マップの挟み込み)。また、当初は同人誌として創刊したが後に商業誌となった。2019年現在は3月、6月、9月、12月の1日前後に発売され、価格は付録のゲームを含めて本体3,600円(税込3,880円)である。
コマンドマガジン
コマンドマガジン(Command Magazine)はアメリカ合衆国のXTR社が発行していたゲーム雑誌。隔月刊であり、1989年創刊、2001年の54号発行をもって、XTR社が活動休止、廃刊となった。 アナログゲームのウォー・シミュレーションゲームを題材にしており、戦史や戦略分析記事が掲載されていた。毎号シミュレーションゲームが付録として付いており(ホビーエディション)、付録ゲーム無しのポストスタンドエディションもあった。コマンドマガジン日本版(1994年12月創刊)は全くの別会社である日本の国際通信社が発行しており、XTR社から記事・付録ゲームの提供を受けていた。コマンドマガジン廃刊後は、表紙題字こそ継続されているものの、日本版は独自に運営されている。
コーエーテクモゲームス
株式会社コーエーテクモゲームス()は、神奈川県横浜市西区に本社を置く、日本のゲームソフト販売・開発会社、出版社。コーエーテクモホールディングスの子会社。コンピュータエンターテインメント協会正会員。略称はKTゲームス。
スペンサー銃
スペンサー銃(スペンサーじゅう)、スペンサー連発銃(スペンサーれんぱつじゅう、英:Spencer repeating rifle)は、管状弾倉装填式のレバーアクションライフルである。 南北戦争中の北軍、特に騎兵隊に採用された。しかし当時の標準装備である前装式ライフルマスケットを置き換えることはなかった。 スペンサー騎兵銃(スペンサーきへいじゅう、Spencer carbine)は騎兵向けに短銃身化されたカービン。
見る 戊辰戦争とスペンサー銃
スネル兄弟
スネル兄弟 / シュネル兄弟(スネルきょうだい / シュネルきょうだい)は、江戸時代末期(幕末)の商人。兄はジョン・ヘンリー・スネル(、日本名:平松 武兵衛〈ひらまつ ぶへえ〉、1843年? - 1871年?)。弟はエドワルド・スネル(、1844年? - 没年不明)。長らくオランダ出身とされていたが、プロイセン出身であること、彼らの父の仕事の都合により、オランダの植民地であったインドネシアで育ったこと、そして、開港直後に横浜に来たことが判明した。
見る 戊辰戦争とスネル兄弟
るろうに剣心 (実写映画)
『るろうに剣心』(るろうにけんしん)は、和月伸宏による日本の漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』を原作とした日本の実写映画シリーズ。主演・佐藤健。監督は大友啓史。アクション監督は谷垣健治。製作・配給はワーナー・ブラザース映画。
備中松山藩
松山城御根小屋正門(現・岡山県立高梁高等学校) 備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩。藩庁は松山城(高梁市)に置かれた。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名される。
見る 戊辰戦争と備中松山藩
備後福山藩
福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。
見る 戊辰戦争と備後福山藩
唐津藩
唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。
見る 戊辰戦争と唐津藩
内大臣
内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。
見る 戊辰戦争と内大臣
内藤政挙
内藤 政挙(ないとう まさたか)は、日向国延岡藩の第8代(最後)の藩主。延岡藩内藤家宗家13代。
見る 戊辰戦争と内藤政挙
内戦
タンペレの戦い後の都市遺跡(フィンランド内戦; 1918年) スペイン内戦(1937年) レバノン内戦(1978年) 内戦(ないせん、Civil war)は、国家の領域内で対立した勢力によって起こる、政府と非政府による組織間の武力紛争を指す。1816年以降に発生した内戦を収集したデータベースであるでは、内戦を「一国内で発生し、当該国政府が介入し、政府・反政府両勢力が拮抗した、年間死者が1000人に達する武力紛争」と定義しているが、この定義には異論もある。
見る 戊辰戦争と内戦
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県と秋田県。上国。
見る 戊辰戦争と出羽国
出雲国
出雲国(いずものくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
見る 戊辰戦争と出雲国
出水市
野田支所(旧: 野田町役場) 出水市(いずみし)は、鹿児島県の北西部に位置する人口約5万人の市。九州新幹線の停車駅があり、ツルの渡来地として知られている。
見る 戊辰戦争と出水市
出流山事件
出流山事件(いずるさんじけん)は、江戸時代末期、大政奉還後の慶応3年11月29日(1867年12月24日)、下野国出流山満願寺(現在の栃木県栃木市出流町)にて、尊王攘夷・倒幕を唱える志士の一団が挙兵し、その周辺で幕府軍と戦闘を繰り広げた事件。討幕のための開戦を主張する薩摩藩士らの思惑を背景に、幕府を挑発する関東擾乱計画の一端として実行されたが、挙兵から2週間で鎮圧された。関東における擾乱は江戸薩摩藩邸の焼討事件を誘発し、戊辰戦争開戦の一因を形成した。
見る 戊辰戦争と出流山事件
函館市
函館市(はこだてし)は、北海道南部(道南地方)に位置し、渡島総合振興局に属する市。 北海道南端の渡島半島南東部で天然の良港である函館港によって北海道と本州を結ぶ交通結節点、道南地域の中心都市として発展してきた。振興局所在地であり、札幌市・旭川市に次ぐ北海道第3位の人口(約24万人)を有する中核市である。
見る 戊辰戦争と函館市
八丁沖の戦い
八丁沖の戦い(はっちょうおきのたたかい)は、戊辰戦争(北越戦争)の最中に行われた、奥羽越列藩同盟軍による新政府軍への奇襲攻撃。
見る 戊辰戦争と八丁沖の戦い
八幡
八幡(はちまん、やはた、やわた、はつま、やばた、ばはん)は、日本各地の原義、地名、施設などを指す。
見る 戊辰戦争と八幡
八乙女駅
八乙女駅ホーム 八乙女駅バスのりば 八乙女駅(やおとめえき)は、宮城県仙台市泉区八乙女中央一丁目にある仙台市地下鉄南北線の駅である。駅番号はN02。
見る 戊辰戦争と八乙女駅
八王子千人同心
江戸東京たてもの園に保存されている八王子千人同心組頭の家 八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつ。幕府直轄領である武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された譜代旗本およびその配下の譜代武士(譜代同心)のことである。職務は多岐にわたり、関ヶ原の戦いの参陣、日光勤番、甲州街道・日光街道(日光脇往還)の整備、蝦夷地警固と開拓、八王子及び周辺地域の治安維持であった。
見る 戊辰戦争と八王子千人同心
八重の桜
『八重の桜』(やえのさくら)は、2013年1月6日から12月15日まで放送されたNHK大河ドラマ第52作。主演は綾瀬はるか。 2014年度国際エミー賞テレビドラマ部門ノミネート作品。
見る 戊辰戦争と八重の桜
八木書店
株式会社八木書店(やぎしょてん)は、日本の文芸・学術出版社であり、古書店、新刊書取次でもある。住所番地からわかるように、神田古書店街の中心に在り、古書店業界の顔というべき会社である。従業員は約50名。
見る 戊辰戦争と八木書店
八戸藩
八戸藩(はちのへはん)は、陸奥国三戸郡八戸城(現:青森県八戸市)に藩庁を置き南部家が治めていた藩。
見る 戊辰戦争と八戸藩
公家
日本の公家 公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、源氏・平氏・藤原氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。
見る 戊辰戦争と公家
公儀
公儀(こうぎ/くうぎ)とは、日本の中世から近世において公権力を指した語。
見る 戊辰戦争と公儀
公議政体論
公議政体論(こうぎせいたいろん)は、幕末から明治初期にかけて、議会制度を導入して合意(「公議輿論(こうぎよろん)」)を形成することによって日本国家の意思形成及び統一を図ろうとする政治思想。佐幕派にとっては江戸幕府再生の構想として、倒幕派にとっては明治維新後の政治の理想像の1つとして唱えられた。
見る 戊辰戦争と公議政体論
六郷政鑑
六郷 政鑑(ろくごう まさかね/まさあきら)は、江戸時代末期の大名。出羽国本荘藩の第11代(最後)の藩主。官位は従五位下・兵庫頭。維新後、知藩事・子爵。
見る 戊辰戦争と六郷政鑑
前山清一郎
前山 清一郎(まえやま せいいちろう、文政6年(1823年) - 明治29年(1896年)3月27日)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の武士、官吏、開拓者。名は長定。
見る 戊辰戦争と前山清一郎
前田慶寧
前田 慶寧(まえだ よしやす)は、江戸末期の大名、明治期の華族。前田家14代目の当主で、加賀藩第13代(最後の)藩主、のち金沢初代藩知事。内閣総理大臣・近衛文麿の外祖父にあたる。
見る 戊辰戦争と前田慶寧
勝海舟
勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。東京都本所出身。
見る 戊辰戦争と勝海舟
勝海舟 (1990年のテレビドラマ)
『勝海舟』(かつかいしゅう)は、1990年12月30日、12月31日に日本テレビで放映された『日本テレビ年末時代劇スペシャル』の第6作である。幕末の風雲児・勝海舟の生涯を描く。主演は田村正和。
勤王
勤王(きんのう、勤皇とも言う)とは、王や天皇に忠義を尽くすことである。
見る 戊辰戦争と勤王
因幡国
因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
見る 戊辰戦争と因幡国
国分市
国分市(こくぶし)は、鹿児島県の薩摩地方と大隅地方の中間にあった市。 「元気都市」と呼ばれ、県内の市町村の中では最も人口増加率・若年率が高く、全国的に少子高齢化が進む中で近年数少ない中学校の新設がなされた自治体である。 かつては煙草などの第一次産業が中心であったが、鹿児島空港に近いという地理的好条件からその後ソニーや京セラなどのハイテク産業が発展した。多くの商業施設が立ち並び、周辺地域の中核的役割を担っている。 商業圏や生活圏は隣接する隼人町と混在しており、実質両市町間には地理的な境目が存在せず2市町あわせて『隼人国分』(国分隼人)地域と呼ばれることも多い。 また、薩摩地方と大隅地方、それに宮崎県を結ぶ交通の要所でもあり、国道・高速道路・鉄道などの交通手段が発達している。
見る 戊辰戦争と国分市
四侯会議
四侯会議(しこうかいぎ)は、慶応3年(1867年)5月、京都において設置された諸侯会議である。有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制で、15代将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢機関として設置された。幕末に流行した公議政体論の流れの中で、薩摩藩の主導のもとに成立した会議であり、朝廷や幕府の正式な機関ではなかったが、それに準ずるものとして扱われた。薩摩藩はこれを機に政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図ったが、慶喜との政局に敗れ、ごく短期間で挫折した。この結果、薩摩は完全に倒幕に舵を切ることとなる。 ※本項における日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。
見る 戊辰戦争と四侯会議
四国
四国内の高速道路網(緑線)および本四架橋を含む県境をまたぐ大規模架橋(青線)。赤星および赤丸は人口上位10都市 四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである。 北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり【参考】 島国一覧(領土がすべて島で構成される国)、この中では最も小さい 国土地理院(注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「沖縄本島」の正式名称)【参考】 日本の島の面積順に上位10島 ⇒ 本州、北海道、九州、四国、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬。 国立天文台 (編)理科年表 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。
見る 戊辰戦争と四国
四条隆謌
四条隆謌卿之墓(妙傳寺) 四条 隆謌(しじょう たかうた、)は、江戸時代後期から明治時代にかけての日本の公家、華族、陸軍軍人。後陽成天皇の男系七世子孫である。
見る 戊辰戦争と四条隆謌
四日市
四日市(よっかいち)。
見る 戊辰戦争と四日市
倒幕運動
倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒す(討幕)ための政治的な運動・活動のことである。 主として日本の江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す革命運動も含めて倒幕運動と呼ぶ。 また、鎌倉時代末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府打倒の動き(正中の変や元弘の乱)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。 これに対して、室町幕府の場合、足利義昭を追放した織田信長は義昭の将軍職の解任手続を取らなかった上、毛利家などが義昭を将軍として奉じる状態が続き、豊臣政権下で義昭が准三宮の待遇を受けて出家した時に自動的に将軍職も失職したと考えられる(『公卿補任』)ため、「討幕運動」は存在しなかったと言える。
見る 戊辰戦争と倒幕運動
矢島藩
矢島藩(やしまはん)は、江戸時代初期、および明治時代初期の藩の一つ。羽後国(旧出羽国)由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)の矢島陣屋(別称:八森陣屋)に政庁を置いた。藩主は生駒家。
見る 戊辰戦争と矢島藩
矢立峠
矢立峠(やたてとうげ)は、秋田県大館市と青森県平川市の県境にある峠である。標高は258m。 羽後国(旧出羽国)と陸奥国(旧陸奥国(分国前))の国境の一部でもある。
見る 戊辰戦争と矢立峠
矢田堀鴻
矢田堀鴻(1829-1887) 矢田堀 鴻(やたぼり こう、文政12年(1829年) - 明治20年(1887年)12月18日)は、日本の武士(幕臣)で、江戸幕府幕府海軍最後の海軍総裁。名は景蔵。官位は、讃岐守。函陵と号した。
見る 戊辰戦争と矢田堀鴻
知覧町
知覧町(ちらんちょう)は、鹿児島県薩摩半島の南部中央に存在した町で、川辺郡に属していた。2007年12月1日に川辺郡川辺町、揖宿郡頴娃町と合併し南九州市となった。 知覧麓には武家屋敷が残っており「薩摩の小京都」と呼ばれる。第二次世界大戦中には大日本帝国陸軍特別攻撃隊の飛行場が置かれ、飛行場跡地には特別攻撃隊に関する資料を展示した知覧特攻平和会館がある。
見る 戊辰戦争と知覧町
石井孝
石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 1996年5月6日)は、日本の日本史家。東北大学名誉教授。幕末維新期対外関係が専門。
見る 戊辰戦争と石井孝
玉虫左太夫
玉蟲 左太夫(たまむし さだゆう)は、江戸時代後期の仙台藩士。諱は誼茂。字は子発。
見る 戊辰戦争と玉虫左太夫
王政復古
王政復古(おうせいふっこ、英語: restoration)は、共和制や武家支配などによって支配の座を追われていた君主制が再び旧体制を復活させることを指す。通常はイングランドにおける共和政崩壊後のチャールズ2世の即位、フランスにおけるナポレオン1世没落後のルイ18世の即位、日本の明治維新、以上三つのいずれかを指すことが多い。
見る 戊辰戦争と王政復古
王政復古 (日本)
publisher。
獅子の時代
『獅子の時代』(ししのじだい)は、1980年(昭和55年)1月6日から12月21日まで放送されたNHK大河ドラマ第18作。主演は菅原文太、加藤剛。 会津藩の下級武士である平沼銑次と薩摩藩郷士の苅谷嘉顕を主人公とし、明治維新の勝者側となる嘉顕と敗者側の銑次がそれぞれの生き方を貫いて幕末から明治を生き抜く様を描いた。平沼銑次役には菅原文太、苅谷嘉顕役には加藤剛が起用された。脚本は大河ドラマ初(結果的に唯一)となる山田太一が担当した。
見る 戊辰戦争と獅子の時代
磐城平城
磐城平城(いわきたいらじょう)は、陸奥国磐前郡磐城平(福島県いわき市平)にあった日本の城。磐城平藩の藩庁。別名龍ヶ城(りゅうがじょう)。遺構の一部(石垣)がいわき市指定史跡いわき市公式HP。
見る 戊辰戦争と磐城平城
磐城平藩
磐城平藩(いわきたいらはん)は、江戸時代に旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた藩である。藩庁は磐城平城(いわき市平)。
見る 戊辰戦争と磐城平藩
磯田道史
磯田 道史(いそだ みちふみ、 1970年〈昭和45年〉12月24日 - )は、日本の歴史学者(日本近世・近代史・日本社会経済史)。国際日本文化研究センター教授。岡山県岡山市出身。
見る 戊辰戦争と磯田道史
神戸事件
神戸事件(こうべじけん)は、慶応4年1月11日(1868年2月4日)に神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。 この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展した。その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見たが、相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。
見る 戊辰戦争と神戸事件
禁門の変
禁門の変新選組研究家の中村武生により「元治甲子戦争」という名称が提唱されているが、すでに水戸において同年発生の天狗党の乱を「元治甲子の乱」とも呼んでいる。(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と禁門の変
福山城 (備後国)
福山城(ふくやまじょう)は、広島県福山市丸之内1丁目にあった日本の城。城跡は国の史跡に指定されている。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれる。日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定された。2018年7月30日には福山城跡の天守閣部分に対し、広島県内では初の事例となる景観重要建造物の指定がされた。2020年から2022年にかけ、築城400年を記念した大規模な改修工事が行われた。
福岡藩
舞鶴公園 福岡城下の橋大手門 福岡藩領域図(慶長期) 福岡藩(ふくおかはん)は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。
見る 戊辰戦争と福岡藩
福島宿 (奥州街道)
福島宿(ふくしまじゅく) は、奥州街道の宿場で、現在の福島県福島市都心部を形成している町々である。
福島県
福島県(ふくしまけん)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は福島市。
見る 戊辰戦争と福島県
福島藩
福島藩(ふくしまはん)は、陸奥国南部(岩代国信夫郡)、現在の福島県福島市にあった藩である。居城は福島城。藩主は本多家、堀田家、板倉家の3氏で、いずれも譜代大名であった。
見る 戊辰戦争と福島藩
福井藩
松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代をゆえに北ノ庄藩(きたのしょうはん)と称することがある。
見る 戊辰戦争と福井藩
福知山藩
福知山藩(ふくちやまはん)は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)に存在した藩。居城は福知山城。
見る 戊辰戦争と福知山藩
秋元礼朝
秋元 礼朝(あきもと ひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。上野館林藩の第2代(最後)の藩主。館林藩秋元家11代。
見る 戊辰戦争と秋元礼朝
秋田県
秋田県(あきたけん、旧字体・異体字:秋田縣・穐田縣・龝田縣)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は秋田市。
見る 戊辰戦争と秋田県
秋田県民歌
「秋田県民歌」(あきたけんみんか)は日本の都道府県の一つ、秋田県が2曲制定している県民歌の1曲。1930年(昭和5年)に制定された。作詞・倉田政嗣、補作詞・高野辰之、作曲・成田為三。 1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結前には山形県民歌「最上川」、長野県歌「信濃の国」と並ぶ「三大県民歌」の1曲と称されていた。戦後は1959年(昭和34年)に制定されたもう1曲の「県民の歌」に取って代わられていたが、後年の再評価を経て2曲が正式な県民歌として並立するようになっている。
見る 戊辰戦争と秋田県民歌
税所篤
税所 篤(さいしょ あつし、文政10年11月5日(1827年12月22日)- 明治43年(1910年)6月21日)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚。子爵。内国事務権判事、西日本各地の県知事・県令、元老院議官、宮中顧問官、枢密顧問官等を歴任した。通称は喜三左衛門、容八、長蔵。号は巌舎、鵬北。初名は篤満、後に篤信とも名乗った。剛直をもって知られ、旧幕時代は王事に奔走し、一時は西郷隆盛、大久保利通と共に薩南の三傑と並び称された薩摩閥の重鎮である。
見る 戊辰戦争と税所篤
稲葉正巳
稲葉 正巳(いなば まさみ、文化12年10月15日〈1815年11月15日〉- 明治12年〈1879年〉9月16日)は、江戸時代後期から末期の大名。安房館山藩第4代藩主。3代藩主稲葉正盛の長男。
見る 戊辰戦争と稲葉正巳
稲葉正邦
稲葉 正邦(いなば まさくに)は、幕末の大名・老中・京都所司代で、山城淀藩12代目(最後)の藩主。正成系稲葉家宗家16代。
見る 戊辰戦争と稲葉正邦
窪田鎮勝
窪田 鎮勝(くぼた しげかつ、 文化5年(1808年) - 明治11年(1878年)は、幕末の旗本(2000石)、江戸幕府最後の西国郡代。通称治部右衛門(じぶえもん)。戦国時代の柳川城主の蒲池氏の流れを汲み、晩年には先祖の蒲池姓から蒲池 鎮克(かまち しげかつ)と改名する。号は克斎。備前守窪田鎮章の父。扱心流体術の達人としても知られる。
見る 戊辰戦争と窪田鎮勝
立花種恭
立花種恭 立花 種恭(たちばな たねゆき)は、江戸時代後期の大名。陸奥国下手渡藩の第3代藩主。のち筑後国三池藩主となり廃藩を迎えた。通称は鐘之助(しょうのすけ)、官位は出雲守。廉斎(れんさい)と号した。明治時代に子爵を授爵する。貴族院議員。
見る 戊辰戦争と立花種恭
箱館湾海戦
箱館湾海戦(はこだてわんかいせん)は、戊辰戦争の一連の戦闘のうち、箱館戦争における1戦闘であり、1869年5月20日(明治2年4月9日)の新政府軍(明治政府)の蝦夷上陸から6月20日(旧暦5月11日)の箱館総攻撃までの間に函館湾で行われた海戦である。
見る 戊辰戦争と箱館湾海戦
箱館戦争
箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 - 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。この戦争の最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。
見る 戊辰戦争と箱館戦争
篠山藩
再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県丹波篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。
見る 戊辰戦争と篠山藩
篤姫 (NHK大河ドラマ)
『篤姫』(あつひめ)は、2008年1月6日から同年12月14日にかけて放送された47作目のNHK大河ドラマ。平成20年度文化庁芸術祭参加作品(第32回「桜田門外の変」)。
節刀
節刀(せっとう、せちとう)は、日本の歴史において、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた、任命の印としての刀。標の太刀(しるしのたち)、標剣(しるしのつるぎ)とも。「節」は符節(割り符)のことで、使臣が印として持つ物の意。任務を終了すると、天皇に返還された。 節刀を持たされた将軍を持節将軍(じせつしょうぐん)、節刀を持たされた大使を持節大使(じせつたいし)という。持節将軍は、辺境の反乱を鎮定するために派遣される軍団の総指揮官で、鎮定する対象により、征隼人将軍、征夷大将軍、征東将軍などと呼ばれた。「朝家の御守り」として遠征将軍に授ける場合は、鎮圧の対象は朝敵とされた。
見る 戊辰戦争と節刀
米山
米山(よねやま)は、新潟県の中越地方と上越地方の境にある山である。標高992.5メートル。きれいな四角錐(ピラミッド型)の頂上部をもつ山容はよく目立ち、古くから陸路や海路の目印ともされた。
見る 戊辰戦争と米山
米沢藩
戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は外様大名の上杉氏。石高は当初30万石で国主大名だったが、1664年に15万石に減封される。幕末に一時的に18万7千石に加増されるも戊辰戦争後に14万7千石に減封となり、支藩を併合して廃藩置県を迎えた。
見る 戊辰戦争と米沢藩
粕壁町
粕壁町44頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年2月26日閲覧。(かすかべまち)は、埼玉県南埼玉郡に存在した町。現在の埼玉県春日部市にあたる。 江戸時代にて、日光街道・奥州街道の宿場町であった粕壁宿が発展した。
見る 戊辰戦争と粕壁町
維新の嵐
『維新の嵐』(いしんのあらし)は、1988年6月に日本の光栄から発売されたPC-9801用リコエイションゲーム。 光栄によるシミュレーションゲームとロールプレイングゲームを融合させた独自のゲームジャンル「リコエイションゲーム」のシリーズ第1作。プレイヤーは幕末に実在した人物の1人となって日本全国の思想的統一を果たし、自分の思想なりの明治維新を成就させることを目指す。 開発は光栄が行い、プロデューサーはシブサワ・コウ、音楽はパソコン用ソフト『三國志』(1985年)や『信長の野望・全国版』(1986年)を手掛けた菅野よう子、『信長の野望・戦国群雄伝』(1988年)を手掛けた山本光男が担当している。
見る 戊辰戦争と維新の嵐
美正貫一郎
美正 貫一郎(みしょう かんいちろう、1844年(天保15年1月) - 1868年9月13日(慶応4年7月27日))は、江戸時代後期の土佐藩士。迅衝隊一番司令。断金隊隊長。美正建臣とも表記される。
見る 戊辰戦争と美正貫一郎
翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)
『翔ぶが如く』(とぶがごとく)は、NHKで1990年1月7日から12月9日に放送された28作目の大河ドラマ。西田敏行が演じる西郷隆盛と鹿賀丈史が演じる大久保利通が主役。 平成のうちに初回を迎えた最初の作品。 原作は司馬遼太郎の同名小説『翔ぶが如く』。大河ドラマ初の2部構成作品(第1部29話、第2部19話の全48話)。
翔企画
有限会社翔企画(しょうきかく)は、鈴木銀一郎による日本(所在地、東京都)の企業。書籍や雑誌の編集業務などを行なっていたが、アナログゲームやその関連物も多数自社出版している。1984年5月設立。
見る 戊辰戦争と翔企画
真田幸民
真田 幸民(さなだ ゆきもと)は、信濃松代藩の第10代(最後の)藩主。日本の華族(伯爵)。血統上は伊達政宗の男系子孫である。
見る 戊辰戦争と真田幸民
真鶴半島
真鶴半島(まなづるはんとう)は神奈川県足柄下郡真鶴町にある小さな半島である。海岸は高さ20mほどの岸壁が続く。陸上には松や楠、椎などの常緑樹の大木と、シダ類が生い茂る原生林が残されている。先端の真鶴岬の先には神奈川県の名勝地である三ツ石(正式には笠島という)がある。引潮の際にはこの三ツ石まで歩いて渡ることができる。真鶴半島でしか採取されない石として本小松石がある。なお、この真鶴半島の先端から、三浦半島の先端を結んだ線から北の海域を相模湾と呼ぶ。
見る 戊辰戦争と真鶴半島
田原坂 (テレビドラマ)
『田原坂』(たばるざか)は、1987年12月30日・12月31日に日本テレビで放映された日本テレビ年末時代劇スペシャルの第3作。西郷隆盛の半生を描いた作品。 里見浩太朗主演。萬屋錦之介が特別出演している。 前後編あわせて本編時間は5時間30分にも及ぶ大作で、全9作の「年末時代劇スペシャル」の中でも最長。前2作『忠臣蔵』(1985年)、『白虎隊』(1986年)の高視聴率により同シリーズの人気が確立した時期の作品であり、事前宣伝などにも力が入れられた。DVDが発売・レンタルされておりビデオ版もレンタルされている。、現在でも比較的容易に視聴できる。 2023年12月26日から12月29日までBS松竹東急にて全8話(第一部・第1~4章、第二部・第1~4章)に再構成して放送された。
田安徳川家
田安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川将軍家の一門である御三卿の一つ。単に田安家とも言う。
見る 戊辰戦争と田安徳川家
甲州
甲州(こうしゅう)。
見る 戊辰戦争と甲州
甲府城
甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった日本の城。舞鶴城の雅号を持ち、国の史跡に指定されている。
見る 戊辰戦争と甲府城
甲陽鎮撫隊
甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)は、慶応4年(1868年)に新選組が旧幕府から甲府鎮撫を命ぜられた際の名称である。 なお、本稿では甲陽鎮撫隊の編成についてのみ述べる。編成されて以降、甲府までの進軍過程ならびに甲州勝沼での新政府軍との合戦については甲州勝沼の戦いを参照。
見る 戊辰戦争と甲陽鎮撫隊
男爵
男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。なお、イギリスには男爵の下位に準男爵という世襲称号があるが、準男爵は貴族ではなく平民である。
見る 戊辰戦争と男爵
熊本藩
熊本城 熊本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石(細川家の時代に、八代領と両支藩を分封ののち高直しで54万石)。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関など)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。熊本藩細川家は肥後一円を領有していないが、国持ち大名(大身国持)とされた。
見る 戊辰戦争と熊本藩
留守居
留守居(るすい)は、江戸幕府および諸藩に置かれた職名のひとつ。 御留守居(おるすい)とも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と留守居
目付
目付(めつけ)・目付役(めつけやく)とは、日本史において監察を務める役を指す。
見る 戊辰戦争と目付
相馬中村藩
相馬中村藩(そうまなかむらはん)は、江戸時代の日本で、旧陸奥国の標葉郡から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部)を治めた藩である。藩主の姓から相馬藩(そうまはん)、本拠地名から中村藩(なかむらはん)とも呼ばれるが、他の「中村藩」と区別する際には相馬中村藩や陸奥中村藩という。 藩政府は中村城(相馬市)であった。藩主は一貫して相馬家で、家格は柳間詰め外様大名、後に帝鑑間詰め譜代大名に列せられる。
見る 戊辰戦争と相馬中村藩
相楽総三
相楽 総三(さがら そうぞう、天保10年(1839年) - 慶応4年3月3日(1868年3月26日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷派志士。江戸出身。赤報隊隊長。
見る 戊辰戦争と相楽総三
相模
相模(さがみ)。
見る 戊辰戦争と相模
盛岡藩
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。 居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。
見る 戊辰戦争と盛岡藩
白石城
白石城(しろいしじょう)は、宮城県白石市(陸奥国刈田郡白石)にあった日本の城(平山城)。別名益岡城(枡岡とも)。城は白石市指定史跡となっている。中世の頃は白石氏(刈田氏)の居館だったと伝わる。戦国時代末期に城主が何度か変遷し、江戸時代には仙台藩家臣の片倉氏の城となった。九州の八代城などと並んで、江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した。現在ある三階櫓や門は1995年(平成7年)に復元されたものである。続日本100名城(105番)に選ばれている。
見る 戊辰戦争と白石城
白石川
白石川(しろいしがわ)は、宮城県南部を流れる一級河川で、阿武隈川水系の支流の一つである。流域の大河原町から柴田町にかけて続く、堤防上の約1,200本の桜並木は「一目千本桜」と呼ばれ、著名である。
見る 戊辰戦争と白石川
白石市
白石市(しろいしし)は、宮城県南部の市。 蔵王連峰のふもとに位置する。江戸時代に白石城の城下町として繁栄を築き上げ、それに伴う名所や旧跡が点在する。1954年(昭和29年)市制施行。
見る 戊辰戦争と白石市
白虎隊
白虎隊(びゃっこたい)は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来する。他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。 会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られるが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きた。
見る 戊辰戦争と白虎隊
白虎隊 (1986年のテレビドラマ)
『白虎隊』(びゃっこたい)は、1986年12月30日・12月31日に日本テレビ系列で放送されたユニオン映画製作の時代劇。『年末時代劇スペシャル』の第2作。初日(前編)・2日目(後編)ともに20:03 - 23:00(日本標準時)に放送された。 幕末に起こった戊辰戦争における会津藩の悲劇を描いた作品。ナレーションは鈴木瑞穂が担当。 『年末時代劇スペシャル』シリーズ最大のヒット作。堀内孝雄による主題歌「愛しき日々」も大ヒットして堀内の代表曲になった。 2000年12月にはDVD化もされた。DVD版では前編、後編ともそれぞれ第一章、第二章、第三章に分けられている(2008年12月にDVD版レンタル開始)。
白虎隊〜敗れざる者たち
『白虎隊〜敗れざる者たち』(びゃっこたい やぶれざるものたち)は、2013年1月2日に新春ワイド時代劇として放映されたテレビ東京のテレビドラマ。放映時間は17:00 - 23:48(JST)。 幕末の会津藩を、家老・西郷頼母の視点から描いた作品である。
白河口の戦い
白河口の戦い(しらかわぐちのたたかい)は、戊辰戦争における戦いの1つ。慶応4年閏4月20日から7月14日(1868年6月10日から8月31日)にかけて、南東北の要地白河小峰城(白河城)を巡る奥羽越列藩同盟側(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩(旧白河藩)など)と新政府軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩)との戦いで、戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。列藩同盟側には名義上同盟には加わらなかった会津藩や旧幕府歩兵も参加しているが、これ以降それらの勢力も含めて列藩同盟軍と記す。 仙台藩・米沢藩などを主力とした列藩同盟軍は、会津藩・庄内藩と提携し新政府と敵対する軍事同盟成立に際して白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取った。ここに戊辰戦争の東北地域での戦闘(東北戦争)が勃発した。しかし新政府軍は約700名程度で、列藩同盟側約2500名の駐屯していた白河城を奪還した。同盟軍は白河を経由した関東への進軍を意図して約4500名まで増援を行い、7回にわたって攻撃したが、新政府軍は劣勢な兵数で白河城を守りきった。
見る 戊辰戦争と白河口の戦い
白河小峰城
白河小峰城(しらかわこみねじょう)は、福島県白河市(陸奥国白河郡白河)にあった日本の城。単に小峰城ともいう。同市内には白川城址も存在するが、地元周辺でも古くから白河城と呼称されるものはこの白河小峰城を指す。国の史跡に指定されている。ほか、日本100名城の1つに含まれる。
見る 戊辰戦争と白河小峰城
白河市
白河市(しらかわし)は、福島県中通り南部に位置する市。 古代に白河の関が置かれて以来、みちのくの玄関口として知られる。
見る 戊辰戦争と白河市
花神 (NHK大河ドラマ)
『花神』(かしん)は、1977年1月2日から12月25日まで放送されたNHK大河ドラマ第15作。主演は中村梅之助。 周防の村医者から倒幕司令官に、明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者・大村益次郎を中心に、松下村塾の吉田松陰や奇兵隊の高杉晋作といった、維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇。司馬遼太郎の小説『花神』(主人公:大村益次郎)、『世に棲む日日』(主人公:吉田松陰と高杉晋作)、『十一番目の志士』(主人公:高杉晋作と天堂晋助)、『峠』(主人公:河井継之助)、『酔って候』の「伊達の黒船」(主人公:伊達宗城と前原巧山)の五作品を、脚本家の大野靖子がドラマ化した(前記以外にも『燃えよ剣』等の司馬作品からの引用も散見される)。
花燃ゆ
『花燃ゆ』(はなもゆ)は、2015年1月4日から12月13日まで放送されたNHK大河ドラマの第54作である。
見る 戊辰戦争と花燃ゆ
韮山代官所
date。
見る 戊辰戦争と韮山代官所
鎮台
鎮台(ちんだい、)は、。
見る 戊辰戦争と鎮台
鎌ケ谷市
鎌ケ谷市(かまがやし)は、千葉県の北西部に位置する市。人口は約11万人。1971年(昭和46年)市制施行。
見る 戊辰戦争と鎌ケ谷市
遊撃隊 (幕府軍)
遊撃隊(ゆうげきたい)は、14代将軍徳川家茂死後に結成された幕府軍の部隊。 慶応2年(1866年)10月22日、講武所師範や奥詰め幕臣らによる銃撃隊の再編成によって「遊撃隊」が結成され、槍術家の高橋泥舟や、剣客の榊原鍵吉・三橋虎蔵などが頭取を務める。 戊辰戦争では抗戦派と恭順派で意見が分かれ、抗戦派がさらに二派に別れた。一隊は村越三郎が率いて彰義隊と行動を共にする。もう一隊は伊庭八郎・人見勝太郎・岡田斧吉・本山小太郎ら36名から成り、榎本武揚艦隊の協力を得て江戸を脱出。閏4月3日には請西藩主・林忠崇と同盟を結んで決起した。各地に転戦を続けるうちに脱走兵による隊士も増え続け、およそ300名となった5月、上野戦争に参戦を図ったが敗退。その後も奥羽越列藩同盟軍に加わり抗戦を続けたが請西藩が恭順となり両同盟崩壊とともに隊士達の戦死・降伏が相次ぐ。伊庭・人見ら90余名のみが榎本艦隊と共に蝦夷地へ渡り、箱館戦争に身を投じた。
遠江国
遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。現在の静岡県西部、及び中部の一部(大井川の旧流である栃山川以西)。 現代の遠州地方については遠江を参照。
見る 戊辰戦争と遠江国
道庁
道庁(どうちょう)。
見る 戊辰戦争と道庁
荒井宣行
荒井 宣行(あらい のぶゆき、天保3年(1832年) - 明治39年(1906年)8月25日)は、幕末の仙台藩士で、額兵隊隊士。通称は平之進。変名、橋本左京。左馬之助とも。雅号は千歳庵一叟。
見る 戊辰戦争と荒井宣行
鍋島直大
鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、江戸時代末期(幕末)の大名。明治・大正時代の政治家、外交官。位階・勲等・爵位は従一位勲一等侯爵。肥前佐賀藩第11代藩主(最後)、同藩初代藩知事、駐イタリア特命全権公使、元老院議官、宮中顧問官、式部長官などを歴任した。 第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。李晋・李玖兄弟は曾孫にあたる。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前は将軍・徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。
見る 戊辰戦争と鍋島直大
萱野長修
萱野 長修(かやの ながはる)は、江戸時代末期(幕末)の会津藩家老。戊辰戦争に敗れた会津藩の責任者として処刑された。通称は権兵衛(ごんのひょうえ)三男の郡寛四郎の証言がある。。
見る 戊辰戦争と萱野長修
蝦夷地
近世における蝦夷地(えぞち)とは、松前藩の城下町松前を中心とする和人地を除く北海道本島、およびサハリン島(樺太島)や千島列島を含む周辺の島々を合わせた地域の総称である。大部分はアイヌの居住地であったが、他所から移り住む和人も存在した。またサハリン島では樺太アイヌ以外にウィルタやニヴフも居住していた。1869年に北海道の名称が定められると用いられなくなった。
見る 戊辰戦争と蝦夷地
蝦夷共和国
蝦夷共和国(えぞきょうわこく、)とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した旧江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。蝦夷政権、箱館政権、北海道共和国とも言う。
見る 戊辰戦争と蝦夷共和国
青松葉事件
名古屋城内に立つ「青松葉事件之遺跡」碑 青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて、尾張藩14代藩主徳川慶勝が、藩内において「佐幕派」とされた家臣を粛清した事件である。 それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた慶勝が「姦徒誅戮」の勅命を受けて帰国した直後に処罰が実行された。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。勅命が下った背景については諸説ある。
見る 戊辰戦争と青松葉事件
青森市
青森市(あおもりし)は、青森県の津軽地方・東青地域にある市。青森県の県庁所在地及び人口が最多の都市であり、中核市に指定されている。青森湾に臨む交通の要地。江戸初期に港町として発展。三内丸山遺跡や青森ねぶた祭が知られる。
見る 戊辰戦争と青森市
額兵隊
額兵隊(がくへいたい)は、江戸時代末期(幕末)に仙台藩で結成された洋式銃隊(西洋式軍隊)である。
見る 戊辰戦争と額兵隊
衝鋒隊
衝鋒隊(しょうほうたい)は、幕府陸軍の歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門が結成した組織。戊辰戦争で関東、越後、箱館を転戦した。副隊長に剣客今井信郎。
見る 戊辰戦争と衝鋒隊
館山市
館山市(たてやまし)は、千葉県の南部に位置する市。 都市雇用圏における館山都市圏の中心都市であり、館山商圏を形成する準商業中心都市および南房総観光圏の観光都市。海岸部は南房総国定公園に指定されている。 1939年(昭和14年)市制施行。
見る 戊辰戦争と館山市
西南戦争
西南戦争/西南の役(せいなんせんそう/せいなんのえき)は、1877年(明治10年)1月29日から9月24日に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本最後の内戦でもある。
見る 戊辰戦争と西南戦争
西園寺公望
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日〈1849年12月7日〉グレゴリオ暦導入後、西園寺は10月23日を戸籍上の誕生日として登録している - 昭和15年〈1940年〉11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒京都市北区等持院ちかくの別邸「萬介亭」の竹に因んだ号(出典: 藤井松一「西園寺公望関係文書について」『立命館大学人文科学研究所紀要(27)』p.32)。
見る 戊辰戦争と西園寺公望
西国
近畿地方 九州地方 西国(さいごく、せいごく、さいこく、せいこく)とは、日本西部の諸地域である。
見る 戊辰戦争と西国
西国筋郡代
西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)とは、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つ。西国郡代とも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と西国筋郡代
西郷どん (NHK大河ドラマ)
『西郷どん』(せごどん)は、2018年(平成30年)1月7日から同年12月16日まで放送されたNHK大河ドラマ第57作。NHK大河ドラマとしては平成のうちに最終回を迎えた最後の作品。 明治維新の立役者・西郷隆盛を原作・林真理子と脚本・中園ミホの「女の視点」で、勇気と実行力で時代を切り開いた「愛に溢れたリーダー」として描く。
西郷隆盛
西郷 隆盛(さいごう たかもり、、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。西郷隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門・大島吉之助などの変名も名乗った。
見る 戊辰戦争と西郷隆盛
西郷頼母
西郷 頼母(さいごう たのも、1830年5月16日(文政13年閏3月24日) - 1903年(明治36年)4月28日)は、幕末の会津藩の家老。名は近悳(ちかのり)幼名龍太郎、字を汝玉(じぎょく)明治維新後は保科 近悳(ほしな ちかのり)と改名。号を栖雲(せいうん)、酔月軒(すいげつけん)、晩年は八握髯翁(やつかぜんおう)と称した。西郷家は、もともとは「保科」姓で、信州高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町一帯)の藩主保科正直の弟三河守正勝から始り、後に会津藩主となった保科家の分流である。保科家は信州高遠城主で清和源氏頼季流に属し、正俊の代に武田氏に従い、正直の代から徳川氏に従った名家である。
見る 戊辰戦争と西郷頼母
西日本
西日本(にしにほん、にしにっぽん)とは、日本を大きく分ける時に使用される語で、日本の西側を指す。対比されるのは東日本や中日本(中部地方)。
見る 戊辰戦争と西日本
親藩
は、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、御三家・御三卿は別格であるため狭義の親藩には含まれない。
見る 戊辰戦争と親藩
観光史学
観光史学(かんこうしがく)とは、主に第二次世界大戦後に地域の歴史において、観光資源として動員することを理由に創作された歴史観。
見る 戊辰戦争と観光史学
香川敬三
香川敬三 幕末期の香川敬三 香川 敬三(かがわ けいぞう、天保10年11月15日(1839年12月20日) - 大正4年(1915年)3月18日)は、江戸末期の水戸藩出身の勤皇志士で、明治から大正期の日本の宮内省官僚。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官などを歴任し、美子皇后(昭憲皇太后)に長きに渡って仕えた。 諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、後に華族の子爵、ついで伯爵に列する。。生年は天保12年(1841年)という説もある。墓所は青山霊園(1イ4-25~26)。
見る 戊辰戦争と香川敬三
駿府
駿府(すんぷ)は、駿河国(現在の静岡県中部)にあった都市。現在の静岡市葵区の静岡中心市街地にほぼ相当する。 古代の律令時代に駿河国の国府(国庁、府中)が置かれた。駿府の名は「駿河府中」の略である。律令時代以後も近世まで長く駿府や府中、駿河府中と呼ばれた。戦国時代には駿府城が築かれ、城下町が整備される(駿府城下)。江戸時代には、単に府中と言えば駿府を指した。 江戸時代初期に行われた大御所政治('''駿府政権''')では実質的な首都として機能し、江戸・上方(京・大坂)に並ぶ大都市であった。 明治になり、駿府が徳川宗家ゆかりの地であることから、府中は不忠に通ずるとして新政府に恭順の意を示すため改名、駿府に政庁を置いていた藩は静岡藩と命名された。名称は、駿府の北西に位置する賤機山(しずはたやま)にちなむ。廃藩置県によって、静岡藩の後継として静岡県が成立。
見る 戊辰戦争と駿府
駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。現在の静岡県中部。上国。
見る 戊辰戦争と駿河国
駒ケ嶺 (新地町)
駒ケ嶺(こまがみね)は、福島県相馬郡新地町の大字。郵便番号は979-2611。人口は2,666人、世帯数は891世帯。戦国時代から江戸時代にかけて伊達領と相馬領の境界だった地であり、仙台藩領の最南端にあたる。 旧陸奥国宇多郡駒ヶ嶺村・磐城国宇多郡駒ヶ嶺村・白石県宇多郡駒ヶ嶺村・角田県宇多郡駒ヶ嶺村・仙台県宇多郡駒ヶ嶺村・宮城県宇多郡駒ヶ嶺村・磐前県宇多郡駒ヶ嶺村・福島県宇多郡駒ヶ嶺村・福島県相馬郡駒ヶ嶺村・福島県相馬郡新地村大字駒ケ嶺を経て現在の住所となった。
駕籠
駕籠 駕籠(かご)は、人を乗せて人力で運ぶ乗り物のこと。人が座る部分を一本の棒に吊し、複数人で棒を前後から担いで運ぶ。江戸時代まではよく使われたが、明治に入ると道路の整備に伴い急速に人力車に取って代わられていき、明治5年(1872年)までには交通・運送手段としての役割を終えてほぼ姿を消した。
見る 戊辰戦争と駕籠
討幕の密勅
討幕の密勅(とうばくのみっちょく)とは、江戸時代最末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、薩摩藩と長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の詔書、または綸旨である。
見る 戊辰戦争と討幕の密勅
討薩表
討薩表とは、鳥羽・伏見の戦いに際して徳川慶喜が薩摩藩討伐を表明し、薩摩側の罪を列挙した弾劾書である。
見る 戊辰戦争と討薩表
諸生党
諸生党(しょせいとう)は、水戸藩の保守・門閥派。幕末に家老市川弘美(三左衛門)らを中心に、藩内で改革派・天狗党と激しい抗争を繰り広げた。市川派あるいは諸生派とも呼ばれた。当時水戸城三ノ丸にあった藩校、弘道館の諸生(書生)が多かったためこの名がある。
見る 戊辰戦争と諸生党
高岡町 (宮崎県)
高岡町(たかおかちょう)は2005年(平成17年)12月31日まで宮崎県の中部に存在していた町である。古くは郡役所が置かれ、出先機関も集まる東諸県地区の中心地であった。2006年(平成18年)1月1日、宮崎市に編入され、宮崎市の合併特例区となり、5年後の2011年(平成23年)には地域自治区に移行した。
高倉永祜
高倉 永祜(たかくら ながさち)は、江戸時代後期の公卿。高倉永胤の子。官位は正三位。高倉家21代当主。
見る 戊辰戦争と高倉永祜
高鍋藩
高鍋藩(たかなべはん)は、日向国に存在した藩。現在の宮崎県児湯郡の東部(高鍋町、川南町、木城町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市(瓜生野・倉岡の一部)、国富町(木脇)を領有していた。藩庁は高鍋城(宮崎県児湯郡高鍋町)。高鍋の地は初期には財部といったため財部藩(たからべはん)とも呼ばれていた。
見る 戊辰戦争と高鍋藩
高松藩
高松城月見櫓 高松藩(たかまつはん)は、江戸時代前期には讃岐国(現在の香川県)を領有し、江戸時代中期より半国の東讃地域を領有した藩。生駒家の代は讃岐一国を領していたが、松平家(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。
見る 戊辰戦争と高松藩
請西藩
請西藩庁が置かれた真武根陣屋遺址 請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国に存在した藩。望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)の真武根陣屋(まふねじんや。請西陣屋とも)を藩庁とした。戊辰戦争時に藩主の林忠崇が新政府軍と交戦したため、戦後に改易された唯一の藩として知られる。 林家が1825年に大名になった当初は、望陀郡貝淵村(現在の木更津市貝渕)の貝淵陣屋を藩庁としていた。1850年に請西に移転するまでの林家の藩については貝淵藩(かいふちはん)とも呼ばれる。明治維新期には駿河国小島藩主であった滝脇松平家が当地に移され、名義上は望陀郡桜井村を藩庁所在地として桜井藩(さくらいはん)が設置されたが、この藩庁(桜井陣屋)は貝淵陣屋を転用したものである。貝淵・桜井・請西村は隣接関係にあり、貝淵(桜井)陣屋は貝淵・桜井両村の境界線に沿った貝淵村側にあった。
見る 戊辰戦争と請西藩
謝罪
記者会見で頭を下げ、国民に謝罪する内閣総理大臣麻生太郎(2009年) 謝罪(しゃざい、Apology)とは自らの非を認め、相手に許しを請う行為である。謝罪する側される側共に個人単位、団体単位、国家単位など様々な規模があり、謝罪する理由は本心からのものと、戦略的なものに分けられる。一般的には頭を下げるなどをして謝罪の意思を表す。謝罪は謝罪をする人の社会における地位や影響力、性格、価値観、土地の風習、文化、国際的であるかどうかなどで、具体的な行為は種々さまざまである。アメリカでも、たとえ相手が実際に悪いと思っていたとしても、謝罪は感情的知性の基本である。言い換えれば、謝罪は健全な人間関係の基本なのである。
見る 戊辰戦争と謝罪
議定
議定(ぎじょう)は、明治時代初期に置かれた明治政府の官職。 王政復古(慶応3年12月9日(1868年1月3日))の際に総裁・議定・参与の三職が設置された。議定には仁和寺宮純仁親王・中山忠能・松平慶永・島津茂久・徳川慶勝・山内豊信・山階宮晃親王・正親町三条実愛・中御門経之・浅野長勲の10名が任じられ、その後岩倉具視・三条実美・伊達宗城・長谷信篤の4名が追加された。 翌年1月に三職七科制が導入されると、議定には皇族・公卿・諸侯が任命され、七科を分督して議事を決する職とされ各科の事務総督は議定が兼ね、最大31名まで増員した。更に4月に政体書に基づく職制に移行し、議定は議政官上局に移されて、法律の制定、条約の締結、和戦の宣告、三等官以上の人事を司った。また、議定であった三条実美と岩倉具視が行政官の長である輔相(定員2名)を兼務した。9月に一旦議定は行政官に属するものとされたが、翌1869年(明治2年)4月に上局に戻されるなど複雑な変遷を遂げる。
見る 戊辰戦争と議定
譜代大名
譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つで、外様大名に対する語。「譜第(譜代)の臣」と言うように、もともと数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川家を支える藩屏としたことに由来する。これに対して、それ以外の家臣は徳川家の直轄軍に編成されて、後の旗本や御家人の元となった。
見る 戊辰戦争と譜代大名
讃岐国
讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。現在の香川県。上国。
見る 戊辰戦争と讃岐国
鯖江藩
鯖江藩(さばえはん)は、越前国今立郡西鯖江村の鯖江陣屋(現在の福井県鯖江市)に藩庁を置いた藩。1720年に譜代大名の間部氏が5万石で入る。幕末期の藩主間部詮勝は老中となるが、井伊直弼のもとで安政の大獄を指揮したため、1862年にその責を問われて減封などの処分を受ける。以後、4万石の藩として廃藩置県まで続いた。
見る 戊辰戦争と鯖江藩
財部町
財部町(たからべちょう)は、鹿児島県曽於郡に存在した町。旧東囎唹郡。
見る 戊辰戦争と財部町
賊軍
賊軍(ぞくぐん)とは、天皇(朝廷)及び政府の意思に叛逆し天皇、朝廷、政府より口頭、詔勅、綸旨等の手段により討伐、鎮撫、もしくは宣戦布告を受けた勢力の保持する軍勢のこと。小規模の場合は「賊徒」とも書かれる。「官軍」の対語。
見る 戊辰戦争と賊軍
賞典禄
賞典禄(しょうてんろく)は、明治維新に功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄である。支給期間によって永世禄、終身禄および年限禄の3種に分類される。
見る 戊辰戦争と賞典禄
鳥羽 (洛外)
鳥羽(とば)とは、かつて京都洛外、山城国紀伊郡に属していた鳥羽郷(とばごう)・鳥羽荘(とばのしょう)などと呼ばれた地域を指す名称。現在では京都市でも南区に属する上鳥羽・伏見区に属する下鳥羽に分割されている。 鴨川と桂川の合流地点の低湿地にあり、当時は鴨川が鳥羽の東側を流れ、また南は巨椋池に接したとされる。『和名類聚抄』では、「止波/度波」という訓を入れている。平安遷都以後、朱雀大路を羅城門から真南に延長した鳥羽作道が作られ、その道は鳥羽で淀川水系と接した。このため、鳥羽の河岸には鳥羽津が築かれた。貞観14年(872年)に作成された「貞観寺田地目録帳(『貞観寺根本目録』の一部)」(仁和寺所蔵重要文化財)に「鳥羽」の地名が登場する。また、平安京内の神泉苑の水は鳥羽からひかれたものであったとされている。
見る 戊辰戦争と鳥羽 (洛外)
鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日〈1868年1月27日〉- 1月6日〈1月30日〉)は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。
鳥羽藩
鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。
見る 戊辰戦争と鳥羽藩
鳴子峡
鳴子峡(なるこきょう)は、宮城県大崎市鳴子温泉にある峡谷『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』p517「鳴子町」。栗駒国定公園内に位置し、宮城県の名勝に指定されている宮城県庁公式webサイト,文化財保護課,,2023年1月10日閲覧。。 仙台弁の発音特性から「なるごきょう」と呼ばれることもある。
見る 戊辰戦争と鳴子峡
越中国
越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属し、現在の富山県に属する。
見る 戊辰戦争と越中国
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
見る 戊辰戦争と越後国
越後長岡藩
長岡藩(ながおかはん)は、越後国の古志郡全域および三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩。現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。 藩庁は長岡城(長岡市)。藩主は初めに堀家(8万石)、のちに牧野家に交替した。牧野家の家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ6万2千石、後に加増されて7万4千石になった。正徳2年(1712年)の内高は約11万5300石、。
見る 戊辰戦争と越後長岡藩
越前
越前、えちぜん。
見る 戊辰戦争と越前
足利市
足利市中心部を流れる渡良瀬川 足利市中心部周辺の空中写真。市街地の中央を北西から南東方向へ渡良瀬川が流れる。2023年1月20日撮影の40枚を合成作成。国土航空写真。 足利市(あしかがし)は、栃木県南西部にある市。旧足利郡と旧群馬県山田郡の一部から成る。地方拠点都市。 古くは足利庄が栄えて清和源氏義家流・足利氏発祥の地としても知られ、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼びルイス・フロイス が日本全国で唯一の大学と記した足利学校がある。
見る 戊辰戦争と足利市
路傍
路傍(ろぼう)とは、。
見る 戊辰戦争と路傍
鹿児島県
鹿児島県(かごしまけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は鹿児島市。 九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。
見る 戊辰戦争と鹿児島県
軟禁
軟禁(なんきん、)とは、人の行動の自由を奪う手段のうち、被拘束者の行動の自由を完全に奪うことを目的とした手段ではなく、専ら被拘束者の逃亡や部外者との接触を防止することのみを目的として用いられる比較的抑制的な手段を指す言葉。 軟禁と呼ばれる状態の下では通常、被拘束者は牢獄等には収容されず、家宅やその他類似の居住施設の中での一定の行動の自由は許される。ただし、外部との通信は制限を受ける可能性が高い。一人を軟禁するだけのために常時複数の監視人を置かねばならないため、軟禁の対象は軟禁を行う側にとって取扱いに特段の慎重さを要する重要人物に限られる傾向がある。
見る 戊辰戦争と軟禁
黒川藩
黒川藩(くろかわはん)は、越後国蒲原郡黒川(現在の新潟県胎内市黒川)に黒川陣屋を構え付近を領有した藩。
見る 戊辰戦争と黒川藩
黒田長知
黒田 長知(くろだ ながとも)は、筑前国福岡藩の第12代藩主、初代知藩事。
見る 戊辰戦争と黒田長知
黒田清隆
黒田 清隆(くろだ きよたか、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆󠄁」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆󠄁」ないし「黑田淸隆󠄁」である。、1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。
見る 戊辰戦争と黒田清隆
近畿地方
近畿地方の地形図 近畿地方(きんきちほう)は、本州中西部に位置する日本の地域である。かつての令制国における畿内(五畿内、五畿。「畿」は「都」の意)とその近隣地域から構成される。難波宮・平城宮・平安宮など古代より日本の都が置かれた皇城の地であり、現在も京都市・大阪市・神戸市を中心とする京阪神大都市圏(近畿大都市圏)は日本第二のメガロポリスをなす。 「近畿地方」の範囲について法律上の明確な定義はないが、認定教科書(文部科学省指導要綱)および主要な百科事典では大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・和歌山県・滋賀県・三重県の2府5県を指すことが多く『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.408 ISBN 4-09-523101-7、当項でも特記がある場合を除いてこの範囲で説明する。
見る 戊辰戦争と近畿地方
近藤勇
近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月5日〈1834年11月5日〉- 慶応4年4月25日〈1868年5月17日〉)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。
見る 戊辰戦争と近藤勇
近江国
近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。
見る 戊辰戦争と近江国
迅衝隊
迅衝隊(じんしょうたい)は、戊辰戦争における御親征東山道先鋒総督軍(土佐藩兵)の主力部隊。 1868年(慶応4年)1月6日に編成され、1870年(明治3年)11月藩命により解散。隊士総数は約600名。乾退助(のちの板垣退助)が軍制改革を行い編成した土佐藩「士格別撰隊」を起源とする。実質的には板垣退助を主将とし、上士勤王派の諸士、旧土佐勤王党員ら土佐藩内で勤王の志の強いもの達で構成された。これとは別に土佐藩の上士で構成された「胡蝶隊」という部隊もある『迅衝隊出陣展』中岡慎太郎館編、平成15年(2003年)。
見る 戊辰戦争と迅衝隊
錦の御旗
錦の御旗(にしきのみはた)は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗。略称錦旗(きんき)、別名菊章旗、日月旗。赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)。「朝敵」討伐者の旗。承久の乱(1221年〈承久3年〉)に際し、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされる。
見る 戊辰戦争と錦の御旗
茨城県
茨城県(いばらきけん)は、日本の関東地方に位置する県。県庁所在地は水戸市。 首都圏を構成し、都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。
見る 戊辰戦争と茨城県
蜂須賀斉裕
蜂須賀 斉裕(はちすか なりひろ)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩13代藩主。 11代将軍・徳川家斉の二十二男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。13代将軍・徳川家定(家慶の子)は甥にあたるが、僅か3歳年下である。父の家斉より偏諱を賜って斉裕と名乗る。号は翼齋、橘堂(和歌、俳句)。
見る 戊辰戦争と蜂須賀斉裕
都城市
都城市(みやこのじょうし)は、宮崎県の南西端に位置する市。宮崎市に次ぎ、県内第2の人口を擁する主要都市である。
見る 戊辰戦争と都城市
能登
能登(のと)。
見る 戊辰戦争と能登
都道府県民歌
知事)顕彰碑兼歌碑 都道府県民歌(とどうふけんみんか)は、日本の都道府県が制定し、各都道府県内において歌い継がれている歌の総称である。都道府県歌、もしくは都道府県民の歌と呼ばれる場合もある。
見る 戊辰戦争と都道府県民歌
船橋市
船橋市(ふなばしし)は、千葉県の北西部に位置する市。中核市および保健所政令市に指定されている。 人口は約65万人で、千葉県内では千葉市に次いで第2位の人口規模で、政令指定都市ではない市では日本最多の人口を有する。旧東葛飾郡及び千葉郡1937年の市制当時の区域は東葛飾郡。 1937年(昭和12年)市制施行。
見る 戊辰戦争と船橋市
阿武隈川
阿武隈川(あぶくまがわ)は、福島県および宮城県を流れる阿武隈川水系の本流で、一級河川である。水系としての流路延長239kmは、東北地方で北上川に次ぐ長さの川である。
見る 戊辰戦争と阿武隈川
赤報隊
赤報隊(せきほうたい)は、江戸時代後期の幕末に結成された草莽隊で、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。
見る 戊辰戦争と赤報隊
関藤藤陰
関藤 藤陰(せきとう とういん、文化4年(1807年) - 明治9年(1876年)12月29日)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。幼名は元五郎、諱は成章、字は君達。養家の石川姓を名乗っていたため、通称と合わせて石川 和助(いしかわ わすけ、和介とも)と呼ばれる。江戸幕府老中・福山藩主阿部正弘の側用人(君側御用係)として幕政に関与する。明治維新の際には執政として藩論を新政府支持でまとめた。
見る 戊辰戦争と関藤藤陰
関東地方
関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分(七地方区分)の1つであり、本州の東部に位置している。 その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京都を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の約34.8%(2022年10月1日現在)、GDPの約39.1%(2020年度)が集中している。特に南関東(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)の1都3県は通勤・通学などで東京との結びつきが大きい。関東地方の1都6県に山梨県を加えて首都圏を構成している。
見る 戊辰戦争と関東地方
薩土密約
密約が締結された場所に建つ石碑。小松帯刀寓居跡(京都市上京区) 薩土密約(さっとみつやく/さつどみつやく)は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日(1867年6月23日)に、京都の小松帯刀(清廉)寓居(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟で、「薩土同盟」とも呼ばれるが、性質の異なる「薩土盟約」も「薩土同盟」と呼ばれるため区別して薩土討幕の密約ともいう。
見る 戊辰戦争と薩土密約
薩長同盟
薩長同盟所縁之地石碑(京都市上京区) 薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長連合ともいう。
見る 戊辰戦争と薩長同盟
薩摩藩
薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有し、琉球王国(現在の沖縄県)が服属したただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。。
見る 戊辰戦争と薩摩藩
開陽丸
開陽丸(かいようまる)は、幕末期に幕府海軍に所属していたオランダ製軍艦。オランダでの愛称はVoorlichter(夜明け前)。木造シップ型フリゲート。 江戸幕府大老井伊直弼の意思を継いだ老中安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦で、オランダで造艦され、1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ入港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが柏倉p.9、徳川軍艦としてわずか1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷地・江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。 1975年(昭和50年)、江差町教育委員会によって世界初となる水中・産業考古学の対象として発掘・調査プロジェクトが発足した柏倉p.1。大砲やシャフト等の遺構から古文書まで3万点以上の遺留品の引揚げが行われている。
見る 戊辰戦争と開陽丸
藤堂高猷
藤堂 高猷(とうどう たかゆき)は、伊勢津藩の第11代藩主。藤堂家宗家11代。
見る 戊辰戦争と藤堂高猷
蔵前
蔵前(くらまえ)は、東京都台東区の町名。現行行政地名は蔵前一丁目から蔵前四丁目。郵便番号は111-0051。
見る 戊辰戦争と蔵前
脱藩
脱藩(だっぱん)は、江戸時代に武士(藩士)が藩(国や領地など)を脱出(自立)して浪人になること。
見る 戊辰戦争と脱藩
醍醐忠敬
醍醐 忠敬(だいご ただゆき)は、江戸時代後期の公家。権大納言・醍醐忠順の次男。官位は従三位。維新後は留守権判官、元老院議官、錦鶏間祗候。後陽成天皇の男系八世子孫である。
見る 戊辰戦争と醍醐忠敬
膳所藩
膳所藩(ぜぜはん)は、近江国滋賀郡膳所の膳所城(現在の滋賀県大津市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期には短期間で藩主家が交替したが、そのうちの本多家が1651年に再封され、以後廃藩置県まで藩主を務めた。京都への入口を押さえる役割を担い、歴代藩主家はいずれも譜代大名である。本多氏(再封)時代の石高は7万石で、これは近江国では彦根藩(井伊家)に次ぐ規模である。
見る 戊辰戦争と膳所藩
重原藩
重原藩(しげはらはん)は、明治改元後から廃藩置県までの間、三河国に存在した藩。石高は2万8000石。藩庁は重原陣屋に置かれた。設楽郡には田口代官所を置いて統治した。
見る 戊辰戦争と重原藩
自由民権運動
自由民権運動(じゆうみんけんうんどう、、)とは、明治時代の日本において行われた、憲法制定や国会開設のための政治運動ならびに社会運動である。
見る 戊辰戦争と自由民権運動
至誠堂
至誠堂(しせいどう)とは明治時代に創業された日本の出版社である。
見る 戊辰戦争と至誠堂
長岡市
長岡市(ながおかし)は、新潟県の中南部(中越地方)に位置する市。県内では新潟市に次いで第2位の人口を持ち、中越地方では最多の人口を有する。施行時特例市に指定されており、長岡まつり大花火大会で知られている。1906年(明治39年)に市制施行。
見る 戊辰戦争と長岡市
長崎奉行
長崎奉行(ながさきぶぎょう)は、江戸幕府の遠国奉行の一つで、遠国奉行首座。
見る 戊辰戦争と長崎奉行
長州藩
長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利家を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。版籍奉還後の名は、山口藩。 現在の山口県に相当する。 萩城址。
見る 戊辰戦争と長州藩
長松幹
長松 幹(ながまつ つかさ『平成新修旧華族家系大成』下巻、243頁。 / みき『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』329-332頁。、1834年2月9日〈天保5年1月1日〉 - 1903年〈明治36年〉7月16日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』148頁。)は、幕末の長州藩士、明治期の歴史学者・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。諱・文仲、字・子固『明治維新人名辞典』706頁。。通称・大蔵、文助、文輔。号・秋琴。
見る 戊辰戦争と長松幹
長楽寺 (福島市)
長楽寺(ちょうらくじ)は、福島県福島市にある曹洞宗の寺院。山号は萬年山で、本尊は聖観世音菩薩。
酒井了恒
酒井 了恒(さかい のりつね)は、出羽庄内藩家老酒井了明の長男。幼名虎之進。元服して吉弥。慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である玄蕃。吉之丞を襲名した。諱は了恒。字(あざな)は伯通である。戊辰戦争において庄内藩二番大隊・大隊長。明治維新後、大泉県参事。 戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られている。 弟には、庄内柿の生みの親として有名な酒井調良と、書家の黒崎研堂がいる。
見る 戊辰戦争と酒井了恒
酒井忠篤 (庄内藩主)
酒井 忠篤(さかい ただずみ)は、江戸末期の大名、明治から大正期の日本の華族、陸軍軍人。華族としての爵位は伯爵、軍人としての最終階級は陸軍中尉。 酒井佐衛門尉家17代当主として出羽庄内藩第11代藩主となったが、明治元年に王師に抗したため蟄居・改易となったが、弟忠宝が家名再興を許され最後の藩主となった。明治13年に弟に家督を譲られて19代当主となり、華族の伯爵に列する。
酒井忠惇
酒井 忠惇(さかい ただとし/ただとう)は、江戸時代末期から明治時代の旗本、大名、華族。播磨姫路藩の第9代藩主。雅楽頭系酒井家宗家17代。江戸幕府の老中でもあった。幕府最後の大老で先代藩主・酒井忠績は兄。
見る 戊辰戦争と酒井忠惇
英国策論
英国策論(えいこく さくろん)とは、アーネスト・サトウが1866年に無題・無署名でジャパン・タイムスに寄稿した3つの記事を和訳したものである。「英国策論」と名付けられ、広く読まれた。イギリスの対日政策を示すものとみなされ、明治維新に大きな影響を与えた。
見る 戊辰戦争と英国策論
雄藩
雄藩(ゆうはん)とは、江戸時代の日本における勢力の強い藩のこと。経済力や政治力のある有力藩に対する呼称である。
見る 戊辰戦争と雄藩
老中
老中(ろうじゅう)は、江戸幕府に常設された最高職。2万5000石以上の譜代大名から任用され、複数名が月番制で政務を執ったが、筆頭者(老中首座)は事実上の執政として幕政を主導した。 なお、諸藩で通常藩政を統括する者を家老というが、藩によって名称や職制はさまざまであり、老中と呼ぶところもあった。
見る 戊辰戦争と老中
降伏
太平洋戦争(大東亜戦争)に於ける日本の降伏文書調印 降伏(こうふく)とは、戦争において軍隊、あるいは個々の戦闘員が敵に対する戦闘行為をやめて、その支配下にある地点・兵員・戦闘手段を敵の権力内に置くこと。降服、投降ともいう。広義には抵抗を止めて相手に服従すること。
見る 戊辰戦争と降伏
陸軍総裁
陸軍総裁(りくぐんそうさい)は、幕府陸軍の最高職である。陸軍省の陸軍大臣また陸軍長官に相当する。
見る 戊辰戦争と陸軍総裁
Gakken
株式会社Gakken(ガッケン)は、学研ホールディングス傘下の出版社。 小学校・中学校の教科書を主体に、教育関連の書籍などを出版していた学研教育みらいを存続会社として2022年10月1日付で学研プラス、学研メディカル秀潤社、学研出版サービスと合併し、総合出版社の株式会社Gakkenとなった。グループ再編・社名変更の間も、漢字表記の「学研」を出版ブランドとして継続使用している。
見る 戊辰戦争とGakken
柳原前光
柳原 前光(やなぎわら さきみつ)は、幕末から明治時代にかけての公家。華族。伯爵。柳原家第22代当主。大正天皇の伯父。
見る 戊辰戦争と柳原前光
柳町 (福島市)
柳町(やなぎまち)は、福島県福島市の町名。丁番を持たない単独町名である。郵便番号は960-8063。
林忠崇
林 忠崇(はやし ただたか、嘉永元年7月28日〈1848年8月26日〉- 昭和16年〈1941年〉1月22日)は、江戸時代末期(幕末)の大名。上総国請西藩の第3代藩主。 松平親氏の代から松平氏(徳川氏)に仕えた三河譜代の林家当主として、戊辰戦争時には大名の身ながら脱藩して旧幕府方の遊撃隊に加わり、各地を転戦したため、戦後明治新政府によって改易された唯一の大名となる。赦免後も職や住所を転々としてしばらく困窮した生活を送るが、昭和初期まで存命し、晩年は「最後の大名」として知られた。
見る 戊辰戦争と林忠崇
枕崎市
枕崎市街地 枕崎市(まくらざきし)は、鹿児島県の薩摩半島南西部に位置し、東シナ海に面する市である。気候は温暖であるが、夏から秋にかけては台風の通過が多く、室戸市(高知県:室戸岬)、串本町(和歌山県東牟婁郡:潮岬)などと並び台風銀座の一つである。
見る 戊辰戦争と枕崎市
東山区
東山区(ひがしやまく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。
見る 戊辰戦争と東山区
東山道
東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分である。また、古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編された。
見る 戊辰戦争と東山道
東京大学出版会
一般財団法人東京大学出版会(とうきょうだいがくしゅっぱんかい、英称:University of Tokyo Press)は、東京大学の出版部に当たる法人。東京大学総長を会長とし、東京大学の活動に対応した書籍の出版を主に行う。
見る 戊辰戦争と東京大学出版会
東北地方
東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置する。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう明治維新以後、九州を「西南」(西南地方)、奥羽を「東北」(東北地方)と改めた。。最大都市は仙台市である。 その範囲に現行法上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。
見る 戊辰戦争と東北地方
東国
alt。
見る 戊辰戦争と東国
東艦
東艦(あずまかん、前名 甲鉄艦〈こうてつかん〉)は、日本海軍の軍艦。浅瀬で使用される衝角と大砲3基が備わっており、外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。 元をたどると、南北戦争中に南軍が発注した艦であり、仮称艦名は「スフィンクス」であった。北軍の抗議により引き渡しができなくなるとデンマークへ売却となるも、戦争で敗勢となったデンマークに引き取り拒否され、次いで南軍の手にわたってキューバへ向かったが、南北戦争終結によりキューバ、続いてアメリカ合衆国へ売却される。それを日本が購入した。1874年の佐賀の乱、台湾出兵に就役したが、1877年の西南戦争ではほとんど使用されず、1888年に廃船となった。
見る 戊辰戦争と東艦
東海地方
東海地方(とうかいちほう)は、中部地方・近畿地方において本州中央部に位置し太平洋に面する地域の名称として扱われる。最大都市は愛知県名古屋市である。
見る 戊辰戦争と東海地方
東海道
東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。
見る 戊辰戦争と東海道
松山城 (伊予国)
松山城(まつやまじょう)は、愛媛県(旧伊予国)松山市に築かれた日本の城。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。松山城と呼ばれる城は、同じ現存12天守の一つである備中松山城(岡山県高梁市)など各地に存在する。本城も「伊予松山城」と呼び分けられることもあるが、松山市にあることもあり、単に「松山城」とした場合は一般的に本城を指す。 江戸時代に同地などを治めた伊予松山藩の藩主居城および政庁として築かれた。松山城が建つ勝山は「城山」とも呼ばれ、城跡の主要部分が城山公園として整備されている 松山市役所公式サイト(2024年7月14日閲覧)。四国最大の城郭であるほか、建物がよく保存されている。前述のように、現存12天守の一つである大天守を含む21棟が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されている。そのほか、連立式天守群の小天守以下5棟をはじめとする22棟(塀を含む)が木造で復元されている。二の丸御殿、三の丸御殿、櫓、門、土塀といったこれ以上の木造復元をする計画は予算の関係でない。
松山戦争
松山戦争(まつやませんそう)は、明治元年10月6日(1868年11月19日)に発生した、下総国匝瑳郡松山村(現在の千葉県匝瑳市)における市川弘美ら水戸藩諸生党とこれを追跡する水戸藩天狗党との戦い。
見る 戊辰戦争と松山戦争
松島
松島 松島(まつしま)は、宮城県北東部の松島湾内外にある約260の島々からなる諸島やそれを擁する多島海【ニッポン絵ものがたり】川瀬巴水「松島双子島」祈りの島 絶景に浮かぶ満月『読売新聞』日曜朝刊別刷り「よみほっと」2021年8月8日(島の数については諸説ある。後述)。または、湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。日本三景の一つに数えられている。2019年の観光入込客数は約598万人。かつては「東の松島 西の象潟」と謳われ、同じく東北地方に存在していた修景地の象潟と並び称されていた。
見る 戊辰戦争と松島
松川町浅川
松川町浅川(まつかわまちあさかわ)は、福島県福島市の大字。郵便番号は960-1245。
見る 戊辰戦争と松川町浅川
松平定敬
函館戦争中の松平定敬 高須四兄弟(1878年9月撮影)左から定敬、容保、茂栄、慶勝 松平 定敬(まつだいら さだあき)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩主。京都所司代。定綱系久松松平家13代。 兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保などがいる。いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。
見る 戊辰戦争と松平定敬
松平容保
松平 容保(まつだいら かたもり、天保6年12月29日〈1836年2月15日〉- 明治26年〈1893年〉12月5日)は、幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。
見る 戊辰戦争と松平容保
松平春嶽
松平春嶽 松平 春嶽 / 慶永(まつだいら しゅんがく / よしなが、)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代前期にかけての大名、政治家、華族。越前国福井藩16代藩主一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉えると第14代となる。。位階・勲等は従一位勲一等。 春嶽は号で、諱は慶永(よしなが)である。他に礫川、鴎渚などの号を用いた。 第11代将軍・徳川家斉の弟で田安徳川家3代当主・徳川斉匡の八男。母は閑院宮家司・木村大進政辰の娘である青松院(れゐ)。松平斉善の養子。第12代将軍・徳川家慶の従弟。英邁な藩主で、幕末の四賢侯の一人と謳われていた。著作に幕末明治期の重要な史料である『逸事史補』がある。
見る 戊辰戦争と松平春嶽
松前修広
松前 修広(まつまえ ながひろ)は、江戸時代後期の大名。十州島。
見る 戊辰戦争と松前修広
松前藩
松前藩(まつまえはん)は、松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年(1868年)、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部、渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。
見る 戊辰戦争と松前藩
松江藩
藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲または隠岐を加えた2か国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾家、京極家と続き、親藩の雲州松平家が廃藩置県まで支配した。
見る 戊辰戦争と松江藩
松方正義
松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日〈1835年3月23日〉- 大正13年〈1924年〉7月2日)は、日本の政治家、財政家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。。 明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに、大蔵卿(第6代)、大蔵大臣(初・第3・5・8代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。第2代日本赤十字社社長。
見る 戊辰戦争と松方正義
板垣退助
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月16日、4月17日〈1837年5月20日もしくは5月21日〉 - 大正8年〈1919年〉7月16日)は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督、迅衝隊総督兼大隊司令)、武士(土佐藩士)、東征大総督東山道参謀。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲として参与、参議、内務大臣(第10代・第13代)を歴任。 幕末に薩摩藩士・西郷隆盛と共に「薩土密約」締結を主導。戊辰戦争では東征大総督東山道参謀として指揮を執り、明治維新後に参与となる。征韓論政変で下野後、自由民権運動の指導者として東アジアで初となる帝国議会の樹立に向けて活動し、「国会を創った男」として知られる『板垣退助105回忌に寄せて』衆議院議員・中谷元著(『NPO法人板垣会』会報第11号1頁より)。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。
見る 戊辰戦争と板垣退助
板垣退助先生顕彰会
板垣退助先生顕彰会(いたがきたいすけせんせいけんしょうかい)は 、1968年(昭和43年) 自由民主党総裁・佐藤栄作の意を受けて、板垣退助を顕彰する目的で東京都千代田区の東京高知県事務所において設立された文化学術団体『』会報第3号。現在は髙岡功太郎を理事長として大阪府大阪市に本部を置く、非営利活動型の一般社団法人で、現代維新を実現する為の草莽崛起を呼びかけている。
村上藩
村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上家が当地に入ったが、1618年に改易された。外様大名の堀家3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤家が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤家が5万石の藩を統治した。
見る 戊辰戦争と村上藩
村松藩
村松藩(むらまつはん)は、越後国蒲原郡のうち、村松・下田・七谷・見附地方を支配した藩。藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。
見る 戊辰戦争と村松藩
杉孫七郎
杉 孫七郎(すぎ まごしちろう、1835年2月13日(天保6年1月16日)- 1920年(大正9年)5月3日)は、日本の武士・長州藩士。明治・大正期の官僚、華族(子爵)。諱は重華。字は子華。通称は徳輔・忠次郎・少輔九郎。号は松城・聴雨。
見る 戊辰戦争と杉孫七郎
校倉書房
校倉書房(あぜくらしょぼう)は、かつて存在した出版社。東京都新宿区西早稲田に本社を置き、日本史を中心とした歴史書の出版及び販売を行っていた。
見る 戊辰戦争と校倉書房
根占町
根占町(ねじめちょう)は、鹿児島県南東部、肝属郡に属していた町。現在の南大隅町北部、雄川下流域とその南一帯にあたる。 日本史上では禰寝氏の本貫地として知られ、著名な町であった。南大隅町、日置市(日吉町吉利)の各項参照。
見る 戊辰戦争と根占町
桑名藩
桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国桑名に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。越後国の中部にも領地があり柏崎陣屋が統治した。
見る 戊辰戦争と桑名藩
桂太郎
桂 太郎(かつら たろう、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された。
見る 戊辰戦争と桂太郎
棚倉城
棚倉城(たなぐらじょう)は、福島県東白川郡棚倉町にあった日本の城。別名亀ケ城。寛永2年(1625年)に丹羽長重によって築城された。棚倉藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。
見る 戊辰戦争と棚倉城
棚倉藩
棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。
見る 戊辰戦争と棚倉藩
楢山佐渡
楢山 佐渡(ならやま さど)は、江戸時代後期の盛岡藩家老。首席家老として、藩財政の建て直しを始め制度改革を行なう。 戊辰戦争においては藩を奥羽越列藩同盟に同盟させた主導者となり、秋田戦争において指導的な立場にあったが、戦後は敗戦の責を負って盛岡で斬首刑に処された。
見る 戊辰戦争と楢山佐渡
榊原政敬
榊原 政敬(さかきばら まさたか)は、江戸時代後期の大名。明治時代の華族。越後国高田藩の第6代(最後)の藩主。榊原家14代当主。のち子爵。
見る 戊辰戦争と榊原政敬
榎本武揚
榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 - 1908年〈明治41年〉10月26日)は、幕末・明治期の武士(幕臣)、海軍軍人、政治家、外交官。海軍中将正二位勲一等子爵。
見る 戊辰戦争と榎本武揚
橋本実梁
橋本 実梁(はしもと さねやな)は、攘夷派の公卿。橋本家19代当主で橋本実麗の養子。戊辰戦争でも戦った功臣で、のち式部寮に籍を置いた。晩年に伯爵に叙勲され、元老院議官となる。澁澤敬三と澁澤信雄と澁澤智雄は孫にあたる。渋沢雅英と渋沢裕は曾孫。渋沢田鶴子と渋沢健は玄孫にあたる。
見る 戊辰戦争と橋本実梁
武家奉公人
時代祭での武家奉公人 武家奉公人(ぶけほうこうにん)とは、武家の武士に奉公する農民や町人出身の従者を言う。江戸時代以前では主家に仕える(奉公する。
見る 戊辰戦争と武家奉公人
武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属し、現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。
見る 戊辰戦争と武蔵国
歴史群像
『歴史群像』(れきしぐんぞう)は、ワン・パブリッシングが発行する日本の歴史、軍事に関する隔月刊専門雑誌である。 1992年6月に学習研究社(現・学研ホールディングス)より創刊され、2009年10月から2015年9月までは学研パブリッシングが、2020年6月まで学研プラス(現・Gakken)が発行していた。
見る 戊辰戦争と歴史群像
死の商人
死の商人(しのしょうにん、merchant of death)とは、戦争を利潤獲得の手段として兵器などの軍需品を生産・販売して巨利を得る人物や組織への批判的な呼称、または営利目的で兵器を販売し富を築いた人物や組織への批判的な呼称。戦争挑発の一翼を担う。
見る 戊辰戦争と死の商人
母成峠
母成峠(ぼなりとうげ)は、福島県郡山市と猪苗代町の間にある峠。標高は972メートル。保成峠とも呼ばれる。
見る 戊辰戦争と母成峠
母成峠の戦い
母成峠の戦い(ぼなりとうげのたたかい、慶応4年8月21日(グレゴリオ暦1868年10月6日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。会津藩境の母成峠(現・福島県郡山市・猪苗代町)を守る旧幕府軍800が新政府軍7,000と戦うが、兵力および兵器の差で勝てず敗走し、新政府軍は若松城下に殺到する結果となった。二本松城陥落による追滅戦。二本松藩兵最後の抵抗。
見る 戊辰戦争と母成峠の戦い
毛利元敏
毛利 元敏(もうり もととし)は、長門国長府藩第14代(最後)の藩主。維新後子爵。従二位。
見る 戊辰戦争と毛利元敏
毛利敬親
毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、江戸時代後期から明治時代初期の大名。毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけの一つとなった。
見る 戊辰戦争と毛利敬親
水口藩
水口藩(みなくちはん)は、近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市)を領した藩。藩庁は水口城。
見る 戊辰戦争と水口藩
水野元宣
2022年3月21日に旧水野家藩士の会、子孫、市民の寄付によって再建された水野三郎衛門元宣銅像山形市豊烈神社内に建つ 水野 元宣(みずの もとのぶ、天保14年9月22日(1843年10月15日) - 明治2年5月20日(1869年6月29日)は、幕末から明治維新の山形藩(いまの山形市にあたる)の筆頭家老として国元を預かる。通称は三郎右衛門。幼名は亀太郎。
見る 戊辰戦争と水野元宣
水戸城
水戸城の縄張り図 水戸城の航空写真(1986年度撮影・国土航空写真) JR水郡線) 水戸城(みとじょう)は、茨城県水戸市三の丸(常陸国茨城郡水戸)にあった日本の城。 江戸時代には、徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城で、水戸藩の政庁が置かれた。茨城県指定史跡。三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。
見る 戊辰戦争と水戸城
水戸藩
水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。水府藩とも呼ばれる。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。御三家の一つである。
見る 戊辰戦争と水戸藩
江戸
江戸図屏風に見る、初期の江戸 弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 江戸(えど、) は、現在の東京の前身・原型に当たる都市を指し、その旧称である。現在の東京都区部の中央部に位置した。 平安時代後期に東京湾の日比谷入江に面する小地名として現れ(武蔵国豊島郡内)、そこに秩父氏の一族の武士が移り住んで江戸氏を名乗り勢力を伸ばし、江戸郷と呼ばれることとなった。 徳川家康が1590年に入府し、1603年(慶長8年)から1868年(慶応4年)まで江戸幕府が置かれた。
見る 戊辰戦争と江戸
江戸城
江戸城(えどじょう)は、東京都千代田区千代田(武蔵国豊嶋郡江戸)にあった日本の城。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている。 千代田城(ちよだじょう)及び江城(こうじょう)、東京城(とうけいじょう)が別名として知られている。
見る 戊辰戦争と江戸城
江戸幕府
江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。 徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。
見る 戊辰戦争と江戸幕府
江戸薩摩藩邸の焼討事件
江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸薩摩藩三田屋敷(現在地・東京都港区芝5丁目7-1 NEC本社ビル附近)が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけになった。 薩摩藩邸焼討事件とも。
江戸開城
江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)や江戸無血開城(えどむけつかいじょう)、江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)ともいう。徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。
見る 戊辰戦争と江戸開城
池上本門寺
池上本門寺(いけがみほんもんじ)は、東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山。 寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきた。また日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられている他の6寺院は清澄清澄寺、小湊誕生寺、中山法華経寺、北山本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺。1941年(昭和16年)3月2日に日蓮宗、顕本法華宗、本門宗の間で3宗が新たな日蓮宗に合同する決議の際、身延山久遠寺を総本山、従来の大本山に顕本法華宗の京都妙満寺、本門宗の北山本門寺を加え七大本山とすることが合意されたのが最初。その後1947年(昭和22年)妙満寺は日蓮宗を離脱(本多日生上人記念財団法人統一団ホームページ「関連研究 日蓮宗三派合同と分離独立(昭和の三派合同)」)。小湊誕生寺は1946年(昭和21年)大本山に復帰。清澄清澄寺は1949年(昭和24年)真言宗より日蓮宗に改宗し大本山とされた(東山真生「日蓮宗本山寺院ガイド」『日蓮の本』1993年、学習研究社、102〜112ページ)。
見る 戊辰戦争と池上本門寺
池田章政
池田 章政(いけだ あきまさ)は、幕末の大名、明治期の日本の政治家・華族。位階勲等爵位は、従一位勲一等侯爵。備中鴨方藩の第9代藩主、備前岡山藩第10代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事、議定、刑法官副知事、刑法官知事、麝香間祗候、貴族院議員などを歴任。 鴨方藩主時代は池田 政詮(いけだ まさのり)と称した。
見る 戊辰戦争と池田章政
池田慶徳
池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末の大名、明治前期の華族。因幡鳥取藩第12代(最後)の藩主で、同藩初代藩知事。位階は従一位。 15代将軍となる徳川慶喜は同年生まれの異母弟、備前岡山藩主池田茂政は同母弟にあたる。
見る 戊辰戦争と池田慶徳
沢本盛弥
沢本 盛弥(さわもと もりや、、生没年不詳)は、江戸時代末期の武士、日本の陸軍軍人。 盛弥は仮名(通称)、諱(実名)は幸則「ゆきのり」。土佐藩士。 迅衝隊士六番隊銃手として戊辰戦争に従軍。後に大日本帝国陸軍軍人となる。文献によっては沢本守也と表記。北光社の沢本楠弥は同族。
見る 戊辰戦争と沢本盛弥
河井継之助
河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2019年11月9日(6-7面)2020年7月19日閲覧。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。 戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。
見る 戊辰戦争と河井継之助
河田景与
河田 景与(かわた かげとも、文政11年10月18日(1828年11月24日) - 明治30年(1897年)10月12日)は、日本の武士(鳥取藩士)、政治家。幕末期に尊王攘夷の志士として活動し、明治維新後は鳥取県権令(初代)、元老院議官、貴族院議員を歴任した。名(諱)は初め祺景。通称は左久馬(佐久馬)、権次郎。号は研田。爵位は子爵。
見る 戊辰戦争と河田景与
河津祐邦
河津 祐邦(かわづ すけくに、文政4年(1821年) - 明治6年(1873年)。生年不明 - 明治元年(1868年)ともコトバンク谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー)は、江戸幕府の旗本。別名・河津三郎太郎。徒目付として蝦夷調査ののち、新徴組組頭を経て、外国奉行として横浜鎖港談判使節団参加。幕末に勘定奉行、関東郡代、長崎奉行、外国事務総裁などの重職を歴任した。家禄は100俵高。官職名は伊豆守。号に龍門など。
見る 戊辰戦争と河津祐邦
泉藩
泉藩(いずみはん)は、陸奥国南部(磐城国)菊多郡(現在の福島県いわき市泉)に存在した藩。藩庁は泉陣屋(ただし、歴代藩主は城主格に列せられた)。
見る 戊辰戦争と泉藩
津軽承昭
津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、江戸時代後期から大正前期にかけての大名、華族。陸奥国弘前藩12代(最後)の藩主・藩知事。位階爵位は従一位伯爵。和歌にも優れていたと言われている。
見る 戊辰戦争と津軽承昭
津藩
津藩(つはん)は、伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。伊賀国の上野城も所有した。石高は当初伊勢・伊賀2国を合わせた22万石で、大坂の陣の後に山城国・大和国(いわゆる「城和領」)などが加増され最大32万3000石となった。
見る 戊辰戦争と津藩
淀
淀(よど)は、京都府京都市伏見区西南部の地域名。同地域に所在する京都競馬場の通称でもある。
見る 戊辰戦争と淀
淀藩
淀藩(よどはん)は、山城国久世郡(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。
見る 戊辰戦争と淀藩
渡辺在綱
渡辺 在綱(わたなべ ありつな)は、江戸時代末期の尾張藩の家老。青松葉事件にて処刑された。
見る 戊辰戦争と渡辺在綱
清水町 (鹿児島市)
清水町(しみずちょう)は、鹿児島県鹿児島市の町。旧薩摩国鹿児島郡鹿児島城下清水馬場町、鹿児島市清水馬場町。郵便番号は892-0802。人口は2,115人、世帯数は956世帯(2020年10月1日現在)。清水町の全域で住居表示を実施している。 清水町にある東福寺城跡は、平安時代の天喜年間に長谷場氏によって築城され、戦国時代には麓の稲荷川河口に港が築かれた。興国4年(1343年)頃には島津貞久が東福寺城を攻め落とし、貞久の四男である島津氏久が居城とした。
湯長谷藩
湯長谷藩(ゆながやはん)は、陸奥国南部(磐城国)磐前郡の湯長谷陣屋(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡)に藩庁を置いた藩。 江戸時代前期に磐城平藩の支藩として成立して以降、廃藩置県まで譜代大名の内藤家(一時期遠山家を称した)が14代にわたって続いた。石高は時期によって変遷があるものの、1万石台の小藩で、丹波国などにも飛び地領があった。本項では、湯長谷に陣屋を移すまでの湯本藩(ゆもとはん)についても併せ述べる。
見る 戊辰戦争と湯長谷藩
澤宣嘉
澤 宣嘉(さわ のぶよし)は、幕末の公卿。権中納言・姉小路公遂の五男。参議・澤為量の養嗣子(娘婿)。官位は従三位・右衛門権佐。澤家8代当主。維新後、初代外務卿。
見る 戊辰戦争と澤宣嘉
澤為量
沢 為量(さわ ためかず、)は、江戸時代後期の公卿。治部大輔・澤量行の子。官位は正二位・参議。澤家7代・9代当主。維新後子爵。
見る 戊辰戦争と澤為量
朝廷 (日本)
朝廷(ちょうてい)とは、日本にかつて存在した政権および政府である。大宝元年(701年)の大宝律令施行までには政治体制が成立し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により廃止された。
見る 戊辰戦争と朝廷 (日本)
朝陽丸
朝陽丸 / 朝陽(ちょうようまる / ちょうよう、旧仮名:テウヤウ)は、幕末期に江戸幕府が所有していた軍艦。朝陽は「朝日」または「山の東」の意味。 江戸幕府が海軍創設のため、初めてオランダに注文した艦のうちの1隻。内輪式の蒸気船で、木造スクーナー型コルベット。「咸臨丸」は姉妹艦になる。旧名は「エド(Yedo、江戸)」。 維新後、明治新政府の手に渡り、明治政府軍に所属。箱館戦争に参加し沈没した。
見る 戊辰戦争と朝陽丸
朝敵
朝敵(ちょうてき)は、日本において天皇および朝廷に敵対する勢力を意味する呼称である。朝敵が率いる軍のことを賊軍と呼ぶ。
見る 戊辰戦争と朝敵
木梨精一郎
木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。
見る 戊辰戦争と木梨精一郎
未明
未明(みめい)は、明け方に空が白み始める前の時間帯。
見る 戊辰戦争と未明
末吉町
末吉町(すえよしちょう)は鹿児島県の北東部にあった町。曽於郡に属していた。 旧町役場は曽於市役所となっている。
見る 戊辰戦争と末吉町
本荘藩
本荘藩(ほんじょうはん)は、出羽国(後の羽後国)の由利郡にあった藩。藩庁は本荘城(現在の秋田県由利本荘市)に置かれた。
見る 戊辰戦争と本荘藩
本郷
本郷(ほんごう)は、日本各地に所在する地名およびそれに由来する名字。
見る 戊辰戦争と本郷
本間氏
本間氏(ほんまし)は、日本の氏族の一つ。
見る 戊辰戦争と本間氏
札幌市
札幌市(さっぽろし)は、北海道の道央地方に位置する市。道庁所在地および石狩振興局所在地。政令指定都市であり、10の行政区が置かれている。北海道の行政・経済・文化の中心地であり、道内および三大都市圏以外の国内で人口最多の市(人口196万5305人、2024年4月1日現在)である。歓楽街・すすきのは、東京・新宿の歌舞伎町、福岡・博多の中洲と並んで「日本三大歓楽街」と称され、全国的に有名である。
見る 戊辰戦争と札幌市
有馬頼咸
有馬 頼咸(ありま よりしげ)は、筑後久留米藩の第11代(最後)の藩主。久留米藩有馬家12代。 幕末期、久留米藩主としての時期の諱は慶頼(よしより)であるが、本項の記述では明治元年(1868年)改名以後の頼咸で統一する。
見る 戊辰戦争と有馬頼咸
有馬藤太
有馬 藤太(ありま とうた、天保8年(1837年) - 大正13年(1924年))は、幕末期の薩摩藩士。東山道総督府斥候。名は純雄。
見る 戊辰戦争と有馬藤太
有栖川宮熾仁親王
有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉- 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期・明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。雅号は初め泰山、後に霞堂。階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。世襲親王家の有栖川宮第9代当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(後に県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られる#三島由紀夫の二・二六事件pp.76-77が、徳川幕府の権力失墜に伴い、公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。
戊辰
戊辰(つちのえたつ、ぼどのたつ、ぼしん)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの5番目で、前は丁卯、次は己巳である。辰(龍)は、十二支で唯一の架空の動物。陰陽五行では、十干の戊は陽の土、十二支の辰は陽の土で、比和である。
見る 戊辰戦争と戊辰
戸田忠恕
戸田忠恕の墓 戸田 忠恕(とだ ただゆき/ただくみ/ただひろ)は、江戸時代末期(幕末)の大名。下野国宇都宮藩第6代藩主。田原戸田家嫡流14代当主、宇都宮藩戸田家12代。4代藩主戸田忠温の六男で5代藩主戸田忠明の弟。正室は戸田(松平)光則の娘。養子に忠友(同年生まれで従弟にあたる)。
見る 戊辰戦争と戸田忠恕
戸田氏共
戸田 氏共(とだ うじたか)は、江戸時代末期(幕末)の大名、明治から昭和期の華族。美濃国大垣藩第11代藩主。大垣藩戸田家12代。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。官職はオーストリア=ハンガリー全権公使、式部長官など。
見る 戊辰戦争と戸田氏共
戸沢正実
戸沢 正実(とざわ まさざね)は、出羽新庄藩の第11代藩主。
見る 戊辰戦争と戸沢正実
戸沢氏
戸沢氏(とざわし)は、武家・華族だった日本の氏族。陸奥国、後に出羽国を支配した国人・戦国大名であり、江戸時代には出羽国新庄藩主を世襲し、明治維新後華族の子爵家に列する。
見る 戊辰戦争と戸沢氏
明治
明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。
見る 戊辰戦争と明治
明治天皇
明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年 / 大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、)。お印は。 倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。維新後、国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられる。東京に皇居を置いた最初の天皇。在位中に皇族以外の摂政(二条斉敬)、太政大臣(三条実美)、左大臣(有栖川宮熾仁親王)、右大臣(岩倉具視)、征夷大将軍(徳川慶喜)が置かれた最後の天皇にして、内閣総理大臣(伊藤博文)が置かれた最初の天皇でもある。
見る 戊辰戦争と明治天皇
明治宮殿
明治宮殿(めいじきゅうでん)は、かつて宮城(現:皇居)に存在した建物で、明治時代から第二次世界大戦末期まで、皇室の中心的施設であった。
見る 戊辰戦争と明治宮殿
明治維新
明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」) 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、19世紀後半の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。
見る 戊辰戦争と明治維新
春日丸
春日丸(かすがまる)は、幕末・明治期の日本の軍艦で、木製外輪船。
見る 戊辰戦争と春日丸
昭和
は、日本の元号の一つ。 1958年(昭和33年)に竣工した東京タワー。 大正の後、平成の前。大化以降230番目、246個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号である。昭和天皇の在位期間昭和天皇は父・大正天皇の病状を受け1921年(大正10年)11月25日に「摂政宮」に就いている。 である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に崩御し、皇太子明仁親王(現・上皇)が同時刻に直ちに皇位継承。同日中に元号を改める政令が新天皇の署名によって公布され、同政令の附則の施行期日の定めに基づき、昭和は同日午後12時を以て幕を閉じ、翌1月8日午前0時を以て平成と改元された。
見る 戊辰戦争と昭和
昼
昼(ひる)、昼間(ちゅうかん、ひるま)は、太陽が地平線または水平線より上に出ている時間、あるいは日の出から日没までのことである。日中(にっちゅう)ともいう。逆に、太陽が地平線または水平線から上に出ていない時間、あるいは日没から次の日の出までのことを夜・夜間という。
見る 戊辰戦争と昼
流山
流山(ながれやま)は、。
見る 戊辰戦争と流山
浦戸諸島
宮戸島の大高森から浦戸諸島方面の眺望。松島四大観のひとつで「壮観」と呼ばれる。 浦戸諸島(うらとしょとう)は、宮城県の松島湾の湾口部にある島嶼群である。松島湾南部の七ヶ浜と松島湾東部の宮戸島の中間に位置し、桂島(かつらしま、)、野々島(ののしま、)、寒風沢島(さぶさわじま、)、朴島(ほうじま、)の有人島と、馬放島、大森島など多くの無人島からなる。 ほとんど島々は塩竈市に属するが、諸島西端の馬放島、地蔵島などは宮城郡七ヶ浜町に属する。松島浦の戸口にあることから、浦戸と呼ばれた。
見る 戊辰戦争と浦戸諸島
海軍総裁
海軍総裁(かいぐんそうさい)は、幕府海軍の最高職である。海軍省の海軍大臣また海軍長官に相当する。
見る 戊辰戦争と海軍総裁
海江田信義
海江田 信義(かいえだ のぶよし、1832年3月13日(天保3年2月11日) - 1906年(明治39年)10月27日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家、華族。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。
見る 戊辰戦争と海江田信義
浅野長勲
浅野 長勲(あさの ながこと、天保13年7月23日(1842年8月28日)-昭和12年(1937年)2月1日)は、江戸時代末の大名、明治時代から昭和初期の日本の政治家、外交官、実業家、社会事業家、華族。位階勲等爵位は従一位勲一等侯爵。 浅野家27代当主で、安芸広島新田藩第6代藩主、広島藩第12代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事、元老院議官、駐イタリア公使、宮内省華族局長官などを歴任。
見る 戊辰戦争と浅野長勲
斬首刑
斬首刑(ざんしゅけい)とは、罪人の首を刃物等により胴体から切断する死刑の一種である。 古代から現代まで世界各国で行われ、フランスでギロチンによる斬首が廃止されたのは1981年のことである。2021年現在、正式に刑罰としての死刑の方法に採用しているのはサウジアラビアとナイジェリア北部(特定の種類の犯罪でシャリーア裁判所で死刑判決を下された場合)であるが、法的手段によらないものを含めるとメキシコの麻薬組織メキシコでは刑罰としての死刑制度が1917年に廃止されているやイスラーム過激派においても行われている。
見る 戊辰戦争と斬首刑
新人物往来社
株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の100%出資による新人物往来社(新社)が新人物往来社(旧社)から出版事業の営業権を取得、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。
見る 戊辰戦争と新人物往来社
新庄城
新庄城(しんじょうじょう)は、山形県新庄市堀端町にあたる出羽国(羽前国)最上郡新庄にあった日本の城(中世の平城)。別名沼田城(ぬまたじょう)、鵜沼城(うぬまじょう)と呼ばれる。新庄市指定史跡。
見る 戊辰戦争と新庄城
新庄藩
新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・西村山郡河北町)を統治した藩。居城は新庄城。
見る 戊辰戦争と新庄藩
新発田藩
新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。藩庁は新発田城。藩主は溝口家。家格は外様大名で、石高は6万石(のち5万石 → 10万石と推移)。
見る 戊辰戦争と新発田藩
新選組
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に江戸幕府の徴募により組織された浪士隊である。特に尊攘派構成員の摘発活動に従事した。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。会津藩預かりという非正規組織であったが、慶応3年(1867年)6月、幕臣に取り立てられる。慶応4年(1868年)に旧幕府から甲州鎮撫を命ぜられたことにより、甲陽鎮撫隊と改める。しかし明治2年(1869年)5月18日、戊辰戦争においての旧幕府軍降伏により、事実上消滅した。
見る 戊辰戦争と新選組
新選組!
『新選組!』(しんせんぐみ)は、2004年1月11日から12月12日まで放送されたNHK大河ドラマ第43作。主演は香取慎吾。
見る 戊辰戦争と新選組!
新潟市
開港五港の1つである新潟港。手前の建物は新潟市歴史博物館(みなとぴあ) 新潟市(にいがたし)は、新潟県の下越地方に位置する市。新潟県の県庁所在地及び人口が最多の市であり、政令指定都市である。市域には8行政区が設けられている(後述)。1889年(明治22年)に市制施行。 本州の日本海側では、唯一の政令指定都市であり、最多の人口を有する都市である(76.9万人 新潟市 総人口参照)。「新潟」の表記については「新潟県#「潟」の字について」を参照。
見る 戊辰戦争と新潟市
新潟県立図書館
新潟県立図書館(にいがたけんりつとしょかん)は、新潟県が図書館法第10条、新潟県立図書館条例に基づき設置、運営する公立図書館である。ぶっくスワンの愛称がある。
見る 戊辰戦争と新潟県立図書館
新潟港
新潟港(にいがたこう)は、新潟県新潟市から北蒲原郡聖籠町にわたる日本海に面した港湾である。港湾管理者は新潟県。 新潟市中央区と東区に位置し信濃川の河口両岸に港域を有する西港区(にしこうく)と、市域北東端の北区と聖籠町との間に作られた掘込み式の東港区(ひがしこうく)の2港区から構成されており、それぞれ新潟西港(にいがたにしこう)、新潟東港(にいがたひがしこう)の通称を有する。 港湾法上の国際拠点港湾、港則法上の特定港に指定されているほか、中核国際港湾にも指定されている。また日本海側拠点港のうち総合的拠点港と、部門別では国際海上コンテナ、液化天然ガスの2部門の拠点港に指定されている。
見る 戊辰戦争と新潟港
新潮新書
新潮新書(しんちょうしんしょ)は、新潮社が発行する新書レーベルである。2003年(平成15年)4月刊行開始。キャッチコピーは「現代を知りたい大人のために 700円で充実の2時間」。
見る 戊辰戦争と新潮新書
新春ワイド時代劇
『新春ワイド時代劇』(しんしゅんワイドじだいげき)は、テレビ東京系列で1981年から2016年までの毎年1月2日に放送していた正月恒例の特別番組である。 放送日に設定している1月2日は、前身の「12時間超ワイドドラマ」の放送を開始した当時、親局のアナログチャンネル番号が「12ch」だった事に因んでいる。
文久の改革
文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。嘉永7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。
見る 戊辰戦争と文久の改革
日当山町
日当山町(ひなたやまちょう)は、鹿児島県姶良郡にあった町。
見る 戊辰戦争と日当山町
日光山
日光山(にっこうさん)。
見る 戊辰戦争と日光山
日光市
日光市(にっこうし)は、栃木県の北西部に位置する市。全国で3番目に面積が広く、関東地方の市町村では最も面積が広い。
見る 戊辰戦争と日光市
日光街道
川瀬巴水「日光街道」1930年 宇都宮市内の日光街道(国道119号)2018年 日光街道(にっこう かいどう)は、日本の江戸時代に設けられていた五街道の一つ。 江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。 道中には21の宿場が置かれていた。日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通であった。この区間にはもともと古道奥州道があったが、日光街道の開通とともに日光街道と称されるようになった。 現在も、国道4号の宇都宮市以南と、国道119号の通称として用いられる。
見る 戊辰戦争と日光街道
日光東照宮
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」とも呼ばれ、東照宮の公式サイトにも「日光東照宮」と書かれている。 隣接する仏教寺院の輪王寺は、勝道による日光山開山を奈良時代の天平神護2年(766年)とする。その後、関東地方の霊場として尊崇を集め、鎌倉幕府創始者の源頼朝からも寄進を受けた。頼朝は、母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。
見る 戊辰戦争と日光東照宮
日田市
日田市(ひたし)は、大分県の北西部に位置する市である。福岡県、熊本県と県境を接する。1940年(昭和15年)市制施行。
見る 戊辰戦争と日田市
日田県
日田県(ひたけん)は、1868年(慶応4年)から1871年(明治4年)まで、豊前国及び豊後国(現在の大分県全域及び福岡県東部)の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は、豊前国、豊後国全域にわたって分布し、後には日向国(現在の宮崎県全域)に分布する地域も編入された。
見る 戊辰戦争と日田県
日本
日本国(にほんこく、にっぽんこく、Japan)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する民主制国家。首都は東京都。 全長3500キロメートル以上にわたる国土は、主に日本列島北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々。および南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などの弧状列島により構成される。大部分が温帯に属するが、北部や島嶼部では亜寒帯や熱帯の地域がある。地形は起伏に富み、火山地・丘陵を含む山地の面積は国土の約75%を占め、人口は沿岸の平野部に集中している。国内には行政区分として47の都道府県があり、日本人(大和民族・琉球民族・アイヌ民族現代、アイヌにルーツをもつ日本国民のうち、アイヌ語を話す能力もしくはアイヌとしてのアイデンティティーを持っている者は少数である一方、近年は政策的にアイヌ文化の復興と発展のための活動が推進されている。
見る 戊辰戦争と日本
日本テレビ放送網
日本テレビ放送網株式会社(にほんテレビほうそうもう、Nippon Television Network Corporation)は、日本テレビホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者。東京都港区東新橋(汐留)の日本テレビタワーに本社を置く。 日本国内で最初に開局した民放テレビ局で、日本の民放テレビ局においては歴史が最も古い。一般的には日本テレビ(にほんテレビ)又は日テレ(ニッテレ)と呼ばれる。 コールサイン「'''JOAX-DTV'''」(東京 25ch)。NNN・日本ニュースネットワーク、NNS・日本テレビネットワーク協議会(日本テレビ系列)のキー局である。
日本近代史
日本近代史(にほんきんだいし)では、江戸時代末期(幕末)以後の日本の歴史、特に1868年(慶応4年/明治元年)以降について概略的に述べる。
見る 戊辰戦争と日本近代史
日本橋 (東京都中央区)
日本橋三井タワー(三井不動産) 「東海道五十三次之内 日本橋」歌川広重筆。明六ツあけ-むつ。夜明け頃のことで不定時法に基づく名称。 に日本橋を渡る大名行列 木曾街道 続ノ壱 日本橋 雪之曙」渓斎英泉筆 明治期 現在の日本橋。上の高架橋は首都高速都心環状線 日本橋(にほんばし)は、東京都中央区北部の通称。旧・日本橋区にあたる。また、東京都中央区の町名。 地名は日本橋川に架かる'''日本橋'''という橋梁の名前に由来する。
旧暦
旧暦(きゅうれき)とは、改暦があった場合のそれ以前に使われていた暦法のことである。改暦後の暦法は新暦。多くの国ではグレゴリオ暦が現行暦のため、グレゴリオ暦の前の暦法を指す.。
見る 戊辰戦争と旧暦
旗本
旗本(はたもと)とは、元来は戦場で主将の旗下にあって主将を護衛する武士団のことを指す。 一般的には江戸時代の徳川将軍家直属の家臣のうち石高が1万石未満で御目見以上の家格だった武士の身分を指す。主人は殿様(大名と同様)、正妻は奥様と呼ばれた。 これに対し、御目見以下の家臣は御家人という。
見る 戊辰戦争と旗本
改易
水野忠恒が毛利師就に、斬り掛かるという刃傷沙汰が起こっている。何れも大名が改易となった大事件であった。 改易(かいえき)は、江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰。士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある。また大名の所領を没収、減封、転封することを改易と呼ぶこともある。
見る 戊辰戦争と改易
政府
政府(せいふ、Government、Regierung )とは、国家における統治機構の総称である。日本においては内閣および内閣の統轄する官僚から構成される執行機関を指す。広義では、議会や裁判所などの各統治機関すべてを含める。
見る 戊辰戦争と政府
意富比神社
意富比神社(おおひじんじゃ)は、千葉県船橋市にある神社。式内社で、旧社格は県社。通称は船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)。延喜式では葛餝郡意富比神社の名称で登場する。
見る 戊辰戦争と意富比神社
慶応
紋が描かれている。 とは、日本の元号の1つである。 元治の後、明治の前。大化以降227番目、243個目の元号である。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 江戸時代最後の元号であり、一世一元の制導入(一世一元の詔発布)以前の最後の元号である。
見る 戊辰戦争と慶応
手紙
手紙(てがみ、)とは、用事などを書いて、人に送る文書。信書(しんしょ)、書簡・書翰(しょかん)、書状(しょじょう)などとも呼ばれる。古くは消息(しょうそく、しょうそこ)、尺牘(せきとく)とも呼ばれた。 狭義には封書(封筒で包んで届けるもの)のみを指して用いるが、広義には封書に加えて、はがき(封筒に入れずに送る書状)も含む。
見る 戊辰戦争と手紙
時事通信社
株式会社時事通信社(じじつうしんしゃ、Jiji Press Ltd.)は、1945年(昭和20年)11月に創立された日本の民間通信社である国際地域研究センター『世界のメディア』p90。同盟通信社の法人サービス部門が母体。国内60カ所、海外24カ所の支社や総支局を有する。 報道機関や出版社などに事件や政治といった一般ニュースを配信しているほか、行政機関や金融機関に対しても行政・経済の専門ニュース(実務ニュース)配信を行っている。 以前は略語に JP (JijiPress) を使用していたが、現在は Jiji を使用している。
見る 戊辰戦争と時事通信社
10月13日 (旧暦)
旧暦10月13日は旧暦10月の13日目である。六曜は仏滅である。
10月14日 (旧暦)
旧暦10月14日(きゅうれきじゅうがつじゅうよっか)は、旧暦10月の14日目である。六曜は大安である。
10月15日 (旧暦)
旧暦10月15日は旧暦10月の15日目である。六曜は赤口である。
10月21日 (旧暦)
旧暦10月21日は旧暦10月の21日目である。六曜は赤口である。
10月24日 (旧暦)
旧暦10月24日は旧暦10月の24日目である。六曜は先負である。
12月16日 (旧暦)
旧暦12月16日は旧暦12月の16日目である。六曜は先負である。
12月23日 (旧暦)
旧暦12月23日は旧暦12月の23日目である。六曜は仏滅である。
12月25日 (旧暦)
旧暦12月25日は旧暦12月の25日目である。六曜は赤口である。
12月28日 (旧暦)
旧暦12月28日は旧暦12月の28日目である。六曜は先負である。
12月9日 (旧暦)
旧暦12月9日(きゅうれきじゅうにがつここのか)は、旧暦12月の9日目である。六曜は友引である。
1995年
この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。
見る 戊辰戦争と1995年
1月 (旧暦)
旧暦1月(きゅうれきいちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から1番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、雨水を含む月を1月とする。新暦では1月下旬から3月上旬ごろに当たる。 1月の別名は睦月(むつき)である。名前の由来は1月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、1月29日までで1月30日は存在しない年もある。
見る 戊辰戦争と1月 (旧暦)
1月10日
1月10日(いちがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から10日目に当たり、年末まであと355日(閏年では356日)ある。
見る 戊辰戦争と1月10日
1月10日 (旧暦)
旧暦1月10日(きゅうれきいちがつとおか)は、旧暦1月の10日目である。六曜は仏滅である。
1月11日 (旧暦)
旧暦1月11日は旧暦1月の11日目である。六曜は大安である。
1月13日 (旧暦)
旧暦1月13日は旧暦1月の13日目である。六曜は先勝である。
1月20日 (旧暦)
旧暦1月20日(きゅうれきいちがつはつか)は、旧暦1月の20日目である。六曜は友引である。
1月21日 (旧暦)
旧暦1月21日は旧暦1月の21日目である。六曜は先負である。
1月22日 (旧暦)
旧暦1月22日は旧暦1月の22日目である。六曜は仏滅である。
1月25日 (旧暦)
旧暦1月25日は旧暦1月の25日目である。六曜は先勝である。
1月27日
1月27日(いちがつにじゅうななにち、いちがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から27日目に当たり、年末まであと338日(閏年では339日)ある。
見る 戊辰戦争と1月27日
1月2日 (旧暦)
旧暦1月2日(きゅうれきいちがつふつか)は、旧暦1月の2日目である。六曜は友引である。
1月3日 (旧暦)
旧暦1月3日(きゅうれきいちがつみっか)は、旧暦1月の3日目である。六曜は先負である。
1月4日 (旧暦)
旧暦1月4日(きゅうれきいちがつよっか)は、旧暦1月の4日目である。六曜は仏滅である。
1月5日 (旧暦)
旧暦1月5日(きゅうれきいちがついつか)は、旧暦1月の5日目である。六曜は大安である。
1月6日 (旧暦)
旧暦1月6日(きゅうれきいちがつむいか)は、旧暦1月の6日目である。六曜は赤口である。
1月7日 (旧暦)
旧暦1月7日(きゅうれきいちがつなのか)は、旧暦1月の7日目である。六曜は先勝である。
2月 (旧暦)
旧暦2月(きゅうれきにがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から2番目の月である。 春分を含む月が2月となる。新暦では2月下旬から4月上旬ごろに当たる。 2月の別名は如月(きさらぎ)である。名前の由来は2月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、2月29日までで2月30日は存在しない年もある。 なお、琉球方言では旧暦の2月から、沖縄地方の梅雨入り前までの時期を「うりずん」(「潤い初め」の意味)と呼ぶ。
見る 戊辰戦争と2月 (旧暦)
2月12日 (旧暦)
旧暦2月12日(きゅうれきにがつじゅうににち)は、旧暦2月の12日目である。六曜は先勝である。
3月 (旧暦)
旧暦3月(きゅうれきさんがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から3番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、穀雨を含む月を3月とする。新暦では3月下旬から5月上旬ごろに当たる。 3月の別名はである。名前の由来は3月を参照のこと。異名は「」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、3月29日までで3月30日は存在しない年もある。
見る 戊辰戦争と3月 (旧暦)
3月11日
3月11日(さんがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から70日目(閏年では71日目)にあたり、年末まであと295日ある。
見る 戊辰戦争と3月11日
3月13日 (旧暦)
旧暦3月13日は旧暦3月の13日目である。六曜は先負である。
3月14日 (旧暦)
旧暦3月14日は旧暦3月の14日目である。六曜は仏滅である。
3月29日
3月29日(さんがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から88日目(閏年では89日目)にあたり、年末まであと277日ある。
見る 戊辰戦争と3月29日
3月3日 (旧暦)
旧暦3月3日(きゅうれきさんがつみっか)は、旧暦3月の3日目である。六曜は大安である。
3月6日 (旧暦)
旧暦3月6日(きゅうれきさんがつむいか)は旧暦3月の6日目である。六曜は友引である。
3月7日 (旧暦)
旧暦3月7日(きゅうれきさんがつなのか)は旧暦3月の7日目である。六曜は先負である。
4月11日 (旧暦)
旧暦4月11日は旧暦4月の11日目である。六曜は友引である。
4月15日 (旧暦)
旧暦4月15日は旧暦4月の15日目である。六曜は赤口である。
4月21日 (旧暦)
旧暦4月21日は旧暦4月の21日目である。六曜は赤口である。
4月26日
4月26日(しがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から116日目(閏年では117日目)にあたり、年末まではあと249日ある。
見る 戊辰戦争と4月26日
4月3日 (旧暦)
旧暦4月3日(きゅうれきしがつみっか)は旧暦4月の3日目である。六曜は赤口である。
4月4日 (旧暦)
旧暦4月4日(きゅうれきしがつよっか)は、旧暦4月の4日目である。六曜は先勝である。
4月5日
4月5日(しがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から95日目(閏年では96日目)にあたり、年末まであと270日ある。
見る 戊辰戦争と4月5日
4月6日
4月6日(しがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から96日目(閏年では97日目)にあたり、年末まであと269日ある。
見る 戊辰戦争と4月6日
4月6日 (旧暦)
旧暦4月6日(きゅうれきしがつむいか)は旧暦4月の6日目である。六曜は先負である。
4月9日 (旧暦)
旧暦4月9日(きゅうれきしがつここのか)は、旧暦4月の9日目である。六曜は赤口である。
5月13日
5月13日(ごがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から133日目(閏年では134日目)にあたり、年末まではあと232日ある。
見る 戊辰戦争と5月13日
5月15日 (旧暦)
旧暦5月15日は、旧暦5月の15日目である。六曜は先勝である。
5月18日 (旧暦)
旧暦5月18日は、旧暦5月の18日目である。六曜は仏滅である。
5月20日
5月20日(ごがつはつか、ごがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から140日目(閏年では141日目)にあたり、年末まではあと225日ある。
見る 戊辰戦争と5月20日
5月24日
5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。
見る 戊辰戦争と5月24日
5月24日 (旧暦)
旧暦5月24日は、旧暦5月の24日目である。六曜は仏滅である。
5月27日
5月27日(ごがつにじゅうななにち、ごがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から147日目(閏年では148日目)にあたり、年末まではあと218日ある。誕生花はシロツメクサ。
見る 戊辰戦争と5月27日
5月3日
5月3日(ごがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から123日目(閏年では124日目)にあたり、年末まではあと242日ある。
見る 戊辰戦争と5月3日
5月8日
5月8日(ごがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から128日目(閏年では129日目)にあたり、年末まではあと237日ある。
見る 戊辰戦争と5月8日
6月27日
6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。
見る 戊辰戦争と6月27日
7月4日
7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。
見る 戊辰戦争と7月4日
8月26日 (旧暦)
旧暦8月26日は旧暦8月の26日目である。六曜は先負である。
8月29日 (旧暦)
旧暦8月29日は旧暦8月の29日目である。年によっては8月の最終日となる。六曜は赤口である。
参考情報
1868年の日本
- ええじゃないか
- トレーシー顧問団
- フランス軍事顧問団 (1867-1868)
- 上野戦争
- 五榜の掲示
- 五箇条の御誓文
- 会津戦争
- 八丁沖の戦い
- 北越戦争
- 堺事件
- 宇都宮城の戦い
- 府藩県三治制
- 戊辰戦争
- 母成峠の戦い
- 江戸開城
- 甲州勝沼の戦い
- 神戸事件
- 箱館戦争
- 蝦夷共和国
- 野辺地戦争
- 阿波沖海戦
- 青松葉事件
- 鳥羽・伏見の戦い
1869年の日本
アジアの内戦
- アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)
- カンボジア内戦
- シリア内戦
- タジキスタン内戦
- ネパール内戦
- バングラデシュ独立戦争
- ミャンマー内戦
- モンゴル帝国帝位継承戦争
- ヨルダン内戦
- レバノン内戦
- ワジリスタン紛争
- 三監の乱
- 中原大戦
- 倭国大乱
- 北イエメン内戦
- 十二使君の乱
- 古代ローマの内戦と反乱の一覧
- 安史の乱
- 戊辰戦争
- 朝鮮戦争
- 蔣桂戦争
- 靖難の変
日本の戦争
- イラク戦争
- インドネシア独立戦争
- ソ連対日参戦
- マスタードム作戦
- 乙未戦争
- 享徳の乱
- 倭・高句麗戦争
- 元寇
- 元弘の乱
- 刀伊の入寇
- 前九年の役
- 台湾出兵
- 壬申の乱
- 奥州合戦
- 宮古島島民遭難事件
- 後三年の役
- 応仁の乱
- 応永の外寇
- 戊辰戦争
- 承久の乱
- 日ソ国境紛争
- 日中戦争
- 日本が関与した戦争一覧
- 日清戦争
- 日露戦争
- 村山等安の台湾出兵
- 治承・寿永の乱
- 琉球侵攻
- 第一次世界大戦
- 第一次世界大戦下の日本
- 第二次世界大戦
- 結城合戦
- 義和団の乱
- 観応の擾乱