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建武の新政

索引 建武の新政

建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現される。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。近年の歴史学では「建武政権」という表現もある。後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。.

200 関係: 千種忠顕南北朝時代 (日本)南朝 (日本)名和長年吉田定房吉野坊門清忠大内裏大覚寺統天台座主天皇太平記太政官室町幕府家領家門守護密教尊良親王尾形月耕上野国上杉氏両統迭立中央公論新社中先代の乱中国万里小路宣房万里小路藤房三種の神器三条公忠三木一草下野国平安時代平泉澄久保田収京都二階堂氏二条道平二条河原の落書延久延喜の治延喜・天暦の治延元建武 (日本)建武の徳政令建武中興十五社建武年中行事建武記伊賀兼光...伯耆国引付衆佐藤進一征夷大将軍征西大将軍御家人御成敗式目後の三房後三条天皇後二条天皇後伏見天皇後醍醐天皇後村上天皇後漢得宗律令律令制信貴山信濃国在庁官人北畠具行北畠顕家北畠親房北条高時北条氏北条泰家北条時行北朝 (日本)和田英松円観内管領内裏内覧問注所公家公家領六波羅探題元寇元中元弘元弘の乱先例光厳天皇光武帝光明天皇国司皇位継承知行知行国王莽王政復古稲村ヶ崎立太子箱根・竹ノ下の戦い紙幣綸言汗の如し綸旨真言宗結城親光隠岐諸島花山院師賢鎮守府将軍鎌倉鎌倉将軍府鎌倉幕府鎌倉時代職原抄荘園領家行事所西園寺公宗親政記録荘園券契所高師直護良親王貨幣足利尊氏足利直義鷹司冬教辛酉近衛経忠船上山阿野廉子赤松則村関白関東地方関東申次醍醐天皇至文堂長崎氏雑訴決断所院政陸奥将軍府暗殺恩賞方恒良親王東北地方村上天皇梅松論楠木正成正中 (元号)正中の変正慶武士武者所歴史学比叡山河内国河内源氏治天の君湊川の戦い持明院統朝敵木寺宮本家朱子学成良親王明徳明徳の和約明治書院新田義貞新田氏文保文観日記日野資朝日本の官制日本学協会日本教文社摂家摂政播磨国悪党懐良親王時事通信社1069年1318年1324年1331年1333年1334年1335年1336年1338年1392年1月 (旧暦)6月 (旧暦)6月15日 (旧暦)7月 (旧暦) インデックスを展開 (150 もっと) »

卿(きょう、けい)は中国・日本の官位制における高位の官職。それに由来する呼称も指す。;官職.

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千種忠顕

千種 忠顕(ちぐさ ただあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿(公家)。権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。官位は従三位参議、贈従二位。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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名和長年

名和 長年(なわ ながとし)は、日本の南北朝時代の武将。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称された。 長年が発給した文書は現存数が少なく、その他の長年、及び名和氏に関する史料も少ない。.

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吉田定房

吉田 定房(よしだ さだふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。.

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吉野

吉野(よしの)は、大和国南部(現在の奈良県南部)一帯を指す地名である。特に吉野山から大峰山にかけての山岳地帯をいう。狩りに適した良い野という意味である。吉野は口吉野と奥吉野に分かれる。奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。大峰の山々は熊野まで連なる。大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。 記紀には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。.

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坊門清忠

坊門 清忠(ぼうもん きよただ)は、鎌倉時代から南北朝時代初期にかけての公卿。従三位坊門基輔の孫、左中将坊門俊輔の子。後醍醐天皇の古参の側近として建武政権下で活躍し、南北朝分立後は南朝に仕えた。.

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大内裏

平安京大内裏の位置 平安京大内裏(平安宮) 大内裏(だいだいり)とは、平安京の宮城である。別名平安宮。.

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大覚寺統

大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である、亀山天皇の子である後宇多天皇が京都の外れの嵯峨にあった大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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太政官

太政官.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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家領

家領(けりょう)とは中世の権門が代々伝領してきた所領・荘園などのこと。 奈良時代末期から平安時代初期に皇親・貴族が所有して家牒・家符・家印などを用いた命令文書で家司などに命じて経営させた初期荘園を「○○家領」「××家田」などと呼称したのが最初と考えられている。 平安時代中期以後、藤原北家などの藤原氏一族が更に細分化され、九条流・小野宮流・閑院流などが成立し、やがて九条流から派生した御堂流が摂家としての地位を確立した。その過程でそれぞれの氏や家に附属する所領や荘園、持仏堂などの施設が一族内部を統制する機能を持ち、氏長者や家長などの本主によって管理されるようになった。そうした所領や荘園をそれぞれの本主の官職・位階に基づいて区別し、本主の政所によって統括され、家司を預所に補任して荘務を行わせた。家領の権利書である公験は家記などとともに代々嫡男などの後継者に継承された。 権門の中でも最大の家領を有していたのは、御堂流摂関家であった。元は藤氏長者としての所領を中核としていたが、後には氏院である勧学院や同流ゆかりの寺院である法成寺や平等院などの寺院領が摂関家の家領として扱われるようになった。その後、摂関家の分立に伴ってこうした家領は渡領(殿下渡領)として摂関・藤氏長者の地位とともに移動し、院政期以後に摂関家の財産となった所領・荘園は近衛家・九条家などに分割され、後に5つに分立したそれぞれの摂関家固有の家領として確立されることになった。.

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家門

#一門、一族。血統、系譜によって結び付けられた血縁集団のこと → 氏族.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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密教

密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し、秘密仏教の略称とも言われる。金剛乗、あるいは金剛一乗教、金剛乗教ともいう。中国語圏では一般に密宗(ミイゾン)という。.

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尊良親王

尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう、1310年(延慶3年)? - 1337年4月7日(延元2年 / 建武4年3月6日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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尾形月耕

龍昇天」(『月耕随筆』) 尾形 月耕(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政6年9月15日〈1859年10月10日〉 - 大正9年〈1920年〉10月1日)とは、日本の明治から大正期の浮世絵師、日本画家。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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上杉氏

上杉氏(うえすぎし / うえすぎうじ)は、公家である藤原家の支族の一つ。1252年、公家である藤原重房が、宗尊親王の鎌倉幕府・将軍(皇族初の征夷大将軍)就任に従って京都から鎌倉へ下向して、武家化し「上杉」姓を賜われたのが上杉氏の祖。室町時代には関東管領を世襲し、越後・上野・武蔵・相模の守護を務める有力守護大名として栄えた。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母は上杉家出身。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族(山内上杉家)が著名。山内上杉家15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった山内上杉家17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いにて西軍に付いて敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。本貫地は丹波国何鹿郡上杉荘(現在の京都府綾部市上杉)。 江戸時代には、大名2家、旗本4家(うち高家1家)があり、子孫は現代まで続いている。.

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両統迭立

両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。 日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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万里小路宣房

万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ)は、鎌倉時代中期から南北朝時代の公卿。従三位・万里小路資通の子。.

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万里小路藤房

万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。藤原藤房とも言う。 江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている。.

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三種の神器

三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。 三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。中でも八尺瓊勾玉・草薙剣は併せて剣璽と称される。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。.

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三条公忠

三条 公忠(さんじょう きんただ)は南北朝時代の公卿。従一位内大臣。後押小路内大臣と号す。父は内大臣三条実忠、母は左中将藤原公直の娘。 子には太政大臣に至った実冬、藤原(三条)厳子(通陽門院)、実苑、実禅がいる。.

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三木一草

三木一草(さんぼくいっそう)は、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称。楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて呼ぶ。 名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名にちなむ。 4人に共通する点は、.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平泉澄

平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月15日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。.

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久保田収

久保田 収(くぼた おさむ、明治43年(1910年)7月22日 - 昭和51年(1976年)12月7日)は、日本の歴史学者。専門は神道史。文学博士。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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二階堂氏

二階堂氏(にかいどうし)は公家、武家の一氏族。特に陸奥国の岩瀬郡を支配し須賀川城を居城とした戦国大名が著名。.

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二条道平

二条 道平(にじょう みちひら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期の公家。摂政・関白二条兼基の子。官位は従一位・関白・左大臣。号に後光明照院関白。.

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二条河原の落書

二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)とは、室町幕府問注所執事の町野氏に伝わる『建武年間記(建武記)』に収録されている文である。88節に渡り、建武の新政当時の混乱する政治・社会を批判、風刺した七五調の文書。専門家の間でも最高傑作と評価される落書の一つである。.

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延久

延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.

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延喜の治

延喜の治(えんぎのち)は、平安時代中期(10世紀前期)の醍醐天皇の治世を理想視した呼称。延喜は醍醐天皇の治世の元号である。.

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延喜・天暦の治

延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)とは、平安時代中期(10世紀)の第60代醍醐、その皇子の第62代村上両天皇の治世を聖代視した呼称。延喜は醍醐の、天暦は村上の元号である。延喜の治および天暦の治も参照のこと。.

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延元

延元(えんげん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。建武の後、興国の前。1336年から1339年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、後村上天皇。北朝方が光明天皇。室町幕府将軍は足利尊氏。.

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建武 (日本)

建武(けんむ)は、日本の元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で日_(旧暦)|1月29日〜1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日〜1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇。.

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建武の徳政令

建武の徳政令(けんむのとくせいれい)とは、建武元年5月3日(1334年6月5日)に出された法令。本来は元弘の乱による論功行賞の円滑化を図ることを目的とした広義の「徳政」の法令で債権債務の無効を定めた徳政令を意図した法令ではなかったが、条文で後醍醐天皇が隠岐に配流されている間に生じた権利変動を原則無効としたことから徳政令と同様の効果を有した。.

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建武中興十五社

建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。これらの神社は「建武中興十五社会」を結成している。.

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建武年中行事

建武年中行事(けんむねんちゅうぎょうじ)は、後醍醐天皇によって書かれた有職故実書、全3巻。建武元年(1334年)成立とされるが、天皇が吉野へ逃れた延元2年(1337年)成立説(木藤才蔵説)もある。仮名年中行事・和字年中行事など多くの異名がある。 天皇が立太子以来20年余りの宮中生活の中で経験した多くの宮中における朝儀・公事の内容・作法について記したもの。正月の四方拝から年末の追儺・節折までの宮中行事を月ごとに和文で記述している。建武の新政の開始に伴い、朝儀の再興を意図して書かれたと考えられている。天皇独自の行事などに関する記述もあり、北朝においても尊重される(『園太暦』観応2年12月条)など、後世に大きな影響を与えた。 和田英松の注解で『建武年中行事』(校訂解説所功、講談社学術文庫、1989年、再版1991年)がある。 Category:日本の制度史 Category:南北朝時代 (日本) Category:室町時代の文化 Category:有職故実書.

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建武記

建武記(けんむき・建武年間記(けんむねんかんき))とは、建武新政期において出された法令や諸機関の結番交名などを採録・編集した記録。全1巻。 編者は不明である。文書の宛先や写本の奥書から鎌倉幕府・建武政権・室町幕府において法曹官僚であった松田氏・太田氏などが挙げられているが不詳。建武年間から離れていない時期に成立したと考えられている。25の記録類が年代別に編纂されているが、一部の文書の配列が乱れているものがある。なお、著名な「二条河原落書」もこの書に所収されている。.

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伊賀兼光

伊賀 兼光(いが かねみつ、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての御家人、実務官僚。六波羅探題越訴頭人であった山城守伊賀光政の子。父の官名にちなんで山城兼光とも。.

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伯耆国

伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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引付衆

引付衆(ひきつけしゅう)は、鎌倉幕府の職名の一つ。.

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佐藤進一

佐藤 進一(さとう しんいち、1916年11月25日 - 2017年11月9日)は、日本の歴史家。中央大学名誉教授。専門は、日本中世史、中世法制史、古文書学。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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征西大将軍

征西大将軍(せいせいたいしょうぐん/ 征西将軍(せいせいしょうぐん))は、奈良・平安時代に九州や四国地方を平定するために天皇(朝廷)から任命された将軍。征戎将軍ともいう。 六国史では、続日本紀養老4年(720年)7月3日条に「征西将軍以下抄士(かじとり)に至るまでそれぞれ物を賜う」とあり、これが「征西将軍」の初見である。 また、日本紀略天慶4年(941年)5月19日条には、瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を征伐するために藤原忠文を征西大将軍に任じるとある。後に南北朝時代に南朝方が、離反した足利尊氏を征伐するために延元元年(1336年)後醍醐天皇の皇子の懐良親王を任命し、さらに正平(1366年)頃には後村上天皇の皇子の良成親王を任命した。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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御成敗式目

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。 1185年に鎌倉幕府が成立以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていたが、1221年(承久3年)の承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時が朝廷を武力で倒し、朝廷の権力は制限され、幕府の権力が全国に及んでいったが、日本を統治する上で指標となる道徳や倫理観そして慣習が各地で異なるため、武家社会、武家政権の裁判規範として制定された。.

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後の三房

後の三房(のちのさんぼう)は、鎌倉時代末期より南北朝時代にかけて、後醍醐天皇の側近として仕えた、北畠親房・万里小路宣房・吉田定房の3人を指す。 File:Kitabatake_Chikafusa.svg|北畠親房 File:Madenokoji Nobufusa.jpg|万里小路宣房 File:Yoshida Sadafusa.jpg|吉田定房.

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後三条天皇

大炊御門万里小路殿址、源高房、後三条天皇はこの地で崩御、京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側 後三条天皇(ごさんじょうてんのう、長元7年7月18日(1034年9月3日) - 延久5年5月7日(1073年6月15日))は、第71代天皇(在位:治暦4年4月19日(1068年5月22日) - 延久4年12月8日(1073年1月18日))。諱は尊仁(たかひと)。宝算40。 後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。.

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後二条天皇

後二条天皇(ごにじょうてんのう、弘安8年旧2月2日(1285年3月9日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))は、鎌倉時代の第94代天皇(在位:正安3年旧1月21日(1301年3月2日) - 徳治3年旧8月25日(1308年9月10日))。諱は邦治(くにはる)。大覚寺統の天皇である。 後宇多天皇の第一皇子。母は太政大臣堀川基具の養女で実孫の基子(西華門院)。後醍醐天皇の異母兄にあたる。 後二条天皇の即位は鎌倉幕府が朝廷に治天と天皇の交代を要求したことから実現したものだったが、ここまで半世紀以上にわたって持明院統と大覚寺統による両統迭立を重ねてきた結果、この天皇の即位後3年半にわたって史上最多となる5代の上皇(後深草院・亀山院・後宇多院・伏見院・後伏見院)が同時に存在することになった。.

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後伏見天皇

後伏見天皇(ごふしみてんのう、弘安11年3月3日(1288年4月5日)- 延元元年4月6日(1336年5月17日))は、鎌倉時代の第93代天皇(在位:永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日))。諱は胤仁(たねひと)。 伏見天皇の第一皇子。母は、参議左近衛中将五辻経氏の娘、経子。持明院統。.

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後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.

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後村上天皇

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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律令

律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。日本統治下の台湾において台湾総督が法律に代わるものとして制定した律令については律令(日本統治下の台湾法制)を参照。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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信貴山

信貴山(しぎさん)は、奈良県生駒郡平群町に位置する山である。奈良百遊山の一つに選定されている。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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在庁官人

在庁官人(ざいちょうかんにん、ざいちょうかんじん)とは、日本の平安中期から鎌倉期に、国衙行政の実務に従事した地方官僚の総称。在庁官人という名前の役職が存在したわけではない。在庁(ざいちょう)、庁官(ちょうのかん)とも。中央派遣の国司が現地で採用する実務官僚であり、国司の側近としての性格があった。国司の現地赴任そのものがほとんどなくなるようになり、そのうちで強大な実力を持ったものは在国司(ざいこくし)とも呼ばれるようになった。.

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北畠具行

北畠 具行(きたばたけ ともゆき、正応3年(1290年) - 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日))は、鎌倉時代末期の公卿。村上源氏北畠家庶流・北畠師行の次男。兄に雅行。.

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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

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北畠親房

北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。著書の『神皇正統記』で名高い。.

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北条高時

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条泰家

北条 泰家(ほうじょう やすいえ)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。.

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北条時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。 鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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和田英松

和田 英松(わだ ひでまつ、慶応元年9月10日(1865年10月29日)- 昭和12年(1937年)8月20日)は、日本の歴史学者(日本史学)・国文学者。文学博士。位階勲等は従三位勲二等。.

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円観

円観(えんかん、1281年9月1日(弘安4年閏7月17日) - 1356年4月2日(正平11年/延文元年3月1日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての天台宗の僧。字は慧鎮(えちん)。常用漢字を使って恵鎮と書かれることも多い。後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の5帝に戒を授けたために「五国大師」の異名を得た。.

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内管領

内管領(ないかんれい/うちのかんれい)とは、鎌倉幕府の執権北条氏の宗家である得宗家の執事で、得宗被官である御内人の筆頭である。御内頭人(みうちとうにん)ともいう。「得宗の家政を司る長」の意味であり、幕府の役職名ではない。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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内覧

内覧.

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問注所

問注所(もんちゅうじょ、もんぢゅうしょ)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府に設置された訴訟事務を所管する機関である。 「問注」とは、訴訟等の当事者双方から審問・対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味する。つまり「問注所」とは問注を行う場所を意味する。平安期には問注を行うための特定の場所は定められていなかったが、鎌倉幕府においては問注を行う場所として問注所を設置したのである。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公家領

公家領(くげりょう)とは、公家(公卿・官人)の所領の総称。広義においては皇室領を含む場合もある。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

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元中

元中(げんちゅう)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。弘和の後。1384年から1392年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後亀山天皇、北朝方が後小松天皇。室町幕府将軍は足利義満。.

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元弘

元弘(げんこう)は、日本の元号の一つ。元徳の後、建武の前。1331年から1333年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。.

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先例

先例(せんれい)とは過去に存在した同様の事例。また、その中で特に規範としての重みを持ち、諸々の判断基準として位置づけられるもの。前例。また、特に繰り返し行われてきたものについては「慣例」「通例」などともいわれる。.

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光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、鎌倉時代末期の持明院統の天皇(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。 後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に就いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇125代の内には含まれず、北朝初代として扱われている。ただし、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた2代15年の間、光厳上皇は治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。.

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光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.

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光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の天皇で、諱を豊仁(ゆたひと)という。 その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇125代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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皇位継承

1928年(昭和3年)11月、即位の礼の時の昭和天皇 皇位継承(こういけいしょう)は、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。.

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知行

知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。日本の歴史上の領主はヨーロッパの農奴制における領主のように無制限に所領の土地と人民を私有財産として所有したのではなく、徴税権・支配権にかかわる一定の権利義務の体系を所持した存在であった。この体系が知行であり、日本史における領主階層のあり方を理解する上で、知行の概念の理解は欠かせない。.

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知行国

知行国(ちぎょうこく)とは、古代・中世の日本において、有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権(国務権・吏務ともいう)を獲得し収益を得た制度、およびその国。知行権を獲得した有力貴族・有力寺社らを知行国主といい、知行国主は、知行国の国司推薦権や官物収得権を保有した。知行国は「沙汰国」、「給国」ともいった。.

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王莽

王莽が発行した貨幣。小刀を模した形状である 王 莽(おう もう)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。.

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王政復古

王政復古(おうせいふっこ)は、君主によって統治された国家において、クーデターや内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が、何等かの理由によって復活する現象である。復辟(ふくへき)、政体が帝国の場合は帝政復古とも言う。.

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稲村ヶ崎

村ヶ崎を西側から望む(2004年11月9日撮影) - 中腹に広場のように見えるのが鎌倉海浜公園。なお砂が全体的に黒っぽいのは地中に含まれる砂鉄のせいである 稲村ヶ崎(いなむらがさき)は、神奈川県鎌倉市南西部にある岬で、由比ヶ浜と七里ヶ浜の間にあたる。通常、「稲村ヶ崎」の表記は歴史的用法や国の史跡の名称に使用し、地名としては住居表示に伴う町名変更で稲村ガ崎一丁目から稲村ガ崎五丁目となっている1969年(昭和44年)2月24日自治省告示第24号「住居表示が実施された件」。.

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立太子

立太子(りったいし)は、広く東アジアにおいて広まった儀礼で、日本の天皇・中国の皇帝の皇子等を跡継ぎとして太子に立てることである。また、日本においてはこの概念が定着していることから、ヨーロッパの王家に対しても、「立太子」の語を用いることがある。.

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箱根・竹ノ下の戦い

箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日(ユリウス暦)(建武2年12月11日)に、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に、参集した軍勢との間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。.

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紙幣

紙幣(しへい)とは、紙製の通貨の事である。.

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綸言汗の如し

綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)とは、皇帝が一旦発した言葉(綸言)は取り消したり訂正することができないという中国歴史上の格言。 「綸言」の出典は孔子の『礼記』緇衣篇である。原文では「王言如絲,其出如綸;王言如綸,其出如綍」となっており、王のちょっとした言葉(絲.

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綸旨

綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。 綸旨とは本来は「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した公文書の要素を持った奉書を指すようになった。御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。.

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真言宗

右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた、大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう) - コトバンク/世界大百科事典、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。 空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。.

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結城親光

結城 親光(ゆうき ちかみつ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。.

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隠岐諸島

島前 隠岐諸島(おきしょとう)は、島根半島の北方約50kmにある諸島。隠岐群島(おきぐんとう)、隠岐島(おきのしま)とも呼ばれる。現在は島根県隠岐郡に所属。山陰地方では今でも隠岐諸島を指して隠岐国(おきのくに)と呼ぶ場合がある。 当諸島は、島前(どうぜん)と島後(どうご)に分かれている。.

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花山院師賢

花山院 師賢(かざんいん もろかた)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。内大臣花山院師信の二男で、母は僧恵一(五辻忠継の子)の女である。後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、幕府に拘束されて配所の下総で没した。.

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鎮守府将軍

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.

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鎌倉

鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.

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鎌倉将軍府

鎌倉将軍府(かまくらしょうぐんふ)は、1333年に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における、関東統治機関である。建武政権からは距離を置いていた足利氏が取り仕切っていた。室町幕府の関東統治機関である鎌倉府の前身である。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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職原抄

『職原抄』(しょくげんしょう)は、中世日本の有職故実書。全2巻。職原鈔とも。鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿北畠親房が、常陸国小田城で後村上天皇のために書いたものとされる。興国元年/暦応3年(1340年)成立。.

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荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

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領家

家(りょうけ)は、日本の荘園制において、荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)から寄進を受けた荘園領主である。中央の有力貴族や有力寺社が荘園寄進を受けて領家となっていた。.

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行事所

行事所(ぎょうじしょ)は、古代日本の宮廷組織。9世紀中頃に大嘗祭(だいじょうえ)などに現れ、徐々に恒常・臨時を問わず様々な行事に設けられた機能性を重視したプロジェクトチームであり、必要な物資の調達を含む行事事務全般を取り仕切る。上卿1名、弁官、史からなるのが一般的。 上卿は太政官機構を経由せずに、必要に応じて摂関の指示を仰ぎ、蔵人や殿上弁を通じて天皇への奏上を行った。 10世紀後半からはこの行事所が、独自の経済基盤として、召物を諸国から徴収するようになり、朝廷諸行事執行の重要な柱となっている。 以上は平安時代の行事所であるが、現在でも大きな神社などの行事には行事所が置かれたり、「役」となったりしている。.

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西園寺公宗

西園寺 公宗(さいおんじ きんむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭(建武の新政期)にかけての公家。.

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親政

親政(しんせい)とは、君主(国王・皇帝・天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態(君主制の一形式)のことである。.

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記録荘園券契所

記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)は平安時代の荘園調査機関。令外官の1つ。略して記録所という。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高師直

師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。足利尊氏時代に執事をつとめた。本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。.

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護良親王

護良親王 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日(1335年8月12日)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや / おおとうのみや)と呼ばれた。天台座主。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。.

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貨幣

貨幣(かへい、money)とは、.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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鷹司冬教

鷹司 冬教(たかつかさ ふゆのり)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。鷹司基忠の三男だが、兄・冬平の養子となる。号は後円光院関白。.

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辛酉

辛酉(かのととり、しんゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金で、比和である。.

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近衛経忠

近衛 経忠(このえ つねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。関白近衛家基の孫にして、関白近衛家平の子であり、弟に覚実がいる。従弟基嗣との家門争いに敗れ、南朝に仕えた。号に後猪熊関白、堀河関白など。.

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船上山

船上山(せんじょうさん)は、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高687メートルの山である。.

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阿野廉子

阿野 廉子(あの れんし/やすこ/かどこ、正安3年(1301年) - 正平14年/延文4年4月29日(1359年5月26日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての後宮・女院。後醍醐天皇の寵妃にして、後村上天皇(義良親王)・恒良親王・成良親王・祥子内親王・惟子内親王などの母である。院号宣下を受けて、新待賢門院と号し、また三位局とも呼ばれた。 父は右近衛中将・阿野公廉、母は不詳だが、後に洞院公賢の養女となった。実家の阿野家は藤原北家閑院流の公家であり、阿野全成の外孫・実直を始祖としている。.

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赤松則村

赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。.

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関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

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関東地方

関東地方(かんとうちほう)は、日本の地域区分のひとつであり、本州の東部に位置している。その範囲について法律上の明確な定義はないが、一般的には茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都6県を指して関東地方と呼ぶ『日本地名大百科』p.350。。 首都・東京を擁する関東地方は日本の政治・経済の中心となっており、日本の総人口の3分の1が集中している。 首都圏整備法が定義する「首都圏」には、関東地方に山梨県を加えた1都7県が含まれる。また、「関東地方知事会」には、首都圏1都7県に加えて、中部圏知事会議にも加わっている静岡県、長野県の両県知事がオブザーバー参加している。関東地方は人口・面積が多数・広大なので、利根川を境界線に北を北関東(茨城県・栃木県・群馬県)地方、南を南関東地方(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)に分割することもある。.

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関東申次

関東申次(かんとうもうしつぎ)は、関東執奏(かんとうしっそう)とも言い、鎌倉時代の朝廷に設けられた役職で、鎌倉幕府側の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った。.

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醍醐天皇

醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.

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至文堂

至文堂(しぶんどう)は、日本の出版社である。.

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長崎氏

長崎氏(ながさきし)は、鎌倉時代の北条氏得宗家の御内人。桓武平氏と称して、得宗被官である同族とされる平氏についてもこの項で扱う。.

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雑訴決断所

雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)とは、日本の南北朝時代、いわゆる建武の新政期に朝廷に設置された訴訟機関。公家・武家出身者が混在した組織で、主に土地(所領)の相論を扱い、後には後醍醐天皇の綸旨の施行にもあたったが、建武政権の崩壊に伴い、短期間で消滅した。 ※以下、日付はすべて宣明暦によるものである。.

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院政

院政(いんせい)は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治である。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治形態である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。.

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陸奥将軍府

奥将軍府(むつしょうぐんふ)とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における地方統治機関である。廷臣の北畠親房・北畠顕家親子が、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国の国府・多賀城に下り、東北地方(陸奥・出羽の2国)および北関東(の3ヶ国)を管轄。建武政権の統治機構を指す。 鎌倉時代後期、奥州では蝦夷の蜂起や安藤氏の乱(蝦夷大乱)が起こるなど内乱が続き、鎌倉幕府も平定のために兵を派遣し、幕府の権威が動揺する原因にもなっていた。 1333年、後醍醐天皇の倒幕運動に応じた足利尊氏、新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、京都で建武の新政が開始される。足利尊氏は6月に鎮守府将軍に任命、奥州の北条氏旧領の地頭職などが与えられ、奥州における足利氏の勢力が強化された。 同年10月、親房の子の北畠顕家が陸奥守鎮守大将軍に任命され、後醍醐天皇の皇子である義良親王を陸奥太守として推戴して陸奥国国府の多賀城へ出立した。 陸奥将軍府設置の背景として、足利尊氏と対立し征夷大将軍に任命された護良親王は北畠親房らと尊氏牽制のための小幕府構想を運動したとする佐藤進一の説と後醍醐天皇が奥羽統治の積極的な展開を目指して設置したとする伊藤喜良の説がある。いずれにしても、旧北条氏、足利氏の有力一門斯波氏の支配地も多かった陸奥国において、奥羽の秩序を安定化させるとともに朝廷の支配下に武士を取り込むことが不可欠であった亀田俊和「陸奥将軍府恩賞充行システムの研究」(初出:『兵庫大学論集』16号(2011年)/改題所収:「陸奥将軍府恩賞充行制度の研究」亀田『室町幕府管領施行システムの研究』(思文閣出版、2013年) ISBN 978-4-7842-1675-8)。また、近年の説としては、鎌倉幕府の機能そのものを陸奥将軍府に移して鎌倉(関東)から政治的機能を除去する目的があったものの、足利氏などの関東の御家人や旧幕府吏僚の反発でやむなく鎌倉将軍府を設置した(ただし、恩賞宛行や引付機能は陸奥将軍府にしか認めず、鎌倉将軍府の権限は僅かであった)とする坂田雄一の説もある。 北畠顕家に与えられた権限は非常に強く、後醍醐天皇に一元化されていた恩賞充行の権限も陸奥国については顕家に一任され、天皇が宛行する例外は他ならぬ顕家自身と顕家と同じく建武政権の重鎮であった白河結城氏の結城宗広のみとされた。また、顕家は陸奥守として国宣を発給し、政所、侍所、引付衆をはじめ公卿や在地の武将からなる式評定衆を置いて、鎌倉幕府の職制を模した小幕府としての支配基盤を築いた。 奥州の有力地頭である南部政長や、結城宗広、伊達行朝らの勢力を糾合し、1335年に顕家が鎮守府将軍を兼ねると軍事権も強化され、足利氏の代官たる斯波氏と競合していった。 12月、足利直義が相模守に任命され、成良親王を奉じて鎌倉へ赴き、鎌倉将軍府が成立する。鎌倉将軍府は建武政権の一機関としての性格を持ちながらも、新政から距離を置いていた尊氏にとって、関東における足利氏の勢力基盤を敷く大義名分となり、さらに1334年11月には、尊氏の政敵であった護良親王が失脚して鎌倉に幽閉され、尊氏の地位が優位となる。 7月、信濃国で北条氏の残党が蜂起して、鎌倉を奪還する中先代の乱が起こると、尊氏は救援に向かった後に鎌倉に留まり、帰京を拒否する。足利勢が追討に派遣された新田義貞らを撃破して京都へ進軍すると、顕家は義良親王とともに陸奥を出立し、鎌倉で斯波家長を討ち、義貞と連携して足利勢を駆逐し、1336年3月には陸奥へ帰還する。 1337年(延元2年)、足利方の攻勢により国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)に移転。その後も9月に武蔵国児玉郡浅見山に出兵するなど、足利方との一進一退が続く。 尊氏は九州落ちした後に東上し、持明院統の光厳上皇を治天に擁立すると、後醍醐天皇は吉野に逃れ、これに対抗した(南朝・吉野朝廷)。顕家は南朝の武将として各地に転戦し、1338年5月に戦死する。このため、同年閏7月に弟の北畠顕信が陸奥介兼鎮守府将軍に任じられて父の親房・結城宗広とともに伊勢国大湊から海路陸奥を目指すが、途中で暴風雨に遭遇して伊勢国に引き返すことになる(父・親房は常陸国にたどり着く)。顕信は再度陸奥行きを志し、1340年6月に陸奥に入国することに成功する。1343年、父の親房が関城・大宝城の戦いに敗れて吉野に逃れた後も、顕信は陸奥に留まり、北朝が1345年に設置した奥州管領と争う。だが、1347年には霊山などを北朝方に奪われて苦境に陥る。その後、観応の擾乱に乗じて再起を図るが、1353年5月に最後の拠点であった宇津峰城が陥落すると事実上崩壊した。 親王太守と北畠顕家の威望によって陸奥将軍府は奥羽における南朝方の柱として機能したが、1338年(延元3年)の顕家の戦死後は振わなくなり、幕府方の奥州管領・奥州探題として送り込まれた吉良氏、石堂氏、畠山氏、石橋氏、斯波氏らによって指揮された足利方の勢力によってに圧倒され、多賀国府も追われることとなり、奥州将軍府はその実を失ってしまった。.

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暗殺

リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国) ガンディー・暗殺されたインドの政治家 金玉均・暗殺された李氏朝鮮の政治家 ジョン・レノン・イングランド出身の音楽家、銃弾を受け死去 坂本龍馬・幕末の英雄、盟友の中岡と共に死去 暗殺(あんさつ)は、主に政治的、宗教的または実利的な理由により、要人殺害を密かに計画・立案し、不意打ちを狙って実行する殺人行為(謀殺)のこと。 見せしめや弾圧、粛清の一種としても存在する。.

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恩賞方

恩賞方(おんしょうがた)とは、建武政府及び室町幕府に設置された恩賞業務を取り扱った部局。.

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恒良親王

恒良親王(つねよししんのう、つねながしんのう、正中元年(1324年) - 延元3年/建武5年4月13日(1338年5月3日))は、後醍醐天皇の皇子。母は後醍醐の寵姫阿野廉子。成良親王、義良親王の同母兄。後醍醐天皇と足利尊氏との内戦の中で、一時的に天皇となる。 名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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東北地方

東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置している。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。 その範囲に法律上の明確な定義はないものの「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」 首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか 『日本経済新聞』 平成24年6月16日S3面、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す『日本地名大百科』、小学館、1996年、pp.776-777 ISBN 4-09-523101-7。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。.

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村上天皇

村上天皇(むらかみてんのう、延長4年旧6月2日(926年7月14日)- 康保4年旧5月25日(967年7月5日))、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年(946年)旧4月28日 - 康保4年(967年)旧5月25日)。諱は成明(なりあきら)。 第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。.

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梅松論

『梅松論』(ばいしょうろん)は、南北朝時代の軍記物語・歴史書、全2巻。『太平記』と双璧をなす軍記物語である。.

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楠木正成

楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。.

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正中 (元号)

正中(しょうちゅう)は、日本の元号の一つ。元亨の後、嘉暦の前。1324年から1326年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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正中の変

正中の変(しょうちゅうの へん)は、鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた、後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚し首謀者が処分された事件。この年は12月9日に改元あって正中元年となったため、日本史の上ではこの改元後の元号をとって「正中の変」と呼んでいる。.

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正慶

正慶(しょうきょう、しょうけい)は、日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用された。元徳の後、元弘の前。1332年から1333年5月25日までの期間を指す。この時代の天皇は大覚寺統(南朝)の後醍醐天皇だが、幕府方は持明院統の光厳天皇を立てた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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武者所

武者所(むしゃどころ)とは、内裏や院御所の警備を担当する機関。 寛和元年(985年)に円融上皇の御所に院武者所を設けて10名を配備したのが最古の記録である。後には上皇の院庁始の際に院蔵人所、院御随身所とともに置かれる慣例が成立した。定員は10-30名と不定であるが、天皇在位時の滝口の武士が充てられることが多く、上皇の警備にあたる他、治安維持のために派遣される事もあった。本官を持たない散位の者も多く、労効によって右馬允などの武官に任じられる者もいた。白河上皇が北面武士を設置すると次第に取って代わられるようになり、院政の衰退とともに廃絶する。 後醍醐天皇の建武政権の成立後に復活し、窪所とともに内裏の警備や京都の治安維持にあたった。新田義貞が頭人を務めて後醍醐天皇の親衛隊的な役割を果たしたが、義貞を頭人に送り込んだのは足利尊氏だとする説もある。だが、中先代の乱以降に足利尊氏が建武政権に叛旗を翻し、新田氏は足利氏と決別してその対抗勢力に転化すると、新田氏が拠る所となり、延元元年(建武4年/1336年)4月に作成された結番交名には、全65名のうち新田氏一族の占める割合が高く、全6番制であったことが知られる。建武政権崩壊後も、南朝・北朝のそれぞれに武者所が設けられていた。.

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歴史学

歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史の事実、及びそれらの関連を追究する学問である。.

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比叡山

比叡山(ひえいざん)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称である。高野山と並び古くより信仰対象の山とされ、延暦寺や日吉大社があり繁栄した。東山三十六峰に含まれる場合も有る。別称は叡山、北嶺、天台山、都富士など。.

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河内国

河内国(かわちのくに/かはちのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。.

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治天の君

治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場美川圭 『院政―もう一つの天皇制―』中公新書 (2006年)ISBN 4-12-101867-2 黒田俊雄『日本の歴史 蒙古襲来』中公文庫 (1974年)ISBN 4-12-200071-8と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。 上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。.

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湊川の戦い

湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の建武3年(1336年)5月25日に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。.

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持明院統

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の子である第89代後深草天皇の子孫である。.

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朝敵

朝敵(ちょうてき)は、日本において天皇とその朝廷に敵対する勢力を意味する呼称である。.

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木寺宮

木寺宮(きでらのみや)は、鎌倉時代から室町時代中期にかけて存続した宮家。常盤井宮家に次いで、世襲親王家の体裁を備えていた。始祖は後二条天皇の皇子である皇太子邦良親王、初代はその嫡男の康仁親王。称号の由来は、邦良親王以下の代々の殿宅が洛西の葛野郡木寺(仁和寺付近)にあったことによるという。経済的に衰微した後は、遠江国に移ったともいわれる。.

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本家

本家(ほんけ)は、日本の荘園制における重層的土地支配構造(荘園公領制、職の体系を参照)上、最上位に位置づけられる土地の名義上の所有権者である。開発領主(かいほつりょうしゅ)から寄進を受けた領家から更に寄進を受けた院宮家、摂関家、大寺社が本家となっていた。宗家ともいう。.

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朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。 陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。.

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成良親王

成良親王(なりよししんのう、なりながしんのう、嘉暦元年(1326年) - 興国5年/康永3年1月6日(1344年1月21日)?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。母は阿野廉子。同母兄弟に恒良親王、義良親王(後村上天皇)がいる。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。.

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明徳

明徳(めいとく)は、日本の元号の一つ。元中・康応の後、応永の前。1390年から1393年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後小松天皇。南朝方が後亀山天皇。室町幕府将軍は足利義満。 足利義満は、土岐康行の乱や2年の山名氏を挑発して蜂起させた明徳の乱、さらに応永期の応永の乱で有力守護大名を討伐して将軍権力を固めていく。1392年(元中9年/明徳3年)には北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられ、元号も明徳に統一された。 康暦の政変で失脚した後に幕政に復帰した細川頼之は明徳の乱でも戦い3年に没しており、弟の細川頼元が管領に就任している。4年には斯波義将が管領に就任しており、幕府の将軍を頂点とする三管領体制が整いつつある時期である。.

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明徳の和約

明徳の和約(めいとくのわやく)は、明徳3年/元中9年(1392年)に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について結ばれた協定。明徳の和談、元中一統とも。 この和約に従って同年閏10月5日(ユリウス暦1392年11月19日)、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られた。これによって、建武3年(1336年)以来の朝廷の分裂状態が終了した。.

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明治書院

明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。.

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新田義貞

新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。 鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主で、足利尊氏の対抗馬であり、好敵手でもあった。ただし、鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。また、軍記物語『太平記』においては、前半の主人公の一人とも言える存在である。 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。 死後、江戸時代に義貞が着用していた兜が偶然見つかり、福井藩主松平光通は兜が発見された場所に新田塚を建てた。明治時代、福井知藩事・松平茂昭は新田義貞のために新田塚に祠を建て、のち義貞を主祭神する藤島神社となり、建武中興十五社の一つに列せられた。.

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新田氏

新田氏(にったし)は、上野国発祥の豪族(軍事貴族)。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする上野源氏の総称。義国流足利氏と同族である。上野国(群馬県)を本貫とした。家紋は「大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)」。.

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文保

文保(ぶんぽう)は、日本の元号の一つ。正和の後、元応の前。1317年から1318年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇、後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。.

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文観

文観(もんかん、弘安元年(1278年) - 正平12年/延文2年10月9日(1357年11月21日))は、鎌倉時代から南北朝時代の僧。小野僧正。殊音上人、弘真。醍醐座主。「文観」という僧名と「殊音上人」という上人号は「文殊」菩薩と「観音」菩薩に因むものという。 正安2年(1302年)には般若寺の律宗の僧で、西大寺に属する播磨国北条常楽寺(兵庫県加古川市)、大和国笠山竹山寺(奈良県桜井市笠)などで真言律を学ぶ。正和5年(1316年)に醍醐寺報恩院の道順から灌頂を受ける。邪教とされていた真言宗立川流の僧としても知られ、円観(恵鎮)とともに遁世僧で貧民救済なども行っている。 後醍醐天皇に重用されて醍醐寺座主・天王寺別当となる。元亨4年(1324年)には般若寺に文殊菩薩像を造り、嘉暦元年(1326年)から後醍醐天皇中宮藤原禧子の御産祈願と称して鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、元徳2年(1331年)には逮捕され硫黄島へ流罪となる。 正慶2年 / 元弘3年(1333年)に元弘の乱の後に鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り東寺長者となり、建武の新政で栄華を極めた。しかし、高野山の僧らは文観と立川流を危険視し、1335年(建武2年)に立川流の僧の多くを殺害、書物を灰燼に帰するといった大規模な弾圧を加えた。文観自身もこの時期に東寺長者の地位をはく奪され甲斐国へ流された。その後京都へ戻り、南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行し、大僧正となる。河内国天野山金剛寺(大阪府河内長野市)で没、享年80。 、河内の悪党として知られる楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。.

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日記

日記(にっき)とは、日々の出来事を紙などに記録したものである。単なる記録として扱われるものから、文学として扱われるものまで、その内容は様々である。ある人物の生涯にわたって記されるような長期にわたるものから、ある旅、ある職務、ある事件などの間だけ記された短期のものまで、期間・分量も様々であり、西洋・東洋を問わず、世界的に存在する。.

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日野資朝

日野 資朝(ひの すけとも)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言・日野俊光の次男。.

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日本の官制

日本の官制(にほんのかんせい)では、日本の前近代、とくに律令制期の廃止された統治機構について概観する。なお近代の官制は近代日本の官制を、現在の官制については日本の国家機関を参照。.

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日本学協会

日本学協会は、日本学に関する研究・普及を行う財団法人であり、雑誌『日本』、学術誌『藝林』の発行、講演会の開催、図書の刊行などの事業を行っている。.

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日本教文社

日本教文社(にっぽんきょうぶんしゃ)は日本の出版社。主に谷口雅春、谷口清超などの生長の家関係者の書籍を刊行するが、近年はスピリチュアリティを扱う書籍も多い。 1930年、生長の家出版部として出発、34年光明思想普及会となり、戦後1946年日本教文社となる。社長に辻村彦次郎。ほか『フロイド選集』(1952-60)、『ウィリアム・ジェームズ著作集』、『ユング選集』、1960年代後半からは、右翼・保守派の三島由紀夫、葦津珍彦、林房雄、村松剛、小堀桂一郎、名越二荒之助などの著書も刊行する。 本社ビルの上に「生命の實相」と書かれた看板を掲げる。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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悪党

悪党(あくとう)は、.

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懐良親王

懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。 南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。.

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時事通信社

株式会社時事通信社(じじつうしんしゃ、Jiji Press Ltd.)は、1945年11月に創立された日本の通信社である国際地域研究センター『世界のメディア』p90。同盟通信社の法人サービス部門が母体。国内78カ所、海外28カ所の支社や支局を有する。 以前は略語に JP (JijiPress) を使用していたが、現在は Jiji を使用している。.

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1069年

記載なし。

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1318年

記載なし。

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1324年

記載なし。

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1331年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1334年

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1335年

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1336年

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1338年

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1392年

記載なし。

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1月 (旧暦)

旧暦1月(きゅうれきいちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から1番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、雨水を含む月を1月とする。新暦では1月下旬から3月上旬ごろに当たる。 1月の別名は睦月(むつき)である。名前の由来は1月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、1月29日までで1月30日は存在しない年もある。.

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6月 (旧暦)

旧暦6月(きゅうれきろくがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から6番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、大暑を含む月を6月とする。新暦では6月下旬から8月上旬ごろに当たる。 6月の別名は水無月(みなづき)である。名前の由来は6月を参照のこと。異称は「きか(季夏)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、6月29日までで6月30日は存在しない年もある。.

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6月15日 (旧暦)

旧暦6月15日は旧暦6月の15日目である。六曜は友引である。.

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7月 (旧暦)

旧暦7月(きゅうれきしちがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から7番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、処暑を含む月を7月とする。新暦では7月下旬から9月上旬ごろに当たる。 7月の別名は文月(ふみづき/ふづき)である。名前の由来は7月を参照のこと。異名は「もうしゅう(孟秋)」。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、7月29日までで7月30日は存在しない年もある。.

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