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島津義弘

索引 島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。朝鮮出兵では鬼島津と言われた.

311 関係: 加久藤城加藤嘉明加治木くも合戦加治木町えびの市南原城の戦い南日本新聞参議堺市大友氏大名大坂城大山幸綱大山綱宗大隅国大河平隆重大河ドラマ天正天文 (元号)外様大名奈良原質妙円寺 (日置市)姶良市姶良郡学研ホールディングス学陽書房室町幕府宮原景晴宮崎県家督宇喜多秀家安土桃山時代尚古集成館小西行長小返しの五本鑓小林城小早川秀秋山田有栄岩切信房岩切善信岩剣城島津家久島津久保島津久元島津忠親島津忠長島津忠良島津忠恒島津義久島津製作所...島津豊久島津貴久島津歳久島津氏島津源蔵 (初代)島津朝久川上久林川上久智川上忠堅川上忠実川上忠兄川上忠智上井兼政上井秀秋上井覚兼上井覚兼日記上井里兼上野忠則上村長陸上杉景勝中央公論新社中馬重方中村晋也帖佐宗光一騎討ち九州平定九州旅客鉄道平等寺 (桜井市)幕末久保之盛享年広場重綱五代友喜五代友泰庄内の乱井伊直政井邑市仮名 (通称)仙巌園伊丹師親伊勢参宮街道伊勢貞成伊勢貞昌伊集院久信伊集院忠真伊集院忠棟伊集院駅伊東祐信伊東義祐会津征伐伏見城弘治 (日本)住吉区佐谷田重正征夷大将軍侍従徳川家康徳川将軍家徳川秀忠徳重神社後醍院宗重従五位従四位忠清道北原氏北郷相久園田実明ネコトウ子龍初陣喜入季久喜入久道和泉国唐名入来院重嗣入来院重聡全州市全羅道八代市元均元亀元和 (日本)兵庫寮光文社矢野兼雲石田三成祁答院良重福島金治福島正之福島正則福昌寺 (鹿児島市)立花宗茂精矛神社継室羽柴氏真幸院経塚田尻但馬相良長継相良長泰 (島津家臣)相良氏相良晴広白坂昌棟隠居遠矢良賢道の駅えびの菱刈隆豊頴娃久音順天倭城飫肥城飯野城養子縁組許儀後高野山豊後国豊臣秀吉豊臣秀頼豊臣氏鳥居元忠足利義昭鶴嶺神社鹿児島市鹿児島県麿赤児黒田長政黒木実利辞世近衛前久露梁海戦阿蘇氏赤塚真賢赤崎丹後守関ヶ原の戦い薩摩国藤堂高虎董一元葵 徳川三代肝付氏肥後国蔵入地長寿院盛淳長善寺 (えびの市)長束正家酒瀬川武安耳川の戦いPHP研究所押川公近柚木崎正家柏木源藤捨て奸李舜臣李氏朝鮮松平忠吉村尾重侯村尾重良村尾重昌根白坂の戦い桜島梅北一揆検地横山忠篤橋口泰重正室正三位武功雑記武将殉死毛利元房毛利勝信永禄江原道 (朝鮮八道)江夏友賢江戸幕府江戸時代池宮彰一郎池之上町池田貞秀泗川の戦い泗川市漆川梁海戦朝鮮半島朝鮮王朝実録朝鮮通信使木崎原の戦い木食応其木脇祐秀木脇祐昌本多忠勝本田親商有川貞真有馬純房戦国大名戦国時代 (日本)戒名明史海南郡新人物往来社新納旅庵新潮社新潮文庫日南市日向国日置市摂津国播磨国愛称敷根頼元慶長扶餘郡10月20日10月21日11月12日 (旧暦)11月22日 (旧暦)11月5日12月17日1535年1554年1557年1560年1562年1566年1572年1577年1578年1581年1585年1586年1587年1588年1592年1593年1597年1598年1599年1600年1602年1619年1980年代1992年1996年2004年2010年2月23日 (旧暦)3月19日 (旧暦)4月24日5月22日 (旧暦)5月8日 (旧暦)6月13日6月23日 (旧暦)6月27日7月21日 (旧暦)7月23日 (旧暦)7月4日 (旧暦)8月21日8月30日9月14日 (旧暦)9月15日 (旧暦)9月30日 (旧暦) インデックスを展開 (261 もっと) »

加久藤城

加久藤城(かくとうじょう)は現在の宮崎県えびの市加久藤にあった平山城。伊東氏の史料には「覚頭城」と当て字されている。.

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加藤嘉明

加藤 嘉明(かとう よしあきら / よしあき)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人。伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主。 通称は孫六、後に官位と同じ左馬助と改める。諱の嘉明も後の名乗りで、初めは茂勝(繁勝)と名乗っていた。.

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加治木くも合戦

加治木くも合戦(かじきくもがっせん)は、鹿児島県姶良市加治木町において毎年6月の第3日曜日に開催されるコガネグモ同士を戦わせる伝統的な昆虫相撲の競技である。.

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加治木町

加治木町(かじきちょう)は、鹿児島県(離島以外の地域)の中部にあった町である。姶良郡に属していた。2010年3月23日付けで同じ姶良郡の蒲生町・姶良町と合併して姶良市となった。.

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えびの市

えびの市(えびのし)は、宮崎県にある市である。南西部に位置する。.

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南原城の戦い

南原城の戦い(なんげんじょうのたたかい)とは、慶長の役で日本軍が南原城を攻略した戦い。.

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南日本新聞

南日本新聞(みなみにっぽんしんぶん)は、南日本新聞社が編集・発行する鹿児島県の地方新聞である。発行部数は約35万2000部(2014年1〜6月現在)であり、九州の地方新聞としては、福岡県の西日本新聞に次ぐ発行部数である。 地元での略称は「みなみ(ミナミ)」「南日(なんにち)」。.

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参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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堺市

堺市(さかいし)は大阪府泉北地域に位置する日本の政令指定都市。 大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。大阪府内で人口・面積ともに第2の都市であり、人口は2015年4月時点で山梨県・佐賀県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県を上回る。一方、居住人口に比べて昼間人口の割合が低く、大阪市の衛星都市としての特徴も併せ持っている。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大坂城

大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。.

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大山幸綱

大山 幸綱(おおやま ゆきつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏家臣。 先祖は源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍した佐々木高綱で、その次男・野木光綱の子である行綱が薩摩へ下向したのが、九州に根を張る始まりとなった。 或る時、島津義弘が罪人を討ち果たさんとした際のこと、その罪人が稲殻に躓き倒れたところを幸綱が討ち取った。それにより義弘より感状と稲介の名を賜り、以後より自らの代を限りに弟の綱宗共々、髪を茶筅髷にするようになった。 天正18年(1590年)、義弘次男の久保が小田原征伐に進軍する際はこれに同行し、文禄の役の際は兵具奉行として朝鮮へ渡海した。また、朝鮮にて久保が鉄砲にて虎狩りをしようとした際はその御前へ出向いて、危険であるから自身の肩から鉄砲を撃つよう述べ、鉄砲を自らの肩に乗せて久保が虎の頭を撃ち抜く手助けをした。慶長3年(1598年)の露梁海戦の際には深手を負い海に投げ出されたが、味方の船に救助され命拾いしている。 寛永12年(1635年)に死去。享年68。孫からは先祖の佐々木氏に復姓している。.

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大山綱宗

大山 綱宗(おおやま つなむね、天正2年(1574年) - 慶長5年1月5日(1600年2月19日))は、安土桃山時代の薩摩国島津氏の武将。通称は三次。父は大山綱実、兄は大山幸綱。.

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大隅国

大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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大河平隆重

大河平 隆重(おこびら たかしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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大河ドラマ

『大河ドラマ』(たいがドラマ)は、1963年(昭和38年)から放送されているNHKのテレビドラマシリーズ。略称は大河。 1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇と2009年から2011年にかけて放送されたスペシャルドラマ『坂の上の雲』についてもこの項で述べる。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天文 (元号)

天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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奈良原質

奈良原 質(ならはら ただし、永禄11年(1568年) - 寛永8年10月26日(1631年11月19日))は戦国時代 - 江戸時代初期の薩摩藩の武士。諱は質。通称は次兵衛のち喜左衛門。本姓は『本藩人物誌』では嵯峨源氏。また『諸家大概』では藤原氏とする。「奈良原喜左衛門」を称した最初の人物であるが、幕末の子孫の方が有名である。 祖先奈良原帯刀周は山城国加茂の住人であったが、兄の左馬亮通と不仲となり薩摩国に下向。祖父の長門守資は島津忠良普請奉行で加世田郷地頭。父は奈良原安芸守延。兄は狩野介敦でともに地頭に就任するという。質は次男故に分家する。兄の子孫は『本藩人物誌』では奈良原清左衛門という。豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に自力で朝鮮に渡海。20日後に島津義弘の陣営に到着し、義弘にお目見えして御服、新恩地を得、島津久保の配下となる。文禄4年(1595年)に島津義弘の帰国にお供し、同年旧暦12月に本田親貞と伊集院忠棟の連判付きの知行目録を与えられる。.

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妙円寺 (日置市)

妙円寺(みょうえんじ)は、鹿児島県日置市伊集院町徳重にある曹洞宗の寺院である。山号は「法智山」。.

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姶良市

姶良市(あいらし)は、鹿児島県中央部に位置する人口約7万5000人の市。鹿児島市のベッドタウンとして発展している。.

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姶良郡

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学研ホールディングス

株式会社学研ホールディングス(がっけんホールディングス)は、日本の教育事業・出版社を統括する持株会社である。2009年(平成21年)10月1日に学習研究社(がくしゅうけんきゅうしゃ)より組織改編・社名変更を実施した。.

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学陽書房

株式会社学陽書房(がくようしょぼう)は、東京都千代田区に本社を置く出版社。 法律書・法令集・教育書の出版を中心としているが、歴史上の人物・有名人の伝記を収めた『人物文庫』などの出版も行っている。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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宮原景晴

宮原 景晴(みやはら かげはる、? - 寛永元年(1624年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての薩摩国島津氏の家臣。官位は左近将監、入道名は秋扇。兄は宮原景次。子は宮原景衡。後年の姓は仁礼氏。 兄の景次は宮原景種の婿養子となっていたが、永禄11年(1568年)の菱刈氏との合戦で討ち死にしたため、弟の景晴が婿養子となった(景種と景次、何れの婿養子かは不詳)。天正6年(1578年)の新納石城攻めで軍功を為した。串木野(現・鹿児島県いちき串木野市)の地頭となって以降は、天正9年(1581年)の水俣城攻めや天正14年(1586年)の岩屋城の戦いに参加した。 その後は島津義弘の家老代を務め、紙屋(現・宮崎県小林市野尻町)や阿久根(現・鹿児島県阿久根市)の地頭も務める。慶長4年(1599年)に心岳寺の普請奉行を仰せ付かり、出水(現・鹿児島県出水市)の高尾野城の普請役となった頃に出水の地頭にも任じられた。 元和4年(1618年)に嫡子の景衡が琉球検地の帰りに船が沈み水死すると、元和6年(1620年)に景衡の婿養子として仁礼景頼(三原重貞の子。元の名を別府小吉とする仁礼頼景とは別人)を迎えたのを機に姓を仁礼氏に改める。 寛永元年(1624年)に、出水の高尾野で病死した。.

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宮崎県

宮崎県(みやざきけん)は、九州地方南東部に位置する日本の県である。県庁所在地は宮崎市。 県木である「フェニックス」に代表される南国情緒豊かな気候から、1960年代には日南地区を中心とした新婚旅行のメッカだった。現在も春季のプロ野球などのキャンプ地として知られる。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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宇喜多秀家

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下(の末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていた。通称は備前宰相。父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏の、大名としての最後の当主であり、関が原の戦いで西軍について敗れ所領を失うまで岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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尚古集成館

尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)は、鹿児島県鹿児島市吉野町にある博物館である。薩摩藩第28代当主島津斉彬によって始められた集成館事業の一環として、1923年5月22日に開館した。現在は島津興業によって運営され、島津家に関する史料や薩摩切子、薩摩焼などを展示する。本館は1865年に建てられたもので、国の重要文化財である。仙巌園に隣接する。日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物。 2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する「旧集成館」の機械工場として世界遺産に登録されている。.

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小西行長

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。.

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小返しの五本鑓

小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける島津氏の敵中突破退却戦の際、下馬して踏み止まり奮戦した島津義弘の家臣5人を顕彰した呼称。.

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小林城

小林城(こばやしじょう)は現在の宮崎県小林市真方にあった日本の城(平山城)。別名を三ツ山城、あるいは三ノ山城。現在は城山公園。.

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小早川秀秋

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した「秀詮」が終の名だが、改名の翌年に本人が死去してその使用期間がきわめて短かったため、一般にはより認知された「秀秋」と書き表すことがほとんどである。。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。.

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山田有栄

山田 有栄(やまだ ありなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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岩切信房

岩切 信房(いわきり のぶひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。 父・岩切善信の後を継ぎ、島津義弘の近侍20人の中の一人として仕える。天正15年(1587年)には島津氏の側近として朝廷に謁見し、後に朝鮮出兵にも参加する。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも従軍し、帰国後に感状と知行200石を与えられている。年度不明ながら5月13日に没した。 飯田忠彦(野比氏)は、有能.

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岩切善信

岩切 善信(いわきり よしのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。 古代より日向国に続く有力豪族日下部氏の末裔と言われる岩切氏の生まれであり、父・岩切左京亮信朗から兵術を学び、弘治3年(1557年)には島津忠良に仕えて大隅国の蒲生範清攻めに従軍する。後の日向の伊東氏攻めでは軍功をあげ、天正4年(1576年)からは松齡公(島津義弘)に仕え、同9年(1581年)の水俣城攻めでは義弘の役者(神事・仏事に携わる者)を務めた。天正14年(1586年)には豊後国の大友氏攻めに従軍し、慶長4年(1599年)の庄内の乱の際には、凱歌を唱えたと伝えられている。年度不明ながら8月7日に没した。.

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岩剣城

岩剣城(いわつるぎじょう)は鹿児島県姶良市平松にある中世城郭。標高210mの岩剣山頂にあり、山は剣の平(けんのひら)とも呼ばれている。 島津義久、義弘、歳久の初陣の合戦が行われた城として、また、鉄砲が日本史上初めて実戦で使われた城として有名である。ただし、鉄砲についてはこれ以前に使用されていたとする異説もある。.

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島津家久

島津 家久(しまづ いえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。.

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島津久保

島津 久保(しまづ ひさやす)は、安土桃山時代の武将。島津義弘の次男。.

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島津久元

島津 久元(しまづ ひさもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣。薩摩藩の家老。.

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島津忠親

島津 忠親(しまづ ただちか)は、戦国時代の日向、薩摩の武将。北郷氏9代当主、豊州家5代当主。.

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島津忠長

島津 忠長(しまづ ただなが/ただたけ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の庶流で、島津義久の家老、更に老中。.

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島津忠良

島津 忠良(しまづ ただよし)は薩摩の戦国武将。日新斎(じっしんさい)の号で知られる。.

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島津忠恒

島津 忠恒(しまづ ただつね) / 島津 家久(しまづ いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。.

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島津義久

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する。その後も耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝し、また沖田畷の戦いでは九州西部に強大な勢力を誇った肥前国の龍造寺氏を撃ち破った。 義久は優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。.

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島津製作所

株式会社島津製作所(しまづせいさくしょ、)は、京都府京都市中京区に本社を置く、精密機器、計測器、医療機器、航空機器の製造をおこなう企業である。.

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島津豊久

島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。名は初めは島津 忠豊で、後に改名した庄内の乱の顛末を記した『庄内軍記』までは「忠豊」の名で書かれている。。.

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島津貴久

島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。.

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島津歳久

島津 歳久(しまづ としひさ)は戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置家の祖にあたる。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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島津源蔵 (初代)

初代・島津 源蔵(しまづ げんぞう、天保10年5月15日(1839年6月25日) - 明治27年(1894年)12月8日)は島津製作所の創業者、また日本の発明家。没後に息子の梅次郎が後継者となり、二代目・源蔵となった。.

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島津朝久

島津 朝久(しまづ ともひさ、? - 文禄2年9月12日(1593年10月6日))は、戦国時代の薩摩の武将。薩摩島津氏の分家、豊州家6代当主。 父は5代当主島津忠親。母は禰寝尊重の娘。兄に北郷氏当主となった北郷時久がいる。通称藤二郎。官は豊後守。室は御屋地(島津義弘の女)、子に島津久賀、長寿院(島津家久(初代薩摩藩主)の養女、松平定行の室)ら。 天正年間に島津義久により大隅平房・市成(現鹿児島県鹿屋市輝北町)を賜りその領主となる。天正6年(1578年)、島津家が伊東氏を討ち日向を手に入れると宮崎の300町を拝領する。その後、島津義弘に従い真幸院飯野、更に馬関田に移り、大友氏との耳川の戦いでも活躍した。 同14年(1586年)、島津忠長らと共に筑前岩屋城攻めにも参加している。しかし秀吉の九州征伐の際の根白坂の戦いで負傷し、都於郡の島原にて養生後に馬関田に帰り、その後は平松上水流(現・姶良市)へと移った。文禄元年(1592年)、文禄の役では朝鮮へ渡ったが、翌年巨済島で病没した。法名は「月江善桂大禅定門」。.

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川上久林

川上 久林(かわかみ ひさしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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川上久智

川上 久智(かわかみ ひさとも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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川上忠堅

川上 忠堅(かわかみ ただかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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川上忠実

川上 忠実(かわかみ ただざね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。佐土原藩士。薩摩国島津氏の陪臣。.

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川上忠兄

川上 忠兄(かわかみ ただえ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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川上忠智

川上 忠智(かわかみ ただとも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上井兼政

上井 兼政(うわい かねまさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

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上井秀秋

上井 秀秋(うわい ひであき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。兄に上井覚兼。 上井薫兼の次男として生まれるが、祖父・上井為秋(諏訪為秋)の弟・親秋の養子となった。 島津義弘の家臣として日向国飯野(現・宮崎県えびの市)に在住した。元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」で軍功を上げ、天正4年(1576年)には馬関田(同・えびの市)地頭に任命される。義弘が肥後国守護代として八代に入るとそれに従うが、その際に義弘より家老に任命される。秀秋は当初それを固辞するが、義弘に説得する様に依頼された兄・覚兼に諭されて天正10年(1582年)11月28日ようやくそれを了承した。 その後、小林地頭を務め、更に綾地頭となったが、そのまま綾にて病没した。.

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上井覚兼

上井 覚兼(うわい かくけん/さとかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上井覚兼日記

『上井覚兼日記』(うわいかくけんにっき)は、戦国時代末期の武将で、島津氏家臣の上井覚兼の記した日記。読み方を「うわいかっけんにっき」とするものもある。また、『上井覚兼日帳』『伊勢守日記』ともいう。東京大学史料編纂所蔵。『大日本古記録』所収。 天正2年(1574年)から同14年(1586年)にわたり書かれたが、数年にわたる欠落部分がある。天正期の島津氏や九州の諸大名の動向などを知ることが出来る貴重な史料。 また、芸能や信仰生活など戦国大名家の日常に関する記事もみられる。 Category:室町時代の日記 Category:16世紀の書籍.

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上井里兼

上井 里兼(うわい さとかね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。 永禄9年(1566年)、上井秀秋の嫡子として生まれた。 天正18年(1590年)2月に、25歳にして島津義弘の家老に就任する。その後、日向国小林地頭となり、朝鮮の役にも義弘の供をして渡海、慶長3年(1598年)に泗川の戦いでの勝利を報告する為に帰国し、そのまま伏見に在住した。 慶長15年(1610年)、琉球の検地で功を為し、慶長18年(1613年)には義弘の人質が出府する供をして江戸に8年間在住、その功として200石を賜る。 寛永8年(1631年)、帖佐(現・鹿児島県姶良市)の中津野村にて病没。子孫は、諏訪因幡守頼満(諏訪因幡守頼水か?)の免許を得て、曾祖父以前の姓である「諏訪氏」に帰した。.

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上野忠則

上野 忠則(うえの ただのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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上村長陸

上村 長陸(うえむら ながみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。相良氏の家臣。 上村氏は相良氏の庶流。父・上村頼孝は相良氏18代当主・相良義陽に対して謀反を起こし後に殺害されるが、長陸は幼少であった為に許され、成人すると義陽の勧めで、島津義弘と離縁していた義陽の別腹の妹・亀徳を娶り、また奥野地頭にも任じられた。 しかし、義陽の弟・相良頼貞が義陽の死後、その後継に立たんとした際に随身したり、更に相良氏20代当主・相良頼房が、文禄・慶長の役に伴い渡海して留守の際に謀反を企てるなどした。慶長年間、その企てを知った者らにより、原城の柳江院門の前で討ち取られた。 長陸の祖父・頼興に暗殺された岡本頼春は、暗殺の際に上村家の断絶を予言して死んだが、長陸と嫡子の鶴松丸が死去した事で予言は的中した(以後も続く上村氏は、上村姓を与えられた者で正統ではない)。 尚、正室の亀徳は『南藤蔓綿録』によると、長陸死後に尼となり原城の下原に住んだが、相良家家老・犬童頼兄に粗略に扱われ、貧しい生活を送った挙句、元和年間に餓死したとある。法名「西津良意」。.

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上杉景勝

上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け。景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中馬重方

中馬 重方(ちゅうまん しげかた)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。桓武平氏伊地知氏の一族。また、島津家中で数多くの逸話を遺した人物でもある。.

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中村晋也

中村 晋也(なかむら しんや、1926年7月29日 - )は、日本の彫刻家、文化勲章受章者。2013年日本体育大学世田谷キャンパス(深沢)1階エントランスホールに名作EOS・萌えるリズム・太古の血潮・朝の祈り・姉妹のブロンズ像が飾られた。.

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帖佐宗光

帖佐 宗光(ちょうさ むねみつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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一騎討ち

一騎討ち 一騎討ち(いっきうち)とは、戦争状態にある戦場において戦士同士が一対一を原則として決着をつける戦闘手法である。一騎打ち(いっきうち)とも表記される。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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九州旅客鉄道

九州旅客鉄道株式会社(きゅうしゅうりょかくてつどう、英称:Kyushu Railway Company)社名ロゴの「鉄」の字は、「金を失う」という意味を避けるため「金偏に矢」という「鉃」の文字を使っているが、正式な商号は常用漢字の「鉄」である(四国旅客鉄道以外のJR各社も同じ)。 は、1987年4月1日に日本国有鉄道(国鉄)から鉄道事業を引き継ぎ発足した旅客鉄道会社の一つ。 九州地方を中心に鉄道路線を有する。また、旅行業や小売業、不動産業、農業なども展開し、日本国外にも進出している(2018年3月26日閲覧)。本社は福岡市。通称はJR九州(ジェイアールきゅうしゅう)。英語略称はJR Kyushu。コーポレートカラーは赤色。東証第一部・福証上場企業。.

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平等寺 (桜井市)

平等寺(びょうどうじ)は、奈良県桜井市三輪にある曹洞宗の寺院。三輪別所ともいう。本尊は十一面観音である。かつては大御輪寺、浄願寺と共に三輪明神(現・大神神社)の神宮寺であった。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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久保之盛

久保 之盛(くぼ ゆきもり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩藩士。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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広場重綱

広場 重綱(ひろば しげつな)は、安土桃山時代の武将・鷹師。島津氏の家臣。.

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五代友喜

五代 友喜(ごだい ともよし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国の武将。島津氏の家臣。一部史料には友慶とも。 家系は新田八幡宮社家執印氏の庶家で、初代・惟宗康友の子・康忠が五代院院主職を譲られてより五代氏を称した家である。 友喜は永禄7年(1564年)、島津義弘が日向国飯野城を居城にした際にこれに従った60人のうちの一人で、以後その家老を務めた。また、馬関田(現・宮崎県えびの市西川北付近)地頭でもあった。元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘に兵40人を与えられ、白鳥山野間口に伏兵、日向伊東氏の3,000人に及ぶ軍勢を義弘、鎌田政年と共に打ち破り200石を賜る。また、敵の総大将であった伊東祐安を弔う供養塔を建立した。 天正12年(1584年)、義弘の子・島津久保に従い小田原征伐にも参加した。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こった際には、長島(現・鹿児島県長島町)にて肥後国の加藤清正の軍を警戒する番に就き、義弘の帰国後に200石を賜った。また、慶長8年(1603年)に唐船奉行を務め、同10年(1605年)に主君・島津家久の養女・長寿院殿が松平定行の元へ嫁ぐ際はその供をした。 寛永3年(1626年)に病死。薩摩国の隆盛院に葬られた。.

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五代友泰

五代 友泰(ごだい ともやす、永禄11年(1568年)10月 - 寛永19年11月18日(1642年9月12日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国の武将。島津氏の家臣。通称は勝左衛門。父は五代友喜、母は祁答院氏の娘。子は五代友貞、友光。 家系は新田八幡宮社家執印氏の庶流で、友泰は島津義弘の家老である五代友喜の嫡男として誕生。天正18年(1590年)、義弘次男の久保が小田原征伐に進軍する際は、騎馬16騎の一人として父と共に同行し、文禄の役の際も久保の供をし朝鮮へ渡海したが、文禄2年(1593年)に久保が朝鮮国唐島にて病死するとその亡骸と共に帰国した。友泰は久保の菩提を弔うために日本全国を行脚し、66部の大乗経を奉納し伏見屋敷へ戻ったところ、久保の実弟である忠恒の朝鮮渡海の供を命じられ、再び朝鮮へ渡った。 慶長3年(1598年)豊臣秀吉の死により日本軍の撤収が決定する。露梁海戦を経て諸将が無事に脱出を果たした一方、島津勢の樺山久高ら500余名が潮流に流され、やむを得ず南海島の南海倭城に籠もったのであるが、これを敵船が取り囲むという事態が起こる。義弘はこの500余名を救出すべく密かに迎えの船を出さんとし、その旨を500余名へ伝えるべく伊勢貞昌・有馬重純・鮫島宗俊、そして友泰を派した。友泰らは敵番船の中を小舟で掻い潜りながら南海島へ向かい、久高にその旨を伝えると無事に帰陣を果たした。また久高ら500余名も、無事に朝鮮興善島へと脱出した。友泰はこの功により100石(五代氏の家伝では200石)を賜っている。 朝鮮より帰国すると、加久藤城の番としてその地頭を仰せ付かった。寛永19年(1642年)に死去。嫡男の友貞が寛永8年(1631年)に死去しており、また友貞には子が無かったため、家督は次男の友光が継いだ。.

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庄内の乱

庄内の乱(しょうないのらん)は、慶長4年(1599年)に日向国庄内(現在の宮崎県都城市及びその周辺)で起きた、島津氏とその重臣である伊集院氏との争乱である。この乱は、島津氏家中最大の内乱であり、最終的には徳川家康の仲介により解決に至ったものである。また、慶長の役直後、関ヶ原の戦い直前の大乱であり、島津氏が関ヶ原の戦いに大軍を送れなかった原因になったともいわれている。.

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井伊直政

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。 徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。遠江国井伊谷の出身で、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。.

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井邑市

井邑市(チョンウプし)は大韓民国全羅北道の南部にある市である。南部を全羅南道と接しており、道境には紅葉で知られる内蔵山(ネジャンサン)や笠岩山(イパムサン)の山並みが広がる。井邑郡に古阜郡・泰仁郡が合併して井邑郡となり、さらに市となった。旧古阜郡は甲午農民戦争が起こった場所である。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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仙巌園

仙巌園から見た桜島 正門 仙巌園内濾過池(登録有形文化財) 仙巌園(せんがんえん)は鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。別名磯庭園(いそていえん)。敷地面積は約5ha。.

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伊丹師親

伊丹 師親(いたみ もろちか、永禄5年(1562年) - 寛永2年7月19日(1625年8月21日))は戦国時代から江戸時代前期にかけての医者。通称は孫兵衛、医者になってからの名は道甫。.

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伊勢参宮街道

伊勢参宮街道(いせさんぐうかいどう)は、日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道のことである。伊勢街道・伊勢本街道・参宮街道と呼ばれる。.

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伊勢貞成

伊勢 貞成(いせ さだなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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伊勢貞昌

伊勢 貞昌(いせ さだまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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伊集院久信

伊集院 久信(いじゅういん ひさのぶ、天文13年(1544年) - 元和2年9月4日(1616年10月14日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。通称は源助。別名は久春。法号は元巣。官位は肥前守。父は伊集院久次、母は伊地知重貞娘。子は久族。 永禄2年(1559年)8月に初陣、永禄5年(1562年)の横川合戦、永禄10年(1567年)の馬越城攻めなど数々の戦に参加。元亀3年(1572年)に起こった木崎原の戦いでの戦後処理の際には、島津義弘の命を受けて島津、伊東両軍の戦死者を弔う六地蔵塔を建てる。また同年、下大隅荒平での戦いで戦功をあげた。 天正6年(1578年)の高城川の戦い、天正12年(1582年)の沖田畷の戦いにも参加。また、天正11年(1583年)頃に義弘の家老となり、横川地頭を務めた。 文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による治世に反発した梅北国兼に呼応して梅北一揆に参加している。慶長4年(1599年)の庄内の乱の際には飯野(宮崎県えびの市)地頭として鎮圧軍を派兵している。 ひさのふ Category:戦国武将 Category:薩摩国の人物 Category:1544年生 Category:1616年没.

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伊集院忠真

伊集院 忠真(いじゅういん ただざね)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。伊集院忠棟の嫡男。.

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伊集院忠棟

伊集院 忠棟(いじゅういん ただむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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伊集院駅

伊集院駅(いじゅういんえき)は、鹿児島県日置市伊集院町徳重にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅である。 旧伊集院町内唯一の鉄道駅で、日置市の代表駅。1984年(昭和59年)まで枕崎駅までを結ぶ鹿児島交通枕崎線(南薩鉄道)が接続していた。.

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伊東祐信

伊東 祐信(いとう すけのぶ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。 祐信の主君・伊東義祐は、元亀2年(1571年)6月に島津氏15代当主・島津貴久が没すると大隅国の肝付氏が島津領に侵攻し始めたのを好機と捉え、真幸院(現・宮崎県えびの市、同小林市、同高原町)の完全支配を目指すべく、翌元亀3年(1572年)5月に未だ島津氏の治める飯野地区への大攻勢を開始する(木崎原の戦い)。 5月3日夜、祐信は伊東又次郎・伊東祐青と共に、伊東祐安を総大将とした3,000余の軍勢の大将の一人として島津領との最前線に位置する小林城を出立する。 翌4日未明に飯野・妙見原に到着し軍を二手に分け、一軍は島津義弘の居城・飯野城の抑えとして妙見原に留まり、もう一軍を祐信と伊東又次郎が率いて、飯野城を横目に上江村から木崎原を抜け、義弘の妻子が籠る守兵50人ほどの加久藤城へ攻撃を仕掛けるべく進軍した。 祐信は手始めに加久藤城周辺の民家を焼いて島津軍を挑発。その後、祐信隊は加久藤城へ侵攻を開始。事前に得ていた情報を元に、城の搦め手に通じる鑰掛口へと迫るが、夜の暗さと若い不慣れな将兵の勘違いにより、鑰掛の登り口にある樺山浄慶の屋敷を間違って攻撃した。樺山浄慶父子3人は上から石を投下し、更にあたかも多数の将兵がいるように見せかけつつ祐信の隊を攻撃、奮戦するも討ち取られる。 祐信隊はさらに搦め手へと向かったが、狭い隘路を押し進むことになり、かつ鑰掛口が断崖であったために思うように攻められず、大石や弓矢による攻撃に苦しめられる。そこへ加久藤城主・川上忠智が城から打って出て突撃、狼煙により駆け付けた馬関田、吉田からの救援と遠矢良賢の兵による攻撃を受け、祐信隊は退却を余儀なくされる。この一戦で、伊東杢右衛門や小林城主・米良重方が討ち取られた(異説あり)。 退却した祐信隊は池島川まで下がり、鳥越城跡地で休息。兵の多さによる油断と、また折からの蒸し暑さのため川で水浴びする者が多かった。そこを飯野城から打って出た島津義弘の軍勢が攻めかかり、祐信を含めた多数の戦死者を出した。その際、祐信は義弘と一騎討ちに及ぶが敗れ三角田の地で討ち取られる。その一騎討ちの際、義弘の乗馬した栗毛の牝馬は、祐信の突き出した槍の穂先が義弘を狙ったとき、膝をつき曲げこれをかわしたという(柚木崎正家との交戦のときとの説もあり)。 戦後、小林市の伊東塚に他の戦死者と共に祀られた他、佐土原城にも墓が設けられ現存している。.

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伊東義祐

伊東 義祐(いとう よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、日向国の戦国大名。日向伊東氏11代(伊東氏16代)当主。伊東祐充・祐吉は同母兄弟。.

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会津征伐

会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行なわれた会津の大名上杉景勝征伐のことである。上杉征伐、会津攻めとも称される。この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。.

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伏見城

伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区桃山地区にあった日本の城。.

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弘治 (日本)

弘治(こうじ)は、日本の元号の一つ。天文の後、永禄の前。1555年から1558年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝。.

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住吉区

住吉区(すみよしく)は、大阪市を構成する24行政区のうちのひとつ。.

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佐谷田重正

佐谷田 重正(さいた しげまさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。佐谷田の姓は史料によって、才田、西江田とも記述され、重正自身後年に細田と改めている。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳重神社

徳重神社(とくしげじんじゃ)は鹿児島県日置市伊集院町徳重にある神社。現在は「とくしげじんじゃ」と読み慣わしているが、本来の読み方は「さきへじんじゃ」であった。.

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後醍院宗重

後醍院 宗重(ごだいいん むねしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。相良氏、島津氏の家臣。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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忠清道

忠清道(チュンチョンド、ちゅうせいどう)は、李氏朝鮮の行政区画(朝鮮八道)の一つ。別名を湖西(ホソ/호서)という。 現在の韓国の忠清北道・忠清南道・大田広域市・世宗特別自治市一帯の地域にあたる。.

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北原氏

北原氏(きたはらし)は、大隅国肝付氏の庶流で、日向国の戦国大名。.

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北郷相久

北郷 相久(ほんごう すけひさ、天文23年(1554年) - 天正7年(1579年)?)は、日向国の戦国武将。北郷氏 10代の時久の嫡男であり、11代の忠虎の同母兄である。通称は次郎。官名は常陸介。妻は、島津義弘の娘である御屋地。.

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園田実明

園田 実明(そのだ さねあき)は、戦国時代の武将。島津氏の家臣。薩摩国小野領主。.

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ネコ

水槽の金魚を狙うネコ 威嚇をするネコ ネコ(猫)は、狭義には食肉目ネコ科ネコ属に分類されるヨーロッパヤマネコが家畜化されたイエネコ(家猫、)に対する通称である。人間によくなつくため、イヌ(犬)と並ぶ代表的なペットとして世界中で広く飼われている。 より広義には、ヤマネコやネコ科動物全般を指すこともある(後述)。.

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トウ子龍

鄧 子龍(とう しりゅう 1531年 - 1598年)は中国明代の武将。慶長の役に明の朝鮮援兵の水軍副将(副総兵)として参戦し戦死した。 江西省豊城市出身。嘉靖年間の江西内乱を平定し、その功により広東把総となる。万暦11年(1583年)2月、緬甸(現ミャンマー)が雲南を侵犯した際には兵を率いて雲南に入り、敵軍数百人を切って緬甸各族を明に帰順せしめた。 万暦26年(1598年)、前年よりの日本軍の再侵攻にあたり、鄧子竜は既に七十近い老齢であったが二百の士卒を率いて援朝し水軍副総兵に任ぜられた。同年11月19日(明暦)、慶長の役最後の大規模海戦となった露梁海戦において、水軍総兵陳璘から、朝鮮水軍統制使李舜臣とともに兵千人・巨艦三隻を率いての先鋒を命じられ、自ら先陣を切って奮戦するも、突出した乗船を島津義弘の軍に囲まれ戦死する。これは朝鮮水軍主将である李舜臣とともに、日本側にはなかった同海戦における上級指揮官の戦死であった。遺体は故郷豊城に帰って葬られ、朝鮮は彼のために廟を立て祀った。 著書に『横矛集』がある。.

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初陣

初陣(ういじん)は日本における武士階級の子弟が初めて戦闘行為に参加することをいう。 初陣の年齢は個人差があるが多くの場合、元服前後の10代前半が多く、親は子供の将来の安寧を願い必ず勝てる戦いに参加させる傾向があった。例外的に遅い例としては毛利元就の20歳、長宗我部元親の22歳などがある。 現代では転じて、武士以外の軍人・兵士などが初めて戦闘に参加することや、選手やチームが初めて挑むスポーツなどの試合・競技、未経験の事柄に臨むこと全般を指して使われることもある。.

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喜入季久

喜入 季久(きいれ すえひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。島津氏庶流喜入氏の5代当主。軍事に長け、華道や連歌にも通じる教養人でもあった。.

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喜入久道

喜入 久道(きいれ ひさみち)は安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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関ヶ原合戦図屏風(徳川美術館蔵)より徳川家康本隊を抜粋。中央部に酒井家次の備を挟み、鉄砲隊・旗・槍隊・騎馬隊などで構成された徳川家康本陣備とそれを守る各武将の備が確認できる。 備(そなえ)は、戦国時代から江戸時代において戦時に編成された部隊。 各種足軽(弓・鉄砲・槍)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などで構成され、独立した作戦行動を採れる基本単位を指す。.

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唐名

唐名(とうめい、とうみょう、からな)は、日本の律令制下の官職名・部署名を、同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたものである。.

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入来院重嗣

入来院 重嗣(いりきいん しげつぐ)は、戦国時代の武将。入来院氏13代当主。.

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入来院重聡

入来院 重聡(いりきいん しげさと)は、戦国時代の武将。入来院氏11代当主。.

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全州市

全州市(チョンジュし)は、大韓民国全羅北道中部の市。道庁所在地。全州ビビンバで有名。全羅道という名称は全州と羅州に由来する。また、全羅北道で唯一の特定市である。韓国で “最も住みやすい都市” のひとつに数えられる。そして韓国で “最も韓国的な都市” に通じている。.

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全羅道

全羅道(チョルラド、ぜんらどう)は、李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ。名前の由来は、現在全羅北道に属する全州と、全羅南道に属する羅州の頭文字。一時、全南道、全光道と呼ばれたこともある。 現在の韓国の行政区分、全羅北道・全羅南道・済州特別自治道・光州広域市に相当する。現在において全羅道地域という場合は、通常、上記から済州特別自治道を除いた全羅北道・全羅南道・光州広域市の1広域市2道を指す。 慶尚道出身が多い韓国の歴代大統領の中で、唯一金大中だけが全羅道出身である。金大中が結成した平和民主党の流れを汲む政党(現在は共に民主党)の強固な支持基盤である。2016年4月の総選挙では共に民主党の前身の新政治民主連合から分裂した政治家によって結成された国民の党に支持基盤を奪われる結果となったが、翌2017年5月の大統領選挙では、全羅北道・全羅南道・光州広域市いずれも共に民主党の文在寅が国民の党の安哲秀に大差をつけて圧勝した。.

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八代市

八代市(やつしろし)は、熊本県南の中心的な市で、県下第2の人口を有する田園工業都市。日本三大急流の一つである球磨川が分流して不知火海に注ぐ三角州地帯の北岸に市街地がある。江戸時代には、熊本藩主細川氏の筆頭家老松井氏の城下町として栄えた。.

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元均

元均(げん きん、朝鮮読み:ウォン・ギュン、1540年2月12日 - 1597年8月2日)は、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱/朝鮮征伐)の頃に活躍した李氏朝鮮の将軍。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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兵庫寮

兵庫寮(ひょうごりょう)は、兵部省所管の兵庫(左右兵庫・内兵庫)の後身である軍事官司。和訓は「つわもののくらのつかさ」、唐名は武庫署。 『日本書紀』朱鳥元年(686年)条において難波に置かれた兵庫職が見える。令制では、左右兵庫と内兵庫があり、前者には頭・助・大允・少允・大属・少属各1人及び使部20人・直丁2人。後者には正・佑・令史各1人などの職員があった。左右兵庫は元旦儀衛・蕃客宴会などの儀礼や戦闘で用いる儀仗・兵器を色別に棚に安置して、その出納・曝涼・修理などにあたった。兵庫寮の武器管理の責任は重く、儀仗・武器の出納には、勅を必要とするなど厳重な管理下に置かれていた。一方、内兵庫については不明な点も多く、天皇御料の武器を管理していたとする説や非常に備えて左右兵庫と同様の組織を置いたとする説などがある。その後、大同3年(806年)に官司の整理のために内兵庫が左右兵庫に分割・合併され、翌年に左右兵庫にそれぞれ史生2名が追加された。 寛平8年9月7日(896年10月17日)、左右兵庫・造兵司・鼓吹司の4官司を統合して兵庫寮として、頭・助・大允・少允・大属・少属各1人、史生4人・使部12人などの職員を置いた。兵庫本来の任務としての朝廷における儀仗・武器の管理・出納に加えてもと造兵司所属の雑工戸や鼓吹司所属の鼓吹戸を管理し、造兵司が扱っていた儀仗・武器の製造や鼓吹司が扱っていた鼓吹の教習なども掌った。庁舎は安嘉門内西掖に置かれ、歴代の儀仗・武器などを収めるために多くの倉庫が併設されていたが、火災などで古くから伝わる秘蔵の儀仗・武器などが失われたことが問題にされたという。.

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光文社

株式会社光文社(こうぶんしゃ)は、日本の出版社。.

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矢野兼雲

野 兼雲(やの けんうん)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・キリシタン。島津氏の家臣。島津義弘、忠恒(後の家久)の2代に仕えた馬術指南役である。.

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石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

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祁答院良重

祁答院 良重(けどういん よししげ、大永6年(1526年) - 永禄9年1月15日(1566年2月5日))は、戦国時代の武将。虎居城城主。通称は又二郎、河内守。祁答院氏13代当主。父は祁答院重武、子に長男重経(田中と号した)、次男重種(養子とも)、三男重加と、娘が一人あった。なお、没年については永禄2年(1559年)没説もある。 桓武平氏秩父党の一派である渋谷氏の一族(血脈としては紀姓大井氏)。北薩摩地方から大隅地方にかけ勢力を拡げ、同じ渋谷一族である東郷氏・入来院氏らと連携し、薩摩国守護である島津氏に時に従い、時に対立を続けた国人。.

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福島金治

福島 金治(ふくしま かねはる、1953年 - )は、日本の歴史学者。愛知学院大学文学部歴史学科教授。専門は日本中世史。宮崎県出身。博士(文学)。 1977年、九州大学文学部卒業。1979年、九州大学大学院文学研究科博士課程中途退学。1979年から1999年まで神奈川県立金沢文庫の学芸員を務める。.

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福島正之

福島 正之(ふくしま まさゆき)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。.

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福島正則

福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。.

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福昌寺 (鹿児島市)

福昌寺(ふくしょうじ)はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の大寺。薩摩藩主島津氏の菩提寺であったが、廃仏毀釈により明治2年に廃寺となった 鹿児島県。山号は「玉龍山」であった。曹洞宗大本山總持寺の御直末である。.

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立花宗茂

立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。 なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。.

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精矛神社

精矛神社(くわしほこじんじゃ)は鹿児島県姶良市加治木町日木山に鎮座する神社。旧社格は県社。.

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継室

継室(けいしつ)は、後妻のこと。 正室と同じく、日本の歴史において身分の高い者が継室となる場合が多い。一般的に誤解されがちだが、寵愛深かった側室が正室の死後(もしくは離婚後)継室として格上げされるという例は、日本の奥方のありようから可能性が低く事例としては少ない。.

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羽柴氏

羽柴氏(はしばし/はじばうじ)は、日本の戦国大名・天下人の家系及びその名字である。創始者は羽柴秀吉。.

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真幸院

真幸院(まさきいん)は、宮崎県(旧日向国)南部山沿い地域の旧名。現在のえびの市、小林市、高原町の総称。.

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経塚

経塚の例(葛城二十八宿 第十五番経塚) 経塚の例(法然院墓地) 経塚(きょうづか)とは、経典を土中に埋納した塚。仏教的な作善行為の一種で、経塚を造営する供養のことを埋経という。.

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田尻但馬

尻 但馬(たじり たじま、? - 文禄元年(1592年) )は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の百姓。後に島津氏家臣。諱は不明。通称は荒兵衛。妻は新納康久の娘。子は田尻荒太郎、田尻荒五郎。 『本藩人物誌』には「武勇抜群の者」と記されている。.

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相良長継

良 長継(さがら ながつぐ、天正4年(1576年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は、安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣で、元は鎌田氏。通称は甚吉郎、甚兵衛。父は鎌田政近、母は相良長秀の娘。妻は岩切善信の娘。子は相良舎人祐。 鎌田政近の三男として誕生したが、叔父である相良長信が病身となったため、外祖父である長秀の養嗣子となった。しかし、後に長信に嫡男長広が誕生したため、長継は嫡流を長広に明け渡して次男格となった。 主君である島津義弘・忠恒父子に従い、文禄・慶長の役や庄内の乱に参戦、関ヶ原の戦いにも従軍したが、従者3名と共に討ち死にした。享年25。法名は「玄通要律居士」。 名跡は、長継の戦死後に誕生した舎人祐が継いだ。.

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相良長泰 (島津家臣)

良 長泰(さがら ながやす、天文5年(1536年) - 寛永6年5月25日(1629年7月15日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。薩摩国島津氏の家臣。元の名は稲留長辰。通称は新助、新右衛門尉、日向守。入道名は閑栖斎。父は稲留伝翁。妻は伊地知重康の娘。子は相良頼豊、相良新吉、娘(島津忠恒側室)。 祖は肥後国相良氏で、相良氏の祖である相良長頼の五男・稲留頼貞の子孫である稲留善助が島津忠国に仕えて以降、代々島津家臣となっていた。長泰の代まで稲留姓であったが、島津義久の使者として相良義陽の元へ赴いた際、義陽の許可を得て以後、相良姓を名乗るようになった。 天正10年(1582年)から八代へ在番、有馬氏への使者を務めるなどし、日向国紙屋の地頭および財部(日向国、大隅国のいずれかは不明)の地頭となった。その後は島津義弘に従い、合志城攻めや高森城攻めに参加して功を挙げた。また、筑紫城攻め、岩屋城攻めの際も副将としてこれに参戦している。 朝鮮の役が始まると、長泰は木脇祐辰と共に船奉行を務め、庄内の乱にも参陣する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は長泰は大坂にあり、実窓院(義弘夫人)と亀寿(忠恒夫人)を薩摩へと逃すため、於松という侍女を亀寿の身替りとする謀事の際、平田増宗の指示により長泰は、吉田清孝、上原尚張、新納孫右衛門と共に、於松を大坂屋敷へ送り込む役目を果たした。その後、関ヶ原より退去してきた義弘らと合流、日向国の細島に着くと、伊東氏家臣の稲津重政の軍がいたため、須木から義弘を出迎えるべく現れた村尾重侯の軍勢と共に、これを討ち払った。 寛永6年(1629年)に死去した。その死に際して、島津家久(忠恒)より追悼の和歌が詠まれている。.

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相良氏

良氏(さがらうじ / さがらし)は、肥後南部を支配した戦国大名の氏族である。江戸時代は肥後人吉藩主家として明治維新まで存続した。.

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相良晴広

良 晴広(さがら はるひろ)は、肥後の戦国大名。相良氏の第17代当主。第16代当主相良義滋の養嗣子で、実父は上村頼興。初名は頼重(よりしげ)。何度かの改名を経て、晴広としたのは将軍足利義晴からの偏諱による。.

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白坂昌棟

白坂 昌棟(しらさか まさむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北原氏、島津氏の家臣。.

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隠居

居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。 日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。.

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遠矢良賢

遠矢 良賢(とおや よしかた、生年不詳 - 元亀3年5月4日(1572年6月14日))は戦国・安土桃山時代の武将。島津氏家臣。下総守。莫禰(あくね)氏の庶家。父は遠矢良兼、兄は遠矢良時。 飯野衆として島津義弘に仕える。 永禄11年(1568年)8月、日向国の伊東義祐は、菱刈氏と交戦中により島津義弘が不在の飯野城を攻めるために、家臣・伊東祐安配下の佐土原遠江守を桶平城に駐屯させた。その年の11月、良賢は黒木実利と共に夜中に本地原(現・宮崎県えびの市観音原付近)の古溝に伏せ、翌朝にウズラ狩りを装った小勢を桶平城の前に繰り出し城兵を挑発した。良賢と黒木は、釣られて本地原に誘い込まれた伊東軍を釣り野伏せで散々に打ち破る。 この合戦の前、伊東氏と相良氏が飯野城を挟撃するという密約の情報が、球磨の皆越六郎左衛門の室で伊東義祐に滅ぼされた大河平氏3代目・大河平隆次の姉・ナミからもたらされており、飯野城は事前に防御を固めることができ相良軍は引き返すに至っていた。義弘は感謝し、皆越に今は亡き大河平氏の名跡と旧領を継がせるべく、良賢を皆越への説得役として遣わした。また皆越が飯野に入る際の出迎え役の一人としても良賢を遣わしている。 元亀3年(1572年)5月4日、木崎原の戦いが起こると島津義弘に兵60人を与えられ、飯野城から加久藤城へ援軍に向かい、城攻め中の伊東軍を加久藤城将・川上忠智、馬関田衆、吉田衆と共に挟撃し撤退させる。 その後、義弘勢に合流し共に伊東軍に突撃。しかし寡兵のため軍勢を立て直さねばならなくなり、久保伴五左衛門、野田越中坊、鎌田大炊助、曾木播磨、富永刑部の5人と共に、義弘を逃がすべく伊東軍を足止めし戦死する。その間に義弘は木崎原まで後退し軍勢を整え、伏兵と共に伊東軍を挟撃、これを打ち負かす。 子孫は鹿児島の財部に移り、恒吉姓に帰したとされる。 Category:戦国武将 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:1572年没.

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道の駅えびの

道の駅えびの(みちのえき えびの)は、宮崎県えびの市にある国道268号の道の駅である。 初年度の2013年(平成25年)には約54万人の利用者があり、物販や飲食などの売上高は約4億円であった重春次男(2015年2月8日).

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菱刈隆豊

菱刈 隆豊(ひしかり たかとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。.

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頴娃久音

娃 久音(えい ひさぶえ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。頴娃氏8代当主。 頴娃氏は肝付氏の庶流。肝付氏11代・肝付兼元の子・兼政が頴娃を名乗ったことから始まる。 天正11年(1583年)、頴娃久虎の嫡男として誕生する。天正15年(1587年)、久音が5歳のときに父が死去した。父・久虎は、久音が生まれる前に伊集院忠棟の子・千寿丸(詳細不明)を自らの養子とする約束をしていたが、久音が生まれたため反故にしており、忠棟がこれを主君・島津義久に讒訴したことから、久虎の死後に頴娃(現・鹿児島県南九州市)・指宿・山川(以上、現・鹿児島県指宿市)の三箇所が召し上げられた。 天正16年(1588年)、久音には新恩地として谷山(現・鹿児島市)のうち30町が与えられ、文禄2年(1593年)には伊集院のうち西俣(現在の鹿児島市西俣町)の地が与えられた。 慶長2年(1597年)、慶長の役に従軍し渡鮮していた折、島津義弘より無事に帰国を果たした際は本領である頴娃を返還する旨を約束されていたが、翌年に朝鮮にて病死した。享年16。 名跡は島津義虎の五男・忠富(後に頴娃久秀、更に入来院重高)が継いだ。.

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順天倭城

順天倭城の櫓門(『征倭紀功図巻』より) 順天倭城(じゅんてんわじょう、スンチョンわじょう、순천왜성)は、韓国全羅南道順天市海龍面新城里にあった日本式の城(倭城)である。慶長の役の際に日本軍によって築かれたものの一つ。.

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飫肥城

飫肥城跡国土航空写真(1974年) 飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)にある日本の城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。.

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飯野城

飯野城(いいのじょう)は現在の宮崎県えびの市飯野にあった日本の城(山城)。別名を亀城、あるいは鶴亀城。現在は亀城公園。.

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養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

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許儀後

許儀後または許儀俊(きょ ぎご、きょ ぎしゅん、生没年不詳)は、戦国・安土桃山時代・江戸時代の人物で、島津氏に仕えた医者である。許三官とも言う。島津義弘の医術の師であるともいわれる。 出身は『朝鮮王朝実録』などから中国・福建省とされてきたが、『全浙兵制考』や『薩藩旧記雑録』から江西省・吉安府の出身とする方が有力とされる。 中国・明の人物であったが、隆慶5年(和暦:元亀2年(1571年))倭寇に捕えられ捕虜として薩摩に連れてこられたところを島津義久に気に入られ、その侍医となりそのまま帰化した。義久と共に豊臣秀吉とも謁見している。 しかし、秀吉の起こした「文禄・慶長の役」の目的が明の征服と知ると、同じく薩摩に帰化していた郭国安(後の汾陽理心)と共に、明へ日本国内の事情などを記した密書を、同郷の海商である朱均旺に託し送っている(明からの使者が許と接触した際、秀吉を快く思わない義久と明が連合して秀吉を攻める提案をしたともされる)。但し、秀吉はそのことを知っており、義久と共に秀吉へ謁見した際に、秀吉は巨大な鍋を鋳造させ許を煮殺そうとした。しかし、徳川家康が秀吉を宥めたことで命拾いし、許はそのときの返礼として、家康が病になった際に薬を調剤して恩を返している。 文禄2年(1593年)に許孚遠により派された史世用が、商人に扮して内之浦へ来航、舟を提供した許豫と共に許儀後との接触を図らんとした。これを怪しんだ伊集院忠棟と正興寺住職の玄龍の二人は、許儀後を通訳にこれを取り調べている。史世用と許豫は来航の目的を頑なに通商の為であるとし、後に解放されると、許儀後はそれより間も無くの10月に義久の命により、島津勢の疫病治療のために朝鮮へ渡海している。 没年は不明であるが、慶長18年(1613年)の時点で410石を領しているとの記録がある。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高野山

壇場伽藍 壇場伽藍 不動堂(国宝) 高野山(こうやさん)は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。 2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道(町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三谷坂が世界遺産に追加登録された。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀頼

豊臣 秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより、)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。太閤・豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。子は側室・和期の方(名は伊茶。渡辺氏)との間に国松と、小石の方(おいわのかた。成田氏)との間に天秀尼(彼女の生母については異説がある)。位階は正二位、官職は右大臣。幼名は拾丸(ひろいまる)。なお、豊臣とは名字ではなく、本姓である。乳母は宮内卿局・右京大夫局(一説に両者は同一人物共)・正栄尼が伝わる。また、淀殿の乳母である大蔵卿局も養育係を務めた。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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鳥居元忠

鳥居 元忠(とりい もとただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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鶴嶺神社

嶺神社(つるがねじんじゃ)は鹿児島県鹿児島市吉野町の神社。鎮座地は仙巌園の中。 島津氏の先祖を祀る為に明治2年(1869年)に創祀された神社である。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。.

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鹿児島市

かごしま県民交流センター 鹿児島市(かごしまし)は、九州の南部に位置する市であり、鹿児島県の県庁所在地でもある。 鹿児島湾西岸の市街地から桜島を望む景観がイタリアのナポリからヴェズーヴィオ火山を望む風景に似ていることから、『東洋のナポリ』と称される。.

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鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

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麿赤児

麿 赤兒(まろ あかじ、1943年2月23日 - )は、日本の俳優、舞踏家、演出家。本名は大森 宏。暗黒舞踏集団・大駱駝艦主宰。所属事務所は同傘下の芸能事務所・キャメルアーツ。長男は映画監督の大森立嗣、次男は俳優の大森南朋。.

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黒田長政

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。 戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。.

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黒木実利

黒木 実利(くろき さねとし、生没年不詳)は、戦国時代の武将。島津氏家臣。.

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辞世

敗北の責任をとり、切腹を行おうとする武士(明石義太夫)。辞世の句を書き終えている。月岡芳年による画 黒木博司の辞世の句「国を思い死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつ死してゆくらん」 辞世(じせい)とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈、和歌、発句またはそれに類する短型詩の類のことを指す。.

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近衛前久

近衞 前久(このえ さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。近衞家当主であり、動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。初名は晴嗣。.

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露梁海戦

露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍との間に露梁津で起こった海戦である。小西行長軍はこの戦いの最中、戦闘に参加することなく巨済島への撤退に成功した。 露梁津は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の文献では成功した作戦として記述されている。両軍の戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説がある。.

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阿蘇氏

阿蘇氏(あそうじ/あそし)は、「阿蘇」を氏の名とする氏族。 肥後国の氏族で、阿蘇神社大宮司家(だいぐうじけ)である。名の通り熊本の阿蘇を出自とするが、最盛期は阿蘇の南、矢部郷(やべごう、熊本県上益城郡山都町の一部)に南阿蘇から拠点を移転した後の「浜の館」時代であり、菊池氏や相良氏と並び熊本を代表する一大豪族であった。朝廷から度々高位の職階を叙し、内紛を繰り返しながらも長らく系譜が受け継がれてきた。 大和朝廷の支配が及ぶ前からの地域の首長家で、皇室や出雲大社の千家家、北島家などと同様、神(火山神である健磐龍命)の子孫として神代の時代から現代に続く系譜を持つと自ら誇る家系である。.

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赤塚真賢

赤塚 真賢(あかつか まさかた)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。 弘治3年(1557年)4月15日に蒲生氏、菱刈氏との戦いのときに初陣を果たし、その際に首級も上げた。永禄4年(1561年)7月12日の廻坂の戦いにおいても首級を上げ、島津義久より槍を賜っている。 永禄7年(1564年)、島津義弘に従い真幸院飯野へと移る。天正4年(1576年)、伊東氏の高原城が落城、三ツ山城も島津に降ると、真賢は三ツ山地頭代及び足軽大将へ任じられ20年以上、三ツ山城でそれを務めた。天正6年(1578年)、久留木康辰、和田円覚院、花堂大円坊と共に、高原城落城後に伊東義祐により霧島山東御在所権現宮座主に任じられていた民部郷秀澄を、命により誅殺している(島津氏は日向国を支配したおり、島津氏を調伏していた伊東側の僧に対し誅殺、追放などを行っている)。また一方で、肥後国皆越城などへ忍び入り、諸所への工作等の山潜り(島津家での隠密行為の意)も務めている。 その後も義弘に従い、肥後攻めや豊後攻めに従軍、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定の際は、菅迫城に入り番をしていた伊集院三河守、犬童頼安らを退却させるべく、小林衆50人を率いてこれを成し遂げ、且つその通路を塞いでいた敵を退け、三河守、頼安らを無事に生還させている。慶長6年(1601年)、蒲生新城(鹿児島城か?)が普請されると、真賢は新城へ移り10年間程城の番を務め50石を加増される。 寛永10年(1633年)に病死、享年92。.

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赤崎丹後守

赤崎 丹後守(あかざき たんごのかみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。諱は不明。島津氏の家臣。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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薩摩国

薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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藤堂高虎

津城址にある藤堂高虎像 藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。.

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董一元

董 一元(とう いちげん)は中国明代の武将。(1542〜1598).

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葵 徳川三代

『葵 徳川三代』(あおい とくがわさんだい)は、NHKが2000年1月9日から12月17日に放送された39作目の大河ドラマ。.

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肝付氏

肝付氏(きもつきし、)は、日本の氏族の一つであり、大隅の戦国大名でもあった。隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げた。.

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肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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蔵入地

蔵入地(くらいりち)は、戦国時代から江戸時代における領地区分の一つである。大名もしくは政権、幕府の直轄地のことである。所領のうち、家臣へ与える知行地に対するもの。蔵入地には、代官を派遣して直接支配を行い、年貢・諸役などの徴収にあたった。.

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長寿院盛淳

長寿院 盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。蒲生地頭。.

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長善寺 (えびの市)

長善寺(ちょうぜんじ)は宮崎県えびの市にかつて存在した曹洞宗の寺。山号は「兜率山」。.

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長束正家

長束 正家(なつか まさいえ / ながつか まさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の五奉行の一人。父は水口盛里(安芸守)といわれる。弟に直吉らがいる。近江国水口岡山城主。.

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酒瀬川武安

酒瀬川 武安(さかせがわ たけやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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耳川の戦い

耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。.

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PHP研究所

株式会社PHP研究所(ピーエイチピーけんきゅうしょ、PHP Institute)は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助によって創設され、出版事業を主体に行っている出版社。2010年10月1日、政策シンクタンクを標榜する株式会社PHP総合研究所を吸収合併した。 東京本部は江東区豊洲5丁目6番地の52()、京都本部の住所は京都市南区西九条北ノ内町11()。.

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押川公近

押川 公近(おしかわ きみちか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。小返しの五本鑓の一人。.

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柚木崎正家

柚木崎 正家(ゆのきざき まさいえ)は、戦国時代の武将。日向伊東氏の家臣。内山衆去川役人。日向国柚木崎城主。 一部史料には柚ノ木崎と表記。.

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柏木源藤

柏木 源藤(かしわぎ げんとう / もとひさ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。島津氏の陪臣。川上忠兄の被官。後に出石氏を名乗る。一部史料にある柏田源蔵は誤り。.

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捨て奸

捨て奸(すてがまり)は、戦国時代に薩摩国の大名島津氏により用いられた戦法の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られている(島津の退き口)。座禅陣とも言われる。 本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。 関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。 高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは義弘を始めとした80余名であった。 余談ではあるが、島津の退き口で行われた捨て奸は、義弘や家老達に指名された者より志願者の方が多かったという。.

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李舜臣

李 舜臣(日本語読み:り しゅんしん、朝鮮語読み:イ・スンシン、이순신、1545年4月18日(明暦: 嘉靖24年3月8日) - 1598年12月16日(明暦: 万暦26年11月19日)は、李氏朝鮮の将軍。字は汝諧(ヨヘ、여해)。文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い活躍したとされるが、党争の影響でしばしば讒言を受け、また、抗命したことで兵卒に落とされるなど浮き沈みが激しく、元均の戦死で復権したが、露梁海戦で戦死した。死後に贈られた謚は忠武公(충무공)。.

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李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

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松平忠吉

松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。東条松平家第4代当主・尾張国清洲藩主。 徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。.

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村尾重侯

村尾 重侯(むらお しげあり / しげきみ)は、初め祁答院氏、のち島津氏に仕えた戦国武将。薩摩入来院氏の一族。.

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村尾重良

村尾 重良(むらお しげよし、天正2年(1574年)- 慶長2年(1597年))は安土桃山時代の薩摩国島津氏家臣。通称は与五郎。父は村尾重侯、母は有川右近の娘。弟は村尾重昌。 天正2年(1574年)に島津義弘の家臣である村尾重侯の嫡子として誕生する。文禄元年(1592年)19歳のときに、義弘の嫡子である島津久保の供として朝鮮出兵を果たす。しかし、翌文禄2年(1593年)に久保が朝鮮唐島にて病死すると、その亡骸と共に一時帰国する。文禄3年(1594年)、今度は久保の弟である島津忠恒の供として朝鮮に渡海、在陣中の忠孝により1,000石を賜る内意を得ている。 慶長2年(1597年)8月、義弘・忠恒父子が朝鮮の南原城を攻め落とすべく進軍したときのこと、重良ら数人と、同じく南原城を攻めようとしていた蜂須賀家政の手の者7-8人との間で喧嘩(事実上の果し合い)が勃発する。重良はうち一人を組み伏せ、右手を切られながらも左手でその者を討ち果たした。その後、負傷により歩行が困難となり、忠恒の命で輿に乗って行軍することが許されたものの、その傷が元で陣中にて死去した。享年24。.

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村尾重昌

村尾 重昌(むらお しげまさ、天正10年(1582年) - 寛永3年11月13日(1626年12月31日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。薩摩入来院氏の一族。徳次郎、長助、舎人、右衛門兵衛。村尾重侯の次男。母は二階堂氏の娘。子は村尾重侯(父と同名{三右衛門})。 須木地頭・村尾重侯の次男であったが、兄の重良が朝鮮の役出征中に死去したために嫡男となる。 慶長4年(1599年)の「庄内の乱」、慶長5年(1600年)に島津義弘が帰還する際、伊東氏家臣・稲津重政軍との戦いで武功があった。特に稲津軍との戦いの際は、敵将の仮屋原弥助を上野忠則と共に討ち果たし、島津義弘から長刀一振りと「舎人」の名を賜っている。 慶長15年(1610年)、琉球の検地役として鹿島重国、毛利之親と共に渡海、元和2年(1616年)に父の村尾重侯が病没すると、その跡を継いで須木地頭に就任した。 寛永3年(1626年)11月13日に没する。父と同様に須木・米良氏の菩提寺でもあった「一麟寺」(現在は廃寺)に弔われた。法名は「覚翁定圓庵主」。 Category:入来院氏 Category:戦国武将 Category:1582年生 Category:1626年没.

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根白坂の戦い

根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は、天正15年(1587年)4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦である。.

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桜島

桜島(さくらじま)は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12キロメートル (km)、南北約10 km、周囲約55 km、面積約77平方キロメートル (km2)の火山。かつては島であったが、1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなった。.

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梅北一揆

梅北一揆(うめきたいっき)は、文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣・梅北国兼が起こした一揆である。.

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検地

検地(けんち)とは中世から近世にかけて行われた田畑の面積と収量の調査のことである。現在の課税台帳整備に当たるもの。.

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横山忠篤

横山 忠篤(よこやま ただあつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。 上井覚兼の被官・横山玄蕃允の子として誕生、忠篤は島津義弘近侍の道具衆となり当初は佐藤次を名乗っていたが、義弘が日向国飯野城から栗野城へ居城を移した際に弓内の名を賜った(後年、但馬と改める)。義弘が更に帖佐(現・鹿児島県姶良市)へ移った際もこれに従う。 文禄・慶長の役にも義弘の供として従軍し、朝鮮より帰った後は伏見に赴く義弘と博多で分かれ薩摩へ帰国、慶長4年(1599年)の庄内の乱に参戦し恒吉城攻めのときに軍功を上げた。同年9月、上洛し伏見に住す。 慶長5年(1600年)の伏見城の戦いにも参戦した。その後の関ヶ原の戦いでは敵5人を討ち取り、その退却の際、義弘が養老山地の駒野峠(現・岐阜県海津市南濃町)にて体力温存の為に原野に自らの甲冑を脱ぎ捨てると、忠篤は「主君の甲冑を原野に捨てられること忍び難く、畏れ多いことであるが甲冑と生死を共にしたい」としてその甲冑を自らが着けて、そのまま義弘の供を続けた。一行が摂津国の住吉まで辿り着いた際に、忠篤は大坂に在った義弘夫人の実窓院と島津忠恒夫人の亀寿への使者となり、有川貞春と広瀬宗親へ甲冑を見せて義弘の無事を証明し、亀寿らを安堵させた(甲冑は後に京都愛宕神社に寄進される)。忠篤はこの功で亀寿より盃を賜り、義弘からも吉光の脇差と感状を賜った。 寛永年間に死去した。.

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橋口泰重

橋口 泰重(はしぐち やすしげ、天文12年(1543年) - 寛永2年3月9日(1625年4月15日))は戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏の中間。元の姓は上野で、通称は甚三郎、対馬介。父は上野泰芳。弟は上野泰房。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正三位

正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.

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武功雑記

『武功雑記』(ぶこうざっき)は、肥前平戸藩4代藩主、松浦鎮信の著で、元禄9年(1696年)ごろの成立の書物。天正から元和期に活躍した諸将について記されている。全17巻。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に関連する諸将についての逸話が多く、特に関ヶ原の合戦、大坂の陣について詳しい。記事の多くは、松浦家で召し抱えた武士からの聞き書きによる。寛文の初期から執筆が始められ、約30年間にわたって書き続けられ、鎮信が75歳であった元禄9年(1696年)ごろに完成した。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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殉死

殉死(じゅんし)とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬ(死に殉じる)こと。殉死させた上で葬ることを、殉葬(じゅんそう)という。殉死者が任意に自殺する場合もあれば、強制的に殉死させられる場合もある。 殉死が法的に禁じられる時代もあったが、それは殉死によって優秀な人材を喪失するのを避ける目的などがあったものと考えられる。 古代エジプトやメソポタミア、古代中国、古代朝鮮半島、日本などにおいては殉葬が行われた。.

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毛利元房

毛利 元房(もうり もとふさ、? - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は安土桃山時代の因幡国宮部氏の家臣、後に薩摩国島津氏の家臣。通称は覚右衛門。 祖は大江姓毛利氏の庶流、元房は因幡国の生まれで山名禅閤(豊国)の甥と『本藩人物誌』にはある。毛利氏が織田氏との戦いで因幡国を追われた際に、同国鳥取城主となった宮部継潤に3,000石で仕えた。天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐の際は、継潤に従い日向国高城攻めに従軍している。 慶長4年(1599年)、元房は武勇を為す事を望み、懇意にしていた増田和泉守に頼み込んで島津義弘に仕官できるよう取り計らってもらうと、100人扶持・1,000石にて仕えることとなった。その後、同年の庄内の乱で軍功を上げたが(1,000石はこのときの功によるものとも)、関ヶ原の戦いに従軍した際に戦死した。子は無く、弟の元親が養子として名跡を継いだ。.

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毛利勝信

毛利 勝信(もうり かつのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。別名は吉成(よしなり)、本姓は森氏で、森吉成を名乗った期間が長く、毛利吉成とも称する。官位は壱岐守。号を一斎。子に毛利勝永(吉政)など。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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江原道 (朝鮮八道)

江原道(カンウォンド、こうげんどう)は李氏朝鮮の行政区画、朝鮮八道の一つ。現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にまたがる江原道を合わせた地域。現在は韓国側にある江陵と原州から頭文字を取って命名された。 北を咸鏡道に、西を黄海道と京畿道に、南を忠清道と慶尚道に接する。東は、日本海に面している。 李氏朝鮮初期に設置されたが、険しい山脈によって交通が妨げられたので、道名の由来となった原州と江陵が、それぞれ西と東の中心地として発展した。.

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江夏友賢

江夏 友賢(こうか ゆうけん、嘉靖17年(1538年) - 慶長15年7月23日(1610年9月10日))は戦国時代から江戸時代初期にかけての薩摩国島津氏家臣で易者、明国からの帰化人。子は江夏二閑。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池宮彰一郎

池宮 彰一郎(いけみや しょういちろう、1923年5月16日 - 2007年5月6日)は、日本の脚本家、小説家。本名の池上 金男(いけがみ かねお)で脚本家として活動、『十三人の刺客』など数多くの映画・テレビドラマの制作に関わった。1992年に小説『四十七人の刺客』を発表して以降、池宮彰一郎のペンネームを用いて歴史小説を著したが、2002年に司馬遼太郎作品との類似問題により活動をほぼ停止した。 作家の池上司は息子。.

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池之上町

池之上町(いけのうえちょう Ikenoue-Chō)は、鹿児島県鹿児島市の町名。郵便番号は892-0806。人口は1,263人、世帯数は628世帯(2014年9月末現在)。池之上町の全域で住居表示を実施している。 町名は町域内にあった福昌寺の前に池があり、その上方に街が広がったことに由来している『南日本新聞』 2012年5月8日付 14面(373ワイドタウン池之上町新聞)。.

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池田貞秀

池田 貞秀(いけだ さだひで)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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泗川の戦い

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/明の万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。.

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泗川市

泗川市(サチョンし)は大韓民国慶尚南道の南部にある港湾都市である。泗川湾をかかえ、湾の入口には三千浦港がある。また文禄・慶長の役における泗川の戦いなどが行われた場所でもある。市のブランドスローガンは「Rising Sacheon」。.

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漆川梁海戦

漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん。巨済島海戦とも)は、慶長の役の緒戦において、日本水軍と朝鮮水軍の間で戦われた海戦。敗北した朝鮮水軍は殆ど壊滅し、陸海で日本軍が西進する端緒となった。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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朝鮮王朝実録

『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。.

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朝鮮通信使

孝宗6年 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。 2017年10月、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が主催する事業「世界の記憶」(せかいのきおく、英: Memory of the World: MOW)遺産に登録された。.

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木崎原の戦い

木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)は、元亀3年(1572年)、日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。大軍(3,000人という説が有力)を擁していた伊東側が、少数の兵力(300人)しか持っていなかった島津側から退いたことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。しかし実際の桶狭間の戦いとは全く違い、伊東軍の反撃により島津軍は将兵の85%以上が返り討ちにされ討死したという、全滅と言うべき大損害を被っている。なお、この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、義弘の策謀により撤退している。 この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなったと考えられている。 なお「木崎原の戦い」とは島津側の呼び方で、伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれている。.

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木食応其

木食応其(もくじきおうご、天文5年(1536年)- 慶長13年10月1日(1608年11月8日))は、安土桃山時代の真言宗の僧で、出家前は六角氏に仕える武将、出家後は外交僧・勧進僧・連歌学者として活動した。法名(法諱)を応其(應其)、字を順良、房号を深覚と云い、深覚坊応其と称す。木食は木食行を修めた者への称で、木食応其は通称。.

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木脇祐秀

木脇 祐秀(きのわき すけひで)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。島津氏の家臣。.

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木脇祐昌

木脇 祐昌(きのわき すけまさ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の家臣。 木脇祐定の嫡子として誕生した。島津義弘に仕え、永禄9年(1566年)の三ツ山城攻めで功を為した。天正11年(1583年)10月、肥後国の花の山城の城主ならびに地頭に任じられたが、天正13年(1585年)8月、甲斐親英の率いた阿蘇8千町の多勢に城を攻囲される。祐昌は駆け付けた鎌田政虎や、救援の相良氏の軍勢と共に奮戦するも手負いとなり、辞世の句(後述)を詠んで敵中に駆け入り討ち死にを遂げた。また、城も落城し、鎌田政虎や深水摂津介(深水長智の嫡子)ら30余名が討ち死にした。.

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本多忠勝

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.

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本田親商

本田 親商(ほんだ ちかあき、? - 慶長10年4月20日(1605年6月6日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての薩摩国島津氏の家臣。通称は源右衛門尉。父は本田親尚、母は山田久綱の娘。子は本田親存。.

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有川貞真

有川 貞真(ありかわ さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。.

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有馬純房

有馬 純房(ありま すみふさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

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戦国大名

戦国大名(せんごくだいみょう)は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した大名を指す。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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戒名

戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。 上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。 また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)ともいった。 また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。とは言うものの、故人の社会的地位始め社会貢献度、またお寺への貢献度などによるため、高額を払ったからといって、高い位の戒名をもらえるわけではない。 一般にカナ文字を用いないため、転じて、「漢字のみの縦書き文字列」の俗的表現として用いられることがあり、特に新聞・雑誌編集においてカナ文字を含まない見出しをこう称し、読者に不快感を催しかねない表現とされる。; 戒名を用いない宗旨.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明史

『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.

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海南郡

海南郡(ヘナムぐん)は大韓民国全羅南道西南部の郡。 尹善道、金南柱、黄芝雨、金準泰、高静煕などの多くの詩人の出身地である。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新納旅庵

新納 旅庵(にいろ りょあん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。日向国高原・大隅国栗野・薩摩国市来地頭。諱は長住、号は休閑斎。.

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新潮社

株式会社新潮社(しんちょうしゃ)は、日本の出版社。.

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新潮文庫

新潮文庫(しんちょうぶんこ、SHINCHO BUNKO)は、株式会社新潮社が発行している文庫レーベル。新潮文庫の歴史は4期に分かれている。岩波文庫と並ぶ、文庫レーベルの老舗である。世界文学の名作を収め、また日本文学作品も数多く収めている。 2014年8月28日、新潮文庫nex(しんちょうぶんこネックス)が刊行開始される。新潮文庫内の派生シリーズという位置づけ。.

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日南市

日南市(にちなんし)は、宮崎県の南部に位置する市。九州の小京都と称される飫肥(おび)や風光明媚な日南海岸国定公園などを抱える、歴史と自然あふれる観光の街である。 日本海流の影響により温暖な気候で、雨量も豊富である。また、夏から秋にかけては頻繁に台風が接近し、しばしば甚大な被害を受けることもある。 2004年度下半期に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「わかば」の舞台のひとつとなった。.

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日向国

日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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日置市

日置市(ひおきし)は、鹿児島県の中央部(薩摩半島)に位置する市。南九州西回り自動車道やJR鹿児島本線で隣接する鹿児島市と結ばれ、鹿児島市のベッドタウンとしても発展している。 また、薩摩焼の歴史とも深い関わりがある地域で、現在でも旧東市来町美山地区などに窯元が開かれ、焼物(陶器)の街としても知られている。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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愛称

愛称(あいしょう)とは、とくに親しみを込めて対象を呼ぶために用いられる本名以外の名前の一種である。あだな(渾名・綽名)、ニックネーム(nickname)、ペットネームともいう。 なお、「仇名・徒名」も「あだな」と読むが、こちらは悪評、事実無根の評判、男女関係についての噂を意味する語で、「渾名・綽名」とは意味が異なる。.

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敷根頼元

敷根 頼元(しきね よりもと)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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扶餘郡

扶餘郡(プヨぐん、ふよぐん)は、大韓民国忠清南道の郡である。百済最後の都・沘があった。過疎化で若干人口減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶餘邑。.

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10月20日

10月20日(じゅうがつはつか、じゅうがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から293日目(閏年では294日目)にあたり、年末まであと72日ある。.

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10月21日

10月21日(じゅうがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から294日目(閏年では295日目)にあたり、年末まであと71日ある。.

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11月12日 (旧暦)

旧暦11月12日は旧暦11月の12日目である。六曜は仏滅である。.

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11月22日 (旧暦)

旧暦11月22日は旧暦11月の22日目である。六曜は友引である。.

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11月5日

11月5日(じゅういちがついつか)はグレゴリオ暦で年始から309日目(閏年では310日目)にあたり、年末まであと56日ある。.

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12月17日

12月17日(じゅうにがつじゅうななにち、じゅうにがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から351日目(閏年では352日目)にあたり、年末まであと14日ある。.

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1535年

記載なし。

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1554年

記載なし。

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1557年

記載なし。

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1560年

記載なし。

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1562年

記載なし。

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1566年

記載なし。

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1572年

記載なし。

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1577年

記載なし。

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1578年

記載なし。

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1581年

日曜日から始まる。.

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1585年

記載なし。

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1586年

記載なし。

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1587年

記載なし。

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1588年

記載なし。

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1592年

記載なし。

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1593年

記載なし。

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1597年

記載なし。

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1598年

記載なし。

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1599年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1602年

記載なし。

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1619年

記載なし。

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1980年代

1980年代(せんきゅうひゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1980年から1989年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1980年代について記載する。.

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1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

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1996年

この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2010年

この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。.

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2月23日 (旧暦)

旧暦2月23日は旧暦2月の23日目である。六曜は赤口である。.

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3月19日 (旧暦)

旧暦3月19日は旧暦3月の19日目である。六曜は先負である。.

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4月24日

4月24日(しがつにじゅうよっか、しがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から114日目(閏年では115日目)にあたり、年末まではあと251日ある。誕生花はシャクヤク。.

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5月22日 (旧暦)

旧暦5月22日は旧暦5月の22日目である。六曜は友引である。.

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5月8日 (旧暦)

旧暦5月8日は旧暦5月の8日目である。六曜は赤口である。.

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6月13日

6月13日(ろくがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から164日目(閏年では165日目)にあたり、年末まであと201日ある。誕生花はトケイソウ、クチナシ。.

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6月23日 (旧暦)

旧暦6月23日は旧暦6月の23日目である。六曜は仏滅である。.

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6月27日

6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。誕生花はホタルブクロ、サンダーソニア。.

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7月21日 (旧暦)

旧暦7月21日(きゅうれきしちがつにじゅういちにち)は、旧暦7月の21日目である。六曜は先負である。.

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7月23日 (旧暦)

旧暦7月23日は旧暦7月の23日目である。六曜は大安である。.

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7月4日 (旧暦)

旧暦7月4日(きゅうれきしちがつよっか)は旧暦7月の4日目である。六曜は仏滅である。.

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月30日

8月30日(はちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から242日目(閏年では243日目)にあたり、年末まであと123日ある。.

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9月14日 (旧暦)

旧暦9月14日は旧暦9月の14日目である。六曜は仏滅である。.

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9月15日 (旧暦)

旧暦9月15日は旧暦9月の15日目である。六曜は大安である。.

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9月30日 (旧暦)

旧暦9月30日(きゅうれきくがつさんじゅうにち)は、旧暦9月の30日目である。年によっては9月の最終日となる。六曜は友引である。.

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