246 関係: 加西郡、加東郡、埼玉県、印旛県、古河城、古河宿、古河市、古河公方、堀田正仲、堀田正俊、堀越公方、多可郡、大坂城代、大坂の陣、大和国、大阪市、大阪市立平野小学校、大老、大河内氏、天正、天文 (元号)、奥平忠昌、宝徳、宝暦、宝永、室町幕府、室町時代、家老、守護、守護代、宇都宮城釣天井事件、宇都宮藩、安中藩、安蘇郡、寒川郡 (栃木県)、寛永、小弓公方、小笠原信嶺、小笠原信之、小笠原秀政、小笠原政信、小田原征伐、小牧・長久手の戦い、山城国、山形藩、山内上杉家、岡崎藩、島下郡、川越藩、上総国、...、上野国、上杉房顕、上杉憲忠、上杉憲政、常陸国、三河吉田藩、三河国、三河松井氏、下総国、下野国、下河辺行平、平安時代、平野区、幕末、久喜市、久米南条郡、久松俊勝、享徳、享徳の乱、五霞町、亀姫 (徳川家康長女)、今川範忠、伊豆国、住吉郡、佐倉藩、御家人、徳川吉宗、徳川家康、徳川家光、徳川家綱、徳川家重、徳川四天王、徳川秀忠、徳川綱吉、後花園天皇、信濃国、信濃飯田藩、志摩国、土井利厚、土井利与、土井利久、土井利亨、土井利位、土井利則、土井利勝、土井利益、土井利隆、土井利見、土井利重、土井利里、地方知行、北条氏康、北条氏綱、北条早雲、刈谷藩、分倍河原、唐津藩、出羽国、八部郡、元和 (日本)、元禄、兵庫県、石見国、現代書館、稲葉正休、笠間藩、美嚢郡、美作国、猿島郡、熊沢蕃山、盈科堂、白井藩、隠居、隆岩寺 (古河市)、鎌倉、鎌倉大草紙、鎌倉府、鎌倉時代、菟原郡、養子縁組、館林藩、西成郡、駿河国、譜代大名、豊臣秀吉、貞享、鳥羽藩、越後国、足利基氏、足利尊氏、足利義氏 (古河公方)、足利義明、足利義政、足利義教、足利高基、足利郡、足利持氏、足利成氏、足利政知、足利政氏、足利晴氏、鷹見泉石、茨城県、郡山藩、都賀郡、興留藩、蘭学者、阿部猛、関宿藩、関白、関東管領、藤井松平家、藩、藩の一覧、藩校、葛飾県、葛飾郡、肥前国、長禄、酒井忠次、酒井忠清、若年寄、雪華図説、雀神社、老中、陽明学、東軍流、松平康福、松平康長、松平忠之、松平信之、松平信康、松平信祝、松平信綱、松平信輝、松平信通、村上藩、栗橋城、梁田郡、横山昭男、武田氏、武蔵国、永享の乱、永井尚政、永井直勝、永禄、江戸城、池田恒興、河口家、河越城の戦い、淀藩、本多忠孝、本多忠勝、本多忠良、本多忠敞、本多正純、本多氏、本庄藩、明応、明治維新、春日局、浜田藩、新人物往来社、文明 (日本)、摂津国、播磨国、改易、1449年、1454年、1455年、1457年、1477年、1497年、1538年、1546年、1560年、1582年、1590年、1601年、1602年、1612年、1614年、1619年、1622年、1623年、1625年、1633年、1684年、1685年、1693年、1709年、1712年、1751年、1759年、1762年、1871年。 インデックスを展開 (196 もっと) »
加西郡
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加東郡
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埼玉県
埼玉県(さいたまけん)は、関東地方の中央西側内陸部に位置する県。県庁所在地はさいたま市。都道府県別の人口は東京、神奈川、大阪、愛知に次ぐ全国第5位。人口密度は東京、大阪、神奈川に次ぐ全国第4位である。県の愛称は「彩の国」。.
印旛県
印旛県(いんばけん)は、1871年(明治4年)に下総国内の管轄のために明治政府によって設置された県。現在の千葉県北西部、茨城県南西部、埼玉県東部のごく一部を管轄した。1871年12月25日に設置され、1873年6月15日に廃止された。県庁所在地は当初は佐倉であったが、短期間で二転三転した。.
古河城
古河城(こがじょう)は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあった日本の城。 室町時代には、古河御陣とも呼ばれ、北朝足利氏の拠点の一つであった。古河公方の本拠となった時期については古河御所(こがごしょ)とも呼ばれる。なお、古河鴻巣の古河公方館も御所と呼ばれるため、混同しないように注意する必要がある。.
古河宿
古河宿(こがしゅく、こがじゅく)は、江戸時代の日光街道(日光道中)の宿場。下総国の古河城下に設けられ、現在は茨城県古河市中央町・本町・横山町に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場である。 ここでは城下町としての古河についても解説する。.
古河市
古河市名の由来となった万葉歌碑「麻久良我の 許我の渡りの韓楫の 音高しもな寝なへ 兒ゆゑに」 古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する市である。人口約14万人。旧・下総国(千葉県)葛飾郡。 近隣の栃木県野木町などから労働人口流入があり、本市を中心とする古河都市圏を形成している。.
古河公方
古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。(享徳の乱) その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。御所は主に古河城。古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。.
堀田正仲
堀田 正仲(ほった まさなか)は、江戸時代前期の譜代大名。下総古河藩の第2代藩主、のちに出羽山形藩主を経て、陸奥福島藩の初代藩主。正俊系堀田家2代。.
堀田正俊
堀田 正俊(ほった まさとし)は、江戸時代前期から中期の大名。江戸幕府の老中・大老。上野安中藩主。後に下総古河藩の初代藩主。正俊系堀田家初代。.
堀越公方
堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)とは、室町時代に関東で勢力を持った公方の一。伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)を本拠地とした。『国史大辞典』『日本史大事典』によると、地名は「ほりごえ」だが、慣用として「ほりこしくぼう」と読んでいる。『日本史広事典』(角川書店)では「ほりごえくぼう」となっている。.
多可郡
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大坂城代
大坂城代(おおさかじょうだい)は、江戸幕府の役職の一つ。将軍直属で有力な譜代大名が任じられ、大坂城主である将軍に代わり大坂城を預かった。.
大坂の陣
大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
大阪市
大阪市(おおさかし)は、日本の近畿地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。.
大阪市立平野小学校
大阪市立平野小学校(おおさかしりつ ひらの しょうがっこう)は、大阪府大阪市平野区にある公立小学校。.
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大老
大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.
大河内氏
大河内氏(おおこうちし)は、摂津源氏源頼政の孫顕綱の後裔と称した一族である。室町時代には三河吉良氏に家老として仕え、江戸時代の正綱の代に徳川氏一族の長沢松平家の養子となって以後は大河内松平家という。大名・旗本として複数家あり、知恵伊豆と称された老中松平信綱などを輩出した。明治時代に入り、大河内姓に復した。.
天正
天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.
天文 (元号)
天文(てんぶん、てんもん)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。.
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奥平忠昌
奥平 忠昌(おくだいら ただまさ)は、江戸時代前期の大名。下野宇都宮藩主、下総古河藩主。奥平家昌の長男。徳川家康の曾孫にあたる。 曾祖父である徳川家康の存命中に出生していた。.
宝徳
宝徳(ほうとく)は、日本の元号の一つ。文安の後、享徳の前。1449年から1451年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
宝暦
宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.
宝永
宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.
室町幕府
花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.
室町時代
室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.
家老
家老(かろう)は、武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。.
守護
守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.
守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.
宇都宮城釣天井事件
宇都宮城釣天井事件(うつのみやじょうつりてんじょうじけん)は、江戸時代の元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純が、宇都宮城に吊り天井釣天井(吊り天井)とは、天井を綱などでつり下げておき、標的が部屋にいるときにその綱を切って落とし、標的を押しつぶして殺害する装置のことである。を仕掛けて第2代将軍徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を掛けられ、本多家は改易、正純が流罪となった事件である。ただし、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因によるものとされる。.
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宇都宮藩
宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.
安中藩
安中藩(あんなかはん)は、上野に存在した藩。藩庁は安中城(現在の群馬県安中市安中3丁目)。.
安蘇郡
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寒川郡 (栃木県)
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寛永
寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.
小弓公方
小弓城跡 小弓公方(おゆみくぼう)は、関東における足利氏基氏流の公方家のひとつ。古河公方の分家筋にあたる足利義明が一代で急成長して本家と関東の覇権を争うまでになったもので、彼が下総国千葉郡小弓城(現在の千葉市中央区生実と同緑区おゆみ野の一帯)を本拠地にしていたことがその名の由来。足利義明・頼純の2代にわたって受け継がれ、後の喜連川氏の元となった。.
小笠原信嶺
小笠原 信嶺(おがさわら のぶみね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国伊那郡の松尾小笠原氏当主・伊那郡松尾城城主。十郎三郎・掃部大夫。.
小笠原信之
小笠原 信之(おがさわら のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。武蔵本庄藩初代藩主。下総古河藩初代藩主。信嶺系小笠原家初代。.
小笠原秀政
小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃守護小笠原氏の末裔。下総古河藩主、信濃飯田藩主を経て、信濃松本藩の初代藩主となる。小笠原宗家初代。.
小笠原政信
小笠原 政信(おがさわら まさのぶ)は、江戸時代前期の大名。下総古河藩2代藩主。下総関宿藩初代藩主。信嶺系小笠原家2代。.
小田原征伐
小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており 、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ下山(1996) pp.91-96。。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原合戦、小田原攻め、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。.
小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正(てんしょう)12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。.
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山城国
山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
山形藩
山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.
山内上杉家
山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。上杉氏4代当主・上杉憲顕(初代関東管領)に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母・上杉清子は上杉家出身 (2代当主・上杉頼重の子)であり、上杉家は室町幕府の重職・関東管領を世襲した。上杉氏は公家である藤原氏の支族であるが、武家の足利将軍家との姻戚関係を背景として、室町時代を通し関東で勢力を拡大した。15代当主・上杉憲政は北条氏康に敗北し、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った。豊臣政権の五大老の一人であった17代当主・上杉景勝は、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北し出羽国米沢に移転・減封されたが、幕末まで大名としての地位を維持し、明治時代には華族に列して伯爵を授けられた。.
岡崎藩
岡崎城 岡崎藩(おかざきはん)は、三河国(現在の愛知県東部)を領有した藩。藩庁は岡崎城に置かれた。.
島下郡
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川越藩
川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。.
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.
上野国
上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.
上杉房顕
上杉 房顕(うえすぎ ふさあき)は、室町時代中期の武将・守護大名。関東管領。山内上杉家10代当主。.
上杉憲忠
上杉 憲忠(うえすぎ のりただ)は、室町時代中期の武士・守護大名。山内上杉家9代当主。関東管領。5代鎌倉公方・足利成氏に謀殺されて、享徳の乱のきっかけとなる。.
上杉憲政
上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。 上杉謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。 ※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。.
常陸国
常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.
三河吉田藩
三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.
三河国
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.
三河松井氏
三河松井氏(みかわまついし)は、三河国幡豆郡発祥の松井氏。はじめ今川氏や東条吉良氏に仕え、後には徳川家康の家臣となった松井忠次とその一族をさす。駿河国・遠江国の守護大名で戦国大名化した今川氏に早くから仕えた遠江松井氏(信薫や宗信に代表される)が代々遠州二俣城に居城したのに対し、三河松井氏は三河国幡豆郡吉良庄相場(饗庭)郷に居住し、天文期より吉良庄の領主東条家に仕えた。このうち松井忠次はこの吉良氏に姻戚関係を持った松平氏に帰属して東条松平氏の成立に寄与、その功績により徳川家康より松平称姓を許された。以後、忠次の系統が支族に至るまで松平を称し、松井松平家と呼ばれた。 松井松平家の家紋 = 蔦.
下総国
下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
下野国
下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.
下河辺行平
下河辺 行平(しもこうべ ゆきひら)は、 平安時代末期(1180年頃)から鎌倉時代初期の武将。源頼朝の近臣で鎌倉幕府の御家人。父は下河辺行義。 記録は十分ではないが、『吾妻鏡』などの記述で、その行跡を知ることができる。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平野区
平野区(ひらのく)は、大阪市を構成する24行政区のうちのひとつで、人口が最も多い。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
久喜市
久喜市(くきし)は、埼玉県東部に位置する市。人口は狭山市に次ぐ県内12位。2017年(平成29年)7月1日現在の人口は154,033人(男性76,884人、女性77,149人)。.
久米南条郡
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久松俊勝
久松 俊勝(ひさまつ としかつ、大永6年(1526年) - 天正15年3月14日(1587年4月21日))は、戦国時代の武将。尾張国知多郡の坂部城(愛知県阿久比町卯坂)城主。初名は定俊及び長家(ながいえ)。徳川家康の生母・伝通院の再婚相手として知られる。本姓は菅原氏。佐渡守を称した。実父は「久松定義」とされている(『藩翰譜』1巻320項など)。『東照宮御実紀』巻二には、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝とある。.
享徳
享徳(きょうとく)は、日本の元号の一つ。宝徳の後、康正の前。1452年から1454年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
享徳の乱
享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方・足利成氏と争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因(もしくは直接の発端)となった。.
五霞町
五霞町(ごかまち)は、茨城県の西南端に位置する猿島郡にある町である。旧・下総国(千葉県)葛飾郡。東京都市圏。.
亀姫 (徳川家康長女)
亀姫(かめひめ、永禄3年6月4日(1560年6月27日) - 寛永2年5月27日(1625年7月1日))は、徳川家康の長女。母は築山御前(瀬名今川氏)で、松平信康は同母兄。奥平信昌の正室。.
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今川範忠
今川 範忠(いまがわ のりただ)は、室町時代中期の守護大名。駿河今川氏の第5代当主。 第4代当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。永享5年(1433年)、父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた6代将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している。 これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。これにより分家遠江今川氏の範将は堀越氏を名乗ったとされる(異説あり)。 康正元年(1455年)には8代将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)。 寛正元年(1460年)正月に駿河に帰国、翌年の3月20日に子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)。.
伊豆国
伊豆国(いずのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
住吉郡
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佐倉藩
佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡佐倉に存在した藩である。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)。石高はおおむね11万石。.
御家人
御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.
徳川吉宗
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.
徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.
徳川家光
徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.
徳川家綱
徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.
徳川家重
増上寺の墓所にある家重の石塔 徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。.
徳川四天王
徳川四天王(とくがわしてんのう)は、安土桃山時代から江戸時代初期に、徳川家康の側近として仕えて江戸幕府の樹立に功績を立てた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の武将を顕彰した呼称。仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。 本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人は1590年の徳川氏の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に徳川氏の家政と関ヶ原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三人衆もしくは徳川三傑と呼ぶ場合もある。「徳川四天王」の名称はいつから使われたかは定まらない。例えば歴史学者の中村達夫は、「徳川四天王」の名称の使用開始年代は不明とし、「徳川三傑」については『榊原家譜』を出典として1586年9月に使われ始めたとしている。中村によれば、1586年9月に徳川家康の名代として上洛した三名を上方の武将たちが「徳川三傑」と言い出したのが始まりだという。その後、本多・榊原・井伊の三名は翌月、徳川家康上洛に随行して何れも叙位され、これに酒井を加えた四名の「徳川四天王」の名が巷間もてはやされるようになったと上越市文化財審議委員の村山和夫は考えている。 四天王はその後、1589年の家康関東移封時に家康配下の大名としていずれも万石以上となり、徳川家の重臣としての地位を確立する。既に徳川家臣団中、当主一門を除いては最高の官位・官職にあった井伊は家中最高の12万石を与えられて高崎藩を立藩、榊原は関東総奉行兼勘定方支配(後の関東郡代兼勘定奉行)に任じられて館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられて大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に既に隠居しており、後継の酒井家次が下総臼井藩を立藩したが、わずか3万7000石という低い待遇を与えられ、他の四天王とは明確に格差が開いていた。これについて国学院大教授の根岸茂夫は、酒井は元々三河譜代筆頭であったが、家康の関東転封時の家臣団統制強化策の一環として、新参の武将を抜擢する方針があり、新しく台頭してきた本多・榊原・井伊の三名が家中で重きをなし、旧支配地の三河では東三河衆の旗頭として古い権力を持っていた酒井は、以前の松平信康自刃事件の責任を取らされて低い禄高に甘んじたとしている。.
徳川秀忠
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.
徳川綱吉
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、江戸幕府の第5代将軍である。.
後花園天皇
後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、室町時代の第102代天皇である(在位:正長元年7月28日(1428年9月7日) - 寛正5年7月19日(1464年8月21日))。諱は彦仁(ひこひと)。 本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、称光天皇の死後に皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代658年ぶりである(称徳天皇→光仁天皇以来)。以後、この天皇の系統が今上天皇をはじめとする現在の皇室に連なっている。.
信濃国
信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.
信濃飯田藩
飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。.
志摩国
志摩国(しまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
土井利厚
土井 利厚(どい としあつ、宝暦9年(1759年) - 文政5年6月24日(1822年8月10日))は、江戸時代後期の大名、老中。下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代。 摂津尼崎藩主・松平忠名の四男。正室は板倉勝清の養女(板倉勝暁の娘)。子に土井利之(次男)、土井利広(三男)、娘(細川立之正室)、娘(永井直興室)。従四位下侍従・大炊頭。.
土井利与
土井 利与(どい としとも)は、下総古河藩の第7代(最後)の藩主。土井家宗家14代。.
土井利久
土井 利久(どい としひさ)は、下総古河藩の第4代藩主。土井家宗家4代。.
土井利亨
土井 利亨(どい としなり)は、下総古河藩の第5代藩主。土井家宗家12代。.
土井利位
土井 利位(どい としつら)は、下総古河藩の第4代藩主。土井家宗家11代。江戸幕府の老中首座。雪の結晶の研究を行い「雪の殿様」の異名で知られる。.
土井利則
土井 利則(どい としのり)は、下総古河藩の第6代藩主。土井家宗家13代。.
土井利勝
土井 利勝(どい としかつ)は、安土桃山時代の武将・政治家。江戸時代前期の譜代大名であり、江戸幕府の老中・大老である。下総国小見川藩主、同佐倉藩主、同古河藩初代藩主。土井家宗家初代。徳川秀忠政権における老中として、絶大な権勢を誇った『江戸お留守居役の日記』 42ページ。その事績や資料については原念斎が編纂した『賢相野史』に詳しい。.
土井利益
土井 利益(どい とします)は、江戸時代前期から中期の譜代大名。常陸下妻藩主、下総古河藩第5代藩主、志摩鳥羽藩主、肥前唐津藩初代藩主。土井家宗家5代。.
土井利隆
土井 利隆(どい としたか)は、下総古河藩の第2代藩主。江戸幕府の若年寄。土井家宗家2代。.
土井利見
土井 利見(どい としちか早川『シリーズ藩物語、古河藩』、P127)は、下総古河藩の第2代藩主。土井家宗家9代。.
土井利重
土井 利重(どい とししげ)は、下総古河藩の第3代藩主。土井家宗家3代。.
土井利里
土井 利里(どい としさと)は、江戸時代中期の大名。肥前唐津藩第4代藩主、下総古河藩初代藩主。京都所司代。土井家宗家8代。.
地方知行
地方知行(じがたちぎょう)とは、江戸時代に将軍あるいは大名が家臣に対して禄として与える知行を、所領(地方と呼ばれる土地)及びそこの付随する百姓の形で与え、支配させること。将軍が大名に土地を与える場合には特に大名知行(だいみょうちぎょう)と呼ばれている。 ここにおける地方知行の解説に大名知行は含めないが、必要に応じて大名知行の例についても言及するものとする。.
北条氏康
北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.
北条氏綱
北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.
北条早雲
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.
刈谷藩
刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。.
分倍河原
分倍河原(ぶばいがわら)は、東京都府中市の地域名。.
唐津藩
唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
八部郡
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元和 (日本)
元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.
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元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
兵庫県
兵庫県(ひょうごけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中西部に位置し、近畿地方に属する。県庁所在地は神戸市。.
石見国
石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.
現代書館
代書館(げんだいしょかん)は、東京都千代田区にある出版社。教育、福祉、人文、社会、写真集などの出版物を刊行している。.
稲葉正休
葉 正休(いなば まさやす)は、江戸時代前期の旗本・大名。美濃青野藩主。旗本・稲葉正吉の長男。大老・堀田正俊は従甥に当たる。美濃と縁の深い稲葉氏の一族である。.
笠間藩
間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.
美嚢郡
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美作国
美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.
猿島郡
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熊沢蕃山
沢 蕃山(くまざわ ばんざん、元和5年(1619年) - 元禄4年8月17日(1691年9月9日))は江戸時代初期の陽明学者である。諱は伯継(しげつぐ)、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改む、蕃山と号し、又息遊軒と号した。.
盈科堂
科堂(えいかどう)は、江戸時代の下総国・古河藩(茨城県・古河市)にあった藩校。土井家が唐津藩主の時代に創設され、のちの古河移封に伴って移転した。.
白井藩
白井藩(しろいはん)は、上野国に存在した藩。藩庁は白井城(現在の群馬県渋川市白井)にあった。.
隠居
居(いんきょ)は、戸主が家督を他の者に譲ること。または家督に限らず、それまであった立場などを他人に譲って、自らは悠々自適の生活を送ることなどを指す。もしくは、第一線から退くことなど。隠退(いんたい)とも。 日本の民法上の制度としての隠居は、戸主が生前に家督を相続人へ譲ることを指し、日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(昭和22年法律第74号)により、日本国憲法の施行(1947年5月3日)と同時に、戸主制の廃止と共に隠居の制度は廃止された。.
隆岩寺 (古河市)
隆岩寺(りゅうがんじ)は、茨城県古河市中央町(田町)にある浄土宗の寺院。正式には、山号を大蓮山、院号を潮雲院、寺号を隆岩寺という。『古河市史 民俗編』 822-823頁(隆岩寺).
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鎌倉
鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政、北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。 鎌倉大仏.
鎌倉大草紙
鎌倉大草紙(かまくらおおぞうし)とは、室町時代の鎌倉・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。康暦2年(天授6年/1380年)より文明11年(1479年)の100年間の歴史を記している。『太平記』を継承するという意味から太平後記の別称がある。全3巻。 戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。 作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の1までには全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の2にはみられないことから、上巻から下巻の1までと下巻の2では作者が異なる可能性も指摘されている。 上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている。.
鎌倉府
明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉府管轄国 浄妙寺〈鎌倉市〉) 鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。.
鎌倉時代
伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).
菟原郡
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養子縁組
養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.
館林藩
林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.
西成郡
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駿河国
駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.
譜代大名
譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.
豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.
貞享
貞享(じょうきょう)は日本の元号の一つ。天和の後、元禄の前。1684年から1688年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
鳥羽藩
鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。.
越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
足利基氏
足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日))。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子(登子の子としては次男)。.
足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.
足利義氏 (古河公方)
足利 義氏(あしかが よしうじ)は、戦国時代の人物で、第5代古河公方(在職:1552年 - 1583年)。同名の足利義氏から数えて14代目の子孫に当たる。父は第4代古河公方の足利晴氏、母は北条氏綱の娘の芳春院。正室は北条氏康の娘の浄光院 (足利義氏正室)。異母兄弟に足利藤氏や足利藤政がいる。 ※ 日付は、和暦による旧暦。西暦表記の部分は、ユリウス暦とする。.
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足利義明
足利 義明(あしかが よしあき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。足利氏の一門。第2代古河公方足利政氏の子。第3代古河公方足利高基の弟。小弓公方を自称。.
足利義政
足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。.
足利義教
足利 義教(あしかが よしのり、義)は、室町幕府の第6代将軍(在職:1428年 - 1441年)。第3代将軍・足利義満の五男。母は側室の藤原慶子で、第4代将軍・足利義持の同母弟。僧侶時代は義円(ぎえん、義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。.
足利高基
足利 高基(あしかが たかもと)は、戦国時代の武将。3代目古河公方(在職:永正9年(1512年) - 天文4年(1535年))。足利政氏の長男。母は不詳。妻は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。.
足利郡
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足利持氏
足利 持氏(あしかが もちうじ)は、室町時代の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409年 - 1439年)。第3代鎌倉公方・足利満兼の子。.
足利成氏
足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。 父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。.
足利政知
足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の武将。足利将軍家の一族で、初代堀越公方である。室町幕府6代将軍足利義教の次男で母は幕府奉公衆斎藤氏の娘少弁殿。7代将軍足利義勝の異母弟で8代将軍足利義政と足利義視の異母兄。11代将軍足利義澄の父であり、以後の将軍は政知の家系から続いた。 室町幕府公認の鎌倉公方として下向するが、享徳の乱による関東の混乱及び幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、手前の伊豆の堀越に留まった。このため、堀越公方と称される。.
足利政氏
足利 政氏(あしかが まさうじ)は、戦国時代の武将。2代目古河公方(在職:延徳元年(1489年) - 永正9年(1512年))。父は足利成氏。母は伝心院(簗田満助の養女、満助の兄・簗田直助(なおすけ)の娘)。.
足利晴氏
足利 晴氏(あしかが はるうじ)は、戦国時代の第4代古河公方(在職:1535年 - 1552年)。室町幕府が正式に認め、尚且つ影響力を持っていた古河公方としては最後の古河公方である。.
鷹見泉石
鷹見 泉石(たかみ せんせき、天明5年6月29日(1785年8月3日) - 安政5年7月16日(1858年8月24日))は江戸時代の蘭学者であり、下総国古河藩の家老である。名を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門。字を伯直(はくちょく)。号は泉石の他に楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)。また、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いている。 .
茨城県
茨城県(いばらきけん)は、日本の県の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。.
郡山藩
郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.
都賀郡
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興留藩
興留藩(おきどめはん)は、大和国(現在の奈良県生駒郡斑鳩町興留)に存在した藩。.
蘭学者
杉田玄白 / 蘭学の開拓者の一人で天真楼で後発蘭学者の教育も手がけた。 蘭学者(らんがくしゃ)は、日本において蘭学、すなわちオランダ語を通じて輸入された西洋の学問文化を修め研究した人のことである。.
阿部猛
阿部 猛(あべ たけし、1928年8月15日-2016年5月27日 )は、日本の歴史学者、元・東京学芸大学学長。.
関宿藩
関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
関東管領
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。.
藤井松平家
藤井松平家(ふじいまつだいらけ)は、松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつ。.
藩
藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.
藩の一覧
藩の一覧(はんのいちらん)では、江戸時代から明治時代の初期に日本の各地に存在した藩を地域ごとに一覧する。.
藩校
弘道館(水戸藩) 藩校(はんこう)は、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。、、藩学校ともいう。 内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に、皆に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。 全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。 藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には厳しい厳罰が設けられている。それは藩校によって様々だが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸。更に親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねない。.
葛飾県
葛飾県(かつしかけん)は、1868年(明治元年)に下総国内の旧幕府領の管轄のために明治政府によって設置された県。現在の千葉県北西部、埼玉県東部、茨城県西部を管轄した。本項では前身の下総知県事(しもうさちけんじ)についても述べる。.
葛飾郡
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肥前国
肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.
長禄
長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.
酒井忠次
酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。 徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。.
酒井忠清
酒井 忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名。江戸幕府老中、大老。上野厩橋藩の第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家4代。第4代将軍・徳川家綱の治世期に大老となる。三河以来の譜代名門酒井氏雅楽頭家嫡流で、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた酒井忠世の孫にあたる。.
若年寄
若年寄(わかどしより)とは.
雪華図説
『雪華図説』(せっかずせつ)は、下総国古河藩の第4代藩主、土井利位が著した雪の結晶の観察書である。1832年刊行。.
雀神社
(すずめしんじゃ)は神社。.
老中
老中(ろうじゅう)は、江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。名称は三河時代の徳川家でその家政を司った宿老の年寄(としより)に由来する。年寄りを「老」一字で表し、これに「〜の仲間一同」を意味する「中」(連中、氏子中、長屋中などに同じ)がついたものである。 老中の任用要件は、当初は家禄が2万5000石以上の譜代大名であることだった。しかしこの要件は薄禄の大名を排除するためのものではなく、家禄が要件に満たなくても譜代大名であれば才能次第で老中格(ろうじゅうかく)に登用される道が開かれていた。老中格は文字どおり老中より一段格が落ちるが、その職掌や責任はほとんど老中のそれと比べても遜色がないものだった。 なお諸藩では通常藩政を統括する者のことを家老といったが、藩によってはこれを老中と呼ぶところもあった。.
陽明学
王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。.
東軍流
東軍流(とうぐんりゅう)とは、川崎鑰之助を開祖とする剣術流派である。薙刀術、砲術、馬術、軍学も伝えていた。.
松平康福
松平 康福(まつだいら やすよし)は、江戸時代中期の大名。老中、老中首座。はじめ5万400石だったが加増され6万余石となる。石見浜田藩の第5代藩主、下総古河藩主、三河岡崎藩主を経て再び浜田藩主。松井松平家6代。奏者番、寺社奉行、大坂城代を経て、老中に抜擢された。.
松平康長
松平 康長(まつだいら やすなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。戸田宗家16代当主。松平氏の姓を賜り、戸田松平家の祖となる。 家紋は松平姓とともに下賜された三つ葉葵と戸田氏歴代の六曜紋である。なお、名前の表記について、書籍によっては戸田康長と載せるものもある。.
松平忠之
松平 忠之(まつだいら ただゆき、延宝2年(1674年) - 元禄8年4月19日(1695年5月31日))は、江戸時代中期の大名。下総国古河藩主。藤井松平家嫡流6代。松平信之の長男。母は小出吉英の娘。正室は酒井忠義の娘。従五位下、日向守。.
松平信之
松平 信之(まつだいら のぶゆき)は、江戸時代前期の大名、老中。播磨明石藩主、大和郡山藩主、下総古河藩主。藤井松平家嫡流5代。.
松平信康
松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。.
松平信祝
松平 信祝(まつだいら のぶとき)は、江戸時代中期の大名・老中。下総古河藩の第2代藩主、三河吉田藩主、遠江浜松藩初代藩主。松平伊豆守系大河内松平家4代。.
松平信綱
松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩初代藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。.
松平信輝
松平 信輝(まつだいら のぶてる)は、江戸時代前期から中期の大名。武蔵川越藩の第3代藩主。のち下総古河藩の初代藩主。松平伊豆守系大河内松平家3代。.
松平信通
松平 信通(まつだいら のぶみち)は、江戸時代中期の大名。大和興留藩主、のちに藤井松平家嫡流の家督を継ぎ備中庭瀬藩主、出羽上山藩の初代藩主。藤井松平家嫡流6代。.
村上藩
村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.
栗橋城
栗橋城(くりはしじょう)は、下総国葛飾郡にあった古河公方ゆかりの日本の城。現在は茨城県猿島郡五霞町元栗橋地内、法宣寺の西から南西に位置する。.
梁田郡
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横山昭男
横山 昭男(よこやま あきお、1930年 - )は、日本の歴史学者、山形大学名誉教授。日本近世史(藩政史・交通史)専攻。.
武田氏
武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.
武蔵国
武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.
永享の乱
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。.
永井尚政
永井 尚政(ながい なおまさ)は、江戸時代前期の大名。上総潤井戸藩主、下総古河藩第2代藩主、山城淀藩初代藩主。永井家宗家2代。 東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する。.
永井直勝
永井 直勝(ながい なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井家宗家初代。.
永禄
永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.
江戸城
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.
池田恒興
池田 恒興(いけだ つねおき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。清洲会議に出席した4人の織田家重臣の一人。池田恒利の子。子に元助、輝政など。 尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主。通称は勝三郎。紀伊守を自称、晩年に入道し勝入と号した。諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。.
河口家
河口良庵が養子の了閑に与えた「カスパル流免許状」寛文6年(1666年)。河口家歴史資料(古河歴史博物館保管) カスパル伝神文。明和8(1771)年(個人蔵) 河口家(かわぐちけ)は、下総国古河藩(現在の茨城県古河市)に代々仕えた藩医の一族。河口家に伝来した日本国最古の解剖刀を含む多数の医療器具、カルテ等の関係資料は、「河口家医学等関係資料」の名称で茨城県指定有形文化財(歴史資料)に指定されている(2007年11月16日指定)。 家紋は井桁内左巴。.
河越城の戦い
河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。 北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。 「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」(かわごえよいくさ)である。本稿では河越夜戦について詳述する。 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。.
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淀藩
淀藩(よどはん)は、山城国(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。.
本多忠孝
本多 忠孝(ほんだ ただたか、元禄11年(1698年) - 宝永6年9月13日(1709年10月15日))は、江戸時代中期の大名。播磨姫路藩第2代藩主、越後村上藩初代藩主。忠勝系本多家宗家7代。姫路藩主・本多忠国の三男。官位はなし。 宝永元年(1704年)5月10日に父の死により家督を相続する。しかし、姫路は西国の要となる場所であることから、幼少を理由に忠孝は5月28日に越後村上藩に移封された。 村上城に一度も入城しないまま、宝永6年(1709年)9月13日に12歳で死去した。無嗣であったため本来であれば断絶であったが、本多忠勝以来の名門の家系であったため、幕命により一族の本多忠良が家督を相続した。しかし、禄高は15万石から5万石に減封され、さらに、三河刈谷藩に移封された。 Category:譜代大名 Category:村上藩主 Category:姫路藩主 たたたか Category:1698年生 Category:1709年没.
本多忠勝
本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.
本多忠良
本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人、老中を務めた。越後村上藩第2代藩主、三河刈谷藩主、下総古河藩初代藩主。忠勝系本多家宗家8代。.
本多忠敞
本多 忠敞(ほんだ ただひさ、享保12年(1727年) - 宝暦9年7月10日(1759年8月2日))は、江戸時代中期の大名。下総国古河藩第2代藩主、石見国浜田藩初代藩主。忠勝系本多家宗家9代。.
本多正純
本多 正純(ほんだ まさずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。江戸幕府の老中。下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。本多正信の長男で正信系本多家宗家2代。 徳川家康の側近であったが、徳川秀忠の代に失脚した。.
本多氏
本多氏(ほんだし・ほんだうじ)は、日本の氏族の一つ。本田氏と同じ氏族であり「本多氏」と「本田氏」は同じ氏族の別表記に過ぎなかったが、いつの間にか分別されたという。 江戸時代の譜代大名・旗本家となった三河の本多氏が著名である。他に、織田伊勢守家の家臣から外様大名となった本多利久・本多利朝の一族(大和高取藩家)も存在する。.
本庄藩
本庄藩(ほんじょうはん)は、武蔵国児玉郡本庄(現在の埼玉県本庄市)に存在した藩。居城は本庄城。.
明応
明応(めいおう)は、日本の元号の一つ。延徳の後、文亀の前。1492年から1501年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇、後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義材、足利義澄。.
明治維新
Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.
春日局
春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)宮本義己「春日の局-大奥の権化となった家光の乳母-」(『別冊歴史読本』13巻16号、1988年)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。.
浜田藩
浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.
新人物往来社
株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.
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文明 (日本)
文明(ぶんめい)は、日本の元号の一つ。応仁の後、長享の前。1469年から1486年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政、足利義尚。.
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摂津国
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.
播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.
改易
改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.
1449年
記載なし。
1454年
記載なし。
1455年
記載なし。
1457年
記載なし。
1477年
記載なし。
1497年
記載なし。
1538年
記載なし。
1546年
記載なし。
1560年
記載なし。
1582年
記載なし。
1590年
記載なし。
1601年
17世紀最初の年である。.
1602年
記載なし。
1612年
記載なし。
1614年
記載なし。
1619年
記載なし。
1622年
記載なし。
1623年
記載なし。
1625年
記載なし。
1633年
記載なし。
1684年
記載なし。
1685年
記載なし。
1693年
記載なし。
1709年
記載なし。
1712年
記載なし。
1751年
記載なし。
1759年
記載なし。
1762年
記載なし。
1871年
記載なし。
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