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八戸藩

索引 八戸藩

八戸藩(はちのへはん)は、陸奥国三戸郡八戸城(現:青森県八戸市)に藩庁を置き南部家が治めていた藩。

目次

  1. 58 関係: 南部広信南部信依南部信真南部信順南部信興南部信房南部直房南部直政南部重信南部重直南部通信南部氏大澤多門天保天保の大飢饉天明天明の大飢饉奥羽越列藩同盟寛保寛文寛政専売制島津重豪三戸郡一揆九戸郡年貢享保征夷大将軍御用商人徳川綱吉志和村ヒエダイズ八戸城八戸市八戸市博物館八戸県元禄紫波郡盛岡藩青森県願譜代薩摩藩藩庁藩札野辺地戦争野村軍記... インデックスを展開 (8 もっと) »

南部広信

南部 広信(なんぶ ひろのぶ)は、江戸時代中期の大名。陸奥国八戸藩の第4代藩主。官位は従五位下・甲斐守。

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南部信依

南部 信依(なんぶ のぶより)は、江戸時代中期の大名。陸奥国八戸藩の第6代藩主。官位は従五位下・甲斐守。

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南部信真

南部 信真(なんぶ のぶまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。通称は主水、左衛門尉。陸奥国八戸藩8代藩主。官位は従五位下・左衛門尉。

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南部信順

南部 信順(なんぶ のぶゆき)は、江戸時代後期の大名。陸奥国八戸藩の第9代(最後)の藩主。官位は従四位下・侍従、遠江守。

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南部信興

南部 信興(なんぶ のぶおき)は、江戸時代中期の大名。陸奥国八戸藩の第5代藩主。官位は遠江守、左衛門尉。

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南部信房

南部 信房(なんぶ のぶふさ)は、江戸時代中期の大名。陸奥国八戸藩の第7代藩主。官位は従五位下・伊勢守。

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南部直房

南部 直房(なんぶ なおふさ)は、江戸時代前期の大名。陸奥国八戸藩の初代藩主。官位は従五位下・左衛門佐。盛岡藩主・南部利直とその側室・仙寿院の子。八戸立藩以前は、母方の姓の中里直好(中里数馬)を名乗った。

見る 八戸藩と南部直房

南部直政

南部 直政(なんぶ なおまさ)は、江戸時代前期の大名。陸奥国八戸藩の第2代藩主。官位は従五位下・遠江守。

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南部重信

南部 重信(なんぶ しげのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名で、陸奥盛岡藩の第3代藩主。南部氏の第29代当主。父は南部利直。母は閉伊氏の一族、花輪政朝の娘・松。地元の人々からは親しみを持って「花輪殿様」と呼ばれている。

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南部重直

南部 重直(なんぶ しげなお)は、江戸時代前期の大名。陸奥国盛岡藩の第2代藩主。官位は従五位下・山城守。南部氏28代(盛岡南部家3代)当主。

見る 八戸藩と南部重直

南部通信

南部 通信(なんぶ みちのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国八戸藩の第3代藩主。官位は従五位下・遠江守。

見る 八戸藩と南部通信

南部氏

南部氏(なんぶし)は、武家・華族だった日本の氏族。本貫地は甲斐国巨摩郡南部郷で家祖は甲斐源氏の流れを汲む南部光行。建武新政下で北奥羽奉行に抜擢されたことで奥州に勢力を張るようになり、室町・戦国時代には、三戸南部氏が北奥羽全域に勢力を広げる。江戸時代には盛岡藩主となり廃藩置県まで続き、維新後には華族に列し伯爵家となる。

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合(ごう)は、尺貫法における体積の単位である。 升の10分の1で、勺の10倍である。日本では、明治時代に1升。

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大澤多門

大澤多門(おおさわ たもん、1834年(天保5年) - 1906年(明治39年))は、八戸藩士、八戸町戸長。えんぶりの復興者でもある。

見る 八戸藩と大澤多門

天保

は、日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。

見る 八戸藩と天保

天保の大飢饉

天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)、天保の飢饉は、江戸時代後期の1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である。1839年(天保10年)まで続いた。1837年(天保8年)までと定義する説もある。 寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の大飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つに数えられる。

見る 八戸藩と天保の大飢饉

天明

天明(てんめい、)は、日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。

見る 八戸藩と天明

天明の大飢饉

飢饉で馬や人の肉を食べる人々 天明の大飢饉(てんめいのだいききん)は、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。

見る 八戸藩と天明の大飢饉

奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王 を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権 日本大百科全書(井上勲執筆項)。 奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。一説には公現入道親王を天皇として擁立した東北朝廷であったともされるが、同盟自体がそのような表現を公式に行ったことはなく、「幼君(明治天皇)の君側の奸である薩賊(薩摩藩)を除く」ことが目的であると主張している。

見る 八戸藩と奥羽越列藩同盟

寛保

寛保(かんぽう、かんぽ、)は、日本の元号の一つ。元文の後、延享の前。1741年から1744年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

見る 八戸藩と寛保

寛文

寛文 (かんぶん、)は、日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。

見る 八戸藩と寛文

寛政

寛政(かんせい、旧仮名遣: くゎんせい、)は、日本の元号の一つ。天明の後、享和の前。1789年から1801年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。

見る 八戸藩と寛政

専売制

専売制(せんばいせい, Government monopoly)とは、国家などが財政収入を増加させるために、特定物資の生産・流通・販売などを全面的に管理下に置いて、そこから発生する利益を独占する制度。品質保証、安全管理、公衆衛生上の意味合いもある。 専売制を導入するためには対象となる消費物資の生産・流通が集中的である必要がある。例えば、特定の地域でしか生産が出来ず生産地域及び生産者が限定的であることが重要である(生産地も全国的に拡散しているよりも産地が限定されていた方が生産・流通の把握の面で望ましい)。また、消費物資に対する需要が恒常的・普遍的に高いことも重要であり、「生活必需品」であればなお望ましいと言える。専売制の対象となるケースになりやすい塩や酒、煙草などはその条件に近い場合が多く、逆に耕作地が全国的に広がっており大量生産されている穀物類の専売は実例はあるものの多くはない。

見る 八戸藩と専売制

島津重豪

島津 重豪(しまづ しげひで)は、江戸時代後期の大名。島津氏の第25代当主。薩摩藩の第8代藩主。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)である広大院の父。将軍の岳父として高輪下馬将軍と称されるほど権勢を振るう一方で、学問・ヨーロッパ文化に強い関心を寄せ、蘭癖大名・学者大名としても名を馳せた。

見る 八戸藩と島津重豪

三戸郡

青森県三戸郡の位置(1.三戸町 2.五戸町 3.田子町 4.南部町 5.階上町 6.新郷村) 三戸郡(さんのへぐん)は、青森県(陸奥国)の郡。 以下の5町1村を含む。

見る 八戸藩と三戸郡

一揆

一揆(いっき)とは、日本において、一つの目的のために成立した集団の組織またはその行動を意味した概念。 一揆の史学における研究は、中世の一向一揆や土一揆などから深められたため、民衆の一揆として捉えられ、領主(支配者)から禁じられるべきもので、民集の結合や暴動であるというイメージで捉えられるようになったとの指摘がある。しかし、例えば肥前松浦党は一揆契諾書に署名して結束を確認していた。日本史研究の初期の歴史学ではこれらの武士の結合は「党」(肥前国の松浦党や紀伊国の隅田党など)と呼び、一揆とは異なる継続的な政治的組織として分けて考えていた。これに対しては勝俣鎮夫などから中世の一揆について必ずしも反権力的なものに限られず、むしろ特定の作法や儀礼によって結ばれた組織であると主張されるようになった。また、近世の一揆についても、『編年百姓一揆史料集成』での調査から江戸時代の百姓一揆に武器が携行・使用された例は全体の1%弱であることがわかっている。こうしたことから歴史学における一揆のイメージの転換も示唆されるようになっている。

見る 八戸藩と一揆

九戸郡

岩手県九戸郡の範囲(1.軽米町 2.野田村 3.九戸村 4.洋野町 薄橙:後に他郡に所属した区域) 九戸郡(くのへぐん)は、岩手県(陸奥国・陸中国)の郡。 以下の2町2村を含む。

見る 八戸藩と九戸郡

年貢

年貢(ねんぐ)は、日本史上の租税の一形態。律令制における田租が、平安時代初期 - 中期に律令制が崩壊・形骸化したことにともなって、年貢へと変質したが、貢租(こうそ)という別称に名残が見られる。その後、中世・近世を通じて、領主が百姓(農民でなく普通の民を指す)を始めとする民衆に課する租税として存続した。主に米で納めるため、その米を年貢米(ねんぐまい)と呼んでいた。

見る 八戸藩と年貢

享保

1729(享保14)年版。国立科学博物館の展示。 享保(きょうほう)は、日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

見る 八戸藩と享保

征夷大将軍

江戸幕府を創設した徳川家康(在任:慶長8年 - 同10年) は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。

見る 八戸藩と征夷大将軍

御用商人

御用商人(ごようしょうにん)は、前近代の日本において封建領主の庇護のもとに、各種の御用及びそれに関連する物資等の調達に携わる代わりに様々な特権が与えられた商人。御用達・御用聞きなどによって構成される。

見る 八戸藩と御用商人

徳川綱吉

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。

見る 八戸藩と徳川綱吉

志和村

志和村(しわむら)は、昭和30年(1955年)まで岩手県紫波郡にあった村。現在の紫波町稲藤・片寄・土舘・上平沢にあたる。

見る 八戸藩と志和村

ヒエ

ヒエ(稗、英名:Japanese barnyard millet、学名:)は、イネ科ヒエ属の植物。アイヌ語ではピヤパ。

見る 八戸藩とヒエ

ダイズ

大豆の花 大豆(学名: )は、マメ科の一年草。完熟種子は主に搾油の原料となり、脱脂後の絞り粕(大豆粕)は飼料として利用されている。食用にもなり特に東アジアでは様々な利用形態が発達している。未成熟の種子を枝豆と呼ぶ。 東アジア原産のツルマメが原種と考えられる。ツルマメは特に日本、中国、韓国に広く分布しており、歴史的に複数の地域で栽培化が始まった。

見る 八戸藩とダイズ

八戸城

八戸城(はちのへじょう)は、青森県八戸市にあった日本の城(平山城)。

見る 八戸藩と八戸城

八戸市

八戸市(はちのへし)は、青森県東部にある市。太平洋に面する。中核市に指定されており、県庁所在地である青森市や県内人口3位の弘前市と共に、青森県主要3市の一角を構成する。1929年(昭和4年)市制施行。

見る 八戸藩と八戸市

八戸市博物館

八戸市博物館(はちのへしはくぶつかん)は、青森県八戸市にある市営博物館である。

見る 八戸藩と八戸市博物館

八戸県

八戸県(はちのへけん)。

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元禄

は、日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

見る 八戸藩と元禄

紫波郡

岩手県紫波郡の範囲(1.紫波町 2.矢巾町) 旧紫波郡役所庁舎(紫波町指定文化財) 紫波郡(しわぐん)は、岩手県(陸奥国・陸中国)の郡。 以下の2町を含む。盛岡都市圏の南部に位置し、人口は増加傾向にある。

見る 八戸藩と紫波郡

盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。 居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。

見る 八戸藩と盛岡藩

青森県

青森県(あおもりけん)は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は青森市。 県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)北部にあたる。

見る 八戸藩と青森県

願譜代

願譜代(ねがいふだい)は、江戸時代に外様大名のうちで願い出て譜代大名の扱いとなった者をいう。主に譜代大名の血筋の者が外様大名の家を継ぎ、幕閣において長年の功績を立てるなどした場合、もしくは外様大名が幕政に参画しようとして譜代への格上げを望んだ時にこの扱いとなった。願い譜代とも記され、譜代格、御譜代に準ずる大名という場合もある。後世には準(准)譜代大名の呼称も使用されるが古い用例では大石慎三郎の『日本経済史論』(御茶の水書房、1967年)などに見られる。、歴史学的な用語である。

見る 八戸藩と願譜代

薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津家。薩摩・大隅の2か国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有し、琉球王国(現在の沖縄県)が服属したただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。。

見る 八戸藩と薩摩藩

藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。

見る 八戸藩と藩

藩庁

藩庁(はんちょう)とは、江戸時代の幕藩体制から明治初期の府藩県制にかけての、藩の役所を表す用語。語としては県の「県庁」等にあたる。 江戸時代の藩政の拠点のことを、明治時代以降に当てた用語である。類義語に藩府(はんぷ)があるが、この語は、江戸時代に藩が江戸に置いた役所をさすことがある。また、明治時代の府藩県三治制下で地方行政の区画として設置された、藩の知藩事が政務を行う役所のこと。 江戸時代の藩の藩庁は、大名の居城や居所のことで、城や屋敷に設置して大名が支配する領内の行政業務を執り行う。城持大名以上の藩は城に、城主格以下の城主格と無城大名の藩は城を構えることが許されなかったことから、領内に屋敷を置いて藩庁とした。こうした無城大名の屋敷のことを俗に陣屋というが、江戸時代では居所や在所と称した。なかには、藩庁を設けない藩もあった。藩庁を中心に栄えた町を陣屋町といい、城の場合は城下町と呼ばれた。

見る 八戸藩と藩庁

藩札

備後福山藩が享保15年に発行した藩札。額面は銀1匁、発行元の「濱口屋」の名称も見える。 藩札(はんさつ)は、江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣である。以下では、狭義の「各藩が発行した藩札(大名札)」を中心に述べるが、実際上は、旗本が発行した旗本札、寺社が発行した寺社札、宮家が発行した宮家札、地域で発行した町村札、私人が発行した私人札なども、広義の藩札として取り扱われることも多い。

見る 八戸藩と藩札

野辺地戦争

野辺地戦争(のへじせんそう、明治元年9月23日(グレゴリオ暦1868年11月7日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。 奥羽越列藩同盟側の盛岡藩は9月20日に新政府に降伏し、22日に新政府に降伏が受け入れられていた。だが翌23日、新政府側の弘前藩及び黒石藩の連合軍が野辺地へ侵攻。交戦の結果、盛岡・八戸藩連合軍が弘前・黒石藩連合軍を撃退して戦闘は1日で終了し、新政府からは両藩の私闘として処理された。弘前藩はこのほかにも鹿角郡濁川にも放火のために出兵を行っており、本格的な侵攻ではなく、実績作りのための放火活動であると言われる。戦争と言われているが実際は小規模な局地戦であった。

見る 八戸藩と野辺地戦争

野村軍記

野村 軍記(のむら ぐんき、安永3年(1774年) - 天保5年10月20日(1834年11月20日))は、江戸時代の八戸藩士。名は宗軌(むねみち)、後に武一。字は子範、通称は左門、号は潜竜、金竜堂。

見る 八戸藩と野村軍記

金地院 (東京都港区)

金地院(こんちいん)は、東京都港区にある臨済宗南禅寺派の寺院。

見る 八戸藩と金地院 (東京都港区)

蛇口伴蔵

蛇口 伴蔵(へびぐち ばんぞう、文化7年(1810年) - 慶応2年9月8日(1866年10月16日))は、江戸時代の八戸藩士で八戸地方の水利開発に尽力した人物。

見る 八戸藩と蛇口伴蔵

通 (南部藩)

通(とおり)は、南部藩政初期は単に方面や地方を意味する言葉であったが、天和年間(1681~83年)には、代官所統治区域を指した。

見る 八戸藩と通 (南部藩)

陸奥国

陸奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部(鹿角郡)。等級区分で大国の一つ。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。

見る 八戸藩と陸奥国

戊辰戦争

戊辰戦場址碑 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年 / 明治元年〈1868年 〉- 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧江戸幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本近代史上最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。 新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、欧米列強は条約による内戦への局外中立を解除した。これ以降、明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められた。 以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

見る 八戸藩と戊辰戦争

明和

明和(めいわ、)は、日本の元号の一つ。宝暦の後、安永の前。1764年から1772年までの期間、施行された。この時代の天皇は後桜町天皇、後桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。

見る 八戸藩と明和

明治

明治(めいじ、)は元号の一つ。 慶応の後、大正の前。大化以降228番目、244個目南北朝時代の北朝の元号を除くか含めるかによる。の元号。明治天皇の即位に伴い定められた(代始改元)。 明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)これは改元日を起点とする形式的区分であり、改元の詔書による明治の開始日とは異なる(後節参照)。から1912年(明治45年)7月30日までの45年間をと呼ぶ。本項ではこの時代についても記述する。

見る 八戸藩と明治

1871年

この年にドイツが統一されたため、世界史の大きな転換点となった。

見る 八戸藩と1871年

金地院 (東京都港区)蛇口伴蔵通 (南部藩)陸奥国戊辰戦争明和明治1871年