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俳諧と貞門派

ショートカット: 違い類似点ジャカード類似性係数参考文献

俳諧と貞門派の違い

俳諧 vs. 貞門派

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。. 貞門派(ていもんは)は、江戸時代前期の歌人・俳人で連歌も行った松永貞徳(1571年-1654年)によって提唱された俳諧の流派。 貞徳は、俳諧が和歌・連歌を詠むにあたっての基礎であると考え、俗語や漢語などのいわゆる俳言(はいごん)を使うことを主唱した。貞門派の俳風は言葉遊びの域を出ず、その後西山宗因が主張した談林派俳諧に押されるようになるが、江戸時代後期まで影響力を有した。.

俳諧と貞門派間の類似点

俳諧と貞門派は(ユニオンペディアに)共通で8ものを持っています: 俳句俳諧西山宗因談林派連歌松永貞徳正風俳諧江戸時代

俳句

俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされ、十七文字(じゅうしちもじ)、十七音(じゅうしちおん)、十七語(じゅうしちご)とも呼ばれる。俳句の有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句や無季俳句などもある。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。.

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俳諧

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。.

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西山宗因

西山 宗因(にしやま そういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日(1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人・連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。俳号は一幽と称し、宗因は連歌名。生れは肥後国八代(現熊本県八代市) 。談林派の祖。 15歳頃から肥後国八代城代加藤正方に仕えた。正方の影響で連歌を知り京都へ遊学した。里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだが、1632年(寛永9年)主家の改易で浪人となる。1647年(正保4年)大坂天満宮連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。一方では、俳諧に関する活動も行い、延宝年間頃に談林派俳諧の第一人者とされた。俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いたが、宗因は晩年連歌に戻った。 談林派は、言語遊戯を主とする貞門の古風を嫌い、式目の簡略化をはかり、奇抜な着想・見立てと軽妙な言い回しを特色としたが、蕉風の発生とともに衰退した。宗因流。飛体(とびてい) 。阿蘭陀(オランダ) 流ともいわれた。.

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談林派

談林派(だんりんは)は、西山宗因らを中心にして江戸時代に栄えた俳諧の一派。 松永貞徳門下による貞門派に代わって俳壇の中心を占めた。連歌師でもあった西山宗因のほか、浮世草子作者でもある井原西鶴、京の菅野谷高政、江戸の田代松意らが活躍した。後に衰えて松尾芭蕉による蕉風が盛んになる。 談林派の作風は「心付」と呼ばれた。.

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連歌

連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。.

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松永貞徳

松永 貞徳(まつなが ていとく、元亀2年(1571年) - 承応2年11月15日(1654年1月3日))は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者。名は勝熊、別号は長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒(しょうゆうけん)・延陀丸(えんだまる)・保童坊・松友など。他に五条の翁・花咲の翁とも称し、明心居士の号もある。子は朱子学者の松永尺五。 父は松永永種で、母は藤原惺窩の姉。永種は松永久秀の子であったという説がある。また、永種は入江氏の出(入江政重の子)で、久秀の養子であったとも言われる。永種は出家して各地を放浪中であったため、久秀の死に巻き込まれることはなかった。キリシタンとして名を残した内藤如安は、久秀の弟・松永長頼の子であるため、貞徳とは従兄弟という関係になる。.

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正風俳諧

正風俳諧(しょうふうはいかい)とは、松尾芭蕉が大成した俳諧の概念をさすことばである。 もともとは、天文9年(1540年)の秋、荒木田守武が俳諧式目の制定と同時に初めて名付けたことばである。しかし、俳諧という、自然と人生に基礎を置く民衆的な文学を、形式・内容共に純芸術と完成せしめたのは松尾芭蕉であり、芭蕉が主体たる蕉門俳諧は芭蕉自身諸国を行脚し、深く自然と人生に思いを秘め「正風」を弘めたことから、芭蕉の俳諧を指すことばとして用いられるようになり、蕉風俳諧とも書かれるようにもなった。 「正風俳諧は万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味うべき道なり。」とは芭蕉不滅の名言である。 18世紀後半の天明期に、与謝蕪村は、あくまでも正風の真髄を護持しながらも、用語を広く自由に、近代的な感覚、即ち真実を踏まえての自然への感動と、生活への感動とを盛り上げ偉大なる「革新」を図った。 だが、20世紀初頭の明治期に至って、正岡子規をはじめとする、松瀬青々、河東碧梧桐、内藤鳴雪、高浜虚子たちは新聞『日本』に拠って、新派ホトトギスなる結社をおこし、正風打倒を目標としたため、それ以後の俳句は、必ずしも正風を継承しているとはいえなくなっている。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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俳諧と貞門派の間の比較

貞門派が14を有している俳諧は、34の関係を有しています。 彼らは一般的な8で持っているように、ジャカード指数は16.67%です = 8 / (34 + 14)。

参考文献

この記事では、俳諧と貞門派との関係を示しています。情報が抽出された各記事にアクセスするには、次のURLをご覧ください:

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