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五胡十六国時代

索引 五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.

218 関係: 劉和劉コン劉煕劉聡劉裕劉淵劉曜十六国春秋単于南北朝時代 (中国)南燕南涼司馬穎司馬炎司馬騰司馬懿参合陂の戦い吐谷渾夏 (五胡十六国)夏州姚萇姚興孝武帝 (東晋)宣帝 (漢)安徽省宋 (南朝)寿県山川出版社山西省山東省丁零中国中国の歴史中国化三崎良章三国時代 (中国)乞伏国仁并州幽州五胡亀茲仏図澄仏教代 (五胡十六国)建康 (都城)仇池張軌後秦後燕後趙...後蜀 (五胡十六国)後涼後漢匈奴北伐北アジア北燕北魏北涼ヒ水の戦いテイ (民族)テキ遼テキ魏刺史呂光ギョウクーデターケイ台市ショウ縦儒教冉魏冉閔八王の乱元帝 (東晋)光武帝前秦前燕前趙前涼前漢四川省石宣石世石弘石勒石虎王弥王猛王浚禿髪烏孤竺僧朗甘粛省遼西遼東半島華北西秦西燕西涼西晋襄陽市親征馮跋高句麗高雲謝安魏 (三国)鮮卑鳩摩羅什賈南風龍城都督赫連定赫連勃勃赫連昌醢落尸逐テイ単于釈道安長安苻健苻堅苻生苻洪離石区老荘思想柴壁の戦い恵帝 (西晋)李コウ (西涼)李特李雄 (成漢)東方書店東晋桓温楊茂搜檀石槐段部永嘉の乱沮渠蒙遜河北省泰山洛陽市涼州朝貢成漢新羅愍帝 (西晋)懐帝 (西晋)慕容垂慕容徳慕容イ慕容コウ慕容儁慕容恪慕容泓拓跋猗盧拓跋部曹嶷曹丕曹操296年301年304年306年308年310年311年315年316年318年319年328年329年330年333年337年347年349年350年351年352年354年356年360年364年366年370年371年375年376年383年384年385年388年389年392年394年395年397年398年3世紀400年402年403年405年407年409年410年413年414年417年420年421年425年427年431年436年439年506年 インデックスを展開 (168 もっと) »

劉和

劉 和(りゅう か)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の第2代皇帝。後世の史家によって廃帝和とも帝和と称される。新興(現在の山西省忻州市)出身。光文帝劉淵の長男で、生母は匈奴の名門出身の呼延皇后(元勲の呼延翼の娘)。同母弟に劉裕と劉隆がいる。.

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劉コン

劉 琨(りゅう こん 271年 - 318年5月8日(6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。漢の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬顒討伐に大きく貢献し、永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。.

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劉煕

劉 煕(りゅう き)は、五胡十六国時代の前趙の最後の皇太子。字は義光。5代皇帝の劉曜の第3子。母は羊献容。西晋の清河公主の異父弟。.

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劉聡

劉 聡(りゅう そう)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の第3代皇帝。字は玄明。別名を劉載という。新興(現在の山西省忻州市)出身。光文帝劉淵の四男(三男とも)である。母は側室の張夫人(光献皇后に追尊された)。兄に劉和、劉恭、弟に劉裕、劉隆、劉乂がいる。長兄の劉和を殺害して帝位を継ぎ、八王の乱と異民族の流入で混乱に陥った西晋を滅ぼして(永嘉の乱)華北に覇を唱えた。その一方、次第に女色に耽って政治を顧みなくなり、数多くの忠臣を殺害して佞臣を重用した。これにより大いに国力を疲弊させ、漢帝国崩壊の原因を作った。.

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劉裕

劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。.

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劉淵

劉 淵(りゅう えん)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の創建者。唐代に編纂された『晋書』では、高祖李淵の諱を避け、字を用いて劉元海と表記されている。新興(現在の山西省忻州市)出身。一説に西河隰城(現在の山西省汾陽市)出身ともされる。南匈奴の単于を輩出した屠各種攣鞮部の出身で於夫羅の孫、劉豹の嫡子。.

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劉曜

劉 曜(りゅう よう)は、五胡十六国時代の前趙(漢)の第5代皇帝。字は永明。父は劉緑、母は胡氏。弟に劉暉がいる。また、漢の初代皇帝劉淵の族子であり、3代皇帝劉聡の族弟。漢の皇族として、長安を攻め落として西晋を滅ぼした。皇帝に即位すると、靳準の乱を平定して国家を再興し、石勒と華北の覇権を争った。劉淵からは「劉家の千里駒」と呼ばれた。.

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十六国春秋

十六国春秋(じゅうろっこく しゅんじゅう)は、中国の北魏代に撰せられた、五胡十六国時代に関する歴史書である。五胡十六国時代という名称の由来になった。『隋書』「経籍志」によれば、全100巻。.

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単于

単于(呉音:ぜんう、漢音:せんう、拼音:Chányú)とは、匈奴を初めとした北アジア遊牧国家の初期の君主号である。また、単于の妻のことを閼氏(えんし)といい、特定の姻族または漢の公主がこれになった。.

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南北朝時代 (中国)

北魏と宋 北魏と南斉 東西魏と梁 北周、北斉と後梁、陳 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。.

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南燕

南燕(なんえん、398年 - 410年)は、五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容徳によって建てられた国。国号は燕。.

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南涼

南涼(なんりょう、397年 - 414年)は五胡十六国時代に鮮卑禿髪部の禿髪烏孤によって建てられた国。南涼の禿髪氏は拓跋氏から派出したため、この国は拓跋涼国とも称される。.

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司馬穎

司馬 穎(しば えい、279年 - 306年)は、中国西晋時代の皇族で、八王の乱の八王の一人。字は章度。武帝司馬炎の16子、恵帝司馬衷の異母弟、懐帝司馬熾の異母兄。母は程才人。.

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司馬炎

司馬 炎(しば えん)は、西晋の初代皇帝。諡号は武帝。 魏から禅譲を受けて晋を建て、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。.

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司馬騰

司馬 騰(しば とう、? - 307年)は、中国西晋の皇族。字は元邁。司馬懿の四弟である司馬馗の孫で高密王司馬泰の子。兄に八王の乱を終結させた東海王司馬越、弟に司馬略、司馬模らがいる。子は司馬虞・司馬矯・司馬紹・司馬確ら。.

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司馬懿

司馬 懿(しば い、179年 - 251年9月7日)は、後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。.

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参合陂の戦い

参合陂の戦い(さんごうはのたたかい)は、中国の南北朝時代に参合陂(現在の山西省陽高県の東北)において起こった北魏軍と後燕軍の間の戦いである。.

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吐谷渾

吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。.

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夏 (五胡十六国)

夏(か、407年 - 431年)は、五胡十六国時代に匈奴鉄弗部の赫連勃勃(劉勃勃)によって建てられた政権。一般に「大夏」と呼ばれる。別名「胡夏」「劉夏」。.

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夏州

夏州(かしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から元代にかけて、現在の陝西省楡林市一帯に設置された。.

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姚萇

姚 萇(よう ちょう)は、五胡十六国時代の後秦の創建者で、羌の出身。 父の姚弋仲は羌の勢力を率いる後趙の将であった。兄の姚襄が羌の勢力を受け継いで独立を試みたが、前秦の苻堅と戦って敗死した。姚萇はこの後に苻堅に降ったが、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると独立して苻堅を弑し、後秦を建国した。姚萇時代の後秦はおもに西燕の慕容沖や前秦の残党の苻登と戦った。.

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姚興

姚 興(よう こう)は、五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。羌の出身で、姚萇の子。諡号は文桓皇帝だが、在位のほとんどは皇帝ではなく天王を名乗った。 姚興は前秦の残党勢力を滅ぼし、一時的に西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀を形式上は従えて華北の西部に巨大な勢力を築き上げた。姚興の没後の後秦は、赫連勃勃の独立や皇位をめぐる親族の争いにより実質的に滅んだ。姚興は熱心な仏教徒であり、仏教が中国において国の支援を受けたのは姚興の後秦が初めてである。401年、後涼で暮らしていた仏僧の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を常安(長安)に迎え入れた。.

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孝武帝 (東晋)

孝武帝(こうぶてい)は、東晋の第9代皇帝。簡文帝の第6子。司馬氏、諱は曜。字は昌明。.

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宣帝 (漢)

宣帝(せんてい)は、前漢の第9代皇帝。武帝の曾孫。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ、中宗の廟号を贈られた。その数奇な生涯から逸話が多い。.

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安徽省

安徽省(あんきしょう、アンホイしょう、中国語:安徽省、拼音:Ānhuī Shěng、英語:Anhui)は、中華人民共和国の省。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。.

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宋 (南朝)

宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。.

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寿県

寿県(じゅけん)は中華人民共和国安徽省淮南市に位置する県。 安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、壽春、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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山西省

山西省(さんせいしょう、中国語:山西省、拼音:Shānxī Shěng、英語:Shanxi)は、中華人民共和国の行政区分の一つ。省都は太原市。略称は晋。.

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山東省

山東省(さんとうしょう、中国語:山东省、拼音:Shāndōng Shěng、英語:Shandong)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は周代の国名より魯。山東とは太行山脈の東方の意。北には渤海、東には黄海があり、黄河の下流に位置する。人口9579.3万人、面積157,126平方キロメートル。省都は、済南。他に青島、泰安などの主要都市がある。.

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丁零

丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族。丁令,丁霊,勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀~6世紀では高車、6世紀~8世紀では鉄勒(てつろく)とも呼ばれた。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中国の歴史

中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)とは、中国または中国大陸における歴史のこと。 中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。 なお、その対象は、中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。.

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中国化

中国化(ちゅうごくか、英語:Chinalization)は、一つの国家または民族が言語的、文化的に中華文化に同化される、特に中華民族の根幹を成す漢民族(漢族、漢人)が周辺民族を同化及び融合する過程を指す、漢化(かんか, 英語:Sinicization, Sinicisation or Sinification)やシニサイゼーションともいう。 中国化は中国の歴史において絶え間なく発生し、中国の歴史そのものとも言える。漢族は高度な政治、経済文化、優越な地理条件、圧倒的な人口の優勢を持ち、それ故にこの民族融合の過程の中核的存在であり続けた。.

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三崎良章

三崎 良章 (みさき よしあき、1954年 - )は、日本の歴史学者、教員。東アジア史専攻。埼玉県深谷市出身。.

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三国時代 (中国)

三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指し、最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。 229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立し、中国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』及びさらに後世の三国時代を扱った書物によって広く知られている。.

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乞伏国仁

乞伏 国仁(きつぶく こくじん)は、五胡十六国時代の西秦の創建者。隴西鮮卑人。在位期間中、正式には秦王を称していない。 父である乞伏司繁は前秦の苻堅より南単于に封じられており、前秦建元12年(376年)に司繁が死去すると国仁がその地位を継承した。建元19年(383年)淝水の戦いに際し、苻堅は国仁を前将軍に任じ作戦に参加させている。 前秦の臣下としての国仁であるが、叔父である頹が隴西で反乱を起こすと転機を迎える。当初苻堅は国仁を征討軍に任じたが、歩頹が国仁を迎え入れたことで、国仁は淝水の戦で国勢が傾いていた前秦の政治情勢に乗じその他部族を統合してしまう。前秦太安元年(385年)、苻堅が姚萇により殺害されると、国仁は大都督・大将軍・大単于・領秦河二州牧を自称し、独自の元号として建義を建て、勇士城(現在の甘粛省楡中県)を都に定め西秦政権を樹立した。 建義4年(388年)に国仁が薨去すると弟の乞伏乾帰がその地位を継承した。 こくしん Category:4世紀生 Category:388年没 Category:前秦の人物.

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并州

并州(へいしゅう)は中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『周礼』では「正北」すなわち中原から真北側にあたる地域であるとし、五岳の一である恒山を山鎮とするとしている。.

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幽州

幽州(ゆうしゅう)は、中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』、『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。.

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五胡

五胡(ごこ)は、中国の3~4世紀に、北方や西方から中国に移住した匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族(少数民族)を指す。これらの部族が五胡十六国時代に次々と中国北部を中心に国家を建てた晋代ごろから使われ始めた三崎、章2.2「『五胡』」P31-37。 五胡十六国時代に国を建てた少数民族はこの5つ以外にもおり、五という数字に実数の意味はない。五胡が匈奴・鮮卑・羯・氐・羌を指すことが一般化したのは十三世紀ごろである可能性が高い。また、この5つの民族のみでなく3~4世紀ごろに移住した少数民族の総称として使用されることもある。.

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亀茲

亀茲(きじ、きゅうし、拼音:Qiūzī)は、かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区クチャ県(庫車県)付近にあたり、タリム盆地の北側(天山南路)に位置した。丘茲、屈茲とも書かれ、玄奘の『大唐西域記』では屈支国(くつしこく)と記されている。 紀元前1世紀の西域諸国。.

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仏図澄

仏図澄(ぶっとちょう、skt:buddhacinga、232年 - 349年1月13日(永和4年12月8日))は中国の神異僧の第一に挙げられる、五胡十六国時代の西域からの渡来僧。姓は帛、亀茲国の出身であるという。烏萇で出家したのち、罽賓で仏学の研鑚に励んだ。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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代 (五胡十六国)

代(だい、拼音:)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続いた。.

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建康 (都城)

建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。 三国の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬鄴)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。.

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仇池

仇池(きゅうち)は、後漢の建安年間に氐人の楊騰が部衆を率いて樹立した地方政権。西晋時代の八王の乱期に本格的に独立し、五胡十六国時代に割拠した勢力である。仇池とは嘉陵江の支流西漢水上流の地名で現在の甘粛省成県に当たる。.

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張軌

張 軌(ちょう き 255年 - 314年)は、五胡十六国時代の前涼の創建者。安定郡烏氏県(現在の甘粛省平涼市涇川県)の人。父は太官令の張温。母は隴西郡の辛氏。祖父は外黄県令の張烈。前漢初期の趙王張耳の17世孫に当たると伝わる。.

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後秦

後秦(こうしん、384年 - 417年)は、中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦(ようしん)とも呼ばれる。.

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後燕

後燕(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国の五胡十六国時代に存在した国(384年 - 407年)。華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された。中山(河北省定県)に都し、華北東部と遼西を領有した。.

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後趙

後趙(こうちょう、ごちょう、、319年 - 351年)は、中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単に趙(ちょう)であるが、同時代に劉淵によって建てられた同じく国号を趙とする国があるために、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別する。また、石氏の王朝のために石趙(せきちょう)とも呼ばれる。.

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後蜀 (五胡十六国)

後蜀(こうしょく)は、五胡十六国時代に東晋の漢人の譙縦により建国された政権であり、別に譙蜀とも言う。統治範囲は蜀(現在の四川省)に相当する。通常「五胡十六国」の十六国には数えられない。.

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後涼

後涼(こうりょう、拼音:Hòu-liáng、384年 - 403年)は、中国の五胡十六国時代に氐族出身の呂光によって建てられた国。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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匈奴

匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.

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北伐

北伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。.

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北アジア

北アジア(きたアジア)は、ユーラシア大陸のアルタイ山脈以北を指し、シベリアを主とする地域をいう。 モンゴルおよびロシア(ウラル連邦管区、シベリア連邦管区、極東連邦管区の各連邦管区)の領土が含まれるが、モンゴルおよびロシア極東部は東アジアの一部とされることや、東アジアと併せて北東アジアとされることもある。中華人民共和国東北部(旧満州)の一部や内蒙古、カザフスタン北部を北アジアに含むこともある。 Phillips "Illustrated Atlas of the World"による北アジアの定義は旧ソ連とされる。.

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北燕

北燕(ほくえん)は、中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ(407年 - 436年)。 鮮卑化した漢人将軍馮跋が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。首都は黄龍府すなわち龍城(遼寧省朝陽市)。主に遼西地方を領有した。南朝の宋からは「黄龍国」と呼ばれることもあった。.

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北魏

北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.

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北涼

北涼(ほくりょう、397年5月 - 439年9月)は、五胡十六国時代に甘粛省に存在した国。建国者は段業だが、実質的な創始者は盧水胡の沮渠蒙遜である。国号は涼(りょう)。.

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ヒ水の戦い

淝水の戦い(ひすいのたたかい)は、中国の五胡十六国時代に、華北の前秦軍と江南の東晋軍とが383年に淝水(現在の安徽省寿県の南東)で激突した戦い。淝はさんずいに肥。.

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テイ (民族)

氐(てい、拼音:Dī/Dǐ)は、かつて中国の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。.

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テキ遼

翟 遼(てき りょう、拼音:Dí Liáo、? - 391年)は、五胡十六国時代の丁零族の首長。翟魏を建国し、その初代天王(在位: 388年 - 391年)となった。『晋書』では翟真の子、『資治通鑑』では翟真の従兄となっている。.

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テキ魏

翟魏(てきぎ/たくぎ、388年 - 392年)は、五胡十六国時代に丁零(テュルク系遊牧民族)の翟遼が滑台(現在の河南省の黄河南岸)に建てた政権である。領土が小さく、期間も短ったため通常「五胡十六国」の十六国には数えられない。 丁零の勢力は後燕、西燕、東晋等の国に従っていたが、388年に後燕の慕容垂との関係修復に失敗すると翟遼が独立して魏天王を名乗った。392年、翟遼の子の翟釗の代に後燕に滅ぼされた。.

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刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

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呂光

呂 光(りょ こう)は、五胡十六国時代の後涼の創始者。略陽郡(現在の甘粛省天水市)の氐人。前秦の太尉の呂婆楼の子。 当初は前秦の部将で西域討伐を命じられていたが、383年に前秦が淝水の戦いにより衰退すると後涼を建国した。後涼は南涼や北涼が独立してから不安定になり、呂光の死の数年後には滅亡した。中国では呂布と併称される呂氏の猛将として、呂氏の族譜に掲載されることが多い。.

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ギョウ

鄴(ぎょう、業におおざと)は中国の歴史的地名。後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉の各王朝の都となった。大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県にあたり、河南省安陽市にまたがっている。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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ケイ台市

邢台市(けいだい-し)は中華人民共和国河北省に位置する地級市。清代には順徳府が置かれ、1912年には大名道が作られた交通の要衝であった。.

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ショウ縦

譙 縦(しょう じゅう)は、一代で滅んだ五胡十六国時代の後蜀の創始者である。当初は東晋に仕え、独立してからは後秦を頼ったが東晋に滅ぼされて自殺した。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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冉魏

冉魏(ぜんぎ、拼音:Rǎnwèi、350年 - 352年)は、中国の五胡十六国時代に漢族の冉閔によって建てられた国。国号は単に魏だが、複数の時代に魏を国号とする国があるために、冉閔の魏を冉魏と呼んで区別する。.

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冉閔

冉 閔(ぜん びん、? - 352年)は、五胡十六国時代冉魏の君主。字は永曾。小字は棘奴。漢人であり、本貫は魏郡内黄県(現在の河南省内黄県の北西)。後趙3代皇帝石虎の養孫であり、西華侯冉瞻の子。元の名は石閔であり、次いで李閔と改め、その後父祖代々の姓である冉閔に改めた。石虎死後の後継争いの中で次第に台頭し、6代皇帝石鑑の時代に国号を衛と改めて政権を掌握した。さらに、後趙の皇室を始めとした胡人を大量に虐殺すると、自立して漢人政権である冉魏を打ち立てた。その後、後趙の残党である石祗らを滅ぼして中原に覇を唱えたが、前燕の慕容恪に敗北して処刑された。.

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八王の乱

八王の乱(はちおうのらん)は、中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。西晋は100年に渡る三国時代に終止符を打って全土を統一したが、その平穏はわずか数10年で崩れ去った。この後、中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代を迎える事となる。.

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元帝 (東晋)

元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。諱は睿、字は景文。宣帝司馬懿の曾孫、琅邪武王司馬伷の孫に当たる。また、母方を通して夏侯淵の玄孫でもある。.

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光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.

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前秦

前秦(ぜんしん、、 351年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。 一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。.

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前燕

前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑族の慕容皝によって建てられた国。国号は単に燕だが、同時代に同じく国号を燕とする国が4つあるため、一番初めに建てられたこの国を前燕と呼んで、区別する。.

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前趙

前趙(ぜんちょう、、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。劉趙、漢趙とも呼称される。.

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前涼

前涼(ぜんりょう、拼音:Qiánliáng、301年 - 376年)は、中国の五胡十六国時代に漢族の張軌によって建てられた国。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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四川省

三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.

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石宣

石 宣(せき せん、314年以降 - 348年)は、後趙の皇帝(天王)石虎の2番目の天王太子。母は2番目の天王后杜珠。.

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石世

石 世(せき せい)は、五胡十六国時代の後趙の第4代皇帝。 349年に石虎が死去すると即位した。在位33日間で退位させられた後は譙王とされた。.

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石弘

石 弘(せき こう)は、五胡十六国時代の後趙の第2代皇帝。明帝石勒の次男。石勒の後を継いで333年に即位したが石虎の傀儡状態で、翌年に石虎に簒奪された後は海陽王とされた。.

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石勒

石 勒(せき ろく、274年 - 333年8月)は、五胡十六国時代の後趙の創建者。字は世龍。上党郡武郷県(現在の山西省楡社県の西北)出身の羯族であり、匈奴別部の羌渠の血を引いている。元の名を㔨と言い、幼名は匐勒と言った。祖父は耶弈于、父は周曷朱(又の名を乞翼加)。前趙の将軍として各地を攻略し、王浚・劉琨・段匹磾・曹嶷といった敵対勢力を次々と滅ぼした。劉聡の死際には後事を託されたが、劉曜と対立すると自立して後趙を樹立し、前趙を滅亡に追いやって華北に覇を唱えた。奴隷から皇帝まで昇った、中国史上唯一の人物。.

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石虎

石 虎(せき こ)は、五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父である李虎の諱を避けるため、字の季龍を用いて石季龍と記されている。石勒(後趙の初代皇帝・明帝)の従子(甥もしくは1世代下の親族)であり、石勒の没後、石弘から帝位を奪って皇帝になった。 石虎は将として有能だったことから石勒に信頼され、後趙の華北周辺の平定に多大な貢献をした。しかし同時にその暴虐さでも知られ、後趙の天王を称した際には非道な法律、重い税金と労働を課し、それを大宮殿を建てたり妾を集めることに費やした。その没後は、子の石祗らと養孫の冉閔が後継争いを繰り広げ、後趙の崩壊を早めた。.

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王弥

王 弥(おう び、? - 311年)は、中国五胡十六国時代の漢(前趙)の軍人。魏~西晋に仕えた汝南太守王頎の孫。東莱郡の人。劉淵の配下として洛陽攻略などの功績を挙げたが、石勒と対立して殺害された。.

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王猛

王 猛(おう もう、325年 - 375年)は五胡十六国時代前秦の宰相。字は景略。北海郡劇県(現在の山東省濰坊市昌楽県)の出身。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で、華北統一に貢献した。.

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王浚

王 浚(おう しゅん、252年 - 314年)は、中国・西晋末から五胡十六国時代の将軍・政治家。字は彭祖。太原晋陽の出身。父は西晋の驃騎将軍王沈、母は趙氏。妻は崔毖の娘。幽州で地盤を確立し、前趙の石勒を阻んだが、晩年には晋朝を蔑ろにして自ら皇帝即位を目論んだ。.

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禿髪烏孤

禿髪 烏孤(とくはつ うこ)は、五胡十六国時代の南涼の初代王。.

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竺僧朗

僧朗(じく そうろう、生没年不詳)は、中国で4世紀に活躍した僧である。.

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羯(けつ)は、4世紀の中国北部の山西に存在した小部族。その派生については匈奴の他、小月氏であるとも言われる。五胡十六国時代に石勒の統治によって後趙を建てた。羯人は後趙が滅んだ350年頃の漢人の冉閔の大虐殺によりほぼ歴史から姿を消した。.

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後漢末期(198年頃)の羌族の位置 羌(きょう、)は、古代より中国西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。.

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甘粛省

粛省(かんしゅくしょう、中国語:甘肃省、拼音:Gānsù Shěng、英語:Gansu)は、中華人民共和国北西部にある省級行政区である。省都は蘭州市。.

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遼西

遼西(りょうせい、拼音:Liáoxī)は中国東北地方の遼河以西地域を指す歴史的地名。現在の遼寧省西部地域、錦州、朝陽、阜新一帯。 遼河以東は遼東と称した。 古くから東胡系遊牧民族の住居地で、五胡十六国時代には鮮卑慕容部の本拠地となり、前燕、北燕などの国家が形成された。.

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遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、中国語簡体字:辽东半岛 Liáodōng Bàndăo)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。.

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華北

華北地域 華北(かほく、North China)とは、中国北部地域の呼称である。華北平原とは、多分に重なるが、必ずしも完全に一致しない。.

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西秦

西秦(せいしん、拼音:Xī-qín、385年 - 431年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑乞伏部の乞伏国仁によって建てられた国。.

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西燕

西燕(せいえん、拼音:Xī-yàn、384年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容泓によって建てられた国。短命だったので十六国に数えられていない。ただし前燕の嫡流にあたり、他の燕朝より最も前燕に近い血統の王朝である。.

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西涼

西涼(せいりょう、400年11月 - 421年3月)は、五胡十六国時代に漢族の李暠によって建てられた王朝。首都は敦煌(405年から420年は酒泉)。.

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西晋

西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.

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襄陽市

襄陽市(シアンヤンし、じょうようし)は、中華人民共和国湖北省に位置する地級市。2010年12月、襄樊市から襄陽市に改名された。旧名・襄樊の名は、襄陽、樊城から得ている。漢水(漢江)の重要な内陸河川港。.

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親征

親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。.

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馮跋

馮 跋(ふう ばつ)は、五胡十六国時代の北燕の第2代天王。 漢族出身の後燕の将軍であったが、慕容熙を殺害して高句麗出身の慕容雲(高雲)を擁立し、北燕を立てた。慕容雲が近臣に殺された後、馮跋が北燕の天王の位についた。南朝宋へ入朝した。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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高雲

雲(こう うん、不詳 - 409年)は、五胡十六国時代の後燕の皇帝、または北燕の初代天王。高句麗の王族の出身。 後燕では慕容会の反乱を鎮圧する等の武功を立てて慕容宝の養子となり、慕容雲(ぼよう うん)と名乗った。407年、暴君の慕容熙を殺すと、馮跋に擁立されて燕王となり、高姓に戻した。409年、近臣に殺されて馮跋が政権を継いだ『晋書』巻125「慕容雲載記」。 『三国史記』には、黄帝の孫、顓頊高陽氏の子孫であるという考えゆに「高」姓を付けたとあり、中国の英雄顓頊高陽氏の子孫だとしていた。.

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謝安

謝 安(しゃ あん、Xiè Ān、320年 - 385年)は、中国東晋の政治家。字は安石。高家、陳郡謝家の出身。桓温の簒奪の阻止、淝水の戦いの戦勝など、東晋の危機を幾度となく救った。謝裒の三男で謝奕、謝拠の弟、謝万、謝石、謝鉄の兄。謝尚の従弟。子に謝琰。.

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魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.

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鮮卑

鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.

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鳩摩羅什

鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、、クマーラジーヴァ、344年 - 413年「世界大百科事典 第2版」2006年 平凡社、一説に350年 - 409年とも)、亀茲国(きじこく)(新疆ウイグル自治区クチャ県)出身の西域僧、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧である井波律子(編集)「中国史重要人物101」2005年 新書館 ISBN 4403250203。最初の三蔵法師。のちに玄奘など、多くの三蔵法師が現れた。時にのちの玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。三論宗・成実宗の基礎を築く。 漢名の鳩摩羅什(くまらじゅう)はサンスクリット名のクマーラジーヴァの音写である。略称は羅什(らじゅう)または什(じゅう)。.

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賈南風

賈 南風(か なんぷう、257年 - 300年)は、中国西晋の恵帝の皇后。幼名は峕。平陽郡襄陵県(山西省襄汾県)の人で、父は賈充。母は郭槐。.

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龍城

龍城(りゅうじょう)は遼寧省西部(遼西)の朝陽市域に所在した前燕、後燕、北燕(あわせて三燕という)の都城。 十六国の混乱のなか遼西、遼東方面に覇を唱えた東部鮮卑の慕容皝は337年に燕王を自称したが、341年に建康(南京)に使者を送って、東晋から燕王の称号を公認されると、翌年柳城の北、龍山の東に龍城を建設し、都城とした。柳城は古来より華北と東北地域を結ぶ軍事交通上の要衝である。慕容皝はこの地に都城を築くことで中国化を図り、華北雄飛の根拠地とした。 354年に皇帝を称した慕容儁は都を薊城(北京)に移し、龍城には留台を置いた。やがて前燕は西方に起こった前秦と対立し、370年に前秦の苻堅に滅ぼされる。383年には淝水の戦いで敗れた前秦が崩壊するなかで後燕を樹立した慕容垂は華北の中山を都とし、龍城を陪都とした。397年に北魏の攻勢に押された後燕王慕容宝は龍城に逃げ帰り、以後は遼西に留まる。 407年に後燕を簒奪した北燕も龍城を都城とし、436年に北魏に滅ぼされるまで変らなかった。 この地域の鮮卑系文化は黄金文化や騎馬文化など朝鮮半島や日本列島の古代文化に大きな影響を与えた。この地域の墳墓から出土した器物と同様のものが日本の墳墓からも出土している。 Category:中国の歴史的地域 Category:中国の考古遺跡 Category:中華人民共和国の古都 Category:五胡十六国の文物 Category:朝陽の歴史 Category:歴史上の都市.

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都督

都督(ととく)とは中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した。.

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赫連定

赫連 定(かくれん てい)は、五胡十六国時代の夏の第3代皇帝。 第2代皇帝赫連昌の弟。428年に赫連昌が北魏に捕らえられると即位して抵抗したが、430年には夏の領土をほとんど失った。431年、西方の北涼を攻撃して領土を確保しようとしたが、途中で吐谷渾の慕璝に裏切られて北魏に捕らえられ、夏は滅亡した。432年、北魏の太武帝に送られて処刑された。.

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赫連勃勃

赫連 勃勃(かくれん ぼつぼつ、音訛して赫連佛佛とも『釈氏通鑑』等仏教説話)は五胡十六国時代の夏(大夏・北夏・胡夏)の創建者。匈奴の出身で、劉衛辰の三男である。当初は劉勃勃と名乗り、没後は武烈皇帝と諡された。後世の北魏の太武帝が卑下して改名したため、『魏書』では赫連屈丐(屈孑)という表記が用いられている『魏書』「列伝第八十三 - 鉄弗劉虎」巻95。 赫連勃勃は後秦から独立して夏の政権を建て、騎馬攻撃により後秦の国力を疲弊させることで滅亡に追い込んだ。その後は東晋の劉裕や北魏と対立した。晩年は皇位を巡って子の赫連璝、赫連倫、赫連昌らが争った。聡明で美しい容貌であったが残虐で信義に欠け、快楽殺人者であったと史書に記される『晋書』「赫連勃勃載記」巻130。.

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赫連昌

赫連 昌(かくれん しょう)は、五胡十六国時代の夏の初代皇帝赫連勃勃の第3男で、第2代皇帝。 赫連勃勃の部将として活躍し、424年の後継争いで太子を殺した廃太子を討ち取って自分が太子となった。425年に即位すると、北魏に敗れ、427年に都統万城を落とされ安定に遷都し、翌年秦州に奔った所を捕らえられた。太武帝の庇護下で会稽公となり(428年 - 430年)始平公主を娶り、次いで秦王となった(430年 - 434年)。434年に後継の弟の赫連定が殺されて夏が滅亡すると、謀反と西走を試み誅殺された。.

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醢落尸逐テイ単于

醢落尸逐鞮単于(かいらくしちくていぜんう、ピンイン:Hǎiluòshīzhúdīchányú, ? - 56年)は、中国後漢時代の南匈奴の初代単于。呼韓邪単于の孫で、烏珠留若鞮単于の子。醢落尸逐鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は比という。祖父にあやかり呼韓邪単于と名乗った。湖邪尸逐侯鞮単于の父。.

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釈道安

釈 道安(しゃく どうあん、 314年 - 385年)は、五胡十六国時代の僧であり、中国仏教の基礎を築いた大功労者である。.

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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苻健

苻 健(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の初代皇帝。.

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苻堅

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91。 氐族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した羌族の部下姚萇に殺害された。.

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苻生

苻 生(ふ せい)は、五胡十六国時代の前秦の第2代皇帝である。苻洪の孫で初代皇帝苻健(高祖・景明帝)の第3子である。次兄は夭折したという。諡は厲。ただし、死の直前において王に貶降されているため、諡号としては「厲王」となる。.

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苻洪

苻 洪(ふ こう、284年頃 - 350年3月)は、五胡十六国時代前趙・後趙の人物であり、前秦の実質的な創建者。字は広世。元の名は蒲洪。略陽郡臨渭県(現在の陝西省漢中市略陽県)出身の氐族酋長。前秦の初代皇帝苻健・丞相苻雄の父である。.

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離石区

離石区(りせき-く)は中華人民共和国山西省呂梁市に位置する市轄区。.

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老荘思想

老荘思想(ろうそうしそう)は、中国で生まれた思想。道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。 老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。 『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれた。玄学は魏の王弼・何晏、西晋の郭象らが創始した。.

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柴壁の戦い

柴壁の戦い(さいへきのたたかい)は、中国の五胡十六国時代末期の402年5月に北魏と後秦との間で起こった合戦である。柴壁とは現在の山西省襄汾県である。.

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恵帝 (西晋)

司馬衷(しば ちゅう、259年 - 307年)は、西晋の第2代皇帝。字は正度。正式な諡号は孝惠皇帝だが、一般的に恵帝と呼称される。武帝司馬炎の次男。母は楊艶。.

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李コウ (西涼)

李 暠(り こう)は、五胡十六国時代の西涼の創始者。諡号は武昭王。.

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李特

李 特(り とく、? - 303年)は、西晋末年に活動した流民集団の首領であり、事実上の成漢建国の祖である。字は玄休。巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。父は東羌猟将の李慕。兄に李輔、弟に李庠と李流と李驤がいる。.

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李雄 (成漢)

李 雄(り ゆう、274年 - 334年)は、五胡十六国成漢の初代皇帝。字は仲儁。父は成漢の基礎を築いた李特。母は羅氏。兄に李始、李蕩がいる。巴氐族(巴賨族)の出身であり、略陽郡臨渭(甘粛省秦安県の東南)の人。.

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東方書店

東方書店(とうほうしょてん)は、東京都にある中国関係書籍専門書店、中国関係図書出版社。 1951年(昭和26年)、前身の極東書店が操業開始。1966年に極東書店から中国部門が分離独立して東方書店(株)を創立。当初から日中出版文化の交流が目的であった。 本店は神田神保町にあり、日本国内の代表的中国関係書籍専門書店である。大阪府吹田市には関西支社がある。 出版部門は、中国語や韓国語の辞典・テキスト・参考書、中国をテーマとする東方選書、教養啓蒙書・専門書など幅広い出版活動を行っている。 1975年9月に創刊した月刊誌『東方』は東方書店のPR誌であるが、毎号学術面に重点を置いた中国関係図書書評および中国関連エッセイを掲載し、中国関係学術情報の重要な媒体となっている。.

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東晋

前涼・前秦・前燕と東晋。 東晋(とうしん、)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。.

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桓温

桓 温(かん おん、312年 - 373年)は、東晋の政治家・軍人。字は元子。譙国竜亢(現在の安徽省懐遠県)の出身。父は宣城郡太守桓彝。母は孔憲。後漢の儒学者桓栄の後裔であるという。東晋の将軍として、成漢を滅ぼし、洛陽を奪還する等の大功を挙げた。東晋を牛耳るようになると禅譲を目論んだが、周囲の反対に逢い失敗した。.

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楊茂搜

楊 茂搜(よう もそう)は、前仇池の初代君主。本姓は令狐。養父は楊飛龍三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P78。子に楊難敵、楊堅頭。.

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檀石槐

檀石槐(呉音:だんじゃくえ、漢音:たんせきかい、拼音:Tánshíhuái、生没年不詳)は、後漢末期の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。投鹿侯の子。和連の父。魁頭,扶羅韓,歩度根,騫曼らの祖父、泄帰泥の曾祖父。.

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段部

段 部(だん ぶ、拼音:Duàn Bù)は、中国の西晋時代から五胡十六国時代にかけて遼西地域(現在の北京市周辺)に存在した鮮卑の一部族。.

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永嘉の乱

永嘉の乱(えいかのらん)は、中国西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉(307年 - 312年)から呼ばれているが、この反乱が実質的に開始されたのは304年かそれ以前であり、一応の終焉を見せたのは316年である。この乱により西晋は滅亡した。.

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沮渠蒙遜

沮渠 蒙遜(そきょ もうそん)は五胡十六国時代の北涼の第2代王。北涼の実質的建国者。.

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河北省

河北省(かほくしょう、中国語:河北省、拼音:Héběi Shěng、英語:Hebei)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。省都は、石家荘市。河北の省名は、黄河の北にあることに由来する。河北省の旧称冀州から、略称は冀。.

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泰山

泰山(たいざん)は、中華人民共和国山東省泰安市にある山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。 封禅の儀式が行われる山として名高い。 道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつ。華北平原の丘陵を見下す雄健かつ壮観な絶頂は五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも景仰される春秋時代以来の伝統がある。一例として泰山地震は天下の大事であった。ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。また「泰山国家地質公園」としてジオパークにも指定されており、ユネスコの世界ジオパークネットワークにより認定されている。.

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洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

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涼州

涼州(りょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省、寧夏回族自治区一帯に設置され、現在では甘粛省の別称となっている。.

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朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.

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成漢

成漢(せいかん、、304年 - 347年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。巴氐族(氐族の一種)の李雄により建国された。当初の国号は大成であったが、李寿の時代に漢に改めた事から、併せて成漢と呼称される。また、後蜀(ごしょく)とも記載される三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P53。.

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新羅

新羅(しらぎ/しんら、前57年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。 朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。.

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愍帝 (西晋)

司馬 鄴(しば ぎょう、300年 - 318年)は、西晋の第5代皇帝。字は彦旗。正式な諡号は孝愍皇帝だが、一般的に愍帝と呼称される。武帝司馬炎の孫。父は呉王司馬晏。母は荀氏(荀勗の娘)。兄に淮南王司馬祥、弟に済南王司馬固、済陰王司馬衍がいる。.

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懐帝 (西晋)

司馬 熾(しば し、284年 - 313年)は、西晋の第4代皇帝。字は豊度。正式な諡号は孝懐皇帝だが、一般的に懐帝と呼称される。武帝司馬炎の25子。母は王媛姫。.

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慕容垂

慕容 垂(ぼよう すい、)は、五胡十六国時代の後燕の創建者。 当初は前燕の皇族で、桓温を撃退するなど活躍したが、奸臣の慕容評等に命を狙われて前秦に亡命した。383年に前秦が淝水の戦いで大敗すると自立して前燕の復興として後燕を建国した。395年、太子の慕容宝が参合陂の戦いで大敗すると自ら反撃したが退軍中に病を患って死去した。.

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慕容徳

慕容 徳(ぼよう とく)は五胡十六国時代の南燕の初代皇帝。前燕の建国者慕容皝の子。.

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慕容イ

慕容 暐(ぼよう い、拼音:Mùróng Wĕi)は、五胡十六国時代の前燕の第3代君主。苻堅の攻撃を受け、前燕が滅亡した際の皇帝である。.

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慕容コウ

慕容 皝(ぼよう こう、)は、五胡十六国時代の前燕の初代王。字は元真。昌黎郡棘城県の人。鮮卑慕容部の大人で、慕容廆の三男。兄に慕容翰、弟に慕容仁、慕容昭、慕容評、慕容幼などがいる。.

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慕容儁

慕容 儁(ぼよう しゅん、拼音:Mùróng Juàn / Jùn)は、五胡十六国時代の前燕の第2代君主。当初は燕王を自称したが(在位:349年 - 352年)、後に皇帝を称した(在位:352年 - 360年)。太祖慕容皝の次男で慕容恪、慕容垂、慕容納、慕容徳の兄。.

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慕容恪

慕容 恪(ぼよう かく、不詳 - 367年5月)は、五胡十六国時代の前燕の政治家・武将である。太原桓王。字は元恭。鮮卑慕容部の出身であり、昌黎郡棘城県(現在の遼寧省義県の北西)の人。慕容皝の第4子で、兄に慕容儁、弟に慕容垂・慕容徳がいる。前燕の中原進出に大きく貢献し、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国随一の名将であると評される。.

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慕容泓

慕容 泓(ぼよう おう、? - 燕興元年(384年))は、五胡十六国時代の西燕の創始者。前燕の第2代皇帝慕容儁の子で、慕容暐の弟である。燕王あるいは燕帝を自称していないが、独自の元号を立てて自立しており、実質的な西燕の建国者とされている。.

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拓跋猗盧

拓跋猗盧(たくばつ いろ、拼音:Tuòbá Yīlú、? - 316年)は、鮮卑族拓跋部の大人で、五胡十六国時代の代国の初代王(在位:315年 - 316年)である。父は拓跋沙漠汗。兄は拓跋猗㐌、弟は拓跋弗。北魏の道武帝より穆皇帝と追諡された。劉琨と協力し、晋朝復権のために漢朝と生涯争い続けた。.

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拓跋部

拓跋部(たくばつぶ、)は、鮮卑族の一部族で、華北に北魏などの王朝を建てた。托跋部、索頭部、索虜などとも表記される。.

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曹嶷

曹 嶷(そう ぎょく、? - 323年)は、中国五胡十六国時代の人物。東莱郡の人。青州で一大勢力を築き上げ、前趙・後趙・東晋と様々な国家に服属しながら12年にわたって割拠した。.

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曹丕

曹 丕(そう ひ)は、三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。.

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曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.

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296年

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301年

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304年

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306年

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308年

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310年

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318年

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333年

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337年

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385年

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392年

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394年

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395年

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397年

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398年

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3世紀

ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像で、平伏するローマ皇帝ウァレリアヌスと騎乗のサーサーン朝皇帝シャープール1世が浮き彫りにされている。 3世紀(さんせいき)は、西暦201年から西暦300年までの100年間を指す世紀。.

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400年

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402年

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403年

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405年

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407年

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409年

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417年

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420年

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