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クビライ

索引 クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

227 関係: 南宋合川区大理国大都天山ウイグル王国姚枢孝経孔子尚書尚書省山東省上都中央アジア中央公論新社中公文庫中国中統中書省三別抄三省六部平凡社交鈔仏教仮名 (文字)佐口透御史台忠烈王北京市北条時宗 (NHK大河ドラマ)ナヤンペルシア語ミャンマーノムガンマルコ・ポーロマルコ・ポーロ 大冒険マルコ・ポーロ シルクロードの冒険マンガラマジャパヒト王国チャンパ王国チャブイチャガタイ・ハン国チンキムチンギス・カンチベットチベット仏教チベット文字ハーンバヤン (バアリン部)バーサンジャブ...バトゥムカリムスリムメルキトモンケモンゴルのビルマ侵攻モンゴルの樺太侵攻モンゴル帝国モンゴル・南宋戦争モンゴル語モンゴル高原モンゴル文字ラテン文字ヴェネツィアボロクルトルイトルイ家トガン (鎮南王)トク・テムルブライアン・デネヒーパガン王朝パクパパスパ文字テムルテムゲ・オッチギンフレグフビライ・ハン (テレビドラマ)フゲチベトナムアナンダアバカアヤチアラムダールアリクブケアルマリクアントン (ジャライル部)アンソニー・クインアブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソンアフマド・ファナーカティーアイヌイランイルハン朝ウリヤンカダイウルスウイグルウイグル文字オルドオアシスオイラトオゴデイ・ハン国オセット人カチウンカラコルムカイドゥカイシャンキリル文字キプチャククリルタイクトゥルク・テムルケレイトココチュ (寧王)ゴビ砂漠シムルトゥ・ノールの戦いシリギシデバラジャワ島ジョチジョチ・ウルスジョチ・カサルソルコクタニ・ベキタガチャルサンガサイイド・アジャッル傀儡政権儒教冨山房内モンゴル自治区元 (王朝)元史元号元寇四川省四駿四狗皇太子科挙甘粛省遊牧国家遼河運河荘穆王后西安市西アジア親征高麗高麗史講談社魏徴貞観政要胡軍赤痢重慶市至元至元 (元世祖)金 (王朝)長安長江色目人英若誠雲南・大理遠征雲南省集史陝西省陳朝枢密院 (中国)杭州市東南アジア東アジア東洋文庫 (平凡社)杉山正明森平雅彦樺太武神 (テレビドラマ)江南河南省泰定 (元)漢民族朝鮮半島朝日新聞社易経日本愛宕松男故宮博物院1215年1251年1252年1253年1256年1258年1259年1260年1262年1264年1265年1267年1271年1273年1275年1276年1281年1282年1285年1287年1291年1292年1293年1294年12月18日1326年1941年1966年1968年1971年1993年1995年1996年1997年1999年1月22日 (旧暦)2000年2004年2月18日5月5日6月3日8月28日 (旧暦)9月23日 インデックスを展開 (177 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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合川区

合川区(ごうせんく)は中華人民共和国重慶市北西部に位置する市轄区で、重慶中心部からは北へ54km。四川省北部と重慶北部の道路や河川交通の要衝である。 区内では嘉陵江に渠江および涪江が合流する。また襄渝鉄路・遂渝快速鉄路・蘭渝鉄路・渝南高速公路など、重慶と四川省北部・陝西省・甘粛省など各地を結ぶ鉄道・高速道路が域内を通っており交通は至便。.

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堯(尭、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。.

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大理国

大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.

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大都

大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。.

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天山ウイグル王国

天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、11世紀から13世紀に現在の新疆ウイグル自治区に存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。.

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姚枢

姚枢(ようすう、1200年 - 1280年)は、モンゴル帝国配下の官僚。クビライの漢人参謀を務めた人物である。字は公茂(こうも)。甥に姚燧がいる。.

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孝経

『孝経』(こうきょう)は、中国の経書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動をしるしたという。十三経のひとつ。 孝の大体を述べ、つぎに天子、諸侯、郷大夫、士、庶人の孝を細説し、そして孝道の用を説く。.

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孔子

孔夫子の像 孔子(こうし、くじ、、공자〈〉、蔵: ;、紀元前552年9月28日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。読みの「こうし」は漢音、「くじ」は呉音。 有力な諸侯国が領域国家の形成へと向かい、人口の流動化と実力主義が横行して旧来の都市国家の氏族共同体を基礎とする身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照)。.

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尚書

尚書(しょうしょ)。.

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尚書省

尚書省(しょうしょしょう)とは、中国で後漢代から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を果たした。.

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山東省

山東省(さんとうしょう、中国語:山东省、拼音:Shāndōng Shěng、英語:Shandong)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は周代の国名より魯。山東とは太行山脈の東方の意。北には渤海、東には黄海があり、黄河の下流に位置する。人口9579.3万人、面積157,126平方キロメートル。省都は、済南。他に青島、泰安などの主要都市がある。.

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上都

上都(じょうと、)は、モンゴル帝国(元)のクビライが、モンゴル高原南部(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)に設けた都。正藍旗の南のドロンノール県中心市街地から北西へ28km離れており、灤河上流の閃電河の河畔に位置する。上都鎮からは東北20km、北京からは北へ275km。元朝の夏の首都として使われた。 1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2012年、遊牧文明と農耕文明の衝突と融合を示す貴重性が認められ、UNESCOの世界遺産に登録された。.

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中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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中公文庫

中公文庫(ちゅうこうぶんこ)は、株式会社中央公論新社(読売新聞グループ)が発行している文庫レーベル。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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中統

中統(ちゅうとう)は、モンゴル帝国の大ハーン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1260年旧5月 - 1263年(1264年旧8月)。.

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中書省

中書省(ちゅうしょしょう)は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った。.

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三別抄

三別抄(さんべつしょう、朝:삼별초)は、高麗王朝の軍事組織。崔氏政権(武臣政権)において、林衍(イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上の国軍に発展したとも言われる。.

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三省六部

三省六部(さんしょうりくぶ)は中国の隋唐王朝で行われた政治制度。また中国におけるその後の政治制度にも大きく影響を及ぼしている。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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交鈔

交鈔(こうしょう)とは中国の金王朝と元王朝の時代に発行された紙幣を指す。元のもとでは1260年から1356年にかけて中国で流通した。世界初の紙幣としては宋の交子があり、交鈔はさらに広範な領域で通貨として流通した。宋の交子が当初は鉄貨の引換券だったのに対して、交鈔は当初から通貨として発行されたという特徴をもつ湯浅 (1998) p.170。.

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仏教

仏教寺院 仏教(ぶっきょう、旧字体:佛敎、サンスクリット:बौद्धधर्मः 、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで、日本では出版点数の多い宗教の一つに数えられる。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。 その教義は、苦しみの輪廻から解脱することを目指している。原因と結果の理解に基づいており、諸々の現象が縁起するとされる。 仏教は仏、その教えである法、その実践者である僧からなる三宝を中心に組織されている。実践における戒定慧の三学は、戒律、心を集中する禅定、ものごとの縁起を観察する智慧であり、後ろ二つは併せて止観とも呼ばれる仏教の瞑想法である。実践にて重要となる能力は六波羅蜜や八正道のように、いくつかの方法でまとめらている。 紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。『日本書紀』によれば仏教が伝来したのは飛鳥時代552年(欽明天皇13年)である(日本の仏教)。.

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仮名 (文字)

仮名(かな)とは、漢字をもとにして日本で作られた文字のこと。現在一般には平仮名と片仮名のことを指す。表音文字の一種であり、基本的に1字が1音節をあらわす音節文字に分類される。漢字に対して和字(わじ)ともいう。ただし和字は和製漢字を意味することもある。.

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佐口透

佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。.

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御史台

御史台(ぎょしだい)は、中国歴史上の官署の一つである。秦、漢の時代にあっては、御史が監察事務の任にあたった。御史の執務する役所を御史府といい、蘭台、憲台とも称した。南朝の梁、陳や北魏、東魏、西魏、北斉の時代に御史台と称された。隋、唐、五代、宋、金及び元の歴代の王朝においても設置された。御史台は中央政府の行政の監察機関であり、また中央司法機関の一つであって、百官の糾察、弾劾、綱紀の粛正にあたった。 唐朝の貞観年間以前は、御史台はただ百官の風聞を上奏するのみで、実質的な司法権力を持っていなかった。貞観年間に御史台に台獄(監獄)が設置され、特殊な案件を受理した。開元14年(726年)後半、御史をもってあてられる案件の受理を専門とする御史が設けられ、毎日一人が輪番で訴状を受理した。このときからすべての重大案件は、御史台、刑部及び大理寺(zh)の3司法機関で連合して審理した。大理寺は犯人の尋問と判決案の起草を、刑部は再審査を担当し同時に御史台に監督と審査の報告をした。 御史台は御史大夫を長官とし、御史中丞が次官となって侍御史、殿中侍御史(zh)、監察御史(zh)を統率した。中唐以後御史大夫は欠員となることが多くなり、御史中丞が実際上の長官となった。宋代では、御史は寄禄官となり、御史台のことには携わらず、監察事務の実際は門下省の給事中(zh)、などの官職の任務となった。金、元朝でも、御史大夫及び御史中丞が併せて設置されたものの、御史大夫は御史台の実務にはたずさわらず御史中丞が実質的な長官となった。 唐朝の光宅元年(684年)に御史台が改められ、京官(中央官)及び軍隊の監察を専門に左粛政台が設置され、別に地方の監察のために右粛政台が設置された。しばらく後に、左粛政台も地方の監察ができることとなった。両台は毎年春と秋に特使を巡察のため州県へ派遣し、春に派遣された者を風俗使、秋に派遣された者を廉察使と呼んだ。神龍元年(705年)に再び左右の御史台に改められた。太極元年(712年)に右台が廃止されたが、翌年再び設置され、さらにしばらく後にまた廃止された。唐朝はまた洛陽に御史台を設置し、東都留台と称した。中唐以後、節度使、刺史などの外官であっても御史台官衔を置けるようになり、これを外台と呼んだ。 宋代では、元豊の改革の後、再び官署として御史台が設置されたが、留台は設けられず、外官も御史台官衔を置けなかった。 元代では、御史制度が空前の発達をし、地方に行枢密院及び行中書省と同様に御史台の機能を持つ行御史台が設立された。 明代で、御史台が廃止され、改めて都察院が設けられ、清朝でも引き続き設置された。.

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忠烈王

忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。 第24代高麗王元宗の子。諱は昛、初名は諶、賰、諡号は忠烈景孝大王。1260年に世子となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、クビライの公主忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフウシン部族のボロクル(ムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿(Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない。(森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年)旧妃は始安公絪娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は旧妃に近寄らなくなったという。(『高麗史』巻89・后妃伝巻2「貞和府主」条および「淑昌院妃」条)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。 文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を進言し、兵力と経費を提供する「高麗史」に詳細に記述されている。『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年 三月己亥 条の中書省牒に載る世子 諶の言葉に、「吾父子相継朝覲、特蒙恩宥小邦人民(中略) 既諶連年入覲毎荷皇恩区区之忠益切致効。惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容、戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、勉尽心力、小助王師」 『高麗史』 巻29・世家29・忠烈王世家6 忠烈王六年八月辛卯〜乙未(1280年9月17日 - 21日) 条 「(辛卯:公主宴愛牙赤于新殿。)王至上都。時帝在闍干那兀。王遂如行在。乙未:謁帝。帝宴王仍命從臣赴宴。先是、王使朴義奏曰:『東征之事臣請入朝禀旨。』帝許之。」 『高麗史』『高麗史』巻104・列伝17 金方慶伝「(元宗)十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期、一国憂之。 方慶、爲東南道都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本國船様督造。」『元史』 卷12・本紀12・世祖本紀9 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日) 条 「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本」 とともに毎年元に莫大な貢物、人員一例として『高麗史』巻16・世家28・忠列王1 忠烈王元年冬十月壬子(1275年11月4日)条に「壬子:以将献処女于元、禁国中婚嫁」とあり、忠烈王元年10月に元朝に処女を献ずるため国中で婚姻を一時禁じている。また、同十一月癸未(同年11月25日) 条に「癸未:遣僉議賛成事俞千遇、如元賀正、告改官制、献処女十人」とあり、元朝宮廷への賀正使として僉議賛成事の俞千遇を派遣し、官制改めたことを報告し、併せて処女 10人を献じたことを記している。等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令忠烈王は後述のように即位前に質子(トルカク)として出されたクビライの宮廷にてケシクの一員として近侍していたため、モンゴル人と同じ服装や髪型をしていた。そのため、『高麗史』によれば、彼が高麗に帰着したときにその容姿をみた高麗の廷臣たちは、「国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。」(『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年二月己亥「二月己亥、世子諶還自元。帝遣斷事官不花馬(中略) 世子辮髮胡服而來國人見之皆涕泣」)と述べている。これは彼自身がモンゴル宮廷での庶務に従事する必要上、モンゴル宮廷の慣習に従っていただけであったが、当初、高麗宮廷では王国の後継者がモンゴル人と同じ恰好をしていたことは歓迎されていなかった。(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っている。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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北条時宗 (NHK大河ドラマ)

『北条時宗』(ほうじょうときむね)は、2001年1月7日から12月9日にNHKで放送された第40作目の大河ドラマ。全49回。12月16日・23日に総集編が放送された。.

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ナヤン

ナヤン(1258年 - 1287年)は、東方三王家の一つであるテムゲ・オッチギン家の当主。チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの玄孫で、祖父はモンケ・クビライに仕えた有力重臣のタガチャルで、父はアジュルである。 クビライに仕えていたが、1287年春にオゴデイ・カン国のカイドゥと通じ、同じ東方三王家の(カチウン家当主)やシクドゥル(ジョチ・カサル家当主)らと手を組んで反乱を起こした。しかしカラコルムはクビライ配下の名将・バヤンに守られてカイドゥは封じ込められ、ナヤンに至ってはクビライ自らが直属の5衛軍を率いて親征を始める。皇帝自らの親征だったため元軍の士気は高く、ナヤンはわずか1日で敗れて逃走を図るも捕らえられた。そして、クビライの命令で2枚の毛布に包まれた上で、激しく振り回される方法で処刑されたという。 ナヤンはキリスト教徒で、反乱のときも軍旗に十字架を掲げていたといわれているが、それを語るエピソードがある。クビライが凱旋して勝利の宴会を開いていると、キリスト教徒に対して配下の将軍が「お前達の神の十字架は何をしていた。ナヤンを護ってやれなかったではないか」とからかった。それを聞いたクビライは「キリストなる神がナヤンに加護を与えなかったのは当然のことだ。神は公正であり、罪と不正を行なった者に恩恵は与えぬ。ましてやナヤンは反逆者であり、誤った行為による神の加護を願っていたのだから、善良にして公正なるキリストが邪悪な企みを保護しようと欲しなかったのは当然である」と答えて、キリスト教徒を感嘆させたという。 ナヤンの死後も、カダアンらは生き延びて反乱を続けたが、1288年までにテムルによって全て平定され、東方三王家は当主を全て交替させられることになった。 Category:モンゴル帝国の皇族 Category:東方三王家 Category:刑死した人物 Category:1258年生 Category:1287年没.

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ペルシア語

ペルシア語のファールシー ペルシア語(ペルシアご、فارسی‌, پارسی‌; Fārsī, Pārsī)は、イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファールシー語、パールシー語ともいう。 言語学的にはインド・ヨーロッパ語族-インド・イラン語派-イラン語群に分類される。ペルシア語は高度な文明を持っていた古代ペルシア帝国から現在に至るまでイラン高原を中心に使われ続けてきた言語であり、文献によって非常に古くまで系統をさかのぼることができる。ただし、現在のペルシア語にはアラビア語からの借用語が非常に多く、その形態は古代ペルシア語とはかなりの断絶がある。.

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ミャンマー

ミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく、ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်、Myanmar)、通称ミャンマー/ビルマは、東南アジアのインドシナ半島西部に位置する共和制国家。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦。ASEAN加盟国、通貨はチャット、人口は 5,142万人(2014年)、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)。 南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面する。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接する。インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾をはさみ相対している。 多民族国家で、人口の6割をビルマ族が占め、ビルマ語が公用語である。他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ビルマ族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、独自の言語を持つ民族も多い(言語参照)。.

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ノムガン

ノムガン(Nomuγan, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。漢字表記は那木罕、『集史』などのペルシア語表記では نوموغان Nūmūghān などと書かれる。世祖クビライが皇后チャブイの間にもうけた4人の嫡子のうちの四男。 モンゴルの末子相続の制度により、両親の財産を最も多く相続できる立場にある嫡子中の末子であったことから、クビライの有力な後継者候補であった。1266年に北平王の称号を与えられて、父クビライの北方方面における代行者となり、モンゴル民族の本土であるモンゴル高原に駐留、高原における全遊牧民軍団の兵馬を統括した。ノムガンの王府は旧都カラコルム近郊の牧地を遊牧移動し、チンギス・ハーンの4大オルドで執り行われるチンギス・ハーンの祭祀を管理した。 ノムガンの主要な軍事的任務は、アルタイ山脈の西にあるオゴデイ家とチャガタイ家のウルス(国)に対して軍事的圧力をかけて、大ハーンの影響力を伸ばすことにあり、1275年にクビライの中央政府の高官である中書右丞相アントンを附属されて、中央アジア遠征に進発した。ノムガンは高原の諸王族を率い、当主の座をめぐってチャガタイ家に混乱が続くのに乗じてチャガタイ家のウルスの本拠地イリ川渓谷に侵入、その中心都市アルマリクに駐留した。しかし翌1276年夏、従軍していたノムガンの従兄弟シリギらが軍中で反乱を起こし、ノムガンとアントンは捕らえられて、アルマリクに駐留する北平王軍は瓦解した。 ノムガンはシリギによってジョチ・ウルスに引き渡され、中央アジアで虜囚生活を送った。しかしシリギの期待に反して、ジョチ・ウルスはノムガンの身柄を受け取ってもシリギに対する援助を行わず、クビライに表立って反抗する姿勢をとらなかったため、その反乱はクビライによって鎮圧された。1282年、ノムガンは釈放されて父クビライのもとに帰ることができた。 帰国後、ノムガンは北安王の称号を与えられて、再びモンゴル高原での駐留を命じられたが、モンゴル高原方面の主力は中央から派遣されてきたバヤン率いる軍隊になっており、ノムガンはその後のカイドゥとの戦いにほとんど活躍しないまま、数年のうちに没した。ノムガンに子はなかったので、北安王家は1代で断絶し、その軍隊は1291年に晋王に封ぜられた甥のカマラに引き継がれた。 Category:元の皇族 Category:クビライの子女 Category:クビライ家 Category:生没年不詳.

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マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロ(Marco Polo、1254年 - 1324年1月9日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Devisement du monde)』) を口述した冒険家でもある。.

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マルコ・ポーロ 大冒険

『マルコ・ポーロ 大冒険』(マルコ・ポーロ だいぼうけん、La fabuleuse aventure de Marco Polo (L'echiquier de Dieu) 「マルコ・ポーロの素晴らしい冒険 (神のチェス盤)」の意)は、1962年製作開始、1965年公開、ドニス・ド・ラ・パテリエール、ラウール・レヴィ、ノエル・ハワード共同監督による、フランス・イタリア・ユーゴスラヴィア・アフガニスタン合作の長篇劇映画である。.

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マルコ・ポーロ シルクロードの冒険

『マルコ・ポーロ シルクロードの冒険』(Marco Polo)は、1982年に日本・イタリア・アメリカ合衆国・西ドイツ・中国の共同で製作した、合作テレビドラマである。マルコ・ポーロ(1254年9月15日 - 1324年1月8日)の著作『東方見聞録』をもとにした冒険ドラマで、TV映画史上空前の67億円が投じられた。 作品自体高い評価を受けてプライムタイム・エミー賞 作品賞 (ミニシリーズ部門)を受賞した。.

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マンガラ

マンガラ(Mangγla, ? - 1280年)は、モンゴル帝国(元)の王族。漢字表記は忙哥剌、『集史』のペルシア語表記では منكالا Mankqālā 。世祖クビライが皇后チャブイの間に設けた4人の嫡子のうちの三男。.

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マジャパヒト王国

マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。.

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チャンパ王国

チャンパ王国(、192年 - 1832年)は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。.

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チャブイ

チャブイ(Čabui, ? - 1281年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン(カアン)、世祖クビライの皇后。漢字表記は察必、『集史』のペルシア語表記では چابوى خاتون Chābū'ī Khātūn または چابون خاتون Chābūn khātūn として表れる。諡は昭睿順聖皇后。 コンギラト部族の出身で、父の・ノヤン(按陳那顏)はチンギス・カンの第一夫人ボルテの弟である。伯母ボルテの孫にあたるクビライと結婚し、夭折したドルジと、後にクビライ政権で活躍するチンキム、マンガラ、ノムガンの4子を産んだ。 チャブイはチンギス・カン家の姻族としてモンゴル帝国の中でも特に有力な部族の出であり、実家のコンギラト部族をはじめとする五投下と呼ばれる部族集団は、兄である皇帝モンケによって中国の経略を委ねられたクビライを支えて活躍した。特に同母姉が嫁いだジャライル部のムカリの子・ボオルの三男バアトルはクビライの腹心となり、1259年のモンケ死後のクビライのカアン位奪取に功があった。またチャブイ自身、その宮廷(オルド)にアフマドら有能な商人を個人的な用人に集めて利殖を行い、財産を蓄えて勢力があった。 1271年にクビライが樹立した元では、次男のチンキムが燕王、三男のマンガラが安西王、四男のノムガンが北平王に封ぜられ、それぞれが中国北部、中国西部、モンゴル高原を分担して統治した。中央政府ではチンキムが行政機関である中書省と軍政機関の枢密院を統括し、さらにバアトル夫妻の子でチャブイの甥にあたるアントンが中書省の長官となった。加えて、クビライによって新設された財務部局の長官として、チャブイの用人であるアフマドが抜擢され、元の政権中枢部にチャブイの縁者によって占められるようになった。このような状況を指して、大元王朝とはチャブイを扇の要とするコンギラト政権であったと評価する歴史家もいる。 やがて、中央政府で実権を握るチンキムの権勢が高まり、1273年に皇太子の称号を与えられるが、同時にチャブイには皇后の印璽が与えられた。この頃、帝国の財務部門を握り、中書省の勢力をアントンと二分するアフマドの権勢も高まり、その党派がチンキム・アントンのもとに集まったモンゴル貴族・漢人官僚と反目を深めていくが、両者の接点としてチャブイがあったために、対立は決定的なものにはならなかった。 1281年にチャブイが死ぬと、たちまちチンキム派とアフマド派の反目は激化し、翌年にはアフマドの暗殺に至る。 1294年2月18日(至元31年1月癸酉)にクビライが没し、同年6月3日(5月戊午)に聖徳神功文武皇帝と諡され、廟号を世祖とすると、チャブイも昭睿順聖皇后と追諡を受けた。 チャブイの築いた莫大な財産は、同じコンギラト部族出身のチンキムの夫人ココジンが相続した。 Category:元の皇后 Category:クビライ Category:コンギラト部 Category:1281年没.

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チャガタイ・ハン国

チャガタイ・ハン国は、13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家(ウルス)である。 モンゴル帝国の建国者であるチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨した。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国とも呼ばれる。内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実権を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。西チャガタイ・ハン国の貴族やティムール朝の創始者ティムールは傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。 チャガタイ・ハン国の軍事力の基盤となった遊牧民たちは王朝の創始者であるチャガタイの名前から「チャガタイ人」と呼ばれ、「チャガタイ」は中央アジアに存在するモンゴル国家を指す言葉として使われるようになるバルトリド『トルキスタン文化史』1巻、216頁。中央アジアで成立したトルコ系の文語は「チャガタイ語(チャガタイ・トルコ語)」と呼ばれ、ティムール朝の時代に確立される。.

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チンキム

チンキム(Činkim, 1243年 - 1286年1月5日)は、モンゴル帝国(元)の皇族。クビライと皇后チャブイの次男。漢字表記は真金。『集史』のペルシア語表記では چيم كيم Chīm-kīm と書かれる。父クビライの治世に皇太子の称号を帯びて中国の政務を委ねられ、絶大な権力を誇ったが、父に先立って早世した。没後、彼の三男で正妃ココジンとの子である成宗テムルによって、裕宗の廟号と文恵明孝皇帝の諡号を贈られた。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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チベット

チベットの旗(雪山獅子旗) チベット(英語:Tibet,,,, )は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。.

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チベット仏教

チベット仏教(チベットぶっきょう)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。チベット仏教は、根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。また、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。 教義としては、智慧と方便を重視する。インド後期密教の流れを汲む無上ヨーガ・タントラが実践されている。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする。チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れた。そのため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が保存されていることが特徴である。 ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマを尊崇することから、かつては一般にラマ教(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、ややもすると、仏教とは異質な宗教と見なす向きもあったが、その実態が一般の認識を得るにつれ、ラマ教という呼称は不適切だとして、現在では使用されなくなっている。.

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チベット文字

北京の雍和宮の額に書かれた、満州文字・漢字・チベット文字・モンゴル文字(右から) チベット文字(チベットもじ)は、チベット語・ゾンカ語の表記に用いる文字である。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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バヤン (バアリン部)

バヤン(Bayan, 1236年 - 1295年)は、モンゴル帝国の将軍で、元を開いた大ハーン、クビライの重臣。漢字表記は伯顔。元が南宋を併合したとき、南宋討伐軍の総司令官として活躍した。.

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バーサンジャブ

バーサンジャブ(巴森扎布 、1954年 - )は中国出身、モンゴル族の俳優。身長178cm。チンギス・ハーンの次男チャガタイの子孫 。 中国国内では 巴森(バー・セン)の名前で活動している。 日本では、NHKで放送された大河ドラマ『北条時宗』のクビライ役で知られている。.

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バトゥ

バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.

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ムカリ

フバートル広場の記念像 ムカリ(Muqali guy-ong、1170年 - 1223年)は、モンゴル帝国の初代ハーンであるチンギス・カンの家臣。チンギス・カンの左翼諸軍に属す24の諸千戸隊を統括する万戸(トゥメン)の長であった。『元朝秘史』に載る1206年のチンギス・カン即位時の功臣表では、モンリク・エチゲ、ボオルチュに次ぐ第3位に数えられる。『元朝秘史』『元史』などの漢語表記では木華黎、木合黎、木花里、謀合理、摩睺羅など。『集史』のペルシア語表記などでは「ムカリ国王」の音写である、 موقلىكويانك Mūqalī Kūyānk などと書かれる。『元朝秘史』『集史』によれば、チンギス・カンによって右翼諸軍を統括するボオルチュとならび、カラウン・チドンとよばれる地域を統べる左翼万戸長に任じられたと言う。ボオルチュとならぶモンゴル帝国創業の大勲臣のひとりであり、死後に東平王、魯国王に封じられる。 ジャライル部族の首長家であるジャアト・ジャライル氏族(チャアト〜ジャアト Ča'at〜Čaγat<Jaad, جات Jāt)の出身。ジャアト・ジャライル氏族長テレゲトゥ・バヤンの息子グウン・ウアの子。兄弟にタイスン、ブカなどがいたことが知られている。ジャアト・ジャライル氏族、なかでも彼を祖とするムカリ国王家は、大元ウルス時代を含めモンゴル帝国東部でもっとも影響力の強かったモンゴル諸侯家のひとつであった。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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メルキト

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 メルキト(英語:Merkit、モンゴル語:Мэргид Mergid)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原北部から東南シベリアにかけての地域に割拠していた遊牧民の部族集団。唐代の記録に現れる「弥列哥」がその初出と考えられる。遼金時代には密児紀、梅里急などと書かれ、モンゴル帝国時代には『元史』などの漢語表記では滅里吉、『元朝秘史』では蔑児乞惕、『集史』などのペルシア語表記では مركيت Markīt としている。その居住地はバイカル湖の南の地域を中心とし、南にはケレイト、東にはモンゴルと接していた。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴルのビルマ侵攻

モンゴルのビルマ侵攻(モンゴルのビルマしんこう)は、1277年から1287年にかけて行われた戦争である。元緬戦争(げんめんせんそう)とも呼ばれる。.

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モンゴルの樺太侵攻

樺太とその周辺の地形 モンゴルの樺太侵攻(モンゴルのからふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国(元朝)による樺太(サハリン)アイヌ(骨嵬)への攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本の九州北部に対して行われた元寇(文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来」「もうひとつの蒙古襲来」「北の元寇」などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい(後述)。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル・南宋戦争

モンゴル・南宋戦争(モンゴル・なんそうせんそう)は、13世紀にモンゴル帝国と南宋との間で行われた戦争。1235年から1279年まで断続的に行われたが、時期によって第1次(オゴデイ治下のクチュの南征、1235年 - 1241年)、第2次(モンケ治下のクビライの南征、1253年 - 1259年)、第3次(南宋滅亡1268年 - 1279年)に分けられる。.

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モンゴル語

モンゴル文字で書かれた「モンゴル」 モンゴル語(モンゴルご、Монгол хэл、Mongol hel、、mongGul kele)は、モンゴル諸語に属する言語であり、モンゴル国の国家公用語である。モンゴル語を含むモンゴル語族は、テュルク語族及びツングース語族とともにアルタイ諸語と呼ばれる。 第8条はモンゴル語をモンゴル国の国家公用語に規定している。モンゴル国では、行政・教育・放送のほとんどがモンゴル語でなされるが、バヤン・ウルギー県では学校教育をカザフ語で行うことが認められている。こうした地域の人々の中にはモンゴル語を全く解さない者もいる。モンゴル国外には10万人以上のモンゴル国民が居住(日本国内にも合法・不法合わせ数千人が滞在しているものと推定されている)しており、かれらの母語でもある。 モンゴル諸語のうち、どこまでを「モンゴル語」と呼ぶのか明確な定義はないが、一般的にはモンゴル国や中国の内モンゴル自治区でも話されているものがモンゴル語とされる。.

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モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

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モンゴル文字

ンの勅…」とある モンゴル文字(モンゴルもじ、蒙古文字〔もうこもじ〕/モンゴル語キリル文字表記:、モンゴル文字:、モンゴル文字ローマ字(ラテン文字)転写:)は、13世紀ごろウイグル文字から派生した文字で、主にモンゴル語を表記する。フドゥム、胡都木とも。専ら縦書きされ、行は左から右へ綴られる(左縦書き)。 現在は主に中華人民共和国内モンゴル自治区で使われているが、モンゴル国では 1994 年以降義務教育化され、歴史と伝統・文化の象徴として書道やクラフトアートをはじめとした芸術作品に活用されている。.

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ラテン文字

ラテン文字(ラテンもじ、abecedarium Latinum、Latin alphabet、ラテンアルファベット)は、表音文字(音素文字・アルファベット)の一つである。ローマ文字、ローマ字(alfabeto Romano、Roman alphabet)とも呼ばれる。 文字を右書きで横に並べることで単語を表記し、単語間を分かち書きで区切って並べることで文章を構成する。それぞれの文字は子音か母音を表す。 今日、人類社会で最も解読者人口が多い文字である。 元来ラテン語の文字で、古くから西欧・中欧の諸言語で使われているが、近代以降はこれら以外にも使用言語が多い。ただし発音の文字への表記方法は各言語ごとに異なっており、同じ綴りでも言語によって違う発音をすることはラテン文字においては全く珍しくない。英語など、古い時代に表記法が定められた言語においては表記と発音の間の乖離も大きなものとなってきている。.

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ヴェネツィア

ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。.

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ボロクル

ボロクルまたはボロウル(Boroqul, Buroγul〜Boro'ul、?-1217年)は、モンゴル帝国初期の武将。『元朝秘史』では孛囉忽勒、孛囉兀勒、『元史』では博爾忽などと記され、『集史』では بورقول نويان Būrqūl Nūyān または بورغول نويان Būrghūl Nūyān などと表記される。いわゆる四駿(Dörben külü'üd)の1人。フウシン部族出身。『元朝秘史』巻八に載る1206年のチンギス・カン第2即位での功臣リストでは第15位にあたる。.

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トルイ

トルイ(モンゴル語:、Tolui、 1192年 - 1232年)は、チンギス・カンの四男。中国語表記は拖雷で、ペルシア語表記ではتولى خان (tūluy khān) またはتولوى خان (tūlūy khān) 、モンゴル語ではТулуй, Tuluiと綴られる。子孫が第4代以降のモンゴル帝国の皇帝位(大ハーン位)を世襲したために、睿宗の廟号を贈られ、景襄皇帝と諡された。日本語文献ではトゥルイ、ツルイと表記されている場合もある。トルイという名は、中世モンゴル語で「鏡」を意味する。ジョチ、チャガタイ、オゴデイの同母弟である。 幼少時から英邁で武勇に優れ、人望も厚かったという。チンギスの正妻ボルテから生まれた末子だったため、末子相続の慣行に従って父の死までウルスの分封を受けずにその手元にもつ、帝国の最有力皇族であった。.

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トルイ家

トルイ家(トルイけ)は、チンギス・ハーンの四男トルイから始まる家系である。.

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トガン (鎮南王)

トガン(モンゴル語:, ラテン文字転写:, キリル文字転写:, 生年不詳 - 大徳5年(1301年))は、元(モンゴル帝国)の皇族。『元史』などの漢文史料では脱歓、『集史』などのペルシア語史料では()と記される。.

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トク・テムル

トク・テムル(モンゴル語:、Toq-Temür、漢字:図帖睦爾、 1304年2月16日 - 1332年9月2日)は、モンゴル帝国(元)の第12代皇帝(大ハーン)。 武宗カイシャンの次男。母はタングト部の人(唐兀氏、文献昭聖皇后)で、明宗コシラの異母弟にあたる。.

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ブライアン・デネヒー

ブライアン・デネヒー(Brian Dennehy, 1938年7月9日 - )は、アメリカ合衆国コネチカット州出身のアイルランド系アメリカ人俳優、映画監督、脚本家、映画製作者。本名は、ブライアン・マニオン・デネヒー(Brian Manion Dennehy)。.

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パガン王朝

パガン王朝(ပုဂံခေတ်)は現在のミャンマーに存在した、ビルマ族最初の王朝である。ビルマ語による年代記(ビルマ語王統史)での雅称はアリー・マッダナ・プーラ(征敵の都)である大野『謎の仏教王国パガン』、100頁。首都はパガン。「パガン」とは「ピュー族の集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛したものと考えられている。国王が55代続いたと言うことが一連の伝統的な王統史には書かれてあるが、出土品と碑文によってこの論はおおむね否定されている大野『謎の仏教王国パガン』、130頁。43代以前の王で唯一碑文に名前が刻まれているのはソー・ヤハンであるが、それでさえも彼が王であったことを実証しているとは言い難い。.

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パクパ

パクパ (、(1235年3月6日 - 1280年11月22日)は、 チベット仏教サキャ派(赤帽派)の座主。元王朝の初代皇帝・クビライに招請された帝師。モンゴル語化したパスパの名前で表記されることも多く佐藤「パクパ」『世界伝記大事典 世界編』7巻、296-297頁、漢語史料では八思巴、発思八、抜合思巴とも表記される藤枝「パスパ」『アジア歴史事典』7巻、372頁。本名はロテ・ギャンツェンであり、幼年期に利発さを示したため、「聖者」を意味するパクパの名前で呼ばれた。 チベットの有力氏族の一つであるコン氏の出身であり、ソェナム・ギャンツェンを父に持つ。先代の座主サキャ・パンディタの甥にあたる。.

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パスパ文字

パスパ文字(パスパもじ、八思巴文字、дөрвөлжин үсэг、dörvöljin üseg、〔モンゴル文字:〕 「方形文字」、ཧོར་ཡིག་གསར་པ་、hor yig gsar pa 「モンゴル新字」、中国語:蒙古新字 Měnggǔ xīnzì、八思巴字 Bāsībā zì)は、13世紀にモンゴル語など、大元ウルス(元朝)の各種言語表記に用いるために制定された表音文字。上から下へと縦に綴る。パクパ文字、方形文字(ほうけいもじ)とも呼ばれる。 パスパ文字は発明から100年間ほどしか使われなかったが、チベットでは1642年に発足したガンデンポタン政権のもとで、ダライ・ラマがチベット・ハルハ・オイラトなどの諸国のモンゴル人王公たちに称号を授与する際、印章に称号を刻むための文字として採用された。.

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テムル

テムル(モンゴル語:、Temür、漢字:鐵穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、モンゴル帝国の第6代、大元ウルスの君主としては第2代の大ハーン。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシャ語などのティムールに通じる。.

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テムゲ・オッチギン

テムゲ・オッチギン(Temüge Odčigin、? - 1246年)は、チンギス・カンの末弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとコンギラト部族オルクヌウト氏族出身のホエルンとの四男で、他の同母兄にはジョチ・カサルとカチウンがいる。.

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フレグ

フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku 『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。.

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フビライ・ハン (テレビドラマ)

『フビライ・ハン』(原題:忽必烈传奇)は、2013年の中国のテレビドラマ。全50話。製作期間3年超、製作費30億円。.

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フゲチ

フゲチ(Hügeči,,,? - 1271年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では忽哥赤、『集史』などのペルシア語史料ではهوگاچیHūgāchīと記される。また、『東方見聞録』ではカラジャン王国の王コガチン(Cogachin)と表記されている。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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アナンダ

アナンダ(Ananda, ? - 1307年)は、元の皇族。『集史』などでのペルシア語表記では اَنَنْدَه Ananda または آننده Ānanda、『元史』での漢字表記は安西王 阿難答。.

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アバカ

アバカ(Abaqa/阿八哈、اباقا خان Ābāqā khān、1234年2月27日 - 1282年4月1日)は、イルハン朝の第2代ハン(1265年 - 1282年)。父は初代ハーンのフレグ・ハン、母はフレグの第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥン。.

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アヤチ

アヤチ(Ayači,,,? - 1324年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では愛牙赤大王/愛也赤、ペルシア語史料ではاباچیĀbāchīと記される。.

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アラムダール

アラムダール(علمدار/ʿalamdār,阿藍答児,?-1260年)とは、モンケ・カーンやアリク・ブケに仕えたモンゴル帝国の官僚・将軍。モンゴル帝国帝位継承戦争ではアリク・ブケを補佐してクビライ勢力と争ったが、陝西方面の戦線で敗れ戦死した。アラムダルとも表記される。 ペルシア語でعلم(ʿalam)は「旗」、دار(dār)は「〜を持つ者」を意味し、モンゴル語tuqči(「旗持ち」の意)を直訳した名前となる。『元史』などの漢文史料では阿藍答児と記される。.

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アリクブケ

アリクブケ(モンゴル語:, ラテン文字転写: )は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。漢文史料では阿里不哥、ペルシア語史料では()と書かれる。書籍によってはアリクブカとも表記される。.

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アルマリク

アルマリク(Almalik)は中央アジア、イリ川渓谷(イリ地方)の歴史的都市。モンゴル帝国時代の13世紀から14世紀頃にイリ川渓谷を経て天山山脈北麓を通る交易路の拠点として栄え、またイリ地方の周辺に広がる草原地帯の遊牧民たちが拠点として利用した。正確な位置は明らかではないが、現在の中国新疆ウイグル自治区北西部、サリム湖の南バットゥータ『大旅行記』4巻、229頁、カザフスタンとの国境に近いイーニン(クルジャ)の近辺に存在していたと考えられている松田「アルマリク」『アジア歴史事典』1巻、120頁。 アルマリクの前身は、唐の史書に表れる「弓月城」と推定されている。アルマリクの名は13世紀にはじめて歴史にあらわれ、耶律楚材や長春真人の旅行記には「阿里馬里城」、アルメニア国王の旅行記には「ハルアリク(Halualekh)」と記される。この名はテュルク語で「リンゴのなる町」を意味している。 13世紀初頭、カルルク族の首長オザルがアルマリクを中心に勢力を形成すし、西遼(カラキタイ)に臣従していたドーソン『モンゴル帝国史』1巻、97頁。モンゴル帝国が勢力を拡大すると、1211年頃にオザルは西遼から離反してチンギス・ハーンに帰順するが、オザルは西遼の帝位を簒奪したナイマンのクチュルクに殺害される。オザルの死後、チンギスの命によってオザルの子スクナーク・テギンがアルマリクの指導者の地位を継ぎ、チンギスの長子ジョチの娘を娶った。 チンギスの死後、アルマリクはイリ地方一帯の遊牧地を所領(ウルス)とするチンギスの次男チャガタイに与えられる。チャガタイは春夏の期間をアルマリクの周辺とイリ川南のクヤスで過ごし、アルマリクはスクナーク・テギンとその一族によって統治されていた。14世紀初頭にいわゆるチャガタイ・ハン国が形成されるとその中心都市となった。アルマリクはチャガタイ・ハン国の中心地とされてから重要性を帯び、14世紀には東方におけるキリスト教の拠点の一つとして機能した。 14世紀中頃には東チャガタイ・ハン国の再建者でモグーリスタンの遊牧民たちをイスラム教に改宗させたトゥグルク・ティムールがこの地を本拠地とし、1362年に亡くなるとアルマリクに葬られた。その後もモグーリスタン・ハン国と呼ばれるトゥグルク・ティムールの後裔たちはこの地方を拠点としたが、15世紀に入るとカザフスタンの草原地帯にウズベクやカザフが興って圧迫を受け、モグーリスタンのハンたちは草原地帯を捨ててタリム盆地のオアシス都市に移っていった。ウズベクによる破壊を受けたアルマリクも衰亡し、イリ地方の中心都市としての機能はクルジャに移って歴史から姿を消した。 現在は、トゥグルク・ティムールの霊廟もクルジャにある。.

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アントン (ジャライル部)

アントン(Anton, Antum, Hantun, 安童、1245年 - 1293年)は、大元朝時代にその初代でもある第5代モンゴル帝国皇帝(カアン)クビライに仕えた政治家、宰相(中書右丞相)。『元史』などでは安童、『集史』などのペルシア語史料では هنتون نويان Hatūn Nūyān、 انتون نويان Antūn Nūyān などと書かれる。チンギス・カンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家の出身で、ムカリの曾孫。ムカリの子・ボオルの3男・バアトルが父にあたる。母親はチンギス・カンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。息子にウドゥルタイ(兀都帯、バイジュの父)がいる。 13歳で宿衛(ケシク)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライがモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際にアリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事であるアフマド・ファナーカティーと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させる。翌1275年には皇太子チンキムや北平王ノムガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、カラコルム周辺を領していたモンケ家、アリクブケ家などの王族との調停に勤めた。しかし、1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、軍中のモンケ家の四男シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲトゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトルイ家をはじめてとする王族たちと共謀して反乱を起こした。(シリギの乱) このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トクテムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟をジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱はバヤンの派遣などによって鎮圧された。1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させて、獄死に追い詰めた。ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、フビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することができずに2年後に没した。.

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アンソニー・クイン

アンソニー・クイン(Anthony Quinn, 1915年4月21日 - 2001年6月3日)は、アメリカで活躍した俳優、画家及び作家。.

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アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン

アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン 男爵(Abraham Constantin Mouradgea d'Ohsson、1779年11月26日 - 1851年12月25日)は、オスマン帝国におけるアルメニア系の外交官、歴史家。『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(邦題:『蒙古史』、『モンゴル帝国史』)の著者として有名であった。.

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アフマド・ファナーカティー

アフマド・ファナーカティー(Ahmad Fanākatī, احمد فناكتى, 生没年: ? - 1282年)は、モンゴル帝国(元)の大ハーン、クビライに仕えたムスリム(イスラム教徒)の財務官僚。漢字表記は阿合馬。「アクマト」とも呼ばれる。.

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アイヌ

アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.

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イラン

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。.

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イルハン朝

14世紀のフレグ・ウルスとその周辺国 イルハン朝(ペルシア語: ايلخانيان Īlkhāniyān、英語:Ilkhanate)は、現在のイランを中心に、アムダリヤ川からイラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1256年/1258年 - 1335年/1353年)。首都はタブリーズ。.

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ウリヤンカダイ

ウリヤンカダイまたはウリヤンハタイ(モンゴル語:、転写:Uriyangqadai, Uryankhatai、1200年 - 1271年)は、モンゴル帝国・元朝に活躍した将軍。モンゴル系のウリヤンカイ部族出身のスベエデイの息子。アジュの父。『元史』などの漢語表記では兀良合台・兀良哈台、『集史』などのペルシア語表記では اوريانكقداى بهادر Uriyānkqadāī Bahādur。.

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ウルス

ウルス(中世モンゴル語: 、 現代、オルス)は、モンゴル語で「国家」「人々」を意味する単語である。原義は「人の渦」。遊牧民であるモンゴル人にとっては、国家とはすなわち人々の集合体であったことから同義語となっている。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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ウイグル文字

ウイグル文字(Old Uyghur alphabet)は、8世紀頃から中央アジアで主に用いられたウイグル語の表記に使用された文字。.

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オルド

ルド/オルダ(古テュルク語: 𐰇𐱃𐰀 転写: uta、、転写: ordo、中:斡魯朶/兀魯朶)とは、契丹・蒙古などのモンゴル・テュルク系民族におけるカンや后妃の宿営地のこと。日本語訳では、行宮・宮帳・幕営と表記する。ゲル(パオ(包)、ユルト)とほぼ同義語である。.

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オアシス

アシス(リビア) オアシス(英語:Oasis)とは砂漠・ステップなど乾燥地域における緑地。英語読みはオウエイスィス。.

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オイラト

イラト(Oirad、Oyirad、瓦剌、衛拉特)は、モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住する民族。.

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オゴデイ・ハン国

デイ・ハン国とは、中央アジアのエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に13世紀前半から1306年まで一貫して存続していたとかつて想定されていたモンゴル帝国の分枝政権。国名はチンギス・ハーンの三男で、モンゴル帝国の第2代ハーンとなったオゴデイ(オゴタイ)の名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。.

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オセット人

北オセチアと南オセチア オセット人(オセットじん、Осетин; Osetin)は、カフカース地方の山岳地帯に住むイラン系民族。主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と(2015年4月まで日本国政府が「グルジア」の外名で呼称していた)ジョージア国の南オセチア自治州に分かれている。総人口はおよそ60万人。オセチア人とも呼ばれる。 独自の言語としてインド・ヨーロッパ語族のイラン語群に属するオセット語が使用されている。 主な宗教はキリスト教で70%以上が正教会の信徒であるが、イスラム教を信仰する者も15%ほどいる。 古代東ヨーロッパで活動した民族アラン人の後裔と考えられており、中世にはアス人と呼ばれていた。民族名のオセットは、アス人(As)をオウス(Ovs)と呼んでいたグルジア人が、アス人の居住地域を指してOvsetiと言っていたのがロシア語に取り入れられて広まった他称である。もっとも、自称としてはアスの名は失われ、オセット語による自称はイロン(Iron)あるいはディゴル(Digor)、ディゴロン(Digoron)である。.

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カチウン

チウン(,,? - ?)はチンギス・カンの三弟で、モンゴル帝国の皇族である。.

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カラコルム

ラコルム( 転写:Qaraqorum)は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230km、ウブルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市、かつてのモンゴル帝国の首都である。 カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。ペルシア語資料では قراقوروم Qarā-qūrūm と表れ、漢語資料では哈剌和林、略して和林と表記される。また現代モンゴル語ではハラホリン(Хархорин)と表記される。 「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるという。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。.

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カイドゥ

イドゥ(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: 転写: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。.

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カイシャン

イシャン(モンゴル語:、Qayšan、漢字:海山、1281年8月4日 - 1311年1月27日)は、モンゴル帝国(元)の第7代皇帝(大ハーン)。『集史』および『ヴァッサーフ史』『選史』などのペルシア語資料の表記では、ハイシャン(خايشانك Khāīshān, خيشان Khayshān)など。.

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キリル文字

リル文字(キリルもじ、Кириллица、Cyrillic alphabet、キリール文字とも)は、主にスラヴ諸語を表記するのに用いられる表音文字の体系の一種である。日本等では特にロシア語の文字として知られ、ロシア語で使う 33 文字(大文字小文字を同一視して)は、ロシア文字とも呼ばれる。しかし、キリル文字はブルガリア語やセルビア語をはじめとする多くの言語で使用されており、文字もそれぞれ微妙に異なる。そして、キリル文字発祥の地はブルガリアであるとされるため、キリル文字の総称としてロシア文字と呼ぶのは不適当である。.

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キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェッツ人の一家。 「バーバ」と呼ばれるクマン人が立てた石像(ドニプロペトロウシク、ウクライナ)。 キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンもしくはコマンと記された。現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれるが、キプチャク草原を支配したモンゴルのジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのは、このためである。.

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クリルタイ

リルタイ(モンゴル語:, Хуралдай, Khuruldai; トルコ語: Kurultay))は、中世から近世にかけて開催されたモンゴルの最高意志決定機関である。有力者が集まってハーンの位の決定、戦争、法令などを議題にした。『元朝秘史』では忽鄰塔、『集史』などのペルシア語資料では قوريلتاى Qūrīltāī などと表記される。 『元朝秘史』などの中世モンゴル語では qurilta と言うが、これは「(血縁関係の者が)集まる」を意味する語幹 quri- に動詞から実詞を形成する接尾辞 -lta〜lte が付された形で、いわば動詞 quri- の名詞形にあたり、「集まり」ほどの意味になる。ただ、この qurilta とはただの「集まり」ではなく、「血族類縁者の集まり」である。 モンゴル皇帝(カアン)の命のもとに広く召集された王族および有力諸部族の首長、重臣たちからなる遊牧国家の最高の政治会議である。その役割は、第一に皇帝候補者の選定と即位、第二に諸外国への遠征計画、第三に法令の制定、などが含まれていた。開催時期は春期や夏期が多く、大河の水源地域など牧草地や水情に恵まれた土地が開催地として選ばれた。また回数も、皇帝一代のうちでせいぜい2、3回程度で、皇帝のオルドの近傍で定められ、国政についての様々な討議ののちに、場合によっては1週間以上にもわたる長い祝宴(トイ toi )が常に伴った。 モンゴル皇帝や皇族たちがウルスの方針を決めるために主催するこれらのクリルタイは、特に大クリルタイ(Yeke Qurilta、 ペルシア語では Qūrīltāī-yi Buzurg)と呼ばれた。その他の集会をジェルゲ(jerge)と呼んでいたが、現在のアフガニスタンにおいて国会に相当するローヤ・ジルガの「ジルガ」はこのモンゴル語のジェルゲに由来する。.

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クトゥルク・テムル

トゥルク・テムル(Qutuluq Temür,,,? - 1324年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では忽都魯帖木児、ペルシア語史料ではقوتلوقتيمور Qūtlūq-Tīmūrと記される。.

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ケレイト

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ケレイト(Kereid, Kerait)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原中北部のハンガイ山脈付近に割拠していたテュルク遊牧民の部族集団である。漢字表記では客烈亦、怯烈、怯烈亦など。ペルシア語史料では كرايت Kirāyt などと表される。.

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ココチュ (寧王)

チュ(Kököčü,,,? - 1313年)とは、モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの庶子で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では寧王闊闊出、ペルシア語史料ではكوكچو Kūkuchūと記される。.

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ゴビ砂漠

ビ砂漠(ゴビさばく、,,(かへき)、 )は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万kmで、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在した。また、恐竜の化石がよく発見されており、卵をだいたオビラプトルやプロトケラトプスとヴェロキラプトルの格闘の化石など珍しい形の化石が続々発見されている。黄砂(こうさ)とはこの地などから巻き上げられ気流に乗り運ばれる砂の事であり、春先には日本にも多く飛来する。.

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シムルトゥ・ノールの戦い

ムルトゥ・ノールの戦いとはモンゴル帝国帝位継承戦争の中で1261年クビライ軍とアリクブケ軍との間で行われた最大の戦闘。.

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シリギ

リギ(Širigi, 生没年不詳)は、モンゴル帝国(元)の皇族。『集史』などのペルシア語表記では شيركى (Shīrikī) 、漢字表記は失列吉、昔列吉、習列吉など一定しない。.

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シデバラ

デバラ(モンゴル語:、Šidebala、漢字:碩徳八剌、 1302年2月22日 - 1323年9月4日)は、モンゴル帝国(元)の第9代皇帝(大ハーン)。名はシッディバーラとも読まれる。.

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ジャワ島

18世紀初頭のジャワ島の地図 ジャワ島(ジャワとう、, )は、インドネシアを構成する島の一つ。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。.

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ジョチ

ョチ( Jöči、現代モンゴル語:Зүчи 、1177年,1184年? - 1225年)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの長男で、ジョチ・ウルスの始祖。ジュチとも片仮名表記される。 漢字史料では主に朮赤、アラビア語・ペルシア語史料では主にجوچى خان jūchī khān と綴られる。.

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ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

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ジョチ・カサル

ョチ・カサル(Jöči Qasar, 1164年? - 1213年?)は、チンギス・カンの次弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとコンギラト部族オルクヌウト氏族出身のホエルンとの次男で、他の同母兄弟にはカチウンとテムゲ・オッチギンがいる。『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では、拙赤合薩合撒児、槊只合撒児、合撒児、搠只哈撒児、哈布図哈薩爾など。『集史』などのペルシア語表記では جوچى قسار (Jūchī Qasār) 。単にカサルともいうが、現代モンゴル語によってハサル (Khasar) と表記される。兄チンギスよりも2歳年少であったと伝わる。.

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ソルコクタニ・ベキ

ルコクタニ・ベキ(モンゴル語: 転写: sölköktani beki、سرقویتی بیگی 転写: srquyti bigi、唆鲁禾帖尼 キリル文字転写: Сорхагтани、1192年? - 1252年)は、チンギス・カンの第4子・トルイの正妃『集史』トルイ・ハン紀によると、「トルイ・ハンのハトゥンたちのなかで最上位かつ最も愛された者は、彼女であった( بزرگترين و محبوب ترين خواتين تولوی خان او بود buzurugtarīn wa maḥbūbtarīn khawātīn-i Tūlūy Khān ū būd)」とある。。『世界征服者史』では سرقويتى بيكى Surqūytī Bīkī?、『集史』トルイ・ハン紀などでは سيورقوقتينى بيكى Suyūrqūqtīnī Bīkī、سورققتيى بيكى Sūrqaqtanī Bīkī など。『元朝秘史』(巻7・186段)では莎児合黒塔尼 別乞、『元史』后妃表では唆魯和帖尼妃子と表記される。ソルカクタニ・ベキ(Sorqaqtani Beki)とも片仮名表記される。至元3年(1266年)にクビライによって荘聖皇后と追諡された。.

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タガチャル

タガチャル(? - 1278年?)とは、チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では塔察児国王、『集史』などのペルシア語史料ではطغاچار نویانTaghāchār Nūyānと記される。.

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サンガ

ン.

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サイイド・アジャッル

イイド・アジャッル・シャムスッディーン(سید اجل شمس‌الدین、Sayyid Ajall Shams al-Din, 1211年 - 1279年)は、モンゴル帝国(元)に仕えて中国の行政官を務めたムスリム(イスラム教徒)の官僚。漢字表記は賽典赤。ラカブ(尊称)はシャムスッディーン(赤贍思丁)、イスム(名)はウマル(عمر、Umar、烏馬兒)。ペルシア語資料では、サイイド・アジャッル・ブハーリー سيد اجلّ بخارى Sayyid Ajall Bukhārī の名で表れる。.

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傀儡政権

傀儡政権(かいらいせいけん、puppet government)とは、ある領域を統治する政権が、名目上には独立しているが、実態では事実上の支配者である外部の政権・国家によって管理・統制・指揮されている政権を指す。内政も外交も自己決定権が完全ではなく、支配者の利益のために支配者に操作・命令され統治される。傀儡国家(かいらいこっか、puppet state)とも呼ばれる。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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儒教

儒教の始祖、孔子 董仲舒 儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。.

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冨山房

有限会社冨山房(ふざんぼう)は1886年(明治19年)に設立された、日本の出版社。戦前は博文館とともに大手出版社の1つだった。.

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内モンゴル自治区

内モンゴル自治区(うちモンゴルじちく、モンゴル語: 転写:Öbür Moŋɣol-un öbertegen jasaqu orun、中国語:内蒙古自治区、拼音:Nèi Měnggǔ Zìzhìqū、英語:Inner Mongolia)は、中華人民共和国が1947年にモンゴルの南部に設置した省級の自治体。中国領土の北沿に位置する自治区。内蒙古自治区(うちもうこじちく)とも。モンゴル語での名称は日本語に直訳すると「南モンゴル自治区」となる。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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元寇

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。 主に九州北部が戦場となった。.

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四川省

三星堆遺跡の青銅仮面 四川省の伝統芸能『川劇』 四川省(しせんしょう、、、)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は川あるいは蜀。省都は成都。西北部はチベットの伝統的な地方区分でいうアムド地方の東南部、西部はカムの東部にあたる。また、東部の重慶は直轄市として1997年に分離した。.

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四駿四狗

四駿四狗(ししゅんしく)とは、モンゴル帝国の建築者チンギス・カンに仕え、モンゴルの歴史を記した年代記『元朝秘史』において、「4頭の駿馬・4匹の狗」(dörben külü'üd, dörben noγas)と讃えられた、チンギス・カンの優秀な8人の最側近のことである。.

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皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

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科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

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甘粛省

粛省(かんしゅくしょう、中国語:甘肃省、拼音:Gānsù Shěng、英語:Gansu)は、中華人民共和国北西部にある省級行政区である。省都は蘭州市。.

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遊牧国家

遊牧国家(ゆうぼくこっか)とは、遊牧民が支配階層を形成して組織された国家のこと。面的に広がる集約農耕の展開が困難ではあるが、遊牧による牧畜に適した乾燥地帯が広がる中央アジア、イラン高原などに多く存在した。 有史以来、遊牧国家を築いたのは、紀元前9世紀、中央ユーラシアのキンメリアとスキタイである。ただし彼らはその地に安住することはなかったので、国家と呼べるかは謎である。一方イラン高原では、ペルシア系の民族が団結して遊牧国家を築いていく。紀元前6世紀にアケメネス朝が成立し、遊牧国家の基礎が造られた。しかし本格的な遊牧国家としては、8世紀の回鶻可汗国の誕生を待たなくてはならない。回鶻可汗国は遊牧国家としてはじめて都城を建設し、国家体制を整えた。そして、その後に現われたモンゴル帝国の成立によって遊牧国家は完成された。 モンゴル帝国が北ユーラシアを征服し空前の大国家を築いたことは、分裂していた東洋と西洋を結びつけ、世界史と言う言葉が誕生した要因となった。その体制は、パクス・モンゴリカといわれるモンゴル人による覇権と平和の時代を生み出した。しかし広大な国家は、領土が分割相続されたことや、政権を構成する諸部族が分裂抗争するなどにより、緩やかな連合政権の形状を保ちつつも次第に統一政権の形を弱めていき、わずか1世紀あまりで後継諸政権に分裂した。.

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遼河

遼河(りょうが、ᠯᡳᠶᠣᡠ᠋ᡥᠠᠪᡳᡵᠠ、転写:liyooha bira)は、満州南部を流れる大河。河北省、内蒙古自治区、吉林省、遼寧省を流れ、渤海に注ぐ。河流の長さは1390キロメートル、流域面積は、渾河や太子河も含めると、22万8960平方キロメートル。遼河の激しい流れによって、遼河平原が誕生した。ただし、近年では水質汚染が深刻で、早急な環境問題対策の整備が必要となっている。 歴史的地名として遼河以西の地域を遼西、以東を遼東と呼ぶ。 遼河には東西に二つの源流があるが、本流は河北省内に源泉を持つラオハ川(老哈河)である。ラオハ川は内蒙古自治区に入り、途中からシラムレン川(Xar Moron、西拉木倫河、モンゴル語: Šira Mören)と合流して西遼河を為し、吉林省方面から流れてくる東遼河と合流した後に遼河となる。 遼河は遼寧省中部を北から南へ向かって縦貫し、途中で蘇台河、清河、柴河、泛河、秀水河、養息牧河、柳河といった河川と合流する。遼河は河口に達する前に再び二つの流れに分流する。一つは外遼河であり、営口で遼東湾(渤海の一部)に注ぐ。遼河最大の支流である渾河や太子河と合流することから、大遼河とも言われる。もう一つは双台子(雙檯子)河であり、盤錦市盤山県付近から遼東湾に注ぐ。 かつての遼河の主流は大遼河だったが、1958年の六間房付近における改修工事以降、主流は双台子河になった。現在では渾河と太子河は独立水系となり、大遼河の旧河床をながれている。.

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運河

運河(うんが)とは、船舶の移動のために人工的に造られた水路であり、河川・湖沼を利用しているものもある。鉄道同様経路中に、橋梁や隧道なども見られる。産業革命以前は船舶を騾馬などが牽引したため、経路に沿って曳舟道(トウパス、towpath、船曳道、牽引路)が設けられている。.

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荘穆王后

荘穆王后(そうぼくおうこう、1259年7月19日 - 1297年6月11日)は、高麗の第25代王忠烈王の正妃。モンゴル人で、本名は孛儿支斤 忽都魯掲里迷失(ボルジギン クトゥルク=ケルミシュ)。元の世祖の娘で、1274年5月に忠烈王に降嫁される。 1275年9月に生まれた長男の益知礼普花(イジリブカ)は高麗の第26代王となった忠宣王である。同年に高麗より元成公主、1294年に元より安平公主に封じられた。没後には、高麗より荘穆仁明王后、仁明王太后と追号され、1310年に元において斉国大長公主を追封された。.

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西安市

西安市(せいあんし/シーアンし、、、)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。.

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西アジア

西アジア 西アジア(にしアジア)は、アジア西部を指す地理区分である.

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親征

親征(しんせい)は、本来は漢語で「親(みず)カラ征ク」こと、すなわち天子が自ら遠征に出ることを言い、一般には、皇帝、天皇、王などの君主が、自ら軍を率いて戦争に出ることを広く指す。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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高麗史

『高麗史』(こうらいし)は、朝鮮の高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮の鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典はである。 また史庫に関する詳細は、 を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。 ・書籍が参照されたが、すべて焚書または消失李氏朝鮮 太祖の時代に 「書雲觀」等の記録を焚書した。さらに一般民の史書の所持と輸入は厳しく禁止していた。具体的には明朝會典 皇明通紀 明紀輯略等多岐にわたる。 例えば、平安道の儒生 桂徳海が中国からの史書を所持していた事件(1771年)で断罪されている。し、大部分は現存しないので、この『高麗史』と独立に編纂された春秋館編纂の編年体形式の『高麗史節要』(1452年)が高麗時代の史書となる。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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魏徴

魏 徴(ぎ ちょう、580年 - 643年)は、唐の政治家。字は玄成。祖父の魏釗は北周に仕え、父の魏琬は隋に仕えた。子に魏叔玉、魏叔瑜、魏叔琬、魏叔璘、娘(霍王李元軌夫人)などがいる。.

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貞観政要

貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢呉兢(ごきょう、670年 - 749年)は、唐代の歴史家(中文)。が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。 中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されてひろまった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。.

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胡軍

胡軍(フー・ジュン、1968年3月18日 - )は、中華人民共和国2008年3月、香港行政府が定める「:zh:優秀人才入境計劃」により香港の市民権を獲得した()。の俳優。舞台を経て現在はテレビドラマや映画を中心に活動。『藍宇 〜情熱の嵐〜』『天龍八部』等の出演作で知られている。.

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舜。 舜(䑞、しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう。子孫は媯水のほとりに住み媯(ぎ)を姓とした)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。 舜は顓頊(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。 堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所は3年で都会になるほどだった。 そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。 この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。それから20年後、堯は舜に禅譲した。 帝位についた舜は洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功するなど上手く世の中を治め、その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。 南風歌という歌を作ったと言われている。 陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。 ちなみに白川静は舜は元々帝嚳の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。.

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赤痢

赤痢(せきり)は、下痢・発熱・血便・腹痛などをともなう大腸感染症である。 俳句では夏の季語として扱われる。古称は血屎(ちくそ)。従来、赤痢と呼ばれていたものは、現代では細菌性赤痢とアメーバ性赤痢に分けられ、一般的に赤痢と呼ばれているものは赤痢菌による細菌性赤痢のことを指す。.

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重慶市

重慶市(じゅうけいし / チョンチンし、、、)は、中華人民共和国の直轄市で、同国である。 重慶市の人口は3022万人(2017年)。2017年の都市圏人口は1962.66万人である。 略称の「渝」は重慶市内にある嘉陵江の古称、渝水からきている。2017年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第115位の都市と評価されている。.

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至元

至元(しげん)は、中国元朝の元号の一つ。.

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至元 (元世祖)

至元(しげん)は、モンゴル帝国の大ハーン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1264年 - 1294年。.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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長江

長江(ちょうこう、中国語拼音字母: )は、青海省のチベット高原を水源地域とし中国大陸の華中地域を流れ東シナ海へと注ぐ川である。全長は6300kmで、中華人民共和国およびアジアで最長、世界でも第3位。 中国国外では、最下流部の異称である「揚子江」(ようすこう、Yangtze River)の名で良く知られる。古語では江(こう)。音訳する場合は「長」のみを音訳しチャン川 (Chang River) とすることもあるが、「江」が本来の河川名であることから、(他の中国の河川を「片仮名+川」とする場合でも)チャンチアンとすることもある。 青海省のタンラ山脈からチベット高原、四川盆地、三峡を経て湖北省宜昌市に至るまでが長江上流(最上流の通天河、四川西部の金沙江、四川東部の川江)、宜昌から江西省湖口県までが中流(荊江)、湖口から上海市の東シナ海河口までが下流(揚子江)にあたる。 その流域には成都、武漢、重慶などの重要工業都市、上海、南京などの商業都市を含む中国の19の省(市、自治区)があり、全流域の人口は4億5000万にも達している。古くから水上交易の盛んだった華中でも中心的な交通路として利用されてきた。.

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色目人

色目人(しきもくじん)とは、中国の歴史上における人間集団の分類の一種で、元朝治下における西域(中央アジア・西アジア)諸国出身者を指したもの。色目人の語は、「諸色目人」の略で、さまざまな種目(諸色目)の人という意味。元朝においては支配階級である遊牧民出身のモンゴル人の下に色目人が置かれ、この2つの階級が金の遺民である華北の漢人、南宋の遺民である江南の南人の階級を支配していたとされる。.

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英若誠

英 若誠(イン・ルオチェン、1929年6月21日 - 2003年12月27日)は、中国の俳優。脚本家・演出家・翻訳家としても知られる。.

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雲南・大理遠征

雲南・大理遠征(うんなん・だいりえんせい)は、1253年から1254年に亘ってモンゴル帝国が大理国に対して行った征服戦争。第四代大ハーン、モンケの治下に行われたクビライの南征の一環として行われ、南征軍の総司令官でもあるクビライが指揮をとった。.

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雲南省

雲南省(うんなんしょう、中国語:云南省、拼音:Yúnnán Shěng、英語:Yunnan)は、中華人民共和国西南部に位置する省。略称は滇(てん)。省都は昆明市。省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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陝西省

陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.

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陳朝

陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.

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枢密院 (中国)

枢密院(すうみついん)は、唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが、軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、金、宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。.

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杭州市

杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった。 隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。(上有天堂、下有蘇杭。)」とたたえられた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西には世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。 一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。.

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東南アジア

東南アジア(とうなんアジア)は、中国より南、インドより東のアジア地域を指す。インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島などを含む。主に、大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。 '''東南アジア''' 東南アジアの地図 東南アジアの範域.

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東アジア

東アジア(ひがしアジア)は、ユーラシア大陸の東部にあたるアジア地域の一部を指す地理学的な名称である。北西からモンゴル高原、中国大陸、朝鮮半島、台湾列島、琉球諸島、日本列島などを含む。北東アジア(東北アジア)、極東、東亜などと呼ぶ場合もある。.

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東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.

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杉山正明

杉山 正明(すぎやま まさあき、1952年3月1日 - )は、静岡県生まれの日本の歴史学者。京都大学文学研究科名誉教授。主要研究テーマはモンゴル時代史、中央ユーラシア史。日本におけるモンゴル史研究の第一人者である。.

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森平雅彦

森平 雅彦(もりひら まさひこ、 - )は、日本の歴史学者、九州大学人文科学研究院歴史学部門朝鮮史学講座教授。専門は朝鮮史。 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。第2期日韓歴史共同研究委員会研究委員(中近世)。 第2回日韓歴史共同研究「10世紀~13世紀前半における日麗関係史の諸問題―日本語による研究成果を中心に―」を発表している。.

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樺太

樺太(からふと)、樺太島(からふととう、、)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400kmは世界第22位で21位の北海道(78,073km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。 樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。 現在、サハリンプロジェクトが進められている。.

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武神 (テレビドラマ)

武神(ぶしん ハングル:무신)は2012年に放送された韓国MBCのテレビドラマ。.

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江南

江南(日本語:こうなん、中国語:チャンナン、朝鮮語:カンナム).

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河南省

河南省(かなんしょう、中国語:河南省、拼音:Hénán Shěng、英語:Henan)は、中華人民共和国の省の1つ。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である。.

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泰定 (元)

泰定(たいてい)は、中国・元のイェスン・テムルの治世で用いられた最初の元号。1324年 - 1328年旧2月。イェスン・テムルは廟号を贈られなかったため、この元号を用いて泰定帝と呼ばれる。.

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漢民族

漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。 中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。.

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朝鮮半島

朝鮮半島(ちょうせんはんとう、)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。 陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが普通であり、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)を擁する。済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。1948年に建国された韓国における呼称は韓半島(かんはんとう、)である。.

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朝日新聞社

株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、英語:The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演、スポーツ大会の開催などの事業活動も行う例えば、全国高等学校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)を日本高等学校野球連盟と共に主催している。。 新聞販売店の名称は「ASA」(朝日新聞サービスアンカー, Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約7万8,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む。 創立は1879年(明治12年)1月8日、日本国内の本支社数は5社、取材拠点は293か所、印刷拠点は24か所であり、日本国外機関は34拠点存在する。.

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易経

『易経』(えききょう、正字体:易經、)は、古代中国の書物。『卜』が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、『筮』は植物である『蓍』の茎の本数を用いた占いである。商の時代から蓄積された卜辞を集大成したものとして易経は成立した。易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別のものとなっている。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は伏羲とされている。 中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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愛宕松男

愛宕 松男(おたぎ まつお、1912年2月8日 - 2004年6月)は、東洋史学者、東北大学名誉教授。 京都府出身。京都帝国大学卒業。1951年東北大学教授。1959年「キタイ部族制社会の研究」で京大文学博士。1974年定年退官、名誉教授、京都女子大学教授。専攻は元朝史など中国の征服王朝史。また陶磁器を中心とした産業史、戯曲・演劇史研究もある。 マルコ・ポーロの「東方見聞録」の翻訳で知られる。子息愛宕元も東洋史学者(京大名誉教授)。.

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故宮博物院

故宮博物院 中国の歴代の皇帝らによって収集され、北京の紫禁城(故宮)に保管されていた歴史的文化財を保存、展示する博物館。.

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1215年

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1251年

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1252年

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1253年

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1256年

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1258年

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1259年

記載なし。

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1260年

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1262年

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1264年

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1265年

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1267年

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1271年

記載なし。

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1273年

記載なし。

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1275年

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1276年

記載なし。

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1281年

記載なし。

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1282年

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1285年

記載なし。

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1287年

記載なし。

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1291年

記載なし。

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1292年

記載なし。

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1293年

記載なし。

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1294年

記載なし。

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12月18日

12月18日(じゅうにがつ じゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から352日目(閏年では353日目)にあたり、年末までは、あと13日となる。.

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1326年

記載なし。

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1941年

記載なし。

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1966年

記載なし。

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1968年

記載なし。

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1971年

記載なし。

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1993年

この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.

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1995年

この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.

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1996年

この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.

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1997年

この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.

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1999年

1990年代最後の年であり、1000の位が1になる最後の年でもある。 この項目では、国際的な視点に基づいた1999年について記載する。.

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1月22日 (旧暦)

旧暦1月22日は旧暦1月の22日目である。六曜は仏滅である。.

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2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2月18日

2月18日(にがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から49日目にあたり、年末まであと316日(閏年では317日)ある。.

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5月5日

5月5日(ごがついつか)はグレゴリオ暦で年始から125日目(閏年では126日目)にあたり、年末まではあと240日ある。誕生花はハナショウブ。.

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6月3日

6月3日(ろくがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から154日目(閏年では155日目)にあたり、年末まであと211日ある。誕生花はアマ、クローバー。.

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8月28日 (旧暦)

旧暦8月28日(きゅうれきはちがつにじゅうはちにち)は、旧暦8月の28日目である。六曜は大安である。.

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9月23日

9月23日(くがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日ある。.

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