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オルガナとモンゴル帝国

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オルガナとモンゴル帝国の違い

オルガナ vs. モンゴル帝国

オルガナ(Orγana, Orqïna 生没年不詳)は、中央アジアを支配したチャガタイ・ハン国の第4代君主(1252年 - 1260年)。オルクナ Orqïna ともいわれる。ペルシア語史料『集史』では اورقنه خاتون Ūrqana Khātūn/Ūrqina Khātūn と表される。 オルガナはオイラト王家の当主クドカ・ベキの次男トレルチと、チンギス・カンとその第1皇后ボルテとの第二皇女チチェゲンとの娘である。同父母兄弟には、ブカ・テムル、ボル・トゥア、バルス・ブカがおり、同父母姉妹にはトルイ家のアリクブケの第一正妃イルチガミシュや同じくフレグの第二正妃グユク・ハトゥンがいる。チンギス・カンは治世の後半に自らの息子や孫たちとオイラト王家の子弟たちとの通婚を緊密にしていたことが知られているが、オルガナは姉妹がトルイ家やジョチ家に嫁ぐ例が多かった中で、チャガタイ家に嫁ぐことになった。 彼女は美貌の持ち主だったといわれ、はじめチャガタイ家のモエトゥケンの息子で第2代君主・カラ・フレグの妃となり、その間にムバーラク・シャーが生まれている。チャガタイはチンギス・カンの西征のおりにバーミヤーンで長男モエトゥケンを失った後、モエトゥケンの四男であったカラ・フレグを自らの後継者と定めた。オルガナはチャガタイ家の次期当主の筆頭正妃となったが、『集史』オイラト部族誌によると、チャガタイは彼女を大変可愛がり、オルクナ・バリ( اورقنه بارى Ūrqana Bārī :「バリ」は「嫁」の意味)と呼んでいたという。 カラ・フレグは1246年に第3代モンゴル帝国皇帝・グユクの内政干渉を受けて廃され、叔父のイェス・モンケが第3代君主となった。ところがイェス・モンケは酒色に溺れて政務を顧みず、オルガナが事実上の統治者として統治を行なった。グユクの死後、モンケが皇帝になると、モンケのチャガタイ家粛清に協力し、1252年に夫カラ・フレグがチャガタイ家の所領に到着する前にアルタイ方面の道中で死去した後、イェス・モンケを処刑した。 その後はモンケの後ろ盾を得て事実上の君主となったが、これは。1259年にモンケが死去し、クビライとアリクブケが後継をめぐって争うと(モンゴル帝国帝位継承戦争)、オルガナはアリクブケを支持し、その即位式にも参列した。しかし華北という肥沃な領土を掌握するクビライに対抗するため、アリクブケはチャガタイ・ハン国に干渉してオルガナを廃し、自らと親しかったアルグを新君主に据えた。ただし、美貌の持ち主だったためにアルグの妃になるように強要され、オルガナはカラ・フレグとの間の息子であるムバーラク・シャーを後継者にしてくれることを条件に受け入れたという。 Category:チャガタイ・ウルスの君主 Category:女性君主 Category:オイラト部 Category:生没年不詳. モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

オルガナとモンゴル帝国間の類似点

オルガナとモンゴル帝国は(ユニオンペディアに)共通で20ものを持っています: 中央アジアチャガタイ・ハン国チンギス・カンバーミヤーンムバーラク・シャー (チャガタイ家)モンケモンゴル帝国帝位継承戦争モエトゥケンボルテフレグアリクブケアルグオイラトカラ・フレグクビライグユク集史1246年1259年1260年

中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

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チャガタイ・ハン国

チャガタイ・ハン国は、13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家(ウルス)である。 モンゴル帝国の建国者であるチンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨した。14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国とも呼ばれる。内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実権を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。西チャガタイ・ハン国の貴族やティムール朝の創始者ティムールは傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。 チャガタイ・ハン国の軍事力の基盤となった遊牧民たちは王朝の創始者であるチャガタイの名前から「チャガタイ人」と呼ばれ、「チャガタイ」は中央アジアに存在するモンゴル国家を指す言葉として使われるようになるバルトリド『トルキスタン文化史』1巻、216頁。中央アジアで成立したトルコ系の文語は「チャガタイ語(チャガタイ・トルコ語)」と呼ばれ、ティムール朝の時代に確立される。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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バーミヤーン

バーミヤーン地域 バーミヤーンの子どもたち バーミヤーン(باميان Bāmiyān)は、アフガニスタンのほぼ中央部、カーブルの北西約240 kmに位置する、バーミヤーン州の州都である。人口は73,200人(2006年の公式推計)。バーミヤーンはハザラジャート最大の都市で、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群で知られる。発音の転訛により、「バーミアーン」などとも表記される。.

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ムバーラク・シャー (チャガタイ家)

ムバーラク・シャー(? - ?)は、中央アジアを支配したチャガタイ・ハン国の第6代君主(在位:1266年)。 父は第2代君主のカラ・フレグ。監国として国政を執ったオルガナを母に持つ。イスラム教徒であり、篤実で公正な人物と伝えられるドーソン 1971、25頁。ムバーラク・シャーの即位は慣例に従った地であるイリ河畔のオルドではなく、イスラーム文化の中心地であるアングレン河畔で行われた。しかし、ムバーラク・シャーの改宗がウルス全体に影響を及ぼしたかについては疑問視されている。 母オルガナはアルグによって廃位された後にそのアルグの妃になり、アルグにチャガタイ家の当主となる大義名分と引き換えに、ムバーラク・シャーの後継者としての地位を確保した杉山 1996、44頁。1266年にアルグが死去すると、チャガタイ家内部の総意によって当主に選出された。しかし、中央アジアとチャガタイ家の統制を図るクビライが、彼に近侍していたバラクをムバーラク・シャーの共同統治者として派遣すると事態は変化する。ムバーラク・シャーはバラクによって廃位され、ケシクの鷹匠(シバウチ)に落とされた。 バラク没後はアルグの遺児カバン、チュベイ兄弟と共にオゴタイ家のカイドゥの元に投じ、彼を「アカ」(モンゴル語で「兄」を意味する)に奉じて、チャガタイ家の指導者として推戴した。 後にムバーラク・シャーはイルハン朝に亡命し、カラウナス(ニークダーリヤーン)軍団の長としてガズナ方面に駐屯し、生涯を終える。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴル帝国帝位継承戦争

モンゴル帝国帝位継承戦争(モンゴルていこくていいけいしょうせんそう、1260年 - 1264年)は、モンゴル帝国の第4代大ハーン(皇帝)モンケの死後に、その一つ下の弟・クビライと、一番下の弟・アリクブケの兄弟が共に大ハーン継承を宣言したことから起きた内乱。当初はアリクブケが優勢だったが、最終的にはクビライが勝利を収め名実共に第5代大ハーンとなった。 古来「アリクブケの乱」の呼ばれてきたモンゴル帝国の内戦を、歴史理論学の立場から言い換えた現代的表現である。『集史』を始めとするペルシア方面で書かれた多くの史書がアリクブケを大ハーンの一人として扱っており、開戦当初はジョチ家・チャガタイ家などほとんどの帝国の構成員がアリクブケを支持する立場をとったことを示す資料が数多く残っている。このことから、クビライこそが当初は反乱者であり、「アリクブケの乱」という名称は勝者クビライによって後に捏造されたと考えられる。.

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モエトゥケン

モエトゥケン(Mö'etüken、? - 1219年)は、チンギス・カンの次男・チャガタイの長男である。『世界征服者史』では ماتيكان Mātīkān、『集史』では مواتوكان Muwātūkān と表記されている。子にバイジュ、ブリ、イェスン・ドゥア、カラ・フレグらがいる。 チャガタイの長男で生母は第1夫人(正妃)のコンギラト部族出身のイェスルン・ハトゥン。『集史』によればチャガタイの息子達のなかでチャガタイから最も愛されていたと言い、父の後継者として期待されていたが、1219年にホラズム・シャー朝攻撃の際にバーミアーンを包囲攻撃していたとき、バーミヤーンの城塞から射られた矢が当り戦死した。 チンギス・カンはその報復としてバーミヤーンを陥落すると徹底的に破壊し、その住民も老若男女から動物まで徹底的に虐殺にしたという。『集史』によると、さらに、バーミヤーンを「マウ・クルカン( ماءؤوقرقان Māwūquruqān < Ma'u Qorqan)」という名に改称させたという。(マウはモンゴル語で「悪い」、クルカンは「城塞」の意味で、「悪しき城」ほどの意味であるという) 『集史』チャガタイ・ハン紀諸子表のモエトゥケンの条などによると、チャガタイはモエトゥケンが戦死したときその場におらず、バーミヤーンが陥落しつつある時に戻って来た。チンギス・カンは数日後、「モエトゥケンはこれこれの場所に行っている」と話し、チャガタイにモエトゥケンの死を隠した。それからさらに数日後、息子たちに向かってわざと怒りを露にして、「汝らは我が言葉を聞かず、私が汝らに言ったことを汝らは怠けおった!」と息子たちを叱りつけたという。チャガタイは跪いて、「チンギス・カンがお命じになることは何であれ従います。もし私が罪を犯したのであれば、私は死を選びます」と答えた。チンギス・カンは何度も繰り返して「汝の言葉は真実か? そのように出来るか?」と詰問し、チャガタイはそれに「もし私が背くようであれば、私は死を選びます」と答えた。すると、チンギス・カンは「モエトゥケンは亡くなった。汝が嘆き悲しむことを禁じる」と言った。チャガタイは心のうちで雷火を受けたようであったが、父の命に従って耐え忍び、泣かなかった。しばらくした後理由を付けて退出すると、隅に隠れて泣いたが、父の前に行くときは両目を拭って綺麗にしたという。.

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ボルテ

ボルテ・ウジン(、 1161年? - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后。コンギラト部族出身。漢字表記は孛児台、『元朝秘史』では孛児帖旭真、『集史』のペルシア語ではと表記される。「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称である。元朝から光献翼聖皇后と諡名される。名はモンゴル部族の始祖として夙に有名な「蒼き狼(ボルテ・チノ)」のボルテと同じで、「灰色のまだら模様」を意味する。.

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フレグ

フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位:1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(Shu'`ab-i Panjgāna)』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku 『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, Jāmi'al-Tawārīkh, (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。.

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アリクブケ

アリクブケ(モンゴル語:, ラテン文字転写: )は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。漢文史料では阿里不哥、ペルシア語史料では()と書かれる。書籍によってはアリクブカとも表記される。.

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アルグ

アルグ(? - 1266年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ・ハン国の第5代君主(在位:1260年 - 1266年)である。父はチャガタイの子バイダルで、チンギス・カンの曾孫にあたる。チャガタイ家の中では傍流であったが、第4代大ハーン・モンケの急死、それに伴う混乱の中で急速にその地位を高めた。 1260年、クビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発すると、最初チャガタイ家は、夫亡き後、監国(摂政)として政務を担っていたオルガナの下、アリクブケを支持した。しかし、アリクブケはクビライに連敗した上、経済封鎖策によって深刻な食料不足に陥った。追い詰められたアリクブケはカラコルムに食料を送る事を条件に側近だったアルグをチャガタイ家当主に任命、チャガタイ家に送り込んだ。実権を奪われたオルガナはアルグの妃になるように強要され、オルガナはカラ・フレグとの間の息子であるムバーラク・シャーを後継者にすることを条件に受け入れたという。 しかし、チャガタイ家領に入りオルガナから実権を奪うと、アルグはアリクブケに対して反旗を翻した。これには、即位時にチャガタイ家の有力者の多くを粛清したモンケ政権の後を継ぐ形でできたアリクブケ政権に対するチャガタイ家の反発が背景にあったとも言われる。一時攻めてきたアリクブケに本拠地アルマリクを占領され、サマルカンドに退却することもあったが、1264年にアリクブケがクビライに降伏したことで、ついに全チャガタイ家領を統一した。 帝位継承戦争集結後、クビライが統一クリルタイの開催を提唱したとき、アルグは真っ先に参加を表明したものの、実現される前に病没した。 Category:チャガタイ・ウルスの君主 Category:生年不明 Category:1266年没.

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オイラト

イラト(Oirad、Oyirad、瓦剌、衛拉特)は、モンゴル高原の西部から新疆の北部にかけて居住する民族。.

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カラ・フレグ

ラ・フレグ(Qara Hülegü, ? - 1252年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第2代君主(在位:1242年 - 1246年, 1251年)。チンギス・カンの次男チャガタイの長男であるモエトゥケンの四男、つまりチンギス・カンの曾孫である。オイラト王家出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバーラク・シャーを儲けた。『元史』では合剌旭烈大王、『集史』などのペルシア語表記では قرا هولاكو Qarā Hūlākū、『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』では(一部、『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』でも) قرا هولاووQarā Hūlāwū とも書かれる。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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グユク

1246年にグユクがインノケンティウス4世へ宛てた勅書に捺された印璽 グユク(Güyük、、 1206年3月19日 - 1248年4月20日)は、モンゴル帝国の第3代皇帝(在位1246年8月24日 - 1248年4月20日)。漢語資料の表記では貴由、古余克、谷由皇帝。ペルシア語資料での表記では كيك خان kuyuk khān ないし گيوك خان Guyūk khān など。大元ウルスによって贈られた廟号は定宗。 第2代皇帝オゴデイの長子で第6皇后ドレゲネとの間に生まれた長男である。グユクは第3代モンゴル皇帝であるが、先代のオゴデイがモンゴル皇帝として初めて「カアン」(Qaγan, Qa'an)を名乗ったものの、グユクはこの「カアン」(哈罕皇帝/合罕皇帝)を父オゴデイのみの称号と考えたのか、自らは名乗りとして用いず、もっぱらカン(ハン Qan/χan 〜 خان khān)の称号のみを名乗ったと考えられている。.

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集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

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1246年

記載なし。

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1259年

記載なし。

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1260年

記載なし。

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上記のリストは以下の質問に答えます

オルガナとモンゴル帝国の間の比較

モンゴル帝国が473を有しているオルガナは、26の関係を有しています。 彼らは一般的な20で持っているように、ジャカード指数は4.01%です = 20 / (26 + 473)。

参考文献

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