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つぼのいしぶみ

索引 つぼのいしぶみ

つぼのいしぶみ(漢字表記では「壺の碑」)とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。.

59 関係: おくのほそ道南部重信古川古松軒坂上田村麻呂多賀城多賀城碑大町桂月大槻文彦寂蓮岩倉具視中道等仙台藩佐久間洞巖徳川光圀喜田貞吉和歌和泉式部石碑田中義成盛岡藩盛田稔菅江真澄青森県顕昭西行高山彦九郎謡曲鴨長明黒川道祐近藤芳樹藤原仲実藤原清輔長久保赤水林子平東北町松尾芭蕉松浦武四郎橘南谿歌枕江戸時代源頼朝明治明治天皇新井白石新唐書文室綿麻呂日本中央の碑旧唐書慈円拓本...1760年1870年1872年1876年1892年1911年1949年762年811年 インデックスを展開 (9 もっと) »

おくのほそ道

『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる。 作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。読み易い文庫判は、岩波文庫、角川ソフィア文庫、講談社学術文庫がある。.

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南部重信

南部 重信(なんぶ しげのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名で、陸奥盛岡藩の第3代藩主。南部氏の第29代当主。父は南部利直。母は閉伊氏の一族、花輪政朝の娘・松。幼名は彦六郎。別名は、乙松、鍋松丸など。地元の人々からは親しみを持って「花輪殿様」と呼ばれている。.

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古川古松軒

古川 古松軒(ふるかわ こしょうけん)は江戸時代後期の旅行家、地理学者。.

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坂上田村麻呂

坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。 坂上宝剣では坂家。.

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多賀城

多賀城(たがじょう/たがのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。 奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。なお、多賀城が存在した頃は「平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたため注意が必要。.

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多賀城碑

多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑。1998年(平成10年)6月に国の重要文化財に指定されている。 当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。.

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大町桂月

大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は高知県出身で、近代日本の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。.

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大槻文彦

thumb 一ノ関駅前の大槻三賢人像(文彦は左側) 大槻 文彦(おおつき ふみひこ、弘化4年11月15日(1847年12月22日) - 1928年(昭和3年)2月17日)は、日本の国語学者。明六社会員。帝国学士院会員。本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。.

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寂蓮

寂蓮(じゃくれん、1139年(保延5年)? - 1202年8月9日(建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長。.

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岩倉具視

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階・勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。.

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中道等

中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1968年(昭和43年)8月22日)は、大正時代から昭和時代にかけて活動した郷土史家、民俗学者である。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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佐久間洞巖

佐久間 洞巖(さくま どうがん、承応2年6月7日(1653年7月1日) - 享保21年2月11日(1736年3月22日))は江戸時代前期から中期の儒者・画家・書家。名は義和。字は子巌。洞巖と号する。別号に容軒・太白山人。幼名は梅之助。通称は彦四郎。.

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徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。.

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喜田貞吉

喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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和泉式部

菊池容斎『前賢故実』より 小倉百人一首56番「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」 和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。.

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石碑

ルーン石碑 石碑(せきひ、)とは、人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。「碑(いしぶみ)」ともいう。墓石としてなど他の目的を持たず、銘文を刻むこと自体を目的とするものをいう(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)。なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌・短歌や歌の歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)、詩を刻んだものを詩碑(しひ)という。.

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田中義成

中 義成(たなか よしなり、安政7年3月15日(1860年4月5日) - 大正8年(1919年)11月5日)は、国史学者。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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盛田稔

盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - )は日本の経済史学者、青森山田学園学園長。 青森県七戸町生まれ。県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)、弘前高等学校卒、1941年東京帝国大学(現・東京大学)経済学部卒業。陸軍主計将校をへて、七戸中学校、青森県立七戸高等学校教諭。弘前大学野辺地分校講師、助教授。青森短期大学教授。北里大学獣医畜産学部教授、青森大学教授、1971年学長。1992年退任、名誉教授。県文化財保護協会会長、県文化振興会議会長、県史企画編集委員会会長。2012年青森山田学園理事長。のち学園長。.

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菅江真澄

菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。知之(ともゆき)、白超とも名乗った。.

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青森県

青森県(あおもりけん)は、日本の本州最北端に位置する県。県庁所在地は青森市である。県の人口は全国31位、面積は全国8位。令制国の陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)で構成されている。.

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顕昭

顕昭(けんしょう、大治5年(1130年)? - 承元元年(1209年)?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌僧。亮公(すけのきみ)、亮阿闍梨(すけのあじゃり)とも呼ばれる。父母については不明であるが、左京大夫藤原顕輔の養子となったため、藤原姓を賜っていた。1191年(建久2年)までに阿闍梨、晩年に法橋に叙せられた。 少年期比叡山で修学したが離山、後に仁和寺に入寺し、『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』など多くの歌学書を著している。それらの大部分は仁和寺宮守覚法親王に献呈したものである。 顕輔・清輔没後は六条藤家の中心的存在として歌壇で活躍。歌合への出詠は20数度に及ぶ。「六百番陳状」は「六百番歌合」の判者藤原俊成への反駁文である。「千五百番歌合」などの判者も勤めている。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に43首入集。『今撰和歌集』は顕昭の私撰集とされる。 実作上では『万葉集』尊重、風情重視の立場をとり、藤原定家らと対立したが、むしろ六条藤家歌学の大成者としての功績が大きい。 Category:末茂流 Category:平安時代の僧 Category:平安時代の歌人 Category:1130年生 Category:1209年没.

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西行

西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。.

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高山彦九郎

山彦九郎歌碑、京都川端三条 高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享4年5月8日(1747年6月15日) - 寛政5年6月28日(1793年8月4日))は、江戸時代後期の尊皇思想家である。諱は正之、戒名は「松陰以白居士」。父は高山良左衛門正教、母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも、後にさき。子に高山義介ほか娘など。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。 三島由紀夫が強い関心を持っていたことでも知られる(他には、葉隠・神風連・三輪神社・大乗仏教・密教・陽明学)。.

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謡曲

謡曲(ようきょく)とは、能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。本来、「謡」と言われていたものが、大正・昭和初期から「謡曲」とも称するようになった。謡曲は「謡の曲」という意味であり、この項目では便宜上能の声楽部分に当たる謡については措き、テキストとしての能の詞章やそれを収めた書籍について取り上げる。謡については謡の項参照。.

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鴨長明

長明 (菊池容斎画、明治時代) 下鴨神社境内にある摂社。河合神社は鴨長明ゆかりの社 河合神社内にある長明の方丈 鴨 長明(かも の ちょうめい、久寿2年(1155年) - 建保4年閏6月10日(1216年7月26日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。俗名はかものながあきら。禰宜・鴨長継の次男。位階は従五位下。法名は蓮胤。南大夫、菊大夫とも称される。.

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黒川道祐

黒川 道祐(くろかわ どうゆう、1623年(元和9年) - 1691年12月23日(元禄4年11月4日))は、江戸時代初期の医者であり、歴史家である。.

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近藤芳樹

近藤 芳樹.

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藤原仲実

藤原 仲実(ふじわら の なかざね、康平7年(1064年) - 保安2年12月23日(1122年2月1日))は、平安時代後期の公卿。大納言藤原実季の三男。桟敷または高松を号す。官位は正二位・権大納言。.

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藤原清輔

藤原 清輔(ふじわら の きよすけ)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。六条藤家3代。.

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長久保赤水

長久保 赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠、俗名:源五兵衛、享保2年11月6日(1717年12月8日) - 享和元年7月23日(1801年8月31日))は、江戸時代中期の地理学者、漢学者である。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。号の赤水と字の玄珠は荘子の天地篇にある『黄帝、赤水の北に遊び、崑崙の丘に登って、面して南方して還帰し、其玄珠を遺せり。』から取られている。.

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林子平

林子平肖像(大槻磐渓賛) 林子平 銅像 仙台市龍雲院にある林子平の墓 林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。 高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)。名は友直。のちに六無齋主人と号した。.

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東北町

東北町(とうほくまち)は、青森県上北郡の中央部に位置する町である。駅伝の町として県内では知られており、県内全市町村が参加する青森県民駅伝競走大会では町の部で13連覇を果たしている。.

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松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表)は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 俳諧(連句)の芸術的完成者であり東明雅『芭蕉の連句』(岩波新書)蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖佐藤編(2011)、p.247、あとがきとして世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。.

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松浦武四郎

松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、好古家。名前の表記は竹四郎とも 小堀一正、待兼山論叢 史学篇 16、1982。諱は弘。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。.

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橘南谿

橘 南谿(たちばな なんけい、宝暦3年4月21日(1753年5月23日) - 文化2年4月10日(1805年5月8日))は、江戸時代後期の医者。文をよくし、紀行『東遊記』、『西遊記』(併せて東西遊記と称される)と随筆『北窓瑣談』が知られる。.

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歌枕

歌枕(うたまくら)とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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新井白石

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。.

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新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

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文室綿麻呂

文室 綿麻呂(ふんや の わたまろ)は、平安時代前期の公卿。従四位下・三諸大原の長男。.

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日本中央の碑

日本中央の碑(にほんちゅうおうのいしぶみ)とは、青森県東北町にある石碑のことである。.

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旧唐書

『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.

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慈円

慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.

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拓本

蘭亭序の拓本 拓本(たくほん)は、伝統的な器物の複写の方法の一つ。.

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1760年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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1872年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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1892年

記載なし。

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1911年

記載なし。

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1949年

記載なし。

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762年

記載なし。

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811年

記載なし。

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