Google PlayストアでUnionpediaアプリを復元するために作業中です
出ていきます入ってきます
🌟ナビゲーションを改善するためにデザインを簡素化しました!
Instagram Facebook X LinkedIn

12世紀

索引 12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世音菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。

目次

  1. 739 関係: 劉予執権原初年代記厳島神社十字軍十三人の合議制千載和歌集南宋南京市南都焼討古典古琉球台記参議叙任権闘争吉備大臣入唐絵巻堀河天皇声明壇ノ浦の戦い大原 (京都市)大原御幸大司教大宋宣和遺事大義名分大髑髏大輪田泊大英博物館天台座主天仁天皇天祚帝太上天皇太上法皇太皇太后太政大臣夷堅志奥州合戦奥州藤原氏女御女真女真文字孝宗 (宋)宣和室町時代守護宇治川の戦い安徳天皇宋銭宋江寧宗... インデックスを展開 (689 もっと) »

  2. 2千年紀

劉予

劉 豫(りゅう よ)は、中国北宋末の官僚、金朝の傀儡国家である斉(劉斉)の皇帝。字は彦遊。

見る 12世紀と劉予

執権

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け、政務を統轄した。元来は政所の別当の中心となるものの呼称であった。

見る 12世紀と執権

原初年代記

『原初年代記』(げんしょねんだいき)は、およそ850年から1110年までのキエフ・ルーシの歴史について記された年代記(レートピシ)である。初版は1113年に編纂された。『過ぎし年月の物語』(古ルーシ語:Повѣсть времяньныхъ лѣтъ;ウクライナ語:Повість врем'яних літ;ベラルーシ語:Аповесць мінулых часоў;ロシア語:Повесть временных лет)とも。

見る 12世紀と原初年代記

厳島神社

境内 全景(弥山中腹より) 2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。 平成8年(1996年)12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。

見る 12世紀と厳島神社

十字軍

第1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、croisade、crusade)とは、中世に西欧カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教勢力による対イスラム遠征軍を指すが、キリスト教異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)や北欧や東欧の非キリスト教圏に対する征服戦争(北方十字軍)などにも「十字軍」の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回十字軍は北アフリカのチュニスを標的としている。

見る 12世紀と十字軍

十三人の合議制

十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、源頼朝の死後、建久10年(1199年)4月に発足した鎌倉幕府の集団指導体制を指す歴史学上の用語である。正治2年(1200年)には解体した。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。

見る 12世紀と十三人の合議制

千載和歌集

『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は、平安時代末期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称は『千載集』(せんざいしゅう)。

見る 12世紀と千載和歌集

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝)で解説することとする。

見る 12世紀と南宋

南京市

南京市(ナンキンし、、、/Nanking、南京官話:Lang2jin1)は、中華人民共和国江蘇省の省都。

見る 12世紀と南京市

南都焼討

南都焼討(なんとやきうち)は、治承4年12月28日(1181年1月15日)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。

見る 12世紀と南都焼討

古典

古典(こてん)は、古い書物、形式のこと。また、長く時代を超えて規範とすべきもののこと。 英語のclassic/classical、またはそれに相当する西洋語の単語の訳に使われる。これらの語は、分野によっては、古典派と訳されたり、(classicかclassicalかを問わず)クラシックと音訳されたりすることもある。古典と訳されることのない用語については、#関連項目を参照。 古典の定義は、分野によって、厳密に決まっているものも、曖昧なものもある。「注釈書がたくさん書かれている本が、古典だ」と述べているものもいる。曖昧な場合、その基準は衆知、あるいは(自称)識者の決するところによるため、価値観や世代の違いに影響されやすい。

見る 12世紀と古典

古琉球

古琉球 (こりゅうきゅう)は、「琉球」(現在の沖縄県(八重山列島)および、しばしば鹿児島県奄美群島を含む)の歴史区分である。 農耕社会の成立(12世紀頃)から、琉球王国の成立まで。島津氏の進入(1609年)までとする場合もある。

見る 12世紀と古琉球

台記

『台記』(たいき)は、宇治左大臣藤原頼長の日記。『宇槐記』、『槐記』とも言う。『台記』の名称は、大臣の唐名のひとつ「三台」による。

見る 12世紀と台記

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つ。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。

見る 12世紀と参議

叙任権闘争

叙任権闘争(じょにんけんとうそう、)は、中世初期において特にローマ皇帝(俗権)がローマ教皇(教権)との間で司教や修道院長の任命権(聖職叙任権)をめぐって行った争いのこと。

見る 12世紀と叙任権闘争

吉備大臣入唐絵巻

吉備大臣入唐絵巻(きびのおとど にっとう えまき、または、きび だいじん にっとう えまき)は、日本の12世紀末から13世紀初めに作られた絵巻物の一つ。所蔵者は、アメリカ合衆国のボストン美術館。遣唐使として唐に渡った吉備真備が、現地で数々の難題を吹っかけられるも、鬼となった阿倍仲麻呂の助けを借りてこれをことごとく退ける説話を生き生きと描いた、院政期文化を代表する絵巻物の名品である。

見る 12世紀と吉備大臣入唐絵巻

堀河天皇

堀河天皇内裏跡石碑(破壊され現存しない) 堀河天皇(ほりかわてんのう、1079年8月8日〈承暦3年7月9日〉- 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉)は、日本の第73代天皇(在位:1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉- 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉)。諱は善仁(たるひと)。 白河天皇の第三皇子。母は藤原師実の養女で白河中宮の賢子。准母は同母姉の媞子内親王(郁芳門院)。

見る 12世紀と堀河天皇

声明

声明(しょうみょう、śabda-vidyā)とは、古代インドにおける五つの学科のひとつで、サンスクリットなどの音韻論・文法学を指す。 転じて、仏典に節をつけた仏教音楽を指す。日本では、梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)ともいう。本項ではこの仏教音楽について主に記述する。

見る 12世紀と声明

壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。

見る 12世紀と壇ノ浦の戦い

大原 (京都市)

大原(おおはら)は、京都府京都市左京区北東部にある地名。比叡山の北西麓、高野川上流部に位置する。大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って若狭街道が通っている。かつて大原村は山城国愛宕郡に属し、南隣の八瀬と併せて「八瀬大原」とも称された。古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記された。

見る 12世紀と大原 (京都市)

大原御幸

大原御幸(おおはらごこう、おはらごこう)とは、平氏滅亡後に大原に出家・隠棲した建礼門院(平徳子)を後白河法皇が秘かに訪問したとされる故事。御幸の真偽については不明だが、『平家物語』諸本、説話集『閑居友』に記述がある。『閑居友』は「かの院の御あたりの事を記せる文(後白河院の周辺の事について記した文)」から書き写したとしている。『平家物語』延慶本では巻六末廿五「法皇小原ヘ御幸成ル事」に記載されており、小原と表記されている。『閑居友』と『平家物語』の関連性については議論があり、どちらが先行したものであるかについては定まった見解はない。

見る 12世紀と大原御幸

大司教

大司教の紋章 大司教(だいしきょう、Archiepiscopus)は、カトリック教会の聖職者位階司教の範疇に属する聖務職。正教会と聖公会では大主教に相当する。他言語のほとんどでは区別せず、たとえば英語ではともにアーチビショップ(archbishop)である。カトリックの教会行政では特定の司教に与えられる栄誉称号であるが、聖職者としては司教と同様の位階ながらもしばしば他の司教を超える大きな権限を享有した。 カトリック教会の教会法において4種類に分類される。

見る 12世紀と大司教

大宋宣和遺事

『大宋宣和遺事』(だいそうせんないじ)は、中国北宋王朝末期の皇帝徽宗の一代記の形式をとった説話集である。単に『宣和遺事』ともいう。宣和は徽宗皇帝治世終盤の年号(1119年 - 1125年)。 講談形式で歴史を語る「講史」に近く部分的に白話(口語)の文体で語られている。小説的な要素もあるが、基本的にはそれまでの説話・講談本・史書から逸話を抜き出してまとめた書である。ただし整理が十分でないため、前半と後半では文体や構成法がかなり異なるなど一貫性はない。南宋以来、都市部で流行した講談のためのネタ本として作られ、本書に載る逸話を講釈師がそれぞれ話を膨らませて語るための元になったのではないかと思われる。そのため史書には載らないような逸話も収載されており、講談や戯曲を元に形成されたと思われる『水滸伝』などの白話小説の成立過程において、この書は重要な役割を担ったと考えられており、とりわけ水滸伝成立史の研究にとって避けては通れぬ資料となっている。

見る 12世紀と大宋宣和遺事

大義名分

大義名分(たいぎめいぶん)とは、。

見る 12世紀と大義名分

大髑髏

大髑髏(おおどくろ) 巨大な髑髏(頭蓋骨)の意。しばしば妖怪、怪物のモチーフとなる。

見る 12世紀と大髑髏

大輪田泊

大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい武藤(1979)p.311、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。 現在でも漢字表記は異なるものの「和田岬(わだみさき)」として名が残っている。

見る 12世紀と大輪田泊

大英博物館

大英博物館(だいえいはくぶつかん、British Museum)は、イギリス・ロンドンのブルームズベリー地区にある人類の歴史、芸術、文化を専門とする公的機関であり、世界で最初の公立の国立博物館である。大英帝国時代に広く収集された約800万点の常設コレクションは、現存するものの中で最大かつ最も包括的なものであり、人類の文化の始まりから現在までを記録している彫刻と応用美術はヴィクトリア&アルバート博物館に、大英博物館には初期の美術、非西洋美術、版画、デッサンが収蔵されている。大英博物館では、初期の美術品、非西洋美術、版画、デッサンが展示されており、後期の美術品はテート・モダンにある。ナショナル・ギャラリーは西欧美術のナショナル・コレクションを所蔵している。

見る 12世紀と大英博物館

天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の仏教天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。

見る 12世紀と天台座主

天仁

は、日本の元号の一つ。嘉承の後、天永の前。1108年から1110年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。

見る 12世紀と天仁

天皇

天皇(てんのう)は、 古代以来の血統を受け継ぐ日本の君主ならびにその称号。称号としては7世紀頃に大和朝廷の大王が用いたことに始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 2019年(令和元年)5月1日より在位中の天皇は徳仁(明仁第1皇男子)。 皇位の象徴である高御座。

見る 12世紀と天皇

天祚帝

天祚帝(てんそてい)は、遼の第9代(最後)の皇帝。

見る 12世紀と天祚帝

太上天皇

光厳上皇宸筆「太上天皇」 太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにある。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。

見る 12世紀と太上天皇

太上法皇

太上法皇(だじょうほうおう、だいじょうほうおう)は、出家した太上天皇(上皇)、またはその称号。法皇(ほうおう)と略す事も多い。

見る 12世紀と太上法皇

太皇太后

太皇太后(たいこうたいごう、Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。

見る 12世紀と太皇太后

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官(律令官制および明治時代の太政官制)の長官・最高職。 唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名で、律令下においては具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。明治の太政官では天皇の役割を代行する政府首脳としての官職であった。

見る 12世紀と太政大臣

夷堅志

『夷堅志』(いけんし)は、中国南宋の洪邁(1123年 - 1202年)が編纂した志怪小説集である。1198年(慶元4年)頃の成立、206巻。

見る 12世紀と夷堅志

奥州合戦

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。

見る 12世紀と奥州合戦

奥州藤原氏

毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年合戦・後三年合戦の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間に陸奥(後の陸中国)平泉を中心として出羽を含む奥羽地方(現在の東北地方)一帯に勢力を張った藤原北家の支流の豪族。藤原北家秀郷流一族。平泉藤原氏(ひらいずみふじわらし)または北方藤原氏(ほっぽうふじわらし)ともいう。

見る 12世紀と奥州藤原氏

女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。

見る 12世紀と女御

女真

女真(女眞、じょしん、ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山(白頭山)とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。 「女直」は遼王朝の興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになったといわれる。12世紀、女真族は中国東北部に金王朝を建てたが、金を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人に言及する場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha が使用されている。

見る 12世紀と女真

女真文字

女真文字(じょしんもじ、女真文: 、発音: )は、中国の東北部、華北及び華中の一部に金を建てた女真が使用した文字。女真大字と女真小字の2種類の文字があるとされる。

見る 12世紀と女真文字

孝宗 (宋)

孝宗(こうそう)は、南宋の第2代皇帝。

見る 12世紀と孝宗 (宋)

宣和

宣和(せんわ、せんな)は、中国・北宋代徽宗の治世で用いられた元号。1119年 - 1125年。

見る 12世紀と宣和

室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代を指す。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。

見る 12世紀と室町時代

守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。 鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。

見る 12世紀と守護

宇治川の戦い

宇治川の戦い(うじがわのたたかい)は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された範頼、義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。

見る 12世紀と宇治川の戦い

安徳天皇

安徳天皇(あんとくてんのう、、1178年12月22日〈治承2年11月12日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉- 1185年4月25日〈寿永4年3月24日〉)。諱は言仁(ときひと)歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』。歴代の天皇の中で最も若くして崩御した天皇。戦乱で落命したことが記録されている唯一の天皇である。 高倉天皇の第一皇子名前で読む天皇歴史207-208頁『安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。

見る 12世紀と安徳天皇

宋銭

北宋銭 北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他) 宋銭(そうせん)は、中国・宋代に鋳造された貨幣である銅銭。また、宋代には鉄銭も鋳造された が、一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。

見る 12世紀と宋銭

宋江

宋 江(そう こう、Sòng Jiāng、生没年不詳)は、北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物。四大叛徒の一人。また、その反乱事件に題材にした小説で中国の四大奇書の一つである『水滸伝』では主人公となっている。綽名は呼保義(こほうぎ)。

見る 12世紀と宋江

寧宗

寧宗(ねいそう)は、東アジアにおける皇帝の廟号の一つ。

見る 12世紀と寧宗

寿福寺

寿福寺(じゅふくじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。正式には亀谷山寿福金剛禅寺(きこくさん じゅふくきんごうぜんじ)と号する。鎌倉五山第三位の寺院である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。鎌倉三十三観音霊場の第24番。鎌倉二十四地蔵の第18番。境内は「寿福寺境内」として、国の史跡に指定されている。

見る 12世紀と寿福寺

寿永二年十月宣旨

寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)は、寿永2年(1183年)10月に朝廷から源頼朝に下された宣旨。頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したものとされる。寿永の宣旨とも。

見る 12世紀と寿永二年十月宣旨

富士の巻狩り

富士の巻狩り(ふじのまきがり)とは、建久4年(1193年)5月から6月にかけて、源頼朝が多くの御家人を集め駿河国富士山麓の藍沢(現在の静岡県御殿場市・裾野市一帯)・富士野(静岡県富士宮市)にて行った壮大な巻狩のことである。

見る 12世紀と富士の巻狩り

富士川の戦い

富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代後期の治承4年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日、グレゴリオ暦16日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。 石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり、鎌倉に入る。一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。その両者が駿河国で合流し、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江での割拠を確立させた。

見る 12世紀と富士川の戦い

尼崎市

尼崎市(あまがさきし)は、兵庫県の南東部に位置する市。中核市かつては保健所政令市に指定(いわゆる「三号指定」)されていたが、2009年に中核市に指定されたことにより、保健所政令市の業務は当然に行い得ることとなった(いわゆる「二号指定」)。および中枢中核都市に指定されている。1916年(大正5年)に市制施行。

見る 12世紀と尼崎市

山家集

『山家集』(さんかしゅう)は、平安末期の歌僧・西行法師の歌集。歌数は約1560首だが、増補本では300首余が加わる。 確かな成立年は不詳だが、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中か直後だと思われる。俊成・良経・慈円・定家・家隆ら5名の家集とともに六家集の一つで、『山家和歌集』、『西行法師歌集』の別名がある。西行生前の撰を後人が増補したと見られ、西行の自撰なる『山家心中集』や、『西行上人集』との関連が注目される。

見る 12世紀と山家集

山田寺

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にある法相宗の寺院。山号は大化山。本尊は十一面観音。一般的には、かつてここにあった古代寺院を指す。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。法号を浄土寺または華厳寺と称する。中世以降は衰微して明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、1892年(明治25年)に小寺院として再興されている。 1921年(大正10年)3月3日史跡に指定され、1952年(昭和27年)3月29日「山田寺跡」として国の特別史跡に指定されている。1982年(昭和57年)12月4日に追加指定されている。

見る 12世紀と山田寺

居士

居士(こじ)。

見る 12世紀と居士

屋島の戦い

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現・高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。

見る 12世紀と屋島の戦い

岳飛

岳 飛(がく ひ、、崇寧2年2月15日(1103年3月24日)- 紹興11年12月29日(1142年1月27日))は、中国南宋の武将。字は鵬挙(ほうきょ)。相州湯陰県の出身。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相の秦檜に謀殺された伊原(2008)pp.200-202伊原(2008)pp.202-204。その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。その後に神格化され、明代に靖魔大帝に封ぜられた。書も能くし、「出師の表」も書いており、文化的イメージと結びつけられやすく、小説や京劇などでもよくとりあげられる人物である。

見る 12世紀と岳飛

崔忠献

崔 忠献(チェ・チュンホン、天徳元年(1149年) - 興定3年9月20日(1219年10月29日))は、高麗の武臣・重臣。武臣政権の第5代執権者。本貫は牛峰崔氏。弟は崔忠粋。子は崔瑀・崔珦・崔珹・崔球。初名は鸞、諡号は景成。

見る 12世紀と崔忠献

崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、、1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉)は、日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)。諱は顕仁(あきひと)。 鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。譲位後は新院。その後、 平安時代末期の1156年(保元元年)に貴族の内部抗争である保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれた。日本三大怨霊の一人として知られる。 小惑星のSutoku(崇徳)は崇徳天皇に因んで命名された。

見る 12世紀と崇徳天皇

工藤祐経

工藤 祐経(くどう すけつね、1147年もしくは1152年 - 1193年6月28日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人。藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。

見る 12世紀と工藤祐経

巨鹿県

巨鹿県(きょろく-けん)は、中華人民共和国河北省邢台市に位置する県。秦代から南北朝時代にかけて同名の巨鹿県が設置されたが、これは別県である。また鉅鹿県とも表記される。

見る 12世紀と巨鹿県

上田秋成

上田 秋成(うえだ あきなり、享保19年6月25日(1734年7月25日) - 文化6年6月27日(1809年8月8日))は、江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。本名上田東作。別号は無腸・余斎・漁焉・鶉居など、戯号は和訳太郎・剪枝畸人・洛外半狂人など。怪異小説『雨月物語』の作者として特に知られる。

見る 12世紀と上田秋成

中尊寺金色堂

中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は、岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂である。奥州藤原氏初代藤原清衡が天治元年(1124年)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術を集めたものとして国宝に指定されている。堂の所有者は宗教法人金色院である。なお、中尊寺の歴史や金色堂以外の建築、文化財等については別項「中尊寺」を参照。

見る 12世紀と中尊寺金色堂

中山世鑑

『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)は、琉球王国の初めての正史である。 羽地朝秀が王命により編纂。1650年成立。全6巻。巻頭部分は漢文で記述され、正巻部分は全5巻で、こちらは漢字仮名まじり文(和文)で書かれている。和暦の採用や、源為朝(鎮西八郎)が琉球に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとする(『琉球神道記』、『保元物語』、『平治物語』などにも同様の記述がみられる。)記述がある。中山世鑑は正史であり、この話がのちに曲亭馬琴と葛飾北斎による『椿説弓張月』を産んだ。この記述に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。また、鎌倉幕府が建てた京都・建仁寺の文献にも「源為朝が琉球に渡り建国の主となる」と記述されている。

見る 12世紀と中山世鑑

中国

中国(ちゅうごく、中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の略称としても使用されている。 中国統一問題を参照)。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。

見る 12世紀と中国

中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。

見る 12世紀と中納言

常盤光長

常盤 光長(ときわ みつなが、生没年不詳)は、平安時代後期の宮廷絵師。後世、藤原 光長とも、また土佐派成立後にその祖先の一人として土佐 光長とも呼ばれた。出自は明らかではないが、一説に藤原北家良門流、中務大輔・藤原経隆、あるいは豊前守・藤原邦隆の子とする。従四位下・刑部大輔。 承安3年(1173年)藤原隆信と協同で最勝光院御所の障子会を描く。また、後白河法皇の命により『年中行事絵巻』を描いたとされている。さらに、絵巻中の描写の共通点から『伴大納言絵詞』と『吉備大臣入唐絵巻』を描いたとも見做されている。

見る 12世紀と常盤光長

常陸坊海尊

常陸坊 海尊(ひたちぼう かいそん、生没年未詳)は、『源平盛衰記』『義経記』『平家物語』に登場する人物。園城寺または比叡山の僧であったとされる。

見る 12世紀と常陸坊海尊

丹後局

丹後局(たんごのつぼね)。

見る 12世紀と丹後局

丘長春

丘 長春(きゅう ちょうしゅん、、1148年2月10日(皇統8年1月19日) - 1227年8月22日(太祖22年7月9日))は、道教の一派の全真教の金末から元初の道士。 姓は丘、諱は処機()、字は通密。道号は長春子()、全真教における尊称として「長春真人」と呼ばれる。

見る 12世紀と丘長春

世宗 (金)

世宗(せいそう)は、金の第5代皇帝。女真名は烏禄(ウル)、漢名は褎(ゆう)、のち雍(よう)。訛里朶(オリド、宗輔)の長男で、熙宗・海陵王と同じく太祖阿骨打の孫にあたる。 正妃は女真烏林荅(ウリンダン)部の首長の石土黒の娘の烏林荅氏(明徳皇后)。

見る 12世紀と世宗 (金)

世尊寺流

世尊寺流(せそんじりゅう)は、平安時代、藤原行成を祖とする和様書道の流派の一つ。小野道風、藤原佐理のあとをうけて上代様の書風を完成したとされる。書風は、世尊寺様とも呼ばれ、宮廷や貴族などでは最も権威ある書法として用いられた。 藤原行成が晩年、母の里方の代明親王の邸宅に隠棲し、邸宅内に世尊寺を建立し、またその子孫が世尊寺家を名乗り、代々そこを住居としたためこの名で呼ばれた。 初代藤原行成から17代を数えるが、1532年(享禄5年)、17代目世尊寺行季没をもって、世尊寺家は断絶し、それにより世尊寺流は断絶した。

見る 12世紀と世尊寺流

世紀

世紀(せいき)とは、西暦を100年単位で区切った範囲に対しての呼称である。百年紀。“century”(英 /ˈsenʧɚi/ センチュリー)や“centennium”の訳語(語源はラテン語で「百」を意味する“centum”)である。「世紀」を「C」という略記号で表すことがある(例えば、“20C ”は20世紀を表す)。 世紀は紀元後については、西暦元年(1年)から100年区切りごとに一単位として数える序数で表現される。また紀元前の世紀についても、紀元前1年から遡って100年区切りごとに数える(後述)。このため、紀元0年が存在しないことと同様に、「0世紀」というものは存在しない。例えば、21世紀は英語で“The 21st (twenty-first) century ”と表現される「21番目の世紀」「第21世紀」という意味である。

見る 12世紀と世紀

三左衛門事件

三左衛門事件(さんさえもんじけん)は、源頼朝急逝直後の正治元年(1199年)2月、一条能保・高能父子の遺臣が権大納言・源通親(土御門通親)の襲撃を企てたとして逮捕された事件。「三左衛門」とは、捕らえられた後藤基清、中原政経、小野義成がいずれも左衛門尉であったことに由来する。

見る 12世紀と三左衛門事件

三国史記

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

見る 12世紀と三国史記

一ノ谷の戦い

一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。

見る 12世紀と一ノ谷の戦い

九尾の狐

九尾の狐(きゅうびのきつね)または九尾狐(きゅうびこ)・九尾狐狸(きゅうびこり)中国における表記のひとつ。中国語で「狐狸」は「きつね」の意。は、中国に伝わる伝説上の生物。9本の尾をもつキツネの霊獣または妖怪である。 中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされる。 また、物語のなかでは殷の妲己や日本の玉藻前のように美女に変化して人々の世を惑わす悪しき存在の正体であるともされ、よく知られている。

見る 12世紀と九尾の狐

九条家

九条家(くじょうけ、九條)は、藤原北家九条流嫡流である公家、華族の家。公家としての家格は摂家、華族としての爵位は公爵。五摂家筆頭で公爵家だった近衛家と双璧するほど高い格式を持った家で、やはり五摂家で公爵家だった二条家と一条家は九条家の分家である。

見る 12世紀と九条家

九条兼実

九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。

見る 12世紀と九条兼実

平家納経

『平家納経』(へいけのうきょう)は、古代日本の装飾経(装飾を凝らした写経)の一つ。平安時代に平家一門がその繁栄を願って厳島神社に奉納した一品経であり、装飾経および附属物の総称である。『厳島納経(いつくしま - )』「厳島経」ともいう。

見る 12世紀と平家納経

平家物語

『平家物語』(へいけものがたり)は日本における作者不詳の軍記物語である。鎌倉時代に成立したとされ、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などが描かれている。

見る 12世紀と平家物語

平宗盛

平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将・貴族・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院(平徳子)は同母妹である。官位は従一位行内大臣。平氏政権の惣管。通称は屋島大臣など。

見る 12世紀と平宗盛

平安時代

平安時代(へいあんじだい、、延暦3年(784年)/延暦13年(794年) - 12世紀末)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都・現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。広義では延暦3年(784年)の長岡京遷都からの約400年間を指す。 通常、古代の末期に位置づけられるが、中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている。近年では、荘園公領制が確立した院政期を中世初期に含める見解が有力になり、学校教育においてもこれに沿った構成を取る教科書が増えている。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念と古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。

見る 12世紀と平安時代

平徳子

平 徳子(たいら の とくし/のりこ、1155年〈久寿2年〉- 1214年1月25日〈建保元年12月13日〉)は、日本の第80代天皇・高倉天皇の皇后(中宮)。女院。院号は建礼門院(けんれいもんいん、)。 安徳天皇の母(国母)。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、基盛。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。 清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産む。安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで没し、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。

見る 12世紀と平徳子

平忠盛

平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代後期から末期の武将。平清盛の父。烏帽子親は義兄の源義忠「忠」の字は義忠から与えられた偏諱と考えられる。。 伊勢平氏で初めて昇殿を許された。北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。

見る 12世紀と平忠盛

平知盛

平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。

見る 12世紀と平知盛

平維盛

平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡子平重盛の嫡男。 美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された。治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦いで敗北し、倶利伽羅峠の戦いでは壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水したとされている。

見る 12世紀と平維盛

平重盛

『紫宸殿の橘』(尾形月耕『日本花図絵』)平重盛と源義平 平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男(長男)。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。

見る 12世紀と平重盛

平重衡

重衡軍による焼き討ちを受けた東大寺盧舎那仏像(再建) 兵庫県神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡 平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏政権の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。治承・寿永の乱(源平合戦)においては墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり、鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。

見る 12世紀と平重衡

平正盛

平 正盛(たいらの まさもり、生年不詳 - 保安2年〈1121年〉?)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。

見る 12世紀と平正盛

平氏

平氏(たいらうじ、へいし、へいじ たいらし)は、日本の皇別氏族で、平(たいら)の姓を賜姓された氏族。姓(カバネ)は朝臣。 平安時代前期に創設された氏族であり、桓武平氏を含め4つの流派がある。家紋は揚羽蝶を中心に使用した。

見る 12世紀と平氏

平氏政権

平氏政権(へいしせいけん、)は、平安時代末期(1160年代 - 1185年)における日本の武家政権。創始者平清盛を中心とする伊勢平氏#正盛流(平家)による政権であった。 清盛の館が京都の六波羅にあったことから、六波羅政権(ろくはらせいけん)ともいう。

見る 12世紀と平氏政権

平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。

見る 12世紀と平治の乱

平泉

平泉(ひらいずみ)は、日本の東北地方、岩手県南西部(古代の陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる。 この地域一帯には平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された(岩手県教育委員会)。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり自然遺産も含めた全体では16番目。同じ年に「小笠原諸島」も登録されたが、世界遺産センターの公式発表は、小笠原諸島が6月24日、平泉が6月25日である(cf.,.

見る 12世紀と平泉

平清盛

平 清盛(たいら の きよもり、)は、平安時代末期の日本の武将、公卿、貴族、棟梁。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没した。

見る 12世紀と平清盛

平敦盛

平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。

見る 12世紀と平敦盛

平時子

「本朝武者鏡 二位の尼」(歌川芳艶画) 平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 元暦2年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期に活躍した平清盛の継室。位階は従二位。二位尼(にいのあま)として知られる。下級公家の平時信の女で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房のこと、氏素性は未詳)。権大納言平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉あるいは同母姉、能円の異父姉にもあたる。清盛との間に宗盛・知盛・徳子(建礼門院)・重衡らを生む。

見る 12世紀と平時子

年表

年表(ねんぴょう、 タイムライン)は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと。 年表というのは、(日本語では)すでに起きたこと(=「歴史上のこと」)を、起きた日付で排列(配列)した表のことであるそれに対して、まだ起きていないこと、未来の予定などを日付順に記載した表は、(日本語の場合は)「予定表」や「スケジュール表」などと呼ぶ傾向がある。英語では、過去のことを扱う場合でも、未来のことを扱う場合でも、ともかく、時(time)が、線(line)的に並んでいれば、おかまいなしに「timeline」と呼ぶ傾向が、近年強まっている。実は日本語の「年表」という用語にも、「過去でなければならない」という意味の漢字や語根は含まれていない。ただ(時を表すための字である)「年」と(表形式だという意味の字)「表」の組み合わせである。

見る 12世紀と年表

二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、、1143年7月31日〈康治2年6月18日〉- 1165年9月5日〈永万元年7月28日〉)は、日本の第78代天皇(在位: 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉- 1165年8月3日〈永万元年6月25日〉)。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。

見る 12世紀と二条天皇

仁宗 (高麗王)

仁宗(じんそう、1109年10月29日 - 1146年4月10日)は第17代高麗王(在位:1122年 - 1146年)。姓は王、諱は楷、諡号は克安恭孝大王。睿宗の第一王子。母は順徳王后李氏。妃は李資謙の三女の廃妃李氏と四女の廃妃李氏・恭睿王后任氏・宣平王后金氏。

見る 12世紀と仁宗 (高麗王)

令旨

令旨(りょうじ)とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書。 中国(唐)では皇太子の命令を伝える文書を「令」といったが、それが日本に伝わり、日本では皇太子の命令を伝える文書を令旨といい、太皇太后・皇太后・皇后の出す文書もこれに準じた。平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった。 歴史上有名な令旨としては、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」があるが、これは皇太子でも親王でもない以仁王が命令の正統性を高めるためにあえて親王の身位を冒して発したもので、本来ならば王の命令書は「御教書」と呼ばれるべきものだった。

見る 12世紀と令旨

以仁王

以仁王(もちひとおう)は、平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。

見る 12世紀と以仁王

以仁王の挙兵

以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が、平家打倒のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平家勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。

見る 12世紀と以仁王の挙兵

廬山

廬山(ろざん、庐山、)は、中国江西省九江市南部にある名山。峰々が作る風景の雄大さ、奇絶さ、険しさ、秀麗さが古より有名で、「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇秀は天下一である)と称えられてきた(匡廬とは廬山の別名)。廬山国家風景名勝区に指定されているほか、廬山国立公園としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。また「廬山第四紀氷河地形国家地質公園」としてジオパークにも指定されており、ユネスコ世界ジオパークネットワークにより認定されている。中華人民共和国国家級風景名勝区(1982年認定)、中国の5A級観光地(2007年認定)。

見る 12世紀と廬山

建久

建久 (けんきゅう、) は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1199年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。

見る 12世紀と建久

建久七年の政変

建久七年の政変(けんきゅうしちねんのせいへん)は、建久7年(1196年)11月、九条兼実が関白を罷免され失脚した事件。

見る 12世紀と建久七年の政変

伊勢平氏

伊勢平氏(いせへいし)は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の四男平維衡よりはじまる平氏一族の一つ、高望王流坂東平氏の庶流である。 その中で平氏政権を生んだ平正盛の系統(六波羅家あるいは六波羅流)を平家(へいけ)と呼ぶ場合がある。

見る 12世紀と伊勢平氏

伊豆大島

伊豆大島(いずおおしま)は、日本の伊豆諸島北部に位置する島であり、伊豆諸島の中心的な島々の一つである。

見る 12世紀と伊豆大島

伴大納言絵詞

伴大納言絵詞(部分、火事場に駆けつける群衆) 伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば、とものだいなごんえことば)とは、応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。『伴大納言絵巻』ともいう。日本の国宝。『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と並んで四大絵巻物と称される。作者は常盤光長(ときわみつなが)とされている。

見る 12世紀と伴大納言絵詞

休戦協定

休戦協定(きゅうせんきょうてい)あるいは停戦協定(ていせんきょうてい、armistice)とは、戦争や武力紛争を行う双方の勢力が戦闘を停止するための協定。英語の "Armistice" は、ラテン語の arma(兵器)と stitium(停止)から来ている。

見る 12世紀と休戦協定

佐渡島

佐渡島(さどがしま、さどしま国土地理院「GIS・国土の情報」、令和5年(2023年)「」、「付3 島面積」pp.85-92。2024年01月04日閲覧。)は、新潟県の西部に位置する島。全域が新潟県佐渡市に属し、佐渡弥彦米山国定公園、佐渡ジオパークに含まれる。人口は52,135人(2020年5月1日現在)。 有人国境離島法に基づく「特定有人国境離島地域を構成する離島」に指定されている。 島名については、国土地理院『標準地名集』には「さどしま」という読み方で記載されている。地元議会では「さどがしま」への変更の議論がある。

見る 12世紀と佐渡島

征夷大将軍

江戸幕府を創設した徳川家康(在任:慶長8年 - 同10年) は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)、柳営(りゅうえい)、幕府(ばくふ)、幕下(ばくか、ばっか)。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降、江戸幕府が倒れるまで、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。

見る 12世紀と征夷大将軍

侍所

侍所(さむらいどころ)は、鎌倉幕府と室町幕府において、軍事・警察を担った組織。 侍所は古く「さぶらいどころ」ともいわれ、「侍(さぶら)い」、すなわち貴人の傍に控え、家政を取り仕切ったり、その身辺を警護する従者の詰所という意味であった。平安時代末期には親王、内親王、摂関家の邸宅に置かれ、家人や東国武士などが常駐した。

見る 12世紀と侍所

御伽草子

『御伽草子』(おとぎぞうし)は、鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式。お伽草子・おとぎ草子とも表記する。広義に室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる。

見る 12世紀と御伽草子

徽宗

徽宗(きそう)は、北宋の第8代皇帝。諡号は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝(退位したので「遜」(ゆずる)という文字が入っている)。諱は佶。第6代皇帝神宗の六男(第11子)。 書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。一方で政治的には無能で、彼の治世には人民は悪政に苦しみ、『水滸伝』のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発した。

見る 12世紀と徽宗

後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉 - 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉)は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)。諱は雅仁(まさひと)。 鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり院政を行った。その治世は保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築した。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。

見る 12世紀と後白河天皇

後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、、1180年8月6日〈治承4年7月14日〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。諱は尊成(たかひら・たかなり)。 高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。

見る 12世紀と後鳥羽天皇

後期チャールキヤ朝

カリヤーニのチャールキヤ朝(カリヤーニのチャールキヤちょう、Kalyani Chalukya dynasty)とは、10世紀から12世紀にかけて、インドの西部デカン地方と南インドを支配ヒンドゥー王朝(973年 - 1189年)。後期チャールキヤ朝とも呼ばれる。首都はマーニヤケータとカリヤーニ(現バサヴァカリヤーン)。

見る 12世紀と後期チャールキヤ朝

俊寛

俊寛の墓(喜界島) 俊寛(しゅんかん、康治2年(1143年) - 治承3年3月2日(1179年4月10日))は、平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都(しゅんかん そうず)と呼ばれることも多い。 村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。

見る 12世紀と俊寛

保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。

見る 12世紀と保元の乱

保元新制

保元新制(ほうげんのしんせい)とは、保元元年閏9月18日(1156年11月2日)に出された宣旨7ヶ条のこと。保元元年令とも。また、翌保元2年3月17日(1157年4月27日)に出された太政官符5ヶ条及び同年10月8日(1157年11月11日)宣旨35ヶ条との総称として用いられる場合もある。荘園整理令として重視する観点からは保元の荘園整理令と呼ばれる場合もある。

見る 12世紀と保元新制

信西

信西(しんぜい、嘉承元年〈1106年〉 - 平治元年12月13日〈1160年1月23日〉)は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな の みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。

見る 12世紀と信西

快慶

快慶(かいけい、生没年不詳)は、鎌倉時代に活動した仏師。運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人である。この流派の仏師は多く名前に慶の字を用いるところから慶派と呼ばれる。快慶は安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い。

見る 12世紀と快慶

修道士カドフェル

『修道士カドフェル』(しゅうどうしカドフェル、The Cadfael Chronicles)は、エリス・ピーターズ作の連作歴史推理小説。一風変わった経歴を持つ修道士のカドフェルがさまざまな事件を解決していく。

見る 12世紀と修道士カドフェル

心即理

心即理(しんそくり)は、宋明理学における命題の一つ。心こそ理であるとする。中国南宋の陸象山や明の王陽明が定義した。 人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。よって、心は即ち理であると主張した。 朱子学のように心と性とを分別しないのが特徴である。朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人)というように、すべての人が本来的に聖人であるとし、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、それが聖人の証であるとした。

見る 12世紀と心即理

土佐光信

土佐 光信(とさ みつのぶ、永享6年〈1434年〉? - 大永5年5月20日〈1525年6月10日〉?)は、室町時代中期から戦国時代にかけての大和絵の絵師。弾正忠・土佐広周の嗣子で、実は中務丞・土佐光弘の子。土佐(常盤)光長、土佐光起とともに土佐派三筆と称され、土佐派中興の祖とされる。官位は従四位下・刑部大輔。

見る 12世紀と土佐光信

土佐派

土佐派(とさは)とは、。

見る 12世紀と土佐派

土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、1195年12月4日または1196年1月3日〈建久6年11月1日または12月2日〉- 1231年11月6日〈寛喜3年10月11日〉)は、日本の第83代天皇(在位:1198年2月18日〈建久9年1月11日〉- 1210年12月12日〈承元4年11月25日〉)。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。承久の乱によって、自ら望んで土佐国(後に阿波国)へ配流された。

見る 12世紀と土御門天皇

地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平安時代(平氏政権期以前)には、荘園領主・国司(知行国主)が、所有する荘園・国衙領(公領)を現地で管理し領主へ年貢を納める職(荘官、下司、郡司、郷司、保司)を任命したが、鎌倉時代には源頼朝がその職の任命権を持つこととなり、朝廷も認めた。鎌倉幕府はこれを地頭職と呼ぶこととし、御家人から任命し、領主へは年貢を納めることを保証した。 在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事・警察・徴税権を持つこととなり、御家人の実質的な所領として認めることとなった。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。

見る 12世紀と地頭

地震

地震(じしん、earthquake)は、以下の2つの意味で用いられる日本地震学会地震予知検討委員会(2007)。

見る 12世紀と地震

北宋

北宋(ほくそう、拼音:Běisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。

見る 12世紀と北宋

北京市

北京市(ペキンし、、、Municipality of Beijing)は、中華人民共和国の首都。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。常住人口は2184.3万(2022年末)。中国の政治の中枢であり、上海と並ぶ経済・学術・文化の中心地である。アジア屈指の世界都市。古くは燕京、中都、大都、北平などとも呼ばれた。

見る 12世紀と北京市

北面武士

北面武士(ほくめんのぶし、北面の武士)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に近衛として詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。

見る 12世紀と北面武士

北条政子

北条 政子(ほうじょう まさこ、平政子(たいらの まさこ)、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所。子は頼家、実朝、大姫、三幡。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となった。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名は安養院(あんにょういん)。 頼朝亡きあと征夷大将軍となった頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見となって幕府の実権を握り、世に尼将軍(あましょうぐん)と称された。

見る 12世紀と北条政子

北条時政

北条 時政(ほうじょう ときまさ、平時政(たいらの ときまさ))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将。鎌倉幕府初代執権。北条氏の一門。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時兼の子。北条政子、北条義時の父。得宗家初代当主。 家系は桓武平氏平直方流を自称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある。

見る 12世紀と北条時政

北欧神話

北欧神話の神々は不死ではないため、最終戦争であるラグナロクまで老いることのないよう、イズンの黄金の林檎を食べなければならない。1890年、J・ペンローズ作 北欧神話(ほくおうしんわ、アイスランド語:Norræn goðafræði、ノルウェー語:Norrøn mytologi、スウェーデン語:Nordisk mytologi、デンマーク語:Nordisk mytologi)は、キリスト教化される前のノルド人(ノース人)の信仰に基づく神話。スカンディナビア神話とも呼ばれている。ゲルマン神話の一種で、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランドおよびフェロー諸島に伝わっていたものの総称。普通、フィンランド神話とは別系統のものとされる。 北欧神話はキリスト教化以前にスカンディナヴィア人が有していた土着の宗教・信仰・伝説から成っている。これにはアイスランドに入植・定住した人々のそれが含まれており、北欧神話の文書化された典拠の大部分はそこで収集されたものである。北欧以外のゲルマン人は、早くからキリスト教化されたため、民族独自の神話や思想を示す書物がほとんど残っていない。そのため北欧神話は、古いゲルマン共通の異教がもっとも良い状態で保存されており、ゲルマン人の古来の習俗や精神を理解する上で貴重な資料となっている。このゲルマンの異教は、アングロ・サクソン神話と密接に関連した内容を含んでいる。なお、ゲルマン神話は初期のインド・ヨーロッパ神話から発展したものである。 北欧神話は北ゲルマン民族によって共有されていた信仰や物語が集約されたもので、神話は詩の形で口承により伝えられ、現存する神話についての知識は主にスノッリ・ストゥルルソンにより書かれた『エッダ』や、キリスト教化中またはその後に書き下ろされた、中世における他の版本に基づいている。北欧神話は基本的に古ノルド語(古アイスランド語)で著わされているが、『デンマーク人の事績』などラテン語で書かれたものもある。 北欧神話の中にはスカンディナヴィアの伝承の一部となり、現在まで生き残ったものもある。その他は近年、ゲルマン・ネオペイガニズムとして再考案・構築されている。ステージでの上演劇や映画同様、神話は現在も様々な文学の着想として残されている。

見る 12世紀と北欧神話

北方十字軍

北方十字軍(ほっぽうじゅうじぐん)あるいはバルト十字軍は、カトリック教徒の王国であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドvon Güttner-Sporzyński, Darius (2014). Poland, Holy War, and the Piast Monarchy, 1100-1230. Turnhout: Brepols. p. 188.

見る 12世紀と北方十字軍

ナポリ

ナポリ(Napoli; ナポリ語: Napule)は、イタリアの南部にある都市。その周辺地域を含む人口約97万人の基礎自治体(コムーネ)。カンパニア州の州都であり、ナポリ県の県都でもある。ローマ、ミラノに次ぐイタリア第三の都市で、南イタリア最大の都市。都市圏人口は約300万人。 ナポリ湾に面した港湾都市・工業都市である。古代ギリシア人によって建設された植民市に起源を持ち、13世紀以降はナポリ王国の首都として南イタリアの政治・経済の中心地となった。ヴェスヴィオ火山を背景とする風光明媚な景観で知られる観光都市であり、ゲーテをして「ナポリを見てから死ね (vedi Napoli e poi muori)」日本のことわざでいうところの「日光を見ずに結構と言うな」(『イタリア紀行』より)と言わせた。旧市街地は「ナポリ歴史地区」として世界遺産に登録されている。ナポリ周辺にも、ヴェスヴィオ火山やポンペイの遺跡、カプリ島などの観光地を有する。

見る 12世紀とナポリ

ナポリとシチリアの君主一覧

ナポリとシチリアの君主一覧(ナポリとシチリアのくんしゅいちらん)は、ナポリとシチリアの君主を一覧にしたものである。 この2つの地域は現在イタリア領のため、外国王を除き基本的にイタリア語名で表記する。括弧内はイタリア語綴り。

見る 12世紀とナポリとシチリアの君主一覧

ナーランダ僧院

ナーランダ僧院(ナーランダそういん、)は、インドビハール州ナーランダ県中部にかつて存在した仏教の学問所である。ナーランダ・マハーヴィハーラ、ナーランダ精舎、那爛陀寺、ナーランダ大学ともされる。歴史家の間では、世界初の全寮制大学で、古代世界で最も偉大な学問の中心地の一つであると考えられており、ラジャグリハ(現在のラジギール)近郊、パタリプトラ(現在のパトナ)の南東約90キロの場所に位置し、427年から1197年まで運営されていたとされる。 ナーランダはグプタ朝時代に設立され、仏教徒・非仏教徒の両方を含む、多くのインド人やジャワ人の後援者に支えられていた。約750年にわたり、その教授陣には大乗仏教の最も尊敬される学者たちが在籍した。ナーランダ大乗仏教では、ヨーガカラやサルヴァスチバーダなどの6つの主要な仏教宗派・哲学、ヒンドゥー教ヴェーダとその6つの哲学、さらには文法、医学、論理、数学などの科目を教えていた。

見る 12世紀とナーランダ僧院

ペトルス・ロンバルドゥス

ペトルス・ロンバルドゥス(Petrus Lombardus, 1100年頃 - 1160年7月20日 パリ)は、カトリック教会の司教、スコラ神学者。「Magister Sententiarum」(教師、教法先生、命題集の師)として知られる。イタリア語名でピエトロ・ロンバルド(Pietro Lombardo)とも呼ばれる。 教父たちの著述を注解した『命題集』は中世における神学の教科書として広く用いられた。トマス・アクィナスの『神学大全』は彼を特別に教師と呼んでいる。オッカムの剃刀で知られるオッカムのウィリアムは『命題集』を批判的に分析した。 ペトルスはサン・ヴィクトルのフーゴーによるサクラメントの定義から物質性を削除することによって、フーゴーの定義では除外されてしまう悔悛をサクラメントとして取り入れた。これによってカトリック教会における7つの秘蹟が確定した。

見る 12世紀とペトルス・ロンバルドゥス

ナシ族

ナシ族(ナシぞく/納西族)は中華人民共和国の少数民族のひとつ。

見る 12世紀とナシ族

ミュンヘン

ミュンヘン(München,, バイエルン語: Minga )は、イーザル川河畔にありバイエルンアルプスの北側に位置する都市。ドイツの連邦州であるバイエルン州の州都である。

見る 12世紀とミュンヘン

ミシュネー・トーラー

サムネイル ミシュネー・トーラー( Mishneh Torah)、あるいはヤード・ハ=ハザーカー( Yad ha-Chazaka 「強き手」といった意味)とは、マイモニデスの著したハラーハーであり、「第二のトーラー」の意味。 1170年から1180年の間、エジプトに居た頃に書かれた。 タルムードに基づき、タルムードにおいて論じられている全ての事柄を扱っている。 ヤコブ・ベン・アシェルのアルバーアー・トゥーリームに影響を与えている。

見る 12世紀とミシュネー・トーラー

マラケシュ

マラケシュ (مراكش marrākish) は、モロッコ中央部の都市。ラバトの南西約280kmのアトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し、「南の真珠」と呼ばれてきた。

見る 12世紀とマラケシュ

マリー・ド・フランス (詩人)

マリー・ド・フランス(Marie de France、フランス生まれのマリー、? - ?)は、中世フランスの女流詩人である。文才および学問に秀でていた。彼女の詳しい人生は不明である。 12世紀後半ノルマン・コンクエスト後のイングランド宮廷(プランタジネット朝・アンジュー家)へ赴き、詩作およびラテン文学翻訳を行ない、アングロ=ノルマン語イングランドの宮廷にて話されていた。(古フランス語の一方言)による作品を残した作品は写本により後世に伝えられた。。 本名は不明であり「マリー・ド・フランス」と呼ばれるのは、作品中の "Marie ai nun, si sui de France(私の名はマリーで、フランスの出身です)" の一行に由来する。

見る 12世紀とマリー・ド・フランス (詩人)

マリー・ダンティオケ

マリー・ダンティオケ(Marie d'Antioche, 1145年 - 1182年)は、東ローマ帝国皇帝マヌエル1世コムネノスの2番目の皇后。アンティオキア公国の統治者、コンスタンス・ダンティオケと最初の夫レーモン・ド・ポワティエの長女。父方の従姉にエレアノール・ダキテーヌがいる。

見る 12世紀とマリー・ダンティオケ

ノルマン人

12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す ノルマン人(ノルマンじん、Normands)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人の中で、フランス北部の北西部のノルマンディー(コタンタン半島辺り)に定住した支族。

見る 12世紀とノルマン人

ノルマンニ宮殿

ルネサンス期建造のファサード ノルマンニ宮殿(ノルマンニきゅうでん、イタリア語:Palazzo dei Normanni, パラッツォ・デイ・ノルマンニ)は、イタリア・パレルモにある、かつてのシチリア王の宮殿。 9世紀にパレルモを支配していたアラブ人太守の元で建設が始まり、12世紀にルッジェーロ2世とその後継者ノルマン王たちによって拡張された。 宮殿内には、12世紀シチリアで流行した、アラブ・ノルマン・ビザンティンの各様式の混合様式の好例であるカッペッラ・パラティーナ(パラティーナ礼拝堂)がある。素晴らしいモザイク、精密な稲妻文様がされ彩られた木製天井、壁の下部と床は状態のいい大理石の化粧張りがされている。宮殿自体は、スペイン支配時代に再建され増築されているが、ルッジェーロ2世時代の部分、サーラ・ノルマーナと呼ばれる大広間など一部がわずかに残る。1790年には宮殿の一角にパレルモ天文台が設立され、ドームと望遠鏡が据え付けられた。1801年に初代天文台長ジュゼッペ・ピアッツィの観測によって、ここで史上初の小惑星セレスが発見された。1946年より、宮殿はシチリア地方議会の建物となった。

見る 12世紀とノルマンニ宮殿

マルトラーナ教会

マルトラーナ教会 マルトラーナ教会 (Chiesa della Martorana) は、イタリア、シチリア州パレルモにあるカトリックの教会。海軍提督の聖母マリア教会 (Santa Maria dell'Ammiraglio) とも呼ばれる。ピアーナ・デッリ・アルバネージにあるビザンティン典礼の司教区、東方典礼カトリック教会の1つであるイタリア・ビザンティン・カトリック教会 (en) の一部でもある。 サン・カタルド教会 (San Cataldo) に隣接し、パレルモ中心部のベッリーニ広場 (Piazza Bellini) を見下ろす場所に建っている。

見る 12世紀とマルトラーナ教会

ノルウェー

ノルウェー王国(ノルウェーおうこく、Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロ・フィヨルドの奥に形成された港湾都市のオスロ。東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。欧州連合(EU)には非加盟である。 地理としては国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。このほか、ノルウェー本土から約1,000キロ離れた北大西洋上のヤンマイエン島は固有の領土の一部として領有され、スヴァールバル条約によりバレンツ海のスヴァールバル諸島を領有している。

見る 12世紀とノルウェー

マロン典礼カトリック教会

マロン典礼カトリック教会(マロンてんれいカトリックきょうかい、、、)は、レバノンを中心に信者を擁するアンティオキア派の伝統に属するキリスト教東方典礼カトリック教会の一派。マロン派(まろんは)とも呼ばれる。マロンーアンティオキア総大司教の司教座は、レバノンのに置かれている。名前の由来は、4 - 5世紀のアンティオキアで活動した聖マールーン(聖マロン、:en:Maron)に由来するといわれる。レバノン国内では人口のおよそ3割程度を占め、古くから重要な政治ポストを占める最大宗派であり、大統領がマロン派から選出される慣行を持つなど、国内外の政治・経済両面において大きな影響力を持つ。また、その歴史的経緯などから、同じカトリックが多数派であるフランスとは緊密な関係にある。

見る 12世紀とマロン典礼カトリック教会

ノヴゴロド公国

ノヴゴロド公国(ノヴゴロドこうこく、Новгородского княжества、Новгородская земьля)は、公座を大ノヴゴロドに置いていた中世のルーシ(古代ロシア)の主要な都市国家の一つ。中世には特殊な貴族共和制により、しばしばノヴゴロド共和国(Новгородская республика)と呼ばれ、こちらの名前が定着しつつある。その他、ノヴゴロド国という表記も見られる。 「タタールのくびき」にルーシ全体があえぎ、北方十字軍がスラヴ人へ正教からカトリックへの「剣による改宗」を強制していた13世紀のルーシの中心であった。

見る 12世紀とノヴゴロド公国

マームズベリのウィリアム

マームズベリのウィリアム。マームズベリ修道院のステンドグラス。1928年製作。 マームズベリのウィリアム(英:William of Malmesbury、1095年?-1143年)は、中世イングランドの歴史家・ベネディクト会修道士。 ノルマン人とアングロ・サクソン人の混血として生まれ、幼くしてイングランド南西部のマームズベリ修道院に入って学問に励み、長じて同修道院の図書館司書を務めながら、イングランド各地を旅行して、その知識・経験を元に多くの歴史書を著した。1125年頃までにイングランドの王国史を扱った『歴代イングランド王の事績』(Gesta Regun Anglorum)と教会史を扱った『イングランド司教たちの事績』(Gesta Pontificum Anglorum)を著し、その後1125年から1142年までの同時代史を扱った『現代史』(Historia Novella)を著した。

見る 12世紀とマームズベリのウィリアム

ノートルダム大聖堂 (パリ)

パリのノートルダム大聖堂(パリのノートルダムだいせいどう、仏: Cathédrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも)は、ゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。 パリのノートル・ダム大聖堂の正面に向かって左側のポルタイユ(正面)には、聖母マリアの聖母被昇天の主題が取り上げられている。中段では聖母マリアが地上における生を終える場面が描かれ、上段でキリストから祝福を授けられている聖母マリアが鎮座している。キリストを中心にして天使や聖人たちが描かれており、過去、未来、未来という崩れた構成となっている。

見る 12世紀とノートルダム大聖堂 (パリ)

マヌエル1世コムネノス

マヌエル1世コムネノス“メガス”(ギリシア語:Μανουήλ Α' Κομνηνός o Μέγας (Manūēl I Komnēnos o Megas)、1118年11月28日 - 1180年9月24日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の第3代皇帝(在位:1143年 - 1180年)。同王朝第2代皇帝ヨハネス2世コムネノスとハンガリー王ラースロー1世の王女エイレーネー(イレーネー)の子。 “メガス”は「偉大なる」という意味の渾名。彼に仕えた者が非常な忠誠心を抱き、秘書や配下の将兵に賞賛されたことに由来する。中世ギリシア語では「マヌイル1世コムニノス」。

見る 12世紀とマヌエル1世コムネノス

マティルダ (神聖ローマ皇后)

マティルダ(Matilda, 1102年2月7日 - 1167年9月10日)は、イングランドの王族。ノルマン朝のイングランド王ヘンリー1世と王妃であるスコットランド王マルカム3世の娘マティルダとの間に生まれた王女。ウィリアム・アデリン王子の姉でプランタジネット朝の始祖ヘンリー2世の母。 同じマティルダの名を持つ多くの歴史上の人物と区別して、マティルダ皇后(Empress Matilda)、モード皇后(Empress Maude、Maude は Matildaのアングロ=ノルマン語形)、イングランドのマティルダ(Matilda of England)などとも呼ばれる。 マティルダはイギリスにおける初の女性君主として知られる。ただし、実効支配者としてイングランドに君臨したのが対立王を一時的に捕獲していた1141年の数か月間に限られること、女王として戴冠することがついになかったこと、そして自らの手で王権を統合することができなかったことなどから、後世の史家はこのマティルダを正統な君主として認めながらも歴代のイングランド王には数えないという、玉虫色の扱いをするに至っている。

見る 12世紀とマティルダ (神聖ローマ皇后)

マドリード

マドリード(Madrid)は、スペインの首都。マドリード州の州都であり、マドリード州の唯一の県であるマドリード県の県都でもある。マドリッドとも呼ばれる。 人口は約325万人。2018年の都市圏人口は679万人 であり、EU内においてパリに次ぐ規模の大都市圏である。 紋章はイチゴノキとクマ。スペイン中央部のメセタ地帯のマンサナーレス川沿いに広がる。近郊にはモストレス、アルカラ・デ・エナーレス、ヘタフェなどの都市があり、マドリード首都圏を形成している。 ヨーロッパ屈指の世界都市であり、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界15位の都市と評価された。

見る 12世紀とマドリード

マニ教

青木(2010)pp.39-40 マニ教(マニきょう、摩尼教、Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャのマニを開祖とする、二元論的な宗教上岡(1988)pp.140-141。

見る 12世紀とマニ教

マクデブルク

マクデブルク(Magdeburg、)はドイツ連邦共和国の都市。ザクセン=アンハルト州の州都。主な宗教はルター派プロテスタント。人口は約万人。

見る 12世紀とマクデブルク

ノク文化

ノク(Nok)文化は、ギニア湾岸(上ギニア)のナイジェリア中央部、ジョス高原(Jos plateau)を中心に概ね紀元前10世紀から紀元後6世紀頃に栄えた鉄器文化。

見る 12世紀とノク文化

チャーハマーナ朝

チャーハマーナ朝(チャーハマーナちょう、英語:Chahamana dynasty)は、6世紀半ばから12世紀末にかけて、北インドのラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝。ラージプートの王朝でもある。チャウハーン朝(Chauhan dynasty)とも呼ばれる。首都はアジュメール、デリー。

見る 12世紀とチャーハマーナ朝

チャコ文化国立歴史公園

チャコ文化国立歴史公園(チャコぶんかこくりつれきしこうえん、Chaco Culture National Historical Park)は、アメリカ合衆国の国立歴史公園。チャコ文化の登録名でユネスコの世界遺産に登録されている。アメリカ南西部地方で最もプエブロ文化の遺跡が濃密に集中している地域である。

見る 12世紀とチャコ文化国立歴史公園

チョーラ朝

チョーラ朝(チョーラちょう、Chola dynasty)は、9世紀から13世紀にかけて、南インドを支配したタミル系のヒンドゥー王朝(846年頃 - 1279年)。首都はタンジャーヴール、。 チョーラ朝の名が付く南インドの地方政権は、シャンガム文学と呼ばれるタミル古典文学にも記述があり、1世紀から3世紀頃にカーヴェーリ河畔のタンジャーヴールよりやや上流のウライユールに首都を置き、全インド征服やセイロン島遠征で多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られるが、一般的にはパッラヴァ朝の封臣であったヴィジャヤーラヤがタンジャーヴールに興した王朝のことを指す。なお、シャンガム文献のチョーラ朝とこれから記述するチョーラ朝と関係は明らかになっていない。

見る 12世紀とチョーラ朝

チェルニーヒウ公

チェルニーヒウ公 またはチェルニゴフ公(ウクライナ語:князь чернігівський;ロシア語:князь черниговский)は、ルーシの国家の一つチェルニーヒウ公国の公(クニャージ)であり、公国の主権者またはそれに準ずる地位にあった者。同公国は現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦の3国家の歴史的地域の一部。

見る 12世紀とチェルニーヒウ公

チェスターのロバート

チェスターのロバート(Robert of Chester、)は、12世紀において数学、天文学、錬金術、クルアーン(コーラン)等の文献をアラビア語からラテン語に翻訳し紹介した人物。イギリス人。 と同一視されることもあり、こちらはRobertus Retinennsis, Robertus Ketenensis, Robert de Ketene, Robert de Retines, Robertus Cataneusなどと表記される。 スペインのトレドに集まった翻訳家でかつナバラ王国のパンペルナ(Pampelune)の助祭長の一人。1136年、チボリのプラトとともにバルセロナで研究していたと推測される。

見る 12世紀とチェスターのロバート

ハムレット

サムネイル サムネイル サムネイル 『ハムレット』(Hamlet)は、シェイクスピア作の悲劇。 全5幕から成り、1601年頃に書かれたと推測される小津次郎「」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、コトバンク。2021年3月2日閲覧。。「デンマークの王子ハムレットが、父王を毒殺して王位に就き母を妃とした叔父に復讐する物語」である。 正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragicall Historie of Hamlet, Prince of Denmarke あるいは The Tragedie of Hamlet, Prince of Denmarke)である。 本作に続いて作られた『オセロ』『マクベス』『リア王』と共に、「シェイクスピアの四大悲劇」の一つとされ、「1人の知識人の精神史を描いたものとして世界の演劇史上に特筆すべき作品」と評される。

見る 12世紀とハムレット

ハンガリー王国

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、かつて現在のハンガリーを中心とする地域を統治していた王国である。

見る 12世紀とハンガリー王国

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ハールィチ・ヴォルィーニたいこうこく、Галицько-Волинське князівство)は、1199年から1349年の間に現在の西ウクライナを中心として存在したリューリク朝のルーシ系国家である。ガーリチ・ボルイニ公国とも表記される。正式名はルーシ王国 (ラテン語: Regnum Russiae)。

見る 12世紀とハールィチ・ヴォルィーニ大公国

ハインリヒ2世 (オーストリア公)

ハインリヒ2世ヤゾミルゴット(Heinrich II. Jasomirgott, 1107年 - 1177年1月13日)は、ライン宮中伯(在位:1140年 - 1141年)、オーストリア辺境伯(在位:1141年 - 1156年)及びバイエルン公(ハインリヒ11世、在位:同)、後にオーストリア公(在位:1156年 - 1177年)。バーベンベルク家の人物。 オーストリア辺境伯レオポルト3世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘アグネスの子で、バイエルン公を兼ねたレオポルト4世の兄。シュヴァーベン大公フリードリヒ2世、ローマ王コンラート3世の異父弟にあたる。

見る 12世紀とハインリヒ2世 (オーストリア公)

ハインリヒ3世 (ザクセン公)

ハインリヒ獅子公(Heinrich der Löwe, 1129年 - 1195年8月6日)は、中世ドイツの領邦君主の1人で、ザクセン公(ハインリヒ3世、在位:1142年 - 1180年)、バイエルン公(ハインリヒ12世、在位:1156年 - 1180年)。1180年に従兄のローマ皇帝フリードリヒ1世に2つの公領を奪われるまでは当時最も権力を持ったドイツの君主の1人だった。 最盛期には北海及びバルト海沿岸からアルプス山脈まで、ヴェストファーレンからポンメルンまでの広大な領土を統治した。ハインリヒは自身の政治的、軍事的な洞察力と4人の祖父母の遺産によって強大な権力と領地を獲得した。

見る 12世紀とハインリヒ3世 (ザクセン公)

ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ5世(Heinrich V., 1086年8月11日 - 1125年5月23日)は、ザーリアー朝第4代にして最後のローマ王(ドイツ王、在位:1098年 - 1125年、戴冠:1099年1月6日)ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは存在しない。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。、イタリア王エンリーコ5世、神聖ローマ皇帝(戴冠:1111年4月13日)「5世」はドイツ王(東フランク王)としてハインリヒ1世から数えた数字で皇帝、イタリア王としては4人目のハインリヒ。当時はまだ神聖ローマ帝国という国号はなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。神聖ローマ皇帝は歴史学的用語で実際の称号ではない。

見る 12世紀とハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ6世(Heinrich VI., 1165年11月 - 1197年9月28日)はホーエンシュタウフェン朝第3代ローマ王(ドイツ王、在位:1169年 - 1197年)ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途中である。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。。のちイタリア王エンリーコ6世(戴冠:1186年1月21日)、さらに神聖ローマ皇帝(戴冠:1191年4月15日)「6世」はドイツ王(東フランク王)としてハインリヒ1世から数えた数字で、皇帝としては5人目のハインリヒ。当時はまだ神聖ローマ帝国という国号はなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。神聖ローマ皇帝は歴史学的用語で実際の称号ではない。

見る 12世紀とハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)

バル・デ・ボイ

バル・デ・ボイ(Vall de Boí、IPA:標準カタルーニャ語: バイ・ダ・ブイー、 地元方言: バイ・デ・ボイー、カスティーリャ語:Valle de Bohí)は、スペイン・カタルーニャ州リェイダ県のムニシピオ(基礎自治体)。名称はボイ渓谷を意味しており、この名前の側面の切り立った渓谷の名称でもある。ピレネー山脈の稜線に当たるコマルカ・ダ・アルタ・リバゴルサの北東端に位置し、この地方の自治体としては最大の面積を有する。自治体内の中心地区はバルエーラ(Barruera)地区にある。

見る 12世紀とバル・デ・ボイ

バレンシア (スペイン)

バレンシア(バレンシア語(カタルーニャ語ヴァレンシア方言): València; 、カタルーニャ語バレアレス諸島方言: 、カタルーニャ語中央方言: 、カスティーリャ語(スペイン語): Valencia; )は、スペイン・バレンシア州バレンシア県のムニシピ(基礎自治体)。バレンシア州の州都であり、バレンシア県の県都でもある港湾都市である。

見る 12世紀とバレンシア (スペイン)

バレンシア州

バレンシア州(バレンシアしゅう、バレンシア語:Comunitat Valenciana 、Comunidad Valenciana )は、スペイン東部にある自治州。バレンシア県・アリカンテ県・カステリョン県の3県からなる。州都はバレンシア。北はアラゴン州とカタルーニャ州、西はカスティーリャ=ラ・マンチャ州、南はムルシア州に接し、東は地中海に面する。

見る 12世紀とバレンシア州

バイヨン

バイヨン (Bayon) は、かつてのクメール王国の古代首都アンコールに位置する、ヒンドゥー・仏教混交の寺院跡。正方形の城壁を持つアンコール・トムの中央付近にある。 バイヨンの呼び方で広く知られているが、クメール語の発音ではバヨンの方が近い。バは「美しい」という意味で、ヨンは「塔」の意味を持つ。

見る 12世紀とバイヨン

バイエルン公国

バイエルン公国(バイエルンこうこく、Herzogtum Bayern)は、中世のドイツ南東部(現在のバイエルン州からオーストリアにかけての領域)に存在した5つの部族大公領の一つである。

見る 12世紀とバイエルン公国

バスラ

バスラ(アル=バスラ、, al-Baṣrah)は、イラク南東、シャットゥルアラブ川の右岸にある港湾都市。

見る 12世紀とバスラ

ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。ユーラシア大陸最西端の国である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有している。

見る 12世紀とポルトガル

ポルトガル王国

ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、Regnum Portugalliae, )は、イベリア半島西部、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に1139年から1910年まで存在した王国である。1415年から1580年までは、1815年から1821年まではポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国としても知られている。また、海外植民地を含めたポルトガル帝国を指すこともある。

見る 12世紀とポルトガル王国

ポーランド君主一覧

ポーランド君主一覧では、現在のポーランドにあった諸王朝、諸国の君主を一覧で挙げる。

見る 12世紀とポーランド君主一覧

ムラービト朝

ムラービト朝(المرابطون )は、1056年に北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族を母体とするモロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝。 英語読みでのアルモラヴィド朝(Almoravid dynasty)とも称される。

見る 12世紀とムラービト朝

ムワッヒド朝

ムワッヒド朝(المُوَحِّدُون,, アル=ムワッヒードゥーン)は、ベルベル人のイスラム教改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年)である。首都はマラケシュ。 現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。 アラビア語名称「アル=ムワッヒドゥーン」は「唯一神を信仰する者、一神教を奉じる者」を意味する能動分詞 مُوَحِّدٌ(muwaḥḥid, ムワッヒド)の複数形に定冠詞をつけたもの(=the monotheists)で、改革運動の根幹となった神の唯一性(タウヒード)を重視する思想に由来。

見る 12世紀とムワッヒド朝

メッカ

メッカ(مكة Makkah )は、サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(مكة المكرمة Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(أم القرى Umm al-Qurā 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に同市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りであるMecca からMakkah に改めた。 人口は1,578,722人(2015年国勢調査)。ジェッダから73km内陸に入った、狭い砂地のアブラハムの谷にあり、海抜277mである。

見る 12世紀とメッカ

メサ・ヴェルデ

メサ・ヴェルデ国立公園 (メサ・ヴェルデこくりつこうえん、Mesa Verde National Park) は、コロラド州南西部に位置するプエブロインディアンのアナサジ族の残した断崖をくりぬいた一連の集落遺跡群で、現在国立公園になっている。また、世界遺産にも登録されている。スペイン語で「緑の台地」という意味であるメサ・ヴェルデは 81.4 mi² (211 km²) の地域を占めている。この入口は Cortez の町の東約9マイル (15 km) に位置している。

見る 12世紀とメサ・ヴェルデ

モーシェ・ベン=マイモーン

ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン(רבי משה בן מיימון Mōšéh ben Mayimōn, Abū ‘Imrān Mūsa ibn ‘Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, スペイン語:Moises Maimonides, ラテン語(本来はギリシア語):Moses Maimonides, 1135年3月30日 - 1204年12月13日)は、スペインのユダヤ教徒のラビであり、哲学者。

見る 12世紀とモーシェ・ベン=マイモーン

モースル

モースルはイラク北部の中心的な都市でニーナワー県の県都。 古代のニネヴェの遺跡と世界有数の石油生産で知られる。バグダードの396km北西にあり、北緯36度22分、東経43度07分。市街はティグリス川の両岸に広がり、5つの橋で結ばれている。

見る 12世紀とモースル

モスクワ

モスクワ( )は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独で連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市()」となる。 人口約1,268万人の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。

見る 12世紀とモスクワ

ヤアクーブ・マンスール

ヤアクーブ・マンスール(يعقوب المنصور Ya'qūb al-Mansūr, 1160年 - 1199年1月23日)は、ムワッヒド朝の第3代アミール(カリフ、在位:1184年 - 1199年)。第2代君主アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世の子で、キリスト教徒を母とする。兄弟のアブドゥル・ワーヒド1世、子のムハンマド・ナースィル、アブドゥッラー・アーディル、イドリース・マアムーンもアミールに即位した。

見る 12世紀とヤアクーブ・マンスール

ユーリー・ドルゴルーキー

ユーリー1世ドルゴルーキー(、1099年頃 - 1157年5月15日)は、スーズダリ公、ペレヤスラヴリ公、キエフ大公(在位:1149年 - 1150年、1150年、1155年 - 1157年)。ウラジーミル2世モノマフの六男、母はコンスタンティノポリス貴族の娘。ドルゴルーキー(手長公)のあだ名は、彼が北東ルーシのスーズダリに居を構えつつ、しばしば南方キエフに攻め入り、これを占領したことに由来する。彼はモスクワの建設者としても知られる。洗礼名はゲオルギイ。

見る 12世紀とユーリー・ドルゴルーキー

ユークリッド原論

オクシュリュンコスで発見された『ユークリッド原論』のパピルスの写本断片。紀元100年ごろの作。図は『原論』第2巻の命題5に添えられたもの。 数学書『原論』(げんろん、Στοιχεῖα, ストイケイア、Elements)は、紀元前3世紀ごろに古代エジプトのアレクサンドリアの数学者エウクレイデス(その英語読みがユークリッド)によって編纂されたと言われる数学書。『幾何学原論』、ユークリッド『原論』、ユークリッド『原本』とも。プラトンの学園アカデメイアで知られていた数学の成果を集めて体系化した本と考えられており、論証的学問としての数学の地位を確立した古代ギリシア数学の集大成である。

見る 12世紀とユークリッド原論

ユダヤ教

ユダヤ教(ユダヤきょう、יהדות)は、ユダヤ民族の民族宗教である一神教。ユダヤ民族は唯一神(ヤハウェ)を信仰し、アブラハムの子孫であるユダヤ人に伝えられたヘブライ語聖書を聖典として先祖代々受け継ぐ集団である。ヘブライ語聖書は、キリスト教で旧約聖書と呼んでいるもので、ユダヤ教ではタナハと呼ぶ。

見る 12世紀とユダヤ教

僧綱

僧綱(そうごう)とは、日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職である。

見る 12世紀と僧綱

ヨハネス2世コムネノス

ヨハネス2世コムネノス(ギリシア語:Ιωάννης Β' Κομνηνός (Iōannēs II Komnēnos)、1087年9月13日 - 1143年4月8日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の第2代皇帝(在位:1118年 - 1143年)。同王朝初代皇帝アレクシオス1世コムネノスの子。「カロヨハネス」と讃えられた。中世ギリシア語形では「ヨアニス2世コムニノス」。

見る 12世紀とヨハネス2世コムネノス

ヨルバ人

ヨルバ人(Ọmọ Yorùbá)は、アフリカの民族。主にナイジェリア南西部に居住し、西アフリカ最大の民族集団のひとつである。ナイジェリアにおいては、ハウサ人・イボ人とともにナイジェリアの三大民族のひとつとなっている。

見る 12世紀とヨルバ人

ヨアキム主義

ヨアキム主義(ヨアキムしゅぎ)は、12世紀のカトリック教会に興った予言的・終末論的な歴史思想である。フィオーレのヨアキム(ジョアキーノとも)が唱えた。

見る 12世紀とヨアキム主義

ラリベラ

ラリベラ(アムハラ語:ላሊበላ/英語:Lalibela)は、エチオピアのアムハラ州の都市。人口17,367人(2007年)。世界遺産「ラリベラの岩窟教会群」がある。 何世紀にも亘る巡礼地であり、エチオピアではアクスムに次ぐ聖地の一つである。ラリベラはかつてエルサレムがムスリムの手に陥落した際に、新たなエルサレムを作る目的で都市計画が行われた。そのため、街の建造物群には、エルサレムの建造物群の名前や並びを模したものがある。

見る 12世紀とラリベラ

ラント平和令

ラント平和令(Landfrieden)とは、中世ドイツにおいてフェーデの制限・禁止を発したもの。

見る 12世紀とラント平和令

ラーマーヌジャ

ラーマーヌジャ ラーマーヌジャ(、1017年 - 1137年)は、インドの哲学者・神学者。ヒンドゥー教哲学の革命的存在である。

見る 12世紀とラーマーヌジャ

ラーン人

アルコナ岬にある防備定住地跡。 ラーン人あるいはリュギア人(英:Rani, Rujyani 独:Ranen, Rujanen)は今日のドイツ北東部、1500年前はゲルマン系ルギ人(en:Rugi)の領地だったリューゲン島及び南西に隣接するドイツ本土のシュトラールズントを本拠地とする西スラヴ人の部族の1つであった。ラーン人は神聖ローマ帝国の東方植民(en:Ostsiedlung)が始まる11世紀から12世紀にかけて最も力のあるスラヴ人の一族であり、キリスト教化及びドイツ同化に抵抗しスラヴの信仰を守ろうとした最後のスラヴ人でもあった。

見る 12世紀とラーン人

ラージプート

ラージプート(英語:Rajput)は、現在のラージャスターン州に居住する民族であり、クシャトリヤを自称するカースト集団。サンスクリット語のラージャプトラ(王子の意味)からきた言葉で、インド正統的な戦士集団たるクシャトリヤの子孫であることを意味する。

見る 12世紀とラージプート

ラビ

ラビ、祭司(英語・ラテン語 rabbi, ドイツ語 Rabbi, ギリシア語 rhabbi, アラム語 rabbin(複数形), ヘブライ語 rabbi / セファルディ・ミズラヒ圏 chakham, イディッシュ語 rebbe)とは、ユダヤ教に於いての宗教的指導者であり、聖職者でもあるような存在。複数形はラッビーイーム。かつては大祭司が存在した。大祭司はレビ族の血統によって世襲されていた為に、いつしかラビが聖職者とされる存在となる。 英語圏(主に米国)ではラバイと発音する(Ra-Byのような発音になる)。 ヘブライ語 ラッビー rabbi とは רב ラブ rabh「師」の派生語であり、「わが師」という形である。

見る 12世紀とラビ

ラテン語

は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派ラテン・ファリスク語群の言語の一つ。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。 元はイタリア半島の古代ラテン人によって使われ、古代ヨーロッパ大陸(西部および南部)やアフリカ大陸北部で広範に話され、近代まで学術界などでは主要言語として用いられた。

見る 12世紀とラテン語

ラホール

ラホール(Lahore、لاہور 、لہور )は、パキスタン北部のパンジャーブ地方、の岸辺に位置するインドとの国境付近にある都市。ラーホールとも呼ばれる。 面積1,772 km²、2016年の都市圏人口では1,035万人である。パキスタンではカラチに次いで国内第二の人口規模を持つ都市であり、南アジア有数のメガシティである。

見る 12世紀とラホール

ライラとマジュヌーン

サムネイル 『ライラとマジュヌーン』は、中東の古典的悲恋物語。 ライラという美女に恋い焦がれてマジュヌーン(ジンに取り憑かれた人のこと、狂人;狂おしいほどに愛に身を焦がす人)となった青年カイスの物語。数多くの詩人に詠まれ、ニザーミー作のものが特によく知られる。

見る 12世紀とライラとマジュヌーン

リチャード1世 (イングランド王)

リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 - 1199年4月6日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第2代のイングランド王(在位:1189年 - 1199年)。 ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの三男(第4子)。異父姉にマリー、アリックス、同父母の兄弟姉妹では兄にウィリアム、若ヘンリー王、姉にマティルダ、弟にジェフリー、ジョン、妹にエレノア、ジョーンがいる。妃はベレンガリア・オブ・ナヴァール(ナバラ王サンチョ6世の娘)。 生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart、フランス語ではCœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、10年の在位中イングランドに滞在することわずか6か月で、その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた堀米(1974)pp.238-241。

見る 12世紀とリチャード1世 (イングランド王)

リューベック

リューベック()は、ドイツ連邦共和国の都市。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属する。沿岸、バルト海に面する北ドイツの代表都市。かつてはハンザ同盟の盟主として繁栄を誇り、「ハンザの女王」(Königin der Hanse)と称される。正式名称をハンザ都市リューベック()という。""の発音は、標準ドイツ語では(リューベックに近い)であるのに対し、地元では(リューベークに近い)となる傾向がある。人口は21万人。

見る 12世紀とリューベック

リューゲン島

リューゲン島(リューゲンとう、Rügen, Rugia)は、バルト海に浮かぶドイツ最大の島。メクレンブルク=フォアポンメルン州に属する。935kmに約7万3,000人が住む(2001年)。隣接する小島、などと共にフォアポンメルン=リューゲン郡に属している。

見る 12世紀とリューゲン島

リヨン

リヨン(Lyon)は、フランスの南東部に位置する都市で、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏の首府、メトロポール・ド・リヨンの県庁所在地である。

見る 12世紀とリヨン

リヴォニア

1619年当時のポーランド・リトアニア連合とリヴォニア。濃い灰色の部分がリヴォニア公国 17世紀後半のリヴォニア。中・北部がスウェーデン・バルト帝国、南部がポーランド・リトアニア連合 リヴォニア(Livonia)は、現在のラトビアの東北部(ヴィドゼメ地方)からエストニアの南部にかけての地域の名称。また、リボニアやドイツ語風にリーフラント(Livland)ともいう。 この地にはフィン・ウゴル系(ウラル語系)とされるリヴォニア語を話すリーヴ人が住んでいたが、現在では人口数百人程度の少数民族となっている。ドイツ騎士団の植民やバルト人・フィン人等との混血により、激減したとされる。現在、住民はほぼバルト系ラトビア人とロシア人で占める。

見る 12世紀とリヴォニア

リガ

リガ、またはリーガ日本語では「リガ」と表記することが多いが、ラトビア語では長母音 ī が含まれるため「リーガ」となる。これにしたがって、近年では日本語でも「リーガ」と表記する例は多い。( 、、、Ryga、英語、)は、ラトビア共和国の首都で、同国最多の人口を擁する都市。人口は614,618人(2021年時点)。「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、その旧市街はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

見る 12世紀とリガ

リスボン

リスボン(Lisboa 、 リジュボア日本で広く用いられるリスボン(Lisbon)は英語由来の呼び名で、ポルトガル語ではリジュボア(Lisboa)となる、Lisbon )は、ポルトガルの首都であり、同国最大の都市である。 市域人口は54万5,796人(2021年)、市域面積は84.8平方キロメートル(33平方マイル)に過ぎないが、高い人口密度を保持している。リスボンの都市的地域は行政区としての市域を超えて広がっており、人口は300万人を超える, March 2010。面積は958平方キロメートル(370平方マイル)を占めており、欧州連合域内では11番目に大きな都市圏を形成している。

見る 12世紀とリスボン

リスボン攻防戦

リスボン攻防戦(リスボンこうぼうせん、Cerco de Lisboa)は、1147年7月1日から10月25日にかけ、イベリア半島のリスボンの支配権をめぐって行われた攻城戦である。この戦いによってリスボンはポルトガルの統治下におかれ、ムーア人の勢力下から奪回された。 リスボン攻防戦は失敗に終わった第2回十字軍の数少ないキリスト教徒側の勝利の一つであり、レコンキスタの中でもとりわけ重要な戦いと見なされるWest, 2013。

見る 12世紀とリスボン攻防戦

ルノー・ド・シャティヨン

ルノー・ド・シャティヨン(Renaud de Châtillon, 1124年頃 - 1187年7月4日)は、フランス貴族の息子として生まれ、1147年に第2回十字軍に参加したのちエルサレム王国に留まり、婚姻を通じて最初にアンティオキア公、次いでエルサレム王国の摂政と(ヨルダン川東岸地域)の領主となった人物である。最後はルノーの停戦違反を口実にエルサレム王国へ侵攻したサラーフッディーン(サラディンの呼び名でも知られる)にヒッティーンの戦いで敗れ、捕虜となって処刑された。 1124年頃に領主の息子として生まれたルノーは1147年にフランス王ルイ7世の軍に加わる形で第2回十字軍に参加した。フランス軍は2年後に撤退したものの、ルノーは現地に留まり、エルサレム国王ボードゥアン3世の下でアスカロンのを戦った。その後、アンティオキア公国の公女であるコンスタンスと結婚し、アンティオキア公の地位を手にした。アンティオキア公時代の1156年には当時ビザンツ帝国領であったキプロスを襲撃したが、後に皇帝マヌエル1世コムネノスが率いるビザンツ軍による侵攻を招く結果となり、最終的に屈辱的な条件による講和を強いられた。1160年か1161年にはユーフラテス川流域を襲撃した際の帰路でザンギー朝の将軍に捕らえられ、アレッポで監禁された。

見る 12世紀とルノー・ド・シャティヨン

ルンド

ルンド( )は、スウェーデン南部、スコーネ県(スコーネ)の都市。スコーネで最大の都市マルメの北東に位置する。人口は約9万4千人。 990年ごろ興された。ルンド大聖堂やルンド大学で知られる。大学の職員と大学生が人口の4割ほどを占め、大学の都市と呼ばれる。

見る 12世紀とルンド

ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、سلجوقیان روم。 Saljūqiyān-i Rūm、Rûm sultanate)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して成立し、アナトリア半島を中心に支配したテュルク人のイスラム王朝である。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。

見る 12世紀とルーム・セルジューク朝

ルーヴル宮殿

ルーヴル宮殿(ルーヴルきゅうでん、Palais du Louvre、)は、かつて歴代フランス王の王宮として使用されていた宮殿。パリのセーヌ川右岸に位置し、西側のテュイルリー庭園と東側のサンジェルマン・ロクセロワ教会の間にある。ルーヴル宮殿の北側はリヴォリ通り (en:Rue de Rivoli) に面し、南側はフランソワ・ミッテラン通り (en:Quai François Mitterrand) に面している。中世に建築が始められ、16世紀以降増改築を繰り返されてきた。1682年にフランス王ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に遷宮するまで、事実上の歴代フランス王宮としての役割を果たしている。ルーヴル宮殿は1682年以降も、アンシャン・レジームが終焉する1789年まで、名目上、あるいは公式な政庁として使用されていた。その後ルーヴル宮殿内にルーヴル美術館が創設され、また、様々な官公庁部署が収容されていった。

見る 12世紀とルーヴル宮殿

ルッジェーロ2世

ルッジェーロ2世(Ruggero II, 1095年12月22日 - 1154年2月26日)は、シチリア伯(在位:1105年 - 1130年)、後にシチリア国王(在位:1130年 - 1154年)。オートヴィル朝の祖。シチリア伯ルッジェーロ1世の息子で、兄シモーネを継いでシチリア伯となったが、1130年に初代シチリア王となった。

見る 12世紀とルッジェーロ2世

ルイ7世 (フランス王)

ルイ7世(Louis VII, 1120年 - 1180年9月18日)は、フランス・カペー朝第6代国王(在位:1137年 - 1180年)。ルイ6世と2番目の王妃アデル・ド・サヴォワの息子。 若王(le Jeune)と呼ばれる。アリエノール・ダキテーヌの最初の夫、第2回十字軍の指導者の1人として知られている。

見る 12世紀とルイ7世 (フランス王)

レバノン

レバノン共和国(レバノンきょうわこく、)、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家。首都はベイルート。北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。

見る 12世紀とレバノン

レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)

レオポルト3世(Leopold III., 1073年 - 1136年11月15日)は、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯(在位:1095年 - 1136年)。オーストリア辺境伯レオポルト2世の子としてメルクに生まれる。事績はあまり多く知られていない人物と評される一方で、貴賎、聖俗問わず声望は高かったという、p.129。。後に列聖され、レオポルト聖伯とも呼ばれる。

見る 12世紀とレオポルト3世 (オーストリア辺境伯)

レオポルト5世 (オーストリア公)

有徳公レオポルト5世 レオポルト5世(Leopold V., 1157年 - 1194年12月31日)は、バーベンベルク家の第2代オーストリア公(在位:1177年 - 1194年)。有徳公(der Tugendhafte)と呼ばれた。ハインリヒ2世と妃テオドラ・コムネナの子。

見る 12世紀とレオポルト5世 (オーストリア公)

レコンキスタ

サンティアゴ・マタモーロス'''(モーロ人殺しの聖ヤコブ)。スペインの守護聖人、レコンキスタの象徴 '''イスラーム勢力の後退'''(914年–1492年) イスラーム勢力はイベリア半島の南に押しやられていき、1492年にはすべての領土を失った レコンキスタ()は、718年から1492年までに行われた複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。イスラム教に奪われた土地を再度キリスト教の土地に取り返す(リ・コンクエスト)運動。レコンキスタの結果、グラナダはキリスト教国家の支配下に置かれることになり、アルハンブラ宮殿もキリスト教式に改変の手が加えられた。 ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服とそれに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。レコンキスタはスペイン語で「再征服」(。

見る 12世紀とレコンキスタ

ロマネスク

ロマネスク(英: romanesque)は、建築、彫刻・絵画・装飾、文学の様式の一つ。建築用語および美術用語としては、10世紀末から12世紀にかけて西ヨーロッパに広まった中世の様式を指す。 文芸用語としては、「ロマン(仏: roman)」から派生し、奔放な想像力によって現実の論理・事象の枠を飛び越えた幻想的な性質を指す。

見る 12世紀とロマネスク

ロンバルディア同盟

ロンバルディア同盟(Lega Lombarda)は、1167年に結成された北イタリア・ロンバルディア地方を中心とする都市同盟。北イタリアの支配を図った神聖ローマ帝国(ホーエンシュタウフェン朝)皇帝フリードリヒ1世に対抗し、ローマ教皇の支援を受けて結成され、教皇派と皇帝派の抗争における教皇派(ゲルフ)の中心となった。加盟都市はミラノ、クレモナ、ボローニャなどであるが、時期によって変動がある。軍事同盟として発足したが、のちには経済同盟の性格も持つようになった。 1226年、フリードリヒ1世の孫にあたるフリードリヒ2世が北イタリアに侵攻した際に再度結成される(第二次ロンバルディア同盟)。1250年にフリードリヒ2世が死去すると、同盟も消滅した。

見る 12世紀とロンバルディア同盟

ロビン・フッド

ロビン・フッド碑 ロビン・フッド は、中世イングランドの伝説上の人物である。まれに「ロビン・フード」と表記されることがある。

見る 12世紀とロビン・フッド

ロベール2世

ロベール2世(フランス語:Robert II)は、フランスの君主および諸侯の名。

見る 12世紀とロベール2世

ロシア美術館

国立ロシア美術館(Государственный Русский музей、State Russian Museum)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある美術館。旧名は、アレクサンドル3世皇帝記念ロシア美術館(Русский Музей Императора Александра III)。ロシアの美術館中、最大のコレクションをもつ。また、ロシア美術館本館に使用されているミハイロフスキー宮殿は、19世紀初頭におけるロシア新古典主義建築の傑作である。 ロシア美術館は、1895年4月13日にロシア皇帝ニコライ2世によって父帝アレクサンドル3世を記念してロシア最初の国立美術館として開館した。ロシア美術館の最初のコレクションは、エルミタージュ美術館および、アレクサンドロフスキー宮殿、の収蔵品から移動させられた。

見る 12世紀とロシア美術館

ロシア文学

ロシア文学(ロシアぶんがく、Русская литература)とは、ロシアの作家によって書かれた、あるいはロシア語で書かれた文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。一般的には、旧ソビエト連邦体制下の作家を含む。 いわゆるロシア文学が生まれたのは比較的遅く17世紀になってからであり、詩と戯曲から始まったが、間もなく非常に豊かな小説の伝統が生まれた。 続く19世紀にはアレクサンドル・プーシキン、フョードル・ドストエフスキー、ニコライ・ゴーゴリ、レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフといった偉大な小説家たちが現れ、世紀の終わりには劇作家アントン・チェーホフも登場した。 20世紀に入ると、象徴主義と未来派の詩が、強力な理論活動と共に新しい文学の飛躍をもたらしたが、すぐにソ連の迫害に直面することになった。それでも20世紀にはセルゲイ・エセーニンやウラジーミル・マヤコフスキーなどのような詩人や、マクシム・ゴーリキー、ボリス・パステルナーク、ミハイル・ショーロホフ、ミハイル・ブルガーコフなどの小説家が輩出した。

見る 12世紀とロシア文学

ロスキレ

ヴァイキングの船(博物館内) 港より望む大聖堂 港 ロスキレ(Roskilde, )は、デンマークのシェラン地域にある都市。世界遺産に登録されたロスキレ大聖堂がある。人口は約5万2千人(2022年)。シェラン島の北部にあり、ロスキレ・フィヨルドの最奥に位置している。2006年まではロスキレ県の行政府所在地でもあった。

見る 12世紀とロスキレ

ヴァルド派

ヴァルド派 (フランス語: Églises vaudoises)またはワルドー派(英語: Waldensianism)は、12世紀の中世ヨーロッパで発生したキリスト教の教派の1つである。カタリ派と並んで、当時のローマ・カトリック教会側からは異端として迫害された。カトリック教会からは二元論的異端とされたが、近年では福音主義的・聖書主義的特性から宗教改革の先駆とも評される。 元々はピエール・ヴァルドによって創始された信徒宣教運動で、清貧を追求し、禁欲的な生活をすることをテーマとした。自らを「リヨンの貧者」あるいは「ロンバルディアの貧者」と呼んだ。彼らの特徴は清貧の強調と、信徒による説教、聖書の(ラテン語からの)翻訳であった。

見る 12世紀とヴァルド派

ヴァインスベルク

ヴァインスベルク (Weinsberg, 、Wyysbärg) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡に属す小都市で、ハイルブロンの東方約5kmに位置する。この街は、創設約1200年の歴史を持ち、人口約11,700人(2005年現在)を擁する都市である。ネッカー川とレーヴェンシュタイナー山地にはさまれ、ズルム川とその支流が形成するヴァインスベルガー渓谷の入り口にあたる。ヴァインスベルクは、ワイン造りで知られている。ワインは何世紀もの間ヴァインスベルクの経済の中心であり、常に重要な役割を演じてきた。ヴァインスベルクはまた、11世紀初めに建設されたヴァイバートロイ城趾でも有名である。その名は、常に、処刑が決まった亭主達を救出した1140年の「ヴァインスベルクの貞節な女房達」の伝説と結びついている。現在この都市は、ヴァインスベルガー渓谷の中心地として、インフラストラクチャが整備され、中級中心都市レベルの機能をもった下級中心都市となっている。

見る 12世紀とヴァインスベルク

ヴィッテルスバッハ家

ヴィッテルスバッハ家()は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系。バイエルンの君主(バイエルン公(選帝侯)、バイエルン王)の家系として有名だが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いていた。また神聖ローマ皇帝、ギリシャ王も一族から出ている。プファルツ系その他の全ての家系を含めて「バイエルン家」(フランス語: Maison de Bavièreなど)とも呼ばれる。 長い歴史を有する家系であるが、三十年戦争におけるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世とバイエルン公マクシミリアン1世に顕著なように同族内でしばしば内紛を繰り返し、ハプスブルク家やホーエンツォレルン家に後れを取ることになった。

見る 12世紀とヴィッテルスバッハ家

ヴィクトル・ヴァスネツォフ

ヴィクトル・ミハイロヴィチ・ヴァスネツォフ( / ローマ字表記例:Viktor Mikhailovich Vasnetsov, 1848年5月15日 - 1926年6月23日)は、ロシア帝国の画家。「ヴァスネツォフ」は、「ワスネツォフ」とも表記される。神話や宗教・歴史を題材とした絵画の専門家であり、19世紀のロシア画壇における文芸復興運動の立役者の1人とみなされている。叙事的で壮大な表現や耽美主義的な傾向が見られることから、ロシア象徴主義の一員に数えられることもある。

見る 12世紀とヴィクトル・ヴァスネツォフ

ヴェルフ家

ヴェルフ家(Haus Welf)は、中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの諸侯。ヴェルフェン家(Haus Welfen)とも呼ばれる。同家の先祖はカール大帝時代の、バイエルンの高貴な家系出身のヴェルフ伯である。

見る 12世紀とヴェルフ家

ヴェンド十字軍

ヴェンド十字軍(独:Wendenkreuzzug)とは、1147年に提唱され、ポラーブ語諸族(en)あるいはヴェンド人に対して行なわれた北方十字軍の1つ。またこれは神聖ローマ帝国のドイツ王国(en)が率いた第2回十字軍の一環でもあった。 12世紀始めまで、ブレーメンとマクデブルクのドイツ大司教権力は平和的な手段により近隣の異教徒西スラヴ人にキリスト教に改宗するよう求めていた。しかし聖地へ向けた第2回十字軍の準備が行なわれる間に、対スラヴ人の十字軍を支持する教皇勅書が発行された。 1147年6月、スラヴ人の族長ニクロト(en)は機先を制してヴァグリア(Wagria)を侵略した。十字軍は1147年の晩夏に進軍を開始しドービン(en,de)のスラヴ人を表向き洗礼させるのに成功したが、デミン(en)からは撃退された。目標を変えた十字軍はキリスト教化済みのシュチェチンへ進軍したが、これは到着と同時に解散した。

見る 12世紀とヴェンド十字軍

ヴェンド人

ヴェンド人の結婚式(1931年、ドイツ) ヴェンド人(Wends、Wenden、vendere、vender)は、民族移動時代の後、ゲルマン人の居住地の近郊もしくはその領域内に住むスラヴ人を指すゲルマン語(後にドイツ語)の言葉。従ってこれは特定の部族ではなく、いろいろな民族や部族あるいは集団に対して用いられた言葉が次第に「いつ、どこに居るか」(あるいは「居たか」)によって使われるようになったものである。 現代「ヴェンド人」という用語は主として歴史的な文脈で用いられるが、カシューブ人(Kashubians)やソルブ人、あるいはテキサス・ヴェンドのようにソルブ語を話す家系の人々について言及する際に使われる場合もある。

見る 12世紀とヴェンド人

ヴォルムス協約

ヴォルムス協約 / ウォルムス協約( - きょうやく、Wormser Konkordat)は、1122年にドイツのヴォルムスにおいて、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世の間で結ばれた政教条約である。両者の取り持ちにはレオポルト3世が当たったという、p.129。。 神聖ローマ帝国内で世俗権力と教会が争った聖職者の叙任権の問題(叙任権闘争)を解決し、「叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える」と取り決めた。「根本問題をなにひとつ解決していない不透明な妥協の産物」とも評される。 ヴォルムス協約原本 古代末期以来、私領において建てられた聖堂(私有教会)や修道院が増えていく中で、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、世俗権威が強大化していくと、その地域の司教の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていった。これは教会財産の管理権を握ることと直結していたので、世俗権力にとっても重要であった。

見る 12世紀とヴォルムス協約

ボレスワフ3世の遺言状

ポモジェ、長子領の支配者の封土 ボレスワフ3世曲唇公の遺言状(ポーランド語:Ustawa sukcesyjna Bolesława Krzywoustego)は、ポーランド大公ボレスワフ3世が死に際し、息子達によるポーランド王国の統治に関して定めた政治的な法令。この遺言によって、ボレスワフ3世は自分の相続人達が互いに争わず、ピャスト家の諸公による王国の統合状態が永続する体制の確立を試みていた。しかし、結局ボレスワフ3世の目論見は失敗に終わり、彼の死後間もなく後継者達は互いに争いを始め、200年にわたるポーランドの分裂時代が幕を開けた。

見る 12世紀とボレスワフ3世の遺言状

ボレスワフ3世クシヴォウスティ

ボレスワフ3世クシヴォウスティ(Bolesław III Krzywousty, 1085年8月20日 - 1138年10月28日)は、ポーランド大公(在位:1102年 - 1138年)。ヴワディスワフ1世ヘルマンと最初の妃でボヘミア公ヴラチスラフ2世の娘ユディタの子として生まれた。曲唇公(Krzywousty)と呼ばれる。

見る 12世紀とボレスワフ3世クシヴォウスティ

ボローニャ

ボローニャ(Bologna)は、イタリア共和国北部にある都市で、その周辺地域を含む人口約39万人の基礎自治体(コムーネ)。エミリア=ロマーニャ州の州都かつボローニャ県の県都。

見る 12世紀とボローニャ

ヌールッディーン

ヌールッディーン・マフムード(الملك العادل نور الدين ابو القاسم بن زنكي、、1118年 - 1174年5月15日)は、シリア等を支配したセルジューク朝系のアタベク政権であるザンギー朝の第2代君主(在位:1146年 - 1174年5月15日)。アタベク・イマードゥッディーン・ザンギーの子で十字軍国家やエジプト(ファーティマ朝)、ダマスクス(ブーリー朝)と戦い領土を広げ、イスラム勢力の統一を計った。ヌレディンまたはヌール・アッディーンと表記されることが多い。十字軍側の史料では「Noradinus」などと称されていた。名前の語義は「宗教/信仰の光」を意味する。

見る 12世紀とヌールッディーン

ボードゥアン1世 (エルサレム王)

ボードゥアン1世(Baudouin I, 1065年頃 - 1118年4月2日)は、第1回十字軍の指導者の一人。初代エデッサ伯となり、後に初代エルサレム国王(在位:1100年 - 1118年)となった。

見る 12世紀とボードゥアン1世 (エルサレム王)

ボードゥアン4世 (エルサレム王)

ボードゥアン4世(Baudouin IV, 1161年 – 1185年3月16日)は、エルサレム国王(在位:1174年 – 1185年)。エルサレム国王アモーリー1世の息子。癩王(the leper king)とも呼ばれた。

見る 12世紀とボードゥアン4世 (エルサレム王)

ボヘミア

ボヘミア(Bohemia、Čechy、、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西に接するのはドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い革の帽子に革のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに好まれた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。

見る 12世紀とボヘミア

ボヘミア君主一覧

ボヘミア君主一覧(ボヘミアくんしゅいちらん)では、ボヘミアの君主であるボヘミア公およびボヘミア国王を挙げる。ボヘミアでは9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となり、10世紀に神聖ローマ帝国に服属する。11世紀から12世紀には神聖ローマ帝国の中で王号を許された特別の地位を得て、「ボヘミアを征する者はヨーロッパを征す」と言われた。ボヘミア国王は1289年からは選帝侯の一人となった。 プシェミスル家が13世紀に断絶した後、婚姻政策によってルクセンブルク家が王位を世襲するが、これもフス戦争の渦中で断絶する。その後はハプスブルク家の支配下に入り、第一次世界大戦による帝国崩壊でチェコスロバキアの一部として独立するまで、ハプスブルク帝国の構成国として続く。

見る 12世紀とボヘミア君主一覧

ボゴミル派

ボゴミル派(ボゴミルは)は、10世紀半ばから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。 10世紀中頃に、ブルガリア司祭のボゴミルにより開始された。ブルガリアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入ってくると、ボゴミル派からイスラムに改宗する者も現れ、廃れた。 フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に影響を与えたとも考えられている。

見る 12世紀とボゴミル派

ボゴタ

ボゴタ(Bogotá )は、コロンビアの首都。アンデス山脈の盆地、標高2640メートルに位置しており、ラパスとキトに次いで世界で3番目に標高の高い首都である。人口は約770万人で、2020年現在の都市圏人口は1,000万人を超えるメガシティであり、世界最高地の大都市である。ボゴタには図書館や大学が多いことから、文化の中心という意味で「南米のアテネ」というニックネームがついている。 1991年に名称がサンタ・フェ・デ・ボゴタ(Santa Fe de Bogotá)に変わったが、2000年に再び現在の名称になった。 2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第52位の都市と評価された。

見る 12世紀とボゴタ

トリポリ伯国

トリポリ伯国(トリポリはくこく、County of Tripoli)は、レヴァントに建設された4つの主要な十字軍国家のうち、最後に建国された国家である。サフィータ、タルトゥース、トリポリといった重要な都市を押さえていた。

見る 12世紀とトリポリ伯国

トルバドゥール

トルバドゥール(Troubadour)、トゥルバドゥールは、中世のオック語抒情詩の詩人、作曲家、歌手のこと。リムーザン、ギュイエンヌ(Guyenne)、プロヴァンス、さらに、カタルーニャ、アラゴン王国、ガリシア、イタリアで活躍した。女性のトルバドゥールはトロバイリッツ(Trobairitz)と呼ばれる。 トルバドゥールの詩の多くは、騎士道と、高貴な女性への憧れや恋という宮廷の愛をテーマにしたものであった。特に、人妻となった貴婦人を想う真実の愛の歌が有名である。西ヨーロッパの文学は12世紀に分水嶺があり、それまでは「ローランの歌」にみられるような、粗野で武骨な戦闘的ゲルマン人の一途な騎士魂の発露、武勲詩であり、そこに愛や雅びの精神、女性に対する愛はなかったが、12世紀に南フランスのプロヴァンスで、突然トルバドゥールの愛の抒情詩が歌われるようになった。突如として現われたそれは、ペトラルカ風のソネットに近い、完成された優雅さや繊細な雅びの世界であり、西ヨーロッパにおける「ロマンティシズムの成立」をみることができる。トルバドゥールは、12世紀後半になると北フランスのトルヴェール(trouvères)と、ドイツ側でミンネザングを歌うミンネゼンガーとして発展した。

見る 12世紀とトルバドゥール

トレチャコフ美術館

国立トレチャコフ美術館(Государственная Третьяковская галерея, 略称:ГТГ, The State Tretyakov Gallery)は、ロシア、モスクワにある美術館。世界有数のロシアファインアートのコレクションで知られる。

見る 12世紀とトレチャコフ美術館

トレド

トレド(Toledo)はスペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州のムニシピオ(基礎自治体)。カスティーリャ=ラ・マンチャ州の州都であり、トレド県(人口約60万人)の県都である。マドリードから南に71kmの距離で、タホ川に面する。 かつての西ゴート王国の首都であり、中世にはイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の文化が交錯した地である。「町全体が博物館」と言われ、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。また、ルネサンス期のスペインを代表するギリシア人画家のエル・グレコが活躍した町としても有名。金銀細工の伝統工芸品「ダマスキナード」がある。

見る 12世紀とトレド

トロワ

トロワ(Troyes)は、フランス北部、グラン・テスト地域圏のコミューンで、オーブ県の県庁所在地。

見る 12世紀とトロワ

トンレサップ

カンボジア国内におけるトンレサップとメコン川の位置関係 NASA撮影のトンレサップ。左上方向が北 トンレサップ()は、カンボジアに位置する湖であり、河系と結びついている。東南アジア最大の湖であり、クメール語で巨大な淡水湖(sap)と川(tonlé)という意味がある。

見る 12世紀とトンレサップ

ヘンリー1世 (イングランド王)

ヘンリー1世(Henry I, 1068年 - 1135年12月1日)は、ノルマン朝第3代イングランド王(在位:1100年 - 1135年)。ノルマンディー公アンリ1世(Henri I, 在位:1106年 - 1135年)でもあった。通称は碩学王(せきがくおう、Henry Beauclerc)。 ノルマン朝初代イングランド王ウィリアム1世(征服王)とフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダ(アルフレッド大王とマーシア王オファの子孫)の四男。ノルマンディー公ロベール2世、イングランド王ウィリアム2世の弟。子にマティルダ等。後にプランタジネット朝を開くヘンリー2世は外孫に当たる。

見る 12世紀とヘンリー1世 (イングランド王)

ヘンリー2世 (イングランド王)

ヘンリー2世(Henry II, 1133年3月5日 - 1189年7月6日)は、プランタジネット朝(あるいはアンジュー朝)初代のイングランド王国の国王(在位:1154年 - 1189年)である。ノルマンディー公(在位:1150年 - 1189年)、アンジュー伯(在位:1151年 - 1189年)でもあった。アリエノール・ダキテーヌの2番目の夫として知られている。短マント王(Henry Curtmantle 仏:Court-manteau)とも呼ばれた。 父はフランス王国の有力貴族のアンジュー伯ジョフロワ5世、母はイングランド王ヘンリー1世の王女マティルダである。 父方と母方からの相続と自身の婚姻により広大な所領を獲得し、ピレネー山脈から南フランスおよびイングランドにまたがる、いわゆる「アンジュー帝国」を築いたが、晩年は息子たちの反乱に苦しんだ。

見る 12世紀とヘンリー2世 (イングランド王)

ブランデンブルク辺境伯領

現在のブランデンブルク州旗 ブランデンブルク辺境伯領(ブランデンブルクへんきょうはくりょう、Mark/Markgrafschaft Brandenburg)は、神聖ローマ帝国の選帝侯の一人であるブランデンブルク辺境伯の所領の領地。現在のブランデンブルク州の大部分とベルリン、およびポーランドの一部に相当する。

見る 12世紀とブランデンブルク辺境伯領

ブラウンシュヴァイク

ブラウンシュヴァイク(Braunschweig, Brunswick)は、ドイツの都市。ニーダーザクセン州の代表的都市であり、人口25万2,768人は同州において州都ハノーファーに次ぐ(2015年)。街の名前は「Brunoの村」の意味(Brunoはブルン1世を指す)。

見る 12世紀とブラウンシュヴァイク

ブリタニア列王史

『ブリタニア列王史』(ブリタニアれつおうし、ブリタニア列王伝、)は、1136年頃にジェフリー・オブ・モンマスがラテン語で書いたブリテン(グレートブリテン島)に関する偽史書。ホメーロスの『イーリアス』に登場するトロイア人たちの子孫がブリテン国家を建設するところから、7世紀のアングロ・サクソン人によるブリテン支配までの、2000年間のブリトン人王たちの生涯を年代順に物語っている。「アーサー王物語」など「ブルターニュもの」の核となっている。 歴史書としての独立した価値はない。ガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍によるブリタンニア侵攻などを描いた部分は、その時代の歴史で補強することも可能だが、ジェフリーの記録は甚だ不正確である。しかし、中世文学としての価値はある。

見る 12世紀とブリタニア列王史

ブルゴーニュ王朝

ブルゴーニュ王朝(ブルゴーニュおうちょう)は、1143年から1383年までポルトガルを支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュ(Bourgogne)はフランス語名であり、ポルトガル語に基づいてボルゴーニャ王朝(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者であるアフォンソ1世の父親アンリがブルゴーニュ出身であることに由来する金七『図説 ポルトガルの歴史』、21頁。カスティーリャ王国およびレオン王国の王朝にも同じくブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝と呼ばれるものがあるが、起源が異なる。

見る 12世紀とブルゴーニュ王朝

ブロワ家

ブロワ家(フランス語:maison de Blois)は、中世フランスの貴族の家系。

見る 12世紀とブロワ家

プラハ

プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha発音記号 )は、チェコ共和国の首都。同国最大の都市であり、中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。プラーグ(英語: Prague発音記号 )、プラーク(ドイツ語: Prag発音記号 )、プラーガ(マジャル(ハンガリー)語: Prága発音記号 )とも呼ばれる。漢字表記は布拉格。 市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔の街」(City of a Hundred Spires)とも呼ばれる。

見る 12世紀とプラハ

プランタジネット朝

プランタジネット朝(プランタジネットちょう、Plantagenet dynasty )は、中世イングランド王国の王朝。フランスの貴族であったアンジュー伯アンリが1154年にヘンリー2世となり、1399年にリチャード2世が廃されるまで続いた。ただし、その後に続くランカスター朝、ヨーク朝ともプランタジネット家の男系の傍系であるため、広義ではプランタジネット朝に含まれる。この場合はヨーク朝のリチャード3世が最後のプランタジネット朝の王となる。ヨーク朝を滅ぼして王位を得たテューダー朝およびその後のすべての王朝は、女系でプランタジネット家の血を引いている。アンジュー伯家から興ったことから、その初期(ヘンリー2世からジョンまで)についてはアンジュー朝(Angevin Dynasty)とも呼ばれる。

見る 12世紀とプランタジネット朝

プレスター・ジョン

プレスター・ジョン(Prester John、Presbyter Johannes、Preste João、プレステ・ジョアン)は、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、587頁。ドイツ語では、Presbyter Johannes の他に、Priesterkönig Johannes(司祭王ヨハネス)とする表記も行われている。

見る 12世紀とプレスター・ジョン

プエブロ

プエブロ(Pueblo)は、メキシコ北部とアメリカ合衆国南西部、特にニューメキシコ州やアリゾナ州に残るインディアンの伝統的な共同体、集落を指し、またそこに住むインディアンを集合的に呼んだ言葉。現在およそ35,000人のプエブロ・インディアンがいる。

見る 12世紀とプエブロ

プシェミスル朝

プシェミスル家の紋章 プシェミスル朝(Dynastie Přemyslovců)は、ボヘミア(ドイツ語でベーメン、チェコ語ではチェヒ)のチェコ人王朝。1306年に断絶するまで続いた。伝説上の女傑・リブシェの夫で、一族の伝説上の始祖である農夫プシェミスルから名づけられた。競合するスラヴニク家を打倒後、ボヘミアの一君主となったが、13世紀にオタカル2世はオーストリア公国を獲得してオーストリア大公の地位に就き、大空位時代に神聖ローマ皇帝として推挙されている(ハプスブルク家に敗れた)。さらに13世紀後半、ポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の下で最盛期を誇ったが、息子である次王ヴァーツラフ3世が殺害され断絶した。

見る 12世紀とプシェミスル朝

パレルモ

パレルモ(Palermo; Palermu)は、イタリアのシチリア島北西部に位置する都市であり、その周辺地域を含む人口約66万人の基礎自治体(コムーネ)。シチリア島最大の都市にしてシチリア自治州の州都であり、パレルモ県の県都でもある。 独自の国際色豊かな文化を生み出した中世シチリア王国の古都。

見る 12世紀とパレルモ

パンジャーブ

1909年のパンジャーブ地図 赤い城(デリー) 時計塔(ファイサラーバード) パンジャーブ(PunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。インド・パキスタンの分離独立の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。

見る 12世紀とパンジャーブ

パーラ朝

パーラ朝(パーラちょう、英語:Pala dynasty、পাল সাম্রাজ্য。 (Pal Shamrajjo))は、8世紀後半から12世紀後半まで、北東インド(ベンガル地方とビハール地方を中心とした地域)を支配した仏教王朝(750年 - 1162年あるいは1174年)。首都はパータリプトラ、ガウル。

見る 12世紀とパーラ朝

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

350x350ピクセル ヒルデガルト・フォン・ビンゲンまたはビンゲンのヒルデガルト(Hildegard von Bingen, ユリウス暦1098年 - ユリウス暦1179年9月17日)は、中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり神秘家、作曲家。史上4人目の女性の教会博士。 神秘家であり、40歳頃に「生ける光の影」()の幻視体験()をし、女預言者とみなされた。50歳頃、ビンゲンにて自分の女子修道院を作る。自己体験を書と絵に残した。 医学・薬草学に強く、ドイツ薬草学の祖とされる。彼女の薬草学の書は、20世紀の第二次世界大戦時にオーストリアの軍医により再発見された。世に知られた最初のドイツ人博物学者とされる。才能に恵まれ、神学者、説教者である他、宗教劇の作家、伝記作家、言語学者、詩人であり、また古代ローマ時代以降最初(ギリシア時代に数名が知られる)の女性作曲家とされ、近年グレゴリオ聖歌と並んで頻繁に演奏されCD化されている。神秘主義的な目的のために使われたリングア・イグノタという言語も考案した。中世ヨーロッパ最大の賢女とも言われる。

見る 12世紀とヒルデガルト・フォン・ビンゲン

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教(ヒンドゥーきょう、ヒンドゥーイズム、Hinduism、हिन्दू धर्म、सनातनधर्मः)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。

見る 12世紀とヒンドゥー教

ヒッティーンの戦い

ヒッティーンの戦い(ヒッティーンのたたかい、معركة حطين,, 1187年7月4日)は、エルサレム王国とアイユーブ朝のサラーフッディーン率いるイスラム勢力の間に起こった戦い。この戦いに勝利したサラーフッディーンは進軍を継続して同年10月に聖地エルサレムの奪回に成功し、エルサレム王国を崩壊寸前(沿岸部に多少の領土を残すのみ)まで追い込んだ。地名については、ハッティーン (en)とも言う。 戦場はティベリア近郊、死火山の跡で「ヒッティーンの角」と呼ばれる二つの丘のある地域で、アッコンより東へ向かう道から北側の山地を抜けてティベリアへと向かう道の途上にある。

見る 12世紀とヒッティーンの戦い

ビザンティン

ビザンティン(ビザンチン、)は、東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノポリス(コンスタンディヌーポリ、コンスタンティノープル)の旧名ビュザンティオン(ビュザンティウム、ビザンチウム)を語源とする東ローマ帝国およびその文物を指す、英語の形容詞に由来する名称。正教会の広まった地域を中心に文化的な影響を及ぼし、これらの地域における文物の特定様式にも「ビザンティン」の名が付される事がある。ドイツ語の名詞ビザンツ(, ただし標準ドイツ語発音ではビュツァンツ)とも表記される。 なお、「ビザンティン」「ビザンツ」のいずれも後代に用いられるようになった用語であり、東ローマ帝国時代から用いられていた呼称ではない。

見る 12世紀とビザンティン

ピエール・ヴァルド

ピエール・ヴァルドの銅像 ピエール・ヴァルド(フランス語: Pierre Valdo)、リヨンのヴァルド(イタリア語: Valdo di Lione)、ペトルス・ヴァルデス (ラテン語: Petrus Valdes、1140年 - 1218年?)は、フランスの宗教運動家。ヴァルド派の始祖。日本では英語読みでピーター・ワルドー(英語: Peter Waldo)と表記されることもある。 リヨン出身。この地の裕福な市民で職業は当時のリヨンでは商人層は発達しておらず保守的な教会が富を蓄積していたことから教会の管財人でこの立場を利用した高利貸しだったと近年では考えられている。 1173年頃にやってきた吟遊詩人の歌う聖アレクシス伝を聴き感銘を受け、町の神学博士に自らの生きるべき道をたずねたところ、持ち物をなげうって貧しい人々に施す聖書の一句を教えられた。それから妻に財産の一部を与えて離別し、娘たちを女子修道院に入れた。続いて高利貸しで不正に得た利子を返して全財産を売り払い貧者にパン、スープを施し、聖職者に依頼してラテン語で書かれた聖書を俗語訳にして学んだ。リヨンで説教をはじめやがて多くの市民が共鳴し清貧と説教を実践する人々が現れた。当時、一介の一般信徒が自発的に説教活動を始めたことはほとんどなくヴァルドは教会から公式な説教の許可を得ようとしたが、リヨンの大司教に拒否された。

見る 12世紀とピエール・ヴァルド

ピエール・アベラール

ピエール・アベラール(Pierre Abélard 、1079年 - 1142年4月21日)は中世フランスの論理学者・キリスト教神学者。「唯名論」学派の創始者として知られ、後にトマス・アクィナスらによって集成されるスコラ学の基礎を築いたとされる。弟子であるアルジャントゥイユのエロイーズとのロマンスでも有名。ラテン語式のペトルス・アベラルドゥス(Petrus Abaelardus)という名前でも知られる。

見る 12世紀とピエール・アベラール

ピサの斜塔

ピサの斜塔(ピサのしゃとう、Torre di Pisa)は、イタリアのピサ市にあるピサ大聖堂の鐘楼であり、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する観光スポットである。高さは地上55.86m、階段は296段あり、重量は14,453t、地盤にかかる平均応力は50.7tf/m2と見積もられている。一時傾斜の増大と倒壊の危惧があったがその後の処置により、当分問題ないと判断されている(後述)。最大5.5度傾いていたが、1990年から2001年の間に行われた工事によって、現在は約3.97度に是正されている。また、定刻ごとに鳴る鐘の音は、備え付けられている鐘を実際に鳴らすと傾斜に影響を及ぼす恐れがあるため、スピーカーから流されている。かつてのガリレオの実験に対して行われた異端審問の弾圧に関連してローマ法王が詫びの公式声明を塔の頂上にて行ったことも有名である。

見る 12世紀とピサの斜塔

テュルキスタン

テュルキスタン(Túrkistan、Түркістан 、Туркестан、Turkiston / Туркистон) は、カザフスタン共和国テュルキスタン州の都市。2018年6月19日より同州の州都となった。 シルダリヤ川に近く、かつては康居の都があった。トランス・アラル鉄道が通り、タラズの160km北に位置している。シムケントからは車で約2時間。かつての市名はヤシ(Yasi)。

見る 12世紀とテュルキスタン

テューリンゲン

テューリンゲン。

見る 12世紀とテューリンゲン

テンプル騎士団

テンプル騎士団の紋章一頭の馬に跨る二人の騎士は、清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。 テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。 十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。

見る 12世紀とテンプル騎士団

テッサロニキ

アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloníki )は、ギリシャ北部の都市。エーゲ海のテルメ湾に臨む港街でもある。古代ギリシア語ではテッサロニーケー(Thessalonīkē)/テッサロニケ/テサロニケ(慣用)、中世~現代ギリシア語の実際の発音に近い音写ではテサロニキ/セサロニキとも表記する。テッサロニカ/テサロニカ(Thessalonica)、或いは歴史的にはサロニカ(Salonica)の名でも知られる。 ギリシャでは首都のアテネに次ぐ2番目に大きな都市。中央マケドニアの首府であり、(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。

見る 12世紀とテッサロニキ

ティルス

ティルス(Tyrus)(テュロス(Tyros))は、レバノンの南西部、地中海に面する都市遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された史跡でもある。ティルスの現在の名前はスール(صور)ないしはティール(アラビア語で岩という意味)といわれる。

見る 12世紀とティルス

デンマーク人の事績

『デンマーク人の事績』(デンマークじんのじせき、デーン人の事績、デーン人の事蹟、ゲスタ・ダノールム、Gesta Danorumとも)は、12世紀にサクソ・グラマティクスによって書かれた、デンマークの歴史に関する記録である。

見る 12世紀とデンマーク人の事績

ディヤルバクル

ディヤルバクル(Diyarbakır, Amed / ئامەد)はトルコ南東部の都市。ティグリス川に臨む。ディヤルバクル県の県都で、2012年以降のディヤルバクル大都市自治体とディヤルバクル県は同一の範囲である。人口は589,000人(2003年)。ただし、町をとりまくスラムの住民を含めると、人口は100万人を越えると推定される。住民の大半はクルド人。イスタンブールやアンカラと空路で結ばれ、トルコ空軍の基地がある。

見る 12世紀とディヤルバクル

デイヴィッド1世 (スコットランド王)

デイヴィッド1世(David I, 1084年頃 - 1153年5月24日)は、スコットランド王(在位:1124年 - 1153年)。マルカム3世と2番目の王妃マーガレットの六男。ダンカン2世の異母弟、エドワード、エドマンド、エドガー、、アレグザンダー1世、イーディス(マティルダ)、の同母弟に当たる。カトリック教会の聖人。

見る 12世紀とデイヴィッド1世 (スコットランド王)

フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、)、通称フランス()は、西ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はパリ 日本国外務省(2022年12月7日閲覧)。フランス・メトロポリテーヌ(本土)のほか、フランス植民地帝国の名残で世界各地にフランスの海外県・海外領土が点在する。独立した旧フランス領諸国とはフランコフォニー国際機関を構成している。 フランス本土は、北は北海、イギリス海峡、大西洋(ビスケー湾)に、南は地中海に面する。陸上では、東はベルギー、ルクセンブルク、ドイツ、スイス、イタリアと、西ではピレネー山脈でスペイン及びアンドラと国境を接するほか、地中海沿岸にミニ国家のモナコがある。 国際政治や安全保障、経済、文化において世界的な影響力を持つ民主主義の大国、先進国の一つである。

見る 12世紀とフランス

フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)

1188年に制作された写本中の細密画におけるフリードリヒ1世、バチカン図書館収蔵。 フリードリヒ1世(Friedrich I., 1122年 - 1190年6月10日)は、ホーエンシュタウフェン朝第2代ローマ王(ドイツ王、在位:1152年 - 1190年)ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途中である。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。、イタリア王フェデリーコ1世(戴冠:1155年4月24日)赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、赤髭王(バルバロッサ、Barbarossa)と呼ばれた(成瀬 他、p.

見る 12世紀とフリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)

フワーリズミー

1983年のソビエト連邦の記念切手 アル=フワーリズミー(الخوارزمي al-Khuwārizmī)ことアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ムーサー・アル=フワーリズミー(أبو عبد الله محمد ابن موسى الخوارزمي)は、9世紀前半にアッバース朝時代のバグダードで活躍したイスラム科学の学者である。アッバース朝第7代カリフ、マアムーンに仕え、特に数学と天文学の分野で偉大な足跡を残した。アルゴリズムの語源となった人物である。 中央アジアのホラズム(アラビア語でフワーリズム)の出身で、フワーリズミーの名は、「ホラズム出身の人」を意味するニスバ(通称)である。生没年は諸説あり、780年あるいは800年の生まれ、845年あるいは850年の没とされる。 メルヴで学者として有名となり、カリフのマアムーンに招かれてバグダードに出て彼に仕えた。知恵の館で天文学者として働き、図書館長もつとめ、のちにカリフとなったワースィクにも仕えた。数学、天文学、さらに地理学、暦学などの分野で様々な研究を行った。散逸した著作も多いが、様々な書を著し、日時計、観象儀(アストロラーベ)なども作成したとされる。

見る 12世紀とフワーリズミー

ファーティマ朝

ファーティマ朝(ファーティマちょう、الخلافة الفاطمية 、Al-Khilafah al-Fāṭimīyah)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909年 - 1171年)。その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。 ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期にはイベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したのでイスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。

見る 12世紀とファーティマ朝

フィリップ2世 (フランス王)

フィリップ2世(Philippe II, 1165年8月21日 - 1223年7月14日)は、フランス・カペー朝第7代の王(在位:1180年 - 1223年)。ルイ7世と妃でシャンパーニュ伯兼ブロワ伯ティボー4世の娘アデルの子。フランス最初の偉大な王と評価され、尊厳王(オーギュスト、Auguste)と呼ばれた。 父王の崩御により15歳で即位し、当初は舅であるエノー伯ボードゥアン5世の摂政下にあったが、間もなく親政を始めた。エノー伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりヴァロワなどを得た。さらに、イングランド王家で欠地王ジョン王のフランス南部に広大な領地を有するプランタジネット家との抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、アルビジョア十字軍を利用して、王権をトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぼした。この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。

見る 12世紀とフィリップ2世 (フランス王)

フィンランド

フィンランド共和国(フィンランドきょうわこく、Suomen tasavalta、Republiken Finland)、通称フィンランドは、北ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はヘルシンキ。バルト海東岸に位置する国の一つであり、国境は、北はノルウェー、西はスウェーデン、東はロシアと接する。南はフィンランド湾を挟みエストニアと相対している。 国体の変化が激しい歴史を持つ国家であり、王制から共和制へ変換された国々の一国として知られている。ロシア帝国が第二次ロシア・スウェーデン戦争後にフィンランドを併合してフィンランド大公国にした1809年まで、スウェーデン王国に属していた。後に、ロシア帝国がロシア革命で崩壊したことで1917年に独立を果たした。独立後、フィンランドでは4つの戦争が行われた。1918年のフィンランド内戦、ロシア革命で成立したソビエト連邦との冬戦争(1939年~1940年)、第二次世界大戦(独ソ戦)に伴うソ連との継続戦争(1941年~1944年)とソ連との講和後のナチス・ドイツとのラップランド戦争(1944年~1945年)である。それぞれの戦争において、共和国の軍隊は、軍の最高司令官であるマンネルヘイム元帥によって率いられた。冬戦争と継続戦争により幾らかの土地をソ連に奪われるも、ソ連に併合されたバルト三国と異なり独立を維持した。

見る 12世紀とフィンランド

ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland、Federal Republic of Germany)、通称ドイツ(Deutschland)は、中央ヨーロッパおよび広義の西ヨーロッパ「中西欧」と括られることもある。再統一前の東ドイツ(ドイツ民主共和国)は、政治的にはソ連の衛星国として東側諸国の一員であり、地理的には東欧(東ヨーロッパ)に分類されることが多かった。に位置する連邦共和制国家である。

見る 12世紀とドイツ

ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその英語由来の訳語としてのチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者を護衛し病院を設立する目的で設立された。メンバーは、一般的にはチュートン騎士として知られ、自発的に報酬を目当てに、中世には聖地やバルト海地域で十字軍の騎士修道会として活動した。

見る 12世紀とドイツ騎士団

ニューメキシコ州

ニューメキシコ州(ニューメキシコしゅう、New Mexico、Nuevo México、"ヌエボ・メヒコ")は、アメリカ合衆国の南西部にある州。州の北はコロラド州に接し、東側にはオクラホマ州とテキサス州に、西側はアリゾナ州に、南側はテキサス州およびメキシコとの国境に接している。また州の北西にはフォー・コーナーズがあり、そこでユタ州とも一点で接している。面積ではアメリカ合衆国で5番目に大きいが人口では36番目であり、人口密度では45番目になっている。美しい景観から「Land of Enchantment(魅惑/魔法の土地)」と通称される。 州都はサンタフェ、州内最多の人口を抱える都市はアルバカーキである。

見る 12世紀とニューメキシコ州

ニーダーザクセン州

ニーダーザクセン州(ニーダーザクセンしゅう、Land Niedersachsen、Neddersassen、東フリジア語:Lound Läichsaksen、Lower Saxony)は、ドイツ連邦共和国を構成する16の連邦州のひとつで、ドイツ北西部に位置する。低地ザクセン州とも訳される(niederが「低地」「低い」。英語のlower)。州都はハノーファー。

見る 12世紀とニーダーザクセン州

ニザーミー

ニザーミー ニザーミー・ギャンジャヴィー(ネザーミー)(ペルシア語で نظامی گنجوی Nezāmi-ye Ganjavi, アゼルバイジャン語で Nizami Gəncəvi, 1141年-1209年)はペルシア人の詩人。10世紀から15世紀末にかけてのペルシア語文学古典時代における最も著明な詩人のひとりであり、ペルシア語ロマンス叙事詩において恋愛・悲恋文学に神秘主義詩の要素を織込み独自の境地を開拓した。 本名は、ジャラールッディーン・アブー・ムハンマド・イルヤース・イブン・ユースフ(Jalāl al-Dīn Abū Muḥammad Ilyās Ibn Yūsuf)。現在のアゼルバイジャンのギャンジャで生まれる。父親は現在のイランのゴムの出身とも伝えられ、母親ライーサはクルド人であったという。生涯に三人の妻を娶り、ダルヴァンドの王より下賜されたキプチャク出身の女奴隷でアーファークという女性を妻として迎え、これを熱愛したことがのちの作品群に大いに影響を与えたという。ムハンマドという男児を儲けたことが作品中に語られている。ニザーミーの生地ギャンジャをはじめとするアッラーン、アーザルバーイジャーン地方は、セルジューク朝系のアタベク政権イルデニズ朝の支配下に有ったが、ニザーミーはタブリーズのイルデニズ朝などの各地の宮廷に詩を献呈したものの、生涯、生地のギャンジャを愛して離れずこれらの宮廷に仕えることは無かったという。

見る 12世紀とニザーミー

ホラーサーン

ホラーサーン(خراسان、Khorasan)は、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。「太陽の登るところ」を意味する。現在はラザヴィー・ホラーサーン州の州都となっている。

見る 12世紀とホラーサーン

ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝(ホラズム・シャーちょう、 Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。

見る 12世紀とホラズム・シャー朝

ホワイトシップの遭難

ホワイトシップの遭難 ホワイトシップの遭難(The Sinking of the White Ship)は、12世紀(1120年11月25日)の海難事故。イングランド王ヘンリー1世の世継ぎウィリアム、王の庶子2人を始めとして、イングランド、ノルマンディーの王族、貴族多数が水死した。生き残ったのは船員1人と言われる。 ウィリアムは、1120年11月25日、イギリス海峡を渡るため、ホワイトシップ号でバルフルールを出航した。ヘンリー1世は既に日暮れ前に出航していたが、ウィリアムと彼の郎党は、日が暮れるまで陸上で飲酒していた。自分たちが乗るホワイトシップ号は王家の艦船で最も速く最新の船であり、すぐにヘンリー1世に追いつけると思っていたからである。酔っ払った操舵手が真夜中に湾内の岩にホワイトシップ号をぶつけなければ、それは間違いではなかったであろう。

見る 12世紀とホワイトシップの遭難

ホーエンシュタウフェン朝

ホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年 - 1208年、1215年 - 1254年)は、神聖ローマ帝国の王朝。シュタウフェン朝およびシュタウファー朝とも呼ばれる。シュヴァーベン大公でもあった。家名はシュヴァーベンのシュタウフェン城を発祥とする。イタリアではシチリア王国を支配し、1266年まで続いた。

見る 12世紀とホーエンシュタウフェン朝

ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟

ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟(Қожа Ахмет Яссауи кесенесі)は、カザフスタン南部のテュルキスタン市にある、未完成に終わった廟建築である。12世紀に活躍したスーフィー(聖者)であるホージャ・アフマド・ヤサヴィーと、歴代のヤサヴィー教団の指導者の墓が置かれている。中央アジアのイスラム教徒の聖地の一つであり、草原地帯ではヤサヴィー廟への参詣はメッカ巡礼に勝る善行と見なされていた堀川「ヤサヴィー」『中央ユーラシアを知る事典』、513-514頁。 カザフスタンにおけるユネスコの世界遺産第1号であり、2003年に指定された。

見る 12世紀とホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟

ホイサラ朝

ホイサラ朝(ホイサラちょう、Hoysala dynasty)とは、11世紀から14世紀後半にかけて南インド、現カルナータカ州中南部のマイソール地方を中心に存在したヒンドゥー王朝(11世紀頃 - 1346年)。首都は、初期にベールール、のちにドーラサムドラ(Dorasamudra、現在は)重松「ホイサラ朝」『南アジアを知る事典』、p.666。

見る 12世紀とホイサラ朝

ダマスカス

ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。ダマスクスとも表記される。アラビア語ではディマシュク(دمشق,, Dimashq)で、別名をシャーム(الشام, al-shām)という。日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。カシオン山の山麓、バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。現在の人口は約200万人といわれるが、都市圏全体では400万人に迫るといわれる。

見る 12世紀とダマスカス

ダルマチア

濃紫の部分がダルマチア ダルマチア(ダルマツィア、Dalmacija、Dalmazia、Далмација)またはダルマティアは、クロアチア(中央クロアチア、ダルマチア地方、スラヴォニア地方、イストリア地方の4地方から成る)のアドリア海沿岸地域一帯の名称である。長くヴェネツィアの支配下にあったことから、内陸部の諸地域とは異なる独自の歴史的・文化的背景を有する。観光業が盛んで、スプリトを中心都市とする。

見る 12世紀とダルマチア

ベネディクト会

ベネディクト会(ベネディクトかい、Ordo Sancti Benedicti, Benedictine Order)は、現代も活動するカトリック教会最古の修道会。

見る 12世紀とベネディクト会

ベラサグン

ベラサグン(ペルシア語 بلاساغون Balāsāghūn、英語:Balasagun, Balassagun, Balasaghun、中国語:八剌沙袞、キルギス語:Баласагын)は10世紀から1218年にかけて繁栄したカルルク、カラハン朝、西遼の中心都市。とくに耶律大石によって西遼の首都となり栄えたが、ナイマン王国の王子クチュルクが西遼を乗っ取り、彼を追って来たモンゴル帝国軍によって接収された後は衰微していった。天山山脈の北麓に位置し、現在のキルギスの都市トクマク近郊のブラナ遺跡はベラサグンの遺構と推定されている林「バラーサーグーン」『中央ユーラシアを知る事典』、435-436頁。

見る 12世紀とベラサグン

ベルトラン・デ・ボルン

ベルトラン・ド・ボルン(Bertran de Born, 1140年ごろ - 1215年以前)は、中世フランスの兵士・トルバドゥール・オートフォール子爵。兄弟のコンスタンタンと領地の相続をめぐって争った。プロヴァンスのある評伝によると、イングランド王ヘンリー2世は、ヘンリー若王がボルンに唆されて自分を裏切ったのだと確信していたという。ちなみにボルンの代表作は、《ラサ、偽りと無縁の人は》という。ダロン修道院で最期を迎えた。 ダンテは『神曲』の地獄篇(第28歌)において、ボルンが罰を受け、切り落とされた自分の頭を両手に抱えて運ぶ姿を描き出している。この場面はドレのほか、ボッティチェリやウィリアム・ブレイクなど多くの作品がある。

見る 12世紀とベルトラン・デ・ボルン

ベーラ3世 (ハンガリー王)

ベーラ3世 (III. Béla、Bela III、Belo III、1148年頃 - 1196年4月23日)は、 ハンガリー王国アールパード朝のハンガリー国王、およびクロアチア国王(在位:1172年 - 1196年)。ハンガリー王ゲーザ2世とエフロシニヤ・ムスチスラヴナの次男にあたる。

見る 12世紀とベーラ3世 (ハンガリー王)

ベーダ

ベーダ。

見る 12世紀とベーダ

刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。州牧(あるいは単に牧)とも。日本では国守の唐名として使われた。

見る 12世紀と刺史

呂祖謙

呂 祖謙(りょ そけん、紹興7年3月17日(1137年4月9日)- 淳熙8年7月29日(1181年9月9日))は、中国南宋時代の儒学者で、朱子学の源流に位置する。字は伯恭。諡を成といい、のち忠亮と改めた。東萊先生と称される。婺州金華県の出身。

見る 12世紀と呂祖謙

呉乞買

呉乞買(ウキマイ)は、金の第2代皇帝。劾里鉢の四男で、太祖阿骨打の同母弟。長兄は烏雅束(ウヤス)。伯父は劾者(ヘテェ、劾里鉢の長兄、烏古廼の庶長子)。叔父は高宗盈歌。子の阿魯(アル、漢名は宗本)ら数名の息子がいる。

見る 12世紀と呉乞買

アミール

アミール()は、イスラム世界で用いられる称号である。君主号の一つとしても用いられる。

見る 12世紀とアミール

アマルフィ公国

アマルフィ公国 (Ducato di Amalfi) またはアマルフィ共和国 (Repubblica di Amalfi) は、南イタリアのアマルフィを中心に9世紀から12世紀にかけて存在した海洋都市国家。

見る 12世紀とアマルフィ公国

アラーウッディーン・テキシュ

アラーウッディーン・テキシュ(علاء الدين تكش Ala ad-Dunya wa ad-Din Abul Muzaffar Tekish, ? - 1200年)は、ホラズム・シャー朝の第6代君主(在位:1172年 - 1200年)。ホラズム・シャーの称号に加えて初めてスルターンを称した。

見る 12世紀とアラーウッディーン・テキシュ

アラビア語

アラビア語(アラビアご、亜剌比亜語、اللغة العربية, al-lughah al-ʿarabīyah, アッ=ルガ・アル=アラビーヤ, 実際の発音:アッ。

見る 12世紀とアラビア語

アリエノール・ダキテーヌ

アリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, Alienòr d'Aquitània, 1122年 - 1204年4月1日)は、中世フランス王国の女性貴族でアキテーヌ女公(在位:1137年 - 1204年)。フランス王妃、イングランド王妃でもあった。アキテーヌ公ギヨーム10世とアエノール・ド・シャテルローの娘でギヨーム9世の孫。はじめフランス王ルイ7世の王妃、後にイングランド王ヘンリー2世の王妃。 ベルナール・ド・ヴァンタドゥールら吟遊詩人を庇護して多くの文芸作品を誕生させ、洗練された宮廷文化をフランス、イングランドに広めた存在として知られる。子孫が各地の君主及び妃となったことから「ヨーロッパの祖母」と呼ばれる。

見る 12世紀とアリエノール・ダキテーヌ

アリストテレス

アリストテレス(アリストテレース、ἈριστοτέληςAristotélēs、Aristotelēs、前384年 - 前322年)は、古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。様々な著書を残し、イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。

見る 12世紀とアリストテレス

アルマゲスト

『アルマゲスト』()は、ローマ帝国時代にエジプト・アレクサンドリアの天文学者クラウディオス・プトレマイオスによって書かれた、天文学の専門書である。本書で展開された天動説と円運動に基づく天体の運行の理論は、1000年以上にわたって数理天文学の基礎として、中東およびヨーロッパで受け入れられた。本書は天体の運行の幾何学的なモデルを中心に、観測や天体の位置の計算、必要とされる数学や簡単な宇宙論まで、天文学を運用するのに必要な知識を広く網羅し、体系的に解説している。 プトレマイオス自身の手による原典は失われているが、ギリシア語写本の題名として(、マテーマティケー・スュンタクスィス『数学的な論文』)、あるいは (、ヘー・メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース『天文学の大論文』)といった題名が見られる。これが後にアラビア語に翻訳された際に كتاب المجسطي() と呼ばれた。なお、アラビア語に "mijisti"(あるいは "majisti")といった語彙は存在せず、ギリシア語の ""(、メギステー(「大きい」を意味する形容詞 (、メガス)の最上級)を音訳したものであると考えられている。これがさらにラテン語に翻訳されて (アルマゲストゥム)あるいは (アルマゲスティー)と音訳された。 はその現代語形(英語・ドイツ語)の名前に変わった。 『アルマゲスト』は現代の我々にとって、古代ギリシアの天文学史、数学史の重要な史料でもある。プトレマイオス以前のヒッパルコスやペルガのアポロニウスの天文学研究及び、三角法の萌芽である「弦の表」については、本書の言及が今のところ最も豊富な情報を与えてくれている。ただし、両者の間の多大な時間の経過から、その信頼性については、一定の留保がつけられている。

見る 12世紀とアルマゲスト

アルトゥク朝

アルトゥク朝(英語 Artuqid Dynasty)はディヤール・バクルを11世紀から15世紀にかけて支配した王朝。

見る 12世紀とアルトゥク朝

アルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯)

アルブレヒト熊公(Albrecht der Bär, 1100年頃 - 1170年11月18日)は、ザクセン公(在位:1138年 - 1142年)、ブランデンブルク辺境伯(アルブレヒト1世、在位:1157年 - 1170年)。バレンシュテット伯アルブレヒトともいう。史料には一貫して’Adalbertus‘と記載されているLexikon des Mittelalters.

見る 12世紀とアルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯)

アルフォンソ1世

アルフォンソ1世(スペイン語・イタリア語:Alfonso I)は、スペインおよびイタリアの君主の名。

見る 12世紀とアルフォンソ1世

アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)

アルフォンソ8世の像 アルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155年11月11日 - 1214年10月5日)は、カスティーリャ王(在位:1158年 - 1214年)。高貴王(el de las Navas)と呼ばれる。父はサンチョ3世、母はナバラ王ガルシア6世の娘ブランカ。ヒスパニア皇帝を称したカスティーリャ王兼レオン王アルフォンソ7世の孫。 幼少で即位したため治世前半は内紛に苦しめられ、イスラム教に対するレコンキスタ(領土回復運動)もムワッヒド朝にアラルコスの戦いで大敗して停滞、イベリア半島諸国を敵に回し絶体絶命の危機に陥るが、治世後半は外交で挽回してキリスト教諸国と関係を修復、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝に勝利して雪辱を果たし、レコンキスタを大きく前進させた。

見る 12世紀とアルフォンソ8世 (カスティーリャ王)

アルザス地域圏

アルザス地域圏(アルザスちいきけん、、Elsäß、、Alsace、Alsace)は、フランス北東部のDépartement(デパルトモン。

見る 12世紀とアルザス地域圏

アルスフの戦い

アルスフの戦い (英: Battle of Arsuf) とは、1191年9月7日に勃発した第3回十字軍における戦闘の1つである。この戦いではイングランド王リチャード1世率いる十字軍とサラディン率いるアイユーブ朝軍が戦った。そしてリチャード1世がサラディンを撃破し、サラディンは多くの兵を失って敗走した。 1191年7月12日、十字軍は港町アッコを占領した。リチャードはエルサレムを奪還するためには要衝ヤッファの占領が不可欠であると考え、アッコ占領後、ヤッファを包囲するために南進を開始した。サラディンはこの十字軍の南進を妨害するため、アッコとヤッファの間に位置する沿岸部の町 郊外に陣を張り、リチャード1世の到来を待ち構えた。そして十字軍に対して何度も襲撃を繰り返し、隊列を崩そうと試みた。しかし、リチャード率いる十字軍の隊列は堅く、サラディンは隊列を崩すことができなかった。小規模な襲撃では十字軍の隊列を崩すことができないと察知したサラディンは、十字軍が開けた平野を通過する際、全軍をもって十字軍に一斉攻撃を仕掛けた。十字軍は防御体制を保ったまま進軍を続け、リチャードは反撃に最適な機会が来るまでサラディン軍に反撃することなく、十字軍はただひたすら耐え続けた。しかし、サラディンの執拗な攻撃に耐えかねたホスピタル騎士団がアイユーブ軍に対して独断で反撃を敢行した。十字軍の一隊が反撃を開始したことで、戦況的にリチャード1世は全軍に反撃を命じざるを得ない状況に置かれ、ついに十字軍はサラディンに対して一斉に反撃した。十字軍はサラディン軍を粉砕した。リチャードは配下の騎馬隊に対して、敗走するサラディン軍への執拗な追撃を止めるよう下知して再結集させ、そのままアルスフの砦へと入城した。結果、十字軍は大勝利を掴み取った。

見る 12世紀とアルスフの戦い

アレッポ

アレッポ(حلب(Halab), Halep、Alep, イタリア語・Aleppo)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は2008年現在で約167万人。 アラビア語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。

見る 12世紀とアレッポ

アレクシオス1世コムネノス

アレクシオス1世コムネノス(, 1048年/1056年 - 1118年8月15日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年 - 1118年)。

見る 12世紀とアレクシオス1世コムネノス

アレクシオス3世アンゲロス

アレクシオス3世アンゲロス(Αλέξιος Γ΄ Άγγελος, Alexios III Angelos、1156年 - 1211年)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第2代皇帝(在位:1195年 - 1203年)。初代皇帝・イサキオス2世アンゲロスの弟である。

見る 12世紀とアレクシオス3世アンゲロス

アンナ・コムネナ

アンナ・コムネナ (Άννα Κομνηνή Anna Komnena, 1083年12月2日 - 1154年から1155年)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)コムネノス王朝の皇族、歴史家。コムネノス王朝の初代皇帝アレクシオス1世コムネノスと、有力貴族ドゥーカス家出身の皇后の長女。中世ギリシャ語読みでは「アンナ・コムニニ」。

見る 12世紀とアンナ・コムネナ

アントウェルペン

運河に架かる橋 アントウェルペン(,,, ドイツ語旧称: )は、ベルギーのフランデレン地域・アントウェルペン州の州都である。首都ブリュッセルに次ぐ同国第2の都市で、都市圏人口は約120万人。市としては最多の人口を持ち、2020年1月1日の総人口は52万7763人。面積は204.51 km2, 人口密度は2581人/km2である。 オランダのロッテルダムと共に欧州を代表する港湾都市の1つ。

見る 12世紀とアントウェルペン

アンティオキア公国

アンティオキア公国(アンティオキアこうこく、Principality of Antioch)は、第1回十字軍が聖地に建設した、十字軍国家のひとつ。シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とした。

見る 12世紀とアンティオキア公国

アンドロニコス1世コムネノス

アンドロニコス1世コムネノス(ギリシア語:Ανδρόνικος Α' Κομνηνός (Andronikos I Komnēnos)、1123年 - 1185年9月12日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝(在位:1183年 - 1185年)。皇帝アレクシオス1世コムネノスと皇后エイレーネー・ドゥーカイナの三男を父に持ち、母はグルジア王女カタである。マヌエル1世コムネノスの従弟に当たる。

見る 12世紀とアンドロニコス1世コムネノス

アンゲロス王朝

アンゲロス王朝(アンゲロスおうちょう、ギリシャ語:Άγγελος、ラテン文字表記:Angelos)は、東ローマ帝国の王朝(1185年 - 1204年)。アンゲロス家の王朝であり、家名は「天使」を意味するとも、「アミダ出身」を意味するともいわれる。

見る 12世紀とアンゲロス王朝

アンコール・ワット

アンコール・ワット(អង្គរវត្ត )は、カンボジア北西部に位置するユネスコの世界遺産(文化遺産)であるアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表する巨大な寺院である。建設時はヒンドゥー教寺院として作られたが16世紀後半に仏教寺院に改修され、現在も上座部仏教寺院となっている。 クメール語でアンコールは王都、ワットは寺院を意味するため、アンコール・ワットは「国都寺院」という意味となる。大伽藍と美しい彫刻を特徴としクメール建築の傑作とされ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。

見る 12世紀とアンコール・ワット

アンコール・トム

アンコール・トム (Angkor Thom) は、かつてのクメール王国の古代首都アンコールに位置する、巨大な城郭都市の遺跡であり、クメール王国の最後の首都であった。現在はカンボジアシェムリアップ州に位置する。 周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されおり、特に中央に建つバイヨン (Bayon) 寺院が有名である。 「アンコール」は、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉。また「トム」は、クメール語で「大きい」という意味布野修司 『曼荼羅都市:ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』 京都学術出版会 2006 ISBN 4876986738 pp.109-116.。

見る 12世紀とアンコール・トム

アンコール遺跡

アンコール(Ankor; 直訳すると「首都」)とは、ヤショダラプラ(Yaśodharapura)とも知られ、かつてのクメール王朝の首都である。現在はカンボジアシェムリアップ州の北西部、トンレサップ湖北岸のシェムリアップの北側に位置する。東南アジアで最も重要な考古学遺跡とされる。この都市にあるアンコール・ワットは、カンボジアで最も人気のある観光名所のひとつである。 1992年ユネスコの世界危機遺産に登録され、遺跡を中心とし修復に努めてきたが、第二段階として2004年世界文化遺産に登録され、今まで危機遺産だった遺跡エリア(ゾーン1)の周りを取り囲むように、ゾーン2エリアを設定し全体で「アンコール遺跡公園」と命名された。コアな遺跡エリアの周りには、アンコールの広大な400万ヘクタールのエリアに、112の村、13万の住民、森、水田、放牧地が広がり、村人の生活、自然環境の保護、景観の維持に取り組んでいる。

見る 12世紀とアンコール遺跡

アンジュー帝国

アンジュー帝国(アンジューていこく、Angevin Empire(アンジェヴィン・エンパイア)、Empire Plantagenêt)は、プランタジネット家(アンジュー家)によって統治された領域の通称である。アンジュ帝国とも表記する。正式な国号ではないが、12世紀から13世紀にかけてプランタジネット家が統治した、ピレネー山脈から現在のアイルランド共和国に至る広大な領土は後世に帝国と形容された。 プランタジネット家は最盛期にはフランス王国の西半分、イングランド王国全土、アイルランド全土(名目上)に勢力を拡張した。しかし、フランス国王フィリップ2世との抗争に敗れたことにより、アンジュー、ノルマンディー等のヨーロッパ大陸の領土の大半を喪失した。この敗北によって、プランタジネット家が大陸に保有する領土はガスコーニュのみとなり、百年戦争の遠因となった。

見る 12世紀とアンジュー帝国

アンセルムス

カンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuariensis, 1033年 - 1109年4月21日)は、中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまでカンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ、聖アンセルモ司教教会博士とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。

見る 12世紀とアンセルムス

アヴァロン

アヴァロン(Avalon、またはアヴァロン島)は、ブリテン島にあるとされる伝説の島。 アヴァロンはアーサー王物語の舞台として知られ、戦で致命傷を負ったアーサー王が癒しを求めて渡り最期を迎えたとされる。また、イエス・キリストがアリマタヤのヨセフとともにブリテン島を訪れた際の上陸地で、後にそこがイギリス最初のキリスト教会となったという伝説の場所としても語られる。この場合のアヴァロンの場所は、今日のグラストンベリーではないかと考えられている。 アヴァロンは美しいリンゴで名高い楽園であったとされ、名もケルト語でリンゴを意味する「abal」に由来すると考えられている。このような「恵みの島(Isle of the Blessed)」、「林檎の島」や「幸福の島」という概念は、インド=ヨーロッパ系の神話には同様の例が多くあり、たとえばアイルランド神話のティル・ナ・ノーグ(Tír na nÓg)やギリシア神話のヘスペリデスの園(Hesperides、同様に黄金の林檎で知られる)などが有名である。

見る 12世紀とアヴァロン

アヴィニョンのベネゼ

アヴィニョンのベネゼ(Saint Bénézet d'Avignon 、1165年 - 1184年)は、キリスト教カトリックの聖人。唱歌『アヴィニョンの橋で』のモデルとなったサン・ベネゼ橋を建造した中心人物である。

見る 12世紀とアヴィニョンのベネゼ

アーマー

アーマー(Armagh 、Ard Mhacha )は、アイルランド(現在はイギリス統治下)の北アイルランド南部、アーマー県の県都である。ただし県都とは言っても、北アイルランドの市では最も、アイルランド島では2番目に人口が少ない市である。1790年に設立されたアーマー天文台が存在する。

見る 12世紀とアーマー

アールパード朝

アールパード朝()は、ハンガリー王国の最初の王朝。9世紀末にマジャル人を率いてパンノニア平原に定住させた大首長(ジュラ)アールパードを祖とする。11世紀初めにハンガリー王国を成立させ、14世紀初頭に断絶するまで約300年続いた。12世紀末から13世紀初頭にかけては、ハールィチ・ヴォルィーニ王国の王(ガリツィアおよびロドメリアの王)やハールィチ公国の公も出している。

見る 12世紀とアールパード朝

アーサー王物語

アーサー王像(ペーター・ヴィッシャー作、1480年ごろ、インスブリュック宮廷内教会) アーサー王物語(アーサーおうものがたり 英:King Arthur and the Knights of the Round Table)またはアーサー王伝説(アーサーおうでんせつ)、あるいはアーサー王と円卓の騎士たち(アーサーおうとえんたくのきしたち)は、中世の騎士道物語。

見る 12世紀とアーサー王物語

アブラハム・イブン・エズラ

アブラハム・ベン・メイール・イブン・エズラ(Abraham ben Meir ibn Ezra, Abraham aben Ezrá(Esrá), ラテン語 Abenezra, 1090年/1092年 - 1164年/1167年)はスペインのユダヤ教徒のラビ・学者・詩人。 文法・哲学・数学・天文学・医学などに精通し、多くの分野に亘って著作がある。 特に聖書注釈は、ユダヤ教注解学の黄金時代の幕開けとなった。1526年刊行のトーラーのヘブライ語註釈書は、伝説的解釈に陥らず、深い洞察を示すものである。 トレドに生まれ、1140年以降スペインを離れ、生涯移住生活を送る。北アフリカ、エジプト、イタリア(ローマ、ルッカ、マントヴァ、ヴェローナ)、南フランス(ナルボンヌ、ベジエ)、北フランス(ドルー)、イングランド(ロンドン)、最終的に南フランスに戻った。

見る 12世紀とアブラハム・イブン・エズラ

アブサロン

アブサロン(Absalon, 1128年ごろ - 1201年3月21日)は、デンマークの大司教で政治家。彼はシェラン島ヒョンネスルヴのヴィーゼ家(Hvide)の当主アサ・リーの息子で、彼と兄のエスビョルン(Esbjørn, あるいはエスバンEsbern)は幼い王子ヴァルデマー、後のヴァルデマー1世と共に育った。

見る 12世紀とアブサロン

アパメア

アパメア(Apamea)またはアパメイア(Apameia、ギリシア語:Απάμεια、أفاميا, آفاميا, アファミヤ)はシリア北西部にある都市遺跡。オロンテス川右岸にあり、セレウコス朝の四大都市といわれる繁華な都市のひとつで、軍馬や物資などを集積する軍事都市でもあった。同じアパメアという名のほかの都市と区別するために「シリアのアパメア」(Απάμεια της Συρίας)または「オロンテス河畔のアパメア」とも呼ばれる。アパメアについてはストラボン『ゲオグラフィカ(地理誌)』(xvi.

見る 12世紀とアパメア

アフォンソ1世 (ポルトガル王)

アフォンソ1世(Afonso I, 1109年? - 1185年12月6日)は、ポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)の初代ポルトガル王(在位:1139年 - 1185年)。「エンリケの子」を意味するアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)の名前でも呼ばれる。 父はブルゴーニュ家出身のポルトゥカーレ伯エンリケ(フランス語名アンリ、公位を継いだユーグ1世、ウード1世の弟)。母はカスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の娘テレサ。 主君筋にあたるカスティーリャ=レオン王国の混乱を利用して独立を達成し、ポルトガル王国の基礎を築いたグリック「アフォンソ・エンリケス」『世界伝記大事典 世界編』1巻、145-146頁。

見る 12世紀とアフォンソ1世 (ポルトガル王)

アドリア海

アドリア海(アドリアかい、Adriatic Sea; Mar Adriatico; Jadransko more; Mare Hadriaticum)は、地中海のイタリア半島とバルカン半島のあいだの海域。イオニア海との接続部にあたるオトラント海峡から北西に続き、ポー平原に至る。アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、イタリア、モンテネグロ、スロベニアの6か国が海岸線を有している。 東海岸のクロアチア領を中心に、大小1,300か所以上の島嶼がある。海域内は3つの海盆からなり、このうち北の海盆が最も浅く、南の海盆が最も深い。最大水深は1,233メートルである。イオニア海との境界付近にはオトラント海嶺がある。海域内の潮流は反時計回りで、オトラント海峡から東海岸を北上したのちイタリア側に回帰する。潮の干満差はわずかであるが、ときに増幅し、ヴェネツィアなどでアックア・アルタを引き起こす。

見る 12世紀とアドリア海

アイユーブ朝

アイユーブ朝(アイユーブちょう、الأيوبيون、クルド語:دەوڵەتی ئەییووبی )は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝である太田「アイユーブ朝」『岩波イスラーム辞典』、4頁。シリアのザンギー朝に仕えたクルド系軍人のサラーフッディーン(サラディン)を王朝の創始者とする。 1169年、エジプトを支配するファーティマ朝の宰相に就任したサラディンは、ザンギー朝から事実上独立した政権を樹立した佐藤「アイユーブ朝」『新イスラム事典』、41頁。サラディンはアッバース朝のカリフの権威を認め、支配の正統性を主張してマリク(王)を称した。ファーティマ朝の実権を握ったサラディンは独自の政策を立案したため、後世の歴史家はサラディンが宰相の地位に就いた1169年をアイユーブ朝が創始された年と見なしている。サラディンの死後、国家の領土は各地の王族たちによって分割され、ダマスカス、アレッポ、ディヤルバクルには半独立の地方政権が成立した。

見る 12世紀とアイユーブ朝

アウター・ヘブリディーズ

アウター・ヘブリディーズ(、)は、スコットランド北西沖の大西洋の南北約210kmの範囲に、、ノース・ウイスト島、ベンベキュラ島、サウス・ウイスト島、バラ島を始めとした大小119の島々が鎖状に連なる列島である。 諸島は、ほぼ全体が変成岩の一種であるルーイシアン片麻岩()から成り、複雑な海岸線、内陸部の多数の湖沼、ムーア、泥炭地、西岸地域の白砂の砂浜、マッハ(Machair、肥沃な低地草原)といったものが地形の特徴となっている。暖流のメキシコ湾流の影響を受け、高緯度の割には温暖で、年間を通して南ないし南西方向より強い風が吹く。 周辺の離島を含め、海鳥、渉禽類、猛禽類の繁殖地、渡り鳥の越冬地や中継地となっており、鳥類の確認種は400種を超える(繁殖種は100種以上)。

見る 12世紀とアウター・ヘブリディーズ

アキテーヌ地域圏

アキテーヌ地域圏(仏:Aquitaine, Oc:Aquitània, Beq:Akitania。)は、フランス南西部のかつて存在した地域圏である。北はリムーザン地域圏とポワトゥー=シャラント地域圏、南はスペインに接する。西は大西洋に面している。地域圏内に5つの県(ドルドーニュ県、ジロンド県、ランド県、ロット=エ=ガロンヌ県、ピレネー=アトランティック県)を含む。最大都市はボルドー。この地域の住民はと呼ばれる。

見る 12世紀とアキテーヌ地域圏

アタベク

アタベク(Atābak,اتابك)とは、主に西アジアのセルジューク朝、周辺の国家や地方政権で使用された称号、役職である。「アターベク」とも表記される。テュルク語でアタは「父」、ベクは「アミール」の同義語で「命令者、軍事指導者」を意味する。 セルジューク朝の王子の後見人に与えられる称号であり、アタベクたちは強い影響力を持っていた。王子の後見人の役割を喪失した後も各地の統治者たちはアタベクの称号を使い続け、彼らの政権は「アタベク王朝」と呼ばれることがある。

見る 12世紀とアタベク

イラン

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、アジア・中東に位置するイスラム共和制国家。首都はテヘラン。 北西にアルメニアとアゼルバイジャン、北にカスピ海、北東にトルクメニスタン、東にアフガニスタンとパキスタン、南にペルシア湾とオマーン湾、西にトルコ、イラク(クルディスタン)と境を接する。また、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に、オマーン湾を挟んでオマーンに面する。ペルシア、ペルシャともいう。公用語はペルシア語。

見る 12世紀とイラン

イラク

イラク共和国(イラクきょうわこく、、)、通称イラクは、中東に位置する連邦共和制国家である。首都はバグダードで、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を擁した土地にあり、世界第5位の原油埋蔵国である。

見る 12世紀とイラク

イングランド

イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。

見る 12世紀とイングランド

イーディス・パージター

イーディス・パージター(Edith Mary Pargeter、1913年9月28日 - 1995年10月14日)は、イギリスの女性小説家。チェコ語の翻訳家としても著名である。 本名で歴史小説を書く一方、エリス・ピーターズ (Ellis Peters) の筆名で「フェルス一家シリーズ」「修道士カドフェルシリーズ」などの推理小説を執筆した。1944年に大英帝国勲章を受章。

見る 12世紀とイーディス・パージター

イーゴリ

イーゴリ(, (イ(ー)ガリ)、, (イーホル)、, (イ(ー)ガル)、、Igor, (イーゴァ))は、スラヴ系の男性名。先頭の母音 И/I が強勢となる。 日本ではイーゴル、イゴールと表記・読み方がされることもある。

見る 12世紀とイーゴリ

イブラン家

イブラン家の紋章 イブラン家(Ibelin)は、中世エルサレム王国領内のイブラン城から名前を取った貴族で、十字軍時代のエルサレム王国、キプロス王国において重臣として活躍した。 初代のバリサン(不明 - 1150年)の出自は明らかでは無いが、その名前からイタリア系の下級貴族で第1回十字軍か、その後に聖地に行ったと考えられ、1110年代にヤッファ伯の臣下としてヤッファの警備隊長になっている。1122年にラムラの女相続人と結婚し、同地の領主となった。ヤッファ伯ユーグの反乱の際にはこれに従わず、1141年にエルサレム王フールクから褒美としてイブラン城を与えられており、これが後に家名となった。

見る 12世紀とイブラン家

イブン・バーッジャ

イブン・バーッジャ(ابن باجّة Ibn Bājjah、أبو بكر محمد ابن يحيى ابن الصائغ ابن باجّة التُجيبي الاندلسي السرقسطي Abū Bakr Muḥammad ibn Yaḥyā ibn al-Ṣā'igh ibn Bājja al-Tujībī al-Andalusī al-Saraqusṭī、1095年? - 1138年)は、スペイン・アンダルシア地方で活躍したイスラム哲学者、政治家。ムラービト朝の宰相としての政務のかたわらアリストテレス哲学を研究する。イブン・ルシュドを頂点とする西方イスラーム哲学の歴史に現れた最初の哲学者で、神秘主義を排除し、徹底した合理主義を唱え、後のヨーロッパの哲学に大きな影響を与えたイブン・ルシュドの思想の基礎作りを行った重要な人物である。ヨーロッパ語圏では、ラテン語化されたアヴェンパーケ(Avempace)の名でもよく知られている。

見る 12世紀とイブン・バーッジャ

イブン・ルシュド

アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد, 1126年4月14日 - 1198年12月10日)は、スペインのコルドバ生まれの哲学者、医学者。膨大なアリストテレス注釈を書いたことで知られる。ムワッヒド朝のもとで君主の侍医、後にはコルドバのカーディー(裁判官)となった。1197年にはムワッヒド朝の君主ヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止したことでイブン・ルシュドは追放され、その後モロッコのマラケシュで亡くなっている。 アヴェロエス (Averroes) の名でよく知られている。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。神秘主義者ガザーリーの哲学批判書『哲学者の矛盾』に対して、哲学者の立場から『矛盾の矛盾』を執筆して批判に反駁を加えている。

見る 12世紀とイブン・ルシュド

イブン・トファイル

イブン・トゥファイル(Abu Bakr Muhammad ibn Abd al-Malik ibn Muhammad ibn Tufail al-Qaisi al-Andalusi ‏أبو بكر محمد بن عبد الملك بن محمد بن طفيل القيسي الأندلسي‎、1105年-1185年)は、スペイン・アンダルシア地方で活躍したイスラーム哲学者。西方イスラーム哲学においてイブン・バーッジャとイブン・ルシュドを繋ぐ大事な思想家である。ヨーロッパ語圏ではラテン語されたアブバーケル (Abubacer) の名でも知られている。

見る 12世紀とイブン・トファイル

イブン・ジュバイル

イブン・ジュバイル(ابن جبير、 Ibn Jubayr、 1145年9月1日 - 1217年11月29日)は、12世紀から13世紀にかけて活躍したムスリムの旅行家。 1183年から1185年にかけてのメッカ巡礼の旅行記『イブン・ジュバイルの旅行記(旅路での出来事に関する情報覚書、rihla Ibn Jubayr)』は巡礼の紀行として優れたものとみなされ、イブン・バットゥータの旅行記を記述したら多くの人間が旅行記の記述を借用した。後世の著述家は、イブン・ジュバイルの旅行記を紀行文の手本とした飯森「イブン・ジュバイル」『新イスラム事典』、120頁竹田「イブン・ジュバイル」『岩波イスラーム辞典』、159頁。旅行記には巡礼の儀式とその意義について解説されており、巡礼を志すムスリムにとっての指南書としても優れている。優れた紀行文としてのみならず、当時の十字軍、ノルマン朝(オートヴィル朝)統治下のシチリア史についての状況を知る貴重な史料としても評価されている。

見る 12世紀とイブン・ジュバイル

イドリースィー

イドリースィー1154年製作の世界地図。上が南方向となっている。 ムハンマド・アル=イドリースィー(アラビア語: أبو عبد الله محمد الإدريسي; 、Abū 'Abd Allāh Muhammad al-Idrīsī。1099年/1100年?-1165年/1166年/1180年?)は、中世に活躍したアラブ人の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界地図を作成した。 イドリーシー、イドリーシまたエドリーシ、エドリーシー(Edrisi)とも表記される。

見る 12世紀とイドリースィー

イスラム教

イスラム教(イスラムきょう)、イスラーム教、イスラム、イスラーム(アラビア語:الإسلام, al-Islām, アル=イスラーム)は中東で生まれた一神教の名称。 唯一絶対の神(アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。漢字圏においては回教(かいきょう)または回々教(フイフイきょう)と呼ばれる。 ユダヤ教やキリスト教と同じセム系の一神教で、偶像崇拝なお、いわゆる「偶像崇拝」が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。

見る 12世紀とイスラム教

イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく、)、通称イタリア()は、南ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はローマ。 北はスイスとオーストリア、西はフランス、 東はスロベニアと国境を接している。南は地中海が位置しており、アルバニア、アルジェリア、クロアチア、ギリシャ、リビア、マルタ、モンテネグロ、スペイン、チュニジアとを共有している。また、国土には独立国であるバチカンとサンマリノが存在している。

見る 12世紀とイタリア

イサキオス2世アンゲロス

イサキオス2世アンゲロス(Ισαάκιος Β' Άγγελος: Isaakios II Angelos、1156年9月 - 1204年1月28日)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の初代皇帝(在位:1185年 - 1195年、1203年)。

見る 12世紀とイサキオス2世アンゲロス

ウラジーミル (ウラジーミル州)

ウラジーミル(ヴラジーミル、 ヴラヂーミル)は、ロシア西部、ヴラジーミル州の州都で、人口は約34万人(2021年)。モスクワの東200 kmに位置し、モスクワとニジニ・ノヴゴロドとを結ぶ高速道路A7の沿線。モスクワからは電車で3時間ほどである。ヴォルガ川の支流クリャージマ川に面している。 ロシアの古都の一つで、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都として栄えた。いわゆる「黄金の環」を構成する都市の一つ。1108年頃にキエフ大公ウラジーミル・モノマフにより要塞として建設されたといわれる。この要塞は、ロストフ・スーズダリ公国(ウラジーミル・スーズダリ大公国の前身)の南東を守るものであった。1238年、モンゴル帝国の襲撃を受け街は焦土と化したが、いくつかの中世ロシアの宗教建築が破壊を免れた。

見る 12世紀とウラジーミル (ウラジーミル州)

ウラジーミル2世モノマフ

ウラジーミル2世モノマフまたヴォロディームィル2世モノマフ(1053年 - 1125年5月19日)は、キエフ大公(在位:1113年 - 1125年)。洗礼名はヴァシーリー。父はフセヴォロド1世、母は東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘。ヤロスラフ1世の孫。息子にムスチスラフ1世、ユーリー・ドルゴルーキーらがいる。

見る 12世紀とウラジーミル2世モノマフ

ウラジーミルの生神女

ウラジーミルの生神女(ウラジーミルのしょうしんじょ、Владимирская икона Божией Матери)は、正教会のイコン。ロシア正教会で最も有名な生神女マリヤ(聖母マリア)のイコンのひとつであり、世界中の正教会で広く崇敬され模写され続けている代表的な生神女のイコンのひとつとなっている。西方教会でも用いられることがある。 このイコンは「ウラジーミルの聖母」とも呼ばれる事があるが、正教会では聖母マリアの事を生神女マリヤ(しょうしんじょマリヤ)もしくは生神女(しょうしんじょ)と呼ぶのが一般的であり、このイコンについても正教会では「ウラジーミルの生神女」(Theotokos of Vladimir)が正式な名である。

見る 12世紀とウラジーミルの生神女

ウルネスの木造教会

ウルネスの木造教会(ウルネスのもくぞうきょうかい、ノルウェー語・ブークモール、ニーノシュクともにUrnes stavkirke)は、ノルウェーのヴェストラン県にある、木造教会の一種であるスターヴ教会 (樽板教会)の一つであり、この種の教会で現存する中で最も古いものの一つである。ウルネス・スターヴ教会、あるいはウルネス・スターヴチャーチなどの名称で呼ばれる事もある。ノルウェー語でスターヴ(stav)は、「垂直に立った支柱」のことで、シルケ(kirke)とは教会のことである。 1979年に、ユネスコの世界遺産に登録されたこの教会は、ルストラフィヨルドを望むことができ、高さ120メートルの崖の上にあり、現在は、ノルウェー考古物保存協会(:en:Society for the Preservation of Norwegian Ancient Monuments)が所有している。教会では時々、ミサが催されている。

見る 12世紀とウルネスの木造教会

ウィリアム1世 (スコットランド王)

ウィリアム1世(William I, 1143年 - 1214年12月4日)は、スコットランド王(在位:1165年 - 1214年)。デイヴィッド1世の次男ハンティンドン伯ヘンリーとサリー伯爵の娘エイダの次男で、マルカム4世の弟、ハンティンドン伯デイヴィッドの兄。 スコットランド国王として初めて盾の紋章に後ろ足で立つライオンを用いたため、獅子王(ししおう、William the Lion)と呼ばれたと言われる。ただしライオンの紋章を使用したという史料が無いため、渾名の明確な根拠は不明松村、P819。。

見る 12世紀とウィリアム1世 (スコットランド王)

ウィーン

ウィーン日本語表記では主に「ウィーン」が用いられるが、標準ドイツ語でのWの発音は であり、「ヴィーン」の表記が近い。バイエルン・オーストリア語では'''Wean'''(ヴェアン、ドイツ語#方言を参照)と発音される。(標準Wien 〈ヴィーン〉、Wean〈ヴェアン〉、Vienne 〈ヴィエンヌ〉、Vienna 〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。9つの連邦州のひとつで、都市州である。漢字による当て字では維納と表記される。 2017年1月1日時点での人口は186万7582人。ヨーロッパ有数の世界都市である。 第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。

見る 12世紀とウィーン

ウェールズ

ウェールズ(Wales、Cymru カムリ)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「構成国(country)」のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。 かつて、石炭を代表とする豊富な地下資源を産出し、イギリスの産業革命を支えた歴史をもつ。

見る 12世紀とウェールズ

エチオピア

エチオピア連邦民主共和国(エチオピアれんぽうみんしゅきょうわこく、)、通称エチオピアは、東アフリカに位置する連邦共和制国家。首都はアディスアベバ。アフリカ最古の独立国であり、現存する世界最古の独立国の一つである。また、インド・ヨーロッパ語族言語とアラビア語のどちらも公用語となっていない、アフリカで唯一の国である。 エチオピアの人口は、2020年時点で1億1,496万人となっている。およそ3,000年の歴史をもち、80以上の民族がそれぞれの文化を持って共存している多民族国家である。 北隣のエリトリアが1993年に分離独立したことで、海に面する国土を持たない内陸国となった。他に陸上の国境を接する国は、東がソマリア、北東がソマリランドとジブチ、北西がスーダン、西が南スーダン、南がケニアである。

見る 12世紀とエチオピア

エル・ドラード

地図にも描かれた「エル・ドラード」"Lac ou Mer de Parime" と記載された湖の左側に"Manoa o el Dorado"と記載 黄金博物館所蔵) エル・ドラード(西:El Dorado)とは、南アメリカに伝わる黄金郷(おうごんきょう)にまつわる伝説である。転じて、黄金郷自体や理想郷を指す言葉としても使用される。大航海時代のヨーロッパ、特にスペイン人の間で広まり、新大陸進出の動機の一つとなった。

見る 12世紀とエル・ドラード

エルサレム

エルサレムまたはイェルサレム(、、。 اَلْقُدْسُا,لقدس、、)は、西アジアにある都市。エルサレムは世界最古の都市の一つであり、3つすべてのアブラハムの宗教の聖市と見なされている。そういった背景のもと、過去少なくとも2回破壊され、23回包囲され、44回占領および奪回され、52回攻撃されてきた。 1947年のパレスチナ分割決議以降、国連はエルサレムを(国連が管理する国際都市)と定め、国際社会の大多数は支持している。現在、エルサレムはイスラエルにより実効支配されているが、東エルサレム併合の試みは国際社会から非難されている。

見る 12世紀とエルサレム

エルサレム王国

エルサレム王国(エルサレムおうこく、1099年 - 1291年)は、11世紀末に西欧の十字軍によって中東のパレスチナに樹立されたキリスト教王国で、十字軍国家の一つである。

見る 12世紀とエルサレム王国

エトナ火山

エトナ火山(エトナかざん、Etna)は、イタリア南部シチリア島の東部にある活火山。旧名をモンジベッロ (Mongibello) という。ヨーロッパ最大の活火山であり、独立した2つのチームがGPSを用いて2018年7月に行なった測定では標高はであるが、活発な火山であるため標高の変化が早い。アルプスを除いたイタリアでは最も高い山である。山麓部の直径はに及び、その面積は約である。イタリアにある3つの活火山の内では飛び抜けて高く、2番目に高いヴェスヴィオ山の3倍近くもある。 エトナ火山は、世界でも活動的な火山の一つであり、頻繁に噴火を起こしている。時には大きな噴火を起こすこともあるが、特別に危険な火山とは見なされておらず、数千人が斜面とふもとに住む。火山麓扇状地に発達する水はけの良い土壌を利用して葡萄園や果樹園が広がる。

見る 12世紀とエトナ火山

エデッサ伯国

エデッサ伯国(エデッサはくこく)は、古代史上および初期キリスト教史上よく知られたエデッサ(現在のトルコ領シャンルウルファ)の街の周囲に建国された12世紀の十字軍国家の1つ。 エデッサ伯国は海に接しておらず陸に閉ざされていることが他の十字軍国家と異なっている。また宗主のエルサレム王国から遠く、最も近い隣国アンティオキア公国とは仲がよくなかった。また、首都エデッサを含め国の半分がユーフラテス川の東にあるため、他の十字軍国家よりも相当東に位置していた。ユーフラテスの西の部分はセルジューク朝に対する前哨である重要な拠点都市テル・バシールから統治されていた。

見る 12世紀とエデッサ伯国

エウクレイデス

ラファエロの壁画「アテナイの学堂」に画かれたエウクレイデス アレクサンドリアのエウクレイデス(、、(ユークリッド(欧骨栗姪))、紀元前3世紀?)は、古代エジプトのギリシャ系数学者、天文学者とされる。数学史上の重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。 エウクレイデスはギリシャ語読み、ユークリッドは英語読み。 プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリア(現在のエジプト領アレクサンドリア)で活動した。『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた。線の定義について、「線は幅のない長さである」、「線の端は点である」など述べられている。基本的にその中で今日ユークリッド幾何学と呼ばれている体系が少数の公理系から構築されている。エウクレイデスは他に光学、透視図法、円錐曲線論、球面天文学、誤謬推理論、図形分割論、天秤、 などについても著述を残したとされている。

見る 12世紀とエウクレイデス

エウゲニウス3世 (ローマ教皇)

エウゲニウス3世(Eugenius III, ? - 1153年7月8日)は、ローマ教皇(在位:1145年2月15日 - 1153年7月8日)。第2回十字軍を呼びかけた教皇として知られている。本名はベルナルド・ピニャテッリ(Bernardo Pignatelli)スチュアート、P123。バンソン、P99。またはベルナルド・パガネリ(Bernardo Paganelli)新カトリック大事典編纂委員会、P751。。カトリック教会の福者でもあり、記念日は7月8日。

見る 12世紀とエウゲニウス3世 (ローマ教皇)

エジプト

エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、جُمْهُورِيَّة مِصْرَ العَرَبِيَّة。)、通称:エジプト(مِصْرُ)は、中東および北アフリカに位置する共和制国家。首都はカイロ。 アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエル、パレスチナ国・ガザ地区と国境を接する。北部は地中海、東部は紅海に面している。

見る 12世紀とエジプト

オーリッケの戦い

オーリッケの戦いは、1139年7月25日に、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスとムラービト朝との間に起きた戦い。戦場はポルトガル南部の(Ourique)郊外(現在のアレンテージョ地方)であると言われているが正確な位置は不明。 キリスト教軍側は数の上で大幅に劣っていたものの、ムラービト朝は内部の分裂によって弱体化しており、ポルトガル軍は5人のモーロ人の王を戦死させて大勝したという。ポルトガルの国旗にある5つの青い盾はこの5人の王への勝利を表しているとされる。この戦いの後アフォンソ・エンリケスはラメーゴにおいて貴族たちを招集し、ブラガ司教より戴冠を受けてポルトガル王アフォンソ1世として即位し、カスティーリャ=レオン王国からの独立を宣言した。

見る 12世紀とオーリッケの戦い

オーロラ

アラスカのオーロラ 国際宇宙ステーションから第28次長期滞在のクルーが撮ったオーロラの映像。撮影時刻はグリニッジ標準時で2011年9月7日17時38分03秒から17時49分15秒。場所はインド洋南部のフランス領南方・南極地域から南オーストラリア上空にかけて。 オーロラ()は、天体の極域近辺に見られる大気の発光現象である。極光(きょっこう、)神沼 (2009)、141頁。または観測される極域により、北極寄りなら北極光(ほっきょくこう、)、南極寄りなら南極光(なんきょくこう、)ともいう(後述#名称の節を参照)。以下本項では特に断らないかぎり、地球のオーロラについて述べる。

見る 12世紀とオーロラ

オートヴィル朝

シチリアのアルタヴィッラ家の紋章 オートヴィル朝(オートヴィルちょう)は、イタリアの中世シチリア王国の王朝(1130年 - 1194年)。一般にはノルマン朝という呼称で知られている。

見る 12世紀とオートヴィル朝

オーストリア君主一覧

オーストリア君主一覧(オーストリアくんしゅいちらん)は、オーストリアの君主の一覧。

見る 12世紀とオーストリア君主一覧

オタカル1世 (ボヘミア王)

プシェミスル・オタカル1世(Přemysl Otakar I., 1155年頃 - 1230年12月15日)は、ボヘミア公(在位:1192年 - 1193年、1197年 - 1198年)、ボヘミア王(在位:1198年 - 1230年)。父はヴラジスラフ2世、母はテューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の娘ユーディト。

見る 12世紀とオタカル1世 (ボヘミア王)

カペー朝

カペー朝の紋章 カペー朝(カペーちょう、dynastie des Capétiens)は、中世フランス王国の王朝。987年から1328年まで続いた。 西フランク王国のカロリング朝の姻戚関係にあり、カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれて成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺を抑えるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させイングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで15代の王が続き、また後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝に至るまでフランスの歴代の王朝はみなカペー家の分族から出ており、男系継承を長期に亘って維持した。現在のスペイン王家(スペイン・ブルボン家)の祖先(男系)であり、現在のルクセンブルク大公家も男系ではカペー家の流れをくむ。

見る 12世紀とカペー朝

カラハン朝

カラハン朝(カラハンちょう、英: Kara-Khanid Khanate、ペルシア語: قراخانيان Qarākhānīyān)は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝である。中央アジアのテュルク(トルコ)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている濱田「カラハン朝」『中央ユーラシアを知る事典』、147頁。 カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフルを支配した国家である。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった間野「中央アジアのイスラーム化」『中央アジア史』、87頁。

見る 12世紀とカラハン朝

カラブリア州

カラブリア州(カラブリアしゅう、Calabria)は、イタリア共和国南部に位置し、カタンザーロを州都とする州である。州内で最多の人口を有する都市はレッジョ・ディ・カラブリア(レッジョ・カラブリア)。しばしば国土の形状がブーツに喩えられるイタリアの「爪先」にあたる地域で、南西にメッシーナ海峡を隔ててシチリア島がある。

見る 12世紀とカラブリア州

カリクストゥス写本

カリクストゥス写本 カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)は、ローマ教皇カリクストゥス(カリストゥス)2世によるものとされていた12世紀の写本。現在では、フランス人修道士で司祭でもあったエメリック(アイメリ)・ピコー(Aymeric Picaud)によるとされる。『聖ヤコブの書』(Liber Sancti Iacobi)の最も完全な形に近い写本のひとつ。この本は中世ヨーロッパにおけるキリスト教の最大の巡礼地であったスペイン・ガリシアの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの墓への巡礼の案内書でもあった(後述#構成の第5書『巡礼案内記』)。原本はラテン語であり、完訳された現代語訳版はスペイン語版のみ存在する。抄訳は英語、フランス語、ドイツ語、ガリシア語などが存在するが品質はあまりよくないものもあるという。

見る 12世紀とカリクストゥス写本

カリストゥス2世 (ローマ教皇)

カリストゥス2世(Callixtus II, 1065年/1068年? - 1124年12月13日)は、ローマ教皇(在位:1119年 - 1124年)。ブルゴーニュ伯家の出身で、元の名はギー・ド・ヴィエンヌ(Guy de Vienne)。 1122年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世との間でヴォルムス協約を結び、叙任権闘争の決着を図った。この協約の承認を求めて、カリストゥス2世が翌1123年に召集した第1ラテラン公会議は、第4コンスタンティノポリス公会議以来2世紀半ぶりに開催された公会議であり、また西方地域で開催された最初の公会議であった。

見る 12世紀とカリストゥス2世 (ローマ教皇)

カンナダ語

カンナダ語(カンナダご、ಕನ್ನಡ、Kannada)は、ドラヴィダ語族の中でもっとも古い言語の一つで、2001年時点で約3770万人の話者人口を持ち、多様な方言に分かれている。南インド4州の一つ、カルナータカ州の公用語である。独自の文字、カンナダ文字が使われる。まれにカナラ語と称されることもある。

見る 12世紀とカンナダ語

カンボジア

カンボジア王国(カンボジアおうこく、ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា)、通称カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家。東南アジア諸国連合加盟国であり、通貨はリエルである。人口1671万人、首都はプノンペン。 南はタイランド湾に面し、西はタイ王国、北はラオス、東はベトナムと国境を接する。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)である。国歌は『王国』である。

見る 12世紀とカンボジア

カンダハール

カンダハール(, Kandahar)は、アフガニスタンの都市。アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主要都市でカンダハール州の州都。人口は450,300人 (2006年の公式推計)で、カーブルに次いでアフガニスタン第2の都市である。標高は海抜1,005 m、31°37′N 65°43′E。 アフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の居住地域にあり、パキスタンのペシャーワルと並ぶパシュトゥーン人の主要都市。アジアハイウェイの路線上にあり、北はウルーズガーン州のタリンコート、東はガズニーを経てカーブルに通じ、西はヘラート・ファラーを経てイランのホラーサーン地方および中央アジアに至る。南に進めば国境を越えてパキスタン領バローチスタンのクエッタに至り、インダス川下流域の大平原からインド亜大陸へと通ずる交通の要衝で、国際空港もある。

見る 12世紀とカンダハール

カンタベリー大司教

カンタベリー大司教(カンタベリーだいしきょう、英:Archbishop of Canterbury)は、 イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教であった。

見る 12世紀とカンタベリー大司教

カーライル (イングランド)

カーライル (Carlisle)は、イギリス・カンブリア州の都市。人口は71,773人(2001年)。シティ・オブ・カーライル主要なエリアを占め、周辺地域を含んだシティ・オブ・カーライルとしては、100,734人の人口を抱える。 イングランドの歴史的行政区画カンバーランドの町として、スコットランド国境に近いことから軍事の要所とされてきた。1092年にウィリアム2世の命令でカーライル城が建てられ、一時スコットランド女王メアリー1世が幽閉されていた。

見る 12世紀とカーライル (イングランド)

カールマーン (ハンガリー王)

カールマーン (Kálmán, 1070年頃 - 1116年2月3日)は、ハンガリー王(在位:1095年 - 1116年)、およびクロアチア王(在位:1097/1102年 - 1116年)。文人王と呼ばれる。

見る 12世紀とカールマーン (ハンガリー王)

カビール

カビール(Kabīr, Kabīra, ヒンディー語: कबीर, グルムキー文字: ਕਬੀਰ,کبير。 1440年-1518年)は、インドの宗教改革者。

見る 12世紀とカビール

カギュ派

カギュ派 (བཀའ་བརྒྱུད་、ワイリー方式)は、チベット仏教の四大宗派の一つ。11世紀頃のチベットへの後伝期に翻訳されたタントラに主として従う、に属する。開祖はマルパ訳経師(マルパ・ロツァワ)と弟子のミラレパであり、ミラレパ以来の伝統として「レパ」と呼ばれる在家の瑜伽行者が白い綿衣を身に纏うことから古くは「白派」と漢訳された。 後期密教の代表的な経典の一つである『勝楽タントラ』(チャクラサンヴァラ)を依経として、倶生智(くしょうち)の体得と理解を説く「マハームドラー」(大印契)を最奥義とする密教の教義や、大成就法の分類方法が古派や他派と異なる。

見る 12世紀とカギュ派

カシミール

カシミールあるいはカシュミール(کٔشِیر / कॅशीर, Kashmir, کشمیر)は、インド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域である。標高8000m級のカラコルム山脈があり、パキスタンと中国の国境には世界第2の高峰K2がそびえる。

見る 12世紀とカシミール

カタリ派

Occitan cross''La vie quotidienne des cathares du Langudoc'', René Nelli. カタリ派(カタリは、Cathares)は、10世紀半ばに現れ、フランス南部とイタリア北部で活発となったキリスト教色を帯びた民衆運動。

見る 12世紀とカタリ派

カタルーニャ州

カタルーニャ州(カタルーニャしゅう、Catalunya, Cataluña, アラン語:Catalonha)は、スペインの自治州。州都はバルセロナ。 カタルーニャ州はスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えた。カタルーニャは独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有している。中世にはアラゴン連合王国として地中海の覇権を握ったが、スペイン王国成立後には衰退した。1979年にはスペイン国家内で自治州の地位を得たが、2010年代にはカタルーニャ独立運動が盛んになり、2017年10月にはカタルーニャ共和国として独立宣言が行われるに至った。

見る 12世紀とカタルーニャ州

ガムラ・ウプサラ

ガムラ・ウプサラ(ガムラ・ウップサーラとも)(Gamla Uppsala)(「Old Uppsala、古ウプサラ」の意)は、スウェーデンのウプサラ郊外にある町の名である。2016年の人口は17,973人であった。

見る 12世紀とガムラ・ウプサラ

ガザーリー

アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ットゥースィーユ・ッシャーフィイー・ルガザーリー(أبو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي、Abū Ḥāmid Muḥammad ben. Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが青柳『ガザーリー』、1頁、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي al-Ghazzālī)と発音するべきだとする意見もある。ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。

見る 12世紀とガザーリー

ガズナ朝

ガズナ朝()は、現在のアフガニスタンのガズニーを首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年 - 1187年)。ガズニー朝ともいう。 ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。また、その言語、文化、文学、習慣はペルシャのものだったことから実質的にはイラン系の王朝とする見方もある。 その歴史上における重要性は特にインドへの侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。

見る 12世紀とガズナ朝

ガズニー

ガズナ朝時代のミナレット ガズニー(Ghazni, ダリー語: غزنى, Ghaznī)はアフガニスタンの都市。ガズニー州の州都。人口は270,000人 (2019年の公式推計)。ペルシア語、アラビア語ではガズニーン()とガズナ()の双方で呼ばれた。 カーブルとカンダハールの間に位置する交通の要所。標高約2220メートルの高地にある。商工業が盛んなほか、農作物の集散地としての役割も果たす。約130キロ北東にカーブルが位置している。住民はパシュトゥーン人が多く、ハザーラ人とタジク人がそれに続く。

見る 12世紀とガズニー

キリキア

キリキア (Cilicia) は、トルコ南部にある、地中海に面した一地域の名前。地中海をへだててキプロスと向かい合い、また南東部にシリアの位置する地域である。北は、世界遺産で有名なカッパドキアと接している。キリキアは海岸沿いのチュクロワ平野と、西部のトロス山脈(タウルス山脈)をはじめとして平野部をとりかこむように広がる山地の部分とで成り立つ。聖パウロの生誕地であるタルスス(タルソス)の町があることで知られる。現在はトルコ第4の都市アダナがある。 アナトリア半島の東部および南部は険しい山地や高原が広がっているため、平野部のあるキリキアは古くから小アジアやヨーロッパと中東を結ぶ交通・貿易・戦略の要衝であった。

見る 12世紀とキリキア

キリスト教徒

キリスト教徒(キリストきょうと、χριστιανός, Christianus)あるいはクリスチャン(Christian)とは、キリスト教の信徒(聖職者・教役者と平信徒)のことである。 キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。 日本では、キリスト教伝来から禁制時代、カトリック信者のことを「キリシタン」「バテレン」「天主教徒」と呼んだ。明治に入るとカトリック信者は「耶蘇教徒」、プロテスタント信者を「天主教徒」と呼び分けた。自称としては「キリスト者」「キリスト信徒」「キリスト教徒」「クリスチャン」がある。なお、クリスチャンの語が一般化したのは戦後に来日したアメリカ人宣教師の影響や1955年(昭和30年)に口語訳聖書がクリスチャンの訳語を採用したこと大きいと言われる。ただし、日本では「クリスチャン」というとプロテスタントの信者を指す場合が多い。

見る 12世紀とキリスト教徒

キーウ

キーウ(, )またはキエフ( )は、ウクライナの首都。ウクライナ憲法でセヴァストポリと共に特別市と規定されており、州に属さず独立した自治権を有する。 同国最大の都市でウクライナの政治・経済・文化の中心地である。市街はドニエプル川の中流右岸の高台に発達している。人口はキーウ市内の人口は約295万人、キーウ首都圏の人口は約350万人であり、ヨーロッパ有数の大都市である。週末になると、歩行者天国になる市の中心部を通るフレシチャーティク通りや独立広場などが人々で賑わう。別名「緑の都」とも呼ばれ、市内には広大な植物園がある他、緑豊かな公園が点在し、ライラックやカシュタン(栗の一種)の花が咲き乱れる春、街路樹が紅や黄に染まる秋など、四季折々にさまざまな姿を見せる。

見る 12世紀とキーウ

キプチャク

『ルーシ年代記』で見られるポロヴェツ人の一家。 キプチャク表記の揺れではキプチャックとも呼ばれた。(Kipchaks)は、11世紀から13世紀にかけて、現在のウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料『原初年代記』,『キエフ年代記』,『ガリーチ・ヴォルイニ年代記』などではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンと記された佐口 1968,p294。 現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、当時キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれた。またのちにキプチャク草原を支配したモンゴル帝国のジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのはこのためである。

見る 12世紀とキプチャク

キプロス島

キプロス島(キプロスとう)は、東地中海のシリア・アナトリア半島の沿岸にある島。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きな島である。島にはイギリス、キプロス共和国、北キプロス・トルコ共和国の主権を持った国の領土があり、島の中に3カ国の国境がある島は世界でボルネオ島とキプロス島だけである。

見る 12世紀とキプロス島

キエフ大公

キエフ・ルーシの大公たちの印形あるいは紋。ルーシの支配者であったリューリク朝は三叉戟を用いたシンボルを家紋にしていた。 キエフ大公(キエフたいこう、ウクライナ語:Великий князь Київський)は、9世紀から13世紀にかけてキエフ大公国とその首都キエフを治める君主の称号である。 (本頁の一覧にはキエフ公も含む。)。

見る 12世紀とキエフ大公

キエフ・ペチェールシク大修道院

キエフ・ペチェールシク大修道院(キエフ・ペチェールシクだいしゅうどういん、ウクライナ語:Києво-Печерська лавра、発音は「クィーイェヴォ・ペチェールスィカ・ラーヴラ」、意味は「キエフ洞窟大修道院」)は、ウクライナの首都キーウのペチェールシク地区に位置するキリスト教正教会の大修道院である。

見る 12世紀とキエフ・ペチェールシク大修道院

ギヤースッディーン・ムハンマド

ギヤースッディーン・ムハンマド(غياث الدين محمد Ghiyāth al-Dīn Muhammad, 1139年 - 1202年)は、現在のアフガニスタン西部に興ったイスラム王朝、ゴール朝の君主(在位:1157年 - 1202年)。彼の治世にゴール朝はイラン東部のホラーサーン地方から北インドに至る広大な領域を支配する国家となった。

見る 12世紀とギヤースッディーン・ムハンマド

ギヨーム9世 (アキテーヌ公)

ギヨーム9世(Guillaume IX duc d'Aquitaine、1071年10月22日 - 1126年2月10日)は、中世フランス王国の貴族でアキテーヌ公ギヨーム9世(在位:1086年 - 1126年)、及びポワティエ伯ギヨーム7世(在位:同)、ガスコーニュ公(在位:同)であった人物。 アキテーヌ公ギヨーム8世と3人目の妃ブルゴーニュ公ロベール1世の娘イルドガルドの子。ギヨーム・ド・ポワチエ、オック語ではギエム・デ・ペイチュ(Guilhen de Peiteu)とも呼ばれる。詩人として知られ、最初の「トルバドゥール」とも呼ばれる。ただし、11編の詩(ミンネザング)が伝わっているものの楽譜が残っていないため、音楽の実体については不明である。

見る 12世紀とギヨーム9世 (アキテーヌ公)

ギヨーム・ド・ティール

ボードゥアン4世の皮膚の病に気付いた場面。 ギヨーム・ド・ティール(Guillaume de Tyr, 1130年頃 - 1186年9月29日)は、十字軍時代のティール大司教でエルサレム王国の歴史を記述した歴史家。

見る 12世紀とギヨーム・ド・ティール

ギー・ド・リュジニャン

ギー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan、1159年 - 1194年)は、フランスの騎士。エルサレム女王シビーユと結婚し、エルサレム国王となるが、ハッティンの戦いでサラディンに敗れ、エルサレム陥落を導くことになる。

見る 12世紀とギー・ド・リュジニャン

クメール王朝

クメール王朝(クメールおうちょう、アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアのもととなった国であり、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。

見る 12世紀とクメール王朝

クラック・デ・シュヴァリエ

クラック・デ・シュヴァリエ(Krak des Chevaliers〈Crac des Chevaliers〉; 、カラート・アル=ホスン、)は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城であり、当時の築城技術の粋を究めた城郭として評価されている。1144年から1271年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用された。 シリア・アラブ共和国中部の県都ホムスの西およそ30キロメートル(41kmBurns (2009), p.

見る 12世紀とクラック・デ・シュヴァリエ

クラウディオス・プトレマイオス

André_Thevet作。 クラウディオス・プトレマイオス(Κλαύδιος Πτολεμαῖος, Claudius Ptolemæus, 83年頃 - 168年頃)は、数学・天文学・占星学・音楽学・光学・地理学・地図製作学など幅広い分野にわたる業績を残した古代ローマの学者。英称はトレミー(Ptolemy)。エジプトのアレクサンドリアで活躍した。 『アルマゲスト』、『テトラビブロス』、『ゲオグラフィア』など、古代末期から中世を通して、ユーラシア大陸の西半分のいくつかの文明にて権威とみなされ、また、これらの文明の宇宙観や世界観に大きな影響を与えた学術書の著者である。

見る 12世紀とクラウディオス・プトレマイオス

クルアーン

クルアーン(アラビア語: اَلْقُرْآنُ, 転写:, IPA: 、日本語で多い表記はコーラン)は、イスラム教(イスラーム)の聖典である。意味は「読誦すべきもの」。イスラームの信仰では、クルアーンは最後の預言者であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフに、彼が40歳の頃からおおよそ23年間にわたって、大天使ジブリール(ガブリエル)を通して神(アッラー)から啓示されたものであるとされている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は114章からなる。その宗教的な重要性に加えて、クルアーンはアラビア文学の最高傑作ともみなされており、現在に至るまでアラビア語に多大な影響を与え続けている。

見る 12世紀とクルアーン

クレムリン

クレムリン(露:Кремль、Kreml')は、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。「Kremlin」は、英語やフランス語などでの表記。 ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が設置されたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。 現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が設置されているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。正面には、赤の広場がある。 ロシア語では「クレムリ」となり、「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語において単に「クレムリン」と言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なもので、城壁の総延長は2.25kmある。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。

見る 12世紀とクレムリン

クレモナのジェラルド

クレモナのジェラルドの著書''Recueil des traites de medecine''(1250-1260)に描かれたイラン人医師アル・ラーズィー クレモナのジェラルド217頁。(,, 1114年頃 - 1187年)は、イタリアの学者。12世紀に多くのアラビア語の学術書をラテン語に翻訳した。「トレド翻訳学派」「12世紀ルネサンス」を代表する人物。 「クレモナのジェラルド」と呼ばれる人物はもう一人いて、こちらは13世紀に薬学の著書を訳した。 別表記にクレモナのゲラルド、クレモナのヘラルド、ヘラルド・デ・クレモナ、クレモナのゲラルドゥス、ゲラルドゥス・クレモネンシス。

見る 12世紀とクレモナのジェラルド

クレルヴォーのベルナルドゥス

クレルヴォーのベルナルドゥス(ラテン語:Bernardus Claraevallensis, フランス語:Bernard de Clairvaux, 1090年 - 1153年8月20日)あるいは聖ベルナルドは、12世紀のフランス出身の神学者。すぐれた説教家としても有名である。フランス語読みでクレルヴォーのベルナール(聖ベルナール)とも呼ばれる。 聖公会とカトリック教会の聖人であり、35人の教会博士のうちの一人でもある。1830年8月20日、教皇ピウス8世から教会博士の称号を贈られている。その卓越した聖書注釈により、「蜜の流れるような博士(Doctor Mellifluus)」と称されている。また第2回十字軍の勧誘に大きな役割を果たしたことでも知られる。

見る 12世紀とクレルヴォーのベルナルドゥス

クレティアン・ド・トロワ

クレティアン・ド・トロワ クレティアン・ド・トロワ(Chrétien de Troyes)は12世紀後半のフランスの詩人。騎士道物語(ロマンス)をうたうトルヴェール(吟遊詩人)として評判を博している。 彼の生涯に関してはほとんど知られていないが、フランス北部シャンパーニュ地方の首都トロワ(Troyes)の出身と思われる。少なくともシャンパーニュ地方の生まれであることは確実とされる『クレティアン・ド・トロワ『獅子の騎士』 - フランスのアーサー王物語』 菊池淑子 訳、平凡社、1994年11月。ISBN 978-4-582-33317-6、185~187頁ジャン・フラピエ(ドイツ語版)著 『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』 松村剛 訳、朝日出版社、1988年12月。ISBN 978-4-255-88040-2、12~17頁。彼は1160年から1181年までの間、シャンパーニュ伯アンリ1世の夫人でフランス王ルイ7世とアリエノール・ダキテーヌの娘、マリー・ド・シャンパーニュのパトロネジを受けて宮廷に仕えた。

見る 12世紀とクレティアン・ド・トロワ

クロアチア

クロアチア共和国(クロアチアきょうわこく、)、通称クロアチアは、南ヨーロッパ、バルカン半島にある共和制国家である。首都はザグレブ。。--> 本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し、対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。 ユーゴスラビアを構成していたが、1991年に独立した。

見る 12世紀とクロアチア

グリム兄弟

グリム兄弟(グリムきょうだい、)は、19世紀にドイツで活躍した言語学者・文献学者・民話収集家・文学者の兄弟。日本では、『グリム童話集』の編集者として知られる。 同じ両親から生まれた兄弟は全部で9人、幼くして死んだ者を除くと男5人、女1人の6人兄弟であったが、通常は後世にまで名を残した次男ヤーコプと三男ヴィルヘルムの二人を指す(今日では後述の六男ルートヴィッヒも含むこともある)。 多くをヤーコプとヴィルヘルムの兄弟として活躍したが、グリム童話集ではルートヴィヒも挿し絵を手がけている。

見る 12世紀とグリム兄弟

グリエルモ2世

グリエルモ2世(Guglielmo II il Buono, 1153年? - 1189年11月18日)はシチリア王国ノルマン朝の第3代国王(在位:1166年 - 1189年)。第2代国王グリエルモ1世の息子。ギヨーム2世(フランス語:Guillaume II)、ウィレルムス2世(ラテン語風)とも呼ばれる。

見る 12世紀とグリエルモ2世

グル・ナーナク

グル・ナーナクのフレスコ画 グル・ナーナク(ਗੁਰੂ ਨਾਨਕ, 1469年4月15日 - 1539年9月22日)は、シク教の教祖にして初代グル(尊師)。シク教では、歴代グルの全員がグル・ナーナクの聖性と宗教的権威を継承していると考えられている。グル・ナーナクの誕生日には、各地でお祭りが行なわれる。

見る 12世紀とグル・ナーナク

ケン・フォレット

ケン・フォレット ケン・フォレット(Ken Follett, 1949年6月5日 - )は、イギリスの小説家。ウェールズのカーディフで生まれ、ロンドン大学を卒業後、新聞記者を経て出版社に勤務する。 作家となり、スパイ小説や冒険小説を発表し、そのジャンルを代表する人気作家となる。1978年に発表した『針の眼』でエドガー賞 長編賞を受賞した。 1989年に刊行された、中世イングランドを舞台にした歴史小説『大聖堂』は世界的ベストセラーとなった。2007年にはその続編『大聖堂-果てしなき世界』を発表し、再び話題を呼んだ。

見る 12世紀とケン・フォレット

コペンハーゲン

コペンハーゲン(Kopenhagen )、クブンハウン(ケブンハウン)(København )は、デンマークの首都。デンマーク最大の都市で、自治市の人口は81万人。市名はデンマーク語の"Kjøbmandehavn"(商人たちの港)に由来する。「北欧のパリ」と比喩される。

見る 12世紀とコペンハーゲン

コムネノス王朝

コムネノス王朝(コムネノスおうちょう、Komnenos, ギリシア語表記:Κομνηνός)は、東ローマ帝国中期の王朝(1081年 - 1185年)。 ユスティニアヌス朝、マケドニア朝に続く帝国の三度目にして最後の拡大期にあたる。

見る 12世紀とコムネノス王朝

コルドバ (スペイン)

コルドバ(Córdoba、Corduba、قرطبة)は、スペイン・アンダルシア州コルドバ県のムニシピオ(基礎自治体)。コルドバ県の県都である。グアダルキビール川に面する。 かつての後ウマイヤ朝の首都で、イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。メスキータやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。

見る 12世紀とコルドバ (スペイン)

コロラド州

コロラド州(コロラドしゅう、State of Colorado )は、アメリカ合衆国西部にある州。北側はワイオミング州に接し、北東はネブラスカ州、東側はカンザス州、南側はニューメキシコ州とオクラホマ州に、西側はユタ州に接している。南西の隅はフォー・コーナーズと呼ばれる4つの州がその角を接するポイントであり、ここでアリゾナ州とも接していることになる。州の南北にはロッキー山脈が貫いており、州全体の平均標高が全米で一番高い、山岳地帯の州である。州の西部はコロラド高原、東の方はグレートプレーンズ(大平原)西部のである。面積では50州の中で第8位だが、人口では第21位である。 州都および人口最大の都市は、ロッキー山脈の東側に位置するデンバーである。州の人口の6割以上が、デンバーの広域都市圏(オーロラ、ボルダー、グリーリーなどを含む)に集中している。

見る 12世紀とコロラド州

コロンビア

コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。 コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した。 コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。

見る 12世紀とコロンビア

コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)

コンラート3世(Konrad III., 1093年 - 1152年2月15日)は、ホーエンシュタウフェン朝初代ローマ王(ドイツ王、在位:1138年 - 1152年)「3世」はローマ王の前身である東フランク王コンラート1世から数えた数字。ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。。神聖ローマ帝国史上初めて皇帝としての正式な戴冠を果たせなかったローマ王である当時はまだ神聖ローマ帝国という国号はなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。

見る 12世紀とコンラート3世 (神聖ローマ皇帝)

ゴール朝

ゴール朝())は、現在のアフガニスタンに興り、北インドに侵攻してインドにおけるムスリムの最初の安定支配を築いたイスラーム王朝(11世紀初め頃 - 1215年)。グール朝、シャンサバーニー朝とも表記し、王家はシャンサブ家()という。

見る 12世紀とゴール朝

ゴットホルト・エフライム・レッシング

ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729年1月22日 - 1781年 2月15日)は、ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテやシラー、カント、ヤコービ、ハーマン、ヘルダー、メンデルスゾーンなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記した人物と言われており、この転生思想は現代日本への影響も大きい。 また彼の死後、文学・哲学界でいわゆる「スピノザ論争」がおきた。

見る 12世紀とゴットホルト・エフライム・レッシング

ゴシック建築

ゴシック建築(ゴシックけんちく、英語:Gothic Architecture)は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築は、パリ近くのサン=ドニ(聖ドニ)大修道院教会堂(Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドのバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ゴート風の」と呼んだことに由来する。

見る 12世紀とゴシック建築

ザンギー

イマードゥッディーン・ザンギー(أبو المظفر عماد الدين زنكي ابن قسيم الدولة آق سنقر ابن ايلترغان、1085年 - 1146年9月14日)は、セルジューク朝のモースルとアレッポの太守(在位:1127年 - 1146年)で、ザンギー朝の初代アミール。 ザンギーの政権はいわゆるアタベク政権のひとつで、父親はセルジューク朝のスルタン、マリク・シャーのテュルク系マムルーク、アーク・スンクルであった。十字軍と組織的・継続的に戦ったムスリム最初の武将で、1144年に十字軍国家群からエデッサ伯国を奪い、第2回十字軍を呼び寄せることになった。

見る 12世紀とザンギー

ザンギー朝

ザンギー朝(英語:Zengid Dynasty, アラビア語:زنكيون)は、12世紀から13世紀にかけてイラク北部(ジャズィーラ)とシリアを支配した、テュルク系のアタベク政権。武将イマードゥッディーン・ザンギー(ザンギー、1087年? - 1146年)により樹立された。十字軍に対し、イスラム世界最初の組織的な抵抗を行った政権である。

見る 12世紀とザンギー朝

ザダル

ローマ時代の広場から見た聖ドナット教会 海の門 ザダル (Zadar、Zara、Ίδασσα (Idassa), (Iàdeira)) は、クロアチア西部、ダルマチア地方の都市。約115キロほど南東にスプリトが位置している。

見る 12世紀とザダル

ザクセン

左上からニーダーザクセン州、ザクセン=アンハルト州、ザクセン州。 ザクセンの旗。1815年にザクセン王国の旗となり、現在はザクセン州の旗である。 ザクセン(Sachsen, 低ザクセン語: Sassen, 低フランク語、Saksen、Saxony)は、ドイツの地域名。 現在は単にザクセンと言えばザクセン州を指すことが多い。しかし、州名にザクセンを含む州は他にザクセン=アンハルト州、ニーダーザクセン州がある。ザクセンの範囲は歴史的に大きく変動しており、現在のザクセン=アンハルト州やニーダーザクセン州、テューリンゲン州にまで及んだ時期もあった。

見る 12世紀とザクセン

ザクセン公国

ザクセン公国(ザクセンこうこく、Herzogtum Sachsen)は、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配した領邦。その版図は時代によって変遷があって一様ではないが、おおむね現在のドイツのザクセン州、ニーダーザクセン州、ノルトライン=ヴェストファーレン州、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ザクセン=アンハルト州にまたがる。何度かの分裂と統合を経て、その一系統が1806年の神聖ローマ帝国の解体によってザクセン王国となった。ドイツ諸邦の中ではオーストリア、プロイセン、バイエルンと共に長く重要位置を占めた国であり、ポーランドを実質支配した時期もある。

見る 12世紀とザクセン公国

シチリア

シチリア島(シチリアとう、Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。

見る 12世紀とシチリア

シチリア王国

シチリア王国(シチリアおうこく、Regnum Siciliae, Regno di Sicilia)は、中世から近世にかけて、シチリア島やイタリア半島南部を支配した王国である。現在は、その領域はほぼイタリア共和国領の一部となっている。

見る 12世紀とシチリア王国

シハーブッディーン・ムハンマド

シハーブッディーン・ムハンマド(, 1149年 - 1206年3月15日)は、ゴール朝のガズナ政権の君主(在位:1173年 - 1206年)。ゴール朝の宗主ギヤースッディーン・ムハンマドの弟で、兄の死んだ1202年からはゴール朝全体(第7代)の君主(在位:1202年 - 1206年)ともなった。兄の生前からインド方面の経略をもっぱら担当し、北インドにおける史上最初のムスリム(イスラム教徒)による安定支配を樹立したシハーブッディーンは、インド史の文脈ではもっぱらムハンマド・ゴーリー()、すなわち「ゴールのムハンマド」という名で知られている。尊称(ラカブ)はムイッズッディーン()とも称した。

見る 12世紀とシハーブッディーン・ムハンマド

シャルトル大聖堂

夜景 尖塔 シャルトル大聖堂(シャルトルだいせいどう、フランス語名:Cathédrale Notre-Dame de Chartres)はフランスの首都パリからおよそ南西87kmほど離れた都市シャルトルに位置し、フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつと考えられている大聖堂。1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。大聖堂はカトリック教会の教会州、シャルトル教区を置く。

見る 12世紀とシャルトル大聖堂

シャルトル学派

シャルトル学派(しゃるとるがくは、École de Chartres)は、中世のフランスのシャルトル大聖堂附属学校で活躍したベルナールを中心とした思想家たちを指す。プラトン哲学やアラビアの自然科学の成果を統合した。

見る 12世紀とシャルトル学派

シャンルウルファ

シャンルウルファ(Şanlıurfa)、通称ウルファ(Urfa)は、トルコ南東部の都市でシャンルウルファ県の県都。2012年以降のシャンルウルファ大都市自治体とシャンルウルファ県は同一の範囲である。中心市域の面積は3,668.76平方キロメートル、人口は2017年時点で921,978人で、エイユビイェ(Eyyübiye)、ハリリイェ(Haliliye)とカラキョプリュ(Karaköprü)の3つの区からなる。 紀元前4世紀にセレウコス朝シリアの都市として建設されて以来、パルティアとローマ帝国によって支配され、ギリシア語のエデッサの名で西洋では知られている。ウルファはメソポタミア北部の街でユーフラテス川の東80kmほどの場所にある大きな盆地に位置する。気候は、夏は極めて暑く乾燥し、冬は涼しく湿潤である。ウルファの住民の多くはトルコ人だが、市街地から離れるとクルド人も多く、アラブ人も若干居住する。

見る 12世紀とシャンルウルファ

シャンパーニュの大市

シャンパーニュの大市(シャンパーニュのおおいち、Les grandes Foires de Champagne)は、12世紀頃から13世紀にかけて、フランス北東部、シャンパーニュ平原の諸都市で開かれた大規模な交易市である。

見る 12世紀とシャンパーニュの大市

シャンパーニュ伯

シャンパーニュ伯(シャンパーニュはく、comtes de Champagne)は、フランス王国のシャンパーニュ地方を1022年から1314年まで支配した領主、またはその称号。ヴェルマンドワ家の領したモー伯領と、ブルゴーニュ公家の領していたトロワ伯領の統合により成立し、ブロワ家のユーグの時に、正式にシャンパーニュ伯を称した。ブロワ伯と深く関係し、両方を兼ねるものも多かった。 ティボー2世、アンリ1世の時代にフランス王家と抗争しながらも姻戚関係を深め、領内に築かれたシャンパーニュの大市の保護者となることでフランス有数の諸侯となった。十字軍にも関わり、アンリ2世はエルサレム女王イザベル1世と結婚しエルサレム王となり、ティボー3世は第4回十字軍の指導者に選ばれたが出発前に病没した。

見る 12世紀とシャンパーニュ伯

シュジェール

シュジェール(Suger, 1081年頃 - 1151年1月13日)は、フランスの宗教家、政治家、歴史家。フランス語ではスュジェと発音される。

見る 12世紀とシュジェール

シリア

シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、)、通称シリアは、西アジアに位置する共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカスで、古くから交通や文化の要衝として栄えた。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。

見る 12世紀とシリア

シーラーズ

シャー・チェラーグ廟 シーラーズ(شیراز, Šīrāz )はイラン南西部の都市。ファールス州の州都。人口は1,050,000人(1996年)。 1750年から1794年まで、ザンド朝ペルシアの首都であった。

見る 12世紀とシーラーズ

シトー会

シトー会(シトーかい)またはシトー修道会(シトーしゅうどうかい、Ordo Cisterciensis、省略形: OCist、Cistercians)は、カトリック教会に属する修道会。ベネディクト会から派生した。ベルナルド会(Bernardin)の別名もある。

見る 12世紀とシトー会

シテ島

シテ島(シテとう、Île de la Cité)は、フランス・パリの中心部を流れるセーヌ川の中州である。パリ1区及び4区に属し、サン=ルイ島と並んで、「パリ発祥の地」とも称される。ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』では、すでに紀元前1世紀にパリシイ族(Parisii)が住んでいたことが述べられている。

見る 12世紀とシテ島

シスマ

シスマ(ラテン語: Schisma、ドイツ語も同じ綴り)とは、「分裂」を意味する語で、特に宗教史における「宗教団体の分裂」を指す。 日本語文献では、キリスト教について使われることがほとんどであるが、元来はキリスト教に限定されるものではない。

見る 12世紀とシスマ

ジャヤーヴァルマン7世

ジャヤーヴァルマン7世(ជ័យវរ្ម័នទី៧、1125年金山「ジャヤヴァルマン7世」『アジア歴史事典』4巻、254頁 - 1218年?/1220年?石澤『アンコール・王たちの物語』、192頁)は、クメール王朝の国王(在位:1181年 - 1218年/1220年)。クメール王朝初の仏教徒の国王であり、仏法で国を統治する転輪聖王となることを志して、戦乱で荒廃した国の復興を目標としていた。 彼が行った慈善事業は高く評価され、また数々の軍事遠征を実施する好戦的な性格も持ち合わせていた石澤『アンコール・王たちの物語』、153頁。碑文においては軍人、政治家としての能力、人格を称賛されている石澤『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』、112頁。彼の在位中に王国の版図はチャイヤー、ビルマ、南シナ海沿岸部、ラオス中央に拡大した桜井、石井「メコン・サルウィン川の世界」、108-110頁。

見る 12世紀とジャヤーヴァルマン7世

ジャラール・ウッディーン・ルーミー

ジャラール・ウッディーン・ルーミー(、Mawlānā Jalāl ad-Dīn Muḥammad Balkhī-e-Rūmī; トルコ語: Mevlânâ Celaleddin-i Rumi、1207年9月30日 - 1273年12月17日)はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。同時代のスーフィー・イブン・アル=アラビーと並ぶ、イスラーム神学、スーフィズムの重要な人物の一人と見なされている。「沈黙」を意味する「ハムーシュ」を雅号とし藤井「ルーミー」『岩波イスラーム辞典』、1057-1058頁、ルーミーの父バハーウッディーンをはじめとする人々は、「識者」を意味する「ホダーヴァンデガール」と彼を呼んだ。

見る 12世紀とジャラール・ウッディーン・ルーミー

ジャウフレ・リュデル

ジャウフレ・リュデル(Jaufré Rudel)は、ブレ(Blaye、現ジロンド県)出身の下級貴族でトルバドール。12世紀に活躍した。「遠くからの恋 amor de lonh」という概念を展開したことで著名。日本の音楽学者からは、現代フランス語によってジョフレ・リュデルと呼ばれている。

見る 12世紀とジャウフレ・リュデル

ジョン (イングランド王)

ジョン(John, Jean,1166年12月24日 - 1216年10月18日または19日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。同朝の初代王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。異父姉にマリー、アリックス、同父母の兄弟姉妹では兄にウィリアム、若ヘンリー王、リチャード1世、ジェフリー、姉にマティルダ、エレノア、ジョーンがいる。 出生時に父ヘンリー2世から領地を与えられなかったことから「」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より。コトバンク、2018年8月10日閲覧。、ジョン・ラックランド(John Lackland), ジャン・サン・テール(Jean sans terre)すなわち失地王(しっちおう)あるいは欠地王(けっちおう)と呼ばれたが「」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より。コトバンク、2018年8月10日閲覧。

見る 12世紀とジョン (イングランド王)

ジェフリー・オブ・モンマス

ジェフリー・オブ・モンマス(Geoffrey of Monmouth, ウェールズ語:Gruffudd ap Arthur または Sieffre o Fynwy, 1100年頃 - 1155年頃)は、中世イングランドのキリスト教聖職者、歴史家。アーサー王伝説の語り手の一人として知られる。著作のほとんどは歴史を題材としたロマンチックなフィクションである。

見る 12世紀とジェフリー・オブ・モンマス

スペイン

スペイン王国(スペインおうこく、)、もしくはスペイン国(スペインこく、)、通称スペイン()は、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める議会君主制国家。首都はマドリード。スペイン本土以外に、西地中海のバレアレス諸島やアルボラン海のアルボラン島、大西洋のカナリア諸島、北アフリカの飛地領土のセウタとメリリャを有しており、モロッコ沿岸部にもいくつか領土がある(プラサス・デ・ソベラニア)。 西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランスとアンドラ、アフリカ大陸にあるセウタとメリリャではモロッコと陸上国境を接する。

見る 12世紀とスペイン

スルターン

スルターン(سلطان,, スルターン)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「力、権力、権威」「権力者、権威者」「王、絶対的君主」などを意味する。 マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。

見る 12世紀とスルターン

スンナ派

253x253ピクセル スンナ派(أهل السنة (والجماعة) 、ラテン文字転写:Ahl as-Sunnah (wa’l-Jamā‘ah))、あるいはスンニ派は、イスラム教の二大宗派のひとつとされる。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。2009年のピュー研究所の調査では、世界のイスラム教徒15億7000万人のうち、スンナ派の信者は87%から90%を占め、約14億人ほどの信徒を持つとされる。

見る 12世紀とスンナ派

スーリヤヴァルマン2世

スーリヤヴァルマン2世 / スールヤヴァルマン2世(スリーとスーリ、スルー、バとヴァなど表記ゆれ多数。សូរ្យវរ្ម័នទី២, Suryavarman II, ? - 1150/2年)は、クメール王朝(現在のカンボジア付近)の王(在位:1113年 - 1150/2年)。

見る 12世紀とスーリヤヴァルマン2世

スーフィズム

スーフィーの回旋舞踊 スーフィズム(Sufism)、タサウウフ(Taṣawwuf、)、イスラム神秘主義とは、イスラム教の神秘主義哲学である。アラビア語ではタサウウフと呼ばれるが、一般的に担い手であるスーフィー(صوفي Ṣūfī)に英語のイズムをつけたスーフィズム、またはイスラム神秘主義という呼称が使われている。ただし、スーフィー達が「神秘」を特に掲げていたという訳ではない。 9世紀以降に生じた、イスラム教の世俗化・形式化を批判する改革運動であり、修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一(ファナー فناء fanā')を究極的な目標とする、一種の内面化運動である。

見る 12世紀とスーフィズム

ステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)

ステファン・ネマニャ(Стефан Немања Stefan Nemanja, 1113年 - 1200年)は、の(大族長)。セルビア王国ネマニッチ朝の創始者(在位:1171年 - 1196年)。

見る 12世紀とステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)

スティーブン (イングランド王)

スティーブン(Stephen, 1096年頃 - 1154年10月25日)は、ブロワ朝唯一のイングランド王(在位:1135年 - 1154年)。その治世は内戦が収まらず、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれた。

見る 12世紀とスティーブン (イングランド王)

スウェーデン

スウェーデン王国(スウェーデンおうこく、Konungariket Sverige, )、通称スウェーデンは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。首都はストックホルム。1995年に欧州連合(EU)に加盟、ユーロは導入していない。北欧諸国のひとつであり、西にノルウェー、東がフィンランド、南はデンマークと国境を接しており、バルト海を挟む形でバルト三国やポーランドとも接している。 人口は約1045万人(2021年12月スウェーデン統計庁による)。北欧諸国では最多の人口を有する。住民の大半は北方ゲルマン系(スウェーデン人)だが、北部には少数のサーミ人とフィン人が暮らす。宗教は国教であるルーテル教会が大多数を占める。言語はスウェーデン語が公用語であり、他にサーミ語やフィンランド語などが存在する。

見る 12世紀とスウェーデン

スコラ学

とは、ラテン語の「scholasticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された「学問のスタイル」のこと。このスコラ学の方法論にのっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。

見る 12世紀とスコラ学

スコットランド

スコットランド(、Scotland、Alba)は、イギリスを構成するカントリーの一つである。スコットランド本土は、グレートブリテン島の北3分の1を占め、南東にイングランドとの国境を持ち、北と西に大西洋、北東に北海、南をアイリッシュ海に囲まれている。また、スコットランドには790以上の島々があり、主に北部諸島とヘブリディーズ諸島の群島を中心にしている。

見る 12世紀とスコットランド

ズィール朝

ズィール朝またはズィーリー朝、ジール朝、ジーリー朝(アラビア語: الزيريون al-Zīrīyūn)は、イフリーキヤ(現在のチュニジア)を支配したベルベル人のイスラム王朝(973年 - 1148年)。その最大版図は、トリポリタニア(リビア西部)から現在のアルジェリア北部にまで及び、シチリア島も影響下にあった。 ズィール朝の始祖ブルッギーン・イブン=ズィーリーはファーティマ朝に仕えるベルベル人の軍人で、972年にカリフのムイッズが新たに征服されたエジプトのカイロに移り、王朝を東遷するにあたり、イフリーキヤ以西のマグリブの統治を委ねられたことによってイフリーキヤに政権を樹立した。ズィール家はカイラワーンに首都をおき、ファーティマ朝カリフの宗主権のもとでマグリブに安定した支配体制を築くことに成功し、978年にはファーティマ朝よりトリポリタニアの統治まで任されてリビアまで支配下においた。また979年から984年にかけては西マグリブに遠征しファスとシジルマーサを占領した。

見る 12世紀とズィール朝

セルジューク朝

セルジューク朝 (سلجوقیان, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti) は、11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝。大セルジューク朝は1038年から1157年まで続き、最後の地方政権のルーム・セルジューク朝は1308年まで続いた。

見る 12世紀とセルジューク朝

セーヌ川

流域図 パリのランドサット衛星写真。大きく蛇行しているのがわかる。 セーヌ川(セーヌがわ、la Seine )は、フランス北部を流れる河川である。流域もほぼ全体がフランスに属している。全長780kmは、フランスではロワール川に続いて第二の長さフランス、スイスにまたがるローヌ川はフランス部分のみの長さで算出。である。 ディジョンの北西30kmの海抜471mの地点に源を発し北西に向かい、首都のあるパリ都市圏を流れ、ル・アーヴルとオンフルールの間でに注ぐ。

見る 12世紀とセーヌ川

ソグン・オ・フィヨーラネ県

ソグン・オ・フィヨーラネ県(Sogn og Fjordane )はかつてノルウェーに存在した県。北から時計回りにムーレ・オ・ロムスダール県、オップラン県、ブスケルー県、ホルダラン県と接していた。ライカンゲル市ハーマンセルが県庁所在地であった。 2020年1月1日にホルダラン県と合併し、ヴェストラン県となった。

見る 12世紀とソグン・オ・フィヨーラネ県

タミル語

タミル語(タミルご、தமிழ் )は、ドラヴィダ語族に属する言語で、南インドのタミル人の言語である。 同じドラヴィダ語族に属するマラヤーラム語ときわめて近い類縁関係の言語だが、後者がサンスクリットからの膨大な借用語を持つのに対し、当言語にはそれが(比較的)少ないため主に語彙の面で異なる。 インドではタミル・ナードゥ州の公用語であり、また連邦でも憲法の第8付則に定められた22の指定言語のひとつであるほか、スリランカとシンガポールでは国の公用語の一つにもなっている。話者人口は世界で18番目に多い7400万人である。 1998年に大ヒットした映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』で日本でも一躍注目された。

見る 12世紀とタミル語

タラーインの戦い

タラーインの戦いは、北インドに侵入したイスラーム系のゴール朝とラージプート諸王の連合軍との間で戦われた戦闘。1191年と1192年の2度にわたって行われ、イスラム勢力の北インド侵入の大きな転機となった。

見る 12世紀とタラーインの戦い

タウヒード

タウヒード(توحيد、ラテン文字化:Tawḥīd/Tawheed/Tauheed、Tevhid)とは、イスラームにおける一神教の概念である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一化の原理〉を意味すると同時に、世界観と存在論、すなわち価値観の根本である。 また、タウヒード論においては、神の唯一性という言葉で、和訳され論じられることも多いが、神の唯一性という言葉は、アラビア語において(ラテン文字表記をすると)waḥḥdat-Allah という明確な表現があるので、正確な訳出とはいえない点で留意する必要がある。したがって、この記事においては、神の唯一性を起点とした上で、そこで活用された〈一化の原理〉に則りながら、現実解釈のための基本原則を提示する内容を描出することとなる。

見る 12世紀とタウヒード

サラーフッディーン

サラーフッディーン(サラディン)(ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャーズィー、يوسف بن أيوب بن شاذي, Yūsuf ibn Ayyūb ibn Shādhī、クルド語:Selaheddînê Eyûbî、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、12世紀から13世紀にかけてエジプト、シリア、イエメンなどの地域を支配したスンナ派のイスラーム王朝であるアイユーブ朝の創始者である。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド人一族の出自である。エジプトとシリアを支配し、エルサレム王国を1187年に破り、さらに第3回十字軍を破ったことから、イスラム世界の英雄とされる。

見る 12世紀とサラーフッディーン

サラゴサ

サラゴサ(Zaragoza、)は、スペイン・アラゴン州サラゴサ県のムニシピオ(基礎自治体)。アラゴン州の州都であり、サラゴサ県の県都である。

見る 12世紀とサラゴサ

サン・ヴィクトルのフーゴー

サン・ヴィクトルのフーゴー サン・ヴィクトルのフーゴーまたはユーグ・ド・サン・ヴィクトール(,,, 1096年 - 1141年)は、キリスト教神秘主義の神学者。現ベルギーまたはドイツのザクセン地方出身。フランスの第2代院長を務め、サン・ヴィクトル学派の創始者となった。

見る 12世紀とサン・ヴィクトルのフーゴー

サン・ベネゼ橋

夜景 サン・ベネゼ橋(仏:Pont Saint-Bénézet)は、フランス、アヴィニョンのローヌ川に架かっていた石造アーチ橋である。一般にはアヴィニョンの橋として知られている。 この橋はアヴィニョンの城壁の外側にあり、アヴィニョンと対岸のヴィルヌーヴ=レザヴィニョンの間のローヌ川に架かっていた。建設されたのは1177年から1185年にかけてである。22連のアーチ橋であり 長さは920m、幅は4mあった。ベネゼ(ブノワのプロヴァンス語形)という名の羊飼いが、天使からローヌ川に橋を架けよと告げられて橋づくりに奔走していたと伝えられており、ベネゼの没後に橋が完成すると橋の上のサン・ニコラ礼拝堂に葬られ、民衆からの崇敬を集めたという。後に聖ベネゼとして列聖され、橋梁建設者の守護聖人とされている。

見る 12世紀とサン・ベネゼ橋

サンティアゴ・デ・コンポステーラ

サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は、スペイン・ガリシア州ア・コルーニャ県のムニシピオ(基礎自治体)。ガリシア州の州都である。コマルカ・デ・サンティアーゴ郡に属する。ガリシア統計局によると、2012年の人口は95,671人(2010年:94,824人) で、州内ではビーゴ、ア・コルーニャ、オウレンセ、ルーゴに次ぐ5番目の人口規模の街である。住民呼称はcompostelán/-lá、santiagués/-esa、またpicheleiro/-aなどが使われる。本都市を中心に近隣の自治体アメス、ボケイション、ブリオン、テオ、バル・ド・ドゥブラ、ベドラとコマルカ(県と市の中間単位、コマルカ・デ・サンティアーゴ)を構成している。

見る 12世紀とサンティアゴ・デ・コンポステーラ

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(サンティアゴ・デ・コンポステーラのじゅんれいろ)は、キリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。

見る 12世紀とサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路

サンクトペテルブルク

'''人工衛星写真'''サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург,, IPA: )は、ロシア西部のネヴァ川河口デルタに位置する都市で、レニングラード州の行政府がある(レニングラード州の州都は別の都市)。人口は約560万人で、首都モスクワに次ぎロシア第2の都市である。1711年から1917年まで、約206年にわたってロシア・ツァーリ国とロシア帝国の首都だった古都でもある。

見る 12世紀とサンクトペテルブルク

サン=ドニ

サン=ドニ(Saint-Denis)は、フランス、セーヌ=サン=ドニ県のコミューン。

見る 12世紀とサン=ドニ

サン=ドニ大聖堂

サン=ドニ大聖堂(サン・ドニ修道院聖堂) サン=ドニ大聖堂(サン=ドニだいせいどう、Basilique de Saint-Denis、または単にBasilique Saint-Denis)とは、歴代フランス君主の埋葬地となった教会堂。1966年よりカトリック教会のサン=ドニ司教座が置かれている。パリ北側の郊外に位置するサン=ドニにある。 「サン・ドニ修道院」とも呼ばれる。フランス・パリ北郊の町サン・ドニにある旧フランス王室修道院であり、現在は付属聖堂のみが残り、1966年(昭和41年)以降はカテドラル(大聖堂)となっている。「サン・ドニ修道院聖堂」と呼ばれることもある。 「神は光なり」と言う『ヨハネによる福音書』にあるキリストの言葉を再現した建物。神が住む天上の世界を地上に再現するために、高さと光を追求した。それを実現するための画期的な建築技術は以下の3つである。第1にロマネスクの半円アーチを尖塔アーチに変え、第2に尖塔アーチをリブ・ヴォールトで補強し、第3にリブ・ヴォールトをフライング・バットレスと呼ばれるで支えたことである。

見る 12世紀とサン=ドニ大聖堂

サフォーク

サフォーク(Suffolk)は、イギリスのイースト・オブ・イングランド地方に位置する行政州。州都はイプスウィッチ。 中世初期の著名な遺跡サットン・フーが所在する。1889年から1974年まで東サフォーク州と西サフォーク州に分割されていた。

見る 12世紀とサフォーク

サクソ・グラマティクス

サクソ・グラマティクス(Saxo Grammaticus, 1150年 - 1220年)は、中世デンマークの歴史家であるが、その生涯については詳しくはわかっていない。 こんにち『デンマーク人の事績』(Gesta Danorum)の名で知られる全16巻のデンマーク史が彼によって編纂されたと考えられており、この著書の存在が彼を実在の人物とする主な根拠となっている。サクソは大司教アブサロンのもとで働いていたと目されており、彼を支持していた事が明らかになっているが、教会組織の中で占めた地位は不明である。一介の聖職者に過ぎなかったかもしれない。 アブサロンの遺した公文書の中で、サクソという名の聖職者が銀貨2枚半の負債を免除され、現在の西シェラン州ソーレー(Sorø)の修道院から借りていた2冊の書物を返却するように命じられている。これが後年見つかったデンマークの公の記録に残る、同年代に生きた10余人のサクソス(Saxos)あるいはサクソ(Saxo)のうちサクソ・グラマティクスに結びつくであろう唯一のものであるが、この人物がサクソ本人と証明する証拠は存在しない。

見る 12世紀とサクソ・グラマティクス

哲学

哲学(てつがく、フィロソフィー philosophy)とは、原義的には「愛知」を意味する学問分野、または活動 である。現代英語のフィロソフィー(philosophy)は「哲学」・「哲学専攻コース」・「哲学説」・「人生[世界]観」・「達観」・「あきらめ」などを意味する。「愛知としての哲学」は知識欲に根ざす根源的活動の一つだが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。哲学に従事する人物は哲学者(てつがくしゃ、フィロソファー )と呼ばれる。

見る 12世紀と哲学

唯名論

オッカムのウィリアム 唯名論(ゆいめいろん、〈ノミナリズム〉)は、主に哲学・形而上学における立場の一つ。対義語は実在論()。文脈によって様々な意味をもつ。

見る 12世紀と唯名論

内大臣

内大臣(ないだいじん)は、日本の律令官制で太政官に置かれた令外官の一つ。左大臣・右大臣に次ぐ官職。唐名は「内府(だいふ)」「内丞相」「内相国」「内僕射」。和訓は「うちのおおまえつぎみ/うちのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。員外の大臣の意から「数の外(ほか)の大臣」とも、太政大臣と左・右大臣の三公を三台星と呼ぶのに対して「かげなびく星」とも呼ばれる。左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情のために出仕できない場合に、代理として政務・儀式を司った。

見る 12世紀と内大臣

全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言

『生命の木』(1595年)に掲載された聖マラキの予言の一部 全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言(すべてのきょうこうにかんするだいしきょうせいマラキのよげん、Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis Pontificibus)は、12世紀北アイルランドの都市アーマーの大司教聖マラキ(マラキアス)が行ったとされている、歴代ローマ教皇に関する予言であるprophetiaの語源(「代わりに語る」)を尊重し記事名では「預言」を使うが、後述するように偽書であることが定説化しており、その立場ではマラキ本人が神の啓示を受けて記述したとは見なされていないので、以下の文中では「予言」で統一する。

見る 12世紀と全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言

全真教

全真教(ぜんしんきょう)は、金の支配下にあった中国の華北の人、王重陽(1112年 - 1170年)が開いた道教の一派である。七真人と呼ばれる七人の開祖の高弟たちが教勢の拡大に努め、次第に教団としての体制を整えていった。

見る 12世紀と全真教

公卿

公卿(くぎょう)は日本の律令の規定に基づく太政官の高官で、国政を担う最高の職位をさす。 すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官を指す(総称して議政官という)。 平安時代に、「公」は大臣、「卿」は参議または三位以上の廷臣を指すことから、合わせて、公卿と呼ばれるようになり、京都御所に仕える上級廷臣を指した。 公卿は、国政の公務に準ずる職位として、政所・荘園を持つことが許された。

見る 12世紀と公卿

公案

公案(こうあん)。

見る 12世紀と公案

六条天皇

六条天皇(ろくじょうてんのう、、1164年12月28日〈長寛2年11月14日〉- 1176年8月23日〈安元2年7月17日〉)は、日本の第79代天皇(在位: 1165年8月3日〈永万元年6月25日〉- 1168年3月30日〈仁安3年2月19日〉)。諱は順仁(のぶひと)。

見る 12世紀と六条天皇

六波羅

六波羅(ろくはら)は、京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される。

見る 12世紀と六波羅

六波羅館

六波羅館(ろくはらやかた)は、京都の東山山麓にかつて存在した邸宅群の総称である。はじめ伊勢平氏の居館として築かれ、伊勢平氏が滅亡した後には鎌倉幕府の六波羅探題が入居した。

見る 12世紀と六波羅館

光宗

光宗。

見る 12世紀と光宗

勧進

勧進(かんじん)は、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで勧化(かんげ)ともいう。勧請ともいう。直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。 なお勧請も、もともと仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指したが、日本では神仏習合によって神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した。勧請は神道神社で使われることが多く、分霊ともいう。

見る 12世紀と勧進

倶利伽羅峠の戦い

火牛像(道の駅倶利伽羅 源平の郷) 倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。

見る 12世紀と倶利伽羅峠の戦い

皇室

皇室(こうしつ、Imperial House of Japan)は、日本の天皇およびその一族の総称。 2023年(令和5年)1月現在、天皇・上皇および皇族15名(皇后・上皇后・親王・親王妃・内親王・女王)の計17名により構成される。 狭義には天皇・内廷皇族のみを、広義には天皇とその近親である皇族を指すが、皇室の範囲は時期によって異なる。近世では傍系の四親王家(伏見宮、有栖川宮、閑院宮、桂宮)、近代以降では十一宮家(旧宮家)を含んでいた。終戦以降は、天皇および内廷皇族と、内廷外皇族(宮家に属する皇族)を総称して皇室とする。

見る 12世紀と皇室

皇円

皇円(こうえん)は、平安時代後期の天台宗の僧侶である。正字では皇圓。熊本県玉名の出身で肥後阿闍梨とも呼ばれ、浄土宗の開祖法然の師でもある。王朝末期に成立した、編年綱目の体裁を採る国史略のうち『扶桑略記』を撰した。浄土宗の僧で、多念義を主張した隆寛は甥である。 弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。湖畔の池宮神社では秋の彼岸の中日に池の中に赤飯を奉納する「お櫃納め」の行事が営まれる。また皇円を本尊として祀る熊本県玉名市の蓮華院誕生寺では、皇円大菩薩ないし皇円上人と尊称されて人々の信仰を集めている。

見る 12世紀と皇円

石橋山の戦い

石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と平氏政権勢力(大庭景親ら)との間で行われた戦いである。源氏軍は300騎が石橋山に陣を構え、対する平家軍は3000騎が谷を一つ隔てて布陣して戦い、源頼朝は大敗し箱根山中へ敗走した。 治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。『義経記』では小早川の合戦と表記されている。 源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いの敗走後は、船で安房国へ落ち延び再挙した。

見る 12世紀と石橋山の戦い

玉葉

『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。

見る 12世紀と玉葉

王重陽

王 重陽(おう ちょうよう、、北宋・政和2年12月22日(1113年1月11日) - 金・大定10年1月4日(1170年1月22日))は、道教の一派の全真教の開祖である。日本語読みを「じゅうよう」とする事典類も多いが、その語義よりすれば、「ちょうよう」と読むのが意にかなっている。

見る 12世紀と王重陽

硬貨

硬貨(こうか)とは、一般に何らかの金属(合金含む)で作られた貨幣である。コイン(coin)ともよばれる。かつて「コイン」は基本的に金や銀の素材金属の価値と額面の差の無い本位通貨やその補助貨幣として鋳造されることが多かったが、現在は管理通貨制度の下で不換紙幣と並列して素材の価値が額面を大きく下回る硬貨1988年以前は臨時通貨法の下、日本では事実上の現金通貨が日本銀行券と臨時補助貨幣のみであったため、硬貨は「補助貨幣」と称されていたが(『世界大百科事典』26、平凡社、2009年)、1988年に制定された通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律以降は「貨幣」と称する。のみが流通する。 他方、経済学においては「硬貨」はハードカレンシー(国際決済通貨)や本位貨幣を指すことばであり、対義語の「軟貨」(ソフトカレンシー)とは国際決済に用いられない・用いることが出来ない通貨を指す。

見る 12世紀と硬貨

碧巌録

『碧巌録』(へきがんろく)は、中国の仏教書であり禅宗の語録。別名に仏果圜悟禅師碧巌録、碧巌集とも呼ばれる。全10巻。宋代の禅僧で雲門宗4世の雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が、唐代の禅者の伝記の中から百則の問答を選んでそれぞれに頌(頌古〈じゅこ〉のこと。宗旨を込めた漢詩)をつけた『雪竇百則頌古』(せっちょうひゃくそくじゅこ)に、宋代の禅僧で中国の臨済宗11世の圜悟克勤(えんごこくごん)が前文と批評を加えたもの(1125年)。圜悟克勤は各則ごとに垂示(すいじ。本則に対する簡単な説示)、評唱(ひょうしょう。批評と唱和。禅的な批判鑑賞。)、および著語(じゃくご。個人の見解をもって述べる、根源的な立場から行う批評の語)を加えている。

見る 12世紀と碧巌録

神埼荘

神埼荘(かんざきのしょう)は、平安時代から室町時代にかけて肥前国にあった荘園。神崎荘とも。代々皇室領。

見る 12世紀と神埼荘

神学者

神学者(しんがくしゃ)は、神学の学者のことである。 通例、単に「神学者」と言えばキリスト教神学を学ぶ者を指し、イスラーム神学(カラーム)など他宗教の神学を学ぶ者については「イスラーム神学者」などの表現が使われる事が多い。 正教会では聖人の称号としても用いられるが、「神学者」の称号を持つ聖人は4名のみである。

見る 12世紀と神学者

神聖ローマ帝国

神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、Heiliges Römisches Reich, Sacrum Romanum Imperium, Holy Roman Empire)は、かつて中央ヨーロッパに存在した、ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称で、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在していた多民族国家、もしくは国家連合である。 9世紀から10世紀に成立し、1806年まで存続していた。最初はまとまった統一国家であったが、14世紀から国家としての機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も次々と失い、終いには国号に「ドイツ国民の」という前綴語が加えられた。さらに1648年のヴェストファーレン条約により神聖ローマ帝国は名目だけを残し、帝国内の300以上の王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地は事実上の独立を獲得し、ドイツ人の国家連合としての性格が明らかとなった。しかし皇帝の座を独占しつつ、オーストリア大公国を本拠地とするハプスブルク家のみは帝国と看做された。

見る 12世紀と神聖ローマ帝国

神聖ローマ皇帝

神聖ローマ皇帝冠 主に使用されていた神聖ローマ帝国旗 神聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、Römisch-deutscher Kaiser, Imperator Romanus Sacer)は、神聖ローマ帝国の皇帝。より広い意味では中近世の西ヨーロッパにおける世俗の国を超えた最高権威である。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。

見る 12世紀と神聖ローマ皇帝

神護寺

神護寺(じんごじ)は、京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある高野山真言宗の遺迹(ゆいせき)本山の寺院。山号は高雄山。本尊は薬師如来。開基は和気清麻呂である。

見る 12世紀と神護寺

神戸市

神戸市(こうべし)は、兵庫県の南東部に位置する市。兵庫県の県庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。 市域は垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区の9区から構成される。 2020年国勢調査によると、人口は152万5152人だった。大阪市や京都市と共に、京阪神大都市圏(近畿大都市圏)における中心都市である。また、神戸市独自で神戸都市圏を形成している。大阪市から約30km程度しか離れておらず、大阪都市圏から連続する市街地(コナベーション)を有することから、阪神都市圏と称されることもある。

見る 12世紀と神戸市

神曲

『神曲』(しんきょく、)は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作である。 地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史上でも極めて重きをなしている。当時の作品としては珍しく、ラテン語ではなくトスカーナ方言で書かれていることが特徴である。

見る 12世紀と神曲

福原 (神戸市)

福原(ふくはら/ふくわら)は、古くは平清盛を中心とした平氏政権の福原京で知られる地名である。平安時代には現在の兵庫県神戸市兵庫区荒田町・平野町から神戸市中央区中山手通にかけての地域を中心として福原荘が存在し、荘園の中に福原京が置かれていた。平氏の滅亡後、荘園は鎌倉幕府が没収した。 現在は兵庫県神戸市兵庫区福原町(ふくわらちょう/ふくはらちょう)という地名があるが、福原町は明治以降に付けられた地名で福原京とは直接の関係はない。福原遊廓は東京の新吉原、京都の島原とともに「さんばら」「三ハラ」と並び称され加藤『神戸の花街・盛り場考』、60頁長島『神戸昭和レトロ集』、162-163頁金治、先崎『神戸雑学100選』、82-83頁、遊廓の廃止後はソープランドなどの風俗店が密集する風俗街として有名になる。

見る 12世紀と福原 (神戸市)

福原京

福原雪見御所碑 福原京(ふくはらきょう)は、平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。

見る 12世紀と福原京

秦檜

秦 檜(しん かい、元祐5年12月25日(1091年1月17日)- 紹興25年10月22日(1155年11月18日))は、南宋の宰相。字は会之。黄州の出身。本貫は江寧府(現在の江蘇省南京市)。 秦檜は金との講和を進め和議を結ぶが、その過程において岳飛ら抗金派の政府要人を謀殺、平民へ落とすなどし、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に恐怖政治を敷いた。 後世、この「秦檜」という名は売国奴の代名詞となり蔑まれた。妻は王氏(宰相王珪の子の王仲岏の娘)、実子の名は不詳、養子は秦熺(妻の兄の王喚の子)、養孫(秦熺の子)は秦塤。妻の父の王仲岏の姉は李清照の母。

見る 12世紀と秦檜

童貫

童 貫(どう かん、? - 1126年)は、北宋末の政治家・軍人・宦官。字は道夫。開封府の出身。去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした体躯で顎鬚まで生えていたという怪人物。

見る 12世紀と童貫

第1ラテラン公会議

第1ラテラン公会議(だいいちラテランこうかいぎ)は、1123年3月18日から27日にかけてローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接していたラテラノ宮殿で行われたカトリック教会の公会議。ヴォルムス協約の承認を求めた教皇カリストゥス2世によって召集された。第1ラテラノ公会議とも表記される。 この西方地域で初めて行われた普遍公会議は、すべて東方で行われた古代の公会議や正教会が承認する公会議と性格を異にし、教皇権の伸張にともない、西方教会においては公会議が、ローマ教皇を中心に教会のさまざまな問題を討議し解決するための場となったことを示している。以降、西方教会が承認する公会議はすべて西方で開催された。

見る 12世紀と第1ラテラン公会議

第1回十字軍

中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃 第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 - 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。 十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における重大な転換点となった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。

見る 12世紀と第1回十字軍

第2ラテラン公会議

第2ラテラン公会議(だいにラテランこうかいぎ)は、1139年4月3日から8日にかけてローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接していたラテラノ宮殿で行われたカトリック教会の公会議。対立教皇アナクレトゥス2世によって引き起こされた問題を解決するため、教皇インノケンティウス2世によって召集された。100人以上の司教が参加し、大修道院長などを加えると参加者は数百人にも上った。第2ラテラノ公会議とも表記される。

見る 12世紀と第2ラテラン公会議

第2回十字軍

第2回十字軍(だい2かいじゅうじぐん、1145年〜1149年)とは、史上2度目に行われた大規模な十字軍遠征のことである。この十字軍遠征は1144年に十字軍国家のひとつであるエデッサ伯国がムスリムの指導者ザンギーによってことがきっかけとなり行われたとされている。エデッサ伯国とは第1回十字軍遠征の最中の1098年、エルサレム王ボードゥアン1世によって建国された伯国であり、同時期に建てられた十字軍国家の中で最初に陥落した国であった。 教皇エウゲニウス3世の提唱によりで第2回十字軍は開始され、フランス王ルイ7世や神聖ローマ皇帝コンラート3世といったヨーロッパの国王たちが初めて参加した十字軍遠征であった。この両王が率いる軍勢は別々に聖地へと進軍したとされ、ビザンツ帝国領を通過したのち、別々にセルジューク・トルコ系の諸王朝に撃破されたという。当時の西ヨーロッパにおける著名な歴史的資料とされるなどの文献によると、当時のビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスはアナトリア半島を進軍する十字軍に対して秘密裏に妨害工作を行い、トルコ人らを十字軍に攻撃を仕掛けるよう仕向けていたとされる。しかしこの妨害工作は、ビザンツ帝国が十字軍遠征の障害となっていると考えていたオドのでっち上げだった可能性が高く、さらにマヌエル1世にこのような妨害工作をする政治的理由は全くなかったとされる。ルイ7世とコンラート3世、その他の諸侯らの軍勢はエルサレムに着陣し、1148年にはエルサレム王国と友好関係を築きつつあったダマスカスに対して攻撃を行なった。この攻撃は失敗に終わり、第二回十字軍は十字軍側の失敗、ムスリム側の勝利に終わった。無分別に行われたダマスカスへの攻撃は、遠因となった。そしてエルサレムの陥落が第3回十字軍を引き起こすこととなる。 聖地において第2回十字軍は失敗に終わっていたものの、その他の地域では十字軍は勝利を手にしていた。1147年には、聖地を目指してイングランドから海路で進軍していたイングランド・フラマン・フリース・ノルマン・スコットランド・ドイツの諸侯率いる十字軍約13,000人は途中、リスボンに立ち寄り、リスボンを包囲していた約7,000のポルトガル軍を支援し、ムーア人をリスボンから追い出すことに成功している。

見る 12世紀と第2回十字軍

第3ラテラン公会議

第3ラテラン公会議(だい3ラテランこうかいぎ)は、1179年3月にローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接していたラテラノ宮殿で行われたカトリック教会の公会議。神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世との対立によって引き起こされた問題を解決するため、教皇アレクサンデル3世によって召集された。第3ラテラノ公会議とも表記される。

見る 12世紀と第3ラテラン公会議

第3回十字軍

第3回十字軍(だい3かいじゅうじぐん、1189年 - 1192年)とは、下の3人の国王(フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャード1世、ローマ皇帝フリードリヒ1世)により行われた聖地回復のための軍事遠征である。この遠征はことがきっかけで開催された遠征であり、遠征の主体が上述の3人の国王であったことから諸王の十字軍としても知られている。 この遠征は一定程度成功したとみなされている。十字軍はアッコやといった重要な諸都市を再獲得し、サラディンがそれまでに征服した地域の大半を奪還することに成功したからである。ただし、十字軍が最大の目標と掲げていた聖地エルサレムの奪還を成し遂げることはできなかった。

見る 12世紀と第3回十字軍

第4回十字軍

第4回十字軍(だい4かいじゅうじぐん)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、1202年から1204年までフランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、首都・コンスタンティノポリスを陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。

見る 12世紀と第4回十字軍

第二尚氏

第二尚氏(だいにしょうし)は、尚円王を始祖とし、尚円王即位の1469年(成化6年)から1879年(光緒5年)までの410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家およびその姓の通称。琉球最後の王朝。正式には尚氏だが、第一尚氏と区別するため、一般には第二尚氏と呼ばれる。初代・尚円王から最後の尚泰王まで19代にわたって琉球国王として続き、尚泰の代に琉球藩王となったのを経て廃藩後日本の華族の侯爵家に列した。

見る 12世紀と第二尚氏

第二次ブルガリア帝国

第二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。

見る 12世紀と第二次ブルガリア帝国

米友仁

米 友仁(べい ゆうじん、1074年 - 1153年)は、北宋末・南宋初の書家・画家・官僚。幼名は寅哥。字は元暉(げんき)。号は海嶽後人(かいがくこうじん)、晩年は懶拙老人(らんせつろうじん)と号した。潤州(現在の江蘇省鎮江市)の人。父の米芾を大米、友仁は小米と称される。

見る 12世紀と米友仁

粟津の戦い

粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年1月20日(1184年3月4日)に近江国粟津にて行われた源義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間の戦い。治承・寿永の乱の1つ。

見る 12世紀と粟津の戦い

紹興の和議

紹興の和議(しょうこうのわぎ)もしくは皇統の和議(こうとうのわぎ)は、金と南宋の間の対立を終結させた条約。1142年(南宋の紹興12年/金の皇統2年)に成立した。 この条約により、金と南宋の国境が確定した。 両国の国境線が定められ、南宋は淮河以北の旧領(かつての首都開封を含む)を放棄することとなった(西側はを境とした)。1141年に宰相の秦檜が主戦派を抑えて条約を結び、南宋は金の臣となり南宋皇帝は金から冊封される地位とされ、毎年、銀25万両と絹25万疋を金に歳貢として献じることとなった。高宗は岳飛を死罪に処し、韓世忠を免ずることを強いられた。つまりこの条約は、金の朝貢国という立場へと、南宋を引き下げることとなった。

見る 12世紀と紹興の和議

美術

Chopin Statue, Warsaw/ポーランドはワルシャワのワジェンキ公園にある、フレデリック・ショパンの銅像。 美術(びじゅつ)とは、視覚で捉えることを目的として表現された造形芸術(視覚芸術)の総称。

見る 12世紀と美術

義賊

義賊(ぎぞく)とは、国家や領主などの権力者からは犯罪者とされながらも、大衆から支持される個人及びその集団のことである。

見る 12世紀と義賊

真如苑

真如苑(しんにょえん)は、東京都立川市柴崎町の真澄寺(旧・真言宗立川不動尊教会)に本部を置く、真言宗総本山醍醐寺の伝燈(法流・法脈)を汲む在家仏教教団小村の信仰学1995『日本大百科全書 12』(1986.11)P566,P567 新宗教小野泰博『日本宗教事典』弘文堂(1987/2)P645井上順孝/他『新宗教事典(本文篇)』弘文堂(1994/07) P38,P60文化庁『宗教年鑑 平成28年版』 P15,P16宗教教団新研究会『最新「宗教」教団ガイドブック』 ベストブック (2011/08)P58~P61で仏教宗派の一つである。 戦後、宗教団体法の廃止、宗教法人令公布により、戦時下において国策により統合されていた合同真言宗は解体され分派還元が許されたことを機に、新たに宗団を形成し真言宗から独立した。

見る 12世紀と真如苑

真言宗

右 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤としている。 空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。 天台密教を台密と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので東密と称する - コトバンク/世界大百科事典。 教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。

見る 12世紀と真言宗

猛安・謀克

猛安(ミンガン)・謀克(ムケ、モウムケ)(女真文字: )は、中国の金の支配民族女真族の社会組織・軍事組織、およびそれらの組織の指導者の役職名である。女真の間に元来行われていた社会制度を元に、1114年に金の太祖阿骨打によって創始された外山「猛安・謀克」『アジア歴史事典』9巻、37-38頁。この制度を指して猛安・謀克制と呼び、猛安と謀克はどちらも同名の役職によって管理されていた。 阿骨打によって統一される前の女真の諸部族はそれぞれ孛菫(ボギン)と呼ばれる族長に率いられており、戦時には率いる兵数に応じた称号が孛菫に与えられていた梅原「一進一退-宋・金の内側」『中国史』3、288頁。また、猛安・謀克制と北魏の八部制、遼の二十部から構成される軍事組織、モンゴル帝国で実施された千戸制・百戸制、北アジアの遊牧民族の間で行われた軍事組織の編成法との関連も指摘されている。

見る 12世紀と猛安・謀克

終末論

終末論(しゅうまつろん、英語: eschatology)とは、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方。目的論という概念の下位概念。 社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方がある。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものである。

見る 12世紀と終末論

生神女就寝大聖堂 (ウラジーミル)

カラー写真。 ウラジーミルの生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせいどう)は13世紀・14世紀の中世ロシアにおける母なる教会として位置付けられる聖堂の一つであり、ロシア正教会の大聖堂である。この聖堂は世界遺産「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」の一部である。ロシア語名であるУспенский соборをそのまま転写してウスペンスキー大聖堂とも呼ばれる。

見る 12世紀と生神女就寝大聖堂 (ウラジーミル)

無政府時代 (イングランド)

無政府時代(むせいふじだい、The Anarchy)は、イングランド王国のノルマン朝が断絶したのに伴って後継者争いで内乱が発生したブロワ朝、スティーブン王の治世(1135年 - 1154年)を指す。

見る 12世紀と無政府時代 (イングランド)

熊谷直実

熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現・埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。 熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫・維時(これとき)の6代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、明らかではない。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。 平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。 『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちは、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている。

見る 12世紀と熊谷直実

熙宗 (金)

熙宗(きそう)は、金の第3代皇帝。女真(ジュシェン)名は合剌(ホラ)、漢名は亶(たん)。太祖阿骨打(アクダ)の嫡子である繩果(宗峻)の長男。生母は女真貴族の娘の蒲察氏である。皇后は女真貴族の裴満忽撻の娘の裴満氏(悼平皇后、天眷元年(1138年)に皇后に昇格)。

見る 12世紀と熙宗 (金)

燕京

燕京(えんけい、えんきょう)。

見る 12世紀と燕京

異端

異端(いたん、heresy)とは、正統との対比で生ずる概念である。 下記はその辞書的な定義である。

見る 12世紀と異端

煉獄

煉獄(れんごく、Purgatorium)とは、カトリック教会の教義で、この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経ると教えられる清めの期間『カトリック教会の教え』(159頁)、カトリック中央協議会 ISBN 9784877501068。『カトリック教会のカテキズム』では、「神の恵みと神との親しい交わりとを保ったまま死んで、永遠の救いは保証されているものの、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るように浄化(清め)の苦しみを受ける人々の状態」と説明する『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』(124頁)、カトリック中央協議会 ISBN 9784877501532。 正教会やプロテスタントなどキリスト教の他の教派では、後述するように煉獄の存在を認めていない。

見る 12世紀と煉獄

盧溝橋

盧溝橋(ろこうきょう、ルーコウチアオ)は、中華人民共和国北京市の南西部・豊台区を流れる永定河(旧称・盧溝河)に架かる石造りのアーチ橋である。

見る 12世紀と盧溝橋

目競

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より「目競」 月岡芳年『新容六怪撰 平相国清盛入道浄海』 目競(めくらべ)は、鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にある日本の妖怪。『平家物語』の『物怪之沙汰』において、武将・平清盛が遭遇したという妖怪を描いたもの。

見る 12世紀と目競

白蓮教

白蓮教(びゃくれんきょう)は、中国に南宋代から清代まで存在した宗教。本来は東晋の廬山の慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた。

見る 12世紀と白蓮教

白河天皇

白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本国第72代天皇(在位:1073年1月18日〈延久4年12月8日〉- 1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉)。諱は貞仁(さだひと)。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。

見る 12世紀と白河天皇

百錬抄

『百錬抄』(ひゃくれんしょう)は、公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書。鎌倉時代後期の13世紀末頃に成立したとみられる。編著者は不詳。百練抄とも書く。書名は唐の詩人白居易の「百練鏡」に由来すると考えられ、当初は「練」の字が用いられていたが、江戸時代以後に「錬」の字が用いられるようになった。

見る 12世紀と百錬抄

花石綱

花石綱(かせきこう)は、中国の北宋末期、第8代皇帝徽宗が庭園を造るために調達させた珍花・名木・奇石などのこと。あるいは、それを運ぶ船団のこと。 なお、綱とは貨物を指す言葉である。

見る 12世紀と花石綱

融通念仏宗

融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)は、日本の仏教における宗派の一つ。明治時代に策定された代表的な宗派である十三宗に含まれる。総本山は大念仏寺。 平安時代末期の永久5年5月15日(1117年6月16日)に天台宗の僧侶である良忍が大原来迎院にて修行中、阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」を授かり開宗した。近世には大念仏(だいねんぶつ)といわれた。

見る 12世紀と融通念仏宗

鎌倉

鶴岡八幡宮 鎌倉大仏(高徳院 阿弥陀如来像) 鎌倉(かまくら)は、三浦半島西岸の地名であり精選版 日本国語大辞典 「鎌倉」、同半島の基部にあたり、相模湾に面している旺文社日本史事典 三訂版 【鎌倉】。 平安時代に河内源氏のゆかりの地となり、源頼朝が1180年(治承4年)に当地に根拠地を置き、後年ここで鎌倉幕府を開いて1185年(文治元年)、1192年(建久3年)説など複数の見解がある。、政治の中心地となった。しかし、室町時代末期には衰退した。 現在も長谷の大仏、鶴岡八幡宮、鎌倉五山など史跡や寺社が多く残っている。また高級住宅地として有名。観光地・行楽地としても知られ、その海岸(由比ヶ浜および材木座海岸)は有名な海水浴場でもある。

見る 12世紀と鎌倉

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。 頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって、頼朝の嫡流(源氏将軍)は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗、さらに末期はその陪臣である内管領が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。鎌倉幕府が築いた武家政権の基礎は、室町幕府および江戸幕府へと継承された。

見る 12世紀と鎌倉幕府

鎌倉時代

蒙古襲来絵詞 鎌倉時代(かまくらじだい、、12世紀末 - 正慶2年/元弘3年〈1333年〉)は、幕府が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた約一世紀半の時代を指す日本の歴史の時代区分である。鎌倉時代は、京都の朝廷と並んで相模国鎌倉に置かれた鎌倉幕府が全国統治の中心となり、日本史上で本格的な武家政権による統治が初めて行われた時代である。鎌倉時代には、二度の元寇(蒙古襲来)という未曾有の国難のほか、地震、飢饉、疫病が多く発生し、50回もの元号改元(そのうち災異改元が30回)が行われ、仏教(鎌倉仏教)が広く庶民と武家にまで広まった。 始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)がある。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照。)。

見る 12世紀と鎌倉時代

遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。 中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。

見る 12世紀と遼

聖マラキ

聖マラキ(St.Malachy, 1094年頃 - 1148年11月2日)は、アーマー(現北アイルランド領)に生まれたカトリック聖職者であり、死後列聖された。本名はメル・メドック・ウア・モルガイルアットウォーター&ジョン (1998) pp.384-385(Máel Máedóc Ua Morgair)で、英語式にはマラキ・オモーゲーア(Malachy O’Morgair)上智大学 (1954) pp.882-883である。聖人としての名は聖マラキアス(St.

見る 12世紀と聖マラキ

聖ヨハネ騎士団

聖ヨハネ騎士団(せいヨハネきしだん)は、11世紀に起源を持つ宗教騎士団。テンプル騎士団、ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。 本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としたが、聖地防衛の主力として活躍した。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)ともいい、本拠地を移すに従ってロドス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになった。現在の正式名称は「エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会」(Supremus Ordo Militaris Hospitalis Sancti Ioannis Hierosolymitani Rhodius et Melitensis。、Cavalieri dell’Ordine dell’Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme)である。一般に「マルタ騎士団」と呼ばれる。

見る 12世紀と聖ヨハネ騎士団

道教

道教(どうきょう、)とは、中国三大宗教(三教、儒教・仏教・道教の三つ)の一つであり、中国の漢民族の固有の宗教。時には外来宗教を除いてその後に残る中国の宗教形式をすべて「道教」の名で呼称する場合もある。 一般には、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、時代の経過とともに様々な要素が積み重なった宗教とされる。道教は典型的な多神教であり、その概念規定は確立しておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である。伝説的には、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵が教祖となって教団が創設されたと語られることが多い。

見る 12世紀と道教

運慶

東大寺金剛力士像(阿形像) 東大寺金剛力士像(吽形像) 運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した仏師である。慶派に属する。

見る 12世紀と運慶

荘園 (日本)

日本の荘園(しょうえん)とは、古代・中世(8世紀から16世紀)に存在し、権門(中央の貴族(公家、武家の棟梁)・大寺社など)が国家から領有支配が認められ収入を得た農地とその周辺の山野を含む土地を指す岡野友彦「」『歴史研究』51号、愛知教育大学歴史学会、2005年3月、1頁。。その農地は「公領」に対して「私領」と呼ばれ、多くは国家へ納める税の減免が認められ免田となった。 荘園制(しょうえんせい)とは、日本の中世に存在した荘園を基盤とした社会制度である。荘園を領有・統治する都市の貴族や寺社のみならず、荘園に住む住人まで全ての社会階層にとっての生活・経済的基盤であり、中世を通じて存続し続けたすなわち荘園制が確認できる期間が日本の中世の時期であり、中世における日本国の範囲である。

見る 12世紀と荘園 (日本)

靖康の変

靖康の変(せいこうのへん)は、1126年、宋(北宋)が、女真族(後世の満洲族の前身)を支配層に戴く金に敗れて華北を失った事件。靖康は当時の宋の年号である。 この事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦となった。宋の皇帝(欽宗)と太上皇(徽宗)の二人も俘虜になった。

見る 12世紀と靖康の変

行政行為

行政行為(ぎょうせいこうい)とは、日本の行政法学で用いられる概念であり、行政の活動のうち、行政目的を実現するために法律によって認められた権能に基づいて、一方的に国民の権利義務その他の法律的地位を具体的に決定する行為をさす。行政庁の処分(行政事件訴訟法3条2項)とほぼ同義で用いられる処分の中核をなす。 私人に対して行政作用として法律行為をなす機関を行政庁という。行政庁の例としては各省庁の大臣・長官、地方公共団体の首長、各種の行政委員会などがある。

見る 12世紀と行政行為

製紙

製紙(せいし)。

見る 12世紀と製紙

養和の飢饉

養和の飢饉(ようわのききん)は、養和元年(1181年)に発生した大飢饉である。源氏・平氏による争乱期(治承・寿永の乱)の最中に発生した飢饉であり院政期から鎌倉期にかけての大飢饉としては、他に寛喜の飢饉、正嘉の飢饉が知られる。、『源平盛衰記』や『方丈記』、『玉葉』、『吉記』、『百錬抄』など当時の状況を詳細に記す史料も多い。

見る 12世紀と養和の飢饉

西ヨーロッパ

中東 西ヨーロッパ(にしヨーロッパ、Western Europe、L’europe de l'ouest、Westeuropa)とは、ヨーロッパの西部地域を指す語である。西欧(せいおう)とも呼ばれる。具体的にどの地方や国を含めるかは、分類の仕方により異なる。

見る 12世紀と西ヨーロッパ

西ゴート王国

西ゴート王国(にしゴートおうこく、、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国である。はじめはキリスト教のアリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。ビシゴート王国ともいう。

見る 12世紀と西ゴート王国

西光

西光(さいこう、生年不詳 - 安元3年6月3日(1177年6月30日))は、平安時代後期の官人・僧侶。俗名は藤原 師光(ふじわら の もろみつ)。阿波国の豪族・麻植為光の子。藤原北家魚名流、中納言・藤原家成の養子。官位は六位・左衛門尉。後白河院の近臣。

見る 12世紀と西光

西遼

西遼(せいりょう、)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。

見る 12世紀と西遼

西行

西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 文治6年2月16日〈1190年3月23日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。 和歌は約2,300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と注目される事もある。

見る 12世紀と西行

西暦

とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す1582年10月4日まではユリウス暦による紀年法を指す。。 西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。

見る 12世紀と西暦

西本願寺本三十六人家集

西本願寺本三十六人家集(にしほんがんじぼん さんじゅうろくにんかしゅう)は、三十六歌仙の和歌を集めた平安時代末期の装飾写本である。三十六人家集のまとまった写本としては最古のもので、国宝に指定されている。京都市・西本願寺(浄土真宗本願寺派本願寺)の所蔵である。

見る 12世紀と西本願寺本三十六人家集

覚猷

覚猷(かくゆう、天喜元年(1053年)- 保延6年9月15日(1140年10月27日))は、平安時代後期の天台僧。鳥羽僧正(とばそうじょう)と世に呼ばれ、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、鳥獣人物戯画などの作者に擬せられている。そのユニークでユーモアあふれる作風から、漫画の始祖とされることもある。

見る 12世紀と覚猷

覚鑁

覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))は、平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。 諡号興教大師(こうぎょうだいし)。肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分2011 新義真言宗大本山誕生院)生まれ。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘。幼名は弥千歳。 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成した。即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとした。

見る 12世紀と覚鑁

観音菩薩

白衣観音図 観音菩薩(かんのん ぼさつ、Avalokiteśvara)は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、観自在菩薩(かんじざいぼさつ)、救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的に「観音さま」とも呼ばれる。

見る 12世紀と観音菩薩

騎士修道会

テンプル騎士団の制服(軍服ならびに僧服) 騎士修道会(きししゅうどうかい)は、主として十字軍時代に聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として創設された中世のローマ・カトリックの修道会。単に騎士団とも。修道会の一形態であり、騎士は入会にあたり修道誓願(独身、私有財産の放棄、神への従順)を立て修道士となる必要があり、「戦う修道士」とも呼ばれた。多くの騎士修道会はローマ教皇保護のもと数々の「大特権 (libertas maior)」を与えられ、国家権力からの独立を保った。騎士修道会は当時としては稀有な常備軍であり--->、十字軍や聖地エルサレムの防衛、イベリア半島と東ヨーロッパにおける戦いなど、異教徒との戦いにおいて歴史的に重要な役割を担った。

見る 12世紀と騎士修道会

騎士道物語

騎士道物語(きしどうものがたり、Roman courtois, Roman de chevalerie; Romance, chivalric romance; Libros de caballerías, Romance)とは中世ヨーロッパに発展した文学のジャンルで、騎士道をテーマとする韻文および散文の物語。宮廷文学、ロマンス、騎士道ロマンス、騎士文学、騎士道小説ともいわれる。騎士の武勲や恋愛を取上げている。 11世紀頃からフランスを中心に発達し、吟遊詩人により歌われた武勲詩(シャンソン・ド・ジェスト)がさらに発展したものである。初期は韻文作品のみだが、後期には散文作品も作られた。それまでのラテン語ではなくフランス語、スペイン語などのロマンス諸語で書かれたという点も重要である。つまり重々しさのない庶民の言葉で語られ、記述された。

見る 12世紀と騎士道物語

註釈学派

註釈学派(ちゅうしゃくがくは、Glossatoren)とは、11世紀から13世紀にかけて、古代ローマ法(とくにその集大成であるユスティニアヌス法典など)の主要文言に註釈をつけて解釈を行った法学者の一派。中心地はボローニャで、そのためまたの名をボローニャ学派とも呼ばれる。同様にその学説はイタリア学風とも呼ばれる。 富井政章・梅謙次郎が学んだフランス法の註釈学派は註釈学派 (フランス法)の項を参照。

見る 12世紀と註釈学派

語録

語録(ごろく)とは、一般的にある人物の言葉を集めた物である。本来は禅宗用語で師僧の言行・説法・年譜などを筆録した文献であったが、転じて禅宗以外の宗派や政治家・芸能人などの言行などを収録した言行録一般を指すようになった。

見る 12世紀と語録

高宗 (宋)

高宗(こうそう)は、南宋の初代皇帝(在位:1127年6月12日 - 1162年7月24日)。北宋の第8代皇帝であった徽宗の九男。太宗の血統では最後の皇帝となった。

見る 12世紀と高宗 (宋)

高俅

高 俅(こう きゅう、Gāo Qiú、? - 1126年6月6日)は、中国北宋末期の政治家、太尉。中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物でもある。

見る 12世紀と高俅

高倉天皇

高倉天皇(たかくらてんのう、1161年9月23日〈応保元年9月3日〉- 1181年1月30日〈治承5年1月14日〉)は、第80代天皇(在位: 1168年3月30日〈仁安3年2月19日〉- 1180年3月18日〈治承4年2月21日〉)。諱は憲仁(のりひと)。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇・後鳥羽天皇らの父。

見る 12世紀と高倉天皇

高階栄子

高階 栄子(たかしな の えいし / よしこ、仁平元年〈1151年〉? - 建保4年〈1216年〉)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての女性。父は法印・澄雲とも上座・章尋とも言われている。母は、建春門院の乳母である平正盛の娘・政子(若狭局)とする説がある。通称は丹後局。

見る 12世紀と高階栄子

鬼界ヶ島

鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、平安時代末期の1177年(治承元年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。延慶本『平家物語』では「鬼界嶋」のほか「鬼海嶋」「流黄嶋」「油黄嶋」などの表記もみられる。 古代日本人は屋久島と口之島の間に国境の意識をもっていたともいわれ、「鬼界島」は「果てしなく遠い絶海の孤島を表現する一般的島名」とする見方もある。広義には南島諸島の総称として用いられ、鎌倉時代以後は十二島として薩摩国河辺郡に属した。

見る 12世紀と鬼界ヶ島

讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。現在の香川県。上国。

見る 12世紀と讃岐国

象のテラス

象のテラス(ぞうのテラス、ព្រះលានជល់ដំរី、Terrace of the Elephants)は、カンボジアにある廃墟となった寺院複合体であるアンコール・トムの城壁を巡らした都の一部である。テラスは南北にわたってあり、その東面にあるゾウの彫刻にちなんで象のテラスと名付けられた。 テラスは、アンコールの王ジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1220年)により12世紀末に築かれ、凱旋する軍隊を眺望する基壇として使われた。それはほんのわずかに残る遺跡のなかのピミアナカスのある王宮に取り付けられていた。当初の建造物はほとんどが有機素材で造られており、はるか以前に消失した。残っているもののほとんどは複合体の土台の基壇である。

見る 12世紀と象のテラス

貨幣

貨幣(かへい、money)とは、経済学においては、財・サービスとの交換価値情報、及びそのメディア(媒体)の総体であって、財・サービスとの交換や保蔵ができるものであるとの社会の共通認識のもとで使用されるものである。また、それは以下の要件を満たす。

見る 12世紀と貨幣

鳥山石燕

蓮池の茂みから現れ出でた河童を描く。 鳥山 石燕(とりやま せきえん、正徳2年(1712年) - 天明8年8月23日(1788年9月22日)は、江戸時代中期の画家、浮世絵師。妖怪画を多く描いたことで世に知られる。

見る 12世紀と鳥山石燕

鳥獣人物戯画

鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は、京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。元来、表面裏面に書かれていたものが裏打ちで剥ぎ取られ現在に伝わる状態になっていることが近年の修復で判明している。 一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される。 成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の幅のある年代に複数の作者によって、別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した結果、鳥獣人物戯画として集成したものとされる。

見る 12世紀と鳥獣人物戯画

鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、、1103年2月24日〈康和5年1月16日〉- 1156年7月20日〈保元元年7月2日〉)は、日本の第74代天皇(在位: 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉- 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉)。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は藤原実季の女の苡子(贈皇太后)。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年にわたり院政を敷いた。

見る 12世紀と鳥羽天皇

足利市

足利市中心部を流れる渡良瀬川 足利市中心部周辺の空中写真。市街地の中央を北西から南東方向へ渡良瀬川が流れる。2023年1月20日撮影の40枚を合成作成。国土航空写真。 足利市(あしかがし)は、栃木県南西部にある市。旧足利郡と旧群馬県山田郡の一部から成る。地方拠点都市。 古くは足利庄が栄えて清和源氏義家流・足利氏発祥の地としても知られ、フランシスコ・ザビエルが「坂東の大学」と呼びルイス・フロイス が日本全国で唯一の大学と記した足利学校がある。

見る 12世紀と足利市

鹿ケ谷の陰謀

鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われたため、このように呼ばれた。近年では、平清盛によるでっち上げだとする説など解釈に諸説あり、「鹿ヶ谷の事」と著す学者もいる。

見る 12世紀と鹿ケ谷の陰謀

麗江市

麗江の街並み。街の中には水路が数多く走っている。右の女性の着ている青い服装はナシ族の民族衣装。麗江では普通に見かけることができる。 麗江の家並み。瓦や煉瓦はこの地方の土の性質で燻銀色になる。 商店の看板にもトンパ文字が見られる。 ナシ族の踊りとそれを見る観光客(2004年)。 麗江市(れいこう-し)は中華人民共和国雲南省西北部に位置する地級市。 麗江古城はかつて少数民族のナシ族の王都であり、現在でもナシ族の人々が多く居住している。またナシ族のほかにリス族、プミ族、ペー族、イ族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。1996年の麗江地震で大きな被害を受けたが、翌年の古城区の麗江古城の旧市街の世界遺産への登録などを契機に復興が進められた。4年ほどで地震被害はほぼ修復されたうえ、古すぎた建物も修復された。その後の人気化とともに以前は旧市街ではなく、近代的な建物があった場所まで旧市街と同様の建物が建てられ、「旧市街」の範囲が広がりつつある。

見る 12世紀と麗江市

黄金伝説

黄金伝説(おうごんでんせつ)。

見る 12世紀と黄金伝説

辛棄疾

辛 棄疾(しん きしつ、天眷3年5月11日(1140年5月28日)- 開禧3年9月10日(1207年10月3日))は、中国南宋の政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)。済南府歴城県の人。

見る 12世紀と辛棄疾

近衛基通

近衛 基通(このえ もとみち、)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。摂政関白・近衛基実の長男。官位は従一位・摂政、関白、内大臣。近衛家2代当主。 通称は普賢寺関白(ふげんじ かんぱく)。

見る 12世紀と近衛基通

近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、、1139年6月16日〈保延5年5月18日〉- 1155年8月22日〈久寿2年7月23日〉)は、日本の第76代天皇(在位: 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉- 1155年8月22日〈久寿2年7月23日〉)。諱は躰仁(なりひと)「躰」は「體」の俗字。今日の日本語では「體」のもう一つの俗字である「体」を新字体として常用漢字に用いていることから、躰仁親王のことを体仁親王と記すことも多い。。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。

見る 12世紀と近衛天皇

近衛家

近衛家(このえけ、)は、藤原北家嫡流であり、公家の五摂家筆頭で、華族の公爵家のひとつ。人臣で最も天皇に近い地位にある家とされる。家紋は近衛牡丹。近衛家で最も著名な人物は、昭和前期に3度にわたって内閣総理大臣を務めた近衛文麿である。別称は陽明家(ようめいけ)。

見る 12世紀と近衛家

近衛府

近衛府(このえふ、こんえふ)は、令外官のひとつ。和訓は「おおきちかきまもり」・「ちかきまもりのつかさ」。唐名は「羽林」。

見る 12世紀と近衛府

船弁慶

『大物之浦ニ霊平知盛海上に出現之図』(月岡芳年『新形三十六怪撰』) 『船弁慶』(ふなべんけい)は、『平家物語』、『吾妻鏡』などに取材した能楽作品。表記は「舟弁慶」(また旧字で「船辯慶」、「舟辯慶」)とも。作者はほぼ観世小次郎信光と比定されている。源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛を主たる登場人物とし、前半と後半でシテの演じる役柄がまったく異なるなど、華やかで劇的な構成が特徴である。この記事では合わせて派生作品についても記述する。

見る 12世紀と船弁慶

舜天

舜天(しゅんてん、1166年(乾道2年) - 1237年(嘉煕元年)高良倉吉「舜天」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.407)は、舜天王統の開祖とされる人物で、琉球の正史(史書)では初代琉球国王と位置づけられている。在位51年(1187年(淳煕14年) - 1237年(嘉煕元年))。神号は尊敦(そんとん)糸数兼治「神号」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.478。 琉球に渡った源為朝を父とする出自伝説をもつが、舜天と彼を含む王統に関しては伝説上の人物と考えられる。舜天は15歳で浦添按司となり、その後、天孫氏を滅ぼした逆臣・利勇を討ち、22歳で琉球国中山王に即位したとされる(なお、歴史上国号が「琉球国中山」に定まるのは中国(明)に朝貢した1372年以降の事であり、これは史書による追封号と言う事になる)。

見る 12世紀と舜天

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。

見る 12世紀と興福寺

阿弥陀如来

阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。諸仏の中で最も光明が優れていて、唯一どんなに罪の重い衆生でも無条件で救うことのできる如来である。浄土教系の仏教では、  「南無阿弥陀仏」という称名念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰を説く。ただ、浄土真宗においては信心正因という、阿弥陀仏に後生の一大事について一切任せた(信心決定)ときに極楽往生が決定すると説く。西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)の教主とされる(東方は薬師如来)。五智如来においては、西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀が法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。

見る 12世紀と阿弥陀如来

阿骨打

阿骨打(アクダ)は、金の初代皇帝(在位:1115年1月28日(1月1日) - 1123年9月19日(8月28日))である。女真(ジュシェン)族の完顔部(ワンヤン部)の族長であった。日本では、女真名である阿骨打(アクダ)に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。

見る 12世紀と阿骨打

蘇州

蘇州(そしゅう)。

見る 12世紀と蘇州

「京都 鵺 大尾」(「木曽街道六十九次」の内、歌川国芳画、嘉永5年(1852年)10月) 鵺、鵼、恠鳥、夜鳥、奴延鳥(ぬえ)は、日本で伝承される妖怪である。

見る 12世紀と鵺

関白

関白(かんぱく)は、前近代の日本の朝廷において、成人の天皇を補佐する官職。令外官であり、摂政とともに臣下が就きうる最高の職位であった。敬称は殿下。

見る 12世紀と関白

薬師如来

薬師如来(やくしにょらい、、バイシャジヤグル)、あるいは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。大医王、医王善逝(いおうぜんぜい)とも称する。 三昧耶形は薬壺、または丸薬の入った鉢。種字は尊名のイニシャルのバイ(भै、)。

見る 12世紀と薬師如来

開封市

開封市(かいほうし、)は、中華人民共和国の河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、歴史上幾度も首都(戦国魏、北宋等で)とされた。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。 長安、安陽、臨安、金陵、燕京、洛陽(表記)とともに六大古都とよばれた時代があった。

見る 12世紀と開封市

藤原多子

藤原 多子(ふじわら の まさるこ)は、近衛天皇の皇后。次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。養父は藤原頼長、養母は藤原幸子。令和現在においても最後の太皇太后である。

見る 12世紀と藤原多子

藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。

見る 12世紀と藤原定家

藤原定信

藤原 定信(ふじわら の さだのぶ)は、平安時代後期の廷臣・書家。藤原定実の長男で、世尊寺家第5世となり能書家として重んじられた。官位は従四位下、宮内権大輔。

見る 12世紀と藤原定信

藤原俊成

藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(https://www.city.gamagori.lg.jp/unit/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。

見る 12世紀と藤原俊成

藤原忠実

藤原 忠実(ふじわら の ただざね)は、平安時代後期から末期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原師通の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。日記『殿暦』の著者。

見る 12世紀と藤原忠実

藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠実の次男。官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。

見る 12世紀と藤原忠通

藤原信頼

藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。六条河原で斬首された。

見る 12世紀と藤原信頼

藤原秀衡

藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。奥州藤原氏最盛期時の当主。

見る 12世紀と藤原秀衡

藤原頼長

藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。 通称は宇治左大臣。兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。男色始め当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。

見る 12世紀と藤原頼長

藤原顕隆

藤原 顕隆(ふじわら の あきたか、延久4年〈1072年〉 - 大治4年〈1129年〉)は、平安時代後期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)、参議・藤原為房の次男。官位は正三位・権中納言。葉室家の祖。

見る 12世紀と藤原顕隆

藤原泰衡

藤原 泰衡(ふじわらの やすひら、久寿2年〈1155年〉? - 文治5年9月3日〈1189年10月14日〉)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男(次男)。兄(庶長兄、異腹の兄)に国衡、弟に忠衡、高衡、通衡、頼衡がいる。

見る 12世紀と藤原泰衡

藤原清衡

藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。なお母の有加一乃末陪が清原家に嫁いでいた関係で一時期清原 清衡(きよはら の きよひら)と名乗っていた。

見る 12世紀と藤原清衡

藤原成親

藤原 成親(ふじわら の なりちか)は、平安時代末期の公卿。中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。

見る 12世紀と藤原成親

那須

那須(なす)は、栃木県北東部、那珂川上流一帯の地域名。

見る 12世紀と那須

那智

那智(なち)とは和歌山県南部の熊野那智大社・那智滝などに関係する名前。;地名。

見る 12世紀と那智

肥前国

肥前国(ひぜんのくに、)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の佐賀県と長崎県(壱岐・対馬を除く)にあたる。

見る 12世紀と肥前国

蔡京

蔡 京(さい けい、慶暦7年1月17日(1047年2月14日)- 靖康元年7月21日(1126年8月11日))は、北宋末の政治家・宰相・書家。字は元長。興化軍仙游県(現在の福建省莆田市仙游県)の人。 父は蔡準。弟は蔡卞。子は蔡攸・蔡鯈(さいちょう)・蔡翛(さいゆう)・(さいとう)・(さいちょう)・蔡脩ら。また、英宗の時期の蔡襄の同族にあたる。 行政官僚として有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかったといわれている。

見る 12世紀と蔡京

重源

俊乗房重源上人坐像のレプリカ(大阪府立狭山池博物館所蔵。原品は新大仏寺所蔵で重要文化財) 重源(ちょうげん、保安2年(1121年)- 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。 東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。

見る 12世紀と重源

金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、12世紀前半から13世紀前葉まで満洲(中国東北部)から中国北半にかけての地域を支配した女真(ジュシェン)族の征服王朝。 国姓は完顔氏(ワンヤン し、女真語:)。12世紀に勃興し、契丹(キタン)人王朝の遼、漢族王朝の北宋を滅ぼし、タングートの西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた。都は初め上京会寧府(現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン市)に置かれ、のち、1153年に燕京(中都大興府。現在の北京市)に遷り、13世紀に入ってモンゴル帝国の攻勢を受けると、最終的には南京開封府(現在の河南省開封市)を首都とした。

見る 12世紀と金 (王朝)

金富軾

金 富軾(キム・ブシク、きん ふしょく、1075年 - 1151年)は、高麗の官僚・儒学者。慶州金氏出身の門閥貴族である。朝鮮に現存する最古の歴史書である『三国史記』を編纂し、後に楽浪郡開国侯を賜った。父は金覲。兄は金富弼・金富佾。弟は金富轍。

見る 12世紀と金富軾

金峰山

大天井ヶ岳から山上ヶ岳を望む 山上ヶ岳山頂 金峰山(きんぷせん)とは、奈良県の大峰山脈のうち吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称である。金峯山とも表記し、「金の御岳(かねのみたけ)」とも呼ばれる。 吉野山の金峯山寺は修験道の中心地の一つであり、現在は金峯山修験本宗の総本山である。

見る 12世紀と金峰山

長秋詠藻

『長秋詠藻』(ちょうしゅうえいそう)は、平安時代末期の歌人・藤原俊成の家集。3巻。六家集の一。仁和寺の守覚法親王の求めに応じ、治承2年(1178年)3月に自撰し、同年夏に進献された。名称の「長秋」は皇后の唐名「長秋宮」に因む(俊成の極官は皇太后宮大夫)。

見る 12世紀と長秋詠藻

良忍

良忍(りょうにん、延久5年1月1日(1073年2月10日)? - 天承2年2月1日(1132年2月19日))は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武(はた の みちたけ)の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年(1072年)説もある。 比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。22歳から23歳のころ京都大原に隠棲して念仏三昧の一方で、来迎院・浄蓮華院を創建し(寂光院も良忍による創建説がある)、また分裂していた天台声明の統一をはかり、大原声明を完成させた。

見る 12世紀と良忍

若ヘンリー王

若ヘンリー王(じゃくヘンリーおう)またはヘンリー若王(ヘンリーじゃくおう、Henry the Young King, Henri le Jeune, 1155年2月28日 - 1183年6月11日)は、イングランド王ヘンリー2世の共治王(在位:1170年 - 1183年)。 ヘンリー2世と妃アリエノール・ダキテーヌの次男。異父姉にマリー、アリックス、同父母の兄弟姉妹では兄にウィリアム、弟にリチャード1世、ジェフリー、ジョン、妹にマティルダ、エレノア、ジョーンがいる。

見る 12世紀と若ヘンリー王

雨月物語

『雨月物語』(うげつものがたり)は、上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。 5巻5冊。明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。日本・中国の古典から脱化した怪異小説9篇から成る。近世日本文学の代表作で、現代でも引用されることが多い(→#派生作品)。

見る 12世紀と雨月物語

雲南省

雲南省(うんなんしょう、云南省、, Yunnan Province)は、中華人民共和国西南部に位置する省。 省都は昆明市。略称は雲、又は滇(てん)。 省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることに由来する。

見る 12世紀と雲南省

耶律大石

耶律 大石(やりつ たいせき、契丹音:ヤルート・タイシ)は、西遼(カラ・キタイ)の初代皇帝(グル・ハン)。 太祖耶律阿保機の末子(四男)のの七世の孫にあたる。『集史』においては、 تاشي طايفو Tāshī Ṭāīfū と記される。遼が滅亡する際に、契丹人を引き連れて西へ逃れてその地で勢力を広げ、モンゴル高原西部・新疆ウイグル自治区からカザフスタン東部・マー・ワラー・アンナフルまでの広大な地域を領有すると、故地回復を望んで東征軍を出すが途中で挫折した。ある説では、隠れマニ教徒だったという。

見る 12世紀と耶律大石

院近臣

院近臣(いんのきんしん、院の近臣)とは、院政を行う治天の君の側近及びその集団の事を指す。摂関期には諸大夫と呼ばれる下級貴族だったが、院政期に乳母の縁故や荘園寄進・財力奉仕などを通して急速に台頭する。院に従属・密着した存在であり、院の権勢を背景に摂関家や有力寺社と対立した。その大半は大国の受領だったが、一部に有能な実務官僚も含まれる。院近臣間の権力闘争は平治の乱の一因となり、院権力の不安定な後白河院政期には、たびたび解官・追放の対象となった。

見る 12世紀と院近臣

院政

白河上皇の御幸。『春日権現験記』より。 院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す。

見る 12世紀と院政

陸象山

陸 象山(りく しょうざん、紹興9年2月24日(1139年3月26日)- 紹熙3年12月14日(1193年1月18日))は、中国南宋の儒学者・官僚。名は九淵、字は子静。象山は号。諡は文安。撫州金渓県青田の人。朱熹と同時代に生き、その論敵として知られる。その一族はおよそ二百年間にわたり何世代もが同居することで有名であり、時の王朝より義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。陸象山の兄の陸九韶・陸九齢二人も著名な学者で兄弟を三陸と称することもある。進士に及第後地方官・中央官として経験を積んだ。49歳の時、信州の応天山に私塾をひらき、そこで講学を行ったが、その数年後肺結核のため世を去った。

見る 12世紀と陸象山

陸游

陸游 陸 游(りく ゆう、宣和7年10月17日(1125年11月13日)- 嘉定2年12月29日(1210年1月26日))は、南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)の出身。南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家の一人。とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。中国の大詩人の中に最も多作である。その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。同年代の辛棄疾と共に、愛国詩(詞)人として広く知られている。

見る 12世紀と陸游

陽明学

王守仁(王陽明) 陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。西洋では朱子学とともに新儒学(英: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた『大辞泉』。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする。

見る 12世紀と陽明学

Saku saku

『saku saku』(サクサク)は、独立放送局ほかで放送されていたテレビ神奈川(tvk)制作のバラエティ仕立ての音楽情報番組。

見る 12世紀とSaku saku

林羅山

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。

見る 12世紀と林羅山

李綱

李 綱(り こう、元豊6年閏6月10日(1083年7月27日)- 紹興10年1月15日(1140年2月5日))は、中国南宋の宰相。字は伯紀。秀州華亭県の人。常州無錫県の出身。本貫は邵武軍邵武県。

見る 12世紀と李綱

李清照

李 清照(り せいしょう、1084年 - 1155年)は、北宋末期・南宋初期の詩人。自らが易安居士と号した。斉州章丘県(現在の山東省済南市章丘区)の出身。父は李格非。母は宰相王珪の娘。夫は趙明誠(尚書右僕射趙挺之の子)。中国史上を代表する女流詞人として知られている。

見る 12世紀と李清照

来迎院 (京都市左京区)

来迎院(らいごういん)は、京都府京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺院。山号は魚山。本尊は薬師如来。

見る 12世紀と来迎院 (京都市左京区)

杭州

杭州(こうしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から清末にかけて、現在の浙江省杭州市に設置された。

見る 12世紀と杭州

東大寺

日本の各大仏の存立期間(時系列) 東大寺(とうだいじ、Todaiji Temple)は、奈良県奈良市雑司町にある、華厳宗大本山である日本の仏教寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。開山(初代別当)は良弁である東大寺の記録には良弁以来の歴代別当が記録されているが、奈良時代期の重要決定・文書が別当ではなく三綱の名義で出されていることなど矛盾も多く、良弁が東大寺の初代の住持であったのは事実であるが、実際に彼が就任したのは「造東大寺司」の別当であり、東大寺の代表者としての別当職の成立は「造東大寺司」が廃された平安時代初期ごろと推定されている。。 正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら仏教語の「金光明」は呉音で「こんこうみょう」と読むことが多いが、東大寺では公式サイトで「きんこうみょう - 」を正式の読みとしている(参照:(東大寺公式サイト)。

見る 12世紀と東大寺

東京夢華録

『東京夢華録』(とうけいむかろく)は、南宋の孟元老が撰した回想録。10巻。北宋時代の首都・開封の繁栄が詳細に誌されている。書名中の「東京」とは、当時の開封の正式名称・東京開封府のことである。

見る 12世紀と東京夢華録

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名ビュザンティオンは Byzantion,帝国の呼称としては Byzantinisches Reich(ビュツァンティニッシェス・ライヒ) が用いられるのが一般的である。、ビザンティン帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指すなお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。

見る 12世紀と東ローマ帝国

松広寺

松広寺(しょうこうじ、ソングァンサ、송광사)は、大韓民国の全羅南道順天市にある仏教寺院。 韓国仏教の最大勢力である曹渓宗の発祥地。また曹渓宗の三宝寺院、五大叢林(曹渓叢林)に数えられている。曹渓宗の第21教区本寺。 曹渓宗の開祖である知訥(1158年 - 1210年)はその晩年の10年間を松広寺で過ごした。高麗時代に16人の国師を輩出したことから、僧宝寺刹と呼ばれる。

見る 12世紀と松広寺

村上源氏

村上源氏(むらかみげんじ)は、第62代村上天皇の皇子を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。

見る 12世紀と村上源氏

根来寺

大塔(国宝) 三つ柏(寺紋) 根来寺(根來寺、ねごろじ / ねごろでら)は、和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山の寺院。山号は一乗山。本尊は大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂の三尊。開山は覚鑁(興教大師)。詳しくは一乗山大伝法院根来寺と称する。

見る 12世紀と根来寺

栃木県

栃木県(とちぎけん)は、日本の関東地方に位置する県。県庁所在地は宇都宮市。 県北部に日光国立公園があり、観光地・保養地の日光や那須が知られる。

見る 12世紀と栃木県

梁塵秘抄

『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)は、平安時代末期に編まれた歌謡集。今様歌謡の集成。編者は後白河法皇。治承年間(1180年前後)の作。

見る 12世紀と梁塵秘抄

梁山泊

梁山泊(りょうざんぱく)は、中国の山東省済寧市梁山県の周辺に存在した沼沢である。この沼を舞台とした伝奇小説『水滸伝』では周囲800里と謳われた大沼沢であった。 梁山の張澤濼と伝わる。(大漢和辞典より) 『水滸伝』での意味が転じ、「優れた人物たちが集まる場所」、「有志の集合場所」の例として使われることもある(#日本での人気、派生語、梁山泊 (曖昧さ回避)を参照)。 イギリスで発行された英語版『水滸伝』では、「EDEN(エデン)」と表記されていた。

見る 12世紀と梁山泊

梶原景時

梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人。 石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。

見る 12世紀と梶原景時

梶原景時の変

梶原景時の変(かじわらかげときのへん)は、鎌倉時代初期の正治元年10月25日から翌正治2年1月20日(1199年11月15日 - 1200年2月6日)にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状で弾劾され失脚し、追討により一族尽く殺害された。頼朝死後に始まった鎌倉幕府内部における権力闘争の最初の犠牲者であった。

見る 12世紀と梶原景時の変

椿説弓張月

大弓を引く源為朝。読本『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』より。葛飾北斎 挿画。 『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)は、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本。文化4年(1807年)から同8年(1811年)にかけて刊行。全5編29冊。版元は平林庄五郎と文刻堂西村源六。 『保元物語』に登場する強弓の武将鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描く、勧善懲悪の伝奇物語であり、『南総里見八犬伝』とならぶ馬琴の代表作である。

見る 12世紀と椿説弓張月

検非違使

『伴大納言絵詞』に描かれた検非違使 知恩院を警護する検非違使 検非違使(けびいし、けんびいし)は日本の律令制下の令外官の役人。「(不法・違法など)非違を検察する(天皇の)使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。平安時代初期に発足した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。

見る 12世紀と検非違使

欽宗

欽宗(きんそう)は、北宋の第9代(最後の)皇帝。徽宗の長子で、南宋で即位した高宗の長兄に当たる。

見る 12世紀と欽宗

正三位

正三位(しょうさんみhttps://kotobank.jp/word/正三位)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおきみつのくらい」「おおいみつのくらい」とも読む。

見る 12世紀と正三位

武士

武士(ぶし、もののふ)は、日本における戦闘員を指し、戦闘を家業とする家系にある者を指す。平安時代に生まれ、幕末期まで存在した。 宗家の主人を頂点とした家族共同体を作っていた特徴がある。 その上に、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が位置し、武家政権を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。

見る 12世紀と武士

武家政権

武家政権(ぶけせいけん)は、日本史上の政治形態の一つ。武家が独自の権力と組織をもって行なった政治的支配のことで、12世紀末の鎌倉幕府の樹立から1867年(慶応3年)の江戸幕府の終末までの約700年間がこれにあたる。 平安時代末期に、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的台頭が起こり、その時の平氏政権は武家の政権ではあったが、独自の武士階級としての権力と組織をもたず瓦解したため、鎌倉幕府の成立をもってその開始期とし、鎌倉幕府、室町幕府、織豊政権、江戸幕府の4つの時期を経て明治維新にいたって終結とする。この700年の内、織豊期を除けば、征夷大将軍が幕府を組織した。武家政権は公家政権と対抗して武家法を樹立し、武家の棟梁のもとに主従制を展開し、全国支配権を拡張した。

見る 12世紀と武家政権

歴史的城塞都市カルカソンヌ

「歴史的城塞都市カルカソンヌ」は、フランス南西部の都市カルカソンヌのうち、城壁に囲まれた部分を指す、ユネスコ世界遺産としての登録名(ID345)。世界遺産登録後は、フランス国内ではモン・サン=ミシェルに次ぐ年間来訪者数を誇る一大観光名所となっている。 かつては、この部分だけでカルカソンヌ=シテという独立したコミューンだったが、現在は周辺も含めてカルカソンヌ市となっている(以下、本項目では便宜上「カルカソンヌ」ないし「シテ」はこの旧「カルカソンヌ=シテ」を、「カルカソンヌ市」は現在のコミューンとしてのカルカソンヌを指すものとする)。 ガロ=ローマン期から続くこの都市は、オード川右岸に沿って、現在のカルカソンヌ市内南東部に位置しており、ひとつの城(コンタル城)とひとつのバシリカ(サン=ナゼール大聖堂)を抱えている。

見る 12世紀と歴史的城塞都市カルカソンヌ

死刑

死刑(しけい、英語: capital punishment)は、対象者(死刑囚)の生命を奪い去る刑罰である。暴力的な表現を比較的控えられるよう、「」あるいは「」とも表現される。処刑とは「刑」に「処」すことなので必ずしも死刑とは限らないが、一般的に「処刑」の単語は死刑のみで使われる。なお、刑罰の分類上は生命刑に分類される。

見る 12世紀と死刑

殺生石

割れる前の殺生石(中央の注連縄の石、2018年7月) 割れた殺生石(2022年5月) 殺生石(せっしょうせき)は、栃木県那須郡那須町の那須湯本温泉付近に存在する溶岩である。付近一帯に火山性ガスが噴出し、このガスにより鳥獣が命を落とす事例が古来知られてきた。「殺生」とは仏教における五戒のひとつで「いきものの命を奪う」意。 松尾芭蕉が『おくのほそ道』でこの地を訪れていることなどで知られ、国指定名勝となっている(2014年〈平成26年〉3月18日指定)。 なお伝承上、この石に起源を持つと伝えられている石が全国にいくつかあり、それらの中に「殺生石」と呼ばれているものがあるほか、那須の殺生石同様に火山性ガスが噴出する場所で「殺生石」と呼ばれる石があるとする文献もある。しかし単に「殺生石」といえば那須の殺生石を指すことが多い。

見る 12世紀と殺生石

殿下乗合事件

殿下乗合事件(てんがののりあいじけん/でんかののりあいじけん)は、平安時代末期の嘉応2年(1170年)7月から10月にかけて、摂政・松殿基房の一行が女車に乗った平資盛に遭遇し、基房の従者が資盛の車の無礼を咎めて恥辱を与え、その後、資盛の父・平重盛の武者が基房の従者を襲撃して報復を行った事件。『平家物語』では報復を行った首謀者を資盛の祖父・平清盛(重盛の父)に設定し、「平家悪行の始め」として描いている。

見る 12世紀と殿下乗合事件

残夢

残夢(ざんむ、生年不詳 - 天正4年3月29日(1576年4月27日)?)は、日本の僧侶。諡は桃林契悟禅師。『会津風土記』によると、天正4年3月29日(1576年4月27日)に入寂した後に、文禄年間に越後国で商人に目撃されたり、保科正之が駿河国の三保松原で源平合戦について語り合ったりしているため、正確な没年は不詳。

見る 12世紀と残夢

水島の戦い

水島の戦い(みずしまのたたかい)は、平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。寿永2年閏10月1日(ユリウス暦1183年11月17日 グレゴリオ暦換算1183年11月24日)、備中国水島(現在の倉敷市玉島)において義仲軍と平家軍との間で海戦が行われた。水島合戦(みずしまがっせん/みずしまかっせん)とも呼ばれる。

見る 12世紀と水島の戦い

水滸伝

『水滸伝』(水滸傳、すいこでん)は、明王朝の中国で書かれた長編型の白話小説。『西遊記』『三国志演義』『金瓶梅』とともに「四大奇書」に数えられる。 施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの「講談北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語。1121年(宣和3年)に力を持った宋江率いる盗賊団が描かれている。」を集大成して創作したとされる。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味であり、「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す。反権力的な傾向であるため、しばしば禁書とされたが広く愛読され、現在も中国で「農民革命の文学」として高く評価されている。

見る 12世紀と水滸伝

永久の変

永久の変(えいきゅうのへん)とは、永久元年(1113年)に発生したとされる鳥羽天皇暗殺未遂事件。下手人とされた童子・千手丸の名前より、千手丸事件(せんじゅまるじけん)とも呼ばれる。

見る 12世紀と永久の変

永久の強訴

永久の強訴(えいきゅうのごうそ)とは、天永4年・永久元年(1113年)、興福寺の末寺・清水寺の別当に延暦寺で出家した仏師・円勢が任じられたことから閏3月20日に数千人の興福寺大衆が人事の停止を求めて行った強訴のこと。 円勢は法勝寺・尊勝寺の仏像群の造立を主導しており、白河法皇への奉仕に対する論功行賞ともいえる強引な人事だった。法皇は譲歩し一旦は終結するかに思われたが、興福寺大衆が上洛の折に祇園社神人に暴行を働いたため、29日に延暦寺大衆が報復する。清水寺の堂舎を破壊して神輿をかつぎ、院御所である大炊殿におしかけ興福寺の権少僧都・実覚の流罪を要求した。出羽守・源光国、丹後守・平正盛、左衛門尉・源為義が院御所・内裏を警固した。

見る 12世紀と永久の強訴

江西省

江西省(こうせいしょう、江西省、、Jiangxi)は、中華人民共和国中部、長江南岸に位置する内陸部の省。省都は南昌市。略称は贛(がん)。

見る 12世紀と江西省

河内源氏

河内源氏(かわちげんじ)は、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。源頼信(源満仲の三男)を祖とする。一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いられていた。

見る 12世紀と河内源氏

治承の大火

治承の大火(じしょうのたいか)は、治承2年3月24日(1178年4月13日)に平安京内で起こった大火災。前年の安元の大火(太郎焼亡)との関連で次郎焼亡(じろうしょうぼう)とも呼ばれる。 この日の夜半に七条東洞院(現在の東本願寺南東の角)から出火、折からの東風に煽られて七条通沿いに朱雀大路に至るまでの三十数町が全焼した。この地域は当時の人口密集地であり、そこを直撃したことになる。そこは前年の安元の大火(太郎焼亡)で焼け残った地域とも重なっており、人々に甚大な衝撃を与えた。 なお、この火災の日付については、『玉葉』が3月24日、『後清録記』が4月24日のこととしており、『後清録記』の日付を採用する説もある。また方丈記に見られる「治承の辻風」は治承4年4月に起きた天災であり、当災害とは別の記事である。

見る 12世紀と治承の大火

治承三年の政変

治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)は、治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。

見る 12世紀と治承三年の政変

治承・寿永の乱

治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことで反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている。

見る 12世紀と治承・寿永の乱

法学

法学(ほうがく)または法律学(ほうりつがく、jurisprudence、jurisprudence、Rechtswissenschaft, Jurisprudenz、giurisprudenza)とは、法law、droit、Recht、legge、jus又は法律laws、loi、Gesetz、diritto、lexに関する学問-en-shortscience、Wissenschaftである。 法学の分類として一般的なのは、実定法に関する研究を行う実定法学(実定法の意味を認識体系化する法解釈学と、立法に関する立法学に分けることができる。)と、基礎法学への分類である。

見る 12世紀と法学

法住寺合戦

法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事政変である。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。

見る 12世紀と法住寺合戦

法勝寺

法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河にあった仏教の寺院である。白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つのうち最初にして最大の寺である。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。

見る 12世紀と法勝寺

法然

法然上人絵伝 法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。法然は房号で、諱は、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。 諡号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。

見る 12世紀と法然

法性寺流

法性寺流(ほっしょうじりゅう)は、藤原忠通を祖とする書道の流派の一つ。小野道風、藤原行成などの和様で優雅な書風に、雄渾さを加えた書風。忠通は、行成から世尊寺流を学び、それに工夫を加えて成立させ、どちらも鎌倉時代を代表する書風となった。開祖である忠通は、法性寺関白とも呼ばれたことから、当流を法性寺流という。

見る 12世紀と法性寺流

清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。

見る 12世紀と清和源氏

清涼殿

清涼殿(せいりょうでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。仁寿殿の西、後涼殿の東。

見る 12世紀と清涼殿

清明上河図

清明上河図(せいめいじょうがず)は、中国北宋の都開封の都城内外の殷賑(にぎわい栄えた)の様を描いた画巻である。オリジナルは北京・故宮博物院に所蔵されているが、類作が数多く伝わっている。

見る 12世紀と清明上河図

源義仲

源 義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。

見る 12世紀と源義仲

源義経

徳島県小松島市の旗山にある日本最大の騎馬像。 源 義経(みなもと の よしつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名をと言った。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。

見る 12世紀と源義経

源義親

源 義親(みなもとの よしちか、生年不詳 - 嘉承3年1月19日〈1108年3月3日〉(諸説あり))は、平安時代後期の武将。源義家の次男。 河内源氏3代目棟梁・源義家の嫡男だったが、対馬守に任じられたときに九州で略奪を働き、官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。だが、出雲国へ渡って再び官吏を殺して官物を奪ったため、平正盛の追討を受けて誅殺された。剛勇の義親が簡単に討たれたことを人々は疑い、その後に幾度も義親を名乗る者が現れている。

見る 12世紀と源義親

源義親の乱

源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)は、平安時代中期に起きた反乱。康和の乱、源義親追討事件などとも言われる。 源義家の子の義親が九州で略奪を行い、官吏を殺したため、隠岐国へ流された。だが、義親は出雲国で再び目代を殺害して官物を奪う乱暴を働いた。父の義家の死後、白河法皇の起用により平正盛が派遣され義親は誅された。義親の首は京都で梟されたが、生存の噂が絶えず、その後、次々に「義親」を名乗る者が現れ、事件の余波は20年以上に渡って続いた。乱後に河内源氏では内訌が続き大きく凋落する。一方、平正盛による義親追討は伊勢平氏の台頭の契機となった。

見る 12世紀と源義親の乱

源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代後期から末期にかけての武将。河内源氏六代目棟梁。

見る 12世紀と源義朝

源為義

源 為義(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。一般的には祖父が源義家、父が源義親とされるが、義家を父とする説もある(後記)。叔父(義家を父とした場合は兄)の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経・源範頼・源義仲らの祖父。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。

見る 12世紀と源為義

源為朝

源 為朝(みなもと の ためとも、)は、平安時代末期の武将。源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。 『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。

見る 12世紀と源為朝

源頼家

鶴岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で、母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。

見る 12世紀と源頼家

源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。

見る 12世紀と源頼朝

源頼政

源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。清和源氏としては初めて従三位に叙せられた。後世においても、源三位(げんざんみ)の通称が伝わる(同時代的に「源三位」と称された人物は頼政に限らない)。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され推挙により、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。 しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。

見る 12世紀と源頼政

源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。村上源氏久我流、内大臣・源雅通の子。官位は正二位・内大臣、右大将、贈従一位。久我家4代。

見る 12世紀と源通親

澗松美術館

澗松美術館(がんそんびじゅつかん、간송미술관)は、大韓民国ソウルにある美術館・博物館。

見る 12世紀と澗松美術館

木造教会

木造教会(Wooden Churches, Biserici de lemn, Drevený kostol, Dřevěný kostel, Holzkirche, Chiesa di legno, Église en bois, stavkirke)は、北欧・ロシア・東ヨーロッパなどを中心に世界中に分布する、木造の教会のこと。 特に古い建築の多くは、世界遺産への登録が始まっている。

見る 12世紀と木造教会

本朝神社考

本朝神社考(ほんちょうじんじゃこう)は、林羅山の著。 中世以来、仏教者のために王道が衰え、神道が廃れたのに憤り筆をとった。 神仏混淆を斥け、国家を上古の淳直の世に立ち返らせようとこいねがい、口碑縁起を訪ね歩き、これを『古事記』、『日本書紀』、『延喜式』、『風土記』その他に証し、日本のおもな神社の伝記その他をしるしたものである。

見る 12世紀と本朝神社考

朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹(1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれる。また、聖人の道統の継承を標榜する学派であることから、道学とも呼ばれる。 北宋・南宋期の特徴的な学問は宋学と総称され、朱子学はその一つである。また、陸王心学と同じく「理」に依拠して学説が作られていることから、これらを総称して宋明理学(理学)とも呼ぶ。

見る 12世紀と朱子学

朱子語類

『朱子語類』(しゅしごるい)は、中国の宋代、同時代の儒学者である朱熹(朱子)がその門弟たちと交わした言葉を、その没後に集成し門類に分類した書物である。咸淳6年(1270年)、黎靖徳編、140巻。

見る 12世紀と朱子語類

朱熹

朱 熹(しゅ き、建炎4年9月15日〈1130年10月18日〉- 慶元6年3月9日〈1200年4月23日〉)は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など。諡は文公。と尊称される。 本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。 「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。 その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。

見る 12世紀と朱熹

明州

明州(めいしゅう)は、中国およびベトナムにかつて存在した州。

見る 12世紀と明州

明菴栄西

栄西が再建した東大寺鐘楼(奈良市) 茶碑、建仁寺、京都市東山区 明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日(1215年8月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。

見る 12世紀と明菴栄西

海上の盟

海上の盟(かいじょうのめい)は、宣和2年(1120年)に北宋と金の間で遼(契丹)を挟撃するために締結された軍事同盟。

見る 12世紀と海上の盟

海陵王

海陵王(かいりょうおう)は、金の第4代皇帝。女真名は迪古乃(テクナイ)、漢名は亮。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王斡本(宗幹)の次男。従弟にあたる第3代皇帝熙宗を殺害し、帝位を簒奪したが、自身も部下によって殺害された河内(1989)pp.232-235梅村(2008)pp.423-431宮澤・杉山(1998)pp.219-222佐伯(1975)pp.297-300。第5代世宗即位後、廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される。生母は斡本の側室で渤海王家末裔の大氏、正妻は女真貴族の徒単斜也の娘(徒単皇后)。「荒淫の人」として知られる。

見る 12世紀と海陵王

浄土教

浄土教(じょうどきょう)、中国の北魏時代に慧遠が説き、唐代の善導が提唱した。阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。

見る 12世紀と浄土教

浅間山

浅間山(あさまやま)は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568メートルの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。

見る 12世紀と浅間山

斡啜

斡啜(オジュ、生年不詳 - 皇統8年(1148年))は、金の皇族。女真名は兀朮(ウジュ)・烏珠(ウジュ)とも内藤(2015)pp.189-191。漢名は宗弼。初代皇帝の太祖阿骨打(アクダ)の四男。

見る 12世紀と斡啜

新古今和歌集

『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は、後鳥羽院の勅命で編纂された勅撰和歌集。鎌倉時代初期成立。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾る。略称は『新古今集』(しんこきんしゅう)。撰歌にあたり、幽玄・有心の美学が反映されている(新古今調)。

見る 12世紀と新古今和歌集

新制

新制(しんせい)とは、平安時代中期から南北朝時代にかけて天皇・上皇の勅旨に基づいて制定された成文法典(「公家新制」)。「新制の官符」という意味で制符(せいふ)とも呼ばれる。なお、鎌倉幕府や寺院でもこれを模範として似たような法典が整備され、前者を「武家新制/関東新制」、後者を「寺社新制/寺辺新制」と称して、広義の新制に含める場合がある。

見る 12世紀と新制

新義真言宗

新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の一つで、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。

見る 12世紀と新義真言宗

方臘の乱

方臘の乱(ほうろうのらん)は、中国の江南地方で起こった反乱。北宋末期の徽宗の宣和2年(1120年)の出来事である。

見る 12世紀と方臘の乱

文学

ジャン・オノレ・フラゴナール『読書する女』(1772年) 文学(ぶんがく、)は、言語によって表現された芸術のこと。詩、小説、戯曲、脚本、随筆、評論などの総称である。また、それらを研究する学問(文芸学を参照)。文芸(ぶんげい)ともいう。 原初的な文学は口承文芸であったが、写本による書物の流通を経て、やがて印刷技術が普及するにつれて活字印刷による文学作品の出版が主流になった。現在では電子書籍やインターネットを利用した電子メディア上で表現されるものもある。

見る 12世紀と文学

文覚

遠藤盛遠を名乗っていた頃の若き文覚。人妻・袈裟御前に恋し、その夫を殺害せんために寝室に忍び寄る。月岡芳年画 文覚(もんがく、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

見る 12世紀と文覚

文治の勅許

文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)は、文治元年11月28日(1185年12月21日)の北条時政による奏請に基づき、朝廷より源頼朝に対し与えられた、諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した勅許のことである。

見る 12世紀と文治の勅許

日宋貿易

日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。 中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。

見る 12世紀と日宋貿易

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順)の5つの一族のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任でき、藤氏長者に就く資格を有した。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ。「執柄」とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)ともいう。

見る 12世紀と摂家

摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。近畿地方に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。

見る 12世紀と摂津国

摂政

摂政(せっしょう、regent)は、君主制国家において、君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。 多くの場合、君主の親族(血縁関係にある者)や配偶者が就任する。

見る 12世紀と摂政

教会博士

教会博士(きょうかいはかせ、doctor ecclesiae)は、キリスト教ローマ・カトリック教会において、聖人の中でも特に学識にすぐれ、信仰理解において偉大な業績を残した人に送られる称号。 古代世界において活躍した偉大な4人の教父、。

見る 12世紀と教会博士

教会法

教会法(きょうかいほう、ius ecclesiasticum、Ecclesiastical law、Kirchenrecht)は、広義においては、国家のような世俗的権力が定めた教会に関する法と教会が定めた法を包括した概念であるが、狭義においては、キリスト教会が定めた法のことをいい、世俗法(ius civile)と対比される概念である。最狭義においては、カトリック教会が定めた法のことをいい、カノン法(ius canonicum、Canon law、Kanonisches Recht)ともいう。以下では主に最狭義のカノン法について解説する。

見る 12世紀と教会法

教皇

教皇(きょうこう、pontifex - Wiktionary(en)、Papa、Πάπας Pápas、pontiff - Wiktionary(en))は、カトリック教会の最高位聖職者の称号。 一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇(ローマきょうこう)を指す。バチカン市国の元首。教皇の地位は「教皇位」あるいは「教皇座」と呼ばれる。また「聖座」ラテン語: Sancta Sedes.あるいは「使徒座」ラテン語: Sedes Apostolica.という用語も使われる。「聖座」と「使徒座」は中世の教会法学者たちによって形成された概念で、第一に教皇を指すが、広義においては教皇庁をも指す。

見る 12世紀と教皇

扶桑略記

『扶桑略記』第21巻 『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻よりなり、このうち巻二から六、巻二十から三十の計16巻と、巻一および巻七から十四の抄記が現存する。 内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『八幡宇佐宮御託宣集』・『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。

見る 12世紀と扶桑略記

曲亭馬琴

曲亭 馬琴/滝沢馬琴(きょくてい ばきん/たきざわ ばきん、明和4年6月9日〈1767年7月4日〉- 嘉永元年11月6日〈1848年12月1日〉)は、江戸時代後期の読本作者。本名は滝沢 興邦(たきざわ おきくに、)、後に解(とく)に改めた。号は著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。 代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である。

見る 12世紀と曲亭馬琴

書家

『蘭亭序』(部分)神龍半印本 王羲之 宸筆 書譜』(部分)孫過庭書 書家(しょか)は、書における高度な技術と教養を持った専門家のこと。日本では書人ともいい、近年、異称であるが書道家ともいわれるようになった。中国語では、書法家(繁体字)という。独自の感性で墨文字アート、墨象画を手掛けている書き手は、書家とは異なる。

見る 12世紀と書家

曾我兄弟の仇討ち

富士野における仇討ちの場面(曽我物語図会) 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの1つである。

見る 12世紀と曾我兄弟の仇討ち

曾我祐成

曾我 祐成(そが すけなり)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。

見る 12世紀と曾我祐成

曾我時致

曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。曾我兄弟の仇討ちで知られる。曽我五郎、曽我時宗とも。

見る 12世紀と曾我時致

怨霊

葛飾北斎画『近世怪談霜夜星』に登場する怨霊(左) 怨霊(おんりょう)とは、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりなどをする、死霊または生霊のことである。 悪霊に分類される。

見る 12世紀と怨霊

普遍史

普遍史(ふへんし、universal history)とは、叙述の対象をローカルな場から全世界にまで拡大して人類創世から同時代にいたる人類史を叙述する類型のこと。 キリスト教世界においては、聖書が叙述する内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史である。それは天地創造に始まり最後の審判で終わる、未来をも含む有限の時間軸を範囲とし、空間的にはすべての世界を含んでいる。そこには目的があり、神による人類の教育と、その結果もたらされる救済に至る過程が骨格を成している。 中世ヨーロッパまでは正しい歴史記述と広く認識されていたが、大航海時代や啓蒙思想そして科学の発達などを通じて矛盾する要因が数多くもたらされ崩壊を迎えた。しかし普遍史は、美術や文学などの芸術分野や、また哲学など思想分野にも大きな影響を残した。

見る 12世紀と普遍史

12世紀ルネサンス

12世紀ルネサンス(じゅうにせいきルネサンス、英語:Renaissance of 12th Century)は、ヨーロッパ中世の12世紀にも、古典文化の復興と、文化の高揚が見られるとして、使われる言葉である。 14世紀頃にイタリアでルネサンスの文化運動が始まり、やがて周辺国に影響を及ぼしていったが、ルネサンス以前の中世は暗黒時代とみなされ、中世とルネサンスの間に断絶があると考えられてきた。こうした従来の中世観・ルネサンス観を相対化し、中世と近世、近代の連続性を強調し、中世の再評価を図ろうとするのが12世紀ルネサンス論である。 アメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズ(Charles Homer Haskins 1870年-1937年)が『12世紀ルネサンス』(The Renaissance of the twelfth century,1927年)の中で提唱し、現在では様々な面から12世紀の文化が再評価されている。古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、大きな刺激を与えた。また哲学、美術、文学など様々な分野で新しい動きがみられた。

見る 12世紀と12世紀ルネサンス

参考情報

2千年紀

十二世紀 別名。

寿福寺寿永二年十月宣旨富士の巻狩り富士川の戦い尼崎市山家集山田寺居士屋島の戦い岳飛崔忠献崇徳天皇工藤祐経巨鹿県上田秋成中尊寺金色堂中山世鑑中国中納言常盤光長常陸坊海尊丹後局丘長春世宗 (金)世尊寺流世紀三左衛門事件三国史記一ノ谷の戦い九尾の狐九条家九条兼実平家納経平家物語平宗盛平安時代平徳子平忠盛平知盛平維盛平重盛平重衡平正盛平氏平氏政権平治の乱平泉平清盛平敦盛平時子年表二条天皇仁宗 (高麗王)令旨以仁王以仁王の挙兵廬山建久建久七年の政変伊勢平氏伊豆大島伴大納言絵詞休戦協定佐渡島征夷大将軍侍所御伽草子徽宗後白河天皇後鳥羽天皇後期チャールキヤ朝俊寛保元の乱保元新制信西快慶修道士カドフェル心即理土佐光信土佐派土御門天皇地頭地震北宋北京市北面武士北条政子北条時政北欧神話北方十字軍ナポリナポリとシチリアの君主一覧ナーランダ僧院ペトルス・ロンバルドゥスナシ族ミュンヘンミシュネー・トーラーマラケシュマリー・ド・フランス (詩人)マリー・ダンティオケノルマン人ノルマンニ宮殿マルトラーナ教会ノルウェーマロン典礼カトリック教会ノヴゴロド公国マームズベリのウィリアムノートルダム大聖堂 (パリ)マヌエル1世コムネノスマティルダ (神聖ローマ皇后)マドリードマニ教マクデブルクノク文化チャーハマーナ朝チャコ文化国立歴史公園チョーラ朝チェルニーヒウ公チェスターのロバートハムレットハンガリー王国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国ハインリヒ2世 (オーストリア公)ハインリヒ3世 (ザクセン公)ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)バル・デ・ボイバレンシア (スペイン)バレンシア州バイヨンバイエルン公国バスラポルトガルポルトガル王国ポーランド君主一覧ムラービト朝ムワッヒド朝メッカメサ・ヴェルデモーシェ・ベン=マイモーンモースルモスクワヤアクーブ・マンスールユーリー・ドルゴルーキーユークリッド原論ユダヤ教僧綱ヨハネス2世コムネノスヨルバ人ヨアキム主義ラリベララント平和令ラーマーヌジャラーン人ラージプートラビラテン語ラホールライラとマジュヌーンリチャード1世 (イングランド王)リューベックリューゲン島リヨンリヴォニアリガリスボンリスボン攻防戦ルノー・ド・シャティヨンルンドルーム・セルジューク朝ルーヴル宮殿ルッジェーロ2世ルイ7世 (フランス王)レバノンレオポルト3世 (オーストリア辺境伯)レオポルト5世 (オーストリア公)レコンキスタロマネスクロンバルディア同盟ロビン・フッドロベール2世ロシア美術館ロシア文学ロスキレヴァルド派ヴァインスベルクヴィッテルスバッハ家ヴィクトル・ヴァスネツォフヴェルフ家ヴェンド十字軍ヴェンド人ヴォルムス協約ボレスワフ3世の遺言状ボレスワフ3世クシヴォウスティボローニャヌールッディーンボードゥアン1世 (エルサレム王)ボードゥアン4世 (エルサレム王)ボヘミアボヘミア君主一覧ボゴミル派ボゴタトリポリ伯国トルバドゥールトレチャコフ美術館トレドトロワトンレサップヘンリー1世 (イングランド王)ヘンリー2世 (イングランド王)ブランデンブルク辺境伯領ブラウンシュヴァイクブリタニア列王史ブルゴーニュ王朝ブロワ家プラハプランタジネット朝プレスター・ジョンプエブロプシェミスル朝パレルモパンジャーブパーラ朝ヒルデガルト・フォン・ビンゲンヒンドゥー教ヒッティーンの戦いビザンティンピエール・ヴァルドピエール・アベラールピサの斜塔テュルキスタンテューリンゲンテンプル騎士団テッサロニキティルスデンマーク人の事績ディヤルバクルデイヴィッド1世 (スコットランド王)フランスフリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)フワーリズミーファーティマ朝フィリップ2世 (フランス王)フィンランドドイツドイツ騎士団ニューメキシコ州ニーダーザクセン州ニザーミーホラーサーンホラズム・シャー朝ホワイトシップの遭難ホーエンシュタウフェン朝ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟ホイサラ朝ダマスカスダルマチアベネディクト会ベラサグンベルトラン・デ・ボルンベーラ3世 (ハンガリー王)ベーダ刺史呂祖謙呉乞買アミールアマルフィ公国アラーウッディーン・テキシュアラビア語アリエノール・ダキテーヌアリストテレスアルマゲストアルトゥク朝アルブレヒト1世 (ブランデンブルク辺境伯)アルフォンソ1世アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)アルザス地域圏アルスフの戦いアレッポアレクシオス1世コムネノスアレクシオス3世アンゲロスアンナ・コムネナアントウェルペンアンティオキア公国アンドロニコス1世コムネノスアンゲロス王朝アンコール・ワットアンコール・トムアンコール遺跡アンジュー帝国アンセルムスアヴァロンアヴィニョンのベネゼアーマーアールパード朝アーサー王物語アブラハム・イブン・エズラアブサロンアパメアアフォンソ1世 (ポルトガル王)アドリア海アイユーブ朝アウター・ヘブリディーズアキテーヌ地域圏アタベクイランイラクイングランドイーディス・パージターイーゴリイブラン家イブン・バーッジャイブン・ルシュドイブン・トファイルイブン・ジュバイルイドリースィーイスラム教イタリアイサキオス2世アンゲロスウラジーミル (ウラジーミル州)ウラジーミル2世モノマフウラジーミルの生神女ウルネスの木造教会ウィリアム1世 (スコットランド王)ウィーンウェールズエチオピアエル・ドラードエルサレムエルサレム王国エトナ火山エデッサ伯国エウクレイデスエウゲニウス3世 (ローマ教皇)エジプトオーリッケの戦いオーロラオートヴィル朝オーストリア君主一覧オタカル1世 (ボヘミア王)カペー朝カラハン朝カラブリア州カリクストゥス写本カリストゥス2世 (ローマ教皇)カンナダ語カンボジアカンダハールカンタベリー大司教カーライル (イングランド)カールマーン (ハンガリー王)カビールカギュ派カシミールカタリ派カタルーニャ州ガムラ・ウプサラガザーリーガズナ朝ガズニーキリキアキリスト教徒キーウキプチャクキプロス島キエフ大公キエフ・ペチェールシク大修道院ギヤースッディーン・ムハンマドギヨーム9世 (アキテーヌ公)ギヨーム・ド・ティールギー・ド・リュジニャンクメール王朝クラック・デ・シュヴァリエクラウディオス・プトレマイオスクルアーンクレムリンクレモナのジェラルドクレルヴォーのベルナルドゥスクレティアン・ド・トロワクロアチアグリム兄弟グリエルモ2世グル・ナーナクケン・フォレットコペンハーゲンコムネノス王朝コルドバ (スペイン)コロラド州コロンビアコンラート3世 (神聖ローマ皇帝)ゴール朝ゴットホルト・エフライム・レッシングゴシック建築ザンギーザンギー朝ザダルザクセンザクセン公国シチリアシチリア王国シハーブッディーン・ムハンマドシャルトル大聖堂シャルトル学派シャンルウルファシャンパーニュの大市シャンパーニュ伯シュジェールシリアシーラーズシトー会シテ島シスマジャヤーヴァルマン7世ジャラール・ウッディーン・ルーミージャウフレ・リュデルジョン (イングランド王)ジェフリー・オブ・モンマススペインスルターンスンナ派スーリヤヴァルマン2世スーフィズムステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)スティーブン (イングランド王)スウェーデンスコラ学スコットランドズィール朝セルジューク朝セーヌ川ソグン・オ・フィヨーラネ県タミル語タラーインの戦いタウヒードサラーフッディーンサラゴササン・ヴィクトルのフーゴーサン・ベネゼ橋サンティアゴ・デ・コンポステーラサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路サンクトペテルブルクサン=ドニサン=ドニ大聖堂サフォークサクソ・グラマティクス哲学唯名論内大臣全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言全真教公卿公案六条天皇六波羅六波羅館光宗勧進倶利伽羅峠の戦い皇室皇円石橋山の戦い玉葉王重陽硬貨碧巌録神埼荘神学者神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝神護寺神戸市神曲福原 (神戸市)福原京秦檜童貫第1ラテラン公会議第1回十字軍第2ラテラン公会議第2回十字軍第3ラテラン公会議第3回十字軍第4回十字軍第二尚氏第二次ブルガリア帝国米友仁粟津の戦い紹興の和議美術義賊真如苑真言宗猛安・謀克終末論生神女就寝大聖堂 (ウラジーミル)無政府時代 (イングランド)熊谷直実熙宗 (金)燕京異端煉獄盧溝橋目競白蓮教白河天皇百錬抄花石綱融通念仏宗鎌倉鎌倉幕府鎌倉時代聖マラキ聖ヨハネ騎士団道教運慶荘園 (日本)靖康の変行政行為製紙養和の飢饉西ヨーロッパ西ゴート王国西光西遼西行西暦西本願寺本三十六人家集覚猷覚鑁観音菩薩騎士修道会騎士道物語註釈学派語録高宗 (宋)高俅高倉天皇高階栄子鬼界ヶ島讃岐国象のテラス貨幣鳥山石燕鳥獣人物戯画鳥羽天皇足利市鹿ケ谷の陰謀麗江市黄金伝説辛棄疾近衛基通近衛天皇近衛家近衛府船弁慶舜天興福寺阿弥陀如来阿骨打蘇州関白薬師如来開封市藤原多子藤原定家藤原定信藤原俊成藤原忠実藤原忠通藤原信頼藤原秀衡藤原頼長藤原顕隆藤原泰衡藤原清衡藤原成親那須那智肥前国蔡京重源金 (王朝)金富軾金峰山長秋詠藻良忍若ヘンリー王雨月物語雲南省耶律大石院近臣院政陸象山陸游陽明学Saku saku林羅山李綱李清照来迎院 (京都市左京区)杭州東大寺東京夢華録東ローマ帝国松広寺村上源氏根来寺栃木県梁塵秘抄梁山泊梶原景時梶原景時の変椿説弓張月検非違使欽宗正三位武士武家政権歴史的城塞都市カルカソンヌ死刑殺生石殿下乗合事件残夢水島の戦い水滸伝永久の変永久の強訴江西省河内源氏治承の大火治承三年の政変治承・寿永の乱法学法住寺合戦法勝寺法然法性寺流清和源氏清涼殿清明上河図源義仲源義経源義親源義親の乱源義朝源為義源為朝源頼家源頼朝源頼政源通親澗松美術館木造教会本朝神社考朱子学朱子語類朱熹明州明菴栄西海上の盟海陵王浄土教浅間山斡啜新古今和歌集新制新義真言宗方臘の乱文学文覚文治の勅許日宋貿易摂家摂津国摂政教会博士教会法教皇扶桑略記曲亭馬琴書家曾我兄弟の仇討ち曾我祐成曾我時致怨霊普遍史12世紀ルネサンス