ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

禁中並公家諸法度

索引 禁中並公家諸法度

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた制定法。禁中并公家中諸法度、禁中竝公家諸法度、禁中方御条目ともいう。.

118 関係: 右大臣名例律吉川弘文館堂上家大坂の陣大御所 (江戸時代)大徳寺大政委任論天子天皇太政大臣女院妙心寺宮家宮中席次官寺官人宇多天皇寺院諸法度寛平御遺誡寛永尊号一件左大臣上人両統迭立万治三条西実条一条兼香平田家二条城二条昭実広橋兼勝以心崇伝征夷大将軍徳川家康徳川秀忠後陽成天皇後水尾天皇律師地下家僧綱僧正和歌出納公家公家領公家法光孝天皇...皇室皇室財産皇位継承知行禁秘抄紫衣紫衣事件群書治要猪熊事件花押鎌倉幕府鎌倉時代順徳天皇養子縁組講談社豊臣政権貞観政要鷹司信尚関ヶ原の戦い関白門跡藤田覚院家橋本政宣武家武家官位武家伝奏武家諸法度江戸幕府江戸時代法印法眼清華家朝廷有職故実成文法戦国時代 (日本)流罪方広寺日野輝資摂家摂政摂政・関白の一覧改元慶長10月 (旧暦)11月17日 (旧暦)12月 (旧暦)1600年1609年1611年1613年1615年1632年1661年1月15日 (旧暦)1月8日2002年2011年2月14日5月16日 (旧暦)6月16日 (旧暦)7月10日 (旧暦)7月17日 (旧暦)7月28日 (旧暦)8月2日9月9日 インデックスを展開 (68 もっと) »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と右大臣 · 続きを見る »

名例律

名例律(みょうれいりつ)は律の編目の1つ。刑事に関する総論を扱う。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と名例律 · 続きを見る »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と吉川弘文館 · 続きを見る »

堂上家

堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。 中級貴族である地下の官人を除く公家を指す。江戸時代末期には137家があった。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と堂上家 · 続きを見る »

大坂の陣

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と大坂の陣 · 続きを見る »

大御所 (江戸時代)

大御所(おおごしょ)とは、江戸幕府において征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍の敬称。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と大御所 (江戸時代) · 続きを見る »

大徳寺

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と大徳寺 · 続きを見る »

大政委任論

大政委任論(たいせいいにんろん)は、江戸幕府が国内支配の正当化のために主張した理論で、将軍は天皇より大政(国政)を委任されてその職任として日本国を統治しているとするものである。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と大政委任論 · 続きを見る »

天子

天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。中国の周王や漢代以降の皇帝、日本の大王・天皇の別号として用いられた。 王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。 皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。密教における十二天の日天子・月天子としても用いられそれらが支配する太陽と月の世界のことを指す。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、聖徳太子は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と天子 · 続きを見る »

天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と天皇 · 続きを見る »

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と太政大臣 · 続きを見る »

女院

女院(にょいん/にょういん)とは、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と女院 · 続きを見る »

妙心寺

妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と妙心寺 · 続きを見る »

宮家

宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族の一家のことである。親王および諸王の家を指すこともある。 宮(みや)とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて住んでいる皇族のことを指すに至った。さらに、親王の身位とともに「○○宮」との称号(宮号)を世襲することが認められる例が生じ、これが「宮家」と呼ばれるものであり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、現行法上はいずれも法的な根拠を持つものではない。「○○宮」の称号は宮家の当主たる(あるいは生前当主であった)親王個人の称号であり、その家族は用いない。 宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家という。 当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家という。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と宮家 · 続きを見る »

宮中席次

宮中席次(きゅうちゅうせきじ)とは、公的な宮中行事における席次のこと。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と宮中席次 · 続きを見る »

官寺

官寺(かんじ)とは、国家の監督を受ける代わりにその経済的保障を受けていた寺院のこと。寺格の一つ。広義では、朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指し、狭義では食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、運営が行われている寺院のことを指す。 一般的には大寺(だいじ・官大寺(かんだいじ))と同義と考えられているが、国分寺・国分尼寺も官寺の定義に該当するため、官寺に含んで考えられる事も多い。また、これよりも小規模な有封寺(有食封寺)・諸寺と言った寺院も存在した。更に皇室の私寺的色彩の強い勅願寺や有力な貴族・豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けた定額寺も官寺に准じて扱われることがある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と官寺 · 続きを見る »

官人

官人(かんにん、かんじん、つかさびと)とは官吏・役人を指す言葉。 律令制では諸司の主典以上六位以下、平安時代には判官以下、特に近衛府の将監以下の官吏を指した。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と官人 · 続きを見る »

宇多天皇

宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と宇多天皇 · 続きを見る »

寺院諸法度

寺院諸法度(じいんしょはっと)は、江戸時代に、江戸幕府が仏教教団に対して定めた諸法度の総称である。ただ、定まった呼称はなく、文献によっては「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)」・「諸宗諸本山法度(しょしゅうしょほんざんはっと)」などの呼称が用いられる事もある。 儒教、とりわけ朱子学を重んじる政策をとった江戸幕府も、その一方で、寺領を安堵し、伽藍の整備をも推進していたが、それと同時に僧侶の統制をはかる目的から、各宗の僧に対して設けられたのが、寺院諸法度である。 禅宗の場合、.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と寺院諸法度 · 続きを見る »

寛平御遺誡

寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)とは、寛平9年7月3日(897年8月4日)に宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた書置。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と寛平御遺誡 · 続きを見る »

寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と寛永 · 続きを見る »

尊号一件

尊号一件(そんごういっけん)とは、日本の江戸時代後期に起きた京都の朝廷と江戸の幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件である。尊号事件ともいう。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と尊号一件 · 続きを見る »

左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と左大臣 · 続きを見る »

上人

上人(しょうにん)とは、仏教における高僧への敬称であり称号。上人号とも。元は『大品般若経』において智徳を備えた人物に対して敬意を払ったものであった。 日本では、貞観6年(864年)に僧位の一つとして置かれた法橋上人の略号であったが、後に民間においても諸国を回って民衆教化にあたった僧に対して「上人」あるいは「聖人」と呼ぶようになった。こうした用い方をされた僧侶の初めは空也であると言われている。 室町時代以後、天皇より上人号の綸旨を受けた者を「上人」と呼ぶ慣習が生まれた。 なお、上人号に用いる名称が宗派によって定まっている宗派がある。浄土宗では下の字に「誉」、浄土真宗では下の字に「如」(ただし本願寺などの法主に対しては綸旨の有無に関わらず上人号が用いられていた)、時宗では下の字に「阿」、日蓮宗では上の字に「日」を用いるのがそれに該当する。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と上人 · 続きを見る »

両統迭立

両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。 日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と両統迭立 · 続きを見る »

万治

万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と万治 · 続きを見る »

三条西実条

三条西 実条(さんじょうにし さねえだ、旧字体:三條西 實條 )は、安土桃山時代から江戸時代初期の公家。三条西家(家格は大臣家)当主。祖父は三条西実枝。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と三条西実条 · 続きを見る »

一条兼香

一条 兼香(いちじょう かねよし/かねか、元禄5年12月16日(1693年1月12日)-寛延4年8月2日(1751年9月21日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇の側近として活躍し、従一位関白左大臣・太政大臣を歴任して14年にわたって朝廷の中枢にあった。「後円成寺」と号する。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と一条兼香 · 続きを見る »

平田家

平田家(ひらたけ)は、中原氏流の地下家の官人。代々蔵人所出納(すいのう)を務め、江戸時代には局務押小路家・官務壬生家に次ぐ地下官人の家格を有した。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と平田家 · 続きを見る »

二条城

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と二条城 · 続きを見る »

二条昭実

二条 昭実(にじょう あきざね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿。関白、准三宮。摂関家二条家の当主。織田信長の養女・実娘を娶ったのをはじめ、豊臣秀吉・徳川家康など天下人との接触が多かった。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と二条昭実 · 続きを見る »

広橋兼勝

広橋 兼勝(ひろはし かねかつ、永禄元年10月23日(1558年12月2日) - 元和8年12月18日(1623年1月18日))は、安土桃山時代、江戸時代初期の公家、歌人。藤原北家日野流、家格は名家で、広橋国光の子。母は高倉永家の娘。兄に日野輝資、弟に日禎(本圀寺16世、常寂光寺開山)がおり、兄が本家筋の日野家を継いだことで兼勝が広橋家の嫡子(跡取り)となった。子に広橋総光(- ふさみつ)、油小路隆基(あぶらのこうじ たかもと)、鷲尾隆量、新遍、観助、広橋局、樋口信孝室、中御門宗保室、裏辻季福室。号は後是称院。一字名は貢。法名は快寂。官位は権大納言(慶長2年叙任)、従一位内大臣(元和4年叙任)。勧修寺光豊とともに江戸幕府初代の武家伝奏(慶長8年(1603年) - 元和5年(1619年))。 慶長8年(1603年)、徳川家康に征夷大将軍の内示を与えた。大坂冬の陣でも両軍の和睦を尽力する。武家伝奏として朝廷と幕府の融和に努め、「出頭無双」といわれその権勢は大きかったが、幕府に譲歩も強いられ「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあったという。 また1609年には、猪熊事件に関与した娘の広橋局が、伊豆新島に配流されている。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と広橋兼勝 · 続きを見る »

以心崇伝

以心崇伝(いしんすうでん、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。本光国師の称は、寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。俗姓は一色氏。徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取った。 起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と以心崇伝 · 続きを見る »

征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と征夷大将軍 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と徳川家康 · 続きを見る »

徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と徳川秀忠 · 続きを見る »

後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と後陽成天皇 · 続きを見る »

後水尾天皇

後水尾天皇(ごみずのおてんのう、文禄5年6月4日(1596年6月29日) - 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) - 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と後水尾天皇 · 続きを見る »

律師

律師(りっし).

新しい!!: 禁中並公家諸法度と律師 · 続きを見る »

地下家

地下家(じげけ)は、昇殿が許されない廷臣の家格。江戸時代には約460余家あった。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と地下家 · 続きを見る »

僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と僧 · 続きを見る »

僧綱

僧綱(そうごう)とは日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と僧綱 · 続きを見る »

僧正

僧正(そうじょう)は、中国の南朝と日本で仏教の僧と尼を統括するために僧侶が任命された官職(僧官)の一つである。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と僧正 · 続きを見る »

和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と和歌 · 続きを見る »

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と唐 · 続きを見る »

出納

出納(すいとう)は、蔵人所の職員の1つで蔵人所の財物の出納をはじめ、一切の庶務を掌った。江戸時代には蔵人方地下人を統括して地下官人としては、弁官局局務・太政官官務とともに「催官人」と呼ばれた。 平安時代には定員3名で蔵人所における出納業務を行ったほか、蔵人所が出す牒・下文・返抄などの文書を蔵人に代わって起草・作成して蔵人とともに連署したことから、学識と事務能力を必要とされ、明法道出身者や官司の事務官出身者が任じられることが多く、また要人などからの推挙も多かった。宇多天皇は退位後に自己の在位中の出納を後院の主典代に任じて事務にあたらせており、天皇とも密接なつながりがあった。ところが、堀河天皇の頃から蔵人に代わって出納が全てを取り仕切り「僭上」とみなされて掣肘が加えられて以後、雑掌的な業務に限定され、地下人が任じられる地位となった。平安時代末期以後は中原氏流の平田家が多く任命されるようになり、途中安倍氏など他氏が任命されることもあったものの、中世後期に入ると平田家による世襲が確立し、明治維新まで世襲することとなった。 一旦は職掌の多くを奪われた出納であったが、朝廷機構の衰微に伴い出納が蔵人所の職務を再び行うようになった。『禁秘抄』には、「蔵人方一切奉行」と記され、蔵人所の運営の実務面で大きな役割を果たしたことが記され、朝廷の各方面に関わるようになる。 平田職忠は舟橋秀賢を学び、有職故実大家として知られ、後陽成天皇にその才能を寵愛され、地下官人では異例の院昇殿が認められた。その頃成立したばかりの江戸幕府は朝廷秩序の回復に関与することで朝廷の統制を行うことを意図しており、朝廷儀式の再興を望む朝廷側との思惑の合致に伴い、地下官人制度の再編が行われた。その結果、局務押小路家が外記方、官務壬生家が官方、そして出納平田家が蔵人方の地下官人を統率して奉行・職事の指示に従って傘下の地下官人を率いて儀式のために必要な事務・雑務を行うことになった(「禁中諸政諸司等作法事」)。この結果、出納は蔵人所以外の図書寮や主水司、内蔵寮など約60家の地下官人を管轄することになった。また、これに伴い平田家の知行高が31石余りに引き上げられて、地下家第3位の地位に上昇した。これは、長年「両局」「地下官人之棟梁」と称せられ、地下官人の支配を一手に引き受けてきた局務押小路家・官務壬生家による地下官人に対する独占的支配を抑制して、朝廷の再興と運営効率化を図りたいとする江戸幕府と朝廷上層部の思惑があったと言われている。 以後、局務・官務・出納はそれぞれの管轄下の地下官人を統率する催官人としてその地位を世襲した。ただし、待遇において出納平田家は職掌面では、「両局」と称せられた局務押小路家・官務壬生家よりも格下の扱いを受け、押小路家・壬生両家は明治維新後は男爵に叙せられたのに対して、平田家はその他の官人と同様の士族として扱われた。とは言え、地下官人としての出納の地位は実務面においては局務・官務とほぼ同様の権限を有しており、今日の近世朝廷研究ではこの時期の地下官人を局務・官務・出納の催官人3家によって統率された「三催」体制であったとされている。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と出納 · 続きを見る »

公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と公家 · 続きを見る »

公家領

公家領(くげりょう)とは、公家(公卿・官人)の所領の総称。広義においては皇室領を含む場合もある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と公家領 · 続きを見る »

公家法

公家法(くげほう)とは、日本の平安後期から江戸期にかけて、公家社会に通用していた法体系。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と公家法 · 続きを見る »

光孝天皇

光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と光孝天皇 · 続きを見る »

勅(ちょく)は、皇帝、天皇の命令、または、その命令が書いてある文書。勅が書いてあるものを勅書(ちょくしょ)と言う。なお、秘密裏に行われるものを密勅(みっちょく)という。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と勅 · 続きを見る »

皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と皇室 · 続きを見る »

皇室財産

皇室財産(こうしつざいさん)は、天皇の家産である。三種の神器など皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣が受けることが皇室経済法第7条に定められている。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と皇室財産 · 続きを見る »

皇位継承

1928年(昭和3年)11月、即位の礼の時の昭和天皇 皇位継承(こういけいしょう)は、一般的に皇位(天皇の位)を皇太子もしくは皇位継承者に譲ることである。諸外国における国王・皇帝の地位を継承を意味する王位継承あるいは帝位継承とほぼ同義語である。大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定された。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と皇位継承 · 続きを見る »

知行

知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。日本の歴史上の領主はヨーロッパの農奴制における領主のように無制限に所領の土地と人民を私有財産として所有したのではなく、徴税権・支配権にかかわる一定の権利義務の体系を所持した存在であった。この体系が知行であり、日本史における領主階層のあり方を理解する上で、知行の概念の理解は欠かせない。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と知行 · 続きを見る »

禁秘抄

『禁秘抄』(きんぴしょう)は、第84代順徳天皇自身の手による有職故実の解説書である。現存するのは、上下二巻の体裁をとっているが本来三部構成であることから三巻であったとされる。成立は1221年(承久3年)である。『禁中抄』(きんちゅうしょう)・『建暦御記』(けんりゃくぎょき)などの別称もある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と禁秘抄 · 続きを見る »

紫衣

紫衣(しい、しえ)は、紫色の衣服である。前近代の日本や中国では、高官が身に付けるべき高貴な色とされた。原則として庶民や低い位の官吏には着用できなかったが、特に許されることがあり、名誉とされた。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と紫衣 · 続きを見る »

紫衣事件

紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立だった。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と紫衣事件 · 続きを見る »

群書治要

群書治要(ぐんしょちよう)は、中国・唐代初期に、治世のための参考書として編まれた書籍である。太宗の奉勅撰。50巻。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と群書治要 · 続きを見る »

猪熊事件

事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と猪熊事件 · 続きを見る »

花押

花押(かおう、華押)は、署名の代わりに使用される記号・符号をいう。 元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の斉(5世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた。世界各地においても、花押の類例(イスラム圏でのトゥグラなど)が見られる。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と花押 · 続きを見る »

鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と鎌倉幕府 · 続きを見る »

鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

新しい!!: 禁中並公家諸法度と鎌倉時代 · 続きを見る »

順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と順徳天皇 · 続きを見る »

養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と養子縁組 · 続きを見る »

講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と講談社 · 続きを見る »

豊臣政権

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。また羽柴氏政権とも言われる。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と豊臣政権 · 続きを見る »

貞観政要

貞観政要(じょうがんせいよう)は、唐代に呉兢呉兢(ごきょう、670年 - 749年)は、唐代の歴史家(中文)。が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。 中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に発刊されてひろまった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と貞観政要 · 続きを見る »

鷹司信尚

鷹司 信尚(たかつかさ のぶひさ、天正18年4月14日(1590年5月17日) - 元和7年11月19日(1621年12月31日))は、江戸時代初期の公卿。父は鷹司信房。母は継室である佐々輝子。兄弟姉妹に鷹司孝子、松平信平、子は鷹司教平、娘(花山院定好室)。後陽成天皇第三皇女の清子内親王は室。従一位。号は景皓院。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と鷹司信尚 · 続きを見る »

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と関ヶ原の戦い · 続きを見る »

関白

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と関白 · 続きを見る »

門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と門跡 · 続きを見る »

藤田覚

藤田 覚(ふじた さとる、1946年6月5日 - )は、日本近世史学者、東京大学名誉教授。長野県生まれ。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と藤田覚 · 続きを見る »

院家

院家(いんげ)とは、.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と院家 · 続きを見る »

橋本政宣

橋本 政宣(はしもと まさのぶ、1943年2月20日 - )は、日本の歴史学者、神職。東京大学名誉教授、船津神社宮司、神社史料研究会代表。近世の朝幕関係、神道史を専門とする。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と橋本政宣 · 続きを見る »

武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と武家 · 続きを見る »

武家官位

武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と武家官位 · 続きを見る »

武家伝奏

武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と武家伝奏 · 続きを見る »

武家諸法度

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法。ここでいう武家とは天和令までは旗本御家人や藩士(幕府からみた陪臣)など広い意味での武家は含まず、大名のことを指す(幕臣については武家諸法度を照応した諸士法度で規定され、天和令において統合された)。 最初は元和元年(1615年)に発布されたもの(元和令)だが、徳川吉宗による享保2年(1717年)の享保令まで改訂が重ねられた。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と武家諸法度 · 続きを見る »

江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と江戸幕府 · 続きを見る »

江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と江戸時代 · 続きを見る »

法印

法印(dharmoddāna, 音訳: 達磨憂檀那)とは、仏教の特徴をあらわすしるしを意味する。法印とされる3つないし4つの経句は三法印、四法印と呼ばれ、中国仏教で経典の仏説・非仏説を識別する判定規準とみなされた。三法印、四法印を構成する教説は初期仏教から存在するが、法印という用語自体は後代に成立したものであり、漢訳語の初出は5世紀の鳩摩羅什と言われる。法印のパーリ語における対応語は現存資料には見出されない。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と法印 · 続きを見る »

法眼

法眼(ほうげん).

新しい!!: 禁中並公家諸法度と法眼 · 続きを見る »

清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と清華家 · 続きを見る »

朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と朝廷 · 続きを見る »

有職故実

有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と有職故実 · 続きを見る »

成文法

成文法(せいぶんほう)とは、権限を有する機関によって文字によって表記される形で制定されている法である。文字による表記がされていないが法として存在する不文法に対置される概念。制定法ともいう。 国民が法を知ることは為政者にとって必ずしも好ましいことではない。国民が自己の権利を主張し、また為政者の理非を知りえることになるからである(十二表法または中国で最初に成文法を定めて公開した子産への批判を参照)。 このような観点から、古代にあっては、為政者は意図的に法の成文化(法典化、codification)を回避した。 しかし、国民の権利というものが意識されるにいたって、法は原則として成文法であるべきとの要請が強くなった。近現代にあっては、一般に、刑罰法規と租税法規はかならず成文法でなくてはならないとの原則が認められている(罪刑法定主義、租税法律主義の一内容)。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と成文法 · 続きを見る »

戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と戦国時代 (日本) · 続きを見る »

流罪

ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と流罪 · 続きを見る »

方広寺

方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と方広寺 · 続きを見る »

日野輝資

日野 輝資(ひの てるすけ、弘治元年(1555年) - 元和9年閏8月2日(1623年9月26日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公家。正二位権大納言。もともとは広橋家の出身であり、初名は広橋 兼保(ひろはし かねやす)または兼潔(かねきよ、別名)といったが、のちに本家筋の日野家を継いでその第28代当主となる。法号より日野 唯心(ひの ゆいしん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と日野輝資 · 続きを見る »

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と摂家 · 続きを見る »

摂政

摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と摂政 · 続きを見る »

摂政・関白の一覧

日本の摂政および関白(摂関)の一覧。 なお、摂政・関白の具体的な職掌などについてはそれぞれの項目を参照のこと。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と摂政・関白の一覧 · 続きを見る »

改元

改元(かいげん)とは、元号を変更すること。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と改元 · 続きを見る »

慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と慶長 · 続きを見る »

10月 (旧暦)

旧暦10月(きゅうれきじゅうがつ)は、旧暦(太陰太陽暦)の年初から10番目の月である。 天保暦よりも前の定義では、小雪を含む月を10月とする。新暦では10月下旬から12月上旬ごろに当たる。 10月の別名は神無月(かんなづき、かみなしづき)、島根県出雲地方においては神在月(または神有月、かみありづき)である。名前の由来は10月を参照のこと。 東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、10月29日までで10月30日は存在しない年もある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と10月 (旧暦) · 続きを見る »

11月17日 (旧暦)

旧暦11月17日は旧暦11月の17日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と11月17日 (旧暦) · 続きを見る »

12月 (旧暦)

旧暦12月(きゅうれきじゅうにがつ)は、太陰太陽暦である中国、日本の旧暦の年初から12番目の月である。 天保暦よりも前の和暦などでは、大寒を含む月を12月とする。グレゴリオ暦では12月下旬から2月上旬ごろに当たる。東洋の太陰太陽暦では月の日数である大小(大月30日、小月29日)が年により異なるため、月の末日が29日である年もある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と12月 (旧暦) · 続きを見る »

1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1600年 · 続きを見る »

1609年

記載なし。

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1609年 · 続きを見る »

1611年

記載なし。

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1611年 · 続きを見る »

1613年

記載なし。

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1613年 · 続きを見る »

1615年

記載なし。

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1615年 · 続きを見る »

1632年

記載なし。

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1632年 · 続きを見る »

1661年

記載なし。

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1661年 · 続きを見る »

1月15日 (旧暦)

旧暦1月15日は旧暦1月の15日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1月15日 (旧暦) · 続きを見る »

1月8日

1月8日(いちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から8日目に当たり、年末まであと357日(閏年では358日)ある。誕生花はアザレア。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と1月8日 · 続きを見る »

2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と2002年 · 続きを見る »

2011年

この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と2011年 · 続きを見る »

2月14日

2月14日(にがつじゅうよっか、にがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から45日目にあたり、年末まであと320日(閏年では321日)ある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と2月14日 · 続きを見る »

5月16日 (旧暦)

旧暦5月16日は旧暦5月の16日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と5月16日 (旧暦) · 続きを見る »

6月16日 (旧暦)

旧暦6月16日は旧暦6月の16日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と6月16日 (旧暦) · 続きを見る »

7月10日 (旧暦)

旧暦7月10日(きゅうれきしちがつとおか)は、旧暦7月の10日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と7月10日 (旧暦) · 続きを見る »

7月17日 (旧暦)

旧暦7月17日は、旧暦7月の17日目である。六曜は大安である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と7月17日 (旧暦) · 続きを見る »

7月28日 (旧暦)

旧暦7月28日は旧暦7月の28日目である。六曜は仏滅である。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と7月28日 (旧暦) · 続きを見る »

8月2日

8月2日(はちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から214日目(閏年では215日目)にあたり、年末まではあと151日ある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と8月2日 · 続きを見る »

9月9日

9月9日(くがつここのか)はグレゴリオ暦で年始から252日目(閏年では253日目)にあたり、年末まであと113日ある。.

新しい!!: 禁中並公家諸法度と9月9日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

公家諸法度禁中并公家中諸法度禁中方御条目禁中竝公家諸法度

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »