ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

985年

索引 985年

記載なし。

54 関係: 大理国天台宗天福 (前黎朝)女御契丹対立教皇寛和尊子内親王中国中興 (于闐)干支平安時代乙酉仏滅紀元徽子女王北宋マイセン辺境伯ハーキムユダヤ暦リクダックボニファーチオ・ディ・カノッサボニファティウス7世 (対立教皇)トスカーナの支配者一覧ファーティマ朝ホータン王国ベトナムカリフ円融天皇公卿前黎朝皇族神武天皇即位紀元統和藤原兼隆良源雍熙歌人永観朝鮮明政 (大理)斎院日本1021年1052年1053年1月26日1月3日 (旧暦)5月24日5月2日 (旧暦)...7月20日912年929年966年 インデックスを展開 (4 もっと) »

大理国

大理国(だいりこく、dàlǐguó)は、937年に白蛮(チベット系のペー族)出身の段思平が南詔(およびその後継国家の大長和、大天興、大義寧)にかわって樹立した国家。現在の雲南地方を主たる領域として統治していた。集権的ではなく、君主権はそれ程強くなかったと考えられている。 1094年、高昇泰は段氏の皇帝を廃し、国号を大中、元号を上治と改め、自ら皇帝として即位した。しかし、1096年、臨終を迎えた高昇泰は、息子のに、政権を段氏に返すよう遺言した。この中断より後の大理国は「後大理国」とも呼ばれる。 君主は終始国内的には皇帝号を称していたが、後大理国時代の1117年に北宋より「雲南節度使大理国王」に冊封もされ、対外称号と国内称号を使い分けている。1253年にモンゴル帝国の雲南・大理遠征を受けると、翌年大理はモンゴル帝国に降伏。クビライがモンゴル帝国第5代皇帝となると、その地はクビライの庶子・フゲチに与えられ、雲南王国となった(のち梁王国と改称)。大理の旧主の段一族はフゲチとその子孫に仕え、子女を梁王家に嫁がせて、この地における支配階級の一員「大理総管」としての地位を保ち続けた。1390年に明がこの梁王国を滅ぼした際、段一族は梁王家を裏切って明に取り入り大理国の復活を目論んだが、その領内にあった当時東アジアでも有数の銀山に目をつけていた洪武帝は段氏による王国復活を認めず、この地は漢唐以来隔絶していた中原政権に併合され、雲南全境の独立国家の歴史はここに終った。 首都は大理。.

新しい!!: 985年と大理国 · 続きを見る »

天台宗

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる - コトバンク/世界大百科事典。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。.

新しい!!: 985年と天台宗 · 続きを見る »

天福 (前黎朝)

天福(てんふく)はベトナムの前黎朝で使用された元号。980年 - 988年。.

新しい!!: 985年と天福 (前黎朝) · 続きを見る »

女御

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.

新しい!!: 985年と女御 · 続きを見る »

契丹

宋代に描かれた契丹人の絵 契丹(きったん、キタン、キタイ、)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中華人民共和国に相当する地域の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。.

新しい!!: 985年と契丹 · 続きを見る »

対立教皇

対立教皇(たいりつきょうこう、Antipapa、Antipope)は、キリスト教の歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。 通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。.

新しい!!: 985年と対立教皇 · 続きを見る »

寛和

寛和(かんな)は、日本の元号の一つ。永観の後、永延の前。985年から987年までの期間を指す。この時代の天皇は花山天皇、一条天皇。.

新しい!!: 985年と寛和 · 続きを見る »

尊子内親王

尊子内親王(そんしないしんのう、康保3年(966年) - 永観3年5月2日(985年5月24日))は、第63代冷泉天皇の第2皇女。母は女御・藤原懐子。賀茂斎院、のち第64代円融天皇妃。別名火の宮、承香殿女御。同母弟に花山天皇。.

新しい!!: 985年と尊子内親王 · 続きを見る »

中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

新しい!!: 985年と中国 · 続きを見る »

中興 (于闐)

中興(ちゅうこう)は、于闐の尉遅達磨の治世で使用された元号。978年? - 985年?。 中興は敦煌で発券された于闐語文書の中に確認される。孟凡人によれば尉遅達磨が使用した中興は元年から5年(978年-982年)とし、在位期間の下限を985年と考察し、本項目もこれに依拠している。しかし蒲本立は元号使用期間を978年-982年頃と、哈密屯則は978年-982(若しくは986年頃)とする説も提出されており、定説が確立するに至っていない。.

新しい!!: 985年と中興 (于闐) · 続きを見る »

干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

新しい!!: 985年と干支 · 続きを見る »

平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

新しい!!: 985年と平安時代 · 続きを見る »

乙酉

乙酉(きのととり、いつゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの22番目で、前は甲申、次は丙戌である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の酉は陰の金で、相剋(金剋木)である。.

新しい!!: 985年と乙酉 · 続きを見る »

仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

新しい!!: 985年と仏滅紀元 · 続きを見る »

徽子女王

徽子女王(きし(よしこ)じょおう、延長7年(929年) - 寛和元年(985年))は平安時代中期の皇族、歌人。式部卿宮・重明親王の第1王女(醍醐天皇の皇孫)。母は藤原忠平の次女・寛子。朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御と称され、また承香殿女御、式部卿の女御とも称された。三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人。.

新しい!!: 985年と徽子女王 · 続きを見る »

北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

新しい!!: 985年と北宋 · 続きを見る »

マイセン辺境伯

アルブレヒト城および大聖堂 マイセン辺境伯(Markgraf von Meißen)は、中世ドイツの有力な諸侯及びその称号の一つ。その領邦は現在のザクセン州の一部にあたる。.

新しい!!: 985年とマイセン辺境伯 · 続きを見る »

ハーキム

ハーキム(アラビア語:الحاكم بأمر الله al-Hākim bi-Amr Allāh, 985年 - 1021年2月13日)は、エジプトを支配するファーティマ朝の第6代カリフ(在位:996年10月14日 - 1021年2月13日)。第5代カリフ、アズィーズの子。冷酷な専制君主にして公正な名君であり、数々の奇行で名を残すなど、イスラム世界の歴史のうちでも特に際立った個性の持ち主として知られる。.

新しい!!: 985年とハーキム · 続きを見る »

ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

新しい!!: 985年とユダヤ暦 · 続きを見る »

僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

新しい!!: 985年と僧 · 続きを見る »

リクダック

リクダック(RikdagまたはRicdag, ? - 985年)は、10世紀、ザクセン地方の辺境伯。ヴェッティン家出身とされる。978年からマイセン辺境伯、982年からはメルゼブルクならびにツァイツの辺境伯も兼ねた。彼の娘(名前不詳)は、ポーランド王ボレスワフ1世に嫁いだが、軍事的な思惑から、この婚姻関係は短期間で終わった。.

新しい!!: 985年とリクダック · 続きを見る »

ボニファーチオ・ディ・カノッサ

ボニファーチオ・ディ・カノッサ(Bonifacio di Canossa, 985年 - 1052年5月6日)は、カノッサ伯(在位:1012年頃 - 1052年)、トスカーナ辺境伯(4世)(在位:1027年 - 1052年)。カノッサ家(Canossiana)出身で、神聖ローマ帝国期の有力な領主の一人であり、レッジョ、モデナ、マントヴァ、フェラーラを支配した。 ボニファーチオは、ランゴバルド族の家系のアダルベルト・アットー (Adalberto Atto) またはアットーネ (Attone) の孫であり、アダルベルトの子テダルド・ディ・カノッサとその妻ウィラ(ボゾン家トスカーナ辺境伯の出身ともされる)との間の次男である。兄テダルトはアレッツォ司教となり、弟コッラードはロンバルディアの伯らとともにボニファーチオと対立したのち1030年死去した。 ボニファーチオは常に神聖ローマ皇帝を支持し、1014年、ロンバルディア領主による皇帝ハインリヒ2世への反乱を鎮圧した。1026年には、皇帝コンラート2世がイタリア王となるためアキテーヌ公ギヨーム5世と争った際に、ボニファーチオはコンラートに加勢した。これにより翌1027年にボニファーチオはトスカーナ辺境伯位を与えられた。ボニファーチオはまた1034年6月のブルグント王国継承に関する皇帝コンラート2世とブロワ伯ウード2世との戦いにおいても皇帝側で参戦している。一方で、強大化したボニファーチオの勢力に対し、皇帝は圧力を加えた。 1056年5月6日、マントヴァ近くのサン・マルティーノ・アッラルジーネの狩りの途中で暗殺された。暗殺者はオパルマのスカルペッタ・デ・カネヴァリと言われており、暗殺の黒幕は皇帝ハインリヒ3世ともされている。マントヴァに埋葬された。.

新しい!!: 985年とボニファーチオ・ディ・カノッサ · 続きを見る »

ボニファティウス7世 (対立教皇)

ボニファティウス7世(Bonifatius VII、? - 985年7月20日)は、対立教皇(在位:974年、984年 - 985年)。本名はフランコ・フェルッキ(Franco Ferrucci)。 ボニファティウス7世は974年のローマ教皇ベネディクトゥス6世の死に関わったとされている。教皇として即位宣言するも、ローマ市民の蜂起によりコンスタンティノープルへ逃亡せざるをえなくなった。逃亡の際には多量の財宝を持ち出した。 984年4月にローマへ帰還。ローマ市民から反感を買っていた教皇ヨハネス14世をサンタンジェロ城に幽閉したうえ、同年8月20日に死亡させる。しかし2度目の治世も短く、翌985年には殺害された。次の教皇はヨハネス15世が即位した。 かつてボニファティウス7世は対立教皇と考えられておらず、正式には7番目となる「教皇ボニファティウス」はボニファティウス8世を名乗ることとなった。 ほにふあていうす07 ほにふあていうす07.

新しい!!: 985年とボニファティウス7世 (対立教皇) · 続きを見る »

トスカーナの支配者一覧

フィレンツェおよびトスカーナの支配者の一覧。括弧内は在位年。.

新しい!!: 985年とトスカーナの支配者一覧 · 続きを見る »

ファーティマ朝

ファーティマ朝(アラビア語: الدولة الفاطمية al-Dawla al-Fātimīya)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909年 - 1171年)。その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。 ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期にはイベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したのでイスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。.

新しい!!: 985年とファーティマ朝 · 続きを見る »

ホータン王国

紀元前1世紀の西域諸国。 ホータン王国(ガンダーラ語:コータンナ、Kingdom of Khotan)はシルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)。コータン王国とも書かれる。.

新しい!!: 985年とホータン王国 · 続きを見る »

ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

新しい!!: 985年とベトナム · 続きを見る »

カリフ

イスラム世界で承認された最後のカリフ、アブデュルメジト2世 カリフ(Caliph)あるいはハリーファ(خليفة khalīfa) は、預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体、イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号である。.

新しい!!: 985年とカリフ · 続きを見る »

円融天皇

円融天皇(えんゆうてんのう、天徳3年旧3月2日(959年4月12日) - 正暦2年旧2月12日(991年3月1日); 在位:安和2年旧9月23日(969年11月5日) - 永観2年旧8月27日(984年9月24日))は、第64代天皇。諱は守平(もりひら)。 村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。.

新しい!!: 985年と円融天皇 · 続きを見る »

公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

新しい!!: 985年と公卿 · 続きを見る »

前黎朝

黎朝(レちょう、れいちょう、、980年 - 1009年)は、ベトナム北部を支配した王朝。首都は華閭(ホアルウ、現在のニンビン省に位置する)。15世紀に黎利が建国した黎朝と区別して、前黎朝()と呼ばれている。.

新しい!!: 985年と前黎朝 · 続きを見る »

皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

新しい!!: 985年と皇族 · 続きを見る »

神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

新しい!!: 985年と神武天皇即位紀元 · 続きを見る »

統和

統和(とうわ)は、遼(契丹)の聖宗耶律文殊奴の治世に使用された元号。983年 - 1012年。.

新しい!!: 985年と統和 · 続きを見る »

藤原兼隆

藤原 兼隆(ふじわら の かねたか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白右大臣・藤原道兼の次男。官位は正二位・中納言。.

新しい!!: 985年と藤原兼隆 · 続きを見る »

良源

良源(りょうげん、延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日))は、平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。 また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。.

新しい!!: 985年と良源 · 続きを見る »

雍熙

雍熙(ようき)は、宋の太宗趙炅の治世に行われた2番目の年号。984年 - 987年。.

新しい!!: 985年と雍熙 · 続きを見る »

歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

新しい!!: 985年と歌人 · 続きを見る »

永観

永観(えいがん、えいかん)は、日本の元号の一つ。天元の後、寛和の前。983年から985年までの期間を指す。この時代の天皇は円融天皇、花山天皇。.

新しい!!: 985年と永観 · 続きを見る »

朝鮮

統一旗 朝鮮(ちょうせん、チョソン、조선)は、朝鮮半島および済州島、巨文島、鬱陵島など周囲の島嶼・海域を併せた地域を表す呼称。ユーラシア大陸の東端に位置し、北西に中華人民共和国、北東にロシア、南東に対馬海峡西水道(朝鮮海峡)を隔てて日本と隣接する。 この地の全域を、大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も共に自国の領土に定めており、両国の領土は完全に一致重複している。しかし現実は朝鮮戦争以降、軍事境界線(38度線)を境に北半部は北朝鮮が、南半部は韓国が実効支配している。.

新しい!!: 985年と朝鮮 · 続きを見る »

明政 (大理)

明政(めいせい)は、中国の大理国の段素順の時代に使用された元号。969年 - 985年。 明政への改元時期を巡っては、胡氏の『野史』では970年としているが、「大理国三十七部会盟碑」の「明政三年歳次辛未」という記録より推定される969年を採用した。.

新しい!!: 985年と明政 (大理) · 続きを見る »

斎院

斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女で、伊勢神宮の斎宮と併せて斎王(斎皇女)という。斎王の御所を指すこともある。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。 賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。.

新しい!!: 985年と斎院 · 続きを見る »

日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

新しい!!: 985年と日本 · 続きを見る »

1021年

記載なし。

新しい!!: 985年と1021年 · 続きを見る »

1052年

記載なし。

新しい!!: 985年と1052年 · 続きを見る »

1053年

記載なし。

新しい!!: 985年と1053年 · 続きを見る »

1月26日

1月26日(いちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から26日目に当たり、年末まであと339日(閏年では340日)ある。.

新しい!!: 985年と1月26日 · 続きを見る »

1月3日 (旧暦)

旧暦1月3日(きゅうれきいちがつみっか)は旧暦1月の3日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: 985年と1月3日 (旧暦) · 続きを見る »

5月24日

5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。誕生花はムギワラギク。.

新しい!!: 985年と5月24日 · 続きを見る »

5月2日 (旧暦)

旧暦5月2日(きゅうれきごがつふつか)は旧暦5月の2日目である。六曜は赤口である。.

新しい!!: 985年と5月2日 (旧暦) · 続きを見る »

7月20日

7月20日(しちがつはつか、しちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から201日目(閏年では202日目)にあたり、年末まであと164日ある。誕生花はナス、ルコウソウ。.

新しい!!: 985年と7月20日 · 続きを見る »

912年

記載なし。

新しい!!: 985年と912年 · 続きを見る »

929年

記載なし。

新しい!!: 985年と929年 · 続きを見る »

966年

記載なし。

新しい!!: 985年と966年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »