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1202年

索引 1202年

記載なし。

117 関係: 南宋史天沢壬戌天嘉宝祐天禧 (西遼)天資嘉瑞天慶 (西夏)太皇太后守覚法親王官人宗性寂蓮小槻広房島津忠時島津氏干支平安時代乳母二条天皇仏滅紀元建仁建仁寺征夷大将軍御家人ミェシュコ3世ノルウェー君主一覧マティルド・ド・ダンマルタンチンギス・カンポーランド王国モンゴル帝国ユダヤ暦ブローニュ=シュル=メールヒジュラ暦フィリップ2世 (フランス王)嘉泰 (宋)アフォンソ3世 (ポルトガル王)ジョン (イングランド王)スヴェレ・シグルツソンタタール円爾公卿元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)皇后皇族神宗 (高麗王)神武天皇即位紀元...稲庭時定竹御所第4回十字軍鎌倉幕府鎌倉時代西夏西遼高麗高麗王軍人近衛天皇藤原多子藤原頼経藤原成経藤原成頼臨済宗金 (王朝)李朝 (ベトナム)東大寺檀君紀元正室武将歌人比企尼の三女毛利季光泰和 (金)源義重源頼家源通親漢人明宗 (高麗王)10月15日 (旧暦)10月21日 (旧暦)1114年1121年1131年1136年1139年1140年1149年1150年1156年11月1日11月7日1204年1234年1247年1260年1272年1275年1278年1280年12月24日 (旧暦)1月14日 (旧暦)1月19日2月8日2月8日 (旧暦)3月13日3月19日 (旧暦)3月3日4月13日6月15日 (旧暦)7月20日 (旧暦)7月6日8月26日 (旧暦)8月9日9月13日 インデックスを展開 (67 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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史天沢

史 天沢(し てんたく、1202年 - 1275年)は、モンゴル帝国(元朝)に仕えた漢人軍閥の1人である。字は潤和。史秉直の次男で、史天倪の弟。子に史格。 華北の漢人軍閥で、父は史秉直といい、真定(河北省正定県付近)地方に勢力を誇った軍閥である。史家は金王朝に仕えていたが、金がモンゴルの攻勢に押された上に内紛を繰り返したことから、1213年にチンギス・カンの有力武将・ムカリに降伏して以後はモンゴルの家臣となった。兄の史天倪と共に各地を転戦して武功を挙げたが、その兄が1225年、金の軍閥である武仙を降伏させた直後、今度は南宋と内通した武仙によって殺害されたため、史天沢は武仙を討って兄の後を継いで都元帥となる。以後は漢人軍閥の重鎮として華北の漢人軍閥を率いて、金討伐でも功績を立てた。 モンゴル・南宋戦争が始まると、華北に所領を与えられたクビライと誼を通じた。しかし第4代ハーンであるモンケの時代には、モンケとその党派による漢人排斥の動きなどから弾圧され、不遇であった。モンケの死後、クビライとアリクブケとの間に争いが起こると(アリクブケの乱)、クビライに味方してその擁立に大きく貢献した。1262年2月にはその継承争いの最中に山東地方の漢人軍閥である李璮(りたん)の反乱が起こるが、史天沢はこれに呼応せず、むしろ鎮圧に功績を立てた。李璮討伐のためにモンゴル王族カピチ(親王 哈必赤:ジョチ・カサル家の王族か?)が史天沢は幕僚として扈従しこれを輔佐した。『元史』巻二百六 叛臣列伝の李璮の条によると、李璮が捕縛されて討伐軍の司令であった王族カピチの帳幕の前に引き出されたが、史天沢は「宜しく即ちに之を誅し、以て人心を安んず。」と言って、李璮は直ちに誅殺されたという。 クビライが第5代のハーンに即位すると、宰相に任じられて漢人の軍閥解体と華北の再編、漢人の人材推挙やモンゴルの漢化政策などで多くの功績を立てた。1268年から本格的に始まった南宋攻略戦である襄陽の戦いでは、アジュと共に将軍の1人として参戦した。南宋の名将・呂文煥の抵抗には手を焼き、足かけ5年を費やしたが、投石器の攻撃などで襄陽の重要な支城である樊城を陥落させ、そして呂文煥の妻子を使った調略により(呂文煥は襄陽の兵糧問題から妻子を城外に追い出していたが、史天沢はそれを保護していた)、1273年には呂文煥とその軍勢を投降させるという大功を立てた。 1274年、クビライより南宋攻略の大軍を率いる総司令官に任命されたが、高齢のためにまもなく病に倒れた。このため、クビライにバヤンを総司令官にするように推挙した。1275年に死去。享年74。 クビライはその死を惜しみ、鎮陽王に封じた。子の史格が後を継ぎ、史家は元王朝を支える名門貴族として続くことになる。 『元史』巻百五十五に列伝がある。.

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壬戌

壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの59番目で、前は辛酉、次は癸亥である。陰陽五行では、十干の壬は陽の水、十二支の戌は陽の土で、相剋(土剋水)である。.

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天嘉宝祐

天嘉宝祐(てんかほうゆう、Thiên Gia Bảo Hựu、ティエンザーバオフー)は、ベトナム・李朝の高宗李龍𣉙の治世で使われた元号。1202年旧8月 - 1205年旧3月。天資宝祐にも作る。.

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天禧 (西遼)

天禧(てんき)は、西遼の末主耶律直魯古の治世に使用された元号。使用年代には異説があり、1178年 - 1211年説及び1168年 - 1201年説がある。.

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天資嘉瑞

天資嘉瑞(てんしかずい、Thiên Tư Gia Thụy, ティエントゥーザートゥイ)は、ベトナム・李朝の高宗李龍𣉙の治世で使われた元号。1186年旧7月 - 1202年旧8月。.

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天慶 (西夏)

天慶(てんけい)は、西夏の桓宗の治世で用いられた元号。1194年 - 1205年。.

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太皇太后

太皇太后(たいこうたいごう、Grand Empress Dowager)は、先々代の帝王の正妻(皇后)もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称である。.

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守覚法親王

守覚法親王(しゅかくほっしんのう、久安6年3月4日(1150年4月3日) - 建仁2年8月26日(1202年9月13日))は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての皇族・僧。父は後白河天皇。母は藤原季成の娘・成子。真言宗仁和寺第6世門跡。 永暦元年(1160年)、覚性入道親王に師事して出家、仁安3年(1168年)には伝法灌頂を受けている。翌嘉応元年(1169年)、覚性入道親王が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任した。高倉天皇の第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈祷を行っている。小野流・広沢流両流の法を受けた。建仁2年(1202年)、仁和寺喜多院で死去。 和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『北院御日次記』という日記も記した。また、平基親の『官職秘抄』は彼のために書かれたと言われている。 『平家物語』『源平盛衰記』の「経正都落」条に、平経正が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、別れを惜しみ歌を交わした記事が残る。 Category:日本の親王 Category:平安時代の男性皇族 Category:鎌倉時代の男性皇族 Category:真言宗の僧 Category:真言宗御室派 Category:平安時代の僧 Category:鎌倉時代の僧 Category:平安時代の歌人 Category:鎌倉時代の歌人 Category:1150年生 Category:1202年没.

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官人

官人(かんにん、かんじん、つかさびと)とは官吏・役人を指す言葉。 律令制では諸司の主典以上六位以下、平安時代には判官以下、特に近衛府の将監以下の官吏を指した。.

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宗性

宗性(そうしょう、建仁2年(1202年)- 弘安元年6月8日(1278年6月29日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての東大寺の僧。父は藤原隆兼。.

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寂蓮

寂蓮(じゃくれん、1139年(保延5年)? - 1202年8月9日(建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶である。俗名は藤原定長。.

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小槻広房

小槻 広房(おづき の ひろふさ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての官人。左大史・小槻永業の子。官位は正五位下・左大史。永業の系統である大宮家の実質上の始祖とされている。.

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島津忠時

島津 忠時(しまづ ただとき)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将。島津氏の2代当主。父は初代当主・島津忠久。母は畠山重忠の娘(異説あり)。鎌倉幕府御家人。初名は忠義。のちに忠時に改名する。.

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島津氏

島津氏(しまづし)は、日本の氏族。鎌倉時代から江戸時代まで続いた、薩摩を根拠地とする大名家のほかに、多数の分家がある。通字に「忠」「久」(初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」)を用いる。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。本項は主に、薩摩の島津氏を主軸とした記述である。その他の島津氏についてはそれぞれ越前島津氏、信濃島津氏、若狭島津氏、江州島津氏などの項目または島津氏族の段を参照の事。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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乳母

乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。.

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二条天皇

二条天皇(にじょうてんのう、康治2年6月18日(1143年7月31日) - 永万元年7月28日(1165年9月5日))は第78代天皇(在位:保元3年8月11日(1158年9月5日) - 永万元年6月25日(1165年8月3日))。諱は守仁(もりひと)。 後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子。.

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仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

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建仁

建仁(けんにん)は、日本の元号の一つ。正治の後、元久の前。1201年から1203年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼家、源実朝、執権は北条時政。.

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建仁寺

建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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ミェシュコ3世

ミェシュコ3世スタルィ(Mieszko III Stary, 1121年? - 1202年3月13日)は、ポーランド大公(在位:1173年 - 1177年、1191年 - 1194年、1198年 - 1199年、1202年)。ボレスワフ3世と2度目の王妃の4男として生まれた。ヴワディスワフ2世の異母弟、ボレスワフ4世の同母弟、ヘンリク、カジミェシュ2世の同母兄。 長命であったことから老公(Stary)と呼ばれた。ヴィエルコポルスカ・ピャスト家の祖。.

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ノルウェー君主一覧

ノルウェー君主一覧(ノルウェーくんしゅいちらん)では、過去にノルウェーを支配した君主を掲げる。 王位継承は、1990年の憲法改正より最長子相続制をとっている。.

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マティルド・ド・ダンマルタン

マティルド・ド・ダンマルタン(Mathilde de Dammartin)またはマティルド(2世)・ド・ブローニュ(Mathilde (II) de Boulogne, 1202年 - 1259年)は、ブローニュ女伯(在位:1216年 - 1259年)。名はマオー(Mahaut)とも呼ばれる。1248年にポルトガル王となったアフォンソ3世と結婚し、ポルトガル王妃にもなった。ポルトガル語名はマティルデ・デ・ボロニャ(Matilde de Bolonha)。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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ブローニュ=シュル=メール

ブローニュ=シュル=メール(Boulogne-sur-Mer)は、フランス北部に形成された、ドーバー海峡に面した都市である。オー=ド=フランス地域圏パ=ド=カレー県に属する。ここでは、ビュー・ブローニュと呼ばれるチーズが生産されていることで知られている。.

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ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

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フィリップ2世 (フランス王)

フィリップ2世(Philippe II, 1165年8月21日 - 1223年7月14日)は、フランス・カペー朝第7代の王(在位:1180年 - 1223年)。ルイ7世と妃でシャンパーニュ伯ティボー2世の娘アデルの子。フランス最初の偉大な王と評価され、尊厳王(オーギュスト、Auguste)と呼ばれた。 父の死により15歳で即位し、当初は舅であるエノー伯ボードゥアン5世の摂政下にあったが、間もなく親政を始めた。エノー伯やシャンパーニュ伯などの強力な北部諸侯を抑え、婚姻政策によりヴァロワなどを得た。さらに、イングランド王家で欠地王ジョン王のフランス南部に広大な領地を有するプランタジネット家との抗争に勝利し、その大陸領土の大部分をフランス王領に併合した他、アルビジョア十字軍を利用して、王権をトゥールーズ、オーヴェルニュ、プロヴァンスといったフランス南東部から神聖ローマ帝国領にまで及ぼした。この結果、フランス王権は大いに強まり、フランスはヨーロッパ一の強国となった。.

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嘉泰 (宋)

嘉泰(かたい)は、中国・南宋の寧宗の治世に使用された元号。1201年 - 1204年。.

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アフォンソ3世 (ポルトガル王)

アフォンソ3世(Afonso III、1210年5月5日 - 1279年2月16日)は、第5代ポルトガル王(在位:1248年 - 1279年)。アフォンソ2世と王妃でカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ウラカ・デ・カスティーリャの次男で、第4代ポルトガル王サンシュ2世の弟。 1248年のアフォンソ3世の即位から1348年のペスト大流行に至るまでの100年は、ポルトガル史上重要な時代の一つに数えられているマルケス、P105。。アフォンソ即位前のポルトガル王国は形式上はカスティーリャ王国と主従関係に置かれていたが、アフォンソ3世は即位するとカスティーリャと友好的な関係を構築して従属関係を打ち消し、ポルトガルは完全な独立により近づいたマルケス、P106。。.

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ジョン (イングランド王)

ョン(John, King of England、1167年12月24日 - 1216年10月18日または19日)は、プランタジネット朝(アンジュー朝)第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの末子。ヘンリー2世が幼年のジョンに領土を与えなかったことから、欠地王(けっちおう、John Lackland)と呼ばれる(領地を大幅に失ったため失地王という日本語表記も見られるが、前述の通りLostlandでは無いので間違いである)。.

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スヴェレ・シグルツソン

ヴェレ・シグルツソン(またはスヴェレ・シグルソン、スヴェッレとも。Sverre Sigurdsson。古ノルド語表記ではスヴェッリル・シグルザルソン(Sverrir Sigurðarson)。1149年 - 1202年3月9日)は、ノルウェーの国王(在位:1177年 - 1202年)。.

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タタール

18世紀のタタールの女性 タタール(Tatar)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系およびサモエード系とフィン=ウゴル系の一部など様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族総称である。日本では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。.

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円爾

円爾(えんに、建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

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元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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神宗 (高麗王)

宗(しんそう、1144年8月11日 - 1204年2月15日)は第20代高麗王(在位 1197年 - 1204年)。姓は王、諱は晫、初名は旼、諡号は敬恭靖孝大王。仁宗の第5子。妃は江陵公金温の娘・宣靖太后。第34代で最後の王である恭譲王は、神宗の次男の襄陽公・王恕の6代あとの子孫にあたる。.

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神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

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稲庭時定

庭 時定(いなば ときさだ、生年不詳 - 建仁2年2月8日(1202年3月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての若狭国の在庁官人。本姓は中原氏。子に時国がある。遠敷郡太良荘稲葉を本拠とし「稲庭権守」と号した。中原時定とも記される。 平安後期より若狭国衙において有力な地位を占めた中原氏一門の中心的存在であり、在庁官人の筆頭(在国司)として若狭国内に強い勢力を持った。承安4年(1174年)、時定の支配する三方郡三河浦を経由して京に運ばれる公納物に対し津料を課すなどの濫行を働いたとして伯耆国の長講堂領久永御厨が訴訟を起こしたことが『吉記』にみえている。 また、治承4年(1180年)11月に近江国で反平家勢力による一斉蜂起(近江攻防)が起きると、これに加担する動きをみせた「若狭国有勢之在庁」(『玉葉』)とは時定を指すものと比定されている。 しかし、建久7年(1196年)8月、突如源頼朝の勘気を蒙り同族の和久里時継らと共に所領を没収され失脚した。翌月には時定の所領が東国御家人である津々見忠季に与えられ、若狭における鎌倉幕府の影響力は強大なものとなった。 失脚から6年後の建仁2年(1202年)、「渇命所」として返還されていた遠敷郡西津荘にて死去。.

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竹御所

竹御所(たけのごしょ、建仁2年(1202年) - 天福2年7月27日(1234年8月23日))は、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府第2代将軍源頼家の娘。位記の名は鞠子。妙本寺の寺伝よれば媄子(よしこ)。一幡の同母妹、公暁、栄実の異母妹、禅暁とは異母兄妹(もしくは異母姉弟)と考えられている。.

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第4回十字軍

4回十字軍(だいよんかいじゅうじぐん、1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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西夏

西夏(せいか、西夏文字: 、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされた。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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高麗王

麗の創設者、王建 高麗王(こうらいおう)ここで挙げる王とは王位についた者を意味し、時代によって異なるが冊封を受けた意味でなく記録上にある王名を挙げている。具体的には上記に追封と記述された王の場合には、単に追尊でなく、謀反による反逆、譲位の場合もあり、この場合は冊封された王ではないが王として挙げた。王名は廟号を用いる場合もあるが、ここでは諱で列記した。は、高麗(918年 - 1392年)の国王で、姓は王氏。各王の詳細は以下の表で王名(諱)を参照。.

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軍人

大日本帝国陸軍の軍人と軍旗1931年(昭和6年) 軍人(ぐんじん)は、当該国家の正規の軍事組織に所属し、正規の軍事訓練を受け、国家により認められた階級を与えられた者を指す。軍人は国際法上交戦権として、敵対勢力を破壊する権利を持つ。また敵対勢力に投降した場合には、捕虜として基本的人権が保障されている。 文民や民間人の対義語として用いられ、軍人としての籍のことを兵籍・軍籍などといい、軍人としての履歴を軍歴という。軍属は原則として、文官(雇員・傭人等を含む。)であり軍人とは異なる。また、武官は軍人のうち、官吏でもある職業軍人を指し、徴兵された者は含まない。英語ではsoldierは通常陸軍軍人のみを指し、海軍、空軍、海兵隊の軍人はそれぞれseaman(またはsailor)、airman、marineという。全軍の軍人の総称としてはMilitary personnel、ラテン語ではmiles(ミーレス)という。 なお、自衛隊は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた日本国憲法第九条に従い、自衛のための必要最低限の実力組織と定義されているが、中山太郎外務大臣が国会答弁で「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の厳しい制約を課せられております。通常の観念で考えられます軍隊ではありませんが、国際法上は軍隊として取り扱われておりまして、自衛官は軍隊の構成員に該当いたします」と述べているように、諸外国における軍人にあたる自衛官は国際法上は軍隊の構成員(軍人)と扱われるとされる。.

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近衛天皇

近衛天皇(このえてんのう、旧字体:近衞、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。 鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。.

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藤原多子

藤原 多子(ふじわら の まさるこ、保延6年(1140年) - 建仁元年12月24日(1202年1月19日))は平安時代末期の后妃。近衛天皇の皇后、次いで二条天皇の后となり「二代の后」と呼ばれた。父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。養父は藤原頼長、養母は藤原幸子。21世紀現在においても最後の太皇太后である(近代以降の皇室典範には「太皇太后」に関する規定がある)。.

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藤原頼経

藤原 頼経(ふじわら の よりつね)は、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。九条頼経とも呼ばれる。 両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。妻は源頼家の娘竹御所。 竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放された(宮騒動)。.

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藤原成経

藤原 成経 (ふじわら の なりつね)は平安時代末期の公卿。権大納言藤原成親の子。正三位・参議。後白河法皇に近侍し、右近衛少将兼丹波守になり丹波少将と呼ばれた。.

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藤原成頼

藤原 成頼(ふじわら の なりより、保延2年(1136年) - 建仁2年(1202年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての人物。公卿。藤原北家勧修寺流、権中納言藤原顕頼の三男(四男とも)。母は権中納言藤原俊忠の娘で、光頼、惟方の同母弟に当たる。正三位、参議、修理大夫。兄光頼の猶子となる。 保元3年(1158年)蔵人に叙爵。平治元年(1159年)の平治の乱に際しては、兄の惟方が藤原信頼の叛乱軍に一旦加担しながら寝返るという動きを見せる中、成頼は終始冷静に行動し、後白河上皇を内裏から無事に脱出させる。上皇、及びこれに先立って脱出していた二条天皇がともに平清盛の六波羅邸に入ると、成頼はこのことを公卿・諸大夫の間に触れて回り、戦局を一気に清盛の側に有利なものとすることに貢献した。 こうしたことからその後も平氏政権とも関係は良好であり、清盛の盟友の藤原邦綱の娘を妻とし、高倉天皇の乳母人となっている。また仁安元年(1166年)には邦綱の譲りを受けて参議に任ぜられている。しかし、承安4年(1174年)に兄光頼の一周忌を受けて出家。以降は高野山に上って隠棲し、高野宰相入道と呼ばれた。 『平治物語』、『平家物語』を通じて賢人として描かれる人物であるが、『愚管抄』のようにその出家は無益であったと評する文書もある。 なりより Category:平安時代後期の貴族 Category:1136年生 Category:1202年没.

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臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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李朝 (ベトナム)

李朝(リちょう、)は、ベトナム北部に1009年から1225年まで存在した王朝。首都は昇龍(現在のハノイ)。.

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東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。 金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。.

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檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

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比企尼の三女

比企尼の三女(ひきのあまのさんじょ、生年未詳 - 建仁2年(1202年)3月)は平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。源頼朝の乳母である比企尼の三女。実名、通称ともに不明。伊東祐清室、のち平賀義信室。平賀朝雅の母。頼朝の嫡男頼家の乳母。.

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毛利季光

毛利 季光(もうり すえみつ)は鎌倉時代前期の武士。鎌倉幕府の御家人。大江広元の四男。.

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泰和 (金)

泰和(たいわ)は中国・金の章宗の治世で用いられた元号。1201年 - 1209年。.

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源義重

源 義重(みなもと の よししげ / 新田 義重 にった よししげ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。新田氏の祖。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。.

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源頼家

岡八幡宮参道の段葛 源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、征夷大将軍となる。若年の頼家による従来の習慣を無視した独裁的判断が御家人たちの反発を招き、疎外された母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書以外にそういった記録は存在せず、真偽は定かではない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握る事になる。.

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源通親

源 通親(みなもと の みちちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた。内大臣正二位右大将。土御門 通親(つちみかど -)と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは久我(こが)通親と呼ばれている。.

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漢人

漢人(かんじん).

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明宗 (高麗王)

明宗(めいそう、1131年11月8日 - 1202年12月3日)は、第19代高麗王(在位:1170年 - 1197年)。姓は王、諱は晧、諡号は皇明光孝大王。妃は江陵公王温の娘、光靖王后金氏。.

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10月15日 (旧暦)

旧暦10月15日は旧暦10月の15日目である。六曜は赤口である。.

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10月21日 (旧暦)

旧暦10月21日は旧暦10月の21日目である。六曜は赤口である。.

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1114年

記載なし。

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1121年

記載なし。

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1131年

記載なし。

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1136年

記載なし。

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1139年

記載なし。

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1140年

記載なし。

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1149年

記載なし。

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1150年

記載なし。

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1156年

記載なし。

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11月1日

11月1日(じゅういちがつついたち)はグレゴリオ暦で始から305日目(閏年では306日目)にあたり、年末まであと60日ある。.

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11月7日

11月7日(じゅういちがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から311日目(閏年では312日目)にあたり、年末まであと54日ある。.

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1204年

記載なし。

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1234年

記載なし。

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1247年

記載なし。

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1260年

記載なし。

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1272年

記載なし。

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1275年

記載なし。

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1278年

記載なし。

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1280年

記載なし。

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12月24日 (旧暦)

旧暦12月24日(きゅうれきじゅうにがつにじゅうよっか)は、旧暦12月の24日目である。六曜は大安である。.

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1月14日 (旧暦)

旧暦1月14日(きゅうれきいちがつじゅうよっか)は、旧暦1月の14日目である。六曜は友引である。.

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1月19日

1月19日(いちがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から19日目に当たり、年末まであと346日(閏年では347日)ある。.

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2月8日

2月8日(にがつようか)はグレゴリオ暦で年始から39日目にあたり、年末まであと326日(閏年では327日)ある。.

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2月8日 (旧暦)

旧暦2月8日(きゅうれきにがつようか)は、旧暦2月の8日目である。六曜は先負である。.

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3月13日

3月13日(さんがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から72日目(閏年では73日目)にあたり、年末まであと293日ある。.

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3月19日 (旧暦)

旧暦3月19日は旧暦3月の19日目である。六曜は先負である。.

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3月3日

3月3日(さんがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から62日目(閏年では63日目)にあたり、年末まであと303日ある。誕生花は花桃。.

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4月13日

4月13日(しがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から103日目(閏年では104日目)にあたり、年末まではあと262日ある。誕生花はクマガイソウ、エビネ。.

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6月15日 (旧暦)

旧暦6月15日は旧暦6月の15日目である。六曜は友引である。.

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7月20日 (旧暦)

旧暦7月20日(きゅうれきしちがつはつか)は、旧暦7月の20日目である。六曜は友引である。.

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7月6日

7月6日(しちがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から187日目(閏年では188日目)にあたり、年末まであと178日ある。誕生花はツユクサ、トキソウ。.

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8月26日 (旧暦)

旧暦8月26日は旧暦8月の26日目である。六曜は先負である。.

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8月9日

8月9日(はちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から221日目(閏年では222日目)にあたり、年末まであと144日ある。.

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9月13日

9月13日(くがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から256日目(閏年では257日目)にあたり、年末まであと109日ある。.

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