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高麗王

索引 高麗王

麗の創設者、王建 高麗王(こうらいおう)ここで挙げる王とは王位についた者を意味し、時代によって異なるが冊封を受けた意味でなく記録上にある王名を挙げている。具体的には上記に追封と記述された王の場合には、単に追尊でなく、謀反による反逆、譲位の場合もあり、この場合は冊封された王ではないが王として挙げた。王名は廟号を用いる場合もあるが、ここでは諱で列記した。は、高麗(918年 - 1392年)の国王で、姓は王氏。各王の詳細は以下の表で王名(諱)を参照。.

118 関係: 天子太祖 (高麗王)定宗 (高麗王)宝塔実憐宣宗 (高麗王)宗室亦憐真八刺亦憐真班康宗 (高麗王)廟号仁宗 (高麗王)伯顔忽都征東等処行中書省徳宗 (高麗王)忠定王忠宣王忠穆王忠粛王忠烈王忠恵王ダルガチ元 (王朝)元史元宗 (高麗王)光宗 (高麗王)皇帝王帝建王ウ (高麗王)王ショウ (高麗王)王隆王郁王昌 (高麗王)王旭 (高麗)睿宗 (高麗王)神宗 (高麗王)穆宗 (高麗王)粛宗 (高麗王)献宗 (高麗王)熙宗 (高麗王)荘和王后荘穆王后靖宗順宗 (高麗王)顕宗 (高麗王)高句麗高宗 (高麗王)高麗高麗史高麗史節要...高麗年表高麗国祖高麗王后魯国公主近親婚金童JIS X 0212JIS X 0213恭譲王恭愍王恵宗 (高麗王)毅宗 (高麗王)朝鮮における漢字朝鮮の君主一覧成宗 (高麗王)明史明宗 (高麗王)文宗 (高麗王)慶華公主拡張漢字景宗 (高麗王)1009年1010年1031年1034年1035年1046年1083年1094年1095年1105年1122年1123年1146年1170年1197年1204年1211年1213年1258年1259年1260年1274年1287年1298年1308年1313年1330年1332年1339年1344年1348年1349年1351年1356年1374年1388年1389年1392年918年943年945年946年949年975年981年997年 インデックスを展開 (68 もっと) »

天子

天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天命を受けて天下を治める者の意。中国の周王や漢代以降の皇帝、日本の大王・天皇の別号として用いられた。 王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。 皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。密教における十二天の日天子・月天子としても用いられそれらが支配する太陽と月の世界のことを指す。 中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、聖徳太子は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。律令においては天皇が祭祀において用いる称号として規定されているが、天皇を指す語の1つとして広く使われるようになる。.

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太祖 (高麗王)

太祖(たいそ、877年1月31日 - 943年7月4日)は、初代高麗王(在位:918年 - 943年)。名は王建(おう・けん、ワン・ゴン)。字は若天。諡号は応運元明光烈大定睿徳章孝威穆神聖大王。.

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定宗 (高麗王)

定宗(ていそう、923年 - 949年4月13日)は第3代高麗王(在位:945年 - 949年)。姓は王、諱は尭、諡号は至徳章敬正粛令仁簡敬荘元文明大王。父は太祖、母は神明順聖王后劉氏。恵宗の異母弟で光宗の同母兄。945年、王規と王式廉の政争で王式廉が勝利をして、その後ろ盾で王座についた。だが実権は王式廉に握られ、在位わずか4年で病死した。.

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宝塔実憐

宝塔実憐(ブツダシユリ、? - 1316年1月15日)は、高麗の第26代王忠宣王の妃。モンゴル人で、元の皇族晋王の娘。泰定帝とは姉弟である。1296年に降嫁される。1310年、元より韓国長公主に封じられる。没後の1343年、元より薊国大長公主に追封される。.

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宣宗 (高麗王)

宣宗(せんそう、1049年10月9日 - 1094年6月17日)は高麗の第13代国王(在位:1083年 - 1094年)。 姓は王、諱は運、初名は蒸、謚号は安成寬仁顕順思孝大王。文宗と仁睿太后李氏の息子。.

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宗室

宗室(そうしつ)とは、中国・朝鮮・ベトナムにおける、広義的な皇族に対する呼び方である。.

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亦憐真八刺

亦憐真八剌(イリンチンバル、? - 1319年11月8日)は、高麗の第27代王忠粛王の妃。モンゴル人で、元の皇族エセン・テムルの娘。1316年に降嫁されるが、3年後に死亡した。靖和公主に追封された。1343年、元より濮国長公主に追封された。.

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亦憐真班

亦憐真班(イリンチンバル、1322年 - 1375年)は、高麗の第28代王忠恵王の妃。モンゴル人で、元の関西王焦八の娘。クビライの玄孫にあたる。忠恵王が1330年に即位した際に娶る。1367年、元より貞順淑儀公主に封ぜられる。.

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康宗 (高麗王)

康宗(こうそう、1152年5月10日 - 1213年8月26日)は第22代高麗王(在位:1211年 - 1213年)。姓は王、諱は祦、初名は璹、諡号は浚哲文烈亶聡明憲貽謀穆清元孝大王。明宗と光靖太后の長男として生まれた。妃は李義方の娘思平王后李氏、元徳太后柳氏。 子は思平王后李氏が生んだ寿寧宮主と元徳太后柳氏が生んだ高宗。 Category:高麗王 Category:1152年生 Category:1213年没.

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廟号

廟号(びょうごう)は、中国、朝鮮半島、ベトナムなどの東アジアの漢字文化圏において皇帝や王が死亡した後に、先祖を祭るための廟に載せるための名前のこと。諡号との違いは、諡号が子孫が先代に対してある種の評価を交えているのに対して、廟号は歴代の先祖の列に並ぶための号である。王朝の創設者などは「太祖」「高祖」、それ以外は「漢字一字+宗」が用いられていることが多い。 東アジアの漢字文化圏でも、日本では天皇に諡号を使用した時期はあったものの、廟号が使用されることはなかった。 中国歴代王朝では、周王朝から隋王朝まで、秦王朝を除き、歴代の王・皇帝は諡号で呼ぶのが通例であり、一部に初代・2代目の皇帝を廟号で呼ぶなどの例外があった。しかし唐以降の王朝は、廟号ですべての皇帝を呼ぶのが通例となった。これは唐王朝以降は、諡号が複雑長大になる傾向があったためである。 明代以降は一世一元の制が採られ、一部の例外を除いて1人の皇帝が1つの元号のみを持つようになったため、日本では廟号や諡号の代わりに帝の字に元号を冠して呼ぶ場合が多い。 清は明から一世一元の制を引き継いだので、日本に於いては入関以後、即ち順治帝以後の皇帝は明と同様に元号+帝で呼ばれるが、入関以前の太祖、太宗の2代は名前もしくは廟号で呼ばれる場合が多い。.

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仁宗 (高麗王)

仁宗(じんそう、1109年10月29日 - 1146年4月10日)は第17代高麗王(在位:1122年 - 1146年)。姓は王、諱は楷、諡号は克安恭孝大王。睿宗の第一王子。母は順徳王后李氏。妃は李資謙の三女廃妃李氏と四女廃妃李氏、中書令任元厚の娘である恭睿王后、兵部尚書金睿の娘である宣平王后。.

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伯顔忽都

伯顔忽都(バヤン・クトゥク).

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征東等処行中書省

征東等処行中書省(せいとうとうしょこうちゅうしょしょう、征東行省ともいう)は、モンゴル帝国(後の元)が高麗を従属させた後に、政治と軍事を統括するために設置した機関で、行中書省の一つ。日本攻略の前線機構とされたことから日本行省または征日本行省とも称される。1次2次の征東行省では次官の行省左丞相に高麗王が就き税賦も行省内で運用された。1290年前後に行省が常設組織へ変わると、税賦を中央に納め他の行中書省と同じく高麗地区の行政と統治を担うこととなった。高麗は第23代高宗の1258年に元の属国となり、その後、元の支配が更に強まり元朝の領土となった。恭愍王時代の1356年に元の衰退とともにその支配を脱して高麗国が再興されたが、その間の時代は征東等処行中書省が置かれ、3代の高麗王が元朝の行政官によって廃位させられている。.

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徳宗 (高麗王)

徳宗(とくそう、1016年6月9日 - 1034年10月31日)は第9代高麗王(在位:1031年 - 1034年)。姓は王、諱は欽、諡号は宣孝剛明光荘敬康大王。父は顕宗、母は元成太后金氏。妃は敬成王后金氏、孝思王后金氏、敬穆賢妃王氏。 徳宗は即位すると、罪が軽い罪人らを解放した。また大臣たちとの和合を重要視し、政治的安定が続いた。 一方で契丹国に、鴨緑江橋梁工事を止めさせて高麗人たちを返さなければ国交を断絶すると外交的に圧迫した。1032年には丹国から亡命した契丹人たちを受け入れた。同年4月には契丹人27名が、6月には渤海人50名が亡命したが、全員の入国を許した。契丹は1033年10月に高麗の定州を侵略したが、高麗軍に敗れて退却した。 徳宗の時代に、高麗の最高の教育施設である国子監に試験制度が導入された。また、1034年には高麗の歴史書『七代実録』が完成した。 徳宗は国内では政治的和合を図る一方、外交的には強硬姿勢であった。その治世は短かったが、名君だったと言える。.

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忠定王

忠定王(ちゅうていおう、1338年 - 1352年3月23日)は高麗第30代国王(在位:1349年 - 1351年)。姓は王、名は㫝。モンゴル名は迷思監朶児只。諡号は忠定大王。忠恵王の庶子。母は禧妃尹氏。忠穆王の死を受けて翌年に王位を継ぐ。妃については不詳だが、息子に侍中公王済という人物がいたという。 1350年には高麗国内に対する初めての倭寇の襲撃があったという。1351年、幼君が続く高麗の状況に不満を抱き、代わって恭愍王擁立を図る元の宮廷の意向を受けて江華島に移された。恭愍王の高麗への帰国後に鴆毒によって暗殺された。14歳であったという。 また、李氏朝鮮第3代王 太宗の妃 元敬王后閔氏とは再従兄妹の関係に当たる。(禧妃尹氏と王妃の父 閔霽が従姉弟).

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忠宣王

忠宣王(ちゅうせんおう、1275年10月20日 - 1325年6月23日)は第26代高麗王(在位1298年、1308年 - 1313年)高麗史 卷三四 忠宣王世家 。 第25代国王忠烈王とクビライの娘荘穆王后との間の長男として生まれ、元の宮廷で育った。妃はクビライの曾孫娘、薊国大長公主、宝塔実憐、子は忠粛王(次男)。姓は王、名は璋、初名は謜。蒙古名は益知礼普花(イジリブカ、、Iǰirbuka)。諡号は忠宣憲孝大王(太尉王)。 治世中に権塩法を施行し塩の専売制を実施した。.

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忠穆王

忠穆王(ちゅうもくおう、1337年 - 1348年)は第29代高麗王(在位:1344年 - 1348年)。姓は王、名は昕。蒙古名は八思麻朶児只(モンゴル語:、padma dorji)。諡号は忠穆顕孝大王。忠恵王の嫡子。母は元の皇族である徳寧公主。 世子として禿魯花(人質)に行き、父の死去に伴い1344年に8歳で王位に就き、12歳で死亡した。 征東行中書省の左丞相と高麗国王に封じられている。具体的には開府儀同三司征東行中書省左丞相上柱国高麗国王。.

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忠粛王

忠粛王(ちゅうしゅくおう、1294年7月30日 - 1339年5月3日)は第27代高麗王(在位1313年 - 1330年、1332年 - 1339年)。姓は王、名は燾。小字は宜孝。第26代国王忠宣王の次男で、母はモンゴル人の也速真。妃は元の皇族である曹国公主金童 高麗史89卷 列傳2 后妃2 曹國長公主曹國長公主金童元順宗子魏王阿木哥之女忠肅十一年王在元娶之明年與王來從王幸漢陽龍山生子是爲龍山元子未幾公主薨於行宮年十八元遣左司郞脫必 來致奠忠惠四年元追封曹國長公主、慶華公主伯顔忽都(追封 粛恭徽寧公主)高麗史89卷 列傳2 后妃2 慶華公主慶華公主伯顔忽都蒙古女王在元娶之後二年與王來五年開府曰慶華置官屬.

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忠烈王

忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。 第24代高麗王元宗の子。諱は昛、初名は諶、賰、諡号は忠烈景孝大王。1260年に世子となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、クビライの公主忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフウシン部族のボロクル(ムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿(Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない。(森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年)旧妃は始安公絪娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は旧妃に近寄らなくなったという。(『高麗史』巻89・后妃伝巻2「貞和府主」条および「淑昌院妃」条)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。 文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を進言し、兵力と経費を提供する「高麗史」に詳細に記述されている。『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年 三月己亥 条の中書省牒に載る世子 諶の言葉に、「吾父子相継朝覲、特蒙恩宥小邦人民(中略) 既諶連年入覲毎荷皇恩区区之忠益切致効。惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容、戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、勉尽心力、小助王師」 『高麗史』 巻29・世家29・忠烈王世家6 忠烈王六年八月辛卯〜乙未(1280年9月17日 - 21日) 条 「(辛卯:公主宴愛牙赤于新殿。)王至上都。時帝在闍干那兀。王遂如行在。乙未:謁帝。帝宴王仍命從臣赴宴。先是、王使朴義奏曰:『東征之事臣請入朝禀旨。』帝許之。」 『高麗史』『高麗史』巻104・列伝17 金方慶伝「(元宗)十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期、一国憂之。 方慶、爲東南道都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本國船様督造。」『元史』 卷12・本紀12・世祖本紀9 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日) 条 「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本」 とともに毎年元に莫大な貢物、人員一例として『高麗史』巻16・世家28・忠列王1 忠烈王元年冬十月壬子(1275年11月4日)条に「壬子:以将献処女于元、禁国中婚嫁」とあり、忠烈王元年10月に元朝に処女を献ずるため国中で婚姻を一時禁じている。また、同十一月癸未(同年11月25日) 条に「癸未:遣僉議賛成事俞千遇、如元賀正、告改官制、献処女十人」とあり、元朝宮廷への賀正使として僉議賛成事の俞千遇を派遣し、官制改めたことを報告し、併せて処女 10人を献じたことを記している。等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令忠烈王は後述のように即位前に質子(トルカク)として出されたクビライの宮廷にてケシクの一員として近侍していたため、モンゴル人と同じ服装や髪型をしていた。そのため、『高麗史』によれば、彼が高麗に帰着したときにその容姿をみた高麗の廷臣たちは、「国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。」(『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年二月己亥「二月己亥、世子諶還自元。帝遣斷事官不花馬(中略) 世子辮髮胡服而來國人見之皆涕泣」)と述べている。これは彼自身がモンゴル宮廷での庶務に従事する必要上、モンゴル宮廷の慣習に従っていただけであったが、当初、高麗宮廷では王国の後継者がモンゴル人と同じ恰好をしていたことは歓迎されていなかった。(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っている。.

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忠恵王

忠恵王(ちゅうけいおう、チュンへワン、충혜왕、1315年2月22日 - 1344年1月30日)は第28代高麗王(在位 :1330年 - 1332年、復位:1339年 - 1344年)。名は禎。モンゴル名は普塔失里(ブタジリ、モンゴル語:、Buddhašri)。諡号は忠恵献孝大王。忠粛王と明徳太后の間に生まれた。后は、元の関西王焦八の娘・亦憐真班、尹継宗の娘・禧妃尹氏、洪鐸の娘・和妃洪氏、林信の娘・銀川翁主林氏。.

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ダルガチ

ダルガ(daruγa)ないしダルガチ(daruγa-či)とは、モンゴル帝国の官職。モンゴル帝国の初期において、モンゴル軍団の軍政や諸事の裁定を行ったジャルグチ、財政の一切を管理したビチクチとならぶモンゴル帝国初期の重要官職である。主に政権中央から派遣され、各々の領地の民政統治官、行政長官としての業務を行う。漢語資料では達魯花赤占と書かれ、『集史』などのペルシア語文献ではダルガ(ダールーガ) داروغه dārūgha として表れる言葉であり、テュルク語のバスカク بسقاق basqāq 、アラビア語のシャフナ شحنة shahna (軍政管民官)といったものと同義語として用いられた。大元ウルスやイルハン朝といったモンゴル諸王家だけではなく、ティムール朝など後のテュルク・モンゴル系の政権などへも受け継がれた。 もともと、モンゴル高原を統一してモンゴル帝国の始祖となったチンギス・カンが東西へ行った遠征以降に、占領した旧金朝の華北やホラズム・シャー朝の領域だった中央アジア、イランなどの各地域に対し、モンゴル皇帝であるカアン(大ハーン)の代官として設置したもの。その主な任務は、徴税、戸口調査、駅伝事務、民政一般、治安維持などである。 東方においては、クビライ・カアンにより大元ウルス(元朝)が成立すると、その行政組織の中で正式に制度化され、地方行政官庁などに必ず置かれた。元の行政では人間集団ごと(モンゴル人、西域人(色目人)、漢人など)による階級差別 が存在しており、この達魯花赤に任命されるのはほとんどモンゴル人、稀に西域人や女真人で、漢人が任命されることはなかった。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元宗 (高麗王)

元宗(げんそう、1219年4月5日 - 1274年7月23日)は、第24代高麗王(在位:1260年 - 1274年)。姓は王、諱は禃、初名は倎、諡号は忠敬順孝大王。 太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが、1259年に父の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して江都で即位した(詳細はモンゴルの高麗侵攻を参照)。その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る。 ところが、この親モンゴル政策に重臣はこぞって反発し、元宗は一時廃位されかけたが(淐の項参照)、モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時に100年ほど続いた高麗の武臣政権に終止符が打たれた。1270年には開京への還都を決行した。 還都に伴い反モンゴルの姿勢をとるゲリラ集団・三別抄の解散を図ったが、逆に三別抄は王の弱腰政策に怒り、高麗に対してまで反乱を起こさせることとなった。さらにはモンゴルから日本遠征の大規模負担を負わされて国民に重税を強いることとなるなど、失政を続けた。 1274年、文永の役直前に病死した。.

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光宗 (高麗王)

光宗(こうそう、925年 - 975年7月4日)は第4代高麗王(在位:949年 - 975年)。姓は王、諱は昭、謚号は弘道宣烈平世粛憲懿孝康恵大成大王。父は太祖、母は神明順聖王后劉氏。恵宗の異母弟で定宗の同母弟。 元朝服属以前の高麗君主であったことから、対中国王朝に対しては国王と称していたが、国内では皇帝や天子といった呼称も使用していた。 956年に奴婢按検法を宣布し、後三国時代の混乱期に奴婢となった者たちの身分回復を始めた。この法により、大量の奴婢が耕作する広大な所領を経済的基盤としていた建国の功労者である豪族たちの勢力をそぎ、王権の強化に努めた。また科挙制度の開始など、高麗初期において国家の基盤を築いた名君として評価されている。だが治世の後半に至って豪族や親族に対する排除は粛清といえるほどに厳しさを増し、中には罪なく殺された者もでたため、後世に批判される面もあった。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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王帝建

王 帝建(おう ていけん、生没年不詳)または作帝建(チャクチェゴン)は、高麗の太祖王建の祖父である。廟号は懿祖、諡号は景康大王である。.

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王ウ (高麗王)

王禑(ワン ウ、おう ぐ、朝鮮語:왕 우、1365年7月25日 - 1389年12月31日)は、第32代高麗王(在位:1374年 - 1388年)。姓は王、名は禑。禑王、驪興王。初名は牟尼奴高麗史卷44 世家44 恭愍王「乙巳賜牟尼奴名禑、封爲江寧府院大君。百官賀、命政堂文學白文寶・田祿生・大司成鄭樞等傅之。」(乙巳、牟尼奴にと名のるを賜ひ、封じて江寧府院大君と爲す。百官賀す、政堂文學白文寶・田祿生・大司成鄭樞等に命じてこれに傅たらしむ。)。恭愍王と侍婢・般若の子。恭愍王の後を継いで王位に就いたが、李成桂の威化島回軍により廃位、殺害された。 『高麗史』(1451年成立)では、王に仕えた寵臣辛旽の子であるとされ、辛旽の姓を以て辛禑と呼ばれているが、この記述は恭譲王から王位を禅譲された李成桂を正当な王位継承者とみなす朝鮮王朝時代の官製史観に由来するものと見られ、疑わしい。.

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王ショウ (高麗王)

王(おうしょう)は、高麗王(在位:1269年)。初名は侃。高宗の子で元宗の弟。父から安慶公に封じられた。 1269年(元宗10年)6月に武臣林衍(生年不明 - 1270年)・林惟茂父子らは元宗を廃し、安慶公王を王とした。林衍は教定別監として権力の座についた。しかし、元からの軍事圧力により、王は廃され、元宗が再び王権を握った。.

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王隆

王 隆(おう りゅう、)または王 龍建(おう りゅうけん、ワン・ヨンゴン、)は、高麗の太祖王建の父。廟号は世祖。諡号は威武大王。.

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王郁

王郁(おう いく、ワン・ウク、? - 997年)は、高麗の王族。初代国王太祖の子で、第8代国王顕宗の父。母は神成王太后金氏。神成王太后は新羅敬順王の従姉妹で、935年11月に新羅が高麗に降伏の意思を表して嫁がせた女性であった。したがって王郁は、936年から太祖が死亡する943年の間に生まれたと推定される。恵宗、定宗、光宗、王旭(成宗の父)の異母弟である。顕宗は即位後、安宗(あんそう)の廟号と憲景孝懿大王の諡号を追贈した。 景宗の妃である献貞王后皇甫氏(顕宗の母)は、景宗が死ぬとすぐに王輪寺南側にある私邸に出て行って暮らしたが、その近くに住んでいた王郁としばしば往来して共に過ごす時間が多くなり、結局情を通じて献貞王后は王郁の子(顕宗)をもうけることになった。 当時、このことは周囲の人々が皆内密にしていたが、ある日王郁の奴婢が王郁の家にわざわざ火を付けたことに対して、慰問のために王郁の家にきた成宗にこのことが報告された。これによって王郁は流刑に処され、997年に死亡した。 献貞王后との間に生まれた子(顕宗)は成宗が養育した。(成宗は献貞王后の同母兄であり、顕宗の従兄にあたる。).

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王昌 (高麗王)

王昌(おう しょう、1380年9月6日 - 1389年12月31日)は第33代高麗王(在位:1388年 - 1389年)。前王王禑の子。昌王、允王。 1388年に李成桂により王位に就けられ、翌1389年直ちに廃位、父とともに殺された。 『高麗史』(1451年成立)では父・王禑が寵臣辛旽の子であり、王昌も正統な王位継承者ではなく、王位を禅譲された李氏朝鮮の太祖李成桂が妥当な王位継承者とされているが、この記述は疑わしいこととされている。 なお、父とともに辛旽の血を引く偽の王族として王位継承権を否定されたために辛昌とも呼ばれている。 Category:高麗王 Category:1380年生 Category:1389年没.

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王旭 (高麗)

王旭(おう きょく、ワン・ウク、? - 969年)は、高麗の王族。第8皇子。初代国王太祖の子で、第6代国王成宗の父。恵宗、定宗と光宗の異母弟に当たる。成宗は即位後、戴宗(たいそう)の廟号と睿聖和簡恭慎顕献宣慶大王の謚号を追贈した。.

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睿宗 (高麗王)

睿宗(えいそう、1079年2月11日 - 1122年5月15日)は第16代高麗王(在位:1105年 - 1122年)。姓は王、諱は俁、諡号は明烈斉順文孝大王。粛宗と明懿王后柳氏の息子。.

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神宗 (高麗王)

宗(しんそう、1144年8月11日 - 1204年2月15日)は第20代高麗王(在位 1197年 - 1204年)。姓は王、諱は晫、初名は旼、諡号は敬恭靖孝大王。仁宗の第5子。妃は江陵公金温の娘・宣靖太后。第34代で最後の王である恭譲王は、神宗の次男の襄陽公・王恕の6代あとの子孫にあたる。.

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穆宗 (高麗王)

宗(ぼくそう 、980年7月5日 - 1009年3月2日)は第7代高麗王(在位:997年 - 1009年)。姓は王、諱は訟。廟号ははじめ湣宗、のち穆宗とされた。諡号は孝思威恵克英靖恭宣譲大王(宣霊大王)。第5代国王景宗の長男であり、母は献哀王后皇甫氏。景宗死去の時は1歳であった。 即位後は生母の献哀王太后が政治の実権を握り、彼女の寵愛を受けた親族の金致陽が政権の中心にいた。2人は王位継承の可能性のある大良院君(顕宗)を地方寺院に追い払い、さらに穆宗の廃位をもくろんだ。危険を察した穆宗は西北面巡検使の康兆を呼び寄せ、これを阻止しようとした。しかし、康兆は金致陽一派を倒した後、大良院君を擁立し、穆宗は廃位、殺害された。契丹との関係は下表を参照。.

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粛宗 (高麗王)

粛宗(しゅくそう、1054年9月2日 - 1105年11月10日)は第15代高麗王(在位:1095年 - 1105年)。姓は王、諱は顒、初名は熙、諡号は文恵康正明孝大王。.

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献宗 (高麗王)

献宗(けんそう、1084年8月1日 - 1097年11月6日)は第14代高麗王(在位:1094年 - 1095年)。姓は王、諱は昱、諡号は恭殤定比懐孝大王。 献宗は宣宗の長男で、1084年6月に生まれた。母は思粛太后李氏。11歳で即位したため、思粛太后が摂政となった。しかし太后の摂政時代は長く続かなかった。 宣宗の意思で幼い王子が王位を継承したことに、宣宗の弟たちは不満を抱いていた。高麗では、王に男子がいても若年の場合には王の弟が継承するのが、王位継承の慣習であった。その場合、宣宗の弟の鶏林公(後の粛宗)が最有力候補だった。 王になった献宗は幼い頃から糖尿病を患っていた。また、太后の政権基盤は脆弱であり、献宗の王位は不安定なものであった。1095年に政変が起こり、鶏林公が反対勢力を駆逐して実権を握った。同年10月、献宗は王位を鶏林公に譲って後宮に移り、1097年10月に14歳の若さで夭逝した。王妃はなく、子もいなかった。 Category:高麗王 Category:1084年生 Category:1097年没.

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熙宗 (高麗王)

熙宗(きそう、1181年6月21日 - 1237年8月31日)は第21代高麗王(在位:1204年 - 1211年)。姓は王、諱は韺、初名は淵、悳、諡号は仁穆誠孝大王。神宗と靖和太后金氏の長子。妃は寧仁侯 王稹の娘、成平王后任氏。娘に高宗妃安恵王后、元宗妃慶昌宮主柳氏を生んだ嘉順宮主など。.

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荘和王后

荘和王后呉氏(そうわおうこう)は、高麗太祖王建の第2后妃で、第2代国王恵宗の生母。全羅南道の羅州生まれ。三国時代に中国から帰化した貴族の後裔である。先祖は新羅智証王時代に中国から入国した後、中国に帰国した呉瞻である。呉瞻は新羅で2男1女を授かったが、中国に帰国した。しかし、2人の男子の中の2番目の息子呉膺は年が幼く、中国に帰国することができずにそのまま新羅に残る。その末裔で羅州の豪族だった多憐君が王建の高麗建国を手助けする。そして、その多憐君の娘が荘和王后である。.

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荘穆王后

荘穆王后(そうぼくおうこう、1259年7月19日 - 1297年6月11日)は、高麗の第25代王忠烈王の正妃。モンゴル人で、本名は孛儿支斤 忽都魯掲里迷失(ボルジギン クトゥルク=ケルミシュ)。元の世祖の娘で、1274年5月に忠烈王に降嫁される。 1275年9月に生まれた長男の益知礼普花(イジリブカ)は高麗の第26代王となった忠宣王である。同年に高麗より元成公主、1294年に元より安平公主に封じられた。没後には、高麗より荘穆仁明王后、仁明王太后と追号され、1310年に元において斉国大長公主を追封された。.

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靖宗

靖宗(せいそう、1018年8月31日 - 1046年6月24日)は第10代高麗王(在位:1034年 - 1046年)。姓は王、諱は亨、諡号は弘孝安懿康献英烈文敬容恵大王。顕宗と元成太后金氏の二番目の息子であり、徳宗の弟。.

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順宗 (高麗王)

順宗(じゅんそう、1047年12月28日 - 1083年12月5日)は第12代高麗王(在位:1083年)。姓は王、諱は勲、初名は烋、謚号は英明靖憲宣恵大王。 文宗の長男、母は仁睿太后李氏、妃は.

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顕宗 (高麗王)

顕宗(けんそう、992年8月1日 - 1031年6月17日)は第8代高麗王(在位:1009年 - 1031年)。姓は王、諱は詢、別名は安世、諡号は大孝徳威達思元文大王。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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高句麗

句麗(こうくり、、紀元前37年 - 668年)または高麗(こうらい、こま、)は、現在の中国東北部の南部から朝鮮民主主義人民共和国、韓国北部に存在した国家。しばしばツングース系民族によって建てられたとされるが*シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。.

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高宗 (高麗王)

宗(こうそう、1192年2月3日 - 1259年7月21日)は第23代高麗王(在位:1213年 - 1259年)。姓は王、諱は皞、諡号は忠憲安孝大王。 1218年、モンゴル帝国と同盟を結ぶことで親睦を深めようとしたが、モンゴルに従属国同然に扱われたことに激怒し、1225年に断交して対立する。そのため、高麗はモンゴル軍の侵攻を6度にわたって受けることになった。 このため、モンゴルの襲来を恐れた崔氏政権は高麗の首都を江華島に移したが、その結果として本土が壊滅状態となり、1258年、これを見かねた高宗は、皇太子(のちの元宗)を人質として差し出すことを条件にして降伏した。このモンゴルの侵攻で高麗は荒廃し、実質的には滅亡状態にあったという。 服属後の高麗国王は、皇帝号・天子の呼称をあらゆる場面において禁止され、詔などの字を用いることも禁止された。太子は世子と格下げされるなどの処置もこうむった。高麗滅亡後、朝鮮では皇帝号・天子の呼称は基本的に使用されず、全て国王号に統一されたため、高宗は朝鮮における皇帝としては、大韓帝国以前の最後の人物となった。 1236年にモンゴルが高麗に侵攻し、符仁寺にあった版木は戦災で焼失してしまった。高宗は江華島に避難していたが、大蔵経の製作を指示し、巨済島や南海から白樺の材木を運び、15年の歳月をかけて8万枚以上もの版木を彫り上げた。これが、今日に伝わる高麗八萬大蔵経である。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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高麗史

『高麗史』(こうらいし)は、朝鮮の高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮の鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典はである。 また史庫に関する詳細は、 を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。 ・書籍が参照されたが、すべて焚書または消失李氏朝鮮 太祖の時代に 「書雲觀」等の記録を焚書した。さらに一般民の史書の所持と輸入は厳しく禁止していた。具体的には明朝會典 皇明通紀 明紀輯略等多岐にわたる。 例えば、平安道の儒生 桂徳海が中国からの史書を所持していた事件(1771年)で断罪されている。し、大部分は現存しないので、この『高麗史』と独立に編纂された春秋館編纂の編年体形式の『高麗史節要』(1452年)が高麗時代の史書となる。.

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高麗史節要

麗史節要(こうらいしせつよう)は、1452年に成立した朝鮮の歴史書。高麗(918年-1392年)の正史のひとつである。 朝鮮王朝の監春秋館事・金宗瑞らが、先代の王朝である高麗の歴史を編年体でまとめたもの。1451年に成立した鄭麟趾撰の『高麗史』の節要(ダイジェスト)という位置づけであるが、『高麗史』とは独立に編纂されたためにオリジナルの記事を多く含むほか、『高麗史』よりも詳細な部分もあり、貴重な史書である。35巻からなる。.

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高麗年表

麗年表(こうらいねんぴょう)では、高麗王朝と周辺国家の出来事を年表にまとめる。.

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高麗国祖

麗国祖は、高麗の太祖王建が即位の2年後、3代の祖先つまり王隆を世祖に、王帝建を懿祖に追封したが、国祖については議論がある。諡号は元徳大王。.

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高麗王后

この項目では、UnicodeのCJK統合漢字拡張A,B領域にある文字が使用されています (U+7966) (U+6DD0) (U+3EC2) (U+5FD2) 上記文字が正しく表示できない場合、CJK統合漢字フォントをインストールする必要があります。詳しくはHelp:特殊文字もご覧ください。 高麗王后(こうらいおうごう)は、高麗王朝時代(918年 - 1392年)の王妃のことをいう。出典は『高麗史』、『元史』であるが、『高麗史』の基準によっている。以下の注意事項を示す。 13世紀後半から14世紀半ばにかけて、元に支配された高麗の歴代国王(第24代元宗から第31代恭愍王)は、支配された初期の元宗と、夭逝した忠穆王・忠定王を除き、モンゴル帝室の公主を娶った。.

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魯国公主

魯国公主(ろこくこうしゅ、노국공주、? - 1365年3月8日)は、高麗の第31代王恭愍王の妃。モンゴル人で、本名は宝塔失里(ブツダシユリ)。 父は元の皇族の魏王ボロトテムル。1349年10月に降嫁される。降嫁後、元より承懿公主に封じられる。没後、仁德恭明慈睿宣安王太后と贈号される。1367年、元よりら魯國徽翼大長公主に追封され、後に徽懿魯國大長公主に改められる。懐妊するが、難産の為逝去。なお、子は死産であった。.

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近親婚

ェームズ・バリー『イダ山のユーピテルとユーノー』ユーピテル(ゼウス)は姉のユーノー(ヘーラー)と近親婚を行った。 近親婚(きんしんこん)は、近い親族関係にある者同士が婚姻関係を結ぶことである。親子婚、兄弟姉妹婚、叔姪婚やいとこ婚等が例として挙げられるが、近親の定義は社会によって様々である。 近親者同士の性行為そのものを意味する近親相姦との相違に注意。.

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金童

金童(キムトン、1308年 - 1325年11月26日)は、高麗の第27代王忠粛王の妃。モンゴル人で、元の皇族アムガの娘。1324年、忠粛王の王妃の亦憐真八剌の没後、忠粛王の王妃に降嫁される。翌年10月、漢陽の龍山行宮で死去。没後の1343年、元より曹国長公主に追封される。.

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JIS X 0212

JIS X 0212(ジス X 0212)は、JIS X 0208:1983に含まれない文字を集めた、6067字の符号化文字集合を規定する日本工業規格 (JIS) である。規格名称は「情報交換用漢字符号-補助漢字」である。1990年10月1日に制定され、JIS X 0208と組み合わせて利用される。JIS補助漢字の通称がある。.

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JIS X 0213

JIS X 0213(ジス X 0213)はJIS X 0208:1997を拡張した、日本語用の符号化文字集合を規定する日本工業規格 (JIS) である。規格名称は「7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合」である。 2000年に制定、2004年、2012年に改正された。2000年に制定されたJIS X 0213:2000は通称「JIS2000」と呼ばれている。2004年に改正されたJIS X 0213:2004は通称「JIS2004」と呼ばれている。 JIS X 0208を拡張した規格で、JIS X 0208が規定する6879字の図形文字の集合に対して、日本語の文字コードで運用する必要性の高い4354字が追加され、計1万1233字の図形文字を規定する。JIS X 0208を拡張する点においてJIS X 0212:1990と同目的であるが、JIS X 0212とJIS X 0213との間に互換性はない。JIS X 0212がJIS X 0208にない文字を集めた文字集合であるのに対し、JIS X 0213はJIS X 0208を包含し更に第三・第四水準漢字などを加えた上位集合である。.

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恭譲王

恭譲王(きょうじょうおう、1345年3月9日 - 1394年5月17日)は、高麗の第34代国王である(在位:1389年 - 1392年)。第20代神宗の7代孫。諡号は恭譲大王。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に譲位し、李成桂の命令で子供とともに殺された。.

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恭愍王

恭愍王(きょうびんおう、1330年5月23日 - 1374年10月27日)は第31代の高麗王(在位:1351年 - 1374年)。忠粛王の子。姓は王、名は顓、初名は祺。蒙古名は伯顔帖木児(モンゴル語:、Bayan Temür)。諡号は恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王。妃は元の魏王女、 魯国大長公主高麗史89卷列傳2 后妃 魯國大長公主 恭愍王 徽懿魯國大長公主 寶塔失里 元宗室 魏王之女 王在元 親迎於北庭 元封承懿公主.

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恵宗 (高麗王)

恵宗(けいそう、912年 - 945年10月23日)は第2代高麗王(在位:943年 - 945年)。姓は王、諱は武、諡号は仁徳明孝宣顕高平景憲義恭大王。字は承乾。 太祖の長男。母は荘和王后呉氏。.

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毅宗 (高麗王)

毅宗(きそう、1127年5月23日 - 1173年11月7日)は第18代高麗王(在位:1146年 - 1170年)。姓は王、諱は晛、初名は澈、諡号は剛果荘孝大王。.

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朝鮮における漢字

朝鮮における漢字(ちょうせんにおけるかんじ)では、朝鮮で使用される漢字について述べる。 韓文漢字とも呼ばれ、朝鮮語では한자/漢字(ハンチャ)または、한문한자/漢文漢字(ハンムナンチャ)という。.

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朝鮮の君主一覧

朝鮮の君主一覧(ちようせんのくんしゅいちらん)は、古代の朝鮮半島(一部現在の中国東北部を含む・民族は中国系朝鮮系等特定の民族を指したものではない)で出来た国々の王、皇帝などを扱う。.

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成宗 (高麗王)

成宗(せいそう、961年1月15日(旧暦960年12月26日) - 997年11月29日(旧暦10月27日))は第6代高麗王(在位:981年 - 997年)。姓は王、諱は治、謚号は康威章憲光孝献明襄定文懿大王。父は王旭(追尊して戴宗)、母は柳氏(追尊で宣義王后)。従兄の景宗の後を継いで即位した。同母妹に献哀王后皇甫氏および献貞王后皇甫氏(ともに景宗の妃)がいる。 行政改革を推進し、高麗建国時から濃かった仏教色を排除し儒教の普及のため各地に学堂を建てた。993年契丹の高麗侵攻を受けた際には、外交交渉で軍勢を退け、高麗は鴨緑江東部の江東6州を得た。995年契丹の侵攻を受けると、宋との関係を断絶し契丹と外交関係を結んだ。男子がいなかったため、王位は甥である先代景宗の長男穆宗に受け継がれた。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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明史

『明史』(みんし、拼音:Míngshǐ)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から校正される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。.

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明宗 (高麗王)

明宗(めいそう、1131年11月8日 - 1202年12月3日)は、第19代高麗王(在位:1170年 - 1197年)。姓は王、諱は晧、諡号は皇明光孝大王。妃は江陵公王温の娘、光靖王后金氏。.

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文宗 (高麗王)

文宗(ぶんそう、1019年12月29日 - 1083年9月2日)は第11代高麗王(在位:1046年 - 1083年)。姓は王、諱は徽、初名は緒、諡号は章聖剛正明戴仁孝大王。 顕宗と元恵太后金氏の子として生まれる。1022年楽浪君に冊封され、1037年内史令、兄の靖宗の死後、即位した。 文宗の時代に高麗のすべての制度と整備が完成され、社会的に非常に安定して文化が発展した。.

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慶華公主

慶華公主(けいかこうしゅ、경화공주、? - 1344年7月24日)は、高麗の第27代王忠粛王の妃。モンゴル人で、本名は伯顔忽都(バヤンクトウグ)。 家系について多くは不明であるが、森平雅彦はアムガの娘金童(忠粛王の妃)の姉妹ではないかとする。妻の死後にその姉妹を娶るソロレート婚になる。 忠粛王に降嫁したのは、おそらく1330年から1333年である。『高麗史』には、忠粛王の死後、継子の忠恵王が酒に酔った勢いで慶華公主を強姦し、無理やり愛妾としたと記されている。 1367年に元より粛恭徽寧公主(숙공휘령공주)を贈諡される。.

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拡張漢字

拡張漢字(かくちょうかんじ)とは、文字コード(漢字コード)において何らかの形でもとから含まれていた漢字に追加された漢字をいう。.

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景宗 (高麗王)

景宗(けいそう、955年11月9日 - 981年8月13日)は第5代高麗王(在位:975年 - 981年)。姓は王、諱は伷、謚号は至仁成穆明恵順熙靖孝恭懿献和大王。光宗と大穆皇后皇甫氏の長男。妃は献哀王后ほか。穆宗の父。 父の光宗の代に豪族の大粛清を行い、景宗自身も父から懐疑の目を向けられ関係はよくなかったという。光宗が死去し景宗が即位すると、豪族たちは自分たちを讒言した者たちに復讐を行った。このように殺伐とした朝廷に嫌気が差し、景宗自身も酒色に溺れることが多かったというが、若くして病死した。長男の王訟(穆宗)がまだ乳児だったため、遺言で従弟の王治(成宗)を後継者に指名した。.

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1009年

記載なし。

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1010年

記載なし。

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1031年

記載なし。

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1034年

記載なし。

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1035年

記載なし。

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1046年

記載なし。

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1083年

記載なし。

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1094年

記載なし。

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1095年

記載なし。

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1105年

記載なし。

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1122年

記載なし。

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1123年

記載なし。

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1146年

記載なし。

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1170年

記載なし。

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1197年

記載なし。

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1204年

記載なし。

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1211年

記載なし。

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1213年

記載なし。

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1258年

記載なし。

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1259年

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1260年

記載なし。

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1274年

記載なし。

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1287年

記載なし。

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1298年

記載なし。

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1308年

記載なし。

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1313年

記載なし。

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1330年

記載なし。

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1332年

記載なし。

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1339年

記載なし。

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1344年

記載なし。

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1348年

記載なし。

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1349年

記載なし。

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1351年

記載なし。

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1356年

記載なし。

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1374年

記載なし。

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1388年

記載なし。

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1389年

記載なし。

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1392年

記載なし。

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918年

記載なし。

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943年

記載なし。

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945年

記載なし。

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946年

記載なし。

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949年

記載なし。

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975年

記載なし。

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981年

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997年

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