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騎士団

索引 騎士団

騎士団(きしだん、英語:Chivalric order)は、十字軍時に設立された騎士修道会、及びそれを模して各国の王・貴族が作った騎士とその附属員から構成される団体である。前者はローマ教皇によって認可された修道会の一種であり、構成員は修道士になることが前提となる。後者は実際の軍事集団としてより、名誉・儀礼的な意味合いが強く、後にヨーロッパの勲章システムに受け継がれていく。.

39 関係: 十字軍名誉大英帝国勲章修道士修道会マルタ騎士団バス勲章ヨーロッパリヴォニア帯剣騎士団レジオンドヌール勲章プール・ル・メリット勲章テンプル騎士団ドラゴン騎士団ドイツ騎士団アヴィス騎士団アーサー王物語エルサレムカラトラバ騎士団ガーター勲章サンティアゴ騎士団円卓の騎士勲章団体秘密結社聖ヨハネ騎士団聖ラザロ騎士団騎士騎士修道会騎士道貴族金羊毛騎士団長弓英語歩兵教皇12世紀14世紀16世紀

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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名誉

名誉(めいよ、honorオナー)とは、よい評判を得ること広辞苑「名誉」であり、能力や行為について、すぐれた評価を得ていることを指す大辞泉「名誉」。今日では、内部的名誉、外部的名誉、名誉感情の3つに分類される。判例によれば、名誉とは、「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値」とされる。民法で保護される名誉は、外部的名誉である。.

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大英帝国勲章

大英帝国勲章(だいえいていこくくんしょう、Order of the British Empire)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(以下、「イギリス」または「英国」と表す)の騎士団勲章 (Order)。"Order"は“勲章”と日本語訳されるヨーロッパの栄典で、元の意味は「騎士団」であり、等級は中世の騎士団の階級制度を模したものである。大英帝国勲章はイギリスの騎士団勲章の中では最も新しく、最も広範囲に与えられ、最も叙勲数の多い勲章である。.

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修道士

修道士(しゅうどうし、)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。.

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修道会

修道会(しゅうどうかい)は、キリスト教の西方教会における組織。カトリック教会においては教皇庁の認可を受けて、キリスト教精神を共同生活の中で生きる、誓願によって結ばれた信徒の組織である。修道会の会員は修道者といわれる。 なお、東方諸教会・正教会・聖公会・ルター派にも修道院制度は存在するが、前二者の東方教会には修道会制度は存在しない。.

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マルタ騎士団

ドス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会(ロドスおよびマルタにおけるエルサレムのせいヨハネびょういんどくりつきししゅうどうかい、Sovrano Militare Ordine Ospedaliero di San Giovanni di Gerusalemme di Rhodi e di Malta)、通称マルタ騎士団(マルタきしだん)は、キリスト教カトリックの騎士修道会である。現在は国家ではないが、かつて領土を有していた経緯から「主権実体」として承認している国々がある。 軍事組織としての意味合いは既に失われて久しいが、医療団体としての活動はあり、イタリア共和国軍の軍医部隊としても運用されている。.

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バス勲章

バス騎士団のマント(文民用) バス勲章 (Order of the Bath) はイギリスの騎士団勲章 (Order) のひとつ。正式タイトルは「The Most Honourable Military Order of the Bath(最も名誉あるバス軍事勲章)」。1725年に現在のような勲章となった。綬の色からレッドリボンとも呼ばれている。 ヨーロッパの“Order”は中世の騎士団に由来、あるいはその制度に倣った栄典制度であり、騎士団へ入団することが栄誉とされていた。やがて騎士団の団員証である勲章も意味するようになり、その授与が栄典と見なされるようになった。このような勲章は他の種類の勲章(decoration等)と区別するために“騎士団勲章” とも表記される。"Order of the Bath" の場合は、休眠状態だった世俗騎士団の名称を受継いだ勲章騎士団である。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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リヴォニア帯剣騎士団

リヴォニア帯剣騎士団、正式名称リヴォニアのキリスト騎士修道会(羅:Fratres Militie Christi de Livonia, 独:Schwertbrüderorden)は、騎士修道会の一つ。刀剣騎士修道会とも呼ばれる。1202年に設立、1237年にドイツ騎士団に吸収された。.

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レジオンドヌール勲章

レジオンドヌール勲章(レジオンドヌールくんしょう、L'ordre national de la légion d'honneur ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジオン・ドヌール、「名誉軍団国家勲章」)は、統領政府期にナポレオン・ボナパルトによって制定されたフランスの栄典制度である。レジオン・ドヌール勲章とも表記されている。現在もフランスの最高勲章として存在する。.

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プール・ル・メリット勲章

プール・ル・メリット勲章 プール・ル・メリット勲章 (Pour le Mérite) は、1740年にプロイセン王国で制定されたの勲章の一つであり、戦功章 (Militärklasse) と平和章 (Friedensklasse) がある。 戦功章は第一次世界大戦終結までのプロイセン軍における最高の名誉勲章であり、俗にドイツ語でブラウアー・マックス (Blauer Max)、英語ではブルー・マックス (Blue Max) とも呼ばれる。 ドイツ革命による帝政廃止に伴い廃止されたが、平和章は1952年に復活した。.

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テンプル騎士団

テンプル騎士団の紋章一頭の馬に跨る二人の騎士は、清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。 テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち()」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。 十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は1096年の第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。.

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ドラゴン騎士団

記章 ドラゴン騎士団(ドラゴンきしだん、ラテン語:Societas Draconistrarum, ハンガリー語:Sárkány Lovagrend, ドイツ語:der Drachenorden)は、1408年にハンガリー王ジギスムント(後に神聖ローマ皇帝を兼ねた)とその妃バルバラ・ツェリスカが創設した騎士団。ハンガリー王室や十字架を守り、その敵と戦うことを掲げた。当初ハンガリーの貴族や国外の名士ら21人を団員とし、後に拡張された。1437年にジギスムントの死によってドラゴン騎士団は没落した。.

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ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。プロイセンなど統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。.

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アヴィス騎士団

アヴィス騎士団(アヴィスきしだん、Ordem Militar de Avis)は、ポルトガルの騎士修道会。エヴォラのサンタ・マリア修道会、聖ベントのアヴィス騎士団、アヴィス王立騎士団などの旧称がある。.

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アーサー王物語

アーサー王像(ペーター・ヴィッシャー作、1480年ごろ、インスブリュック宮廷内教会) アーサー王物語(アーサーおうものがたり)またはアーサー王伝説(アーサーおうでんせつ)とは中世の騎士道物語。.

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エルサレム

ルサレムまたはイェルサレムは、イスラエルおよびパレスチナ自治区にある都市。 イスラエルはエルサレムが自国の「首都」であると宣言しているものの、国際連合など国際社会はこれを認めておらず、イスラエルの首都はテルアビブであるとみなしている。したがって、イスラエルと国交を持つ諸国も、大使館や領事館はエルサレムでなくテルアビブに置いてきた。ただし、2017年になってアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると明言し、さらにアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転する方針を明らかにした。.

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カラトラバ騎士団

ラトラバ騎士団 (Orden de Calatrava)は、スペインで初めて設立された戦闘騎士団(しかし認可を教皇庁から受けたのは2番目)。1164年9月26日、ローマ教皇アレクサンデル3世より認可された。 12世紀にカスティーリャでシトー会の傘下騎士団として設立。カラトラバ・ラ・ヌエバに本拠の城をかまえた。「カラトラバ」とはアラビア語に由来する言葉である。 シトー会派の騎士団は、多くが騎士や騎士の子息らで構成されていたが、カラトラバにおいては正反対に、僧が騎士になった。戦闘でも祈りのどちらでも、個々の欲望であろうがイスラム教徒との戦いであろうが、英雄的な苦闘に耐えた。 騎士団の最初の任務は輝かしいもので、その偉大な働きへの返礼として、騎士団の指揮官たちに新しい領地がカスティーリャ王から贈られた。彼らは既に隣国のアラゴンからも呼ばれており、新しいエンコミエンダ、アルカニスを1179年に与えられた。しかし、これらの成功は不運を招いた。カスティーリャとレオンの領地を巡る争いに巻き込まれた上、失地回復を狙うイベリア半島のイスラム勢力が、アフリカのモーロ人に応援を頼んだ。ムワッヒド朝の強力な侵攻が始まり、最初の対戦はスペイン側の敗北に終わった。 1195年、アラルコスの戦いで、騎士たちは壮麗な騎士道精神にもかかわらず大敗、カラトラバの防壁をやむを得ず手放した。カスティーリャでは騎士団は没落したとみなされ、その噂を信じた隣国アラゴンで、アルカニスの騎士団がカラトラバを継承するありさまだった。アルカニス騎士団は実際に新しい騎士団長に継承させたが、カラトラバの騎士団長はカスティーリャに住み、自分が正統だと訴えた。ついに、アルカニス騎士団の団長は気高くも「アラゴンの偉大なる戦士」の称号をもって、カラトラバ継承から手を引くことに妥協した。 騎士団は、歴代の王たちとともにレコンキスタを戦い、勇猛をとどろかせた。レコンキスタにおいて、カトリック連合軍のめざましい勝利となった1212年のナバス・デ・トロサの戦いにも参戦し勝利に貢献した。1474年、カスティーリャ王エンリケ4世の王位継承問題の際、アラゴン王フェルナンド2世とポルトガル王アフォンソ5世が介入し、騎士団内もどちらにつくかで分裂した。騎士団長ロドリーゴ・ヒロンはポルトガルにつき、彼の部下ロペス・デ・パディージャはアラゴン側に立った。1479年のトーロの戦いでアラゴン側が勝ち、ポルトガルは手を引いた。アラゴン王と和解したヒロンは、1482年のロハの包囲でグラナダ王国と戦った。その後、ロペス・デ・パディージャがヒロンのあとの騎士団長となった。彼は、1487年のグラナダでの戦いで戦死した。 ロペス・デ・パディージャの死後、アラゴン王フェルナンドは新騎士団長選挙のため(ローマ教皇インノケンティウス8世の教書をもって騎士団の管理者となっていた)、招集をかけ、候補者たちに服従を要求した。カラトラバ騎士団の政治的自治は、この時をもって終わりを迎えた。そしてまもなく1492年に、グラナダ陥落とともにムーア人に対するレコンキスタも終了したのである。.

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ガーター勲章

ーター勲章の星章、頚飾およびガーター。 ガーター勲章(ガーターくんしょう、Order of the Garter)は、1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。正式なタイトルは“Most Noble Order of the Garter”(最も高貴なガーター勲章)。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典においても騎士団勲章(order)の最高位であるが、全ての勲章・記章の中ではヴィクトリア十字章とジョージ・クロスが上位に位置付けられている。 騎士団勲章は本来、その騎士団の一員になるという意味を持っており、一般に勲章と呼ばれる記章はその団員章である。ガーター騎士団員の称号は男性が“Knight of the Garter”、女性が“Lady of the Garter”で、騎士のポスト・ノミナル・レターズはそれぞれ“KG”および“LG”と表記される。 モットーは“Honi soit qui mal y pense”(悪意を抱く者に災いあれ)で、勲章にもその文字が刻印されている。勲章の大綬の色がブルーであるため、「ブルーリボン」とも呼ばれている。.

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サンティアゴ騎士団

ンティアゴ騎士団 (Orden Militar de Santiago)は、12世紀にイベリア半島で国家の庇護のもと設立された騎士団。ガリシアとアストゥリアスの聖人・聖ヤコブの旗のもと、イベリア半島のイスラム勢力との戦いで名を成した。この項目では、主としてカスティーリャ王国のサンティアゴ騎士団について記述する。.

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円卓の騎士

300px 円卓の騎士(えんたくのきし、Knights of the Round Table)とは、アーサー王物語においてアーサー王に仕えたとされる騎士。円卓の騎士に関するもっとも古い記述はウァースの著作にみられる。 その名はキャメロットの城にある円卓を囲んだことに由来する。上座下座のない円卓が用いられたのは、卓を囲む者すべてが対等であるとの考えからである。.

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勲章

勲章(くんしょう)は、主に国家あるいはその元首などが個人に対し、その功績や業績を表彰するために与える栄典のうち、章飾の授与を伴うもの、あるいはその栄誉を示す章飾。.

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団体

団体(だんたい)とは、何らかの集合体のことである。具体的には、企業や組合などがこれに該当する。 法的には、社団(人の集合体)や財団(財産の集合体)の意味を持つ。一般的に団体というと、社団の意味として用いられることが多く、特に自然人(個人)の集合体を指すことが多い。 集合体とあるが、定められる法律や規則では一人でも団体と出来る物もある(例として日本で発起人が全出資をして会社を設立した場合、同人の個人サークルなど)。 なお、団体が財団の意味として用いられることは少ないが、まったくないわけではない。.

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王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.

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秘密結社

密結社(ひみつけっしゃ)とは、結社の一形態。一般に団体結社の存在や、組織内の活動などを外部の人間に対して秘匿しているクラブや団体、会を指す。政府などの組織によって組織される機関は含まれない。.

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聖ヨハネ騎士団

聖ヨハネ騎士団(せいヨハネきしだん)は、11世紀に起源を持つ宗教騎士団。テンプル騎士団、ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。 本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としたが、聖地防衛の主力として活躍した。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)ともいい、本拠地を移すに従ってロドス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになった。現在の正式名称は「ロドスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」(Supremus Ordo Militaris Hospitalis Sancti Ioannis Hierosolymitani Rhodius et Melitensis.、Cavalieri dell’Ordine dell’Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme)である。.

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聖ラザロ騎士団

聖ラザロ騎士団(せい-きしだん)は、4世紀に聖バシリウスがカエサリアで創設した病院が起源だと言われている。聖アウグスティノ修道会の会則に従っていたという。 聖地での活動は主に医療活動であったが、軍事活動も行った。1187年のハッティンの戦いに数人の会士が参加し、1244年のガザの戦い(:en:Battle of La Forbie)にも参加したが、どちらの戦いも敗戦で参加した会士は全員戦死した。アッコン陥落後は軍事活動から手を引きハンセン病の治療を主に行った。 13世紀中頃までには主にフランスやイギリスにも所領を得て、他にもスペイン、ドイツ、ハンガリー、スイスなどヨーロッパ各地で所領を取得した。ローマ教皇も数度にわたり聖ラザロ騎士修道会の所領の確認と保護の宣言を行っている。 14世紀頃にイギリス支部とフランス支部は実質的には分裂し、それぞれなる道を歩む事になる。1572年にサボイの聖マウルス修道会を吸収し、1608年にマウント・カルメル修道会と合併したが、18世紀に入る頃には事実上フランス王室の所有物となっており、1772年にローマ教皇がラザロ修道会の認可を取り下げて修道会はローマ教皇から正式に離れてフランス王室に従属する形で世俗化して消滅した。 20世紀に入り、聖ラザロ騎士団は再建された。著名な団員としては、スペインのフランシスコ・フランコ、ルーマニア国王カロル2世、アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、オットー・フォン・ハプスブルクなどがいる。1956年にフランスで再び修道会として再建され、ヨハネ23世から修道会として認可された。そして、現在はスペイン国王フアン・カルロス1世の庇護の下、キリスト教系の慈善団体として活動を続けている。2008年9月、スペイン王室の縁戚であるフランシスコ・デ・ボルボン・エスカサニー、第5代セビリア公爵(:en:Francisco de Borbón y Escasany, 5th Duke of Seville)から、アルマザン侯カルロス・ゲレダ・デ・ボルボンに(:en:Don Carlos Gereda y de Borbon)団長職が引き継がれた。世界50カ国あまりに支部を置き、日本支部も開設されている。.

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騎士

騎士(きし)は、騎乗して戦う者を指す。.

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騎士修道会

騎士修道会(きししゅうどうかい)は、十字軍時代に、聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として創設された中世のローマ・カトリックの修道会のことである。一般には「○○騎士団」と呼ばれることから誤解を受けやすいが、あくまで修道会の一形態であり、その成員の公的身分は修道誓願を立てた修道士であって騎士ではない。後にはイベリア半島と東ヨーロッパでも異教徒との戦いのために活動した。 1118年に創設され1128年に公認されたテンプル騎士団を端緒とし、騎士であり修道士である会員、キリスト教の教会を守護するための戦士と、清貧を旨とする宗教的に優れた人格をともに実現することを目標とする。後には、聖地における巡礼者の救護を目的として設立された聖ヨハネ病院修道会とドイツ人の聖マリア病院修道会も騎士修道会へと発展し、それぞれ聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団と呼ばれるようになった。 テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団は西ヨーロッパの各地に寄進によって数多くの所領を持ち、豊富な財力を背景にパレスチナにおけるムスリムとの戦いに従事した。13世紀末にシリア地方における十字軍の領土が完全に失われると、テンプル騎士団はフランス王権の忌避に遭い解散させられるが、聖ヨハネ騎士団はロドス島に移ってムスリムとの戦いを続けた。 一方、1198年に創立されたドイツ騎士団は聖地での軍事的役割を期待されず、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の勅許を獲得してバルト海南岸のプロイセンとリヴォニアに残る異教徒を十字軍の名目で征服する特権を与えられた。ドイツ騎士団はラトビアのキリスト教化を行っていたリヴォニア帯剣騎士団も吸収し、バルト海南岸に騎士団国家(ドイツ騎士団国)を築き上げる。しかし、ドイツ騎士団はポーランド王国と対立して1410年にタンネンベルクの戦いに敗れて衰え、1525年に騎士修道会総長がルター派に改宗して世俗の領邦のプロイセン公国となった。 聖ヨハネ騎士団のみが主権をもった騎士修道会として存続し、ロドス島からマルタ島を経てローマに移ってマルタ騎士団と呼ばれている。.

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騎士道

岐路に立つ騎士(ヴィクトル・ヴァスネツォフ画、1878) 16世紀ごろの西洋鎧と馬鎧 メトロポリタン美術館展示品 騎士の叙任(エドモンド・レイトン画、1901) 騎士道(きしどう、)は、ヨーロッパで成立した騎士階級の行動規範。.

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貴族

貴族(きぞく)とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する。また貴族階級は伝統的な概念ではあるものの、時に新たな人員を迎え入れ、常に人員は更新され続けている。 貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。フランスでは、貴族階級をものともしないヴォルテールの姿勢がフランス的民主主義の基礎となり、フランス革命でそうした考え方は公認のもの、正統なものとなり、ここに民主主義が実現したとされている。しかし共和制など君主の存在を持たない制度においても貴族制度が存在した場合もある。 西洋では特に青い血という言葉が貴族の血筋を意味する慣用句として用いることがある。ただし、これはあくまでもスペイン語由来のものであるため限定的ではある。日本の場合、貴族の起源について穀物の貯蔵が貴族制度の遠因となったと考える論者もある。.

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金羊毛騎士団

金羊毛騎士団(きんようもうきしだん、、、)は、ブルゴーニュ公フィリップ善良公によって作られた世俗騎士団。英語に基づいてゴールデン・フリース騎士団、フランス語に基づいてトワゾン・ドール騎士団とも。.

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長弓

長弓(ちょうきゅう)は、弓の類型のうち、弓幹の長さが長大なものを指す。弓のもうひとつの類型である短弓が、遊牧民の騎馬弓射などの形でユーラシア大陸内陸部の乾燥地帯で多く用いられたのに対し、長弓は東アジアのモンスーン気候の湿潤地帯と、西ヨーロッパのメキシコ湾流の影響を受ける温暖な地域といわばユーラシア大陸の東西の極で発達した。アフリカ大陸や南米アマゾンの一部の先住民族にも原始的な造りではあるが、長尺の弓が見られる。歴史的には日本の和弓と、グレートブリテン島で発達したロングボウ(ウェールズなどで一部異なる場合がある)がよく知られている。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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歩兵

2歩兵師団所属の歩兵 歩兵(ほへい、Infantry)は、軍隊における兵科の一つであり、戦場を徒歩で行動する兵士のこと。(戦場にたどり着くまでは馬や自動車などさまざまな移動手段を用いても戦場において徒歩であれば歩兵である)。最古かつ最も基本的な兵科であり、歩兵の存在しない軍隊は存在しない。最も柔軟性の高い兵科でもあり、あらゆる戦場で姿を見ることができる。自衛隊用語では普通科という。 いかに軍の機械化が進んでも、諸兵科連合を構成したり、都市・拠点を確保したりするのには歩兵の存在が不可欠である。近年は非対称戦への要求が高まり、占領地の治安維持や平和維持活動に従事する特別な訓練を受けさせた歩兵の需要が増している。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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