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馬江海戦

索引 馬江海戦

江海戦(まこうかいせん)または馬尾海戦は、清仏戦争の緒戦の戦い。フランス海軍のアメデ・クールベ提督率いるフランス極東艦隊が、清朝の福建水師と福州船政局を壊滅させた。.

50 関係: 劉秉璋基隆市外装水雷定遠 (戦艦)左宗棠上海市両広総督広東艦隊張之洞張佩綸張兆棟何如璋何ケイ北洋艦隊ムトゥシャントンキントンキン湾ビン江ビン浙総督デュゲイ・トルーアン (巡洋艦・初代)フランス第三共和政ベトナムアメデ・クールベオチキスコルベットジャンク (船)福州市福州船政局福建省福建艦隊福星 (砲艦)鎮遠 (戦艦)装甲艦西太后馬尾区馬祖島舟山群島船政学堂阮朝藝新 (砲艦)揚武 (スループ)李鴻章欽差大臣水雷艇清仏戦争潮汐1884年8月23日8月26日

劉秉璋

劉 秉璋(りゅう へいしょう、Liu Bingzhang、1826年 - 1905年)は、清末の官僚。字は仲良。安徽省廬江出身。 咸豊10年(1860年)に進士となり、庶吉士に選ばれ編修となった。同治元年(1862年)、李鴻章が結成した淮軍に入り上海に赴き、翌2年(1863年)に江蘇省福山・太倉、浙江省嘉善などを転戦し、太平天国軍の鎮圧に尽力した。また江蘇省・安徽省・山東省・河南省・湖北省で捻軍と戦い、その間に江蘇按察使、江西布政使などの職を授かった。同治14年(1875年)に江西巡撫となるが、光緒4年(1878年)に辞職して郷里に戻った。 光緒9年(1883年)、浙江巡撫として再起用、清仏戦争では寧波に海防営務処を設立して防衛体制を固め、鎮海の戦いでの勝利に貢献した。光緒12年(1886年)には四川総督に任命されたが、光緒21年(1895年)に四川省西部の11県の民衆が反教会運動(教案)を起こしたことに宣教師達は不満を抱き、イギリス・フランス・アメリカ公使が劉秉璋の罷免を朝廷に迫った。朝廷は外国の圧力に屈し、劉秉璋は解任されて郷里に帰った。 category:清代の人物 Category:清代の進士 category:清仏戦争の人物 Category:合肥出身の人物 Category:1826年生 Category:1905年没.

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基隆市

基隆市(きりゅうし/キールンし、基隆市、Keelung)は台湾北部にある省轄市である。高雄港に次ぐ台湾で2番目の貨物取扱量を誇る基隆港を抱え、台湾の貿易・物流の重要拠点である。観光では奠済宮を中心に栄えた夜市(廟口小吃)が特に有名。.

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外装水雷

外装水雷とは長い棒の先に爆弾を装着したもの。敵艦船を突くなどして攻撃する。舳先に取り付けて体当たり攻撃を行うのが一般的であった。 また、初期のものは爆弾本体にトゲがついており、そのトゲによって目標の船体に爆弾を突き刺し、棒に付けられた引き金を引いて爆破するものだった。.

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定遠 (戦艦)

定遠(ていえん、定远)は、清国海軍の戦艦で定遠級の1番艦。同型艦に鎮遠がある。.

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左宗棠

左宗棠 左宗棠 左 宗棠(さ そうとう、1812年11月10日 - 1885年9月5日)は、清朝末期の著名な大臣。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている(文化大革命期に太平天国が持ち上げられると、逆に評価が下がったこともある)。字は季高、湖南省湘陰県出身。老亮と号する。.

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上海市

上海市(シャンハイし、、 ()、呉語発音: 、)は、中華人民共和国の直轄市である。 有数の世界都市であり、同国の商業・金融・工業・交通などの中心地、香港・北京と並ぶ中国最大の都市の一つである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界9位と評価された。 2012年6月時点の常住人口は2,400万人を超え、市内総生産は2兆3,560億元(約45兆円)であり、いずれも首都の北京市を凌ぎ中国最大である。中華人民共和国国務院により国家中心都市の一つに指定されている。 略称は滬(/こ:フー)だが、古称の申(しん:シェン)も用いられる。.

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両広総督

両広総督(りょうこうそうとく、guwangdong guwangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。広東省・広西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。 外国貿易都市である広州を管轄するため対外事案を扱う事も多く、19世紀には三角貿易による銀流出を食い止める難しいポストになった。1840年のアヘン戦争・1856年のアロー戦争では広州は主戦場となるなど外国との衝突も多かったため、1844年には全国に先駆けてそれまで臨時官だった欽差大臣(諸外国との交渉のための全権大使)を常設し、両広総督に兼任させた。.

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広東艦隊

広東艦隊(カントン-かんたい)は清末に南シナ海に配備された艦隊。両広総督の指揮下にあり、母港は広州黄埔に置かれた。またの名を広東海軍とも呼ぶ。 広東艦隊の歴史は1866年(同治5年)から1868年(同治7年)にかけて、当時の両広総督瑞麟が英国、仏国から機走砲艦を購入、巡視、密輸や海賊の取り締まりの任にあたらせた事に遡る。1909年(宣統元年)に広東艦隊は北洋、福建、南洋艦隊と共に巡洋艦隊、長江艦隊の二つに再編され、その歴史を終える。.

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張之洞

張 之洞(ちょう しどう)は清末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで「四大名臣」とも称される。字は孝達、号は香濤・香巌・壺公・無競居士・抱冰。従兄弟に同時代の政治家である張之万、子に張燕卿・張仁蠡、孫に張厚琬(いずれも中華民国の政治家)などがいる。.

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張佩綸

張 佩綸(ちょう はいりん、Zhang Peilun、1848年 ‐ 1903年)は、清末の官僚。字は幼樵、号は蕢斎。直隷豊潤出身。.

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張兆棟

張 兆棟(ちょう ちょうとう、Zhang Zhaodong、1821年 - 1887年)は、清末の官僚。字は友山。 山東省濰県出身。1845年に進士となり、刑部主事、郎中を歴任した。鳳翔府知事であったとき、回民蜂起軍に府城を包囲されたが、援軍が来るまでの16か月間耐え抜いた。この功で四川按察使に昇進した。1865年、広東省に異動となり、布政使に昇進した。当時、左宗棠が嘉応州の太平天国軍を攻撃していたが、食糧が滞りがちであった。しかし張兆棟が担当すると食糧補給に困ることはなくなった。その後、安徽布政使・江蘇布政使を歴任した。 1870年、漕運総督に抜擢された。1871年に広東巡撫となり、闈姓と呼ばれる賭博の禁止に努めた。しかし両広総督の英翰が禁を緩める方針をとったため、これを弾劾した。そのため英翰は解任され、広東省の官僚で闈姓の弛禁論を口にする者はいなくなった。1879年、母の死で郷里に帰ったが、福建巡撫として復職した。 1884年に清仏戦争が勃発すると、福建省と台湾の防衛にあたったが、馬尾での敗戦で解任された。1887年、福建省で没した。 1909年に官職が元に戻され、名誉回復がなされた。.

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何如璋

何如璋(か じょしょう、He Ruzhang、1838年 - 1891年)は、清末の官僚、外交官。字は子峨。広東省大埔出身。 同治7年(1868年)に進士となり、翰林院に入った。光緒3年(1877年)に初代駐日公使となり3年間在職、光緒5年(1879年)の琉球処分に際しては、日本の強行措置に対し強く抗議した。一方で清日の提携路線を模索するも、興亜会など日本側のアジア主義運動に対しては表面的には歓迎を表明していたが、内心では警戒感を抱いていたという。高名な文人であったことから、大河内輝声など私的交流を望む日本の文人墨客の訪問が絶えなかった。著書に『使東述略』があり、駐日公使時代に見聞した明治維新の様子が記述されている。 帰国後は福州船政大臣に任命されたが、清仏戦争時の馬江海戦で砲声に驚いて張佩綸と共に逃亡してしまった。これにより11隻の艦艇を失い、700人の兵が死亡し、馬尾船廠を破壊されるという損害を出したため、責任を問われ免職となった。その後、両広総督李瀚章の招きで韓山書院の主講となった。.

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何ケイ

何 璟(か けい、He Jing、1816年 - 1888年)は、清末の官僚。字は伯玉、号は小宋。広東省香山出身。 道光23年(1843年)に挙人となり、道光27年(1847年)に進士となった。同治3年(1864年)、安徽按察使・布政使代理となり捻軍の鎮圧に尽力した。同治4年(1865年)には湖北布政使、更に山西布政使に転任となった。 同治9年(1870年)より福建巡撫、山西巡撫、江蘇巡撫、両江総督、弁理通商事務大臣を歴任、光緒2年(1876年)に閩浙総督・福州将軍となり、光緒5年(1879年)から福建巡撫を兼ねた。光緒10年(1884年)の清仏戦争の際には沿岸部と台湾の防衛の責任者となったが、8月の馬江海戦でフランス艦隊が福州馬尾造船所を襲撃すると、援軍をすぐに送らずに機をうかがって逃走したために、戦争終結後免職となった。 晩年は広東省の応元書院で講義を行った。著作には『春秋大義録』『事余軒詩』がある。 category:清代の人物 category:清仏戦争の人物 Category:中山出身の人物 Category:清代の進士 Category:1816年生 Category:1888年没.

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北洋艦隊

北洋艦隊(ほくようかんたい)は、光緒14年(1888年)に編成された清朝の李鴻章の艦隊である。清国では北洋水師と呼ばれた。母港は威海衛、旅順。創設者は北洋通商大臣兼直隷総督の李鴻章で司令官は提督丁汝昌。日清戦争において大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊滅した。.

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ムトゥシャン

ムトゥシャン(ᠮᡠᡨᡠᡧᠠᠨ 転写:mutušan、穆圖善、1823年? - 1886年)は清朝の軍人。字は春巌。 満州鑲黄旗人。ナラタ氏(narata hala、那拉塔氏)。黒龍江チチハル出身。直隷省、山東省、山西省、河南省、安徽省を転戦して、捻軍や太平天国軍と戦い、バトゥルの称号を得た。1862年、ドロンガに従い陝西省に入り、太平天国の陳得才軍を破った。1864年にドロンガが戦死すると、欽差大臣代理、さらに荊州将軍に任じられ、劉蓉とともに陝西省の軍務にあたった。太平天国軍・捻軍・回民蜂起軍と戦い、1866年には陝甘総督代理となった。 1875年、正白旗漢軍都統代理となり吉林で馬賊の討伐にあたった。その後、青州副都統やチャハル都統を歴任した。1879年に福州将軍となり、清仏戦争では左宗棠の軍務を補佐し、長門(連江県琯頭鎮)でフランス軍を破った。1885年、欽差大臣に任命され、東三省で軍務にあたった。死後、果勇の諡号が贈られた。.

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トンキン

トンキン(黄緑) トンキン(、)は、紅河流域のベトナム北部を指す呼称にして、この地域の中心都市ハノイ(河内)の旧称である。 フランスの植民地体制下においては、フランス領インドシナを構成するハノイを中心としたベトナム北部の保護領を指す名称として使用された。現在では、ベトナム北部を指す名称としてトンキンは余り用いられないが、バクボ(北部)湾の通称である「トンキン湾」は使用されている。.

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トンキン湾

トンキン湾(トンキンわん、Gulf of Tonkin)は、ベトナムと中国・海南島に挟まれた湾。トンキンの漢字表記は「東京」であり、「東の都」を意味する。しかし、現在のベトナムではバクボ湾(北部湾)(, Bac Bo Gulf)であり、中国でも北部湾()と呼ぶようになってきている。これは、日本の東京湾と混同されるおそれがあるためだといわれる。なお、「東」を「Ton」と読むのは閩語や呉語の発音であり、ベトナム語では「đông」である。.

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ビン江

閩江(びんこう、ミンチャン)は、中華人民共和国の河川。福建省最大の河川で、38の県を流れており、全長は2500km(支流と577kmの本流を含む)流域面積は60922 km2で、全省面積の半分を占める。輸送砂泥量は年平均751万tである。.

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ビン浙総督

閩浙総督(びんせつそうとく、fugiyan jegiyang ni uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。浙江省・福建省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。.

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デュゲイ・トルーアン (巡洋艦・初代)

デュゲイ・トルーアン (Duguay-Trouin) はフランス海軍が建造した機帆走巡洋艦で同型艦はない。設計はエイノード。フランス海軍の二等巡洋艦で初めて鋼製船体を採用した。.

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フランス第三共和政

フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい、Troisième République)は、普仏戦争さなかの1870年に樹立したフランスの共和政体。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー・フランス成立まで存続した。 初期は議会で君主制の復権を掲げる勢力が多数だったが、君主の性質などをめぐりボナパルティスト・王党派など様々な対立があり機を逃した。最終的にレジティミストの推すシャンボール伯アンリが1883年に没すると世論は共和政容認が大勢となり、選挙でも共和派が多数を占めた。結果として、王政復古の望みは潰えて「共和政」の名が公的に現れるようになった。 1875年憲法は第三共和制にその基礎となる二院制(上院(元老院)と下院(代議院))の一元主義型議院内閣制を制定した。また、任期7年の共和国大統領が名目的元首となり両院による多数決で選出されることが定められた。 第三共和制下では新たな植民地、インドシナ、マダガスカル、ポリネシア、大規模な領土西アフリカを含むアフリカ領土を20世紀までに獲得した。 20世紀初頭の議会政治は中道右派の民主共和同盟によって進められた。そもそも民主共和同盟は中道左派勢力と結集したが、共和制が定着するにつれて保守勢力となった。第一次世界大戦以降、特に30年代後半に急進党を中心にした左派との政治的対立が激化した。第二次世界大戦によるナチスドイツによる占領、フィリップ・ペタンを主席とするヴィシー政権が誕生したことでフランス第三共和政は終焉を迎えた。 フランス第三共和政は70年で歴史を終えたが、1789年のアンシャン・レジーム崩壊以降の政体としては現在のフランス第五共和政も含めて最長のものとなった。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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アメデ・クールベ

アメデ・クールベ(Amédée Courbet, 1827年6月26日 – 1885年6月11日)は19世紀のフランスの提督。特にアジアで活躍した。ポリテクニシャン(エコール・ポリテクニークの卒業生)である。 クールベは1827年に3人兄弟の末としてアブヴィルで生まれた。クールベが9歳の時父が亡くなった。 1880年から1882年までニューカレドニアの総督を勤めた。1883年にトンキンの海軍部隊の指揮官となった。クールベは皇帝の後継争いで混乱していた阮朝ベトナムの都フエを砲撃し、安南をフランスの保護国とした。 1884年、クールベは在中国フランス軍全てを指揮下に置き()、清仏戦争を戦った。クールベは1884年の馬江海戦で清の福建艦隊を破り、福州船政局を破壊した。また、台湾の侵攻と封鎖を行って、澎湖諸島を占領し、台湾南部の基隆を1884年10月1日から1885年7月まで占拠した。 クールベは、清及び黒旗軍との講和を定めた天津条約が結ばれた2日後の1885年6月11日に、台湾で死去した。.

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オチキス

チキス(Hotchkiss )は1904年から1954年まで武器・兵器、自動車を製造したフランスのメーカー。アメリカ合衆国出身の技術者であるベンジャミン・ホチキス(Benjamin B. Hotchkiss)が1867年に設立した工場が母体である。.

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コルベット

ルベット(Corvette)は軍艦の艦種の一つ。一層の砲甲板を持ち、大きさはフリゲートよりも小さかった。 近世から近代にかけて用いられた帆柱が3本の軍艦として、18世紀末から19世紀にかけてフリゲート同様商船の護衛や沿岸警備等に使われたが、海防艦などにその任を譲り、20世紀前半に消滅した。 今日使用されているコルベットは単にフリゲートより小さい軍艦をさしている。 なお、フリゲートの項でも述べられているが、コルベットのことをコルベット艦と称することがある。.

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ジャンク (船)

ャンク(戎克、Junk)は、中国における船舶の様式の1つ。古くから用いられてきた木造帆船だが、物資・貨客の輸送業務においては、19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した。独特のスタイルは絵画や写真の題材として好まれており、今日では観光用として用いられている。.

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福州市

福州市の衛星画像 19世紀後半の福州市の様子 金山寺(1871年頃) 台江区の夜景 福州市(ふくしゅうし、、、、閩東語: フッチュ)は、中華人民共和国福建省の省都である。榕城(ようじょう、)とも称される歴史の古い町で、国家歴史文化名城に指定されている。明清代には琉球館が設置され、琉球王国との交易指定港であった。.

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福州船政局

福州船政局(ふくしゅうせんせいきょく)または馬尾船政局は李鴻章や左宗棠の指導下行なわれた洋務運動により設立された、中国の造船所のうちの一つである。福州馬尾の閩江を僅かに遡った場所に位置した。.

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福建省

福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。.

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福建艦隊

福建艦隊(ふっけんかんたい)または福建水師(ふっけんすいし)は、清朝末期の4つの近代的な地域艦隊の1つであり、福建省沿海の防衛を担当していた。.

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福星 (砲艦)

福星 (ふくせい、Fuxing) は清国水軍の機帆走砲艦湄雲級の一隻である。.

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鎮遠 (戦艦)

鎮遠(ちんえん, Zhen Yuen)は、清国海軍がドイツのフルカン・シュテッティンに発注して建造した甲鉄砲塔艦「定遠級」の1隻。建造当時東洋一の堅艦と呼ばれた。日清戦争において日本海軍に鹵獲され、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。.

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装甲艦

装甲艦(そうこうかん)は鉄ないし鋼の装甲を施した軍艦を指す用語である。日本では甲鉄艦ともいい、明治時代にはより一般的な名称であった。装甲艦という種別は装甲の存在を表すものであり、艦の用途や艦形に関するものではない。そのため動力も手漕ぎ、帆走や蒸気機関による機走などさまざまなものが用いられ、船の大きさも数百トン程度から一万トンに及ぶものまで、実に様々であった。 なお、19世紀末以降20世紀前半の戦艦、装甲巡洋艦から発展した巡洋戦艦も、19世紀以来の定義では装甲艦であるが、今日ではこれらを別分類とし、初期の装甲艦のみを指す艦種名称として用いられることが多い。.

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西太后

ランダの画家によって描かれた油絵 宦官に担がれた神輿に乗る西太后 西太后と外国の婦女 西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。孝欽顕皇后(こうきんけんこうごう、満洲語:、転写:hiyoošungga gingguji iletu hūwangheo)、または慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ)とも呼ばれる。 中国語では「慈禧太后(Cíxǐ Tàihòu ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xī Tàihòu シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。 紫禁城内における3人の皇太后の住む場所によって、中宮、東宮(東太后)(第2婦人・ニオフル氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西宮(西太后)(第3夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。.

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馬尾区

尾区(ばびく)は中華人民共和国福建省福州市に位置する市轄区。.

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馬祖島

島(ばそとう)は、中華民国(台北政府)福建省連江県に属する諸島。中華人民共和国は福建省連江県馬祖郷に属すると主張している。 名は媽祖に由来する。別称は馬祖列島。.

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舟山群島

舟山群島(しゅうざん-ぐんとう、 Zhōushān Islands)は中華人民共和国浙江省で東シナ海海上に浮かぶ群島。行政的には浙江省舟山市を形成する大小1,339個の島嶼。総水域は22,200平方キロメートル、うち陸地面積は1,371平方キロメートル。 2006年4月より中国飛龍専業航空がヘリコプターZ-9による群島間の航空便を開始し、中国国内初の短距離ヘリコプター営業路線となった。.

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船政学堂

船政学堂(せんせいがくどう)は、清代の船政大臣沈葆楨が1866年に福建福州馬尾港に開設した海軍学校。福建船政学堂,福州船政学堂、馬尾水師学堂とも称される。船政学堂は設立当初求是堂芸局と称され、福建における海事人材育成を目的に設置された。当初は外国人教官を招聘し造船、航海学の専門知識を教授し、卒業生の中で学業優秀な者はヨーロッパに派遣された。船政学堂は中国海軍の揺籃であり、近代中国初の海軍及び航海学校という位置づけ以外に、現在の軍事学院の嚆矢としての存在でもある。卒業生はその後多くが北洋艦隊の高級将官となるほか、各方面での知識人として活躍している。.

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阮朝

阮朝(グエンちょう、げんちょう、)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。 西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南国の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した。都は順化/トゥアンホア、富春/フースアン(いずれも現在のフエ)。.

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藝新 (砲艦)

藝新 (げいしん、I hsin) は清国水軍の木造機帆走河川砲艦で同型艦はない。.

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揚武 (スループ)

揚武 (ようぶ、Yangwu) は清国水軍の機帆走スループで同型艦はない。.

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李鴻章

李 鴻章(り こうしょう、、1823年2月15日(道光3年1月5日) - 1901年11月7日(光緒27年9月27日))は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。.

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欽差大臣

欽差大臣(きんさだいじん、ᡥᡝᠰᡝ ᡳᠲᠠᡣᡡᠷᠠᡥᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:hese i takūraha amban)は、清朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。 ただ本来は臨時官であったが、中には時代の変遷と共に常設化したものもある。たとえば総督や巡撫といった官は明代の欽差官が定着したものである。すなわち欽差大臣と呼称されるものには、臨時と常設のものとの2種類があるといって良い。以下に挙げるのは本来の意味での臨時の欽差大臣である。.

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水雷艇

水雷艇(すいらいてい、torpedo boat)とは、各国海軍で使用されていた水雷装備で敵を攻撃する小型艦艇である。日本では通常、魚雷を主兵装とする魚雷艇とは区別されるが、水雷艇を魚雷艇ということもある。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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清仏戦争

清仏戦争(しんふつせんそう、、、Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、Guerre franco-chinoise)は、1883年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。 フランスが領土領有を達成したためフランスの勝利と考えられているが、士気旺盛な黒旗軍との戦いでは軽視できない損害も被った。.

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潮汐

潮汐(ちょうせき、tide)とは、主として月と太陽の引力によって起きる、海面の昇降現象『日本大百科全書』(ニッポニカ)。海岸などでみられる、1日に1~2回のゆっくりした海面の昇降(上昇したり、下降したりすること)。「潮の干満(しおのかんまん)」とも。大和言葉で「しお」ともいう。漢字では潮と書くが、本来は「潮」は「朝のしお」、「汐」は「夕方のしお」という意味である。なお原義としてはこれだが一般には海に関するいろいろな意味で「潮」が(まれに「汐」も)使われる。 上述のように潮汐は主に月の引力の影響(潮汐力)で起きるわけだが、それ以外の要因でも起きており、気圧差や風によるものを気象潮という。代表的な気象潮は高潮(たかしお)である。気象潮と区別するため、潮汐力による潮汐を天体潮・天文潮ということがある。 潮汐にともない、表面が下がるところから上がるところへ流体が寄せ集められるために流体の流れ(水平動)が生まれる。これを潮汐流(「潮流」とも)という。日常的な表現としては「潮汐」という言葉がこれを指していることもある。 海面の潮汐である海洋潮汐・海面潮汐が最も認知されているが、実際には湖沼などでも十分に大きなものであれば(たとえば日本なら琵琶湖や霞ヶ浦程度の大きさがあれば)起こる。 なお、地球以外の天体でも、周囲の天体の引力の影響を受け天体の表面の液体が上下する現象は起きうる。.

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1884年

記載なし。

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8月23日

8月23日(はちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から235日目(閏年では236日目)にあたり、年末まであと130日ある。.

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8月26日

8月26日(はちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から238日目(閏年では239日目)にあたり、年末まであと127日ある。.

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