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難太平記

索引 難太平記

『難太平記』(なんたいへいき)は、今川貞世(出家後は了俊)が応永9年(1402年)に完成させた書物。.

19 関係: 南北朝時代 (日本)大内義弘太平記室町時代上杉憲房 (南北朝時代)中先代の乱今川範国今川貞世今川氏応永応永の乱北畠顕家細川清氏群書類従足利尊氏足利義満足利直義足利氏1402年

南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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大内義弘

大内 義弘(おおうち よしひろ)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊守護。大内家の第25代当主。 第24代当主・大内弘世の嫡子。弟に満弘、盛見(第26代当主)、弘茂など。子に持世(第27代当主)、持盛、教祐がいる。幼名は孫太郎、のち元服して室町幕府第2代将軍・足利義詮より偏諱を受け義弘と名乗る。 室町幕府に従って多くの功績を立てた名将で、大内家の守護領国を6か国にまで増加させて大内家最初の全盛期を築く。しかし功を立てすぎ、さらに領国を増やしすぎた事が有力守護大名を危険視する足利義満に目をつけられ、応永の乱を起こすも敗死した。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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上杉憲房 (南北朝時代)

上杉 憲房(うえすぎ のりふさ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。上杉氏3代当主。室町幕府初代将軍・足利尊氏やその弟・直義の母方の伯父。.

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中先代の乱

中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。.

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今川範国

今川 範国(いまがわ のりくに)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名。駿河今川氏の初代当主。.

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今川貞世

今川 貞世(いまがわ さだよ)は、鎌倉時代後期から南北朝・室町時代の武将、守護大名。室町幕府の九州探題、遠江、駿河半国守護。九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねた。歌人としても名高い。法名は了俊(りょうしゅん)で、今川了俊と呼ばれる事も多い。没年は異説あり。.

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今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。.

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応永

応永(おうえい、旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1427年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。.

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応永の乱

応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。.

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北畠顕家

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.

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細川清氏

細川 清氏(ほそかわ きようじ)は、南北朝時代の武将、守護大名。室町幕府2代将軍足利義詮の執事、伊勢・伊賀・若狭守護。.

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群書類従

『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。 塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。 歴史学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。 南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。.

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足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。 将軍尊氏を補佐して政務面を統括し、草創期室町幕府の体制は尊氏・直義兄弟による「二頭政治」だったと言われるが、実際は将軍就任当初から尊氏はすでに隠居状態にあり、幕政の運営は直義の下で行われていた。それでも、清和源氏の嫡流であり武将としての器量にも優れる尊氏は全国の武士を統合する機能を果たしており、直義が取って代わることはできなかった。 尊氏の執事高師直との間に派閥対立を生じ、師直の追い落としを図り却って失脚したものの、やがて南朝と結んで師直一族を討ち幕政を掌握した。しかし対立は尊氏・直義両者による全国を巻き込む戦乱に発展し、直義は東国に逃れたが最後は鎌倉に幽閉され急死を遂げた(観応の擾乱)。.

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足利氏

足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。本姓は源氏。家系は清和天皇清和源氏の一族の河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。室町時代には嫡流が足利将軍家として天下人となった。藤原秀郷の子孫の藤原姓足利氏(藤姓足利氏)に対して源姓足利氏という場合がある。 通字は、「義」(よし、足利将軍家ほか)または「氏」(うじ、鎌倉時代の歴代当主および鎌倉公方・古河公方家など)。.

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1402年

記載なし。

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