29 関係: 大安寺、大乗院、大和国、寛治、一乗院、平安時代、康和、延久、僧、僧綱、別当、唯識、因明、興福寺、門跡、長谷寺、長暦、永保、永長、法相宗、源雅兼、1038年、1073年、1082年、1087年、1096年、1100年、7月14日 (旧暦)、8月21日。
大安寺
大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。.
大乗院
大乗院(だいじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。.
大和国
大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.
寛治
寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.
一乗院
一乗院(いちじょういん)は奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一つ。天禄元年 (970年) 、興福寺別当定昭によって建立される。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
康和
康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.
延久
延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.
僧
僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.
僧綱
僧綱(そうごう)とは日本における仏教の僧尼を管理するためにおかれた僧官の職である。.
別当
別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。.
唯識
唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。.
因明
因明(いんみょう、サンスクリット:हेतुविद्या hetu-vidyā)とは、インドでおこなわれていた広義の論理学を指すものの仏教での表現で、近年は仏教論理学などとも言われる。五明(声明・工巧明・医方明・因明・内明)の一つとされ、独立した学問分野として重視された。.
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。.
門跡
跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.
長谷寺
二本の杉 長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山、院号を神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は輪違い紋。 大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。 大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。.
長暦
長暦(ちょうりゃく)は、日本の元号の一つ。長元の後、長久の前。1037年から1040年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇。.
永保
永保(えいほう、えいほ)は、日本の元号の一つ。承暦の後、応徳の前。1081年から1083年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.
永長
永長(えいちょう)は日本の元号のひとつで嘉保の後、承徳の前。1096年 - 1097年の期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.
法相宗
法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する、中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年(唐代、貞観19年)中インドから玄奘が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師基(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして、8-9世紀に隆盛を極めた。.
源雅兼
源 雅兼(みなもと の まさかね、承暦3年(1079年) - 康治2年11月8日(1143年12月15日))は、平安時代後期の公卿。村上源氏の出で、右大臣・源顕房の八男。従三位・権中納言。薄雲中納言と呼ばれた。 白河院の近臣として信任厚く、長治元年(1104年)堀河天皇の五位蔵人となり、嘉承2年(1107年)の崩御まで務める。天永2年(1111年)からは鳥羽天皇の五位蔵人を務め、弁官の労にて永久5年(1117年)正月、従四位下に叙される。保安3年(1122年)から、鳥羽・崇徳二代の蔵人頭を務め、大治5年(1130年)十月参議左大弁となる。天承5年(1131年)に従三位・権中納言に至る。長承3年(1134年)治部卿を兼ね、長承4年(1135年)病気により辞職して出家。礼部禅門と呼ばれた。 学才に優れ、朝廷の政務にも通じており、白河院・鳥羽院の信頼が厚かった。白河院は藤原通俊や大江匡房と並んで評価をしたといい(『古事談』)、鳥羽院は雅兼の出家後も、しばしば呼び出して重要事について相談したとされる(『今鏡』300段)。また、源師時は、天下を支える名臣として、源師時・藤原忠宗・源師俊とともに雅兼を挙げている(『長秋記』長承2年9月5日条)。 詩歌もよくし、家集として『中納言雅兼卿集』(83首)がある。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に9首が入集。.
1038年
記載なし。
1073年
記載なし。
1082年
記載なし。
1087年
記載なし。
1096年
記載なし。
1100年
記載なし。
7月14日 (旧暦)
旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.
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8月21日
8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.
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竜禅。