261 関係: 史生、吉川弘文館、坂上大野、坂上当道、坂上田村麻呂、坂上鷹養、坂上氏、多治比宇美、多治比浜成、大宝律令、大伴家持、大伴益立、大伴駿河麻呂、大国、大舘晴光、大野東人、大江広元、大日本古記録、天安 (日本)、天平、天平宝字、天平神護、天仁、天応 (日本)、奥州藤原氏、宝亀、官位相当制、安元、安倍貞行、安達氏、安達泰盛、安部氏、寿永、寛治、小野岑守、小野氏、小野春枝、岩波書店、島津久豊、島津忠国、島津忠恒、島津忠昌、島津元久、島津勝久、島津立久、島津貴久、島津氏久、巨勢野足、上毛野小足、上毛野広人、...、中右記、三諸大原、三浦義同、平貞盛、平氏、幕末、康和、康治、井上光貞、仁平、令義解、延喜式、延暦、仙台藩、伊達吉村、伊達宗村 (仙台藩主)、伊達忠宗、伊達綱宗、伊達綱村、伊達重村、伊達氏、伊達斉宗、伊達斉義、伊達斉邦、伊達斉村、伊達政宗、伊達慶邦、伴春宗、弘仁、弘仁格、佐伯全成、佐伯葛城、佐伯耳麻呂、佐伯清岑、佐々成政、後三年の役、後二条師通記、後醍醐天皇、後村上天皇、従七位、従五位、従八位、保延、保元、土田直鎮、北畠顕家、北条宣時、北条宗宣、北条維貞、北条義時、北条貞直、北条重時、北条業時、北条氏、北条政村、北条時茂、北条時村 (政村流)、嘉保、和銅、内蔵全成、出羽国、入間広成、公卿補任、兵範記、前九年の役、国史大系、国司、四条隆親、石川名足、石川年足、玉葉、神護景雲、稲岡耕二、穴山信君、笹山晴生、紀古佐美、紀広純、続日本紀、田中多太麻呂、目 (国司)、白藤禮幸、百済王敬福、百済王教俊、鎮守府将軍、蝦夷、青木和夫、類聚三代格、養和、養老、養老律令、親王任国、貞観 (日本)、越後国、足利尊氏、足利義氏 (足利家3代目当主)、足利泰氏、黒板勝美、関晃、藤原基家 (陸奥守)、藤原基頼、藤原基成、藤原実宗、藤原実方、藤原宗忠、藤原師綱、藤原師通、藤原秀衡、藤原範季、藤原登任、藤原葛野麻呂、藤原良経、藤原雅隆、藤原氏、藤原朝狩、良岑経世、陸奥守吉行、陸奥守忠吉、陸奥将軍府、陸奥国、陸奥話記、陸奥間違い、掾、林陸朗、東京大学史料編纂所、正七位、正五位、正六位、武家官位、武田信虎、毛利元就、毛利氏、永久 (元号)、治承、清原氏、清和源氏、源忠重、源信雅、源国俊、源義家、源義綱、源頼俊、源頼義、源頼朝、源満政、本朝世紀、按察使、日下部大麻呂、日本古典文学大系、日本三代実録、日本後紀、日本紀略、日本思想大系、1088年、1093年、1094年、1099年、1103年、1108年、1113年、1135年、1143年、1152年、1153年、1157年、1176年、1179年、1181年、1184年、701年、708年、709年、720年、724年、737年、743年、746年、747年、749年、750年、752年、757年、762年、764年、767年、769年、771年、773年、775年、777年、780年、781年、782年、785年、787年、790年、791年、792年、800年、806年、808年、811年、812年、815年、859年、863年、865年、866年、867年、870年、874年、875年。 インデックスを展開 (211 もっと) »
史生
史生(ししょう)とは、日本の律令制において官司の四等官の下に置かれた職員のこと。官司の書記官に相当し、公文書を作成して四等官の署名を得ることを職掌とした。.
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
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坂上大野
坂上 大野(さかのうえ の おおの、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。大納言・坂上田村麻呂の長男。官位は従五位下・陸奥権介。.
坂上当道
坂上 当道(さかのうえ の まさみち、弘仁4年(813年) - 貞観9年3月9日(867年4月17日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。右兵衛督・坂上浄野または右兵衛督・坂上広野の子。官位は従五位上・陸奥守。.
坂上田村麻呂
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。 忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。 坂上宝剣では坂家。.
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坂上鷹養
坂上 鷹養(さかのうえ の たかかい、生年不詳 - 弘仁8年閏4月16日(817年6月4日))は、平安時代初期の貴族。左京大夫・坂上苅田麻呂の六男。官位は従四位下・武蔵守。.
坂上氏
坂上氏(さかのうえうじ)は、「坂上」を氏の名とする氏族。坂上直姓、坂家とも。 代表的な人物に征夷大将軍の坂上田村麻呂がいる。田村麻呂の後には史書に見える中で陸奥守や陸奥介、鎮守府将軍や鎮守府副将軍など、陸奥国の高官が多く輩出されている。また清水寺別当、、右兵衛督、大和守、明法博士、左衛門大尉、検非違使大尉等を世襲した。.
多治比宇美
多治比 宇美(たじひ の うみ/うさみ、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。名は海、宇佐美とも記される。右大弁・多治比国人の子。官位は従四位上・右中弁。.
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多治比浜成
多治比 浜成(たじひ の はまなり、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。系譜は明らかでないが、中納言・多治比縣守の孫で、右大弁・多治比国人の子とする系図がある。子に多治比縄主がいる。官位は従五位上・征夷副使。.
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大宝律令
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。.
大伴家持
大伴 家持(おおとも の やかもち)は、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。 『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残すを生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。.
大伴益立
大伴 益立(おおとも の ますたて、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。従三位・大伴古慈悲の子。官位は正五位上・兵部大輔、贈従四位下。.
大伴駿河麻呂
大伴 駿河麻呂(おおとも の するがまろ、生年不詳 - 宝亀7年7月7日(776年7月26日)は、奈良時代の公卿。大納言・大伴御行の孫『勅撰作者部類』。父は不詳だが参議・兄麻呂と推定する文献もある。官位は正四位上・参議、贈従三位。勲等は勲三等。.
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大国
大国(たいこく)とは、.
大舘晴光
大舘 晴光(おおだち はるみつ、生年不詳 - 永禄8年4月28日(1565年6月6日))は、戦国時代の武将。室町幕府幕臣。大舘尚氏(常興)の子。 家の慣例により、室町幕府第12代将軍足利義晴より偏諱を受け、晴光と名乗る。のちに、弟の藤安(ふじやす)と嫡男の輝光(てるみつ)も第13代将軍足利義輝(初め義藤、義晴の子)から偏諱の授与を受けている。 大舘氏(「大館」とも表記する)は足利氏と同族の新田氏支族であり、代々室町幕府の重職を務めてきた家柄で、父は有職故実の専門家として知られていた。また、姉(または妹)が将軍足利義晴の側室であった事から足利将軍家の覚えもめでたく、永禄2年(1559年)には従四位下に叙せられ、左衛門佐・上総介・陸奥守などを歴任した。 将軍義輝が最も重要視していた越後の長尾景虎(上杉謙信)との交渉の責任者であり、永禄2年(1559年)に景虎が上洛した際には接待役に任じられている。また、成功はしなかったものの、義輝の命により景虎と北条氏康との和睦交渉の仲介役にあたった。 Category:室町幕府奉公衆 Category:戦国武将 はるみつ Category:生年不明 Category:1565年没.
大野東人
大野 東人(おおの の あずまびと、生年不詳 - 天平14年11月2日(742年12月7日))は奈良時代の武人。糺職大夫・大野果安の子。姓は君のち朝臣。官位は従三位・参議。.
大江広元
大江 広元(おおえ の ひろもと、旧字体:廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。.
大日本古記録
『大日本古記録』(だいにほんこきろく、だいにっぽんこきろく)は、1952年から現在まで東京大学史料編纂所で刊行が続けられている日本史史料集。2008年時点で既刊は121冊。.
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天安 (日本)
天安(てんあん/てんなん)は、日本の元号の一つ。斉衡の後、貞観の前。857年から859年までの期間を指す。この時代の天皇は文徳天皇、清和天皇。.
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天平
天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.
天平宝字
天平宝字(てんぴょうほうじ、正字体:天平寶字)は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。757年から765年までの期間を指す。この時代の天皇は孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇重祚)。.
天平神護
天平神護(てんぴょうじんご)は、日本の元号の一つ。天平宝字の後、神護景雲の前。765年から767年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。.
天仁
天仁(てんにん)は、日本の元号の一つ。嘉承の後、天永の前。1108年から1109年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.
天応 (日本)
天応(てんおう、正字体:天應)は、日本の元号の一つ。宝亀の後、延暦の前。西暦の781年から782年に相当する。この時代の天皇は光仁天皇、桓武天皇。.
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奥州藤原氏
毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。.
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宝亀
宝亀(ほうき、正字体:寶龜)は、日本の元号の一つ。神護景雲の後、天応の前。770年から781年までの期間を指す。この時代の天皇は光仁天皇。.
官位相当制
官位相当制(かんいそうとうせい)とは、日本の律令制において、官人に付与する位階と官職との間に一定の相当関係を設定した官僚序列システム。.
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安元
安元(あんげん)は、日本の元号の一つ。承安の後、治承の前。1175年から1177年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.
安倍貞行
安倍 貞行(あべ の さだゆき、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。大納言・安倍安仁の子。官位は従四位上・大宰大弐。.
安達氏
安達氏(あだちし、あだちうじ)は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。藤原氏魚名流を称する。 家紋は連銭。.
安達泰盛
安達 泰盛(あだち やすもり)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。安達義景の三男。評定衆、御恩奉行。 鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。 元寇にあたって御恩奉行を務め、自邸で竹崎季長の訴えを聞く姿が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。.
安部氏
安部氏(あんべし)は、信濃国の名族滋野氏系の武家の氏族。南北朝期には諏訪神党に属し、後に駿河に移住して江戸期は武蔵岡部藩として存続した。.
寿永
寿永(じゅえい、正字体:壽永)は、日本の元号の一つ。養和の後、元暦の前。1182年から1183年までの期間を指す。この時代の天皇は安徳天皇と後鳥羽天皇。後白河法皇の院政期。 源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方ではこの元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。.
寛治
寛治(かんじ)は、日本の元号の一つ。応徳の後、嘉保の前。1087年から1094年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.
小野岑守
小野 岑守(おの の みねもり)は、平安時代初期の貴族・文人。征夷副将軍・小野永見の三男。.
小野氏
小野氏(おのうじ)は、「小野」を氏の名とする氏族。 7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族である。姓ははじめは臣であったが、八色の姓により朝臣に列せられた。孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥氏の枝氏である。 源盛義を祖とし、美濃国小野に住んだことから小野を名乗った清和源氏義光流平賀氏系小野氏(武家)など、地名にちなむ小野氏もある。.
小野春枝
小野 春枝(おの の はるえだ、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。従五位上・小野石雄の子。官位は従五位上・陸奥権守。.
岩波書店
株式会社岩波書店(いわなみしょてん、Iwanami Shoten, Publishers. )は、日本の出版社。.
島津久豊
島津 久豊(しまづ ひさとよ)は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第8代当主。6代当主・島津氏久の次男で元久の弟。母は佐多忠光の娘。子に忠国、用久、季久、有久、豊久。 応永8年(1401年)頃に日向の伊東氏を牽制するために伊集院久氏の後任として日向国穆佐城に派遣される。だが、伊東祐安の娘を娶って和睦しようとしたところを当主である兄・元久に反対されたことを機に不仲になった。その後、応永10年(1403年)に祐安の娘との間に嫡子の忠国を儲けている。両者の対立は一時は元久が伊東氏ともども久豊を討つ話まで出たものの、最終的には応永17年(1410年)に上洛する元久が日向に立ち寄って久豊と会見するまで続いた 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0。 応永18年(1411年)8月に兄が死去、甥の仲翁守邦は出家していたため、兄から後継者に決められていた甥の伊集院煕久が継承することになった。だが、久豊は閏10月になって鹿児島に乗り込んで元久の位牌を奪取した上で煕久を追放し8代当主となった。久豊の強引なやり方により国内が久豊派・伊集院氏派に分かれて争いになり、伊集院頼久(久氏の子で煕久の父)と衝突した。久豊には穆佐城に近く元久時代に権力を振るった伊集院氏を嫌う大隅・日向の一門・家臣が、頼久には薩摩の一門・家臣及び大隅の肝付兼元が支持し、更に総州家の島津久世もが頼久を支援した。さらに応永19年(1412年)には義兄である伊東祐立が離反して久豊の居城であった日向の穆佐城を奪って妹である久豊室と2人の息子(忠国・友久)を捕らえようとしたが、落城寸前に樺山教宗・北郷知久が久豊の妻子を救出した 。 一時苦戦したが、応永23年(1416年)に和睦を名目に鹿児島に呼び出した久世を討ち取る。しかし、久世を騙し討ちにしたことは久豊の心にも重くのしかかり、この年に出家して存忠と称している。翌応永24年(1417年)に和睦が成立。伊集院頼久とその盟友である伊作久義・勝久父子は久豊に降伏し、後継者問題に決着がついた。また、応永25年(1418年)には市来氏と入来院氏も久豊に従い、戦いの焦点は久豊の奥州家と島津守久(久世の父)・忠朝兄弟が依然として抵抗を続ける総州家との争いに絞られていく 。 応永28年(1421年)に島津忠朝を降伏させて総州家に伝わる島津宗家の文書を接収するとともに総州家の拠点である薩摩郡を平定、また伊作氏と久豊派国人との所領争いを仲介して薩摩半島の安定化にも成功した。翌応永29年(1422年)に島津守久及び久林(久世の嫡男)を肥後に追放して総州家・奥州家の両島津氏の抗争も終結させた 。室町幕府は久豊の強引な家督相続に対して反対していたが、久豊が総州家を追い出し島津氏を束ねた事を認め守護職を与えた。これにより、島津氏の守護領国制は完成したのである。 応永30年(1423年)、伊東氏に報復するために日向への出兵を行い、大淀川以南を奪還して一旦は薩摩へ帰国する。だが、この年に病を発した久豊は2年後の応永32年(1425年)に鹿児島で病没した。享年51。 家督は嫡男の忠国が継いだ。また後に、次男の用久が薩州家、三男の季久が豊州家、四男の有久が羽州家(後に大島氏)、五男の豊久が伯州家(後に義岡氏・志和地氏)をそれぞれ興した。.
島津忠国
島津 忠国(しまづ ただくに)は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第9代当主。父は8代当主島津久豊、母は伊東祐安の娘。子に友久、立久、久逸、勝久、忠経、守棟、忠弘、頼久、娘(伊集院煕久室)。幼名は虎寿丸、初名は貴久。官職は修理大夫、陸奥守。法名は大岳玄誉。.
島津忠恒
島津 忠恒(しまづ ただつね) / 島津 家久(しまづ いえひさ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。 戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。.
島津忠昌
島津 忠昌(しまづ ただまさ)は、室町時代後期の大名。島津氏の第11代当主。.
島津元久
島津 元久(しまづ もとひさ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。大隅・日向・薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘。久豊の兄。子に仲翁守邦。 至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家当主島津伊久・守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡(硫黄島を含む)を譲られた。また、日向庄内の支配を図って相良前頼と衝突、応永元年(1394年)に相良前頼と連携した九州探題今川了俊の4男尾崎貞兼に北郷久秀を討ち取られたが、前頼の戦死と了俊の九州探題解任で庄内の支配が確定した。その後も、両島津家は協力して了俊に協力していた国人の入来院氏ら渋谷五氏を平定し、応永4年(1397年)には伊久の次男・忠朝と元久の異母弟・久豊が総州家・奥州家の名代として肥前国で新しい九州探題渋川満頼と会談して関係を改善するなど協調関係が続いた 新名一仁「応永期における島津奥州家の領国拡大と政治構造」『室町期島津氏領国の政治構造』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-137-0。 しかし応永7年(1400年)、元久は養子としていた伊久三男の久照と伊久一族である夫人とを突然に離縁し、更に薩摩に清水城を作ったことにより総州家と不仲になった(久照もしくは夫人所生の子が奥州家を継げば、一転して奥州家が総州家の影響下に置かれる可能性があったが、元久は関係を破棄することで伊久の思惑を絶ったとも解される )。新名一仁は本来奥州家の家督を継ぐべき元久の嫡男(後の仲翁守邦)が応永2年(1395年)に出家させられて元久の母方の叔父である石屋真梁の門弟とされて後に修行名目で関東に送られている不自然さと後に擁立された後継者が伊集院家出身の初犬千代丸(煕久)であったことを挙げて、伊集院氏による工作があった可能性を指摘している 。 応永8年(1401年)、渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため、奥州家・総州家は絶縁状態になり、同年の鶴田合戦で元久側が敗れると鶴田氏と共に菱刈(現・鹿児島県伊佐市菱刈)に逃亡するなどしたが、伊集院頼久・伊作久義の支援で薩摩半島掌握に成功する 。また、樺山氏や新納氏も日向進出を認めて貰う代わりに元久支援に動いたが、異母弟の久豊とは、久豊が樺山氏や新納氏と敵対する伊東祐安の娘との婚姻を結んだことに反対したのをきっかけに関係が冷却化していった 。肥後の相良氏および幕府は伊久側についたが勘合貿易等への影響を恐れ、応永11年(1404年)に幕府の調停により両家は和睦した。同年6月29日、元久は大隅・日向守護となった。応永14年(1407年)に総州家の伊久が没すると、忠久は島津忠朝の平佐城を奪い、同じ時期に伊集院頼久も総州家の支配下にあった坊津・泊津を奪った 。応永16年(1409年)9月10日には薩摩の守護も務めるようになり、翌年に元久は自派の一門・家臣を引き連れて上洛して将軍足利義持に拝謁している。なお、この際、日向にいた久豊と会談して和睦している。 その後も、領国内の国人の被官化を図って支配力を強め、明・李氏朝鮮・琉球と貿易を盛んに行なった。また、福昌寺、鹿児島神社の社殿建立も行った。 応永18年(1411年)、出陣中に病没。天授5年/永和5年(1379年)に生まれた子の仲翁守邦は出家して福昌寺の3代目住持になったため、弟の久豊と甥の伊集院煕久が後継者争いを起こした。 奥州家が勝利したことにより、本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。.
島津勝久
島津 勝久(しまづ かつひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の大名。島津氏第14代当主。.
島津立久
島津 立久(しまづ たつひさ)は、室町時代の守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第10代当主。9代当主・島津忠国の次男。子に忠昌。幼名は安房丸、通称は又三郎。官位は修理亮、陸奥守。 父が文明2年(1470年)に死ぬまで守護であったため、立久が当主としての治世は4年間に過ぎなかったとされているが、実際には父と家臣の対立から長禄2年(1458年)頃から家臣団によって忠国を排除する計画が進められ、長禄3年(1459年)10月以前には立久が新納忠治・樺山長久ら重臣の力を借りて父を追放して家督を奪取して、事実上の守護となっていた。 日向の伊東祐堯と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。また、兄弟を領内の要地に配置するとともに、一族や重臣達に対しても伊作家を伊作城から櫛間城へ、新納家を志布志城から飫肥城へ移封させるなどの配置換えを行って彼らを牽制し、守護領を拡大させることで地位の安定化も図られた。更に琉球や李氏朝鮮とも交易を盛んに行っていた。応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こり、2年後には東軍の細川勝元に味方したが、勝元の出兵要請は拒否して出陣せず、名目上の東軍であった。一方、叔父の豊州家当主島津季久は西軍の山名宗全に味方していた。これは、応仁の乱に際して他の諸大名と同様に、どちらが負けても家が存続するようにしていたためである。 文明3年(1471年)、桜島が大規模な噴火を起こし、立久没後の文明8年(1476年)頃まで続いた。噴火による降灰は農地に多大な被害を与えたために被災地であった日向・大隅方面に所領を持つ家臣やその領民は困窮したとみられ、その後の領国経営に暗い影を落とすことになる。 文明6年(1474年)、43歳で死去。嫡男の忠昌が後を継いだが、立久の生前に薩州家の島津国久を養嗣子に迎えて実子である忠昌を市来雲竜寺に入れて僧にする予定であったとする記録(伊地知季安『御当家始書』)もあり、この際の混乱がその後の家中の内紛の一因になったと考えられる。墓所は市来雲竜寺跡、福昌寺跡。.
島津貴久
島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代の武将。薩摩の守護大名・戦国大名。島津氏の第15代当主。.
島津氏久
島津 氏久(しまづ うじひさ)は、南北朝時代の武将、守護大名である。島津氏6代当主(奥州家初代当主)、大隅・日向・筑後守護。5代当主島津貞久の4男。母は大友親時の娘。川上頼久、宗久、師久の弟。元久、久豊の父。.
巨勢野足
巨勢 野足(こせ の のたり、天平勝宝元年(749年) - 弘仁7年12月14日(817年1月5日))は、平安時代初期の貴族。姓は朝臣。巨勢氏の嫡流。参議・巨勢堺麻呂の孫で、左中弁・巨勢苗麻呂の長男。官位は正三位・中納言。勲等は勲三等。.
上毛野小足
上毛野 小足(かみつけの の おたり、生年不詳 - 和銅2年4月16日(709年5月29日))は、日本の飛鳥時代の貴族。名は男足とも書く。姓(カバネ)は朝臣。官位は従四位下・陸奥守。.
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上毛野広人
上毛野 広人(かみつけの の ひろひと、生年不詳 - 養老4年(720年)9月)は、奈良時代の貴族。姓は朝臣。官位は正五位下・按察使。.
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中右記
『中右記』(ちゅうゆうき)は、藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である。筆者には『愚林』と名付けられたようだが、「中御門右大臣の日記」を略して『中右記』と呼ばれる。.
三諸大原
三諸 大原(みもろ の おおはら、生年不詳 - 大同元年11月9日(806年12月22日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。大納言・文室浄三の九男。.
三浦義同
三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の武将。東相模の小大名。一般的には出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。 北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主である。.
平貞盛
平 貞盛(たいら の さだもり)は、平安時代中期の武将。平国香(良望)の嫡男。.
平氏
平氏(へいし、たいらうじ)は、「平」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。家紋は揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の一つで、有名な桓武平氏を含め4つの流派がある。.
幕末
幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.
康和
康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.
康治
康治(こうじ)は、日本の元号の一つ。永治の後、天養の前。1142年から1143年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.
井上光貞
井上 光貞(いのうえ みつさだ、1917年(大正6年)9月19日 - 1983年(昭和58年)2月27日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。紫綬褒章受章者。文学博士。専門は日本古代史(上代日本史)。井上馨と桂太郎の孫に当たる。.
仁平
仁平(にんぺい、にんぴょう)は、日本の元号の一つ。久安の後、久寿の前。1151年から1153年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.
令義解
『令義解』(りょうのぎげ)とは、833年(天長10年)に淳和天皇の勅により右大臣清原夏野を総裁として、文章博士菅原清公ら12人によって撰集された律令の解説書。全10巻。この書物によって、大宝令・養老令が伝えられている。 同じく養老令の注釈書である『令集解』(惟宗直本の私撰注釈書)と違って、こちらには法的効力(官撰注釈書)がある。 30篇のうち21篇が伝わる。令集解から7篇を抽出でき、残る2篇も近世以来逸文が収集されている。従って、国史大系本も含め、現在手にすることのできる本は、取り集め本であることを認識した上で利用しなければならない。 体裁は令本文を大字で掲げ、義解を語句の間に細字双行で加える。.
延喜式
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.
延暦
延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.
仙台藩
仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.
伊達吉村
伊達 吉村(だて よしむら)は、陸奥仙台藩第5代藩主。伊達氏宗家第21代当主。はじめ仙台藩一門宮床伊達氏第2代藩主。仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏 出身の宮床伊達氏は元々、伊達崎氏、田手氏を称していた。伊達氏初代当主伊達朝宗の六男・実綱を祖とする伊達一門の家柄であるが、江戸時代初期に第2代藩主伊達忠宗の子・宗房が名跡を継承していた。その子が吉村である。出身の藩主である。また、歴代仙台藩主中で最長在職の藩主であり、その治世は40年に及んだ。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから、仙台藩「中興の英主」と呼ばれる。.
伊達宗村 (仙台藩主)
伊達 宗村(だて むねむら)は、陸奥仙台藩の第6代藩主。伊達氏宗家第22代当主。.
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伊達忠宗
伊達 忠宗(だて ただむね)は、江戸時代初期の陸奥仙台藩の第2代藩主。伊達政宗の次男で嫡男。母は田村清顕の娘・愛姫。初代伊予宇和島藩主伊達秀宗は異母兄。仙台藩の地位と基盤固めに務めて大いに功績を残したため、「守成の名君」と評された。.
伊達綱宗
伊達 綱宗(だて つなむね)は、陸奥仙台藩第3代藩主で、伊達氏第19代当主。第2代藩主・伊達忠宗の六男。母は側室・貝姫。.
伊達綱村
伊達 綱村(だて つなむら)は、陸奥仙台藩の第4代藩主で、伊達氏の第20代当主。3代藩主伊達綱宗の長男。母は三沢初子。.
伊達重村
伊達 重村(だて しげむら)は、仙台藩の第7代藩主。伊達氏宗家第23代当主。.
伊達氏
伊達氏(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、桓武平氏繁盛流常陸大掾と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。.
伊達斉宗
伊達 斉宗(だて なりむね)は、陸奥国仙台藩の第10代藩主で、伊達氏の第26代当主。第8代藩主・伊達斉村の次男。.
伊達斉義
伊達 斉義(だて なりよし)は、陸奥仙台藩の第11代藩主。伊達氏の第27代当主。 仙台藩第5代藩主・伊達吉村の八男・伊達村良の庶長子である陸奥一関藩主・田村村資の四男実子としては三男である。田村宗顕は養子ではあるが嫡子で、村資の三男として扱われるため、斉義は四男となる(すなわち吉村の曾孫にあたる)。母は脇坂安親の娘。.
伊達斉邦
伊達 斉邦(だて なりくに)は、陸奥仙台藩の第12代藩主。伊達氏第28代当主。登米伊達氏・伊達宗充(第5代藩主・伊達吉村の八男・伊達村良の子なお、史料により孫と表記されることがあるが、これは村良の跡を相続した伊達村幸の養子として宗充が登米伊達家を相続し、家系的には養孫となることによる。)の長男。母は片倉村典の娘。正室は第11代藩主・伊達斉義の娘・勁松院綵姫。.
伊達斉村
伊達 斉村(だて なりむら)は、陸奥仙台藩第8代藩主。伊達氏第24代当主。第7代藩主・伊達重村の次男。.
伊達政宗
伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.
伊達慶邦
伊達 慶邦(だて よしくに)は、陸奥仙台藩の第13代藩主。伊達氏第29代当主。.
伴春宗
伴 春宗(とも の はるむね、生没年不詳)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。右京亮・大伴永主(伴永主)の子。官位は従五位下・陸奥介。.
弘仁
弘仁(こうにん)は、日本の元号の一つ。大同の後、天長の前。810年から824年までの期間を指す。この時代の天皇は嵯峨天皇、淳和天皇。.
弘仁格
弘仁格(こうにんきゃく)は、平安時代初期に編纂・施行された格。全10巻。.
佐伯全成
佐伯 全成(さえき の またなり、生年不詳 - 天平勝宝9年7月4日(757年7月24日))は、奈良時代の貴族。姓は宿禰。官位は従五位上・陸奥守。.
佐伯葛城
佐伯 葛城(さえき の かずらぎ、生年不詳 - 延暦8年(789年)5月頃)は、奈良時代の貴族。姓は宿祢。中衛中将・佐伯伊多智の子。官位は従五位下・征東副将軍、贈正五位下。勲等は勲八等。.
佐伯耳麻呂
佐伯 耳麻呂(さえき の みみまろ、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。姓は宿禰。官位は正五位下・陸奥守。.
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佐伯清岑
佐伯 清岑(さえき の きよみね、天平宝字7年(763年) - 天長4年4月26日(827年5月25日))は、平安時代前期の貴族。尾張守・佐伯大麻呂の曾孫。従五位下・佐伯人麻呂の子。官位は正四位下・常陸守。.
佐々成政
佐々 成政(さっさ なりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。佐々成宗(盛政とも)の子。通称は内蔵助。家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院・徳川家光正室)の外祖父。.
後三年の役
後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。後三年合戦(ごさんねんかっせん)ともいう。.
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後二条師通記
後二条師通記(ごにじょうもろみちき)は、平安時代後期に活躍した藤原師通の記した日記。原本は一条家に伝来していた。後二条関白記、後二条殿記とも。 永保3年(1083年)から康和元年(1099年)まで書かれたらしいが、うち数年分が欠ける。寛治7年(1093年)分の一部の自筆本が伝わる。この自筆本と、後に藤原頼長が書写させた古写本が、陽明文庫に伝わり、ともに国宝に指定されている。また、宮内庁書陵部にも古写本よりも時代が下ると見られる新写本が伝えられている。 同時代に記された日記に、中右記(藤原宗忠)、時範記(平時範)など。.
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後醍醐天皇
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に2度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。.
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後村上天皇
後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。.
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従七位
従七位(じゅしちい)は、日本の位階における位の一つ。正七位の下、正八位の上の位階である。 律令制においては、さらに従七位上と従七位下の二階に分けられた。明治時代初期の太政官制においては上下の別がなくされた。従七位は、神祇官の少史などに相当する。 栄典としての従七位には、イラク日本人外交官射殺事件で殉職した在イラク日本国大使館一等書記官の井ノ上正盛が叙されている。.
従五位
従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.
従八位
従八位(じゅはちい)は、日本の位階における位の一つ。正八位の下、大初位または正九位の上の位階である。 律令制においては、さらに従八位上と従八位下の二階に分けられた。従八位は、中務省の少典鑰、治部少解部、刑部少解部などに相当する。 明治時代初期の太政官制においては上下の別がなくされた。従八位は、神祇官の史生、太政官の官掌などに相当する。 栄典としての位階制が定められた叙位条例(明治20年勅令第10号)、位階令(大正15年勅令第325号)では、従八位が最も低い位階である。.
保延
保延(ほうえん)は、日本の元号の一つ。長承の後、永治の前。1135年から1141年までの期間を指す。この時代の天皇は崇徳天皇。.
保元
保元(ほうげん、ほげん)は、日本の元号の一つ。久寿の後、平治の前。1156年から1158年までの期間を指す。この時代の天皇は後白河天皇、二条天皇。.
土田直鎮
土田 直鎮(つちだ なおしげ、1924年1月16日 - 1993年1月24日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。元国立歴史民俗博物館長。.
北畠顕家
北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が建武政権に叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。 以後、伊勢・大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。 死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社と阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。.
北条宣時
北条 宣時(ほうじょう のぶとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府連署。大仏 宣時(おさらぎ のぶとき)とも称される。.
北条宗宣
北条 宗宣(ほうじょう むねのぶ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。大仏 宗宣(おさらぎ むねのぶ)とも称される。鎌倉幕府第11代執権(在職:応長元年10月3日(1311年11月13日) - 正和元年5月29日(1312年7月4日))。.
北条維貞
北条 維貞(ほうじょう これさだ)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門、大仏流の当主。大仏 維貞(おさらぎ -)ともいう。父は北条宗宣。六波羅探題南方・連署などを歴任した人物である。.
北条義時
北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の第2代執権。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家2代目当主。 源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。.
北条貞直
北条 貞直(ほうじょう さだなお).
北条重時
北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家。極楽寺 重時(ごくらくじ しげとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。初代執権・北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。極楽寺流の祖。 六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』等の家訓の作者でも知られる。.
北条業時
北条 業時(ほうじょう なりとき)は鎌倉時代中期から後期にかけての北条氏の一門。普恩寺 業時(ふおんじ なりとき)とも呼ばれる。鎌倉幕府の六波羅探題北方・連署である北条重時の四男。普音寺流北条氏の租。母は側室の筑前局。桓武平氏諸流系図や関東閨閥皇代並年代記事所蔵の「北条系図」によると、初めは重長と名乗っていた。 兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われた。しかし、8代執権北条時宗の代の後半の義政遁世以降からは、義政の死により空席となっていた連署に就任し、9代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は極楽寺流嫡家の赤橋家の下、弟の義政(塩田流)が(業時(普恩寺流)より上位の)2番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降は業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ2番手の家格となっている。.
北条氏
北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.
北条政村
北条 政村(ほうじょう まさむら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権(在職:1264年 - 1268年)。2代執権北条義時の五男。母は継室の伊賀の方。3代執権北条泰時は異母兄にあたる。政村流北条氏の祖であり、12代執権北条煕時は曾孫にあたる。13代執権北条基時も血縁的には曾孫である。 幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として7代執権となり、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処にあたり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。.
北条時茂
北条 時茂(ほうじょう ときしげ/ときもち)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。北条重時の三男で母は正室の平基親の娘。常盤流の祖。六波羅探題北方。.
北条時村 (政村流)
北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。鎌倉幕府第7代執権・北条政村の嫡男。.
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嘉保
嘉保(かほう)は、日本の元号の一つ。寛治の後、永長の前。1095年から1096年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.
和銅
和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。.
内蔵全成
内蔵 全成(くら の またなり、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は忌寸のち宿禰。官位は正五位上・讃岐守。.
出羽国
出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.
入間広成
入間 広成(いるま の ひろなり、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は物部直(もののべのあたい)のち入間宿禰。官位は従五位下・造東大寺次官。.
公卿補任
公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.
兵範記
『兵範記』(へいはんき/ひょうはんき)は、平安時代の公家平信範の日記。書名は信範の極官である兵部卿と信範の名から。また住所であった洞院を取って『平洞記』とも、信範の二字の偏を取って『人車記』とも呼ばれる。記載時期は天承2年(1132年)から承安1年(1171年)に至るまで約40年間を網羅する。 信範は、桓武平氏高棟流の流れをくむ「日記の家」と呼ばれた実務官僚の家系であり、その日記は平安時代後期の朝廷や公家たちの活動、朝廷の儀典について知るための基本史料となっている。特に信範は摂関家の藤原忠通・基実らに家司として仕えたため、当時の上級公家などの動きに詳しく、なかでも保元の乱および乱後の後白河院・平家などについての詳細な記述は、他の諸記録の追随を許さないといえる。 さらに『兵範記』原本の特長としては、大量の紙背文書の存在が挙げられる。信範が摂関家政所別当職や蔵人頭を務めていた際の訴訟・行政文書の裏が日記用の紙に使われており、摂関家の内部事情や蔵人頭の業務内容が窺える貴重な史料ともなっている。.
前九年の役
前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦争である。.
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国史大系
国史大系(こくしたいけい)は、日本史を研究する上での基礎史料たる古典籍を集成し、校訂を加えて刊行した叢書である。その編纂は3次に亙って行われた。.
国司
国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.
四条隆親
四条 隆親(しじょう たかちか)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿・歌人。大納言・四条隆衡の二男。官位は正二位・権大納言。善勝寺長者(四条家当主)。.
石川名足
石川 名足(いしかわ の なたり、神亀5年(728年) - 延暦7年6月10日(788年7月17日))は、奈良時代の公卿。御史大夫・石川年足の子。子に石川真守がある。官位は従三位・中納言。.
石川年足
石川 年足(いしかわ の としたり、持統天皇2年(688年) - 天平宝字6年9月30日(762年10月21日)は、飛鳥時代末期から奈良時代中期の貴族。壬申の乱以降蘇我氏の嫡流となった少納言・蘇我安麻呂の孫、権参議・石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。勲等は勲十二等。.
玉葉
『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記。.
神護景雲
護景雲(じんごけいうん)は、日本の元号の一つ。天平神護の後、宝亀の前。767年から770年までの期間を指す。この時代の天皇は称徳天皇。 この年号以後、四文字元号が使われたことはない。四文字元号の中では唯一「天平」の文字が入らないが、天平神護から「神護」の名称を引き継いでおり、この年号までがいわゆる『天平文化』の範疇である。.
稲岡耕二
岡 耕二(いなおか こうじ、1929年4月12日 - )は、日本文学者(万葉学者)。古代文学専攻。東京大学名誉教授。.
穴山信君
山 信君(あなやま のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。穴山氏7代当主。 壮年期(永禄8年頃)に剃髪して梅雪斎不白と号したので、穴山 梅雪(あなやま ばいせつ)の名でも知られる。後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。信玄末期より仕え勝頼期にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると武田氏を離反した.
笹山晴生
笹山 晴生(ささやま はるお、1932年12月8日 - )は、日本の歴史学者、東京大学名誉教授。.
紀古佐美
紀 古佐美(き の こさみ、天平5年(733年) - 延暦16年4月4日(797年5月4日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿。大納言・紀麻呂の孫。正六位上・紀宿奈麻呂の子。官位は正三位・大納言、贈従二位。勲等は勲四等。.
紀広純
紀 広純(き の ひろずみ、生年不詳 - 宝亀11年3月22日(780年5月1日)は、奈良時代の公卿。大納言・紀麻呂の孫。左衛士督・紀宇美の子。官位は従四位下・参議。勲等は勲四等。.
続日本紀
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.
田中多太麻呂
中 多太麻呂(たなか の ただまろ、生年不詳 - 宝亀9年1月11日(778年2月12日))は、奈良時代の貴族。名は多太万呂とも記される。姓は朝臣。官位は正四位下・右大弁。.
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目 (国司)
(さかん)とは、日本の律令制下の四等官制において、国司の第四等官(中央政府における「主典」に相当する)を指す。 中世以後、職人・芸人に宮中・宮家から名誉称号として授けられるようになった。.
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白藤禮幸
白藤 禮幸(しらふじ のりゆき、1938年6月13日 - )は、日本の言語学者、国語学者、東京大学名誉教授。専門は古代日本語。.
百済王敬福
済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく、文武天皇元年(697年) - 天平神護2年6月28日(766年8月8日))は、奈良時代の貴族。摂津亮・百済王郎虞の三男。官位は従三位・刑部卿。 天平21年(749年)陸奥守在任時に陸奥国小田郡から黄金を献上したことで知られる。また橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱でも功績があった。.
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百済王教俊
済王 教俊(くだらのこにきし きょうしゅん、生没年不詳)は、平安時代初期の貴族。陸奥鎮守将軍・百済王俊哲の子。官位は従五位上・出羽守。.
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鎮守府将軍
鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。令外官である。平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされたが、鎌倉幕府の成立で征夷大将軍が武家の首長職として常置されるに及び、鎮守府将軍の権限と地位はその中に吸収された。.
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蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。.
青木和夫
青木 和夫(あおき かずお、1926年5月31日 - 2009年8月15日)は、日本古代史学者、お茶の水女子大学名誉教授。 東京生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。石母田正の弟子。お茶の水女子大学教授、1989年定年退官、名誉教授、放送大学教授。1993年『日本律令国家論考』で角川源義賞受賞。息子は、青山学院大学教授で中国史を担当する青木敦。.
類聚三代格
類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)は、平安時代(恐らく11世紀)に書かれた法令集。著者は不明。.
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養和
養和(ようわ)は、日本の元号の一つ。治承の後、寿永の前。1181年の晩夏から翌年初夏にかけての10か月間にあたる。この時代の天皇は安徳天皇。源平合戦の時代で、源頼朝の源氏方では、この元号を使用せず治承を引き続き使用していた。.
養老
養老(ようろう)は、日本の元号。霊亀の後、神亀の前。717年から724年までの期間を指す。この時代の天皇は元正天皇。.
養老律令
養老律令(ようろうりつりょう)は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。制定内容の資料が未発見である大宝律令は、この養老律令から学者らが内容を推測して概要を捉えている。.
親王任国
親王任国(しんのうにんごく)は、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。常陸国、上総国、上野国の3国。親王任国の守である親王は太守という。 天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された(『類聚三代格』:親王任国太政官符)。.
貞観 (日本)
貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.
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越後国
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.
足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.
足利義氏 (足利家3代目当主)
足利 義氏(あしかが よしうじ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利義兼の三男。母は北条時政の娘時子。.
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足利泰氏
足利 泰氏(あしかが やすうじ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。足利家3代目当主足利義氏の嫡男。足利宗家4代当主奥富、2008年、p.92-111。小谷、1980年。。室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の高祖父。.
黒板勝美
黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年9月3日 - 1946年12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及に努める。.
関晃
関 晃(せき あきら、1919年(大正8年)1月5日 - 1996年(平成8年)4月20日)は、日本の歴史学者。東北大学名誉教授。専攻は日本古代史。熊本県飽託郡古町村(現熊本市二本木)出身。.
藤原基家 (陸奥守)
藤原 基家(ふじわら の もといえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家道綱流、参議・藤原兼経の長男。官位は四位・陸奥守。.
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藤原基頼
藤原 基頼(ふじわら の もとより)は、平安時代後期の公家、武人。右大臣藤原俊家の長男。持明院家の祖。陸奥、越前、能登といった各国の国司や常陸介を歴任した。.
藤原基成
藤原 基成(ふじわら の もとなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての貴族。大蔵卿・藤原忠隆の子。『平治物語』には基通の名で登場する。.
藤原実宗
藤原 実宗(ふじわら の さねむね)は、平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。西園寺家の第三代目とされる人物。按察使藤原公通の長男。正二位内大臣。坊城内大臣、大宮、五条と号す。.
藤原実方
藤原 実方(ふじわら の さねかた)は、平安時代中期の貴族・歌人。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は従四位上・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。.
藤原宗忠
藤原 宗忠(ふじわら の むねただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流の権大納言藤原宗俊の長男。従一位・右大臣。別名、中御門宗忠。 日記『中右記』を残した。名称の由来は中御門右大臣の日記から。 音楽の才があり、管弦や笙をよくした。また催馬楽にも秀でた。音律に関する著書『韻花集』『白律韻』があったとされるが現存しない。和歌は『続古今和歌集』『玉葉和歌集』に入集。.
藤原師綱
藤原 師綱(ふじわら の もろつな)は、平安時代末期の貴族・歌人。藤原北家小一条流、刑部少輔・藤原尹時の長男。官位は正四位下・宮内卿。.
藤原師通
藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白・藤原師実の子。官位は従一位、関白、内大臣。.
藤原秀衡
藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。.
藤原範季
藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原南家高倉流の祖。式部少輔・藤原能兼の子。官位は従二位・式部権少輔。後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。.
藤原登任
藤原 登任(ふじわら の なりとう、永延元年(987年) - 没年不詳)は、平安時代の貴族。藤原南家真作流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・大和守。.
藤原葛野麻呂
藤原 葛野麻呂(ふじわら の かどのまろ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、大納言・藤原小黒麻呂の長男。官位は正三位・中納言。.
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藤原良経
藤原 良経(ふじわら の よしつね).
藤原雅隆
藤原 雅隆(ふじわら の まさたか)は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿。権中納言・藤原光隆の長男。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤原朝狩
藤原 朝狩(ふじわら の あさかり)は、奈良時代の公卿。名は朝猟、朝獦とも記される。氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。藤原南家、大師・藤原仲麻呂の四男。母は新田部親王の娘・陽候女王(一説では藤原宇比良古)。官位は従四位下・参議。.
良岑経世
良岑 経世(よしみね の つねよ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。越前守・良岑木蓮の子とする系図がある。官位は従四位下・丹波守。.
陸奥守吉行
銘「陸奥守吉行」 陸奥守吉行(むつのかみよしゆき、1650年 - 1710年)は陸奥国中村(現:福島県相馬市中村)、または摂津国住吉(現:大阪府大阪市住吉区)出身の刀工。本名森下平助。土佐に移住したことから土佐吉行とも呼ばれる。.
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陸奥守忠吉
陸奥守忠吉(むつのかみ ただよし)は、江戸時代の刀工。 最上大業物。忠吉三代目。万治三年陸奥大掾受領。寛文元年陸奥守になる。 刃紋は中直刃を焼く。初代忠吉に迫るよい出来の作品がある。 現存する作品数は比較的少ない。 Category:日本刀の刀工 Category:江戸時代の技術者.
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陸奥将軍府
奥将軍府(むつしょうぐんふ)とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における地方統治機関である。廷臣の北畠親房・北畠顕家親子が、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国の国府・多賀城に下り、東北地方(陸奥・出羽の2国)および北関東(の3ヶ国)を管轄。建武政権の統治機構を指す。 鎌倉時代後期、奥州では蝦夷の蜂起や安藤氏の乱(蝦夷大乱)が起こるなど内乱が続き、鎌倉幕府も平定のために兵を派遣し、幕府の権威が動揺する原因にもなっていた。 1333年、後醍醐天皇の倒幕運動に応じた足利尊氏、新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、京都で建武の新政が開始される。足利尊氏は6月に鎮守府将軍に任命、奥州の北条氏旧領の地頭職などが与えられ、奥州における足利氏の勢力が強化された。 同年10月、親房の子の北畠顕家が陸奥守鎮守大将軍に任命され、後醍醐天皇の皇子である義良親王を陸奥太守として推戴して陸奥国国府の多賀城へ出立した。 陸奥将軍府設置の背景として、足利尊氏と対立し征夷大将軍に任命された護良親王は北畠親房らと尊氏牽制のための小幕府構想を運動したとする佐藤進一の説と後醍醐天皇が奥羽統治の積極的な展開を目指して設置したとする伊藤喜良の説がある。いずれにしても、旧北条氏、足利氏の有力一門斯波氏の支配地も多かった陸奥国において、奥羽の秩序を安定化させるとともに朝廷の支配下に武士を取り込むことが不可欠であった亀田俊和「陸奥将軍府恩賞充行システムの研究」(初出:『兵庫大学論集』16号(2011年)/改題所収:「陸奥将軍府恩賞充行制度の研究」亀田『室町幕府管領施行システムの研究』(思文閣出版、2013年) ISBN 978-4-7842-1675-8)。また、近年の説としては、鎌倉幕府の機能そのものを陸奥将軍府に移して鎌倉(関東)から政治的機能を除去する目的があったものの、足利氏などの関東の御家人や旧幕府吏僚の反発でやむなく鎌倉将軍府を設置した(ただし、恩賞宛行や引付機能は陸奥将軍府にしか認めず、鎌倉将軍府の権限は僅かであった)とする坂田雄一の説もある。 北畠顕家に与えられた権限は非常に強く、後醍醐天皇に一元化されていた恩賞充行の権限も陸奥国については顕家に一任され、天皇が宛行する例外は他ならぬ顕家自身と顕家と同じく建武政権の重鎮であった白河結城氏の結城宗広のみとされた。また、顕家は陸奥守として国宣を発給し、政所、侍所、引付衆をはじめ公卿や在地の武将からなる式評定衆を置いて、鎌倉幕府の職制を模した小幕府としての支配基盤を築いた。 奥州の有力地頭である南部政長や、結城宗広、伊達行朝らの勢力を糾合し、1335年に顕家が鎮守府将軍を兼ねると軍事権も強化され、足利氏の代官たる斯波氏と競合していった。 12月、足利直義が相模守に任命され、成良親王を奉じて鎌倉へ赴き、鎌倉将軍府が成立する。鎌倉将軍府は建武政権の一機関としての性格を持ちながらも、新政から距離を置いていた尊氏にとって、関東における足利氏の勢力基盤を敷く大義名分となり、さらに1334年11月には、尊氏の政敵であった護良親王が失脚して鎌倉に幽閉され、尊氏の地位が優位となる。 7月、信濃国で北条氏の残党が蜂起して、鎌倉を奪還する中先代の乱が起こると、尊氏は救援に向かった後に鎌倉に留まり、帰京を拒否する。足利勢が追討に派遣された新田義貞らを撃破して京都へ進軍すると、顕家は義良親王とともに陸奥を出立し、鎌倉で斯波家長を討ち、義貞と連携して足利勢を駆逐し、1336年3月には陸奥へ帰還する。 1337年(延元2年)、足利方の攻勢により国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)に移転。その後も9月に武蔵国児玉郡浅見山に出兵するなど、足利方との一進一退が続く。 尊氏は九州落ちした後に東上し、持明院統の光厳上皇を治天に擁立すると、後醍醐天皇は吉野に逃れ、これに対抗した(南朝・吉野朝廷)。顕家は南朝の武将として各地に転戦し、1338年5月に戦死する。このため、同年閏7月に弟の北畠顕信が陸奥介兼鎮守府将軍に任じられて父の親房・結城宗広とともに伊勢国大湊から海路陸奥を目指すが、途中で暴風雨に遭遇して伊勢国に引き返すことになる(父・親房は常陸国にたどり着く)。顕信は再度陸奥行きを志し、1340年6月に陸奥に入国することに成功する。1343年、父の親房が関城・大宝城の戦いに敗れて吉野に逃れた後も、顕信は陸奥に留まり、北朝が1345年に設置した奥州管領と争う。だが、1347年には霊山などを北朝方に奪われて苦境に陥る。その後、観応の擾乱に乗じて再起を図るが、1353年5月に最後の拠点であった宇津峰城が陥落すると事実上崩壊した。 親王太守と北畠顕家の威望によって陸奥将軍府は奥羽における南朝方の柱として機能したが、1338年(延元3年)の顕家の戦死後は振わなくなり、幕府方の奥州管領・奥州探題として送り込まれた吉良氏、石堂氏、畠山氏、石橋氏、斯波氏らによって指揮された足利方の勢力によってに圧倒され、多賀国府も追われることとなり、奥州将軍府はその実を失ってしまった。.
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陸奥国
奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.
陸奥話記
『陸奥話記』(むつわき)は、日本の戦役である前九年の役の顛末を描いた軍記物語高橋崇 91年。『陸奥物語』、『奥州合戦記』ともいう。『将門記』とともに軍記物語の嚆矢とされる。.
陸奥間違い
奥間違い(むつまちがい)とは落語、浪曲の演目の一つである。作成された時期及び作者は不詳。.
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掾
掾(じょう)とは、日本の律令制下の四等官制において、国司の第三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。 中世以後、職人・芸人に宮中・宮家から名誉称号として授けられるようになり、江戸時代中期以後はとくに浄瑠璃太夫の称号となった。.
林陸朗
林 陸朗(はやし ろくろう、1925年 - 2017年2月17日)は、日本の歴史学者。國學院大學文学部名誉教授。文学博士。専門分野は日本古代史。.
東京大学史料編纂所
東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称:Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所(共同利用・共同研究拠点)の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。.
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正七位
正七位(しょうしちい)は、日本の位階における位の一つ。従六位の下、従七位の上に位する。.
正五位
正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.
正六位
正六位(しょうろくい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従五位の下、従六位の上に位する。勲等では勲五等に、功級では功五級に相当。 律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した。神階においては、正六位が最下位となる。 明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる。.
武家官位
武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。.
武田信虎
武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.
毛利元就
毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.
毛利氏
毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。家紋は一文字三星。.
永久 (元号)
永久(えいきゅう)は、日本の元号の一つ。天永の後、元永の前。1113年から1117年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.
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治承
治承(じしょう / ちしょう)は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。 治承期は、平氏政権の本格的な確立期および、それに反発して起こった全国的な内乱、すなわち治承・寿永の乱の初期に当たる。源頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き使用した。.
清原氏
清原氏(きよはらうじ)は、「清原」を氏の名とする氏族。 舎人親王にはじまる皇別氏族であり、平安時代は中級貴族(地下家)であった。特に清原深養父、清少納言などが有名。中原氏・菅原氏(土師姓)などと同様、平安時代急速に台頭した氏である。.
清和源氏
清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.
源忠重
源 忠重(みなもと の ただしげ)は、平安時代中期の武士・官人。源満政の長男。.
源信雅
源 信雅(みなもと の のぶまさ、承暦3年(1079年) - 保延元年5月15日(1135年6月27日))は、平安時代末期の貴族。初名は家定。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。官位は正四位下・陸奥守。.
源国俊
源 国俊(みなもと の くにとし、生年不明 - 承徳3年3月18日(1099年4月11日))は平安時代中期から後期にかけての貴族。醍醐源氏、権中納言・源隆国の六男。官位は従五位上・陸奥守。.
源義家
源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。.
源義綱
源 義綱(みなもと の よしつな)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源頼義の子。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、弟の源義光(新羅三郎)と同腹である。.
源頼俊
源 頼俊(みなもと の よりとし、生没年不詳)は、平安時代後期の武将・歌人。加賀守源頼房の長男。.
源頼義
源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。.
源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.
源満政
源 満政(みなもと の みつまさ)は、平安時代中期の武将。源経基の次男。満仲、満季らの同母兄弟。八島大夫、村岡大夫などと号した。満正とも記される。.
本朝世紀
『本朝世紀』(ほんちょうせいき)は、平安時代末期に編纂された歴史書。 『六国史』の後を継ぐ史書として、鳥羽上皇の命により、信西(藤原通憲)が編纂。成立は1150年-1159年。『史官記』『外記日記』ともいわれる。全20巻。 『日本三代実録』に続くもので、宇多天皇の877年以降、近衛天皇(在位1141年-1155年)までを扱う。諸家の日記・系図を原文のまま時代順に整頓したものであった。信西が平治の乱(1159年)で死亡したため、未定稿に終わったうえ、多くが散逸している。現存しているのは935年~1153年のうち一部であるが、同時代の歴史・世相風俗を伝える好史料である。さらに未完とはいえ『六国史』以後のまとまった史書として、かつ現在残り少ない宮府の記録の遺文として高い価値を持つ。.
按察使
按察使(あぜち)とは.
日下部大麻呂
日下部 大麻呂(くさかべ の おおまろ)は、奈良時代の貴族。姓(カバネ)は宿禰。位階は従五位下。.
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日本古典文学大系
日本古典文学大系(にほんこてんぶんがくたいけい)は1967年までに、また新日本古典文学大系は2005年までに岩波書店が出版した日本の古典文学を対象とした全集である。.
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日本三代実録
『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。.
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日本後紀
『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体、漢文、全40巻(現存10巻)。.
日本紀略
日本紀略(にほんきりゃく)は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。編者不詳。漢文、編年体、全34巻。.
日本思想大系
日本思想大系(にほんしそうたいけい)は、1970年から1982年にかけて岩波書店から刊行された叢書。全67巻。.
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1088年
記載なし。
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1093年
記載なし。
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1094年
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1099年
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1103年
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1108年
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1113年
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1135年
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1143年
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1152年
記載なし。
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1153年
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1157年
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1176年
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1179年
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1181年
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1184年
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701年
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708年
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709年
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720年
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724年
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737年
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743年
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746年
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747年
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749年
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750年
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752年
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757年
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762年
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764年
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767年
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769年
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771年
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773年
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775年
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777年
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780年
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781年
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782年
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785年
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787年
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790年
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791年
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792年
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800年
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806年
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808年
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811年
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815年
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859年
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863年
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865年
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866年
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867年
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870年
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