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都察院

索引 都察院

都察院(とさついん、満州語:uheri be baicara yamun)は、諸官の政務を監察するために置かれた官署で、中国の明朝から清朝にかけて存在した。 漢代以来続いていた御史台という監察機関を明朝に入り改めたもので、後の清朝もこれを受け継いだ。 六部や五軍都督府と共に三権の1つとされ、刑部や大理寺と共に三法司と呼ばれ、百官の不正を糾弾し、重大な刑事事案を審議した 左右ある都御史を中心にして、副都御史、監察御史、僉都御史、経歴などの諸官が存在した。 明朝中期以降、次第に総督や巡撫が兼職するようになったが、これは政令の統一を図ったためである。清は基本的に明の制度を継承しつつ、僉都御史を廃して左都御史・左副都御史を都察院の専官とし、右都御史・右副都御史を総督や巡撫の兼官と定めた。雍正元年(1723年)に、明代以来別の監察機関とされていた六科が、都察院に統合された。 とさついん とさついん とさついん.

12 関係: 巡撫中国五軍都督府御史台刑部六部総督雍正満州語

巡撫

巡撫(じゅんぶ)は、中国の明代及び清代に存在した官職名。 明の洪武年間(1368年 - 1398年)から永楽年間(1403年 - 1424年)にかけては中央から地方に派遣される臨時官であったが、宣徳年間(1426年 - 1435年)から常設され、明代末期には1省あるいはその一部を管轄する地方官として20人を超えた。都御史を兼ね、しばしば軍事も兼務し、布政使・按察使・都指揮使の上位として、地方を管轄した。 清代には明の制度を踏襲して巡撫(giyarime dasara amban)は省(golo)の長官とされ、総督(uheri kadalara amban)とほぼ同格として皇帝に直属した(総督は複数の省を管轄するが巡撫は総督同様皇帝直属であった)。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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五軍都督府

五軍都督府(ごぐんととくふ)は、中国の明代における最高統帥機関である。 太祖洪武帝は、明の建国当初は、軍事の最高機関として、元朝の枢密院を大都督府と改称して置いたが、1380年(洪武13年)に、胡惟庸の獄が起こり、中書省が廃止されたのに伴って、前・後・左・右・中の五軍都督府に改編した。 五軍都督府の前・後・左・右・中の五府には、それぞれ左右都督・都督同知・都督僉事らの官が置かれ、兵部直属の親軍衛以外の都司や衛所を統轄、軍隊の管理と訓練を司掌した。 左軍都督府は浙江・遼東・山東の都司を、右軍都督府は雲南・貴州・四川・陝西・広西の都司を、中軍都督府は直隷の衛所、中都留守司、河南の都司を、前軍都督府は直隷の一衛、福建・湖広・江西・広東の都司を、後軍都督府は北平・山西の都司、三護衛をそれぞれ管轄し、京衛は五府に分属した。 五軍都督府の官には爵位を持つ功臣の子孫が任じられたが、京営が設置されると統帥権が制約を受け、1550年(嘉靖29年)に戎政府が新設されると、実権を失った。 category:中国の制度史 category:中国の軍事史 category:明朝 くんととくふ.

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御史台

御史台(ぎょしだい)は、中国歴史上の官署の一つである。秦、漢の時代にあっては、御史が監察事務の任にあたった。御史の執務する役所を御史府といい、蘭台、憲台とも称した。南朝の梁、陳や北魏、東魏、西魏、北斉の時代に御史台と称された。隋、唐、五代、宋、金及び元の歴代の王朝においても設置された。御史台は中央政府の行政の監察機関であり、また中央司法機関の一つであって、百官の糾察、弾劾、綱紀の粛正にあたった。 唐朝の貞観年間以前は、御史台はただ百官の風聞を上奏するのみで、実質的な司法権力を持っていなかった。貞観年間に御史台に台獄(監獄)が設置され、特殊な案件を受理した。開元14年(726年)後半、御史をもってあてられる案件の受理を専門とする御史が設けられ、毎日一人が輪番で訴状を受理した。このときからすべての重大案件は、御史台、刑部及び大理寺(zh)の3司法機関で連合して審理した。大理寺は犯人の尋問と判決案の起草を、刑部は再審査を担当し同時に御史台に監督と審査の報告をした。 御史台は御史大夫を長官とし、御史中丞が次官となって侍御史、殿中侍御史(zh)、監察御史(zh)を統率した。中唐以後御史大夫は欠員となることが多くなり、御史中丞が実際上の長官となった。宋代では、御史は寄禄官となり、御史台のことには携わらず、監察事務の実際は門下省の給事中(zh)、などの官職の任務となった。金、元朝でも、御史大夫及び御史中丞が併せて設置されたものの、御史大夫は御史台の実務にはたずさわらず御史中丞が実質的な長官となった。 唐朝の光宅元年(684年)に御史台が改められ、京官(中央官)及び軍隊の監察を専門に左粛政台が設置され、別に地方の監察のために右粛政台が設置された。しばらく後に、左粛政台も地方の監察ができることとなった。両台は毎年春と秋に特使を巡察のため州県へ派遣し、春に派遣された者を風俗使、秋に派遣された者を廉察使と呼んだ。神龍元年(705年)に再び左右の御史台に改められた。太極元年(712年)に右台が廃止されたが、翌年再び設置され、さらにしばらく後にまた廃止された。唐朝はまた洛陽に御史台を設置し、東都留台と称した。中唐以後、節度使、刺史などの外官であっても御史台官衔を置けるようになり、これを外台と呼んだ。 宋代では、元豊の改革の後、再び官署として御史台が設置されたが、留台は設けられず、外官も御史台官衔を置けなかった。 元代では、御史制度が空前の発達をし、地方に行枢密院及び行中書省と同様に御史台の機能を持つ行御史台が設立された。 明代で、御史台が廃止され、改めて都察院が設けられ、清朝でも引き続き設置された。.

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刑部

刑部.

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六部

六部(りくぶ、ろくぶ).

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総督

総督(そうとく)とは、以下のことを指す。.

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雍正

雍正(ようせい、満洲語:、転写:hūwaliyasun tob)は清の世宗の治世に使われた元号。1723年 - 1735年)。一世一元の制であったため世宗は雍正帝と呼ばれる。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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満州語

満州語(滿洲語、まんしゅうご、ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ、転写:manju gisun)は、満州族が話すツングース諸語に属する言語。.

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漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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