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進士 (日本)

索引 進士 (日本)

進士(しんし)とは、律令制において式部省が行った秀才・明経に次ぐ第三の官吏登用試験。進士試(しんしし)とも。 博く群書に通じ才学の高い人物を登用するため、「治国之要務」(時事問題)を問う時務策と呼ばれる論文が2題と『文選』の中から7首、『爾雅』の中から3首、合計10首の帖試(本文を暗記させて、出題者が示した空白部分を暗唱させる課題)を課した。甲乙丙の3段階で評価され、甲第と乙第に評定されると及第とされ、前者は従八位下、後者は大初位上に叙された。だが、及第には論文2題がともに文章・論旨ともに適格とされて合格と判断され、かつ帖試は甲第が全問、乙第が6問以上の正答を必要としたため、極めて難問であった。歴史上、甲第として知られる例は716年(霊亀2年)に遣唐留学生に選ばれた下道真備(吉備真備)など数少ない。また庶民から進士に合格し下級官人となり、最終的に貴族にまでなった人物として勇山文継が知られている。 秀才などに比較して及第者に対する叙位が低い一方で、出題が難問であったために志願者が少なく、平安時代の貞観年間に廃止され、「進士」の呼称は漢文作成の試験で選抜された紀伝道学生である文章生に対する別称となった。.

19 関係: 吉備真備大学寮式部省律令制勇山文継科挙秀才 (日本)紀伝道爾雅留学遣唐使課試貞観 (日本)進士漢字文化圏漢文明経文選 (書物)716年

吉備真備

吉備 真備(きび の まきび)は、日本の奈良時代の学者・公卿。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。氏姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は勲二等。.

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大学寮

大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。唐名は「国子監」又は「国子寺」。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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勇山文継

勇山 文継(いさやま の ふみつぐ、宝亀4年(773年) - 天長5年10月26日(828年12月6日))は、平安時代初期の貴族・漢詩人。氏姓は勇山(無姓)のち勇山連、安野宿禰。官位は従四位下・東宮学士。.

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科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

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秀才 (日本)

才(しゅうさい)とは、律令制において式部省が行った最高の官吏登用試験。秀才試(しゅうさいし)とも。後に紀伝道の学生である最優秀者である文章得業生のみが受験できるようになり、また本来は秀才の解答論文を指した「対策」の名称が広く用いられるようになり、秀才は文章得業生の別称となった。.

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紀伝道

紀伝道(きでんどう)とは、日本律令制の大学寮において、歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)と統合して歴史・漢文学の両方を教える学科となり、学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と別々の正式名称を用いて、通称として「紀伝博士」「文章道」という呼び方も用いられた(ただし、統合当時には「紀伝道」「文章道」の呼称はまだ成立していなかったとする説もある)。 ただし、実際には通称に過ぎないとされている「文章道」という呼称が、明治以後には混同されて、文章道が紀伝道を吸収して「文章道」「文章博士」となったという誤った解釈がされていた時期もある。 本項目でも統合以後の記述については、本来の記述に従って学科は「紀伝道」・博士は「文章博士」と記述するものとする。.

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爾雅

雅(じが、 )は、中国最古の類語辞典・語釈辞典。儒教では周公制作説があるが、春秋戦国時代以降に行われた古典の語義解釈を漢初の学者が整理補充したものと考えられている。訓詁学の書。『漢書』芸文志には3巻20篇と記載されているが、現行本は19篇である。 漢唐の古文学や清朝考証学において非常に重視され、後には十三経の一つに挙げられている。唐代には開成石経にも刻まれた。.

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留学

留学(りゅうがく、るがく)とは、自国以外の国に在留して学術・技芸を学ぶことをいう。広義には自国内の遠隔地に生活拠点を移して学術・技芸を学ぶこと(国内留学)を含める場合もある。 留学している人を「留学生」(りゅうがくせい、るがくしょう)という。.

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遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった。遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。.

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課試

課試(かし)とは、律令制において式部省及び大学寮で行われていた試験を指す。 式部省においては、各種官人登用試験を指し、大学寮及び地方の国学では、10日ごとに行われる通常の旬試(考試)に対して、学年末試験に相当する年終試(ねんしゅうし)や卒業試験に相当する応挙試(おうこし)などの各種試験を指した。また、式部省で行われる官人登用試験を考試と呼ぶ場合もある。 式部省では、方略策を論じる秀才(試)、大学寮の本科である明経道を論じる明経(試)、時務策を論じる進士(試)、明法道を論じる明法(試)の4つがあり、大学寮もしくは国学を卒業した者に受験資格があった(前者を「挙人」、後者を「貢人」と呼ぶ)。なお、明法博士の設置は大宝律令制定後であるため、明法が成立したのは養老律令においてと考えられている。秀才は方略策(国家戦略論文)2篇、明経は『孝経』『論語』から3問及び他の儒教経典から3もしくは4問、進士は時務策(時事問題論文)2篇及び『文選』『爾雅』の帖試、明法は律令から10問が出題された。成績は秀才・明経は5段階、進士・明法は3段階にて評価され、最低の評価以外はいずれも及第とされたが、試験は難問で及第できない者も多かった。 大学寮では年終試が毎年7月に開かれ、通常の旬試が博士によって行われたのに対して大学頭・大学助が出題を担当した。過去1年間の学習範囲から8問出され、4問以上正解なら合格、反対に3問以下で落第となりそれが3年続けば退学処分となった。応挙試は学科により異なり、明経道では『孝経』『論語』を含めた4つの儒教経典を習得した者に対して行われ10問中7問以上正解なら及第とされ、明法道では律令から出された1問中8問(後に6問)以上正解なら及第、算道では9問中6問以上正解なら及第、書道では実技試験で3段階評価のうち第一等と第二等を及第と判断した。なお、技術的学科の要素があった算道と書道の卒業者は式部省の試験を振ることなく任官が行われた(学生数が少ないこと、任官できる官職が少ないこともあったが)。なお、国学においては国司の学識を有する者が出題者の役目を担当した。 だが、天平2年(730年)に行われた 得業生と文章生の設置が課試制度に大きな影響を与えることになる。前者は学生の中から将来の博士・官人候補生を内部選抜するものであり、結果的に従来は卒業生=官人候補生という前提で行われていた卒業試験である応挙試を形骸化させた。その結果、得業生を選抜する得業生試が事実上の卒業試験となり、延喜13年(913年)には、式部省の課試受験資格が得業生補任から7年以上に変更された。漢文学と歴史学を担当する紀伝道とその学生である文章生は、それまで秀才と進士の試験が設置されながら、そのために必要な知識を教える学科が存在しないという矛盾の克服が理由の1つにあったと言われている。だが、紀伝道の人気が文学尊重の貴族社会の中で高まって、本来の大学寮本科である明経道を圧倒する勢いとなった。こうした状況下で文章生になることすら非常に困難となっていった。このため、文章生志望者の増大に対して延暦年間以後、文章生試と呼ばれる文章生としての入学試験が行われるようになった。更に貞観年間に入ると、この過程の中で出題形式の難解さから受験者数が少なかった進士が廃止され、代わりに式部省が文章生試と文章生得業生試を担当し、大学寮は文章生試を受験資格者である擬文章生を選抜する寮試のみを担当することになった。式部省が担当する試験は省試と称されていたが、進士廃止後に唯一の文章得業生による試験となった秀才と文章得業生試が実質重複するようになったため、秀才=文章得業生試と扱われて更に対策とも呼ばれるようになった。これに対して文章生試には先に廃止された進士の呼称が別名として用いられるようになっていった。 なお、典薬寮においても大学寮や国学に準じた考試・課試制度が存在した。典薬寮に属する医生・薬生は、医博士・針博士が月に1度、典薬頭・典薬助が1季に1度旬試に相当する試験を行い、宮内卿・宮内輔(大輔・少輔)が年終試を行った。課試は式部省が行い医生・針生ともに4種の医学書から10問を出し、8問以上を及第とした。医生の全問正解者は従八位下、それ以外は大初位上に叙され、針生はそれぞれ1階下に叙された。なお、不合格でも実技優秀で医療に問題のない者は救済される規定もあった。.

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貞観 (日本)

貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.

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進士

明代の進士服 進士(しんし、満州語:dosikasi)とは、隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つ。王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指し、以降の南宋から清まで続いた制度である。.

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漢字文化圏

漢字文化圏(かんじぶんかけん)とは、「文化圏」概念の一つ。漢字に代表される漢文化(中国文化)を使用しているか、過去に使用していた地域のことであり、漢字の他に漢文や儒教などに由来する文化を共有している。.

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漢文

漢文(かんぶん)とは、古代中国の文語体の文章のこと。または近代中国人・朝鮮人・日本人・ベトナム人によって書かれる古典的な文章語のうち、漢字を用いて中国語の文法で書かれたものをいう。.

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明経

明経(みょうぎょう)とは、律令制において式部省が行った秀才に次ぐ第二の官吏登用試験。明経試(みょうぎょうし)とも。 律令制における大学寮には算生(算道の学生)が若干いるのを例外とすれば、原則として後世明経道と呼ばれた儒教を学ぶ学科のみが存在した(音道・書道はこれらとはまた別扱いである)。初期においては秀才及び第三・第四の進士・明法の受験資格を得るための方法が確立されていなかったため、もっぱら明経が主として行われていた(後世に追加されて、秀才・進士に対応したのが紀伝道、明法に対応したのが明法道である)。 明経は2経(大経1・小経1、もしくは中経2)以上に通じた者を採用する(ただし、必修である『礼記』・『論語』は既に通じていることが前提となる)ことになっており、経籍10条を試験して、9段階評価が行われ、もっとも優秀な上上第から第4番目の上中第までを及第とした。上上第は正八位下、上中第は従八位上に叙せられ、上下第と中上第は当初は式部留省(預かり)扱いとされていたが、802年(延暦21年)以後は、それぞれ大初位上、大初位下に叙されることとなった。 なお、及第によって叙せられた者のうち、蔭位資格を有するか孝悌によって表彰された者は蔭位か成績のうち上位の位階よりも1階上に叙された。また、2経の他にも通じている経典を有する者は、それに関する試験も受けて及第すれば1経ごとに1階引き上げられた。.

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文選 (書物)

『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。.

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716年

記載なし。

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