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西上作戦

索引 西上作戦

青崩峠。手前側が遠江国(現在の静岡県)、奥が信濃国(現在の長野県)であり、武田軍はここを越えて徳川方へ攻め入った(兵越峠の説あり) 西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。.

116 関係: おつやの方夏目吉信大久保忠佐大和国天竜川天野景貫天方城太田川 (静岡県)奥平定能奥平貞勝奥野高廣姉川の戦い小和田哲男小笠原安次山家三方衆山岡景友山県昌景岐阜城岩村城岩村遠山氏川中島の戦い上村合戦上杉謙信中根正照丹羽長秀三好三人衆三河国下条信氏一向一揆平山優平山優 (歴史学者)平手汎秀二俣城二俣川亀山城 (三河国)伊能文書佐久間信盛影武者 (映画)御内書徳川家康信長包囲網信長公記信松尼信濃国地方病 (日本住血吸虫症)六角義賢元亀兵越峠磯貝正義神坂峠...秋山虎繁空城計米津政信織田信忠織田信長織田勝長結核田峰城甲相同盟甲越同盟甲陽軍鑑遠山友勝遠山景任遠江国菅沼定忠菅沼定盈菅沼正貞青崩峠青木貞治顕如養子縁組馬場信春駿河侵攻高天神城高柳光寿鳥居忠広越中一向一揆越中国越後国越前国足利義昭黒澤明蜂屋頼隆胃癌鈴木重時野田城 (三河国)野田城・福島城の戦い金ヶ崎の戦い長篠城長野県柴田勝家柴辻俊六染谷光広松永久秀桶狭間の戦い椎名康胤武田信玄武田勝頼武田氏殿中御掟永禄渡辺世祐朝倉義景本多忠勝本多忠真明智光秀浜名湖浜松城浅井長政1565年1567年1568年1570年1571年1572年1573年 インデックスを展開 (66 もっと) »

おつやの方

おつやの方(おつやのかた、生年不詳 - 天正3年11月21日(1575年12月23日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。織田信定の娘で、織田信長の叔母にあたる。通称は艶、岩村殿、修理夫人、お直の方、岩村御前とも言われる川口素生『戦国軍師人名事典』P72。.

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夏目吉信

夏目 吉信(なつめ よしのぶ)は、戦国時代の武将。松平氏(徳川氏)の譜代家臣。一次史料上で確認できる実名は広次である。.

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大久保忠佐

大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。駿河国沼津藩主。蟹江七本槍・徳川十六神将の一人に数えられる。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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天竜川

諏訪湖より流れ出た天竜川(長野県岡谷市) 天竜川(てんりゅうがわ)は、長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流で、一級河川のひとつ。流路延長は213km(日本全国9位)、流域面積は5,090km2(日本全国12位)。.

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天野景貫

天野 景貫(あまの かげつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。犬居城主。.

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天方城

天方城(あまがたじょう)は、遠江国(現在の静岡県周智郡森町向天方)にあった日本の城。山城。天方城は、太田川に沿って静岡県道58号袋井春野線を北上すると、森町市街地(城下から向天方)辺から北東に聳える城山(比高250m)にあった。 武田信玄と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。.

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太田川 (静岡県)

太田川(おおたがわ)は、静岡県西部を流れる二級河川。.

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奥平定能

奥平 定能(おくだいら さだよし)は、戦国時代の武将。奥三河の国衆で、奥平定勝(貞勝、道文入道)の嫡男。母は水野忠政の妹。子に奥平信昌・仙千代・奥平昌勝。娘に本多重純(本多広孝の次男)室がいる。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。諱は近世の家譜・編纂物では「貞能」とするが、文書上からは「定能」であることが確認される。.

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奥平貞勝

奥平 貞勝(おくだいら さだかつ、永正9年(1512年)- 文禄4年10月9日(1595年11月10日))は日本の戦国時代の武将。三河作手地方の国人奥平氏当主。奥平貞昌の子。正室は水野忠政の妹。後室は菅沼定継の妹。奥平定能、奥平常勝、奥平貞治の父。通称、九八郎、監物。晩年に出家し、道文入道と号した。.

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奥野高廣

奥野 高廣(おくの たかひろ、1904年8月21日 - 2000年5月5日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所助教授。文学博士。現在でも織田信長研究の権威と評されている。.

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姉川の戦い

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。.

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小和田哲男

小和田 哲男(おわだ てつお、1944年(昭和19年)2月1日 - )は、日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本の戦国時代(特に今川氏)に関する研究で知られる。.

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小笠原安次

小笠原 安次(おがさわら やすつぐ、天文2年(1533年) - 天正10年9月25日(1582年10月11日))は、戦国武将。官位は摂津守。幡豆小笠原氏。 三河国欠城主小笠原安元の長男。兄弟に左太夫、喜三郎安勝。娘に牧野康成室。息子に康広(長男)、小五郎安勝(次男)、広勝(三男)。 徳川家康に仕え、永禄12年(1569年)遠江国掛川城攻め、元亀元年(1570年)、姉川の戦いに参戦する。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにも参戦するが辛酸を極め、長男の康広が戦死し、次男の安勝は重傷を負う。その後も高天神城の戦い、長篠の戦いと戦い、天正10年(1582年)伊豆国三島で北条氏と戦って討ち死にする。三男の広勝が跡目を継ぎ、天正18年(1590年)上総国周准郡に移った。享年50。法名は玄勝。.

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山家三方衆

山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)は、大久保忠教の『三河物語』に記載される「山ケ(家)三方作手・長問(長篠)・段嶺」に割拠した作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏を指す。 愛知県の三河国の山間部(設楽郡を中心とした、いわゆる奥三河)の土着有力勢力である。上記3家の他にも野田城の菅沼定盈の野田菅沼氏などが、徳川家康により信濃国から南下する、対武田信玄・武田勝頼との合戦に備えて、重要な役割を担わされていた。 ところが、元亀2年(1571年)以降は武田氏の三河侵攻を阻むどころか、逆に切り崩され、奥平・田峰菅沼・長篠菅沼の3家が揃って家康から離反した。以後は山県昌景の寄騎に編入され、武田軍として三河・遠江を転戦する。奥平氏はともかく、田峰と長篠の菅沼氏は同族で、田峰の方が総領家にあたる。それでも武田氏を上に戴くもの同士として3家の間に上下は無く、同列の関係を築いていたと考えられている。 その後の元亀4年(1573年)には、3家の転属に同調しなかった定盈を屈服させた野田城の戦いにも攻城方として参戦。玉砕を覚悟していた籠城中の定盈に翻意を促し、開城降伏に導いたともいわれている。定盈の身柄と交換で彼等が浜松城に差し出していた人質を取り戻したものの、改めて武田氏に差し出すという立場は依然として弱いままであった。それでも武田氏を戴き続ける決意は変わらなかったが、武田軍本隊が本国へ撤退すると、その夏には菅沼正貞の長篠城が家康の反撃に晒された。これを機に3家の関係は次第に揺らいでゆく。 元亀4年が改元された天正元年(1573年)8月、奥平貞能の武田離反・徳川再属によって解消されてしまうと、その後の3家の運命は大きく分かれたのだった。 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて、奥平氏・菅沼氏はともに徳川方につく者と武田方につく者に分かれ、敗北した武田方は三河を追われた。宗家当主の奥平貞能が徳川方についた奥平氏に対して、長篠・田峰両家がともに武田方として追われて野田家など庶流のみが残った菅沼氏は振るわなくなる。 奥平氏は江戸期に三河譜代の大名として存続。宇都宮藩などを経て、中津藩で明治維新を迎えた。一方、菅沼氏は菅沼定盈の野田菅沼氏が大名になったものの、後の所領分割で交代寄合となって大名の資格を失っている。.

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山岡景友

山岡 景友(やまおか かげとも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。常陸国古渡藩主。.

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山県昌景

山県 昌景(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。.

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岐阜城

岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として金華山と、その山塊の2,091,602.74平方メートルが国の史跡に指定されている。その範囲は、現在の国有林の範囲に符合する。 『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山という。.

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岩村城

岩村城(いわむらじょう)は岐阜県恵那市岩村町にある中世の日本の城(山城跡)で、江戸時代には岩村藩の藩庁であった。付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。岐阜県指定史跡。.

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岩村遠山氏

岩村遠山氏(いわむらとおやまし)とは、利仁流加藤氏一門、美濃遠山氏の宗家。.

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川中島の戦い

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。.

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上村合戦

上村合戦(かみむらがっせん)とは、元亀元年(1570年)12月、甲斐と信濃を地盤とする武田氏の軍勢が、東美濃の豪族岩村遠山氏の本拠地岩村城にほど近い恵那郡上村(現在の岐阜県恵那市上矢作町)へ侵入し、徳川氏の本拠地である三河に向かおうとしたため、遠山氏と徳川氏の連合軍と衝突した合戦。.

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上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

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中根正照

中根 正照(なかね まさてる)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。松平信康の家老・二俣城主を務めた。.

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丹羽長秀

丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した。.

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三好三人衆

三好三人衆(みよしさんにんしゅう)は、戦国時代に三好長慶の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であり、『言継卿記』や『多聞院日記』などの同時代の記録でも「三人衆」と表記されている。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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下条信氏

下条 信氏(しもじょう のぶうじ、享禄2年(1529年) - 天正10年6月25日(1582年7月14日))は、戦国時代の武将。下条は下條とも書く。父は下条時氏。信濃小笠原氏、のち甲斐武田氏の家臣であり、武田晴信(信玄)の義兄弟、信濃吉岡城(伊那城とも)主である。兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。子は信正、頼安。.

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一向一揆

三河一向一揆 六字名号(蓮如筆)/本願寺所蔵 一向一揆(いっこういっき)とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。.

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平山優

平山 優(ひらやま ゆう/まさる)は、.

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平山優 (歴史学者)

平山 優(ひらやま まさる/ゆう、1964年1月10日 - )は、日本の教員・歴史学者。専門は日本中世史・近世史。現在は山梨県立中央高等学校教諭(定時制)、元山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨大学非常勤講師、山梨県史編さん室主査、山梨県教育庁学術文化財課主査、山梨県立博物館副主幹。武田氏研究会、中世史研究会、戦国史研究会、織豊期研究会、山梨郷土研究会会員。武田氏研究会副会長。.

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平手汎秀

平手 汎秀(ひらて ひろひで、天文22年1月2日(1553年1月15日) - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。幼名は秀千代。通称は甚左衛門。 官位は監物。平手政秀の三男、もしくは政秀の嫡男とされる久秀の嫡男(つまり政秀の孫)ともいわれる。母は加藤清正の姉とされる。.

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二俣城

二俣城(ふたまたじょう)は、遠江国豊田郡二俣(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった日本の城。山城。天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。また、家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られる。城跡は国の史跡に指定されている(指定名称は「二俣城跡及び鳥羽山城跡」)。 本項では二俣城攻略の際に付城として築かれた鳥羽山城についても記述する。.

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二俣川

二俣川(ふたまたがわ)は、神奈川県横浜市旭区にある町名。現行行政地名は二俣川1丁目および二俣川2丁目。住居表示未実施区域。郵便番号は241-0821。また、周辺の本村町・本宿町・南本宿町・さちが丘・今宿・中尾・中沢を含めた地域名として使われることもある。 相模鉄道二俣川駅が当地域の中心にあり、この駅からいずみ野線が分岐する。また、神奈川県運転免許試験場の最寄駅であることから、本試験場を「二俣川」と呼ぶことがある。 当地区と鶴ケ峰駅周辺地区は、横浜市が策定した「ゆめはま2010プラン」において「二俣川・鶴ケ峰副都心」として、横浜市の副都心に指定されている。また、旭区では二俣川のみ「丁目」の数字をアラビア数字で表す横浜市の場合、「丁目」の数字をアラビア数字で表すときは「字丁目」を表す。「○○町1〜3丁目」とあれば、1〜3丁目を合わせた全てが一つの町であり、「1丁目」は字である。また漢数字で表す場合は丁目毎に一つの町を表す。「○○町一〜三丁目」とあれば、一丁目から三丁目までの三か町であり、「一丁目」で一つの町である。この法則が適用されるのは、1964年4月1日以降に町界町名地番整理事業や住居表示整備事業を実施して設置した町であり、それ以前に設置した町は例外となる。二俣川が唯一この例外に当たり、「1〜2丁目」と表記されるものの、それぞれ別個の町である。。.

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亀山城 (三河国)

亀山城(かめやまじょう)は、愛知県新城市作手清岳にあった日本の城。作手城と表記されることもある。.

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伊能文書

伊能文書(いのうもんじょ)は、下総国佐原(現香取市)の伊能家が収集・伝来した古文書『伊能茂左衛門家文書』(国立歴史民俗博物館所蔵)の通称である。同家出身者には国学者の楫取魚彦、親族に測量家の伊能忠敬(伊能三郎右衛門家)などがいる。 中でも武田信玄が朝倉義景に送った元亀3年12月28日(1573年1月31日)付の書状内容などを記した文書が著名であり、特にこの文書を指して呼ばれることが多い。 織田信長包囲網を勝手に解いて離脱した義景を信玄が非難している。.

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佐久間信盛

佐久間 信盛(さくま のぶもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。子に信栄・信実。従兄弟に佐久間盛次(佐久間盛政・佐久間安政・柴田勝政・佐久間勝之の父)がいる。.

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影武者 (映画)

『影武者』(かげむしゃ)は、1980年(昭和55年)に公開された日本映画。東宝配給。監督は黒澤明、主演は仲代達矢。カラー、ビスタ、179分。第33回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した『昭和55年 写真生活』p10-11(2017年、ダイアプレス)。 黒澤が『デルス・ウザーラ』以来5年ぶりに撮った映画で、久しぶりの時代劇となった。彼の作品では唯一、実在の戦国武将にまつわるエピソードを取り上げたスペクタクル巨編で、戦国時代に小泥棒が武田信玄の影武者として生きる運命を背負わされた悲喜劇を描く。外国版プロデューサーとして、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが名を連ねた。勝新太郎の降板劇など公開前から話題を呼び、当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録し、1983年に蔵原惟繕監督の『南極物語』に抜かれるまで破られなかった。.

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御内書

足利義昭御内書/大阪城天守閣蔵 御内書(ごないしょ)は、室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式を取った公文書。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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信長包囲網

信長包囲網(のぶながほういもう)とは、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことを言う。.

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信長公記

信長公記/陽明文庫所蔵 『信長公記』(しんちょうこうき / のぶながこうき)は、戦国大名である織田信長の一代記で、戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。著者は信長旧臣の太田牛一。原本は江戸時代初期に成立した。 信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛する前までを首巻とし、上洛(永禄11年(1568年))から本能寺の変(天正10年(1582年))まで15年の記録を1年1巻とし、全16巻(16冊)にまとめている。 読みに関しては米沢藩上杉氏旧蔵本である個人蔵十冊本の内題に「しんちやうき」とあることから、音読みで「しんちょうき」と読まれていたと考えられている。また、森銑三は江戸時代にはその人に敬意を表する意味で人名を音読みする習慣があったことを指摘し(有職読み)、同様の事例に『義経記(ぎけいき)』を挙げている。.

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信松尼

信松尼(しんしょうに、永禄4年(1561年) - 元和2年4月16日(1616年5月31日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。甲斐国の戦国大名である武田信玄の六女。出家前の名は松姫(まつひめ)。母は側室の油川氏。同母の兄弟姉妹には仁科盛信(五郎)、葛山信貞、真理姫(木曾義昌室)、菊姫(上杉景勝室)らがいる。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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地方病 (日本住血吸虫症)

肝臓に蓄積した日本住血吸虫の卵殻。甲府盆地の住民に多大な被害を与えた。 甲府盆地(定期航空機より2006年11月13日)。左上方から中央部に弧状を描き下方へ流れるのが釜無川、右方向から左下方へ流れるのが笛吹川。 地方病(日本住血吸虫症)撲滅に尽力した杉浦健造医師 (1866 - 1933山梨日日新聞社編『山梨 歴史カレンダー』p.242) の胸像(2010年9月撮影) 本項で解説する地方病(ちほうびょう)とは、日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民に多大な被害を与えた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。 日本住血吸虫症とは住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病であり、ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症でもある 2016年1月2日閲覧。日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名カタヤマガイ)という淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄生して重症化すると肝硬変による黄疸や腹水を発症し、最終的に死に至る。病原体である日本住血吸虫については日本住血吸虫を、住血吸虫症全般の病理については住血吸虫症を参照のこと。 病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、疾患の原因となる病原体(日本住血吸虫)の生体が、世界で最初に日本国内(現:山梨県甲府市)で発見されたことによるものであって、日本固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は中国、フィリピン、インドネシアアジアにおける日本住血吸虫症の分布は撲滅された日本を含め、中華人民共和国、フィリピン、インドネシアの4カ国(厳密には台湾でもかつて分布が見られたが、ブタ、イヌ等の感染は認められたものの、ヒトへの感染事例は未確認である。)であるが、このうちインドネシアでの流行地は小規模なものでスラウェシ島(旧称セレベス島)中部にあるLindoe湖西岸の3ヶ村(人口約1,500人)に有病地が確認されている。ただしスラウェシ島の大部分は未開発の熱帯雨林であり、未発見の日本住血吸虫症有病地が存在する可能性も指摘されている。飯島利彦 日本住血吸虫病の疫学 第1節分布 インドネシアにおける流行、台湾における流行 山梨地方病撲滅協力会編 (1981) pp.38-39の3カ国を中心に年間数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、世界保健機関 (WHO)などによって2017年現在もさまざまな対策が行われている2017年1月17日閲覧 Uganda National Health Consumers' Organisation (UNHCO) ウガンダ国民健康消費者機構 2016年1月2日閲覧。 日本国内では、1978年(昭和53年)に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、それ以降の新たな感染者は発生しておらず、1996年(平成8年)の山梨県における終息宣言をもって日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている。 日本は住血吸虫症を撲滅、制圧した世界唯一の国である日本は日本住血吸虫症 (Schistosomiasis japonica) を撲滅した世界唯一の国である。林 (2000) 序文pp.1-3。 日本国内での日本住血吸虫症流行地は水系毎に大きく分けて次の6地域であった。.

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六角義賢

六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく じょうてい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏15代当主。観音寺城主。.

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元亀

元亀(げんき)は、日本の元号の一つ。永禄の後、天正の前。1570年から1573年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義昭。.

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兵越峠

兵越峠(ひょうごしとうげ)は静岡県浜松市天竜区と長野県飯田市の間にある標高1,165mの峠である。地図上ではヒョー越と表記されるものもあり、単に兵越(ひょうごえ)と呼ぶこともある。また飯田市南信濃では、兵越峠(ひょうこしとうげ)と濁らずに呼んでいる。 名前の由来は武田信玄が西上作戦の折りにこの峠を越えたからといわれている。.

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磯貝正義

磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2008年7月25日)は、日本の歴史学者。山梨大学名誉教授。山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編さん委員会委員長。.

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神坂峠

坂峠(みさかとうげ)は、木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mの峠である。位置は、。.

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秋山虎繁

秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。 諱は『甲斐国志』による「信友(のぶとも)」や、近世の軍記物に拠る「春近(はるちか)」「晴近(はるちか)」「信近(のぶちか)」とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写により「虎繁」であることが指摘されている。「虎」は武田信虎からの偏諱であると考えられている。また、実名の誤伝のうち「晴近」は虎繁の同心である「春近衆」が訛伝したと考えられている。.

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空城計

城計(くうじょうけい)または空城の計(くうじょうのけい)は兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術。 あえて自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略のこと。敵方に見破られた場合は全滅の危険性があり、心理戦の一種である。 野戦で敵に敗れた場合、既にして敵軍が圧倒的に優勢な状況であることが多い。その状態で城に逃げ込んでも結局最後には補給を断たれ、降伏することを余儀なくされる。自軍が圧倒的に数が少ない場合、敵軍が攻城戦や包囲戦に移ることを防ぐためには、敵将に自軍の戦闘能力を錯覚させることが重要である。例えば、敵軍に攻め寄せられた際に城門を開け放ち自ら敵を引き入れようとすれば、優秀で用心深い指揮官ほど逆に警戒する。『追うこと百里ならば将を失い、五十里ならば兵の伴ばを失う』とある通り、敵が罠を仕掛け待ち構えているところに入るというのは、全滅もありえるほど危険だからである。 『三国志演義』では蜀の諸葛亮が野戦で魏に敗れた際、蜀軍は魏軍と比べて圧倒的に兵力が少なかった。諸葛亮は一計を案じ、城に引きこもって城内を掃き清め、城門を開け放ち、兵士たちを隠して自らは一人楼台に上って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏の司馬懿は諸葛亮の奇策を恐れてあえて兵士に城内に踏み込ませなかったという。 史書においては三国志に付けられた注釈で魏の郭沖が語った故事として前述のモデルとなった諸葛亮が城門を開け放ち司馬懿を退けた話が記録される他、漢中争奪戦の際、蜀の将軍・趙雲が空城計を使って曹操軍を撤退させたのが初である。敵の食糧を奪いに行った黄忠が帰陣の時間を過ぎても戻って来ないので、趙雲は残った少数の部下を率いて黄忠の応援に向かった。ところが黄忠の軍が見つからないうちに突然、趙雲軍は曹操軍の大軍に遭遇したが、無謀にも馬を敵の大軍の中に突入させたところ、驚いた曹操軍は乱れて退却し始めた。暴れ回っていた趙雲は、これを見ると馬の首を反転させるや、今度はまっしぐらに自分の陣に向かって退却した。それを見ていた曹操軍は一斉に追い始め、趙雲の陣近くまで達するも、急に指揮官が馬上から手を上げて、全軍を静止した。不気味にも趙雲の陣の門が開かれ、中が静まりかえっているからだった。指揮官は「おそらく伏兵がいるに違いない」と考え、退却を命じた時、突然後方から石や矢が飛んできた。やはり趙雲軍は陣の外に伏兵を配置しており、曹操軍は散々な目にあって逃げ去って行ったとされている。 北斉の北徐州刺史・祖珽は陳の攻撃を受けた際、城門を開放し、守備兵を降ろして城内を静めさせ、人や鶏・犬の往来を禁じた。陳の軍勢は城内が無人ではないかと考えて備えを設けなかった。祖珽が兵に叫ばせ鼓を響かせたところ、陳の軍勢は驚いて遁走した。 唐代、吐蕃が河西に侵攻し瓜州を陥落させた。瓜州刺史・張守珪が州城を再建しようとした際にもまた吐蕃軍が襲撃してきた。城中に防御の備えはほとんど無く、みな闘志を失っていた。張守珪は「敵は多勢、我々は無勢、被害は甚大で矢石を以て持ち応えることもできない。臨機の手段によるべきである」と言い、城上で将士との宴席を設けた。吐蕃の軍勢は城中に備えがあるのではないかと疑い、敢えて攻めずに去った。 日本では、戦国時代において、徳川家康が窮地を逃れた際の事例がある。1573年、三方ヶ原の戦いで徳川軍は武田信玄率いる武田軍に大敗し、壊滅状態で浜松城に逃げ帰った。武田軍はこれを追撃するが、家康は「あえて大手門を開き、内と外にかがり火をたかせ、太鼓を叩かせた」ところ、それに警戒した武田軍は兵を引き挙げ、浜松城は落城を免れた。これは武田軍の指揮官の山県昌景や馬場信春が、信玄の教えによって中国古来の孫子・六韜・三略などの兵法に通じており、「空城計」(及び関門捉賊や欲擒姑縦)をよく知っていたためであるとされる。.

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米津政信

米津 政信(よねきつ まさのぶ)は、戦国時代の武将。松平氏(徳川氏)の家臣。.

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織田信忠

織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代~安土桃山時代の武将・大名。織田信長から生前に家督を譲られ織田家当主となったが、本能寺の変で自刃した。岐阜城主。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田勝長

織田 勝長(おだ かつなが)は、安土桃山時代の武将。織田信長の五男(もしくは四男)。幼名は御坊丸。「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、史料で確認できる実名は、津田源三郎、織田源三郎信房。「勝長」というのは系図作成者が信長と武田勝頼それぞれの一字をとって創作したものなのかもしれないとされる。法名は林庭宗松。.

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結核

結核(けっかく、Tuberculosis)とは、マイコバクテリウム属の細菌、主に結核菌 (Mycobacterium tuberculosis) により引き起こされる感染症Kumar, Vinay; Abbas, Abul K.; Fausto, Nelson; & Mitchell, Richard N. (2007).

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田峰城

峯城(だみねじょう)とは、かつて愛知県北設楽郡設楽町田峯にあった日本の城(山城)である。菅沼家の本城であった。別名「蛇頭城」。笹頭山の中腹に位置する。.

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甲相同盟

同盟(こうそうどうめい)は、戦国時代の軍事同盟。ともに戦国大名である甲斐・武田氏と相模・北条氏との間で結ばれた同盟。.

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甲越同盟

越同盟(こうえつどうめい)は、天正7年(1579年)に甲斐の戦国大名武田勝頼と越後の戦国大名上杉景勝との間で成立した同盟。3年後の天正10年(1582年)に起こった甲州征伐まで軍事同盟として機能し、戦国時代後期の甲斐や越後、後北条氏の相模など東国における諸勢力の関係に影響を及ぼした。.

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甲陽軍鑑

『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。本編20巻全59品(59章)、末書2巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。.

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遠山友勝

遠山 友勝(とおやま ともかつ)は、戦国時代の武将。美濃国飯羽間城および苗木城の城主。.

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遠山景任

遠山 景任(とおやま かげとう)は、戦国時代の武将・大名。岩村遠山氏当主。美濃国恵那郡現・岐阜県恵那市岩村町。岩村城主。父は遠山景前。妻は織田信長の叔母(おつやの方)。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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菅沼定忠

菅沼 定忠(すがぬま さだただ)は、日本の戦国時代の武将。父は菅沼定継。.

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菅沼定盈

菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。野田菅沼氏3代目当主。上野阿保藩主。.

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菅沼正貞

菅沼 正貞(すがぬま まささだ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。長篠菅沼氏6代目当主。菅沼貞景の子。長篠城を築いた菅沼元成の玄孫。通称、新九郎。 三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の支族で、長篠城を有する長篠菅沼氏に生まれた。永禄12年(1569年)1月に父・菅沼貞景が討死。若年で家督を継いだため、大叔父・菅沼満直の後見を受ける。 元亀2年(1571年)に本家・田峯菅沼氏が武田信玄に与したとき、一度はこれに抗ったため、武田軍の天野景貫と交戦に及んだという。戦後、武田軍の先遣・秋山虎繁(信友)は、使者を遣わして長篠菅沼氏などを懐柔した。 正貞の意思は、家康への従属を貫くものであったが、大叔父・菅沼満直に牛耳られた家中は、本家からの使者に同調して武田信玄の靡下に入る事を望んだ。以後は、本家・田峯菅沼氏と、その縁戚・奥平氏と共に山県昌景の与力に組み込まれる。奥三河で進退を共にする誓いを立てたこの3家は山家三方衆と呼ばれる存在と成り、武田軍の手先として三州・遠州の各地を転戦した。 元亀4年(1573年)7月末には、武田軍が信濃国経由で帰国した間隙を衝く徳川家康によって居城・長篠城を攻囲される。この時、武田信豊を主将とした武田の救援軍が三河まで到達していたとされる。しかし、連絡路を遮断され援軍の存在を知らなかったためか、城方では、信豊たち援軍の到来を待たずして同年8月には開城降伏を選択。正貞は一命を奪われる事無く、北へ逃れて武田の援軍に合流した。ところが信豊たち来援の武田首脳部では、正貞が家康に内通していると疑念を抱いており、証拠物件を挙げようとする。内通疑惑は真実であったが、幸いにも証拠は出なかった。それでも、首脳部の疑念を晴らすには至らず、正貞の身柄は信濃小諸城にまで運ばれ、幽閉されてしまう。 天正10年(1582年)、武田氏滅亡の前後で獄中死したとされる。 正貞の妻も小諸城に軟禁されており、小諸で男子を出産したという。武田氏滅亡後、乳飲み子を伴って家康に対し赦免を要求し、容認された。その後、乳飲み子は長じて菅沼正勝と名乗り、徳川頼宣付けとなった。.

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青崩峠

青崩峠(あおくずれとうげ)は静岡県浜松市天竜区と長野県飯田市の間にある標高1,082mの峠である。峠付近の地質構造は、中央構造線による破砕帯となっており、山腹に広がるむき出しになった青い岩盤から峠の名が付けられた。静岡県側・長野県側ともに、国道152号の端点から林道、遊歩道(かつての塩の道)を歩いて峠にたどり着くことができる。武田信玄による1572年の徳川領侵攻において、軍兵の一部が通過したことで知られている。 国道152号の点線国道区間で未通区域となっている。1987年より三遠南信自動車道の一部としても位置づけられているが、地形の急峻さと地盤が脆弱なために道路(青崩峠道路)を通すことが出来ないと考えられていた。しかし2013年には、青崩峠直下よりも西寄りにトンネルを通す形で事業化され、着工している。ただし、2015年3月の時点では、開通のめどは立っていない。青崩峠の迂回のために兵越峠直下を通過するルートが選択され、草木トンネルが建設されたが、兵越峠の地盤も脆弱なことが判明し、結局地盤のやや硬い青崩峠西側を通るルートに変更された経緯がある。大型以外の車両は草木トンネルを通って隣接する兵越林道を使用することにより迂回が可能。.

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青木貞治

青木 貞治(あおき さだはる)は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。 永禄11年(1568年)、徳川家康が今川氏真の領地である遠江国に侵攻し、松井宗恒の守る二俣城を奪った。当初は鵜殿氏長が城代として置かれていたが、甲斐武田氏から攻撃される危険性が高まると、中根正照が城主となり、貞治も松平康安と共に入城する。元亀3年(1572年)10月、二俣城は武田信玄に攻められ、貞治らは奮戦するが降伏・開城した(二俣城の戦い)。開城後、貞治は正照と共に浜松城に帰還した。 元亀3年12月22日(1573年1月25日)の三方ヶ原の戦いにおいて、貞治は二俣城開城の恥を雪ごうとし奮戦し、討ち死にした。 さたはる Category:戦国武将 Category:戦国時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1573年没.

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顕如

顕如(けんにょ、顯如)は、戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第11世宗主、真宗大谷派第11代門首。石山本願寺住職。 顕如は号で、諱は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、信樂院)。法印大僧正、准三宮。父は第10世宗主の証如、関白内大臣九条稙通の猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男に真宗大谷派第12代門首の教如、次男に真宗興正派第17世門主の顕尊、三男に浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如がいる。 神仏をないがしろにし武力による天下統一を狙う織田信長を仏敵とみなし、全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけて決戦を挑んだ。軍事的にも経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に、調略を巡らせて信長包囲網を築き10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。.

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養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

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馬場信春

場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。.

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駿河侵攻

駿河侵攻(するがしんこう)は、戦国時代の合戦。永禄11年(1568年)に行われた甲斐国の戦国大名である武田信玄による駿河国今川領への侵攻を端緒とする。.

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高天神城

天神城(たかてんじんじょう)は、遠江国城東郡土方(ひじかた)(現在の静岡県掛川市上土方・下土方)にあった日本の城。 小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。国の史跡に指定されている。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(147番)に選定された。.

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高柳光寿

柳 光寿(たかやなぎ みつとし、高柳光壽とも。1892年3月11日 - 1969年12月1日)は、日本の歴史学者。自身で「柳」と署名しているものもある。國學院大學教授。大正大学教授。静岡県出身。 専門は日本中世史、特に戦国時代史。足利尊氏研究、戦国史研究の権威。.

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鳥居忠広

鳥居 忠広(とりい ただひろ、生年未詳 - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は、戦国時代の武将。徳川氏の家臣。 四郎左衛門。.

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越中一向一揆

越中一向一揆(えっちゅういっこういっき)は、文明11年(1479年)頃から天正4年(1576年)にかけて、越中の瑞泉寺と土山御坊門徒らが中心となった一向一揆。.

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越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越前国

越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。.

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黒澤明

黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢、1910年(明治43年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。妻は女優の矢口陽子。 ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出し、アカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で賞を得た。 小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に世界的にその名が知られ、映画史においてはスティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラ、北野武などの映画人に大きな影響を与えており、日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。 映画監督として初めて文化勲章受章、文化功労者顕彰、東京都名誉都民選出、贈従三位(没時叙位)、贈国民栄誉賞(没後追贈)。1990年に日本人初のアカデミー名誉賞を受賞。1999年には米週刊誌『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。米国映画芸術科学アカデミー会員。.

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蜂屋頼隆

蜂屋 頼隆(はちや よりたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。敦賀城主。.

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胃癌

胃癌(いがん、英:Stomach cancer または gastric cancer、独:Magenkrebs)は、胃に生じる悪性腫瘍・癌の総称。.

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鈴木重時

鈴木 重時(すずき しげとき、享禄元年(1528年)? − 永禄12年2月5日『歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯』洋泉社、2016 70-71頁、巻末特別付録7-8頁(1569年2月20日))は、戦国時代の武将。三河鈴木氏酒呑系、鈴木重勝の子。鈴木重好の父。通称、三郎大夫。正室は奥山朝利の娘。.

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野田城 (三河国)

野田城(のだじょう)は、愛知県新城市豊島にある日本の城。別名「根古屋城」、「三河野田城」とも呼ぶ。1505年(永正2年)に菅沼氏が築城した城である。最寄り駅はこの城の名より名付けられたJR飯田線野田城駅。下車徒歩15分。.

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野田城・福島城の戦い

野田城・福島城の戦い(のだじょう、ふくしまじょうのたたかい)は元亀元年(1570年)8月26日から9月23日に行われた戦い。この後10年にも亘る石山合戦の端緒と言える戦いで、別名「第一次石山合戦」とも言われている。.

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金ヶ崎の戦い

金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である。.

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長篠城

長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった日本の城。特に天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。 現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。.

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長野県

長野県空撮画像。長野盆地、富士山、浅間山、日本アルプスなどを望む。 長野県の地形図 長野県(ながのけん)は、本州内陸部に位置する日本の県の一つ。令制国名の信濃国に因み「信州」とも呼ばれている。海に面していないいわゆる内陸県であり、大規模な山岳地があるため可住地面積率は小さい。県庁所在地は長野市。善光寺の門前町として発展し第18回冬季オリンピックの開催地となった自治体でもある。.

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柴田勝家

柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。.

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柴辻俊六

柴辻 俊六(しばつじ しゅんろく、1941年9月10日 - )は、日本の歴史学者・古文書学者・図書館員。元早稲田大学図書館司書。専門は日本の戦国時代史。.

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染谷光広

染谷 光広(そめや みつひろ、1939年 - 2003年8月11日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所教授。.

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松永久秀

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。大和国の戦国大名。官位を合わせた松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。.

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桶狭間の戦い

今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.

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椎名康胤

椎名 康胤(しいな やすたね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越中国の国人。松倉城主。.

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武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。.

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武田勝頼

武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。.

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武田氏

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国などにも庶流があったが、いずれも通字として「信」(のぶ)が使用されている。古代の国造である武田臣(皇別)の後裔が河内源氏義光流の棟梁と婚姻したという説も伝わっている。 河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し、武田晴信(信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。 家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。.

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殿中御掟

殿中御掟(でんちゅうおんおきて)とは、織田信長が将軍・足利義昭に承認させた掟である。永禄12年(1569年)1月に16か条、永禄13年(1570年)1月に5か条が追加され、21か条の掟となった。.

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永禄

永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇。室町幕府将軍は足利義輝、足利義栄、足利義昭。.

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渡辺世祐

渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 1957年4月28日)は、日本史学者。明治大学、國學院大學各教授。1919年、文学博士。山口県平民 。.

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朝倉義景

朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。.

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本多忠勝

本多 忠勝(ほんだただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。.

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本多忠真

本多 忠真(ほんだ ただざね)は、戦国時代の三河国の武将。松平氏(徳川氏)の家臣。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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浜名湖

浜名湖(はまなこ)は、静岡県浜松市、湖西市にまたがる湖。.

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浜松城

浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。.

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浅井長政

浅井 長政(あざい ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。浅井氏は滅亡した。官位は贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。.

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1565年

記載なし。

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1567年

記載なし。

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1568年

記載なし。

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1570年

記載なし。

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1571年

記載なし。

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1572年

記載なし。

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1573年

記載なし。

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