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蜂須賀至央

索引 蜂須賀至央

蜂須賀 至央(はちすか よしひさ)は、阿波国徳島藩の第9代藩主。もとは讃岐国高松藩一門松平大膳家第3代。.

39 関係: 宝暦下助任町久保田藩享年仮名 (通称)佐竹義道御目見徳島市徳島県徳島藩徳川家重コトバンク出羽国元文高松藩高松松平家讃岐国蜂須賀宗鎮蜂須賀休光蜂須賀重喜蜂須賀至鎮蜂須賀氏興源寺 (徳島市)阿波国醍醐輝弘松平大膳家松平頼煕 (松平大膳家)松平頼恭松平頼桓松平頼昌江戸時代末期養子12月15日 (旧暦)1737年1754年1月15日7月12日 (旧暦)8月29日

宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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下助任町

下助任町(しもすけとうちょう)は、徳島県徳島市の町名。現行行政地名は下助任町一丁目から下助任町五丁目。2009年12月現在の人口は1,492人、世帯数は717世帯。郵便番号は〒770-0805。.

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久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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佐竹義道

佐竹 義道(さたけ よしみち、元禄14年(1701年) - 明和元年閏12月7日(1765年1月27日))は、出羽秋田新田藩(岩崎藩)2万石の第2代藩主。父は秋田藩士佐竹義本(佐竹氏一門、佐竹東家)。母は大納言・広幡豊忠の養女。幼名は富千代。通称は源六郎、求馬。官位は従五位下壱岐守、和泉守。 正室は養父佐竹義長の娘・昆(明鏡院、死去)、継室は内藤政森の娘。子女は長男・佐竹義明、次男・佐竹義敏、三男・佐竹義忠、四男・佐竹義居(蜂須賀重喜)、娘(越前松平直道正室)の5人。 元禄14年(1701年)生まれとも、元禄16年(1703年)7月15日生まれとも言われている。享保2年(1717年)11月18日、秋田新田藩主佐竹義長の養子となる。義長の実子義峯は本家の秋田藩を継いでおり、分家の秋田新田藩の後継者を欠いていたためである。同年11月28日、将軍徳川吉宗に御目見する。享保3年(1718年)9月6日、義長の隠居により家督を相続した。同年12月18日従五位下壱岐守に叙任する。享保17年(1732年)、駿府加番を命じられる。 江戸時代の講談などによれば、「義道は野心家であり、本家の第6代藩主の義真(享保13年8月4日(1728年9月7日)- 宝暦3年8月20日(1753年9月17日))を22歳で毒殺して秋田騒動(宝暦7年(1757年))を引き起こし、第7代藩主に長男の義明を擁立し、自らはその補佐役として実権を掌握した」といわれている。 宝暦13年(1763年)5月14日、三男の義忠に岩崎藩主家の家督を譲って隠居し、翌年閏12月7日に死去した。享年64。法号は大仙院殿道安円成。墓所は東京都板橋区小豆沢の総泉寺。.

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御目見

御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。 江戸時代の武士には、どの藩でも藩主にお目通りする資格がある「上士」と、それがない「下士」の区別があった。一般に「侍」(さむらい)と呼ばれたのは前者の方で、後者はかつて戦場でも騎乗の資格がなかったことから「徒歩」(かち)と呼ばれた。 幕府内では、石高一万石未満の徳川家家臣で、総登城や年賀節句など将軍が出御する儀式に参列することが許されている者を「旗本」、そうでない者を「御家人」と呼んだ。また旗本は、規模は小さいながらも実際に知行地をもつ一領主であったことから、庶民からは俗に「殿様」(とのさま)と呼ばれた。一方の御家人は、切米で俸給されたので「旦那様」(だんなさま)と呼ばれた。 江戸城内における年中儀礼の式次第や諸大名の格式をはじめ、故事、旧例、有職、法規などを網羅した注釈書『柳営秘鑑』には、以下の記述がある。 近世武家社会において御目見は家督の相続に際して嫡子として認められる所作のひとつとなっており、成人の嫡子が存在しても御目見を済まさない場合は家督相続者として認められなかった。.

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徳島市

徳島市(とくしまし)は、日本の四国北東部に位置する都市で、徳島県の県庁所在地である。 徳島市のブランドステートメントは、心おどる水都・とくしま。.

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徳島県

徳島県(とくしまけん)は、日本の県の一つ。四国の東部に位置する。県庁所在地は徳島市。.

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徳島藩

徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩があった。.

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徳川家重

増上寺の墓所にある家重の石塔 徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代の江戸幕府第9代将軍(在任:延享2年(1745年)- 宝暦10年(1760年))である。.

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コトバンク

kotobank(コトバンク)は朝日新聞社が主体となってとりまとめたインターネット百科事典。新聞社が提供するウェブサイトの特色として報道記事中の用語解説を強化し、朝日新聞サイト掲載記事にリンクする朝日新聞「新用語解説サイト「kotobank」(コトバンク)を4月23日に開設 - asahi.com提供サービス」2009年4月22日 。 2009年4月23日の正式発足時は、同社と講談社、小学館、朝日新聞出版の各社が提供するものを核とした44辞書・事典の計43万項目を網羅する。VOYAGE GROUPがサイト構築と運営を担当し、オーバーチュアの検索エンジンとインターネット広告システムを利用、検索連動型広告(キーワード広告)を収益源とする。 2011年3月より朝日新聞とジェネシックスがiPhone向け電子辞書プラットフォームアプリ「kotobank for iPhone」の配信を開始ECナビ「」2011年3月29日。.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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元文

元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高松藩

松城月見櫓 高松藩(たかまつはん)は、江戸時代に讃岐国(現在の香川県)を領有した藩。生駒氏の代は讃岐一国を領していたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。.

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高松松平家

松松平家(たかまつまつだいらけ)は、徳川御三家水戸徳川家の支系で、親藩・御連枝のひとつ。水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重を家祖とする。讃岐国高松藩の藩主家。明治以後は伯爵。.

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讃岐国

讃岐国(さぬきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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蜂須賀宗鎮

蜂須賀 宗鎮(はちすか むねしげ)は、阿波徳島藩の第8代藩主。もとは讃岐高松藩一門松平大膳家第2代。.

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蜂須賀休光

蜂須賀 休光(はちすか よしみつ、1760年8月16日(宝暦10年7月6日) - 1812年3月16日(文化9年2月4日))は、徳島藩の藩主一門。 8代藩主蜂須賀宗鎮の七男。母は小瀬氏。子に池田長興室、醍醐輝弘室(蜂須賀至央(宗鎮の実弟)、継いで一条輝良の養女となる)、池田昭訓、蜂須賀休栄、蜂須賀休紹。幼名は栄吉、安之丞。初名は保詰。通称は主殿。 宗鎮の隠居後、10代藩主重喜の時代に生まれる。初め藩士の太田雲八郎義雅の養子となり、後に公族(藩主一門)となる。文化9年2月4日没。享年53。 よしみつ Category:徳島藩の人物 Category:1760年生 Category:1812年没.

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蜂須賀重喜

蜂須賀 重喜(はちすか しげよし)は、阿波徳島藩第10代藩主。.

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蜂須賀至鎮

蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。阿波国徳島藩初代藩主。.

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蜂須賀氏

蜂須賀氏(はちすかし)は、日本の氏族の一つ。羽柴秀吉に仕えた蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族が著名。.

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興源寺 (徳島市)

興源寺(こうげんじ)は、徳島県徳島市下助任町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は大雄山。徳島藩主蜂須賀家の墓所があることで知られ、墓所は国の史跡に指定されている。興源寺一帯は助任緑地として整備されている。.

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阿波国

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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醍醐輝弘

醍醐輝弘(だいご てるひろ)は、江戸時代後期の公卿、廷臣。光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位・内大臣まで昇った。.

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松平大膳家

松平大膳家(まつだいらだいぜんけ)は、江戸時代の水戸徳川家の御連枝の一つである高松藩主家(高松松平家)の一門。初代藩主松平頼重の孫頼煕(頼重の六男頼芳の子)を祖とする。代々の当主は志摩、大膳などの通称を名乗った。頼煕の長男の松平頼桓は、頼煕の後見を受けて4代藩主に就いた。また、頼煕の家督は頼桓の弟である頼珍、次いで頼央が継いだが、この2人は相次いで徳島藩主蜂須賀家に養子入りしている(8代藩主宗鎮・9代藩主至央)。彼ら3人の代で高松藩では頼煕の血筋は絶え(徳島藩では藩主一門の家系として残った)、藩主には水戸家の別の御連枝である守山藩主松平家から松平頼恭が迎えられ、その五男の頼昌が大膳家を継いだ。以後、藩主家・大膳家とも頼恭の血筋で続いた(藩主は幕末には水戸本家から養子を迎えている)。 2002年に、高松市丸の内にある大膳家の中屋敷跡と上屋敷跡で発掘調査が行われた。.

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松平頼煕 (松平大膳家)

松平 頼煕(まつだいら よりひろ、元禄12年11月25日(1700年1月14日) - 元文2年9月22日(1737年10月15日))は、讃岐高松藩の藩主一門松平大膳家初代。一門・松平頼芳の子。初代藩主・松平頼重の孫。母は大高氏。子に松平頼桓、松平頼珍(蜂須賀宗鎮)、松平頼央(蜂須賀至央)。通称は左近、志摩。号は一風。.

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松平頼恭

松平 頼恭(まつだいら よりたか)は、讃岐高松藩の第5代藩主。.

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松平頼桓

松平 頼桓(まつだいら よりたけ)は、讃岐高松藩の第4代藩主。.

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松平頼昌

松平 頼昌(まつだいら よりあつ、宝暦2年1月22日(1752年3月7日) - 寛政元年7月14日(1789年9月3日))は、讃岐高松藩の藩主一門、松平大膳家第4代。5代藩主・松平頼恭の五男。母は池永氏。幼名は直之助、通称は大膳。養子に松平頼格。 宝暦4年(1754年)、大膳家当主の頼央が徳島藩主蜂須賀家に養子入りしたため、その家督を相続した。当初の禄高は2000石だったが、天明5年(1785年)に加増され5000石となる。寛政元年(1789年)7月14日没。家督は弟頼裕の子で甥の頼格が相続した。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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末期養子

末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。.

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12月15日 (旧暦)

旧暦12月15日は旧暦12月の15日目である。六曜は友引である。.

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1737年

記載なし。

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1754年

記載なし。

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1月15日

1月15日(いちがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から15日目に当たり、年末まであと350日(閏年では351日)ある。誕生花はオンシジューム、白いスミレ、黄色のチューリップ、サンザシ、トゲ。.

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7月12日 (旧暦)

旧暦7月12日は旧暦7月の12日目である。六曜は赤口である。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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