ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

藩閥

索引 藩閥

藩閥(はんばつ)とは、明治時代を通じて日本の政府や陸海軍の要職をほぼ独占していた「薩長土肥」(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)出身の有力者によって形成されていた概念的な寡頭制に対する批判的な呼称。西洋言語では「Meiji oligarchy、Oligarchie de Meiji」と訳される。.

118 関係: 南方軍 (日本軍)司法省参議大審院大山巌大久保利通大隈重信大迫貞清大正大正デモクラシー大浦兼武大日本帝国陸軍大日本帝国海軍宇垣一成安立綱之安楽兼道寡頭制寺内寿一寺内正毅尾張藩山口県山縣有朋山田為暄山田顕義山本七平山本英輔山本権兵衛岩村通俊川上親晴川路利良上原勇作三島通庸一君万民論乃木希典亀井英三郎廃藩置県伊地知幸介伊藤博文伊東巳代治佐賀県佐賀藩徳島藩土佐藩地方裁判所園田安賢バーデン=バーデンの密約判事内閣 (日本)内閣総理大臣...児玉源太郎元老国務大臣皇道派第1次伊藤内閣第2次西園寺内閣紀尾井坂の変縦割り行政統制派田中光顕田中義一芳川顕正西南戦争西山志澄西郷従道西郷隆盛高知県警視庁 (内務省)警視総監議会制豊岡藩財部彪鹿児島県黒田清隆黒木為もと蜂須賀茂韶関清英閨閥薩長土肥薩摩藩野村直邦野津道貫自由民権運動金子堅太郎長州藩艦隊派連合艦隊司令長官陸軍大学校陸軍三長官折田平内控訴院条約派東郷平八郎松岡康毅松方正義桂太郎検察官検事横須賀鎮守府樺山資紀民本主義法制史学会満州軍 (日本軍)末松謙澄明治明治維新昭和海上護衛総司令部海軍兵学校 (日本)日露戦争日本の警察日本国政府日本軍政党憲兵 (日本軍)教育総監1871年1885年 インデックスを展開 (68 もっと) »

卿(きょう、けい)は中国・日本の官位制における高位の官職。それに由来する呼称も指す。;官職.

新しい!!: 藩閥と卿 · 続きを見る »

南方軍 (日本軍)

南方軍(なんぽうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。軍隊符号はNA。.

新しい!!: 藩閥と南方軍 (日本軍) · 続きを見る »

司法省

司法省(しほうしょう)は、1871年(明治4年)から1948年(昭和23年)まで設置されていた日本の行政官庁。主に刑務所の管理や司法行政などを行っていた。.

新しい!!: 藩閥と司法省 · 続きを見る »

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

新しい!!: 藩閥と参議 · 続きを見る »

大審院

大審院(だいしんいん、たいしんいんNHK放送文化研究所編『ことばのハンドブック 第2版』では放送上の表現としては「だいしんいん」ではなく「たいしんいん」と読むと解説されている(NHK放送文化研究所編 『ことばのハンドブック 第2版』 p.122 2005年))は、明治時代初期から昭和時代前期まで日本に設置されていた最高裁判所。.

新しい!!: 藩閥と大審院 · 続きを見る »

大山巌

大山 巌(おおやま いわお、、天保13年10月10日(1842年11月12日) - 大正5年(1916年)12月10日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。幼名は岩次郎。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典(位階勲等および爵位)は従一位大勲位功一級公爵。 大警視(第2代)、陸軍大臣(初・2・3・4・6・7代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第5代)、元老、貴族院議員を歴任した。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟にあたる。.

新しい!!: 藩閥と大山巌 · 続きを見る »

大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。 初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。.

新しい!!: 藩閥と大久保利通 · 続きを見る »

大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。.

新しい!!: 藩閥と大隈重信 · 続きを見る »

大迫貞清

大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8年5月7日) - 1896年4月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治の官僚・政治家。元老院議官、貴族院議員、子爵。.

新しい!!: 藩閥と大迫貞清 · 続きを見る »

大正

大正(たいしょう)は日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの期間。.

新しい!!: 藩閥と大正 · 続きを見る »

大正デモクラシー

大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代にかけて(概ね大正年間)に起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。.

新しい!!: 藩閥と大正デモクラシー · 続きを見る »

大浦兼武

大浦 兼武(おおうら かねたけ、嘉永3年5月6日(1850年6月15日) - 大正7年(1918年)9月30日)は、日本の武士(薩摩藩士)、内務官僚、政治家。 島根県知事(第10代)、山口県知事(第4代)、熊本県知事(第4代)、宮城県知事(第6代)、警視総監(第12・14代)、貴族院議員(勅選)、逓信大臣(第14代)、農商務大臣(第22・26代)、内務大臣(第28・31代)、大日本武徳会会長を歴任した。.

新しい!!: 藩閥と大浦兼武 · 続きを見る »

大日本帝国陸軍

大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、旧字体:大日本帝國陸軍)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本 (大日本帝国) に存在していた軍隊組織である。通常は、単に日本陸軍や帝国陸軍と呼ばれた。解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍もしくは旧帝国陸軍という名称も使用される。.

新しい!!: 藩閥と大日本帝国陸軍 · 続きを見る »

大日本帝国海軍

大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体:大日本帝國海軍、英:Imperial Japanese Navy)は、1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本(大日本帝国)に存在していた軍隊(海軍)組織である。通常は、単に日本海軍や帝国海軍と呼ばれた。戦後からは、別組織であるもののその伝統を重んじる傾向にある海上自衛隊との区別などのため、旧日本海軍もしくは旧帝国海軍とも呼ばれる。.

新しい!!: 藩閥と大日本帝国海軍 · 続きを見る »

宇垣一成

宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。 大正末期から昭和初期にかけて長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた。陸軍大臣として宇垣軍縮を断行したほか、クーデター未遂計画である三月事件に関与した。予備役入り後に組閣の大命が下ったが陸軍の反対で頓挫し、以後も幾度か首相に擬せられたがいずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後になり参議院議員となったが在職中に死去した。.

新しい!!: 藩閥と宇垣一成 · 続きを見る »

安立綱之

安立 綱之(あだち つなゆき、1859年12月8日(安政6年11月15日) - 1938年(昭和13年)12月2日)は、日本の内務官僚、政治家。警視総監、貴族院議員。旧名・国分彦七、迫田彦七、安立彦七。1889年6月、綱之と改名。.

新しい!!: 藩閥と安立綱之 · 続きを見る »

安楽兼道

安楽 兼道(あんらく かねみち、1851年1月13日(嘉永3年12月12日) - 1932年4月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、貴族院議員、警視総監、実業家、錦鶏間祗候。.

新しい!!: 藩閥と安楽兼道 · 続きを見る »

寡頭制

寡頭制または寡頭政(かとうせい、ὀλῐγ-αρχία.)は、全部または大半の政治権力を、特定の少数の人々が握っている政体。少数者支配の体制であり、対比語は多頭制(多数支配)である。寡頭制は君主制や独裁制のほか共和制や民主制でも存在する。なお権力者が2名の場合は二頭政治、3名の場合は三頭政治、4名の場合はテトラルキアともいう。.

新しい!!: 藩閥と寡頭制 · 続きを見る »

寺内寿一

寺内 寿一(てらうち ひさいち、、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。 第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた人物。 陸軍大臣在任時は、衛生省(現・厚生労働省)の設立を提唱。太平洋戦争(大東亜戦争)期には、編成時から一貫して南方戦線の全陸軍部隊を統括する総軍である南方軍総司令官を務めた。.

新しい!!: 藩閥と寺内寿一 · 続きを見る »

寺内正毅

寺内 正毅(てらうち まさたけ読みは「まさたけ」が一般的だが、「まさたか」(「陸海軍将官人事総覧 陸軍篇」)、「まさかた」(「歴代陸軍大将全覧(明治編)」)など異なる読み方がある。、、嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 大正8年(1919年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第15・16・17代)、外務大臣(第22・31代)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第22代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。その後、曾禰荒助の後任として韓国統監に就任し、日本への併合を推し進めた。韓国併合後は朝鮮総督に就任した。のちに内地に帰還すると、寺内内閣を発足させ、内閣総理大臣を務めるとともに、外務大臣や大蔵大臣といった国務大臣を兼任した。なお、元帥府に列せられていることから、階級を呼称する際には元帥の称号を冠して「元帥陸軍大将」と称される。.

新しい!!: 藩閥と寺内正毅 · 続きを見る »

尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

新しい!!: 藩閥と尾張藩 · 続きを見る »

山口県

山口県(やまぐちけん)は、日本の県の一つ。本州最西端に位置する。中国地方を構成する五県のうちの一つで、九州地方との連接点の地域となっている。県庁所在地は山口市。.

新しい!!: 藩閥と山口県 · 続きを見る »

山縣有朋

山県 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。 長州藩領内の蔵元仲間山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、後に小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に副官である奇兵隊の軍監となる。 明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、後進を育成。山県が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。 晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。 自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。.

新しい!!: 藩閥と山縣有朋 · 続きを見る »

山田為暄

山田 為暄(やまだ ためのぶ / ためはる / いけん、1842年12月(天保13年11月) - 1911年5月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、警視総監、貴族院議員。旧姓・園田。.

新しい!!: 藩閥と山田為暄 · 続きを見る »

山田顕義

山田 顕義学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山田顕義」、新聞報道や『職員録』など存命中の印刷物における表記は「山田顯義」、御署名原本(法令などの天皇署名の原本)における山田本人の署名は「山田顕義」である。-->(やまだ あきよし、顯義、天保15年旧暦10月9日(西暦換算1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、日本の幕末の武士、長州藩士、明治時代の政治家、陸軍軍人。諱ははじめ顕孝、のち顕義と改めた。幼名は市之允(いちのじょう)。号に養浩斎(ようこうさい)・狂痴(きょうち)・韓峰山人(かんぽうさんじん)、不抜(ふばつ)、空斎(くうさい)など。山田 空斎(やまだ くうさい)としても知られる。階級は陸軍中将、正二位勲一等、伯爵。 明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした、ため「法典伯」と呼ばれた。 長門国出身。吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言がある。岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。.

新しい!!: 藩閥と山田顕義 · 続きを見る »

山本七平

山本 七平(やまもと しちへい、1921年(大正10年)12月18日 - 1991年(平成3年)12月10日)は、山本書店店主。評論家として、主に太平洋戦争後の保守系マスメディアで活動した。.

新しい!!: 藩閥と山本七平 · 続きを見る »

山本英輔

山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15日 - 1962年(昭和37年)7月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥(権兵衛の兄吉蔵の息子)にあたり、「封じ袴の大将」と呼ばれた。.

新しい!!: 藩閥と山本英輔 · 続きを見る »

山本権兵衛

山本 権兵衛(やまもと ごんのひょうえ、1852年11月26日(嘉永5年10月15日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は、日本の武士、海軍軍人、政治家。階級・位階・勲等・功級・爵位は海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。 元来は「ごんべえ」であるが、進水式で祝詞用に神主がつけた名前で宮中でも使用した「ごんのひょうえ」を公称としていた。 海軍大臣(第11・12・13代)、内閣総理大臣(第16・22代)、外務大臣(第37代)などを歴任した。.

新しい!!: 藩閥と山本権兵衛 · 続きを見る »

岩村通俊

岩村 通俊(いわむら みちとし、天保11年6月10日(1840年7月8日) - 大正4年(1915年)2月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた。貫堂と号し、素水を俳号とする。栄典は正二位勲一等男爵。.

新しい!!: 藩閥と岩村通俊 · 続きを見る »

川上親晴

川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年5月23日) - 1944年(昭和19年)5月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長、警視総監、貴族院議員。.

新しい!!: 藩閥と川上親晴 · 続きを見る »

川路利良

川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、日本の幕末から明治初期の薩摩藩士、警察官僚、陸軍軍人。階級は大警視、陸軍少将。位階は正五位。勲等は勲二等。 初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」。西南戦争では陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を指揮した。 名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名したようである。通称は正之進。号は竜泉。家紋は六つ丁子車。遠祖は藤原氏といわれる。.

新しい!!: 藩閥と川路利良 · 続きを見る »

上原勇作

上原 勇作(うえはら ゆうさく、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 1933年(昭和8年)11月8日)は、明治~昭和期の陸軍軍人。 元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。 陸軍大臣、教育総監、参謀総長。 日向国都城(現宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。 上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。 陸軍大臣、教育総監、参謀総長の「陸軍三長官」を歴任し、元帥府に列せられたのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の2名のみである。.

新しい!!: 藩閥と上原勇作 · 続きを見る »

三島通庸

三島 通庸(みしま みちつね、1835年6月26日(天保6年6月1日) - 1888年(明治21年)10月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、明治時代の内務官僚。栄典は正三位勲二等子爵。通称は弥兵衛。 県令時代は、反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」の異名で呼ばれた。.

新しい!!: 藩閥と三島通庸 · 続きを見る »

一君万民論

一君万民論(いっくんばんみんろん)とは、ただ一人の君主にのみ生来の権威・権限を認め、その他の臣下・人民の間には原則として一切の差別・身分差を認めないとする思想・主張である。 日本では幕末に吉田松陰などが唱え、討幕派の志士により広く支持された。明治政府は華族制度の創設や武士身分の士族への編入など、当初は旧来の身分制度をある程度継承したものの、廃藩置県・徴兵令・秩禄処分といった政策の強行は特権身分に対して大きな打撃を与えた。また、江戸時代までの被差別部落民を平等化する解放令も発布された。 その後も一君万民論は朝野における思想的底流として根強く、断続的に天皇の権威強化と皇室以外の身分特権の縮小がなされていった。士族制度は早い段階で形骸化し、貴族院に依拠する少なからぬ特権を有した華族制度に対しても批判は少なくなかった。華族の中にも特権身分制度に疑問を持ち爵位を返上する者も現れた。 一君万民論は藩閥体制打倒とデモクラシー導入の大義として掲げられ、身分的特権のみならず財閥などの経済的権力に対抗するイデオロギーとしても機能した。昭和前期においては在野の知識層のみならず青年将校や革新官僚が一君万民論の支持勢力として登場した。第二次世界大戦の敗戦にともなう被占領以降は表立って唱えられることはなくなったが、日本国憲法において華族制度が廃止され天皇・皇族以外の身分制度は消滅している。 Category:平等主義 Category:幕末 Category:明治時代 Category:大正時代 Category:江戸時代の思想 Category:日本の思想史.

新しい!!: 藩閥と一君万民論 · 続きを見る »

乃木希典

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。 階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。.

新しい!!: 藩閥と乃木希典 · 続きを見る »

亀井英三郎

亀井 英三郎(かめい えいざぶろう、1864年4月29日(元治元年3月24日) - 1913年(大正2年)2月26日)は、日本の法制・内務官僚、政治家。貴族院議員。肥後国(現熊本県)出身。.

新しい!!: 藩閥と亀井英三郎 · 続きを見る »

廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

新しい!!: 藩閥と廃藩置県 · 続きを見る »

伊地知幸介

伊地知 幸介(いぢち こうすけ、安政元年1月6日(1854年2月3日) - 大正6年(1917年)1月23日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争の旅順攻囲戦では乃木希典の下で第3軍参謀長を務めた。爵位は男爵、最終階級は陸軍中将。.

新しい!!: 藩閥と伊地知幸介 · 続きを見る »

伊藤博文

伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。 周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清国から朝鮮を独立させた(第一条)ことが特記できる。 1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人安重根に暗殺された。.

新しい!!: 藩閥と伊藤博文 · 続きを見る »

伊東巳代治

伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日(1857年5月29日) - 昭和9年(1934年)2月19日)は、明治、大正、昭和期の官僚、政治家。従一位勲一等伯爵。長崎県長崎市出身。.

新しい!!: 藩閥と伊東巳代治 · 続きを見る »

佐賀県

佐賀県(さがけん)は、日本の九州地方の北西部にある県である。県庁所在地は佐賀市。 唐津・伊万里・有田などは古くから陶磁器の産地として有名。玄界灘と有明海の2つの海に接する。令制国の肥前国東部に相当する。明治の府県制成立の際、同国は佐賀県と長崎県の2県として分立した。.

新しい!!: 藩閥と佐賀県 · 続きを見る »

佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

新しい!!: 藩閥と佐賀藩 · 続きを見る »

徳島藩

徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩があった。.

新しい!!: 藩閥と徳島藩 · 続きを見る »

土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

新しい!!: 藩閥と土佐藩 · 続きを見る »

地方裁判所

地方裁判所(ちほうさいばんしょ、District Court)とは、特定の地域を所管する裁判所を意味し、一般に、通常司法事件の第一審裁判所としての役割を担っている。.

新しい!!: 藩閥と地方裁判所 · 続きを見る »

園田安賢

園田 安賢(そのだ やすかた、1850年10月6日(嘉永3年9月1日) - 1924年8月7日)は、幕末の薩摩藩士、明治から大正期の内務・警察官僚・政治家・実業家。貴族院議員、宮中顧問官、男爵。警視総監(第8代・第10代)、北海道庁長官(第8代)。.

新しい!!: 藩閥と園田安賢 · 続きを見る »

バーデン=バーデンの密約

バーデン.

新しい!!: 藩閥とバーデン=バーデンの密約 · 続きを見る »

判事

判事(はんじ)は、日本の裁判官の職位の1つ(裁判所法5条2項)。旧法下においては、現在の「裁判官」に相当する意味で用いられていた。ただし旧憲法では裁判官と称していた。現行法においては、旧法下の「判事」に代わり「裁判官」が最高裁判所長官から判事補に至るまでの総称的な官名かつ訴訟法上の地位となっており、「判事」はその「裁判官」の中の1つの職名となっている。現在でも通俗的には裁判官全体の総称を指すことがある。.

新しい!!: 藩閥と判事 · 続きを見る »

内閣 (日本)

内閣(ないかく、Cabinet)は、日本の行政権を担当する合議制の機関である。内閣総理大臣と国務大臣で組織される。 現在の内閣は第4次安倍内閣である。.

新しい!!: 藩閥と内閣 (日本) · 続きを見る »

内閣総理大臣

内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん、prime minister of Japan)とは、日本国において行政権の属する内閣の首長たる国務大臣である(憲法第66条1項)。したがって、日本国における政府の長である。文民(憲法第66条2項)かつ国会議員の中から国会の議決で指名され(憲法第67条)、これに基いて天皇によって任命される(憲法第6条)。略称は総理大臣ないしは総理。一般的には首相、またはまれに宰相とも言う。現任は安倍晋三。.

新しい!!: 藩閥と内閣総理大臣 · 続きを見る »

児玉源太郎

児玉兒玉の表記もある。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体である。学術誌、研究書、辞典類、文部科学省検定教科書などにおける歴史人物としての表記は「児玉源太郎」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉源太郎」、御署名原本における大臣副書の本人署名は「児玉源太郎」である。 源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した。.

新しい!!: 藩閥と児玉源太郎 · 続きを見る »

元老

元老(げんろう)は、大日本帝国において、天皇の輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である。大日本帝国憲法は元老についての規定を明記しておらず、また定義した法律も存在しないため、憲法外機関とされる。.

新しい!!: 藩閥と元老 · 続きを見る »

国務大臣

国務大臣(國務大臣.こくむだいじん)とは、日本国の内閣の構成員を指す。閣僚(かくりょう)、閣員(かくいん)とも言われる特別職国家公務員である。.

新しい!!: 藩閥と国務大臣 · 続きを見る »

皇道派

皇道派(こうどうは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。.

新しい!!: 藩閥と皇道派 · 続きを見る »

第1次伊藤内閣

太政官達第69号により太政官制を廃止し、代わりに創設された内閣制に基づいて成立した、日本最初の内閣である。内閣制の発足と同時にその運営について規定した内閣職権が制定された。.

新しい!!: 藩閥と第1次伊藤内閣 · 続きを見る »

第2次西園寺内閣

明治時代最後の内閣である。.

新しい!!: 藩閥と第2次西園寺内閣 · 続きを見る »

紀尾井坂の変

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。.

新しい!!: 藩閥と紀尾井坂の変 · 続きを見る »

縦割り行政

縦割り行政(たてわりぎょうせい)とは、個別の中央省庁が国から地方自治体にいたるまでをその管轄ごとに支配しているピラミッド型の行政システムのことである。 特に、不条理な役割分担や各省庁の過剰な管轄意識によって行政サービスが非効率に陥る「縦割り行政の弊害」を批判する論調で用いられる。.

新しい!!: 藩閥と縦割り行政 · 続きを見る »

統制派

統制派(とうせいは)は、大日本帝国陸軍内にかつて存在した派閥。 当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった皇道派青年将校と異なり、その態度を一変し、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。.

新しい!!: 藩閥と統制派 · 続きを見る »

田中光顕

中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日(天保14年閏9月25日) - 1939年(昭和14年)3月28日)は、日本の武士・土佐藩家老深尾氏家臣、官僚、政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。フリーカメラマンの田中光常は孫。.

新しい!!: 藩閥と田中光顕 · 続きを見る »

田中義一

中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日(元治元年6月22日) - 1929年(昭和4年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。 陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。.

新しい!!: 藩閥と田中義一 · 続きを見る »

芳川顕正

芳川 顕正(よしかわ あきまさ、天保12年12月10日(1842年1月21日) - 大正9年(1920年)1月10日)は、日本の官僚、政治家。阿波国麻植郡山川町(後の徳島県吉野川市)出身。父は原田民部。伯爵。 官僚時代は、藩閥の後ろ盾がなく苦労するが、銀行制度の確立に貢献。山縣有朋に認められて政界へ進出した。東京府知事(第8代)、貴族院議員。司法大臣(第5代)、文部大臣(第3代)、内務大臣(第12・16・23代)、逓信大臣(第9・12代)、枢密院副議長(第4代)を務めた。 男子に恵まれず、四女の鎌子に子爵・曾禰荒助の次男を婿養子にとって家を継がせた(芳川寛治)。三女の富子は藤田財閥2代目藤田平太郎妻。.

新しい!!: 藩閥と芳川顕正 · 続きを見る »

西南戦争

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、2018年現在日本国内で最後の内戦である。鹿児島では丁丑戦として語られている。.

新しい!!: 藩閥と西南戦争 · 続きを見る »

西山志澄

西山 志澄(にしやま ゆきずみ、天保13年6月6日(1842年7月13日) - 明治44年(1911年)5月27日)は、幕末土佐藩の迅衝隊士、日本の明治初期の軍人、政治家。幼名直次郎。旧姓・平井、植木。.

新しい!!: 藩閥と西山志澄 · 続きを見る »

西郷従道

西郷 従道(さいごう じゅうどう / つぐみち、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍および海軍軍人、政治家。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ佐々木隆(2002)p.96。 文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・2・3・7・8・9・10代)、内務大臣(第4・5・18代)、貴族院議員を歴任した。.

新しい!!: 藩閥と西郷従道 · 続きを見る »

西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は日本の武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と変更。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。.

新しい!!: 藩閥と西郷隆盛 · 続きを見る »

高知県

知県(こうちけん)は、日本の県の一つ。四国の太平洋側に位置する。県庁所在地は高知市。.

新しい!!: 藩閥と高知県 · 続きを見る »

警視庁 (内務省)

鍛冶橋第一次庁舎(旧津山藩江戸藩邸)。1874年(明治7年)1月15日から1882年(明治15年)12月4日まで使用。 1877年(明治10年)1月11日から1881年(明治14年)1月14日まで、内務省警視局「東京警視本署」に改編された。庁舎はそのまま使用。 鍛冶橋第二次庁舎。1882年(明治15年)12月4日から1911年(明治44年)3月30日まで使用。 日比谷赤煉瓦庁舎。1911年(明治44年)3月30日から1923年(大正12年)9月1日まで使用。 関東大震災による火災で炎上する日比谷赤煉瓦庁舎。1923年(大正12年)9月1日。 関東大震災後の仮庁舎。1930年(昭和5年)。 昭和前期の庁舎 警視庁 、1874年(明治7年)から1947年(昭和22年)まで存在した東京府(後に東京都)の警察を管轄する内務省の地方官庁である。自治体警察になる前の「東京警視庁」とも呼ばれた組織である。.

新しい!!: 藩閥と警視庁 (内務省) · 続きを見る »

警視総監

警視総監(けいしそうかん、英称:Superintendent General)は、都警察の本部である警視庁の長の職名且つ日本の警察官の階級の最高位の名称。定員は1名。.

新しい!!: 藩閥と警視総監 · 続きを見る »

議会制

議会制.

新しい!!: 藩閥と議会制 · 続きを見る »

豊岡藩

豊岡藩(とよおかはん)は、但馬国城崎郡周辺を領有した藩。藩庁は当初、豊岡城(現在の兵庫県豊岡市)のち豊岡陣屋。 豊岡県庁正門と豊岡市立図書.

新しい!!: 藩閥と豊岡藩 · 続きを見る »

財部彪

財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月10日) - 昭和24年(1949年)1月13日)は、日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。.

新しい!!: 藩閥と財部彪 · 続きを見る »

鹿児島県

鹿児島県(かごしまけん)は、九州地方南部に位置する日本の都道府県。九州島の南側には離島(薩南諸島)が点在する。九州島の部分は県本土と表現され、2つの半島(薩摩半島・大隅半島)を有する。南北の距離は600km、海岸線は2,722kmに及ぶ。県庁所在地は鹿児島市。 世界遺産の屋久島や種子島宇宙センター、霧島山、桜島などがあり、自然・文化・観光・産業などの面において、豊富な資源を有している。.

新しい!!: 藩閥と鹿児島県 · 続きを見る »

黒田清隆

黒田 清隆(くろだ きよたか、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「黒田清隆」、御署名原本における本人の署名は「黒田清隆」、『枢密院高等官履歴』における枢密院書記による氏名手記も「黒田清隆」である。印刷物では本字に統一するという慣例に従い、印刷局刊『職員録 明治21年(甲)』(1888年3月31日現在)における内閣総理大臣名の表記は「黒田淸隆」、同時代の新聞紙上での表記は「黒田淸隆」ないし「黑田淸隆」である。、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。 薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。.

新しい!!: 藩閥と黒田清隆 · 続きを見る »

黒木為もと

黒木 為楨(くろき ためもと、天保15年3月16日(1844年5月3日) - 大正12年(1923年)2月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。伯爵。通称は七左衛門。.

新しい!!: 藩閥と黒木為もと · 続きを見る »

蜂須賀茂韶

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名、明治・大正時代の華族。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。.

新しい!!: 藩閥と蜂須賀茂韶 · 続きを見る »

関清英

関 清英(せき きよひで、嘉永4年5月7日(1851年6月6日) - 1927年(昭和2年)1月22日)は、日本の検察官 ・内務官僚、政治家。官選県知事、警視総監、衆議院議員、貴族院議員。.

新しい!!: 藩閥と関清英 · 続きを見る »

閨閥

閥(けいばつ)とは、外戚(妻方の親類)を中心に形成された血縁や婚姻に基づく親族関係、又はそれから成す勢力、共同体、仲間などを指す『広辞苑 第四版』、793頁。。婚姻は政略結婚も含み、政界、財界、官界さらには王室、貴族に属す一族が自身や血族の影響力の保持および増大を目的に、婚姻関係を用いて構築したネットワークを門閥(もんばつ)と呼ぶこともある。 ここでは便宜上門閥も含めた広義の閨閥について解説する。.

新しい!!: 藩閥と閨閥 · 続きを見る »

薩長土肥

薩長土肥(さっちょうどひ)は、江戸時代末期(幕末)に雄藩と呼ばれ、明治維新を推進して明治政府の主要官職に人材を供給した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩4藩の総称。その主要人物たちは「元勲」「明治の元勲」「維新の元勲」と呼ばれた。 薩長土は、幕末期、志士たちの交流や薩長同盟・薩土同盟で連携関係を結んでおり、特に薩長は全国の他の諸藩よりも圧倒的に藩政改革が早く、不平等条約による開国という状況や幕末という時代変化にいち早く対応していたため、殉国者含め、倒幕の立役者となる人材を多く輩出していた。また、戊辰戦争の頃から、倒幕運動には不熱心だったが藩政改革が進んでおり開明的だった「雄藩」の肥前を仲間とみなし、肥前藩にも明治維新政府に人材を供給させた。 このため、明治政府の上位官職を薩長土肥で一時期ほぼ独占する状態となり、藩閥政治と非難された。しかし実際には、新政府発足以来、この4藩出身者の中で熾烈な権力闘争・路線闘争が展開されることによって明治政府が運営されていた。薩長出身者は政府・軍部の中核を占めたが、土肥出身者の一部は明治政府に残りつつも薩長政府を攻撃するという展開となった。明治の国政は、良くも悪くも、この薩長土肥主導による政治であったと言える。.

新しい!!: 藩閥と薩長土肥 · 続きを見る »

薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

新しい!!: 藩閥と薩摩藩 · 続きを見る »

野村直邦

野村 直邦(のむら なおくに、1885年(明治18年)5月15日 - 1973年(昭和48年)12月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣の海軍大臣。.

新しい!!: 藩閥と野村直邦 · 続きを見る »

野津道貫

野津 道貫(のづ みちつら / どうがん)、天保12年11月5日(1841年12月17日) - 1908年(明治41年)10月18日)は、幕末の薩摩藩士、明治の陸軍軍人、貴族院議員。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。通称は七次。諱は道貫。最終階級は元帥陸軍大将正二位大勲位功一級侯爵。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる。.

新しい!!: 藩閥と野津道貫 · 続きを見る »

自由民権運動

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。 従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。.

新しい!!: 藩閥と自由民権運動 · 続きを見る »

金子堅太郎

金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日(1853年3月13日) - 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し栄典は従一位大勲位伯爵。 伊東巳代治、井上毅らとともに大日本帝国憲法の起草に参画。また、皇室典範などの諸法典を整備した。日本法律学校(現・日本大学)初代校長。.

新しい!!: 藩閥と金子堅太郎 · 続きを見る »

長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

新しい!!: 藩閥と長州藩 · 続きを見る »

艦隊派

艦隊派(かんたいは)とは、大日本帝国海軍内の派閥。 第一は明治期の山本権兵衛を中心とする本省派に対抗するものであり、第二は昭和期の軍縮条約に賛成する条約派に対抗するものである。.

新しい!!: 藩閥と艦隊派 · 続きを見る »

連合艦隊司令長官

連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん、旧字表記:聯合艦隊司令長官、英語名:Commander-in-Chief of the Combined Fleet)は、日本海軍の外戦部隊である連合艦隊の指揮官。略称はGF長官。.

新しい!!: 藩閥と連合艦隊司令長官 · 続きを見る »

陸軍大学校

軍大学校(りくぐんだいがっこう)は、大日本帝国陸軍における、参謀将校の養成機関(軍学校)。略称は陸大(りくだい)。現在の陸上自衛隊では、陸上自衛隊幹部学校に相当する。.

新しい!!: 藩閥と陸軍大学校 · 続きを見る »

陸軍三長官

軍三長官(りくぐんさんちょうかん)とは日本陸軍最高幹部の三つの役職のこと。.

新しい!!: 藩閥と陸軍三長官 · 続きを見る »

折田平内

折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年12月7日) - 1905年5月7日)は、明治時代の政治家。薩摩藩士。開拓使大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令、福島・栃木・広島・滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。.

新しい!!: 藩閥と折田平内 · 続きを見る »

控訴院

控訴院(こうそいん)は、大審院の下級、地方裁判所の上級に置かれた裁判所。裁判所官制(明治19年勅令第40号、実効性喪失)及び裁判所構成法(明治23年法律第6号、1947年(昭和22年)廃止)に基づき、1886年(明治19年)から1947年(昭和22年)まで、日本各地にあった。裁判所法(昭和22年法律第59号)の高等裁判所に相当する。1947年(昭和22年)の改組時には、東京・大阪・宮城(仙台)・広島・名古屋・札幌・福岡の7ヶ所に置かれていた。 控訴院は、内地において、地方裁判所の判決に対する控訴の裁判を行った。東京控訴院では、民間人と皇族との間に起きた民事訴訟の第一審も扱った。長崎控訴院では、治外法権区域(租界)の領事裁判所の控訴審も扱った。.

新しい!!: 藩閥と控訴院 · 続きを見る »

条約派

条約派(じょうやくは)とは、大日本帝国海軍内の派閥の一つ。 ロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする条約派(海軍省側)とこれに反対する艦隊派(軍令部側)という対立構造が生まれ、後に統帥権干犯問題に発展した。 具体的には、財部彪、谷口尚真、山梨勝之進、左近司政三、寺島健、堀悌吉、下村正助等をさす。これらの条約派本来の顔触れは、艦隊派の要求に屈した大角岑生によって、条約締結後数年の間に軒並み予備役に編入された(大角人事)。 ただし、鎮守府長官で政治的判断の立場にない米内光政や、政治的には微力だが、海軍省に対して軍令部を強化する「軍令部条例並に省部事務互渉規定」改定に頑強に抵抗した井上成美を条約派に含める事もある。定義によっては日独伊三国同盟反対派や対米避戦派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバーを含める事もある(古賀峯一・長谷川清など)。この様に「条約派」・「艦隊派」の名は広く知られているものの、明確な定義はない。山本五十六は戦後、三国同盟反対・対米避戦の主張や米内・井上との盟友関係から条約派とされることが多いが、海軍の次席随員として参加したロンドン軍縮会議では最も強硬に対米7割を主張して若槻禮次郎全権を困らせ、艦隊派に近いと見られていた。他に条約派とされる者に坂野常善、岩村清一、杉山六蔵、小林仁がいる。.

新しい!!: 藩閥と条約派 · 続きを見る »

東郷平八郎

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により英雄視され、「陸の大山 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と呼ばれた。世界三大提督(ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎)の1人。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。.

新しい!!: 藩閥と東郷平八郎 · 続きを見る »

松岡康毅

松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日(弘化3年6月23日) - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の司法官僚・政治家。徳島県板野郡上板町七条出身。従一位男爵。検事総長、農商務大臣、貴族院議員。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。.

新しい!!: 藩閥と松岡康毅 · 続きを見る »

松方正義

松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日(1835年3月23日) - 大正13年(1924年)7月2日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。幼名は金次郎。通称は助左衛門。号は海東『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年が「海来」としているのは誤植。。 明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。日本赤十字社社長。.

新しい!!: 藩閥と松方正義 · 続きを見る »

桂太郎

桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階勲等功級爵位は、従一位大勲位功三級公爵。諱は清澄(きよずみ)。幼名は寿熊、左中。号は海城。元老・井上馨とは義理の親子の関係。 児玉源太郎、川上操六とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。 台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第10・11・12・13代)、内閣総理大臣(第11・13・15代)、内務大臣(第22代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第25代)などを歴任した。首相在任日数2886日はこれまでで最も長い。元老の一人であったという説もある.

新しい!!: 藩閥と桂太郎 · 続きを見る »

検察官

検察官(けんさつかん)は、検察権行使の権限主体である。.

新しい!!: 藩閥と検察官 · 続きを見る »

検事

検事(けんじ)は、日本における検察官の官名の1つで、最高検察庁検事、高等検察庁検事、地方検察庁検事、区検察庁上席検察官に補職される。.

新しい!!: 藩閥と検事 · 続きを見る »

横須賀鎮守府

横須賀鎮守府(よこすかちんじゅふ)は、神奈川県横須賀市にあった日本海軍の鎮守府。通称、横鎮(よこちん)。.

新しい!!: 藩閥と横須賀鎮守府 · 続きを見る »

樺山資紀

樺山 資紀(かばやま すけのり、天保8年11月2日(1837年12月9日) - 大正11年(1922年)2月8日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人、政治家。階級は海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第4・5代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。.

新しい!!: 藩閥と樺山資紀 · 続きを見る »

民本主義

民本主義(みんぽんしゅぎ)とは、法学的問題である「主権の所在」を問わず、人民多数のための政治を強調する主義のこと。「democracy」の訳語であり、最初に使ったのは茅原華山といわれる。.

新しい!!: 藩閥と民本主義 · 続きを見る »

法制史学会

法制史学会(ほうせいしがっかい、Japan Legal History Association)は、法制史に関する研究及び研究者間の相互協力の促進、外国の学会との連絡などを目的として創設された日本の学会。.

新しい!!: 藩閥と法制史学会 · 続きを見る »

満州軍 (日本軍)

満州軍(まんしゅうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。.

新しい!!: 藩閥と満州軍 (日本軍) · 続きを見る »

末松謙澄

末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日(1855年9月30日) - 大正9年(1920年)10月5日)は、明治・大正時代のジャーナリスト・政治家・歴史家。子爵。幼名は千松(または線松)。帝国学士院会員。.

新しい!!: 藩閥と末松謙澄 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 藩閥と明治 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: 藩閥と明治維新 · 続きを見る »

昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

新しい!!: 藩閥と昭和 · 続きを見る »

海上護衛総司令部

海上護衛総司令部(かいじょうごえいそうしれいぶ)とは大日本帝国海軍において太平洋戦争後期に通商護衛を司った部署である。設置は1943年11月15日、廃止は1945年8月25日。正式な呼称は「海上護衛総司令部」であったが、しばしば海上護衛総隊(かいじょうごえいそうたい)とも呼ばれ、また海護総隊(かいごそうたい)とも略称された。.

新しい!!: 藩閥と海上護衛総司令部 · 続きを見る »

海軍兵学校 (日本)

海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)は、1876年(明治9年)から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終戦まで存続した、大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関である。.

新しい!!: 藩閥と海軍兵学校 (日本) · 続きを見る »

日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

新しい!!: 藩閥と日露戦争 · 続きを見る »

日本の警察

日本における警察は、警察法2条1項の定めるところにより、個人の生命、身体および財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧および捜査、被疑者の逮捕、交通の取締りその他公共の安全と秩序の維持を責務とする行政の作用をいう。日常の用語としては、この作用を行う組織、または公務員(警察官)を指す。.

新しい!!: 藩閥と日本の警察 · 続きを見る »

日本国政府

日本国政府(にっぽんこくせいふ、にほん こくせいふ)は、主として対外的な文脈において日本の政府を指す語。日本では「政府」は行政府を指すことが多いが、本項においては、立法府および司法府を含めて解説する。日本の法令上は、通常「国」と称する。現在の日本の統治機構の基本的部分は、日本国憲法によって定められている。.

新しい!!: 藩閥と日本国政府 · 続きを見る »

日本軍

日本軍(にほんぐん、にっぽんぐん)は、広義には日本が有する軍隊のことであるが、狭義には第二次世界大戦以前(以下戦前)の日本が保持していた軍隊(帝国陸軍と帝国海軍の両軍)を指す。第二次世界大戦の敗戦により軍は解体されたため、戦後は旧日本軍(きゅうにほんぐん、きゅうにっぽんぐん)、旧軍(きゅうぐん)などと略称する。また、戦前からの名称・呼称としては陸海軍(りくかいぐん)、帝国陸海軍(ていこくりくかいぐん)、国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん、すめらみいくさ)、官軍(かんぐん)などがある。 戦後、日本の防衛組織として創設された「自衛隊」については、日本国内では「日本軍」と称されることはほとんどない。日本語以外の言語地域では正式には英語名称で「Japan Self-Defense Forces」など「自衛隊」に相当する語で表現するが、「日本軍」に相当する語(「Japanese military」、「Japan Armed Forces」など)で表す場合もある。本項では「旧日本軍」について詳述する。.

新しい!!: 藩閥と日本軍 · 続きを見る »

政党

政党(せいとう)とは、共通の政治的目的を持つ者によって組織される団体である。18世紀のイギリス下院議員エドマンド・バークによれば名誉や徳目による結合であり、私利私欲に基づく人間集団(徒党)ではないとしている。.

新しい!!: 藩閥と政党 · 続きを見る »

憲兵 (日本軍)

憲兵(けんぺい)とは、大日本帝国陸軍において陸軍大臣の管轄に属し、主として軍事警察を掌り、兼て行政警察、司法警察も掌る兵科区分の一種。.

新しい!!: 藩閥と憲兵 (日本軍) · 続きを見る »

教育総監

教育総監(きょういくそうかん)は、日本陸軍の教育を掌る役職で、その事務は教育総監部が行った。.

新しい!!: 藩閥と教育総監 · 続きを見る »

1871年

記載なし。

新しい!!: 藩閥と1871年 · 続きを見る »

1885年

記載なし。

新しい!!: 藩閥と1885年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

藩閥内閣藩閥政府藩閥政権藩閥政治

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »