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藤堂氏

索引 藤堂氏

藤堂氏(とうどうし、とうだうし)は、日本の氏族。近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)が発祥。戦国時代に藤堂高虎が出て発展し、江戸時代は津藩を領する外様大名となった。.

101 関係: 名張藤堂家大田垣蓮月大沢基恒外様大名子爵官軍宇多源氏寛政重修諸家譜中原氏中川久昭丹羽長秀幕末伊勢国伊賀国伯爵佐々木氏徳川氏土井利則犬上郡競艇選手織田氏甲良町華族蝉吟豊臣氏豪族鳥羽・伏見の戦い黒田長知近衛信尋近江国藤原北家藤原長家藤原氏藤堂平助藤堂高すけ藤堂高吉藤堂高堅藤堂高嶷藤堂高久藤堂高刑藤堂高やつ藤堂高兌藤堂高克藤堂高則藤堂高矗藤堂高睦藤堂高節藤堂高紹藤堂高美藤堂高猷...藤堂高聴藤堂高衡藤堂高行藤堂高般藤堂高興藤堂高邁藤堂高邦藤堂高雅藤堂高通藤堂高虎藤堂高陳藤堂高次藤堂高治藤堂高清藤堂高潔藤堂高朶藤堂高朗藤堂高成藤堂高明藤堂高悠藤堂高敏藤堂里香藤堂長定藤堂長守藤堂長徳藤堂長則藤堂長美藤堂長熙藤堂長正藤堂長源藤堂長旧藤堂長教藤堂良政藤堂虎高藤堂明保脇坂安斐松平定昭武家武田信虎歴名土代氏族江戸時代津藩滋賀県朝臣木下利徳戦国時代 (日本)浅井亮政浅井氏日本2018年 インデックスを展開 (51 もっと) »

名張藤堂家

名張藤堂家(なばりとうどうけ)は、江戸時代の藤堂氏の一門。代々宮内を称し、藤堂宮内家ともいう。藤堂高虎の養子・藤堂高吉を祖とする。.

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大田垣蓮月

大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。.

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大沢基恒

大沢 基恒 (おおさわ もとつね、明暦2年(1656年)頃 - 元禄10年閏2月29日(1697年4月20日))は、江戸時代前期の高家旗本。通称は七助、官位は従四位上・左近衛権少将・右京大夫。藤堂高次の四男。母は不詳。高家旗本・大沢基将の養子。妻は松平忠弘の娘。 寛文7年(1667年)10月23日、将軍徳川家綱に御目見し、寛文11年(1671年)12月23日より奥高家に列した。翌年(1672年)12月28日従四位下侍従・右京大夫に叙任された。延宝6年(1678年)7月20日養父基恒が死去したため、その跡を継いで12月6日大沢家の遠江敷知郡2550石の所領を相続した。21日には父の遺品二字国俊の刀を献上している。 延宝7年(1679年)3月7日に霊元天皇痘瘡御回復の幕府の慶賀使としてはじめて京都に派遣、天皇に謁見した。また延宝8年(1680年)7月9日に徳川綱吉の将軍就任に備えた官位転任の交渉のため上洛して参内している。この時に大沢自身にも従四位上が下賜された。天和2年(1682年)12月、五宮(のちの東山天皇)への親王宣下の際にも幕府の使者として京都へ派遣された。 高家として幕府に仕え、天和3年(1683年)3月7日には、吉良義央・畠山義里とともに最初の高家肝入に就任した。 貞享4年(1687年)4月7日、大沢は東山天皇即位に際し幕府の慶賀奏上使者の副使として、正使松平正容とともに京都へ派遣された。この際の5月25日、左近衛権少将となっている。 元禄7年(1694年)4月、将軍綱吉とその生母桂昌院が本庄因幡守宗資邸へ「将軍お成り」した際、大沢も本庄邸へ随行している。元禄10年(1697年)閏2月29日死去。享年42。 もとつね Category:藤堂氏 category:江戸幕府旗本 Category:1656年生 Category:1697年没.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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官軍

官軍(かんぐん)は、君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指す。.

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宇多源氏

宇多源氏(うだげんじ)は、第59代宇多天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。源姓では清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名である。.

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寛政重修諸家譜

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)は、寛政年間(1789年 - 1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である。1,530巻。文化9年(1812年)10月に完成した。『寛政譜』と略称される。.

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中原氏

中原氏(なかはらうじ)は、「中原」を氏の名とする氏族。.

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中川久昭

中川 久昭(なかがわ ひさあき)は、豊後岡藩の第12代藩主。 文政3年(1820年)4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年(1840年)12月6日、第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。 幕末の動乱の中で岡藩は尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った久昭は天保12年(1841年)に柳井藻次郎、小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴えたが、久昭は動乱を傍観するのみにとどまった。また、藩でも大火や風雨による被害が相次ぎ、藩財政は困窮した。 慶応4年(1868年)3月11日、上洛した。明治2年(1869年)2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日、版籍奉還を行い、知藩事に就任した。同年9月23日、隠居し、長男・久成に家督を譲った。明治22年(1889年)11月30日に死去した。享年70。.

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丹羽長秀

丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので惟住長秀ともいう。羽柴越前守とも称した。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊賀国

伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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佐々木氏

佐々木氏(ささきし)は、日本の氏族のひとつ。家系は宇多天皇の第8皇子・敦実親王の流れをくむ宇多源氏、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする一族。近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し全国に勢力を広げた。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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土井利則

土井 利則(どい としのり)は、下総古河藩の第6代藩主。土井家宗家13代。.

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犬上郡

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競艇選手

GC準優勝戦・競走中の競艇選手 戸田競艇場 2007年 競艇選手(きょうていせんしゅ)とは、公営競技の競艇において賞金を獲得するプロスポーツ選手であり、国土交通省管轄の国家資格所持者である。通称はボートレーサー。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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甲良町

良町(こうらちょう)は、近畿地方北東部、滋賀県東部(湖東地域)にある犬上郡の町。滋賀県内にある地方自治体のうち、豊郷町に次いで面積が小さい。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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蝉吟

蝉吟(せんぎん、寛永19年(1642年) - 寛文6年4月25日(1666年5月28日))は、江戸時代の俳人。.

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豊臣氏

豊臣氏(とよとみし/とよとみうじ)は、日本の氏(ウジ)のひとつ。姓(カバネ)は朝臣。豊臣政権下での官位叙任では優先的にこの豊臣姓が使用され、源平藤橘など既存の他姓に優越して扱われた。.

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豪族

豪族(ごうぞく)とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりするケースは多くある。広域政権側が政権安定のために豪族層の政権内への取り込みを行ったり、逆に広域政権の支配力が弱まると地方官が豪族化することがあるからである。.

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鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われた。.

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黒田長知

黒田 長知(くろだ ながとも)は、筑前福岡藩の第12代藩主、初代知藩事。.

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近衛信尋

近衞 信尋(このえ のぶひろ)は、江戸時代前期の公家・藤氏長者。官位は従一位関白。幼称は二宮。法号は応山。 後陽成天皇の第四皇子。五摂家のひとつ近衛家の養子になり、第19代目当主となる。これにより近衛家は皇別摂家となった。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原長家

藤原 長家(ふじわら の ながいえ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の六男。官位は正二位・権大納言。大宮または三条を号す。御子左家の祖。母は源明子(高松殿)であるが、後に道長の嫡妻源倫子の養子となった。.

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藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

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藤堂平助

藤堂 平助(とうどう へいすけ)は、日本の幕末の武士、剣客、砲術家で、新選組八番隊組長、のち御陵衛士(高台寺党)。 平助は通称で、諱は宜虎「宜寅」「良全」の表記もある(よしとら、のぶとら)。正式な姓名は藤堂平助藤原宜虎となる。.

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藤堂高すけ

藤堂 高崧(とうどう たかすけ、明和2年(1765年) - 文政11年(1828年))は、伊勢国津藩の世嗣。第9代藩主藤堂高嶷の長男。幼名は五瀬千世。通称は大学。官位は従四位下、大学頭、主殿頭。正室は溝口直養の七女敏姫。一男一女あり。 津藩支藩の久居藩嫡子として生まれる。天明7年(1787年)3月23日、父の宗家相続に伴い津藩の嫡子となった。寛政元年(1789年)2月28日、将軍徳川家斉に拝謁した。同年12月16日、従四位下大学頭に叙任した。しかし、家督相続前の寛政12年(1800年)11月5日、病気のために嫡子の地位を辞退した。代わって、息子高巽が嫡子となった。文政11年(1828年)11月18日、死去した。 たかとし Category:津藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1765年生 Category:1798年没.

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藤堂高吉

藤堂 高吉(とうどう たかよし)は、江戸時代前期の武将。丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。母は杉若無心の娘。.

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藤堂高堅

藤堂 高堅(とうどう たかかた)は、江戸時代の大名。伊勢久居藩の第2代藩主。久居藩藤堂家2代。久居陣屋の主。.

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藤堂高嶷

藤堂 高嶷(とうどう たかさと/たかさど)は、伊勢津藩の第9代藩主。元は久居藩の第7代藩主。藤堂家宗家9代、久居藩藤堂家7代。久居陣屋の主。.

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藤堂高久

藤堂 高久(とうどう たかひさ)は、伊勢津藩の第3代藩主。藤堂家宗家3代。.

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藤堂高刑

藤堂 高刑(とうどう たかのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。藤堂高虎の家臣。本姓は鈴木氏で、後に藤堂姓を賜る。仮名は仁右衛門。室は織田信清の娘(藤堂高虎養女)。.

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藤堂高やつ

藤堂 高秭(とうどう たかやつ)は、伊勢久居藩の第14代藩主。久居藩藤堂家14代。久居陣屋の主。.

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藤堂高兌

藤堂 高兌(とうどう たかさわ)は、伊勢津藩の第10代藩主。元は伊勢久居藩の第12代藩主。藤堂家宗家10代で久居藩藤堂家12代。久居陣屋の主。.

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藤堂高克

藤堂 高克(とうどう たかかつ、文化13年10月8日(1816年11月26日) - 明治20年(1887年)5月7日)は、江戸時代後期(幕末)の伊勢津藩の家老。字は士儀、法号は常山。父は藤堂高芬。正室は藤堂長教の娘。名は「たかよし」とも。.

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藤堂高則

藤堂 高則(とうどう たかのり、生年不詳 - 元亀元年(1570年9月?日)は、戦国時代の武将。.

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藤堂高矗

藤堂 高矗(とうどう たかなお)は、伊勢久居藩の第11代藩主。久居藩藤堂家11代。久居陣屋の主。.

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藤堂高睦

藤堂 高睦(とうどう たかちか)は、伊勢国津藩の第4代藩主。藤堂家宗家4代。.

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藤堂高節

藤堂 高節 (とうどう たかせつ、? - 明治20年(1887年)4月10日)は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第11代。伊賀国名張1万5000石の領主。 幼名八束。通称宮内。初名は長発。通称は宮内、九八郎。父は藤堂采女家第8代元晋。兄は采女家第9代元施。正室は藤堂長親の娘。子は藤堂高文、藤堂高碩、藤堂高成室郁子。養子は藤堂高成。 文久4年(1864年)8月、名張藤堂家の先代高美が養子入り後まもなくして病死したため、その養子となって、元治元年(1864年)12月、名張藤堂家を継いだ。明治に入って名前を長発から高節に改めた。以降、子孫は名張藤堂家の遠祖である丹羽家由来の通字の「長」ではなく、藤堂家由来の「高」の字を名乗っている。 明治9年(1876年)2月、子爵竹内惟則の子・憲丸(藤堂高成)を次女いくの婿養子とする。 明治20年(1887年)没。 たかせつ Category:幕末津藩の人物 Category:1887年没.

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藤堂高紹

藤堂 高紹(とうどう たかつぐ、明治17年(1884年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月12日)は、伊勢国津藩の最後の藩主藤堂高潔の長男で、藤堂家宗家13代当主。従二位、伯爵。母は蜂須賀斉昌の養女・量子。子に藤堂高廷、藤堂高弘、良子(長女・岩倉具栄妻)、本子(次女・岩倉具実妻)、国子、千賀子(五女・朝香宮孚彦王妃)。.

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藤堂高美

藤堂 高美 (とうどう たかよし、文政7年(1824年)- 元治元年8月29日(1864年9月29日))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第10代。伊賀国名張1万5000石の領主。 父は津藩の第10代藩主藤堂高兌。正室は藤堂長徳の長女都留子。養子は藤堂高節。幼名松千代。通称大炊、宮内。 文政4年(1821年)12月14日生まれとする説もある(『平成新修旧華族家系大成』)。名張藤堂家の先代長徳の長男の長親が早世し、次男の長邦(藤堂高邦)は久居藩主家を継いでいたため、長徳の婿養子となる。元政元年(1864年)8月6日に家督相続したが、同年8月29日に急死した。享年41。葬地は名張徳蓮院。藤堂采女家から高節が養子入りして名張藤堂家の家督を継いだ。 たかよし Category:幕末津藩の人物 Category:1824年生 Category:1864年没.

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藤堂高猷

藤堂 高猷(とうどう たかゆき)は、伊勢津藩の第11代藩主。藤堂家宗家11代。.

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藤堂高聴

藤堂 高聴(とうどう たかより)は、伊勢久居藩の第15代藩主。久居藩藤堂家15代。久居陣屋の主。.

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藤堂高衡

藤堂 高衡(とうどう たかひら)は、伊勢久居藩の第10代藩主。久居藩藤堂家10代。久居陣屋の主。.

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藤堂高行

藤堂 高行(とうどう たかゆき、天保6年9月8日(1835年10月29日) - 安政6年6月24日(1859年7月23日))は、伊勢久居藩の世嗣。第15代藩主・藤堂高聴の次男。官位は左京亮。 兄・藤堂高茂が早世したため嫡子となる。父の後を継いで16代藩主になる予定であったが、家督相続前の安政6年(1859年)に早世した。代わって、一族から藤堂高邦が養子に迎えられ嫡子となった。 なお、没年に関しては久居市史によると、高行は文久3年(1863年)まで存命で、8月に死んだ父・高聴の後を追うように10月18日に没したと伝わる。.

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藤堂高般

藤堂 高般(とうどう たかかず、享保16年(1731年) - 宝暦4年7月6日(1754年8月23日))は、伊勢国津藩の世嗣。第6代藩主藤堂高治の長男。母は田野氏。官位は従四位下、大学頭。 通称は兵部。父高治が死去した時は幼少だったため、支藩・久居藩主の藤堂高朗が跡を継いだ。宝暦2年(1752年)8月23日、津藩主藤堂高朗の養子となる。同年9月1日、将軍徳川家重に御目見した。同年12月16日、従四位下大学頭に叙任された。しかし、その2年後に早世した。養父高朗の四男で、養子の高悠が嫡孫となった。 たかかす Category:津藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1731年生 Category:1754年没.

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藤堂高興

藤堂 高興(とうどう たかおき)は、伊勢久居藩の第9代藩主。久居藩藤堂家9代。久居陣屋の主。.

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藤堂高邁

藤堂 高邁(とうどう たかとう)は、伊勢久居藩の第13代藩主。久居陣屋の主。.

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藤堂高邦

藤堂 高邦(とうどう たかくに)は、伊勢久居藩の第16代(最後)の藩主。久居藩藤堂家16代。久居陣屋最期の主。.

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藤堂高雅

藤堂 高雅(とうどう たかまさ)は、江戸時代の大名。伊勢久居藩の第6代藩主。久居藩藤堂家6代。久居陣屋の主。.

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藤堂高通

藤堂 高通(とうどう たかみち)は、江戸時代の大名。伊勢久居藩の初代藩主。久居藩藤堂家初代。.

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藤堂高虎

津城址にある藤堂高虎像 藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。.

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藤堂高陳

藤堂 高陳(とうどう たかのぶ)は、江戸時代の大名。伊勢久居藩の第3代藩主。久居藩藤堂家3代。久居陣屋の主。.

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藤堂高次

藤堂 高次(とうどう たかつぐ)は、伊勢津藩の第2代藩主。藤堂家宗家2代。.

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藤堂高治

藤堂 高治(とうどう たかはる)は、伊勢津藩の第6代藩主。元は津藩の支藩である伊勢久居藩の第4代藩主。藤堂家宗家6代、久居藩藤堂家4代。父は、津藩の藩祖・藤堂高虎の弟・藤堂高清の孫で、一門の藤堂出雲家第3代の藤堂高明。久居陣屋の主。.

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藤堂高清

藤堂 高清(とうどう たかきよ、天正13年(1585年) - 寛永17年8月15日(1640年9月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。藤堂虎高の三男。通称・与右衛門。従五位下、出雲守。.

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藤堂高潔

藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘・量子。.

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藤堂高朶

藤堂 高朶(とうどう たかえだ)は、江戸時代の大名。伊勢久居藩の第8代藩主。久居藩藤堂家8代。久居陣屋の主。.

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藤堂高朗

藤堂 高朗(とうどう たかほら)は、伊勢津藩の第7代藩主、元は支藩久居藩の第5代藩主。幼名は万治郎、元服後の初名は高豊。久居陣屋の主。.

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藤堂高成

藤堂 高成(とうどう たかしげ、慶応3年2月12日(1867年3月17日) - 昭和5年(1930年)10月23日)は、旧名張領主名張藤堂家(藤堂宮内家)第12代。男爵。幼名は憲丸。父は子爵竹内治則。 明治9年(1876年)2月、旧名張領主の名張藤堂家の養子となる。妻は先代高節の次女郁子。明治27年(1894年)、神宮皇學館の舎監兼助教授。明治39年(1906年)9月、男爵を授けられ従五位。明治44年(1911年)、貴族院議員。昭和5年(1930年)10月23日没。享年64。都市計画中央委員会委員や鉄道会議議員などを務めた。子女に惇子(酒井忠英夫人)、高伸がいる。 たかしけ Category:竹内家 Category:貴族院男爵議員 Category:山城国の人物 Category:1867年生 Category:1930年没.

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藤堂高明

藤堂 高明(とうどう たかあき、正保2年(1645年)- 宝永8年(1711年))は、伊勢国津藩藩一門藤堂出雲家第3代。第6代藩主藤堂高治の父。.

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藤堂高悠

藤堂 高悠(とうどう たかなが)は、伊勢津藩の第8代藩主。藤堂家宗家8代。.

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藤堂高敏

藤堂 高敏(とうどう たかとし)は、伊勢国津藩の第5代藩主。藤堂家宗家5代。.

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藤堂里香

藤堂 里香(とうどう りか、1987年7月29日-)は、日本の女子競艇選手(ボートレーサー)である。 福井県大野市出身。福井県立大野高等学校卒業 - 福井県大野市発行の広報紙。。大野市出身者では男子選手の河瀬廣康以来23年ぶりに誕生した競艇選手である(女子選手としては大野市出身者初)。 日本モーターボート競走会選手会福井支部所属。登録番号は4473。登録期は101期。同期には後藤翔之、篠崎仁志、山下友貴、櫻本あゆみ、守屋美穂らがいる。この101期では女子選手が9人デビューすると言う、やまと競艇学校(後のやまと学校、現・ボートレーサー養成所)での1期あたりでは最多の女子選手輩出数となった。 師匠は金子貴志。夫は同じ101期のボートレーサーで所属支部も同じである土山卓也。 藤堂氏の氏族の系譜であり、戦国武将であった藤堂高虎の末裔である。.

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藤堂長定

藤堂 長定(とうどう ながさだ、寛文11年(1671年) - 宝永4年(1707年)は、津藩士藤堂修理家第2代。 通称修理、九兵衛。俳号は橋木。名張藤堂家(藤堂宮内家)第2代長正の三男。子は藤堂長熙、藤堂長桓。 叔父長則の養子となって跡を継いだ。知行石高は1500石。高知役(母衣組)、加判奉行を勤めた。家臣に松尾芭蕉の甥の山岸半残がいる。宝永4年(1707年)没。享年37。家督は次男の長桓が相続した。長男の長熙は本家の名張藤堂家を相続している。 なかさた Category:津藩の人物 Category:1671年生 Category:1707年没.

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藤堂長守

藤堂 長守(とうどう ながもり、正保4年4月18日(1647年5月22日) - 元禄10年閏2月7日(1697年3月29日))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第3代。伊賀国名張1万5000石の領主。通称九八郎、右近、宮内。父は名張藤堂家第2代・藤堂長正。母は生駒正俊の娘。祖父は藤堂高吉。兄弟は藤堂長宥、藤堂長定、桂草因室、藤堂隼人長好室、本阿弥光常室、隅屋惣左衛門室、有馬涼竹室、小澤宇右衛門正言室。子は長源。 父長正より名張1万5000石の領地を相続する。残された書状から関白鷹司房輔とも付き合いがあったことがわかっている。元禄16年(1697年)閏2月7日没。享年51。葬地は名張徳蓮院。家督は嫡男の長源が相続した。弟の兵部長宥は3000石格で分家した。.

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藤堂長徳

藤堂 長徳(とうどう ながのり、文化8年3月8日(1811年4月30日)- 元治元年6月9日(1864年7月12日))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第9代。伊賀国名張1万5000石の領主。 父は宮内家第8代・長教。母は津藩第9代藩主・高嶷の娘・湧。正室は真教院了真の娘好子。子は藤堂長親、久居藩第16代藩主・藤堂高邦、藤堂高美室・都留子、藤堂出雲室・鏗(後に離縁)、藤堂靱負長規室・枝子、婿養子に高美。通称は豊後、宮内。画号は華仙。 文化8年(1811年)3月8日、藤堂長教の嫡男として生まれる。文政13年(1830年)、父長教の死去により名張藤堂家の家督を相続し、名張1万5000石の領主となる。第5代・長熙の独立立藩騒動(享保騒動)で疎隔を生じていた藩主家との関係は、長徳が9代藩主・高嶷の外孫である血縁関係もあって改善された。天保初年に、郷校訓蒙寮を創設して学問を奨励した。元治元年(1864年)6月9日没。享年54。長男の長親は早世し、次男の長邦は久居藩主藤堂高聴の婿養子となって跡を相続したため、長女都留子の婿養子として高美を迎えた。 なかのり Category:幕末津藩の人物 Category:1811年生 Category:1864年没.

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藤堂長則

藤堂 長則(とうどう ながのり、慶安3年(1650年) - 延宝8年(1680年)は、津藩士藤堂修理家初代。 名張藤堂家(藤堂宮内家)初代高吉の庶子。養子は藤堂長定。通称修理、九兵衛。 慶安3年(1650年)、藤堂高虎の養子藤堂高吉の庶子として生まれる。父高吉は、高虎に実子が生まれたために後継者となれず、2万石の知行を持ちながら、一家臣とされてしまう。独立した大名となることを願ったが叶わぬまま、寛文10年(1670年)に没した。兄長正が父高吉の遺領を相続する際に、藩主の命で1500石を分知された。これは分知により名張藤堂家の禄高を減らし、藩内の地位を低下させる狙いがあった。長則は上野城内の二の丸に屋敷を与えられ、藩主家に仕えることとなり、津藩重臣藤堂修理家の初代となる。藤堂修理家は松尾芭蕉の実家の主家としても知られる。延宝8年(1680年)没。享年31。葬地は津四天王寺。家督は兄長正の三男の長定が養子となって相続した。養子長定の子の長護は名張藤堂家を相続し、独立立藩を策して「名張騒動」を引き起こすことになる。.

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藤堂長美

藤堂 長美(とうどう ながよし、享保17年(1732年) - 元文6年(1741年))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第6代。伊賀国名張1万5000石の領主。 父は名張藤堂家第5代・長熙。弟に名張藤堂家第7代・長旧。 享保17年(1732年)、藤堂宮内長熙の三男として名張に生まれる。兄2人が早世したため嫡男となる。享保20年(1735年)父・長熙が名張藤堂家の津藩からの独立を企て失敗した享保騒動(名張騒動)の処分で隠居したため、わずか4歳で家督相続し、名張1万5000石の領主となる。長熙が大殿として後見したが10歳で夭折し、弟の長旧が家督相続した。 なかよし Category:津藩の人物 Category:1732年生 Category:1741年没.

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藤堂長熙

藤堂 長熙(とうどう ながひろ、元禄11年(1698年) - 安永5年5月2日(1776年6月17日))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第5代。伊賀国名張1万5000石の領主。 幼名安次郎、安之進。初名長護。通称宮内。号可照軒。実父は名張藤堂家分家の藤堂修理家第2代・藤堂長定。藤堂高吉の曾孫。丹羽長秀の玄孫。名張藤堂家第4代・藤堂長源の婿養子として名張藤堂家を相続した。正室は長源の娘知久、継室は一柳直昌の娘。子は藤堂長辰、藤堂長美、藤堂長旧。 元禄11年(1698年)、藤堂修理長定の子として伊賀上野に誕生した。享保元年(1716年)、従兄の藤堂宮内長源が病没し、その娘婿として名張藤堂家を相続して名張領主1万5000石の領主となる。 享保19年(1734年)、先祖の藤堂高吉から代々続く本藩との確執から、高吉の実家丹羽家や幕府に対して独立大名となることを働きかける。その動きを藩主家に察知され、武力を背景とした藩の追及に屈し、家臣横田太右衛門、小澤宇右衛門、七条喜兵衛の3名が切腹、当主の長煕は隠居して嫡男の長美に家督を譲ることとなった(享保騒動、名張騒動)。この件以降、名張藤堂家は藩主家からの圧力・監視を受け入れる形となった。 隠居の後も大殿として長美、長旧の後見を勤めた。安永5年(1776年)5月2日没。享年79。葬地は名張徳蓮院。.

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藤堂長正

藤堂 長正(とうどう ながまさ、慶長19年(1614年) - 天和2年8月20日(1682年9月21日))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第2代。伊賀国名張1万5000石の領主。 幼名武蔵。諱は長広、長治、長正。通称九八郎、兵部、宮内。父は名張藤堂家初代・藤堂高吉。母は側室慶法院。祖父は丹羽長秀。兄弟は藤堂勘解由室、藤堂源助室、生駒河内正幸室、藤堂長直、藤堂長之、藤堂長則、藤堂長俊。正室は生駒正俊の娘。子は長守、長宥、長定、桂草因室、藤堂隼人長好室、本阿弥光常室、隅屋惣左衛門室、有馬涼竹室、小澤宇右衛門正言室。 慶長19年(1614年)、伊予今治城に藤堂高吉の子として生まれる。慶長年中は江戸で幕府の人質として暮らす。寛永11年(1634年)、父高吉に従って上洛中の将軍徳川家光に御目見する。寛文10年(1670年)、高吉の死去により家督相続し、兵部から宮内と改める(こののち名張藤堂家は通称「藤堂宮内家」とも呼ばれることになる。)。藩主藤堂高久の命で父の遺領2万石のうち5000石を3人の弟、長留(隼人)、長之(織部)、長則(九兵衛)に分与し、知行高1万5000石となった。この分知は藩主家による、名張藤堂家の勢力を削ぐ狙いがあったとされ、これにより名張藤堂家の藩内の家格は下げられた。天和2年(1682)8月20日、病気療養のため京都堀川の藤堂家屋敷に滞在中に死去した。享年69。法名は清涼院殿金翁長天大居士。葬地は名張徳蓮院。 なかまさ Category:津藩の人物 Category:1614年生 Category:1682年没.

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藤堂長源

藤堂 長源(とうどう ながもと、元禄2年(1689年) - 享保元年(1716年))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第4代。伊賀国名張1万5000石の領主。 通称右近、宮内。父は名張藤堂家第3代・長守。娘に藤堂長熙室・知久。 生来病弱であった。享保元年(1716年)、療養先の京都で客死した。跡を婿養子として分家・藤堂修理(九兵衛)家出身で従弟にあたる長熙が継いだ。宝永7年(1710年)の名張大火で屋敷が焼失しており、現在残っている名張藤堂家邸はその後再建されたものである。.

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藤堂長旧

藤堂 長旧(とうどう ながひさ、元文3年6月18日(1738年8月3日))- 寛政9年(1797年))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第7代。伊賀国名張1万5000石の領主。 父は宮内家第5代・長熙。正室は藤堂高周の娘。子は名張藤堂家第8代・藤堂長教、梅木長哲、旗本高木藤兵衛貞直室、藤堂宗長、中村安頼。幼名寛次郎。通称宮内。 元文3年(1738年)6月18日藤堂宮内長熙の四男として名張に生まれる。父・長熙が名張藤堂家の津藩からの独立を企て失敗した享保騒動(名張騒動)の処分で隠居し、家督相続した兄長美が夭折したため、4歳でその跡を継いで家督相続し、名張1万5000石の領主となる。当初は長熙の後見を受ける。久居藩主藤堂高衡の妹を正室に迎えた。寛政9年死去。享年60。葬地は名張徳蓮院。 なかひさ Category:津藩の人物 Category:1738年生 Category:1797年没.

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藤堂長教

藤堂 長教(とうどう ながのり、安永8年(1779年) - 文政13年6月18日(1830年7月12日))は、津藩士名張藤堂家(藤堂宮内家)第8代。伊賀国名張1万5000石の領主。 父は宮内家第7代・長旧。正室は津藩第9代藩主・高嶷の娘・湧。子は藤堂長誠(庶長子・分家300石)、名張藤堂家第9代・藤堂長徳、藤堂長磯(藤堂靱負長常養子)、忍藩士中村酒造室、藤堂伊織元永室、藤堂高克室。 津藩第9代藩主・藤堂高嶷の娘の湧と結婚し、嫡子長徳を儲けた。儒学を信奉し、学問に優れた鎌田健兵衛(後の家老鎌田梁洲)に嫡子長徳の小姓を命じた。文化15年(1818年)4月、名張藤堂家で慣習であった当主を「殿様」と称することを藩から禁じられている。文政13年(1830年)6月18日死去。享年52。家督は長徳が相続し、庶長子の長誠は300石を与えられ分家している。.

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藤堂良政

藤堂 良政(とうどう よしまさ)は、安土桃山時代の武将。若江八人衆の一人。藤堂高虎の従兄弟にあたる。.

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藤堂虎高

藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。子に藤堂高虎など。愛智氏を称したこともある。.

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藤堂明保

藤堂 明保(とうどう あきやす、1915年9月20日 - 1985年2月26日)は、日本の中国語学者、中国文学者。.

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脇坂安斐

脇坂 安斐(わきさか やすあや)は、江戸時代後期の大名。播磨国龍野藩10代(最後の)藩主。龍野藩脇坂家12代。維新後藩知事・子爵。.

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松平定昭

松平 定昭(まつだいら さだあき、1845年12月7日(弘化2年11月9日) - 1872年8月22日(明治5年7月19日))は、幕末の大名・老中。伊予松山藩第14代藩主、知藩事。定勝系久松松平家宗家15代・17代。明治維新後は久松 定昭(ひさまつ さだあき)を名乗った。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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歴名土代

歴名土代(りゃくみょうどだい/れきめいどだい)とは、中世日本の四位・五位の位階補任(叙位)の記録簿である。元は2巻2冊であるが、現存本(東京大学史料編纂所所蔵本)は1冊。.

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氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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津藩

津藩(つはん)は伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3,000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。.

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滋賀県

こちら) 滋賀県(しがけん)は、琵琶湖を擁する日本国・近畿地方北東部の内陸県である。県庁所在地は大津市。.

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朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

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木下利徳

木下 利徳(きのした としのり、寛政元年3月13日(1789年4月8日) - 文政4年8月21日(1821年9月17日))は、備中国足守藩の第10代藩主。足守藩木下家10代。 伊勢国津藩主・藤堂高嶷の七男。正室は木下利忠の娘。官位は従五位下、肥後守。幼名は東五郎。 文化2年(1805年)7月29日、先代藩主・利徽の養嗣子となる。同年閏8月16日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年9月5日、養父利徽の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、従五位下肥後守に叙任した。 文政4年(1821年)8月21日に33歳で死去し、跡を養父・利徽の実子で養子にした利愛が継いだ。法号は隆徳院で清閑元浄大居士。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。 Category:藤堂氏 としのり *210 Category:1789年生 Category:1821年没.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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浅井亮政

浅井 亮政(あざい すけまさ、淺井 亮政)は、戦国時代の武将。北近江の国人浅井氏の当主。.

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浅井氏

浅井氏(あざいし、あざいうじ、)は、日本の氏族。京極家の家臣。近江国の国人、戦国時代の近江北部で勢力を持った戦国大名である。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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2018年

この項目では、国際的な視点に基づいた2018年について記載する。.

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藤堂藤堂家

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