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藤井松平家

索引 藤井松平家

藤井松平家(ふじいまつだいらけ)は、松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつ。.

98 関係: 十八松平古河藩大名大和国奥羽越列藩同盟姫路藩子爵安城市小牧・長久手の戦い岩槻藩上山藩上田藩上野国常陸国丹波亀山藩丹波国三河国下総国幕末庭瀬藩但馬国徳川家康信濃国土浦藩備中国出石藩出羽国碧海郡福釜松平家篠山藩田中藩遠江国華族額田郡駿河国高崎藩郡山藩興留藩関ヶ原の戦い酒井忠実掛川藩東条松平家松平久清松平康哉松平忠厚松平忠吉 (桜井松平家)松平忠学松平忠容松平忠之松平忠俊...松平忠周松平忠和 (上田藩嫡子)松平忠固松平忠国 (播磨国明石藩主)松平忠礼松平忠隆 (丹波亀山藩庶子)松平忠順松平忠英松平忠栄 (亀山藩嫡子)松平忠済松平忠昭 (藤井松平家)松平忠愛 (上田藩主)松平忠晴松平信古 (上山藩主)松平信吉松平信定松平信宝 (上山藩主)松平信安松平信将松平信一松平信久松平信之松平信亨松平信庸 (上山藩主)松平信忠松平信行松平信重松平信通松平信愛松平利長松平義春松平親盛松平長親松平長恒松平氏桜井松平家武家武蔵国池田輝名津山藩清和源氏明石藩新治郡播磨国改易愛知県慶長1601年 インデックスを展開 (48 もっと) »

十八松平

十八松平(じゅうはちまつだいら)は、松平氏の一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。徳川宗家を含める場合もある。家康の祖父・松平清康までの庶家に限定する場合もある。また、十四松平ともいわれる。 「十八松平」は、「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。.

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古河藩

古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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奥羽越列藩同盟

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年(慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟でTBS系列「水トク!林修の歴史ミステリー」2017年11月15日放送。仙台藩主・伊達慶邦の命を受け、『仙台藩の坂本龍馬』とも称された仙台藩士・玉虫左太夫が、薩長を中心とする新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」を成立させるために東北諸藩を回った。、陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、薩長中心の新政府の圧力に対抗するために結成された。 新政府軍に対抗すべく、現在の東北地方と新潟県に位置する諸藩が『東日本』として独立することが同盟の目的であるが、最初は、奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であった。よって両藩は同盟の盟約書には署名していなが会庄同盟を結成した。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、同盟は新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。 同盟のイデオローグ・理論的指導者として仙台藩の大槻磐渓の存在が挙げられる。そして、同じく仙台藩の玉虫左太夫は、仙台藩主の伊達慶邦の命を受けて東北諸藩を回り同盟を成立させた立役者の一人として知られる。なお、加盟各藩はいずれも当初は、薩長など新政府が仙台に設置した奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)に従っていた。 .

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姫路藩

姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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安城市

安城市(あんじょうし)は、愛知県西三河地方の市。.

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小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正(てんしょう)12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。.

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岩槻藩

岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城。.

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上山藩

上山藩(かみのやまはん)は、江戸時代,出羽国(羽前国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。.

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上田藩

上田藩(うえだはん)は、江戸時代に信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)周辺を支配した藩。藩庁は上田城。.

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上野国

上野国(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 常陸国・上総国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上野介であった類聚三代格。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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丹波亀山藩

亀山藩(かめやまはん)は、江戸時代に丹波国にあった藩のうちの一つ。現在の京都府亀岡市を拠点とした。山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視された。伊勢亀山藩との区別から丹波亀山藩とも呼ばれる。明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため、これ以降は亀岡藩(かめおかはん)と呼ばれる。藩庁は亀山城。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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庭瀬藩

庭瀬陣屋跡(石垣と堀) 庭瀬藩(にわせはん)は、備中国賀陽郡庭瀬村(岡山県岡山市北区庭瀬)に藩庁(庭瀬陣屋)を構えた藩である。庭瀬陣屋は旧庭瀬城二の丸を使用して築かれた。.

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但馬国

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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土浦藩

土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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出石藩

出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。 出石城本丸から城下町を俯.

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出羽国

出羽国(でわのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。.

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碧海郡

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福釜松平家

福釜松平家(ふかままつだいらけ)は、松平長親の次男・親盛を祖とする松平氏の庶流。 三河国碧海郡福釜(現在の愛知県安城市福釜町)を領したことから福釜松平家と称する。3代・松平親俊から徳川家康に仕え、4代・松平康親のとき、家康の関東転封に従い大番頭となり、下総・武蔵の両国に領地を与えられ、禄高は1千石余りとなる。関ヶ原の戦い、大坂の陣に加わり、康親は伏見城番を務めるが、大名には取り立てられず旗本どまりで、松平一族のなかでは優遇されなかった。本家は元禄年間、松平康永が嗣子無く没したため絶家となったが、庶流はその後も存続している。.

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篠山藩

再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。.

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田中藩

中藩(たなかはん)は、駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期に酒井忠利が入り、城下町・藤枝宿の整備を行ったが、以後藩主はめまぐるしく変わった。享保15年(1730年)に本多家が4万石で入り、明治維新まで7代約130年続いた。本多家時代には水戸藩の弘道館とともに武道の二関と呼ばれた藩校・日知館を有した。なお、田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、田中藩主になることは幕政参加への登竜門のひとつであったといえる。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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額田郡

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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高崎藩

崎城 高崎藩(たかさきはん)は、上野群馬郡(群馬県高崎市)周辺を領した藩。藩庁は高崎城に置かれた。.

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郡山藩

郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.

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興留藩

興留藩(おきどめはん)は、大和国(現在の奈良県生駒郡斑鳩町興留)に存在した藩。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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酒井忠実

酒井 忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家第4代藩主。雅楽頭系酒井家宗家12代。.

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掛川藩

掛川藩(かけがわはん)は、遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に存在した藩。政庁は掛川城に置かれた。.

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東条松平家

東条松平家(とうじょうまつだいらけ)は、清和源氏新田氏流松平氏の庶流。始祖は松平宗家5代目・松平長親の三男・義春。三河国の東条城を居城とし東条松平家と呼ばれた。青野松平家とも。十四松平・十八松平の1つに数えられる。.

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松平久清

松平 久清(まつだいら ひさきよ、? - 天正20年6月3日(1592年7月11日))は、戦国時代の武将。藤井松平家2代・松平信一の長男。母は深溝松平家の松平好景の娘。 十四松平家の1つ・藤井松平家の嫡男として生まれたが、家督を継ぐことなく死去した。 父・信一は久清のほか男子がなかったため、同じ十四松平家の1つ・桜井松平家から信吉を婿養子に迎え、跡を継がせた。 Category:戦国武将 ひさきよ Category:1592年没.

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松平康哉

松平 康哉(まつだいら やすちか)は、美作津山藩の第5代藩主。.

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松平忠厚

松平 忠厚(まつだいら ただあつ)は、19世紀後半にアメリカ合衆国で活動した日本出身の鉄道・土木技術者。父は幕末期に老中を務めた松平忠固(信濃上田藩第6代藩主)。.

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松平忠吉 (桜井松平家)

松平 忠吉(まつだいら ただよし、永禄2年(1559年) - 天正10年6月24日(1582年7月13日))は、戦国時代・安土桃山時代の武将。松平家次の次男。桜井松平家第5代当主。 1577年に家督を継いでいた兄・忠正が亡くなり、忠正の嫡子・家広はまだ生まれたばかりであったため、兄の正室であった多劫姫(徳川家康の異父妹)を妻に迎えて家督を継ぐ。1581年の高天神城攻めや諏訪原の出城を守るなどして軍功を挙げるが、24歳で夭折。その跡は、甥の家広が継いだ。 なお、長男の信吉は、後に藤井松平家の婿養子となって同家の家督を相続し、上野高崎藩主、次いで丹波篠山藩主に封じられた。また、次男の忠頼は忠正の嫡子・家広の死後に武蔵松山藩主を継いだ。 たたよし Category:戦国武将 Category:1559年生 Category:1582年没.

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松平忠学

松平 忠学(まつだいら たださと)は、信濃上田藩の第5代藩主。.

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松平忠容

松平 忠容(まつだいら ただやす、享保7年(1722年) - 安永10年1月23日(1781年2月15日)は、江戸中期の旗本。信濃上田藩主、伊賀守系藤井松平家松平忠周の五男。兄に松平忠愛、鉄次郎。弟に藤井忠陣、藤井忠弘がいる。通称善十郎。号笠翁。父の遺言により兄である上田藩主の松平忠愛より更級郡川中島(塩崎知行所)5,000石を分知され旗本寄合席となる。宝暦6年、徳川家治の小姓より西丸側役となった。跡は松平忠常が継いだ。.

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松平忠之

松平 忠之(まつだいら ただゆき、延宝2年(1674年) - 元禄8年4月19日(1695年5月31日))は、江戸時代中期の大名。下総国古河藩主。藤井松平家嫡流6代。松平信之の長男。母は小出吉英の娘。正室は酒井忠義の娘。従五位下、日向守。.

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松平忠俊

松平 忠俊(まつだいら ただとし、? - 正保2年12月13日(1646年1月29日))は、丹波亀山藩の嫡子。 藤井松平家の松平忠晴の長男。母は正室で杉原長房の娘(浅野長晟の養女)。官位は従五位下、刑部少輔。 松平忠晴の嫡子として生まれる。寛永13年(1636年)、徳川家光に初御目見するが、正保2年(1645年)に早世した。代わって、藤井松平の宗家・山城守家から従兄弟の忠栄が養子として父の後継に望まれた。 だが、忠俊の異母弟が誕生したためか、のちに忠栄は生家に還されている。 たたとし Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:丹波亀山藩の人物 Category:生年不明 Category:1646年没.

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松平忠周

松平 忠周(まつだいら ただちか)、または松平 忠徳(まつだいら ただのり)、は、江戸時代中期の大名。伊賀守流藤井松平家3代。はじめ丹波亀山藩の第3代藩主、のち武蔵岩槻藩主、但馬出石藩主、信濃上田藩の初代藩主。幕府では側用人、京都所司代、老中を歴任した。.

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松平忠和 (上田藩嫡子)

松平 忠和(まつだいら ただかず、寛政3年(1791年) - 文政11年4月10日(1828年5月23日))は、信濃上田藩の嫡子。官位は左衛門佐。 4代藩主・藤井松平忠済の四男として生まれる。正室は秋田孝季の娘。長兄・忠英が夭逝した後の嫡子をめぐり、御家騒動となったため、父・忠済の跡は分家からの養子・忠学が継いだ。 忠和は忠学の養子となったが、文政11年(1828年)、家督を継ぐことなく早世した。代わって、播磨国姫路藩酒井家から忠固が養子に迎えられた。 たたかす Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:上田藩の人物 Category:1791年生 Category:1828年没.

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松平忠固

松平 忠固(まつだいら ただかた)は、幕末の譜代大名、老中。信濃上田藩の第6代藩主。伊賀守系藤井松平家第8代当主。嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の日米修好通商条約という2度の条約の調印時にいずれも老中を務めた。徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して開国を主張し、幕府の開国論を牽引した支柱的存在であった。 最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物である。.

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松平忠国 (播磨国明石藩主)

松平 忠国(まつだいら ただくに)は、江戸時代前期の大名。丹波篠山藩主、播磨明石藩主。藤井松平家嫡流第4代当主。松平信吉の長男。.

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松平忠礼

松平 忠礼(まつだいら ただなり)は、江戸時代幕末から明治期の大名・華族(子爵)。信濃上田藩の第7代(最後)の藩主、伊賀守系藤井松平家9代。明治維新後はアメリカ合衆国に留学し、外務省に勤務。また、式部官を務めた。.

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松平忠隆 (丹波亀山藩庶子)

松平 忠隆(まつだいら ただたか、天和2年12月5日(1683年1月2日) - 寛保3年3月27日(1743年4月21日))は、藤井松平家支流の松平伊賀守家2代・丹波亀山藩主・松平忠昭の庶子。幼名は石松。通称は勘助、多四郎、靭負など。生母は柘植氏。 江戸藩邸にて生まれる。家臣間の争いで、叔父にして義兄に当たる忠周への対抗に祭り上げられる。翌天和3年(1683年)5月、父・伊賀守忠昭が死去する。石松を擁するのは、浅見杢之介を中心とする一派で、忠隆の祖父・忠晴の遺命に想定されていない事態ではあるが、忠昭の直系であることを全面的に主張する。しかし当時の石松は数え2歳、生後半年程度の乳飲み子であった。それに対し忠周は23歳、幼少時からの聡明さは周知の事実で、成長後の人品に不足の無い上に、忠晴の遺命があった。家督相続は叶わず、石松は部屋住みの生活を送った。ただ、これは家臣間の諍いに限ったことで、当人同士の関係は極めて良かったと伝わる。 しかし、擁立した浅見杢之介は後に処罰された。理由は、庶出の石松を嫡出であると出生を偽装していたのが、岩槻への転封後に発覚したことであった。もともと、先君・忠昭、先々君・忠晴へ取り入り、着々と地位を築いていた浅見は、対立する重臣を排斥するなど目に余る振る舞いを見せていたため、忠周の藩主就任後は減石させられていた。御家を騒がせたる罪により、浅見と偽装に加担した奥医師・太田松陸は入牢・獄死した。浅見の家族らには永年の暇を取らせたという。 元禄16年(1703年)12月に忠隆は、大和生駒5,000石の旗本で又従兄に当たる藤井松平家の支族・松平信周の養嗣子に迎えられた。ところが健康面で優れず、生駒での家督相続者としての評価を次第に下げていった。宝永5年(1708年)4月、不縁となる。つまり、生家の松平伊賀守家へ送り返された。 寛保3年(1743年)3月27日、忠隆は71歳で死去した。健康面を不安視されたにもかかわらず長命であった。法号は普閑院殿廊誉後彫軒干丘大居士。 自身は不遇であったが、長男・直隆は藤井松平家の嫡流・松平山城守家に家督相続者として貰われていった。そして多四郎忠隆の手元には、次男・忠敏が残った。家老格として藤井松平伊賀守家に尽くした忠敏は、松平姓を遠慮してか、藤井を姓としたという。 Category:1683年生 Category:1743年没 Category:江戸時代の武士 Category:丹波亀山藩の人物 たたたか Category:柘植氏 Category:亀岡市の歴史 Category:廃嫡された人物.

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松平忠順

松平 忠順(まつだいら ただより)は、信濃上田藩の第3代藩主。江戸幕府の奏者番、寺社奉行、若年寄。伊賀守系藤井松平家5代。.

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松平忠英

松平 忠英(まつだいら ただつね、寛政2年1月9日(1790年2月22日) - 文化7年4月10日(1810年5月12日))は、信濃上田藩の嫡子。官位は左衛門佐。 4代藩主・松平忠済の長男として生まれる。文化7年(1810年)、家督を継ぐことなく早世した。忠英死後、嫡子の座をめぐって御家騒動が起こり、藩主・忠済は分家の忠学を養子に迎えた。 たたつね Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:上田藩の人物 Category:1790年生 Category:1810年没.

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松平忠栄 (亀山藩嫡子)

松平 忠栄(まつだいら ただひで、寛永17年(1640年) - ?)は、丹波亀山藩の嫡子。 播磨国明石藩主・松平忠国の五男。母は戸田氏鉄の娘。娘は加藤明治室。官位は従五位下、図書頭。 従兄弟の忠俊が早世したため、万治2年(1659年)に叔父の亀山藩主・松平忠晴の養子となり徳川家綱に初御目見するが、寛文6年(1666年)に廃嫡された。代わって、忠晴の次男・忠昭が嫡子となり、のち家督を継いだ。 たたひて Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:丹波亀山藩の人物 Category:1640年生 Category:没年不明.

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松平忠済

松平 忠済(まつだいら ただまさ)は、信濃上田藩の第4代藩主。伊賀守系藤井松平家6代。.

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松平忠昭 (藤井松平家)

松平 忠昭(まつだいら ただあき、正保元年(1644年) - 天和3年閏5月4日(1683年6月28日))は、丹波亀山藩の藩主。伊賀守流藤井松平家2代、同家の亀山藩主としても2代目となる。 初代藩主・松平忠晴の次男。正室は藤井松平宗家の伯父明石藩主・松平忠国の娘・栄昌院。子は忠隆(四男)、娘(広橋兼廉室)。幼名・千太郎。官位は従五位下、玄蕃頭、伊賀守。 正保2年(1645年)、嫡出の兄忠俊が早世するが、忠昭は幼少のため、藤井松平宗家から従兄の忠栄が嫡子として迎えられた。しかし寛文6年(1666年)、忠栄は廃嫡され、忠昭が嫡子となって徳川家綱に初御目見した。寛文7年(1667年)、父の隠居により忠昭が家督を相続した。 男子が全て夭逝していたため、父の命に従って異母弟の忠周を嗣子とする。天和3年(1683年)に没した。法号は勇哲存秀晋光院。墓所は京都府京都市左京区の光明寺。 死の半年ほど前に男子が出生した。それが後の忠隆であった。忠昭の死後、家督を巡って家臣間の権力抗争が生じたが、結局は父・忠晴の遺命どおりの家督相続となった。 Category:譜代大名 Category:丹波亀山藩主 たたあき Category:1644年生 Category:1683年没.

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松平忠愛 (上田藩主)

松平 忠愛(まつだいら ただざね)は、信濃上田藩の第2代藩主。伊賀守系藤井松平家4代。.

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松平忠晴

松平 忠晴(まつだいら ただはる、慶長3年(1598年) - 寛文9年3月23日(1669年4月23日))は、駿河田中藩主、遠江掛川藩主、丹波亀山藩の初代藩主。伊賀守流藤井松平家初代。 松平信吉の次男。母は藤井松平信一の娘。同母兄に松平忠国。正室は豊岡藩主・杉原長房の娘(広島藩主・浅野長晟の養女)。子は忠俊(長男)、忠昭(次男)、忠周(三男)。官位は従五位下、伊賀守。 下総国布川にて生まれる。徳川秀忠から偏諱を授かり忠晴と名乗った。元和元年(1615年)に叙任される。元和5年(1619年)に常陸国で土浦藩3万5000石のうちから2000石を父・信吉から分知される。寛永10年(1633年)、家光将軍の頃、書院番士を皮切りに奏者番など務めあげた。その働き振りを評価され、安房国に2000石、下総国に1000石を与えられた。土浦の知行も保持していたため、総石5000石である。そして寛永19年(1642年)8月には駿河田中において2万5000石の大名となった。 寛永21年(1644年)3月に遠州掛川に移封され、庶出の次男・千太郎を授かる。生母は側室・大野木氏(家臣の娘)。正保5年(1648年)閏正月には8000石加増の上で丹波亀山に移封された。同年8月には、近藩・丹波福知山藩主の稲葉紀通による乱心騒動にともない、城地受け取りの任を受けた。なお、月は判らないが、この年に正室を江戸藩邸で失っている。長晴院と贈り名された正室だったが、長男・忠俊を含め子女2人を儲けた。 万治4年(1661年)4月、丹波亀山において、三男・与十郎が誕生した。生母は側室・木村氏(家臣の娘)。 長男・忠俊没後、兄・忠国の五男・忠栄を養子としていた。だが、この忠栄を生家へ還し、寛文7年(1667年)に庶子の千太郎(長じて忠昭)を嗣子、順養子を三男・与十郎(のちの忠周)という幕府への願い出に対し認可が下りた。忠晴は御礼の進物を将軍家、老中たちへ献上している。そして、同年の閏2月9日、次男・忠昭に家督を譲って隠居し、忠山と号した。 寛文9年(1669年)3月23日に72歳で死去した。法号は良光忠山善徳院。墓所は京都府京都市左京区の光明寺。 藩主・忠昭は忠晴死去の際、江戸出府の途上にあったため、丹波亀山から松宮新五左衛門が馬を飛ばし、伊勢で追い着いて上申した。訃報を知った行列は急遽、引き返したという。.

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松平信古 (上山藩主)

松平 信古(まつだいら のぶふる)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第5代藩主。藤井松平家嫡流11代。.

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松平信吉

松平 信吉(まつだいら のぶよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。藤井松平家第3代当主。なお、生年については天正3年(1575年)説もあるが、同年当時に生母・多劫姫は松平忠正(父・忠吉の兄)の正室であった時期にあたり、辻褄が合わないので、天正3年説の場合は忠吉の庶子である可能性が出てくる。.

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松平信定

松平 信定(まつだいら のぶさだ)は、戦国時代の武将。松平長親の子。十八松平の1つ桜井松平家の初代。松平宗家の家督を巡り、兄の松平信忠との対立に始まり、清康・広忠と宗家3代にわたり反意を示したが敗れた。.

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松平信宝 (上山藩主)

松平 信宝(まつだいら のぶみち)は、江戸時代後期から幕末の大名。出羽上山藩の第8代藩主。藤井松平家嫡流14代。.

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松平信安

松平 信安(まつだいら のぶやす)は、幕末から明治時代の大名、華族。出羽上山藩の第10代(最後)の藩主。藤井松平家嫡流16代。.

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松平信将

松平 信将(まつだいら のぶまさ)は、出羽上山藩の第3代藩主。藤井松平家嫡流9代。.

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松平信一

松平 信一(まつだいら のぶかず)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。藤井松平家嫡流の初代。松平長親の五男・松平利長(藤井松平家始祖)の長男。松平清康の従兄弟にあたる。.

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松平信久

松平 信久(まつだいら のぶひさ)は、江戸時代前期の丹波国篠山藩の世嗣。.

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松平信之

松平 信之(まつだいら のぶゆき)は、江戸時代前期の大名、老中。播磨明石藩主、大和郡山藩主、下総古河藩主。藤井松平家嫡流5代。.

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松平信亨

松平 信亨(まつだいら のぶつら)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第4代藩主。藤井松平家嫡流10代。.

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松平信庸 (上山藩主)

松平 信庸(まつだいら のぶつね、天保15年8月11日(1844年9月22日) - 大正7年(1918年)3月5日)は、江戸時代末期の大名。出羽上山藩第9代藩主。藤井松平家嫡流14代。松平信宝の長男。正室は小笠原長国の娘直子。子は松平信恭(長男)、松平信鑑(次男)、松平鉱(三男)、勝子(山内豊尹継室)、仲子(市橋長寿正室)。幼名は菊太郎。官位は従五位下、山城守。 文久元年(1861年)12月16日、従五位下安房守に叙任する。後に山城守に改める。文久2年(1862年)4月6日、父信宝の隠居により、家督を相続する。藩政としては、領内に灌漑用の堤(忠川堤)を築造した。慶応3年(1867年)9月、江戸市中取締を命じられる。同年12月、庄内藩とともに薩摩藩の江戸藩邸を攻撃する(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この際、家老の金子清邦が死亡した。慶応4年(1868年)6月、戊辰戦争に際し奥羽越列藩同盟に参加した。明治元年(1868年)9月、明治政府に降伏し、同年10月、江戸の菩提寺・松光寺に入り謹慎した。同年12月7日、3000石を没収の上で隠居を命じられた。家督は異母弟の信安が相続した。明治3年(1870年)7月、知藩事信安の後見補佐を命じられた。大正7年(1918年)3月5日、75歳で死去した。 のふつね Category:上山藩主 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 Category:1844年生 Category:1918年没.

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松平信忠

松平 信忠(まつだいら のぶただ)は、戦国時代の武将。安城松平家2代目にして、松平氏宗家第6代当主。 家督継承後に松平党内をまとめることができず、早期に隠退させられて嫡男の清康に家督を譲ったが、その背景には諸説がある。.

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松平信行

松平 信行(まつだいら のぶゆき)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第7代藩主。藤井松平家嫡流13代。.

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松平信重

松平 信重(まつだいら のぶしげ、寛永9年(1632年) - 正徳4年11月11日(1714年12月17日))は、江戸時代の旗本寄合。 播磨明石藩主・藤井松平家嫡流の松平忠国の三男として生まれる。万治2年(1659年)、父の死去により次兄・信之が家督を相続した際に5000石を分与される。延宝7年(1679年)、次兄が明石から大和郡山へ転封されるとこれに随従し、大和国では生駒に5000石を拝領した。貞享2年(1685年)、老中となった次兄が下総古河へ転封されるが、信重は生駒に留まり、旗本として独立した。家督は子の信周が継いだ。 Category:江戸幕府旗本 のふゆき Category:1632年生 Category:1714年没.

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松平信通

松平 信通(まつだいら のぶみち)は、江戸時代中期の大名。大和興留藩主、のちに藤井松平家嫡流の家督を継ぎ備中庭瀬藩主、出羽上山藩の初代藩主。藤井松平家嫡流6代。.

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松平信愛

松平 信愛(まつだいら のぶざね)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第6代藩主。藤井松平家嫡流12代。.

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松平利長

松平 利長(まつだいら としなが、生年不詳 - 永禄3年(1560年))は藤井松平家の初代当主。松平宗家第五代当主松平長親の五男。子に松平信一。松平広忠の大叔父で広忠の家臣。通称は彦四郎。 三河国碧海藤井を領し、藤井城を築城して自らの居城とし藤井松平家を興した。 天文9年(1540年)三河安祥城が織田信秀軍に攻撃された。これを聞いた利長は広忠の命により混成軍を率いて安祥城に急行し、織田軍を撃退することに成功した。しかし、この時に城主松平長家が戦死している(安城合戦)。 永禄3年(1560年)5月、尾張丸根城攻めで戦死した(但し書状等で永禄3年以降の生存が確認されており、戦死が誤りと言う説もある)。 山形県上山市の月岡神社は利長・信一父子を祀るために明治10年(1877年)に建てられたとされる。 としなか Category:戦国武将 Category:1560年没.

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松平義春

松平 義春(まつだいら よしはる、生没年不詳)は戦国時代前期(15世紀末-16世紀前半)の武将。三河松平氏宗家5代松平長親(長忠・出雲守・道閲)の子で東条松平家の祖。右京亮、甚太郎(甚九郎とも)。 初め通称を甚太郎と称したとされるが同時代文書では未確認。江戸時代の大久保忠教著『三河物語』では甚太郎と表記されている。また、「松平右京亮義春」名では後世に記されたいくつかの史書・記録に見られるが、判物等の同時代文書では殆ど例を見ない。.

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松平親盛

松平 親盛(まつだいら ちかもり、文亀3年(1503年)? - 享禄3年10月6日(1530年10月26日))は、戦国時代の武将。福釜松平家の祖。松平長親の次男。母は天野某(弾正)の娘。子に松平親次。官位は左京亮(右京進)。通称は三郎次郎(または三郎四郎)。三河国碧海郡福釜(ふっかま・現在の愛知県安城市福釜)の領主。 父・長親より、福釜と東端(安城市東端町など)を受け継ぎ、福釜城を居城とした。『三河物語』によると、「戦については凄腕で他に越す者がいない」と評された人物で、松平宗家に忠誠を尽くし、甥にあたる、兄の松平信忠の子、宗家の松平清康が、東三河を平定する際、先手役として、熊谷氏の居城・宇利城(新城市中宇利)を大手門から攻めたが、弟である松平信定の救援が遅れたことにより討死した。清康は親盛のこの死を哀惜し、叔父・信定を責めて面罵したという。 墓所は愛知県安城市の宝泉院(福釜良心寺)。宝泉院には親盛から2代親次・3代松平親俊までの肖像画がある。.

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松平長親

松平 長親(まつだいら ながちか)は、戦国時代の武将。松平氏の第5代当主。松平親忠の三男。徳川家康の高祖父。.

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松平長恒

松平 長恒(まつだいら ながつね)は、江戸時代中期の大名。出羽上山藩の第2代藩主。藤井松平家嫡流8代。.

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松平氏

松平氏(まつだいらし)は、室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。江戸時代は徳川将軍家の一門、あるいは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、あるいは将軍家が勢力・格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。.

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桜井松平家

桜井松平家(さくらいまつだいらけ)は、松平宗家5代・松平長親の次男(三男とも)信定を祖とする松平氏の庶流。三河国碧海郡桜井(現在の愛知県安城市)を領したことから桜井松平家と称する。十八松平の一つ。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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池田輝名

池田 輝名(いけだ てるかた、安永2年(1773年) - 享和3年9月29日(1803年11月13日))は、江戸時代の武士。松平忠順の四男。妻は池田喜生の養女(池田政貞の娘)。初名は松平忠脩。 安永2年(1773年)、信濃国上田藩主・松平忠順の四男として生まれる。のちに旗本・池田喜生の婿養子となり、寛政8年(1796年)11月25日、初めて将軍・徳川家斉に拝謁するが、享和3年(1803年)9月29日、家督を継ぐ前に死去した。享年31。旗本池田家の家督は喜生の死後、輝名の子の喜長が継いだ。 てるかた Category:藤井松平氏 Category:江戸時代の武士 Category:上田藩の人物 Category:1773年生 Category:1803年没.

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津山藩

津山城古写真(撮影:松平国忠) 津山藩(つやまはん)は、美作国の大半を領有した藩。藩庁は津山城(岡山県津山市)に置かれた。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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明石藩

明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.

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新治郡

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1601年

17世紀最初の年である。.

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