69 関係: 大正 (莫朝)、宝定、官話、崇康、乾統 (莫朝)、康佑、広南国、広和、延成、チャンパ王国、ハノイ、ベトナム、ベトナムの歴史、ベトナム語、嘉靖帝、カオバン省、光宝、王朝、禅譲、端泰、隆泰、莫福海、莫登庸、莫登エイ、順徳 (莫朝)、黎荘宗、黎朝、興治、阮淦、鄭主、鄭松、鄭検、武安、永定 (莫朝)、洪寧、淳福、清、明、明徳 (莫朝)、景暦、1527年、1528年、1529年、1530年、1540年、1541年、1543年、1546年、1547年、1548年、...、1553年、1554年、1561年、1562年、1566年、1578年、1585年、1586年、1587年、1588年、1590年、1591年、1592年、1593年、1618年、1625年、1638年、1677年、16世紀。 インデックスを展開 (19 もっと) »
大正 (莫朝)
大正(たいせい、Đại Chính)は、ベトナム莫朝の太宗莫登瀛が使用した元号。1530年 - 1540年。天正または大政にも作る。.
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宝定
宝定(ほうてい)は、ベトナム莫朝の閔宗莫敬止が使用した元号。1593年(後黎朝光興15年12月)。.
官話
官話(かんわ)は、中国語の方言区分の一つ。名称は公用語の意であり、古くから中国の政治・経済・文化の中心がこの方言の使用地域にあり、政官界で使われたことに由来する。白話小説に用いられ、近現代における標準中国語である国語、普通話、華語の基礎となった。官話方言、北方方言、北方話などとも呼ばれる。使用地域は南方地域にまで及ぶため、「北」とすることに異議が唱えられることもある。欧米ではマンダリン (Mandarin) と呼ばれる。.
崇康
崇康(すうこう)は、ベトナム莫朝の英祖莫茂洽が使用した元号。1566年 - 1578年。.
乾統 (莫朝)
乾統(けんとう)は、ベトナム高平に拠った莫朝の代宗莫敬恭が使用した元号。1593年 - 1625年。.
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康佑
康佑(こうゆう)は、ベトナム莫朝の閔宗莫敬止が使用した元号。1593年(後黎朝光興15年12月? - 同16年正月)。康祐にも作る。 大越史記全書は改元の時期を明記していないが、鄧洪波は1593年を元年と見なし、「2年」はなかったとしている。.
広南国
広南国(かんなんこく、クァンナムこく,,1558年 – 1777年)は、ベトナムの後黎朝中期~後期において、重臣の広南阮氏が現在のベトナム南部に築いた半独立国家。阮氏広南国(げん / グエンし - )、あるいは広南朝( - ちょう)とも呼ばれる。.
広和
広和(こうわ)は、ベトナム莫朝の憲宗莫福海が使用した元号。1541年 - 1546年。.
延成
延成(えんせい)は、ベトナム莫朝の英宗莫茂洽が使用した元号。1578年 - 1585年。.
チャンパ王国
チャンパ王国(、192年 - 1832年)は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。.
ハノイ
ハノイ( )は、ベトナム社会主義共和国北部に位置する都市で、同国の首都。南部ホーチミン市に次ぐ同国第2の都市であり、政治と文化の都である。地名の「城舖河内」は、当時の街(現在のホアンキエム・バーディン・ドンダー・ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する。2009年の人口は650万人。紅河の右岸にあり、国内の工業の中心地で、農産物の集散地ともなっている。また、一柱寺など史跡も多い。東南アジア有数の世界都市であり、ホーチミン市がベトナム経済の中心地である反面、ハノイはベトナムの政治・文化の中心地と言われることが多い。.
ベトナム
ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.
ベトナムの歴史
ベトナムの歴史(ベトナムのれきし、ベトナム語:Lịch sử Việt Nam/歷史越南)では、ベトナムの多数民族であるキン人を中心としたベトナムの歴史について扱う。 中世以前の南ベトナムについてはチャンパ王国で詳しく扱う。.
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ベトナム語
'''ベトナム語''' ベトナム語(ベトナムご、)は、ベトナム社会主義共和国の総人口のおよそ 87% を占めるキン族の母語であり、ベトナムの公用語である。キン語や安南語ともいい、ベトナムの少数民族の間でも共通語として話されるほか、中国と台湾など周辺諸国のキン族/京族、アメリカ合衆国、フランスなど在外ベトナム系移民によっても話される。.
嘉靖帝
嘉靖帝(かせいてい)は、明朝の第12代皇帝。諱は厚(こうそう)(の字は火偏+悤)。廟号は世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。.
カオバン省
バン省は、()ベトナムの省。東北部に位置し、中華人民共和国と国境を接している。省都は。.
光宝
光宝(こうほう)は、ベトナム莫朝の宣宗莫福源が使用した元号。1554年 - 1561年。.
王朝
王朝(おうちょう、Dynasty)とは歴史の分類方法の一つで、君主の系列あるいはその系列が支配した時代を分類するための歴史用語である。「朝」は朝儀 に由来する。歴史家は歴史研究の都合上、君主の系列を各々の時代や文化圏にあわせて王朝として便宜的に分割してきた。そのため、王朝の定義や分類方法に世界共通の規則はなく、王朝の範囲は歴史家によって異なることがある。すなわち、現君主国が自ら王朝名を名乗ることはない。.
禅譲
禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.
端泰
端泰(たんたい)は、ベトナム莫朝の英宗莫茂洽が使用した元号。1586年 - 1587年。.
隆泰
隆泰(りゅうたい)は、ベトナム高平に拠った莫朝の光祖莫敬寛が使用したとする説のある元号。1618年 - 1625年。 『大越史記全書』は1593年をもって莫氏は滅びたと記し、同年に莫敬恭が叛して建てた乾統の元号を認めていない上、「隆泰」の存在に言及していない。山本達郎、鄧洪波もこれに従っており、「乾統」が1593年から1625年まで用いられたとする。一方『欽定越史通鑑綱目』は、莫敬寛が1618年に叛し、「隆泰」と建元したことに言及しており、以後莫敬恭と莫敬寛は高平に分拠し、1625年、莫敬恭が後黎朝に討たれて滅びたとき、莫敬寛は降伏して太尉通国公に封ぜられ、以後は後黎朝の元号を用いたと記している。.
莫福海
莫 福海(マク・フク・ハイ、, ? - 1546年6月6日)は、ベトナム莫朝の3代皇帝。諡号は莫憲宗(Mạc Hiến Tông マク・ヒエン・トン)。莫登瀛の子。.
莫登庸
莫 登庸(マク・ダン・ズン、Mạc Đăng Dung、1483年? - 1541年9月12日)は、ベトナム莫朝の初代皇帝。諡号は莫太祖(Mạc Thái Tổ マク・タイ・トー)。.
莫登エイ
莫 登瀛(マク・ダン・ゾアン、Mạc Đăng Doanh ? - 1540年2月22日)は、ベトナム莫朝の2代皇帝。諡号は莫太宗(Mạc Thái Tông マク・タイ・トン)。莫登庸の息子。.
順徳 (莫朝)
順徳(じゅんとく)は、ベトナム高平に拠った莫朝の明宗莫敬宇(莫敬完)が使用した元号。1638年に建元したが、その後に改元があったかは明らかではない。山本達郎編『ベトナム中国関係史 曲氏の抬頭から清仏戦争まで』所収年表は院(ママ、阮?)如麟『両百年陰陽暦対照』(サイゴン、1961年)を引用し、莫敬宇が黎朝に討たれて清に亡命する1677年まで「一応順徳の年号を用いた」と見なしている。.
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黎荘宗
黎荘宗(れいそうそう、Lê Trang Tông)は、後黎朝大越の第13代皇帝(在位:1533年 — 1548年)。中興黎朝の祖。名は黎 寧(れい ねい、Lê Ninh)。.
黎朝
黎朝(レちょう、れいちょう、、1428年 - 1527年、1532年 - 1789年)は、黎利(レ・ロイ、)によって建てられたベトナムの王朝である。 ベトナム史において「黎朝」が2度存在したため、10世紀に黎桓の建てた王朝を前黎朝()とし、こちらを後黎朝()と呼んで区別することがあるが、一般的に「黎朝」といえば19年しか続かなかった前黎朝でなく、前期後期あわせて250年を超える後黎朝を指す。また、莫氏()の簒奪による一時断絶を境に前期(初黎朝、)と後期(中興黎朝 、)に分ける。.
興治
興治(こうち)は、ベトナム莫朝の英宗莫茂洽が使用した元号。1588年 - 1590年。.
阮淦
阮 淦(げん かん、、光順9年(1468年) - 元和13年5月20日(1545年6月28日))は、後黎朝大越の権臣。.
鄭主
鄭主(、1545年 – 1787年)はベトナムの後黎朝時代、名目上の皇帝を奉じたまま北部で政治の実権を握った鄭氏一族(東京鄭氏)の呼称。同時期、南部には事実上の独立国「広南国」を築いた阮主(広南阮氏)がおり、両者の200年近くの抗争を「鄭阮紛争」と呼ぶ。 飾り物の皇室を奉じたまま政権を握った鄭主の支配は「ベトナムにおける将軍制度」と評された。.
鄭松
鄭松(チン・トゥン、、順平2年11月12日(1550年12月19日) - 永祚5年6月20日(1623年7月17日))は、後黎朝大越の権臣、東京鄭氏の第3代当主。後世、その強権と辣腕ぶりから曹操に例えられた。.
鄭検
鄭検(チン・キェム、、景統6年8月24日(1503年9月14日) - 正治13年2月18日(1570年3月24日))は、後黎朝大越の権臣、東京鄭氏の初代当主。荘宗、中宗、英宗の三代に仕えた。.
武安
武安(ぶあん)は、ベトナム莫朝の景宗莫全が使用した元号。1592年(後黎朝光興15年11月 - 16年正月)。.
永定 (莫朝)
永定(えいてい)は、ベトナム莫朝の宣宗莫福源が使用した元号。1547年。.
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洪寧
洪寧(こうねい)は、ベトナム莫朝の英宗莫茂洽が使用した元号。1591年 - 1592年。.
淳福
淳福(じゅんふく)は、ベトナム莫朝の英祖莫茂洽が使用した元号。1562年 - 1566年。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
明
明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.
明徳 (莫朝)
明徳(めいとく)は、ベトナム莫朝の太祖莫登庸が使用した元号。1527年 - 1529年。.
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景暦
景暦(けいれき)は、ベトナム莫朝の宣宗莫福源が使用した元号。1548年 - 1553年。.
1527年
記載なし。
1528年
記載なし。
1529年
記載なし。
1530年
記載なし。
1540年
記載なし。
1541年
記載なし。
1543年
記載なし。
1546年
記載なし。
1547年
記載なし。
1548年
記載なし。
1553年
記載なし。
1554年
記載なし。
1561年
記載なし。
1562年
記載なし。
1566年
記載なし。
1578年
記載なし。
1585年
記載なし。
1586年
記載なし。
1587年
記載なし。
1588年
記載なし。
1590年
記載なし。
1591年
記載なし。
1592年
記載なし。
1593年
記載なし。
1618年
記載なし。
1625年
記載なし。
1638年
記載なし。
1677年
記載なし。
16世紀
16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.
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マク朝。