27 関係: 山本牧彦、山本悍右、上田竹翁、伊奈信男、モホリ=ナジ・ラースロー、ピクトリアリスム、スナップショット・エステティック、ストレートフォトグラフィ、写真、写真家、福原信三、福原路草、独逸国際移動写真展、芸術、風景写真、飯沢耕太郎、高山正隆、関東大震災、野島康三、東京都写真美術館、淵上白陽、新興写真、日本、日本写真史、1900年、1923年、1930年代。
山本牧彦
山本 牧彦(やまもと まきひこ、Makihiko YAMAMOTO、1893年3月1日-1985年8月24日)は、日本の戦前を代表するピクトリアリスム・芸術写真の写真家。 兵庫県生まれ。 アルスから発行されていた雑誌「芸術写真研究」などに1920年代頃から作品を投稿し、中島謙吉(中嶋謙吉、1888年-1972年)に注目される。 1928年には、真継不二夫らと、「日本光画協会」を結成。 デフォルマシオンやいわゆる「雑巾がけ」と呼ばれる手法などを生かした、独自性のあるピクトリアリスムの作品を制作した。 戦後は写真から離れた。.
山本悍右
山本 悍右(やまもと かんすけ、1914年3月30日 - 1987年4月2日)は、日本の写真家、詩人。日本におけるシュルレアリスムを代表する草分け的存在である。.
上田竹翁
上田竹翁 上田 竹翁(うえだ ちくおう、本名:上田寅之助、箸尾寅之助、号:竹軒樂人、1866年(慶応2年) - 1941年(昭和16年))は、明治・大正・昭和期に活躍した文人。写真研究家。『藝術冩眞』主幹、「コダック 研究会」幹事。.
伊奈信男
伊奈 信男(いな のぶお、1898年3月31日 - 1978年10月7日)は、日本の写真評論家。 愛媛県松山市出身。東京大学文学部美学美術史学科卒業。戦前に活動を開始し、1932年に創刊した写真雑誌「光画」の同人としても活躍(2号から)。その後、日本工房、中央工房にも参加。 「光画」の創刊号に掲載された「写真に帰れ」(寫眞に歸れ)は、新興写真(近代写真)の成立を宣言したものであり、社会性を強く持っている写真作品を高く評価する内容で、それは、それ以降戦後しばらくまでの間の、報道写真を重視する(とともに、それ以外の芸術的な写真を社会性を喪失したという理由付けで排除する)という日本の写真状況と軌を一にする。 戦後は、写真にかかわる評論などを著しつつ、平凡社の『世界写真全集』(全7巻)の企画なども行う。また、日本写真協会理事、ニコンサロン名誉館長などを歴任する。 1976年には、「伊奈信男賞」(ニコンが主催)が設けられている。 従来は、伊奈の評論、論文等は、書籍の形で刊行されることがほとんどなかったので、古い雑誌等を探す必要があったが、伊奈の主要評論を収録した下記の『写真に帰れ―伊奈信男写真論集』が2005年に刊行されたため、容易に参照できるようになった。.
モホリ=ナジ・ラースロー
モホリ=ナジ・ラースロー(Moholy-Nagy László 、 、1895年『アサヒカメラ1967年8月号』p.208。7月20日 - 1946年11月24日)はユダヤ系ハンガリー人の写真家、画家、タイポグラファー、美術教育家。「モホイ」という表記も見かけるが、これは綴りに対する誤解に基づくもので正しくは「モホリ」である(#表記について参照)。本名はヴェイス・ラースロー(Weisz László )。国を越えて美術の世界で活躍して、影響を与えた。.
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ピクトリアリスム
ピクトリアリスム(ピクトリアリズム、英:pictorialism, 仏:pictorialisme)とは、乾板写真が広く導入された後、1885年ころから流行した写真の潮流に与えられる名前である。20世紀の初期に最高潮に達して、モダニズム写真が広い範囲にわたって出現した後の1914年以後急速に衰退した。「ピクトリアリスム」と「ピクトリアリスト」という用語は、1900年以後に一般に用いられるようになった。.
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スナップショット・エステティック
ナップショット・エステティック(snapshot aesthetic, 「美学的スナップ写真」の意)は、スナップ写真において、芸術写真に位置づけられる作品の総称であるスナップショット・エステティック、暮沢剛巳、現代美術用語辞典、大日本印刷、2012年1月10日閲覧。。ロバート・フランク、そしてリー・フリードランダー、がこの写真運動の中心人物である。.
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ストレートフォトグラフィ
トレートフォトグラフィ (Straight Photography) とは、ぼかしや、画面構成についての演出、合成といった技巧を用いることなく、人間が見たままのようにシャープな視線で、あるがままの風景、人物等が撮影された写真作品およびそのような表現手段・表現形式のことである。.
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写真
写真(しゃしん、古くは寫眞)とは、.
写真家
写真家(しゃしんか、photographer)とは、主に写真を撮影もしくは製作する事を生活の中心にしている人。カメラマンと区別して写真家と呼ぶ場合、動画ではない写真を撮影する人をさす場合や、特に芸術的な写真を撮影し発表する人(芸術写真家)を指す場合がある。.
福原信三
福原 信三(ふくはら しんぞう、1883年(明治16年) - 1948年(昭和23年))は日本の実業家、写真家。資生堂の創業者・福原有信の息子であり、株式会社資生堂の初代社長である。また、弟に写真家の福原路草がいる。.
福原路草
福原 路草(ふくはら ろそう、Rosō FUKUHARA、1892年 - 1946年9月29日)は、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した日本の写真家。おおむね、芸術写真(ピクトリアリスム)に分類される。人物写真よりも風景写真を得意とした。本名は「信辰」。資生堂初代社長・写真家の福原信三の弟にあたる。 東京市京橋区銀座生まれ。1917年、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。1921年には、東京で、福原信三、大田黒元雄、掛札功、石田喜一郎らと「写真芸術社」を結成し、月刊の写真雑誌である「写真芸術」を創刊した(1921年6月号から1923年9月号。関東大震災の影響で休刊)。 1922年には滞欧し、ロンドンでは写真家E.O.ホッペのスタジオも訪れたという。かなりの数の写真作品を収集し日本に持ち帰った。1924年には、「日本写真会」の結成にも参加した。疎開先の長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)で死去。 福原路草の作品は、兄の福原信三の作品に比べると、総じて日本的な作品となっている。例えば、何もない空を背景として、縦長の画面で、葉がすっかり落ちて細い幹と枝だけになった木を2本撮影した作品などは、俳句的情感、または、侘び寂び、「空(くう)」といったものを示すような感じを醸し出している(1940年、「奥日光」。下記、「日本のピクトリアリズム 風景へのまなざし」展図録に図版が掲載されている)。.
独逸国際移動写真展
逸国際移動写真展(どいつこくさいいどうしゃしんてん)とは、1931年に日本で開催された写真展。4月には東京で、7月には大阪で開催された。主催は朝日新聞社。 これは、1929年に、ドイツシュトゥットガルトで、ドイツ工作連盟の主催で開催された「Film und Foto」 (Internationale Ausstellung Film und Foto) 展の写真部門の日本巡回展である。国際光画協会(村山知義と山内光(岡田桑三))の斡旋により実現した。 展覧会カタログのようなものが作成されなかったこともあり、当時の新聞・雑誌からその内容をうかがうしかないが、写真作品1000点以上(1180点余りとの情報もある)が展示された大規模な企画で、欧米の写真家、例えばラースロー・モホイ=ナジ、ベレニス・アボット、マン・レイ、アンドレ・ケルテス、ウジェーヌ・アジェらの作品が展示されたといい、日本の写真家たちに重大な影響を与えている(例えば、木村伊兵衛、安井仲治など)。 日本の写真動向が新興写真へと向かう大きな原動力となったと考えられる、重要な展覧会である。.
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芸術
芸術(げいじゅつ、、 techné、 とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などを指す。藝術の略式表記。 Jolene.
風景写真
景写真(ふうけいしゃしん)とは、風景を撮影した写真作品のことである。ここでの「風景」とは、自然の風景のみならず、人工的な風景、すなわち、都市や建物なども含む。.
飯沢耕太郎
飯沢耕太郎(いいざわ こうたろう、1954年3月26日 - )は、日本の写真評論家。.
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高山正隆
山 正隆(たかやま まさたか、1895年 - 1981年)は、日本の戦前を代表する写真家のひとり。 アルスの雑誌『芸術写真研究』の「月例懸賞」に写真作品を応募し、中島謙吉に見出される。 ピクトリアリスム作品に長け、この分野において初期の指折り数えられるような写真家に含まれる。野島康三らの世代の次の世代の芸術写真を代表する写真家。特に単玉のついたヴェスト・ポケット・コダック(いわゆるベス単)を好んで用いたため「ベス単派」と呼ばれる。ソフトフォーカス、デフォルマシオンなどを特徴としたピクトリアリスム作品からは、叙情性が強く発露されている。.
関東大震災
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃(日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。.
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野島康三
野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 1964年8月14日)は、日本の戦前期を代表する写真家のひとり。埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。特に、ポートレイトやヌード写真に長ける。 初期のピクトリアリスムの重厚な絵画的な作品から、のちにストレートな表現に移行した。.
東京都写真美術館
東京都写真美術館(とうきょうとしゃしんびじゅつかん)は、東京都目黒区三田一丁目にある、写真・映像専門の公立美術館である。指定管理者制度により、東京都歴史文化財団グループ(公益財団法人東京都歴史文化財団、鹿島建物総合管理株式会社、アサヒビール株式会社の共同事業体)が管理・運営している。.
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淵上白陽
淵上 白陽(ふちかみ はくよう、1889年(明治22年)11月14日 - 1960年(昭和35年)2月8日)は、写真家。一般に、日本の近代写真(新興写真)は淵上作品から始まる。 熊本県生まれ。佐賀や長崎で写真を学ぶ。 1922年には写真雑誌『白陽』創刊(1926年まで)し、「日本光画芸術協会」結成(1928年まで)。のち、山本牧彦の「日本光画協会」が継承した。 1928年には渡満し、満鉄情報課嘱託となる。1933年には『満洲グラフ』創刊(1944年まで)。『満洲グラフ』については、その初期において、淵上が実質的な編集責任者であった。 1932年には「満洲写真作家協会」結成、1937年には機関誌『光る丘』創刊(1939年まで)。 1941年に離満。戦後も日本で活動を続けた。 作風は、ピクトリアリスムを基調としながら、キュビスムや未来派の影響を受けた構成派の作品(1920年代半ば)、さらには、ストレートフォトグラフィ(特に、満洲にて)も残している。 写真制作のみならず、むしろ、写真クラブの活動や雑誌の編集・発行に力を入れた。写真の普及に努めたその一生は、そのほとんどを写真に捧げたといってよい。.
新興写真
新興写真(しんこうしゃしん)とは、日本においては1930年代に起こった日本写真史上の一大変革期のきっかけとなった芸術の表現運動。日本独自の運動というよりは、むしろ海外の動向に連動して生じた国際的な流れの一環として捉えることができる。.
日本
日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.
日本写真史
日本写真史(にほんしゃしんし)とは、日本における写真の歴史で、本稿ではその概要を述べる。.
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1900年
19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.
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1923年
記載なし。
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1930年代
1930年代(せんきゅうひゃくさんじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1930年から1939年までの10年間を指す十年紀。.
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