ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

花柳壽輔 (初代)

索引 花柳壽輔 (初代)

初代 花柳 壽輔(しょだい はなやぎ じゅすけ、1821年3月22日(文政4年2月19日) - 1903年(明治36年)1月28日)は、日本舞踊家、振付師。日本舞踊花柳流の初世家元。江戸期から明治初期にかけて『勧進帳』『船弁慶』など多くの舞台において振付を行い、舞踊界、歌舞伎界の中心的な役割を果たした。 .

60 関係: かっぽれ名跡吉原 (東京都)天保の改革尾上菊五郎 (5代目)尾上菊五郎 (6代目)中村座中村歌右衛門市川左團次 (初代)市川團十郎 (7代目)市川團十郎 (9代目)市川段四郎 (2代目)市村座市村羽左衛門三味線俳号商標勝海舟勧進帳町田佳声番付花柳壽輔花柳壽輔 (2代目)花柳壽輔 (4代目)花柳芳次郎花柳流芸妓西川扇蔵西郷隆盛贔屓船弁慶関西歌舞伎藤間勘右衛門藤間流雅号杵屋正次郎歌舞伎歌舞伎舞踊江戸三座河竹黙阿弥演劇改良運動振付師明治明治座浅草文明開化文政日本舞踊1821年1848年...1860年1873年1892年1893年1894年1901年1903年1月28日2月19日 (旧暦)3月22日 インデックスを展開 (10 もっと) »

かっぽれ

かっぽれは俗謡、俗曲にあわせておどる滑稽な踊り。漢字表記は「活惚れ」。 江戸時代、住吉大社の住吉踊りから変じたものであるとされ(諸説ある)、長柄の二蓋笠(にがいがさ)を中央に立て、白木綿の衣に丸ぐけの帯、墨染めの腰衣という姿の複数人が、二蓋笠を取り巻いて踊り、その間に掛け合い噺めいたことを行った。 のちに坊主頭姿で、染め浴衣に平ぐけ帯という姿になった。明治時代になって願人坊主の豊年斎梅坊主がその代表格となる。寄席に登場して人気が高まり、芸妓がお座敷で盛んに余興として歌い踊り、政治家や実業家など上流階級にも知られるようになった。「男芸者」幇間も演じた。歌舞伎では九世市川団十郎が踊った(「春霞空住吉」)。 日本でのレコードの創成期には芸妓、幇間、梅坊主、軍楽隊により盛んに吹込みがされたが、のち寄席芸としては廃れ、落語家が時折余興として披露するのみになる。昭和中期にカルチャーセンターで講座を開講すると、主婦層にヒットし、現在の家元制度的な形になる。落語では古今亭志ん朝が寄席の舞台で江戸住吉踊り(かっぽれ)を踊るなど、余興として定着している。 なお、住吉踊り#大道芸の住吉踊りも参照のこと。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)とかっぽれ · 続きを見る »

名跡

名跡(みょうせき)は、家制度と密接に結びつき、代々継承される個人名。もしくは家名。「めいせき」と発音するのは誤り。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と名跡 · 続きを見る »

吉原 (東京都)

手彩色絵葉書東京吉原(明治大正時代) 吉原(よしわら)は、江戸時代に江戸郊外に作られた、公許の遊女屋が集まる遊廓(吉原遊廓)、およびその地域の名。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にあった。現在は日本一のソープランド街として知られる。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と吉原 (東京都) · 続きを見る »

天保の改革

天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間(1830年 - 1843年)に行われた、幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には、諸藩でも藩政改革が行われた。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と天保の改革 · 続きを見る »

尾上菊五郎 (5代目)

五代目 尾上菊五郎(ごだいめ おのえ きくごろう、1844年7月18日(天保15年6月4日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、明治時代に活躍した歌舞伎役者。本名は寺島 清(てらしま きよし)。 尾上菊五郎としての屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に梅幸。 市村羽左衛門としての屋号は菊屋。定紋は根上り橘、替紋は渦巻。俳名に家橘。 九代目市川團十郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」の黄金時代を築いた。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と尾上菊五郎 (5代目) · 続きを見る »

尾上菊五郎 (6代目)

六代目 尾上 菊五郎(ろくだいめ おのえ きくごろう、1885年(明治18年)8月26日 - 1949年(昭和24年)7月10日)は大正・昭和時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四つ輪。俳名に三朝がある。本名は寺島 幸三(てらしま こうぞう)。 初代中村吉右衛門とともに、いわゆる「菊吉時代」の全盛期を築いた。歌舞伎界で単に「六代目」と言うと、通常はこの六代目尾上菊五郎のことを指す。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と尾上菊五郎 (6代目) · 続きを見る »

中村座

復元された中村座(江戸東京博物館) 京橋) 中村座の定式幕 中村座(なかむらざ)は、江戸にあった歌舞伎劇場で江戸三座のひとつ。座元は中村勘三郎代々。控櫓は都座。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と中村座 · 続きを見る »

中村歌右衛門

中村 歌右衛門(なかむら うたえもん)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は初代と三代目が加賀屋、二代目が蛭子屋、四代目以降が成駒屋。定紋は祇園守、替紋は裏梅。 もとは上方の役者だったが、三代目が江戸に下った。四代目までは立役として、五代目以降は女形として活躍。成駒屋系の最も古く権威ある名跡で、現在ある中村姓の名跡は、中村勘三郎系と中村富十郎系を除くすべてがこの歌右衛門系となっている。墓所は、初代・三代目は大阪市中央区中寺の正法寺、二代目・六代目が青山霊園にある。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と中村歌右衛門 · 続きを見る »

市川左團次 (初代)

初代 市川左團次(しょだい いちかわ さだんじ、天保13年10月28日(1842年11月30日) - 1904年(明治37年)8月7日)は歌舞伎役者。屋号は髙島屋。定紋は三升に左(みますに ひだり)、替紋は松川菱に鬼蔦(まつかわびしに おにづた)。俳名に松蔦・筵升。本名は高橋 榮三(たかはし えいぞう)。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と市川左團次 (初代) · 続きを見る »

市川團十郎 (7代目)

七代目 市川 團十郎(しちだいめ いちかわ だんじゅうろう、寛政3年(1791年) - 安政6年3月23日(1859年4月25日))は化政期から天保にかけて活躍した江戸の歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)。俳名は三升、白猿、夜雨亭、壽海老人、子福者、二九亭。 天保の改革のあおりを受けて江戸を追放されたことで有名。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と市川團十郎 (7代目) · 続きを見る »

市川團十郎 (9代目)

九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎 1838年11月29日(天保9年10月13日) - 1903年(明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。 五代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。 その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と市川團十郎 (9代目) · 続きを見る »

市川段四郎 (2代目)

二代目 市川 段四郎(にだいめ いちかわ だんしろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1922年(大正11年)2月6日)は明治・大正時代の歌舞伎役者。初代 市川 猿之助(しょだい いちかわ えんのすけ)としても知られる。屋号は澤瀉屋。紋は、.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と市川段四郎 (2代目) · 続きを見る »

市村座

市村座(いちむらざ)は、江戸にあった歌舞伎劇場で、江戸三座のひとつ。座元は市村羽左衛門代々。控櫓は主に桐座だったが、都座と玉川座が代興行したこともある。明治時代以降も経営者が変わりながら運営されていたが、1932年(昭和7年)の焼失により廃座となった。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と市村座 · 続きを見る »

市村羽左衛門

市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者の名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。 屋号は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋。 十六代目以降の定紋は根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と市村羽左衛門 · 続きを見る »

三味線

三味線(しゃみせん)は、日本の有棹弦楽器。もっぱら弾(はじ)いて演奏される撥弦楽器である。四角状の扁平な木製の胴の両面に猫や犬の皮を張り、胴を貫通して伸びる棹に張られた弦を、通常、銀杏形の撥(ばち)で弾き演奏する。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と三味線 · 続きを見る »

俳号

俳号(はいごう)あるいは俳名(はいめい、はいみょう)とは、俳諧あるいは後の俳句を作る際に用いる雅号のことである。現在は、俳人の雅号(愛称)という意味では「俳号」、「号」という呼びかたが主であり、「俳名」という場合は後述する歌舞伎役者が持つ異名を指すことが多い。 現代では俳号を持たない俳人もいるが、多くは句会で披講されるときに、選に入って自身の句が読み上げられると俳号を名乗る。 このほかに表徳(ひょうとく)ともいう。表徳とは表徳号のこと。古代中国で本名を呼ばれることを忌ることから付けられた別号のこと。日本では江戸期に通人が吉原などで本名を呼ばれることを嫌ってつけたもので、俳号、俳名とほぼ同じである。(『俳文学大辞典』角川書店) なお、現代の俳句団体では、団体によって差はあるが、常連メンバー同士が句会の際に用いる俳号だけでお互いを認識している場合がある。そういう意味で俳号は、オフラインミーティングを活発に行っているインターネットコミュニティにおけるハンドルネームに近い役割を担っていると言えよう(反対に、投句を機関紙に掲載する際には、俳号ではなく本名を掲載する団体もある)。 俳人以外でも俳号に由来する芸名もある。その代表的な例としては大橋巨泉(本名:大橋克巳)がある。これは元々早稲田大学在学中に俳人として名乗ったものであるが、のちに芸名とした。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と俳号 · 続きを見る »

商標

商標(しょうひょう)は、商品や役務を提供される需要者に、提供者を伝達する標識。本記事はおもに商取引上の意味を記す。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と商標 · 続きを見る »

勝海舟

勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉 - 明治32年〈1899年〉1月19日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。 山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と勝海舟 · 続きを見る »

勧進帳

勧進帳(かんじんちょう)は、如意の渡しでの出来事を基軸にした能の演目『安宅』を元に創られた歌舞伎の演目。歌舞伎十八番の一つで、松羽目物の先駆けとなった作品である。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と勧進帳 · 続きを見る »

町田佳声

(まちだ かしょう、1888年6月8日 - 1981年9月19日)は、日本の音楽評論家。本名・町田嘉章(まちだ よしあき)、また町田博三も名乗る。 群馬県伊勢崎生まれ。本名の音読みの「かしょう」から1963年東京美術学校卒業。「時事新報」「中外商業新報」の記者を経て、古典邦楽を研究し、新日本邦楽運動に参加、1931年「春信幻想曲」「ちゃっきり節」なども作曲した。 戦前は三味線の演奏家としても活動し、三味線と西洋管弦楽のための協奏曲を2曲作曲している。新交響楽団(現・NHK交響楽団)と共演した自演の音源がCD化されている。 1935年民謡研究に着手、この研究は民俗学的価値から国民学術協会の支援供与を受け、1940年(昭和15年)3月に室町鎌倉時代から明治末まで日本国内で歌われた労作歌および祝い歌や盆踊歌など、生活環境の変化とともに風化しつつある300曲を集めたレコード(1セット計30枚)を発売した。 1944年より1980年までかけて『日本民謡大観』を完成し、1951年「日本民謡研究及び関東編の発表」で芸術選奨文部大臣賞、1981年吉川英治文化賞受賞。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と町田佳声 · 続きを見る »

番付

付表 番付(ばんづけ)は大相撲における力士の順位表。正式には「番付表」という。ここから転じてその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる(長者番付など)。格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」などの言葉はここから発している。すでに江戸時代にはこの形式を借りて、古典園芸植物の品種や各地の名所、温泉、三味線演奏家、遊女、本拳(数拳/崎陽拳/豁拳)や藤八拳(東八拳)といった拳遊び、落語・講談などの寄席芸人や歌舞伎役者など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。これら相撲以外の様々なものを番付にしたものは「見立て番付」「変わり番付」などと呼ばれる。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と番付 · 続きを見る »

花柳壽輔

花柳 壽輔(はなやぎ じゅすけ、新字体:寿輔)は、花柳流宗家の家元が襲名する名跡。初代壽輔の師、七代目市川團十郎が、自らの俳号「壽海老人」の一字を贈ったことが由来である。「花柳壽輔」及び「花柳寿輔」は2008年12月より花柳寛の登録商標(登録番号5192213、5192215)。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と花柳壽輔 · 続きを見る »

花柳壽輔 (2代目)

二代目 花柳 壽輔(にだいめ はなやぎ じゅすけ、新字体:寿輔、1893年(明治26年)10月3日 - 1970年(昭和45年)1月22日)は、大正から昭和にかけて活躍した舞踊家。日本舞踊 花柳流の二世家元。本名は花柳 芳三郎(はなやぎ よしさぶろう)。 初代花柳壽輔と「とめ」という女性との間に晩年の一粒種として東京に生まれる。はじめ六代目尾上菊五郎に入門し、尾上 菊太郎(おのえ きくたろう)を名乗って歌舞伎役者になるが、父の死去後廃業し、大正7年(1918年)に二代目花柳壽輔を襲名、二世家元を継承する。その後は花柳舞踊研究会を興して新舞踊運動を先導した。1957年、日本芸術院賞を受賞。昭和35年(1960年)人間国宝。昭和38年(1963年)花柳壽輔の名跡を長女・若葉に譲り、自身は花柳 壽應(はなやぎ じゅおう、新字体:寿応)を名乗った。 四代目花柳芳次郎、二代目花柳壽樂、花柳宗岳、花柳寿南海、初代花柳寿美など多くの優秀な人材を育成した。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と花柳壽輔 (2代目) · 続きを見る »

花柳壽輔 (4代目)

花柳 寛(はなやぎ ひろし、1931年(昭和6年)3月22日 - )は、日本舞踊家。2016年6月に宗家家元の座と「壽輔」の名跡を孫の六代目花柳芳次郎に譲り、自らは2代目花柳 壽應(はなやぎ じゅおう)を襲名した。 1958年(昭和33年)の文部省芸術祭奨励賞、1985年(昭和60年)の国際エミー賞優秀賞、1989年(平成元年)のイタリア賞、1999年(平成11年)の舞踊芸術賞、2001年(平成13年)の日本芸術院賞などの受賞歴がある。2006年(平成18年)旭日小綬章受章。2011年には日本芸術院会員に推挙された。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と花柳壽輔 (4代目) · 続きを見る »

花柳芳次郎

花柳 芳次郎(はなやぎ よしじろう)は、日本舞踊・花柳流における名跡のひとつである。花柳流を創流した初代花柳壽輔が、壽輔を名乗る前の名前に由来し、花柳流においては最も古い名跡であり、花柳壽輔に次ぐ由緒ある名跡とされる。 二代目花柳芳次郎は初代壽輔の長男であり、瀬川路之丞の名で歌舞伎役者となったが、1873年に29歳で病死する。初代壽輔は養子を迎え三代目芳次郎を継がせたが、この養子とは1904年頃に離縁し、芳次郎の名跡は初代壽輔の養女花柳ツルが預かることとなった。 名跡が継がれたのは1927年で、ツルの養子である花柳幾太郎が四代目花柳芳次郎となった。四代目花柳芳次郎(1903年5月18日 - 1971年9月6日)は旧姓を金子といい、1909年に6歳で入門し、翌1910年にツルの養子となった人物である。当時の花柳流家元二代目花柳壽輔が東京にある中、四代目芳次郎は襲名とともに分家として、当時花柳流の勢力が弱かった関西に強固な地盤を築いた。その後1967年に、長男の寛に芳次郎の名跡を継ぐとともに花柳芳瞠(はなやぎ ほうどう)を名乗った。 五代目花柳芳次郎は、襲名前から本名の花柳寛の名で東宝歌舞伎などの芝居やテレビドラマに出演しており、また振付師としても宝塚歌劇団などで振付をしていた。襲名後は家元三代目花柳壽輔の後見を二代目花柳壽楽とともに務め、流派を支えた。芳次郎は2007年に一線を退くと共に名跡を孫に譲り、自らは花柳寛應(はなやぎ かんおう)に改名する予定であった。しかし寛應襲名披露の直前に三代目壽輔が急逝したため、四代目壽輔を継ぎ家元となった。六代目は五代目芳次郎(四代目壽輔)の孫、花柳創右が襲名している。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と花柳芳次郎 · 続きを見る »

花柳流

花柳流(はなやぎりゅう)は、日本舞踊の流派のひとつ。門弟は全国に約2万人を数え、日本舞踊では最大の流派。嘉永2年(1849年)初代花柳芳次郎(後の初代花柳壽輔)が創始。家元は「花柳壽輔」の名跡を継承し、現在は五代目壽輔が家元の座にある。 西川流の有能な舞踊家だった西川芳次郎が、師の四代目西川扇蔵の急死によって起きた宗家相続争いで西川流を破門されたため、新たに「花柳」と改姓し興した流派。「花柳芳次郎」の名前が初めて世に出たのが嘉永2年(1849年)で、この頃までに花柳流が成立したと見られる。「花柳」という名称の由来には諸説あるが、通説では芳次郎が幼い頃から吉原に育ち、破門の後に一時芸妓に舞踊を教えた経験から、「花柳の廓」にちなんで付けられたということになっている。 踊りの特徴について二代目市川猿之助(初代猿翁)は、「他の流派に比べて細かい間のリズムが重視され、舞よりも踊りを重視している」と解説している。 確かな技量に加えて時の芸能界や政財界のトップを後援につけ、組織を全国に発展。古典舞踊の継承と共に時代に即した新しい舞踊を次々と生み出し、また日本の子供に日本舞踊を伝えることを流派全体の事業と位置づけている。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と花柳流 · 続きを見る »

芸妓

芸妓(げいぎ)とは、舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。芸者・芸子のこと。酒席に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、太夫遊びが下火となった江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つである。 江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性である幇間(太鼓持ち)を指し、芸子が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。京都では芸妓(げいこ)とよばれる。現代では料理屋(料亭)、待合茶屋に出入りする芸者が売春を行うことはない。地方の温泉地等ではコンパニオンと呼ばれる派遣の芸妓などが存在し、また俗に枕芸者と呼ばれるものも一部に残っている。 呼名・異称・用字にはさまざまなものがある。下記「名称」の項目を参照のこと。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と芸妓 · 続きを見る »

西川扇蔵

西川 扇藏(にしかわ せんぞう、新字体:扇蔵)は、日本舞踊の名跡。西川流の宗家家元が代々襲名している。定紋は西菱(人菱)。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と西川扇蔵 · 続きを見る »

西郷隆盛

西郷 隆盛(さいごう たかもり、、文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は日本の武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と変更。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。 西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は戊辰戦争(北越戦争・新潟県長岡市)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治政府の重鎮西郷従道(通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛(隆雄、隆武)。大山巌(弥助)は従弟、川村純義(与十郎)も親戚である。 薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。 死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と西郷隆盛 · 続きを見る »

贔屓

贔屓(ひき・びし、拼音:Bìxì、正字体:贔屭)は、中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と贔屓 · 続きを見る »

船弁慶

『大物之浦ニ霊平知盛海上に出現之図』(月岡芳年『新形三十六怪撰』) 『船弁慶』(ふなべんけい)は、『平家物語』、『吾妻鏡』などに取材した能楽作品。表記は「舟弁慶」(また旧字で「船辯慶」、「舟辯慶」)とも。作者はほぼ観世小次郎信光と比定されている。源義経、武蔵坊弁慶、静御前、平知盛を主たる登場人物とし、前半と後半でシテの演じる役柄がまったく異なるなど、華やかで劇的な構成が特徴である。この記事では合わせて派生作品についても記述する。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と船弁慶 · 続きを見る »

関西歌舞伎

上方歌舞伎(かみがたかぶき).

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と関西歌舞伎 · 続きを見る »

藤間勘右衛門

藤間 勘右衞門(ふじま かんえもん、新字体:勘右衛門)は、藤間流勘右衛門派宗家家元の名跡。 三代目以降、歌舞伎役者が兼ねて襲名している。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と藤間勘右衛門 · 続きを見る »

藤間流

藤間流(ふじまりゅう)は日本舞踊における流派の一つ。日本舞踊における五大流派の一つに数えられる。1704年頃に藤間勘兵衛が創流し、今日では「家元」勘右衛門派と、「宗家」勘十郎派の二派に大別される。また藤間流からは藤陰流や松本流などが派生している。おおまかな振りの舞踊が特徴で、花柳流の細かい振付と対照的に比較される。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と藤間流 · 続きを見る »

雅号

雅号(がごう)とは、文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のことである。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と雅号 · 続きを見る »

杵屋正次郎

杵屋 正次郎(きねや しょうじろう)は、長唄三味線方の名跡。代々の墓所は大林寺。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と杵屋正次郎 · 続きを見る »

歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と歌舞伎 · 続きを見る »

歌舞伎舞踊

歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)は、以下の総称である。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と歌舞伎舞踊 · 続きを見る »

江戸三座

江戸三座(えど さんざ)は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。官許三座(かんきょ さんざ)、公許三座(こうきょ さんざ)、また単に三座(さんざ)ともいう。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが、次第に整理されて四座になり、最終的に三座となった。 三座は江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と江戸三座 · 続きを見る »

河竹黙阿弥

黙阿弥 河竹 黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、文化13年2月3日(1816年3月1日) - 明治26年(1893年)1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と河竹黙阿弥 · 続きを見る »

演劇改良運動

演劇改良運動(えんげきかいりょううんどう)とは、明治時代に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして提唱された運動。1886年に結成された演劇改良会が運動の中心になった。運動自体は成功したとは言い難いが、天皇の観劇を実現させたほか、運動に刺激を受けて歌舞伎座が開場するなど、歌舞伎の新時代を画した。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と演劇改良運動 · 続きを見る »

振付師

バレエ 振付師(ふりつけし、choreographer)は、振付(ふりつけ、choreography)を専門に行う者をいう。歌舞伎舞踊や日本舞踊のような伝統芸のほか、バレエやダンスの振付をする者も含まれる。バレエやダンスの世界では振付家と呼ぶことが多い。ショウビズ界では英語の音訳でコレオグラファーと呼ぶこともある。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と振付師 · 続きを見る »

明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と明治 · 続きを見る »

明治座

明治座(めいじざ、英語:Meijiza)は、東京都中央区日本橋浜町二丁目にある劇場、およびこれを運営する企業の株式会社明治座(かぶしきかいしゃめいじざ、英語:Meijiza Co., Ltd.)である。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と明治座 · 続きを見る »

浅草

浅草(あさくさ)は、東京都台東区の町名。または、旧東京市浅草区の範囲を指す地域名である。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と浅草 · 続きを見る »

文明開化

旧開智学校。明治政府による学校令が出されてから、建設された「近代学校」のための建造物である。「文明開化」とは西洋の文明や制度を導入するだけではなく西洋の文化風俗まで導入したところに特徴がある。 文明開化(ぶんめいかいか)とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。さらに、「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていた。 近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。その社会が変化していく時代を強調し「開化期(かいかき)」、「御一新(ごいっしん)」などの別称もある。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と文明開化 · 続きを見る »

文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と文政 · 続きを見る »

日本舞踊

日本舞踊(にほんぶよう)は、日本のいわゆる伝統的な踊りの総称である。日本の伝統的なダンスである舞(まい)と踊(おどり)を合わせたもの。 近年、日本舞踊の国際化に伴い欧米諸国やアジアにも Nihombuyo といった呼称が定着しつつある。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と日本舞踊 · 続きを見る »

1821年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1821年 · 続きを見る »

1848年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1848年 · 続きを見る »

1860年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1860年 · 続きを見る »

1873年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1873年 · 続きを見る »

1892年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1892年 · 続きを見る »

1893年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1893年 · 続きを見る »

1894年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1894年 · 続きを見る »

1901年

20世紀最初の年である。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1901年 · 続きを見る »

1903年

記載なし。

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1903年 · 続きを見る »

1月28日

1月28日(いちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から28日目に当たり、年末まであと337日(閏年では338日)ある。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と1月28日 · 続きを見る »

2月19日 (旧暦)

旧暦2月19日は旧暦2月の19日目である。六曜は友引である。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と2月19日 (旧暦) · 続きを見る »

3月22日

3月22日(さんがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から81日目(閏年では82日目)にあたり、年末まであと284日ある。.

新しい!!: 花柳壽輔 (初代)と3月22日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

市川鯉吉花柳壽輔 (初世)

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »