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肥後六花

索引 肥後六花

肥後六花(ひごろっか)は、肥後椿(ひごつばき)、肥後芍薬(ひごしゃくやく)、肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、肥後朝顔(ひごあさがお)、肥後菊(ひごぎく)、肥後山茶花(ひごさざんか)の6種の花の総称。 江戸時代から明治時代にかけて熊本藩士とその後裔によって育成されてきたものだが、肥後六花という名称自体は古くからあったものではなく、昭和30年代から40年代にかけて自然発生的に生まれ定着したものとみられるそれ以前は、「肥後の銘花」として挙げられるものは4種であったり、十数種であったりしていた。1974年(昭和49年)には、朝日新聞の記事名に「肥後六花」の名が登場している。。肥後六花の共通の特徴としては、花芯(雄蕊)が見事なこと、花形が一重一文字咲きであること、花色の純粋なことの三点がある。熊本県と熊本市は、1972年(昭和47年)から2年かけて熊本城内に「肥後名花園」を設置している。.

40 関係: 宝暦ハナショウブユキツバキツバキアサガオキクシャクヤクサザンカ第二次世界大戦細川重賢細川斉護熊本城熊本市熊本県熊本県庁熊本藩盆栽雄蕊松平定朝水前寺江津湖昭和28年西日本水害旗本1778年1793年1795年1819年1829年1833年1879年1886年1887年1893年1899年1923年1929年1958年1967年1972年1974年

宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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ハナショウブ

ハナショウブ(花菖蒲、Iris ensata var.

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ユキツバキ

ユキツバキ(雪椿、学名:Camellia rusticana )は、ツバキ科ツバキ属の常緑低木。別名、オクツバキ、サルイワツバキ、ハイツバキ。主に日本の太平洋側に分布するヤブツバキが東北地方から北陸地方の日本海側の多雪地帯に適応したものと考えられ、変種、亜種とする見解もある。 新潟県の県木、同県加茂市及び長野県飯山飯山市の花に指定されている。また、ユキツバキ系の園芸品種であるオトメツバキは山梨県昭和町の木に指定されている。.

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ツバキ

ツバキ(椿、海柘榴)またはヤブツバキ(藪椿、学名: )は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。 日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であってもサザンカを椿と呼ぶことはあまりない。.

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アサガオ

アサガオ(朝顔、学名: 、Morning glory)は、ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物。日本で最も発達した園芸植物。古典園芸植物のひとつでもある。中国語で牽牛。日本では「蕣」の漢字も当てられる。.

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キク

(菊)は、キク科キク属の植物。ここでは、狭義のキク(家菊(イエギク)、栽培菊(栽培ギク))について詳述する。野菊については「野菊」を参照のこと。 日本では日本で観賞用多年草植物として発展した品種群を和菊、西ヨーロッパで育種されて生まれた品種群を洋菊と呼ぶ。.

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シャクヤク

ャクヤクの栽培 シャクヤク(芍薬)はボタン科の多年草。学名 Paeonia lactiflora。高さ約60cm。葉は複葉。初夏、大形の紅・白色などのボタンに似た花を開く。アジア大陸北東部の原産。品種も多い。.

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サザンカ

ンカ(山茶花、学名: )は、ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹。童謡『たきび』の歌詞に登場することでもよく知られる。 漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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細川重賢

細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、肥後熊本藩6代藩主。第4代藩主・細川宣紀の五男。熊本藩細川家7代。 紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。 初めは父・宣紀より1字を与えられて長岡紀雄(ながおか のりお)、兄・宗孝の跡を継いでからは細川重賢と名乗る。改名後の「重」の字は将軍徳川家重より偏諱を賜ったもので、「賢」の字はかつて細川典厩家が通字として用いていたものに由来する(実際、典厩家の当主にも同名の細川重賢という人物がいた)。.

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細川斉護

細川 斉護(ほそかわ なりもり、文化元年9月16日(1804年10月19日) - 万延元年4月17日(1860年6月6日))は、肥後宇土藩の第8代藩主、のち肥後熊本藩の第10代藩主。熊本藩細川家11代。 宇土藩主・細川立之の長男で、第8代熊本藩主・細川斉茲の孫にあたる。母は土井利厚の娘。正室は広島藩主・浅野斉賢の娘。子に護前(長男、のち慶前に改名)、護順(次男、のち慶順、韶邦に改名)、護久(三男)、護明(四男、津軽順承養子)、長岡護美(六男、熊本藩執政)、勇姫(三女、越前松平慶永(春嶽)正室)などがいる。 幼名は与松。宇土藩主時代は細川 立政(ほそかわ たつまさ)と名乗る。官位は従四位下、中務少輔、越中守、左近衛権中将。侍従。 文政元年(1818年)、父の死により跡を継いで宇土藩主となる。文政9年(1826年)に叔父の熊本藩主・細川斉樹の養嗣子となって本家の家督を継いだ。この時、名を立政から斉護(「斉」は将軍・徳川家斉からの偏諱、斉護以降「護」は細川家の通字となり現在に至っている)に改め、宇土藩は弟の行芬が継いでいる。 当時、熊本藩では代々の藩主による出費などで、すでに80万両という膨大な借金を抱え、財政は破綻寸前となっていた。しかもこのような中で、アメリカやイギリスなどの日本接近もあって、幕府から天草地方や相模湾警備を命じられ、その出費で財政はさらに悪化した。このため、斉護は財政再建のために藩政改革に取りかかるが、その方針をめぐって横井小楠・長岡是容ら改革派と松井佐渡(=10代当主松井章之(てるゆき))ら保守派が対立し、かえって藩内が二分された。このような混乱と苦悩の中で万延元年(1860年)、斉護は57歳で死去した。長男の慶前は早世していたため、跡は次男の護順改め慶順(のちの韶邦)が継いだ。.

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熊本城

本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。 加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後の江戸時代の大半は熊本藩細川家の居城。明治の西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年の再建である平井聖監修『城 〔8〕(九州沖縄・火燃ゆる強者どもの城)』毎日新聞社、1996年。宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。 天守閣内部には熊本市立熊本博物館の分館としての展示があり、公式には熊本城の再建天守閣内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。 2016年4月の熊本地震の際に、現存石垣をはじめ宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元・復興建築が被災した 熊本城調査研究センター 2016年6月10日(PDF)。.

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熊本市

本市(くまもとし)は、日本の熊本県にある市の一つ。同県の県庁所在地、また日本最南端の政令指定都市である。.

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熊本県

本県(くまもとけん)は、九州地方の中央に位置する県。 県庁所在地は熊本市(政令指定都市)。令制国の肥後国に当たる。有明海、不知火海、東シナ海に面していて、また日本第2位の阿蘇カルデラを持つ阿蘇山が知られる。.

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熊本県庁

本県庁(くまもとけんちょう)は広域自治体である熊本県の行政機関(役所)である。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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盆栽

マツの盆栽 盆栽(ぼんさい)とは、草木を鉢(盆栽鉢、盆器)に植えて、枝ぶり、葉姿、幹の肌、根及び鉢、もしくはその姿全体を鑑賞する趣味。自然の風景を模して造形するのが特徴である。.

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雄蕊

アマリリスの雄蕊 雄蕊(雄蘂、ゆうずい、Stamen)は、被子植物の花を構成する要素の一つ。一般的には「おしべ」といわれ、花粉を入れる袋状の葯(やく)(Anther)と葯を支える花糸(かし)(Filament)という部分で構成される。ただし花糸に当たる部分がないものや、糸状でなく葉状になっているものもある。さらに八重咲きなどの花では雄蕊が花弁(花びら)状に変化している。 雄蕊は、葯より花粉を出して、雌蕊の先(柱頭)に受粉させる役割を持っている。ふつう葯は2つの半葯からなり、半葯はさらに2つの花粉嚢(葯室)という袋からなる。 花粉嚢には花粉が入っており、花粉の出口は縦に裂けるもの、横に裂けるもの、穴が開いているものなど植物により形状が異なる。 雄蕊はシダ植物の小胞子葉に相同(花粉が小胞子、花粉嚢が小胞子嚢に当たる)である。裸子植物では花粉嚢のついた鱗片状のものが多く、雄蕊でなく小胞子葉ということが多い(これが集まったものは雄花ともいわれる)。.

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松平定朝

松平 定朝(まつだいら さだとも、安永3年(1773年) - 安政3年7月8日(1856年8月8日))は、江戸幕府の旗本で、花菖蒲の育種家。松平定勝の四男定実の流れを組む松平織部家6代目松平定寅(松平織部)の長男。母は岡氏(照光院)。通称、左金吾。従五位下、伊勢守。晩年に菖翁と号する。室は伊沢方守(伊沢内記)の娘の瑞光院。.

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水前寺

水前寺(すいぜんじ)は、熊本県熊本市中央区の町名。現行行政地名は水前寺一丁目から水前寺六丁目。2011年8月1日現在の人口は12,409人。.

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江津湖

江津湖(えづこ)は熊本県熊本市東区から中央区にある湖で、上江津湖(かみえづこ)と下江津湖(しもえづこ)にわかれている。上江津湖の一部(東側半分)が中央区扱いとなる。 上江津湖のスイゼンジノリなど貴重な動植物があり、また上流部にはホタルなどもいる。自然だけではなくレジャー施設もあるなど、住宅街に囲まれた緑豊かな場所で、市民の憩いの場ともなっている。工場排水や周辺の宅地化などによって水質悪化が進んでいたが、現在は浄化の取り組みが進められている。.

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昭和28年西日本水害

昭和28年西日本水害(しょうわ28ねんにしにほんすいがい)は、1953年(昭和28年)6月25日から6月29日にかけて九州地方北部(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)を中心に発生した、梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害である。 阿蘇山・英彦山を中心に総降水量が1,000mmを超える記録的な豪雨により、九州最大の河川である筑後川を始め白川など、九州北部を流れる河川がほぼ全て氾濫、流域に戦後最悪となる水害をひき起こし死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という大災害となった。 この水害により、筑後川など九州北部の河川における治水対策が根本から改められることになり、現在においても基本高水流量の基準となっている。 この九州北部を襲った水害には、気象庁による明確な災害名が付けられておらず、熊本県では「白川大水害」または「6.26水害」、北九州市では「北九州大水害」など、地域によって様々な呼称が用いられているほか、諸文献によっても災害名称が異なっているが、本記事名は土木学会西部支部の調査報告書に準拠し、「昭和28年西日本水害」と呼称する。なお、本文中の自治体名は、1953年当時の自治体名(括弧内は現在の自治体名)を用いる。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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1778年

記載なし。

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1793年

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1795年

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1819年

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1829年

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1833年

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1879年

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1886年

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1887年

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1893年

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1899年

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1923年

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1929年

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1958年

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1967年

記載なし。

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1972年

協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.

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1974年

記載なし。

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