ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

翰林院

索引 翰林院

翰林院(かんりんいん、満州語:bithei yamun)とは、唐の玄宗が738年(開元26年)に設けた翰林学士院がその起源で、唐中期以降、主に詔書の起草に当たった役所のことをいう。元代には国史院と統合されて、翰林国史院と呼ばれていたが、明代には旧に復した。大順では弘文館と呼ばれた。清代では、いわば皇帝直属の秘書室となり、書物の編纂、詔勅の起草などを行った。貯才の地ともいわれ、有為な人材を確保し、勉強や実務の見習をさせ、必要があるときに中央官庁や地方の要職に任命する。 学問や政治の最高の人材が揃うという共通点もあり、Academy (アカデミー)の訳語としても使われることがある。.

21 関係: 宮崎市定庶吉士モンゴル帝国アカデミーウイグルクビライ内閣元 (王朝)国史院状元玄宗 (唐)科挙翰林図画院順 (王朝)詔勅探花榜眼殿試満州語738年

宮崎市定

宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。.

新しい!!: 翰林院と宮崎市定 · 続きを見る »

庶吉士

庶吉士(しょきつし、庶常とも称す、満州語:geren giltusi)は明・清時代、翰林院内に設置された短期間の職位である。 科挙に合格した進士の中から素質のある者を選び、翰林院で様々な知識を学ばせてから各種の職を授けるというもので、今日でいうと研究生に当たる。一般に庶吉士の期間は3年で、その後優秀な者は翰林院に残って編修または検討の職を授かり、それ以外のものは六部の主事や御史となったりあるいは地方官となった。 明代の翰林院は優秀な人材をプールする所となり、正統帝以降は、進士でないものは翰林院に入れず、翰林院出身でないものは内閣には入れないということが慣例となった。そのため庶吉士は「儲相」と称された。清代でも漢人の大臣の多くが庶吉士出身であった。 category:明朝 category:清朝の官職 category:中国の制度史.

新しい!!: 翰林院と庶吉士 · 続きを見る »

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

新しい!!: 翰林院とモンゴル帝国 · 続きを見る »

アカデミー

アカデミー(academy、Academie、académie、academia)は、元々古代ギリシャの哲学者プラトンがアテネに開いたアカデーメイアー(Ἀκαδημ(ε)ια/Akadēm(e)íā)に由来し、ルネサンス以降、学術団体、学会といった意味に使われていった。現在では塾の名称まで様々な意味で使われることがある。翰林院と訳されることもある。 派生語としてacademic(アカデミック;学問的な、学術的な)、academician(学士院会員、芸術院会員;伝統主義者、学者を指すことも)、academism(アカデミズム;学問至上主義、権威主義)などがある。 転じて、各種養成機関や学校名として使われることがあるほか、企業名として使われることもある。日本の例としてJFAアカデミー福島、カープアカデミー、JALアカデミー、東映アカデミー、テアトルアカデミー、A&Gアカデミー、ヒューマンアカデミー、東京アカデミー、ヤクルト野球アカデミー、早稲田アカデミーなどがみられる。.

新しい!!: 翰林院とアカデミー · 続きを見る »

ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

新しい!!: 翰林院とウイグル · 続きを見る »

クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

新しい!!: 翰林院とクビライ · 続きを見る »

内閣

内閣(ないかく)は、イギリスや日本などの議院内閣制の国家において、国の行政権を担当する合議体の執行機関である。なお、「内閣」は "Cabinet" の訳にあてられるが、行政権を担わない場合には大統領顧問団と訳される場合もある(#概説を参照)。.

新しい!!: 翰林院と内閣 · 続きを見る »

元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

新しい!!: 翰林院と元 (王朝) · 続きを見る »

国史院

国史院(こくしいん)は、中国の歴代王朝に設置された国史・正史の編纂機関。清の時代に国史館(こくしかん、満州語:gurun i suduri kuren)と改称・復置された。.

新しい!!: 翰林院と国史院 · 続きを見る »

状元

元(じょうげん、満州語:bonggo sonjosi、)は中国の科挙制度で最終試験(唐朝では省試、宋朝では殿試)で第一等の成績を修めた者に与えられる称号。鼎元、殿元とも言う。 歴史上最初の状元は唐代の622年(武徳5年)の孫伏伽であり、最後の状元は清代の1904年(光緒30年)の劉春霖である。1300年間で552名(遼朝18人、金朝15人、大西国1人、太平天国14人を含む)存在している。なお武挙での成績第1位は武状元と称され区分されている。 状元の名称は榜眼、探花と同様、正式名称ではなく慣習として呼ばれていた名称である。官方が発布する科挙合格者名簿である「金榜」には「一甲第一名」と記載されている。現在でも中国や台湾、香港では高考などの大学入試での成績最優秀者を状元と称すなど、現代でも生きた中国語として使用されている。.

新しい!!: 翰林院と状元 · 続きを見る »

玄宗 (唐)

宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。 治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。.

新しい!!: 翰林院と玄宗 (唐) · 続きを見る »

科挙

科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.

新しい!!: 翰林院と科挙 · 続きを見る »

翰林図画院

翰林図画院(かんりんとがいん /)は、中国の古い宮廷画家組織で、唐の時代に始まり宋代に最盛期を迎えた。官位が定められ若い画家の教育も行われたことから、中国版の美術アカデミーとみなされることがある 。画院と略称される。 8世紀の唐代には、皇帝が下す詔勅の起草などにあたらせるため学者や文人を擁する官庁「翰林院」が設立されたが(翰は「ふで」の意)、そこには書画や音楽、囲碁に及ぶ学芸に秀でた人材を集めた「伎術院(ぎじゅついん)」が併設されており、はじめ「翰林図画院」は、このうちの書画を担う組織だった嶋田英誠「南宋宮廷の絵画」(嶋田英誠・中澤富士雄「世界美術大全集 東洋編」第6巻、小学館、pp.

新しい!!: 翰林院と翰林図画院 · 続きを見る »

順 (王朝)

順(じゅん、1644年 - 1645年)は、大順(だいじゅん)ともいい、1644年に明朝を倒した李自成が建国を宣言した王朝。一時は現在の内地18省を実効支配し、満洲や新疆東部に羈縻機構を設置した。建国宣言当初は西安を首都と定めていたが、李自成が北京を攻略後、皇帝を称するにあたり北京を改めて首都と定めた。.

新しい!!: 翰林院と順 (王朝) · 続きを見る »

詔勅

詔勅(しょうちょく)とは、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示をいう。広義には憲法や法律などの法規を含むが、狭義には詔書・勅書・勅語など特段の形式を定めていないものをいう。一般には狭義で用いられることが多い。.

新しい!!: 翰林院と詔勅 · 続きを見る »

探花

探花(たんか、満州語:deheli sonjosi)は中国の科挙制度で殿試で、第3位の成績で進士に及第した者の名称。首席及第者の状元、第2位及第者の榜眼と併せて「三鼎甲」「三魁」などと呼ぶ。 当初首席及第者を状元、次席及第者・三位及第者を榜眼と称していた。.

新しい!!: 翰林院と探花 · 続きを見る »

榜眼

榜眼(ぼうがん、ぼうげん、満州語:dahali sonjosi)は中国の科挙制度で殿試で、第2位の成績で進士に及第した者の名称。首席及第者の状元、第3位及第者の探花と併せて「三鼎甲」「三魁」などと呼ぶ。 当初首席及第者を状元、次席及第者・三位及第者を「状元の両眼のごとく左右に分立する」という意味で両者共に榜眼と称し、北宋代末期に至って、次席及第者だけを榜眼とし、第3位及第者は探花と呼ばれるようになった。榜眼の名称は状元、探花と同様、正式名称ではなく慣習として呼ばれていた名称である。科挙合格者名を正式発表する立て札の金傍には「一甲第二名」と記載されている。.

新しい!!: 翰林院と榜眼 · 続きを見る »

殿試

殿試(でんし、満州語:deyen de simnembi)とは、中国の科挙の最終試験で、進士に登第した者が、皇帝臨席の下に受ける試験を言う。試験であるが不合格者は出さず、合格者の最終的な順位を決めるだけのものであった。 宋代より始まったもので、既に進士の地位は得ている者たちの順位がこの最終試験によって決められ、後々の処遇に大きく影響した。 殿試は皇帝自らが行う建前だが、実際には朝廷の大臣が試験官を務めた。これを読巻大臣という。読巻大臣は8名であり、その中には内閣大学士が含まれている。 上位より3名はそれぞれ、第1位が状元、第2位が榜眼、第3位が探花と呼ばれ、高官としての将来が約束された。 皇帝自ら行うため時には皇帝の気まぐれに左右されることもあり、趙翼のようにそれで状元を逃した例もあった。.

新しい!!: 翰林院と殿試 · 続きを見る »

清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

新しい!!: 翰林院と清 · 続きを見る »

満州語

満州語(滿洲語、まんしゅうご、ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ、転写:manju gisun)は、満州族が話すツングース諸語に属する言語。.

新しい!!: 翰林院と満州語 · 続きを見る »

738年

記載なし。

新しい!!: 翰林院と738年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

翰林学士

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »