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第一次緬泰戦争

索引 第一次緬泰戦争

一次緬泰戦争(だいいちじめんたいせんそう)は、1548年にタウングー王朝とアユタヤ王朝の間で起こった、最初の泰緬戦争(たいめんせんそう)である。 タイの歴史においても重要な戦争であり、アユタヤ王朝のシースリヨータイ妃が王の護衛で戦死した話が有名である。タイでは「スリヨータイ妃をなくしてしまった戦争」(สงครามคราวเสียสมเด็จพระสุริโยไท)と呼ばれている。 開戦の引き金となったのは、アユタヤで起きたクーデターの後にタウングーが領土を東へ拡大することが決定され、また北テナセリムへのアユタヤ軍侵攻を阻止しようと試みられたことである。ビルマ史によると、1547年1月にアユタヤ軍がタボイを制圧し開戦されたとされている。同年、サウ・ラガン・エイン (Saw Lagun Ein) 大将率いるタウングー軍が北テナセリムを奪還。翌年、1548年8月にタウングー王朝タビンシュエーティー王と副官バインナウン率いるタウングー侵攻軍三個大隊が、アユタヤ王朝のスリー・パゴダ・パスを貫き侵攻するが、タウングー侵攻軍は難攻不落といわれる首都アユタヤを攻略するまでには至らなかった。タウングー侵攻軍は首都アユタヤを1か月間の包囲攻撃をしかけるが、アユタヤ軍がこの包囲網を突破し、タウングー侵攻軍はマータバンまで押し返された。そこで、タウングーは撤退の安全保障と引き換えに、捕虜にされていたラーメースワン王子と、マハータンマラーチャーティラート王子の返還をするように、アユタヤと交渉した。 この防衛戦の勝利はアユタヤ王朝の15年間の独立をもたらしたが、アユタヤ王朝とタウングー王朝との決着はまだついていない。.

13 関係: マハータンマラーチャーティラートバインナウンラーメースワンプラナコーンシーアユッタヤー郡アユタヤ王朝シースリヨータイスリー・パゴダ・パスタビンシュエーティータニンダーリ地方域タイの歴史タウングー王朝泰緬戦争1548年

マハータンマラーチャーティラート

マハータンマラーチャーティラート(1509年? - 1590年)はタイのアユタヤ王朝の19代目の王。サンペット1世とも言う。スコータイ王朝の末裔であると言われている。.

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バインナウン

バインナウン(Bayinnaung、1516年1月16日 - 1581年10月10日)はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の1人(在位:1550年4月30日 - 1581年10月10日)。バインナウン王は小タイ族の王朝、アユタヤ王朝に何度も攻撃を仕掛けたことがあり、タイの歴史書に頻繁に登場し、タイ語訛のブレーンノーン(Burengnong、)という表記がされることもある。 漢字表記は莽応龍。.

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ラーメースワン

ラーメースワン(Ramesuan、1339年 - 1395年)は、タイのアユタヤ王朝の王の1人。ウートーン家とスパンブリー家の争いのため地位が安定せず、アユタヤ王朝史上唯一、2回も王位に就くことになった王である。ラーメースワンとはアユタヤ王朝初期100年間、皇太子の称号として使われていたものである。父親、ラーマティボーディー1世のもとではロッブリーの王であったが、父が死亡すると皇太子としてその後をついで王になった。クメール遠征ではアンコール・トムの攻略に失敗。スパンブリーの王であったパグワの加勢を得てようやく攻略に成功した。この後、ラーメースワンの権威は失墜し、パグワの権限が高まったため、パグワはアユタヤに登りクーデターを実行した。後にパグワが崩御し、その息子トーンチャンが王位に就くと、ラーメースワンはアユタヤへ登りクーデターを起こし、王位に再び就いた。その治世中にはクメールやチエンマイを攻撃した。.

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プラナコーンシーアユッタヤー郡

プラナコーンシーアユッタヤー郡(プラナコーンシーアユッタヤーぐん、タイ語: อำเภอพระนครศรีอยุธยา )あるいはアユタヤ郡の名前で知られる町は、タイ・中部にある郡(アンプー)である。バンコクの真北約50kmにあるアユタヤ県の県庁所在地でもある。.

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アユタヤ王朝

アユタヤ王朝(1351年 - 1767年)は現タイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪で、5つの王家にわかれる。三番目の王家(1569-1629)は、スコータイ朝の王家の末裔である タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国の富として重要であった。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われた。主に中国への米の輸出で国力を付けたほか、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えた。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けた独自の華やかな文化が開花した。.

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シースリヨータイ

リヨータイの彫像 スリヨータイの彫像 チェーディー・シースリヨータイ(スリヨータイの仏塔) シースリヨータイ(シースリヨータイ王妃、สมเด็จพระศรีสุริโยทัย)、通称・スリヨータイ(スリヨタイ)という人物は、16世紀の現在のタイ王国に存在したアユタヤ王朝のチャクラパット王の妃である。王を守るために戦で命を落としたことで知られる。スリヨータイ王妃の名はバラモン教とヒンドゥー教の太陽神あるいは太陽そのものを意味するスーリヤ(สุริยะ)という言葉と、「夜明け」、「初め」に由来するウタイ(อุทัย)という言葉を掛け合わせた合成語である。.

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スリー・パゴダ・パス

リー・パゴダ・パス(Three Pagodas Pass、ด่านพระเจดีย์สามองค์ - RTGS: Dan Chedi Sam Ong、ဘုရားသုံးဆူ တောင်ကြားလမ်း - パヤトンズー、 三仏峠、三塔峠)はタイのカーンチャナブリー県・サンクラブリー郡とミャンマーのカレン州・の国境地帯となっているテナッセーリム峠にある道のこと。カーンチャナブリー(県庁所在地)から北北西に約230kmにあるサンクラブリーの中心部から更に22キロの地点にある。.

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タビンシュエーティー

タビンシュエーティー王(ビルマ語:တပင်‌ရွှေထီး、1516年4月16日 - 1550年4月30日)はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の一人(在位:1530年11月24日 - 1550年4月30日)。父王・が1503年に手に入れていたの土地がタビンシュエーティーの即位までに国土を潤わしていたため、タビンシュエーティーは即位後その力を存分に発揮し、ビルマ人の代表的な王の一人となった。.

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タニンダーリ地方域

タニンダーリ地方域(—ちほういき、Tanintharyi Division)、旧名テナセリムは、ミャンマーの行政区画である。ミャンマー国土の最南部、北緯15度以南、クラ地峡以北の細長い地域を占める。西はアンダマン海、東と南はタイのマレー半島部、北はモン州に接する。区都はダウェイ(旧称: タヴォイ)。他の主要都市はミェイク(旧称「メルギー」、Mergui - メルグイとも)及びタイとの国境の町(「ビクトリア・ポイント」としても知られる)である。 4万3328キロメートルの領域をもち、1983年の国勢調査における人口は91万7628人。地方域の ISO 3166-2 コードは、MM-05である。.

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タイの歴史

タイの地勢図 タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国の歴史を時代ごとに述べる。.

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タウングー王朝

タウングー王朝(タウングーおうちょう、Triều Taungoo)は、14世紀頃から1752年まで存在したビルマ人の王朝である。.

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泰緬戦争

泰緬戦争(たいめんせんそう)は、タイ王国とミャンマーの戦争である。.

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1548年

記載なし。

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