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絵画館 (ベルリン)

索引 絵画館 (ベルリン)

絵画館(かいがかん、Gemäldegalerie)は、ドイツのベルリンにある美術館。ベルリン美術館を構成する美術館の一つで、ポツダム広場の西、ティーアガルテン地区の文化フォーラム(Kulturforum)に位置している。13世紀から18世紀のヨーロッパ諸国の芸術品の収蔵では世界有数の美術館であり、所蔵されているコレクションには、アルブレヒト・デューラー、ルーカス・クラナッハ、ヤン・ファン・エイク、ラファエロ、ティツィアーノ、カラヴァッジオ、ピーテル・パウル・ルーベンス、レンブラント、ヨハネス・フェルメールら巨匠の名作が含まれている。絵画館は1830年に開館し、その後1998年に新築された。.

39 関係: ペトルス・クリストゥスミュンヘンミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオバロック絵画ポーランドポーランド分割ポツダム広場ムゼウムスインゼルヤン3世 (ポーランド王)ヤン・ファン・エイクヨハネス・フェルメールラファエロ・サンティルーカス・クラナッハルストガルテンレンブラント・ファン・レインヴァーサ王朝ボーデ博物館ピーテル・パウル・ルーベンスピーテル・デ・ホーホティツィアーノ・ヴェチェッリオディエゴ・ベラスケスフラ・アンジェリコフリードリヒ2世 (プロイセン王)フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)ドイツベルリンベルリンの壁ベルリン王宮ベルリン美術館アルブレヒト・デューラーウンター・デン・リンデンコレッジョスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキサンドロ・ボッティチェッリ第二次世界大戦絵画館若い女の肖像 (ペトルス・クリストゥスの絵画)愛の勝利教会の聖母子

ペトルス・クリストゥス

絵画館(ベルリン) ペトルス・クリストゥス (Petrus Christus, 1410年/1420年 - 1475年/1476年)は、1444年からブルッヘで活動した初期フランドル派のオランダの画家。.

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ミュンヘン

ミュンヘン(München,, バイエルン語: Minga)は、イーザル川河畔にありバイエルンアルプスの北側に位置する都市。ドイツの連邦州であるバイエルン州最大の都市であり、同州の州都でもある。.

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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、バロック期のイタリア人画家。 ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られ、1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた。.

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バロック絵画

バロック絵画(バロックかいが)は、16世紀末から18世紀なかばの西洋芸術運動であるバロック様式に分類される絵画。バロックは絶対王政、カトリック改革、カトリック復興などと深い関連があり、ときには一体化したものと見なされることもあるが, from Encyclopædia Britannica Online, latest edition, full-article.

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ポーランド

ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、Rzeczpospolita Polska)、通称ポーランドは、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合 (EU)、北大西洋条約機構 (NATO) の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。 北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。 10世紀に国家として認知され、16世紀から17世紀にかけヨーロッパで広大な国の1つであったポーランド・リトアニア共和国を形成。18世紀、4度にわたり国土が隣国によって分割され消滅。 第一次世界大戦後、1918年に独立を回復したが、第二次世界大戦時、ナチス・ドイツとソビエト連邦からの事前交渉を拒否し両国に侵略され、再び国土が分割された。戦後1952年、ポーランド人民共和国として国家主権を復活、1989年、民主化により共和国となった。冷戦時代は、ソ連の影響下に傀儡政権の社会主義国とし最大で最も重要なソ連の衛星国の一国となり、政治的にも東側諸国の一員となった。国内及び東側諸国の民主化とソ連の崩壊と東欧革命を経て、「中欧」または「中東欧」として再び分類されるようになっている。.

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ポーランド分割

ポーランド分割(ポーランドぶんかつ、Rozbiór Polski・Rozbiory Polski、Lietuvos-Lenkijos padalijimai、Падзелы Рэчы Паспалітай、)は、18世紀に、ポーランド・リトアニア共和国の領土が3度にわたって周囲の3つの大国に奪われ、最終的に完全に領土を失って滅亡したことを指す歴史用語。その後、ウィーン会議により改めて4度目の分割も行われた。.

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ポツダム広場

ポツダム広場の周りに放射状に広がるビル群。右上の八角形の広場はライプツィヒ広場 ポツダム広場(ポツダムひろば、Potsdamer Platz)は、ドイツの首都ベルリンのミッテ区にある主要な広場で、また交差点でもある。 広場の名は近郊都市のポツダムにちなむ。19世紀初頭までは、ポツダムからベルリンを結ぶ街道がここでベルリン市を取り囲む都市城壁(Zollmauer)に設けられた関税門「ポツダム門」をくぐっており、門の外は各方面からの街道が集まる交差点になっていた。これが現在のポツダム広場に当たる。1838年、ベルリンとマクデブルクを結ぶ鉄道のポツダム駅が設けられると、ポツダム広場はベルリンの市内交通の中心地へと変貌していった。20世紀初頭にはベルリン市電の路線が集まるほか、周囲にはホテルやカフェが立ち並んだ。.

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ムゼウムスインゼル

ムゼウムスインゼル(Museumsinsel)はドイツの首都ベルリンの観光スポット。南北に流れるシュプレー川の中州にて、ブランデンブルク門から東に伸びるウンター・デン・リンデン街を境とする北半分の地区を指す。ベルリン美術館(Staatliche Museen zu Berlin)を構成する5つの博物館・美術館が集まっている事より「博物館島」と呼ばれる。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。.

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ヤン3世 (ポーランド王)

ヤン3世ソビェスキ(ポーランド語:Jan III Sobieski, 1629年8月17日 - 1696年6月17日)は、ポーランド王(在位:1674年 - 1696年)。オスマン帝国との戦いで活躍し、1683年の第二次ウィーン包囲で勝利して英雄として名を馳せた。「ソビェスキ」は「ソビエスキ」とも表記する。女優のリーリー・ソビエスキーは彼の子孫に当たる。。.

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ヤン・ファン・エイク

ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck、1395年頃 - 1441年7月9日)は、初期フランドル派のフランドル人画家。 主にブルッヘで活動し、15世紀の北ヨーロッパでもっとも重要な画家の一人と見なされている。 わずかに残る記録から、ファン・エイクは1390年ごろの生まれで、おそらくマースエイク出身だと考えられている。ファン・エイクの幼少期についてはほとんど伝わっていないが、ブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた1425年ごろからの記録は比較的整理されて残っている。フィリップ3世の宮廷に出仕する以前は、エノー、ホラント、ゼーラントを支配していたバイエルン公ヨハン3世に仕えていた。当時のファン・エイクはすでに自身の工房を経営しており、ハーグのビネンホフ城の再装飾の仕事に従事していたこともある。1425年ごろにブルッヘへと移住したファン・エイクはフィリップ3世に認められ、宮廷画家、外交官としてその宮廷に仕えるようになった。その後、トゥルネーの画家ギルドの上級メンバーに迎えられ、ロベルト・カンピンやロヒール・ファン・デル・ウェイデンといった、初期フランドル派を代表する画家たちと親交を持った。.

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ヨハネス・フェルメール

フェルメールのサイン デルフトに現存する居住跡を示すプレート ヨハネス・フェルメール(, 1632年10月31日- 1675年12月15日)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト。.

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ラファエロ・サンティ

ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、 1483年4月6日 - 1520年4月6日)は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。一般的には単にラファエロと呼ばれ、日本ではラファエッロ、ラファエルロ、ラファエル(Raphael)などという表記ゆれが見られる。ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている。 ラファエロは異例なほどに大規模な工房を経営しており、37歳という若さで死去したとは考えられないほどに多数の作品を制作した。多くの作品がヴァチカン市国のヴァチカン宮殿に残されており、とくに「ラファエロの間」と総称される4部屋のフレスコ画は、ラファエロの最盛期作品における最大のコレクションとなっており、もっとも有名な作品の一つの『アテナイの学堂』も「ラファエロの間」のうち「署名の間」と呼ばれる部屋のフレスコ壁画である。ローマでの活動時代初期に描かれた作品の多くは、デザインこそラファエロのものだが、下絵以外の大部分は工房の職人が手がけたもので、ラファエロが最後まで自身で手がけたものよりも品質の面で劣るといわれている。ラファエロは存命時から高い評価を受けた影響力の高い芸術家だったが、ローマ以外の地ではラファエロの絵画やドローイングをもとにした版画でよく知られていた。ラファエロの死後、年長だが長命を保ったミケランジェロの作品が18世紀から19世紀にいたるまで西洋絵画界により大きな影響を与え続けたが、ラファエロの穏やかで調和に満ちた作品も非常に優れた模範的作風であると評価されていた。 マニエリスム期の画家、伝記作家ヴァザーリの著作『画家・彫刻家・建築家列伝』の記述を嚆矢として、ラファエロのキャリアは3期に大別されることが多い。ウルビーノで活動していたキャリア初期、フィレンツェの伝統的絵画の影響が見られる1504年から1508年にかけての4年間、そして死去するまでの二人のローマ教皇とその側近に緊密な後援を受けていたローマでの輝ける12年間である。.

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ルーカス・クラナッハ

ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach der Ältere、1472年10月4日 クローナハ、オーバーフランケン - 1553年10月16日、ヴァイマル)は、ルネサンス期のドイツの画家。同名の息子も画家であるため、ルーカス・クラナッハ (父) と表記されることが多い。クラナハ、クラーナハとも表記される。.

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ルストガルテン

地図 国家評議会ビル。この正面全面にベルリン王宮が建っていた ルストガルテンのパノラマ。左から旧博物館、ベルリン大聖堂、共和国宮殿(王宮跡) ルストガルテン(Lustgarten)は、ドイツの首都ベルリンの中心部、博物館島(ムゼウムスインゼル)にある庭園。周囲にはベルリン美術館の一部である旧博物館(アルテス・ムゼウム)やベルリン大聖堂が建つ。南側にはベルリン王宮の跡地があるが、かつてはルストガルテンは王宮の庭園であり、その後は閲兵場・大集会場・公園などに使われてきた。 「Lustgarten」は「遊歩庭園」(散策庭園)の意味で、ドイツ各地にルストガルテンと名のつく庭園が残っている。.

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レンブラント・ファン・レイン

レンブラント像(レンブラント広場にて) レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn 、1606年7月15日 - 1669年10月4日)は、ネーデルラント連邦共和国(現在オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の一人である。レンブラント(Rembrandt)の通称で広く知られ、大画面と、光と影の明暗を明確にする技法を得意とした。.

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ヴァーサ王朝

ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国(1523年 - 1654年)、およびポーランド・リトアニア共和国(1587年 - 1668年)の王朝。一時はロシア・ツァーリ国も支配した(1610年 – 1613年).

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ボーデ博物館

1904年当時のボーデ博物館 ボーデ博物館(ボーデはくぶつかん、Bode-Museum) はドイツ・ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)にある博物館。建築家エルンスト・ フォン・イーネによるデザインで、1904年に完成した歴史的建造物でもある。完成当時はドイツ皇帝フリードリヒ3世にちなんでカイザー=フリードリヒ博物館と呼ばれていたが、初代キュレータを務めたに敬意を表して1956年に現在の名前に変更された。 ボーデ博物館は改修工事のために1997年にいったん閉館し、2006年10月18日に再開館した。現在のボーデ博物館は、彫刻、ビザンティン美術品、コイン、メダルが主な収蔵品となっている。 彫刻のコレクションは東方教会、とくにエジプトのコプト正教会関連のものが所蔵され、ビュザンティオンやラヴェンナから収集した中世イタリアゴシック期、初期ルネサンス期の彫刻がある。また、後期ドイツゴシックの作品もドイツ南部の彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーや、18世紀プロイセンのバロック彫刻が所蔵されている。ベルリン美術館の絵画館に所蔵されている優れた絵画も、ボーデ美術館の彫刻コレクションに統合される予定になっている。これはボーデの構想だった「スタイル・ルーム」によるもので、中流階級以上のプライベートコレクションに所蔵されていたときと同様に、彫刻、絵画、工芸品は同じ場所に展示されるべきであるとするボーデの信念に基づいている。 同じく博物館島に位置するペルガモン博物館に現在収蔵されている「コイン・キャビネット (Münzkabinett)」は学問的に見ても世界有数のコレクションの一つである。紀元前7世紀の小アジアで最初に鋳造されたコインから現在のコインまで、さまざまな時代のコインが所蔵されている。およそ50万点にのぼる膨大なコインのコレクションは、歴史研究における貴重な資料であり、同時に非常に重要な芸術品でもある。.

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ピーテル・パウル・ルーベンス

ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens 、1577年6月28日 - 1640年5月30日)は、バロック期のフランドルの画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残した。日本語ではペーテル・パウル・リュベンス、ピーテル・パウル・リュベンスなどと表記する場合もある。 ルーベンスはアントウェルペンで大規模な工房を経営し、生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。またルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家でもあり、さらに七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けている。.

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ピーテル・デ・ホーホ

ピーテル・デ・ホーホ(Pieter de Hooch、HooghないしHoogheとも、1629年12月20日(洗礼日) - 1684年3月24日(埋葬日))は、17世紀のオランダの画家。オランダ全盛時代(「黄金時代」)の風俗画家の一人に数えられ、とくにデルフト時代の風俗画はデルフト派の絵画として高く評価されている。ヨハネス・フェルメールとほぼ同時代を過ごし、フェルメールの作品にも影響を与えていることでも知られる。.

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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio、1488年/1490年頃 - 1576年8月27日)は、盛期ルネサンスのイタリア人画家。ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊のピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれ、その生誕地から「ダ・カドーレ (da Cadore)」と呼ばれることもあった。 ティツィアーノは同時代の人々からダンテ・アリギエーリの著作『神曲』からの引用である『星々を従える太陽』と呼ばれていた。肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、ヴェネツィア派でもっとも重要なイタリア人画家の一人となっている。ティツィアーノの絵画技法は筆使いと色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた。 ティツィアーノは長命な画家で、その作風は年代とともに大きく変化しているが、その生涯を通じて独特の色彩感覚は変わることがなかった。円熟期のティツィアーノの絵画は色鮮やかとはいえないものもあるが、初期の作品の色調は明るく、奔放な筆使いと繊細で多様な色使いは、それまでの西洋絵画に前例のない革新的なものだった。.

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ディエゴ・ベラスケス

ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599年6月6日(洗礼日) - 1660年8月6日)はバロック期のスペインの画家。エドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である。.

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フラ・アンジェリコ

フラ・アンジェリコまたはベアート・アンジェリコ(Fra' Angelico / Beato Angelico、1390年 / 1395年頃 - 1455年2月18日)は初期ルネサンス期のイタリア人画家。本名はグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) で、フラ・アンジェリコは「修道士アンジェリコ」を意味する通称であり、「アンジェリコ」は「天使のような人物」という意味である。同時代の人々からは「フィエーゾレの修道士ジョヴァンニ」を意味するフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前でも知られていた。 フラ・アンジェリコは15世紀前半のフィレンツェを代表する画家で、イタリアでは存命時に「福者アンジェリコ」を意味するベアート・アンジェリコとも呼ばれており、これはフラ・アンジェリコが宗教的モチーフを題材とした絵画を描く才能に優れていたことに由来していた。1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世がフラ・アンジェリコを福者に認定したことにより、名実ともに「ベアート・アンジェリコ(福者アンジェリコ)」となった。「フィエーゾレ」はフラ・アンジェリコの本名の一部だと誤解されることもあるが、単にドミニコ修道会に誓願を立てた場所の町名に過ぎず、他に同名のジョヴァンニという修道士がいたことから、二人を区別するために使用されただけである。ローマカトリック教会殉教者名簿 (en:Roman Martyrology) には「福者ジョヴァンニ・フィエーゾレ、愛称アンジェリコ Beatus Ioannes Faesulanus, cognomento Angelicus」という名前で記載されている。 ジョルジョ・ヴァザーリはその著書『画家・彫刻家・建築家列伝』でフラ・ジョヴァンニ・アンジェリコという名前で記述し、「まれに見る完璧な才能の持ち主Giorgio Vasari, Lives of the Artists.

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フリードリヒ2世 (プロイセン王)

フリードリヒ2世(Friedrich II.

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フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)

フリードリヒ・ヴィルヘルム(1652年) フリードリヒ・ヴィルヘルム(1650年) フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm, 1620年2月16日 - 1688年5月9日)は、ブランデンブルク選帝侯及びプロイセン公(在位:1640年12月1日 - 1688年5月9日)。プロイセン公国をポーランド支配から解放し、フェールベリンの戦いなどに勝利して領内からスウェーデン勢力を駆逐したため、大選帝侯(der große Kurfürst)と称えられる。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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ベルリン

ベルリン(Berlin 、伯林)は、ドイツ北東部、ベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の中心に位置する都市である。16ある連邦州のうちの一つで、市域人口は万人とドイツでは最大の都市で欧州連合の市域人口ではロンドンに次いで2番目に多く、都市的地域の人口は7番目に多い。同国の首都と定められている。.

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ベルリンの壁

東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁。(1961年11月20日) ベルリンの壁(ベルリンのかべ、Berliner Mauer)は、第二次大戦後に東西に分割された敗戦国ドイツの首都ベルリンで、東ドイツ(ドイツ民主共和国)によって、1961年夏に突然、西ベルリンの周囲を取り囲む形で建設された壁である。 1949年に東西ドイツが成立し、東西間の国境が閉鎖されたが唯一ベルリンでは東西の往来が自由であった。そして東ドイツの人々は西ベルリンから西ドイツへ逃れていた。しかし相次ぐ西側への人口流出が東ドイツに深刻な影響を及ぼしたことから、1961年8月13日に突然東ドイツが東西ベルリン間の通行を全て遮断し、西ベルリンの周囲を全て有刺鉄線で隔離して、後にコンクリートの壁を作った。西ベルリンを東ドイツから隔離して西ベルリンを封鎖する壁であったが、実質的には東ドイツを外界から遮断し自国の体制を守る壁であったのが「ベルリンの壁」である。 このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命に伴う東ドイツ国内の混乱の中、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、その日の夜に壁の前に多くの東ベルリン市民が押しかけて国境検問所のゲートが開き、数万人の市民が西ベルリンに入った。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。.

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ベルリン王宮

1920年代のベルリン王宮西面。中央の門がエオザンダー門 かつてのベルリン王宮の位置(薄い赤)。灰色は現在の建物の配置 ベルリン王宮(ベルリンおうきゅう、Berliner Stadtschloss)は、かつてドイツの首都ベルリンの中心部にあった宮殿。1701年からはプロイセン王国国王の、1871年からはドイツ帝国皇帝の居城であった。 1918年のドイツ革命で君主制が滅びて以来、王宮は博物館として利用されてきたが、1945年の英米軍の空襲で焼失し、その廃墟は1950年にドイツ民主共和国(東ドイツ)政府によって取り壊された。 しかしドイツ再統一以来ベルリン王宮の再建が提案され続け、2013年から再建工事が本格的に始まった。王宮の外観を復元した新しい複合文化施設の名称は、「フンボルトフォーラム」(Humboldtforum)となる予定である。.

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ベルリン美術館

ベルリン・旧博物館 ベルリン美術館 (Staatliche Museen zu Berlin) は、ドイツのベルリンにある美術館・博物館群である。プロイセン王家歴代のコレクションを基礎として1830年に発足した「旧博物館」がその発祥であり、以後、コレクションが増大するにつれ、新たな博物館が次々に建てられた。「ベルリン美術館」とは、単独の美術館ではなく、市内の「博物館島」(ムゼウムスインゼル)、ティアガルテン地区、ダーレム地区などに存在する多くの美術館の総称である。原語のStaatliche Museen zu Berlinは、「ベルリンの国立博物館群」の意である。日本語では、1991年にNHKの特別番組「ベルリン美術館-もう一つのドイツ統一」が放送されるなど、「ベルリン美術館」が美術館・博物館群全体を指す場合の一般的な表記となっている。.

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アルブレヒト・デューラー

アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471年5月21日 - 1528年4月6日)は、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。同名の父・アルブレヒトは、ハンガリーからドイツ南部に移住してきたマジャル人金銀細工師である。.

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ウンター・デン・リンデン

ウンター・デン・リンデンの並木道の秋景色 ウンター・デン・リンデン (Unter den Linden) はドイツ・ベルリンの大通りの一つである。ウンター・デン・リンデンとは「菩提樹の下」の意味で、その名の通り菩提樹の並木道を満喫することができる。通りの中央に散策路があり、ベンチも置かれている。ブランデンブルク門からプロイセン王宮までの短い通りであるが、沿道にはベルリンの興隆を示す多くの歴史的建造物が建ち並んでいる。中黒を付けずにウンターデンリンデンと表記することもある。.

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コレッジョ

『聖ヒエロニムスのいる聖母』 1527-28 パルマ国立美術館蔵 『ダナエ』 1530頃 ボルゲーゼ美術館(ローマ)蔵 アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ(, 1489年頃–1534年)は、ルネサンス期のイタリアの画家。.

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スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ

タニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(Stanisław August Poniatowski, 1732年1月17日 - 1798年2月12日)は、ポーランド・リトアニア共和国の最後の国王(在位:1764年 - 1795年)。スタニスワフ2世アウグスト()とも呼ばれる。.

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サンドロ・ボッティチェッリ

ンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli, 1445年3月1日? - 1510年5月17日)は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェ生まれの画家で、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ (Alessandro di Mariano Filipepi) といい、ボッティチェッリは兄が太っていたことから付いた「小さな樽」という意味のあだ名である。ボッティチェルリ、ボッティチェリ、ボティチェリ、ボティチェッリなどと表記されることもある。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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絵画館

絵画館(かいがかん、ピナコテーク)とは、美術館、博物館のなかでも絵画の展示を中心とする、もしくは絵画に特化しており、絵画館を正式名称としている美術館。.

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若い女の肖像 (ペトルス・クリストゥスの絵画)

『若い女の肖像』(わかいおんなのしょうぞう(Portret van een Jong Meisje、Bildnis einer jungen Dame))は、初期フランドル派の画家ペトルス・クリストゥスが描いた肖像画。クリストゥスが完成させた最後期の作品の一つでUpton, p.30、現在はベルリンの絵画館が所蔵している。オーク板に油彩で描かれた板絵であり、1460年以降、おそらく1470年ごろの作品ではないかと考えられている。小さな肖像画だが、クリストゥス独自の作風と初期フランドル派が発展させた肖像画様式の両方が見られる作品で、描かれている背景はそれまでの肖像画に見られた単色で塗りつぶされた平坦なものではなく、三次元表現で描かれた写実的な背景となっている。さらに描かれている少女は生気に欠け、控えめな視線をこちらに投げかけているにも関わらず、観るものにほとんど不機嫌とも感じられる印象を与えるVan Der Elst, p.69。そして、少女の意味ありげな雰囲気は、高さの異なる目によってさらに強いものとなっている。『若い女の肖像』は一世代前の初期フランドル派の巨匠であるロベルト・カンピン、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの肖像画をさらに発展させた作品で、後世にも大きな影響を与え続けた。 『若い女の肖像』はフィレンツェのメディチ家が購入した絵画で、「フランスの女性の頭部が油彩で彩色された小さな板絵で、ブルッヘのピエトロ・クレッチ (Pietro Cresci) の作品である」というメディチ家の文書が残っている。この文書には描かれている少女が誰であるかは記録されていないことから、この絵画を購入したメディチ家は、作品の歴史的価値よりも美学的価値を重要視していたと考えられている。その後、ベルリン在住の商人で有数のイタリア絵画や初期フランドル絵画の収集家だったエドワード・ソリー (en:Edward Solly) の所有となり、1821年にプロイセンの王室コレクションに買い上げられた。 磁器のような硬質の皮膚感、アーモンド形で東洋人のようにも見える目、不機嫌に結ばれた口元をした少女の上半身を描いた肖像画である。描かれている少女について、イングランドの貴族タルボット家の一員で、第2代シュルーズベリー伯ジョン・タルボットの娘であるアンかマーガレットだという言い伝えがある。この言い伝えが正しければ、ジョン・タルボット夫妻は1444年ないし1445年に結婚していることから、描かれている少女の年齢は10歳から20歳くらいではないかと推察されている。この少女が、1468年にイングランド王エドワード4世の妹マーガレットとブルゴーニュ公シャルルとの結婚式のときに、ブルッヘへと旅してクリストゥスに肖像画を描かせた可能性もある。 美しい衣装と宝飾品を身につけた少女は、この上なく優雅さに満ちている。胸から上だけを描くことによって少女の頭部と精緻な絵画表現にのみ視線を集め、画家、モデル、依頼主、そして観るものの一体感の形成を試みている。クリストゥスは少女を斜め前を向いた、こちらを凝視している構図で描いているが、批評家や美術史家のなかには、少女が神経質になっている自分を意識しているのではないかと指摘するものもいる。批評家ジョエル・アプトンはこの少女のことを「磨き上げた真珠のようなオパール色の肌をしており、今にも黒いベルベットのクッションに倒れこみそうだ」と表現した。 クリストゥスは硬質で平衡状態の、ほとんど建築物的ともいえる構成をした、細長い三角形の構図で少女を描いている。背景の壁はほぼ平らで、少女が着用するドレスの襟元の逆三角形がえがく直角と、少女の首筋、顔、頭飾りに見られるまっすぐな直線とが、この作品の構成を大きく分けている。描かれている背景はそれまでの肖像画の慣例である、単色のみに塗りつぶされた平面ではない。異なる素材で構成された境界を持つ壁で、下側は木が用いられた写実的なものとなっており、映る少女の影から壁と少女の距離感が分かる。この作品では少女が何が描かれているのか見分けがつく室内に位置しており、少女が自宅にいるかのような自然さを描き出している。 少女は左側からの灯りに照らし出され、右側の壁に自身のぼんやりとした影を投げかけている。この影が少女の頬と髪の生え際の明確に描かれた輪郭との対比の役割を果たしている。頭飾りの尾部の曲線は、少女の首と肩の曲線をなぞって描かれている。この頭飾りは、ファン・デル・ウェイデンの『女性の肖像』にも描かれている、当時のブルゴーニュ公領で流行していた頭飾りのエナン (en:Hennin)を切り詰めたものかも知れない。『若い女の肖像』に描かれた頭飾りと非常によく似た形状の帽子を被った女性が描かれた、ハンス・メムリンクの作品ではないかといわれていた『キリスト奉献』が、ワシントンのナショナル・ギャラリーに所蔵されている。.

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愛の勝利

『愛の勝利』(ラテン語:Amor Vincit Omnia(「愛は全てを征服する」の意)、Amore Vittoriosoなどの名でも知られる)は、バロック期のイタリアの画家、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571年 - 1610年)によって描かれた絵画。現在はドイツ、ベルリンの絵画館が所蔵している。 カラヴァッジョはこの絵画を1601年から1603年にかけて、ローマでもっとも裕福な人物の一人、ヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯のために製作した。この時期には、カラヴァッジョは次第に教会のために製作することに情熱を傾けるようになっており、この作品は個人的なパトロンのために製作された最後の世俗的な作品群の一つである。.

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教会の聖母子

『教会の聖母子』(きょうかいのせいぼし(Madonna in de kerk、Madonna in der Kirche))、または『教会の聖母』(きょうかいのせいぼ)は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1438年から1440年ごろに描いたといわれている絵画。オーク板に油彩で描かれた板絵で、ゴシック様式の聖堂内で幼児キリストを抱く聖母マリアをモチーフとした小作品である。貴石をちりばめた宝冠を被るマリアが腕に抱く幼児キリストをあやし、キリストはマリアを見つめながらマリアの衣服の胸元を握りしめている。13世紀の伝統的なビザンチン様式のエレウサのイコンを思わせる衣装を身につけたマリアは、この作品では天界の女王として描かれている。 背景の身廊にあるアーチ状の飾り格子にはマリアの生涯を表現した木製彫刻が描かれており、壁龕には同じようなポーズで幼児キリストを抱くマリアの彫刻が見える。ドイツ人美術史家エルヴィン・パノフスキーは、背景の彫刻からマリアとキリストが生身となって抜け出てきたような構図になっているとしているHarbison (1995), 99。画面右の入り口には、賛美歌集を手にして賛美歌を歌う二人の天使が描かれている。聖母マリアを表現したビザンチン美術作品の多くと同じく、ヤン・ファン・エイクも『教会の聖母子』でマリアを非常に大きな象徴的人物像として描いた。さらにヤン・ファン・エイクは、教会の窓から降りそそぐ光を入念に描いている。きらめくように室内を照らし出し、マリアの背後の床に二箇所のスポットを作り出す光の描写が、マリアの処女性と神の恵みを表現しているのであるSmith, p.64。 多くの美術史家が、『教会の聖母子』はもともと2枚の板で構成されていたディプティクの左パネルであり、現存していない右パネルには、依頼主の肖像画 (en:donor portrait) が描かれていたのではないかとしている。ヤン・ファン・エイクとほぼ同時代人の「1499年の画家」(en:Master of 1499) と呼ばれる画家とヤン・ホッサールトが描いたと言われる、『教会の聖母子』を複製したディプティクが二点現存しているが、それぞれの右パネルに描かれている内容は全く異なっている。1499年の画家のヴァージョンの右パネルには室内でひざまずいて祈りを捧げる依頼主が描かれており、伝ホッサールトのヴァージョンには屋外で聖アントニオスとともに祈る依頼主が描かれている。どちらの複製もヤン・ファン・エイクのオリジナルに大きな修正を加えており、より新しいスタイルの作品に仕上がっている。ただし、両作品ともに「オリジナルが持つ宗教的美しさは完全に失われている」といわれているKoch (1967), p.48.

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