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統葉護可汗

索引 統葉護可汗

統葉護可汗(漢音:とうようこかがん、拼音:Tŏngyèhùkĕhàn、? - 628年)は、西突厥の可汗。射匱可汗の弟。統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。.

62 関係: 南コーカサス太宗 (唐)宇文化及射匱可汗山田信夫 (歴史家)平凡社佐口透ペルシアハザールヨーロッパ史トビリシトゥースピン音デルベントニネヴェの戦い (627年)アルメニアイスラーム教徒のペルシア征服エスファハーンカルルクカガンケイ賓セルゲイ・グリゴリエヴィチ・クリャシュトルヌィタシュケントサーサーン朝獅子称号突厥竇建徳義成公主烏孫莫賀咄侯屈利俟毘可汗頡利可汗西域西突厥首都高昌護雅夫貞観 (唐)麹伯雅阿史那氏肆葉護可汗鉄勒李淵条支国東ローマ帝国東突厥武徳漢音新唐書...旧唐書1972年618年619年620年622年626年627年628年629年633年644年 インデックスを展開 (12 もっと) »

南コーカサス

南コーカサス(みなみコーカサス)あるいはザカフカジエ(ロシア語:,ラテン文字転写例: Zakavkazʹe)は、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア(グルジア)の3国の総称。ロシア語としては不正確だがザカフカス、ザカフカース、南カフカスとも。また英語ではトランスコーカシア ()またはトランスコーカサス()。 ザカフカジエ、トランスコーカシア(トランスコーカサス)との呼称は、それぞれロシア語・ラテン語で「コーカサス山脈の向こう側」という意味であり、北のロシア側から見た呼称であるため、「向こう側」とは「南側」を意味する。この呼称はモスクワ中心の考えであることから、近年、日本の文献では避けられる傾向がある。なお、厳密にはロシアのソチ周辺は南側、アゼルバイジャンのダヴァヒ県・クバ県・クサル県・シヤザン県・ハヒマズ県・ヒジ県は北側に位置する。 北はロシア、南はトルコとイラン、西は黒海、東はカスピ海に囲まれる。ヨーロッパではなくアジアに属するが、長くソビエト連邦領だったこともあり、西アジアや中東には含めないことが多い。 コーカサスはコーカサス山脈周辺の地域をさすが、その南部を占める。しばしば、ザカフカジエとの呼称で単にカフカース、コーカサスを指すこともあるが、文脈によって(特にロシアに関する話題で)は北コーカサスを意味することも多いので注意を要する。.

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太宗 (唐)

太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。 広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。.

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宇文化及

宇文 化及(うぶん かきゅう)は隋の政治家、軍人。隋末の混乱期に独立して皇帝を僭称し許を建国した。宇文智及、宇文恵及の兄、宇文士及の異母兄。.

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射匱可汗

射匱可汗(漢音:しゃきかがん、拼音:Shèkuìkĕhàn、? - 619年頃)は、西突厥の可汗。都六(トゥルク)の子で、達頭可汗の孫、曷薩那可汗の諸父(『旧唐書』では曷薩那可汗の叔父)。姓は阿史那氏。.

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山田信夫 (歴史家)

山田 信夫(やまだ のぶお、1920年2月17日 - 1987年4月26日)は、日本の東洋史学者。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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佐口透

佐口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 - 2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。.

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ペルシア

ペルシア、ペルシャ(ギリシャ語 Περσία)は、現在のイランを表す古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。.

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ハザール

ハザール(突厥文字:、Khazar、ヘブライ文字:הכוזרים)は、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されている。交易活動を通じて繁栄した。アラビア語、ペルシア語資料では خزر Khazar と書かれている。日本語ではハザル、ハザリア、ホザールあるいはカザールと表記されることもある。.

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ヨーロッパ史

西暦814年頃のヨーロッパ ヨーロッパ史(ヨーロッパし)とは、ヨーロッパにおける歴史である。欧州史(おうしゅうし)とも呼ばれる。.

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トビリシ

トビリシ(グルジア語: თბილისი, Tbilisi 、略称TBS)は、ジョージア国(グルジア)の首都。ときにティフリス(Tiflis)とも呼ばれる。トビリシとは「あたたかい」を意味するトビリに由来し、温泉と関係あるとされている。元史には梯弗里斯とも呼ばれる。人口は約110万人。 ジョージア国東部、クラ川の河畔に広がる。三方を山や小高い丘に囲まれている。.

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トゥース

トゥース (توس or طوس, ラテン文字: Tus, Tous, Toos or Tūs) は、イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州にあった都市。.

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ピン音

(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.

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デルベント

デルベント(Derbent)は、ロシア・ダゲスタン共和国にある都市である。ロシア最南端の都市であり、ダゲスタン共和国第2の都市でもある。人口は101,031人(2002年国勢調査)である。アゼルバイジャン人が最も多く、:en:Lezgins、:en:Tabasaran peopleがそれに続く。 アレクサンドロスの門(en)の伝説が残る都市であり、デルベントはロシア最古の都市と言われる。2003年にUNESCOの世界遺産に「デルベントのシタデル、古代城壁、要塞建築物群」の名前で登録された。.

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ニネヴェの戦い (627年)

ニネヴェの戦い(Ἡ μάχη τῆς Νινευί)は、627年にニネヴェで、東ローマ軍とサーサーン朝ペルシアとの間に起きた戦い。東ローマ・サーサーン戦争 (602年-628年)の天王山となった。この戦いに東ローマ軍が勝ちペルシアが内乱状態に陥ったことで、東ローマ帝国は中東での領土を最盛期の範囲にまで回復した。しかし、間もなくアラビア半島で誕生した正統カリフ勢力が急速に勃興してきたため、帝国は再び滅亡の縁に立たされることになる。.

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アルメニア

アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。.

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イスラーム教徒のペルシア征服

イスラーム教徒のペルシア征服は、イスラーム共同体がサーサーン朝ペルシア帝国を征服し、その領土を支配するに至った一連の戦争をさす。.

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エスファハーン

ファハーン(اصفهان; Eṣfahān) は、イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する『西アジア』、108頁。日本語では、慣例的にイスファハン、イスファハーンとも表記される。 古くからの政治・文化・交通の拠点であり蒲生「イスパハーン」『アジア歴史事典』1巻、168頁、16世紀末にサファヴィー朝の首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分(Esfahān nesf-e jahān ast、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され20世紀のイランの作家サーデグ・ヘダーヤトは、1932年に同名の紀行文『エスファハーンは世界の半分』を発表した。(『事典 イスラームの都市性』、59頁)、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる。 町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建設した新市街で構成される。有名なイマーム・モスク(王のモスク1979年のイラン革命でパフラヴィー朝が崩壊した後、王(シャー)という言葉の使用が禁止されたため、王のモスクはイマーム・モスク、王の広場はイマーム広場に改称された。(宮田『物語イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、83-84頁))などがある新市街のイマーム広場(王の広場)は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。 町の住人は出費に厳しい「倹約家」「吝嗇家」として良くも悪くも有名であり、他の地域の人間からは敬遠されることがある『西アジア』、111頁。イランでは「エスファハーンはいいところだ。エスファハーン人さえいなければ」という住民を揶揄する言葉も知られている上岡『イラン』、291-293頁。また、エスファハーンの人間は訛りが強いことでも知られ、言葉を聞いただけで容易に出身地が判別できるほどだと言われる。.

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カルルク

ルルク(古代テュルク語:12px12px12px12px、Qarluq)とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄,葛邏禄,葛禄と記し、ペルシャ語ではخَلُّخ (Khallokh)、アラブ語では قارلوق (Qarluq)と記された。.

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カガン

ン(古テュルク語: qaγan、漢語:可汗、可寒)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa'an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。.

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ケイ賓

紀元前1世紀の西域諸国。 罽賓(けいひん、拼音:Jìbīn)は、かつて北インドのカシミール地方もしくはガンダーラ地方に在ったとされる国。.

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セルゲイ・グリゴリエヴィチ・クリャシュトルヌィ

ルゲイ・グリゴリエヴィチ・クリャシュトルヌィ(露:Сергей Григорьевич Кляшторный、1928年2月4日 - 2014年9月21日)は、ロシアの歴史家、考古学者。ベルンシュタムの弟子としてパミール、フェルガナ、天山地方、セミレチエ、トルクメニスタンの発掘調査に加わる傍ら、とくに古代テュルク語碑文を主要資料として突厥~古代キルギス史、さらに広くは中央アジア史の研究に従事した。.

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タシュケント

タシュケント(Toshkent, Тошкент 、Ташкент, Tashkent, )は、ウズベキスタンの首都。ウズベキスタン北東部、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域に位置する歴史的なオアシス都市。 都市名はテュルク語で「石の町」という意味である。ペルシア語表記では (Tāshkand) であり、タシケントと表記されることも多い。.

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サーサーン朝

ーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、ساسانيان - 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。.

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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

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獅子

獅子(しし).

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称号

号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.

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突厥

突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.

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竇建徳

竇 建徳(とう けんとく)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。.

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義成公主

義成公主(ぎせいこうしゅ、? - 630年)は、隋の宗室で、父は楊諧、弟は楊善経と伝わるが、諱と隋の皇室との親族関係は不詳である。.

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烏孫

紀元前1世紀の西域諸国。 烏孫(うそん、)は、紀元前161年から5世紀にかけて、イシク湖周辺(現在のキルギス)に存在した遊牧国家。.

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莫賀咄侯屈利俟毘可汗

莫賀咄侯屈利俟毘可汗(漢音:ばくかとつこうくつりしひかかん、拼音:Mòhèduōhóuqūlìsìpíkĕhàn、? - 630年)は、西突厥の可汗。統葉護可汗の伯父(諸父)。莫賀咄侯屈利俟毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。莫賀咄というのは称号(バガトゥル:Baγatur)と思われる。.

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頡利可汗

頡利可汗(漢音:けつりかがん、拼音:Jiélìkèhán/Jílìkèhán、? - 634年)は、東突厥の可汗。啓民可汗の第三子。始畢可汗、処羅可汗の弟。頡利可汗(イリグ・カガン Ilig-qaγan)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は咄苾(とひつ)という。.

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西域

西域(さいいき、拼音:xīyù)は、古来、中国人が中国の西方にある国々を呼んだ総称である。本来は東トルキスタンを指したが、拡張されて西トルキスタン、さらに地中海沿岸に至る西アジアをもいう。 紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地).

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西突厥

西突厥(にしとっけつ、拼音:Xī Tūjué)は、582年に突厥から分離した西の勢力。これに対し東の勢力を東突厥という。西突厥は中央アジアを支配し、東はアルタイ山脈、南はタリム盆地,トハリスタン、西はカスピ海までをその版図とした。657年、西可汗の阿史那賀魯が唐に捕らえられて以降、西突厥は唐の羈縻政策下に入った。741年頃に西突厥の阿史那氏が滅ぶと、その後は(テュルギシュ)や葛邏禄(カルルク)が実権を握るようになった。西突厥は別に十姓(オン・オク、on-oq、)とも呼ばれた。.

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首都

ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.

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高昌

昌(こうしょう、拼音:Gāochāng、ウイグル語:Qara-hoja、khocho)は、中国の南北朝時代から唐代にかけて現在の新疆ウイグル自治区・トルファン市に存在したオアシス都市国家。元・明代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から「哈拉和卓」(カラ・ホージャ)、「火州」、「霍州」などとして記録されている。トルファン市高昌区には、城址遺跡「高昌故城」が残っている。.

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護雅夫

護 雅夫(もり まさお、1921年3月30日 - 1996年12月23日)は、日本の東洋学者、歴史学者。専攻は古代東洋史(中央アジア・突厥民族研究)。.

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貞観 (唐)

貞観(じょうがん)は、中国唐代の太宗の治世に使われた元号。627年 - 649年)。太宗が魏徴などの賢臣を任用し、広く諫言を納れて善政を敷いたため、隋末の戦乱から民生を立ち直らせることに成功した。貞観年間は賦役も軽く、殖産が奨励されたかたわら、突厥との防衛戦にも勝利し、社会は安定して経済は繁栄を見た。後世の治政の範とされ、その原理は『貞観政要』(太宗と名臣たちの論議を記した書)に詳しい。.

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麹伯雅

麴 伯雅(きく はくが、? - 623年、在位602年 - 613年、620年 - 623年)は、高昌国の王。麴乾固の子。(『隋書』『北史』では麴堅の子。) 父の麴乾固の死後、即位した。延和と元号を立てた。突厥の圧迫を受けて従った。608年、隋に来朝し、光禄大夫に任ぜられ、弁国公・高昌王に封ぜられた。煬帝の高句麗遠征に従軍した。隋の宇文氏から妻を迎え、華容公主とした。612年、帰国した。613年、政変により王位を失った。620年、復位し、重光と元号を立てた。 Category:高昌の君主 Category:隋代の人物 Category:唐代の人物 Category:生年不明 Category:623年没.

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阿史那氏

阿史那氏(あしなし)は、突厥の君主(可汗)を出した中核氏族。 阿史那氏は突厥の一氏族であり、モンゴル高原西部、アルタイ山脈のあたりに勢力を有した遊牧民であった。6世紀頃突厥の内部で台頭し、土門の称号を称したという。阿史那氏初代伊利可汗は、北周など中国王朝との通商関係を通じてその勢力基盤を築くとともに柔然に従い、ジュンガリアのテュルク族を討ち、これを併合した。伊利可汗は柔然に通婚を求めたが、格下と見下す柔然の拒否を受けて、後に柔然に敵対し、これを討った。その結果、阿史那氏は興安嶺からカスピ海、さらにはカフカースに至る広域な版図を築き、匈奴を凌ぐほどの大規模な遊牧国家を建国した。但し、その権力構造は必ずしも堅固ではなく、各地に君主を置いて分権的支配構造を確立したという。 突厥は大可汗を中心に4人の可汗により分立し、それぞれが征服事業を展開することにより突厥の版図を拡げた。しかし、中央集権的な権力構造の確立と権力の承継体制を構築せず、権力分立体制を敷いたことが、結果として突厥内部の内紛となり、583年、沙鉢略可汗と可汗の位を争い敗北した木汗可汗の子が、西面可汗の達頭可汗に身を寄せ、沙鉢略可汗と達頭可汗の対立が表面化、突厥は完全東西に分裂した。 その結果、阿史那氏は勢力を衰退させ、隋の属国となったり、従来の従属氏族が小国家を形成するなどの分裂を招いた。一時的に勢力を回復させ強盛を誇ったものの、8世紀中頃に滅亡した。 なお、10世紀にペルシア語で書かれたの地理書『世界境域誌』(Ḥudūd al-'Ālam)によると、ハザールの可汗家は「アンサーの子孫に属す(از فرزندان انسا است. az farzandān-i Ansā' ast)」と書かれており、この「アンサー」とは「阿史那」のことではないかと考えられている。.

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肆葉護可汗

肆葉護可汗(漢音:しようこかがん、拼音:Sìyèhùkĕhàn、生没年不詳)は、西突厥の可汗。統葉護可汗の子。肆葉護可汗というのは称号で、正しくは乙毘鉢羅肆葉護可汗(いつひはつらしようこかがん)といい、姓は阿史那氏、名は不明。咥力特勤(てつりきとくきん:テュルク・テギン)というのは官名である。.

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鉄勒

鉄勒(漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭した。「鉄勒」という表記は勅勒,丁零などと同じく、Türkを音写したものと考えられている。.

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李淵

李 淵(り えん)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。.

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条支国

條支国(じょうしこく)は、中国の歴史書に登場する国名。西域に存在していたといわれる。 後漢書に班超の部下である甘英がたどり着いた国として登場する。この「條支国」は現在のシリアに存在していた国家だといわれている(一説にはカラケネ王国のことを指したものだという)。史記「大宛伝」には次のように記されている。「條支は西海に臨み、暑くて湿度が高い。田畑を耕してイネを植えている。大きな鳥がおり、その卵は甕のようだ」。ほかに、『旧唐書 巻194下 突厥伝』には「武徳三年、遣使貢條支巨卵。」という記述がある。このことから、條支は620年(武徳3年)前後に存在した異民族王朝の一つではないかとも考えられている。ただし、両者の記述の間には数百年の隔たりがあるため、果たして同一の対象を指したものなのかについては疑問の残るところである。 中国産の絹織物は当時のオリエント一帯を支配したパルティア王国やローマ帝国において非常に好まれた。甘英は一説にはローマ帝国と直接交易を行う道を求めて西進したとされるが、シリアまで到達した段階で中継貿易による利益が失われるのを恐れたパルティア人の案内人によってローマはまだ遥か彼方であると教えられ、やむなく引き返したという。 Category:シルクロード.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東突厥

東突厥(ひがしとっけつ、拼音:Dōng Tūjué)は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力。これに対し、西側の勢力を西突厥と言う。東突厥は大きく分けて3つの時期に分類でき、1つ目が第一可汗国期、2つ目が羈縻(きび)政策期、3つ目が第二可汗国期となる。744年、最後の東可汗が回紇(ウイグル)によって殺されると、東突厥の旧領は回鶻可汗国に取って代わった。.

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武徳

武徳(ぶとく)は、唐の高祖李淵の治世に行われた年号。唐朝最初の年号。618年 - 626年。.

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漢音

漢音(かんおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。中国語の中古音のうち、唐中葉頃の長安地方の音韻体系(秦音)を多く反映している。他の呉音や唐音に比べて最も体系性を備えている。また唐末に渡航した僧侶たちが持ち帰った漢字音は中国語の近世音的な特徴を多く伝えており、通常の漢音に対して新漢音と呼ばれることがある。.

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新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

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旧唐書

『旧唐書』(くとうじょ )は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。.

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1972年

協定世界時による計測では、この年は(閏年で)閏秒による秒の追加が年内に2度あり、過去最も長かった年である。.

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618年

記載なし。

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619年

記載なし。

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620年

記載なし。

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622年

記載なし。

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626年

記載なし。

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627年

記載なし。

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628年

記載なし。

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629年

記載なし。

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633年

記載なし。

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644年

記載なし。

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