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竹島 (鬱陵郡)

索引 竹島 (鬱陵郡)

鬱陵島の空撮写真。鬱陵島の右上(北東)に小さく見える島が竹島。 竹島または竹嶼(チュクト、)とは鬱陵島の東約2.2kmに位置し、南北に約700mの細長い大韓民国の島。慶尚北道鬱陵郡に属する。昔は竹嶼島(チュクソド、)と呼ばれていた。日本と領土問題のある「竹島」と同じ名称になるため混同され易いが、別の島である。.

22 関係: 大韓帝国大韓地誌大韓民国大東輿地図奎章閣于山島メダケソウル大学校石島 (韓国)竹島 (島根県)観音島 (韓国)鬱陵島鬱陵郡李奎遠 (朝鮮時代の官僚)文化観光部2000年式日本海慶尚北道1699年1701年1711年1881年1900年

大韓帝国

純宗 勲章を纏っている高宗 大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾など様々な勲章を纏った純宗 大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗 『大韓全図』(1899、玄采『大韓地誌』附図) 大韓帝国(だいかんていこく、대한제국〈テハンジェグク〉)は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(だいかんこく、대한국〈テハングク〉)、韓国(かんこく、한국〈ハングク〉)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。 朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した。 現在の韓国政府はこの「大韓帝国」の領土に竹島(韓国名: 独島〈독도; 獨島〉)も含まれていたと主張する。.

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大韓地誌

『大韓地誌』(1899年) 大韓地誌(だいかんちし)は、帝政時代の李氏朝鮮(大韓帝国)で編纂された地理書。1899年に書家として知られる玄采が著した。.

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大韓民国

大韓民国(だいかんみんこく、대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島(韓半島)南部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家。 憲法上は鴨緑江、豆満江以南の「朝鮮半島及び付属島嶼」全域を領土とするが、現在、北緯38度付近の軍事境界線以北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の統治下にあり施政権は及んでいない。朝鮮戦争で争った北朝鮮とは1953年に休戦したが、その後も断続的に軍事的対立や小規模な衝突が発生している。 政治面は1980年代半ばまで独裁体制が取られていたが、1987年の民主化宣言によって成立し、現在まで続いている第六共和国憲法に基づく体制は民主主義政体と評価される。 経済面は1960年代前半まで世界最貧国グループにあったため朝鮮戦争で荒廃した韓国は、当時1人あたりの国民所得が日本の5分の1に満たず世界の最貧国に数えられていた。一方、北朝鮮は経済の5カ年計画(*)に成功し、1人あたりの国民所得が韓国の2倍を超えていた。NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 -世界の中で- 第1回「信頼回復への道」2015年6月19日放送。(*)北朝鮮はソ連型の計画経済を導入した。当時の韓国の一人あたりの国民所得は、日本の五分の一に満たない82ドルで、朝鮮戦争の荒廃から立ち直っておらず、世界の最貧国のひとつだった。NHK さかのぼり日本史「戦後“経済外交”の軌跡」第三回 経済援助 積み残された課題 2012年4月17日放送、キャスター 石澤典夫、解説 学習院大学教授 井上寿一。、独自に資金や技術を調達できなかった岩田勝雄,, 立命館大学コラム「あすへの話題」2006年7月(第44回).

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大東輿地図

于山と記されている。 『大東輿地図』 『大東輿地図』(だいとうよちず)は、金正浩が1861年に完成した李氏朝鮮の全国地図である。姉妹編に『青丘図』2巻と『大東地志』32巻がある吉田(1988)。.

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奎章閣

奎章閣(キュジャンガク)は、李氏朝鮮の王立図書館に相当する機関である。歴代王や王室の各種文書や記録、中国の文献、朝鮮の古文書などを収蔵管理し、修復なども行った。現代においては朝鮮の歴史的記録物の重要な所蔵庫として機能している。.

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于山島

于山島(うざんとう、ウサンド、)は韓国の歴史書である『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項で初めて記述される島。朝鮮半島最古の史書『三国史記』(1145年)には「于山国」の名称で記される。 韓国に現存する地図のなかでも古いものでは于山(島)は鬱陵島近傍の西、あるいは北に描かれることが多いが、これに比定できる島は明確には存在しない。18世紀後半以降は鬱陵島の東に隣接して描かれるようになり、しだいに鬱陵島北東に隣接する現在の竹嶼を于山島として描いていると日本側は解釈している。また、欝陵島図形等については一部の韓国人学者も竹嶼であることを認めている。 鬱陵島は朝鮮政府にとっては辺境の遠隔地で渡航も難しく、1417年以降は入島・居住を全面禁止する「空島政策」をとっていた。安龍福の密航により鬱陵島の帰属が日本と朝鮮間の外交問題となった後、朝鮮政府は鬱陵島をたびたび調査を行った。これら調査で得られた知見により、于山島は鬱陵島の北東近傍に一つの島として描かれるようになった。日本側は、鬱陵島と于山島の位置(方角、距離)、形状(1つの島)より竹嶼であるとする。なお、これら地図に山の峰が描かれていること等を理由に竹島であると主張する韓国人学者もいる。 韓国では安龍福の証言や「東国文献備考」などの記述を根拠に、于山島を鬱陵島より東南東に約90km離れた孤島、現在の竹島(韓国名:独島)であると主張している。.

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メダケ

メダケ(雌竹)は関東地方以西の本州、四国、九州、琉球まで広く分布する多年生常緑笹の一種。主に川岸や海辺の丘陵などに群生する。稈の高さは2〜8mほど、直径1〜3cm程度で笹としては大きい部類だが、その姿はすらっと細く伸び女性を思わせる。別名オンナダケ、メダケ(女竹)、ニガタケ(苦竹)、カワタケ(川竹)、ナヨタケ。 筍皮は緑暗色のち白黄色で、緑色の無毛滑らかな円筒形で中空の稈のほぼ中ほどまでの長さがあり、落ちずにいつまでも稈に残る。節間は約15cm。節は低い。稈は柔らかく通常無毛、またねばり強いので篠笛や煙管、筆軸、かごなどの竹細工に向く。 葉は互生で無毛、平行脈、細長くその先端部が垂れ下がる。葉柄は短い。葉鞘は無毛。冬にやや葉縁白っぽくなり、披針形あるいは卵長形で先が尖る。葉の基部は円形で急に狭まる。葉鋸歯は細かい。 上部が密に分枝し、節から3〜9本ほど出、葉は枝先に3〜6枚ほどついて径1〜3cm、長さ10〜30cmほどで無毛。地中に直径2cm程の太い地下茎が這い、節から筍が出て繁茂する。ニガタケという別名は5月頃に出る筍が苦いことに由来する。 花は5月頃(毎年ではない)、緑淡色で、茎(稈)先と枝先に束生密生。先に5〜11個の花からなる10〜20個ほどの線形扁平で3〜10cmの小穂をつける。花皮は針形で長さ0.3〜1.5cmほど。包穎は2枚の小形、護穎は大きく先は尖る。内穎2竜骨、鱗皮3、花柱3、おしべ3。時々開花し、後に枯れる、花穂は古い皮をつけていることが多い。 果実は穎果で尖った楕円長形、果長1.4cm。 農業資材や建築・漁業などに利用されていたため農家の周辺などに植栽されている。現在は利用されることが少なくなり、野生状態となっている。.

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ソウル大学校

;文科大学.

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石島 (韓国)

石島(ソクト)は、大韓帝国「勅令第四十一号」に記載されている鬱陵島付近の島。 1900年10月25日に大韓帝国「勅令第四十一号」で、鬱陵島などとともに江原道の鬱島郡に管轄させた。現在のどの島を指すのか確実に特定できる文献資料がなく、日本の研究者は韓国の鬱陵島の北東近傍にある小島の観音島とし、韓国側は現在日本と領有権争いをしている竹島(韓国名:独島)であるとしている。 なお、韓国の慶尚北道は大韓帝国「勅令第四十一号」が出された1900年10月を「独島の月」に制定している。.

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竹島 (島根県)

竹島の位置 竹島(たけしま)は、日本海の南西部に位置する島嶼群で、急峻な地形をなす2つの島と周辺の岩礁からなる。1952年以降、韓国が占領(実効支配)を継続しており、日本および北朝鮮北朝鮮も、竹島を「民族固有の領土」と主張し、南北共同の歴史学者討論会を開いたり、韓国での対日抗議行動を好意的に報道している。がそれぞれ領有権を主張している。「竹島」は日本における呼称で、韓国・北朝鮮では「独島(獨島、トクト、독도、Dokdo)」、第三国では中立的立場から「リアンクール岩礁 (Liancourt Rocks)」等と呼ばれている。 本来は人の住みにくい環境であることから無人島であったが、1946年、連合国司令部がSCAPIN 第677号で竹島(独島)を日本の施政区域から除外した後、韓国が実効支配を実施し、1952年1月には李ライン(平和線)を設定して竹島を韓国側水域に含めた。韓国は、1952年4月にサンフランシスコ条約が発行した後、武装警察官を多数常駐させて実効支配を続けている。日本はこれに対し「不法占拠」であるとして抗議を続けている。しかし韓国側は、独島(竹島の韓国名)は歴史的・地理的・国際法的に韓国の固有領土であると主張し、独島問題に領土問題は存在しないという立場を取っている。.

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観音島 (韓国)

観音島(クァヌムド、かんのんとう、관음도)とは鬱陵島の北東に位置し、全長約400mの細長い主に岩でできた島である。周囲は断崖絶壁になっている。大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する。 観音島と鬱陵島の北東端である石圃付近の島項との間は、観音の瀬戸と呼ばれる狭い海峡になっている。2012年夏に観音島と鬱陵島の間に吊り橋が掛けられた。観音島へ渡るには4,000ウォンの入島料が必要で、朝8時から夜7時までの時間内に行き来ができる。また、観音島の北西には鬱陵島で最も有名な景勝地である三仙岩などの奇岩があり、南東には鬱陵島最大の付属島である竹嶼がある。 現在は無人島であるが、過去には住民が居住しており、ウサギとヤギを放牧していたといわれている。 1900年10月25日に大韓帝国「勅令第四十一号」で石島が江原道の鬱島郡に編入されているが、日本の研究者は、この石島は観音島である可能性が高いとしている。しかし、韓国では石島は竹島(独島)であるとしている。.

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鬱陵島

鬱陵島の位置 鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、울릉도)は、大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する日本海に浮かぶ直径10km程度の火山島である。 朝鮮半島から約130km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984m。平地はほとんどなく、道が悪いので車はほとんどが四輪駆動車である。住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している。江戸期の日本名は「竹島」または「磯竹島」、明治期1905年までは「松島」。近代になって西洋においては「Dagelet」などと呼ばれていた。最大の付属島は島の北東に位置する竹嶼で、他に観光地となっている観音島などがある。豪雪地帯でもある。.

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鬱陵郡

鬱陵郡(ウルルングン、うつりょうぐん)は大韓民国慶尚北道の郡。陸地(本土)から約150キロ東方の日本海に浮かぶ鬱陵島と付属島嶼からなる。日本との領有権争いがある竹島を郡域に含む。面積72.518平方キロ、人口9,252人。鬱陵邑・北面・西面の1邑2面で構成される。.

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李奎遠 (朝鮮時代の官僚)

李 奎遠(イ・キュウォン、り・けいえん、1833年3月 - 1901年11月)は、朝鮮の官僚。 朝鮮八道時代の江原道に生まれた。19歳で武科に合格して公職に就き、1881年に鬱陵島検察使に任命された。日本人が鬱陵島で木材を伐採しているという情報が朝廷に報告されると、朝廷は検察使である李を島に派遣した。1882年5月ごろに島に赴き、島の地形や土地の肥え具合、島民が暮らす場所を始め、島で産出される海産物を記録した。朝鮮に帰国後、島の様子を朝廷に報告すると、朝廷は日本に抗議の書簡を送り鬱陵島の再開拓事業を開始した。その後、兵曹参判、咸鏡南道兵馬節度使、済州牧使などの職を歴任している。.

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文化観光部2000年式

文化観光部2000年式(ぶんかかんこうぶ2000ねんしき)は、現在大韓民国で用いられている韓国語のラテン文字転写に関する規則である。2000年7月1日に「国語のローマ字表記法(국어의 로마자 표기법)」として大韓民国文化観光部(現・文化体育観光部)長官が告示した。 2000年の告示以来、韓国では人名などの例外を除き、原則としてこの表記法に従った表記がなされている。なお、北朝鮮ではマッキューン=ライシャワー式や北朝鮮1992年式が公式に用いられている。.

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日本海

日本海の位置 日本海(にほんかい)は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。.

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慶尚北道

慶尚北道(キョンサンプクト、けいしょうほくどう、韓国語表記:)は、大韓民国の東南部(朝鮮半島南東部)に位置する行政区。「慶尚」とはかつての中心都市であった慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた合成地名であり、この周辺地域を慶尚道と呼ぶ。行政区画としては李氏朝鮮の時代に東西に分けられたりなど試行錯誤が行われ、1896年勅令第36号で朝鮮八道における慶尚道の北半分を慶尚北道と定めた。かつて慶尚北道の一部であった大邱市は1981年に「大邱直轄市」(1995年より大邱広域市)として分離した。その後も道庁は大邱広域市に置かれていたが、2016年2月12日に安東市に移転した。通常は慶北と略される。.

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1699年

記載なし。

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1711年

記載なし。

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1881年

記載なし。

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1900年

19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.

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チュクソチュクソト竹嶼

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