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石州流

索引 石州流

石州流 (せきしゅうりゅう)は、片桐石州(貞昌)を流祖と仰ぐ茶道の流派の総称。一口に石州流と言っても様々であり、初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられるほか、地域ごとに様々なグループを形成している。さらにこれらのグループには、片桐家を宗家として仰ぐもの、慈光院を宗元として緩やかに糾合したもの、引き続き独立しているものとがある。また片桐家の菩提寺高林庵(芳春院内)を宗元として諸派の糾合グループもある。.

83 関係: 千少庵千道安大徳寺大老妙法院宝井其角宇津木翼小泉藩尭然法親王山内豊敷不昧流常陸府中藩三斎流下條信隆平戸藩久保田藩井伊直弼仙台藩伊達綱村伊達政宗会津藩佐竹義峯彦根藩徳川家光徳川家綱徳川将軍家徳川治保後陽成天皇保科正之土佐藩命日知恩院石州流宗猿系石州流伊佐派石州流嘉順派石州流林泉寺派磯貝宗和瑞鳳殿片桐宗幽片桐宗猿片桐貞央片桐貞中片桐貞彰片桐貞信片桐貞利片桐貞篤片桐貞照片桐貞芳片桐貞音片桐貞起...片桐貞房片桐貞昌片桐貞晴盆景芳春院鎮信流華道高富藩高松藩鳥取藩鳥取敬愛高等学校茶道茶湯一会集門跡金森重近東海寺 (品川区)松尾芭蕉松平頼恭松平正容松平治郷松江藩松浦重信桑山貞晴 (小傳次)水野忠幹 (紀伊新宮藩主)水戸藩江戸千家溝口直養溝口直諒溝口重雄昭和新発田藩慈光院5月24日 インデックスを展開 (33 もっと) »

千少庵

千少庵(せんのしょうあん、せんしょうあん、天文15年(1546年) - 慶長19年9月7日(1614年10月10日))は茶人。千利休の養子にして女婿。千宗旦の父。実父は能楽師の宮王三郎三入とされるが、近年松永久秀説も再浮上している。 母宗恩が利休の後妻に入ったため、利休の養子となった。義兄の道安とは同い年にあたる。先天的に片足に障害を持っており、相続関係の資料から千家内での立場が弱かった事実も確認されている。妻は利休の娘お亀(おちょうとも)で、二人の間には嗣子宗旦が生まれている。 利休切腹後は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられた。なお、現在福島県会津若松市の若松城(鶴ヶ城)内には、少庵が造らせたと伝えられる茶室「麟閣」が残されている。 文禄3年(1594年)、徳川家康・蒲生氏郷のとりなしで赦されて京に戻り、千家(京千家)を興し、息子宗旦を還俗させた。早くに隠居し、宗旦の後見に徹したといわれている。 せんのしようあん Category:安土桃山時代の人物 せんのしようあん せんのしようあん しようあん.

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千道安

千 道安(せん の どうあん、天文15年(1546年) - 慶長12年2月17日(1607年3月14日))は戦国時代から江戸時代初期の茶人。始め紹安。後に道安。号は、可休斎、不休斎、眠翁、泉南道安老人など。堺千家の主。.

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大徳寺

大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。 京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。.

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大老

大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。.

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妙法院

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号を南叡山と称する。本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。.

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宝井其角

宝井 其角(たからい きかく、寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日))は、江戸時代前期の俳諧師。 本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。.

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宇津木翼

宇津木 翼(うつき つばさ、文政4年(1821年) - 明治31年(1898年)8月17日)は、幕末期の彦根藩家老。宇津木泰交の次男。前名は景翼。通称は左近。字は子詹。棟渓と号した。 同じく幕末に活躍した彦根藩士・宇津木景福とは別家。若いころより学問を好み、才気煥発であったという。天保12年(1841年)藩主・井伊直亮の小姓に登用される。安政5年(1855年)、藩主・井伊直弼が大老に就任すると、側役兼公用人となり重用された。江戸在府時は安積艮斎や大橋訥庵、井上文雄に経史や漢文を学んだという。安政6年(1860年)、世間で尊皇攘夷論が活発になると、直弼に大老職を辞するように進言するが容れられず、結果直弼は桜田門外の変で命を落とす事になった。跡を継いだ井伊直憲にも引き続き重臣として仕えて活躍した。明治2年(1869年)、致仕し、茶道教授として晩年を送った。茶道は直弼に勧められたものだという。 Category:幕末彦根藩の人物 Category:茶人 Category:滋賀県出身の人物 Category:1821年生 Category:1898年没.

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小泉藩

小泉藩(こいずみはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は小泉陣屋(現在の奈良県大和郡山市小泉町)。.

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尭然法親王

堯然法親王(ぎょうねん ほっしんのう、慶長7年10月3日(1602年11月16日)- 寛文元年閏8月22日(1661年10月15日))は、江戸時代前期の皇族・僧。天台宗延暦寺別院門跡妙法院の門跡。後陽成天皇の第六皇子。母は持明院基孝の娘掌侍持明院基子。六宮と称される。諡号は慈音院。.

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山内豊敷

山内 豊敷(やまうち とよのぶ)は、土佐藩の第8代藩主。.

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不昧流

不昧流(ふまいりゅう)は、松平不昧に始まり、松江藩で伝わった茶道の一派。元来は雲州流として知られていたが、現在の伝承組織では不昧流あるいは石州流不昧派と称している。.

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常陸府中藩

常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)は、常陸国(現在の茨城県石岡市)に存在した藩。別名は石岡藩(いしおかはん)、長沼藩(ながぬまはん)。藩庁は府中陣屋。.

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三斎流

三斎流(さんさいりゅう)は、豊前小倉藩主細川忠興(三斎)を祖と仰ぐ茶道の一派。三斎の門人である一尾伊織が許しを得て興したので一尾流(いちおりゅう)、三斎流一尾派などとも言われる。現在家元は島根県出雲市にあり庵号を観翠庵、同門組織として九曜会がある。安藤家御家流も一尾流の流れを汲む他、細川三斎流と称する流派がある。.

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下條信隆

下條 信隆(しもじょう のぶたか)は、江戸時代前期から中期の旗本。大和国小泉藩の2代藩主の片桐貞昌の長男。父より石州流を相伝する。母が妾腹のため次男に準じて下條を称し、別家を建てて旗本となる。.

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平戸藩

平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。.

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久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

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井伊直弼

井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主(16代藩主、13代当主という数え方もあるノートページ参照)。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。 幼名は鉄之介(てつのすけ)、のち、鉄三郎(てつさぶろう)。諱は直弼(なおすけ)。雅号には、埋木舎(うもれぎのや)、柳王舎(やぎわのや)、柳和舎(やぎわのや)、緑舎、宗観(そうかん)、無根水(むねみ、異字体:无根水)がある。大獄を行って以降は井伊の赤鬼(いいのあかおに)の渾名でも呼ばれた。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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伊達綱村

伊達 綱村(だて つなむら)は、陸奥仙台藩の第4代藩主で、伊達氏の第20代当主。3代藩主伊達綱宗の長男。母は三沢初子。.

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伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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佐竹義峯

佐竹 義峯(さたけ よしみね)は、出羽久保田藩の第5代藩主。第3代藩主・佐竹義処の弟で、出羽岩崎藩初代藩主・佐竹義長の次男に生まれる。母は松浦信忠の娘(松浦鎮信の養女)・聖相院。正室は筑前直方藩主、黒田長清の娘・利姫(円宗院)。幼名は仙寿丸、求馬。初名は義恭(よしゆき)。.

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彦根藩

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川治保

徳川 治保(とくがわ はるもり)は、常陸国水戸藩の第6代藩主。水戸藩中興の祖といわれる。.

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後陽成天皇

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。.

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保科正之

保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と第4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君との呼び声も高い。また、将軍の「ご落胤」でもある。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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命日

命日(めいにち)とは、ある人が死亡した日をいう。忌日(きにち)ともいう。対義語は誕生日。死亡した年月日を歿(没)年月日(ぼつねんがっぴ)という。 通常は、死亡した月を指す祥月と組み合わせて、一周忌以後の当月の命日である祥月命日(しょうつきめいにち)を指すことが多い。祥月にかかわらない月ごとの命日を月命日(つきめいにち)という。 日本の仏教では、年12回の月命日に故人の供養を行い、一定の年数の命日には年忌法要(法事)が営まれる(年忌法要一覧を参照)。仏教に深く帰依したとされる光明皇后は、月命日ごとに法要が行われている。 50回忌以降は、50年毎に行っていたが、近年では、31回忌、33回忌、50回忌のいずれかをもって「弔い上げ」(戒名を過去帳に移し、お骨を土に返す)とするのが一般的になってきた。.

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知恩院

遠景(左三門、右本堂、後方比叡山) 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。 なお他流で門跡に当たる当主住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。.

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石州流宗猿系

石州流宗猿系は武家茶道。石州流の一派。流祖片桐石州(貞昌)の長男片桐貞信(幼名鶴千代)が1000石の旗本に取り立てられ、下條を称し名を信隆にあらためておこした旗本の家系で七世片桐信方まで一子相伝で伝承される。昭和初期までただ石州流と称していたが、石州系他派と区別するため七世の信方の茶号宗猿より流派名をとり石州流茶道宗猿系(せきしゅうりゅうちゃどうそうえんけい)と称している。九世磯貝宗和の門人より石州流片桐宗猿派が分派している。.

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石州流伊佐派

石州流伊佐派(せきしゅうりゅう いさは)は武家茶道。石州流の一派。 江戸時代は幕府数奇屋頭を代々世襲し嘉順派、野村派とともに柳営茶道をささえた。 維新後伊佐家が5代限りで茶道と無縁になった際に、門人だった袖山宗脩(1853年 - 1932年)によって継承され伊佐派と称している。.

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石州流嘉順派

石州流嘉順派(せきしゅうりゅうかじゅんは)は武家茶道。石州流の一派。 石州清水流嘉順派(せきしゅうしみずりゅうかじゅんは)ともいう。仙台の石州流清水派(石州清水流ともいう)の分派。 江戸時代は幕府数奇屋組頭を代々世襲し伊佐派、野村派とともに柳営茶道をささえた。.

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石州流林泉寺派

石州流林泉寺派(せきしゅうりゅうりんせんじは)は武家茶道。石州流野村派の分派。 将軍家数寄屋組頭野村休成の子である野村休盛が野村派の祖とされ、久保田藩佐竹家の御用商人菅原新五郎から、その高弟成瀬峯雲が東京で茶湯の教場を開いたのが林泉寺であり、その林泉寺の住職夫人が成瀬峯雲の後をついで林泉派を創てたのが初代家元の福井心月である。成瀬峯雲を祖として成瀬派が分派。また林泉寺派から古閑堂派が分派している。.

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磯貝宗和

磯貝 宗和(いそがいそうわ、1854年 - 1940年)は、石州流の家元。号は桃可菴。都古流華道流祖の空瓢堂磯貝一阿彌の夫人。本名は和歌。 片桐宗猿に伝わる片桐石州の茶の湯を梶宗龍より継承する。 宗猿の茶系譜は宗和によって東京中心に広められた。 Category:茶人 Category:明治時代の人物 Category:1854年生 Category:1940年没.

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瑞鳳殿

鳳殿の脇にある、殉死した家臣・陪臣の宝篋印塔 二代忠宗廟「感仙殿」 瑞鳳殿(ずいほうでん)は、仙台市都心部の南西、広瀬川の蛇行部に挟まれた経ケ峯にある伊達政宗を祀る霊廟。戦災で全焼したが、復元され現在の姿となった。 この記事では、周囲の「経ケ峯歴史公園」内にあり、「経ヶ峯伊達家墓所」(仙台市)として仙台市指定史跡となっている伊達家の他の霊廟や付属施設も記載する。.

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片桐宗幽

片桐宗幽(かたぎり そうゆう、享保11年(1727年) - 天明3年(1783年))は、石州流の茶人である。 宗幽は法号、茶号。名は友從(ともゆき)。別の名は虎之助、民部、帯刀。父は片桐友晴。母は野代氏。妻は片桐貞音の娘。子供に片桐佑賢(すけかた)がいる。 江戸時代の旗本片桐貞晴の五代目の子孫。1744年(延享元年)3月12日将軍徳川吉宗に拝謁し1760年(宝暦10年)12月28日遺籍を継ぐ。天明3年(1783年)3月27日致仕する。 そうゆう Category:江戸幕府旗本 category:江戸時代の茶人 そうゆう Category:1727年生 Category:1783年没.

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片桐宗猿

片桐宗猿(かたぎり そうえん、安永3年(1774年) - 元治元年(1864年))は片桐貞昌の長男下條信隆を祖とする江戸時代末期の旗本。石州流の家元。父は片桐信任。信隆より数えて6代目の旗本家の当主。名は片桐信方(かたぎり のぶかた)。別名靱負。 父片桐信任、祖父片桐信馮より片桐石州伝来の石州流を伝授される。井伊直弼の師匠で有名。茶道、華道、盆石と伝承されていたが宗猿以降に分流される。この茶道の系譜を宗猿系という。 そうえん Category:江戸幕府旗本 Category:幕末の旗本 Category:江戸時代の茶人 そうえん Category:1774年生 Category:1864年没.

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片桐貞央

片桐 貞央(かたぎり さだひさ / さだなか、1880年(明治13年)4月28日『平成新修旧華族家系大成』上巻、418-419頁。 - 1956年(昭和31年)1月7日『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』40頁。)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・水野、幼名・央、法諱・宗昌。.

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片桐貞中

片桐 貞中(かたぎり さだなか、文政10年8月3日(1827年9月23日) - 天保14年8月21日(1843年9月14日))は、大和国小泉藩の第9代藩主。第8代藩主片桐貞信の長男。通称は精一郎。官位は従五位下、主膳正。 天保12年(1841年)9月21日、父貞信の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下佐渡守に叙任する。しかし、天保14年(1843年)8月21日、父に先立って17歳で早世した。嗣子がなく、跡を弟の貞照が継いだ。 さたなか *09 Category:1827年生 Category:1843年没.

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片桐貞彰

片桐 貞彰(かたぎり さだあき、明和8年2月25日(1771年4月9日) - 文政5年1月20日(1822年2月11日))は、大和国小泉藩の第7代藩主。 第6代藩主片桐貞芳の長男。正室は水野忠鼎の娘。子は片桐貞信(長男)、娘(木下利広室)。官位は従五位下、主膳正。幼名は孫千代、通称は主膳。 天明7年(1787年)11月1日、将軍徳川家斉にお目見えする。同年12月8日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下主膳正に叙任する。文化12年(1815年)9月21日、隠居し、長男貞信に家督を譲った。文政5年(1822年)正月20日、52歳で死去した。 さたあき *07 Category:1771年生 Category:1822年没.

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片桐貞信

片桐 貞信(かたぎり さだのぶ、享和2年5月30日(1802年6月29日) - 嘉永元年11月7日(1848年12月2日))は、大和国小泉藩の第8代藩主。 第7代藩主片桐貞彰の長男。正室は亀井矩賢の養女(亀井矩貞の娘)。子は片桐貞中(長男)、片桐貞照(次男)、娘(大村純煕正室)、娘(亀井茲福正室)、娘(片桐貞篤正室)、娘(織田信及正室)。通称は輔五郎。官位は従五位下、石見守。 文化12年(1815年)8月15日、将軍徳川家斉にお目見えする。同年9月21日、父貞彰の隠居により、家督を相続する。同年12月16日、従五位下石見守に叙任する。文政11年(1828年)3月15日、大番頭に就任する。文政13年閏3月、病気を理由に大番頭を辞職する。遜斎と号して茶人となるが、才に恵まれ、石州流中興の祖と称された。天保12年(1841年)9月21日、家督を長男の貞中に譲って隠居し、嘉永元年(1848年)11月7日に47歳で死去した。 さたのふ *08 Category:江戸時代の茶人 さたのふ Category:1802年生 Category:1848年没.

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片桐貞利

片桐 貞利(かたぎり さだとし、天保10年(1839年)? - 文久2年10月29日(1862年12月20日))は、大和国小泉藩の第11代藩主。美濃国高富藩主・本庄道美の次男。官位なし。 初名は本庄道恕。先代藩主の貞照が文久2年(1862年)5月24日に死去したとき、嗣子が無かったため、同年7月16日に末期養子として貞利が跡を継いだ。しかし、同年10月29日に死去した。貞利も嗣子がなく、跡を松平頼功の長男・片桐貞篤が継いだ。 貞利はあまりに藩主としての在職期間が短く、叙任も無かったため、11代藩主として数えない史料もある。 さたとし Category:高富本庄氏 *11 Category:1839年生 Category:1862年没.

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片桐貞篤

片桐 貞篤(かたぎり さだあつ、天保12年9月19日(1841年11月2日) - 明治16年(1883年)6月26日)は、大和小泉藩の第12代(最後)の藩主。 松平頼功(常陸府中藩主・松平頼縄の弟)の長男。正室は第8代藩主・片桐貞信の娘、継室は栗原某の娘。子は貞健(長男)。官位は従五位下。主膳正。弟に越前福井藩家老となった本多副元がいる。 文久2年(1862年)、先代藩主の貞利が死去したために、貞信の娘の入婿となって家督を継いだ。このとき、貞篤は貞利の養嗣子になったとも、先々代の貞照の養子として跡を継いだとも言われている。幕末期の動乱の中では天誅組の変鎮圧などで功を挙げた。明治元年(1868年)、戊辰戦争では新政府側に与して京都の守備を担った。 明治2年(1869年)の版籍奉還で小泉藩知事となる。明治16年(1883年)、43歳で死去した。 さたあつ さたあつ *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1841年生 Category:1883年没.

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片桐貞照

片桐 貞照(かたぎり さだてる、天保10年5月9日(1839年6月19日) - 文久2年5月24日(1862年6月21日))は、大和国小泉藩の第10代藩主。 第8代藩主・片桐貞信の四男。正室は内藤正義の娘。通称は助作。官位は従五位下、石見守。 天保14年(1843年)閏9月13日、先代藩主で兄の貞中が早世したため、その跡を継いだ。安政2年(1855年)8月15日、将軍徳川家定にお目見えする。安政3年12月26日、従五位下石見守に叙任する。万延元年(1860年)3月11日、桜田門外の変の発生より、日比谷門番を解任、差控を命じられる。文久元年(1861年)10月7日、桜田門外の変に際し、日比谷門の警備にあたっていた藩士、足軽を処分する。嗣子がなく、死に臨んで貞利を末期養子として跡を継がせ、文久2年(1862年)5月24日に24歳で死去した。 さたてる *10 Category:幕末の大名 Category:1839年生 Category:1862年没.

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片桐貞芳

片桐 貞芳(かたぎり さだよし、元文5年2月8日(1740年3月5日) - 文化2年6月18日(1805年7月14日))は、大和国小泉藩の第6代藩主。 第5代藩主片桐貞音の長男。母は木下公福の娘。正室は脇坂安興の娘、継室は毛利聚の娘。子は片桐貞彰(長男)、酒井政和(三男)、本多繁文(四男)、馬場利光(五男)、本多貞幹(七男)、片桐幹之(八男)、小笠原長栄(九男)、娘(松平堯賢養女)、娘(戸川逵邦正室)。官位は従五位下、石見守。 幼名は孫之丞。初名は貞陳。寛延3年(1750年)5月29日、父の死去により跡を継ぐ。宝暦6年(1756年)10月1日、将軍徳川家重にお目見えする。同年12月18日、従五位下石見守に叙任する。明和6年(1769年)2月、摂津国兎原郡内などの領地を和泉国泉郡内に移される。天明7年(1787年)12月8日、家督を長男の貞彰に譲って隠居し、文化2年(1805年)6月18日に66歳で死去した。法号は松寿軒学叔宗習居士。墓所は東京都品川区北品川の東海寺にある。 さたよし *06 Category:1740年生 Category:1805年没.

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片桐貞音

片桐 貞音(かたぎり さだなり、正徳2年(1712年) - 寛延3年4月3日(1750年5月8日))は、大和国小泉藩の第5代藩主。 第4代藩主片桐貞起の次男。母は上田勘解由の娘。正室は木下公福の娘。子に片桐貞芳(長男)、娘(片桐友従室)、娘(上杉勝承正室)。官位は従五位下、主膳正。幼名は勝之助。 享保13年(1728年)、兄の満紀が廃嫡されたため、後継者に指名される。寛保元年(1741年)、父が死去したために家督を継いだ。寛延2年(1749年)4月10日、片桐氏一門の片桐信與を独断的に処罰したことが不孝に当たるとして幕府から咎められ、出仕を止められたが、同年5月2日に許された。寛延3年(1750年)4月3日、39歳で死去し、跡を長男の貞芳が継いだ。墓所は東京都品川区北品川の東海寺。 さたなり *05 Category:1712年生 Category:1750年没.

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片桐貞起

片桐 貞起(かたぎり さだおき)は、大和小泉藩の第4代藩主。.

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片桐貞房

片桐 貞房(かたぎり さだふさ)は、大和小泉藩の第3代藩主。.

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片桐貞昌

片桐 貞昌(かたぎり さだまさ)は、江戸時代前期の大名、茶人。大和小泉藩の第2代藩主。茶道石州流の祖として片桐石州(かたぎり せきしゅう)の名で知られる。.

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片桐貞晴

片桐 貞晴(かたぎり さだはる、? - 慶安3年10月4日(1650年10月28日))は、江戸時代初期の旗本寄合。小泉藩初代藩主片桐貞隆の二男。母は武田一雲の娘。.

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盆景

景(ぼんけい)とは、お盆の上に土や砂、石、苔や草木などを配置して自然の景色をつくり、それを鑑賞する中国や日本の趣味、伝統芸術である。 盆景は庭園、盆栽、生け花と同様に、自然の美を立体的に写実、表現しようとする立体造形芸術である。盆景においては、樹木単体の容姿から自然の美を想起させる盆栽とは異なり、配置や景色の工夫をこらすことで美を表現することが重要とされている。.

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芳春院

芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日(1547年7月25日) - 元和3年7月16日(1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。戒名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。母が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であった。.

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鎮信流

鎮信流 (ちんしんりゅう)は、肥前平戸藩松浦氏で伝えられた茶道の流派。4代藩主松浦鎮信が片桐石州に学び、また様々な流儀を研究して打ち立てた。石州流鎮信派とも。現在宗家は藤沢市にある。.

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華道

華道古典生花 上旬の月 月光筒 華道の伝統的様式 華道(かどう)は、植物のみや、植物を主にその他様々な材料を組み合わせて構成し、鑑賞する芸術である。「花道」とも表記し、またいけばな(生け花、活花、挿花)とも呼ばれる。 ただし華道という呼称は「いけばな」よりも求道的意味合いが強調されている。華道にはさまざまな流派があり、様式・技法は各流派によって異なる。 華道は日本発祥の芸術ではあるが、現代では国際的に拡がってきている。欧米のフラワーデザインは、3次元のどこから見ても統一したフォルムが感じられるように生けるとされる。華道の場合、鑑賞する見る方向を正面と定めている流派も多くあるが、3次元の空間を2次元で最大限に表す流派もある。また華道は色鮮やかな花だけでなく、枝ぶりや木の幹の形状、葉や苔となどすべてを花材とし鑑賞する点でも、海外のアレンジの概念とは一線を画している。.

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高富藩

富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。.

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高松藩

松城月見櫓 高松藩(たかまつはん)は、江戸時代に讃岐国(現在の香川県)を領有した藩。生駒氏の代は讃岐一国を領していたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。.

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鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。.

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鳥取敬愛高等学校

鳥取敬愛高等学校(とっとりけいあいこうとうがっこう)は、鳥取県鳥取市西町一丁目にある私立高等学校。学校法人鳥取家政学園が運営している。.

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茶道

茶を点てる様子。写真は、盆と鉄瓶を使った簡略的な点茶の例。 茶道(さどう、ちゃどう)は、日本伝統の湯を沸かし、茶を点(た)て、茶を振る舞う行為(茶の儀式)。また、それを基本とした様式と芸道。 元来「茶湯」(ちゃとう)、「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀政一(遠州)は「茶の道」という語も使っていたが、江戸時代初期には茶道と呼ばれた(『茶話指月集』『南方録』など)。「茶道」の英語訳としては tea ceremony のほか、茶道の裏千家と表千家ではそれぞれ the way of tea、chanoyu を用いている。岡倉覚三(天心)は英文の著書 The Book of Tea(『茶の本』)において、Teaism と tea ceremony という用語を使い分けている。 主客の一体感を旨とし、茶碗に始まる茶道具や茶室の床の間にかける禅語などの掛け物は個々の美術品である以上に全体を構成する要素として一体となり、茶事として進行するその時間自体が総合芸術とされる。 現在一般に、茶道といえば抹茶を用いる茶道のことだが、江戸期に成立した煎茶を用いる煎茶道も含む。 広間の茶室の例 道具は左から風炉と釜、建水、柄杓立と柄杓、水指、煙草盆と火入・灰吹。床の間には掛物(一行書「明月和水流」)と花入、香合を飾る。 草庵風茶室の例(高台寺遺芳庵) 草庵風茶室の例(如庵).

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茶湯一会集

『茶湯一会集』(ちゃのゆいちえしゅう)は、江戸時代末期の彦根藩主井伊直弼(茶号:宗観)の著による茶書である。茶道における「一期一会」の理念を広めており、茶の湯における主客の深い心構えを提唱している。.

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門跡

跡(もんせき、もんぜき)は、皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。寺格の一つ。元来は、日本の仏教の開祖の正式な後継者のことで「門葉門流」の意であった(この場合は門主とも)。鎌倉時代以降は位階の高い寺院そのもの、つまり寺格を指すようになり、それらの寺院を門跡寺院と呼ぶようになった。 浄土宗の知恩院門跡は浄土門主(もんす)という。 浄土真宗本願寺派の本願寺住職は門主(もんしゅ)、真宗大谷派の僧侶及び門徒の代表者は門首(もんしゅ)と書き、いずれも親鸞の子孫の大谷家から出ている。.

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金森重近

金森 重近(かなもり しげちか、天正12年(1584年) - 明暦2年12月16日(1657年1月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、茶人。金森可重の長男。宗和(そうわ)の号で知られる。宗和流茶道の祖。子に金森方氏、山下氏政室。.

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東海寺 (品川区)

東海寺(とうかいじ)は、東京都品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は万松山。.

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松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表)は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 俳諧(連句)の芸術的完成者であり東明雅『芭蕉の連句』(岩波新書)蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖佐藤編(2011)、p.247、あとがきとして世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。.

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松平頼恭

松平 頼恭(まつだいら よりたか)は、讃岐高松藩の第5代藩主。.

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松平正容

松平 正容(まつだいら まさかた)は、江戸時代前期の陸奥会津藩主。会津松平家第3代。.

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松平治郷

月照寺にある墓所 松平 治郷(まつだいら はるさと)は、出雲松江藩の第7代藩主。直政系越前松平家宗家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。.

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松江藩

藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。.

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松浦重信

松浦 重信(まつら しげのぶ、元和8年3月13日(1622年4月23日) - 元禄16年10月6日(1703年11月14日))は、江戸時代前期の大名。肥前平戸藩の第4代藩主。平戸松浦氏第29代当主。隠居の後に諱を曾祖父と同じ鎮信(しげのぶ)へと改めており、その漢字表記でよく知られている。 第3代藩主・松浦隆信の長男。母は牧野康成の娘・充。正室は明石藩主松平忠国の娘。幼名は千代鶴、通称が源三郎。官位は従五位下、肥前守。 宋の文人文天祥を尊敬して天祥庵を結び、天祥と号する。後年、退静爺や、徳祐とも称した。法名は圓惠(円恵)。.

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桑山貞晴 (小傳次)

桑山 貞晴(くわやま さだはる)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、茶人である。桑山重晴の三男。号は洞雲。同名の甥桑山加賀守貞晴がおり、区別して桑山小傳次あるいは桑山左近大夫とも書かれる。片桐石州は貞晴の門下生にあたり、茶人としては桑山宗仙を名乗った。.

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水野忠幹 (紀伊新宮藩主)

水野 忠幹(みずの ただもと)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第10代藩主。第9代藩主・水野忠央の長男。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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江戸千家

江戸千家 (えどせんけ)は、川上不白に始まる茶道の流派。家元は東京都台東区池之端にあり、同門組織として不白会、関連機関の江戸千家茶の湯研究所がある。また川上不白を祖と仰ぐ流派として、東京都文京区弥生に家元がある江戸千家宗家蓮華庵や杉並区高円寺に家元がある表千家不白流などいくつかの分派がある。.

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溝口直養

溝口 直養(みぞぐち なおやす、元文元年11月23日(1736年12月24日) - 寛政9年7月26日(1797年8月18日))は、越後国新発田藩の第8代藩主。第7代藩主溝口直温の長男(庶子)。幼名は亀次郎。通称は主膳。諱ははじめ直範、のち直養と改める。官位は従五位下。主膳正。浩軒と号す。母は側室・美代(御長屋様、森氏)。正室は迎えなかったが、数名の側室が居た。.

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溝口直諒

溝口 直諒(みぞぐち なおあき、寛政11年1月8日(1799年2月12日) - 安政5年6月18日(1858年7月28日))は、越後新発田藩の第10代藩主。第9代藩主溝口直侯の長男。幼名は駒之助。官位は従五位下伯耆守。のち同じ伯耆守の本庄宗発が老中となったことから信濃守に改め、さらにのち再び伯耆守に復す。母は側室の家臣・堀源之進行正の娘・里代(窈樹院)。正室は安芸広島藩主・浅野斉賢の娘歌姫(見明院)、継室も浅野斉賢の娘。.

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溝口重雄

溝口 重雄(みぞぐち しげかつ、寛永10年7月10日(1633年8月14日) - 宝永5年9月4日(1708年10月17日))は、越後国新発田藩の4代藩主。3代藩主溝口宣直の長男。母は森川重俊の娘。 初め宣廣(のぶひろ)と称し、のち重雄と改める(将軍世子徳川家宣の「宣」を憚ったため)。幼名は久三郎。官位は従五位下。信濃守。正室は大河内松平正綱の娘(松平信綱の養女)、継室は酒井忠勝の娘。子は4男7女。溝口重元(長男)、大助(次男、初め家老堀図書の養子となって堀主計と改め、のちに近江仁正寺藩主・市橋信直の養子となって名を市橋兵部直方と改めた)、外記(三男、早世)、逸見元長(四男、幼名・金弥、分家独立して旗本となる)。娘は長女(早世)、次女・よめ(備中庭瀬藩主・戸川安宣継室)、三女・かい(豊後臼杵藩主・稲葉知通正室)、四女・きい(出羽松山藩主・酒井忠予正室)、五女・せい(伊予今治藩主・久松松平定陳正室)、六女・峯(対馬府中藩主・宗義倫正室)、七女(早世)。 寛永17年(1640年)徳川家光に初御目見する。慶安4年(1651年)に従五位下信濃守に叙任する。寛文12年(1672年)父の致仕(隠居)により家督を継ぐ。天和元年(1681年)以後数度にわたり、松平光長改易後の高田城三の丸の守衛を務める。また元禄12年(1699年)には江戸麻布新堀の普請を務めた功によって、幕府より褒美を賜った。宝永3年(1706年)7月19日に致仕して家督を長男・重元に譲り、悠山と号す。同5年(1708年)9月4日に76歳で死去した。法号は勝林宗慧悠山院(悠山院殿前信州大守勝林宗慧大居士とも)。墓所は江戸駒込の吉祥寺。 重雄の治世は、前代に大火と震災で焼失・破損した新発田城の再建をはじめ、法制の整備や総検地の実施など積極的な政策がとられ、新発田藩政の確立期であると評される。重雄自身は文芸・芸能にも心を寄せた人物で、致仕に際しては刀剣のほかに冷泉為尹筆の「古今和歌集」や冷泉持為筆の「後撰和歌集」を将軍家に献上している。溝口悠山の名で茶人としても知られ、怡渓宗悦の教えを受けて同人の流派を藩内に伝え、越後怡渓派の基礎を築いた。また父・宣直が造営した清水谷御殿に、江戸より幕府庭方の県宗知を招いて庭園を築いた。これが現在の清水園(国指定名勝・旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園)である。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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新発田藩

新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。藩庁は新発田城。藩主は溝口氏。家格は外様大名で、石高は 6万石(のち 5万石 → 10万石と推移)。.

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慈光院

慈光院(じこういん)は奈良県大和郡山市小泉町にある臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は円通山。本尊は釈迦如来。石州流茶道の祖・小泉藩主片桐石見守貞昌(石州)が創建した。.

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5月24日

5月24日(ごがつにじゅうよっか、ごがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から144日目(閏年では145日目)にあたり、年末まではあと221日ある。誕生花はムギワラギク。.

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