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男子テニス選手一覧

索引 男子テニス選手一覧

男子テニス選手一覧は、男子テニス選手をアルファベット順に並べたものである。.

616 関係: 加茂公成原田夏希 (テニス選手)原田武一坂井利郎増田健太郎女子テニス選手一覧宮城淳守屋宏紀寺地貴弘山岸二郎岩渕聡中野文照布井良助三神八四郎三橋淳 (テニス選手)三木龍喜伊藤竜馬佐藤博康佐藤次郎土橋登志久ペーター・ゴヨフチクペトル・コルダナサニエル・ナイルズミハル・プシシェズニミハイル・ユージニーミハイル・ククシュキンミロシュ・ラオニッチミロスラフ・メチージュミーシャ・ズベレフミヒャエル・シュティヒミカエル・ペルンフォルスミカエル・ロドラミカエル・ジェレミアスノバク・ジョコビッチマラト・サフィンマラビーヤ・ワシントンマリン・チリッチマリンコ・マトセビッチマリアノ・プエルタマリアノ・サバレタマリウシュ・フィルステンベルクマリオ・アンチッチマルチン・マトコフスキマルティン・フェルカークマルティン・ダムマルティン・クリザンマルク・ロペスマルク・ロセマルク・ジケルマルコム・チェイス...マルコム・ホイットマンマルコム・アンダーソンマルコ・チウディネリマルコス・バグダティスマルセル・ベルナールマルセル・イルハンマルセル・グラノリェルスマルセロ・メロマルセロ・リオスマルセロ・フィリピーニマレク・ジャジリマンスール・バーラミノーマン・ブルックスマートン・フチョビッチマーティン・マリガンマーディ・フィッシュマーク・ノールズマーク・フィリプーシスマーク・ウッドフォードマーク・エドモンドソンマッツ・ビランデルマックス・ミルヌイマックス・デキュジスマヘシュ・ブパシマテ・パビッチマニュエル・アロンソマニュエル・オランテスマニュエル・サンタナマイク・ブライアンマイケル・チャンマイケル・ラッセルマイケル・ヴィーナスマイケル・シェファースマクラクラン勉マグヌス・ノーマンマシュー・エブデンチャン・シャルケンチャールズ・ウィンスローチャールズ・ガーランドチャック・マッキンリーネナド・ジモニッチハリー・ホップマンハロルド・マホニーハロルド・ハケットハロルド・キトソンハロルド・ソロモンハーバート・バデリーハーバート・ローフォードハーバート・フラムハインリヒ・ションブルクハインツ・ギュンタードバーナード・トミックバッジ・パティーバイロン・ブラックバセク・ポシュピシルポール・ハンリーポール・ハーフースポール・アナコーンポール・ウェケサポール=アンリ・マチューポティート・スタラーチェメノ・オースティングメルビン・ローズモーリス・マクローリンモーリス・ジェルモーヤルコ・ニエミネンヤロスラフ・ドロブニーヤン・ハジェクヤン・ヘルニチヤン・コデシュヤンコ・ティプサレビッチヤッコ・エルティンヤヒヤ・ドゥンビアヤニック・ノアヤコブ・ラセクユリアン・ノールユルゲン・メルツァーユースタス・マイルズヨナス・ビョルクマンヨハン・クリークヨージェフ・アシュボードヨアキム・ヨハンソンラデク・ステパネクラファエル・ナダルラファエル・オスナライナー・シュットラーライアン・ハリソンライアン・スウィーティングラウル・ラミレスラジーブ・ラムリチャード・ノリス・ウィリアムズリチャード・シアーズリュカ・プイユリンドレイ・マレーリーンダー・パエスリック・リーチリカルト・クライチェクリシャール・ガスケリス・ゲメルルネ・ラコステルー・ホードルーカス・ドロウヒールイス・レイモンドルイス・アヤラルイス・オルナルカシュ・ラツコルカシュ・ロソルルカシュ・クボットレナート・ベルゲリンレイトン・ヒューイットレイベン・クラーセンレオナルド・マイエルレジナルド・ドハティーロナルト・ヴィンクロナルド・アジェノールロバート・ルロイロバート・レンロバート・セグソローレンス・ドハティーロッド・レーバーロビン・ハーセロビン・アマラーンロビン・セーデリングロビー・ジネプリロドニー・ヒースロベルト・バウティスタ・アグートロベルト・リンドステットロベルト・ファラロベルト・カルバリェス・バエナロイ・エマーソンロジャー・フェデラーロスコー・タナーワトソン・ウォッシュバーンワシウ・ユスフヴォイチェフ・フィバクボリス・ベッカーボルナ・チョリッチボブ・ブライアンボブ・ヒューイットボブ・ファルケンバーグボビー・リッグスボアズ・クレーメルトミー・ハーストミー・ロブレドトマーシュ・ベルディハトマシュ・スミッドトマス・ベルッシトム・ペティットトム・ブラウン (テニス選手)トム・オッカートム・ガリクソントラビス・パロットトルベン・ウルリッヒトレト・ユーイトーマス嶋田トーマス・ムスタートーマス・ヨハンソントーマス・エンクビストトッド・マーティントッド・ウッドブリッジトニー・ローチトニー・トラバートヘンナー・ヘンケルヘンリ・コンティネンヘンリー・オースチンヘンリー・スローカムヘンドリク・ティマーブノワ・ペールブラッド・パークスブラッド・ギルバートブライアン・ノートンブライアン・ティーチャーブライアン・ゴットフリートブルーノ・ソアレスパラドーン・スリチャパンパンチョ・ゴンザレスパット・オハラウッドパット・キャッシュパトリック・マッケンローパトリック・ラフターパブロ・アンドゥハルパブロ・カレーニョ・ブスタパブロ・クエバスパベル・ビズネルパベル・スロジルパオロ・ロレンツィヒシャム・アラジビョルン・ボルグビル・チルデンビル・ボウリービル・ジョンストンビル・タルバートビンセント・リチャーズビンセント・スペイディアビールズ・ライトビック・セイシャスビビアン・マグラスビクトル・ペッチビクトル・ハネスクビクトル・トロイツキビクトル・エストレーリャ・ブルゴスビジャイ・アムリトラジビタス・ゲルレイティスピート・サンプラスピーター・ルクザックピーター・フレミングピエール・ダーモンピエール・エチュバステールピエール=ユーグ・エルベールテーラー・デントテッド・シュローダーテニーズ・サンドグレンテニスティムラズ・ガバシュビリティム・メイヨットティム・ヘンマンティム・ガリクソンテイラー・フリッツデビッド・ホール (テニス選手)デビッド・アダムズデビッド・ウィートンデビスカップデニス・ラルストンデニス・イストミンデニス・シャポバロフディック・ノーマンディック・サビットディニー・ペイルズディエゴ・シュワルツマンディオニシオス・カスダリスフランク・ハドーフランク・パーカーフランク・シールズフランク・セッジマンフランコ・スキラーリフランシス・ハンターフリードリヒ・トラウンフルー・マクミランフレッド・ペリーフレッド・ホビーフレッド・アレクサンダーフレッド・ストールフロリン・メルジェフロリアン・マイヤーファブリス・サントロファビオ・フォニーニフアン・マルティン・デル・ポトロフアン・モナコフアン・アントニオ・マリンフアン・イグナシオ・チェラフアン・カルロス・フェレーロフアン・セバスティアン・カバルフィリップ・ペッシュナーフィリップ・コールシュライバーフィリプ・クライノビッチフィル・デントフェリックス・マンティーリャフェリシアーノ・ロペスフェルナンド・メリジェニフェルナンド・ベルダスコフェルナンド・ゴンサレスフェデリコ・デルボニスドナルド・ヤングドミトリー・トゥルスノフドミニク・ティエムドミニク・フルバティドワイト・フィリー・デービスドン・マクニールドン・バッジドゥディ・セラドゥシャン・ラヨビッチニール・フレーザーニック・キリオスニコラ・マユニコラ・ピリッチニコラ・ピエトランジェリニコラ・エスクデニコライ・ダビデンコニコラス・マスーニコラス・ラペンティニコラス・アルマグロニコラス・キーファーニコラス・キッカーニコロズ・バシラシビリホリア・テカウホルディ・アレッセホルコム・ウォードホルスト・スコッフホーレス・ライスホセ・マリア・アロンソホセ・アカスソダミル・ジュムールダレン・ケーヒルダビド・ナルバンディアンダビド・フェレールダビド・ゴフィンダニール・メドベージェフダニエル太郎ダニエル・ネスターダニエル・バチェクダニエル・エバンスダスティン・ブラウンベンヤミン・ベッカーアメア・ディリックアモス・マンスドルフアラステア・マーティンアルノー・ディ・パスカルアルノー・クレマンアルヤジ・ベデネアルベルト・マルティンアルベルト・モンタニェスアルベルト・ラモス=ビノラスアルベルト・ベラサテギアルベルト・コスタアルガーノン・キングスコートアレハンドロ・ファジャアレックス・メトレベリアレックス・ボゴモロフ・ジュニアアレックス・オルメドアレックス・オブライエンアレックス・コレチャアレクサンドル・ボルコフ (テニス選手)アレクサンドル・ドルゴポロフアレクサンダー・ペヤアレクサンダー・キティノフアレクサンダー・ズベレフアンリ・ルコントアンリ・コシェアンディ・マリーアンディ・ラムアンディ・ロディックアンドレ・プレボーアンドレ・アガシアンドレ・ゴベールアンドレ・サアンドレアス・セッピアンドレイ・チェルカソフアンドレイ・チェスノコフアンドレイ・メドベデフアンドレイ・ルブレフアンドレイ・パベルアンドレイ・クズネツォフアンドレイ・ゴルベフアンドレス・ヒメノアンドレス・ゴメスアンダース・ヤリードアンソニー・ワイルディングアーネスト・レンショーアーロン・クリックステインアーニー・パーカーアーサー・ラーセンアーサー・アッシュアーサー・オハラウッドアーサー・ゴアアドリアン・マナリノアドリアーノ・パナッタアグスティン・カレリアシュレー・クーパーイラクリ・ラバーゼイリ・ナスターゼイワン・リュビチッチイワン・レンドルイワン・ドディグイーゴリ・アンドレエフイーゴリ・クニツィンイボン・ペトライボ・ミナールイボ・カロビッチイェジ・ヤノヴィッツイジー・ノバクイジー・ベセリーウラジミール・ボルチコフウルフ・シュミットウンベルト・デ・モルプルゴウパーリ・ラジャカルナウィリアム・ラーンドウィリアム・レンショーウィリアム・クローシャーウィルマー・アリソンウィルフレッド・バデリーウィロビー・ハミルトンウィンブルドン選手権ウェイン・ブラックウェイン・フェレイラウェイン・オデスニクウェスリー・ムーディウォルター・クロプトン・ウィングフィールドエミリオ・サンチェスエリック・ブトラックエリック・スタージェスエルネスツ・ガルビスエルスワース・バインズエンドゥカ・オディゾールエフゲニー・カフェルニコフエフゲニー・コロレフエドゥアルド・シュワンクエドゥアール・ロジェ=バセランエドウィン・フラックエドガー・ムーンエドガー・レナードエイドリアン・クイストオラシオ・セバジョスオリバー・マラチオリバー・キャンベルオリビエ・ロクスオーウェン・デビッドソンオットー・フロイツハイムオニー・パルンオスカー・クロイツァーカリム・アラミカルロス・モヤカルロス・ベルロクカレル・ノバチェクカレン・ハチャノフカロル・クチェラカール・ベアカイル・エドマンドガードナー・ムロイガエル・モンフィスガストン・ガウディオキム・ウォーウィックキース・グレッドヒルギリェルモ・ビラスギリェルモ・カナスギリェルモ・ガルシア=ロペスギリェルモ・コリアギー・フォルジェギド・ページャクラレンス・クラーククラレンス・グリフィンクリスチャン・プレスクリス・ルイスクルト・ニールセングランドスラム (テニス)グリゴール・ディミトロフグレン・ミチバタグレグ・ルーゼドスキーグザビエ・マリスグスタボ・クエルテンケネス・カールセンケン・マグレガーケン・ローズウォールケン・フラックケン・フレッチャーケビン・アンダーソンケビン・ウリエットケビン・カレンコリン・グレゴリーゴラン・イワニセビッチゴードン・ロウゴットフリート・フォン・クラムシモーネ・ボレッリシュラガ・ワインバーグシュロモ・グリックステインシリル・スークシーモン・アスペリンシドニー・ウッドシドニー・スミス (テニス選手)ジミー・コナーズジム・クーリエジャン・ボロトラジャン=ルネ・リスナールジャン=ジュリアン・ロジェジャック・ブルニョンジャック・クレーマージャック・クロフォードジャック・ソックジュリアン・ベネトージョナサン・エルリックジョン・ミルマンジョン・マークスジョン・マッケンロージョン・ハートリージョン・バン・リンジョン・ロイドジョン・ブロムウィッチジョン・ピアースジョン・ピウス・ボーランドジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)ジョン・ドエグジョン・ニューカムジョン・ホークス (テニス選手)ジョン・アレクサンダー (テニス選手)ジョン・イスナージョン・サドリジョー・ハントジョージ・ロットジョー=ウィルフリード・ツォンガジョアン・ソウザジョシュア・ピムジョシア・リッチージョセフ・クラークジル・シモンジレ・ミュラージーン・マコジェラルド・パターソンジェレミー・シャルディージェームズ・ブレークジェームズ・ドワイトジェームズ・アンダーソン (テニス選手)ジェームズ・セシル・パークジェフ・タランゴジェイミー・マリージェイ・グールド (2世)ジェイソン・ストルテンバーグスペンサー・ゴアステファノス・シチパスステファン・ロベールステファン・フースステファン・ウデステファン・エドベリスティーブ・デントンスティーブ・ダルシススティーブ・ジョンソン (テニス選手)スベン・デビッドソンスコット・デービススタン・ワウリンカスタン・スミスセバスチャン・ラルーセバスチャン・グロジャンセルジ・ブルゲラセルジー・スタホフスキーセドリック・ピオリーンセシル・マミートソムデブ・デブバルマンタナシ・コッキナキスタデウス・クルシェルニツキサミー・ジアマルバ・ジュニアサム・クエリーサルギス・サルグシアンサンティアゴ・ヒラルドサンドン・ストール内山靖崇内田海智全米オープン (テニス)全豪オープン国枝慎吾石黒修神和住純福井烈福田雅之助熊谷一弥盧彦勳白石正三隈丸次郎青木岩雄西岡良仁高田充高橋悠介谷澤英彦齋田悟司辻野隆三錦織圭鈴木貴男鄭現針重敬喜金奉洙柏尾誠一郎林宝華李亨澤松岡修造松本武雄杉田祐一添田豪渡辺康二清水善造 インデックスを展開 (566 もっと) »

加茂公成

加茂 公成(かも こうせい, 1932年5月10日 - 2017年1月6日)は、東京都目黒区出身の男子テニス選手。早稲田大学卒業。三井物産勤務。身長171cm、体重70kg。 1955年の全米選手権男子ダブルスで宮城淳とペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として唯一の4大大会男子ダブルス優勝者になった名選手である。.

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原田夏希 (テニス選手)

原田 夏希(はらだ なつき、1972年8月22日 - )は、日本の男性テニス選手、指導者。.

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原田武一

原田 武一(はらだ たけいち, 1899年(明治32年)5月16日 - 1978年(昭和53年)6月12日)は、大阪府大阪市出生。岡山県倉敷市出身の男子テニス選手。日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代に、日本を代表する選手として活躍した。1926年に「全米ランキング3位」となり、当時の世界ランキングでも7位に入った名選手である。慶應義塾大学を中退し、ハーバード大学特別科を修了。とりわけ、男子テニス国別対抗戦・デビスカップで傑出した成績を挙げ、海外のテニス界にも強烈な印象を残した。 彼は美貌の青年として女性からの人気も高く、海外にも多くの女性ファンを獲得した。当時の日本人男性としては珍しく、豪快な遊びを好んだ人物でもあった。選手時代に集めたものをスクラップ・ブックに保管していたことから、原田に関しては現在でも多数の資料が残っている。.

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坂井利郎

坂井 利郎(さかい としろう、 1947年11月23日 -)は、日本の男子テニス選手。.

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増田健太郎

増田 健太郎(ますだ けんたろう、1971年8月26日 - )は、神奈川県横浜市出身の元男子プロテニス選手、指導者。湘南工科大学附属高等学校卒。.

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女子テニス選手一覧

女子テニス選手一覧は、女子テニス選手をアルファベット順に並べたものである。.

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宮城淳

宮城 淳(みやぎ あつし、1931年10月19日 - )は、東京都大田区出身の男子テニス選手。早稲田大学卒業。身長172cm、体重61kg。早大卒業後はゼネラル物産に勤務。 1955年の全米選手権男子ダブルスで加茂公成とペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として唯一の4大大会男子ダブルス優勝者になった名選手である。 姉の宮城黎子もテニス選手。.

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守屋宏紀

守屋 宏紀(もりや ひろき、1990年10月16日 - )は、東京都町田市出身の男子プロテニス選手。所属は北日本物産。町田市立小山小 - 藤沢市立藤が岡中 - 湘南工科大学附属高等学校卒。 ATPランキング自己最高位はシングルス143位、ダブルス327位。.

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寺地貴弘

寺地 貴弘(てらち たかひろ、1979年7月8日 - )は、大阪府豊中市出身の元男子プロテニス選手、指導者。豊中市立新田小学校、渋谷幕張高校卒。.

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山岸二郎

山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年5月23日 - 1997年1月30日)は、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。主に1930年代後半に活躍し、全日本テニス選手権でシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。世界的な評価も高く、1938年に世界ランキング8位になった。 1937年全米選手権で4回戦に進出。これは71年後に錦織圭が進出するまで最後の日本人男子全米4回戦以上進出記録だった。.

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岩渕聡

岩渕 聡(いわぶち さとし, 1975年10月7日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本の元男子プロテニス選手、指導者。。身長175cm、体重73kg、左利き。ツアー通算でダブルスで1勝を挙げた。.

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中野文照

中野 文照(なかの ふみてる, 1915年1月13日 - 1989年12月30日)は、岐阜県瑞浪市出身の男子テニス選手。法政大学卒業。1930年代後半から1950年代初頭にかけて、日本男子テニス界を代表する選手として活動した。時代的には、1934年に投身自殺した佐藤次郎のすぐ後に位置している。彼と同年代のライバル選手には、慶應義塾大学の山岸二郎や同じ法政大学の松本武雄などがいた。 1937年全米選手権、1938年全仏選手権で4回戦に進出。この結果は錦織圭が並ぶまで日本人男子シングルス最後の各大会4回戦以上進出記録だった(全米は71年ぶり、全仏は75年ぶりに進出)。.

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布井良助

布井 良助(ぬのい りょうすけ, 1909年(明治42年)1月18日 - 1945年(昭和20年)7月21日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。1933年(昭和8年)のウィンブルドン選手権男子ダブルス部門で佐藤次郎とペアを組んで準優勝し、日本人のテニス選手として初めて4大大会決勝に挑戦した選手である。.

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三神八四郎

三神 八四郎(みかみ はちしろう, 1887年(明治20年)- 1919年(大正8年)11月8日)は、山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身の男子テニス選手。日本における硬式テニスの導入を最も早く提言した人物であり、早稲田大学の「三神記念コート」にその名を残している。.

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三橋淳 (テニス選手)

三橋 淳(みつはし じゅん、1989年6月1日 - )は、イギリス出身の日本の元男子プロテニス選手。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPランキング自己最高位はシングルス295位、ダブルス217位。所属はフリー。 身長165cmながら、身長のハンデを補う程に鍛え上げられた体を駆使したパワフルプレーを武器とし、また日本人選手としては珍しくクレーサーフェスを得意とする。3歳年上の兄、洋祐も全日本テニス選手権に出場歴のある大学テニス選手であった。 2015年11月に南アフリカ、12月にナイジェリアの各フューチャーズ大会にて、他の選手に八百長を持ちかけた。また、同時期にテニスの試合に70回以上に及ぶ賭けに参加したが、調査への協力要請を拒否したとして、2017年5月16日、テニス・インテグリティ・ユニット(TIU)から永久資格停止と罰金5万ドル(約565万円)の処分を受けた。.

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三木龍喜

三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 1966年1月9日)は、香川県高松市出身の男子テニス選手。大阪高等商業学校(現大阪市立大学)卒業。 1934年のウィンブルドン混合ダブルス部門でドロシー・ラウンド(イギリス)とペアを組んで優勝し、日本人初のグランドスラム優勝者になった選手。また現在でもウィンブルドン男子・ウィンブルドン混合・4大大会男子混合の最後の日本人優勝者である。 英語文献では“Ryuki Miki”(リュウキ・ミキ)という有職読みで掲載されることも多い。海外の同僚選手たちからは「ミッキー」と呼ばれることも多かった。.

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伊藤竜馬

伊藤 竜馬(いとう たつま、1988年5月18日 - )は、三重県員弁郡北勢町(現いなべ市)出身の男子プロテニス選手。北日本物産所属。身長180cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPランキング自己最高位はシングルス60位、ダブルス312位。.

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佐藤博康

佐藤 博康(さとう ひろやす、1972年10月21日 - )は、東京都港区出身の男子プロテニス選手。フリー。浦和学院高等学校-亜細亜大学卒業。身長175cm、体重69kg。右利き、フォア・バックともに片手打ち。ATPランキング自己最高位はシングルス865位、ダブルス413位。 大学在学時に学生としては33年ぶりに全日本選手権のダブルス優勝、10年後の2004年に再び全日本選手権ダブルス優勝、2005年混合ダブルス優勝、2006年ダブルス準優勝、2004年、2006年サニックス国際フューチャーズダブルス優勝など。グランドスラム大会の本戦出場を目指して、国内、海外のツアーを転戦中。全日本ランキングはシングルス29位、ダブルス4位(2007年8月31日付)。.

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佐藤次郎

佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5日 - 1934年(昭和9年)4月5日)は、日本の男子テニス選手。1930年代前半にグランドスラムシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権ダブルス準優勝、全豪オープン混合ダブルス準優勝など国際的に活躍したが、現役中に26歳で自ら命を断った。 グランドスラムシングルス ベスト4進出5回は現在も日本人歴代最多記録。現在日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者である。.

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土橋登志久

土橋 登志久(つちはし としひさ、1966年10月18日 - )は、鹿児島県出身の元男子テニス選手。早稲田大学教育学部卒。現在は早稲田大学庭球部監督。自己最高世界ランキングはシングルス359位(1988年5月)。.

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ペーター・ゴヨフチク

ペーター・ゴヨフチク(Peter Gojowczyk, 1989年7月15日 - )は、ドイツ・ミュンヘン出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス39位。これまでにATPツアーでシングルス1勝を挙げている。身長188cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「ゴヨブチック」という表記もある。.

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ペトル・コルダ

ペトル・コルダ(Petr Korda, 1968年1月23日 - )は、チェコ・プラハ出身の元男子プロテニス選手。1998年全豪オープン男子シングルス優勝者である。左利き。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス10位。ATPツアーでシングルス10勝、ダブルス10勝を挙げた。身長190cm、体重72kgの長身選手。.

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ナサニエル・ナイルズ

ナサニエル・ナイルズ(Nathaniel Niles, 1886年7月5日 - 1932年7月11日)は、アメリカ・マサチューセッツ州ボストン出身の男子テニスおよびフィギュアスケート選手。フルネームは Nathaniel William Niles (ナサニエル・ウィリアム・ナイルズ)という。テニス選手として1900年代から1910年代の全米テニス選手権で活躍し、1908年混合ダブルス優勝・1917年男子シングルス準優勝などの成績を挙げた後、フィギュアスケート選手として1920年アントワープオリンピック・1924年シャモニー・モンブランオリンピック・1928年サンモリッツオリンピックの3度オリンピックに出場した。フィギュアスケートの競技大会ではテレサ・ウェルド(1893年 - 1978年)とペアのパートナーを組んだ。.

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ミハル・プシシェズニ

ミハル・プシシェズニ(Michał Przysiężny, 1984年2月16日 - )は、ポーランド・グウォグフ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスでは1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス57位、ダブルス149位。身長185cm。右利きの両手打ち。彼のポーランド語での発音はで、これを最も近い日本語転写で表すと「ミハウ・プシシェンジュニ」となる。.

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ミハイル・ユージニー

ミハイル・ミハイロヴィチ・ユージニー(Mikhail Youzhny, Михаил Михайлович Южный, 1982年6月25日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス38位。これまでにATPツアーでシングルス10勝、ダブルス9勝を挙げる。身長183cm、体重73kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。日本語メディアではユーズニーの表記も見られる。 デビスカップ2002でロシア代表チームを初優勝に導いた実績を持ち、2006年全米オープン男子シングルスと2010年全米オープン男子シングルスで準決勝に進出。.

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ミハイル・ククシュキン

ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ククシュキン(Mikhail Aleksandrovich Kukushkin, Михаил Александрович Кукушкин, 1987年12月26日 - )は、カザフスタンの男子プロテニス選手。ソビエト連邦(現ロシア)領のヴォルゴグラード生まれで、今はカザフスタンのアスタナに在住している。これまでにATPツアーでシングルスで1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス46位、ダブルス114位。身長183cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ミロシュ・ラオニッチ

ミロシュ・ラオニッチ(Milos Raonic, Miloš Raonić, 1990年12月27日 - )は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国モンテネグロ社会主義共和国ティトーグラード(現:ポドゴリツァ)出身のカナダの男子プロテニス選手。カナダ人として初めてのグランドスラム男子シングルス決勝進出者。これまでにATPツアーでシングルス8勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス3位。身長196cm、体重98kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「ミロス・ラオニック」の表記も見られるが、カナダのメディアも「ミロシュ・ラオニッチ」と言う発音を使用している。 2016年ウィンブルドン選手権男子シングルス準優勝、マスターズ1000準優勝3回、2014年全米オープンシリーズ優勝。.

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ミロスラフ・メチージュ

ミロスラフ・メチージュ(Miloslav Mečíř, 1964年5月19日 - )は、チェコスロバキア、ボイニツェ(現スロバキア領)出身の元男子プロテニス選手。1988年のソウル五輪で男子シングルスの金メダルを獲得した。1986年の全米オープンと1989年の全豪オープンで、4大大会に2度の準優勝がある。どちらも決勝戦でイワン・レンドルに敗れた。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス4位。ATPツアーでソウル五輪金メダルを含むシングルス11勝、ダブルス9勝を挙げた。身長190cm、体重81kg、右利き。.

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ミーシャ・ズベレフ

ミハイル・アレクサンドロヴィチ・"ミーシャ"・ズベレフ(Mikhail "Mischa" Zverev Михаил Александрович «Миша» Зверев)は、ドイツの男子プロテニス選手。身長190cm。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPワールドツアーでシングルス1勝、ダブルス3勝。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス44位。.

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ミヒャエル・シュティヒ

ミヒャエル・シュティヒ(Michael Stich, 1968年10月18日 - )は、ドイツ・ピンネベルク出身の元男子プロテニス選手。身長193cm、体重79kgの細身から放つ、時速200km/hを超える強力な弾丸サーブを最大の武器にした。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス9位で、シングルス・ダブルスとも世界トップ10に入った数少ない選手のひとりである。ATPツアーではシングルスで1991年ウィンブルドンを含む18勝、ダブルスで1992年ウィンブルドンとバルセロナ五輪を含む10勝を挙げた。 1991年の ウィンブルドン男子シングルス優勝者、ATPツアー世界選手権1993年優勝者である。。.

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ミカエル・ペルンフォルス

ミカエル・ペルンフォルス(Mikael Pernfors, 1963年7月16日 - )は、スウェーデン・マルメ出身の元男子プロテニス選手。1986年の全仏オープンテニス男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは10位。身長172cm、体重68kg、右利き。「パーンフォース」の表記も多く見られる。 全米学生テニス選手権の優勝を経て、1985年にプロ入り。同年10月にブラジルの「ポルト・アレグレ」の大会でプロ初優勝。1986年の全仏オープンでは、わずか3度目の4大大会出場であったが、ノーシードから破竹の快進撃で勝ち進んだ。2回戦で同じスウェーデンのステファン・エドベリを 6-7, 7-5, 6-3, 2-6, 6-4 のフルセットで破る番狂わせに始まり、準々決勝では前年度のウィンブルドン優勝者ボリス・ベッカー、準決勝では地元フランス期待のアンリ・ルコントを破って決勝に進んだ。しかし、決勝戦では当時の世界ランキング1位であったイワン・レンドルの前に何もできず、3-6, 2-6, 4-6 のストレートで完敗して準優勝に終わった。この当時、スウェーデンのテニス界はエドベリとマッツ・ビランデルの世界的な活躍で盛り上がりが続いていたが、無名の伏兵だったペルンフォルスの活躍も大きな反響を呼んだ。同年のウィンブルドンでも活躍し、大会前年優勝者ボリス・ベッカーとの4回戦まで進出する。全米オープンでは2回戦でソ連のアンドレイ・チェスノコフに敗退したが、この年にペルンフォルスは世界ランキングを一気に10位まで上げた。1986年度末の男子最終ランキングではスウェーデン勢としてビランデル、エドベリ、ペルンフォルスの3人が世界トップ10位以内に入り、当地のテニス界は大いに沸き立った。しかし、その後の全仏オープンでは運に恵まれず、1987年-1989年の3年連続で1回戦敗退に終わってしまう。 その後ペルンフォルスの好成績は少なかったが、1987年に「セイコー・スーパー・テニス」で来日したことがあり、準決勝でイワン・レンドルに 0-6, 2-6 で敗れた。1988年には男子テニスツアーで年間2勝を挙げたが、1988年9月中旬のアメリカ・ロサンゼルスの大会では、決勝戦で当時18歳のアンドレ・アガシを 6-2, 7-5 で破った優勝もある。 1990年の全豪オープンでベスト8に入った時は、4回戦で珍事があった。対戦相手のジョン・マッケンローが審判への暴言をやめなかったため、第4セットの途中(ペルンフォルスのスコア:1-6, 6-4, 5-7, 4-2 / すなわち、マッケンローがセット・カウント 2-1 とリード中)で主審から「失格」を言い渡されたのである。これに観客は憤り、試合会場を立ち去ってしまった。ペルンフォルスはハプニングから初の全豪準々決勝に進んだが、フランスのヤニック・ノアに 3-6, 5-7, 2-6 のストレートで敗れた。 ペルンフォルスは1996年4月のトーナメントを最後に現役を引退し、現在は35歳以上の現役引退選手を対象にしたシニア・ツアーに参戦している。.

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ミカエル・ロドラ

ミカエル・ロドラ(Michaël Llodra, 1980年5月18日 - )は、フランス・パリ出身の男子プロテニス選手。ダブルスの得意なサーブ&ボレースタイルの選手として知られる。自己最高ランキングはシングルス21位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス26勝を挙げた。身長190cm、体重80kg、左利き。フランスのメディアでは「ヨドラ」と発音している。 ダブルスで4大大会優勝3回、マスターズ・カップ優勝1回、ロンドンオリンピック男子ダブルス銀メダリスト。.

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ミカエル・ジェレミアス

ミカエル・ジェレミアス(Michaël Jérémiasz, 1981年10月15日 - )はフランス、パリ生まれの車いすテニス選手。北京パラリンピック男子ダブルス金メダリスト。.

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ノバク・ジョコビッチ

ノバク・ジョコビッチ(Novak Đoković, Новак Ђоковић, 1987年5月22日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス1位、ダブルス114位。ATPツアーでシングルス68勝、ダブルス1勝。身長188cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 グランドスラムは歴代4位タイの優勝12回。キャリア・グランドスラム達成者。全豪オープンオープン化以降最多タイ・最多連覇の3連覇6回優勝。ATPワールドツアー・ファイナルを4連覇含む5回の優勝。マスターズ1000では歴代2位の30回の優勝。2011年にはオープン化以降男子6人目となる4大大会3冠達成。2015年にも達成。2015年には史上初のATPワールドツアー・マスターズ1000年間6勝、2度目の4大大会3冠を達成。男子史上3人目となるグランドスラム4大会連続優勝。 世界ランキング1位通算在位は歴代5位の223週、2014年7月7日から2016年11月6日まで1位に連続在位(122週・歴代4位記録)。セルビア人初の4大大会優勝者でデビスカップ2010のデビスカップセルビア代表の優勝に貢献。 ジョークや有名選手のモノマネといった、試合内外関わらずユーモラスなパフォーマンスを行うことでも知られ、、「ノール」(Nole)という愛称で呼ばれ親しまれている。セルビア・モンテネグロの分離により、現在は「セルビア」国籍でエントリーしている。キリスト教セルビア正教会の信徒である。.

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マラト・サフィン

マラト・ミハイロヴィチ・サフィン(Marat Safin,,, 1980年1月27日 - )は、ロシア・モスクワ出身の元男子プロテニス選手、政治家。ATPツアーでシングルス15勝、ダブルス2勝。右利き、バックハンドは両手打ち。 シングルス自己最高世界ランキングは1位。6歳年下の妹ディナラ・サフィナも2009年4月に女子テニス世界ランキング1位になり、マラトとディナラは史上初の“兄妹世界1位”を実現させた。 グランドスラムでは2000年全米オープン男子シングルスと2005年全豪オープン男子シングルスで優勝。デビスカップロシア代表としてデビスカップ2002、デビスカップ2006の優勝に貢献。ロシア男子初のウィンブルドン準決勝進出者。マスターズ・シリーズ優勝5回。.

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マラビーヤ・ワシントン

マラビーヤ・ワシントン(MaliVai Washington, 1969年6月20日 - )は、アメリカ・ニューヨーク州グレンコーブ出身の元男子プロテニス選手。1996年のウィンブルドン男子シングルス準優勝者。黒人のテニス選手として活躍した。シングルス自己最高ランキングは11位。ATPツアーでシングルス通算4勝を挙げたが、準優勝が1996年ウィンブルドンを含めて9度あった。身長180cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。マラビーヤは4人兄弟の2番目の子供として生まれ、女子プロテニスツアーで活躍するは末の妹である。.

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マリン・チリッチ

マリン・チリッチ(Marin Čilić, 1988年9月28日 - )は、ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)・メジュゴリエ出身のクロアチアの男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス49位。これまでにATPツアーでシングルス18勝を挙げる。身長198cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2014年全米オープン男子シングルス優勝者。2016年シンシナティ・マスターズ男子シングルス優勝者。 2017年ウィンブルドン選手権男子シングルス準優勝者。 2018年全豪オープン男子シングルス準優勝者。.

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マリンコ・マトセビッチ

マリンコ・マトセビッチ(Marinko Matosevic, 1985年8月8日 - )は、オーストラリアの男子プロテニス選手。ボスニア・ヘルツェゴビナのヤイツェ出身でメルボルンに在住している。まだATPツアーでシングルスの勝利はない。自己最高ランキングはシングルス39位。身長193cm、体重88kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2013年ロジャーズ・カップベスト8。.

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マリアノ・プエルタ

マリアノ・ルベン・プエルタ(Mariano Rubén Puerta, 1978年9月19日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の男子プロテニス選手。2005年全仏オープン男子シングルス準優勝者。身長180cm、体重78kg。男子テニスツアーでシングルス3勝、ダブルス3勝を挙げた。.

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マリアノ・サバレタ

マリアノ・サバレタ(Mariano Zabaleta, 1978年2月28日 - )は、アルゼンチン・タンディル出身の男子プロテニス選手。身長183cm、体重77kg。ATPツアーでシングルス3勝を挙げた。.

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マリウシュ・フィルステンベルク

マリウシュ・フィルステンベルク(Mariusz Fyrstenberg, 1980年7月8日 - )は、ポーランド・ワルシャワ出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとしてよく知られ、主に同じポーランドのマルチン・マトコフスキとのダブルスのみに活動を絞っていたが2014年末でコンビを解消している。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで18勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス317位、ダブルス6位。身長190cm、体重80kg、左利きの選手。赤土のクレーコートを最も得意にした。.

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マリオ・アンチッチ

マリオ・アンチッチ(Mario Ančić, 1984年3月30日 - )は、クロアチア・スプリト出身の男子プロテニス選手。クロアチアの先輩選手ゴラン・イワニセビッチと同じスプリット出身で、顔立ちも試合中の挙動もよく似ていることから、「イワニセビッチ2世」と呼ばれることが多い。人気テレビゲームの『スーパーマリオブラザーズ』にちなんだ“スーパーマリオ”というニックネームもある。 シングルス自己最高ランキングは7位(2006年7月)。男子テニス国別対抗戦・デビスカップ2005で、同僚のイワン・リュビチッチとともにデビスカップクロアチア代表を初優勝に導いた。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス5勝を挙げた。身長195cm、体重81kgの長身選手。妹のサンヤ・アンチッチもプロテニス選手になった。.

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マルチン・マトコフスキ

マルチン・マトコフスキ(Marcin Matkowski, 1981年1月15日 - )は、ポーランド・バルリネク出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとしてよく知られ、主に同じポーランドのマリウシュ・フィルステンベルクとのダブルスのみに活動を絞っていたが2014年末でコンビを解消している。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで16勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス647位、ダブルス7位。身長188cm、体重81kg、右利きの選手。サービスとフォアハンド・ストロークを最も得意にする。(彼の姓“Matkowski”は、これまでの報道では「マトコウスキー」の読みが多かった。).

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マルティン・フェルカーク

マルティン・ヴィレム・フェルカーク(Martin Willem Verkerk, 1978年10月31日 - )は、オランダ・南ホラント州ライデルドルプ出身の男子プロテニス選手。身長195cm、体重89kg の長身を誇り、強力な弾丸サーブを武器にする“ビッグ・サーバー”タイプの選手である。シングルス自己最高ランキングは14位。 2003年全仏オープン男子シングルスにおいて世界ランキング74位ノーシードでありながら準優勝を果たす。2003年BNLイタリア国際ベスト8。.

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マルティン・ダム

マルティン・ダム(Martin Damm, 1972年8月1日 - )は、チェコ・リベレツ出身の男子プロテニス選手。長年にわたり、ダブルスのスペシャリストとして活動してきた。ATPツアーでシングルスの優勝はないが(準優勝5度)、ダブルスで40勝を挙げた。.

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マルティン・クリザン

マルティン・クリザン(Martin Kližan, 1989年7月11日 - )は、スロバキア・ブラチスラヴァ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス5勝、ダブルス4勝を挙げている。身長190cm。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス24位、ダブルス73位。クリザンはこれまでATPツアーで9度決勝進出があるが、そのすべてで優勝している。.

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マルク・ロペス

マルク・ロペス・タレース(Marc López Tarrés, 1982年7月31日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルス12勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス106位、ダブルス3位。 2016年全仏オープン男子ダブルスで優勝。リオデジャネイロ五輪男子ダブルス金メダル。2012年ATPワールドツアー・ファイナル男子ダブルス優勝の経歴がある。.

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マルク・ロセ

マルク・ロセ(Marc Rosset, 1970年11月7日 - )は、スイス・ジュネーヴ出身の元男子プロテニス選手。1992年バルセロナ五輪男子シングルスの金メダルを獲得した選手である。4大大会でも、1992年全仏オープン男子ダブルスでヤコブ・ラセクとペアを組んで優勝した。身長200cm、体重88kg。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス8位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。バルセロナ五輪の金メダルを含めて、ATPツアーでシングルス15勝、ダブルス8勝を挙げた。.

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マルク・ジケル

マルク・ジケル(Marc Gicquel, 1977年3月30日 - )は、チュニジア共和国・チュニス出身の元フランス男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルスでは勝利はないが(準優勝3回)、ダブルスで4勝がある。 自己最高ランキングはシングルス37位、ダブルス38位。右手利きで両手打ちのプレイヤーである。.

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マルコム・チェイス

マルコム・チェイス(Malcolm Chace, 1875年3月12日 - 1955年7月16日)は、アメリカ・ロードアイランド州バレー・フォールズ出身の男子テニス選手。フルネームは Malcolm Greene Chace (マルコム・グリーン・チェイス)という。1890年代から1900年代の全米選手権(現在の全米オープンテニス)で活躍し、1895年の男子ダブルスでロバート・レンとペアを組んで優勝した選手である。彼は身長185cm、体重68kgほどの細身の体格で、国際テニス殿堂評伝の冒頭文では“beanpole”(豆の支柱のようにひょろ長い人)と描写されている。右利きの選手。.

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マルコム・ホイットマン

マルコム・ホイットマン(Malcolm Whitman, 1877年3月15日 - 1932年12月28日)は、アメリカ・ニューヨーク出身の男子テニス選手。ハーバード大学卒業。初期の全米選手権(現在の全米オープン)で、1898年から1900年まで男子シングルス3連覇を達成した選手である。 彼は1900年に創設された男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」において、カップ寄贈者のドワイト・デービス、ホルコム・ウォードとともに、最初のアメリカ代表チームの一員としてプレーした。 彼のテニスは、逆方向のツイストサーブ(打球がコート上に落ちると、レシーバーの左側で逆回転するサービス)を発明し、鋭いボレーで一気にたたみかける攻撃を得意にした。右利きの選手で、身長は188cmほどであった。フルネームは Malcolm Douglass Whitman (マルコム・ダグラス・ホイットマン)という。.

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マルコム・アンダーソン

マルコム・アンダーソン(Malcolm Anderson, 1935年3月3日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州セオドア出身の男子テニス選手。愛称の「マル・アンダーソン(Mal Anderson)」で呼ばれることも多い。 1957年の全米選手権男子シングルス優勝者になった後、1959年に「プロテニス選手」に転向した。その後1968年に始まったテニス界の「オープン化措置」で4大大会に復帰し、1973年の全豪オープン男子ダブルス優勝者になり、オープン化時代の前後をまたいで活動した。.

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マルコ・チウディネリ

マルコ・チウディネリ(Marco Chiudinelli, 1981年9月10日 - )は、スイス・バーゼル出身のスイス男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルスでは勝利はないが、ダブルスで1勝がある。自己最高ランキングはシングルス52位、ダブルス118位。身長188cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「マルコ・キウディネッリ」「マルコ・キュードネリ」等の表記も見られる。.

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マルコス・バグダティス

マルコス・バグダティス(Marcos Baghdatis, ギリシャ語:Μάρκος Παγδατής, 1985年6月17日 - )は、キプロス・リマソール出身の男子プロテニス選手。当地から登場した最初の本格的なプロテニス選手として活動し、これまでにATPツアーでシングルス4勝、ダブルス1勝を挙げている。シングルス自己最高ランキングは8位(2006年8月)。身長182cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2006年全豪オープン男子シングルス準優勝者。2006年ウィンブルドン選手権男子シングルスベスト4。ベースライン・プレーヤーで、フォアハンド・ストロークの強打とサービスを大きな武器にする。.

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マルセル・ベルナール

マルセル・ベルナール(Marcel Bernard, 1914年5月18日 - 1994年4月29日)は、フランス・ラ・マドレーヌ市出身の男子テニス選手。1946年の全仏選手権男子シングルス優勝者で、第2次世界大戦終戦後の全仏選手権で最初の優勝者になった人である。ベルナールは戦前の全仏選手権でも、1935年・1936年に混合ダブルス2連覇があり、1936年に男子ダブルス・混合ダブルスの2部門制覇を達成した。彼は第2次世界大戦をはさんで、1931年から1956年まで26年間の長い選手生活を送り、男子テニス国別対抗戦・デビスカップフランス代表選手としても長く活動した。左利きの選手。.

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マルセル・イルハン

マルセル・イルハン(Marsel İlhan, 1987年6月11日 - )は、トルコの男子プロテニス選手。ウズベキスタンのサマルカンドに生まれ、トルコのイスタンブールに在住している。2009年全米オープンにおいて、トルコ人初の4大大会シングルス本戦出場を果たした。自己最高ランキングはシングルス77位、ダブルス564位。身長190cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。フォアハンドのクロスコートへのショット(コートの対角線方向に打つショット)を得意にする選手。.

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マルセル・グラノリェルス

マルセル・グラノリェルス・プジョル(Marcel Granollers Pujol, 1986年4月12日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス4勝、ダブルス15勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス4位。「グラノジェルス」の表記揺れも多い。 2014年全仏オープン男子ダブルスと2014年全米オープン男子ダブルス準優勝。2012年ATPワールドツアー・ファイナル男子ダブルス優勝。マスターズ1000では優勝1回・準優勝4回。.

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マルセロ・メロ

マルセロ・ピンヘイロ・ダヴィ・デ・メロ(Marcelo Pinheiro Davi de Melo, 1983年9月23日 - )は、ブラジル・ベロオリゾンテ出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして活動し、これまでにATPツアーでダブルス19勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス273位、ダブルス1位。身長203cmの長身からついた“Girafa”(ジラファ、「キリン」の意味)というニックネームがある。 2015年全仏オープン男子ダブルス優勝。2017年ウィンブルドン選手権男子ダブルス優勝。2009年全仏オープン混合ダブルス、2013年ウィンブルドン選手権男子ダブルス、2014年ATPワールドツアー・ファイナル準優勝。.

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マルセロ・リオス

マルセロ・アンドレス・リオス・マヨルガ(Marcelo Andrés Ríos Mayorga、1975年12月26日 - )は、チリ・サンティアゴ・デ・チレ出身の男子プロテニス選手。左利き。ATPツアーでシングルス18勝、ダブルス1勝を挙げた。。 1998年全豪オープン男子シングルス準優勝者。1998年グランドスラムカップ優勝者。マスターズシリーズ優勝5回。1998年に世界ランキング1位。初のマスターズクレーコート3大会優勝者。オープン化以降唯一のグランドスラム優勝経験無しの世界ランキング1位在位者。.

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マルセロ・フィリピーニ

マルセロ・フィリピーニ(Marcelo Filippini, 1967年8月4日 - )は、ウルグアイ・モンテビデオ出身の元男子プロテニス選手。1999年の全仏オープンでベスト8に入り、当地のテニス選手として4大大会男子シングルスの最高成績を出した選手である。自己最高ランキングはシングルス30位、ダブルス44位。彼はATPツアーでシングルス5勝、ダブルス3勝を挙げた。フォアハンド・ストロークを最も得意にしたベースライン・プレーヤーである。.

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マレク・ジャジリ

マレク・ジャジリ(Malek Jaziri,, 1984年1月20日 - )は、チュニジア・ビゼルト出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス47位、ダブルス195位。ATPツアーでの優勝はまだない。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。2018年現在でチュニジアNo.1プレイヤー。.

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マンスール・バーラミ

マンスール・バーラミ(ペルシア語:منصور بهرامی, Mansour Bahrami, 1956年4月26日 - )は、イラン・アラーク出身の男子プロテニス選手。当地が生んだ最高のテニス選手で、1989年の全仏オープン男子ダブルス準優勝者になった人である。彼はイランの選手という困難な境遇もあり、大規模なトーナメントの出場機会に恵まれなかったが、現役選手時代は“コートの魔術師”と呼ばれた。自己最高ランキングはシングルス192位、ダブルス31位。ATPツアーでシングルスの優勝はなく(生涯戦績22勝46敗)、ダブルスで2勝を挙げたが、準優勝が1989年全仏オープンを含めて10度あった。 バーラミはイランの貧しい家庭で育ち、テニスのボールボーイ(球拾い)の仕事がきっかけでこのスポーツに親しみ始めた。彼には自分のラケットを買うお金もなかったため、家のフライパンを回したり、ごみ箱を漁って自分でラケットを作りながら、独学でテニスを覚えたという。後にプロ選手として見せた華麗な技術は、このような創意工夫から生まれたものである。彼の少年時代はパーレビ国王の時代であり、1974年に18歳で男子テニス国別対抗戦・デビスカップに初出場したが、間もなくイラン・イスラム革命が起こり、1979年に「イラン・イスラム共和国」が成立した。革命の影響で、当地における「プロスポーツ」が全面的に禁止されたため、バーラミはイランを離れてフランスに定住し、以後は活動の拠点をフランスに移した。 バーラミがプロテニス選手として最初に出場したトーナメントは、1975年に故国イランの首都テヘランで行われた大会であったが、前述の事情のため1978年から1980年までの3年間は全く試合に出場できなかった。ようやく1981年全仏オープンを足掛かりに、彼はフランスで活動を再開する。1986年からバーラミのダブルス・キャリアは軌道に乗り始め、この年にATPツアー大会のダブルスで3度の準優勝を記録する。1987年にもダブルス準優勝が2度あり、ようやく1988年にスイス・ジュネーヴ大会のダブルスで初優勝を果たした。そして、彼の選手生活のハイライトとなった1989年全仏オープンを迎える。33歳になったバーラミはフランスのエリック・ヴィノグラツキとペアを組み、イランのテニス選手として史上初の4大大会決勝進出を成し遂げたが、決勝ではアメリカペアのジム・グラブ&パトリック・マッケンロー組に 4-6, 6-2, 4-6, 6-7 (セットカウント1-3)で敗れ、初優勝のチャンスを逃した。現在に至るまで、グランドスラム大会の決勝でプレーしたイラン人テニス選手はバーラミ1人だけである。 バーラミは男子ツアー大会でのシングルス出場機会が限られ、4大大会のシングルス出場は全仏オープンのみであった。彼のシングルス経歴は1992年で終わり、その後は1993年に創設された男子テニスのシニア・ツアーを回り始めた。ダブルスでは1995年9月のチェコ・プロステヨフ大会まで出場記録が残っている。 イランは革命のためデビスカップからも長い間遠ざかっていたが、1992年にようやくイランのデ杯復帰が実現した。1993年からバーラミも15年ぶりにデ杯復帰を果たし、41歳を迎える1997年までイラン代表選手としてプレーした。.

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ノーマン・ブルックス

ノーマン・ブルックス(Norman Brookes, 1877年11月14日 - 1968年9月28日)は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。フルネームは Sir Norman Everard Brookes (サー・ノーマン・エベラード・ブルックス)という。20世紀初頭の時期、1900年代から1910年代にかけて活躍し、1907年のウィンブルドン選手権でイギリス人以外の選手として初の同選手権優勝者となった選手である。左利き。目を見張るようなテニス・スタイルから“The Wizard”(魔術師)というニックネームで呼ばれた。.

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マートン・フチョビッチ

マートン・フチョビッチ(Márton Fucsovics,, 1992年2月8日 - )は、ハンガリー・ニーレジハーザ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス45位、ダブルス263位。これまでにATPツアーでシングルスで1勝を挙げている。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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マーティン・マリガン

マーティン・マリガン(Martin Mulligan, 1940年10月18日 - )は、オーストラリア・マリックビル出身の男子テニス選手。1962年のウィンブルドン選手権男子シングルス準優勝者。1970年の全日本テニス選手権男子シングルスで優勝したこともある。彼は「マーティー・マリガン」(Marty Mulligan)と呼ばれることも多い。 マリガンは1961年の全豪選手権男子ダブルスで、ロイ・エマーソンとペアを組んだ準優勝がある。マリガンとエマーソンは、決勝でロッド・レーバー&ロバート・マーク組に 3-6, 5-7, 6-3, 11-9, 2-6 のフルセットで敗れた。この年に「オーストラリア・ローンテニス協会」が厳重な規定を設け、トップ選手たちが協会の許可なくオーストラリア国外のテニス・トーナメントに出場することを禁止した。無許可で海外試合に出た選手は、協会から追放されることが定められた。その翌年、1962年にマリガンはウィンブルドン選手権でノーシードから決勝に勝ち上がった。この大会では、ベスト4はマリガン、ロッド・レーバー、ニール・フレーザー、ジョン・フレーザーで、すべてオーストラリア勢であった。ウィンブルドンの男子シングルス4強にアメリカ勢が1人もいなかったのは、1922年以来40年ぶりだったという。マリガンは準決勝でジョン・フレーザーに 6-3, 6-2, 6-2 で快勝したが、決勝の舞台ではレーバーに 2-6, 2-6, 1-6 で完敗した。1962年はレーバーが1回目の「年間グランドスラム」を達成した年であり、マリガンは偉業の引き立て役の1人に回った。 マーティン・マリガンは「オーストラリア・ローンテニス協会」の追放規定に反対し、1964年にオーストラリアを離れてイタリアに移り住んだ。その後はローマに在住し、ヨーロッパ各地の試合で活躍した。1968年、マリガンは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイタリア代表選手として出場し、チーム内で9勝2敗の成績を出した。イタリア・チームは「ヨーロッパ・ゾーン」の決勝まで進んだが、対スペイン戦の最終第5試合でマリガンがマニュエル・オランテスとの試合を途中棄権してしまった。この年からATPツアーが発足し、マリガンは2つのプロツアー大会で優勝している。 それから2年後、マリガンは全日本テニス選手権で来日し、決勝で九鬼潤(法政大学)を 6-2, 6-3, 7-5 で破って優勝した。日本テニス協会による全日本テニス選手権の優勝記録表において、マリガンの国籍が「イタリア」(ITA)と記載されているのは、前述の事情による。 最盛期のオーストラリアを離れたマリガンは、1975年5月に現役を引退した。.

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マーディ・フィッシュ

マーディ・フィッシュ(Mardy Fish, 1981年12月9日 - )は、アメリカ・ミネソタ州イーダイナ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス14位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス8勝を挙げた。身長187cm、体重81kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2004年のアテネ五輪で男子シングルスの銀メダルを獲得した選手である。2011年ATPワールドツアー・ファイナル出場。2011年全米オープンシリーズ優勝。マスターズ1000で4度の準優勝経験がある。.

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マーク・ノールズ

マーク・ノールズ(Mark Knowles, 1971年9月4日 - )は、バハマ・ナッソー出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして知られ、長年の間カナダのダニエル・ネスターとペアを組んで活躍した。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで55勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス96位、ダブルス1位。身長190cm、体重88kg、右利き。.

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マーク・フィリプーシス

マーク・アンソニー・フィリプーシス (Mark Anthony Philippoussis, 1976年11月7日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の男子プロテニス選手。身長195cm、体重102kgの大型選手。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス18位。これまでにATPツアーでシングルス11勝、ダブルス3勝を挙げる。(新聞の一般表記では「フィリプーシス」となっているが、「フィリポーシス」と表記されることも多い。 4大大会の1998年全米オープン男子シングルスと2003年ウィンブルドン選手権男子シングルスの準優勝者である。.

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マーク・ウッドフォード

マーク・ウッドフォード(Mark Woodforde, 1965年9月23日 - )は、オーストラリア・アデレード出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス67勝を挙げた。身長187cm、体重88kg、左利きの選手。 長年にわたり、ダブルスの名手として活躍した。とりわけ、同じオーストラリアのトッド・ウッドブリッジとのペアで無敵の強さを発揮したが、この2人は姓がよく似ていることから「ウッディーズ」(Woodies)と呼ばれた。グランドスラム優勝17回。ダブルス・混合ダブルス両方で生涯グランドスラム達成。.

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マーク・エドモンドソン

マーク・ロナルド・エドモンドソン(Mark Ronald Edmondson, 1954年6月28日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ゴスフォード出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス34勝を挙げた。4大大会でも男子ダブルスでは通算「5勝」を挙げている。“Eddo”(エド)という愛称で呼ばれた。 1976年の全豪オープン男子シングルス優勝者であり、地元オーストラリア人選手最後の全豪オープン男子シングルス優勝者である。.

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マッツ・ビランデル

マッツ・ビランデル(Mats Wilander、1964年8月22日 - )は、スウェーデン・ヴェクショー出身の元男子プロテニス選手。ビョルン・ボルグ、ステファン・エドベリと並んで、スウェーデンの男子テニス界の黄金期を築いた3強豪のひとりである。4大大会でシングルス通算「7勝」を挙げ、ダブルスでも1986年のウィンブルドンで優勝した。彼は4大大会男子シングルスで、クレーコート・芝コート・ハードコート、すべてのサーフェスを制した史上2人目の選手でもある(現在まで、ジミー・コナーズ、ビランデル、アンドレ・アガシ、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチの6人のみが達成した)。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス7勝を挙げた。右利きの選手。.

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マックス・ミルヌイ

マクシーム・ニコラエヴィチ・"マックス"・ミルヌイ(Max Mirnyi,,, 1977年7月6日 - )は、ベラルーシ(旧ソ連)・ミンスク出身の男子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られ、すべての4大大会で男子ダブルス部門の決勝進出記録を持つ選手である。2012年ロンドン五輪の混合ダブルスではビクトリア・アザレンカと組み金メダルを獲得した。ATPツアーでシングルスは1勝と少ないが、ダブルスで通算48勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス18位、ダブルス1位。身長195cm、体重93kgの長身選手。.

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マックス・デキュジス

マックス・デキュジス(Max Décugis, 1882年9月24日 - 1978年9月6日)は、フランス・パリ出身の男子テニス選手。フルネームは Maxime Omer Décugis (マキシム・オメール・デキュジス)という。フランスが生んだ最初の偉大なテニス選手として、黎明期の全仏選手権で男子シングルス8勝、男子ダブルス13勝、混合ダブルス7勝を挙げ、総計「28」の全仏タイトルを獲得した。デキュジスは国際的にも活躍し、1906年のアテネ中間五輪で男子シングルス・男子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに金メダルを獲得し、1911年にはウィンブルドン選手権の男子ダブルスでも優勝した。第1次世界大戦後の1920年アントワープ五輪でも、混合ダブルスの金メダルと男子ダブルスの銅メダル獲得がある。彼の時代の全仏選手権は、出場資格がフランス人選手のみに限定されていたため、デキュジスの優勝記録はテニス界の「公認記録」に含められていない。デキュジスのテニスは、パワフルな躍動感と楽しさにあふれていたという。.

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マヘシュ・ブパシ

マヘシュ・シュリーニヴァース・ブパシ(Mahesh Shrinivas Bhupathi, タミル語:மகேஷ் சீனிவாஸ் பூபதி, 1974年6月7日 - )は、インド・マドラス(現チェンナイ)出身の男子プロテニス選手。長年にわたり、ダブルスの名手として活躍してきた。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで52勝を挙げ、4大大会でも男子ダブルス4勝、混合ダブルス8勝を挙げた。そのうち、1997年全仏オープン混合ダブルスでは平木理化とペアを組み、1999年全米オープンでは杉山愛と組んで優勝したことから、日本でもよく知られた選手である。身長185cm、体重88kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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マテ・パビッチ

マテ・パビッチ(Mate Pavić, 1993年7月4日 - )は、クロアチア・スプリット出身のクロアチアの男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス295位、ダブルス15位。これまでにATPツアーでダブルス7勝を挙げる。身長188cm、体重78kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。2016年全米オープン混合ダブルス優勝者。.

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マニュエル・アロンソ

マヌエル・アロンソ(Manuel Alonso, 1895年11月12日 - 1984年10月11日)は、スペイン・サン・セバスティアン出身の男子テニス選手。フルネームは Manuel Alonso de Areyzaga (マヌエル・アロンソ・デ・アレイサーガ)という。1920年代から1930年代にかけて活動し、スペインにおける競技テニスの先駆者となった選手である。彼は1921年にウィンブルドン選手権の「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)決勝進出者となり、全米選手権で4度ベスト8に入った。スペインが1921年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップに参加し始めた時の、最初のメンバーの1人でもあり、1936年まで代表選手を務めた。アロンソは清水善造や原田武一との対戦を通して、同じく黎明期にあった日本のテニス界とも深いつながりを持っていた。右利きの選手で、体格は身長175cm、体重66kgほどであった。.

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マニュエル・オランテス

マニュエル・オランテス・コルラル(Manuel Orantes Corral, 1949年2月6日 - )は、スペイン・グラナダ出身の男子プロテニス選手。1970年代から1980年代前半にかけて活躍し、1975年の全米オープン男子シングルスで優勝した。左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス33勝、ダブルス22勝を挙げた。身長177cm、体重75kgで、男子テニス選手としてはやや小柄な体格だった。.

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マニュエル・サンタナ

マヌエル・サンタナ(Manuel Martinez Santana, 1938年5月10日 - )は、スペイン・マドリード出身の男子テニス選手。主に1960年代に活躍し、4大大会の男子シングルスで通算4勝を挙げた。フルネームは Manuel Martinez Santana (マヌエル・マルティネス・サンタナ)という。「マノーロ」“Manolo”という愛称形で親しまれた。赤土のクレーコートが多いスペインの選手でありながら、サンタナはサーフェス(表面)が異なる芝生コートのウィンブルドン選手権と全米選手権でも優勝を飾り、両大会で史上初のスペイン人優勝者となった。彼は順応性に富むテニス・スタイルと、試合中に笑顔さえ見せるほどの気さくな人柄で高い人気を持っていた。年代的にはオーストラリア・テニス界の全盛期と同時代に位置している。.

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マイク・ブライアン

マイク・ブライアン(Mike Carl Bryan, 1978年4月29日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州カマリロ出身の男子プロテニス選手。身長190cm、体重84kg。右利き。双子の兄弟であるボブ・ブライアンとともに「ブライアン兄弟」のダブルスとして活動している。兄弟2人ともシングルスにはほとんど出場せず、ダブルスのみに活動を絞っている。 ダブルスでのキャリアゴールデンスラム達成者。ATPツアーでダブルス114勝を挙げている。ダブルスにおいて100勝達成はATPツアーで史上初めての快挙。マイクの優勝回数がボブの総計を2つ上回っているのは、2002年にマーク・ノールズ、マヘシュ・ブパシと組んで1勝ずつ獲得したため。.

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マイケル・チャン

マイケル・ターペイ・チャン(Michael Te-Pei Chang, 中国語名:張德培(Zhāng Dépéi), 1972年2月22日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ホーボーケン出身の元男子プロテニス選手。台湾系アメリカ人。右利き。バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは2位。グランドスラム優勝1回、準優勝3回。ATPマスターズシリーズ優勝7回。テニス・マスターズ・カップに7度出場し1995年に準優勝を果たした。 男子シングルスグランドスラム最年少優勝記録保持者(17歳3ヶ月)。アジアにルーツを持つ男子選手として唯一のグランドスラム優勝者。 台湾系アメリカ人の選手で、男子テニス選手としては身長175センチの小柄な身体であるが、世界でも屈指のストロークプレーヤーであった。驚異的なフットワークと、発想豊かなゲームメイキング力を持ち味とした。ATPツアーでシングルス34勝を挙げた。 現在、錦織圭のコーチを務めている。.

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マイケル・ラッセル

マイケル・クレイグ・ラッセル(Michael Craig Russel, 1978年5月1日 - )は、アメリカ・ミシガン州デトロイト出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス、ダブルスともに勝利はない。シングルス自己最高ランキングは60位。身長173cm、体重72kg、右利き両手打ち。.

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マイケル・ヴィーナス

マイケル・ヴィーナス(Michael Venus、1987年10月16日 - )は、ニュージーランド・オークランド出身の男子プロテニス選手。ATPツアーダブルスで7勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス274位、ダブルス12位。身長191cm、体重85kgの長身選手。.

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マイケル・シェファース

マイケル・シェファース(Maikel Scheffers, 1982年9月7日 - )はオランダの車いすテニス選手で北京パラリンピック銅メダリスト。マイケル・シェファーズの表記もある。.

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マクラクラン勉

マクラクラン勉(マクラクラン べん、1992年5月10日 - )は、ニュージーランド出身、日本国籍の男子プロテニス選手。「ベン・マクラクラン」とも表記される。ATPツアーでダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはダブルス25位。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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マグヌス・ノーマン

マグヌス・ノーマン(Magnus Norman, 1976年5月30日 - )は、スウェーデン・ヴェルムランド県出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者。ATP自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス133位。ATPツアーでシングルス12勝を挙げた。 2000年全仏オープン男子シングルス準優勝。2000年ローマ・マスターズ優勝。2000年テニス・マスターズ・カップ出場。 現在はスタン・ワウリンカのコーチを務める。.

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マシュー・エブデン

マシュー・エブデン(Matthew Ebden, 1987年11月26日 - )は、オーストラリアの男子プロテニス選手。南アフリカ共和国のダーバン出身でパースに在住している。2013年全豪オープン混合ダブルスでヤルミラ・ガイドソバと組み優勝を果たした。まだATPツアーでのシングルスの勝利はないがダブルスで4勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス51位、ダブルス57位。身長188cm、体重78kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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チャン・シャルケン

チャン・シャルケン(Sjeng Schalken, 1976年9月8日 - )は、オランダ・リンブルフ州ヴェールト出身の元男子プロテニス選手。世界屈指の速度を誇る、強力な弾丸サーブを最大の武器にする“ビッグ・サーバー”タイプの選手である。自己最高ランキングはシングルス11位、ダブルス21位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス6勝を挙げた。身長193cm、体重82kgの長身選手。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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チャールズ・ウィンスロー

チャールズ・ウィンスロー(Charles Winslow, 1888年8月1日 - 1963年9月15日)は、南アフリカ・東ケープ州クイーンズタウン出身の男子テニス選手。フルネームは Charles Lyndhurst Winslow (チャールズ・リンドハースト・ウィンスロー)という。1912年のストックホルム五輪で男子シングルス・男子ダブルスの金メダルを獲得し、南アフリカの選手として初めてオリンピックテニスのメダル受賞者になった人である。.

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チャールズ・ガーランド

チャールズ・ガーランド(Charles Garland, 1898年10月29日 - 1971年1月28日)は、アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ出身の男子テニス選手。1920年のウィンブルドン選手権男子ダブルスでリチャード・ウィリアムズとペアを組んで優勝し、アメリカ人選手として最初のウィンブルドン・ダブルス優勝者になった選手である。フルネームは Charles Stedman Garland (チャールズ・ステッドマン・ガーランド)といい、愛称の「チャック・ガーランド」(Chuck Garland)で文献に記載されることも多い。.

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チャック・マッキンリー

チャック・マッキンリー(Chuck McKinley, 1941年1月5日 - 1986年8月10日)は、アメリカ・ミズーリ州セントルイス出身の男子テニス選手。1963年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者で、全米選手権の男子ダブルスでも3勝を挙げた。フルネームは Charles Robert McKinley Jr. (チャールズ・ロバート・マッキンリー・ジュニア)というが、愛称の「チャック・マッキンリー」で最もよく知られている。マッキンリーは身長175cm、体重70kgほどの体格であったが、ずんぐりとした大きな胸元の体つきだったという。彼の全盛期は、ちょうどオーストラリア・テニス界の絶頂期と重なり、マッキンリーはその中でアメリカを代表する存在だった。.

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ネナド・ジモニッチ

ネナド・ジモニッチ(Nenad Zimonjić, Ненад Зимоњић, 1976年6月4日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の男子プロテニス選手。身長190cm、体重91kg、右利き。長年にわたりダブルスのスペシャリストとして活動してきた。これまでにATPツアーでダブルス53勝を挙げる。彼には“Ziki”(ジキ)“Zimo”(ジモ)“Zimone”(ジモーネ)などの愛称がある。の表記もみられる。 4大大会では男子ダブルス3勝、混合ダブルス5勝の計8勝を挙げている。自己最高ランキングはダブルス1位。.

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ハリー・ホップマン

ハリー・ホップマン(Harry Hopman, 1906年8月12日 - 1985年12月27日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の男子テニス選手。フルネームは Henry Christian Hopman (ヘンリー・クリスティアン・ホップマン)というが、「ハリー・ホップマン」の名前で最もよく知られる。現役選手時代は優れたダブルス選手として知られ、4大大会で男子ダブルス2勝・混合ダブルス5勝を挙げ、とりわけ妻のネル・ホール・ホップマン(1909年 - 1968年)との混合ダブルスで強さを発揮したが、シングルスでは全豪選手権で3年連続の準優勝に終わった。 ホップマンは男子テニス国別対抗戦・デビスカップオーストラリア代表監督として傑出した成績を残し、1938年から1969年まで30年以上の長きにわたってオーストラリア・チームを率いた。そのため、ホップマンはテニスの歴史の中でも屈指の名監督として名前を残した。.

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ハロルド・マホニー

ハロルド・マホニー(Harold Mahony, 1867年2月13日 - 1905年6月27日)は、アイルランドの男子テニス選手。スコットランドのエジンバラに生まれる。1896年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者になり、1900年パリ五輪でも男子シングルス銀メダル・男子ダブルス銅メダル・混合ダブルス銀メダルを獲得した。フルネームは Harold Segerson Mahony (ハロルド・セガーソン・マホニー)という。彼の姓「マホニー」には、“Mahony”または“Mahoney”の表記揺れが多い。彼のテニスは、ボレーやスマッシュ、バックハンド・ストロークには攻撃力があったが、フォアハンド・ストロークが弱点で「テニス史上最悪のフォアハンド」と評した人もいたという。.

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ハロルド・ハケット

ハロルド・ハケット(Harold Hackett, 1878年7月12日 - 1937年11月20日)は、アメリカ・マサチューセッツ州ヒンガム出身の男子テニス選手。フルネームは Harold Humphrey Hackett (ハロルド・ハンフリー・ハケット)という。エール大学卒業。1905年から1911年にかけて、全米選手権の男子ダブルスでフレッド・アレクサンダーとともに「7年連続」決勝に進出し、1907年から1910年まで4連覇を達成した選手である。.

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ハロルド・キトソン

ハロルド・キトソン(Harold Kitson, 1874年6月17日 - 1951年11月30日)は、南アフリカ・クワズール・ナタール州リッチモンド出身の男子テニス選手。フルネームは Harold Austin Kitson (ハロルド・オースティン・キトソン)といい、愛称の「ハリー・キトソン」(Harry Kitson)で文献に記載されることも多い。.

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ハロルド・ソロモン

ハロルド・ソロモン(Harold Solomon, 1952年9月17日 - )は、アメリカ・ワシントン出身の元男子プロテニス選手。1976年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは5位。ATPツアーでシングルス22勝、ダブルス1勝を挙げた。身長167cm、体重59kgで、男子プロテニス界では小柄な体格の選手だった。ソロモンは“the human backboard”(人間バックボード)と呼ばれたほど温厚な人柄の持ち主だったが、対戦相手の選手たちは彼の巧みなロブショットやリターンに“いらだつ”ことが多かったという。.

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ハーバート・バデリー

ハーバート・バデリー(Herbert Baddeley, 1872年1月11日 - 1931年7月20日)は、イギリス・ロンドン市内ブロムリー出身の男子テニス選手。1890年代のウィンブルドン選手権で、双子の兄であるウィルフレッド・バデリーとともに「バデリー兄弟」として活躍した。弟のハーバートはシングルスでは兄ほどの顕著な成績はなかったが、ウィルフレッドと組んだ男子ダブルスで4勝を挙げた。.

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ハーバート・ローフォード

ハーバート・ローフォード(Herbert Lawford, 1851年5月15日 - 1925年4月20日)は、イングランド・ウェストミンスター・ベイズウォーター出身の男子テニス選手。1887年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者である。彼はトップスピン(順回転)をかけたフォアハンド・ストロークを編み出したことでも知られ、そのショットは彼の名前をとって「ローフォード・ストローク」(Lawford Stroke)と呼ばれた。右利きの選手。.

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ハーバート・フラム

ハーバート・フラム(Herbert Flam, 1928年11月7日 - 1980年11月25日)は、アメリカ・ニューヨークブルックリン出身の男子テニス選手。1950年の全米選手権と1957年の全仏選手権で、4大大会の男子シングルスに2度準優勝した人である。彼はテニス文献にも「ハーブ・フラム」(Herb Flam)や「ハービー・フラム」(Herbie Flam)など、様々な呼び名で記載されている。フラムのテニスは、機敏な動きと攻撃的なプレーで、対戦相手のミスを誘うスタイルを得意にした。現役時代の彼は、しばしば“Retriever”(レトリーバー:猟犬の一種、射止めた獲物を取ってくる)と呼ばれた。 ハーバート・フラムは15歳の時、1943年に「全米ローンテニス協会」主催のジュニア男子シングルスで優勝した後、ビバリーヒルズ高校とカリフォルニア大学ロサンゼルス校の代表選手として活躍した。学生テニス選手となった1948年、フラムは初出場の全米選手権男子シングルスで、いきなりエリック・スタージェス(南アフリカ)との準決勝に進出する。2年後の1950年、全米学生テニス選手権のシングルス・ダブルスで優勝した後、フラムは全米選手権男子シングルスで決勝進出を果たした。ユダヤ人の選手が全米選手権の決勝に進出したのは、大会史上初の出来事であった。当時22歳のフラムは、準々決勝でビル・タルバート、準決勝でガードナー・ムロイを破り、当時のアメリカを代表する強豪選手たちを次々に破って勝ち進んだが、決勝戦ではアーサー・ラーセンに 3-6, 6-4, 7-5, 4-6, 3-6 で敗れ、この大会の準優勝者になった。 翌1951年のウィンブルドン選手権でも、フラムは初出場でベスト4に進出した。準々決勝で第1シードのフランク・セッジマンを破る勝利を挙げたが、続く準決勝でアメリカの同僚選手ディック・サビットに敗れて決勝進出を逃す。ウィンブルドン選手権の後、フラムは初めて男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれた。彼のデ杯初出場は、対日本戦のシングルス第2試合で、フラムは日本代表の隈丸次郎を 7-5, 6-0, 7-5 で圧倒した。 終戦後デ杯に復帰したばかりの日本チームは、米国代表選手のフラム、サビット、ビル・タルバート、トニー・トラバートに全く歯が立たなかった。1952年はウィンブルドン選手権で2年連続の準決勝に進出したが、今度は第2シードのヤロスラフ・ドロブニー(当時エジプト国籍)に 2-6, 4-6, 6-0, 10-8, 4-6 で敗れた。 この後、フラムは1953年と1954年の2年間アメリカ海軍に勤務し、その間テニス経歴が中断した。1955年にテニス界に戻り、全仏選手権で初めてのベスト8に入る。1956年は、唯一の出場となった全豪選手権でベスト4入りがあった。1957年の全仏選手権で、ハーバート・フラムは1950年全米選手権以来7年ぶり2度目の4大大会決勝に進出する。相手はスウェーデンのスベン・デビッドソンであったが、フラムはデビッドソンに 3-6, 4-6, 4-6 のストレートで完敗し、4大大会の男子シングルスで2度の準優勝に終わった。(デビッドソンはこの全仏優勝により、スウェーデン人のテニス選手として最初の4大大会シングルス優勝者になった。)全仏準優勝の後、フラムはウィンブルドン選手権で5年ぶり3度目のベスト8、全米選手権で7年ぶり3度目のベスト4に入ったが、両方ともアシュレー・クーパー(オーストラリア)に連敗し、さらなる上位進出のチャンスを逃した。1958年全米選手権の準々決勝でウルフ・シュミット(スウェーデン)に敗れた試合を最後に、フラムはテニス界から引退する。彼は優れたデビスカップ代表選手として、通算「12勝2敗」(シングルス10勝2敗、ダブルス2勝0敗)の成績を残した。 選手引退後のハーバート・フラムはテニス界から離れて静かな生活を送り、1980年11月25日にカリフォルニア州ロサンゼルスにて52歳で死去した。1987年にフラムの「全米大学テニス協会殿堂」(ITA Men's Collegiate Tennis Hall of Fame: ITA.

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ハインリヒ・ションブルク

ハインリヒ・ションブルク(Heinrich Schomburgk, 1885年6月30日 - 1965年3月29日)は、ドイツ・ライプツィヒ出身の男子テニス選手。1912年のストックホルム五輪で、ドロテア・ケーリング(1880年 - 1945年)と組んで混合ダブルスの金メダルを獲得した選手である。彼は1906年、ドイツ人テニス選手として最初のウィンブルドン選手権出場者になった3人の男子選手の1人でもある。フルネームは Heinrich Georg Schomburgk (ハインリヒ・ゲオルグ・ションブルク)という。.

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ハインツ・ギュンタード

ハインツ・ギュンタード(Heinz Günthardt, 1959年2月8日 - )は、スイス・チューリッヒ出身の元男子プロテニス選手。現役選手時代はダブルスの名手としてよく知られ、ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス30勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス3位。ダブルスでは、ハンガリーのバラージュ・タロツィと組んで多くの好成績を出した。現役引退後、ギュンタードはシュテフィ・グラフのコーチとして有名になった。 前年にモニカ・セレシュ(当時ユーゴスラビア)に世界ランキング1位の座を奪われたシュテフィ・グラフの父親、ペーター・グラフからのオファーを受け、この年の初めからグラフのコーチに就任する。以降グラフは1999年に引退するまで、4大大会において12勝を挙げる。 ギュンタードは当時不調に陥っていたグラフに対し、「ストロークのバリエーションを増やすよりも、今ある物の質を高めるべきだ」という観点から、持ち味であったバックハンドのスライス(逆回転の球)をさらに強化することにした。この結果、グラフは以前は普通に使っていたバックハンドのトップスピンをごく限られた場面でしか打たなくなった。 グラフの引退後は、エレナ・ドキッチ(セルビア)、アナ・イバノビッチ(セルビア)のコーチを務めたこともある。.

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バーナード・トミック

バーナード・トミック(Bernard Tomic, 1992年10月21日 - )は、オーストラリアの男子プロテニス選手。ドイツのシュトゥットガルト出身でゴールドコーストに在住している。これまでにATPツアーでシングルス3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス17位。身長196cm、体重91kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。両親がユーゴスラビア系であることからトミッチと呼ばれることも多い。 2011年ウィンブルドン選手権ベスト8。.

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バッジ・パティー

ョン・エドワード・"バッジ"・パティー("John Edward "Budge" Patty, 1924年2月11日 - )は、アメリカ・アーカンソー州フォートスミス出身の男子テニス選手。1950年の全仏選手権とウィンブルドン選手権で、4大大会男子シングルス2連勝を達成した選手である。「バッジ」(Budge)というニックネームは、彼の兄弟につけられたもので、“お前はてこでも動かない怠け者だ”(英語:not budge は「てこでも動かない」の意味、否定文で使う)と言われたからだという。テニス文献では、本名の略称で“J.

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バイロン・ブラック

バイロン・ハミシュ・ブラック(Byron Hamish Black, 1969年10月6日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の男子プロテニス選手。弟のウェイン・ブラックと末の妹カーラ・ブラックもプロテニス選手で、バイロンは3人兄弟の長男である。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちの選手。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス22勝を挙げた。身長175cm、体重70kg。.

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バセク・ポシュピシル

バセク・ポシュピシル(Vasek Pospisil, Vašek Pospíšil, 1990年6月23日 - )は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州ヴァーノン出身のチェコ系カナダ人男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルスの優勝はないがダブルスで6勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス4位。身長193cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2014年ウィンブルドン選手権男子ダブルスでジャック・ソックとペアを組んで優勝。また2015年BNPパリバ・オープン男子ダブルスでも優勝している。.

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ポール・ハンリー

ポール・ジェイソン・ハンリー(Paul Jason Hanley, 1977年11月12日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の男子プロテニス選手。「ハンドルズ」(Handles)という愛称で呼ばれている。2005年ウィンブルドン選手権と2011年全豪オープン混合ダブルスで準優勝した。サービスとフォアハンド・ストロークを武器にした選手。身長183cm、体重76kg、右利き。.

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ポール・ハーフース

ポール・ハーフース(Paul Haarhuis, 1966年2月19日 - )は、オランダ・アイントホーフェン出身の男子プロテニス選手。長年にわたりダブルスの名手として活躍し、同じオランダのヤッコ・エルティンとペアを組んで、男子ダブルス4大大会すべて優勝する「キャリア・グランドスラム」を達成した。彼らのライバルにはオーストラリアペアの「ウッディーズ」がいて、2人と「ウッディーズ」は1990年代の男子テニス界を代表するダブルスペアとして数々の名勝負を繰り広げた。1996年ウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者になったリカルト・クライチェクも、同世代のオランダ人選手である。ハーフースの自己最高ランキングはシングルス18位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルスは1勝と少ないが、ダブルスで54勝を挙げた。身長187cm、体重80kg、右利き。“Haarhuis”という名前の読み方が分かりづらく、日本語表記も「ハールフース」などの揺れが多い。実際にオランダ語の"ui"は""という音韻を表し、これを日本語に正確に転写することはできない。.

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ポール・アナコーン

ポール・アナコーン(Paul Annacone, 1963年3月20日 - )は、アメリカ・ニューヨーク州出身の男子プロテニス選手、指導者。1985年全豪オープン男子ダブルスでとペアを組んで優勝した選手である。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス14勝を挙げた。.

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ポール・ウェケサ

ポール・ウェケサ(Paul Wekesa, 1967年7月2日 - )は、ケニア・ナイロビ出身の男子プロテニス選手。当地のテニス選手として初めて国際的な活躍を果たした選手である。 自己最高位はシングルス100位、ダブルス66位。ATPツアーでダブルス3勝を挙げた。身長187cm、体重79kg。右利き。なお父親のノアはサファリラリーでも活動歴のある元ラリードライバーであり、リフトバレー州トランスンゾイア県選出の国会議員として、国家統一党政権の元で環境・鉱物資源大臣、科学技術大臣を歴任した政治家でもある。.

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ポール=アンリ・マチュー

ポール=アンリ・マチュー(Paul-Henri Mathieu, 1982年1月12日 - )は、フランス・ストラスブール出身の男子プロテニス選手。ランキング自己最高位はシングルス12位、ダブルス103位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス1勝を挙げた。身長185cm、体重74kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。彼の姓“Mathieu”は「マチュー」と「マシュー」の表記揺れが多く、文献でもフランス語読みに近い「マチュー」と英語読みの「マシュー」が混在している。.

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ポティート・スタラーチェ

ポティート・スタラーチェ(Potito Starace, 1981年7月14日 - )は、イタリア・カンパニア州アヴェッリーノ県チェルヴィナーラ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス27位、ダブルス40位。ATPツアーでダブルス6勝を挙げているが、シングルスは優勝がない(準優勝4度)。 身長188cm、体重84kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。単複計13度のツアー決勝進出の内、ハードサーフェスのダブルス2回を除く11回がクレーコートで、クレーコートを得意とする選手である。.

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メノ・オースティング

メノ・オースティング(Menno Oosting, 1964年5月17日 - 1999年2月22日)は、オランダ・北ブラバント州ソーネンブレウヘル出身の男子プロテニス選手。1994年の全仏オープン混合ダブルス部門で、同じオランダのクリスティ・ボーグルトとペアを組んで優勝した選手である。キャリアを通じてダブルスを活動の重点に置いたが、1999年2月22日に自動車事故で死去した。自己最高ランキングはシングルス72位、ダブルス20位。ATPツアーでシングルスの優勝はなかったが、ダブルスで7勝を挙げた。 オースティングは7歳から家族とともにテニスを始め、16歳まではサッカーとフィールドホッケーもプレーした。1983年にプロ入り。1985年に男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオランダ代表選手に初選出され、同年の全豪オープンで4大大会に初出場する。1988年が彼のテニス経歴を通じて、シングルス成績が最も好調だった年であり、全豪オープン4回戦・ウィンブルドン3回戦進出などを記録した。全豪オープン4回戦で、オースティングはトッド・ウィッツケン(アメリカ)に 1-6, 2-6, 2-6 で敗れ、ウィンブルドン3回戦では第2シードのマッツ・ビランデルに 1-6, 4-6, 4-6 で敗れた。彼は1989年全豪オープンの1回戦敗退を最後に、4大大会の男子シングルスから遠ざかり、1991年夏以後はシングルスを断念して、ダブルスに専念するようになった。 オースティングは1991年の全豪オープン男子ダブルスでベスト8に入り、同年9月のギリシャ・アテネ大会で初めてのツアー決勝進出を決めた。1992年4月の「シチズンカップ」(ドイツ・ミュンヘン開催)男子ダブルスで、デビッド・アダムズ(南アフリカ)と組んでツアー初優勝を果たす。1994年、メノ・オースティングは全仏オープン混合ダブルスで同じオランダのクリスティ・ボーグルトとペアを組み、決勝でアンドレイ・オルホフスキー(ロシア)&ラリサ・ネーランド(ラトビア)組を 7-5, 3-6, 7-5 で破って優勝した。この年は男子ツアーのダブルスでも3勝を挙げ、パートナーはそれぞれ違う選手と組んだ。 その後、オースティングは1996年に男子ツアーで7大会のダブルス決勝戦に進んだが、優勝1度・準優勝6度の結果に終わった。1998年3月のデンマーク・コペンハーゲン大会が、彼の最後の優勝になった(通算7勝)。 1999年2月8日-14日にかけて行われたロシア・サンクトペテルブルク大会のダブルスで、オースティングはアンドレイ・パベル(ルーマニア)とペアを組み、決勝でジェフ・タランゴ(アメリカ)&ダニエル・バチェク(チェコ)組に 6-3, 3-6, 5-7 で敗れた。同年2月22日、彼はフランス・シェルブールで開催された下部大会「シェルブール・チャレンジャー」に出場した。ダブルスの第1シードだったオースティングとサンダー・グローン(ドイツ)の組は、1回戦で地元フランスのアルノー・クレマン&オリビエ・ムティス組に 4-6, 4-6 で敗退した。この試合に敗れた後、オースティングはシェルブールから自動車で帰途についた。1人で車を運転していた彼は、故郷のソーネンブレウヘルまで30分ほどの位置にあるベルギー・トゥルンハウトで、悪天候のため車を操縦できなくなり、柱に激突して39歳で死去した。.

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メルビン・ローズ

メルビン・ローズ(Mervyn Rose, 1930年1月23日 - 2017年7月23日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州コフスハーバー出身の男子テニス選手。1950年代に活躍し、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。彼は4大大会男子シングルスで1954年全豪選手権、1958年全仏選手権の2勝を挙げ、男子ダブルス4勝・混合ダブルス2勝と合わせて7つのグランドスラム・タイトルを獲得した。彼のテニスは、基本的にはサーブ・アンド・ボレーのスタイルで、ボールのタッチを駆使する戦術家として知られた。左利きの選手。フルネームは Mervyn Gordon Rose (メルビン・ゴードン・ローズ)というが、“Rosie”(ロージー)という愛称で呼ばれた。.

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モーリス・マクローリン

モーリス・マクローリン(Maurice McLoughlin, 1890年1月7日 - 1957年12月10日)は、アメリカ・ネバダ州カーソンシティ出身の男子テニス選手。フルネームは Maurice Evans McLoughlin (モーリス・エバンズ・マクローリン)という。1910年代前半の全米選手権(現在の全米オープンテニス)で活躍し、男子シングルスで1912年・1913年に2連覇、男子ダブルスで1912年-1914年に3連覇を達成した選手である。ウィンブルドン選手権でも1913年に男子シングルス準優勝を記録した。彼は「カリフォルニアの彗星」(California Comet)というニックネームで呼ばれ、サービス・ボレー・スマッシュともに、これまでのテニスとは異なるスピード感にあふれたプレーを繰り広げた。とりわけ「キャノンボール・サービス」(cannonball service)と呼ばれた高速弾丸サーブは、当時の人々にスピードテニスへの目を開かせた。赤毛の髪も目立つ選手で、“Red”(赤毛の男)としても知られた。.

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モーリス・ジェルモー

モーリス・ジェルモー(Maurice Germot, 1882年11月17日 - 1958年8月6日)は、フランス・アリエ県ヴィシー出身の男子テニス選手。黎明期の全仏選手権や近代オリンピックで活躍し、とりわけ同じ年のマックス・デキュジスとのダブルスで顕著な成績を残した。全仏選手権では男子シングルス3勝、男子ダブルス11勝を挙げ、オリンピックでも1906年のアテネ中間五輪と1912年のストックホルム五輪で男子ダブルスの金メダルを獲得した選手である。.

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ヤルコ・ニエミネン

ヤルッコ・カレルヴォ・ニエミネン(Jarkko Kalervo Nieminen, 1981年7月23日 - )は、フィンランド・マスク出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス5勝を挙げたが、シングルスで11度の準優勝がある。身長185cm、体重78kg、左利きの選手。自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス42位。夫人のアヌ・ニエミネンはバドミントンのフィンランド代表選手である。.

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ヤロスラフ・ドロブニー

ヤロスラフ・ドロブニー(Jaroslav Drobný, 1921年10月12日 - 2001年9月13日)は、チェコスロバキア・プラハ出身の男子テニスおよびアイスホッケー選手。左利き。最高ランキングは世界1位。 グランドスラムシングルス優勝3回・ダブルス2回。1983年国際テニス殿堂入り。アイスホッケーではオリンピック銀メダル・世界選手権で金メダルを獲得。 第2次世界大戦でテニス経歴の中断を余儀なくされ、終戦後共産主義国となったチェコスロバキアから亡命してエジプトに渡り、テニスでも全仏選手権やウィンブルドン選手権で何度も準優勝の壁を乗り越えるなど、波瀾万丈の人生を生きた人であった。 全仏選手権では1951年と1952年に大会2連覇、ウィンブルドン選手権では1954年に11度目の挑戦で優勝を果たし、4大大会男子シングルス「3勝」を挙げた。テニスと並んでアイスホッケーでも優れた技量を発揮し、1948年のサンモリッツ五輪でアイスホッケーのチェコスロバキア代表選手として銀メダルを獲得したこともある。アイスホッケーでのけがで早い時期に視力を損なったため、いつも濃い色の眼鏡をかけてプレーしていた。.

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ヤン・ハジェク

ヤン・ハジェク(、1983年8月7日 - )は、チョコ・オロモウツ出身の男子プロテニス選手。身長180cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーではダブルスで1勝がある。自己最高ランキングはシングルス71位、ダブルス189位。「ヤン・ハイェク」等の表記も見られ、最もチェコ語発音に近い表記は「ヤン・ハーイェク」のようになる。.

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ヤン・ヘルニチ

ヤン・ヘルニチ(Jan Hernych, 1979年7月7日 - )は、チェコ・プラハ出身の男子プロテニス選手。身長190cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーではダブルスで1勝がある。自己最高ランキングはシングルス59位、ダブルス70位である。.

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ヤン・コデシュ

ヤン・コデシュ(Jan Kodeš, 1946年3月1日 - )は、チェコスロバキア・プラハ出身の男子テニス選手。1970年代前半、まだチェコスロバキアが共産主義の支配下にあった時代に活躍した名選手である。コデシュは他のチェコスロバキア出身選手の大半とは異なり、国内にとどまって活動したことから、チェコスロバキアの国民的英雄として幅広い尊敬を集めた。4大大会の男子シングルスでは通算「3勝」を挙げ、1970年と1971年に全仏オープンで大会2連覇を飾り、1973年にウィンブルドンでも優勝している。コデシュのテニスは、粘り強いグラウンド・ストロークを中心に組み立てるベースライン・プレーヤーだった。.

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ヤンコ・ティプサレビッチ

ヤンコ・ティプサレビッチ(Janko Tipsarević, Јанко Типсаревић, セルビア語発音:,1984年6月22日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の男子プロテニス選手。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでは長い代表経歴を持ち、2010年にデビスカップセルビア代表の初優勝に貢献した。これまでにATPツアーでシングルス4勝、ダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス46位。身長180cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ヤッコ・エルティン

ヤッコ・エルティン(Jacco Eltingh, 1970年8月29日 - )は、オランダ・ヘルダーラント州ヘールデ出身の元男子プロテニス選手。ダブルスの名手として活躍し、同じオランダのポール・ハーフースとペアを組んで、4大大会の男子ダブルス部門ですべてのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。彼らのライバルにはオーストラリアペアの「ウッディーズ」(マーク・ウッドフォードとトッド・ウッドブリッジのこと)がいて、オランダペアの2人と「ウッディーズ」は1990年代の男子テニス界を代表するダブルスコンビとして数々の名勝負を繰り広げた。1996年のウィンブルドン男子シングルス優勝者になったリカルト・クライチェクも、同世代のオランダ人選手である。エルティンの自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス44勝を挙げた。身長187cm、体重80kg、右利き。.

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ヤヒヤ・ドゥンビア

ヤヒヤ・ドゥンビア(Yahiya Doumbia, 1963年8月25日 - )は、マリ共和国・バマコ出身のセネガルの元男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス74位、ダブルス187位。ATPツアーでシングルス2勝を挙げた。身長185cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。セネガル国籍のプロテニス選手として男女通じてツアーレベルで活躍した初めての選手であり、セネガル人初のグランドスラム大会出場やツアー優勝など数々の功績を打ち立てた、当地のパイオニアとして知られる人物である。メディアでは愛称であるヤヤ・ドゥンビア(Yaya Doumbia)で表記される事も多い。.

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ヤニック・ノア

ヤニック・ノア(Yannick Noah, 1960年5月18日 - )は、フランス・スダン出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス23勝、ダブルス16勝を挙げた。身長193cm、体重81kg、右利き。 1983年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、フランス人の男子選手としては現時点で最後のグランドスラム大会シングルス優勝者である。 サービス・アンド・ボレーのプレースタイルを得意とした選手で、華麗なパフォーマンスで高い人気を持っていた。 2015年9月よりデビスカップフランス代表監督に就任。.

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ヤコブ・ラセク

ヤコブ・ラセク(Jakob Hlasek, 1964年11月12日 - )は、スイスの元男子プロテニス選手。チェコスロバキアのプラハに生まれる。1992年の全仏オープン男子ダブルス部門で、マルク・ロセとペアを組んで優勝した選手である。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス4位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルスで1992年全仏オープンを含む20勝を挙げた。身長187cm、体重78kg、右利き。.

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ユリアン・ノール

ユリアン・ノール(Julian Knowle, 1974年4月29日 - )は、オーストリア出身の男子プロテニス選手。ダブルスの得意な選手として知られ、2007年全米オープン男子ダブルスでシーモン・アスペリンとペアを組んで優勝した。2004年ウィンブルドン選手権男子ダブルスでネナド・ジモニッチと組んだ準優勝もある。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで13勝を挙げている。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークともに両手打ちで、左利きの選手。自己最高ランキングはシングルス86位、ダブルス6位。日本語では「ジュリアン・ノウル」の表記も多く見られる。.

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ユルゲン・メルツァー

ユルゲン・メルツァー(Jürgen Melzer, 1981年5月22日 - )は、オーストリア・ウィーン出身の男子プロテニス選手。4大大会では、2010年全仏オープン男子シングルスベスト4、2010年ウィンブルドン選手権と2011年全米オープン男子ダブルス、2011年ウィンブルドン選手権混合ダブルスでの優勝がある。これまでにATPツアーでシングルス5勝、ダブルス13勝を挙げている。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス6位。弟のもプロテニス選手である。.

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ユースタス・マイルズ

ユースタス・マイルズ(Eustace Hamilton Miles, 1868年9月22日 - 1948年6月20日)はイギリスのテニス選手。リアルテニスのイギリス国内チャンピオンで、1908年のロンドンオリンピックに出場、ジュ・ド・ポームの決勝でアメリカのジェイ・グールドに敗れ、2位となった。 著述家としても知られ、テニスやスカッシュといったラケット競技に関するものや食生活に関する著書がある。.

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ヨナス・ビョルクマン

ヨナス・ラーシュ・ビョルクマン(Jonas Lars Björkman, 1972年3月23日 - )は、スウェーデン・出身の男子プロテニス選手。ダブルスの名手であり、男子ダブルスでキャリア・グランドスラムを達成した選手。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス1位。ATPツアーでは、シングルス6勝、ダブルス54勝をあげた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ヨハン・クリーク

ヨハン・クリーク(Johan Kriek, 1958年4月5日 - )は、南アフリカ・ポンゴラ出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の全豪オープン男子シングルスで2連覇を達成した選手である。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス12位。ATPツアーでシングルス14勝、ダブルス8勝を挙げた。同国のライバル選手、ケビン・カレンとは年齢も同じ親友である。身長175cm、体重76kg、右利き。.

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ヨージェフ・アシュボード

ヨージェフ・アシュボード(József Asbóth,, 1917年9月18日 - 1986年9月22日)は、ハンガリー・ソンバトヘイ出身の男子テニス選手。1947年の全仏選手権男子シングルス優勝者で、当地のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった人である。彼は第2次世界大戦をはさむ時期に、1938年から1957年まで男子テニス国別対抗戦・デビスカップのハンガリー代表選手として活動した。キャリアを通じて、全仏選手権をはじめとする赤土のクレーコートを最も得意にした選手である。.

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ヨアキム・ヨハンソン

ヨアキム・ヨハンソン(Joachim Johansson, 1982年7月1日 - )は、スウェーデン・ルンド出身の男子プロテニス選手。2004年全米オープン男子シングルスベスト4に入り、世界ランキング9位まで到達した選手である。彼には「ピム・ピム」(Pim-Pim)というニックネームがある。身長198cm、体重90kgの長身から繰り出すサービスを最大の武器にしている。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げた。.

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ラデク・ステパネク

ラデク・ステパネク(Radek Štěpánek, チェコ語発音:,1978年11月27日 - )は、チェコ・カルヴィナー出身の男子プロテニス選手。2012年全豪オープン男子ダブルスと2013年全米オープン男子ダブルスで、インドのリーンダー・パエスとペアを組んで優勝した選手である。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス18勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス4位。チェコの同僚選手たちからは“Steps”(ステップス)という愛称で呼ばれている。.

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ラファエル・ナダル

ラファエル・ナダル・パレラ(Rafael Nadal Parera, 1986年6月3日 - )は、スペイン・バレアレス諸島州マナコル出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス79勝、ダブルス11勝を挙げる。身長185cm、体重85kg。 グランドスラム優勝回数歴代2位(17回)、史上7人目となるキャリア・グランドスラム達成者、史上2人目となるキャリアゴールデンスラムを史上最年少の24歳3ヵ月で達成、2010年にはオープン化では5人目となる4大大会3冠達成、全仏オープン最多優勝・最長連覇記録、マスターズ1000では歴代最多となる32回の優勝記録を保持するテニス史上屈指の選手。 2018年6月10日時点のシングルス全79回の優勝のうちの57回がクレーコートである様に、特にクレーコートに非常に強いことで知られ、クレーコート最高勝率、クレーコート81連勝、クレーコート50セット連続奪取、クレー大会である全仏オープン、モンテカルロ・マスターズ、マドリード・マスターズ、ローマ・マスターズ、バルセロナ・オープンの最多優勝記録などの数々の記録を更新した。 北京五輪シングルス・リオデジャネイロ五輪ダブルス金メダリストで、デビスカップスペイン代表4度の優勝に貢献している。.

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ラファエル・オスナ

ラファエル・オスナ(Rafael Osuna, 1938年9月15日 - 1969年6月4日)は、メキシコ・メキシコシティ出身の男子テニス選手。フルネームは Rafael Osuna Herrera (ラファエル・オスナ・エレーラ)という。同国が生んだ最大のテニス選手で、1963年の全米選手権男子シングルス優勝者になったが、テニス経歴の後期に飛行機事故で落命した悲劇の名選手である。.

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ライナー・シュットラー

ライナー・シュットラー(Rainer Schüttler, 1976年4月25日 - )は、ドイツ・コルバッハ出身の男子プロテニス選手。2003年全豪オープン男子シングルス準優勝者。2004年アテネ五輪男子ダブルスで、ニコラス・キーファーとペアを組んだ銀メダル獲得もある。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス40位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス4勝を挙げた。身長180cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ライアン・ハリソン

ライアン・ハリソン(Ryan Harrison, 1992年5月7日 - )は、アメリカ・ルイジアナ州シュリーブポート出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス4勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス40位、ダブルス16位。身長185cm、体重84kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2017年全仏オープン男子ダブルスでマイケル・ヴィーナスとのペアで優勝。.

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ライアン・スウィーティング

ライアン・スウィーティング(Ryan Sweeting, 1987年7月14日 - )は、バハマ・ナッソー出身のアメリカ合衆国の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス1勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス64位、ダブルス139位。.

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ラウル・ラミレス

ラウル・ラミレス(Raúl Ramírez, 1953年6月20日 - )は、メキシコ・エンセナダ出身の元男子プロテニス選手。フルネームは Raúl Carlos Ramírez (ラウル・カルロス・ラミレス)という。1970年代にメキシコを代表する選手として活動し、ATPツアーでシングルス19勝、ダブルス60勝を挙げた実力者である。ダブルスではアメリカのブライアン・ゴットフリートとペアを組んで39個のタイトルを獲得し、4大大会の男子ダブルスでも全仏オープンで1975年と1977年、ウィンブルドンで1976年に優勝した。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重79kg、右利き。 ラミレスは少年時代、当地最大の男子テニス選手であるラファエル・オスナの指導を受けたが、オスナが1969年6月に飛行機事故で死去した。ラミレスはアメリカ・南カリフォルニア大学で研鑽を積み、そこでブライアン・ゴットフリートと一緒に練習した。オスナの死去から2年後、1971年にラミレスはプロテニス界にデビューする。この年の全米オープンで4大大会に初出場したラミレスは、1回戦でスタン・スミスに敗れた。1973年のウィンブルドンで、ラミレスはジャネット・ニューベリー(アメリカ)と混合ダブルスのペアを組み、オーウェン・デビッドソン&ビリー・ジーン・キング夫人(ともにアメリカ)組との決勝まで勝ち進んだ。ウィンブルドン混合ダブルス準優勝の直後、7月にオーストリア・キッツビュール大会で単複優勝を飾り、ここからラミレスの優勝記録が始まる。 1974年から1978年まで、ラミレスは全仏オープンで5年連続のベスト8に入った。彼のダブルスは、最初はイギリスのクリストファー・モットラム(“バスター・モットラム”の愛称で知られる)などと組むことが多かったが、1974年5月から大半のトーナメントをブライアン・ゴットフリートと組むようになった。1975年、ラミレスとゴットフリートはダブルスで年間「12勝」を記録する。この年から1977年まで、ラミレスとゴットフリートは全仏オープンの男子ダブルスに3年連続決勝進出を果たす。1975年の全仏男子ダブルス決勝で、2人はオーストラリアペアのフィル・デント&ジョン・アレクサンダー組を 6-4, 2-6, 6-2, 6-4 で破り、4大大会初優勝を飾った。 ラウル・ラミレスは1975年、1度「ジャパン・オープン」で来日したことがあり、この大会で単複優勝を飾った。シングルス決勝では、準々決勝でジョン・ニューカム、準決勝でケン・ローズウォールを破って勝ち進み、決勝では当年度の全米オープン優勝者マニュエル・オランテスを 6-4, 7-5, 6-3 で破って優勝した。ゴットフリートとのダブルスでも、決勝でオランテスとフアン・ヒスベルト組に 7-6, 6-4 で勝ち、単複ともオランテスを破っている。このタイトルは、2人が最盛期の1975年にダブルスで獲得した年間「12勝」のひとつである。 ラミレスのテニス経歴のハイライトは、1976年の全仏オープンとウィンブルドンで訪れた。この2大会連続で、ラミレスはメキシコの男子テニス選手として史上初のシングルス準決勝に進み、ゴットフリートとのダブルスで決勝に進出した。全仏オープンのシングルス準決勝では、ラミレスはハロルド・ソロモン(アメリカ)に 7-6, 0-6, 6-4, 4-6, 4-6 のフルセットで敗れ、ダブルス決勝でもシャーウッド・スチュワート&フレッド・マクネアー(ともにアメリカ)組に敗れて2連覇を逃した。続くウィンブルドンでは、シングルス準決勝ではイリ・ナスターゼに 2-6, 7-9, 3-6 で敗れたが、ダブルス決勝でロス・ケース&ジェフ・マスターズ(ともにオーストラリア)組を 3-6, 6-3, 8-6, 2-6, 7-5 の熱戦の末に破り、4大大会ダブルス2勝目を達成した。この年、ラミレスはシングルスで自己最高の年間4勝を記録する。 1977年の全仏オープンで、ラウル・ラミレスは2年連続のシングルス準決勝に進出する。準々決勝では前年優勝者のアドリアーノ・パナッタに 7-6, 6-3, 7-5 で快勝し、このイタリア人選手の大会連覇を阻止したが、2年連続の準決勝ではギリェルモ・ビラスに 2-6, 0-6, 3-6 で完敗した。ゴットフリートと組んだ男子ダブルスでは、決勝でヤン・コデシュ(チェコスロバキア)&ヴォイチェフ・フィバク(ポーランド)組を 7-6, 4-6, 6-3, 6-4 で破り、2年ぶり2度目の優勝を飾った。1978年は全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンで3大会連続のシングルス準々決勝進出がある。1963年の全米選手権優勝者になった先輩選手のラファエル・オスナは、全仏選手権は1964年の4回戦、ウィンブルドン選手権は3度のベスト8が自己最高成績であったため、ラミレスはこの2大会でオスナを上回る成績を出したが、あと一歩で決勝戦に手が届かなかった。 1979年に入ると、ラミレスのシングルス成績は下降し始める。ゴットフリートとのダブルスでは、1979年ウィンブルドンと1980年全仏オープンで準優勝があった。キャリアを通じて、精力的に多数の試合をこなしたラウル・ラミレスは、現役引退する1983年までシングルス・ダブルスとも優勝記録を残したが、1983年ウィンブルドンでカシオ・モッタ(ブラジル)との1回戦を 6-7, 1-6, 6-2, 2-3 で途中棄権した試合を最後に、30歳で現役を引退した。.

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ラジーブ・ラム

ラジーブ・ラム(Rajeev Ram, 1984年3月18日 - )は、アメリカ合衆国・コロラド州デンバー出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス2勝、ダブルス10勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス56位、ダブルス12位。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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リチャード・ノリス・ウィリアムズ

リチャード・ノリス・ウィリアムズ(Richard Norris Williams II, 1891年1月29日 - 1968年6月2日)は、アメリカの男子テニス選手。「ディック・ウィリアムズ」(Dick Williams)とも呼ばれる。スイス・ジュネーヴ生まれ。ハーバード大学卒業。1912年4月のタイタニック号沈没事故を生き延びた後、1910年代から1920年代にかけて、アメリカを代表するテニス選手の1人として活動した。彼は全米選手権で男子シングルス2勝・男子ダブルス2勝・混合ダブルス1勝を挙げ、ウィンブルドン選手権でも1920年に男子ダブルス優勝者となり、オリンピックにおいても1924年のパリ五輪で混合ダブルスの金メダルを獲得した。.

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リチャード・シアーズ

リチャード・シアーズ(Richard Sears, 1861年10月16日 - 1943年4月8日)は、アメリカ合衆国・マサチューセッツ州ボストン出身の男子テニス選手。 1881年に第1回大会が開かれた全米選手権(現在の全米オープン)で最初の男子シングルス優勝者になった選手で、第1回大会から7連覇を達成した。 グランドスラム優勝7回は1925年にビル・チルデンに抜かれるまでは歴代1位タイ記録だった。 フルネームは Richard Dudley Sears (リチャード・ダドリー・シアーズ)という。彼はボストンの名家に育ち、親族にも多くのテニス選手がいた。.

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リュカ・プイユ

リュカ・プイユ(Lucas Pouille) (1994年2月23日-) はフランス・ノール県・グランド=シント出身のテニス選手。 ATP自己最高ランクはシングルス10位、ダブルス79位。ATPツアーではシングルス5勝。身長185cm、体重91kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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リンドレイ・マレー

バート・リンドレイ・マレー(Robert Lindley Murray, 1892年11月3日 - 1970年1月17日)は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の男子テニス選手。第1次世界大戦中の全米選手権(現在の全米オープンテニス)で、1917年・1918年に男子シングルス2連覇を達成した人である。左利きの選手で、全米選手権男子シングルスの歴史を通じて3人目の左利き優勝者になった。彼は身長188cmほどの長身選手で、左腕から強力なサービスを繰り出し、素速くネットに詰めるサーブ・アンド・ボレーのプレースタイルを武器にした。.

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リーンダー・パエス

リーンダー・パエス(Leander Paes, লিয়েন্ডার পেজ, 1973年6月17日 - )は、インド・コルカタ出身の男子プロテニス選手。同じインドのマヘシュ・ブパシと同じく、ダブルスを得意とする選手。4大大会でも男子ダブルス8勝、混合ダブルス10勝を挙げている。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス55勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス73位、ダブルス1位。身長177cm、体重77kg、右利き。.

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リック・リーチ

リック・リーチ(Rick Leach, 1964年12月28日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州アルカディア出身の元男子プロテニス選手。長年にわたり、アメリカを代表するダブルスのスペシャリストとして活動してきた選手である。リーチのツアー経歴は1984年から2006年まで20年以上に及び、その間にATPツアーでダブルス46勝を挙げた。4大大会では男子ダブルス5勝・混合ダブルス4勝を挙げたが、どちらも全仏オープンのみ優勝できなかった。日本のジャパン・オープンでも、1992年・1993年・2001年の3度優勝がある。左利き。自己最高ランキングはシングルス110位、ダブルス1位。 リーチ家はアメリカでも名門のテニス一家として知られ、父親のディック・リーチ(リチャード・リーチ・シニア)が3人の息子たちを指導した。リックは3人兄弟の次男で、長兄のマイク・リーチは男子ツアーでダブルス4勝を挙げた(自己最高ランキング:シングルス29位・ダブルス15位)。末の弟ジョナサン・リーチがリンゼイ・ダベンポートと結婚したことから、リックはダベンポートの義理の兄になる。次男のリックは1984年から男子ツアー大会に出場し始め、南カリフォルニア大学卒業後の1987年にプロテニス選手となった。 リーチはプロ転向後、ダブルス第1戦となった1987年6月の「クイーンズ・クラブ選手権」(ウィンブルドン前哨戦の1つ)で決勝戦に進み、その後2勝を獲得した。1988年、リーチは同じアメリカのジム・ピューとのコンビで大幅な躍進を遂げ、ダブルスで年間8勝を挙げた。1988年全豪オープンの男子ダブルスで、リーチは最初の4大大会優勝を達成する。全豪ダブルス決勝でジェレミー・ベイツ(イギリス)&ピーター・ルンドグレン(スウェーデン)組を 6-3, 6-2, 6-3 で破った2人だが、全米オープンではエミリオ・サンチェス&セルヒオ・カサル(ともにスペイン)との決勝戦に出場できず、不戦敗で準優勝になる。サンチェスとカサルには、年間最終戦のマスターズ・ダブルス決勝で雪辱した。1989年は全豪オープンで男子ダブルス2連覇を果たすが、ウィンブルドン男子ダブルスと全米オープン混合ダブルスで準優勝があった。 1990年、リーチはウィンブルドンで男子ダブルス・混合ダブルスの2冠制覇を果たす。男子ダブルスはピューと組み、混合ダブルスはジーナ・ガリソンと組んで優勝を決めたが、ウィンブルドンでは両部門とも唯一の優勝になった。1991年、リーチとピューは全仏オープン男子ダブルス決勝でアンダース・ヤリード&ジョン・フィッツジェラルド組に 0-6, 6-7 で敗れて準優勝になった。2人は同年の全米オープン2回戦敗退を最後に、4年間続けたコンビを解消した。 ピューと別れた後、リーチは1993年3月までケリー・ジョーンズとペアを組んだ。1992年はジョーンズとのコンビで、全豪オープンと全米オープンの男子ダブルス準優勝があった。1992年と1993年当時、ジャパン・オープンは春の4月に開催されていた。1993年の全米オープンにおいて、リーチはついに全米男子ダブルスのタイトルを獲得する。パートナーはケン・フラックと組み、決勝でチェコペアのカレル・ノバチェク&マルティン・ダム組を 6-7, 6-4, 6-2 の逆転で下した。1995年全豪オープンでは、混合ダブルスでナターシャ・ズベレワと組んで初優勝し、リーチにとっては1990年ウィンブルドン以来の4大大会混合ダブルス優勝となった。 その後もリーチはダブルスで優勝を積み重ね、1997年は全豪オープンと全米オープンでマノン・ボーラグラフ(オランダ)と組み、混合ダブルス年間2冠を獲得した。1999年には全仏オープンで混合ダブルス準優勝があり、パートナーはラリサ・ネーランド(ラトビア)であった。8年前の1991年にジム・ピューと組んだ男子ダブルス決勝以来の舞台で、彼はついに全仏オープンだけは優勝できずに終わった。2000年にはエリス・フェレイラ(南アフリカ)と組んで全豪オープン優勝・全米オープン準優勝を記録し、リーチは1989年以来11年ぶり3度目の全豪男子ダブルス優勝を飾った。2001年には、開催時期が10月に変更されたジャパン・オープンで、E・フェレイラと組んで優勝している。 リック・リーチはプロ入りした1987年から2001年まで「15年連続」男子ツアーのダブルス大会で優勝してきたが、その彼にも年齢的な衰えが訪れ始め、2002年と2003年は年間未勝利に終わった。2004年、40歳に近づいたリーチはブライアン・マクフィーとペアを組み、2月末のスコッツデール大会で久々のツアー優勝を果たす。この年は他に3大会の決勝進出があった。2005年7月、リーチはマクフィーと組んでロサンゼルス大会に優勝し、「40歳7か月」の年齢で最後のタイトルを獲得した。最後の決勝戦では、イスラエルペアのジョナサン・エルリック&アンディ・ラム組を 6-3, 6-4 のストレートで下した。20年以上の長きにわたり、ダブルスのスペシャリストとして一時代を築いた名選手は、2006年7月のワシントンD.C.大会でラモン・デルガド(パラグアイ)と組んだ2回戦敗退を最後に、41歳半の高齢で現役を引退した。.

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リカルト・クライチェク

リカルト・ペテル・スタニスラフ・クライチェク(Richard Peter Stanislav Krajicek, 1971年12月6日 - )は、オランダ・ロッテルダム出身の元男子プロテニス選手。1996年ウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス17勝、ダブルス3勝を挙げた。強力な弾丸サーブを最大の武器にする“ビッグ・サーバー”タイプの選手として知られる。妹のミハエラ・クライチェクもプロテニス選手である。.

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リシャール・ガスケ

リシャール・ガスケ(Richard Gasquet, 1986年6月18日 - )は、フランス・ベジエ出身の男子プロテニス選手。身長185cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。シングルス自己最高ランキングは7位。これまでにATPツアーでシングルス15勝、ダブルス2勝を挙げている。 2004年全仏オープン混合ダブルス優勝者。2012年のロンドン五輪男子ダブルスで、ジュリアン・ベネトーとペアを組んで銅メダルを獲得。ホップマンカップ2017優勝。 シングルスではグランドスラムベスト4が3回、マスターズ1000決勝に3度進出。ATPワールドツアー・ファイナルに2度出場。2018年現在、フランス出身の選手としてはヤニック・ノアに次ぐ歴代2位の勝利数となっている。.

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リス・ゲメル

リス・ゲメル(Rhys Gemmell, 1896年 - 没年月日不明)は、オーストラリア・ビクトリア州コールフィールド出身の男子テニス選手。1921年の全豪選手権で男子シングルス・男子ダブルスの2部門を制覇した選手である。彼の場合、生年の「1896年生まれ」が分かっているだけで、誕生の日付も没年月日も分からない。全豪オープンテニスの男子シングルス優勝記録表や一般テニス文献では Rhys Gemmell の名前で記載されているが、バド・コリンズの百科事典によれば、彼の正確なフルネームは Rice Thomas Hopkins Gemmel (ライス・トーマス・ホプキンス・ゲメル)だという。 リス・ゲメルは6度ビクトリア州のテニス・チャンピオンになった後、1921年の全豪選手権で男子シングルス・ダブルスの単複2冠を獲得した。当時の全豪選手権は、毎年開催都市を回り持ちしていたが、彼が優勝した場所は西オーストラリア州の州都パースにある「ロイヤル・キングスパーク・テニスクラブ」であった。この大会の男子シングルス決勝で、彼はアルフ・ヘデマンを 7-5, 6-1, 6-4 で破って優勝した。男子ダブルスでは、ゲメルはスタンレー・イートンとペアを組み、決勝でノーマン・ブリアリー&E・ストークス組に 7-5, 6-3, 6-3 で勝った。当時のオーストラリアのトップ選手だったジェラルド・パターソンが西オーストラリア州にあるパースへの長旅を断ったため、1921年の全豪選手権は出場選手層が薄く、盛り上がりが乏しかった。選手権終了後、西オーストラリア・ローンテニス協会会長のW・キングスミルが、もしオーストラリア東部地区の選手がパースへの遠征を断り続けるなら「ゲメルを東側地区の大会に参戦させる」と宣言した。こうした経緯もあり、全豪選手権のパース開催は1921年を最後に取りやめとなり、もう2度とこの地で行われることはなかった。 ゲメルの経歴については、これまでは1921年全豪選手権の単複優勝しか知られていなかった。最近オープンしたグランドスラム大会のデータベースサイト「グランドスラム・テニス・アーカイブ」(Grand Slam Tennis Archive)の「全豪オープン」検索により、彼にはその後も全豪選手権出場記録があり、1922年3回戦・1925年2回戦・1926年3回戦・1927年3回戦進出の成績であったことが判明した。下記参考文献のうち『Our Open - 100 years of Australia's Grand Slam』(全豪オープン公式出版物)では、1905年-1940年までの記録は準々決勝以後しか載っていないため、1922年以後はベスト8に勝ち残れなかったゲメルの記録を確認できなかった。1927年の3回戦でエドガー・ムーンに 4-6, 11-13, 2-6 で敗れた後、ゲメルは「プロテニス選手」に転向した。その後は消息が途絶え、ライス・トーマス・ホプキンス・ゲメルの死去に関する資料は全く残っていない。.

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ルネ・ラコステ

ルネ・ラコステ(René Lacoste, 1904年7月2日 - 1996年10月12日)は、フランス・パリ10区出身の男子テニス選手。フルネームは Jean René Lacoste (ジャン・ルネ・ラコスト)という。同僚のフランス人選手アンリ・コシェ(1901年 - 1987年)、ジャン・ボロトラ(1898年 - 1994年)、ジャック・ブルニョン(1895年 - 1978年)の4人を合わせて、フランスの「四銃士」(Les Quatre Mousquetaires)と呼ばれた。「四銃士」という呼び名は、アレクサンドル・デュマ・ペールの有名な小説『三銃士』(Les Trois Mousquetaires)にちなんでつけられたものである。 グランドスラム優勝7回を果たした。1976年国際テニス殿堂入り。.

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ルー・ホード

ルー・ホード(Lew Hoad, 1934年11月23日 - 1994年7月3日)は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。主に1950年代に活躍し、4大大会で男子シングルス4勝・男子ダブルス8勝・混合ダブルス1勝を挙げ、通算「13勝」を獲得した。フルネームは Lewis Alan Hoad (ルイス・アラン・ホード)という。.

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ルーカス・ドロウヒー

ルーカス・ドロウヒー(Lukáš Dlouhý, 1983年4月9日 - )は、チェコ・ピーセク出身の男子プロテニス選手。ダブルスの得意な選手としてよく知られ、2009年全仏オープンと2009年全米オープン男子ダブルスでリーンダー・パエスとペアを組んで優勝した。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで10勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス73位、ダブルス5位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ネット際へのドロップ・ショットを最も得意にする選手。.

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ルイス・レイモンド

ルイス・レイモンド(Louis Raymond, 1895年6月28日 - 1962年1月30日)は、南アフリカ出身の男子テニス選手。フルネームは Louis Bosman Raymond (ルイス・ボスマン・レイモンド)という。1920年のアントワープ五輪で男子シングルスの金メダルを獲得した選手である。左利きの選手。.

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ルイス・アヤラ

ルイス・アヤラ(Luis Ayala、1932年9月18日 - )は、チリ・サンティアゴ出身の男子テニス選手。フルネームは Luis Alberto Ayala Salinas (ルイス・アルベルト・アヤラ・サリナス)という。1958年と1960年の2度全仏選手権で準優勝し、当地の男子テニス選手として史上初の4大大会シングルス決勝に進出した人である。彼は全仏選手権の混合ダブルスでも、1955年から1957年まで3年連続決勝進出があり、1956年にテルマ・コイン・ロング(オーストラリア)とのペアで優勝した。右利きの選手で、全仏選手権をはじめとする赤土のクレーコートを最も得意にした。 幼少時代のアヤラはサッカーに熱中していたが、12歳の時に家族の説得でテニスに転向し、「サンティアゴ・ローンテニスクラブ」に入った。その理由は「サッカーをやると、靴が何足あっても足りない」からだったという。16歳でサッカーを断念し、テニスに専念するようになる。1949年に17歳でチリのジュニアテニス選手権に優勝し、南米のテニス界に活動の場を広げていく。1952年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのチリ代表選手に選ばれ、この年から全仏選手権にも参加し始めた。やがて、アヤラは1950年代の南米テニス界を代表する選手へと成長していく。 1955年から1957年まで、アヤラは3年連続で全仏選手権の混合ダブルス決勝に進出する。チリの男子テニス選手が4大大会決勝戦に進んだのは、これが初めてだった。混合ダブルスのパートナーはそれぞれ異なり、1955年はジェニファー・ステーリー(オーストラリア、ルー・ホードの夫人)、1956年はテルマ・コイン・ロング、1957年はエダ・ブディング(西ドイツ)と組んだ。ロングと組んだ1956年の混合ダブルス決勝で、アヤラの組はロバート・ハウ(オーストラリア)&ダーリーン・ハード(アメリカ)組を 4-6, 6-4, 6-1 で破って初優勝を遂げた。これがチリの男子選手による最初のグランドスラム・タイトルである。1958年全仏選手権で、アヤラは最初の男子シングルス決勝戦に勝ち上がったが、ここではメルビン・ローズ(オーストラリア)に 3-6, 4-6, 4-6 のストレートで敗れた。チリ選手の4大大会シングルス決勝進出は、21年前の1937年全米選手権で優勝したアニタ・リザナ(1915年 - 1994年)以来で、男子選手としては史上初の快挙だった。この年、彼はチリの女子ナンバー2選手だったマリア・トート(Maria Tort)と結婚した。 1959年、アヤラは「イタリアン・オープン」(現在のローマ・マスターズ)で初優勝を遂げ、それまでの人生で最大のビッグタイトルを獲得した。1959年全仏選手権で、彼はチリの男子選手として初めて4大大会の「第1シード」に選ばれたが、準決勝で南アフリカの伏兵イアン・フェルマークに敗退した。2度目のチャンスは、1960年全仏選手権で訪れた。2年ぶり2度目の男子シングルス決勝で、アヤラは大会前年優勝者のニコラ・ピエトランジェリ(イタリア)と対戦するが、ピエトランジェリに 6-3, 3-6, 4-6, 6-4, 3-6 のフルセットで敗れ、またもや準優勝に終わった。 アヤラの全仏選手権以外の4大大会シングルス成績は、ウィンブルドン選手権で1959年・1961年、全米選手権で1957年と1959年に2度ずつベスト8進出があった。全豪選手権には1度も出場していない。彼はデビスカップのチリ代表選手として、通算37勝14敗(シングルス27勝6敗、ダブルス10勝8敗)の成績を残したが、通算勝利数(37勝14敗)とシングルス勝利数(27勝6敗)は今なおデ杯チリ・チームの歴代1位記録として残っている。 アマチュアテニス選手として42のシングルス・タイトルを獲得した後、ルイス・アヤラは1961年にプロテニス選手に転向した。15年後の1976年、アヤラはデビスカップのチリ代表監督を務め、チームを初めての「ワールドグループ」決勝に導いた。決勝で敗れたイタリア・チームの監督はニコラ・ピエトランジェリで、アヤラは“デ杯監督対決”でもピエトランジェリに敗れたことになる。 デ杯チリ代表チームのワールドグループ決勝進出は、今なおこの1度だけである。 アヤラ以後、チリの男子テニス界からはマルセロ・リオスが1998年全豪オープン、フェルナンド・ゴンサレスが2007年全豪オープンの決勝に進出したが、いずれも準優勝に終わった。そのため、当地からは今なおテニス4大大会の男子シングルス優勝者は出現していない。チリ出身の4大大会シングルス優勝者は、1937年全米選手権女子シングルス優勝者のアニタ・リザナ1人だけである。.

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ルイス・オルナ

ルイス・オルナ・ビスカーリ(Luis Horna Biscari, 1980年9月14日 - )は、ペルー・リマ出身の男子プロテニス選手。2008年全仏オープン男子ダブルスで、パブロ・クエバスとペアを組んで優勝した選手である。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルスで2008年全仏オープンを含む6勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス33位、ダブルス15位。赤土のクレーコートを最も得意にする選手。.

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ルカシュ・ラツコ

ルカシュ・ラツコ(Lukáš Lacko, 1987年11月3日 - )は、スロバキア・ピエシュチャニ出身の男子プロテニス選手。現時点ではまだATPツアーでシングルス、ダブルスともに優勝はない。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス44位、ダブルス170位。名前にはさまざまな表記が見られ、ルーカス・ラッコ等がある。.

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ルカシュ・ロソル

ルカシュ・ロソル(Lukáš Rosol, 1985年7月24日 - )は、チェコ・ブルノ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス2勝、ダブルス3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス37位。身長196cm、体重81kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 当時世界ランキング100位だった2012年ウィンブルドン選手権男子シングルス2回戦で世界ランキング2位・4大大会11回優勝のラファエル・ナダルを破った選手である。また、2011年全仏オープン男子シングルスでは世界ランク8位のユルゲン・メルツァーにも勝利している。 デビスカップチェコ代表としてトマーシュ・ベルディハらと共に2度の優勝に貢献した。.

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ルカシュ・クボット

ルカシュ・クボット(Łukasz Kubot, ポーランド語発音:, 1982年5月16日 - )は、ポーランド・出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルスの優勝はないが(準優勝2度)、ダブルスでは2014年全豪オープンと2017年ウィンブルドン選手権での優勝を含め、15勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス41位、ダブルス3位。身長190cm、体重86kgの長身選手。ルーカシュ・クボト表記もみられる。.

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レナート・ベルゲリン

レナート・ベルゲリン(Lennart Bergelin, 1925年6月10日 - 2008年11月4日)は、スウェーデン・ヴェストラ・イェータランド県アリングスオース出身の男子テニス選手。1948年の全仏選手権男子ダブルスでヤロスラフ・ドロブニー(当時チェコスロバキア国籍)とコンビを組んで優勝し、スウェーデン出身のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった人である。4大大会男子シングルスの自己最高成績はベスト8であったが、スウェーデンにおける競技テニスの確立に多大な貢献をした名選手であった。彼はビョルン・ボルグのコーチとしても有名である。.

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レイトン・ヒューイット

レイトン・グリン・ヒューイット(Lleyton Glynn Hewitt, 1981年2月24日 - )は、オーストラリア・アデレード出身の男子プロテニス選手。身長180cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーでシングルス30勝、ダブルス3勝。 2001年11月19日に史上最年少の20歳8ヶ月で世界ランキング1位となり、2001年と2002年の2年連続で、年間ランキング1位の座についた。これまでにグランドスラム優勝3回(シングルス2回)、ATPワールドツアー・ファイナル優勝2回、デビスカップオーストラリア代表最多勝を挙げている。.

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レイベン・クラーセン

レイベン・クラーセン(Raven Klaasen, 1982年10月16日 - )は、南アフリカ・キングウィリアムズタウン出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでダブルス9勝を挙げている。身長180cm、体重71kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス208位、ダブルス18位。.

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レオナルド・マイエル

レオナルド・マルティン・マイエル(Leonardo Martin Mayer、1987年5月15日 - )は、アルゼンチン・コリエンテス州コリエンテス出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス21位、ダブルス58位。身長188cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。「メイヤー」の表記揺れも多い。.

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レジナルド・ドハティー

レジナルド・ドハティー(Reginald Doherty, 1872年10月14日 - 1910年12月29日)は、イングランド・ウィンブルドン出身の男子テニス選手。フルネームは Reginald Frank Doherty (レジナルド・フランク・ドハティー)という。3歳年下の弟ローレンス・ドハティーとともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。レジナルドは“Reggie”(レジー)という愛称で呼ばれ、大柄な兄であったことから“Big Do”(ビッグ・ドー)とも呼ばれた。.

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ロナルト・ヴィンク

ナルト・ヴィンク(Ronald Vink, 1976年4月21日 - )はオランダの車いすテニス選手。ビンクないしフィンクの表記もある。ロンドンパラリンピック車いすテニス男子シングルス銅メダリスト。.

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ロナルド・アジェノール

ナルド・ジャン・マルタン・アジェノール(Ronald Jean-Martin Agenor, 1964年11月13日 - )は、ハイチの元男子プロテニス選手。モロッコ・ラバト生まれ。ハイチ最大のテニス選手として、1989年全仏オープン男子シングルスでベスト8に入り、ATPツアーでシングルス3勝を挙げるなど、数々の業績を残した選手である。シングルス自己最高ランキングは22位。ギタリストとしても有名で、これまでに2枚のオリジナル・アルバムを発表している。.

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ロバート・ルロイ

バート・ルロイ(Robert LeRoy, 1885年2月7日 - 1946年9月7日)は、アメリカ合衆国の男子テニス選手。1904年のセントルイス五輪男子シングルスとダブルスで銀メダルを獲得している。.

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ロバート・レン

バート・レン(Robert Wrenn, 1873年9月20日 - 1925年11月12日)は、アメリカ・イリノイ州ハイランド・パーク出身の男子テニス選手。フルネームは Robert Duffield Wrenn (ロバート・ダッフィールド・レン)という。「ボブ・レン」(Bob Wrenn)と呼ばれることも多い。1890年代に活躍し、黎明期の全米選手権(現在の全米オープンテニス)で男子シングルス4勝、男子ダブルス1勝を挙げた。左利きの選手で、全米選手権の歴史を通じて「最初の左利き優勝者」になった人である。彼のテニスは、俊敏なフットワークでテニスコートを縦横無尽に走り、相手の意表を突くロブショット(ボールを高く上げる球)を得意にした。弟のジョージ・レン(George Wrenn)も優れたテニス選手で、ロバートとジョージは「兄弟テニス選手」としての活躍もあった。.

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ロバート・セグソ

バート・セグソ(Robert Seguso, 1963年5月1日 - )は、アメリカ・ミネソタ州ミネアポリス出身の元男子プロテニス選手。主に1980年代後半にかけて、アメリカを代表するダブルスのスペシャリストとして活動し、とりわけ同じ年のケン・フラックとのコンビで多くの好成績を出した。1988年のソウル五輪でオリンピックテニス競技が復活した時の、最初の男子ダブルス金メダル獲得もある。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス1位。彼は1987年に、カナダの女子プロテニス選手であるカーリン・バセットと結婚した。.

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ローレンス・ドハティー

ーレンス・ドハティー(Laurence Doherty, 1875年10月8日 - 1919年8月21日)は、イングランド・ウィンブルドン出身の男子テニス選手。フルネームは Hugh Laurence Doherty (ヒュー・ローレンス・ドハティー)という。3歳年上の兄レジナルド・ドハティーとともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。ローレンスは“Laurie”(ローリー)という愛称で呼ばれ、小柄な弟であったことから“Little Do”(リトル・ドー)とも呼ばれた。 1903年に史上初のグランドスラム2冠を達成。1902年から1906年までウィンブルドン5連覇(大会歴代2位記録)。金メダルを2個獲得。.

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ロッド・レーバー

ッド・レーバー(Rod Laver, 1938年8月9日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州出身の、元・男子テニス選手。フルネームは Rodney George Laver (ロドニー・ジョージ・レーバー)という。 1962年と1969年の2度「年間グランドスラム」を達成した名選手である。生涯を通じて「2度」この偉業を成し遂げたテニス選手は、男女を通じてレーバー1人だけである。また、4大大会シングルス通算「11勝」は、ビョルン・ボルグと並ぶ男子歴代6位タイ記録である。.

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ロビン・ハーセ

ビン・ハーセ(Robin Haase, 1987年4月6日 - )は、オランダ・デン・ハーグ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス2勝、ダブルス2勝を挙げている。身長190cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス33位、ダブルス38位。.

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ロビン・アマラーン

ビン・アマラーン(Robin Ammerlaan, 1968年2月26日 - )はオランダの車いすテニス選手で、シドニーパラリンピック男子ダブルス、アテネパラリンピック男子シングルス金メダリスト。2005年よりNEC車いすテニスマスターズを連覇している。ロビン・アメルラーンの表記もある。.

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ロビン・セーデリング

ビン・ボー・カール・セーデリング(Robin Bo Carl Söderling, 1984年8月14日 - )は、スウェーデン・ティブロ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス10勝、ダブルス1勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス109位。日本語ではソダーリング、ソデルリングの表記揺れも見られる。 グランドスラム準優勝2回、マスターズ1000優勝1回。特に2009年全仏オープン男子シングルスでは4連覇中のラファエル・ナダルに勝利。2005年から2014年までの10年間でナダルが唯一敗北した選手である。  また2010年全仏オープン男子シングルス準々決勝では、2004年ウィンブルドン以降6年近くにわたりグランドスラム23大会連続準決勝進出していたロジャー・フェデラーに勝利し、フェデラーの連続記録ストップに成功した選手でもある。 2011年7月を最後にツアーから遠ざかっていたが2015年12月23日正式に現役引退。.

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ロビー・ジネプリ

ビー・ジネプリ(Robby Ginepri, 1982年10月7日 - )は、アメリカ・フロリダ州フォートローダーデール出身の男子プロテニス選手。2005年全米オープン男子シングルスでベスト4に進出した。シングルス自己最高ランキングは15位。ATPツアーでシングルス3勝を挙げた。身長183cm、体重79kg、右利き。、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ロドニー・ヒース

ドニー・ヒース(Rodney Heath, 1884年6月15日 - 1936年10月6日)は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。1905年に始まった「オーストラレーシアン・テニス選手権」(現在の全豪オープン)で、第1回大会の男子シングルス優勝者となった選手である。右利きの選手で、フォアハンド・ストロークのドライブ(順回転のボール)を得意にした。フルネームは Wilfrid Rodney Heath (ウィルフリッド・ロドニー・ヒース)という。.

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ロベルト・バウティスタ・アグート

ベルト・バウティスタ・アグート(Roberto Bautista Agut, 1988年4月14日 - )は、スペイン・カステリョン・デ・ラ・プラナ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス8勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス169位。身長183cm、76kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。足の速さを活かした広いコートカバーリングが特長。2016年上海マスターズ男子シングルス準優勝。.

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ロベルト・リンドステット

ベルト・リンドステット(Robert Lindstedt, 1977年3月19日 - )は、スウェーデン・スンドビーバーリ出身の男子プロテニス選手。2014年全豪オープン男子ダブルスで、ルカシュ・クボットとペアを組んで優勝した。ダブルスのスペシャリストとして活動し、これまでにATPツアーでダブルス21勝を挙げている。自己最高ランキングはダブルス3位。身長193cm、体重88kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ロベルト・ファラ

ベルト・ファラ・マクソウド・(Robert Farah Maksoud, 1987年1月20日 - )は、カナダ・モントリオール出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでダブルス自己最高ランキングは19位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長190cm、体重75kg。現在コロンビアのNo.1ダブルスプレイヤーコンビでフアン・セバスティアン・カバルとペアを組み、デビスカップにも出場している。.

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ロベルト・カルバリェス・バエナ

ベルト・カルバリェス・バエナ(Roberto Carballés Baena:, 1993年3月23日 - )は、スペイン・テネリフェ島出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス72位。ATPツアーでシングルスで1勝を挙げている。身長180cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ロイ・エマーソン

イ・エマーソン(Roy Emerson, 1936年11月3日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州出身の男子テニス選手。主に1960年代に活躍し、4大大会男子シングルス通算12勝・男子ダブルス16勝を挙げ、総計「28」のグランドスラム・タイトルを獲得した名選手である。グランドスラム優勝12回は2000年にピート・サンプラスが更新するまで33年間歴代1位記録だった。フルネームは Roy Stanley Emerson (ロイ・スタンレー・エマーソン)。“Emmo”(エンモ)という愛称で呼ばれた。エマーソンは豪放洒脱な人柄で、私生活では有名な大酒飲みだったという。 .

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ロジャー・フェデラー

ャー・フェデラー(Roger Federer 、1981年8月8日 - )は、スイス・バーゼル出身の男子プロテニス選手。身長185cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 現在の男子プロテニス界を牽引するオールラウンド・プレーヤーである。 テニスの教本のような基本に忠実な理想的フォームを持ち、あらゆるショットを流れるように駆使するプレースタイルから、最も完成度の高い選手と評されている。 1世紀を超えるテニス史で築かれた数々の記録を塗り替えてきたことから、史上最高のテニスプレーヤーとの呼び声も高い。 スイス代表としても功績を残しており、2001年・2018年ホップマンカップで優勝、2008年北京五輪・男子ダブルス金メダル、2012年ロンドン五輪・男子シングルス銀メダル、2014年デビスカップ優勝に貢献した。 さらに、欧州チームとして2017年レーバーカップ優勝に貢献した。 テニス界において他を全く寄せ付けないほどの絶大なる人気を誇り、テニスのみならず全ての競技アスリートとの比較においても、実績・人気共に、スポーツ界最高クラスの評価を受けており、その年に顕著に活躍したアスリートを称えるローレウス世界スポーツ賞の年間最優秀男子選手賞を2005年から2008年にかけて4年連続、2018年には、年間最優秀男子選手賞及び年間最優秀復帰選手賞の2冠を受賞。 ローレウス世界スポーツ賞での年間最優秀男子選手賞5回、及び年間最優秀復帰選手賞1回と合わせた計6回の受賞はどちらも史上最多。.

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ロスコー・タナー

ー・タナー(Roscoe Tanner、1951年10月15日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州チャタヌーガ出身の元男子プロテニス選手。1977年の全豪オープン男子シングルス優勝者で、1979年のウィンブルドン準優勝でもよく知られた選手である。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重77kg、左利き。左腕から繰り出す、威力あふれるサービスを最大の武器とした。しかし、同時代の選手としてジミー・コナーズやビョルン・ボルグなどの強豪選手がいたこともあり、現在の印象はやや薄くなった存在でもある。ATPツアーでシングルス16勝、ダブルス13勝を挙げた。.

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ワトソン・ウォッシュバーン

ワトソン・ウォッシュバーン(Watson Washburn, 1894年6月13日 - 1973年12月2日)は、アメリカ・ニューヨーク市出身の男子テニス選手。フルネームは Watson McLean Washburn (ワトソン・マクリーン・ウォッシュバーン)といい、“Watty”(ワッティー)という愛称で呼ばれた。ハーバード大学卒業。ダブルスの名手として知られ、ウィンブルドン選手権で1924年、全米選手権で1921年・1923年の2度男子ダブルス準優勝を記録した。テニス経歴の長さでも際立った業績を残し、1911年から1937年まで全米選手権の男子シングルスに出場し続けた人でもある。右利きの選手で、現役時代の身長は183cmほどであった。彼は1931年のウィンブルドン男子シングルス優勝者、シドニー・ウッドのおじにあたる。.

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ワシウ・ユスフ

ワシウ・ユスフ(Wasiu Yusuf、1978年9月18日 - )は、ナイジェリアの車いすテニス選手。自己最高ランクはシングルスは2008年9月29日に記録した357位で、ダブルスはランキング外。 2008年にはワイルドカードとして北京パラリンピックの出場権を獲得、ナイジェリアからの初のパラリンピックに出場する車いすテニス選手となった。しかし1回戦で第8シードのスウェーデンのステファン・オルソンと対戦し0-2で敗れた。また、車いす卓球をやっていたこともあり、2003年にナイジェリアのアブジャで開催されたオールアフリカゲームズでシングルスで金メダルを獲得、団体と個人でも銀メダル、オープン車いすで銅メダルを獲得した経験がある。.

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ヴォイチェフ・フィバク

ヴォイチェフ・フィバク(Wojciech Fibak, 1952年8月30日 - )は、ポーランド・ポズナニ出身の元男子プロテニス選手。1970年代から1980年代前半にかけて活躍した、当地最大の男子テニス選手である。ポーランド語での現地綴りは Wojciech Fibak であるが、英語文献では短縮した Wojtek Fibak という名前で表記される。シングルス自己最高ランキングは10位で、男子テニス世界ランキングでトップ10位以内に入った初めてのポーランド人選手である。ATPツアーでシングルス15勝、ダブルス52勝を挙げた。身長182cm、体重72kg、右利き。フィバクはジミー・コナーズやギリェルモ・ビラスと同じ年にあたり、この3人は生まれた時期も近い。.

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ボリス・ベッカー

ボリス・ベッカー(Boris Becker, 1967年11月22日 - )は、旧西ドイツ・ライメン出身の元男子プロテニス選手。プロ・ポーカー・プレーヤー。2歳年下のシュテフィ・グラフとともに、ドイツのテニス界の黄金時代を築いたスター選手だった。4大大会通算「6勝」を挙げる。ATPツアーでは、シングルスで4大大会6勝を含む49勝、ダブルスで15勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス6位。フルネームは Boris Franz Becker (ボリス・フランツ・ベッカー)という。 2008年よりプロのポーカー・プレーヤーとしてのキャリアをスタートさせた。またオンライン・ポーカーを運営する会社と既にスポンサー契約を結んでいる。.

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ボルナ・チョリッチ

ボルナ・チョリッチ(Borna Ćorić, クロアチア語発音:, 1996年11月14日 - ) は、クロアチア・ザグレブ出身の男子プロテニス選手。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス21位。ATPツアーではシングルス2勝。18歳でATPランキングの100位以内に入り、今後の活躍が期待される逸材である。 表記については、ボルナ・コリッチ等が見られる。.

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ボブ・ブライアン

ボブ・ブライアン(Bob Charles Bryan, 1978年4月29日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州カマリロ出身の男子プロテニス選手。身長193cm、体重88kg。左利き。双子の兄弟であるマイク・ブライアンとともに「ブライアン兄弟」のダブルスとして活動。兄弟2人ともシングルスにはほとんど出場せず、ダブルスのみに活動を絞っている。 ダブルスでのキャリアゴールデンスラム達成者。ATPツアーで史上初のダブルス100勝を挙げている.

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ボブ・ヒューイット

ボブ・ヒューイット(Bob Hewitt, 1940年1月12日 - )は、オーストラリア出身で、南アフリカ共和国国籍で活躍した男子テニス選手。のちに強姦などの罪で禁固刑となった日刊スポーツ、2015年5月18日。 ニューサウスウェールズ州Dubbo市出身。フルネームはロバート・アンソニー・ジョン・ヒューイット(Robert Anthony John Hewitt) というが、愛称の「ボブ・ヒューイット」で最もよく知られる。1960年代から1970年代にわたり、ダブルスの名手として活躍した名選手である。最初はオーストラリアでテニス選手としての活動を始めたが、南アフリカの女性との結婚により、国籍を南アフリカに移し、フルー・マクミランとのペアで多数のダブルス・タイトルを獲得した。彼はテニスの歴史を通じて、男子ダブルス・混合ダブルスの2部門ですべての4大大会タイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した数少ない選手のひとりである。彼は1968年以後、プロテニス選手としてシングルス7勝・ダブルス65勝を獲得した。.

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ボブ・ファルケンバーグ

ボブ・ファルケンバーグ(Bob Falkenburg, 1926年1月29日 - )は、アメリカ・ニューヨーク出身の男子テニス選手。1948年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者で、4大大会の男子ダブルスでも1944年全米選手権と1947年ウィンブルドン選手権で2勝を挙げた。彼は後にブラジル人女性と結婚し、ブラジルへの帰化市民となった後に、男子テニス国別対抗戦・デビスカップにブラジル代表選手として出場した。右利きの選手。.

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ボビー・リッグス

ボビー・リッグス(Bobby Riggs, 1918年2月25日 - 1995年10月25日)は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の男子テニス選手。 フルネームは Robert Larimore Riggs (ロバート・ラリモア・リッグス)という。年代的には、1938年にテニス史上初の「年間グランドスラム」を達成したドン・バッジ(1915年 - 2000年)のすぐ後に位置している。リッグスの全盛期は、ちょうど第2次世界大戦のたけなわと重なっていたため、活動の舞台が(他の年代に活躍した選手に比べて)大幅に限られていた。彼はまた、1973年にマーガレット・コート夫人やビリー・ジーン・キング夫人と“The Battle Of The Sexes”(性別間の戦い)と銘打たれた「男女対抗試合」を繰り広げたことでも知られている。.

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ボアズ・クレーメル

ボアズ・クレーメル(Boaz Kramer、בועז קרמר、1978年1月12日 - )は、イスラエルの車いすテニス選手。左腕と両足が麻痺した状態で生まれた。6歳のときにイスラエル障害者スポーツセンターで車いすテニスを始め、車いすバスケットボールの経験も持つ。また、スポーツの傍ら医学博士を目指して医学をテルアビブ大学で勉強していた。 2008年には北京パラリンピックのイスラエル代表の車いすテニス選手としてイスラエルのパラリンピック委員会によってダブルスのペアのシュラガ・ワインバーグと共に選ばれた。シングルスでは1回戦でアメリカ合衆国のニコラス・テイラーに敗れた が、ダブルスではシュラガ・ワインバーグと共に決勝でアメリカ合衆国のニコラス・テイラーとデビッド・ワグナーに敗れたものの2位で銀メダルを獲得した。 現在、彼は結婚しており、科学分野の翻訳サービスの企業を運営している。.

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トミー・ハース

トーマス・マリオ・"トミー"・ハース(Thomas Mario "Tommy" Haas, 1978年4月3日 - )は、ドイツ・ハンブルク出身の男子プロテニス選手。愛称の「トミー・ハース」という名前でツアーの公式サイトに登録されている。シングルス自己最高ランキングは2位(2002年5月)。ATPツアーでシングルス15勝、ダブルス1勝を挙げた。身長188cm、体重84kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 2000年シドニーオリンピックシングルス銀メダリスト。マスターズ1000優勝1回準優勝1回。.

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トミー・ロブレド

トミー・ロブレド・ガルセス(Tommy Robredo Garces, 1982年5月1日 - )は、スペイン・ジローナ県オスタルリック出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス16位。これまでにATPツアーでシングルス12勝、ダブルス5勝を挙げている。身長180cm、体重75kg、右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。彼の父親はロックバンド「ザ・フー」の大ファンで、お気に入りのロック・オペラ『トミー』にちなんで息子にこの名前をつけた。 2006年ハンブルク・マスターズ優勝。デビスカップにも出場しデビスカップスペイン代表の優勝に貢献。.

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トマーシュ・ベルディハ

トマーシュ・ベルディハ(Tomáš Berdych、1985年9月17日 - )は、チェコ共和国ズリーン州出身の男子プロテニス選手。身長196cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高ランキングは4位(2015年5月)。これまでにATPツアーでシングルス13勝、ダブルス2勝を挙げている。 2010年ウィンブルドン選手権男子シングルスの準優勝者。ATPワールドツアー・ファイナルに2010年から2015年まで6年連続で出場。2005年BNPパリバ・マスターズ優勝者。 4大大会すべてにベスト4進出経験がある数少ない現役選手の1人である。.

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トマシュ・スミッド

トマーシュ・シュミート(Tomáš Šmíd, 1956年5月20日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・ピルゼン出身の元男子プロテニス選手。現役選手時代はダブルスの名手としてよく知られ、ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス55勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス11位、ダブルス1位。ダブルスでは、チェコのパベル・スロジル、ミロスラフ・メチージュなどと組んで多くの好成績を出した。現役引退後、スミッドはボリス・ベッカーほか多数のプロ選手のコーチになった。 あまり知られていない話に、当時チェコスロバキアでは徴兵があり(とはいえ、トップクラスのスポーツ選手の場合は、単に『籍を置いていた』という程度であるが)、スミッドも陸軍で兵役に就いたことがある。この時に新兵として入ってきたのが、後に男子テニスの世界ランキング1位になるイワン・レンドルであった。.

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トマス・ベルッシ

トマス・コシアラリ・ベルッシ(Thomaz Cocchiarali Bellucci, 1987年12月30日 - )は、ブラジル・サンパウロ州ティエテ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス21位、ダブルス70位。これまでにATPツアーでシングルス4勝、ダブルス1勝を挙げている。身長188cm、体重80kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「ベルッチ」の表記揺れも多い。 2011年マドリード・オープンベスト4。2013年全豪オープン男子ダブルスベスト8。.

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トム・ペティット

1890年、ダブリンで開催された世界選手権の様子を描いた挿絵;「ペティットのウィニングストローク!」のキャプションがある トム・ペティット(Thomas "Tom" Pettitt, 1859年12月19日 - 1946年10月17日)は、アメリカで活躍したテニス選手。トーマス・ペティットの表記もある。1885年、リアルテニスの世界選手権に優勝、1890年に引退するまでそのタイトルを保持した。1982年、国際テニス殿堂入りした。 イングランド南東部、ベックナムに生まれる。十代のときに無一文でアメリカに渡り、マサチューセッツ州ボストンに建設された米国国内初のリアルテニスのコートで働きながら、テニスを習い覚えた。 1883年、アメリカを拠点とするテニスプレーヤーとしてイギリスを訪れ、英仏の著名な選手らと対戦を行った。1885年にはハンプトン・コートで行われた世界選手権において、それまでのタイトル保持者であったイギリスのジョージ・ランバートを破り、優勝した。1890年5月、イギリスのチャールズ・ソーンダースの挑戦を受け、アイルランドのダブリンで開催された世界選手権に臨み、タイトルを防衛した。その年の秋に引退を表明した。1898年、イギリスのピーター・レイサムに挑むため競技に復帰したが、現役の世界チャンピオンには力及ばず、大敗を喫した。 そのプレースタイルは、パワーと「勝利の窓」への正確な攻めを特徴としていた。ネヴィル・リットンはそれまでのテニスとは異なるスタイルを持っていたペティットを「革命的」、「ほとんどボルシェヴィキ主義者のようだった」と評し、「打つボールがちゃんと視野に入ったら、そいつを強くひっぱたくんだ(When I get a fair sight of the ball I hit it, and I hit it damned hard.)」というペティットの言葉を引用している。この時代のテニスの変革におけるペティットの功績について慎重な立場をとるノーエルとクラークも、彼が「すばらしい強打をテニスにもたらした」点は認めている。 1927年までボストン・テニス・アンド・ラケッツ・クラブでティーチングプロフェッショナルを務め、ロードアイランド州ニューポートのニューポート・カジノでは、テニスコーチ、のちに監督者として65年間を過ごした。ローンテニス黎明期のプレイヤーの一人であり、指導も行った。1946年10月17日朝、ニューポートの病院で病のため没した。 特徴的な口ひげで知られたほか、ハンディキャップをつけるため、ローラースケートをはいてプレーしたり、ラケットの代わりにシャンパンの瓶や椅子の肘掛け部分を使ったりしたという逸話がある。.

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トム・ブラウン (テニス選手)

トム・ブラウン(Tom Brown, 1922年9月26日 - 2011年10月27日)は、アメリカ・ワシントンD.C.出身の男子テニス選手。本名は Thomas Pollock Brown Jr. (トーマス・ポロック・ブラウン・ジュニア)という。第2次世界大戦終戦直後から1950年代前半にかけて、アメリカを代表する男子テニス選手のひとりとして活動した。彼は4大大会男子シングルスで、1946年全米選手権と1947年ウィンブルドン選手権の2度準優勝があり、2度とも決勝でジャック・クレーマーに敗れた。ダブルスでは1946年ウィンブルドン選手権で男子ダブルス・混合ダブルス2冠を獲得し、1948年全米選手権の混合ダブルス優勝もある。 彼は試合中にほとんど表情を顔に出さなかったことから“Mr.

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トム・オッカー

トム・オッカー(Tom Okker, 1944年2月22日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の男子プロテニス選手。1960年代後半から1970年代にかけて、オランダのテニス界に君臨した名選手であり、「空を飛ぶオランダ人」“The Flying Dutchman”というニックネームで呼ばれた。4大大会では1968年の全米オープン男子シングルス準優勝者になり、男子ダブルスでは1973年の全仏オープンと1976年の全米オープンで2勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス22勝、ダブルス69勝を記録した。身長177cm、体重66kg、右利き。 トム・オッカーは1964年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオランダ代表選手となり、1981年までその位置にあった。彼が全米オープンで準優勝した1968年は、テニス史上最大の転換期で、4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化」措置が実施された年である。1968年と1969年の2年間、「全米オープン」に過渡期の暫定開催があった。それは、9月開催の「オープン化時代大会」(Open Era Grand Slam)のほかに、年末の12月に別途で「全米選手権」(US National Champs)が行われたが、大会公認の優勝者は1回目の「オープン化時代大会」の勝者を記載する(全米オープン男子シングルス優勝者一覧を参照)。オッカーは1回目の「オープン化時代大会」の男子シングルス決勝戦で、黒人のテニス選手として勝ち上がったアーサー・アッシュと対決することになった。アッシュは黒人男子選手として初の4大大会シングルス優勝を目指し、オッカーもオランダ人男子選手として初優勝を狙い、両者とも“大望対決”で臨んだ決勝戦は、全米オープン史上に残る激闘となった。オッカーはアッシュに 12-14, 7-5, 3-6, 6-3, 3-6 のフルセットで敗れ、オランダ人選手としての4大大会男子シングルス初優勝はならなかった。彼が果たせなかった男子シングルス優勝の夢は、28年後の1996年ウィンブルドンにおいて、リカルド・クライチェクによって成し遂げられた。(オランダ人女子選手の4大大会優勝は、1927年の全仏選手権優勝者コルネリア・ボウマン1人だけである。) トム・オッカーは1968年にプロテニス選手になったが、デビスカップでは1973年までプロ選手の出場は認められず、ようやくこの年にデ杯でも「オープン化」が実現した。この年の全仏オープン男子ダブルスで、オッカーはオーストラリアのジョン・ニューカムとペアを組み、決勝でジミー・コナーズとイリ・ナスターゼの組を 6-1, 3-6, 6-3, 5-7, 6-4 のフルセットで破って4大大会ダブルス初優勝を遂げた。1975年と1976年の全米オープン男子ダブルスで、オッカーはマーティー・リーセンとのペアで2年連続の決勝に進出した。1975年の決勝では、2年前の1973年全仏男子ダブルス決勝で下したコナーズ&ナスターゼ組に敗れたが、1976年に自身2度目の4大大会ダブルス優勝を果たしている。男子テニスツアーでは、シングルスでは1979年まで、ダブルスでは1980年まで優勝記録を残した。オッカーとダブルスのペアを組んで好成績を多く残した選手は、他にもポーランドのヴォイチェフ・フィバクなどがいる。 「空を飛ぶオランダ人」として男子テニスの歴史に忘れ難い印象を残したトム・オッカーは、1980年に36歳で現役を引退した。2003年に「国際ユダヤ人スポーツ殿堂」入りを果たしている。.

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トム・ガリクソン

トム・ガリクソン(Tom Gullikson, 1951年9月8日 - )は、アメリカ・ウィスコンシン州ラクロス出身の元男子プロテニス選手。本名は Thomas Robert Gullikson (トーマス・ロバート・ガリクソン)という。双子の弟であるティム・ガリクソン(1996年5月3日没)とともに「ガリクソン兄弟」のダブルスペアとして活躍し、1983年のウィンブルドン男子ダブルスで準優勝した。トムは1984年の全米オープン混合ダブルスでマニュエラ・マレーバ(ブルガリア)と組んだ優勝がある。自己最高ランキングはシングルス34位、ダブルス4位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス16勝を挙げた。現役選手時代の体格は身長180cm、体重77kgほどで、トムは左利きの選手だった。 ガリクソン家で双子の兄弟が1951年9月8日に誕生した時、トムのほうが数分先に生まれた。2人は同じ北イリノイ大学を卒業した後、テニスのティーチング・プロの仕事に就き、トムは1976年に25歳という遅い年齢からプロテニス選手生活を始めた。1978年、トムは男子ツアーで2大会のシングルス決勝に進出し、ダブルスで年間4勝を獲得した。1980年には日本のセイコー・スーパー・テニスでシングルス準優勝があり、同じアメリカのジミー・コナーズに 1-6, 2-6 で敗れた。トムの4大大会シングルス自己最高成績は、1982年の全米オープンベスト8進出で、この準々決勝ではギリェルモ・ビラス(アルゼンチン)に 2-6, 1-6, 3-6 のストレート負けを喫している。1985年7月、トムはロードアイランド州ニューポート大会の決勝でジョン・サドリ(アメリカ、1979年全豪オープン準優勝者)を 6-3, 7-6 で破り、この地で生涯唯一のシングルス優勝を果たした。彼の最後の4大大会シングルス出場は、1986年全米オープンの3回戦進出であった。 トム・ガリクソンは男子ツアーダブルス通算15勝のうち、10個を双子の弟ティムとのコンビで獲得した。ガリクソン兄弟のダブルスは1978年から男子ツアーで勝ち始め、4大大会のうち全仏オープンを除く3大会でベスト4に勝ち残り、1983年のウィンブルドン男子ダブルス準優勝ペアになった。2人は当時世界最強の実力を誇ったジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング組に 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで完敗し、ウィンブルドン・ダブルス優勝を逃した。ガリクソン兄弟は1982年に日本のジャパン・オープンで優勝したこともあり、この時はマッケンローとピーター・レナート(アメリカ)組に 6-4, 3-6, 7-6(7-3) で勝った。ガリクソン兄弟ペアの現役最後の優勝は、1985年10月の「スイス室内選手権」(当地バーゼル開催)であった。2人のダブルスは、1988年3月までトーナメントに出場した。 トムは1984年の全米オープン混合ダブルスで、ブルガリアのマニュエラ・マレーバと組んだ優勝がある。トムとマニュエラは、決勝でオーストラリアペアのジョン・フィッツジェラルド&エリザベス・セイヤーズ組に 2-6, 7-5, 6-4 の逆転勝ちを収めた。(パートナーのM・マレーバは、これによりブルガリアの地に最初のグランドスラム・タイトルをもたらした。) 選手生活からの引退後、トム・ガリクソンは1994年から1999年まで6年間男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表監督を務め、1995年にアメリカ・チームを優勝に導いた。1996年5月3日、双子の弟ティムが脳腫瘍のため44歳8か月で死去した。ティムの短い生涯を偲び、トムは双子の兄弟の名前で「ガリクソン財団」を設立し、現在に至るまで脳腫瘍の人々を支援するための活動を行っている。.

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トラビス・パロット

トラビス・パロット(Travis Parrott, 1980年8月16日 - )は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド出身の男子プロテニス選手。2009年全米オープン混合ダブルスで、同じアメリカのカーリー・ガリクソンとペアを組んで優勝した。彼は普段からダブルスのみに活動を絞り、ATPツアーでは1度もシングルスへのエントリーがない。ATPツアーでダブルス3勝を挙げた(準優勝6度)。身長185cm、体重79kg、右利き。.

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トルベン・ウルリッヒ

トルベン・ウルリッヒ(Torben Ulrich, 1928年10月4日 - )は、デンマークの男子テニス選手。彼は1940年代末から1970年代まで、デンマークを代表するテニス選手として長期間にわたり活動を続け、とりわけ団体戦のデビスカップでクルト・ニールセンと組んで優れた成績を出した。左利きの選手で、体格は身長180cm・体重68kgほどであった。 現在は家族とともにアメリカ・ワシントン州シアトルに在住し、音楽・映画監督・著述・絵画などで多方面の活動を行っている。とりわけ音楽分野については、テニス経歴と並行して1940年代からジャズ・ミュージシャンとして活動を始めていた。アメリカの著名なヘヴィメタルバンド「メタリカ」のドラマーであるラーズ・ウルリッヒは、トルベンの息子である。.

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トレト・ユーイ

トレト・コンラッド・ユーイ(Treat Conrad Huey, 1985年8月28日 - )は、フィリピンの男子テニス選手。アメリカ合衆国のワシントンD.C.出身。ATPシングルスの自己最高ランキングは689位だが、ダブルスは20位である。これまでにATPツアーでダブルス7勝を挙げている。デビスカップフィリピン代表にも選ばれている。.

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トーマス嶋田

トーマス嶋田 重太郎( - しまだ しげたろう、1975年2月10日 - )は、日本の男子テニス選手。両親が事業経営の関係で渡米していた際にアメリカ合衆国ペンシルベニア州・フィラデルフィアで生まれた。ATPツアーでダブルス通算3勝を挙げた。.

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トーマス・ムスター

トーマス・ムスター(Thomas Muster, 1967年10月2日 - )は、オーストリア・シュタイアーマルク州ライプニッツ出身の男子プロテニス選手。オーストリア人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になり、1996年2月に同国のテニス選手として初の世界ランキング1位を記録した。左利き。ATPツアーでシングルス44勝を挙げる。身長180cm、体重75kg。 1995年全仏オープン男子シングルス優勝。マスターズ・シリーズ優勝8回。.

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トーマス・ヨハンソン

ール・トーマス・コニー・ヨハンソン(Karl Thomas Conny Johansson, 1975年3月24日 - )は、スウェーデン・リンシェーピング出身の元男子プロテニス選手。2002年全豪オープン男子シングルス優勝者である。2008年北京五輪男子ダブルスでシーモン・アスペリンと組んで銀メダル獲得。 シングルス自己最高ランキングは7位。身長180cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーで2002年全豪オープン男子シングルスを含むシングルス9勝、ダブルスで1勝を挙げた。.

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トーマス・エンクビスト

ール・ヨハン・トーマス・エンクビスト(Karl Johan Thomas Enqvist, 1974年3月13日 - )は、スウェーデン・ストックホルム出身の男子プロテニス選手。1999年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス19勝、ダブルス1勝を挙げた。身長190cm、体重88kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「トーマス・エンクイスト」と表記されることも多い。.

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トッド・マーティン

トッド・クリストファー・マーティン(Todd Christopher Martin, 1970年7月8日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の元男子プロテニス選手。1994年全豪オープンと1999年全米オープン男子シングルスで、4大大会準優勝2度を記録した。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス8勝、ダブルス5勝を挙げた。身長198cm、体重90kgの長身選手。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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トッド・ウッドブリッジ

トッド・ウッドブリッジ(Todd Woodbridge, 1971年4月2日 - )は、オーストラリア・シドニー市出身の男子プロテニス選手。身長177cm、体重75kg、右利き。フルネームは Todd Andrew Woodbridge (トッド・アンドリュー・ウッドブリッジ)。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス83勝。 長年にわたり、ダブルスの名手として活躍した。とりわけ、同じオーストラリアのマーク・ウッドフォードとのペアで無敵の強さを発揮したが、この2人は姓がよく似ていることから「ウッディーズ」(Woodies)と呼ばれた。 グランドスラム合計優勝数23回は歴代3位タイ記録。グランドスラムダブルス優勝数16回は歴代2位タイ記録(オープン化以降1位タイ記録)。ペアでの優勝数11回は歴代3位記録(オープン化以降2位)。.

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トニー・ローチ

トニー・ローチ(Tony Roche, 1945年5月17日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の男子プロテニス選手。1966年の全仏選手権で優勝し、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。左利き。彼のテニスは、独特な癖のある左腕からのサービスと、華麗なボレーに特徴があった。フルネームは Anthony Dalton Roche (アントニー・ドールトン・ローチ)という。.

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トニー・トラバート

トニー・トラバート(Tony Trabert, 1930年8月16日 - )は、アメリカ・オハイオ州シンシナティ出身の男子テニス選手。フルネームは Marion Anthony Trabert (マリオン・アントニー・トラバート)という。グランドスラム優勝5回。1955年にグランドスラム3冠を達成。1955年-56年と全仏2連覇。1950年代のトップ選手として活躍した。1970年に国際テニス殿堂入り。.

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ヘンナー・ヘンケル

ヘンナー・ヘンケル(Henner Henkel, 1915年10月9日 - 1943年1月13日)は、ドイツの男子テニス選手。1937年の全仏選手権で男子シングルスとダブルスの単複2冠を獲得した選手で、1930年代に最初の黄金期を迎えたドイツ・テニス界を代表する選手であった。全仏選手権を単複制覇した1937年に、日本を訪れたこともある。強力なグラウンド・ストロークと卓越したボレーの技術で、当時の世界ランキング3位につけていたが、第二次世界大戦で戦死した。現在のポーランド・ポズナン出身。.

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ヘンリ・コンティネン

ヘンリ・コンティネン(Henri Kontinen, 1990年6月19日 - )は、フィンランドの男子プロテニス選手。ヘルシンキ出身でエストニア・タリンに在住。ダブルスで14勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス220位、ダブルス1位。身長191cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。2016年ウィンブルドン選手権混合ダブルス、2016年ATPワールドツアー・ファイナル男子ダブルス、2017年全豪オープン男子ダブルス優勝。.

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ヘンリー・オースチン

ヘンリー・ウィルフレッド・オースチン(Henry Wilfred Austin, 1906年8月20日 - 2000年8月20日)は、イングランド・ロンドン出身の男子テニス選手。ケンブリッジ大学卒業。1930年代にイギリスを代表するテニス選手として活躍した。 フルネームは「ヘンリー・ウィルフレッド・オースチン」というが、愛称の「バニー・オースチン」(Bunny Austin)の呼び名で最もよく知られている。彼は男子テニス国別対抗戦・デビスカップでイギリス・チームを1933年-1936年の4連覇に導いた。グランドスラムでは3度の準優勝があるもののタイトルを獲得できなかった。オースチンは佐藤次郎との対戦を通じて、日本のテニス史にも名前を残した選手である。 彼の後に男子イギリス人選手が地元ウィンブルドン選手権決勝進出を長い間果たせなかったが、2012年にアンディ・マリーが74年ぶりに決勝進出を果たした。.

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ヘンリー・スローカム

ヘンリー・スローカム(Henry Slocum, 1862年5月28日 - 1949年1月22日)は、アメリカの男子テニス選手。黎明期の「全米シングルス選手権」(現在の全米オープンテニス男子シングルス部門)で1888年と1889年に優勝し、同部門で2人目の優勝者になった選手である。エール大学卒業。フルネームは Henry Warner Slocum Jr. (ヘンリー・ワーナー・スローカム・ジュニア)という。.

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ヘンドリク・ティマー

ヘンドリク・ティマー(Hendrik Timmer, 1904年2月8日 - 1998年11月13日)は、オランダ・ユトレヒト出身の男子テニス選手。当地から登場した最初の本格的な男子テニス選手として活動し、1924年のパリ五輪でコルネリア・ボウマンと組んで混合ダブルスの銅メダルを獲得した。ティマーはウィンブルドン選手権でも、1927年と1929年の2度ベスト8進出がある。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでも長く活躍し、1920年代におけるオランダの国民的英雄であった。オランダでは Henk Timmer (ヘンク・ティマー)と呼ばれることが多い。.

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ブノワ・ペール

ブノワ・ペール(、 1989年5月8日 - )は、フランス・アヴィニョン出身の男子プロテニス選手。英語読みのブノワ・ペア表記もある。ATP自己最高ランクはシングルス18位、ダブルス84位。これまでにATPツアーではシングルス1勝、ダブルスで1勝がある。身長196cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2013年BNLイタリア国際ベスト4。2013年全豪オープン男子ダブルスベスト8。.

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ブラッド・パークス

ブラッド・パークス(Brad Parks, 1957年4月2日 - ) はアメリカ、カリフォルニア州出身の車いすテニス選手。バルセロナパラリンピック車いすテニス男子ダブルス金メダリスト。車いすテニスを競技スポーツとして成立させ、広く普及に努めた。.

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ブラッド・ギルバート

ブラッド・ギルバート(Brad Gilbert, 1961年8月9日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州オークランド出身の元男子プロテニス選手。1980年代後半から1990年代前半にかけて、アメリカを代表する男子選手の1人として活動し、ATPツアーでシングルス20勝、ダブルス3勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス18位。アンドレ・アガシなど、著名なトッププロ選手たちのコーチとしても有名である。 1982年にプロ入りし、同年11月の台湾・台北市の大会でツアー初優勝を果たす。1983年の全仏オープンで4大大会にデビューし、続くウィンブルドンでいきなりジョン・マッケンローとの3回戦に勝ち進んだ。ギルバートは男子ツアーで1984年に年間2勝、1985年に3勝を獲得し、着実に地歩を固めていく。1985年10月のイスラエル・テルアビブ大会で初めての単複2冠を獲得した時は、シングルス決勝では地元イスラエルのアモス・マンスドルフを破って優勝し、ダブルスでは往年の名選手イリ・ナスターゼとペアを組み、初めてのダブルス優勝を飾った。1986年にはツアーで年間4勝を挙げ、男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表にも初選出された。1987年は全米オープンで初めてのベスト8進出があった。ギルバートは4回戦でボリス・ベッカーを破った後、続く準々決勝でジミー・コナーズに 6-4, 3-6, 4-6, 0-6 で敗れた。 1988年1月から3月にかけて、ギルバートは足首故障のため一時的に戦線を離れた。プロ入り年の1982年に起こした捻挫による靭帯損傷や、左足首腱の組織に蓄積した傷跡が、レントゲン検査で明らかになったという。この年、ギルバートはソウル五輪の男子シングルスで銅メダルを獲得した。オリンピックテニス競技に「プロテニス選手」の参加が認められたことにより、このソウル大会からオリンピック競技としてのテニスが復活し、ギルバートはアメリカ代表選手として参加した。彼は準決勝で同じアメリカ代表のティム・メイヨットに 4-6, 4-6, 3-6 のストレートで敗れたが、この大会では準決勝敗退選手2名による「銅メダル決定戦」がなかったため、ブラッド・ギルバートとステファン・エドベリの2人が銅メダリストになった。 1989年のギルバートはツアーで最も好調なシーズンを送り、8大会で決勝に進出し、うち5大会で優勝した。7月末から8月第2週にかけて、全米オープン前哨戦で3週連続優勝もあった。1990年1月1日付で、ブラッド・ギルバートは世界ランキングで自己最高の「4位」をマークする。1990年ウィンブルドンで、ギルバートは1987年全米オープン以来となる4大大会ベスト8に入った。4回戦ではアメリカの新鋭デビッド・ウィートンと 6-7, 3-6, 6-1, 6-4, 13-11 の熱戦を繰り広げたが(最終第5セットは24ゲーム)、準々決勝では第2シードのボリス・ベッカーに 4-6, 4-6, 1-6 のストレートで完敗した。結局、ギルバートは4大大会シングルスでは2度のベスト8進出に終わり、準決勝以上に勝ち進むことができなかった。1990年に獲得した3勝を最後に、ギルバートは男子ツアーの優勝から見放され、1991年以後は7大会の準優勝で止まってしまう。デビスカップでは1993年までアメリカ代表選手を務めたが、彼が起用された試合はすべてシングルス戦(通算10勝5敗)であった。 ギルバートはプロ入りした1982年から、「ジャパン・オープン」や「セイコー・スーパー・テニス」で毎年のように日本を訪れていた。セイコー・スーパー・テニスでは1983年にイワン・レンドルとの準決勝に進出し、ジャパン・オープンでは1993年にピート・サンプラスに敗れた準優勝がある。現役生活で最後の来日となった1994年のジャパン・オープンでも、ボリス・ベッカーとの準々決勝まで勝ち進んだ。 ブラッド・ギルバートは自らがまだ現役選手だった1994年から、アンドレ・アガシのコーチに就任した。ギルバートに師事し始めた年、アガシは全米オープンで初優勝を飾り、1995年に初めて世界ランキング1位になる。ギルバートはアガシのコーチに専念するため、1995年3月の「リプトン国際選手権」1回戦敗退を最後に、自らのシングルス経歴に終止符を打った。その後、アガシのテニス経歴には大きな起伏があったが、その間ずっと彼を支え続けたのがギルバートだった。2002年初頭にアガシとのコーチ契約を解消した後は、アンディ・ロディックやアンディ・マリーを教えたこともある。2011年から、錦織圭のトラベリング・コーチに就任し、15トーナメントに同行する。 ブラッド・ギルバートには2冊の著書もあり、1994年に出版した『Winning Ugly: Mental Warfare in Tennis』(格好悪く勝つ-テニスにおける精神的な戦い)という本はベストセラーになった。2005年には、2冊目の著書となる『I've Got Your Back』を出版した。.

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ブライアン・ノートン

ブライアン・ノートン(Brian Norton, 1899年10月10日 - 1956年7月16日)は、南アフリカ・ケープ州(現西ケープ州)出身の男子テニス選手。1921年のウィンブルドン選手権男子シングルス準優勝者で、南アフリカ出身のテニス選手として最初の4大大会シングルス決勝進出者になった人である。2年後の1923年に全米選手権男子ダブルスでビル・チルデンと組んで優勝し、同国で最初の4大大会タイトルを獲得した。フルネームは Brian Ivan Cobham Norton (ブライアン・アイバン・コブハム・ノートン)といい、「ベーブ・ノートン」(Babe Norton)の愛称で知られた。.

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ブライアン・ティーチャー

ブライアン・ティーチャー(Brian Teacher, 1954年12月23日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ出身の元男子プロテニス選手。1980年の全豪オープン男子シングルス優勝者である。身長190cm、体重79kgの巨体で、長い腕から繰り出す弾丸サービスを最大の持ち味とした。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス16位。ATPツアーで1980年全豪オープンを含むシングルス8勝、ダブルス16勝を挙げた。 1973年にプロ入りし、同年の全米オープンで4大大会にデビューする。1980年当時、全豪オープンは(現在の年頭1月開催とは異なる)年末の12月に開催され、出場選手も少なかったことから、64名の選手による6回戦制で行われていた。ブライアン・ティーチャーは第8シードから勝ち進み、決勝でオーストラリアのキム・ウォーウィックを 7-5, 7-6, 6-2 のストレートで破り、4大大会の男子シングルス優勝を果たした。この大会には、当時の男子テニス界に君臨していたビョルン・ボルグ、ジミー・コナーズ、ジョン・マッケンローなどの強豪選手は出場しておらず、第1シードがギレルモ・ビラス(アルゼンチン)、第2シードがイワン・レンドル(チェコスロバキア)で、いくらか出場選手層が薄い中での戦いであった。 ティーチャーはその後、1982年にウィンブルドンと全豪オープンでベスト8進出がある。ウィンブルドンでは4回戦で、先の全仏オープンに17歳で優勝したばかりのマッツ・ビランデルを破った後、準々決勝でティム・メイヨット(アメリカ)に 7-6, 6-7, 5-7, 6-3, 1-6 のフルセットで敗れた。1983年のシーズンを最後に、ティーチャーは男子ツアーでシングルス・ダブルスとも優勝が途絶えてしまう。彼の現役最後の試合は、1986年10月の「ジャパン・オープン」であった。シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わったが、元全豪王者のブライアン・ティーチャーは日本のトーナメントを最後の舞台に選んだのである。.

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ブライアン・ゴットフリート

ブライアン・ゴットフリート(Brian Gottfried, 1952年1月27日 - )は、アメリカの元プロテニス選手。メリーランド州ボルチモアでユダヤ系の家庭に生まれる。同時にウェールズ系の血も引く。 1977年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。ダブルスではメキシコのラウル・ラミレスとペアを組んで数多くのタイトルを獲得し、全仏オープンの男子ダブルスで1975年と1977年の2度、ウィンブルドンでも1976年の男子ダブルスを制覇した。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルス25勝、ダブルス54勝を挙げた。身長182cm、体重75kg、右利き。フルネームは Brian Edward Gottfried (ブライアン・エドワード・ゴットフリート)という。.

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ブルーノ・ソアレス

ブルーノ・フラーガ・ソアレス(Bruno Fraga Soares, 1982年2月27日 - )は、ブラジル・ベロオリゾンテ出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして活動しており、2012年全米オープン混合ダブルス、2014年全米オープン混合ダブルス、2016年全豪オープン男子ダブルス、2016年全米オープン男子ダブルス優勝者。これまでにATPツアーでダブルス20勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス221位、ダブルス3位。右利き両手打ち、身長180cmである。.

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パラドーン・スリチャパン

パラドーン・スリチャパン(Paradorn Srichaphan, タイ語:ภราดร ศรีชาพันธุ์, 1979年6月14日 - )は、タイ王国・バンコク出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは9位(2003年5月)。ATPツアーでシングルス5勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。身長185cm、体重81kg。.

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パンチョ・ゴンザレス

パンチョ・ゴンザレス(Pancho Gonzales, 1928年5月9日 - 1995年7月3日)は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の男子テニス選手。本名は Ricardo Alonso González (リカルド・アロンソ・ゴンザレス)といい、愛称の「パンチョ・ゴンザレス」で最もよく知られる。1948年と1949年の全米選手権で大会2連覇を達成した選手で、1949年の全仏選手権とウィンブルドン選手権で男子ダブルス2連勝もある。その後プロテニス選手として活動し、1973年まで四半世紀の長きにわたってテニス経歴を続行した。.

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パット・オハラウッド

パット・オハラウッド(Pat O'Hara Wood, 1891年4月30日 - 1961年12月3日)は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。フルネームは Hector Patrick O'Hara Wood (ヘクター・パトリック・オハラウッド)という。1920年代のオーストラリア・テニス界をリードした選手の1人で、全豪選手権で男子シングルス2勝・男子ダブルス4勝を挙げ、ウィンブルドン選手権でも1919年の男子ダブルスと1922年の混合ダブルスで優勝した。兄のアーサー・オハラウッド(1890年 - 1918年)も1914年の全豪選手権男子シングルス優勝者であり、パットとアーサーは2人揃って全豪選手権の男子シングルスを制した唯一の「兄弟テニス選手」として知られる。妻のも著名な女子テニス選手だった。.

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パット・キャッシュ

パット・キャッシュ(Pat Cash, 1965年5月27日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の元男子プロテニス選手。1987年のウィンブルドン男子シングルス優勝者である。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス6位。ATPツアーで1987年ウィンブルドンを含むシングルス7勝、ダブルス12勝を挙げる。右利き。強靭なリスト(手首)を生かしたバックハンド・ストロークを特徴とした。フルネームは Patrick Hart Cash (パトリック・ハート・キャッシュ)。.

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パトリック・マッケンロー

パトリック・マッケンロー(Patrick McEnroe, 1966年7月1日 - )は、アメリカ・ニューヨーク州マンハセット出身の元男子プロテニス選手。1980年代の男子テニス界をリードした名選手、ジョン・マッケンローの実弟である。1989年の全仏オープン男子ダブルスでジム・グラブ(同じアメリカの選手)と組んで優勝した。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルスは1勝どまりだったが、ダブルスで1989年全仏オープンを含む16勝を挙げた。.

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パトリック・ラフター

パトリック・マイケル・ラフター(Patrick Michael Rafter, 1972年12月28日 - )は、オーストラリア・クイーンズランド州出身の元男子プロテニス選手。1997年・1998年全米オープン男子シングルスで大会2連覇を達成した選手である。ATPツアーで全米オープン2勝を含むシングルス11勝、ダブルス10勝を挙げた。身長185cm、体重86kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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パブロ・アンドゥハル

パブロ・アンドゥハル・アルバ(Pablo Andújar Alba, 1986年1月23日 - )は、スペイン・クエンカ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス32位、ダブルス74位。ATPツアーでシングルス4勝を挙げている。身長180cm、体重76kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。クレーコートを得意とし、シングルス4勝・決勝進出8回は全てクレーコートの大会である。 2013年マドリード・オープンベスト4。.

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パブロ・カレーニョ・ブスタ

パブロ・カレーニョ・ブスタ(Pablo Carreño Busta, 1991年7月12日 - )は、スペイン・ヒホン出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス10位、ダブルス16位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス3勝を挙げている。身長188cm、体重74kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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パブロ・クエバス

パブロ・ガブリエル・クエバス・ウルロス(Pablo Gabriel Cuevas Urroz, 1986年1月1日 - )は、ウルグアイの男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス6勝、2008年全仏オープンを含むダブルス6勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス14位。身長180cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。アルゼンチンのコンコルディア出身でウルグアイのサルトに在住している。 2008年全仏オープン男子ダブルスでルイス・オルナとペアを組んで優勝し、ウルグアイの男子テニス選手として最初の4大大会優勝者になった選手である。.

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パベル・ビズネル

パベル・ビズネル(Pavel Vízner, 1970年7月15日 - )は、チェコ・プラハ出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとしてよく知られ、グランドスラム男子ダブルスで3度の準優勝を記録した選手である。2004年ジャパン・オープン・テニス選手権男子ダブルスでジャレッド・パーマーと組んで優勝したこともある。彼は普段からダブルスのみに活動を絞り、グランドスラム大会の男子シングルスには1度も出場記録がない。ダブルスの自己最高ランキングは5位。身長182cm、体重85kg、右利き。.

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パベル・スロジル

パベル・スロジル(Pavel Slozil, 1955年12月29日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・オパヴァ出身の元男子プロテニス選手。現役選手時代はシングルスよりもダブルスに優れ、ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス30勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス4位。ダブルスでは、チェコのトマシュ・スミッドなどと組んで多くの好成績を出したが、シングルスでは1982年全仏オープンの3回戦進出が最高成績だった。.

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パオロ・ロレンツィ

パオロ・ロレンツィ(, 1981年12月15日 - )は、イタリア・ローマ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス33位、ダブルス82位。これまでにATPツアーでシングルスで1勝、ダブルスで1勝を挙げている。身長183cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ロレンツィはATPワールドツアー最年長初優勝記録(34歳7ヶ月)保持者である。.

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ヒシャム・アラジ

ヒシャム・アラジ(, Hicham Arazi, 1973年10月19日 - )は、モロッコ・カサブランカ出身の男子プロテニス選手。同じ年のカリム・アラミ、2歳年上のユーネス・エル・アイナウイと並び、長年にわたりモロッコのテニス界をリードしてきた選手である。左利き。シングルス自己最高位は22位。ATPツアーでシングルス1勝を挙げた。モロッコの公用語であるフランス語で読むと「ヒシャム・アラジ」になるが、日本語の文献では英語読みした「ヒチャム・アラジ」の表記も多い。.

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ビョルン・ボルグ

ビョルン・ボルグ(またはビョーン・ボーリ、ビェーン・ボリなど、Björn Borg, 1956年6月6日 - )は、スウェーデン・セデーテイェ(首都ストックホルム近郊の都市)出身の元男子プロテニス選手。ジミー・コナーズ(アメリカ)やジョン・マッケンロー(アメリカ)らと並んで、男子テニスの黄金時代を築いた名選手のひとりである。全仏オープンに4連覇を含む6勝、ウィンブルドン選手権で5連覇を達成した。4大大会通算「11勝」は、ロッド・レーバー(オーストラリア)と並ぶ男子歴代6位タイ記録。.

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ビル・チルデン

ビル・チルデン(Bill Tilden, 1893年2月10日 - 1953年6月5日)は、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の男子テニス選手。本名は William Tatem Tilden II (ウィリアム・ターテム・チルデン2世)といい、「ビル・チルデン」の名前で最もよく知られる。 4大大会優勝10回は1967年にロイ・エマーソンが抜くまで当時歴代1位記録だった。現在でも男子テニスの単独歴代8位記録。 全米オープン優勝7回は現在も歴代1位タイ記録。 第一次世界大戦後の時代に活躍し、日本テニス界の黎明期に大きな影響を与えた選手である。大男だったことから“Big Bill”(ビッグ・ビル)と呼ばれていた。長身を生かした弾丸サーブ「キャノン・ボール」(Cannonball)を最大の武器にした。.

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ビル・ボウリー

ウィリアム・ボウリー(William Bowrey, 1943年12月25日 - )は、オーストラリア・シドニー市出身の男子テニス選手。1968年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、テニス4大大会でプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施される直前の、最後の「全豪選手権」で優勝した人である。彼のフルネームは William Walter Bowrey (ウィリアム・ウォルター・ボウリー)というが、本記事では「ビル・ボウリー」(Bill Bowrey)の見出しで記述する。彼には“Tex”(テックス)という愛称もあった。ボウリーは長身と長い手足の持ち主で、プレースタイルは当時としてはやや派手であったが、オールラウンド・プレーヤーとして高い人気を持っていた。国際テニス殿堂入りした女子の名選手、レスリー・ターナーの夫としてもよく知られる。 ボウリーは1962年から全豪選手権に出場を始め、1965年から1967年まで3年連続のベスト8に進出した後、1968年の大会で初優勝を飾った。前年の1967年までテニス4大大会の頂点を争っていたオーストラリアのライバル選手たち、ジョン・ニューカムやトニー・ローチなどが「プロテニス選手」に転向したため、1968年初頭にはボウリーがオーストラリアの「アマチュアテニス選手」の第一人者になった。初進出の決勝戦で、ボウリーはフアン・ヒスベルト(スペイン)を 7-5, 2-6, 9-7, 6-4 で破って優勝した。しかし、ボウリーの全豪優勝のすぐ後に、テニス界は4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」の実施に踏み切った。テニス界の「オープン化時代」(Open Era)は、1968年の「全仏オープン」から始まる。オープン化措置の実施により、さらに前からプロテニスツアーを回っていた先輩選手たちも4大大会復帰が可能になり、「全仏オープン」ではプロの先輩選手であるケン・ローズウォールとロッド・レーバーが決勝を戦った。アマチュア・トーナメントとしての「全豪選手権」を制したビル・ボウリーは、この後1968年ウィンブルドンで2回戦敗退に終わり(全仏オープン・全米オープンは不参加)、翌1969年から「全豪オープン」となった大会でもベスト8止まりに終わった。 ビル・ボウリーは1968年と1969年の2年間、男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手も務めた。しかし、1969年5月23日-25日にオーストラリアが下部グループの「N&C アメリカ」決勝でメキシコ・チームと対戦した時、ボウリーは最終第5試合のシングルス戦でラファエル・オスナに 2-6, 6-3, 6-8, 3-6 で敗れ、オーストラリアは予想外の早期敗退を喫した。この敗戦を最後に、1938年からデ杯のオーストラリア代表監督を務めてきたハリー・ホップマンが31年間の監督経歴に終止符を打ち、デビスカップにおけるオーストラリアの黄金時代が幕を閉じた。ボウリーを激戦で倒したオスナは、それからわずか10日後の6月4日に飛行機事故で急死してしまう。 ボウリーの他の4大大会成績は、全米選手権では1966年にベスト8進出があるが、全仏では「選手権」の1965年と1971年全仏オープンの3回戦、ウィンブルドンでは1966年の4回戦進出が自己最高成績であった。ダブルスでは、1966年のウィンブルドン選手権と1967年の全米選手権で男子ダブルス準優勝と、1966年の全豪選手権で混合ダブルス準優勝があった。男子ダブルスでは両方とも同じオーストラリアのオーウェン・デビッドソンとペアを組み、混合ダブルスのパートナーはロビン・エバーンと組んだ。 ボウリーは「全豪選手権」で優勝した1968年に、同じオーストラリアの女子トップ選手であるレスリー・ターナーと結婚した。ターナーは1963年と1965年の全仏選手権女子シングルス優勝者で、ダブルスでの活躍が多かった名選手である。2人はテニス史上初の「4大大会シングルス優勝者どうしの夫婦」として知られたが、33年後の2001年にアンドレ・アガシとシュテフィ・グラフが2組目になった。.

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ビル・ジョンストン

ビル・ジョンストン(Bill Johnston, 1894年11月2日 - 1946年5月1日)は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の男子テニス選手。本名は William M. Johnston (ウィリアム・M・ジョンストン)という。全米選手権で7年連続の決勝対決を繰り広げたアメリカのライバル、ビル・チルデンと名前も同じだったことから、チルデンと並び称されている。身長173cmのジョンストンは“Little Bill”(リトル・ビル)と呼ばれ、身長188cmの大男だったチルデンは“Big Bill”(ビッグ・ビル)と呼ばれた。ジョンストンはチルデンと並び、日本テニス界の黎明期に大きな影響を与えた選手の1人である。.

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ビル・タルバート

ビル・タルバート(Bill Talbert, 1918年9月4日 - 1999年2月28日)は、アメリカ・オハイオ州シンシナティ出身の男子テニス選手。フルネームは William Franklin Talbert (ウィリアム・フランクリン・タルバート)という。キャリアを通じてダブルスに優れ、全米選手権で男子ダブルス4勝と混合ダブルス4連覇を達成し、全仏選手権でも1950年に男子ダブルス優勝を記録した。シングルスでは1944年と1945年の2年連続で、全米選手権の男子シングルス準優勝があり、2年連続でフランク・パーカーに連敗した。彼は糖尿病を克服してテニス経歴を築いたことでも知られ、生涯中に4冊の著書を残し、後年は「全米オープンテニス」の競技運営委員長として活動した。右利きの選手。.

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ビンセント・リチャーズ

ビンセント・リチャーズ(Vincent Richards, 1903年3月20日 - 1959年9月28日)は、アメリカ・ニューヨーク州ヨンカーズ出身の男子テニス選手。1924年パリ五輪の男子シングルス・男子ダブルスで優勝し、単複金メダルを獲得した選手である。“Vinnie”(ビニー)という愛称で呼ばれたリチャーズは、ダブルスの名手として4大大会の男子ダブルスで通算「7勝」を記録した。日本の原田武一選手との対戦と交流を通して、日本とも深いつながりを持つ選手だった。.

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ビンセント・スペイディア

ビンセント・スペイディア(Vincent Spadea, 1974年7月19日 - )は、アメリカ・イリノイ州シカゴ出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは18位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス3勝を挙げた。身長183cm、体重73kg、右利き。バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ビールズ・ライト

ビールズ・コールマン・ライト(Beals Coleman Wright, 1879年12月19日 - 1961年8月23日)は、アメリカ・マサチューセッツ州ボストン出身の男子テニス選手。20世紀初頭にアメリカを代表する選手として活躍し、全米選手権で男子シングルス1勝・男子ダブルス3連覇を挙げ、1904年セントルイス五輪で単複の金メダルを獲得した人である。彼は1900年から始まった男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」でも、黎明期のアメリカ・チームを代表する選手として活躍した。左利きの選手。.

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ビック・セイシャス

ビック・セイシャス(Vic Seixas, 1923年8月30日 - )は、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の男子テニス選手。本名は Elias Victor Seixas Jr.

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ビビアン・マグラス

ビビアン・マグラス(Vivian McGrath, 1916年2月17日 - 1978年4月9日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州マジー出身の男子テニス選手。1930年代にオーストラリアを代表する選手の1人として活躍し、1937年の全豪選手権男子シングルス優勝者になった。彼は地元の全豪選手権だけでなく、全仏選手権でも男子ダブルス3年連続準優勝の成績がある。マグラスは「両手打ちバックハンド・ストローク」を世界に紹介した選手としても知られる。フルネームは Vivian Erzerum Bede McGrath (ビビアン・アーゼルム・ビード・マグラス)という。愛称の「ビブ・マグラス」(Viv McGrath)でテニス文献や優勝記録表などに記載されることも多い。右利きの選手。.

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ビクトル・ペッチ

ビクトル・ペッチ(Víctor Pecci, 1955年10月15日 - )は、パラグアイ・アスンシオン出身の元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手で、1979年の全仏オープン男子シングルス準優勝者である。シングルス自己最高ランキングは9位。ATPツアーでシングルス10勝、ダブルス11勝を挙げた。身長193cm、体重86kgの大型選手。 1974年にプロ入りし、同年の全仏オープンで4大大会にデビューする。1979年の全仏オープンでは、ペッチはノーシードから勝ち上がった。4回戦で第6シードのハロルド・ソロモン(アメリカ)を破ると、準々決勝では第3シードのギリェルモ・ビラスを 6-0, 6-2, 7-5 のストレートで破り、準決勝では第2シードのジミー・コナーズを 7-5, 6-4, 5-7, 6-3 で破って決勝に進出した。しかし、決勝では第1シードのビョルン・ボルグに 2-6, 1-6, 7-6, 4-6 で敗れて準優勝に終わり、パラグアイのテニス選手として最初の4大大会優勝には届かなかった。ボルグはこの勝利で、全仏オープンで2年連続4度目の優勝を達成する。 それから2年後、1981年の全仏オープンでペッチは2年ぶり2度目の準決勝に進んだが、またもや第1シードのボルグに 4-6, 4-6, 5-7 で敗れた。2度目の4強進出の過程では、ペッチは3回戦で第4シードのジーン・マイヤー(アメリカ)を破った後、4回戦ではポーランドのヴォイチェフ・フィバク、準々決勝では地元フランスのヤニック・ノアを破ったが、ここでもボルグの厚い壁に阻まれたことになる。 ペッチのその他の4大大会成績は、全仏準優勝の1979年にウィンブルドンと全米オープンで記録した3回戦進出が最高で、全仏以外の大会では好成績が少なかった。1981年に2度目の全仏4強入りをした後、彼は4大大会で1回戦・2回戦止まりに後退し、1986年全仏オープンでの1回戦敗退を最後に4大大会挑戦を断念した。 パラグアイが男子テニス国別対抗戦・デビスカップに初参加したのは1931年であったが、最初は1931年と1932年の2度しか参加できず、1982年になってから「50年ぶり」にパラグアイのデ杯復帰が実現した。ビクトル・ペッチはこの年から、現役引退する1990年までパラグアイのデ杯代表選手を務め、1983年にチームを最上位16ヶ国による「ワールドグループ」昇格へと導いた。1983年から1987年まで、パラグアイはデ杯で5年連続の「ワールドグループ」準々決勝に進出を果たす。1988年、ワールドグループ1回戦でペッチを欠いたパラグアイ・チームはチェコに敗れてしまったが、ワールドグループ・プレーオフではペッチがいて、ニュージーランドに4勝1敗で勝ってグループ残留を決める。しかし、1989年のワールドグループ1回戦でアメリカに敗れたパラグアイは、ワールドグループ・プレーオフでスイスに5戦全敗を喫し、ここでワールドグループから転落してしまう。1990年に「アメリカン・グループ1」の準決勝でカナダに5戦全敗で敗れたデ杯戦を最後に、ペッチは35歳で現役を退いた。彼の引退後、パラグアイはデ杯ワールドグループ復帰を実現させたことがない。.

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ビクトル・ハネスク

ビクトル・ハネスク(Victor Hănescu, 1981年7月21日 - )は、ルーマニア・ブカレスト出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス2勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス92位。身長198cm、体重85kgの長身選手。.

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ビクトル・トロイツキ

ビクトル・トロイツキ(Viktor Troicki, Виктор Троицки, セルビア語発音:,1986年2月10日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス49位。身長193cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。彼の姓については「トロイキ」の表記揺れも多く見られる。 2008年全仏オープン男子ダブルスベスト8。2011年モンテカルロ・マスターズベスト8。2010年の男子テニス国別対抗戦・デビスカップで、デビスカップセルビア代表を初優勝に導いた選手の一人。.

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ビクトル・エストレーリャ・ブルゴス

ビクトル・エストレーリャ・ブルゴス(Victor Estrella Burgos, 1980年8月2日 - )は、ドミニカ共和国・サンティアゴ・デ・ロス・カバリェロス出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス43位、ダブルス135位。身長173cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 日本語では、"Victor"には「ビクトル」「ビクター」など、"Estrella Burgos"は「エストレーリャ・ブルゴス」「エストレージャ・ブルゴス」「エステラ・ブルゴス」「エストレラ・ブルゴス」などの表記が存在する。 ドミニカ共和国初のATPツアー優勝者であり、シングルスで3勝をあげているが、そのすべてがエクアドル・オープンでのものである。.

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ビジャイ・アムリトラジ

ビジャイ・アムリトラジ(Vijay Amritraj, விஜய் அமிர்தராஜ், विजय अमृतराज, 1953年12月14日 - )は、インド・マドラス(現チェンナイ)出身の元男子プロテニス選手。1970年代から1980年代にかけてインドのテニス界をリードした選手で、彼のシングルス自己最高ランキング「16位」は当地の男子選手の最高順位である。彼はATPツアーでシングルス16勝、ダブルス13勝を挙げ、1974年と1987年の2度デビスカップでインドを「ワールドグループ」決勝に導いた。身長193cm、体重86kgの長身選手で、とりわけボレーの技術に優れていた。2人の兄弟、アナンド・アムリトラジ(1952年生まれ)とアショク・アムリトラジ(1957年生まれ)もプロテニス選手で、ビジャイは3人兄弟の真ん中である。息子のプラカッシュ・アムリトラジもプロテニス選手になった。 ビジャイ・アムリトラジは少年時代は病弱な子供で、10歳までは医師になる夢を持っていたが、職業としてプロテニス選手になった。1970年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのインド代表選手に選ばれ、1988年まで18年間代表選手を務める。1973年、彼はウィンブルドンと全米オープンの2大会連続で準々決勝に進出し、全米オープンは兄のアナンドと組んだ男子ダブルスでもベスト8に入った。1974年は全米オープンで2年連続のベスト8に入ったが、全米準々決勝では2年連続でケン・ローズウォール(オーストラリア)に敗退した。1974年は、デビスカップのインド・チームが初めて世界最上位の「ワールドグループ」決勝に進んだ年でもある。インドは当時の「東洋ゾーン」で日本とオーストラリアを破り、その上にあった「インターゾーン」でソ連チームを破って勝ち進んだが、ワールドグループ決勝の対戦国が南アフリカに決まったことから、当時アパルトヘイトを実施していた南アフリカとの決勝を出場辞退した。その結果、インドは準優勝となり、南アフリカが1974年のデビスカップ優勝国になった。 デビスカップ準優勝から2年後の1976年、ビジャイとアナンドのアムリトラジ兄弟はウィンブルドンの男子ダブルスでベスト4に進出した。インド人どうしのペアによるウィンブルドン男子ダブルス準決勝進出は、1923年のルイス・ディーンとアタル=アリ・フィジー組以来53年ぶりの快挙であった。アムリトラジ兄弟組は準決勝でブライアン・ゴットフリート(アメリカ)&ラウル・ラミレス組(メキシコ)組に 3-6, 5-7, 6-8 で敗れ、決勝進出を逃した。アムリトラジはその後もウィンブルドンと相性が良く、1981年に再びシングルス・ダブルスのベスト8進出を記録している。8年ぶり2度目のシングルス準々決勝ではジミー・コナーズに 6-2, 7-5, 4-6, 3-6, 2-6 で敗れ、アナンドとのダブルスでは5年ぶり2度目の準々決勝でジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング(ともにアメリカ)組に 6-4, 2-6, 1-6, 4-6 で敗退した。 選手経歴の後期に、アムリトラジは1987年のデビスカップでインド・チームを13年ぶり2度目のワールドグループ決勝に導いた。彼の年齢は34歳に近づき、インドはワールドグループ決勝でスウェーデンに5戦全敗を喫した。当時のスウェーデン男子テニスは最盛期にあり、代表選手はマッツ・ビランデル、アンダース・ヤリード、ヨアキム・ニーストロムがいた。インドはビジャイとアナンドのアムリトラジ兄弟、ラメシュ・クリシュナンの3人で決勝を戦ったが、スウェーデンには全く歯が立たなかった。 ビジャイ・アムリトラジはテニス経歴の傍ら、俳優活動にも携わった。俳優としての彼の出演作品には、007シリーズの第13作『007 オクトパシー』やスタートレックシリーズの『スタートレックIV 故郷への長い道』がよく知られている。 アムリトラジは1990年にプロテニス選手から引退した後も、テレビ解説や慈善活動など多方面の活動を続け、今なお「インドの誇り」として尊敬を集めている。彼は2004年から2006年まで2年間「国連平和大使」を務め、2006年に「ビジャイ・アムリトラジ財団」を設立した。 2008年デビスカップ「アジア・オセアニアゾーン」の「グループ1」2回戦で日本チームと対戦した代表選手の中に、ビジャイの息子プラカッシュ・アムリトラジがいた。 P・アムリトラジはシングルス第2試合で日本代表の添田豪を破った。この出来事により、30数年前にインドのテニス界に君臨し、日本の「デビスカップ・対インド戦」で立ちはだかり続けたアムリトラジ一族のことも、再び日本のテニスファンの話題にのぼるようになった。.

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ビタス・ゲルレイティス

ビタス・ゲルレイティス(Vitas Gerulaitis、1954年7月26日 - 1994年9月17日ニューヨーク市内にある彼の墓石には「9月17日」と刻まれており、デビスカップのプロフィールページにもこの日付で掲載されているが、文献によっては「9月18日」と掲載しているものもあり、若干の混乱が見られる。)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン出身の元男子プロテニス選手。フルネームはビタス・ケビン・ゲルレイティス (Vitas Kevin Gerulaitis) という。1970年代後半に活躍し、1977年12月の全豪オープン男子シングルスで優勝した。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス24勝、ダブルス8勝を挙げた。父親はリトアニアのテニス・チャンピオンであり、ゲルレイティスは“Lithuanian Lion”(リトアニアのライオン)というニックネームで呼ばれた。1歳年下の妹、ルタ・ゲルレイティスもプロテニス選手である。 ゲルレイティスの活躍した時代は、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金期であり、同年代の選手としてビョルン・ボルグやジミー・コナーズなどの強豪選手がいたため、彼の現在の印象はやや薄くなった。しかしボルグと数々の熱戦を繰り広げ、良き友人でもあった。 ゲルレイティスはコロンビア大学を1年で中退し、1971年にプロテニス選手となった。4大大会にデビューした1971年全米オープンでは、1回戦で敗れた相手が日本の坂井利郎選手であった。1975年のウィンブルドンで、ゲルレイティスは同じアメリカのサンディ・マイヤーとペアを組み、4大大会の男子ダブルスで初優勝を果たす。ゲルレイティスのテニス成績が大きく伸び始めたのは、1976年のウィンブルドンベスト8進出からである。ゲルレイティスは4回戦で大会前年優勝者のアーサー・アッシュを破ったが、続く準々決勝でラウル・ラミレス(メキシコ)に敗れた。それからウィンブルドンでは、1977年と1978年の2年連続でベスト4に進んだが、1977年の準決勝でビョルン・ボルグと最終第5セット 6-8 まで競り合った試合は、今なお選手権史上に残る名勝負の1つとして語り継がれている。 1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。ゲルレイティスが優勝したのは12月の年末開催の大会で、決勝の相手はイギリスのジョン・ロイド(後にクリス・エバートと結婚した選手)であった。先にゲルレイティスが2セットを先取したが、ロイドが第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いつく。最終第5セットでゲルレイティスはロイドを突き放し、6-3, 7-6, 5-7, 3-6, 6-2 のスコアで初優勝を飾った。 その後のゲルレイティスは4大大会で2度の準優勝に終わり、1979年全米オープンの決勝では当時20歳のジョン・マッケンローに 5-7, 3-6, 3-6 で敗れ、1980年全仏オープンの決勝ではボルグに 4-6, 1-6, 2-6 で敗れた。ゲルレイティスとボルグの対戦成績は、ボルグの「16戦全勝」である。ゲルレイティスは1986年3月、ベルギー・ブリュッセルの大会を最後に31歳で現役を引退した。 ビタス・ゲルレイティスは1994年9月17日、ニューヨーク州ロングアイランドの友人宅に滞在していた時、睡眠中にエアコン装備が故障し、一酸化炭素中毒のため40歳で死去した。.

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ピート・サンプラス

ピーター・"ピート"・サンプラス(Peter "Pete" Sampras, 1971年8月12日 - )は、アメリカ合衆国ワシントンD.C.出身の元男子プロテニス選手。自己最高ランクは1位でありテニス史上に残る名選手である。 4大大会優勝数14回はロイ・エマーソンを抜き当時歴代1位記録(現在歴代3位)。ウィンブルドン選手権優勝7回は歴代2位タイ記録、全米オープン優勝5回はオープン化以降歴代1位タイ記録。1993年から1998年まで年間最終ランキング1位6年連続は歴代1位記録。.

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ピーター・ルクザック

ピーター・ルクザック(Peter Luczak 1979年8月31日 - )は、ポーランド・ワルシャワ出身のオーストラリアの男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス64位、ダブルス98位。身長183cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。2007年に28歳で初めてシングルストップ100入りを果たした比較的遅咲きの選手として知られる人物である。この選手はポーランド系であり姓はポーランド語で"Łuczak"とつづり、発音は「ウチャク」が近い。しかし日本語のメディアでは「ルクザック」「ルーチャック」と表記される。.

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ピーター・フレミング

ピーター・フレミング(Peter Fleming, 1955年1月21日 - )は、アメリカ・ニュージャージー州チャタム出身の元男子プロテニス選手。4歳年下のジョン・マッケンローと組んで数多くのダブルス・タイトルを獲得し、4大大会の男子ダブルスでもウィンブルドン4勝、全米オープン3勝を挙げた選手である。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス60勝を挙げたが、そのうち57勝がマッケンローとのペアで獲得したものである。身長195cm、体重84kgの長身選手。右利き。.

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ピエール・ダーモン

ピエール・ダーモン(Pierre Darmon, 1934年1月14日 - )は、フランスの男子テニス選手。1963年の全仏選手権男子シングルス準優勝者。チュニジアの首都チュニスで生まれる。1950年代後半から1960年代にかけて、フランスを代表する男子テニス選手の1人として活躍した。ダーモンは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのフランス代表選手として「最多勝利数」と「最多シングルス勝利数」のチーム1位記録を持つ人である。世界ランキングのシングルス自己最高位は8位。彼の活躍した時代は、ちょうどオーストラリア・テニス界の黄金期と重なっていた。 ピエール・ダーモンは1956年からデビスカップのフランス代表選手になり、1967年までデ杯に12年連続出場を果たした。彼のテニス経歴の最盛期は、1963年の夏に訪れた。地元開催の全仏選手権で、ダーモンは準決勝でスペインのマニュエル・サンタナを破って初めての決勝に進んだが、オーストラリアのロイ・エマーソンに 6-3, 1-6, 4-6, 4-6 で敗れ、1946年のマルセル・ベルナール(1914年 - 1994年)以来となる地元優勝のチャンスを逃した。全仏選手権の後、ダーモンはウィンブルドン選手権で同じフランスのジャン・クロード・バークレーと男子ダブルスのペアを組んだ。ダーモンとバークレーのペアは、決勝でメキシコペアのラファエル・オスナ&アントニオ・パラフォックス組に 6-4, 2-6, 2-6, 2-6 で敗れ、ここでも準優勝で止まった。単複とも4大大会の優勝を逃したが、ダーモンは1963年に世界ランキング「8位」に入った。 ダーモンは優れたデビスカップ選手として、通算勝利数「47勝21敗」とシングルス勝利数「44勝17敗」でフランス・チームの歴代1位記録保持者になった。当時のフランス・チームはデ杯の「ヨーロッパ・ゾーン」から出ることができず、(オーストラリアやアメリカといった強豪国に比べて)戦力的には見劣りしていた。ダーモンも1964年と1966年に「ヨーロッパ・ゾーン」決勝で敗れている。しかし、この低迷期にフランスをリードしてきた功績は高く評価され、選手引退後は1969年から1978年まで全仏オープンの「トーナメント・ディレクター」を務めるなど、多方面の要職に携わってきた。1997年に国際ユダヤ人スポーツ殿堂入りを果たす。2002年11月、ダーモンは国際テニス連盟と国際テニス殿堂から「デビスカップ優秀選手賞」(Davis Cup Award of Excellence)を授与された。これは「デビスカップの理想と精神を代表してきた選手」に与えられる特別な賞である。.

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ピエール・エチュバステール

ピエール・エチュバステール(Pierre Etchebaster, 1893年12月8日 - 1980年3月24日)はフランスのテニス選手。1928年、ジュ・ド・ポーム(リアルテニス)の世界選手権に初優勝し、以降、1954年に競技を引退するまで26年にわたってそのタイトルを保持した。リアルテニス界における「20世紀で最も有名なプレーヤー」とされる。1978年、国際テニス殿堂入りした。.

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ピエール=ユーグ・エルベール

ピエール=ユーグ・エルベール(, 1991年3月18日 - )は、フランス・アルザス出身のフランス男子プロテニス選手。2015年全米オープン男子ダブルス、2016年のウィンブルドン選手権男子ダブルスでニコラ・マユとペアを組んで優勝した。ATPツアーでシングルスではまだ勝利はないが、ダブルスで13勝がある。自己最高ランキングはシングルス63位、ダブルス2位。身長188cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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テーラー・デント

テイラー・フィリップ・デント(Taylor Phillip Dent, 1981年4月24日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ニューポートビーチ出身の男子プロテニス選手。1974年全豪オープン男子シングルス準優勝者フィル・デントの息子で、親子2代プロテニス選手としてよく知られる。息子のテーラーは、男子プロテニス界でも屈指のビッグ・サーバーの選手で、強力なサーブ・アンド・ボレーを最大の武器にしていた。シングルス自己最高ランキングは21位。ATPツアーでシングルス4勝を挙げた。身長188cm、体重88kg、右利き。.

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テッド・シュローダー

テッド・シュローダー(Ted Schroeder, 1921年7月20日 - 2006年5月26日)は、アメリカ・ニュージャージー州ニューアーク出身の男子テニス選手。フルネームは Frederick Rudolph Schroeder (フレデリック・ルドルフ・シュローダー)というが、愛称の「テッド・シュローダー」という名前で最もよく知られている。1942年の全米選手権と1949年のウィンブルドン選手権で優勝し、4大大会男子シングルス2勝を挙げた。ダブルスでも、同じ年の親友ジャック・クレーマーと組んで抜群の強さを発揮し、全米選手権で3勝を挙げている。彼は“トウモロコシの穂軸形のような”パイプでたばこをふかす姿も印象的な人だったという。彼が活躍した1940年代は、第2次世界大戦をまたぐ激動の時代であった。.

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テニーズ・サンドグレン

テニーズ・サンドグレン(Tennys Sandgren (1991年7月22日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の男子プロテニス選手。ATPランキング最高位はシングルス47位、ダブルス115位。ATPツアー優勝はまだない。身長188cm、体重87kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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テニス

テニス(tennis)は二人または二組のプレイヤーがネット越しにラケットでボールを打ち合う球技である。オリンピックやパラリンピックで採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。漢字名の庭球(ていきゅう)とも呼ばれることがある。.

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ティムラズ・ガバシュビリ

テイムラズ・ベシコヴィチ・ガバシュビリ(Teymuraz Besikovich Gabashvili,, თეიმურაზ გაბაშვილი. 1985年5月23日 - )は、ソビエト連邦グルジア共和国(現ジョージア)トビリシ出身のロシアの男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス43位、ダブルス101位。ATPツアーではシングルスの優勝はまだ無いが、ダブルスで1勝を挙げている。身長188cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 そのエネルギッシュなプレースタイルとノーマークの予選勝ち上がりからツアー上位進出を果たすことが度々あった事から、Tsunami(津波)の愛称で呼ばれ親しまれている選手である。テイムラズ・ガバシビリの表記も見られる。.

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ティム・メイヨット

ティム・メイヨット(Tim Mayotte, 1960年8月3日 - )は、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールド出身の元男子プロテニス選手。1988年のソウル五輪で男子シングルスの銀メダルを獲得した選手で、1980年代にアメリカを代表する選手の1人として活動した。4大大会ではウィンブルドン選手権を最も得意にした。シングルス自己最高ランキングは7位。ATPツアーでシングルス12勝、ダブルス1勝を挙げた。身長190cm、体重84kg、右利き。 1979年にプロ入り。1981年にウィンブルドンと全豪オープンでベスト8に進出し、1982年にウィンブルドンで初の準決勝進出を果たす。メイヨットは準々決勝で1980年全豪オープン優勝者ブライアン・ティーチャーに競り勝ったが、初めての準決勝ではジョン・マッケンローに 3-6, 1-6, 2-6 で完敗した。1983年にウィンブルドンで3年連続のベスト8に入った後、当時は11月の年末開催だった全豪オープンでも初めてベスト4に進んだが、この準決勝ではイワン・レンドルに 1-6, 6-7, 3-6 のストレートで敗れた。メイヨットの4大大会成績は、1982年ウィンブルドンと1983年全豪オープンの2度の準決勝進出が最高であるが、その後も安定した好成績を維持した。しかしメイヨットのツアー初優勝は比較的遅く、1985年2月にアメリカ・フロリダ州デルレイビーチ大会の決勝でスコット・デービス(同じくアメリカ)を 4-6, 4-6, 6-3, 6-2, 6-4 の逆転で破った勝利が彼の初栄冠だった。1987年にメイヨットは男子ツアーで5つのシングルス・タイトルを獲得したが、4大大会ではいくらか低迷気味だった。 オリンピックにおけるテニス競技は、1928年のアムステルダム五輪以後、プロ選手の登場により除外されていた。しかし1988年のソウル五輪でプロテニス選手の出場が認められ、64年ぶりにオリンピック競技としてのテニスが復活する。オリンピックはアマチュアの祭典である、という基本理念を覆す決定がなされたため、当時は大きな波紋を呼んだ出来事だった。その記念すべき大会で、メイヨットは準決勝で同じアメリカ代表のブラッド・ギルバートを破ったが、決勝戦ではチェコスロバキア代表のミロスラフ・メチージュに 6-3, 2-6, 4-6, 2-6 で敗れ、復活金メダルの第1号を逃した。オリンピック銀メダルの年、メイヨットは4つのツアー大会で優勝し、この年に世界ランキングの自己最高位「7位」をマークした。 オリンピック銀メダルの翌年、1989年にメイヨットはウィンブルドンと全米オープンの2大会連続でベスト8に進出する。ウィンブルドンのベスト8は通算6度目であったが、全米オープンでは29歳にしてようやく自己最高成績を出した。この大会では4回戦で当年度の全仏オープン優勝者マイケル・チャンに快勝したが、初めての準々決勝では第1シードのイワン・レンドルに 4-6, 0-6, 1-6 で一方的な完敗に終わった。しかし1990年に入ると、メイヨットのテニス成績は下降線をたどり始める。1991年の全米オープン1回戦敗退が、彼の最後の4大大会出場になった。ソウル五輪の銀メダルで印象を残したティム・メイヨットは、1992年2月にアメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア大会の1回戦敗退を最後に31歳で現役を引退した。.

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ティム・ヘンマン

ティモシー・ヘンリー・"ティム"・ヘンマン(Timothy Henry "Tim" Henman, 1974年9月6日 - )は、イギリス・オックスフォード出身の男子プロテニス選手。という。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝、ダブルス4勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。 1998年にはイギリス出身男子シングルスの選手として1973年のロジャー・テイラー以来となる地元開催のウィンブルドン選手権準決勝進出を果たす等、1990年代後半~2000年代前半のイギリスNo.1プレイヤー。 4大大会は優勝には届かなかったが、ベスト4が6回(うちウィンブルドン4回)と活躍。 2003年BNPパリバ・マスターズ優勝。他3度のATPマスターズシリーズ準優勝がある。テニス・マスターズ・カップに3度出場がある。 イギリスにとって、オープン化以降、アンディ・マリーが登場するまで、地元選手によるウィンブルドン選手権優勝を最も期待された名選手である。.

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ティム・ガリクソン

ティム・ガリクソン(Tim Gullikson, 1951年9月8日 - 1996年5月3日)は、アメリカ・ウィスコンシン州ラクロス出身の元男子プロテニス選手。本名は Timothy Ernest Gullikson (ティモシー・アーネスト・ガリクソン)という。双子の兄であるトム・ガリクソンとともに「ガリクソン兄弟」のダブルスペアとして活躍し、1983年のウィンブルドン男子ダブルスで準優勝した。ティムはピート・サンプラスのコーチとしても知られた。 双子の弟ティムは攻撃的なプレースタイルを持ち味にし、対戦相手にプレッシャーをかける術に優れていた(ATPツアープロフィール内の解説による)。彼はATPツアーでシングルス4勝、ダブルス16勝を挙げたが、シングルスの優勝は1977年と1978年の2シーズンに獲得したのみで、以後はトムとのダブルスで多数の業績を挙げた。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス3位。現役選手時代の体格は身長180cm、体重79kgほどで、ティムは右利きの選手だった。 ガリクソン家で双子の兄弟が1951年9月8日に誕生した時、トムのほうが数分先に生まれた。2人は同じ北イリノイ大学を卒業した後、テニスのティーチング・プロの仕事に就き、ティムはオハイオ州デイトンで働いた。ティムは仕事の同僚だったハンク・ジャングル(Hank Jungle)に勧められて、プロテニスツアーへの参戦を決意し、1975年から男子ツアー下部大会に出場し始めた。彼は1977年にシングルスで目覚ましい躍進を遂げ、男子ツアーで年間3勝を挙げたことにより、この年のATPツアー「最優秀新人賞」を受賞した。1978年12月の南アフリカ・ヨハネスブルグ大会優勝を最後に、彼は男子ツアーのシングルス優勝から遠ざかる。4大大会の男子シングルスでは、1979年のウィンブルドンでロスコー・タナー(アメリカ)に 1-6, 4-6, 7-6, 2-6 で敗れたベスト8が自己最高成績だった。 ティム・ガリクソンは男子ツアーダブルス通算16勝のうち、10個を双子の兄トムとのコンビで獲得した。ガリクソン兄弟のダブルスは1978年から男子ツアーで勝ち始め、4大大会のうち全仏オープンを除く3大会でベスト4に勝ち残り、1983年のウィンブルドン男子ダブルス準優勝ペアになった。2人は当時世界最強の実力を誇ったジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング組に 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで完敗し、ウィンブルドン・ダブルス優勝を逃した。ガリクソン兄弟は1982年に日本のジャパン・オープンで優勝したこともあり、この時はマッケンローとピーター・レナート(アメリカ)組に 6-4, 3-6, 7-6(7-3) で勝った。ガリクソン兄弟ペアの現役最後の優勝は、1985年10月の「スイス室内選手権」(当地バーゼル開催)であった。 ティム・ガリクソンは1986年全米オープンでミロスラフ・メチージュ(当時チェコスロバキア)に敗れた1回戦を最後に、男子ツアーのシングルスから撤退した。双子の兄トムとのダブルスでは、1988年3月までトーナメントに出場した。ティムの最後の活躍は、1988年全豪オープン混合ダブルスでマルチナ・ナブラチロワと組んだ準優勝であった。ティムとナブラチロワはジム・ピュー(アメリカ)&ヤナ・ノボトナ(チェコスロバキア)組に 7-5, 2-6, 4-6 で敗れ、彼はとうとうグランドスラム・タイトルを取れずに現役を退いた。 選手生活からの引退後、ティム・ガリクソンはピート・サンプラスのコーチに就任し、彼を世界ランキング1位の座まで導いたが、1995年1月に脳腫瘍で倒れた。1995年全豪オープンの男子シングルス準々決勝で、サンプラスがジム・クーリエとの対戦中、第5セット開始の時点でガリクソンの病気を思って涙を流した場面は、彼の選手経歴のみならず、全豪オープンの大会歴史にも残るエピソードの1つとして語り継がれてきた。発病から1年半もたたないうちに、ガリクソンは1996年5月3日にアメリカ・フロリダ州ボカラトンにて44歳で死去した。ティムの短い生涯を偲んで「ガリクソン財団」が設立され、現在に至るまで脳腫瘍の人々を支援するための活動が行われている。.

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テイラー・フリッツ

テイラー・ハリー・フリッツ(Taylor Harry Fritz, 1997年10月28日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ランチョ・サンタフェ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス・ダブルスともにまだ勝利はない。自己最高ランキングはシングルス53位、ダブルス231位。身長193cm、体重84kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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デビッド・ホール (テニス選手)

デビッド・ホール(David Hall, 1970年1月14日 - )はオーストラリア、シドニー生まれの車いすテニス選手。シドニーパラリンピック男子シングルス金メダリスト。.

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デビッド・アダムズ

デビッド・アダムズ(David Adams, 1970年1月5日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして活動し、1999年全豪オープンと2000年全仏オープンの混合ダブルスでとペアを組んで優勝した選手である。ATPツアーでダブルス19勝を挙げた。.

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デビッド・ウィートン

デビッド・ウィートン(David Wheaton, 1969年6月2日 - )は、アメリカ・ミネソタ州ミネアポリス出身の元男子プロテニス選手。1990年の全米オープンと1991年の全豪オープンで、4大大会の男子ダブルスに2大会連続準優勝した選手である。シングルスでも1991年のウィンブルドンでベスト4進出があった。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス3勝を挙げたが、ダブルス準優勝が2度のグランドスラム大会を含めて12度あった。身長193cm、体重84kgの長身選手。.

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デビスカップ

デビスカップ は、1900年から毎年行われている男子テニスの国別対抗戦。略称はデ杯。原音では「デイヴィス・カップ」に近い発音。 名称は優勝杯を大会に寄贈したドワイト・デービスにちなむ。かつてはNECが協賛をつとめていたが、現在はこれにかわってBNPパリバがつとめており、「Davis Cup by BNP Paribas」の名で開催されている。 なお同等の女子テニス国別対抗戦は「フェドカップ」という別名称がついている。.

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デニス・ラルストン

デニス・ラルストン(Dennis Ralston, 1942年7月27日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州ベーカーズフィールド出身の男子テニス選手。フルネームは Robert Dennis Ralston (ロバート・デニス・ラルストン)という。1966年のウィンブルドン選手権男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、4大大会の男子ダブルスで通算5勝を挙げた。身長183cmほどの長身とほっそりした体格の持ち主で、サービス・グラウンドストローク・ボレーのいずれにも優れたオールラウンド・プレーヤーであった。右利きの選手。.

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デニス・イストミン

デニス・オレーゴヴィチ・イストミン(Denis Olegovich Istomin, Денис Олегович Истомин 1986年9月7日 - )は、ウズベキスタンの男子プロテニス選手。ソビエト連邦(現ロシア)領のオレンブルク生まれで、ロシアの首都モスクワに在住している。これまでにATPツアーでシングルス2勝、ダブルスで3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス33位、ダブルス59位。身長188cm、体重88kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ウズベキスタン出身のプロテニス選手として2015年に250シリーズの大会で初めてのツアー優勝を成し遂げた。.

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デニス・シャポバロフ

デニス・シャポバロフ(Denis Shapovalov, ヘブライ語:דניס שפובלובデニス・シャポバロフ; ラテン文字転写の例: Denis Shapovalov-->, Денис Викторович Шаповалов, 1999年4月15日 - )は、カナダの男子プロテニス選手。イスラエル・テルアビブ出身。現時点では、ATPツアーでシングルス・ダブルスともに優勝はない。身長183cm。左利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス23位。.

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ディック・ノーマン

ディック・ノーマン(Dick Norman, 1971年3月1日 - )は、ベルギー・ワレヘム出身の男子プロテニス選手。2009年全仏オープン男子ダブルスで、ウェスリー・ムーディと組んで準優勝した選手である。ATPツアーでダブルス4勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス85位、ダブルス10位。左利き。身長203cmの長身からついた“Big D”(ビッグD)というニックネームがある。.

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ディック・サビット

リチャード・"ディック"・サビット(Richard "Dick" Savitt, 1927年3月4日 - )は、アメリカ・ニュージャージー州ベイヨン出身の男子テニス選手。コーネル大学卒業。 1951年に全豪選手権とウィンブルドン選手権の男子シングルスで優勝し、4大大会年間2冠を獲得した選手である。全豪選手権では、第2次世界大戦終戦後最初の外国人優勝者になり、ウィンブルドン選手権ではユダヤ人選手として最初の優勝者になった。男子ダブルスでは、1951年と1952年の2年連続で全仏選手権準優勝がある。彼のテニスは、バックハンド・ストロークのオーバースピン(ボールに回転を多くかけること)を駆使し、重厚で正確なグラウンド・ストロークを最大の武器にした。右利きの選手。.

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ディニー・ペイルズ

ディニー・ペイルズ(Dinny Pails, 1921年3月4日 - 1986年11月22日)は、オーストラリアの男子テニス選手。イングランド・ノッティンガム生まれ。1947年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、1946年のウィンブルドン選手権男子ダブルス準優勝もある。フルネームは Dennis Robert Pails (デニス・ロバート・ペイルズ)というが、愛称の「ディニー」で呼ばれた。右利きの選手。.

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ディエゴ・シュワルツマン

ディエゴ・セバスティアン・シュワルツマン(Diego Sebastián Schwartzman, 1992年8月16日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の男子プロテニス選手。ATPツアーではシングルスで2勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス11位、ダブルス69位。身長170cmでテニス選手としては非常に小柄な体格である。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ディオニシオス・カスダリス

男子シングルス決勝戦 ディオニシオス・カスダリス(Dionysios Kasdaglis, 1872年10月10日 - 1931年)は、ギリシャ系エジプト人の男子テニス選手。イングランドのグレーター・マンチェスター州サルフォードに生まれる。1896年アテネオリンピックに参加した。 エジプトから参加した唯一の選手であったカスダリスは、男子シングルス・男子ダブルス両部門において決勝に進出した。シングルスは1回戦でフランスのデフェールを、2回戦でギリシャのコンスタンティノス・アクラトポウロスを、準決勝でハンガリーのモムシロ・タパヴィツァをそれぞれ破り、イギリスのジョン・ピウス・ボーランドとの決勝戦に臨んだ。決勝でボーランドに敗れて銀メダルを獲得したカスダリスは、IOCのデータベースにおいて「ギリシャ」の項目に掲載されている。 また、ダブルスにおいてもギリシャのディミトリオス・ペトロコキノスと混合チームを組み、1回戦でギリシャ人ペアのコンスタンティノス・パスパティス、エバンゲロス・ラリスペアを、準決勝でイギリスのジョージ・ロバートソン・オーストラリアのエドウィン・フラックを破ってこちらも決勝に進み、シングルスで当たったボーランドとドイツのフリードリヒ・トラウンペアと対戦して敗北したため、カスダリスはダブルスでも銀メダルを獲得することとなった。.

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フランク・ハドー

フランク・ハドー(Frank Hadow, 1855年1月24日 - 1946年6月29日)は、イングランド・ミドルセックス地区レジェンズ・パーク出身の男子テニス選手。1877年から始まったウィンブルドン選手権で、1878年に第2回大会の男子シングルス優勝者となった選手である。歴代のウィンブルドン優勝者の中で最も背が高い選手といわれ、ボールを高く上げるロブショットを武器にした。右利き。フルネームは Patrick Francis Hadow (パトリック・フランシス・ハドー)という。.

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フランク・パーカー

フランク・パーカー(Frank Parker, 1916年1月31日 - 1997年7月24日)は、アメリカ・ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の男子テニス選手。主に1940年代に活躍し、全米選手権で1944年・1945年、全仏選手権で1948年・1949年にそれぞれ男子シングルス2連覇を達成した選手である。男子ダブルスでも3勝があり、1949年にはパンチョ・ゴンザレスとパートナーを組んで全仏選手権・ウィンブルドン選手権の4大大会2連勝を記録した。両親がポーランド人であったことから、カトリック教会の洗礼名として Franciszek Andrzej Paikowski (フランチシェク・アンジェイ・パイコフスキ)と名づけられたが、英語の読み方で Frank Andrew Parker (フランク・アンドリュー・パーカー)と名乗った。.

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フランク・シールズ

フランク・シールズ(Frank Shields, 1909年11月18日 - 1975年8月19日)は、アメリカ・ニューヨーク出身の男子テニス選手。フルネームは Francis Xavier Shields (フランシス・ザビエル・シールズ)といい、「フランク」は彼の愛称である。1930年の全米選手権と1931年のウィンブルドン選手権で、4大大会男子シングルスに2度の準優勝を記録した後、1930年代後半にハリウッド俳優としても活動した人である。女優ブルック・シールズの祖父としても知られる。.

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フランク・セッジマン

フランク・セッジマン(Frank Sedgman, 1927年10月29日 - )は、オーストラリア・ビクトリア州モントアルバート出身の男子テニス選手。フルネームは Frank Allan Sedgman (フランク・アラン・セッジマン)という。1950年代初頭の男子テニス界に君臨し、オーストラリア・テニス界の黄金時代の最初期を築いた名選手である。セッジマンは4大大会で総計「22勝」(男子シングルス5勝+男子ダブルス9勝+混合ダブルス8勝=22勝)を記録し、1951年に2歳年下のケン・マグレガーと組んでテニス史上初の男子ダブルス部門「年間グランドスラム」を達成した。混合ダブルス部門でもすべての4大大会を制覇した「キャリア・グランドスラム」達成者であり、彼が獲得できなかったタイトルは全仏選手権の男子シングルスだけである。セッジマンのテニスは、重厚なフォアハンド・ストロークや、スピード感にあふれた華麗なボレーを大きな持ち味とした。.

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フランコ・スキラーリ

フランコ・スキラーリ(Franco Squillari, 1975年8月22日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の男子プロテニス選手。2000年全仏オープン男子シングルスでベスト4に進出した。身長183cm、体重80kg。ATPツアーでシングルス3勝を挙げた。.

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フランシス・ハンター

フランシス・ハンター(Francis Hunter, 1894年6月28日 - 1981年12月2日)は、アメリカ・ニューヨーク出身の男子テニス選手。フルネームは Francis Townsend Hunter (フランシス・タウンゼント・ハンター)という。「フランク・ハンター」(Frank Hunter)と呼ばれることも多い。1920年代にアメリカを代表する男子テニス選手の1人として活動し、1924年パリ五輪の男子ダブルス金メダルをはじめ、ダブルスで多数のタイトルを獲得した。シングルスでは、1923年ウィンブルドン選手権と1928年・1929年の全米選手権で3度の準優勝に終わっている。右利きの選手で、身長180cm、体重82kgほどの大柄な体格の持ち主だった。彼と同世代の男子テニス選手には、同じアメリカのビル・チルデンとビル・ジョンストン、フランス「四銃士」(ルネ・ラコステ、アンリ・コシェ、ジャン・ボロトラ、ジャック・ブルニョンの4人)などがいた。.

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フリードリヒ・トラウン

フリードリヒ・トラウン(Friedrich Traun, 1876年3月29日 - 1908年7月11日)は、ドイツ・ハンブルク出身の男子運動競技選手。フルネームは Friedrich Adolf Traun (フリードリヒ・アドルフ・トラウン)といい、「フリッツ・トラウン」(Fritz Traun)と呼ばれることもある。1896年にギリシャ・アテネで実施された第1回近代オリンピックにおいて、テニスと陸上競技の2部門に参加し、テニスの男子ダブルスでジョン・ピウス・ボーランド(1870年 - 1958年)と組んで最初の金メダルを獲得した選手である。.

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フルー・マクミラン

フルー・マクミラン(Frew McMillan, 1942年5月20日 - )は、南アフリカ・スプリングス出身の男子テニス選手。フルネームは Frew Donald McMillan (フルー・ドナルド・マクミラン)という。1960年代後半から1970年代にかけて、ダブルスの名手として活躍し、とりわけボブ・ヒューイットとのペアで多数のダブルス・タイトルを獲得した。キャリアの後半には、オランダのベティ・ストーブとの混合ダブルスで多くの好成績を出した。彼はフォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちで、いつも白い帽子をかぶってプレーしたので、誰からも見分けのつく選手だったという。.

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フレッド・ペリー

フレッド・ペリー(Fred Perry, 1909年5月18日 - 1995年2月2日朝日新聞大阪版夕刊 1995年2月3日 13面。)は、イングランド・ストックポート出身の男子テニス選手。フルネームは Frederick John Perry (フレデリック・ジョン・ペリー)という。“イギリスのテニスの神様”として、今なお尊敬を集め続けている名選手である。4大大会でシングルス通算「8勝」を挙げた。1934年から1936年にかけて、地元のウィンブルドン選手権で大会3連覇を達成した。 彼以降永らくイギリス人男子が優勝出来なかったためウィンブルドン現象とまで言われるようになっていた。2013年、アンディ・マリーがウィンブルドンでイギリス人男子として実に77年ぶりの優勝となった。.

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フレッド・ホビー

フレッド・ホビー(Fred Hovey, 1868年10月7日 - 1945年10月18日)は、アメリカ・マサチューセッツ州ニュートン・センター出身の男子テニス選手。本名は Frederick Howard Hovey (フレデリック・ハワード・ホビー)といい、愛称の「フレッド」で呼ばれた。ハーバード大学卒業。1890年代前半の全米選手権(現在の全米オープンテニス)で活躍し、男子シングルスで1895年、男子ダブルスで1893年・1894年の2度優勝した。右利きの選手で、体格は身長173cm、体重77kgほどであった。.

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フレッド・アレクサンダー

フレッド・アレクサンダー(Fred Alexander, 1880年8月14日 - 1969年3月3日)は、アメリカ・ニューヨーク出身の男子テニス選手。フルネームは Frederick Beasley Alexander (フレデリック・ビーズリー・アレクサンダー)という。1908年の全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)で男子シングルス・男子ダブルス優勝を飾り、同選手権で最初の外国人優勝者になった選手である。地元開催の全米選手権でも男子ダブルス5勝を挙げ、とりわけ1907年から1910年までハロルド・ハケット(1878年 - 1937年)と組んで4連覇を達成した。彼のテニスは、やせ気味の細い体格から繰り出す滑らかなグラウンド・ストロークを大きな武器とした。.

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フレッド・ストール

フレッド・ストール(Fred Stolle, 1938年10月8日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ホーンスビー出身の男子テニス選手。フルネームは Frederick Sydney Stolle (フレデリック・シドニー・ストール)という。主に1960年代に活躍し、オーストラリア・テニス界の最盛期を彩った名選手の1人として、4大大会で男子シングルス2勝、男子ダブルス10勝、混合ダブルス7勝を挙げた。彼の全盛時代は、1968年に実施されたテニス界の「オープン化措置」(プロ選手解禁)と重なり、ストールは「アマチュア選手」と「プロ選手」の両方の立場で活動した。並外れた気性の激しさから、同僚選手たちには“Fiery Fred”(炎のフレッド)と呼ばれた。.

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フロリン・メルジェ

フロリン・メルジェ(Florin Mergea, 1985年1月26日 - )は、ルーマニア・クラヨーヴァ出身の男子プロテニス選手。2016リオ五輪男子ダブルスで、ホリア・テカウと組み銀メダルを獲得した。 ダブルスのスペシャリストとして活動し、これまでにATPツアーでダブルス6勝を挙げている。自己最高ランキングはダブルス7位。身長180cm、体重76kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「メルゲア」の表記も多く見られる。.

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フロリアン・マイヤー

フロリアン・マイヤー(Florian Mayer, 1983年10月5日 - )は、ドイツ・バイロイト出身の男子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権で2度ベスト8に進出している。これまでにATPツアーでシングルス2勝を挙げる(ダブルス優勝はない)。自己最高ランキングはシングルス18位、ダブルス47位。身長190cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「メイヤー」の表記揺れも多い。.

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ファブリス・サントロ

ファブリス・ベテア・サントロ(Fabrice Vetea Santoro, 1972年12月9日 - )は、フランスの元男子プロテニス選手。タヒチ島生まれ。これまでにATPツアーでシングルス6勝、ダブルス24勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス17位、ダブルス6位。身長177cm、体重74kg、右利き。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストローク・ボレーすべて両手打ちは男子プロとしてはかなり珍しい。強打を武器とせず、トリッキーな配球で相手を翻弄するプレイスタイルから「フレンチマジシャン (フランスの魔術師)」の異名を持つ。 ダブルスでは全豪オープンで2回、マスターズで3回の優勝経験がある。また、ロジャー・フェデラーに破られるまで、グランドスラムシングルス本戦出場70回の史上最多出場記録を持っている。.

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ファビオ・フォニーニ

ファビオ・フォニーニ(Fabio Fognini, 1987年5月24日 - )は、イタリア・サンレーモ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス13位、ダブルス7位。これまでにATPツアーでシングルス6勝、ダブルス4勝を挙げている。身長178cm、体重74kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2015年全豪オープン男子ダブルスで同じイタリアのシモーネ・ボレッリと組んで優勝、グランドスラム男子オープン化以降初となるイタリア人ペアでの優勝である。また2011年全仏オープン男子シングルスで、イタリア人男子として13年振りのグランドスラムシングルスベスト8進出を果たした選手である。.

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フアン・マルティン・デル・ポトロ

フアン・マルティン・デル・ポトロ(Juan Martín del Potro, 1988年9月23日 - )は、アルゼンチン・タンディル出身の男子プロテニス選手。イタリア系アルゼンチン人。これまでにATPツアーでシングルス22勝、ダブルス1勝を挙げる。身長198cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。シングルス自己最高位は4位。 2009年全米オープン男子シングルス優勝者。グランドスラム1大会でロジャー・フェデラーとラファエル・ナダルの両方に勝利した初の選手であり、2005年全仏から2013年全米までのグランドスラム35大会中唯一のBIG4以外の優勝者である。 アルゼンチン人2番目・オープン化以降5番目に若い全米オープン優勝者(20歳11か月)。ロンドンオリンピック銅メダリスト、リオデジャネイロオリンピック銀メダリスト。2009年ATPワールドツアー・ファイナルシングルス準優勝。デビスカップ2016優勝。2018年BNPパリバ・オープン男子シングルス優勝。.

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フアン・モナコ

フアン・モナコ(Juan Mónaco, 1984年3月29日 - )は、アルゼンチン・タンディル出身の元男子プロテニス選手。ランキング最高位はシングルス10位、ダブルス41位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス3勝を挙げた。身長185cm、体重76kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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フアン・アントニオ・マリン

フアン・アントニオ・マリン・カセーロ(Juan Antonio Marín Casero, 1975年3月2日 - )は、コスタリカ・サンホセ出身の元男子プロテニス選手。プロテニス選手の少ないコスタリカにおいて、史上初めてATPツアーでシングルス優勝を果たした選手である。自己最高ランキングはシングルス55位、ダブルス187位。身長175cm、体重73kg。右利き。.

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フアン・イグナシオ・チェラ

フアン・イグナシオ・チェラ(Juan Ignacio Chela, 1979年8月30日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の男子プロテニス選手。自己最高位はシングルス15位、ダブルス32位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス3勝を挙げた。身長190cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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フアン・カルロス・フェレーロ

フアン・カルロス・フェレーロ・ドナト(Juan Carlos Ferrero Donat, 1980年2月12日 - )は、スペイン・オンテニエンテ出身の元男子プロテニス選手。身長183cm、体重73kgの細い体型から“Mosquito”(モスキート)と呼ばれている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス198位。ATPツアーでシングルス16勝を挙げた。 2003年全仏オープン男子シングルス優勝者で4大大会では2度の準優勝経験がある。2002年最終戦マスターズ・カップ準優勝。マスターズ1000優勝4回。デビスカップではスペイン代表として3度の優勝に貢献。.

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フアン・セバスティアン・カバル

フアン・セバスティアン・カバル(Juan Sebastián Cabal, 1986年4月25日 - )は、コロンビア・サンティアゴ・デ・カリ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでダブルス自己最高ランキングは18位。右利きでバンクハンドは両手打ちの選手。身長185cm、体重75kg。2017年全豪オープン混合ダブルス優勝。2011年全仏オープン男子ダブルス準優勝。現在コロンビアのNo.1ダブルスプレイヤーでありロベルト・ファラとペアを組み、デビスカップにも出場している。.

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フィリップ・ペッシュナー

フィリップ・ペッシュナー(Philipp Petzschner, 1984年3月24日 - )は、ドイツ・バイロイト出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス6勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス35位、ダブルス9位。ペシュナーやペッツシュナーの表記揺れも見られる。 2010年ウィンブルドン選手権男子ダブルスと2011年全米オープン男子ダブルスで、ユルゲン・メルツァーとペアを組んで優勝。.

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フィリップ・コールシュライバー

フィリップ・エーベルハルト・ヘルマン・コールシュライバー(Philipp Eberhard Hermann Kohlschreiber, 1983年10月16日 - )は、ドイツ・アウクスブルク出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス16位、ダブルス51位。これまでにATPツアーでシングルス8勝、ダブルス7勝を挙げている。身長178cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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フィリプ・クライノビッチ

フィリプ・クライノビッチ(Filip Krajinović, Филип Крајиновић, 1992年2月27日 - )は、セルビア・ソンボル出身の男子プロテニス選手。現時点では、まだATPツアーでシングルス・ダブルスともに優勝はない。自己最高ランキングはシングルス26位。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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フィル・デント

フィル・デント(Phil Dent, 1950年2月14日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1974年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス24勝を挙げた。身長182cm、体重78kg、右利き。テーラー・デントの父親としても有名である。 フィル・デントの4大大会出場歴は1968年から始まるが、この年はテニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施された転換期であった。デントは4大大会初出場となった1968年1月の「全豪選手権」でいきなりベスト8に進出する。オープン化制度のもとで開かれた1968年「全仏オープン」には出場していないが、ウィンブルドン選手権に出場した。1969年から「全豪オープン」となった地元開催の4大大会では、1回戦でケン・ローズウォールに敗退する。彼のテニス経歴のハイライトとなった1974年の全豪オープンでは、決勝でジミー・コナーズに 6-7, 4-6, 6-4, 3-6 で敗れて準優勝に終わった。その後、デントは1977年に全仏オープンでベスト4、ウィンブルドンでベスト8入りを果たしたが、全米オープンは1973年の3回戦進出が最高で、全米との相性は良くなかった。 フィル・デントはダブルスに強く、同じオーストラリアのジョン・アレクサンダーと組んで多くの好成績を残した。地元開催の全豪オープンでは、1975年にアレクサンダーとのペアで優勝を飾ったが、1970年・1973年・1977年12月の大会で3度準優勝がある。(1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。)全仏オープンの男子ダブルスでは、1975年と1979年の2度準優勝に終わった。1975年はアレクサンダーとのペアだったが、1979年は(いつもと違って)同じオーストラリアのロス・ケースと組んだ。ウィンブルドンでも1977年にアレクサンダーとのペアで準優勝している。4大大会の男子ダブルス決勝では、通算「1勝6敗」の成績を記録した。混合ダブルスでは、1976年の全米オープンでビリー・ジーン・キング夫人と組んで優勝したことがある。 息子のテーラー・デントが1981年4月24日にアメリカ・カリフォルニア州で生まれた時、父親のフィルはまだ現役選手であった。デントは1983年11月の全豪オープン1回戦敗退を最後に現役を引退したが、息子のテーラーも世界の一流プロテニス選手へと成長し、世界でも珍しい“親子2代男子テニス選手”として活躍している。.

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フェリックス・マンティーリャ

フェリックス・マンティーリャ・ボテーリャ(Félix Mantilla Botella, 1974年9月23日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは10位。身長180cm、体重78kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。ATPツアーでシングルス10勝を挙げた。 2003年ローマ・マスターズ優勝。1997年ハンブルク・マスターズ準優勝。1998年全仏オープン男子シングルスベスト4。1997年全豪オープン男子シングルスベスト8。.

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フェリシアーノ・ロペス

フェリシアーノ・ロペス・ディアス=ゲラ(Feliciano López Díaz-Guerra, 1981年9月20日 - )は、スペイン・トレド出身の男子プロテニス選手。身長188cm、体重85kg、左利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス9位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス3勝を挙げている。デビスカップにおいて、スペインの4度の優勝に貢献。 スペイン人男子として1972年マニュエル・オランテス以来となるウィンブルドンベスト8進出を果たした。 2016年全仏オープン男子ダブルスで同スペインのマルク・ロペスとペアを組み優勝した。.

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フェルナンド・メリジェニ

フェルナンド・アリエル・メリジェニ(Fernando Ariel Meligeni, 1971年4月12日 - )は、ブラジルの元男子プロテニス選手。アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ。1999年全仏オープン男子シングルスでベスト4に入った選手で、1996年アトランタ五輪4位の戦績もある。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。彼は身長180cm、体重64kgの細い体格から、「やせた」という意味の“Fino”(フィーノ) というニックネームで呼ばれた。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス34位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス7勝を挙げた。.

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フェルナンド・ベルダスコ

フェルナンド・ベルダスコ・カルモナ(Fernando Verdasco Carmona, 1983年11月15日 - )は、スペイン・マドリード出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス7勝、ダブルス8勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス8位。身長188cm、体重88kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。フォアハンド・ストロークを最も得意にする。 2013年ATPワールドツアー・ファイナル男子ダブルス優勝者。マスターズ1000シングルス・ダブルス共に準優勝1回。デビスカップスペイン代表の3度の優勝に貢献。2014年にシングルス通算400勝を達成。.

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フェルナンド・ゴンサレス

フェルナンド・フランシスコ・ゴンサレス・シウファルディ(Fernando Francisco González Ciuffardi, 1980年7月29日 - )はチリの首都サンティアゴ・デ・チレ出身の男子プロテニス選手である。2007年全豪オープン男子シングルス準優勝者であり、2004年アテネ五輪の男子ダブルスで金メダル、男子シングルス部門で銅メダル、北京五輪男子シングルスで銀メダルがある。シングルス自己最高ランキングは5位。ATPツアーでシングルス11勝、ダブルス3勝を挙げた。身長183cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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フェデリコ・デルボニス

フェデリコ・デルボニス(Federico Delbonis, 1990年10月5日 - )は、アルゼンチン・出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス2勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス33位、ダブルス142位。身長190cm。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。デビスカップ2016のアルゼンチン代表優勝メンバー。.

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ドナルド・ヤング

ドナルド・オリバー・ヤング・ジュニア(Donald Oliver Young, Jr., 1989年7月23日 - )は、アメリカ・イリノイ州シカゴ出身の男子プロテニス選手。身長183cm、体重79kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーでシングルス・ダブルスともにまだ優勝はない(準優勝はある)。自己最高ランキングはシングルス38位、ダブルス43位。.

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ドミトリー・トゥルスノフ

ドミトリー・イーガリヴィッチ・トゥルスノフ(Dmitry Igorevich Tursunov,, 1982年12月12日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス7勝、ダブルス6勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス20位、ダブルス36位。身長185cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ドミニク・ティエム

ドミニク・ティエム(Dominic Thiem, 1993年9月3日 - )は、オーストリア・ニーダーエスターライヒ州ウィーナー・ノイシュタット出身の男子 テニス選手。ATPツアーでシングルス10勝を挙げている。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス86位。「ドミニク・ティーム」の表記も多い。.

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ドミニク・フルバティ

ドミニク・フルバティ(Dominik Hrbatý, 1978年1月4日 - )は、スロバキア・ブラチスラヴァ出身の男子プロテニス選手。4歳年上の同僚カロル・クチェラと並んで、長年にわたりスロバキアのテニス界をリードしてきた選手である。名前の「ドミニク」(Dominik)からついた“Dominator”(支配者)というニックネームを持っている。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス2勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス14位。身長182cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ドワイト・フィリー・デービス

ドワイト・フィリー・デービス(Dwight Filley Davis, 1879年7月5日 - 1945年11月28日)は、アメリカ・ミズーリ州セントルイスのテニス選手、政治家。男子テニスの国別対抗戦「デビスカップ」の創設者としてよく知られる。後にカルビン・クーリッジ大統領の下で、1925年から1929年まで陸軍長官を務めた。.

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ドン・マクニール

ドン・マクニール(Don McNeill, 1918年4月30日 - 1996年11月28日)は、アメリカ・オクラホマ州チカシェー出身の男子テニス選手。フルネームは William Donald McNeill (ウィリアム・ドナルド・マクニール)という。1939年の全仏選手権で男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得した選手で、全米選手権でも1940年の男子シングルスと1944年の男子ダブルスで優勝した。年代的には、1938年にテニス史上初の「年間グランドスラム」を達成したドン・バッジ(1915年 - 2000年)のすぐ後に位置している。マクニールの全盛期は、ちょうど第2次世界大戦のたけなわと重なっていたため、活動の舞台が(他の年代に活躍した選手に比べて)大幅に限られていた。.

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ドン・バッジ

ョン・ドナルド・"ドン"・バッジ(John Donald "Don" Budge, 1915年6月13日 - 2000年1月26日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド出身の男子テニス選手。1938年にテニス史上初の「年間グランドスラム」を達成した名選手である。.

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ドゥディ・セラ

ダヴィド・"ドゥディ"・セラ(דודי סלע‎‎, Davis "Dudi" Sela, 1985年4月4日 - )は、イスラエル・キリヤット・シュモナ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーではダブルスで1勝している。ATP自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス122位。当地の男子選手として世界トップ30に入った史上4人目の選手になる。身長175cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。日本語では「デュディ・セラ」の表記も多い。.

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ドゥシャン・ラヨビッチ

ドゥシャン・ラヨビッチ(Dušan Lajović, Душан Лајовић, 1990年6月30日 - )は、セルビア・ベオグラード出身の男子プロテニス選手。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでの代表経歴を持っている。これまでにATPツアーでダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス57位、ダブルス104位。身長183cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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ニール・フレーザー

ニール・フレーザー(Neale Fraser, 1933年10月3日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。1960年のウィンブルドン選手権優勝者で、全米選手権でも1959年と1960年に大会2連覇を達成した。また、ダブルスでもロイ・エマーソンとのペアで「キャリア・グランドスラム」を達成している。左利きの選手。身長185cmの長身から繰り出す、爆弾のようなサーブと強力なボレーを最大の持ち味にした。彼の全盛時代から、空前絶後の厚い選手層を誇ったオーストラリア・テニス界の黄金時代が始まった。.

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ニック・キリオス

ニコラス・ヒルミー・"ニック"・キリオス(Nicholas Hilmy "Nick" Kyrgios,, 1995年4月27日 - )は、オーストラリア・キャンベラ出身の男子プロテニス選手。2014年ウィンブルドン選手権でラファエル・ナダルを破りベスト8に進出した。これまでにATPツアーでシングルス4勝を挙げている。身長193cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス13位。ホップマンカップ2016優勝。.

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ニコラ・マユ

ニコラ・ピエール・アルマン・マユ(Nicolas Pierre Armand Mahut, 1982年1月21日 - )は、フランス・アンジェ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス37位、ダブルス1位。2015年全米オープン男子ダブルス、2016年ウィンブルドン選手権男子ダブルス、2018年全仏オープン男子ダブルスでピエール=ユーグ・エルベールとペアを組んで優勝した。ATPツアーでシングルスは4勝、ダブルスで22勝がある。身長190.5cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 ニコラ・マウーの表記も多く見られる。また、2010年ウィンブルドン選手権男子シングルスにおいて史上最長試合11時間5分を記録したことで知られる。.

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ニコラ・ピリッチ

ニコラ・ピリッチ(Nikola Pilić, 1939年8月27日 - )は、ユーゴスラビア(現クロアチア)・スプリト出身の元男子プロテニス選手。本名は「ニコラ・ピリッチ」というが、愛称の「ニキ・ピリッチ」(Niki Pilić または Nikki Pilić)でよく知られる。1973年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。1970年の全米オープン男子ダブルスでピエール・バルト(フランス)と組んだ優勝もある。左利きの選手で、強力なサービスとフォアハンド・ストロークを大きな武器にした。現役選手時代は、同僚たちの中でもひときわ強烈な個性の持ち主として知られた。指導者としても多くの実績を持ち、男子テニス団体戦・デビスカップの監督としてチームを4度優勝に導き、自身の経営する「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」でノバク・ジョコビッチ(セルビア)などを育て上げたことで知られる。 ピリッチのテニス経歴は、1960年のウィンブルドン選手権2回戦から始まる。1961年から1967年までの7年間、彼はデビスカップのユーゴスラビア代表選手を務めた。1966年のウィンブルドン男子ダブルス1回戦で、ピリッチはジーン・スコット(アメリカ)とペアを組み、クリフ・リッチー(アメリカ)&トルベン・ウルリッヒ(デンマーク)組に 19-21, 12-10, 6-4, 4-6, 9-7 のスコアで勝った。この試合で繰り広げられた「98ゲーム」は、41年間にわたりウィンブルドン男子ダブルスの最多ゲーム記録であった。(2007年のウィンブルドン男子ダブルス2回戦で、マルセロ・メロ&アンドレ・サ(ともにブラジル)組とケビン・ウリエット(ジンバブエ)&ポール・ハンリー(オーストラリア)組が 5-7, 7-6, 4-6, 7-6, 28-26 の「102ゲーム」を戦い、41年ぶりにピリッチたちの記録を更新した。)1967年、ピリッチは全仏選手権でトニー・ローチ(オーストラリア)との準決勝に進み、当時の男子テニス世界ランキングで「7位」に入った。全米選手権終了後、彼はプロテニス選手に転向した。 ピリッチがプロ選手になった時期は、テニス史上最大の転換点であった「オープン化措置」の実施と重なる。それまでのテニスグランドスラム大会(全豪選手権・全仏選手権・ウィンブルドン選手権・全米選手権)は、出場資格がアマチュア選手に限定されていたが、1960年代にはプロ選手たちが増えてきて、アマチュアテニスの選手層が薄くなり、競技レベルの低下が進んでいた。そのため1968年の「全仏オープン」から、グランドスラム大会にプロ選手の出場を解禁する措置が実施された。こうしてテニス界は「オープン化時代」を迎える。これに先立ち、著名なスポーツ競技運営者のラマー・ハント(1932年 - 2006年)が、従来のプロテニスツアーとは異なる新しい組織を設立した。8人のプロ選手たちが、ハントが新たに創設した男子プロテニスツアー「ワールド・チャンピオンシップ・テニス」(World Championship Tennis, 略称 WCT)と最初の契約を締結した。8人の顔触れは、ユーゴスラビアのニキ・ピリッチ、ジョン・ニューカムとトニー・ローチ(この2人はオーストラリア)、デニス・ラルストンとアール・ブックホルツ(この2人はアメリカ)、ピエール・バルト(フランス)、クリフ・ドリスデール(南アフリカ)、ロジャー・テーラー(イギリス)である。この8人は当時のテニス界で「ハンサム・エイト」(The Handsome Eight)と呼ばれた。WCTは徐々に契約選手を増やしていったが、後年にも「ハンサム・エイト」の呼び名がワールド・チャンピオンシップ・テニスの同義語として用いられることがあった。 WCT発足から2年後の1970年、ピリッチは同じく「ハンサム・エイト」の1人であるピエール・バルトとペアを組み、全米オープン男子ダブルスで優勝した。この決勝戦で、2人はオーストラリアペアのロッド・レーバー&ロイ・エマーソン組を 6-3, 7-6, 4-6, 7-6 で破る勝利を挙げた。1971年のウィンブルドンで、ピリッチは女優のミア・アダモヴィッチと知り合い、結婚生活に入る。妻ミアのおじは、当時「ユーゴスラビア・テニス連盟」の会長を務めていた。 1973年、ニキ・ピリッチの人生で最大の波乱が訪れる。この年から男子団体戦のデビスカップもオープン化され、プロ選手の出場が可能になったが、ピリッチはユーゴスラビア・テニス連盟からのデビスカップ出場要請を拒否し続けた。そのため、彼はユーゴテニス連盟から9ヶ月の出場停止処分を言い渡される。この件は全仏オープン直前に明らかになり、「国際ローンテニス連盟」(International Lawn Tennis Federation, 略称ILTF:現在の国際テニス連盟)は緊急会合を開いて、彼の出場停止処分を9ヶ月から1ヶ月へ短縮することを検討した。1ヶ月の出場停止処分は、ウィンブルドンから発効する。この騒動のさなかで、ピリッチは全仏オープン男子シングルス準優勝者となり、同じく共産主義国であったルーマニアのイリ・ナスターゼに 3-6, 3-6, 0-6 で敗れた。当時発足したばかりの男子プロテニス協会(Association of Tennis Professionals, 略称ATP)に加盟していた選手たちは、この件は単にピリッチ1人の問題ではなく「ATPツアー全体の問題」と重く受け止めた。当時はどこの国でも、選手たちの活動が自国のテニス連盟に拘束され、海外遠征などを自由にできないケースが多かったため、彼らはピリッチとユーゴテニス連盟の摩擦を「他人事ではない」とみなした。その結果として、ウィンブルドン開幕直前に「ピリッチが出場できないトーナメントはすべてボイコットする」決議が採択され、総計「79名」のATPツアー加盟選手たちがウィンブルドンをボイコットした。出場停止処分が明けた後、ピリッチは全米オープンでヤン・コデシュ(チェコスロバキア)との準々決勝まで勝ち進んだ。その後、彼は問題視されたデビスカップにも1974年から1977年まで4年間ユーゴ代表選手として出場し、1978年全仏オープンまで4大大会に出場した。 ピリッチは1978年7月の「シュトゥットガルト選手権」を最後に選手生活から引退し、その後西ドイツ市民権を取得した。彼は1987年からデビスカップで西ドイツ代表チームの監督に就任し、1988年にミュンヘンの地で「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」を設立した。ピリッチ監督のもとに、デビスカップの西ドイツ代表チームは1988年・1989年にデ杯2連覇を達成した。1990年10月3日のドイツ再統一により、チーム名称も西ドイツ(ドイツ連邦共和国)から「ドイツ」となる。ピリッチは1993年にドイツを4年ぶり3度目の優勝に導き、1997年まで統一ドイツチームを率いた。その後2001年から2005年まで故国クロアチアの代表監督を務め、2005年にクロアチア・チームをデ杯初優勝に導いた。彼はドイツで1988年・1989年・1993年、クロアチアで2005年に優勝監督となり、2つの異なるチームで4度のデビスカップ優勝に貢献したことになる。ミュンヘンにある「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」からは、2008年全豪オープン優勝者になったノバク・ジョコビッチをはじめ、エルネスツ・ガルビス(ラトビア)やサンドラ・クレーゼル(ドイツ)などの選手たちが育っている。.

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ニコラ・ピエトランジェリ

ニコラ・ピエトランジェリ(Nicola Pietrangeli, 1933年9月11日 - )は、イタリアの男子テニス選手。チュニジアの首都・チュニスで生まれる。1959年と1960年の全仏選手権で男子シングルス2連覇を達成し、イタリア人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。1954年から1972年まで男子テニス国別対抗戦・デビスカップイタリア代表選手を務めたピエトランジェリは、当時のイタリア・スポーツ界を象徴するような存在だった。彼は「ニッキー」(Nicky)という愛称で呼ばれた。.

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ニコラ・エスクデ

ニコラ・ジャン=クリストフ・エスキュデ(Nicolas Jean-Christophe Escudé, 1976年4月6日 - )は、フランス・ウール=エ=ロワール県シャルトル出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス優勝4回、ダブルス2勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス17位、ダブルス35位。身長185cm、体重70kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ニコライ・ダビデンコ

ニコライ・ヴラジーミロヴィチ・ダビデンコ(Nikolay Davydenko,, 1981年6月2日 - )は、ロシアの元男子プロテニス選手。赤土のクレーコートを最も得意としている。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス21勝、ダブルス2勝を挙げた。身長178cm、体重70kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2009年ATPワールドツアー・ファイナル優勝。ATPワールドツアー・マスターズ1000で優勝3回。.

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ニコラス・マスー

ニコラス・アレハンドロ・マスー・フリル(Nicolás Alejandro Massú Frir, 1979年10月10日 - )は、チリのビーニャ・デル・マール出身の男子プロテニス選手。2004年アテネ五輪で男子シングルス・男子ダブルスともに金メダルを獲得した選手である。これまでにATPツアーでシングルス6勝、ダブルス1勝を挙げている(アテネ五輪含む)。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス31位。身長182cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ニコラス・ラペンティ

ニコラス・アレクサンダー・ラペンティ・ゴメス. ニコラス・アレクサンダー・ラペンティ・ゴメス(Nicolás Alexander Lapentti Gómez, 1976年8月13日 - )は、エクアドル・グアヤキル出身の男子プロテニス選手。1999年の全豪オープン男子シングルスでベスト4に入った選手で、エクアドルのテニス選手として1990年の全仏オープン優勝者アンドレス・ゴメス以来の世界ランキングトップ10入りを果たした選手である。自己最高ランキングはシングルス6位、ダブルス32位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス3勝を挙げた。身長188cm、体重86kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。アンドレス・ゴメスとは親族関係でもあり、ゴメスはラペンティの母親のいとこにあたる。弟のもプロテニス選手になった。.

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ニコラス・アルマグロ

ニコラス・アルマグロ・サンチェス(Nicolás Almagro Sánchez, 1985年8月21日 - )は、スペイン・ムルシア出身の男子プロテニス選手。身長183cm、体重81kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。最高ランキングはシングルス9位、ダブルス48位。これまでにATPツアーシングルスで13勝、ダブルス1勝を挙げている。デビスカップスペイン代表としてデビスカップ2008の優勝に貢献。.

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ニコラス・キーファー

ニコラス・キーファー(Nicolas Kiefer、1977年7月5日 - )は、ドイツ・ホルツミンデン出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス3勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは4位。身長182cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ニコラス・キッカー

ニコラス・キッカー(Nicolás Kicker:, 1992年8月16日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州メルロ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス78位、ダブルス215位。ATPツアーでは未勝利。右利き。身長179cm。バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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ニコロズ・バシラシビリ

ニコロズ・バシラシビリ(Nikoloz Basilashvili, ნიკოლოზ ბასილაშვილი, 1992年2月23日 - )は、ジョージア(旧称グルジア)・トビリシ出身の男子プロテニス選手。ジョージア国籍の選手としてイラクリ・ラバーゼ以来のATPランキングトップ100位に到達した選手である。ツアー優勝の経験はないが、シングルスで2度の準優勝がある。自己最高位はシングルス51位。身長185cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ホリア・テカウ

ホリア・テカウ(Horia Tecău, 1985年1月19日 - )は、ルーマニア・コンスタンツァ出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして活動し、これまでにATPツアーでダブルス29勝を挙げている。自己最高ランキングはダブルス2位。身長193cm、体重86kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2012年全豪オープン混合ダブルスで、ベサニー・マテック=サンズとペアを組んで優勝。2015年ウィンブルドン選手権男子ダブルスでジャン=ジュリアン・ロジェとのペアで優勝を挙げている。.

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ホルディ・アレッセ

ホルディ・アレッセ(Jordi Arrese, 1964年8月29日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の元男子プロテニス選手。1992年のバルセロナ五輪で男子シングルスの銀メダルを獲得した選手である。自己最高ランキングはシングルス23位、ダブルス62位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス4勝を挙げた。 彼はクレーコート(赤土)のスペシャリストとして活動し、キャリアを通じて全仏オープン以外のグランドスラム大会出場が少なく、全豪オープン・ウィンブルドン・全米オープンに出場したのは1990年から1992年までの3年間だけであった。 アレッセは10歳からテニスを始め、1982年に18歳でプロ選手となったが、14歳から17歳までは全くテニスをプレーしなかった時期があったという。1985年の全仏オープンで4大大会に初出場し、ハンス・ギルデマイスター(チリ)との3回戦まで進出する。1986年7月、フランス・ボルドー大会のダブルスでダビド・デ・ミゲル(同じスペインの選手)とペアを組み、ロナルド・アジェノール(ハイチ)&マンスール・バーラミ(イラン)組を 7-5, 6-4 で破り、男子ツアー大会でダブルス初優勝を果たす。1989年8月、チェコスロバキア・プラハ大会でホルスト・スコッフ(オーストリア)と組み、3年ぶりのダブルス2勝目を獲得。1990年7月末から8月初頭にかけて、アレッセはシングルスで2週連続優勝を遂げた。1991年4月のモンテカルロ・マスターズで、アレッセは突然の現役復帰を表明した元世界1位のビョルン・ボルグと顔を合わせ、往年の名手に 6-2, 6-3 で勝ったことがある。この大会では次の2回戦でゴラン・イワニセビッチに敗れた。 彼のテニス経歴のハイライトは、故郷のバルセロナで開かれた1992年バルセロナ五輪の男子シングルス銀メダルであった。金メダルをかけた決勝戦で、アレッセはスイス代表のマルク・ロセと激突し、試合は 6-7, 4-6, 6-3, 6-4, 6-8 の長丁場になった。先にロセが第1・第2セットを取った後、アレッセは第3・第4セットを奪い返し、決勝は最終第5セットにもつれこむ。第5セットを 6-8 で失ったアレッセは、故郷の観客の前で準優勝に終わり、男子シングルスの銀メダリストになった。 オリンピック銀メダルの翌年、アレッセはギリシャ・アテネ大会の決勝でアルベルト・ベラサテギ(当時20歳)を 6-4, 3-6, 6-3 で破り、ここで最後のシングルス優勝(通算6勝目)を挙げた。彼はキャリア後半の時期、1993年3月以後はシングルス・ダブルスともクレーコート(赤土)のトーナメントのみに出場した。1993年から1995年にかけてはダブルスで6度の決勝進出を記録したが、1995年8月にサンマリノ大会でアンドリュー・クラッツマン(オーストラリア)と組んだ優勝のほかは、5度のダブルス準優勝に終わっている。 クレーコート・スペシャリストで通したホルディ・アレッセは、1996年7月初頭のイタリア・ヴェネツィア大会を最後に32歳で現役を引退した。彼は2002年から2005年まで、4年間男子テニス団体戦・デビスカップスペイン代表監督を務め、2004年にチームを4年ぶり2度目のデ杯優勝に導いた。.

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ホルコム・ウォード

ホルコム・ウォード(Holcombe Ward, 1878年11月23日 - 1967年1月23日)は、アメリカ・ニューヨーク市出身の男子テニス選手。ハーバード大学卒業。19世紀から20世紀への転換期に活動し、1900年代の全米選手権(現在の全米オープンテニス)で男子シングルス1勝・男子ダブルス6勝を挙げた選手である。彼はウィンブルドン選手権にも1901年と1905年の2度出場し、1901年に男子ダブルス準優勝を記録した。右利きの選手で、体格は身長175cm、体重61kgほどであった。 ウォードは当時のアメリカ男子テニス界で、同じハーバード大学のライバルであるドワイト・デービス、マルコム・ホイットマンとともに「ハーバードの3人組」(The Harvard Three)と呼ばれた。1900年に創設された男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」の優勝杯寄贈者になったデービスとは、現役選手時代のダブルス・パートナーであると同時に、生涯の親友であった。彼はテニス技術においても「アメリカ式ツイスト・サーブ」を発明した選手としてよく知られる。これはサーブを打った時、ラケットのスイングに長いフォロースルーを持たせることで、相手の前でボールが高く弾むようにする方法である。ツイストサーブでも、ウォードの打法はホイットマンのものとは全く違っていた。.

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ホルスト・スコッフ

ホルスト・スコッフ(Horst Skoff, 1968年8月22日 - 2008年6月7日)は、オーストリア・クラーゲンフルト出身の元男子プロテニス選手。1980年代後半から1990年代前半にかけてオーストリアの男子テニス界をリードした選手の1人だった。男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストリア代表選手として、1990年にチーム最高成績の「ワールドグループ」準決勝進出に貢献したが、4大大会の男子シングルスでは2回戦止まりに終わった。自己最高ランキングはシングルス18位、ダブルス70位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス2勝を挙げた。 スコッフは6歳からテニスを始め、1984年に「オレンジボウル選手権」(ジュニアテニス選手の登龍門と言われる大会)の16歳以下の部で優勝し、1985年からプロ選手になった。1986年からデビスカップのオーストリア代表選手に選ばれ、トーマス・ムスターらとともに当地のトップ選手として活動を始める。スコッフが代表入りする前、オーストリアはデビスカップ「ヨーロッパ・ゾーン」準決勝止まりのレベルだったが、彼が代表になった年に初めてゾーンの決勝戦に進んだ。1986年・1987年はヨーロッパ・ゾーン決勝で敗れたものの、1988年の欧州ゾーン決勝でイギリスを5戦全勝で破り、オーストリアは初めて世界最上位16ヶ国による「ワールドグループ」昇格を決めた。1989年のデビスカップ・ワールドグループで、オーストリアは1回戦でオーストラリアを5戦全勝で破り、スウェーデンとの準々決勝まで進んだ。スウェーデンには2勝3敗で敗れたが、スコッフがシングルス第2試合でマッツ・ビランデルを 6-7, 7-6, 1-6, 6-4, 9-7 のスコアで倒した。当時のビランデルの調子が下降線にあったとはいえ、前年度の1988年に世界ランキング1位の座についた王者に競り勝ったことで、スコッフはオーストリア代表選手としての評価をさらに高めた。 ホルスト・スコッフの選手経歴のハイライトは、1990年のデビスカップ・ワールドグループ準決勝進出であった。オーストリアは1回戦でスペインに3勝2敗、準々決勝でイタリアに5戦全勝で勝ち、準決勝でアメリカと対戦した。エースのトーマス・ムスターがシングルス第1試合・第4試合を取るが、スコッフはシングルス第2試合でアンドレ・アガシに敗れた。2勝2敗で迎えた最終第5試合は、スコッフとマイケル・チャンの顔合わせになる。この試合をスコッフが 6-3, 7-6, 4-6, 4-6, 3-6 の逆転で落としたため、オーストリア・チームは初の決勝進出を逃してしまった。 翌1991年のデビスカップでは、オーストリアは1回戦でチェコスロバキアに1勝3敗で敗れた後、グループ残留をかけた「ワールドグループ・プレーオフ」でもイギリスに1勝3敗で敗れ、ヨーロッパ・ゾーンに転落した。スコッフは1994年のデビスカップを最後に、オーストリア代表選手から退いた。 団体戦のデビスカップで華麗な活躍を見せたスコッフだが、4大大会では好成績がほとんどなく、男子シングルスでは2回戦止まりの成績だった。彼はオリンピックのオーストリア代表選手としても、1988年ソウル五輪と1992年バルセロナ五輪の2度出場を果たしている。ATPツアー大会ではシングルス4勝・ダブルス2勝を挙げたが、1993年7月にスイス・バスタッド大会の決勝でロナルド・アジェノール(ハイチ)を 7-5, 1-6, 6-0 で破った優勝が、スコッフの最後の勝利になった。彼の競技記録は1999年8月まで残っている。 引退後は故郷のクラーゲンフルトでテニス・アカデミーを経営したが、2008年6月7日に心臓発作のためドイツ・ハンブルクの病院で死去した。39歳没。.

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ホーレス・ライス

ホーレス・ライス(Horace Rice, 1872年9月5日 - 1950年1月18日)は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。「ホーリー・ライス」(Horrie Rice)とも呼ばれる。黎明期の全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)で、1907年に第3回大会の男子シングルス優勝者になった人である。男子ダブルスでは1910年・1915年、混合ダブルスでも1923年に優勝し、全豪選手権で総計4つのタイトルを獲得した。左利きの選手。 ライスのプレースタイルは、左腕からのスライス・サーブと、フォアハンド・ストロークと同じラケット面で打つバックハンド・ストロークを駆使した。同じく全豪選手権の黎明期にプレーしたアンソニー・ワイルディングは、ライスのことを「醜さと効果性の融合した、彼独特の風変わりなテニスに匹敵するものを見たことがない」と描写した。彼はまた、いつも白いニッカーズの半ズボンをはき、足には黒い長靴下を履く風貌で見分けのつく人だった。スコッチ・ウイスキーが大好きな酒豪でもあり、趣味のヴァイオリンもオーケストラで演奏できるほどの技量を持っていたという。.

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ホセ・マリア・アロンソ

ホセ・マリア・アロンソ(José María Alonso、1890年9月28日-1979年3月4日)はスペインの男子テニス選手。バスク地方のギプスコア県サン・セバスティアン出身。弟のマニュエル・アロンソもテニス選手。 1920年のアントワープオリンピックに出場し、シングルスとダブルス競技に出場した。シングルスでは日本の熊谷一弥に1回戦で敗れており、弟のマニュエルと組んだダブルスでも南アフリカ代表のルイス・レイモンドとブライアン・ノートンのペアにストレートで敗れている。2度目のオリンピックとなる1924年のパリオリンピックでは再び弟とのペアで出場し、準々決勝まで進出している。 1921年のスペイン初出場となるデビスカップではチームのキャプテンを務めた。.

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ホセ・アカスソ

ホセ・ハビエル・アカスソ(José Javier Acasuso, 1982年10月20日 - )は、アルゼンチン・ミシオネス州ポサーダス出身の男子プロテニス選手。「チュチョ」(Chucho)という愛称がある。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス5勝を挙げた。彼は男子テニス国別対抗戦デビスカップアルゼンチン代表選手として、2006年と2008年の2度チームを準優勝に導いた。4大大会では、2005年全仏オープン男子シングルス4回戦進出が自己最高成績である。自己最高ランキングはシングルス20位、ダブルス27位。私生活では左利きだが、テニスだけは右利きで、バックハンド・ストロークは片手打ち。「アカスーソ」の表記も多い。.

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ダミル・ジュムール

ダミル・ジュムール(Damir Džumhur,, 1992年5月20日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナ・サラエヴォ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス2勝を挙げている。身長175cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス156位。「ジュムホール」「ジュムフル」の表記も見られる。.

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ダレン・ケーヒル

ダレン・ケーヒル(Darren Cahill、1965年10月2日 - )は、オーストラリア・アデレード出身の元男子プロテニス選手。 自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス13位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス13勝を挙げた。身長187cm、右利きの選手。 現役引退後、数々の名選手のコーチとして知られる。母国の後輩であるレイトン・ヒューイットやキャリア終盤のアンドレ・アガシ、フェルナンド・ベルダスコ等の優れた指導者として選手時代よりも名を上げることとなった。現在はテレビ解説者としても知られている。.

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ダビド・ナルバンディアン

ダビド・パブロ・ナルバンディアン(David Pablo Nalbandian, Դավիդ Փաբլո Նալբանդյան, 1982年1月1日 - )は、アルゼンチン・コルドバ出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス11勝を挙げた。身長180cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 アルゼンチン選手初の2002年ウィンブルドン選手権男子シングルス準優勝者。2005年テニス・マスターズ・カップ優勝者。マスターズ1000優勝2回。 アルゼンチンの選手として初めて4大大会すべてのベスト4に進出した選手である。.

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ダビド・フェレール

ダビド・フェレール・エルン(David Ferrer Ern, 1982年4月2日 - )は、スペイン・ハベア出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは3位。これまでにATPツアーでシングルス27勝、ダブルス2勝を挙げ、2007年のジャパン・オープンで優勝したこともある。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2013年全仏オープン男子シングルス準優勝者。2007年年間最終戦テニス・マスターズ・カップ準優勝者。2012年BNPパリバ・マスターズ優勝。マスターズ1000準優勝6回。デビスカップでデビスカップスペイン代表の3度の優勝に貢献。生涯獲得賞金ランキング歴代8位、現役では5位。.

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ダビド・ゴフィン

ダビド・ゴフィン(David Goffin, 1990年12月7日 - )は、ベルギー・出身の男子プロテニス選手。「ゴファン」表記もある。これまでにATPツアーでシングルス4勝を挙げている。身長180cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス7位。2017年現在、現役の中ではベルギー男子No.1プレイヤーである。.

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ダニール・メドベージェフ

ダニール・セルゲーエヴィチ・メドヴェージェフ(Daniil Medvedev, Дании́л Серге́евич Медве́дев, 1996年2月11日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス1勝。自己最高ランキングはシングルス48位、ダブルス265位。身長198cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「メドベデフ」の表記揺れも多い。.

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ダニエル太郎

ダニエル 太郎(ダニエル たろう、1993年1月27日 - )は、日本の男子プロテニス選手。アメリカ合衆国ニューヨーク出身。ATPツアーでシングルス1勝を挙げている。ランキング自己最高位はシングルス80位、ダブルス566位。身長190cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。エイブル所属。 日本男子史上4人目のATPツアーシングルス優勝者。.

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ダニエル・ネスター

ダニエル・マーク・ネスター(Daniel Mark Nestor, 1972年9月4日 - )は、カナダの男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス58位、ダブルス1位。身長190cm、体重86kg、左利きの選手。これまでにATPツアーでダブルス91勝を挙げる。 ダブルスで史上初のグランドスラム、ATPワールドツアー・ファイナル、オリンピック、マスターズ1000すべての大会を制覇した選手。.

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ダニエル・バチェク

ダニエル・バチェク(Daniel Vacek, 1971年4月1日 - )は、チェコ・プラハ出身の元男子プロテニス選手。ダブルスの名手としてよく知られ、ロシアのエフゲニー・カフェルニコフと組んで全仏オープン・1997年全仏オープン男子ダブルス2連覇、1997年全米オープン男子ダブルス優勝があり、4大大会男子ダブルス3勝を挙げた選手である。ジャパン・オープン・テニス選手権でも、男子ダブルスで1997年と1999年の2度優勝した。ATPツアーでは、カフェルニコフのほかにもシリル・スーク、マルティン・ダムなどと組んで数多くのタイトルを獲得した。自己最高ランキングはシングルス26位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルスで準優勝5回だが、ダブルスで25勝を挙げた。.

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ダニエル・エバンス

ダニエル・"ダン"・エバンス(, 1990年5月23日 - )は、イギリスの男子プロテニス選手。イングランド・バーミンガム出身。ATP自己最高ランクはシングルス41位、ダブルス181位。これまでにATPツアーでの優勝はまだない。身長175cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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ダスティン・ブラウン

ダスティン・ブラウン(Dustin Brown, 1984年12月8日 - ) は、ドイツ・ツェレ出身の男子プロテニス選手。2010年まではジャマイカ国籍の選手として出場していたが、同年からドイツに国籍を変更した。身長196cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPワールドツアーではシングルスでは決勝進出はないが、ダブルスで2勝をあげている。自己最高ランキングはシングルス64位、ダブルス43位。ドレッドヘアーがトレードマークで、芝のコートを得意としている。.

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ベンヤミン・ベッカー

ベンヤミン・ベッカー(Benjamin Becker, 1981年6月16日 - )は、ドイツ・ザールラント州メルツィヒ出身の男子プロテニス選手。強力なサービスを最大の武器にして、2006年全米オープン3回戦でアンドレ・アガシを破り、「アガシの現役最後の対戦相手」としてよく知られる。彼の名前は、ドイツの往年の名選手ボリス・ベッカーとイニシャルが同じであることから「もう1人のB・ベッカー」と呼ばれることがある。自己最高ランキングはシングルス35位、ダブルス58位。ATPツアーでシングルス1勝を挙げた」。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アメア・ディリック

アメア・ディリック(Amer Delić, 1982年6月30日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナのトゥズラ出身の男子プロテニス選手。右利き。ATPランキング自己最高はシングルス60位、ダブルス74位。デビュー時から2010年8月まではアメリカ国籍でツアーを転戦していたが、同年9月からはボスニア・ヘルツェゴビナ国籍に変更して活動した選手である。196cmの長身から繰り出す強烈なサーブを持ち味にしていた。なお、名前のボスニア語読みは「アメル・デリッチ」である。.

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アモス・マンスドルフ

アモス・マンスドルフ(עמוס מנסדורף, Amos Mansdorf, 1965年10月20日 - )は、イスラエル・テルアビブ出身の元男子プロテニス選手。1980年代後半から1990年代前半にかけて活動し、ATPツアー通算「6勝」やシングルス自己最高ランキング「18位」など、多数の当地男子最高記録を樹立した名選手である。彼は男子ツアー大会のシングルスで16度の決勝戦に進み(優勝6度・準優勝10度)、4大大会のシングルスでも全仏オープン以外の3大会で4回戦に勝ち残るなど、今なお「イスラエル最大の男子テニス選手」として高い評価を得ている。 マンスドルフの少年時代、イスラエルにはテニスコートの数が非常に少なく、テルアビブに「イスラエル・テニスセンター」が設立されたのは1976年のことであった。18歳を迎えた成年男子にはイスラエル国防軍への兵役義務があり、彼も1983年10月に国防軍に入隊した。こうした厳しい環境について、本人も「15歳から21歳までの最も重要な時期に(同年代の国際選手たちのような)練習ができなかった。アメリカでコーチを受けられたら、もっと良い選手になれただろうに」と話したという。国防軍の兵役期間中は(彼が望んだような)練習ができなかったとはいえ、限られた自由の中で男子ツアー下部大会を回ることが許された。1984年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのイスラエル代表選手に選ばれ、1985年の全米オープンで4大大会に初出場する。1985年10月、マンスドルフは故郷のテルアビブ大会で初の男子ツアー大会決勝に進み、ブラッド・ギルバート(アメリカ)に敗れて準優勝になった。ギルバートとマンスドルフは、その後の男子ツアー経歴でも対戦機会が多かった。 マンスドルフは1986年にさらなる躍進を見せ、ウィンブルドンと全米オープンで初の3回戦に進出した後、11月の南アフリカ・ヨハネスブルグ大会でツアー初優勝を遂げた。1987年11月16日付で、彼は世界ランキングの自己最高位「18位」をマークした。これは今なお、イスラエルの男子テニス選手によるシングルス最高位記録として残っている。1988年には男子ツアーで2勝を挙げ、プロテニス選手の出場が認められたソウル五輪にもイスラエル代表選手として出場した。オリンピックでは男子シングルス3回戦まで進み、アメリカ代表のティム・メイヨットに 4-6, 2-6, 4-6 で敗れた。 1989年のウィンブルドンで、アモス・マンスドルフはイスラエル人男子選手として初の4回戦進出を成し遂げた。この4回戦ではステファン・エドベリに道を阻まれ、4-6, 3-6, 2-6 のストレート負けに終わった。1990年には、全米オープンでイスラエル男子初の4回戦進出を果たし、アーロン・クリックステイン(アメリカ)に 3-6, 4-6, 4-6 で敗れた。1992年の全豪オープンで、彼は4大大会シングルスの自己最高成績を出した。イスラエル人男子選手による全豪オープンのベスト8は、11年前の1981年にシュロモ・グリックスタインが記録したことがある。マンスドルフはグリックスタインに続く2人目の全豪8強入りを決めたが、当時最盛期を迎えていた第2シードのジム・クーリエに 3-6, 2-6, 2-6 で完敗し、ベスト4入りはならなかった。4大大会のうち全仏オープンだけは4回戦に進めず、1990年の3回戦が自己最高成績だった。 1993年7月、マンスドルフはアメリカ・ワシントンD.C.大会の決勝でトッド・マーティンを 7-6, 7-5 で破り、ここで現役最後の優勝を挙げた。彼は慢性疲労症候群を患い、十分な練習ができなくなったことにより、1994年に29歳でプロテニス生活から引退した。最後の年はウィンブルドンでゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)と3回戦を戦い、10月のテルアビブ大会でウェイン・フェレイラ(南アフリカ)と最後のツアー決勝戦をしている。現役最後の対戦相手は、11月の「ベルギー・オープン」2回戦で敗れたセバスチャン・ラルー(カナダ)であった。引退後は「イスラエル・テニス協会」で後進の育成に携わり、イスラエル・テニスセンターの理事長も務めている。2001年から2004年まで、マンスドルフはデビスカップでイスラエル・チームのキャプテンを務めた。.

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アラステア・マーティン

アラステア・マーティン(Alastair Martin、1915年3月11日 – 2010年1月12日)は、アメリカ・ニューヨーク出身の男子テニス選手。1933年から1971年にかけて国内でシングルスとダブルス合計18ものタイトルを獲得した。1973年に国際テニス殿堂入り。 2010年1月12日、老衰により96歳で死去。.

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アルノー・ディ・パスカル

アルノー・ディ・パスカル(Arnaud Di Pasquale, 1979年2月11日 - )は、フランスの男子プロテニス選手。モロッコ・カサブランカ生まれ。2000年シドニー五輪男子シングルスの銅メダリスト。シングルス自己最高ランキングは39位。身長185cm、体重80kg、右利き。.

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アルノー・クレマン

アルノー・マルセル・モーリス・クレマン(Arnaud Marcel Maurice Clément, 1977年12月17日 - )は、フランス・エクス=アン=プロヴァンス出身の男子プロテニス選手。2001年全豪オープン男子シングルス準優勝者。2007年ウィンブルドン選手権男子ダブルスで、同じフランスのミカエル・ロドラと組んで初優勝した。自己最高ランキングはシングルス10位、ダブルス8位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルスで12勝を挙げた。身長173cm、体重73kgで、男子プロテニス選手としてはやや小柄な体格である。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アルヤジ・ベデネ

アルヤジ・ベデネ(Aljaž Bedene, 1989年7月18日 - )は、スロベニア・リュブリャナ出身の男子プロテニス選手。現時点ではまだATPツアーでシングルス・ダブルスともに優勝はない。自己最高ランキングはシングルス43位、ダブルス127位。身長183cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。名前はアリアス、アルヤズなど表記揺れが多い。.

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アルベルト・マルティン

アルベルト・マルティン・マグレ(Alberto Martín Magret, 1978年8月20日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の男子プロテニス選手。身長175cm、体重73kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス3勝を挙げた。.

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アルベルト・モンタニェス

アルベルト・モンタニェス・ロカ(Albert Montañés Roca, 1980年11月26日 - )は、スペイン・カタルーニャ州タラゴナ県サン・カルラス・デ・ラ・ラーピタ出身の男子プロテニス選手。ランキング自己最高位はシングルス22位、ダブルス73位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス2勝を挙げた。身長175cm、体重70kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。「モンタネス」と呼ばれることも多い。.

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アルベルト・ラモス=ビノラス

アルベルト・ラモス=ビノラス(Albert Ramos-Viñolas, IPA:, 1988年1月17日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス17位、ダブルス117位。ATPツアーでシングルスで1勝を挙げている。身長188cm、体重80kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アルベルト・ベラサテギ

アルベルト・ベラサテギ(Alberto Berasategui, 1973年6月28日 - )は、スペイン・バスク自治州ビスカヤ県ビルバオ出身の男子プロテニス選手。1994年全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは7位。ATPツアーでシングルス14勝、ダブルス1勝を挙げた。彼のテニスは、とりわけラケットのグリップに大きな特徴があり、極端に厚いウエスタングリップ、通称エクストリーム・ウエスタングリップから繰り出される独特なフォアハンド・ストロークを最大の武器にした。.

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アルベルト・コスタ

アルベルト・コスタ・カサルス(Albert Costa Casals, 1975年6月25日 - )は、スペイン・カタルーニャ州リェイダ出身の男子プロテニス選手。2002年全仏オープン男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは6位。身長180cm、体重78kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。ATPツアーで2002年全仏オープンを含むシングルス12勝、ダブルス1勝を挙げた。.

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アルガーノン・キングスコート

アルガーノン・キングスコート(Algernon Kingscote, 1888年12月3日 - 1964年12月21日)は、イングランドの男子テニス選手。インドのバンガロールで生まれる。第1次世界大戦の終戦後、1919年の全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)男子シングルスで優勝した人である。地元開催のウィンブルドン選手権では、1920年に男子ダブルス準優勝があった。フルネームは Algernon Robert Fitzhardinage Kingscote (アルガーノン・ロバート・フィッツハーディネージ・キングスコート)といい、“Algie”(アルギー)という愛称で呼ばれた。右利きの選手。.

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アレハンドロ・ファジャ

アレハンドロ・ファジャ・ラミレス(Alejandro Falla Ramirez, 1983年11月14日 - )は、コロンビア・カリ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーではシングルス・ダブルスとも優勝はない。自己最高ランキングはシングルス48位、ダブルス130位。左利きの選手。身長185cm、体重77kg。.

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アレックス・メトレベリ

アレクサンドル・イラクリエヴィチ・"アレックス"・メトレベリ(Alexander Iraklievich "Alex" Metreveli,,, 1944年11月2日 - )は、ソビエト連邦グルジア共和国トビリシ出身の男子テニス選手。.

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アレックス・ボゴモロフ・ジュニア

アレックス・ボゴモロフ・ジュニア(Alex Bogomolov Jr.,, 1983年4月23日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでダブルス1勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス33位、ダブルス62位。身長178cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アレックス・オルメド

アレックス・オルメド(Alex Olmedo, 1936年3月24日 - )は、ペルー・アレキパ出身の男子テニス選手。フルネームは Alejandro Olmedo Rodriguez (アレハンドロ・オルメド・ロドリゲス)という。同国が生んだ最大のテニス選手で、1959年の全豪選手権とウィンブルドン選手権で4大大会年間2冠を獲得した。彼はアステカ民族とスペイン人の混血の子孫であり、身長185cmほどのどっしりした体格とインカ風の顔立ちに生やした“帝王のような”あごひげから、南カリフォルニア大学在学中につけられた“Chief”(長)というニックネームで呼ばれた。オルメドのテニスは、攻撃的なボレーで攻める果敢なネット・プレーを最大の持ち味とした。.

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アレックス・オブライエン

アレックス・オブライエン(Alex O'Brien, 1970年3月7日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州アマリロ出身の元男子プロテニス選手。1999年全米オープン男子ダブルスで、セバスチャン・ラルーとペアを組んで優勝した。4大大会男子ダブルスでは、1996年全豪オープン・1997年全豪オープン・1995年全米オープンの準優勝もあった。自己最高ランキングはシングルス30位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルスで1999年全米オープンを含む13勝を挙げた。.

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アレックス・コレチャ

アレックス・コレチャ・イ・ベルデガイ(Àlex Corretja i Verdegay、カタルーニャ語発音: アレックス・クレッジャ、1974年4月11日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス17勝、ダブルス3勝を挙げた。身長180cm、体重72kg、右利き。 1998年全仏オープン男子シングルスと2001年全仏オープン男子シングルスで準優勝した。ATPツアー世界選手権優勝。.

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アレクサンドル・ボルコフ (テニス選手)

アレクサンドル・ボルコフ(Alexander Volkov,, 1967年3月3日 - )は、ロシア・カリーニングラード出身の元男子プロテニス選手。主に1990年代前半に活動し、1993年の全米オープンで男子シングルスのベスト4に入った選手である。シングルス自己最高ランキングは14位。ATPツアーでシングルス3勝を挙げたが、準優勝が8度あった。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでも、ソビエト連邦時代から国の代表選手を務め、ソ連崩壊後はロシア代表として活躍した。身長187cm、体重79kg。左利きの選手。 ボルコフは10歳からテニスを始め、1986年に「ソビエト連邦選手権」(USSR National Championships)で準優勝したことがある。1987年のウィンブルドンで4大大会にデビューした時、ボルコフは世界ランキング503位であったが、予選3試合を勝ち抜いた後、初めての本戦でいきなりアンダース・ヤリード(スウェーデン)との4回戦に進出した。翌1988年、ボルコフはオリンピックのソ連代表選手として1988年ソウル五輪出場を果たす。その後1991年にソ連崩壊が起こり、カリーニングラード生まれのボルコフは「ロシア」国籍の選手になった。彼は1992年全米オープンで初めてのベスト8に勝ち上がったが、ここでは第3シードのピート・サンプラスに 4-6, 1-6, 0-6 のストレートで完敗している。 1993年の全米オープンで、アレクサンドル・ボルコフは第14シードから勝ち進み、ロシア出身の男子テニス選手として史上初の全米4強進出を果たした。ボルコフは2年連続の進出となった準々決勝で、オーストリアのトーマス・ムスターを 7-6, 6-3, 3-6, 2-6, 7-5 のフルセットで破り、ロシア人選手としての初舞台に進んだが、準決勝でまたもやピート・サンプラスに 4-6, 3-6, 2-6 のストレートで敗れ、決勝進出はならなかった。翌年の1994年全米オープンでは1回戦でカレル・ノバチェク(チェコ)に敗れ、ボルコフは世界ランキングを大幅に落としてしまう。 ボルコフはキャリアを通じて、男子ツアーでシングルス3勝を挙げたが、8度の準優勝がある。最後の決勝進出は、1997年1月の中国・上海大会であった。彼の最後の男子ツアー大会出場は、同年にモスクワで開催された「クレムリン・カップ」で、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わった。現役最後の試合は1998年デビスカップの「ワールドグループ・プレーオフ」対日本戦(9月25日-27日、大阪・うつぼ公園で開催)であったが、ロシアが日本を「3勝1敗」で退けた後、ボルコフは勝敗決定後の最終第5試合で、本村剛一との試合を 3-6 (第1セット終了)のみで棄権している。.

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アレクサンドル・ドルゴポロフ

アレクサンドル・オレクサンドロヴィチ・ドルゴポロフ(Alexandr Oleksandrovych Dolgopolov, Олександр Олександрович Долгополов, 1988年11月7日 - )は、ウクライナ・キエフ出身の男子プロテニス選手。2011年BNPパリバ・オープン男子ダブルス優勝、2011年全豪オープン男子シングルスでベスト8がある。これまでにATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げている。 自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス42位で、ウクライナのNo.1プレイヤー。身長180cm、体重71kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。旧名はオレクサンドル・ドルゴポロフ・ジュニア(Oleksandr Dolgopolov Jr.)で2010年5月に改名した。.

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アレクサンダー・ペヤ

アレクサンダー・ペヤ(Alexander Peya, 1980年10月27日 - )は、オーストリア・ウィーン出身の男子プロテニス選手。4大大会では、2013年全米オープン男子ダブルスでの準優勝がある。これまでにATPツアーでダブルス14勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス92位、ダブルス3位。.

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アレクサンダー・キティノフ

アレクサンダル・キティノフ(Aleksandar Kitinov, Александар Китинов, 1971年1月13日 - )は、マケドニア共和国・スコピエ出身の男子プロテニス選手。自己最高位はシングルス296位、ダブルス38位。ATPツアーでダブルス3勝を挙げた。身長190cm、体重88kg。右利き。.

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アレクサンダー・ズベレフ

アレクサンダー・"サーシャ"・ズベレフ(Alexander "Sascha" Zverev, Алекса́ндр Алекса́ндрович «Са́ша» Зве́рев, 1997年4月20日 - ) は、ドイツ・ハンブルク出身の男子プロテニス選手。身長198cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPワールドツアーでシングルス8勝、ダブルス1勝をあげている。自己最高ランキングはシングルス3位。ATPワールドツアー・マスターズ1000で3勝。.

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アンリ・ルコント

アンリ・ルコント(Henri Leconte, 1963年7月4日 - )は、フランス・パ=ド=カレー県リレ出身の元男子プロテニス選手。1988年の全仏オープンテニス男子シングルス準優勝者。左利き。バックハンドは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス6位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス10勝を挙げた。 1980年に地元全仏オープンの男子ジュニアシングルス部門で優勝し、プロ選手に転向。1984年には同じフランスのヤニック・ノアとペアを組み、全仏オープンのダブルス優勝を果たしている。1988年全仏オープンでシングルス決勝進出を果たしたが、マッツ・ビランデルに 5-7, 2-6, 1-6 のストレートで完敗。1983年のヤニック・ノア以来となる、地元フランス人選手としての全仏オープン優勝を逃した。ルコントがこのチャンスを逃した後、フランス人の男子テニス選手で4大大会のシングルスに優勝した選手は誰もいない。全仏オープンでは2年後の1990年にも好成績があるが、この時はヨナス・スベンソン(スウェーデン)に準々決勝で敗退している。男子国別対抗戦・デビスカップのフランス代表としては、生涯通算「41勝25敗」の成績を残した。 ルコントは好不調時の差が大きい選手で、好調な時は世界ランク1位の選手にも勝てるが、不調な時は世界ランク200位以下の選手に負けてしまうと言われた。実際、スーパーショットでエースを奪う反面、簡単に決められそうなボールをミスショットすることも見受けられた。 ルコントは現役生活の間に2度の手術を克服し、1993年6月にドイツ・ハーレの芝生コートの大会でキャリア最後の優勝を飾った。1996年に33歳で現役を引退し、現在はスイスのジュネーヴに在住している。.

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アンリ・コシェ

アンリ・コシェ(Henri Cochet, 1901年12月14日 - 1987年4月1日)は、フランス・リヨン出身の男子テニス選手。同僚のフランス人選手ジャン・ボロトラ(1898年 - 1994年)、ジャック・ブルニョン(1895年 - 1978年)、ルネ・ラコステ(1904年 - 1996年)と並んで、フランスの「四銃士」(Les Quatre Mousquetaires)と呼ばれた。 グランドスラム優勝7回。全仏優勝4回は現在歴代3位記録。1976年国際テニス殿堂入り。.

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アンディ・マリー

ー・アンドリュー・バロン・"アンディ"・マリー (Sir Andrew Barron "Andy" Murray, 1987年5月15日 -,'''OBE''' )は、スコットランド・出身、イギリス国籍の男子プロテニス選手。身長190cm、体重84kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「アンディ・マレー」とする表記も多い。 ロンドン五輪とリオデジャネイロ五輪でシングルス選手としては男女通じて初のオリンピック連覇を達成。4大大会では3度の優勝経験があり、特にウィンブルドン選手権では2013年にイギリス人選手77年ぶりの優勝者となった。マスターズ1000優勝14回。シングルス自己最高ランキングは1位。生涯獲得賞金ランキング歴代4位。 ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチと共にBIG4と称される。 1歳年上の兄ジェイミー・マリーもプロテニス選手で、ダブルスのスペシャリスト。.

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アンディ・ラム

アンディ・ラム(ヘブライ語:אנדי רם, Andy Ram, 1980年4月10日 - )は、イスラエルの男子プロテニス選手。ウルグアイの首都モンテビデオに生まれる。ダブルスのスペシャリストとしてよく知られ、2008年全豪オープン男子ダブルスで同じイスラエルのジョナサン・エルリックとペアを組んで優勝した。混合ダブルスでも2006年ウィンブルドン選手権と2007年全仏オープンで優勝があり、当地のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった選手である。彼は普段からシングルスにはほとんど出場せず、エルリックとのダブルスのみに活動を絞っていた。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで2008年全豪オープンを含む19勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス187位、ダブルス5位。身長180cm、体重83kg、右利き。.

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アンディ・ロディック

アンディ・ロディック(Andy Stephen Roddick, 1982年8月30日 - )は、アメリカ・ネブラスカ州オマハ出身の元男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス32勝、ダブルス4勝を挙げた。身長188cm、体重88kg。自己最高ランキングシングルス1位。 2003年全米オープン男子シングルス優勝者。マスターズ1000では5回優勝。有数のビッグサーバーとしても知られ、サービスエース数9074本は歴代4位記録である。 また、現在男子アメリカ人選手シングルス最後のグランドスラム優勝者・世界ランキング1位・年間最終ランキング1位経験者である。.

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アンドレ・プレボー

アンドレ・プレボー(André Prévost、1860年3月26日 - 1919年2月15日)は、フランスの男子テニス選手。1900年のパリ五輪で、同じフランスのジョルジュ・ド・ラ・シャペルと組んで男子ダブルスの銅メダルを獲得した選手である。彼は妻のエレーヌ・プレボーと一緒に、夫婦でパリ五輪に出場した。黎明期の全仏選手権(現在の全仏オープンテニス)でも、1900年に男子シングルス準優勝の成績を残した。Prevostというフランス人名の読み方は、日本語では「プレヴォー」が最も多く見られる。.

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アンドレ・アガシ

アンドレ・カーク・アガシ(Andre Kirk Agassi, 1970年4月29日 - )は、アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス出身の元男子プロテニス選手。右利き、バックハンドは両手打ち。ATPツアーのシングルスで男子歴代8位となる60勝、ダブルスでは1勝を挙げた。 史上唯一のキャリア・グランドスラム・オリンピックシングルス金メダル・ATPツアーファイナルチャンピオンシップ優勝の3冠のスーパースラム達成者。達成4大大会通算「8勝」は、ジミー・コナーズやイワン・レンドルらと並ぶ男子歴代8位タイ記録 。 父親はイランからの移民者で、アルメニア系の元ボクシング選手であり、母親はイングランド系の白人である。姉のリタは往年の名テニスプレーヤーパンチョ・ゴンザレスの最晩年の妻でもある。 妻に同じくテニス選手のシュテフィ・グラフがいる。.

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アンドレ・ゴベール

アンドレ・ゴベール(André Gobert, 1890年9月30日 - 1951年12月6日)は、フランス・パリ出身の男子テニス選手。フルネームは André Henri Gobert (アンドレ・アンリ・ゴベール)という。フランスのテニス界の黎明期を築いた名選手のひとりとして、最初期の全仏選手権で男子シングルス2勝・男子ダブルス1勝・混合ダブルス1勝を挙げた。ゴベールはウィンブルドン選手権やオリンピックでも活躍し、1911年のウィンブルドン選手権男子ダブルスでマックス・デキュジスとペアを組み、同選手権で史上初のフランス人優勝者になった。1912年のストックホルム五輪でも、テニスの「室内競技」で男子シングルス・男子ダブルスの金メダルを獲得した。.

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アンドレ・サ

アンドレ・レゼンデ・サ(André Rezende Sá, 1977年5月6日 - )は、ブラジル・ベロオリゾンテ出身の男子プロテニス選手。ダブルスの得意な選手として活動し、ATPツアーでダブルス11勝を挙げた。シングルスの優勝はないが、2002年ウィンブルドン選手権で男子シングルスのベスト8進出がある。自己最高ランキングはシングルス55位、ダブルス17位。身長185cm、体重74kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アンドレアス・セッピ

アンドレアス・セッピ(Andreas Seppi, 1984年2月21日 - )は、イタリア・ボルツァーノ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス18位、ダブルス50位。 2008年ハンブルク・マスターズベスト4。2012年ローマ・マスターズベスト8。4大大会では2015年全豪オープン男子シングルス3回戦で11年連続ベスト4進出のロジャー・フェデラーに勝利したことで話題になった。ダブルスではグランドスラムで2度ベスト8入り。.

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アンドレイ・チェルカソフ

アンドレイ・ゲンナージエヴィチ・チェルカソフ(Andrei Gennadievich Cherkasov,, 1970年7月4日 - )は、ソビエト連邦ロシア共和国ウファ出身の男子プロテニス選手。1992年バルセロナ五輪男子シングルス銅メダリスト。シングルス自己最高ランキングは13位。ATPツアーでシングルス2勝を挙げた。彼の名前は、同じソ連の男子プロテニス選手であるアンドレイ・チェスノコフと混同しやすい。 チェルカソフはジュニア時代、1987年全米オープンジュニア男子シングルス部門でデビッド・ウィートンに敗れた準優勝がある。1988年にプロ入りし、その年から男子テニス国別対抗戦デビスカップソビエト連邦代表選手に選ばれ、同年のソウル五輪男子シングルスにも出場した。1989年全仏オープンで4大大会初出場。1990年にチェルカソフは著しい躍進を遂げ、全豪オープンと全米オープンでベスト8に進出した。初出場の全豪オープンでは、1回戦で日本の松岡修造を破った試合から始まり、準々決勝で第1シードのイワン・レンドルに3-6, 2-6, 3-6で敗れた。全米オープンでは、チェルカソフは3回戦で1989年全仏オープン優勝者のマイケル・チャンを破り、準々決勝でアンドレ・アガシに2-6, 2-6, 3-6のストレートで敗れている。1990年11月に地元ロシアでクレムリン・カップが創設され、チェルカソフは決勝でティム・メイヨットを6-2, 6-1で破ってツアー初優勝を飾り、同大会で第1回男子シングルス優勝者に輝いた。 1991年全仏オープンで初の4回戦に進み、クレムリン・カップで2連覇を達成した。1991年末にソ連崩壊が起こり、ウファ出身のチェルカソフはロシア国籍の選手となる。1992年、チェルカソフは全仏オープンでもベスト8に進出し、準々決勝でペトル・コルダに4-6, 7-6, 2-6, 4-6で敗れた。7月のバルセロナ五輪で、チェルカソフはオリンピックのEUN選手団入りし、2度目のオリンピック出場を果たし、男子シングルスの銅メダルを獲得した。準決勝ではスペインのホルディ・アレッセに4-6, 6-7, 6-3, 3-6で敗れたが、当時は3位決定戦がなかったことから、チェルカソフとゴラン・イワニセビッチの2人が銅メダリストになった。 その後チェルカソフの好成績は少なくなり、男子ツアーの優勝は1990年・1991年のクレムリン・カップ2連覇のみで止まってしまう。ウィンブルドン選手権では1勝も挙げられず、1989年-1994年まで6年連続1回戦敗退に終わった。最後の4大大会出場は、1999年全豪オープンであった。彼はATPチャレンジャーツアーやITF男子サーキットで長く現役を続行し、2007年4月まで競技記録を残した。.

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アンドレイ・チェスノコフ

アンドレイ・チェスノコフ(、1966年2月2日 - )は、ソ連(現在はロシア)・モスクワ出身の男子プロテニス選手。ソ連時代の後期に活躍し、当地の男子テニス選手が世界に挑戦する道を開いた名選手である。シングルス自己最高ランキングは9位(1991年4月8日付)。ATPツアーでシングルス通算7勝を挙げた。 ソビエト連邦におけるテニス競技の草分けとして、1970年代前半にアレックス・メトレベリとオルガ・モロゾワが最初の一歩を踏み出したが、共産主義の支配下にあった当時のテニス選手たちは自由な海外遠征を許されなかった。アンドレイ・チェスノコフの競技経歴は1984年から始まるが、この年に出場を許可された3大会に好成績を収めて、翌1985年の全仏オープンに予選出場を果たした。これがチェスノコフの4大大会初出場であり、男子プロテニスツアーにおけるロシア人選手の初登場でもあった。予選3試合を勝ち上がった19歳のチェスノコフは、本戦でも3回戦まで進出し、当時のテニス・ジャーナリストたちを驚かせた。こうしてチェスノコフは男子ツアーを回り始め、翌1986年の全仏オープンではアンリ・ルコント(フランス)との準々決勝まで進出した。この年に全米オープンでも4回戦に進出している。1988年には全豪オープンと全仏オープンの2大会連続でベスト8に進出し、ソウル五輪にもソ連代表選手として出場した。こうして、チェスノコフは徐々に世界のトップ・プレーヤーへと成長していく。 1989年の全仏オープンで、チェスノコフはついに4大大会の準決勝に駒を進める。4年前にデビューを飾ったこの大会は、いつも彼の心のよりどころだった。1985年の3回戦 → 1986年・1988年のベスト8(両方ともアンリ・ルコントに敗退)を経て、ようやく到達した夢の舞台だったが、その準決勝でチェスノコフは当時17歳のマイケル・チャンに 1-6, 7-5, 6-7, 5-7 で敗れ、決勝進出はならなかった。1991年4月、彼は世界ランキングを自己最高の9位に上げる。その後も彼の挑戦は続き、最後のシングルス出場は2000年のトーナメントであった。 アンドレイ・チェスノコフは2005年11月20日、ウクライナのテニス・トーナメント参戦のため当地を訪問中に、2発の銃弾で狙撃されて負傷した。直ちにモスクワ市内の病院に入院したが、命に別状はなかった。.

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アンドレイ・メドベデフ

アンドレイ・メドベデフ(ウクライナ語:Андрій Медведєв; ラテン文字表記:Andriy Medvedev, 1974年8月31日 - )は、ウクライナ・キエフ出身の男子プロテニス選手。1999年全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝を挙げた。ダブルス優勝はない。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長193cm、体重93kgの長身選手。.

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アンドレイ・ルブレフ

アンドレイ・アンドレーエヴィチ・ルブレフ(Andrey Rublev, Андрей Андреевич Рублёв, 1997年10月20日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス1勝を挙げている。身長188cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス31位、ダブルス100位。姓のロシア語での発音は「ルブリョフ」が近い。.

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アンドレイ・パベル

アンドレイ・パベル(Andrei Pavel, 1974年1月27日 - )は、ルーマニア・コンスタンツァ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス6勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス18位。身長182cm、体重86kg、右利き。.

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アンドレイ・クズネツォフ

アンドレイ・アレクサンドロヴィチ・クズネツォフ(Andrey Kuznetsov, 1991年2月22日 - )はロシア・トゥーラ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス39位、ダブルス137位。ATPツアーでの優勝はまだない。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アンドレイ・ゴルベフ

アンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ゴルベフ(Andrey Golubev,, 1987年7月22日 - )は、カザフスタンの男子プロテニス選手。ソビエト連邦(現ロシア)領のヴォルシスキー生まれで、現在はカザフスタンのアスタナに在住している。これまでにATPツアーでシングルスで1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス33位、ダブルス65位。身長183cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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アンドレス・ヒメノ

アンドレス・ヒメノ・トラゲーラ(Andrés Gimeno Tolaguera, 1937年8月3日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の元男子プロテニス選手。1972年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、この大会で「34歳10ヶ月」の男子最年長優勝記録を持つ選手である。1969年の全豪オープン決勝でロッド・レーバーに敗れた準優勝もある。ヒメノのテニスは、堅固なグラウンド・ストロークや機転のきくボレーなどを持ち味とした。.

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アンドレス・ゴメス

アンドレス・ゴメス・サントス(Andrés Gómez Santos, 1960年2月27日 - )は、エクアドル・グアヤキル出身の元男子プロテニス選手。1990年の全仏オープン男子シングルス優勝者で、当地が生んだ最大のスポーツ選手として知られる。ダブルスでも1986年の全米オープンと1988年の全仏オープンで、4大大会男子ダブルス2勝がある。左利き。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス21勝、ダブルス33勝を挙げた。オールラウンド・プレーヤーで、重厚なサービスや鋭いボレー、きびきびしたスピン・ボールを駆使するスタイルのテニスを得意とした。.

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アンダース・ヤリード

アンデシュ・ペル・ヤリード(Anders Per Järryd, 1961年7月13日 - )は、スウェーデン・出身の元男子プロテニス選手。1980年代から1990年代前半にかけて活躍し、スウェーデンの男子プロテニス界の最盛期をリードした選手のひとりである。ヤリードは優れたダブルス選手として、男子ダブルスですべての4大大会でのタイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス8勝、ダブルスで4大大会「8勝」を含む59勝を挙げた。.

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アンソニー・ワイルディング

アンソニー・ワイルディング(Anthony Wilding, 1883年10月31日 - 1915年5月9日)は、ニュージーランド・クライストチャーチ出身の男子テニス選手。1910年から1913年にかけてウィンブルドン選手権の男子シングルスに4連覇を達成し、黎明期の全豪選手権でも1906年、1909年の2度優勝した。しかし、1914年に勃発した第1次世界大戦に徴兵されてフランスで戦死してしまい、戦闘から帰還できなかった悲運の人でもある。愛称の「トニー・ワイルディング」(Tony Wilding)で優勝記録表やテニス文献に記載されることも多い。フルネームは Anthony Frederick Wilding (アンソニー・フレデリック・ワイルディング)という。.

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アーネスト・レンショー

アーネスト・レンショー(Ernest Renshaw, 1861年1月3日 - 1899年9月2日)は、イングランド・レミントン出身の男子テニス選手。フルネームはジェームズ・アーネスト・レンショー(James Ernest Renshaw)という。ウィンブルドン選手権が黎明期にあった頃の1880年代に、双子の弟であるウィリアム・レンショーとともに“兄弟テニス選手”として活躍した。ウィンブルドン選手権の男子シングルス6連覇で有名な弟のウィリアムに比べると、兄のアーネストは陰に隠れがちな存在であったが、兄弟でシングルス優勝を争ったり、ダブルスでペアを組んで活躍した。.

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アーロン・クリックステイン

アーロン・クリックステイン(Aaron Krickstein, 1967年8月2日 - )は、アメリカ・ミシガン州アナーバー出身の元男子プロテニス選手。1989年の全米オープンと1995年の全豪オープンで、2度4大大会の男子シングルス準決勝に進出した実力者である。シングルス自己最高ランキングは6位。ATPツアーでシングルス9勝を挙げた。身長182cm、体重72kg、右利き。クリックステインは現役時代、ステファン・エドベリ・イワン・レンドルやアンドレ・アガシとの対戦が多かった。 1983年にプロ入りし、同年の全米オープンで4大大会にデビュー。クリックステインは1回戦でいきなりステファン・エドベリを破って波に乗り、3回戦でもビタス・ゲルレイティスを破って注目を集め、当年度の全仏オープン優勝者ヤニック・ノアとの4回戦まで進出した。1ヶ月後の10月第2週にイスラエル・テルアビブ大会にて、「16歳2ヶ月13日」でプロ初優勝を達成。これは今日に至るまで、男子プロテニス協会ツアー大会の最年少優勝記録として残っている。1985年にクリックステインは初めて男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手に選ばれ、「ワールドグループ」1回戦の対日本戦で白石正三と丸山薫の両選手を破った。1987年後半に左脛骨の骨折で戦線を離脱したこともあるが、1988年に初めて全米オープンの準々決勝に勝ち上がり、同じアメリカのダレン・カーヒルにフルセットで惜敗する。1989年にクリックステインはキャリアの最盛期を迎え、全米オープンで自己最高の準決勝進出を果たすが、第2シードのボリス・ベッカーに 4-6, 3-6, 4-6 のストレートで完敗した。全米オープン4強進出の後、10月に日本の「セイコー・スーパー・テニス」で優勝する。セイコーでのクリックステインは準決勝でステファン・エドベリを 2-6, 7-6, 7-6 の逆転で破った後、決勝でカール・ウーベ=シュテープ(西ドイツ)に 6-2, 6-2 で圧勝した。 この後、アメリカの男子プロテニス界はアンドレ・アガシ、ピート・サンプラス、ジム・クーリエといった若手選手の活躍で盛り上がるようになり、先輩選手のクリックステインはやや影の薄い存在になった。デビスカップでも1990年の「ワールドグループ」準々決勝を最後に、アメリカ代表選手としての起用がなくなってしまう。1990年は4月の「サントリー・ジャパン・オープン」でステファン・エドベリに敗れた準優勝があった。全米オープンの4強進出から6年後、1995年の全豪オープンでクリックステインは2度目の4大大会準決勝進出を果たす。この時は世界ランキング45位のノーシード選手に落ちていたが、クリックステインは3回戦でペトル・コルダ、4回戦でステファン・エドベリ、準々決勝でヤッコ・エルティンを破って勝ち進んだ。6年ぶりの大舞台で、クリックステインは親友のアンドレ・アガシと対戦中に 4-6, 4-6, 0-3 で途中棄権を余儀なくされた。全米オープンや全豪オープンに比べると、ウィンブルドンはあまり得意ではなかったクリックステインだが、1995年ウィンブルドンではエフゲニー・カフェルニコフとの4回戦まで勝ち進んでいる。1996年全豪オープンの1回戦敗退が、彼の最後の4大大会出場となった。1996年4月、クリックステインはアメリカ・ミシガン州ウェスト・ブルームフィールド大会の1回戦敗退を最後に現役を引退した。 2007年の「クラフト・ナビスコ選手権」優勝者になった女子プロゴルファーのモーガン・プレッセルは、クリックステインの姪にあたる。2001年の全米女子オープンゴルフで、当時12歳のプレッセルが初めて予選会を通過した時、おじのクリックステインがプレッセルのゴルフバッグをかついだ場面が話題になった。.

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アーニー・パーカー

アーニー・パーカー(Ernie Parker, 1883年11月5日 - 1918年5月2日バド・コリンズの百科事典を見ると、782ページの紹介文は「5月3日」となっているが、814ページの戦績表は「5月2日」となっている。)は、オーストラリア・パース出身の男子テニス選手。本名は Ernest Frederick Parker (アーネスト・フレデリック・パーカー)といい、「アーニー」は彼の愛称である。1913年の全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)男子シングルス優勝者で、男子ダブルスでは1909年・1913年に2勝を挙げたが、第1次世界大戦で戦死した。彼は比較的小柄な体格であったが、テニスのみならず、クリケットやゴルフでも優れた技量を備えていた。.

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アーサー・ラーセン

アーサー・"アート"・デビッド・ラーセン(Arthur "Art" David Larsen, 1925年4月17日 - 2012年12月7日)は、アメリカ・カリフォルニア州ヘイワード出身の男子テニス選手。1950年の全米選手権男子シングルス優勝者で、1954年の全仏選手権準優勝もある。左利きの選手で、第2次世界大戦後の全米選手権男子シングルスで初の左利き優勝者になった。ラーセンのテニスは、ボールの繊細なタッチに大きな特徴があった。彼は周囲にあるものを“ポンポンと音を立てて触る”(英語:tap)癖があったことから、“Tappy”(タピー)というニックネームで呼ばれた。「アート・ラーセン」(Art Larsen)の名前で文献に記載されることも多い。.

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アーサー・アッシュ

アーサー・アッシュ(Arthur Ashe, 1943年7月10日 - 1993年2月6日)は、アメリカ・バージニア州リッチモンド出身の男子テニス選手。本名は Arthur Robert Ashe Jr. (アーサー・ロバート・アッシュ・ジュニア)という。黒人テニス選手の先駆者として活躍したが、エイズのため49歳で死去した。 4大大会男子シングルス「3勝」を挙げる。シングルス自己最高ランキングは2位。キャリア通算でシングルス33勝、ダブルス14勝を記録した。彼は4大大会で男子シングルスを制覇した初の黒人選手であり、1983年にヤニック・ノアが全仏オープンで優勝するまで、4大大会で男子シングルスを制した唯一の黒人選手だった。.

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アーサー・オハラウッド

アーサー・オハラウッド(Arthur O'Hara Wood, 1890年 - 1918年10月6日)は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。1914年の全豪選手権男子シングルス優勝者になったが、第1次世界大戦終戦直前の1918年10月にフランスで戦死した人である。弟のパット・オハラウッド(1891年 - 1961年)も1920年・1923年の全豪選手権男子シングルスで優勝した。.

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アーサー・ゴア

アーサー・ゴア(Arthur Gore, 1868年1月2日 - 1928年12月1日)は、イングランド・リンドハースト出身の男子テニス選手。ウィンブルドン選手権で男子シングルス3勝、男子ダブルス1勝を挙げ、同選手権の歴史を通じて「最長期間出場選手」の記録を持つ人である。ゴアは1900年に創始された男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」の第1回大会に参加した選手としても知られる。1908年のロンドン五輪でも活躍し、「室内競技」で男子シングルス・男子ダブルスの金メダルも獲得した。フルネームは Arthur William Charles Gore (アーサー・ウィリアム・チャールズ・ゴア)という。彼は Arthur Wentworth Gore (アーサー・ウェントワース・ゴア)と記載されることもある。.

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アドリアン・マナリノ

アドリアン・マナリノ(、 1988年6月29日 - )は、フランス・出身の男子プロテニス選手。ATP自己最高ランクはシングルス22位、ダブルス73位。ATPツアーではシングルス、ダブルス共に未勝利(準優勝4回)である。身長180cm、体重80kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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アドリアーノ・パナッタ

アドリアーノ・パナッタ(Adriano Panatta, 1950年7月9日 - )は、イタリア・ローマ出身の男子プロテニス選手。1976年の全仏オープン男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス9勝、ダブルス17勝を挙げた。身長183cm、体重81kg、右利き。.

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アグスティン・カレリ

アグスティン・カレリ・シャール(Agustín Calleri Shaal, 1976年9月14日 - )は、アルゼンチン・リオ・クアルト出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス3勝を挙げた。彼は男子テニス国別対抗戦デビスカップの代表選手歴が長く、2000年からデビスカップアルゼンチン代表選手を務め、2006年と2008年の2度準優勝を果たした。4大大会シングルスでは、3度の3回戦進出が自己最高成績である。自己最高ランキングはシングルス16位、ダブルス52位。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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アシュレー・クーパー

アシュレー・ジョン・クーパー(Ashley John Cooper、1936年9月15日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。1950年代後半に活躍し、1958年度のテニス4大大会で全仏選手権を除く男子シングルス年間3冠を獲得した選手である。ダブルスでは1957年全米選手権から1958年全仏選手権まで、オーストラリアの同僚選手ニール・フレーザーと組んで3連勝を成し遂げた。クーパーのテニス・スタイルは、強力なサーブ・アンド・ボレーと俊敏なネット・ダッシュを多用しながら、強靭な粘り強さと安定性を備えていた。彼の最も身近なライバルは、フレーザーとマルコム・アンダーソンであった。弟のジョン・クーパーも著名なテニス選手である。.

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イラクリ・ラバーゼ

イラクリ・ラバーゼ(Irakli Labadze, ირაკლი ლაბაძე, 1981年6月9日 - )は、ジョージア(旧称グルジア)・トビリシ出身の男子プロテニス選手。ジョージア国籍の選手として初めてATPランキングトップ100位に到達した選手である。ツアー優勝の経験はないが、ダブルスで3度の準優勝がある。自己最高位はシングルス42位、ダブルス100位。身長188cm、体重85kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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イリ・ナスターゼ

イリ・ナスターゼ(Ilie Năstase, 1946年7月19日 - )は、ルーマニア・ブカレスト出身の男子プロテニス選手。1972年全米オープンと1973年全仏オープンの男子シングルスで優勝し、ルーマニア人のテニス選手として史上初の4大大会優勝者になった。当地最大のテニス選手であるナスターゼは、体操のナディア・コマネチと並んでルーマニアが生んだ最大のスポーツ選手のひとりに数えられる。1973年に世界ランキング1位の座につき、現役生活を通じてシングルス57勝、ダブルス45勝を挙げた。彼はまた、テニスの歴史を通じて最も個性的なキャラクターの選手でもあり、“Bucharest Buffoon”(ブカレストの道化師)というニックネームで呼ばれた。コートマナーが非常に悪く、物議を醸す振る舞いも多かったことから、語呂合わせで“Nasty Nastase”(癇癪持ちのナスターゼ)と呼ばれたこともある。身長182cm、体重75kg、右利き。.

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イワン・リュビチッチ

イワン・リュビチッチ(Ivan Ljubičić, 1979年3月19日 - )は、クロアチアの男子プロテニス選手。ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)領のバニャ・ルカ出身。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス10勝を挙げた。身長193cm、体重86kg、右利き。 2005年度の男子テニス国別対抗戦・デビスカップで、同僚のマリオ・アンチッチとともに・デビスカップクロアチア代表を初優勝に導いた。マスターズ1000優勝1回準優勝3回、ATPワールドツアー・ファイナルに2度出場。.

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イワン・レンドル

イワン・レンドル(Ivan Lendl, 1960年3月7日 - )は、チェコスロバキア・オストラヴァ出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。グランドスラム通算8勝の男子テニス歴代9位タイ記録、ATPツアーのシングルスでいずれも男子歴代2位のツアー94勝、シングルス1071勝などの大記録を持つ。 1980年代の男子テニス界に長らく王者として君臨し、ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンローらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。 世界ランキング1位連続在位記録「157週」は当時歴代2位(現在歴代3位)。また世界ランキング通算在位記録「270週」は当時の歴代1位記録を樹立した。現在もフェデラー(302週)、サンプラス(286週)に次ぐ歴代3位記録。 レンドルは現役時代から大のゴルフ好きであり(ただしゴルフだけは左打ち)、ミュシャの蒐集家としても知られる。.

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イワン・ドディグ

イワン・ドディグ(Ivan Dodig, 1985年1月2日 - )は、ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)・メジュゴリエ出身のクロアチアの男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス4位。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス8勝を挙げる。身長183cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。なお、名の正確な発音は、イヴァンまたはイバンである。 2015年全仏オープン男子ダブルス優勝者。2013年のウィンブルドン選手権男子ダブルス準優勝。2014年ATPワールドツアー・ファイナル準優勝。.

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イーゴリ・アンドレエフ

イーゴリ・ヴァレリエヴィッチ・アンドレエフ(Igor Valerievich Andreev,, 1983年7月14日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス1勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス18位、ダブルス59位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。赤土のクレーコートを得意にしたベースライン・プレーヤーである。.

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イーゴリ・クニツィン

イーゴリ・クニツィン(Igor Kunitsyn,, 1981年9月30日 - )は、ロシア・ウラジオストク出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス1勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス35位、ダブルス49位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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イボン・ペトラ

イボン・ペトラ(Yvon Petra, 1916年3月8日 - 1984年9月12日)は、フランスの男子テニス選手。インドシナ半島のチョロン(現在はベトナム・ホーチミン市内)に生まれる。1946年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者で、現時点ではフランス人男子選手として最後のウィンブルドン優勝者である。全仏選手権でも、男子ダブルスで1938年と1946年の2度優勝した。彼は身長196cmの長身選手で、歴代の4大大会男子シングルス優勝者の中で「最も背の高い選手」と呼ばれた。彼のテニスは、長身を生かした強力なサービスを最大の武器にするスタイルで、長ズボンを履いてプレーしていた。フルネームは Yvon François Marie Pétra (イボン・フランソワ・マリー・ペトラ)という。.

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イボ・ミナール

イボ・ミナール(Ivo Minář,1984年5月21日 - )は、チェコ・プラハ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでダブルス1勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス62位、ダブルス120位。右利き、バックハンドは両手打ちである。.

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イボ・カロビッチ

イボ・カロビッチ(Ivo Karlović, 1979年2月28日 - )は、クロアチア・ザグレブ出身の男子プロテニス選手。カルロビッチとも表記される。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス44位。これまでにATPツアーでシングルス8勝、ダブルス2勝を挙げている。2017年6月現在、ATPワールドツアー歴代2位の年長優勝記録保持者である(37歳5か月) この1か月後のアビエルト・メキシコ・ロス・カボスで優勝している。 男子プロテニス界で最も大柄な身長211cm、体重104kgの体格から繰り出す強烈なサーブを持ち味とし、通算サービスエース数歴代1位記録を保持する。.

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イェジ・ヤノヴィッツ

イェジ・ヤノヴィッツ(Jerzy Janowicz,, 1990年11月13日 - )は、ポーランド・ウッチ出身の男子プロテニス選手。まだATPツアーでシングルス・ダブルスともに優勝はない。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス47位。身長203cm、体重91kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。姓は「ヤノヴィチ」あるいは「ヤノウィッツ」、「ヤノビッチ」、「ヤノビチ」とも表記される。 2013年ウィンブルドン選手権男子シングルスベスト4に進出。2012年パリ・マスターズ準優勝。ダブルスでは2013年BNPパリバ・オープンで準優勝。2015年ホップマンカップ優勝。.

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イジー・ノバク

イジー・ノバク(Jiří Novák, 、1975年3月22日 - )は、チェコ・ズリーン出身の男子プロテニス選手。フォアハンド・ストロークを最大の武器にするベースライン・プレーヤーである。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス6位。ATPツアーでシングルス7勝、ダブルス18勝を挙げた。身長190cm、体重86kgの長身選手。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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イジー・ベセリー

イジー・ベセリー(Jiří Veselý, 1993年7月10日 - )は、チェコ・出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス2勝を挙げている。身長198cm。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス35位、ダブルス94位。.

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ウラジミール・ボルチコフ

ウラジミール・ボルチコフ(Vladimir Voltchkov, Уладзімір Мікалаевіч Валчкоў, 1978年4月7日 - )は、ベラルーシ・ミンスク出身の男子プロテニス選手。2000年ウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト4に進出した。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで1勝を挙げた。身長180cm、体重76kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ウルフ・シュミット

ウルフ・シュミット(Ulf Schmidt, 1934年7月12日 - )は、スウェーデン・ストックホルム県ナッカ出身の男子テニス選手。1958年のウィンブルドン選手権男子ダブルスでスベン・デビッドソンとペアを組んで優勝し、スウェーデン人のテニス選手として最初のウィンブルドン優勝者になった人である。彼は男子テニス国別対抗戦・デビスカップにおいて、1955年から1964年まで10年間スウェーデン代表選手を務め、通算勝利数(66勝36敗)・ベストダブルスチーム(16勝8敗)と出場試合数(38試合)の3部門でチーム歴代1位記録を樹立した。1962年の全日本テニス選手権男子シングルスで優勝したこともある。 シュミットは1955年からデビスカップのスウェーデン代表選手を務め、スベン・デビッドソンやヤン=エリック・ルンドクイストとともに、1950年代後半のスウェーデンテニス界をリードした。1956年の全仏選手権で4大大会に初出場する。彼は1956年と1957年、2年連続でウィンブルドン選手権の男子シングルス準々決勝進出を決めた。1956年はケン・ローズウォール、1957年はニール・フレーザーに敗れ、どちらもオーストラリアの強豪選手に道を阻まれる。1958年のウィンブルドン男子ダブルスで、シュミットは同僚選手のデビッドソンとペアを組み、決勝で第1シードのフレーザー&アシュレー・クーパー組(ともにオーストラリア)を 6-4, 6-4, 8-6 で破って初優勝を決めた。これはスウェーデンのテニス選手が獲得した最初のウィンブルドン・タイトルである。この偉業の後、彼は全米選手権でマルコム・アンダーソン(オーストラリア)との準決勝に進出し、ここで4大大会シングルスの自己最高成績を出した。 ウィンブルドン男子ダブルス優勝の翌年にあたる1959年、シュミットはキャリアで唯一の全豪選手権に出場し、シングルス・ダブルスともに準々決勝まで進出した。スウェーデンからの出場選手は、シュミットとルンドクイストの2人であった。シュミットはシングルス準々決勝でアレックス・オルメド(ペルー)に 4-6, 7-9, 6-3, 6-3, 5-7 に競り負け、ダブルスではルンドクイストと組んだ。 1962年全米選手権を最後に、シュミットはグランドスラム大会から撤退する。4年ぶりに出場した全米選手権では、2回戦で第4シードのラファエル・オスナ(メキシコ)に 10-8, 3-6, 6-4, 3-6, 2-6 で敗れた。この後、シュミットは全日本テニス選手権で日本の地を訪れ、男子シングルス決勝で石黒修を 6-4, 6-2, 2-6, 6-1 で破って優勝した。 ウルフ・シュミットは1964年までデビスカップのスウェーデン代表選手を務め、最後の年にスウェーデン・チームを「インターゾーン」決勝まで導いた。スウェーデンは「ヨーロッパ・ゾーン」の勝者として、1964年8月29日-31日に地元スウェーデンのバスタッドで「アメリカン・ゾーン」勝者のオーストラリアと対戦した。スウェーデンはオーストラリアに5戦全敗で敗れ、前年度優勝国アメリカとの「ワールドグループ・チャレンジラウンド」(当時の決勝戦)進出を逃した。シュミットは10年間の代表経歴を通じて、通算勝利数(66勝36敗)・ベストダブルスチーム(ヤン=エリック・ルンドクイストとの同一ペアで16勝8敗)・代表選手としての出場試合数(38試合)の3部門でチーム歴代1位記録保持者になった。 デビスカップ引退から40年後の2004年、ウルフ・シュミットはレナート・ベルゲリン、スベン・デビッドソンとともに「スウェーデン・テニス殿堂」入りを果たした。.

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ウンベルト・デ・モルプルゴ

ウンベルト・デ・モルプルゴ(Umberto de Morpurgo, 1896年1月12日 - 1961年2月26日)は、イタリアの男子テニス選手。主に1920年代にかけて、イタリアにおける競技テニスの先駆者として活動した人である。彼は1924年のパリ五輪男子シングルス銅メダルでよく知られるが、1925年のウィンブルドン選手権で混合ダブルス準優勝もあった。旧オーストリア領のトリエステに生まれ、イタリアの貴族として「バロン」(男爵)の称号を持っていた。フルネームは Baron Umberto Luigi de Morpurgo (ウンベルト・ルイジ・デ・モルプルゴ男爵)という。彼の名前は、テニス文献でも“Uberto”(ウベルト)の表記揺れが多い。.

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ウパーリ・ラジャカルナ

M・ウパーリ・ラジャカルナ(M.、1975年1月6日 - )は、スリランカのアヌラーダプラ出身の車いすテニス選手、元軍人。スリランカ国内の最高の車いすテニス選手で自己最高ランクはシングルスが2008年9月22日に記録した68位で、ダブルスは2008年1月30日に記録した113位である。兵士を務めていた1997年にウェリオヤでタミル・イーラム解放のトラからの大砲の砲撃を受けて左足を失った。その後の2002年にはスリランカテニス協会の実施するトレーニングプログラムによって車いすテニス選手となった。 2008年には北京パラリンピックの車いすテニス男子シングルスに出場し、1回戦ではデンマークのケネス・カムマーズガードに6-1、6-1で勝利したものの、2回戦で2000年のシドニーパラリンピックと2004年のアテネパラリンピックで男子シングルス2連覇を達成しているオランダのロビン・アマラーンに、0-6、0-6で敗れてしまった。.

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ウィリアム・ラーンド

ウィリアム・ラーンド(William Larned, 1872年12月30日 - 1926年12月16日)は、アメリカ・ニュージャージー州サミット出身の男子テニス選手。フルネームは William Augustus Larned (ウィリアム・オーガスタス・ラーンド)という。「ビル・ラーンド」(Bill Larned)とも呼ばれる。コーネル大学卒業。右利きで、体格は身長180cm、体重77kg。 全米選手権男子シングルス優勝7回は現在も大会歴代1位タイ記録。グランドスラム優勝7回は1925年にビル・チルデンに抜かれるまでは歴代1位タイ記録だった。アメリカ人のテニス選手として、最も早くウィンブルドン選手権に遠征した選手の1人でもあり、1896年と1905年の2度ウィンブルドンに出場した。1900年から始まった男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」においても、黎明期のアメリカ・チームをリードした。彼のテニスは、サイドラインぎりぎりに決める正確なグラウンド・ストロークを中心に、攻撃的なオールラウンド・プレーを得意にした。.

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ウィリアム・レンショー

ウィリアム・レンショー(William Renshaw, 1861年1月3日 - 1904年8月12日)は、イングランド・レミントン出身の男子テニス選手。フルネームはウィリアム・チャールズ・レンショー (William Charles Renshaw) という。1880年代に活躍し、黎明期のウィンブルドン選手権に「6連覇」を達成した選手として知られる。ウィンブルドン優勝7回は、ピート・サンプラスと並んで歴代2位。1925年にビル・チルデンに抜かれるまではグランドスラム優勝回数歴代1位タイ記録を保持していた。 双子の兄であるアーネスト・レンショーもテニス選手で、兄弟でウィンブルドン選手権のシングルス優勝を争ったり、ダブルスでペアを組んで活躍した。ウィリアムは愛称の「ウィリー」 (Willie) で呼ばれることも多かった。.

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ウィリアム・クローシャー

ウィリアム・クローシャー(William Clothier, 1881年9月27日 - 1962年9月4日)は、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の男子テニス選手。フルネームは William Jackson Clothier (ウィリアム・ジャクソン・クローシャー)という。「ビル・クローシャー」(Bill Clothier)とも呼ばれる。ハーバード大学卒業。1906年の全米選手権(現在の全米オープンテニス)男子シングルス優勝者である。同選手権では1904年と1909年に男子シングルス準優勝、1912年に混合ダブルス準優勝があり、20世紀初頭のアメリカ男子テニス界を代表する選手の1人として活動した。右利きの選手で、素速いネット・ダッシュを最も得意にした。.

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ウィルマー・アリソン

ウィルマー・アリソン(Wilmer Allison, 1904年12月8日 - 1977年4月20日)は、アメリカ・テキサス州サンアントニオ出身の男子テニス選手。フルネームは Wilmer Lawson Allison (ウィルマー・ローソン・アリソン)という。1935年の全米選手権男子シングルス優勝者である。シングルスでは1930年ウィンブルドン選手権と1934年全米選手権で2度の準優勝もあった。彼はダブルスの名手として、ジョン・バン・リン(1905年 - 1999年)と組んで4大大会男子ダブルス4勝を挙げた。右利きの選手で、体格は身長180cm、体重70kgほどであった。.

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ウィルフレッド・バデリー

ウィルフレッド・バデリー(Wilfred Baddeley, 1872年1月11日 - 1929年1月24日)は、イギリス・ロンドン市内ブロムリー出身の男子テニス選手。1890年代のウィンブルドン選手権で、双子の弟であるハーバート・バデリーとともに「バデリー兄弟」として活躍した。兄のウィルフレッドは男子シングルスで3勝を挙げ、ハーバートと組んだ男子ダブルスでも4勝を記録した。.

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ウィロビー・ハミルトン

ウィロビー・ハミルトン(Willoughby Hamilton, 1864年12月9日 - 1943年9月27日)は、アイルランド・キルデア州モナスタヴァン出身の男子テニス選手。フルネームは Willoughby James Hamilton (ウィロビー・ジェームズ・ハミルトン)という。1890年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者で、アイルランドのテニス選手として最初のウィンブルドン優勝者になった人である。.

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ウィンブルドン選手権

ウィンブルドン選手権(ウィンブルドンせんしゅけん、英語:The Championships, Wimbledon)は、イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの四大国際大会の一つである。.

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ウェイン・ブラック

ウェイン・ハミルトン・ブラック(Wayne Hamilton Black, 1973年11月14日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の男子プロテニス選手。兄のバイロン・ブラックと末の妹カーラ・ブラックもプロテニス選手で、ウェインは3人兄弟の真ん中である。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで18勝を挙げ、4大大会でも男子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス69位、ダブルス4位。身長170cm、体重70kg、右利き。 ブラック家は、父親が1953年と1956年ウィンブルドン選手権男子シングルス3回戦に進出したドン・ブラックで、自宅のアボカド農園の裏庭に4面の芝生コートを建設した。3人の兄弟はその中でテニスを習得し、真ん中のウェインも父親の手ほどきを受けた。1991年にアメリカ合衆国テキサス州にある「ニューカム・テニスアカデミー」に入学を認められ、1992年から男子テニス国別対抗戦デビスカップジンバブエ代表選手となる。ウェインも兄のバイロンと同じ南カリフォルニア大学で学び、学生テニス選手として3年間プレーした。ウェインがプロ入りした1994年、兄のバイロンは全仏オープン男子ダブルスでジンバブエのテニス選手として初の4大大会優勝を達成する。兄の後を追って、ウェインと妹のカーラも国際レベルのテニス選手に成長した。 1996年アトランタ五輪で、ウェインは兄のバイロンと一緒に初めてのオリンピック出場を果たし、単複とも2回戦進出を果たす。1999年2月のドバイ・テニス選手権でATPツアーでダブルス初優勝を遂げ、3月のインディアンウェルズ・マスターズとリプトン国際選手権でダブルス2週連続優勝を果たす。この3大会ではサンドン・ストールと組んだ。 2000年全豪オープンで、ウェインは4大大会の男子ダブルス決勝に初進出を果たす。パートナーはアンドリュー・クラッツマンであったが、決勝でエリス・フェレイラ/リック・リーチ組に4-6, 6-3, 3-6, 6-3, 16-18で敗れ、初舞台では準優勝に終わった。同年のシドニー五輪で2度目のオリンピックに出場したが、単複とも1回戦敗退に終わる。オリンピック後の10月19日、3人兄弟にテニスを教えた父親のドンが死去した。父親を失う直前の時期から、ウェインはダブルスで同じジンバブエのケビン・ウリエットとペアを組むことが多くなり、シドニー五輪でもウリエットと組んでいたが、2人は翌2001年のシーズンに著しい躍進を見せる。2001年全米オープン男子ダブルスで、ウェインとウリエットはジャレッド・パーマー/ドナルド・ジョンソン組を7-6, 2-6, 6-3で破り、4大大会初優勝を飾った。その過程では、2回戦で兄バイロン/ジョナサン・スターク組を破った“兄弟対決”もあった。これはジンバブエのテニス選手として、7年前の1994年全仏オープン男子ダブルスでバイロンとスタークの組が優勝して以来2つ目のタイトルであった。 2002年全仏オープン混合ダブルスでウェインは妹のカーラ・ブラックと組み、決勝でマーク・ノールズ/エレーナ・ボビナ組を破り、4大大会の混合ダブルス部門で初優勝を飾った。この年、長男のバイロンが現役を引退する。2年後、ウェインとカーラは全仏オープンとウィンブルドン選手権の2大会連続で混合ダブルス決勝に進出した。全仏では地元フランスのリシャール・ガスケ/タチアナ・ゴロビン組に敗れ、2年ぶり2度目の優勝を逃したが、ウィンブルドンではトッド・ウッドブリッジ/アリシア・モリク組を3-6, 7-6, 6-4の逆転で破り、ジンバブエのテニス選手として最初のウィンブルドン優勝を達成した。この後、ウェインはアテネ五輪で3度目のオリンピックに出場し、ケビン・ウリエットとの男子ダブルスでインドのマヘシュ・ブパシ/リーンダー・パエス組との準々決勝まで勝ち進んだ。 2005年全豪オープン男子ダブルスでウェインとウリエットは2001年全米オープン以来の4大大会優勝を飾った。決勝でブライアン兄弟を6-4, 6-4のストレートで破って優勝した。 シングルスでのウェインは、全豪オープンで1998年-2000年に3年連続の3回戦進出があり、1999年の4回戦進出が自己最高成績であった。1999年の4回戦では、トッド・マーティンに6-7, 4-6, 4-6で敗れている。2000年の3回戦では、ピート・サンプラスから2セットを先取したが7-6, 6-3, 3-6, 5-7, 3-6の逆転で敗れたこともあった。.

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ウェイン・フェレイラ

ウェイン・リチャード・フェレイラ(Wayne Richard Ferreira, 1971年9月15日 - )は、南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス6位、ダブルス9位で、シングルス・ダブルスとも世界トップ10に入った数少ない選手のひとりである。ATPツアーでシングルス15勝、ダブルス11勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長185cm、体重85kg。ポルトガル系南アフリカ人。.

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ウェイン・オデスニク

ウェイン・オデスニク(Wayne Odesnik, 1985年11月21日 - )はアメリカ合衆国の元男子プロテニス選手である。自己最高ランキングはシングルス77位。左利き。バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ウェスリー・ムーディ

ウェスリー・アーサー・ムーディ(Wesley Arthur Moodie, 1979年2月14日 - )は、南アフリカ共和国ダーバン出身の男子プロテニス選手。2005年ウィンブルドン選手権男子ダブルスで、ステファン・フースとペアを組んで優勝した。2009年全仏オープン男子ダブルスでディック・ノーマンと組んだ準優勝もある。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス6勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス57位、ダブルス8位。.

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ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド

ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐(Walter Clopton Wingfield, 1833年10月16日 - 1912年4月18日)は、ウェールズ出身の軍人、発明家。テニスの原型となったローンテニスの考案者。ローンテニスは、ギリシア語でボールゲームという意味であるスフェリスティキ(ギリシア語:σφαιριστική)と呼ばれた。ほかにもバタフライ・バイシクル(butterfly bicycle)と呼ばれるものを発明した。 ロッサル・スクールを卒業して、ウェールズ北部の小さな村に住んでいた。1873年にはグウィネズ州のクリケッスでローンテニスを家への客との娯楽のために考案し、新しいスポーツとして特許を獲得した。またローンテニスに関する書籍も2冊出版している。その後は王室のボディーガードを務めた。1997年に国際テニス殿堂入りした。.

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エミリオ・サンチェス

ミリオ・サンチェス・ビカリオ(Emilio Sánchez Vicario, 1965年5月29日 - )は、スペイン・マドリード出身の元男子プロテニス選手。弟のハビエル・サンチェスと妹のアランチャ・サンチェス・ビカリオもプロテニス選手で、エミリオは4人兄弟の長男である。エミリオは1980年代後半にスペインの男子プロテニス界を代表する選手として活動し、とりわけ同じスペインのセルヒオ・カサルとのダブルスで天下無敵の強さを発揮した。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス1位。 E・サンチェスはATPツアーでシングルス15勝、ダブルス50勝を挙げ、そのうち44のダブルス優勝をカサルとのコンビで獲得した。4大大会では全仏オープン男子ダブルス2勝・混合ダブルス1勝、全米オープン男子ダブルス1勝・混合ダブルス1勝を挙げた。1988年のソウル五輪でテニス競技が復活した時の、最初の男子ダブルス銀メダル獲得もある。 エミリオ・サンチェス・ビカリオはテニス一家の4人兄妹の長男として、マドリードの地に生まれた。弟のハビエルがパンプローナ、末の妹アランチャはバルセロナに生まれたため、サンチェス一家の子供たちは移転の多い幼少時代を送ったことになる。1984年に19歳でプロ入りし、直ちに男子テニス国別対抗戦・デビスカップのスペイン代表選手に選ばれた。同年の全仏オープンで4大大会にデビューし、いきなりジミー・コナーズとのシングルス4回戦で勝ち進む。1985年から、サンチェスはセルヒオ・カサルとのコンビで男子ツアーのダブルスに勝ち始める。彼は1986年にシングルス3勝・ダブルス5勝、1987年にシングルス4勝・ダブルス6勝を挙げ、一躍スペイン男子テニス界のトップ選手になった。1987年、サンチェスは全仏オープンと全米オープンで4大大会混合ダブルス年間2冠を獲得する。優勝パートナーは全仏オープンがパム・シュライバーで、全米オープンはマルチナ・ナブラチロワであった。その間に位置するウィンブルドンで、サンチェスとセルヒオ・カサルは初めて男子ダブルス決勝に進出したが、アメリカペアのケン・フラック&ロバート・セグソ組に 6-3, 7-6, 6-7, 1-6, 4-6 で敗れて準優勝になった。サンチェスとカサルのダブルス経歴を通じて、最大のライバルがフラック&セグソ組だった。 1988年、サンチェスは男子ツアーでシングルス1勝・ダブルス10勝を挙げ、全仏オープンと全米オープンで4大大会男子ダブルス年間2冠を獲得した。全仏オープンの直前に、パートナーのカサルが手首の手術を受けたため、ここではエクアドルのアンドレス・ゴメスとペアを組む。サンチェスとゴメスは、全仏オープン男子ダブルス決勝でジョン・フィッツジェラルド(オーストラリア)&アンダース・ヤリード(スウェーデン)組を 6-3, 6-7, 6-4, 6-3 で破って初優勝を決めた。全米オープンでは、手首手術から復活したカサルと組んで決勝に進出したが、相手ペアのリック・リーチ&ジム・ピュー組(ともにアメリカ)組が出場できなくなったため(リーチの病気による)不戦勝でサンチェス&カサル組の優勝となった。ダブルスを制した全仏と全米の2大会で、サンチェスはシングルスでもベスト8に入り、両方とも準々決勝でマッツ・ビランデル(スウェーデン)に敗退した。この後、2人はプロテニス選手の参加が認められたソウル五輪にスペイン代表選手として出場する。復活金メダル第1号を目指した決勝戦で、2人は宿敵のケン・フラック&ロバート・セグソ組に 3-6, 4-6, 7-6, 7-6, 7-9 で敗れ、スペインペアは男子ダブルス銀メダルに終わった。 1989年の全仏オープンで、末の妹アランチャ・サンチェス・ビカリオがスペイン人女子選手として最初の4大大会シングルス優勝者になった。エミリオの上述の活躍から、アランチャは「エミリオの妹」として知られるようになる。アランチャが全仏初優勝した年、エミリオはシングルス1勝・ダブルス2勝止まりで、パートナーは弟のハビエルなどと組んでいた。1990年にカサルとのコンビネーションを復活させてから、2人は再び男子ツアーの頂点に立つ。1990年全仏オープンの男子ダブルス決勝で、2人はゴラン・イワニセビッチ(当時ユーゴスラビア)&ペトル・コルダ(当時チェコスロバキア)組を 7-5, 6-3 で退けた。サンチェスにとっては、ゴメスと組んだ1988年以来2年ぶり2度目の男子ツアーダブルス優勝となった。 サンチェスは1991年にシングルス3勝・ダブルス5勝、1992年にシングルス1勝・ダブルス4勝を記録したが、1992年1月のメディバンク国際が最後のシングルス優勝(15勝目)になった。カサルとのダブルスでは、1995年まで優勝記録を残している。彼はダブルス通算50勝のうち、44勝をカサルとのコンビで獲得した。デビスカップのスペイン代表としては、1996年まで出場を続けた。1998年に33歳で現役を引退。その後2006年から2008年まで、3年間デビスカップのスペイン代表監督を務め、2008年にスペイン・チームを4年ぶり3度目の優勝に導いた。現在はエミリオ・サンチェス・ビカリオの方が、4大大会女子シングルス4勝(全仏3勝・全米1勝)を挙げた「アランチャの兄」として知られるようになっている。.

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エリック・ブトラック

リック・ブトラック(Eric Butorac, 1981年5月22日 - )は、アメリカ合衆国・ミネソタ州ロチェスター出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでダブルス18勝を挙げた。自己最高ランキングはダブルス17位。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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エリック・スタージェス

リック・ウィリアム・スタージェス(Eric William Sturgess, 1920年5月10日 - 2004年1月14日)は、南アフリカ・ヨハネスブルグ出身の男子テニス選手。第2次世界大戦終戦直後の時代に活動し、南アフリカ出身のテニス選手として史上2人目の4大大会シングルス決勝進出者になり、男子シングルスで総計3度の準優勝を記録した名選手である。男子ダブルスでは1947年の全仏選手権で1勝、混合ダブルスでは4つの優勝があり、1949年に4大大会混合ダブルス3連勝を達成した。彼は比較的小柄な体格であったため、ショットのパワーに頼らず、グラウンド・ストロークを正確にコントロールし、決断力に富むテニスを持ち味とした。テニス経歴に入る前はクリケット選手としての活動もあった。.

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エルネスツ・ガルビス

ルネスツ・ガルビス(Ernests Gulbis, 1988年8月30日 - )は、ラトビア・リガ出身の男子プロテニス選手。身長190cm、体重85kg。右利き、バックハンドは両手打ち。これまでにATPツアーでシングルス6勝、ダブルスで2勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス10位、ダブルス130位。ラトビア人初の世界トップ10入りを果たした。 2014年全仏オープン男子シングルスでベスト4に入った選手である。サービス、グラウンドストロークともに強打が持ち味。「エルネスツ・グルビス」とも表記される。また、ガルビスはこれまで8度ツアーの決勝に進出しているが、そのすべてで優勝している。.

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エルスワース・バインズ

ルスワース・バインズ(Ellsworth Vines, 1911年9月28日 - 1994年3月17日)は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の男子テニス選手。1930年代前半に活躍した選手で、1931年・1932年の全米選手権と1932年のウィンブルドン選手権男子シングルスで優勝し、4大大会で3勝を挙げた。バインズはアメリカの男子テニス選手として、ビル・チルデンやビル・ジョンストンの後に続く世代に位置している。1936年10月にプロテニス選手として日本を訪れたこともあった。彼は「エリー」(Elly)という愛称で呼ばれた。.

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エンドゥカ・オディゾール

ンドゥカ・オディゾール(Nduka Odizor, 1958年8月9日 - )は、ナイジェリア・ラゴス出身の元男子プロテニス選手。ランキング自己最高位はシングルス52位、ダブルス20位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス7勝を挙げた。テニス不毛の地であったナイジェリアに大きな足跡を残した人物である。身長182cm、体重75kg。右利き。.

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エフゲニー・カフェルニコフ

フゲニー・アレクサンドロビッチ・カフェルニコフ(Yevgeny Aleksandrovich Kafelnikov, 、1974年2月18日 - )は、ロシア・ソチ出身の元男子プロテニス選手。1996年全仏オープンと1999年全豪オープン男子シングルスで優勝し、ロシアのテニス選手として最初の4大大会優勝者になった選手である。自己最高ランキングはシングルス1位、ダブルス4位。ATPツアーでシングルス26勝、ダブルス27勝を挙げた。カフェルニコフは強力なグラウンドストロークを軸とするオールラウンダーで、ハード、クレー、芝のすべてのサーフェスを得意とした。.

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エフゲニー・コロレフ

フゲニー・エヴゲーニエヴィチ・コロレフ(Evgeny Evgenevich Korolev, Евгений Евгеньевич Королёв, 1988年2月14日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス46位、ダブルス113位。これまでにATPツアーでの優勝経験は単複共ないが、シングルスで一度の準優勝がある。身長185cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。プロ転向当初はロシア国籍で活動していたが、2010年1月からカザフスタン国籍に変更して活動している選手であり、ロシアの女子プロテニス選手アンナ・クルニコワの従姉弟としても知られる人物である。.

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エドゥアルド・シュワンク

ドゥアルド・ヨナタン・シュワンク(Eduardo Jonatan Schwank, 1986年4月23日 - )は、アルゼンチン・ロサリオ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス48位、ダブルス17位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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エドゥアール・ロジェ=バセラン

ドゥアール・ロジェ=バセラン(Édouard Roger-Vasselin, 1983年11月28日 - )は、フランス・ジュヌヴィリエ出身の男子プロテニス選手。2014年全仏オープン男子ダブルスでジュリアン・ベネトーとペアを組んで優勝した。これまでにATPツアーでシングルス優勝はないが(準優勝2回)ダブルス12勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス35位、ダブルス6位。身長188cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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エドウィン・フラック

ドウィン・フラック(Edwin Harold "Teddy" Flack, 1873年11月5日 - 1935年1月10日)は、オーストラリアの陸上競技選手。1896年アテネオリンピック男子800mと1500mの優勝者である。 フラックはロンドン出身で、5歳のときに家族とともにオーストラリアに移住する。1892年に学校を卒業してすぐ、ニューサウスウェールズ州、ビクトリア州の1マイル走のタイトルを獲得している。学校を卒業後は父親の会計事務所に就職し、21歳のとき、勉強のためロンドンの会計事務所に入社する。彼はヨーロッパにいる間、ロンドンの陸上クラブに所属し、来るべき第1回のオリンピックに参加することにした。.

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エドガー・ムーン

ドガー・ムーン(Edgar Moon, 1904年12月3日 - 1976年5月26日)は、オーストラリア・クイーンズランド州フォレストヒル出身の男子テニス選手。1930年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、男子ダブルスで1932年、混合ダブルスでも1929年と1934年に優勝し、同選手権で4つのタイトルを獲得した選手である。「ガー・ムーン」(Gar Moon)と呼ばれることも多い。彼のテニスは、強力なグラウンド・ストロークが大きな武器で、オールラウンド・プレーヤーのスタイルであった。.

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エドガー・レナード

ドガー・レナード(Edgar Leonard, 1881年6月19日 - 1948年10月7日)は、アメリカ・マサチューセッツ州ウエスト・ニュートン出身の男子テニス選手。フルネームは Edgar Welch Leonard (エドガー・ウェルチ・レナード)という。ハーバード大学卒業。1904年のセントルイス五輪で男子ダブルス金メダル・男子シングルス銅メダルを獲得した選手として知られる。全米選手権でも1904年に男子シングルス・ベスト4進出があり、1903年に全米テニスランキング8位になった。.

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エイドリアン・クイスト

イドリアン・クイスト(Adrian Quist, 1913年8月4日 - 1991年11月17日)は、オーストラリア・南オーストラリア州メディンディア出身の男子テニス選手。フルネームは Adrian Karl Quist (エイドリアン・カール・クイスト)という。第2次世界大戦の戦前と戦後の両方の時代をまたいで、4大大会タイトルを獲得した選手として知られる。.

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オラシオ・セバジョス

ラシオ・セバジョス・ジュニア(Horacio Zeballos, Jr., 1985年4月27日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州マル・デル・プラタ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス6勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス39位、ダブルス28位。左利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。「オラシオ・ゼバラス」、「オラシオ・セバロス」等、表記のゆれがみられる。.

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オリバー・マラチ

リバー・マラチ(Oliver Marach, 1980年7月16日 - )は、オーストリア・グラーツ出身の男子プロテニス選手。オリヴァー・マラッハとも呼ばれる。 これまでにATPツアーでダブルス15勝を挙げている。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス82位、ダブルス8位。.

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オリバー・キャンベル

リバー・キャンベル(Oliver Campbell, 1871年2月25日 - 1953年7月11日)は、アメリカ・ニューヨーク市ブルックリン出身の男子テニス選手。黎明期の「全米シングルス選手権」(現在の全米オープンテニス男子シングルス部門)で1890年から1892年まで大会3連覇を達成した選手で、初優勝時の1890年に当時の大会最年少優勝記録「19歳6ヶ月9日」を樹立した。右利きの選手。フルネームは Oliver Samuel Campbell (オリバー・サミュエル・キャンベル)。.

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オリビエ・ロクス

リビエ・ロクス(Olivier Rochus, 1981年1月18日 - )は、ベルギー・ナミュール出身の男子プロテニス選手。同僚のグザビエ・マリスとペアを組み、2004年全仏オープン男子ダブルス部門で優勝した。自己最高ランキングはシングルス24位、ダブルス29位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルスで2勝を挙げた。身長168cm、体重65kgで、男子プロテニス選手としては小柄な体格である。3歳年上の兄、もプロテニス選手で、ダブルスで組んで2度準優勝がある。.

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オーウェン・デビッドソン

ーウェン・デビッドソン(Owen Davidson、1943年10月4日 - )は、1960年代から1970年代にかけて活躍したオーストラリアの男子プロ・テニス選手。メルボルン生まれ。 デビッドソンは、ビリー・ジーン・キングとペアを組み、4大国際大会(グランドスラム)の混合ダブルスで8回の優勝を果たした。1967年には、混合ダブルスで全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、全米オープンをすべて制し、数少ない年間グランドスラム達成者のひとりとなった。この年の全豪オープンではレスリー・ターナー(後のレスリー・ターナー・ボウリー)とペアを組み、残りの3大会ではキングとペアを組んでの達成であった。4大国際大会のシングルスでは、1966年のウィンブルドン選手権における準決勝進出が最高の成績であった。1972年の全豪オープンと1973年の全米オープンでは、それぞれケン・ローズウォール、ジョン・ニューカムとのペアで、男子ダブルスを制した。 2010年には、アメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポートにある国際テニス殿堂の殿堂入りを果たした。2011年1月26日のオーストラリアの日には、メルボルンのロッド・レーバー・アリーナにあるオーストラリア・テニス殿堂の殿堂入りも果たした。.

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オットー・フロイツハイム

ットー・フロイツハイム(Otto Froitzheim, 1884年4月24日 - 1962年10月27日)は、ドイツの男子テニス選手。1908年ロンドンオリンピック男子シングルスで銀メダルを獲得している。.

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オニー・パルン

ニー・パルン(Onny Parun, 1947年4月15日 - )は、ニュージーランド・ウェリントン出身の元男子プロテニス選手。1973年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。ダブルスでは1974年の全仏オープンで、オーストラリアのディック・クリーリーとペアを組んだ優勝がある。シングルス自己最高ランキングは19位。身長187cm、体重76kg、右利きの選手。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルスで1974年全仏オープンを含む2勝を挙げた。 ユーゴスラビア人とオーストラリア人の両親の間に生まれたパルンは、1967年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのニュージーランド代表選手に選ばれた。彼は芝生コートで優れた才能を発揮し、1971年と1972年の2年連続でウィンブルドンのベスト8に入る。1973年の全豪オープンは、1972年と1973年の年末年始をまたいで行われた。パルンは初進出の決勝でジョン・ニューカムに 3-6, 7-6, 5-7, 1-6 で敗れ、大会黎明期の1906年と1909年に2勝を挙げたアンソニー・ワイルディング以来となる、ニュージーランド選手としての全豪優勝を逃した。全豪で準優勝した1973年は、全米オープンでもスタン・スミスとの準々決勝まで勝ち進んでいる。 翌1974年の全仏オープンで、オニー・パルンはディック・クリーリー(1970年全豪オープン準優勝者)とペアを組み、男子ダブルス初優勝を飾った。全仏男子ダブルス決勝戦の相手は、アメリカの強豪ペアであるスタン・スミス&ボブ・ルッツ組であった。先にパルン&クリーリー組が2セットを連取したが、スミス&ルッツ組が第3・第4セットを連取し、試合は最終第5セットまでもつれた。第5セットはパルン&クリーリー組のペースで進み、最終スコア 6-3, 6-2, 3-6, 5-7, 6-1 で初優勝を決めた。全仏オープンの2ヶ月前、パルンは当時の男子プロテニスツアーであった「ワールド・チャンピオンシップ・テニス」(World Championship Tennis, 略称 WCT)の東京大会でもダブルス優勝がある。この大会では、パルンは南アフリカのレイモンド・ムーアとペアを組んだ。 1976年の前半、パルンはニュージーランド・オークランド大会と「ヨハネスブルグWCT」で男子ツアーのシングルスに2勝を挙げたが、全米オープンの1回戦でイリ・ナスターゼとの対戦中に足首を痛めてしまう。この故障からの回復が思わしくなかったため、彼の最盛期はあまり長く続かず、前述の2大会を最後にツアーでの優勝が途絶えた。最後の好成績は、1980年ウィンブルドンの4回戦進出であった。パルンは1982年3月、デビスカップの「ワールドグループ」1回戦を最後に現役を引退した。.

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オスカー・クロイツァー

ー・クロイツァー(Oscar Kreuzer, 1887年6月14日 - 1968年5月3日)は、ドイツの男子テニス選手。1912年ストックホルムオリンピック男子シングルスで銅メダルを獲得している。.

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カリム・アラミ

リム・アラミ(كريم علمي, Karim Alami, 1973年5月24日 - )は、モロッコ・カサブランカ出身の元男子プロテニス選手。同い年のヒシャム・アラジ、2歳年上のユーネス・エル・アイナウイと共に90年代から00年代前半にかけてモロッコのテニス界を大きく前進させた人物である。右利き。ATPランキング自己最高位はシングルス25位、ダブルス130位。キャリア通算でシングルス2勝、ダブルス1勝を挙げた。.

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カルロス・モヤ

ルロス・モヤ・リョンパルト(Carlos Moyá Llompart, 1976年8月27日 - )は、スペイン・パルマ・デ・マヨルカ出身のプロテニス選手。1998年全仏オープン男子シングルス優勝者である。ATPツアーツアーシングルス20勝を挙げた。ダブルス優勝はない。身長190cm、体重86kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。非常に強力なストロークを武器にした。.

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カルロス・ベルロク

ルロス・アルベルト・ベルロク(Carlos Alberto Berlocq, 1983年2月3日 - )は、アルゼンチン・チャスコムス出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス2勝、ダブルス2勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス37位、ダブルス50位。身長183cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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カレル・ノバチェク

レル・ノバチェク(Karel Nováček, 1965年3月30日 - )は、チェコ・プロスチェヨフ出身の元男子プロテニス選手。チェコスロバキア時代から始まり、当地で共産主義が崩壊する歴史の転換点の時期をまたいで活躍した選手である。シングルス自己最高ランキングは8位(1991年11月)。ATPツアーでシングルス13勝、ダブルス6勝を挙げた。身長190cm、体重81kgの長身選手。 6歳からテニスを始め、1984年にプロ入り。1986年7月にアメリカ・ワシントン大会でツアー初優勝を果たす。1987年の全仏オープンで、ノバチェクは4大大会で初めての好成績を出し、ミロスラフ・メチージュとの準々決勝まで進出した。1991年に年間4勝を挙げ、この年に自己最高の世界ランキング8位を記録する。1992年も3つの大会で優勝したが、4大大会ではしばらく上位進出がなかった。 1993年1月1日にチェコスロバキアが解体し、ノバチェクの国籍表示は「チェコ」になる。この年、ノバチェクは全仏オープンで6年ぶり2度目の準々決勝進出を果たしたが、当時21歳のリカルト・クライチェクに 6-3, 3-6, 6-3, 3-6, 4-6 のフルセットで惜敗した。同年の全米オープンでは、ダブルスのスペシャリストである同国人選手のマルティン・ダムとペアを組み、男子ダブルス準優勝者になる。1994年の全米オープンで、ノバチェクは29歳にして準決勝進出を決めたが、この大舞台で第4シードのミヒャエル・シュティヒに 5-7, 3-6, 6-7 のストレートで完敗した。全米ベスト4の少し前、1994年7月にオランダ・ヒルバーサム大会で最後のツアー優勝がある。1995年の全豪オープンで、ノバチェクは初進出の4回戦でジム・クーリエに敗れたが、これが彼の最後の活躍になった。 その後、ノバチェクは1995年度の4大大会ですべて1回戦敗退に終わったが、ウィンブルドン1回戦では日本の松岡修造に 4-6, 7-6, 6-3, 3-6, 4-6 で敗れている。松岡のテニス人生最大のハイライトは、このノバチェク戦の勝利から始まった。全米オープンの1回戦では、2年前の全仏オープン準々決勝で敗れたリカルト・クライチェクにストレート負けしたが、これがノバチェクの最後の4大大会出場になった。1996年8月、カレル・ノバチェクは31歳で現役を引退した。.

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カレン・ハチャノフ

レン・アブガロヴィチ・ハチャノフ(Karen Abgarovich Khachanov, Карен Абгарович Хачанов, Կարեն Աբգարի Խաչանով, 1996年5月21日 - )は、ロシア・モスクワ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス29位、ダブルス67位。ATPツアーでシングルスで2勝を挙げている。身長198cm、体重88kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。日本の一部メディアでは「カチャノフ」とも表記される。.

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カロル・クチェラ

ル・クチェラ(Karol Kučera, 1974年3月4日 - )は、スロバキア・ブラチスラヴァ出身の男子プロテニス選手。2005年度の男子テニス国別対抗戦デビスカップで、同僚のドミニク・フルバティとともに、デビスカップスロバキア代表を史上初の準優勝に導いた。シングルス自己最高ランキングは6位。ATPツアーでシングルス6勝を挙げた。 身長187cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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カール・ベア

ール・ハウエル・ベア(Karl Howell Behr、1885年5月30日 - 1949年10月15日)は、アメリカ合衆国の元テニス選手及び銀行家である。ベアは同時に、1912年に発生したタイタニック号沈没事故での生存者としても知られている。.

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カイル・エドマンド

イル・エドマンド(、 1995年1月8日 - )は、イギリスの男子プロテニス選手。南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ出身。「カイル・エドムンド」「カイル・エドモンド」とも表記される。ATP自己最高ランクはシングルス17位、ダブルス252位。これまでにATPツアーでダブルス1勝を挙げている。身長188cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ガードナー・ムロイ

ードナー・ムロイ(Gardnar Mulloy, 1913年11月22日 - 2016年11月14日)は、アメリカ・ワシントンD.C.出身の男子テニス選手。1952年の全米選手権男子シングルス準優勝者で、1940年代から1950年代にかけて、アメリカを代表するダブルスの名手として活躍した。全米選手権では1940年から1957年までの間に「9度」男子ダブルス決勝に進出し、そのうち4度優勝した。ウィンブルドン選手権では、1957年の男子ダブルスでバッジ・パティーとともにテニス史上に残る年長ペアを組んで優勝している。フルネームは Gardnar Putnam Mulloy (ガードナー・プットナム・ムロイ)といい、“Gar”(ガー)という愛称で呼ばれた。.

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ガエル・モンフィス

ル・セバスティアン・モンフィス(Gaël Sébastien Monfils, フランス語発音:,1986年9月1日 - )は、フランス・パリ出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは6位。これまでにATPツアーでシングルス7勝を挙げている。身長193cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「ガール・モンフィス」の表記揺れも多い。.

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ガストン・ガウディオ

トン・ガウディオ(Gastón Gaudio, 1978年12月9日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の男子プロテニス選手。El Gato(エル・ガト、スペイン語で「猫」の意味)というニックネームを持っている。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。シングルス自己最高ランキングは5位。ATPツアーでシングルス8勝、ダブルス3勝を挙げた。 2004年全仏オープン男子シングルスにて当時世界ランキング44位でありながら優勝を果たした。2005年最終戦テニス・マスターズ・カップベスト4。.

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キム・ウォーウィック

ム・ウォーウィック(Kim Warwick, 1952年4月8日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の元男子プロテニス選手。1980年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。1970年代後半から1980年代前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス4勝、混合ダブルス2勝を挙げた。ATPツアーではシングルス3勝、ダブルス26勝を挙げたが、準優勝が1980年全豪オープンを含めて8つあった。 ウォーウィックは少年時代、オーストラリアの名コーチであるビクトル・エドワーズの“秘蔵っ子”として知られた。エドワーズはイボンヌ・グーラゴングを育てたコーチであり、ウォーウィックとグーラゴングは1972年に混合ダブルスでペアを組んだ。2人は全仏オープンで地元フランスペアのジャン・クロード・バークレー&フランソワーズ・デュール組を 6-2, 6-4 で破り、続くウィンブルドンでもイリ・ナスターゼ&ロージー・カザルス組との決勝まで進出したが、ナスターゼとカザルスには 4-6, 4-6 で敗れた。その後しばらく低迷期があったが、1976年全仏オープン混合ダブルスでイラナ・クロス(南アフリカ)とペアを組み、4年ぶり2度目の優勝を果たす。ウォーウィックの4大大会男子ダブルス初優勝は、1978年全豪オープンであった。この大会で、ウォーウィックはポーランドのヴォイチェフ・フィバクと組み、決勝でポール・クロンク&クリフ・レッチャー(ともにオーストラリア)組を 7-6, 7-5 で破って初優勝を決めた。パートナーのフィバクにとっては、これはポーランドの男子テニス選手として初めて獲得した4大大会タイトルであった。 それから2年後、1980年全豪オープンでウォーウィックは男子シングルス・男子ダブルスの2部門に決勝進出を果たした。当時の全豪オープン男子シングルスは、64名の選手による6回戦制で行われていた。第14シードのウォーウィックは、準決勝で大会3連覇を目指した第1シードのギレルモ・ビラスを 6-7, 6-4, 6-2, 2-6, 6-4 で破ったが、決勝ではブライアン・ティーチャー(アメリカ)に 5-7, 6-7, 2-6 のストレートで敗れて準優勝になった。男子ダブルスではマーク・エドモンドソンとペアを組んで優勝し、それ以後ウォーウィックはエドモンドソンとペアを組む機会が多くなった。1981年全豪オープンで、ウォーウィック&エドモンドソン組は男子ダブルス2連覇を達成する。1982年はシングルスで好成績があり、全米オープンでイワン・レンドルとの準々決勝に進出した。 4年後の1985年、ウォーウィックとエドモンドソンは全仏オープン男子ダブルスで初優勝を飾り、このペアで4大大会3勝目を挙げた。2人は決勝でシュロモ・グリックスタイン(イスラエル)&ハンス・シモンソン(スウェーデン)組に 6-3, 6-4, 6-7, 6-3 で競り勝った。ウォーウィックにとっては、1972年と1976年の混合ダブルス優勝以来、9年ぶり3個目の全仏オープンタイトルになる。ところが、半年後の全豪オープン男子ダブルス決勝で、ウォーウィックとエドモンドソンはポール・アナコーン(アメリカ)&クリスト・バン・レンスバーグ(南アフリカ)組に 6-3, 6-7, 4-6, 4-6 で敗れ、4年ぶりの優勝を逃した。当時の全豪オープンは、1978年から1985年まで12月の年末開催であったため、1月開催となった現在の感覚とは大きく異なる点が注意を要する。 キム・ウォーウィックは「ジャパン・オープン」で何度か日本を訪れたこともあり、1977年の大会で単複の決勝進出があった。ダブルスでは同じオーストラリアのジェフ・マスターズとペアを組んで優勝したが、シングルス決勝ではマニュエル・オランテスに敗れている。彼のテニス経歴を通じて、ダブルスでは1987年まで優勝記録があり、通算「26勝」を獲得した。“エドワーズの秘蔵っ子”からスタートしたウォーウィックは、1989年に37歳で現役を引退した。.

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キース・グレッドヒル

ース・グレッドヒル(Keith Gledhill, 1911年2月16日 - 1999年6月2日)は、アメリカ・カリフォルニア州サンタバーバラ出身の男子テニス選手。1933年の全豪選手権男子シングルス準優勝者。ダブルスではエルスワース・バインズと組み、1932年全米選手権と1933年全豪選手権の男子ダブルスで優勝した。.

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ギリェルモ・ビラス

リェルモ・ビラス(Guillermo Vilas, 1952年8月17日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれマル・デル・プラタ育ちの元男子プロテニス選手。当地が生んだ最大のテニス選手として、4大大会通算「4勝」を挙げた選手である。身長180cm、体重75kg、左利きの選手。シングルス自己最高ランキングは2位。ATPツアーでシングルス62勝、ダブルス16勝。 オープン化以降2人目となる通算900勝。またクレーコートで600勝以上挙げている。1977年にはグランドスラム2冠・46連勝・クレーコート53連勝・オープン化記録となるシーズン134勝を達成。 またオープン化以降初となる同一大会優勝8回を達成(ブエノスアイレス大会)。 長髪をバンダナで束ねた風貌でも強い印象を持ち、「パンパスの若き雄牛」(Young Bull of the Pampas)というニックネームで呼ばれた。 彼はジミー・コナーズと同い年であり、ビョルン・ボルグやジョン・マッケンローなども同世代のライバル選手だった。ビラスは彼らと並んで、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を刻んだ選手のひとりに数えられる。特にクレーコートに強く数多の記録を保持している。.

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ギリェルモ・カナス

リェルモ・イグナシオ・カナス(Guillermo Ignacio Cañas, 1977年11月25日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは8位(2005年6月)。ATPツアーでシングルス7勝、ダブルス2勝を挙げた。「カニャス」の表記も多く見られる。.

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ギリェルモ・ガルシア=ロペス

リェルモ・ガルシア=ロペス(Guillermo García-López, 1983年6月4日 - )は、スペイン・アルバセテ県ラ・ロダ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス5勝、ダブルス3勝を挙げている。身長188cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。自己最高ランキングはシングルス23位、ダブルス27位。 2016年全米オープン男子ダブルス準優勝。2010年上海マスターズベスト8。2014年モンテカルロ・マスターズベスト8。.

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ギリェルモ・コリア

リェルモ・セバスティアン・コリア(Guillermo Sebastián Coria, 1982年1月13日 - )は、アルゼンチン・ルフィーノ出身の元男子プロテニス選手。2004年の全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは3位。身長175cm、体重69kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーでシングルス9勝を挙げた(ダブルス優勝はない)。同国のライバル、ダビド・ナルバンディアンとは年齢も同じで、幼少時からしのぎを削ってきた。名前はアルゼンチンの男子テニス選手、ギリェルモ・ビラス(Guillermo Vilas)にあやかって「ギリェルモ」と命名された。.

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ギー・フォルジェ

ー・フォルジェ(Guy Forget, 1965年1月4日 - )は、フランスの元男子プロテニス選手。モロッコ・カサブランカ出身。左利きの選手。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス11勝、ダブルス28勝を挙げた。4大大会では、地元の全仏オープンで2度男子ダブルス準優勝がある。.

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ギド・ページャ

ド・ページャ(Guido Pella)はアルゼンチン・バイアブランカ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでの優勝はまだない(準優勝2回)。自己最高ランキングはシングルス39位、ダブルス119位。身長185cm。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。日本語では「ギド・ペリャ」「ギド・ペラ」の表記もある。.

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クラレンス・クラーク

ラレンス・クラーク(Clarence Clark, 1859年8月27日 - 1937年6月29日)は、アメリカ・ペンシルベニア州ジャーマンタウン出身の男子テニス選手。フルネームは Clarence Munroe Clark (クラレンス・マンロー・クラーク)という。1881年から始まった全米テニス選手権(現在の全米オープンテニス)で、第1回大会の男子ダブルス優勝者になり、翌1882年の第2回大会で男子シングルス準優勝者になった選手である。彼の家族は名門のテニス一家であり、2歳年下の弟ジョセフ・クラーク(1861年 - 1956年)も国際テニス殿堂入りした名選手だった。.

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クラレンス・グリフィン

ラレンス・グリフィン(Clarence Griffin, 1888年1月19日 - 1973年3月28日)は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の男子テニス選手。1910年代後半にダブルスの名手として活躍し、全米選手権の男子ダブルスで1915年・1916年・1920年に3度優勝した選手である。フルネームは Clarence James Griffin (クラレンス・ジェームズ・グリフィン)といい、“Peck”(ペック)という愛称で呼ばれた。著名なエンターテイナーのマーヴ・グリフィンのおじとしても知られる。右利きの選手。.

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クリスチャン・プレス

リスチャン・プレス(Kristian Pless, 1981年2月9日 - )は、デンマーク・オーデンセ出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス65位、ダブルス172位。サービスとフォアハンド・ストロークを最も得意にする選手。.

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クリス・ルイス

リス・ルイス(Chris Lewis, 1957年3月9日 - )は、ニュージーランド・オークランド出身の元男子プロテニス選手。1983年のウィンブルドン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは19位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス8勝を挙げた。身長180cm、体重70kg、右利き。.

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クルト・ニールセン

ルト・ニールセン(Kurt Nielsen, 1930年11月19日 - 2011年6月11日)は、デンマーク・コペンハーゲン出身の男子テニス選手。1953年と1955年の2度ウィンブルドン選手権の男子シングルス準優勝があり、1957年の全米選手権混合ダブルス部門でアリシア・ギブソンとペアを組んで優勝した。男子テニス国別対抗戦・デビスカップのデンマーク代表選手としても、1948年から1960年まで13年連続で出場し、デンマーク・チームの歴代1位記録「53勝43敗」(シングルス42勝23敗、ダブルス11勝20敗)をマークした選手である。.

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グランドスラム (テニス)

ランドスラム(Grand Slam)とは、国際テニス連盟が定めた4大大会を指す総称、またはそれら全てを制覇する事である。後者はコントラクトブリッジの用語で完全制覇を意味する語に由来する。.

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グリゴール・ディミトロフ

リゴール・ディミトロフ(Grigor Dimitrov, Григор Димитров, 1991年5月16日 - )は、ブルガリア・ハスコヴォ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス8勝を挙げる。2017年ATPファイナルズ優勝者。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス66位。身長190cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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グレン・ミチバタ

レン・ミチバタ(Glenn Michibata, 1962年7月13日 - )は、カナダオンタリオ州トロント出身の元男子プロテニス選手。身長175cm、体重73kg。右利き。ATPランキング自己最高位はシングルス48位、ダブルス5位。ATPツアー通算でダブルス4勝を挙げた。日系カナダ人で、日本名を「道端」という。特にダブルスで成功を収め、同じカナダ選手のグラント・コネルと共に出場した1990年全豪オープン男子ダブルス部門で準優勝した人物である。.

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グレグ・ルーゼドスキー

レゴリー・"グレグ"・ルーゼドスキー(Gregory "Greg" Rusedski、1973年9月6日 - )は、イギリスの男子プロテニス選手。1997年全米オープン男子シングルス準優勝者。ATPランキング自己最高位はシングルス4位、ダブルス63位。ATPツアーでシングルス15勝、ダブルス3勝を挙げた。身長193cm、体重90kg。バックハンド・ストロークは片手打ち。カナダ・ケベック州モントリオール出身であり当初はカナダ国籍でツアーに登録していたが、1995年5月にイギリス国籍を取得し、その後はイギリス国籍でツアーを回った選手である。現在はロンドン市内に在住している。左利きのビッグ・サーバーで、サーブの速度では世界最速を競う選手のひとりであった。日本語メディアでは「グレッグ・ルゼドスキー」「グレグ・ルゼドスキー」「グレッグ・ルーゼドスキー」等の表記揺れも見られる。.

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グザビエ・マリス

ビエ・マリス(Xavier Malisse, 1980年7月19日 - )は、ベルギー・コルトレイク出身の男子プロテニス選手。同僚のオリビエ・ロクスとペアを組み、2004年全仏オープン男子ダブルス部門で優勝した。シングルスでも2002年ウィンブルドン選手権でベスト4に入り、ベルギー人の男子テニス選手として最高成績を出した選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス25位。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス9勝を挙げた。身長185cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。“Xavier”という名前からついた“X-Man”(エックスマン)というニックネームがある。.

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グスタボ・クエルテン

タボ・クエルテン(Gustavo Kuerten, 1976年9月10日 - )は、ブラジル・サンタカタリーナ州フロリアノーポリス出身の男子プロテニス選手。1997年・2000年、2001年の3度、全仏オープン男子シングルスで優勝した。ATPツアーシングルス20勝、ダブルス8勝を挙げた。身長190cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。「グーガ」(Guga)という愛称で呼ばれている。 全仏オープンで3度の優勝、2000年テニス・マスターズ・カップ優勝、ATPマスターズシリーズで5度の優勝と5度の準優勝を挙げるなどブラジル人テニス選手として歴代トップの成績を残した。.

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ケネス・カールセン

ネス・カールセン(Kenneth Carlsen, 1973年4月17日 - )は、デンマーク・コペンハーゲン出身の男子プロテニス選手。彼はATPツアーでシングルス3勝を挙げたが、その中には2002年ジャパン・オープン・テニス選手権男子シングルス優勝もある。自己最高ランキングはシングルス41位、ダブルス134位。左利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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ケン・マグレガー

ン・マグレガー(Ken McGregor, 1929年6月2日 - 2007年12月1日)は、オーストラリア・アデレード出身の男子テニス選手。フルネームは Kenneth Bruce McGregor (ケネス・ブルース・マグレガー)という。1950年代初頭にオーストラリア・テニス界の黄金時代の最初期を築いた選手のひとりで、1951年に2歳年上のフランク・セッジマンとペアを組み、テニス史上初の男子ダブルス部門「年間グランドスラム」を達成した。男子シングルスでは1952年の全豪選手権で優勝したが、1950年・1951年の全豪選手権と1951年のウィンブルドン選手権で準優勝に終わった。彼はもともとオーストラリアン・フットボールの選手で、そこからテニスに転向した人であり、長身から繰り出す攻撃的なサーブ・アンド・ボレーを最大の武器にした。右利きの選手。.

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ケン・ローズウォール

ン・ローズウォール(Ken Rosewall, 1934年11月2日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。フルネームは Kenneth Robert Rosewall (ケネス・ロバート・ローズウォール)という。小柄で軽量な体躯から皮肉を込めて“Muscles”(筋肉男)というニックネームで呼ばれたが、素早い攻撃やボレーを武器として強豪たちと渡り合った。グランドスラム優勝8回は歴代9位タイ記録。プロスラム優勝15回は歴代1位記録。グランドスラム・プロスラム合計優勝23回も歴代1位記録である。.

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ケン・フラック

ン・フラック(Ken Flach, 1963年5月24日 - 2018年3月12日)は、アメリカ・ミズーリ州セントルイス出身の男子プロテニス選手。フルネームは Kenneth Eliot Flach (ケネス・エリオット・フラック)という。主に1980年代後半にかけて、アメリカを代表するダブルスのスペシャリストとして活動し、とりわけ同じ年のロバート・セグソとのコンビで多くの好成績を出した。1988年のソウル五輪でオリンピックテニス競技が復活した時の、最初の男子ダブルス金メダル獲得もある。フラックには1986年の全仏オープンとウィンブルドンで混合ダブルス2連勝もあった。自己最高ランキングはシングルス56位、ダブルス1位。.

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ケン・フレッチャー

ン・フレッチャー(Ken Fletcher, 1940年6月15日 - 2006年2月11日)は、オーストラリア・クイーンズランド州ブリスベン出身の男子テニス選手。1960年代に最盛期を迎えていたオーストラリア・テニス界にあって、ダブルスの名手として活躍し、1963年に混合ダブルスの「年間グランドスラム」を達成した。シングルスでは、1963年の全豪選手権準優勝者である。フルネームは Kenneth Norman Fletcher (ケネス・ノーマン・フレッチャー)という。.

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ケビン・アンダーソン

ビン・アンダーソン(Kevin Anderson, 1986年5月18日 - )は、南アフリカ・ヨハネスブルグ出身の男子プロテニス選手。2017年の全米オープン男子シングルス準優勝者。これまでにATPツアーでシングルス4勝、ダブルス1勝を挙げている。身長203cm、体重89kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス7位、ダブルス58位。.

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ケビン・ウリエット

ビン・ロバート・ウリエット(Kevin Robert Ullyett, 1972年5月23日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の男子プロテニス選手。ジンバブエの有名なテニス一家「ブラック家」の3人兄弟 (バイロン・ブラック、ウェイン・ブラック、カーラ・ブラック) と並んで、当地を代表するテニス選手の1人として活動してきた。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで34勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス107位、ダブルス4位。身長177cm、体重77kg、右利き。.

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ケビン・カレン

ビン・カレン(Kevin Curren, 1958年3月2日 - )は、南アフリカ・ダーバン出身の男子プロテニス選手。1984年の全豪オープンと1985年のウィンブルドンで、4大大会男子シングルスに2度の準優勝がある。ダブルスでは、1982年の全米オープン男子ダブルスでスティーブ・デントン(アメリカ)と組んで優勝し、混合ダブルスではアン・スミス(アメリカ)とのペアで3勝を獲得した。自己最高ランキングはシングルス5位、ダブルス3位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス26勝を挙げた。身長185cm、体重77kg、右利き。.

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コリン・グレゴリー

ョン・コリン・グレゴリー(John Colin Gregory, 1903年7月28日 - 1959年9月10日)は、イングランド・ヨークシャー州ベバリー出身の男子テニス選手。1929年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、同年のウィンブルドン選手権男子ダブルス準優勝もあった。彼は医師であったことから、テニス文献でも Dr.

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ゴラン・イワニセビッチ

ラン・シムン・イワニセビッチ(Goran Šimun Ivanišević,, 1971年9月13日 - )は、クロアチア・スプリト出身の男子プロテニス選手、テニス指導者。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス20位。ATPツアーシングルス22勝、ダブルス9勝。姓の原音により近い表記はイヴァニシェヴィッチであるが、報道等ではイワニセビッチが一般的である。 2001年ウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者。また3度の準優勝がある。ATPマスターズシリーズ優勝3回。.

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ゴードン・ロウ

ー・フランシス・ゴードン・ロウ(Sir Francis Gordon Lowe, 1884年6月21日 - 1972年5月17日)は、イングランド・バーミンガム市出身の男子テニス選手。1915年の全豪選手権男子シングルス優勝者である。彼は2歳年下の弟、アーサー・ロウ(1886年 - 1958年)とともに「ロウ兄弟」の兄弟テニス選手として活動し、兄弟ペアで1921年のウィンブルドン選手権男子ダブルス準優勝も記録した。右利きの選手。 彼のフルネームが「フランシス・ゴードン・ロウ」であることから、テニス文献や優勝記録表では「ゴードン・ロウ」(Gordon Lowe)と「フランシス・ロウ」(Francis Lowe)が混在していることが多いが、これは同一人物を指している。ダブルス・パートナーでもあった弟のアーサー・ホールデン・ロウとは区別が必要になる。ビル・チルデンの著書『ローンテニスの芸術』によれば、フランシス・ゴードンとアーサー・ホールデンは「ロウ兄弟」(the Lowes)として広く知られていた。チルデンの説明によれば、2人ともオーソドックスなテニススタイルで、優れたベースライン・プレーヤーであるが「ボレーが防御的で、積極性に欠ける」と評された。.

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ゴットフリート・フォン・クラム

ットフリート・フォン・クラム(Gottfried von Cramm, 1909年7月7日 - 1976年11月9日)は、ドイツ・ハノーファー出身の男子テニス選手。ドイツが生んだ戦前最大の男子選手であり、1930年代の男子テニス界に君臨した名選手のひとりである。1934年と1936年の全仏選手権で2勝を挙げたが、ウィンブルドン選手権では1935年から1937年まで3年連続の準優勝に終わった。ドイツの“男爵”(The Baron)と呼ばれたフォン・クラムは、身長183cmの長身と、金髪に青緑色の目をした高貴な顔立ちで貴族的な雰囲気を漂わせていた。.

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シモーネ・ボレッリ

モーネ・ボレッリ(, 1985年10月8日 - )は、イタリア・ボローニャ出身の男子プロテニス選手。ATPランキング自己最高位はシングルス36位、ダブルス8位。これまでにATPツアーでシングルスでの優勝はまだないが、ダブルスで5勝を挙げている。身長183cm。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。 2015年全豪オープン男子ダブルス優勝者であり、オープン化以降グランドスラム男子初となるイタリア人ペアでの優勝者。.

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シュラガ・ワインバーグ

ュラガ・ワインバーグ(Shraga Weinberg、שרגא ויינברג、1966年3月25日 -)は、イスラエルの車いすテニス選手。職業は会計士。生まれた時より上半身に麻痺があり、また骨密度も低く若いころから多くの手術を経験した。 レクリエーションとリハビリテーションのために、20歳のときにイスラエル障害者スポーツセンターで車いすテニスを始め、2001年にはクァードシングルス、2003年にはクァードダブルスのカテゴリでそれぞれ世界ランキング1位となった。 2004年のアテネパラリンピックにはシングルスに出場したが、準々決勝で敗れメダルに手は届かなかった。2008年の北京パラリンピックではクァードのシングルスとダブルスに出場、ダブルスでボアズ・クレーメルと共に勝ち進んだ決勝で、アメリカのニコラス・テイラーとデビッド・ワグナーのペアと対戦、銀メダルを獲得した。.

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シュロモ・グリックステイン

ュロモ・グリックステイン(שלמה גליקשטיין, Shlomo Glickstein, 1958年1月6日 - )は、イスラエル・アシュケロン出身の元男子プロテニス選手。1985年の全仏オープン男子ダブルス準優勝者で、当地のテニス選手として史上初の4大大会決勝進出者になった人である。彼はイスラエルにおけるテニスの先駆者として、主に1970年代後半から1980年代にかけて活動した。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス28位で、単複ともに世界トップ30に入った最初のイスラエル人男子選手になる。ATPツアーではシングルス2勝を挙げ、当地の男子選手として最初のツアータイトルを獲得した。ダブルスの優勝はないが、1985年全仏オープンを含めて7度の準優勝があった。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでも1976年-1987年の12年連続で出場し、通算勝利数を含む4部門でチーム歴代1位記録を保持している。 グリックステインの父親は「イスラエル・テニス協会」の青少年育成委員長で、息子のシュロモは10歳からテニスを始めた。シュロモは12歳でイスラエルのナショナル・コーチに才能を認められ、16歳の時にバスケットボールとサッカーを断念してテニスに専念する決心をした。イスラエルでは、18歳から21歳までの3年間イスラエル国防軍への兵役義務がある。この年齢は競技生活を軌道に乗せるための重要な時期と重なるため、当地のスポーツ選手が他国の同年代選手に遅れを取る障壁になるケースが多い。グリックステインは国防軍に入隊した1976年、18歳でデビスカップのイスラエル代表選手に初選出された。彼が代表入りした頃、イスラエル・チームは「ヨーロッパ・ゾーン」の予選よりもさらに下の位置に落ちていたが、彼の加入によりヨーロッパ・ゾーンに定着できるようになった。1978年に父親のモーシェが死去した時、シュロモはコーチに「父の名前に栄誉をもたらすプレーをしたい」と宣言し、プロテニス選手生活に入る決断を下した。 1980年1月、グリックステインはオーストラリア・ホバート大会の決勝戦でロバート・ファントフ(アメリカ、後にリンゼイ・ダベンポートのコーチになった人)を 7-6, 6-4 で破り、イスラエル人選手として最初の男子ツアータイトルを獲得した。半年後のウィンブルドンで、グリックステインは1回戦でラウル・ラミレス(メキシコ)を 4-6, 6-2, 3-6, 7-5, 8-6 で破る勝利を挙げ、最初の国際的な成功を収めた。ラミレスは元世界ランキング4位の実力者だが、この時は世界35位に後退していた。続く2回戦では大会5連覇を目指したビョルン・ボルグに 3-6, 1-6, 5-7 のストレートで敗れた。この2試合の様子を、イスラエルのジャーナリストは彼と同じアシュケロンで育った旧約聖書中の登場人物サムソン(最も力のあった人物)になぞらえたという。1981年の全豪オープンにおいて、グリックステインはイスラエル男子選手として史上初のベスト8進出を決めた。当時の全豪オープンは年末の12月開催で、男子シングルスは64名の選手による6回戦制で行われていた。この準々決勝ではスティーブ・デントン(アメリカ)に 4-6, 6-3, 6-7, 0-6 で敗退する。1982年11月8日付で、彼はシングルス自己最高ランキング「22位」をマークし、当地の選手として史上初の世界トップ30入りを果たした。 1985年の全仏オープン男子ダブルスで、シュロモ・グリックステインはイスラエルのテニス選手として最初の4大大会決勝進出者になった。パートナーはスウェーデンのハンス・シモンソンと組み、準々決勝でアメリカペアのケン・フラック&ロバート・セグソ組、準決勝でスウェーデンペアのステファン・エドベリ&アンダース・ヤリード組といった強豪を連破して勝ち進んだ。決勝戦ではオーストラリアのベテランペア、マーク・エドモンドソン&キム・ウォーウィック組に 3-6, 4-6, 7-6, 3-6 で敗れ、イスラエル男子初の4大大会優勝はならなかった。 グリックステインはデビスカップのイスラエル代表選手を務めた12年間、チームのレベルを引き上げる点で絶大な貢献をした。彼が代表入りした1976年には「ヨーロッパ・ゾーン」下部予選にいたイスラエルは、1981年からヨーロッパ・ゾーンに定着できるようになる。1981年から1983年まではヨーロッパ・ゾーン準決勝で止まったが、1984年にはヨーロッパ・ゾーン決勝へ初進出した。そしてついに、1986年のヨーロッパ・ゾーン決勝でイスラエルはスイスを「4勝1敗」で破り、1987年に世界最上位の「ワールドグループ」初進出を決めた。グリックステインは代表最後の試合として、ワールドグループ準々決勝の対インド戦を戦い、ラメシュ・クリシュナン、ビジャイ・アムリトラジ、アナンド・アムリトラジとの試合をこなした。12年間の代表経歴を通じて、彼は通算勝利数(44勝22敗)・シングルス勝利数(31勝13敗)・ダブルス勝利数(13勝9敗)・最多試合出場数(24)の4部門でチーム歴代1位になった。1989年から1999年までの10年間、彼はデビスカップのイスラエル・チーム代表監督を務めた。 シュロモ・グリックステインは1987年を最後に男子ツアーのシングルス戦から撤退し、1988年から1990年まで断続的にダブルス戦出場があった。引退後は1992年から1996年まで「イスラエル・テニスアカデミー」の会長を務めるなど、後進の育成に携わっている。.

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シリル・スーク

リル・スーク3世(Cyril Suk III, 1967年1月29日 - )は、チェコスロバキア (現チェコ)・プラハ出身の男子プロテニス選手。長年にわたり、ダブルスのスペシャリストとして活動してきた。彼の家族は名門のテニス一家で、母親は1962年ウィンブルドン選手権女子シングルス準優勝者ベラ・スコバであり、姉は4大大会女子シングルスで4度準優勝したヘレナ・スコバである。父親のシリル・スーク2世は長年チェコスロバキア・テニス連盟の会長を務めた人で、シリル2世とベラの間の1人息子にも同じ名前をつけた。.

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シーモン・アスペリン

ーモン・ウーロフ・カール・アスペリン(Simon Olof Karl Aspelin, 1974年5月11日 - )は、スウェーデン・出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして活動し、2007年全米オープン男子ダブルスでユリアン・ノールとペアを組んで優勝。2008年北京五輪男子ダブルスでトーマス・ヨハンソンと組んで銀メダル獲得。彼は普段からダブルスのみに活動を絞り、4大大会の男子シングルスには1度も出場がない。ATPツアーで2007年全米オープンを含むダブルス12勝を挙げた。ダブルスの自己最高ランキングは7位。身長185cm、体重80kg、右利き。日本語では「サイモン・アスペリン」の表記も多く見られる。.

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シドニー・ウッド

ドニー・ウッド(Sidney Wood, 1911年11月1日 - 2009年1月10日)は、アメリカ・コネティカット州ブラックロック出身の男子テニス選手。.

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シドニー・スミス (テニス選手)

ドニー・スミス(Sydney Smith, 1872年2月3日 - 1947年3月27日)は、イングランド・グロスターシャー州ストラウド出身の男子テニス選手。フルネームは Sydney Howard Smith (シドニー・ハワード・スミス)という。文献では Sidney Smith の綴り表記揺れも見られる。1890年代後半から1900年代のウィンブルドン選手権で活躍し、1902年と1906年の男子ダブルスでフランク・ライスリー(1877年 - 1959年)とペアを組んで優勝した。同選手権のシングルスでは、1900年に準優勝がある。彼は優れたバドミントン選手でもあり、1900年の「全英バドミントン選手権」男子シングルス優勝もあった。 シドニー・スミスは1897年から1906年にかけて、ウェールズのテニス・チャンピオンであった。1902年から1906年にかけて、スミスとフランク・ライスリーのペアは、レジナルドとローレンスの「ドハティー兄弟」組と5年連続の決勝対決を行った。スミスは1905年と1906年のデビスカップイギリス代表の一員でもあった。.

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ジミー・コナーズ

ミー・コナーズ(Jimmy Connors, 1952年9月2日 - )は、アメリカ・イリノイ州ベルビル出身の元男子プロテニス選手。フルネームは James Scott Connors (ジェームズ・スコット・コナーズ)という。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(U.C.L.A.)出身。 ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドルらと並び、男子テニスの歴史を通じて最も輝かしい黄金時代を築いた名選手のひとりである。コナーズは1970年代の男子テニス界に長らく王者として君臨した。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会通算8勝は、フレッド・ペリー、ケン・ローズウォール、イワン・レンドル、アンドレ・アガシと並ぶ男子テニス歴代8位タイ記録。 ATPツアーのシングルスではいずれも男子歴代1位のツアー109勝、シングルス1243勝などの大記録を持つ。世界ランキング1位連続保持記録「160週」は歴代2位(当時歴代1位、2007年2月26日にロジャー・フェデラーがコナーズの記録を更新し、2008年8月17日まで「237週」を記録)。また世界ランキング1位通算在位記録「268週」は当時歴代最長で、現在でもフェデラー(302週)、サンプラス(286週)、レンドル(270週)に次ぐ歴代4位である。 闘志溢れるプレーで高い人気を集め、観客を自分の味方につける術にも優れた選手だった。.

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ジム・クーリエ

ェームズ・スペンサー・"ジム"・クーリエ(James Spencer Courier, 1970年8月17日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州サンフォード出身の男子プロテニス選手。1990年代初頭に活躍し、全豪オープンと全仏オープンでそれぞれ大会2連覇を達成した。1991年~1993年中旬の短い期間であったが、最強プレイヤーのひとりとして活躍した名選手である。 アメリカの同世代の男子選手にはアンドレ・アガシ、ピート・サンプラス、マイケル・チャンなどがいて、特にアガシとは少年時代からのライバルだった。ATPツアーでシングルス23勝、ダブルス6勝を挙げる。身長185cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ジャン・ボロトラ

ャン・ボロトラ(Jean Borotra, 1898年8月13日 - 1994年7月17日)は、フランスの男子テニス選手。ビアリッツ出身。同僚のフランス人選手ジャック・ブルニョン(1895年 - 1978年)、アンリ・コシェ(1901年 - 1987年)、ルネ・ラコステ(1904年 - 1996年)と並んで、フランスの「四銃士」(Les Quatre Mousquetaires)と呼ばれた。「四銃士」という呼び名は、アレクサンドル・デュマ・ペールの有名な小説『三銃士』(Les Trois Mousquetaires)にちなんでつけられたものである。ボロトラは当時のフランス人男性として、洗練された礼儀正しさの持ち主として人間的な評判も良かったという。.

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ジャン=ルネ・リスナール

ャン=ルネ・レモン・リスナール(Jean-René Raymond Lisnard, 1979年9月25日 - )は、フランス・カンヌ出身の男子プロテニス選手ランキング自己最高位はシングルス84位、ダブルス171位。現時点では、ATPツアーでシングルス・ダブルスともに決勝進出はない。身長173cm、体重68kg。右利き。元々はフランス国籍の選手として活動していたがプロ転向後はモナコに国籍を移している選手である。.

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ジャン=ジュリアン・ロジェ

ャン=ジュリアン・ロジェ(Jean-Julien Rojer, 1981年8月25日 - )は、キュラソー島ウィレムスタット出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでダブルス23勝を挙げている。身長185cm、体重82kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはダブルス3位。 2014年全仏オープン混合ダブルスでアンナ=レナ・グローネフェルトとのペアで優勝。2015年ウィンブルドン選手権男子ダブルスでホリア・テカウとのペアで優勝。.

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ジャック・ブルニョン

ャック・ブルニョン(Jacques Brugnon, 1895年5月11日 - 1978年3月20日)は、フランス・パリ出身の男子テニス選手である。同僚のフランス人選手ジャン・ボロトラ(1898年 - 1994年)、アンリ・コシェ(1901年 - 1987年)、ルネ・ラコステ(1904年 - 1996年)と並んで、フランスの「四銃士」(Les Quatre Mousquetaires)と呼ばれた。「四銃士」という呼び名は、アレクサンドル・デュマ・ペールの有名な小説『三銃士』(Les Trois Mousquetaires)にちなんでつけられたものである。ブルニョンは「四銃士」の4人の中でも最年長の選手で、“Toto”(トト)という愛称で呼ばれた。.

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ジャック・クレーマー

ャック・クレーマー(Jack Kramer, 1921年8月1日 - 2009年9月12日)は、アメリカ合衆国・ネバダ州ラスベガス出身の男子テニス選手である。本名はジョン・アルバート・クレーマー(英語:John Albert Keamer)といい、“Jake”(ジェイク)という愛称で親しまれた。第2次世界大戦をまたぐ激動期にアマチュアテニス選手として活動し、現在でいう四大国際大会の男子シングルス部門で3回・男子ダブルス部門で6回・混合ダブルス部門で1回の優勝を挙げる活躍を魅せた。後に1947年にプロテニス選手に転向。 彼はサーブを打って素早くネット際に詰める「サーブ・アンド・ボレー」を貫き、相手のサーブに対するリターンの後も素早くネット際に詰めて攻撃をする「チップ・アンド・チャージ」を仕掛ける程、ネットプレーを好んだ。配球に様々な工夫を凝らし、常に頭を使って相手を支配するスタイルであった自身のテニスについて、彼は著書に「確率」「パーセンテージ」などの語を多用しており、現在では「確率のテニス」の源流を作った第一人者として彼の名が挙がる。 また、選手としてだけに留まらず、彼の活動は多岐に渡る。1968年にテニス界のオープン化処置に関わり、後にプロテニスツアーの興行会長(プロモーター)となって1972年に発足した男子プロテニス協会(通称:ATP)の初代責任者に就任するなど、プロテニスの運営活動で顕著な業績を残しており、テレビ解説者としての活動も幅広い分野を手がけてきたテニス史における重要人物として欠く事の出来ない存在である。.

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ジャック・クロフォード

ャック・クロフォード(Jack Crawford, 1908年3月22日 - 1991年9月10日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身の男子テニス選手。フルネームは John Herbert Crawford (ジョン・ハーバート・クロフォード)というが、「ジャック・クロフォード」という呼び名で最もよく知られている。1930年代前半にオーストラリア・テニス界の第一人者として活躍した選手で、1933年に世界ランキング1位になった。紳士的な言動から“Gentleman Jack”(ジェントルマン・ジャック、「紳士のジャック」)と呼ばれた。 1933年に史上初のグランドスラム3冠を達成。グランドスラム優勝6回。グランドスラム7大会連続決勝進出記録を持ち2007年にロジャー・フェデラーに破られるまで74年間最長記録だった。.

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ジャック・ソック

ャック・ソック(Jack Sock, 1992年9月24日 - )は、アメリカ合衆国ネブラスカ州リンカーン出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス4勝、ダブルス8勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス8位、ダブルス6位。身長191cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2011年全米オープン混合ダブルス、2014年ウィンブルドン選手権男子ダブルスの優勝者。リオデジャネイロ五輪混合ダブルス金メダリスト、男子ダブルス銅メダリスト。.

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ジュリアン・ベネトー

ュリアン・ベネトー(Julien Benneteau, 1981年12月20日 - )は、フランス・ブール=カン=ブレス出身の男子プロテニス選手。2014年全仏オープン男子ダブルスでエドゥアール・ロジェ=バセランとペアを組んで優勝した。2012年のロンドン五輪男子ダブルスでも、リシャール・ガスケとペアを組んで銅メダルを獲得している。これまでにATPツアーでシングルスの優勝はないが(準優勝10回)ダブルスで11勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス5位。身長185cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ジョナサン・エルリック

ョナサン・ダリオ・エルリック(ヘブライ語:יונתן דאריו ארליך, Jonathan Dario Erlich, 1977年4月5日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身のイスラエルの男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとしてよく知られ、2008年全豪オープン男子ダブルスで同じイスラエルのアンディ・ラムとペアを組んで優勝した。彼は普段からシングルスにはほとんど出場せず、ダブルスのみに活動を絞っている。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで2008年全豪オープンを含む18勝を挙げている。ATP自己最高ランキングはシングルス292位、ダブルス5位。身長180cm、体重78kg、右利き。.

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ジョン・ミルマン

ョン・H・ミルマン(John H. Millman, 1989年6月14日 - )は、オーストラリア・ブリスベン出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでの優勝はない。身長183cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。自己最高ランキングはシングルス58位、ダブルス165位。.

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ジョン・マークス

ョン・マークス(John Marks, 1952年12月9日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の元男子プロテニス選手。1978年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは63位。ATPツアーでシングルス優勝はなかったが、ダブルスで7勝を挙げ、マーク・エドモンドソン(1976年全豪オープン優勝者)と組んで多くの好成績を出した。.

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ジョン・マッケンロー

ョン・マッケンロー(John McEnroe, 1959年2月16日 - )は、アメリカの男子プロテニス選手。左利き。身長180cm、体重75kg。ATPツアーでシングルス77勝、ダブルス71勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。 グランドスラムではシングルス優勝7回・ダブルス優勝9回・混合ダブルス優勝1回の計17回の優勝を飾った。ダブルスでは旧友ピーター・フレミングと組んで57個(うち4大大会7勝/同一ペアの優勝記録としては歴代2位)のタイトルを獲得した。 他にも年間最終戦優勝3回、最多タイトル獲得記録(シングルス・ダブルス合計)、シングルス通算世界1位在位記録歴代5位・ダブルス通算世界1位在位記録歴代3位など数々の記録を保持する。 父親の軍務地であったドイツ・ヴィースバーデンで生まれる。父親は著名な弁護士で、弟のパトリック・マッケンローもプロテニス選手。元妻は女優のテータム・オニール。現在の妻はロックシンガーのパティ・スマイス。 マッケンローは試合中に審判の判定に納得しない場合は、判定にクレームをつけたり、審判に暴言を発する言動が頻繁にあったことから“悪童マッケンロー”と呼ばれた。.

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ジョン・ハートリー

ョン・ハートリー(John Hartley, 1849年1月9日 - 1935年8月21日)は、イングランド・シュロップシャー郡出身の男子テニス選手。フルネームは John Thorneycroft Hartley (ジョン・ソーニークロフト・ハートリー)という。彼は教会の聖職者であったことから、テニス文献にも Rev.

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ジョン・バン・リン

ョン・バン・リン(John Van Ryn, 1905年6月30日 - 1999年8月7日)は、アメリカ・バージニア州ニューポートニューズ出身の男子テニス選手。フルネームは John William Van Ryn Jr. (ジョン・ウィリアム・バン・リン・ジュニア)という。1920年代から1930年代にかけて、アメリカを代表するダブルスのスペシャリストとして活躍した選手である。彼はウィルマー・アリソンやジョージ・ロットと組んで多くの好成績を出し、とりわけアリソンとは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手として、チームの歴史に残る記録を残した。彼は1930年に、同じくダブルスの名選手であったマージョリー・グラッドマンと結婚した。.

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ジョン・ロイド

ョン・ロイド(John Lloyd, 1954年8月27日 - )は、イギリス・エセックス州リー・オン・シー出身の元男子プロテニス選手。クリス・エバートの元夫として有名な選手であるが、1977年12月の全豪オープン男子シングルス準優勝者でもある。ロイドは混合ダブルスに強く、オーストラリアのウェンディ・ターンブルとペアを組んで4大大会の混合ダブルス部門に3勝を挙げた。ATPツアーではシングルス1勝、ダブルス2勝止まりに終わっている。シングルス自己最高ランキングは21位。身長177cm、体重75kg、右利き。.

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ジョン・ブロムウィッチ

ョン・ブロムウィッチ(John Bromwich, 1918年11月14日 - 1999年10月21日)は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州コガラー出身の男子テニス選手。フルネームは John Edward Bromwich (ジョン・エドワード・ブロムウィッチ)という。第2次世界大戦の戦前と戦後の両方の時代をまたいで、4大大会タイトルを獲得した選手として知られる。1939年と1946年に全豪選手権の男子シングルスで2勝を挙げたが、ダブルスで優れた技量を発揮し、とりわけ5歳年上のエイドリアン・クイストと組んで全豪選手権の男子ダブルス部門に「8連覇」を達成した。.

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ジョン・ピアース

ョン・ピアース(John Peers, 1988年7月25日 - )は、オーストラリアの男子プロテニス選手。メルボルン出身で同地に在住。ダブルスで12勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス456位、ダブルス2位。身長188cm、体重84kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。2016年ATPワールドツアー・ファイナル男子ダブルス、2017年全豪オープン男子ダブルス優勝。.

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ジョン・ピウス・ボーランド

ョン・ピウス・ボーランド(John Pius Boland, 1870年9月16日 - 1958年3月17日)は、アイルランド・ダブリン出身の男子テニス選手。1896年にギリシャ・アテネで実施された第1回近代オリンピックのテニス競技で、男子シングルス・男子ダブルスともに最初の金メダルを獲得した選手である。彼はその後、アイルランド国民党の政治家として活動した。.

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ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)

ョン・フィッツジェラルド(John Fitzgerald, 1960年12月28日 - )は、オーストラリア・南オーストラリア州カミンズ出身の元男子プロテニス選手。1980年代から1990年代前半にかけて、オーストラリアを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス7勝、混合ダブルス2勝を挙げた。フィッツジェラルドは、男子ダブルスでキャリア・グランドスラム(すべての4大大会で優勝すること)を達成した数少ない選手のひとりである。自己最高ランキングはシングルス25位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス6勝、ダブルス30勝を挙げた。.

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ジョン・ドエグ

ョン・ドエグ(John Doeg, 1908年12月7日 - 1978年4月27日)は、アメリカの男子テニス選手。メキシコ・ソノラ州グアイマスに生まれる。1930年の全米選手権男子シングルス優勝者で、同選手権の男子ダブルスでも1929年・1930年に2連覇を達成した。左利きの選手で、全米選手権の男子シングルスを通じて4人目の左利き優勝者になった。彼のテニスは、身長185cm・体重77kgの体格を生かし、強烈な勢いのあるサーブ・アンド・ボレーで素速くネットに詰めるスタイルを得意にした。フルネームは John Thomas Godfray Hope Doeg (ジョン・トーマス・ゴッドフレー・ホープ・ドエグ)という。.

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ジョン・ニューカム

ョン・ニューカム(John Newcombe, 1944年5月23日 - )は、オーストラリア・シドニー出身の男子テニス選手。1960年代から1970年代前半にかけて、オーストラリア・テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。フルネームは John David Newcombe (ジョン・デビッド・ニューカム)という。重いサービスとフォアハンド・ストローク、ボレーを中心に組み立てるプレー・スタイルで、芝生のウィンブルドン選手権を最も得意にした。4大大会でシングルス通算「7勝」(全豪オープン2勝、ウィンブルドン3勝、全米オープン2勝)を挙げたが、赤土のクレーコートが苦手で、全仏オープンではどうしても優勝できなかった選手の1人である。.

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ジョン・ホークス (テニス選手)

ョン・ホークス(John Hawkes, 1899年6月7日 - 1990年3月31日)は、オーストラリア・ビクトリア州ジーロング出身の男子テニス選手。フルネームは John Bailey Hawkes (ジョン・ベイリー・ホークス)という。テニス文献では「ジャック・ホークス」(Jack Hawkes)と記載されることもある。1926年の全豪選手権男子シングルス優勝者で、同選手権で1922年・1926年・1927年の3度にわたり、男子ダブルス・混合ダブルスの2冠を獲得した。全米選手権の混合ダブルスでも1925年・1928年に2度の優勝がある。左利きの選手で、対戦相手にとって予測しづらいツイスト・サーブとボレーを持ち味にした。.

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ジョン・アレクサンダー (テニス選手)

ョン・ギルバート・アレクサンダー(John Gilbert Alexander, 1951年7月4日 - )はオーストラリア・シドニー出身の元男子プロテニス選手。主に1970年代に活動し、4大大会男子ダブルスで2度の優勝と4度の準優勝を挙げた。ATPでシングルス7勝、ダブルス27勝を挙げる。ATPランキング自己最高位はシングルス8位、ダブルス15位。ダブルス優勝の多くは同郷のフィル・デントと組んで獲得した物である。.

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ジョン・イスナー

ョン・ロバート・イスナー(John Robert Isner, 1985年4月26日 - )は、アメリカ・ノースカロライナ州グリーンズボロ出身の男子プロテニス選手。ジョージア大学卒業。身長208cm、体重108kgの巨体から繰り出す高速サーブを最大の武器にする選手。これまでにATPツアーでシングルス13勝、ダブルス5勝。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス26位。日本語の資料によっては「ジョン・アイズナー」の表記も見られる。 マスターズ1000ではシングルス優勝1回、ダブルス優勝3回。2016年シーズン終了時点で歴代6位となる8601本のサービスエースを決めており、また毎年エース数・サービスゲーム獲得率・ファーストサービスポイント率などで上位にランクインする。.

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ジョン・サドリ

ョン・サドリ(John Sadri, 1956年9月19日 - )は、アメリカ・ノースカロライナ州シャーロット出身の元男子プロテニス選手。1979年の全豪オープン男子シングルス準優勝者。全豪オープンでは1981年と1982年の2年連続で、男子ダブルス準優勝もある。自己最高ランキングはシングルス14位、ダブルス29位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス3勝を挙げた。.

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ジョー・ハント

ョー・ハント(Joe Hunt, 1919年2月17日 - 1945年2月2日)は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の男子テニス選手。本名は Joseph Raphael Hunt (ジョセフ・ラファエル・ハント)といい、愛称の「ジョー・ハント」でよく知られている。第2次世界大戦の戦時中、1943年の全米選手権男子シングルス優勝者になったが、終戦直前の1945年2月2日にアメリカ海軍の軍役で戦死した。彼は身長183cm、体重75kgほどの大柄な体格で、強力なサービスとボレーを武器にした。.

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ジョージ・ロット

ョージ・ロット(George Lott, 1906年10月16日 - 1991年12月2日)は、アメリカ・イリノイ州スプリングフィールド出身の男子テニス選手。1920年代後半から1930年代前半にかけて、アメリカを代表するダブルスの名手として活躍し、4大大会で男子ダブルス8勝、混合ダブルス4勝を挙げた選手である。シングルスでは1931年の全米選手権で準優勝した。彼は優れたダブルス選手として、いろいろな選手たちと組んでタイトルを獲得し、「ロットと組めば、どんなパートナーでも上手に見える」と言われるほどであった。右利きの選手で、体格は身長183cm、体重73kgほどであった。フルネームは George Martin Lott Jr. (ジョージ・マーティン・ロット・ジュニア)という。.

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ジョー=ウィルフリード・ツォンガ

ョー=ウィルフリード・ツォンガ(Jo-Wilfried Tsonga, 1985年4月17日 - )は、フランス・ル・マン出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス16勝、ダブルス4勝を挙げている。自己最高位ランキングはシングルス5位、ダブルス33位。身長188cm、体重91kg。右利き、。 2008年全豪オープン男子シングルス準優勝、2011年ATPワールドツアー・ファイナル準優勝、マスターズ1000優勝2回。 ツォンガはすべてのグランドスラムでベスト8進出を果たしてる数少ない現役選手の1人であり、グランドスラム通算でBIG4全員に勝利した初の選手である。.

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ジョアン・ソウザ

ョアン・ペドロ・コエーリョ・マリーニョ・デ・ソウザ(João Pedro Coelho Marinho de Sousa, 1989年3月30日 - )は、ポルトガル・ギマランイス出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス76位。身長185cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 彼の名前はブラジルのテニス選手と混同しやすい。ポルトガルのソウザはJoão SousaだがブラジルのソウザはJoão Souzaである。.

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ジョシュア・ピム

ョシュア・ピム(Joshua Pim, 1869年5月20日 - 1942年4月15日)は、アイルランド・ウィックロー州ブレイ出身の男子テニス選手。1890年代のウィンブルドン選手権で活躍し、男子シングルスと男子ダブルスでそれぞれ2勝を挙げた。ピムは男子シングルスでウィルフレッド・バデリーと1891年-1894年まで「4年連続」の決勝対決を繰り広げ、男子ダブルスではアイルランドの同僚選手フランク・ストーカー(1867年 - 1939年)とペアを組んだ。彼は医師であったことから、テニス文献でも Dr.

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ジョシア・リッチー

ョシア・リッチー(Josiah Ritchie, 1870年10月18日 - 1955年2月28日)は、イングランド・ウエストミンスター出身の男子テニス選手。1908年のロンドン五輪で男子シングルスの金メダルを獲得し、ウィンブルドン選手権でも1908年と1910年に男子ダブルス2勝を挙げた選手である。同選手権の男子シングルスでは、1909年に準優勝があった。彼はイギリス軍の少佐であったことから、テニス文献では Major Josiah George Ritchie (ジョシア・ジョージ・リッチー少佐)がフルネームとして記載されている。.

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ジョセフ・クラーク

ョセフ・クラーク(Joseph Clark, 1861年11月30日 - 1956年4月14日)は、アメリカ・ペンシルベニア州ジャーマンタウン出身の男子テニス選手。フルネームは Joseph Sill Clark (ジョセフ・シル・クラーク)といい、「ジョー・クラーク」(Joe Clark)の呼び名でも知られる。彼はハーバード大学の学生選手として、黎明期の全米選手権(現在の全米オープンテニス)や「全米大学対抗テニス選手権」で活躍し、1885年の全米選手権男子ダブルスでリチャード・シアーズと組んで優勝した。彼の家族は名門のテニス一家であり、2歳年上の兄クラレンス・クラーク(1859年 - 1937年)も国際テニス殿堂入りした名選手だった。.

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ジル・シモン

ル・シモン(Gilles Simon, 1984年12月27日 - )は、フランス・ニース出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス6位、ダブルス117位。これまでにATPツアーでシングルス13勝を挙げている。身長182cm、体重70kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2008年テニス・マスターズ・カップベスト4。マスターズ1000準優勝2回。.

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ジレ・ミュラー

レ・ミュラー(Gilles Müller, 1983年5月9日 - )は、ルクセンブルク・シフランゲ出身の男子プロテニス選手。2008年全米オープンと2017年ウィンブルドン選手権でベスト8に入った選手である。ATPワールドツアーでシングルス2勝がある。自己最高ランキングはシングル21位、ダブルス74位。身長193cm、体重92kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。長身から繰り出す左打ちの高速サーブが武器の選手。「ジル・ミュラー」「ギル・ミュラー」とも表記される。.

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ジーン・マコ

ーン・マコ(Gene Mako, 1916年1月24日 - 2013年6月14日)は、アメリカの男子テニス選手。ハンガリー・ブダペスト生まれ。本名は Constantine Gene Mako (コンスタンティン・ジーン・マコ)という。1930年代後半に活躍し、1歳年上のドン・バッジとペアを組んでウィンブルドン選手権・全米選手権の男子ダブルスに2勝ずつを挙げた。4大大会男子シングルスでは、1938年の全米選手権決勝でバッジに敗れた準優勝がある。右利きの選手で、体格は身長183cm、体重77kgほどであった。.

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ジェラルド・パターソン

ェラルド・パターソン(Gerald Patterson, 1895年12月17日 - 1967年6月13日)は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。第1次世界大戦の終戦直後の時代に活躍し、ウィンブルドン選手権で2勝、全豪選手権で1勝を挙げた。オーストラリアの男子テニス選手としては、ノーマン・ブルックスに続く世代に位置している。.

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ジェレミー・シャルディー

ェレミー・シャルディー(Jérémy Chardy, 1987年2月12日 - )は、フランス・ポー出身の男子プロテニス選手。ATP自己最高ランクはシングルス25位、ダブルス39位。これまでにATPツアーでシングルス1勝、ダブルス4勝を挙げている。身長188cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 2013年全豪オープンベスト8。他マスターズ1000でもベスト8進出経験がある。.

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ジェームズ・ブレーク

ェームズ・ライリー・ブレーク(James Riley Blake, 1979年12月28日 - )は、アメリカ・ニューヨーク州ヨンカーズ出身の元男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス10勝、ダブルス7勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは4位(2006年11月20日付)。身長185cm、体重83kg、右利き。 デビスカップ2007でのデビスカップアメリカ合衆国代表の優勝に貢献。2003年・2004年ホップマンカップ優勝。2006年テニスマスターズカップ準優勝。.

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ジェームズ・ドワイト

ェームズ・ドワイト(James Dwight, 1852年7月14日 - 1917年7月13日)は、アメリカの男子テニス選手。フランス・パリ出身。1880年代の全米選手権で活躍し、男子ダブルス5勝を挙げた選手である。.

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ジェームズ・アンダーソン (テニス選手)

ェームズ・アンダーソン(James Anderson, 1894年9月17日 - 1973年12月23日)は、オーストラリア・シドニー市エンフィールド出身の男子テニス選手。1920年代のオーストラリア・テニス界をリードした選手の1人で、全豪選手権男子シングルスで1922年・1924年・1925年の3度優勝した。彼はウィンブルドン選手権でも1922年に男子ダブルス優勝を達成し、オーストラリア人選手として史上3人目のウィンブルドン優勝者になっている。フルネームは James Outram Anderson (ジェームズ・アウトラム・アンダーソン)といい、普段は名前のイニシャルだけで「J・O・アンダーソン」と呼ばれた。 アンダーソンは「グレイハウンド」(Greyhound: 猟犬の一種、非常に足が速いことで知られる)というニックネームで呼ばれ、肩の高さから打つ強力なフォアハンド・ドライブ(ボールに順回転をかけたフォアハンド・ストローク)を最も得意にした。彼のバックハンド・ストロークは、フォアハンドと同じラケット面で打つ「逆さのバックハンド」(upside-down backhand)を駆使した。背が高く、やせた体格の持ち主であり、試合の時にはテニスコートに大きなカンガルーのぬいぐるみを持ってきたという。アンダーソンは選手経歴を通じて、オーストラリア国内外のイベントでジェラルド・パターソンと対戦する機会が多く、互いに強いライバル意識を持っていた。.

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ジェームズ・セシル・パーク

ェームズ・セシル・パーク(James Cecil Parke, 1881年7月26日 - 1946年2月27日)は、アイルランド・モナハン州クローネス出身の男子テニス選手。1912年の全豪選手権男子シングルス・ダブルス優勝、1914年のウィンブルドン選手権混合ダブルス優勝、1908年のロンドン五輪男子ダブルス銀メダルなど、多彩な経歴を残した選手である。パークは多種目のスポーツに優れた技量を持ち、テニス・ラグビー・クリケット・チェス・陸上競技の5種目でアイルランド代表選手を務め、スクラッチゴルファー(ハンデキャップ0のゴルファー)としても著名であったことから「アイルランド最大の万能スポーツ選手」という評価を得た。.

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ジェフ・タランゴ

ェフリー・ゲイル・"ジェフ"・タランゴ(Jeffrey Gail Tarango, 1968年11月20日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元男子プロテニス選手。という。1999年全仏オープン男子ダブルスで、ゴラン・イワニセビッチと組んで準優勝した選手である。同じ1999年のジャパン・オープン・テニス選手権男子ダブルスで、ダニエル・バチェクと組んだ優勝もある。左利き。自己最高ランキングはシングルス42位、ダブルス10位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルスで1999年ジャパン・オープンを含む14勝を挙げた。.

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ジェイミー・マリー

ェームズ・ロバート・"ジェイミー"・マリー(James Robert "Jamie" Murray, 1986年2月13日 - )は、スコットランド・出身の男子プロテニス選手。アンディ・マリーの1歳年上の兄で、ダブルスのスペシャリストとして活動している。左利き。シングルスにはほとんど出場せず、4大大会の男子シングルスには1度も出場記録がない。これまでにATPツアーでダブルス19勝を挙げている。彼は様々なダブルス・パートナーと組んで好成績を出しており、弟のアンディと兄弟ペアを組む時もある。趣味のゴルフではハンデキャップ3の力量を持っている。 シングルス・ダブルス通してイギリス人初の世界ランキング1位。イギリス人20年ぶりのウィンブルドン優勝者。グランドスラム優勝5回。イギリス人男子43年ぶりの全米ダブルス決勝進出。またデビスカップ2015ではデビスカップイギリス代表の79年ぶりの優勝に貢献。.

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ジェイ・グールド (2世)

ェイ・グールド(Jay Gould II, 1888年9月1日 - 1935年1月26日)は、アメリカ、ニューヨーク州ママロネック出身のテニス選手。1908年、ロンドンオリンピックで行われたジュ・ド・ポーム(リアルテニス)で金メダルを獲得した。大資本家として知られたジェイ・グールドの孫にあたる。.

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ジェイソン・ストルテンバーグ

ェイソン・ストルテンバーグ(Jason Stoltenberg, 1970年4月4日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ナラブリ出身の元男子プロテニス選手。1996年のウィンブルドンで、男子シングルスのベスト4に入った選手である。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス23位。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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スペンサー・ゴア

ペンサー・ゴア(Spencer Gore, 1850年3月10日 - 1906年4月19日)は、イングランドのテニス選手。 ゴアは1877年に開催された第1回ウィンブルドン選手権の男子シングルス優勝者で、グランドスラム最初の優勝者でもあった。.

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ステファノス・シチパス

テファノス・シチパス(Stefanos Tsitsipas, Στέφανος Τσιτσιπάς, 1998年8月12日 - )は、ギリシャ・アテネ出身の男子プロテニス選手。現時点ではまだATPツアーでシングルス・ダブルスともに優勝はない。自己最高ランキングはシングルス35位。身長193cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。「チチパス」の表記揺れも見られる。.

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ステファン・ロベール

テファン・ロベール(、 1980年5月17日 - )は、フランス・ロワレ県モンタルジ出身の男子プロテニス選手。ATP自己最高ランクはシングルス50位、ダブルス99位。ATPツアーではシングルス準優勝1回、ダブルス優勝1回がある。身長185cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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ステファン・フース

テファン・フース(Stephen Huss, 1975年12月10日 - )は、オーストラリア・ビクトリア州ベンディゴ出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして活動し、2005年ウィンブルドン選手権男子ダブルスでウェスリー・ムーディ(南アフリカ)とペアを組んで優勝した選手である。彼は普段からダブルスのみに活動を絞り、ATPツアーでは1度もシングルスへのエントリーがない。2005年ウィンブルドン選手権を含むダブルス4勝を挙げた。日本語では「ステファン・ハス」の表記も見られる。.

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ステファン・ウデ

テファン・ウデ(Stéphane Houdet, 1970年11月20日 - )はフランスの障害者アスリート。障害者ゴルフにおいて国内トップレベルの競技経験をもつ一方、車いすテニスでは、グランドスラムで計22回(シングルス4回・ダブルス18回)優勝した。また、北京パラリンピック男子ダブルスで金メダルを獲得した。.

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ステファン・エドベリ

テファン・エドベリ(Stefan Edberg, 1966年1月19日 - )は、スウェーデンのベステルビーク出身の元男子プロテニス選手。日本では、新聞・ラジオが現地のスウェーデン語読みに近い「エドベリ」となっているが、テニス専門誌・テレビは英語読みの「エドバーグ」となっている。ハンサムなので「グラスの貴公子」と呼ばれていた。 エドベリは、ビョルン・ボルグやマッツ・ビランデルのような、グラウンド・ストロークを武器にトップに躍り出る選手を多く輩出してきたスウェーデンにおいては異例のサーブ・アンド・ボレーで世界の頂点に立った。エドベリはATPツアーでシングルス41勝、ダブルス18勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界1位になった数少ない選手のひとりに数えられる。特に片手打ちバックハンドを得意とした。身長188cm、体重77kg、右利き。.

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スティーブ・デントン

ティーブ・デントン(Steve Denton, 1956年9月5日 - )は、アメリカ・テキサス州キングスビル出身の元男子プロテニス選手。1981年と1982年の2年連続で、全豪オープンの男子シングルス準優勝者になった選手である。男子ダブルスでは1982年の全米オープンで、ケビン・カレンとペアを組んで優勝した。混合ダブルスではウィンブルドンで1983年と1984年の2年連続準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス12位、ダブルス5位。ATPツアーでダブルス18勝を挙げたが、シングルスでは全豪オープンの2年連続準優勝を含めて6度の準優勝があり、1度も優勝できずに終わった不運な選手である。.

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スティーブ・ダルシス

ティーブ・ダルシス(Steve Darcis, 1984年3月13日 - )は、ベルギー・リエージュ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス2勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス38位、ダブルス126位。身長178cm、体重73kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。日本語表記では「スティーブ・ダルシー」等もみられる。.

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スティーブ・ジョンソン (テニス選手)

ティーブ・ジョンソン(Steve Johnson, 1989年12月24日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州オレンジ出身の男子プロテニス選手。ATPツアーではシングルス3勝、ダブルス1勝がある。自己最高ランキングはシングルス21位、ダブルス39位。身長188cm、体重86kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。リオ五輪男子ダブルス銅メダリスト。.

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スベン・デビッドソン

ヴェン・ヴィクトル・デヴィッドソン(Sven Viktor Davidson, 1928年7月13日 - 2008年5月28日)は、スウェーデン・ボロース出身の男子テニス選手。1957年の全仏選手権男子シングルス優勝者で、スウェーデンのテニス選手として最初の4大大会シングルス優勝者になった人である。1958年のウィンブルドン選手権男子ダブルス部門でも、同じスウェーデンのウルフ・シュミットとペアを組んで優勝し、スウェーデンのテニス選手として最初のウィンブルドン優勝者になった。右利きの選手。.

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スコット・デービス

ット・デービス(Scott Davis, 1962年8月27日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州出身の男子プロテニス選手。1991年全豪オープン男子ダブルスでとペアを組んで優勝した選手である。ATPツアーでシングルス3勝、ダブルス22勝を挙げた。.

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スタン・ワウリンカ

タニスラス・"スタン"・ワウリンカ( 、 1985年3月28日 - )は、スイス・ローザンヌ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーではシングルス16勝、ダブルス2勝を挙げている。うちグランドスラムではシングルス3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス88位。身長183cm、体重81kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。バブリンカと表記されることも多い。2014年5月に登録名を「スタニスラス」から愛称の「スタン」に変更している。 2014年全豪オープン男子シングルス・2015年全仏オープン男子シングルス・2016年全米オープン男子シングルス優勝。2014年モンテカルロ・マスターズ優勝。2008年北京五輪男子ダブルスで、ロジャー・フェデラーと組んで金メダルを獲得。デビスカップ2014でデビスカップスイス代表の優勝に貢献。.

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スタン・スミス

タン・スミス(Stan Smith, 1946年12月14日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パサデナ出身の男子テニス選手。フルネームは Stanley Roger Smith (スタンレー・ロジャー・スミス)という。1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカを代表する選手として活躍した。男子テニス国別対抗戦・デビスカップでアメリカ・チームに「7勝」をもたらした選手としてよく知られ、当時のアメリカの国民的英雄でもあった。プロテニス選手としてシングルス39勝、ダブルス61勝を挙げ、通算「100勝」を記録した。優れたテニスコーチとしても有名である。.

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セバスチャン・ラルー

バスチャン・ラルー(Sébastien Lareau, 1973年4月27日 - )は、カナダ・ケベック州モントリオール出身の男子プロテニス選手。2000年シドニー五輪男子ダブルスで、ダニエル・ネスターとペアを組んで金メダルを獲得した。4大大会でも1999年全米オープンで、アメリカのアレックス・オブライエンとペアを組んで優勝している。ATPツアーでシングルス優勝はないが、ダブルスで通算17勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス76位、ダブルス4位。身長182cm、体重79kg、右利き。.

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セバスチャン・グロジャン

バスチャン・ルネ・グロジャン(Sébastien René Grosjean, 1978年5月29日 - )は、フランス・マルセイユ出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは4位(2002年10月)。ATPツアーでシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。身長175cm、体重72kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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セルジ・ブルゲラ

ルジ・ブルゲラ・イ・トルネール(Sergi Bruguera i Torner, 1971年1月16日 - )は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ出身の元男子プロテニス選手。1993年・1994年全仏オープンで大会2連覇を達成した選手である。肘を伸ばした独特のフォームから繰り出す強烈なトップスピンのボールで相手のミスを誘うプレースタイルを特徴とし、主にクレーコートで活躍した。シングルス自己最高ランキングは3位。ATPツアーでシングルス14勝、ダブルス3勝を挙げる。身長187cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 現在はリシャール・ガスケのコーチを務めている。.

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セルジー・スタホフスキー

ルジー・エドゥアルドヴィチ・スタホフスキー(Sergiy Stakhovsky, Сергій Едуардович Стаховський, 1986年1月6日 - )は、ウクライナ・キエフ出身の男子プロテニス選手。2013年ウィンブルドン選手権男子シングルス2回戦でロジャー・フェデラーを破った選手として知られる。これまでにATPツアーでシングルス4勝、ダブルス3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス31位、ダブルス33位。身長193cm、体重80kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。日本語では「セルギー・スタホフスキー」や「セルゲイ・スタコウスキー」などの表記も見られる。スタホフスキーはATPツアーで7度決勝に進出しているが、そのすべてで優勝している。.

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セドリック・ピオリーン

ドリック・アドリアン・ピオリーン(Cédric Adrien Pioline, 1969年6月15日 - )は、フランス・ヌイイ=シュル=セーヌ出身の男子プロテニス選手。1993年全米オープンと1997年ウィンブルドン選手権準優勝がある。シングルス自己最高ランキングは5位。ATPツアーでシングルス5勝、ダブルス1勝を挙げた。身長187cm、体重79kg、右利き。フランス語の読みにより近い「ピオリーヌ」という表記も多く見られる。プレースタイルはオールラウンダー。.

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セシル・マミート

ル・マミート(Cecil Mamiit, 1976年6月27日 - )は、フィリピンの男子テニス選手。アメリカ合衆国ロサンゼルス出身。ATPランキングのシングルス自己最高は72位。.

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ソムデブ・デブバルマン

ムデブ・デブバルマン(Somdev Devvarman, सोमदेव देववर्मन, 1985年2月13日 - )は、インド・グワーハーティー出身の男子プロテニス選手。身長180cm、体重73kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPランキングのシングルス自己最高は62位。.

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タナシ・コッキナキス

タナシ・コッキナキス(Thanasi Kokkinakis, 1996年4月10日 - )は、オーストラリア・アデレード出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでダブルス1勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス69位、ダブルス137位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。「コキナキス」の表記揺れも多い。.

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タデウス・クルシェルニツキ

タデウス・クルシェルニツキ(Tadeusz Kruszelnicki、1955年8月19日 - )は、ポーランドのグリヴィツェ出身のプロ車いすテニス選手。現在は同国のジェンビツェ(Ziębice)に住んでいる。テニスを始めたのは39歳、プロ転向は42歳と比較的遅いものの高齢となった現在でも世界トップクラスの実力を持っている。2006年4月10日にはシングルスの自己最高ランクである3位、2003年6月23日にはダブルスの自己最高ランクである5位を記録している。 4大大会では2001年の全豪オープンのシングルスでオーストラリアのデビット・ホールを6-2、6-0で破り優勝している。ダブルスでは斎田悟司と組んで2001年の全豪オープンではオーストラリアのデビット・ホールとデビット・ジョンソンペアを6-3、6-0で破り優勝しており、2002年の全米オープンでも斎田悟司と共に決勝でドイツのカイ・シュラマイヤーとアメリカのスティーブン・ウェルチを6-3、3-6、6-1で破って優勝している 1996年以降のパラリンピックにはポーランド代表としてすべてのパラリンピックでシングルスとダブルスに出場しているがメダルの獲得はまだない。2008年の北京パラリンピックにはシングルスでは1回戦で韓国の呉相豪を破り、2回戦でも中国の李柏青を破ったが3回戦で日本の斎田悟司に敗れた。ダブルスではピオトル・ヤロシェヴスキとペアを組んで出場、1回戦は不戦勝、2回戦はイタリアのマリオ・ガテッリ、ファビオ・マッツェイペアに勝利したが準々決勝でオランダのマイケル・シェファースとロナルト・ヴィンクペアに敗れている。.

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サミー・ジアマルバ・ジュニア

ミー・ジアマルバ・ジュニア(Sammy Giammalva Jr.、1963年3月24日 - )は、アメリカ・テキサス州ヒューストン出身の元男子プロテニス選手。ライス大学卒業。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス22位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス4勝を挙げた。.

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サム・クエリー

ム・オースティン・クエリー(Sam Austin Querrey, 1987年10月7日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ出身の男子プロテニス選手。これまでにATPツアーでシングルス10勝、ダブルス5勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス11位、ダブルス23位。身長198cm、体重91kgの長身選手である。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。マスターズ1000ダブルスで優勝1回・準優勝2回。.

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サルギス・サルグシアン

ルギス・サルグシアン(Sargis Sargsian, アルメニア語:Սարգիս Սարգսյան, 1973年6月3日 - )は、アルメニア・エレバン出身の男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス2勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス38位、ダブルス33位。身長180cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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サンティアゴ・ヒラルド

ンティアゴ・ヒラルド・サラサル(Santiago Giraldo Salazar, 1987年11月27日 - )は、コロンビア・ペレイラ出身の男子プロテニス選手。現時点では、ATPツアーでまだシングルス・ダブルスとも優勝はない。自己最高ランキングはシングルス28位、ダブルス77位。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長188cm、体重75kg。2017年現在コロンビアのNo.1プレイヤーでありデビスカップにも出場している。.

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サンドン・ストール

ンドン・フレデリック・ストール(Sandon Frederick Stolle, 1970年7月13日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の男子プロテニス選手。。当地の往年の名選手フレッド・ストールの息子で、ダブルスのスペシャリストとして活動し、1998年全米オープン男子ダブルスでシリル・スークと組んで優勝した。4大大会男子ダブルスでは、他に3度の準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルスの優勝はなかったが (準優勝1度)、ダブルスで22勝を挙げた。 サンドンは6歳の時から、父親のフレッドにテニスを習い始めた。テレビ解説者になった父親は、息子に「お前が大きくなったら、テレビでお前の試合の解説をしたいと思う」と口癖のように話していたという。サンドンはアメリカ合衆国テキサス州フォートワースにあるテキサスクリスチャン大学で、2年間マーケティングとビジネスを専攻した後、1991年からプロテニス選手になった。1991年ウィンブルドン選手権で、サンドンは大会初出場で2回戦に進出し、センターコートでジョン・マッケンローと対戦した。父親のフレッドがこの試合のテレビ解説を担当し、ストール親子はここで夢を実現させた。1992年10月、台北市での大会のダブルスでジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、男子ツアーでダブルス初優勝を果たす。1993年1月のNSWオープン男子ダブルスでは、同じ年のジェイソン・ストルテンバーグと組んで2勝目を挙げた。間もなく、サンドンはダブルスの分野で躍進を始める。 1994年にサンドンは男子ツアーでダブルス3勝を挙げたが、3月末に大阪での大会でマルティン・ダムと組んだ優勝もあった。1994年後半から1995年にかけて、彼はアレックス・オブライエンと組んで大半のトーナメントに出場した。1995年全米オープン男子ダブルスで、サンドンとオブライエンは初めて4大大会の決勝に進出する。この決勝戦ではウッディーズに3-6, 3-6のストレートで敗れ、準優勝に終わった。サンドンとオブライエンは、同年10月中旬のセイコー・スーパー・テニスにも出場し、準決勝でパトリック・マッケンロー/ヤコブ・ラセク組に敗れた。 1996年6月、サンドンはウィンブルドン選手権の前哨戦の1つノッティンガム・オープンでシングルス決勝戦に進出したが、ヤン・シーメリンクに3-6, 6-7で敗れ、初優勝を逃した。彼のツアー経歴を通じて、これが唯一のシングルス決勝戦進出となる。彼の4大大会シングルス成績は、全豪オープン・全仏オープン・全米オープンは2回戦止まりだったが、ウィンブルドン選手権で1992年・1996年・1997年の3度3回戦進出があり、芝コートのウィンブルドンとはシングルスでも相性が良かった。 1997年から1998年の2年間、サンドンは大半のトーナメントでシリル・スークとペアを組んだ。サンドンとスークは、1998年全米オープン男子ダブルスで初優勝を飾った。サンドンにとっては、1995年以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人はダニエル・ネスター/マーク・ノールズ組に4-6, 7-6, 6-2の逆転勝利を収めた。サンドンの父親フレッド・ストールは、全米選手権(現全米オープン)で1966年男子シングルス優勝、1965年・1966年・1969年の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。 その後、サンドンは1999年にウェイン・ブラック、2000年はポール・ハーフースや、オーストラリアの後輩選手レイトン・ヒューイットなどとペアを組んだ。1999年ウィンブルドン選手権2回戦でゴラン・イワニセビッチに敗れた試合を最後に、サンドンはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。2000年はハーフースとのコンビで好成績が多く、全仏オープンとウィンブルドン選手権の男子ダブルスで決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアのウッディーズに連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。2001年3月5日付で、サンドンはATPツアーでダブルスランキング2位に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。2002年10月、エルステ・バンク・オープンで同じオーストラリアのジョシュア・イーグルと組み、決勝でイジー・ノバク/ラデク・ステパネク組を6-4, 6-3で破った勝利が、サンドンの現役最後となる22勝目の優勝。2003年全豪オープン男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、2007年9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。.

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内山靖崇

内山 靖崇(うちやま やすたか、1992年8月5日 - )は、日本の男子プロテニス選手。北海道札幌市出身。ATPツアーでダブルス1勝。ランキング自己最高位はシングルス162位、ダブルス111位。身長183cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。北日本物産テニス部所属。.

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内田海智

内田 海智(うちだ かいち、1994年8月23日 - )は、大阪府交野市出身の男子プロテニス選手。身長180cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。.

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全米オープン (テニス)

全米オープン(英語:US Open)は、アメリカ・ニューヨーク市郊外にあるフラッシング・メドウのUSTAナショナル・テニス・センターを会場として、毎年8月の最終月曜日から2週間の日程で行われる4大国際大会の一つである。観客動員数や賞金総額はテニス競技大会で最大である。主催および運営は全米テニス協会(USTA)。.

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全豪オープン

メルボルン・パークの1番コート。「マーガレット・コート・アリーナ」の名前がある 全豪オープンテニス(英語:Australian Open)は、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。.

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国枝慎吾

国枝 慎吾(くにえだ しんご、1984年2月21日 - )は日本のプロ車いすテニス選手。ユニクロ所属。 グランドスラム車いす部門で、男子世界歴代最多となる計42回(シングルス22回・ダブルス20回)優勝の記録保持者。 シングルスでは年間グランドスラム(3冠)を計5回達成し、ダブルスではキャリアグランドスラムと4大会連続優勝を果たしている。 パラリンピックではシングルスで2個・ダブルスで1個の金メダルを獲得している。.

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石黒修

石黒 修(いしぐろ おさむ、1936年8月12日 - 2016年11月9日)は、日本の男子プロテニス選手。日本プロテニス界のパイオニアとして活躍した名選手である。俳優として活躍する石黒賢の父親としても知られる。.

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神和住純

和住 純(かみわずみ じゅん, 1947年10月1日 - )日本のプロテニス選手・指導者である。法政大学スポーツ健康科学部教授。 日本人戦後初のトーナメントプロ選手。1980年から国内7年連続賞金王。1997年から2004年までデビスカップ代表監督。1973年全米オープンで3回戦に進出。これは錦織圭が2008年に進出するまで日本人男子最後の全米3回戦進出だった。.

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福井烈

福井 烈(ふくい つよし、1957年6月22日 - )は、福岡県門司市(現北九州市門司区)出身の男子プロテニス選手。ブリヂストンスポーツ専属。日本テニス協会常務理事。日本オリンピック委員会選手強化本部情報・医・科学専門委員。柳川商業高等学校卒業。中央大学法学部中退。.

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福田雅之助

福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - 1974年12月21日)は、東京府豊多摩郡戸塚村(現在の東京都新宿区西早稲田)出身の男子テニス選手である。全日本テニス選手権の第1回大会男子シングルス優勝者。.

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熊谷一弥

谷 一弥(くまがい いちや、1890年(明治23年)9月10日 - 1968年(昭和43年)8月16日)は、福岡県大牟田市出身の男子テニス選手。旧漢字表記では 熊谷 一彌 と書く。 熊谷は日本テニス界の黎明期を築き、清水善造と共に日本人テニス選手の世界挑戦への道を開拓した選手のひとりである。1918年(大正7年)の全米選手権において日本人テニス選手として史上初のグランドスラムベスト4に進出した。 1920年(大正9年)のアントワープ五輪で男子シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本スポーツ界に初めてのオリンピック・メダルをもたらした。 英語文献では“Ichiya Kumagae”(イチヤ・クマガエ)と表記されることが多い。.

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盧彦勳

盧彦勳(ルー・イェンスン、英語表記:Yen-Hsun Lu, 1983年8月14日 - )は、台湾・桃園県出身の男子プロテニス選手。当地のテニス選手として初めてシングルスランキングトップ100位内に入った選手である。身長180cm、体重74kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーでシングルス優勝はまだ無いが、ダブルスで3勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス33位、ダブルス86位。.

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白石正三

白石正三(しらいし しょうぞう、1958年(昭和33年)1月27日 - 2010年(平成22年)1月19日)は、日本の大阪府大阪市出身のテニス選手。.

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隈丸次郎

丸 次郎(くままる じろう、1921年9月26日 - 2007年6月8日)は、福岡県久留米市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。第2次世界大戦終戦直後の時代に、日本男子テニス界をリードした名選手のひとりである。彼は1949年から1952年まで全日本テニス選手権男子シングルス4連覇を達成し、1951年と1952年に男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本代表選手を務めた。現役選手時代の体格は、身長174cm・体重57kgほどであった。 隈丸がテニスを始めたきっかけは、佐藤次郎が1934年4月5日にマラッカ海峡で投身自殺した新聞記事の号外だったという。しかし、彼の近くには専門のテニスコーチがいなかったため、技術解説専門書の日本語訳を読みながら独学でテニスを勉強した。1939年に初めて「全日本テニスランキング」11位に入り、1940年に7位、1941年には3位まで上昇した。その間に太平洋戦争が起こり、彼のテニス経歴も中断する。戦争は1945年8月に終結し、隈丸は終戦直後の日本男子テニス界を担う選手になった。 1949年から1952年まで、隈丸次郎は全日本テニス選手権の男子シングルスで前人未到の4連覇を達成した。これは今なお、全日本選手権男子シングルスの最多連覇記録として残っている。1949年と1950年の決勝戦では、隈丸は2年連続で藤倉五郎を破った。3連覇を目指した1951年の全日本テニス選手権には、終戦後最初の外国人選手の来日があった。アーサー・ラーセンは当時の世界ランキング9位であったが、前年の1950年に全米選手権男子シングルス優勝者になった選手である。隈丸と元全米王者ラーセンの決勝対決は、名古屋栄コートで行われた。隈丸はラーセンを 6-4, 6-3, 6-1 のストレートで圧倒し、大会3連覇を成し遂げた。最後の4連覇目、1952年の決勝戦の相手は加茂公成であった。彼は全日本選手権の男子ダブルスでも、1951年と1952年に2連覇を記録したが、1951年は来日したラーセンと組み、1952年は中野文照とのコンビで優勝した。 第2次世界大戦の終戦後、日本がデビスカップへの復帰を認められたのは1951年になってからである。終戦後最初のデビスカップ遠征に際して、日本庭球協会は監督に熊谷一弥を指名し、日本代表選手には隈丸次郎、中野文照、藤倉五郎の3名が選ばれた。遠征地はアメリカ・ケンタッキー州ルイビルにある「ルイビル・ボートクラブ」であり、日本はアメリカ・チームと対戦した。日本チームは5戦全敗に終わり、隈丸はシングルス戦2試合でハーバート・フラムとディック・サビットに敗れた。翌1952年のデ杯では、隈丸自身が日本チームの主将を務め、中野と宮城淳の3名で対アメリカ戦に出場した。オハイオ州シンシナティにある「シンシナティ・テニスクラブ」への遠征では、隈丸はシングルス第1試合でラーセンに 2-6, 6-3, 3-6, 2-6 のスコアで敗れた。第3試合のダブルス戦では、隈丸と中野のコンビはガードナー・ムロイ&ビル・タルバート組に敗れている。隈丸の2年間のデビスカップ代表歴は「4戦全敗」に終わったが、その後1957年と1958年の2年間デビスカップ日本監督を務め、終戦後の日本テニス界の復興に大きく貢献した。 選手引退後、隈丸は日本テニス協会常務理事・福岡県テニス協会名誉副会長・九州テニス協会会長など、数多くの要職を務めた。2003年2月、81歳になった隈丸は日本テニス協会によるインタビュー・シリーズ「思い出に残るあの試合」の第3回に登場し、アーサー・ラーセンを下した1951年全日本テニス選手権決勝の思い出を語った。本インタビューの紹介文に「3年ほど前に膝を痛めるまで」とあることから、80歳に近づく頃まで元気にテニスの練習を続けていた様子がうかがえる。インタビューから4年後の2007年6月8日、隈丸次郎は急性肺炎のため福岡県筑紫野市内の病院で死去した。戦後の日本男子テニスとともに歩んだ85年の生涯だった。.

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青木岩雄

青木 岩雄(あおき いわお、1901年9月3日 - 1939年5月2日)は、兵庫県神戸市出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。1920年代から1930年代前半にかけて、日本男子テニス界を代表した選手の1人であったが、腸閉塞症のため37歳半の若さで急逝した。主な成績は、1924年の第3回全日本テニス選手権男子ダブルス優勝、1932年のウィンブルドン選手権男子シングルス4回戦進出などがある。彼は三菱銀行(現在の三菱UFJ銀行)に勤務し、1930年7月から1935年3月まで銀行のロンドン支店にいたことから、イギリス開催のテニストーナメント、とりわけウィンブルドン選手権で優れた戦績を出した。青木のテニスは、フォアハンド・ストロークに多少の弱点はあったが、バックハンド・ストローク、ボレー、スマッシュのいずれにもダブルスの分野で力を発揮し、とりわけロビングの技術に優れていた。.

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西岡良仁

西岡 良仁(にしおか よしひと、1995年9月27日 - )は、三重県津市出身の男子プロテニス選手。ミキハウス所属。養正小学校、 橋北中学校、青森山田高等学校卒業生。身長171cm、体重63kg。左利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 ATPランキング自己最高位はシングルス58位、ダブルス405位。.

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高田充

充(Mitsuru Takada, 1969年9月26日 - )は、沖縄県・平良市(現:宮古島市)出身の元男子プロテニス選手、テニス指導者。ATPランキング自己最高位はシングルス706位、ダブルス245位位。身長179cm、体重78kg。右利き、バックハンド・ストロークは片手打ち。.

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高橋悠介

橋 悠介(たかはし ゆうすけ、1997年10月17日 - )は、日本の男子プロテニス選手。神奈川県横浜市出身。ATPランキング自己最高位はシングルス238位。身長170cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。湘南工科大学附属高等学校卒業。三菱電機所属。.

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谷澤英彦

谷澤英彦(たにざわひでひこ、1971年12月5日-)は、日本の元テニス選手、現テニスコーチ、解説者。 愛知県名古屋市出身、180cm、80kg、左利き。相模工業大学附属高校卒業。.

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齋田悟司

齋田 悟司(さいだ さとし, 1972年3月26日 - )は日本の車いすテニス選手でアテネパラリンピック金メダリスト。三重県生まれ、千葉県在住で右利き。斎田悟司とも表記される。.

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辻野隆三

辻野 隆三(つじの りゅうそう、1969年2月24日 - )は、日本のテニス指導者、解説者、元プロテニス選手。.

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錦織圭

錦織 圭(にしこり けい、1989年12月29日 - )は、島根県松江市出身の男子プロテニス選手。日清食品所属。松江市立乃木小学校、開星中学校、青森山田高等学校卒業。身長178cm、体重75kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 ATP(男子プロテニス協会)が発表する世界ランキング自己最高位はシングルス4位(アジア男子歴代最高位)、ダブルス160位。 シングルスとしては日本男子史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした。 2014年全米オープン男子シングルスの準優勝者であり、男女通じて日本人史上初、アジア男子史上初のグランドスラム4大大会シングルスファイナリスト。また、シングルスとしてはアジア男子史上初のATPワールドツアー・ファイナル出場者。グランドスラムに次ぐ格付けのATPワールドツアー・マスターズ1000では4度の準優勝。 2008年に18歳の若さで、デルレイビーチ国際テニス選手権で優勝し、松岡修造に次いで日本男子史上2人目のATPツアーシングルス優勝者となった。これまでにATPツアーにおいてシングルスで日本人史上最多の11度の優勝、ダブルスでは準優勝を1度記録。 2016年にはリオデジャネイロ五輪男子シングルス銅メダリストとなり、テニス競技では日本選手として96年ぶりのメダルを獲得した。.

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鈴木貴男

鈴木 貴男(すずき たかお、1976年9月20日 - )は、北海道札幌市手稲区出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス102位、ダブルス119位。現所属はイカイ。身長175cm、体重72kg、右利き。フォア・バックともストロークは片手打ちであるが、14歳時までは両サイド両手打ちで、それから変更したという異例の経歴を持っている。.

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鄭現

鄭 現(チョン・ヒョン、정현, 英語表記:Chung Hyeon, 1996年5月19日 - )は、韓国・京畿道 水原市出身の男子プロテニス選手。シングルス自己最高ランキングは19位。ATPツアーシングルス優勝1回。身長188cm、体重83kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ネクストジェネレーション・ATPファイナル初代優勝者。2014年アジア競技大会ダブルス金メダリスト。韓国人初のグランドスラムベスト4進出者。.

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針重敬喜

針重敬喜 針重 敬喜(はりしげ けいき、1885年(明治18年)2月1日 - 1952年(昭和27年)6月5日)は日本の編集者、アマチュアテニス選手。『武侠世界』などの雑誌で主筆を務め、また日本のテニスの普及・振興に尽力した。.

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金奉洙

金 奉洙(キム・ボンス、김봉수, 英語表記:Kim Bong-soo, 1962年11月30日 - )は、韓国のテニス選手。ソウル特別市出身。 1986年のソウルでの1986年アジア競技大会でシングルスとダブルスでそれぞれ金と銅のメダルを獲得した。1988年には全豪オープンのシングルス出場、だが1回戦でインドのラメシュ・クリシュナンに敗れた。同年にはソウルオリンピックの代表に選ばれ、シングルスで2回戦でフランスのアンリ・ルコントを破り3回戦まで進出、ダブルスでは1回戦でインドのビジャイ・アムリトラジとアナンド・アムリトラジのペアに敗れた。 その後は日本のツアーに参戦しており、1991年にイザワ・クリスマスオープン・テニストーナメントで優勝、1994年の全日本テニス選手権のシングルスでも準優勝を飾っている。.

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柏尾誠一郎

柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう, 1892年1月2日 - 1962年12月16日)は、大阪府出身の男子テニス選手。1920年のアントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。.

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林宝華

林 宝華(ピン音表記:リン・パウカ、英語表記:Lum Pao-Hua, 1906年3月11日 - 1965年7月18日)は、中華民国の男子テニス選手。.

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李亨澤

李 亨澤(イ・ヒョンテク、이형택, 英語表記:Lee Hyung-taik, 1976年1月3日 - )は、韓国・横城郡出身の男子プロテニス選手。韓国のプロテニス選手として初めて、ATPツアー大会でシングルス・ダブルスともにタイトルを獲得した。シングルス自己最高ランキングは36位(2007年8月)。身長180cm、体重81kg、右利き。.

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松岡修造

松岡 修造(まつおか しゅうぞう、1967年11月6日 - )は、東京都出身の日本の元男子プロテニス選手、兼スポーツキャスター、スポーツ解説者。現日本テニス協会理事強化本部副部長。マネジメントはIMG JAPAN。身長188cm、体重85kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATP自己最高ランキングはシングルス46位、ダブルス95位。ATPツアーでシングルス1勝(日本人男子初のATPツアーシングルス優勝)、ダブルス1勝を挙げた。 1995年ウィンブルドン選手権男子シングルスで日本人男子として62年振りにグランドスラムベスト8に進出した人物である。また現在、ウィンブルドン選手権では日本人男子最後のベスト8進出者となっている。また、ウィンブルドン選手権での通算7勝は2015年に錦織圭に抜かれるまで日本人最多の記録であった。 現役引退後はジュニア選手の指導やテニス大会の運営、日本テニス協会の理事を務めるなど引き続きテニスに携わりつつ、スポーツキャスター、タレント、日本オリンピック委員会スポーツ環境専門委員、ミズノスポーツ振興財団顧問などとしても活動している。.

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松本武雄

松本 武雄(まつもと たけお、1914年 - 1976年11月6日)は、日本の男子テニス選手・指導者。石川県鳳至郡(現鳳珠郡)出身。法政大学卒業。 松本は法政大学のテニス部で、中野文照と同期のライバルだった選手である。1937年、関東本学生テニストーナメントで男子シングルス準優勝。同年の全日本学生庭球選手権(現在の通称・インカレ)で男子シングルスのベスト4に進出する。1938年度の成績は、関東本学生テニストーナメントは2年連続準優勝であったが、全日本学生庭球選手権で初優勝を果たした。この年は「フィリピン選手権」の男子シングルスも制した。当時の全日本学生選手権では、同じ法政大学の松本と中野が優勝争いをすることが多かった。しかし、ライバルの中野がインカレのタイトルを奪還した1939年に第2次世界大戦が勃発した。 松本は日本テニスの歴史の中でも、優れた指導者として名前を残した人である。1955年に法政大学テニス部監督に就任し、多くの後輩選手たちを育成し始める。1967年にはユニバーシアード東京大会日本代表監督を務めた。また、法政二高なども手広く指導した。 1976年11月6日、熱海市内の病院で肺臓がんのため死去。62歳だった。.

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杉田祐一

杉田 祐一(すぎた ゆういち、1988年9月18日 - )は、宮城県仙台市出身の日本の男子プロテニス選手。三菱電機所属。身長173cm。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ATPツアーではシングルス1勝。ATPランキング自己最高位はシングルス36位、ダブルス363位。 日本人で史上3人目のATPツアーシングルス優勝者。自己最高世界ランキングは松岡修造の46位を抜いて日本人歴代2位記録である。.

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添田豪

添田 豪(そえだ ごう、1984年9月5日 - )は、神奈川県藤沢市出身の男子プロテニス選手。GODAIテニスカレッジ所属。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。ロンドンオリンピック日本代表。ATPランキング自己最高位はシングルス47位、ダブルス232位。.

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渡辺康二

渡辺 康二 (わたなべ こうじ、1942年1月19日 - )は、日本のプロテニスプレーヤー。 兵庫県芦屋市出身。1960年、全日本ジュニアテニス選手権、1963年全国高等学校総合体育大会(インターハイ)それぞれシングルスに優勝。甲南大学在学中の1963年からデビスカップの日本代表として活躍する傍ら、プロテニス選手として活動し、1964年・1965年・1968年に全日本テニス選手権大会シングルス優勝、1965年-1968年はダブルスも制覇。特に1967年・1968年はシングルス・ダブルスの二冠を達成した。 1970年に競技者の第一線を退き、デビスカップ日本代表の監督に就任(1974年退任)。特に、1971年の大会において、オーストラリアを50年ぶりに破る時の監督として知られた。その後もティーチングプロの形で後進の指導や日本テニス協会専務理事、同副会長を担当。.

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清水善造

清水 善造(しみず ぜんぞう, 1891年3月25日 - 1977年4月12日)は、群馬県群馬郡箕郷村(現高崎市)出身の男子テニス選手。 日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。全米選手権でもベスト8入りしており、次に全米ベスト8進出を果たす日本人男子は92年後の錦織圭である。.

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