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田辺福麻呂

索引 田辺福麻呂

辺 福麻呂(たなべ の さきまろ、生没年不詳)は、奈良時代の万葉歌人。姓は史(ふひと)。 田辺氏(田辺史)は百済系渡来氏族で、西文氏のもとで文筆・記録の職掌についた史部の一族と想定される。 748年(天平20年)橘諸兄の使者として越中守・大伴家持のもとを訪れている。福麻呂の和歌作品は『万葉集』に44首が収められている。巻18に短歌13首があり、巻6・巻9にある長歌10首とその反歌21首は「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある。それらの歌は用字・作風などから福麻呂の作と見られている。.

17 関係: 反歌史 (姓)大伴家持天平奈良時代万葉集カバネ国司短歌生没年不詳百済越中国長歌橘諸兄歌人渡来人748年

反歌

反歌(はんか).

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史 (姓)

史(ふひと/ふみひと)とは、古代の日本において文筆や記録の職務にあたった渡来人系の官人組織。後に姓(カバネ)の1つに転じた。 元々は「ふみひと」と読まれ、「史人」「文人」「書人」などとも表記されていたが、後に「ふみひと」が略されて「ふひと」とも読まれるようになり、表記も「史」と記されるようになった。 漢字が中国もしくは朝鮮半島から伝来されたのが日本における文字の始まりとされ、文筆や記録など文字を扱う業務も中国系及び朝鮮半島系の渡来人によって担われた。こうした業務を行う人々がふみひと(史人)後にふひと(史)と称され、後に一族やその部民をもって史部(ふひとべ)として編成された。「ふひと」の制度化は6世紀に入ってからと見られ、後に史部に属する人々に「史」の姓が与えられるようになっていった(『日本書紀』の記事上では、欽明天皇14年(553年)に王辰爾が船史を授けられたのが「史」の姓の最初であるが、「ふみひと/ふひと」の制度がこの時点において既に存在していたことになる)。史の姓を称したことが知られているのは、田辺史(たなべのふひと)・阿直岐史(あちきのふひと)・船史(ふねのふひと)・白猪史(しらいのふひと)など70氏いるが、いずれも渡来人の末裔である。また、外交や徴税など、文書・記録の作成を必要とする他の分野においても史の姓を持つ人々が従事していた。ただし、漢字の伝来に大きな貢献をしたと伝えられている阿知使主の末裔である東漢氏は直、王仁の末裔である西文氏は首の姓を特別に与えられて史および史部を管掌する立場となっていた。八色の姓成立後も新しい姓の授与の対象にならなかった史姓の者は引き続きその姓を用いていたが、天平宝字元年(757年)に藤原史(藤原不比等の別表記)を避けるために「毘登」と表記を改めたが13年後に元に戻したことが『続日本紀』宝亀元年(770年)九月壬戌条に記されている(なお、『尊卑分脈』によれば、藤原不比等は幼少時に田辺史の一人である田辺大隅に養育され、不比等(史)の名前自体もそれに由来しているとされている)。.

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大伴家持

大伴 家持(おおとも の やかもち)は、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。 『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残すを生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。.

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天平

天平(てんぴょう)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。 奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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万葉集

元暦校本万葉集 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。.

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カバネ

姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.

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国司

国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名は刺史、太守など。 郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。.

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短歌

短歌(たんか)とは、和歌の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のこと。ただし短歌は古より詠まれている歌体であるが、この項目では明治以降の短歌すなわち近代短歌と現代の短歌について取り上げる。.

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生没年不詳

生没年不詳(せいぼつねんふしょう)とは、歴史上の人物の生没年がともに不明であることを示す。 生没年(せいぼつねん)は、ある個人の生まれた年(生年)、死亡した年(没年)をあわせた名称であり、伝記を記述するに当たって重要な要素の一つである。.

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百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

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越中国

越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。.

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長歌

長歌(ちょうか)は、和歌の形式の一つ。.

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橘諸兄

橘 諸兄(たちばな の もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。.

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歌人

歌人(かじん)とは、和歌または短歌を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。.

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渡来人

渡来人(とらいじん)とは、広義には、海外から日本に渡って来た人々を意味するが、歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。帰化人との違いについては下記節を参照。 渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、そのルーツに関しても、黄河流域 - 山東半島、揚子江流域、満洲 - 朝鮮半島など様々である。.

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748年

記載なし。

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