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王鳳 (前漢)

索引 王鳳 (前漢)

王 鳳(おう ほう、? - 紀元前22年)は、前漢の政治家。字は孝卿(こうけい)。魏郡元城県委粟里(河北省大名県)の出身。.

33 関係: 大司馬大名県大将軍太守太僕丞相京兆尹侍中御史大夫刺史元帝 (漢)前漢王商 (レイ吾)王商 (元城)王章王立王音王莽王譚王逢時王根王政君紀元前15年紀元前20年紀元前22年衛尉鴻嘉霍光録尚書事永始 (漢)河北省成帝 (漢)

大司馬

大司馬(だいしば)は、中国の官職の一つで、主に軍事を取り仕切る、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職がもうけられる場合もあった。 周(春秋戦国時代)代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。 秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。 前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。恵帝の6年(紀元前189年)に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の建元2年(紀元前139年)に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の建元4年(紀元前119年)に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。宣帝の地節2年(紀元前68年)に、大司馬大将軍霍光が亡くなると、宣帝はその子霍禹を単に大司馬とし、将軍号を削って兵権を奪った。この時のみ大司馬には兵権が無かった。その後も三公での順位や将軍号の有無の変遷があったが、大司馬の職位は続いた。 新の王莽を打倒した更始帝も大司馬を置き、劉秀は当初、兼務の行大司馬として河北に渡った。劉秀が皇帝に即位すると、また大司馬を置き、呉漢が任じられた。 後漢の建武27年(51年)に太尉に置き換わった。 魏晋には、太尉と並立しながらも三公より格上の職として復活し、曹仁などの大物が就任した。.

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大名県

大名県(だいめい-けん)は中華人民共和国河北省の邯鄲市の管轄下にある県。県人民政府所在地は大名鎮。.

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大将軍

大将軍(だいしょうぐん、たいしょうぐん)は、中国および日本における歴史上の官職の一つ。.

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太守

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.

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太僕

太僕(たいぼく)とは、中国の官名である。.

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字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.

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丞相

丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.

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京兆尹

京兆尹(けいちょういん)は古代中国の官職名。京師近郊を管轄する行政長官の官名として使用され、漢代にはその統括する行政区画の名称でもあった(行政区画に関しては別項を参照)。.

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侍中

侍中(じちゅう)とは、侍中府の官職の1つで、皇帝の側近で皇帝の質問に備え、身辺に侍する役職である - goo国語辞書。 中国においては秦代に始まり、丞相の属官として殿中の奏事を司り、漢代に入ると加官(本職の他の兼任専用の役職)となって皇帝の乗輿・服飾をも扱った。漢から魏にかけて荀彧が守尚書令に侍中を兼ね、続いて太尉司馬懿と大将軍曹爽が侍中を兼ねている。 魏以後は、専任の侍中も設置され、概して4名が置かれた。枢機に参与する重職となった。南朝の梁や北朝の北魏では、宰相と同等の官となった。 隋代には納言と改称されたが、唐代に旧に復した。唐以後は門下省の長官を兼ねて2名が任命され、事実上の丞相となる。だが、時代の変遷に伴って、その権限は縮小された。門下省は貴族勢力の権益を代表して皇帝権と対抗する部局であったが、唐の中期以降は帝権が強まるにつれて門下省の権威は低下し、中書省に吸収されるに至る。 宋代に侍中の官名は復したが、それは実務を伴った官職ではなく、元代以後には廃止された。 日本では蔵人の唐名として用いられる。.

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御史大夫

御史大夫(ぎょしたいふ)は、古代中国の官職名であるが、日本においても短期間であるが採用されたことがある。副丞相とも呼ばれた。 一般には、御史台の長官で、官僚の監察を行うとされているが、秦漢時代に於いては、監察業務はその下に置かれた、御史と称される官僚が行い、御史大夫は副宰相格として、或いは皇帝の側近の筆頭として、政策立案を司っていたようであり、その管轄する官署は御史府と称されていた。 景帝、武帝の時代頃から、皇帝の権威・権勢が強まると、相対的に行政執行官であり、官僚の最高ポストでもある丞相の権威が低下して名誉職の色合いが濃くなった。そこで皇帝の側近筆頭たる御史大夫が、宰相の役割を果たすようになった。 この時期の御史大夫として、鼂錯や張湯がよく知られる。 だが、この状況も長くは続かず、外戚等の新たなる皇帝の側近勢力が、領尚書事として、政治の中枢に参与。これにより、彼等が政治の実権を握ることとなった。 日本では天智天皇の時代に一時期大臣に次ぐ官職名として採用されたが、壬申の乱によって近江朝廷が崩壊すると廃止された。大宝律令以後の律令制における大納言に相当するが、天皇近侍の官としての要素も含まれたとされている。なお、律令制下においては弾正尹の唐名として用いられた。 category:中国の官名.

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刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

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元帝 (漢)

元帝(げんてい)は、前漢の第10代皇帝。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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王商 (レイ吾)

王 商(おう しょう、? - 紀元前25年)は、前漢後期の人物。字は子威。涿郡蠡吾(河北省博野県)の人。漢の宣帝の母である王夫人の甥に当たる。.

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王商 (元城)

王 商(おう しょう、? - 紀元前12年)は、前漢後期の人物。字は子夏。魏郡元城県委粟里(河北省大名県)の出身。 成帝の生母の皇太后王氏(王政君)、及び成帝の執政(大将軍)となった王鳳の異母弟。河平2年(紀元前27年)に兄弟4人(王譚、王立、王根、王逢時)と共に列侯(成都侯)に封ぜられ、「五侯」と呼ばれた。 王鳳が権力を握る中、王商たち兄弟は奢侈を競い、天子の制度を擬するほどであった。一方でそれぞれ士を養った。 王鳳死後、従兄弟の王音が執政を継いだ後、成帝は王商の屋敷を訪問した際に王商が城壁に穴を開けて屋敷に水を引いていることを知り、また更に王根が天子の宮殿である白虎殿に擬した庭園を造っているのをお忍びで城下に出たときに知って激怒した。王商、王根は自ら刺青や鼻削ぎの刑をして皇太后王氏に謝罪しようとしたが、それを知った成帝は更に怒り、二人を誅殺しようとした。王商らは斧を背負って皇帝に謝罪し、なんとか誅殺を免れた。 王譚が死ぬと、成帝は王譚(王商の兄)が執政にならずに死んだことを悔やみ、王商を位特進とし、城門の兵を指揮させ、幕府を開かせた。王音が死ぬと、王商が代わって大司馬衛将軍となり(永始2年(紀元前15年))、城門の兵は王立が引き継いだ。 王商は永始4年(紀元前13年)に病気を理由に一旦引退したが、翌年(元延元年(紀元前12年))に復帰し、その年に大将軍に昇進するが直後に死亡した。景成侯と諡された。成都侯は子の王況が継いだ。 王況は後に罪があり侯を失うが、その弟の王邑が成都侯を継いだ。王邑は王莽の元で働いた。.

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王章

王 章(おう しょう、? - 紀元前24年)は、前漢後期の人物。字は仲卿。泰山郡鉅平(山東省泰安市)の人。 若くして長安で学問を学んだ。妻と2人で住んでいたが、病気になってもまともな掛けものもなく、粗末な衣の上に臥せっていた。王章は妻に対し、泣いて今生の別れを述べようとしたが、妻は「都の大臣たちにだって貴方を超える人などおりません。今、病気で苦しんでいるからといって奮起せずに泣いているとは、なんと卑しいことですか」と叱咤した。 その後官に就き、諫大夫となり、直言をすることで朝廷で名声を博した。元帝の初めに左曹中郎将に抜擢された。御史中丞陳咸と仲が良く、権力を握る中書令石顕を弾劾したが、逆に石顕に陥れられ、陳咸は髠刑にされ、王章は罷免された。 成帝が即位すると諫大夫に就けられ、司隷校尉となって大臣や外戚に恐れられた。河平4年(紀元前25年)、王尊以後は人を得なかった京兆尹に選ばれた。 当時、外戚の大将軍王鳳が権力を握っていたが、王章は王鳳に推挙されたとはいえ、王鳳が権力を独占することを良く思っていなかった。王章の妻は「人は足るを知るべきです。粗末な衣に臥せっていた時のことを考えないのですか」と言って王鳳に逆らうことを止めたが、王章は聞かず、成帝に王鳳が成帝の弟の定陶王(劉康)を国に行かせたこと、王鳳が丞相王商と争い王商を死に追い込んだこと、王鳳が自分の妾の妹で結婚していたことがある女性、張美人を後宮に入れされたことなどを非難し、罷免して交替させるべきと主張した。 王商や定陶王の件で内心穏やかではなかった成帝はその言を納れ、「京兆尹の進言がなかったら、朕は社稷のための計を聞かずに終わるところであった」と王章に言い、誰に交替するべきか尋ねた。王章は成帝の弟・中山王の外戚に当たる馮野王を勧め、成帝も馮野王にしようとした。このやり取りは人払いして行われたが、侍中であった王鳳の親戚王音が耳をそばだてて聞いており、このことを王鳳に報告した。王鳳は自ら悲しみに満ちた文面の辞職願を出し、皇太后王氏(王政君)もそれを聞いて涙を流し、食が進まなかった。成帝は王鳳を廃するに忍びず、王鳳を慰留した。 王鳳は王章を「王の外戚を推薦するのは諸侯に阿ったものである。また張美人の件を批判する際に「羌でも女性が産んだ最初の子は(自分の子ではない疑いがあるから)殺すのに、天子の後宮に最近まで別の者に嫁いでいた者がいるとは」と言うべきではないことを発言している」と尚書に弾劾させ、王章は獄に下された。廷尉は張美人についての発言を「天子を夷狄になぞらえ、また天子の子孫繁栄を断とうとするものである」と大逆罪に当て、王章は獄中で死亡した。 京兆尹では彼が冤罪で死んだと思い、彼と優れた手腕を見せた王尊、王駿とを並べて「三王」と呼んだ。 王章の妻子も獄に下され、王章の死後は合浦に流された。その後、王鳳の弟の王商が権力を握ると、王章の家族を故郷に戻した。王章の家族はみな揃っており、真珠を採取して巨万の富を得ていた。当時泰山太守だった蕭育は、王章の田畑や宅地だったところを王章の家族に返還させた。.

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王立

王 立(おう りつ、? - 4年)は、前漢後期の人物。字は子叔。魏郡元城県委粟里(現河北省大名県)の出身。 成帝の生母、皇太后王氏(王政君)、及び成帝の執政(大将軍)となった王鳳の異母弟。河平2年(紀元前27年)に兄弟4人(王譚、王商、王根、王逢時)と共に列侯(紅陽侯)に封ぜられ、「五侯」と呼ばれた。 王鳳が権力を握る中、王商たち兄弟は奢侈を競い、犯罪者や戸籍離脱者を匿い、賓客が盗賊となったという。 王鳳死後、従兄弟の王音が執政を継いだ後、成帝が王商、王根らの奢侈や僭上に激怒すると、同時に王立も成帝に犯罪者を匿ったことなどを責められた。王立らは斧を背負って皇帝に謝罪し、なんとか誅殺を免れた。 王音が死に、王商が代わって大司馬衛将軍となると、王立が位特進となり王商が指揮していた城門の兵を引き継いだ(永始2年(紀元前15年))。 丞相司直孫宝が、王立と南郡太守李尚による皇帝の私有地をめぐる不正事件を告発し、李尚は獄死した。王立は連座しなかったが、王商が死亡すると次に執政になるのは王立のはずだったが、成帝は王立を飛び越えて弟の王根を大司馬驃騎将軍とした。 また、王根の次の執政を得ようとした淳于長(王太后の姉の子)が、王立の嫡子である王融を通じて王立に賄賂を贈り、王立に口添えを頼んだが、王莽によって淳于長が失脚すると、王立との関係も発覚した。王立は王融を自殺させて証拠隠滅を図ったが、王立は都を離れ封国へ行くことを強制された。 哀帝が即位すると、哀帝は王氏の懐柔のために王立を都に呼び戻した。 平帝が即位し王莽が権力を握ると、王莽は王立を憚り、呂寛、王宇の事件を取り調べる際に王立も連座させ、自殺に追い込んだ(元始4年(4年))。荒侯と諡された。紅陽侯は子の王柱が継いだ。 王立の侯国である紅陽侯国は南陽にあり、王立は光武帝ら南陽の劉氏と交流を持ち、彼らに恩があった。王立の子である王丹は中山太守となり、後に光武帝に降伏して将軍となり、戦死した。光武帝は哀れんで、王丹の子の王泓を武桓侯とした。.

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王音

王 音(おう おん、? - 紀元前15年)は、前漢後期の政治家。魏郡元城県委粟里(河北省大名県)の出身。 成帝の生母、皇太后王氏(王政君)の叔父である王弘の子で、河平3年(紀元前26年)に侍中中郎将から侍中太僕に異動した。 京兆尹王章が当時権力を握る大司馬大将軍領尚書事の王鳳(皇太后王氏の兄弟)を排除しようと成帝に進言した時、両者の密談を侍中の王音が聞き耳を立てて王鳳に報告したことから、王鳳は王章の企みを阻止し、権力を独占できた。 王音は陽朔2年(紀元前23年)には御史大夫に昇進した。 王鳳は翌年(陽朔3年)、自分の地位を仲が悪かった弟の王譚ではなく、王章の際の功績があり、さらに自分を父のように慕う王音を後継者とするよう成帝に遺言して死んだ。そこで王音は同年に大司馬車騎将軍となり、鴻嘉元年(紀元前20年)には安陽侯(3000戸)に封ぜられた。 外戚王氏が権力を独占し、度を越した贅沢や横暴などで世間からも成帝からも白い眼で見られる中、王音だけは諫言をするなど忠節があると言われた。 永始2年(紀元前15年)に死亡。敬侯と諡された。王商が彼の後任として大司馬衛将軍となった。 安陽侯は子の王舜が継いだ。.

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王莽

王莽が発行した貨幣。小刀を模した形状である 王 莽(おう もう)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。.

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王譚

王 譚(おう たん、? - 紀元前16年)は、前漢後期の人物。字は子元。魏郡元城県委粟里(河北省大名県)の出身。 王禁の子、成帝の生母の皇太后王氏(王政君)、及び成帝の執政(大将軍)となった王鳳、王曼の異母弟、王崇の異母兄。河平2年(紀元前27年)に弟4人(王商、王立、王根、王逢時)と共に列侯(平阿侯)に封ぜられ、「五侯」と呼ばれた。 生存している兄弟の中では王譚が王鳳の次の順番だったが、王鳳と仲が悪く彼に仕えようとせず、また傲慢であった。そのため、王鳳が重病になった際、成帝が執政の後継者について「王譚が次の執政であろうな」と尋ねたところ、王鳳は自分の従兄弟である御史大夫王音を推薦し、陽朔3年(紀元前22年)王鳳が死ぬと、王譚ではなく王音が後継者となった。 成帝は王譚を執政の代わりに位特進とし、城門の兵を指揮させようとしたが、谷永の進言により王譚は謙譲の姿勢を示して辞退し、それから王音と王譚の仲が険悪になった。 永始元年(紀元前16年)に王譚は死亡し、安侯と諡された。平阿侯は子の王仁が継いだ。王仁は元始4年(4年)に王莽に殺された。平阿侯はその子の王述が継いだが、建武2年に死亡して断絶した。 王譚の子には後継ぎの王仁のほか、哀帝が皇太子の時に太子庶子、即位後に侍中騎都尉となった王去疾、その弟の王閎がいる。.

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王逢時

王 逢時(おう ほうじ、? - 紀元前12年)は、前漢の人物。魏郡元城県委粟里(河北省大名県)の出身。字は季卿。.

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王根

王 根(おう こん、? - 紀元前6年)は、前漢後期の人物。字は稚卿。魏郡元城県委粟里(河北省大名県)の出身。成帝の生母、皇太后王氏(王政君)、および成帝の執政(大将軍)となった王鳳の異母弟。河平2年(紀元前27年)に兄弟4人(王譚、王商、王立、王逢時)と共に列侯(曲陽侯)に封ぜられ、「五侯」と呼ばれた。 王鳳が権力を握る中、王商たち兄弟は奢侈を競った。王根の屋敷内の庭園は皇帝の宮殿を模したものであり、そのことが民間で歌にされるほどだった。 王鳳死後、従兄弟の王音が執政を継いだ後、成帝はお忍びで城下を歩いた際に王根の屋敷のことを知り、王根らの奢侈や僭上に激怒すると、王根らは斧を背負って皇帝に謝罪し、なんとか誅殺を免れた。 元延元年(紀元前12年)に光禄勲となり、同年に大司馬大将軍の座にあった兄の王商が死ぬと、汚職事件への関与が疑われていた王立を飛び越えて王根が後継者となり、大司馬驃騎将軍となった。 綏和元年(紀元前8年)、後継者に恵まれなかった成帝が皇太子を選ぶ際、王根は成帝の甥にあたる定陶王(のちの哀帝)の祖母傅氏から賄賂を受け、そこで王根は定陶王を推薦した。定陶王が皇太子となった後、王根は引退し、後任として甥に当たる王莽を推薦した。 綏和2年に成帝が急死し皇太子(哀帝)が即位すると、当初は自分を推薦してくれたことから封邑2000戸を加増し優遇したが、司隷校尉解光が王根のそれまでの奢侈や僭上、成帝の死後に宴会を開いたことなどを摘発したため、封国に行かされることとなった。 翌年(建平元年(紀元前6年))に王根は死亡した。煬侯と諡された。曲陽侯は子の王渉が継いだ。 王莽が新を建てると、王莽は王根が自分を推薦したことに恩を感じていたため、「曲陽」という封国名が良くないと思い、王根の諡を直道譲公と改め、王渉を直道公国の後継者とした(天鳳5年)。王渉は後に王莽に対する反乱を計画するが発覚し、自殺した。.

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王政君

王 政君(おう せいくん、紀元前71年 - 13年)は、前漢の元帝(劉奭)の皇后で、成帝(劉驁)の生母。孝元皇后(孝元王皇后)、元后、孝元皇太后、孝元太皇太后と称される。王莽の姑母にあたる。.

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紀元前15年

紀元前15年。.

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紀元前20年

紀元前20年。.

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紀元前22年

紀元前22年。.

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衛尉

衛尉(えいい)とは、中国の官名である。.

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鴻嘉

鴻嘉(こうか)は、中国、前漢の成帝劉驁の治世に行われた4番目の年号。紀元前20年 - 紀元前17年。.

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霍光

霍光(三才図会より) 霍 光(かく こう、? - 紀元前68年、Huò Guāng)は、前漢の政治家。昭帝・宣帝の2代を補佐し政治を取り仕切った。霍仲孺の子で霍去病の異母弟、霍禹の父、上官皇后の祖父。字は子孟。.

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録尚書事

録尚書事(ろくしょうしょじ)は、中国後漢代から魏晋南北朝時代に存在した官職。尚書を束ねる役職として政権を握り、宰相職としてあったが、隋代に廃止された。 尚書省・尚書令なども合わせて参照のこと。.

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永始 (漢)

永始(えいし)は、中国、前漢の成帝劉驁の治世に行われた5番目の年号。紀元前16年 - 紀元前13年。.

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河北省

河北省(かほくしょう、中国語:河北省、拼音:Héběi Shěng、英語:Hebei)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。省都は、石家荘市。河北の省名は、黄河の北にあることに由来する。河北省の旧称冀州から、略称は冀。.

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成帝 (漢)

成帝(せいてい)は、前漢の第11代皇帝。.

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