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王妃 (皇族)

索引 王妃 (皇族)

王妃(おうひ)は、日本の皇族に属する王の妃の身位、またはその身位にある人をいう。日本における王妃は皇室典範第5条により皇族と規定される。敬称は「殿下」である(同法第23条第2項)。 1947年(昭和22年)10月14日の旧11宮家皇籍離脱以降、王妃の身位に該当する皇族は存在しない。.

113 関係: 博義王博恭王妃経子多嘉王多嘉王妃静子女王女王 (皇族)子爵尾張藩山階宮菊麿王山階宮武彦王島津忠義三条公輝一条実輝九条道孝九条道実久邇宮邦彦王久邇宮朝融王伊勢国伏見宮博恭王伏見朝子伯爵佐賀藩侯爵徳川将軍家徳川義恕徳川慶喜北白川宮永久王北白川宮成久王北白川祥子内親王公家公爵皇室会議皇室典範皇室典範 (1889年)皇位皇族王 (皇族)竹田宮恒久王竹田恒徳続柄羽林家男爵盛厚王鍋島直大菊麿王妃常子菊麿王妃範子親王...親王妃諸侯鳩彦王妃允子内親王賀陽宮邦憲王賀陽宮恒憲王身位近世薩摩藩閑院宮春仁王藤堂高紹邦彦王妃俔子醍醐忠順臣籍降下恒久王妃昌子内親王恒徳王妃光子恒憲王妃敏子李垠李王家李方子東久邇宮東久邇宮稔彦王東久邇聡子東久邇成子梨本宮守正王梨本伊都子武彦王妃佐紀子女王殿下津藩清華家朝融王妃知子女王朝香千賀子朝香孚彦朝香宮鳩彦王成久王妃房子内親王明治天皇春仁王妃直子昭和昭和天皇日本摂家10月14日1891年1895年1897年1899年1900年1902年1907年1908年1909年1910年1915年1919年1920年1921年1922年1925年1934年1935年1938年1943年1947年 インデックスを展開 (63 もっと) »

博義王

博義王(ひろよしおう、1897年(明治30年)12月8日 - 1938年(昭和13年)10月19日)は、明治・大正期の伏見宮家の皇族、海軍軍人。 最終階級は海軍大佐昭和天皇実録七649-650頁「博義王略歴」「告示◎宮内告示第二十七號 海軍大佐大勲位博義王殿下本日午前二時東京府東京市麹町區紀尾井町四番地伏見宮邸ニ於テ薨去セラル 昭和十三年十月十九日 宮内大臣 松平恒雄|敍任◎昭和十三年十月十九日 海軍中佐大勲位博義王 任海軍大佐|◎宮廷録事(略)◎博義王殿下御容体 海軍大佐大勲位博義王殿下ニハ去ル八月二十八日以來軽微ナル御持病ノ氣管支喘息御發作アリシモ比較的輕易ニ拝セシカ本月十八日午前一時頃急劇ニ激烈ナル御發作アリ今十九日午前一時再ヒ強烈ナル御發作アリ種々御手當申上ケタルモ同二時心臓麻痺ニテ薨去遊ハサル」。 伏見宮第25代当主の伏見宮博恭王第1王子。伏見宮の継承はしていないが、伏見宮博義王と通称されることもある。.

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博恭王妃経子

博恭王妃 経子(ひろやすおうひ つねこ、1882年(明治15年)9月23日 - 1939年(昭和14年)8月18日)は、明治から昭和にかけての皇族。伏見宮博恭王妃。徳川幕府15代将軍・徳川慶喜の九女。母は側室の新村信。高松宮妃喜久子の伯母。 王子女に伏見宮博義王、恭子女王、華頂宮博忠王、伏見宮博信王、敦子女王、知子女王(久邇宮朝融王妃)、伏見宮博英王。.

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多嘉王

多嘉王(たかおう、1875年(明治8年)8月17日 - 1937年(昭和12年)10月1日)は、日本の皇族。久邇宮朝彦親王の第五王子。伊勢神宮祭主となる。.

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多嘉王妃静子

多嘉王妃静子(たかおうひ しずこ、1884年(明治17年)9月25日 - 1959年(昭和34年)9月27日)は、日本の皇族。久邇宮朝彦親王の第五王子多嘉王の妃。子爵水無瀬忠輔の長女。母は東園基敬の娘・富子。久邇洋裁学校創設者。.

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女王

女王(じょおう、ラテン語:regina、フランス語:reine、英語:queen、ドイツ語:Königin)は、一般に「王」のうち女性であるもの、または男性の「王」に相当する女性の地位。 「王」は、君主の一般的な称号として用いられるほか皇族や諸侯の称号として、あるいは転じて第一人者の意味で用いられるが、これは「女王」についても同様である。ここでは、君主としての女王の意味のほか、その派生的用法について記述する。.

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女王 (皇族)

女王(じょおう / にょおう)は、皇族女子の身位または称号の一つ。 現行の皇室典範では天皇からみて嫡男系嫡出で三親等以遠の者に与えられる。皇室典範で定められた敬称は殿下。 2015年現在、寬仁親王の娘である彬子女王・瑶子女王、高円宮憲仁親王の娘である承子女王・絢子女王の合計4人がその地位にある。これら4女王は直系尊属である大正天皇からみて三親等、即ち曾孫にあたる。.

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妃(ひ)は、後宮における后妃の身分の一つ。日本の律令制では皇后に次ぐ第2位に位置づけられている。現代日本では転じて天皇以外の男性皇族の配偶者に対して用いられている(例:皇太子妃・親王妃)が、本項目では本来の意味である后妃身分について解説する。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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山階宮菊麿王

山階宮菊麿王(やましなのみや きくまろおう、1873年(明治6年)7月3日 - 1908年(明治41年)5月2日)は、日本の皇族、海軍軍人。山階宮晃親王の第一王子。母は家女房中条千枝子。官位は海軍大佐大勲位功四級。.

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山階宮武彦王

山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年(明治31年)2月13日 - 1987年(昭和62年)8月10日)は、日本の皇族。山階宮菊麿王と同妃範子(先妻)の第一王子。海軍少佐。海軍航空隊に所属し、空の宮様とも呼ばれた。.

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島津忠義

島津 忠義(しまづ ただよし)は、幕末から明治時代の大名、華族。薩摩藩の第12代(最後)の藩主で、島津氏第29代当主。官位は従一位参議。勲等は勲一等、公爵。 幼名は壮之助。通称は又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。 第125代天皇・明仁の曽祖父である。.

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三条公輝

三条 公輝(さんじょう きんてる、明治15年(1882年)12月2日 - 昭和20年(1945年)11月10日)は、明治から昭和戦前期にかけての華族、貴族院議員。公爵。東京帝国大学卒業。.

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一条実輝

一条 実輝(いちじょう さねてる、旧字体:一條實輝、慶応2年8月24日(1866年10月2日) - 大正13年(1924年)7月9日)は、日本の華族、海軍軍人。海軍大佐・正二位・公爵に上り、東宮侍従長を務める。陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。一条家は藤原北家、九条道家の三男実経を始祖とし、五摂家の一つに数えられる。実輝は、自身のはとこにあたる一条忠貞の跡を受け家督を継ぐ。昭憲皇太后は義理の叔母。.

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九条道孝

九条 道孝(くじょう みちたか)は、日本の公家、政治家(貴族院議員)。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。最後の藤氏長者。 昭和天皇の外祖父である。.

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九条道実

九条 道実(九條 道實、くじょう みちざね、1870年1月16日(明治2年12月15日)- 1933年(昭和8年)1月19日『平成新修旧華族家系大成』上巻、537-538頁。)は、日本の宮内官、政治家、華族。貴族院公爵議員。.

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久邇宮邦彦王

久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級及び位階勲等は軍事参議官、陸軍大将、大勲位、功四級。贈元帥、贈大勲位菊花章頸飾。 久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇の皇后)の父。第125代今上天皇の外祖父。.

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久邇宮朝融王

久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう、1901年(明治34年)2月2日 - 1959年(昭和34年)12月7日)は、日本の皇族、官位は海軍中将大勲位功三級。 昭和天皇の義兄。第125代今上天皇の伯父にあたる。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伏見宮博恭王

伏見宮 博恭王(ふしみのみや ひろやすおう、1875年(明治8年)10月16日 - 1946年(昭和21年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長を務めた。栄典は元帥海軍大将大勲位功一級。初め名を愛賢王(なるかたおう)といい、華頂宮相続に当たり名を博恭と改めた。 日露戦争では連合艦隊旗艦「三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。また艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。.

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伏見朝子

伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年(明治35年)6月20日 - 1971年(昭和46年)4月3日)は、公爵・一条実輝の三女で、伏見宮博恭王第一王子・博義王の妃。.

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伯爵

伯爵(はくしゃく、、)とは爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する。もともとは古代中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じてヨーロッパの貴族の称号の訳語にも用いられるようになった。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川義恕

徳川 義恕(とくがわ よしくみ、1878年11月1日 - 1946年11月4日)は日本の陸軍軍人、侍従、男爵。.

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徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。 徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。.

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北白川宮永久王

北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう、1910年(明治43年)2月19日 - 1940年(昭和15年)9月4日)は、日本の皇族、陸軍軍人、貴族院議員。陸軍大将北白川宮能久親王の王子北白川宮成久王の第一王子。最終階級は陸軍砲兵少佐(薨後特進)、勲等は大勲位菊花大綬章。 母は明治天皇の第七皇女房子内親王。妃は男爵徳川義恕の次女祥子。参謀たる陸軍砲兵大尉としてモンゴルへ赴任していたが、演習中に航空事故に巻き込まれ事故死した。.

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北白川宮成久王

北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年(明治20年)4月18日 - 1923年(大正12年)4月1日)は日本の皇族である。階級は陸軍大佐。 北白川宮能久親王の第3王子。.

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北白川祥子

北白川 祥子(きたしらかわ さちこ、1916年(大正5年)8月26日 - 2015年(平成27年)1月21日)は、北白川宮永久王の妃。男爵・徳川義恕の次女。母は津軽承昭の娘・寛子。 長兄の徳川義寛は侍従長。次兄の津軽義孝は常陸宮妃華子の父に当たる。.

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内親王

内親王(ないしんのう、うちのみこ、ひめみこ、Princess)は、皇族女子の身位または称号の一つ。現行の皇室典範では天皇からみて直系で2親等以内の者に与えられる。かつては、親王宣下を受けた皇族女子に与えられた。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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公爵

公爵(こうしゃく、、)は、爵位(五爵)の第1位である。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパの貴族の称号の訳語、古代中国の諸侯の称号、また明治以降から戦前まで使われた日本の華族の称号として用いられる。 日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられたが、たとえば伊藤博文や近衛文麿の爵位が英米ではprinceと訳されることとなり、皇族と誤解されるような場合があった。 日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。.

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皇室会議

皇室会議(こうしつかいぎ)は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経る」または「議に拠る」こととされ、諮問機関とは一線を画する。 なお、宮内庁長官が議員として参加する、会議が宮内庁本庁舎において行われる等宮内庁とは関係は深いものの、それぞれはお互いに独立した機関である。.

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皇室典範

皇室典範(こうしつてんぱん、昭和22年法律第3号)は、日本国憲法第2条及び第5条に基づき、皇位継承及び摂政に関する事項を中心に規律した皇室に関する法律である。 1947年(昭和22年)に、日本国憲法第100条及び第2条、第5条に基づき、日本国憲法施行前に、憲法に附属する法律の制定手続によって、枢密院の諮詢及び帝国議会(衆議院・貴族院)の協賛を経て、現在の「皇室典範」(昭和22年法律第3号)が制定された。.

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皇室典範 (1889年)

皇室典範(こうしつてんぱん)は、1889年(明治22年)から1947年(昭和22年)までの、皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について規定していた家憲である。大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称した。昭和22年5月2日に廃止され、新たに法律として制定された皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が、同年5月3日の日本国憲法と同時に施行された。.

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皇位

皇位(こうい)は、日本で天皇の位を意味する概念。.

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皇族

女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.

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王(おう)は、おおむね国の君主(国王)を指し、その君主号である。また、特定の領土を持たずとも、ある部族や種族の長たる者を王と呼ぶ。転じて、ある特定の分野での頂点あるいは頂点に近い位置にある者、または物を指すこともある。 または、主に東アジア地域において用いられた爵位の一つ。.

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王 (皇族)

王(おう、みこ、古くはおおきみ)は、皇族の身位または称号の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。現行の皇室典範では天皇からみて直系で嫡男系嫡出の三親等以遠の男性に与えられる。皇室典範で定められた敬称は殿下。.

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竹田宮恒久王

竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年(明治15年)9月22日 - 1919年(大正8年)4月23日)は日本の皇族・陸軍軍人。.

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竹田恒徳

竹田 恒徳(たけだ つねよし、1909年(明治42年)3月4日 - 1992年(平成4年)5月11日)は、日本の旧皇族(竹田宮第2代)、陸軍軍人。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱し、竹田恒徳と名乗る。皇籍離脱前は竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう)。陸軍少将竹田宮恒久王の第1王子で、母は明治天皇の第6皇女常宮昌子内親王、昭和天皇の従弟にあたる。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。 妹の禮子女王は佐野常光に嫁す。.

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続柄

続柄の関係図 続柄(つづきがら)とは、血縁関係あるいは婚姻関係を指す語である。俗に「ぞくがら」と読まれることもある。 血族と姻族、直系と傍系、尊属と卑属の意味や親等については「親族」を参照。 本項目において「親族」とは、民法第725条「親族の範囲」で定める「法定親族」を指す。.

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羽林家

羽林家(うりんけ)は、鎌倉時代以降の公家の家格のひとつで、摂家、清華家、大臣家の下、名家と同列、半家の上の序列に位置し、江戸時代の武家官位においては各大名家に与えられる家格に相当する。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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盛厚王

盛厚王(もりひろおう、1917年5月6日 - 1969年2月1日)は、日本の皇族、陸軍軍人。旧皇族。東久邇宮稔彦王第一王子で、母は明治天皇第九皇女聰子内親王。弟に師正王、粟田彰常侯爵、多羅間俊彦がいる。 陸軍での階級は陸軍少佐。勲等は勲一等。なお、盛厚王自身は「東久邇宮」を継承してはいないが、慣例に従い「東久邇若宮」と呼ばれることもあった。.

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鍋島直大

鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。 佐賀藩第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。.

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菊麿王妃常子

菊麿王妃常子(きくまろおうひ ひさこ、1874年(明治7年)2月7日 - 1938年(昭和13年)2月26日)は、日本の皇族。山階宮菊麿王の後妃。.

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菊麿王妃範子

菊麿王妃範子(きくまろおうひのりこ、1878年(明治11年)12月4日 - 1901年(明治34年)11月11日)は、日本の皇族。山階宮菊麿王の先妃。旧摂家、公爵・九条道孝の二女。貞明皇后は同腹の妹である。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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親王妃

親王妃(しんのうひ/みこのみめ、Princess)は、親王の妃、またはその身位にある人をいう。日本における親王妃は皇室典範第5条により皇族(女性皇族)と規定される。なお、皇太子妃も、親王妃に含まれる。敬称は「殿下」である(同法第23条第2項)。江戸時代までは御息所ともいわれた。 現在、親王妃は皇太子妃を含めて、皇太子徳仁親王妃雅子(皇太子妃)、文仁親王妃紀子(秋篠宮妃)、正仁親王妃華子(常陸宮妃)、崇仁親王妃百合子(三笠宮妃)、寛仁親王妃信子、憲仁親王妃久子(高円宮妃)の6名である。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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諸侯

諸侯(しょこう)とは、主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された臣下である貴族のことである。 原義においては、古代中国において、春秋時代まで天子である周王朝などの王から封土を与えられて、封土の内側(国家)において天子にかわって「君」として振る舞うことが許された、あるいは許されたと観念されていた諸都市国家や都市国家連合の世襲的な首長のことであった。戦国時代に整理された周の理想的制度においては、諸侯は公・侯・伯・子・男の五等の爵位を与えられていたと考えられ、前漢以後は郡国制において王・公などの爵位と「藩国」と呼ばれる封土を与えられた者を諸侯と呼んだ。.

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鳩彦王妃允子内親王

鳩彦王妃允子内親王(やすひこおうひ のぶこないしんのう、1891年(明治24年)8月7日 - 1933年(昭和8年)11月3日)は、日本の皇族で、朝香宮鳩彦王の妃。明治天皇の第八皇女。母は権典侍・園祥子。旧名、富美宮允子内親王(ふみのみや のぶこないしんのう)。.

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賀陽宮邦憲王

賀陽宮邦憲王(かやのみや くにのりおう、1867年7月2日(慶応3年6月1日) - 1909年(明治42年)12月8日)は、日本の皇族、伊勢神宮祭主。第125代今上天皇の大伯父にあたる。.

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賀陽宮恒憲王

賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、1900年(明治33年)1月27日 - 1978年(昭和53年)1月3日)は日本の元皇族、陸軍軍人である。神宮祭主賀陽宮邦憲王第1王子。官位は陸軍大学校長陸軍中将大勲位功三級に昇る。妃は九条道実公爵の五女敏子。.

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身位

身位(しんい)とは、日本の皇族の皇室内部での身分及び地位の差異を表現するためのことば。 日本の皇室において、皇族の身位とは、皇后、太皇太后、皇太后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王をいう。 「皇族身位令」(明治43年皇室令第2号)では、皇族はそれぞれの身位に応じ、下記のとおり叙勲されることとされていた。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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閑院宮春仁王

閑院宮春仁王(かんいんのみや はるひとおう、1902年(明治35年)8月3日 - 1988年(昭和63年)6月18日)は、日本の皇族、陸軍軍人で、階級は陸軍少将に昇る。栄典は大勲位・功四級。閑院宮載仁親王の第2王子。兄宮の篤仁王が生後すぐに薨去したため、実質長男として育ち、父載仁親王薨去にともない閑院宮を継承した。なお、父の代まで親王であったため、誤って「閑院宮春仁親王」として言及されることがしばしばある 誤って「春仁親王」とした言及の例:::。 戦後は皇籍を離脱し、姓を閑院とし閑院春仁と名乗った。のちに純仁(すみひと)と改名した。.

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藤堂高紹

藤堂 高紹(とうどう たかつぐ、明治17年(1884年)7月27日 - 昭和18年(1943年)1月12日)は、伊勢国津藩の最後の藩主藤堂高潔の長男で、藤堂家宗家13代当主。従二位、伯爵。母は蜂須賀斉昌の養女・量子。子に藤堂高廷、藤堂高弘、良子(長女・岩倉具栄妻)、本子(次女・岩倉具実妻)、国子、千賀子(五女・朝香宮孚彦王妃)。.

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邦彦王妃俔子

邦彦王妃俔子(くによしおうひ ちかこ、1879年(明治12年)10月19日 - 1956年(昭和31年)9月9日)は、久邇宮邦彦王の妃。香淳皇后の母。今上天皇の外祖母。 姉は黒田長成夫人・清子、松平直亮夫人・充子、山階宮菊麿王妃常子、徳川達孝夫人・知子、久松定謨夫人・貞子。妹は徳川家正夫人・正子、徳川頼貞夫人・為子。弟は第30代島津家当主島津忠重、旧佐土原藩主で孫である島津貴子の夫の島津久永の父に当たる島津久範ら。.

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醍醐忠順

醍醐 忠順(だいご ただおさ)は、江戸時代末期の公卿、廷臣。仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。明治時代には政治家となり、特に初代大阪府知事として知られる。父は内大臣醍醐輝弘。母は関白鷹司政熙の娘。子に醍醐忠告、醍醐忠敬、一条忠貞、醍醐忠直、娘に好子(賀陽宮邦憲王妃)、親子(鶴殿忠善妻)がいる。.

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.

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恒久王妃昌子内親王

恒久王妃昌子内親王(つねひさおうひ まさこないしんのう、1888年(明治21年)9月30日 - 1940年(昭和15年)3月8日)は、日本の皇族で、竹田宮恒久王の妃。明治天皇の第六皇女(母は園基祥の娘・園祥子)。.

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恒徳王妃光子

恒徳王妃光子(つねよしおうひ みつこ、1915年(大正4年)11月6日 - 2013年(平成25年)8月11日は、日本の元皇族で、竹田宮恒徳王の妃。公爵三条公輝の次女。母は伯爵正親町実正の長女・静子。.

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恒憲王妃敏子

恒憲王妃敏子(つねのりおうひ としこ、1903年(明治36年)5月16日 - 1995年(平成7年)3月23日)は日本の元皇族。賀陽宮恒憲王の妃。公爵・九条道実の五女。貞明皇后は叔母、昭和天皇は従兄にあたる。.

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李垠

李 垠(り ぎん、イ・ウン、、光武元年(1897年)10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王(李家当主)。大韓帝国時代の称号は英親王。.

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李王家

王家の紋章「李花紋」 李王家(りおうけ、이왕가、イワンガ)は李氏朝鮮の歴代国王を出した家系で、韓国併合後は日本の王公族となり、皇族に準じる待遇を受けたが、第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴いその身分を失った(身位喪失)。.

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李方子

李 方子(り まさこ、이방자〈イ・バンジャ、り ほうし〉、1901年〈明治34年〉11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。.

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東久邇宮

東久邇宮(ひがしくにのみや)は、明治時代後期に久邇宮朝彦親王の第9子である稔彦王が創立した宮家。 後継には恵まれたが、1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱。よって一代限りの宮家となった。その末裔は、現在の皇位継承問題などと絡んで旧皇族の中では露出度が高い。.

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東久邇宮稔彦王

東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の皇族(旧皇族)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)名誉会長、第2代会長。千葉工業大学の創設発案者。 貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。 父は久邇宮朝彦親王。香淳皇后(昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。 日本の降伏、第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。 東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。 その一方、昭和天皇への問責を阻止するため“一億総懺悔”を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策内相及び内務警察官僚4000名の罷免と治安維持法の撤廃、特別高等警察の廃止を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した東久邇宮首相は、副総理格の緒方竹虎の意見を求めると「占領されている以上拒否はできないが、承服したのでは政府の威信がなくなる。承服できないという消極的な意思表示の意味で内閣総辞職しよう」と述べ、これに首相が同意し、内閣は総辞職した(産経新聞 2002年6月10日掲載)。歴代総理大臣では最高齢(死去時102歳48日)の首相経験者である。.

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東久邇聡子

東久邇 聡子(ひがしくに としこ、1896年(明治29年)5月11日 - 1978年(昭和53年)3月5日)は、日本の元皇族で、東久邇宮稔彦王の妃。明治天皇の第九皇女。母は園祥子。旧名、泰宮聡子内親王(やすのみや としこないしんのう)。皇籍離脱前の名は、稔彦王妃聡子内親王(なるひこおうひ としこないしんのう)。.

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東久邇成子

東久邇 成子(ひがしくに しげこ、1925年(大正14年)12月6日 - 1961年(昭和36年)7月23日)は、日本の元皇族。昭和天皇と香淳皇后の第一皇女。今上天皇と常陸宮正仁親王の長姉。お印は紅梅。勲等は勲一等。 旧名は、照宮 成子内親王(てるのみや しげこないしんのう)。皇籍離脱前の名は、盛厚王妃 成子内親王(もりひろおうひ しげこないしんのう)。.

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梨本宮守正王

梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年(明治7年)3月9日 - 1951年(昭和26年)1月1日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。大韓帝国最後の皇太子である李王垠の岳父。第125代今上天皇の大叔父にあたる。.

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梨本伊都子

梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年(明治15年)2月2日 - 1976年(昭和51年)8月19日)は、日本の元皇族。旧名は鍋島伊都子。梨本宮守正王の妃。皇族女性随一の美人と謳われた。妹に松平信子。お印は桂小田部雄次 『天皇と宮家―消えた十一宮家と孤立する天皇家』 新人物往来社、2010年。。.

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武彦王妃佐紀子女王

武彦王妃佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、(1903年〈明治36年〉3月30日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の皇族。賀陽宮邦憲王と同妃好子の第二王女。山階宮武彦王の妃。.

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殿下

殿下(でんか・てんが、英:Highness)は、皇族・王族等の敬称。「殿舎の階下」の意味で、中国を起源とし、同一国内の称号としては皇帝・天皇等に対する陛下より下位に、高官に対する閣下より上位に位置付けられる。漢字文化圏で皇帝に臣従する(冊封下にある)国の国王や皇族・王族に対して用いられ、日本では摂関にも用いた。また、Imperial Highness, Royal Highness等、漢字文化圏以外の国の君主や王族などに対する敬称の訳語としても用いられ、この場合には必ずしも陛下や閣下等と上下関係にはない。.

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津藩

津藩(つはん)は伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3,000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。.

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清華家

清華家(せいがけ)とは、公家の家格のひとつ。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる7家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指すが、のちに、広幡・醍醐を加えて9家となった。また、豊臣政権時に五大老だった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしており、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けている。.

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朝融王妃知子女王

朝融王妃 知子女王(あさあきらおうひ ともこじょおう、1907年(明治40年)5月18日 - 1947年(昭和22年)6月28日)は、日本の皇族。伏見宮博恭王の第3女子、久邇宮朝融王の妃。香淳皇后の義姉。.

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朝香千賀子

朝香千賀子(あさか ちかこ、1921年(大正10年)5月3日 - 1952年(昭和27年)12月6日)は、日本の元皇族。朝香宮鳩彦王の第一王子・孚彦王の妃。伯爵・藤堂高紹の五女。母は伯爵・真田幸民の娘・信子。皇籍離脱前の名は、孚彦王妃千賀子(たかひこおうひ ちかこ)。.

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朝香孚彦

朝香 孚彦(あさか たかひこ、1912年(大正元年)10月8日 - 1994年(平成6年)5月6日)は、日本の元皇族、陸軍軍人。朝香宮鳩彦王の第1王子で、旧名は孚彦王。1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱。陸軍軍人で、皇族として初めて操縦桿を握った。士候45期、陸大53。最終階級は陸軍中佐。.

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朝香宮鳩彦王

朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年(明治20年)10月20日 - 1981年(昭和56年)4月12日)は日本の皇族、陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子で、朝香宮初代当主。1947年(昭和22年)10月14日に皇族の身分を離れ、朝香鳩彦と名乗る。 最終階級は陸軍大将。勲等は大勲位功一級。また、「ゴルフの宮様」として知られる。 第125代今上天皇の大叔父にあたる。 陸軍大将であったため、朝香大将宮殿下(あさかたいしょうのみやでんか)とも呼ばれた。.

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成久王妃房子内親王

成久王妃 房子内親王(なるひさおうひ ふさこないしんのう、1890年(明治23年)1月28日 - 1974年(昭和49年)8月11日)は日本の皇族で、北白川宮成久王の妃である。明治天皇の第七皇女(母は権典侍・園祥子)。.

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明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)- 1912年(明治45年)7月30日)は日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれる。功績・人物像から明治大帝(Meiji the Great)・明治聖帝・睦仁大帝(Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。.

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春仁王妃直子

春仁王妃直子(はるひとおうひ なおこ、1908年(明治41年)11月7日 - 1991年(平成3年)6月17日)は、日本の元皇族。旧姓一条。公爵・一条実輝の第四女子。母は侯爵・細川護久の娘・細川悦子。閑院宮春仁王の妃,誤って「春仁親王妃直子」として言及されることがしばしばある。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.

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10月14日

10月14日(じゅうがつじゅうよっか、じゅうがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から287日目(閏年では288日目)にあたり、年末まであと78日ある。.

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1891年

記載なし。

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1895年

記載なし。

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1897年

記載なし。

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1899年

記載なし。

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1900年

19世紀最後の年である。100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく、4で割り切れる平年となる。.

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1902年

記載なし。

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1907年

記載なし。

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1908年

記載なし。

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1909年

記載なし。

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1910年

記載なし。

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1915年

記載なし。

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1919年

記載なし。

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1920年

記載なし。

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1921年

記載なし。

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1922年

記載なし。

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1925年

記載なし。

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1934年

記載なし。

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1935年

記載なし。

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1938年

記載なし。

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1943年

記載なし。

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1947年

記載なし。

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