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湛快

索引 湛快

湛快(たんかい、康和元年〈1099年〉 - 承安4年〈1174年〉)は、平安時代後期の熊野本宮大社の社僧で18代熊野別当。15代熊野別当長快の四男。歴代別当の中で最も有名な21代別当湛増は、湛快の次男。一部の民俗学者や歴史家、随筆家の間で、湛快と「たつたはらの女房」(出家して鳥居禅尼という)が結ばれ湛増を生ませたとの俗説が流布されているが、これは実証を伴わない誤りである。.

37 関係: 天台座主平安時代平治平治の乱平治物語平清盛久安康和後白河天皇保安 (元号)和歌山県石清水八幡宮紀伊続風土記田辺市熊野別当熊野神社熊野本宮大社牟婁郡西行鳥居禅尼鳥羽天皇闘鶏神社長寛勘文長快 (熊野別当)湯浅宗重湛増新古今和歌集愚管抄慈円承安 (日本)1099年1146年1149年1159年1162年1172年1174年

天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平治

平治(へいじ)は、日本の元号の一つ。保元の後、永暦の前。1159年の期間を指す。この時代は二条天皇による治世。.

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平治の乱

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。.

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平治物語

『平治物語』(へいじものがたり)は平治の乱の顛末を描いた軍記物語。.

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平清盛

平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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康和

康和(こうわ)は、日本の元号の一つ。承徳の後、長治の前。1099年から1103年までの期間を指す。この時代の天皇は堀河天皇。.

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後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。.

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保安 (元号)

保安(ほうあん、ほあん)は、日本の元号の一つ。元永の後、天治の前。1120年から1123年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇、崇徳天皇。.

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和歌山県

和歌山県(わかやまけん)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。県庁所在地は和歌山市。日本最大の半島である紀伊半島の西側に位置し、県南部には大規模な山地を有する。.

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石清水八幡宮

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。.

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紀伊続風土記

紀伊続風土記(きいぞくふどき、きいしょくふどき)は、紀州藩が編纂した地誌。.

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田辺市

龍神温泉 湯の峰温泉つぼ湯 田辺市(たなべし)は、近畿地方の南部、和歌山県の中南部に位置する市。 和歌山県南部の中心都市である。熊野古道の中辺路ルート、大辺路ルートの分岐点で、「口熊野」と称される。 近畿の市の中では面積は最大である(全国順位は20位).

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熊野別当

野別当(くまのべっとう)は、9世紀から14世紀前半にかけて、現地において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職。.

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熊野神社

野神社(くまのじんじゃ)は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。同名または熊野社(くまのしゃ・ゆやしゃ・いやしゃ)・十二所神社(じゅうにそじんじゃ、じゅうにしょじんじゃ)など類似の社名の神社が全国各地にある。.

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熊野本宮大社

野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山の一つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。.

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牟婁郡

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西行

西行像(MOA美術館蔵) 西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月31日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。.

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鳥居禅尼

鳥居禅尼(とりいぜんに、生没年不詳)、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性。源為義の娘で、源義朝の異母姉とも妹ともいう。源平の乱の際に反平氏をよびかける以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え歩いた源行家(源義盛)は同母弟。.

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鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう、旧字体:鳥羽、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。 堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷いた。.

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闘鶏神社

鬪雞神社(とうけいじんじゃ)は、和歌山県田辺市にある神社である。旧称は田辺宮、新熊野。通称:権現さん。.

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長寛勘文

長寛勘文(ちょうかんかんもん、ちょうかんのかんもん)は、平安時代の長寛年間(1163年 - 1164年)に編纂された勘文。勘文中に「熊野権現垂迹縁起」(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期における国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書である。.

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長快 (熊野別当)

長快(ちょうかい、1037年 - 1122年)は、平安時代後期の熊野三山の社僧で、承保2年(1075年)に15代熊野別当に補任され、亡くなるまで48年もの長きにわたって熊野別当の地位にあったという。.

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湯浅宗重

湯浅 宗重(ゆあさ むねしげ、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。藤原北家流藤原宗永の子とされる(諸説あり)。紀伊国湯浅城(現・和歌山県有田郡湯浅町青木)主。.

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湛増

湛増(たんぞう、大治5年(1130年) - 建久9年5月8日(1198年6月14日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧(法躰)で、21代熊野別当である。18代別当湛快の次子。源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる(『延慶本平家物語』)。「たつたはらの女房」を湛増の実母とし、熊野別当家の中に、ある種の愛憎劇を想定する説があるが、これは実証をともなわない説である。湛増の子は息子が7人、娘が5人であり(「熊野別当代々次第」)、このほか真偽は不明ながら『義経記』などの伝承では武蔵坊弁慶の父としても描かれている。嫡男の湛顕は1155年頃に生まれ1202年頃に死去したと考えられる。.

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新古今和歌集

『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)とは、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾るもの。略称を『新古今集』(しんこきんしゅう)と称す。.

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愚管抄

『愚管抄』(ぐかんしょう)は、鎌倉時代初期の史論書。作者は天台宗僧侶の慈円。全7巻。承久の乱の直前、朝廷と幕府の緊張が高まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている。.

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慈円

慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。.

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承安 (日本)

承安(じょうあん、しょうあん)は、日本の元号の一つ。嘉応の後、安元の前。1171年から1174年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇。.

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1099年

記載なし。

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1146年

記載なし。

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1149年

記載なし。

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1159年

記載なし。

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1162年

記載なし。

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1172年

記載なし。

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1174年

記載なし。

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