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渡党

索引 渡党

渡党(わたりとう)は、日本の中世、北海道渡島半島を中心とする地域に住んでいた集団に対する呼称である。.

91 関係: 千島列島古モンゴロイド大和民族太平洋外が浜奥州合戦奥州藤原氏宝島社安東定季安東家政安東氏安東政季山川出版社山丹交易中世下北半島平凡社幕藩体制康正延文建久佐々木利和余市郡後志国俘囚志苔館土師器北条氏北海道北海道庁 (1886-1947)ミイラ喜田貞吉和人地アイヌオホーツク文化クレオールコシャマインの戦いショヤコウジ兄弟の戦い函館市商人勇払郡田端宏鎌倉幕府道南十二館蝦夷蝦夷地蝦夷管領青苗文化蠣崎季繁蠣崎義広...蠣崎氏言語交替諏方大明神画詞講談社豊臣秀吉近世胆振国船津功鵡川町関口明藤原秀衡長禄松前藩松前慶広桑原真人樺太武士永正江戸時代津軽半島津軽地方渡島半島源頼朝朝日新聞社昭和新羅之記録文禄日本日本語日本海擦文時代1192年1356年13世紀1456年1457年1512年1514年1593年15世紀1950年 インデックスを展開 (41 もっと) »

千島列島

千島列島(ちしまれっとう)は、北海道本島の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。クリル列島( Kuril Islands)ともいう。国後島、択捉島、得撫島、幌筵島、占守島などの島々からなる。総面積10355.61km2。 主に得撫島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。また、南千島に対する日本の領有権を主張する立場から、これらの島々を北方四島(北方領土)と呼ぶことがある。日本政府は択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島を北海道の属島とし、千島列島に属さないとしている。 なお、得撫島から磨勘留島までを中部千島と呼ぶことがあり、本項でも便宜上.

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古モンゴロイド

古モンゴロイド(こモンゴロイド、旧モンゴロイド、proto-Mongoloid)は、W・W・ハウエルズによるモンゴロイドの分類。日本では埴原和郎や尾本恵市らが用いている。アジアのモンゴロイドを形質的特長から新・古に分けた概念である。進化の程度が新・古という意味ではなく寒冷地適応を経ているか否かの違いを表した分類であることに注意が必要である。.

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大和民族

大和民族(やまとみんぞく)は、日本列島の住民の大半を占める民族である。ほとんどが日本語を母語とし、日本列島に居住する民族である。しばしば和人倭人は古い日本人の呼称だが、中国中南部の百越の一部を起源とする説があるなど、大和民族と同義ではない。-->(わじん)とも呼ばれる。 日本列島の住民のうち古代の大和朝廷や中世の武家政権の施政下にあった人を指し、近世に幕藩体制下に組み込まれた琉球諸島の住民(琉球民族)を含む民族的日本人を指す場合は日本民族と呼称される。.

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太平洋

太平洋(たいへいよう)は、アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれる、世界最大の海洋。大西洋やインド洋とともに、三大洋の1つに数えられる。日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5,555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記されることもある。.

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外が浜

外が浜(そとがはま)は、青森県東津軽郡・青森市に相当する地域の陸奥湾沿岸を指す古来の地名である。 現代の区分では青森市・蓬田村・外ヶ浜町・今別町・平内町にほぼ相当する地域名でもある。外ヶ浜、外浜とも表し、外の浜ともいう。.

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奥州合戦

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。.

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奥州藤原氏

毛越寺所蔵の三衡画像(江戸時代) 奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。.

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宝島社

株式会社宝島社(たからじましゃ)は、東京都千代田区に本社を置く日本の出版社。.

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安東定季

安東 定季(あんどう さだすえ、生没年不詳)は、室町時代の武将で蝦夷地の豪族。下国山城守定季と称した。安藤康季の子で義季の弟とも伝えられ、いずれ檜山系安東氏の一門と推定されている。子に恒季がいる。 『新羅之記録』によれば、安東氏宗家である下国家当主安東政季は1456年(康正2年)、分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ、秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移る際に、茂別館主の安東家政(下国守護)、大館館主の定季(松前守護)、花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じたとされているが、実態は安東家政或いは定季が一人守護として統括していたとする見解(入間田他 1999)も出されている。これらの館は、道南十二館と呼ばれた蝦夷地における和人地の中心の一つであった。 翌1457年(長禄元年)5月、コシャマインの戦いにおいて、大館の出城の小館館主であった相原政胤とともにアイヌ側に捕らわれるが、翌月武田信広により救出された。 定季の死後恒季が大館館主となるが、粗暴で行状が極めて悪かったため配下の館主らにより宗家檜山安東忠季に訴えられた。恒季は1496年(明応5年)11月、忠季の手勢により攻められ自害し、大館は政胤の子相原季胤に預けられた。.

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安東家政

安東 家政(あんどう いえまさ、生没年不詳)は、室町時代の武将で蝦夷地の豪族。茂別八郎式部大輔家政と称した。安藤重季の子で安東政季の弟と伝えられる。下国家政とも。子孫は松前藩家老の下国氏。 『新羅之記録』によれば、安東氏宗家となる下国家当主であった兄政季は1456年(康正2年)、分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ、秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移る際に、茂別館主の家政(下国守護)、大館館主の定季(松前守護)、花沢館館主の蠣崎季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じたとされているが、実態は安東家政或いは定季が一人守護として統括していたとする見解(入間田他 1999)も出されている。これらの館は、道南十二館と呼ばれた蝦夷地における和人地の中心の一つであった。 翌1457年(長禄元年)のコシャマインの戦いにおいては、上国の蠣崎季繁とともに館を守り通した。この前後の経緯については、実は安東氏傍流であった家政が蠣崎氏と手を結び、正当な守護であった定季及びその子恒季の守護職を簒奪する下剋上の過程であるとする小林真人の見解(入間田他 1999)がある。 家政は1500年前後(明応4年(1495年)とも文亀元年(1501年)ともいわれる)に没し、子は早世していたため、孫の師季が家督を継いだ。その後蠣崎氏に臣従した下国氏は、松前藩寄合席として幕末まで続くこととなる。.

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安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。.

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安東政季

安東 政季(あんどう まさすえ、生年不詳 - 1488年9月15日(長享2年8月10日))は、日本の戦国時代の武将で陸奥、蝦夷地、出羽の豪族。檜山系安東氏の第4代当主。初名を師季(もろすえ)といった。安藤重季(しげすえ)の子で安東忠季の父と伝えられるが異伝も多い。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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山丹交易

山丹交易(さんたんこうえき)とは、江戸時代に山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と、アイヌとの間で、主として樺太(サハリン)を中継地として行われた交易のこと。広義には清朝が黒竜江(アムール川)下流域に設けた役所との朝貢交易から、山丹人、さらにアイヌを介して蝦夷地の松前藩にもたらされた交易をさす。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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下北半島

下北半島のランドサット。スペースシャトル 下北半島(しもきたはんとう)は、青森県の北東部にある半島。半島全体が下北半島国定公園となっており、本州最北端の地である大間崎や、日本三大霊場の恐山などがある。 旧斗南藩(「北斗以南皆帝州」から命名)にちなみ「斗南半島」とも呼ばれ、半島が「鉞(まさかり)」の形に似ているので「鉞半島」「まさかり半島」の別名もある。.

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平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

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幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.

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康正

康正(こうしょう)は、日本の元号の一つ。享徳の後、長禄の前。1455年から1457年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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延文

延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年から1360年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。.

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建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

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佐々木利和

佐々木 利和(ささき としかず、1948年(昭和23年)5月29日 - )は、日本の文化人類学者、北海道大学特任教授、東京国立博物館名誉館員。.

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余市郡

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後志国

後志国(しりべしのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。国名の由来は、阿倍比羅夫が郡領を置いた後方羊蹄(しりべし)の語音にちなみ、後志国を流れる尻別川のアイヌ語「シリ・ペッ」(山の・川)を採り、音訳して後志としたもの。命名者は松浦武四郎。道南から道央にかけての地域に位置し、現在の後志総合振興局管内のうち虻田郡と小樽市銭函4~5丁目相当区域を除いた大部分と、檜山振興局管内のせたな町以北および奥尻島にあたる。.

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俘囚

俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。 また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。.

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志苔館

右 右 志苔館(しのりたて)は、北海道函館市に所在する中世城館跡(日本の城)。小林氏によって築かれたとされる道南十二館のひとつ。国の史跡に指定されている。.

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土師器

半坂峠南尾根支群1号墳(兵庫県豊岡市)から出土した古墳時代前期の壺(兵庫県立考古博物館蔵) 土師器(はじき)とは、弥生土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下であった。埴輪も一種の土師器である。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北海道

北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.

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北海道庁 (1886-1947)

旧本庁舎(赤レンガ)(2009年10月撮影) 明治期の北海道庁舎 北海道庁(ほっかいどうちょう)は、1947年まで存在した、内務省直轄の行政区画北海道を管轄する地方行政官庁である。.

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ミイラ

ミイラ(木乃伊)とは、人為的加工ないし自然条件によって乾燥され、長期間原型を留めている死体のことである。永久死体であって「枯骸」とも呼ばれる。 同様に長期間保全される状態となった死体としては他に、「死蝋(しろう)」がある。これは、ミイラが主に乾燥によって成立するものであるのに対して、湿潤環境によって成立する永久死体である。.

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喜田貞吉

喜田 貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日) - 1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。.

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和人地

和人地(わじんち)は、近世の北海道における地域区分のひとつ。松前地(まつまえち)ともいう。主に蝦夷と呼ばれるアイヌが居住する蝦夷地に対して、もっぱら和人が居住する渡島半島南部の一帯を指した。.

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アイヌ

アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびカムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた民族。母語はアイヌ語。 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。 アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが1923年(大正12年)に出版された知里幸恵のアイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。、生業の毛皮や海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。.

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オホーツク文化

ホーツク文化(オホーツクぶんか)は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。 海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力であったが、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性が示されている。同時期の日本の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質の文化である。 なお、トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。.

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クレオール

レオール.

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コシャマインの戦い

ャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌと和人との戦い。.

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ショヤコウジ兄弟の戦い

ョヤコウジ兄弟の戦い(-きょうだいのたたかい)は、1515年または1519年に北海道南部で発生した、アイヌ首長・ショヤコウジ(庶野訇峙)兄弟と蠣崎光広との戦いである。.

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函館市

函館市(はこだてし)は、北海道にある市である。渡島総合振興局所在地。札幌市、旭川市に次ぐ北海道第三の人口約26万人を有する中核市。.

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商人

商人(しょうにん、しょうひと、あきびと、あきんど、あきゅうど).

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勇払郡

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田端宏

端 宏(たばた ひろし、1933年 - )は、日本の歴史学者。北海道教育大学・道都大学名誉教授。 主に北海道史の中でも、松前藩史や場所請負制を.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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道南十二館

道南十二館 道南十二館(どうなんじゅうにたて)は、蝦夷地(後の渡島国、現北海道)渡島半島にあった渡党領主の館の総称。松前藩の歴史を記した『新羅之記録』に十二の館が記されていることから、この名がついた。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。.

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蝦夷

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。 中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。 大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。.

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蝦夷地

蝦夷地(えぞち)は、日本人がアイヌの居住地を指して用いた言葉で、江戸時代に使われた。和人地の対語である。渡島半島周辺を除く現在の北海道を中心に、樺太と千島列島を含む。なお、アイヌ人はそれらの島々をアイヌモシリと呼んだ。.

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蝦夷管領

蝦夷管領(えぞ かんれい)は、鎌倉時代に蝦夷関連の諸職を統括したと推定されている役職である。なお蝦夷管領の語は南北朝時代以降に見える名称であり、鎌倉時代には蝦夷沙汰職(えぞ さたしき)、蝦夷代官(えぞ だいかん)と呼ばれた。 鎌倉幕府草創期より蝦夷地は重犯罪人の流刑地になっており、蝦夷管領は流人達の送致、監視が主な役目といわれている。また、蝦夷との交易にも関与していたと推定されている。 建保5年(1217年)、時の執権・北条義時が陸奥守となったころ、安藤太郎堯秀を蝦夷管領に任命したのがはじまりといわれているが、安藤氏の系図には異伝が多く詳しいことは分かっていない。 この職は安藤氏の世職で、政務を行う役所・営所は津軽の十三湊にあったという。しかし、諸史料によると安藤氏は北条得宗家の代官として配置されたとなっているため、実際には得宗家のための役職であって、北条家の委託を受けた安藤氏が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納していたと推定されている。 鎌倉幕府滅亡後、安藤氏は安東氏と姓の表記を変え、「東海将軍」「日の本将軍」を名乗り蝦夷管領家の権威権限を実際に行使するかたちで蝦夷地を統治していたことが分かっているが、この安東氏とはまた別に安藤氏の子孫を名乗る家系もあり、その詳細は今後の研究に委ねられている。.

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青苗文化

青苗文化(あおなえぶんか)は、擦文時代(平安時代)の渡島半島の日本海側に存在した、擦文文化と本州土師器文化とのクレオール的文化である。.

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蠣崎季繁

蠣崎 季繁(かきざき すえしげ)は、室町時代中期の武将。上之国花沢館(現在の北海道檜山郡上ノ国町)主。上国守護職。 若狭国の守護武田信繁の近親で、蝦夷地に渡って下之国安東政季の娘婿となり、蠣崎氏を名乗って花沢館に住んだとされるが、様々な伝承があり定かではない。 『新羅之記録』によれば、政季は康正2年(1456年)、分家で秋田郡の領主・秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移る際に、茂別館主の安東家政(下国守護)、大館館主の下国定季(松前守護)、花沢館館主の季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じたとされているが、実態は安東家政或いは安東定季が一人守護として統括していたとする見解も出されている。 長禄元年(1457年)のコシャマインの戦いの際、客将・武田信広が和人軍の総大将としてこれを鎮圧したことから、養女(安東政季の娘)を嫁がせ家督を継がせたとされる。.

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蠣崎義広

蠣崎 義広(かきざき よしひろ)は、戦国時代の武将、大名。徳山館主。.

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蠣崎氏

蠣崎氏(かきざきし)/松前氏(まつまえし)は、戦国時代から蝦夷地を本拠とした大名の氏族。糠部郡蠣崎(青森県むつ市川内町)を領して蠣崎氏を称する家系があり、その子孫との説がある。江戸時代に松前と改姓したが、庶流の中には引き続き蠣崎と名乗る者もいた。本姓は源氏で、清和源氏(河内源氏)義光流で甲斐源氏の庶流と称した。実際には陸奥の土豪が蝦夷へ移住して甲斐源氏武田氏を仮冒したとする説もある。.

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言語交替

言語交替または言語交換、言語変更、言語転換、言語移行、言語取り換え(Languages shift、Language transfer、Language replacement、Assimilation)は言語集団が使用言語を別言語に変えることである。言語交換の要因として、文化的・社会的地位の圧倒的な優位性や、リンガフランカの確立による少数言語の使用衰退などが挙げられる。.

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諏方大明神画詞

諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)は、諏訪大社の縁起。「諏訪大明神画詞」「諏訪大明神絵詞」「諏訪絵詞」「諏訪大明神御縁起次第」等とも表記される。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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近世

近世(きんせい、英語:early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。.

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胆振国

胆振国(いぶりのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。制定当初は膽振國とも表記された。国名の由来は、斉明天皇のころ阿倍臣が胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事にちなむ。道南から道央にかけての地域に位置し、現在の胆振総合振興局管内の全域、渡島総合振興局管内の長万部町と八雲町のうち旧熊石町を除く部分、後志総合振興局管内の虻田郡、石狩振興局管内の千歳市・恵庭市、上川総合振興局管内の占冠村にあたる。.

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船津功

船津 功(ふなつ いさお、1944年7月27日 - )は、日本の歴史学者。札幌学院大学名誉教授。.

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鵡川町

鵡川町(むかわちょう)は北海道南部、胆振支庁管内勇払郡に設置されていた町。キャッチフレーズは、「ししゃもとタンポポの町」であった。.

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関口明

関口 明(せきぐち あきら、1947年 - )は、日本史学者、前札幌国際大学教授。 北海道出身。1976年北海道教育大学札幌校卒。1980年北海道大学大学院文学研究科。静修短期大学講師、同助教授、同教授、札幌国際大学現代社会学部教授。2003年「古代東北の蝦夷と北海道」で北大文学博士。2015年退任。.

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藤原秀衡

藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍、陸奥守。藤原基衡の嫡男。.

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長禄

長禄(ちょうろく)は、日本の元号の一つ。康正の後、寛正の前。1457年から1461年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇。室町幕府将軍は足利義政。.

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松前藩

松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.

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松前慶広

松前 慶広(まつまえ よしひろ)は、蝦夷地の戦国大名。松前藩の初代藩主。旧字での表記は慶廣。.

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桑原真人

桑原 真人(くわばら まさと、1943年7月5日 - )は、日本の歴史学者。経済学博士。専門は近代北海道史。元札幌大学学長・札幌大学女子短期大学部学長。愛媛県西条市出身。.

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樺太

樺太(からふと)、樺太島(からふととう、、)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400kmは世界第22位で21位の北海道(78,073km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。 樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。 現在、サハリンプロジェクトが進められている。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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永正

永正(えいしょう)は、日本の元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄、足利義稙。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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津軽半島

津軽半島(つがるはんとう)は、本州の北端の半島のひとつである。東岸は青森湾・陸奥湾とその開口部である平舘海峡を挟んで下北半島に対峙する。一方、北岸は津軽海峡を挟んで北海道松前半島に対峙する。西岸は日本海である。全体が青森県に属する。 最北端は竜飛崎(龍飛崎)と呼ばれる。これは北岸の西端に位置し、北岸の東端の高野崎との間に三厩湾がある。竜飛岬から東南東に向かって津軽山地と呼ばれる山脈が続く。竜飛岬から南に小泊岬がある。さらに西岸を南に進むと、十三湖という内潟がある。そこからの海岸は七里長浜と呼ばれる。この内陸には、田光沼などの湖沼が数多く存在し、半島付け根まで続く。.

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津軽地方

南部地方 津軽地方(つがるちほう)とは、現在の青森県西部を指して言う地域呼称。江戸時代に津軽氏が支配した領域(弘前藩・黒石藩の領域)および津軽郡の領域にほぼ相当する。 明治維新で陸奥国(むつのくに)が分割されて設置された陸奥国(りくおうのくに。青森県全域と岩手県西北部)の異称「津軽国」とは異なる。.

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渡島半島

渡島半島(おしまはんとう)は北海道南西部にある半島。広義には石狩湾から勇払平野にかけての石狩低地帯より西の地域をいうこともあるが、一般には寿都と長万部を結ぶ黒松内低地以南の地域を指す。渡島半島によって北・西・南の三方を囲まれた湾は内浦湾。.

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源頼朝

源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。 頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。.

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朝日新聞社

株式会社朝日新聞社(あさひしんぶんしゃ、英語:The Asahi Shimbun Company)は、全国紙『朝日新聞』を発行する日本の新聞社である。新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演、スポーツ大会の開催などの事業活動も行う例えば、全国高等学校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)を日本高等学校野球連盟と共に主催している。。 新聞販売店の名称は「ASA」(朝日新聞サービスアンカー, Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約7万8,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む。 創立は1879年(明治12年)1月8日、日本国内の本支社数は5社、取材拠点は293か所、印刷拠点は24か所であり、日本国外機関は34拠点存在する。.

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昭和

昭和(しょうわ)は日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。20世紀の大半を占める。 昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。なお、外国の元号を含めても最も長く続いた元号であり、歴史上60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。.

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新羅之記録

『新羅之記録』(しんらのきろく)は、日本の歴史書。江戸時代に幕命により編纂された松前家系図をもとに補筆して作成された記録。別称に「松前国記録」「新羅記」。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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日本海

日本海の位置 日本海(にほんかい)は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。.

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擦文時代

擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照) この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。.

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1192年

記載なし。

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1356年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1456年

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1457年

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1512年

記載なし。

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1514年

記載なし。

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1593年

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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1950年

記載なし。

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