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清涼殿

索引 清涼殿

清涼殿(せいりょうでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。仁寿殿の西、後涼殿の東。.

62 関係: 古今著聞集叙位大和絵天皇太平記夜御殿宮城遥拝安政小朝拝帳台常寧殿常御所七殿五舎平安京平安時代年中行事障子京都御所康保仁寿殿延暦伊勢神宮伴大納言絵詞弘徽殿後宮呉竹の台内裏入母屋造公卿四方拝皇居火災禁秘抄紫宸殿鎌倉時代荒海障子飛香舎飛鳥部常則馬形障子鬼門関根正直里内裏長安除目枕草子檜皮葺武帝 (漢)殿上人...母屋清涼殿落雷事件漆喰明治昆明池障子日給簡時刻1855年794年964年 インデックスを展開 (12 もっと) »

古今著聞集

古今著聞集(ここんちょもんじゅう)は鎌倉時代、13世紀前半の人、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。単に『著聞集』ともいう。事実に基づいた古今の説話を集成することで、懐古的な思想を今に伝えようとするものである。20巻30篇726話からなり、『今昔物語集』に次ぐ大部の説話集である。建長六年(1254)10月頃に一旦成立し、後年増補がなされた。今昔物語集・宇治拾遺物語とともに日本三大説話集とされる。.

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叙位

叙位(じょい)とは、位階を授けること、およびその儀式。授位(じゅい)ともいう。本項では前近代の日本における叙位について解説する。.

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大和絵

源氏物語絵巻(東屋)徳川美術館蔵 大和絵(やまとえ)は日本絵画の様式概念の1つ。中国風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のこと。「やまと絵」「倭絵」「和絵」などとも表記され、「日本画」と書いて「やまとえ」と読むこともある。源氏物語絵巻などの絵巻物に典型的に見られる。土佐派などの流派に受け継がれ、近代・現代の日本画にも影響を及ぼしている。狩野派は大和絵の伝統と、中国の水墨画の技法・主題を統合したと評される。.

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天皇

天皇(てんのう)は、日本国憲法に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人「天皇」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。。7世紀頃に大王が用いた称号に始まり、歴史的な権能の変遷を経て現在に至っている。 今上天皇(当代の天皇)は、昭和天皇第一皇子である明仁。.

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太平記

『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。 全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年 (文保2年) - 1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。 第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。.

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夜御殿

夜御殿(よるのおとど)は、平安京の内裏・清涼殿の天皇の寝所である。.

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宮城遥拝

朝鮮人による宮城遥拝 宮城遥拝(きゅうじょうようはい)とは、日本や大東亜共栄圏において、皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝)する行為である。遥拝する場所は、日本国内(内地)、外地、外国を問わず用いられている。皇居遥拝(こうきょようはい)とも言う。 天皇への忠誠を誓わせる運動の一つであり、君が代の斉唱、日の丸の掲揚、御真影への敬礼と共に、宮城遥拝も盛んに行われた。 特に第二次世界大戦中には、天皇に忠誠を誓い、日本国民の戦意の高揚を図る目的で、宮城遥拝の動きは頂点に達した。.

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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小朝拝

小朝拝(こちょうはい/こぢょうはい/こじょうはい)とは、古代日本において、元日の朝賀の後に大臣以下公卿・殿上人が天皇に拝謁する儀式。なお、読み方については古くから諸説あったとされている。 朝賀が大極殿にて文武百官が天皇を迎える儀式であるのに対して、小朝拝は昇殿を許されたごく一部の上級貴族にのみ参加を許された儀式であった。このため、醍醐天皇-藤原時平体制下で醍醐天皇から「王者に私なし。此の事これ私礼なり」と非難され、延喜5年(905年)から14年間廃止された時期があった。 文徳天皇の頃から行われとされ、後に朝賀と小朝拝が毎年交互に行われる慣例が成立した。醍醐天皇が小朝拝の私的性格を批判してこれを一時廃したのは前述の通りである。だが、朝賀の衰退により藤原時平没後の延喜19年(919年)に右大臣藤原忠平が臣下の奏請として天皇に再開を迫りこれを認めさせた。一条天皇の頃になると、朝賀が廃絶され、代わりに小朝拝が毎年の恒例行事となる。応仁の乱で中断したものの、後土御門天皇が延徳2年(1490年)に元日節会とともに真っ先に復興させ、明治維新による廃絶まで継続された。 朝賀の後、供御薬儀を挟んで清涼殿の東廂に御椅子を立てて上卿以下六位(六位蔵人が昇殿の下限)までが弓場殿(射場殿)の前で位階ごと(『雲図抄』によれば、清涼殿正面に公卿と四・五位・六位の計3列)に列を連ねて列立する。上卿から蔵人頭を通じて天皇に小朝拝のために参内したことが奏上された後に、天皇が母屋の御簾を垂れて出御して御椅子に着席すると、天皇から見て最前列にあたる公卿の列を皮切りとして上卿以下が袖を連ねて明義門・仙華門から清涼殿の庭中に参入して列立(王卿・四位・五位・六位が各1列ずつ)した後に拝舞したという。.

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尺(しゃく)は、尺貫法における長さの単位である。東アジアでひろく使用されている。ただし、その長さは時代や地域によって異なる。 人体の骨格の尺骨は、この尺とほぼ同じの長さであることに由来する。 また、もともとは長さの単位であった尺が、転じて物の長さのことや物差しのことも「尺」と呼ぶようになった。.

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帳台

帳台(ちょうだい)とは、平安時代に貴人の座所や寝所として屋内に置かれた調度のこと。御帳台(みちょうだい)、また御帳(みちょう)ともいう。.

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常寧殿

常寧殿(じょうねいでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。当初、皇后御所として建てられた経緯から、別名后町(きさいまち)ともいう。また五節舞姫の帳台試が行われることから、五節殿ともいう。 内裏の中央に位置し、貞観殿の南、承香殿の北。始めは後宮の中心的殿舎とされたが、后妃の曹司としての役割は次第に弘徽殿や飛香舎など清涼殿に近い殿舎に移行し、その後は儀式的役割を担うようになった。 常寧殿を賜っていたのが知られるのは、.

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常御所

常御所(つねのごしょ)とは、平安貴族の居宅において主人のために設定された居住空間を指す。元は里内裏・後院における天皇・院の居所を指したためにその名がある。常居所・褻御所とも称する。 多くは寝殿の北面や寝殿の北方の渡殿に設定され、後に御帳間・御座間・女房座の3室構成が行われた。 天皇の内裏においては、当初は仁寿殿、後に清涼殿に天皇の居所として規定されていたが、後に里内裏が多用されるとともにこうした設定が導入されたものである。室町時代以後には内裏にも常御所が定められ、清涼殿の3間のうち2間を充てるようになり、南隣に剣璽の間が置かれた。天正以後は清涼殿とは別個に常御所が造営されるようになったが、建物内を仕切って常御所を内部に造営する形式は後世まで続けられた。 また、平安時代後期から鎌倉時代にかけては貴族や将軍の邸宅にも常御所が置かれるようになり、室町幕府では花の御所などに独立した常御所(主殿)を設置している。 Category:平安時代の建築.

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七殿五舎

七殿五舎(しちでんごしゃ)とは、平安京内裏の紫宸殿や仁寿殿の後方に位置し、主に天皇の后妃の住まう殿舎を指す。これらは後宮と総称され、后妃以外にも東宮やその妃、また親王・内親王などもしばしば殿舎を賜った。 thumb.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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年中行事障子

年中行事障子(ねんじゅうぎょうじのしょうじ)とは、内裏清涼殿にあった衝立障子のこと。宮中で行なわれる年中行事の名を書き記したもの。.

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京都御所

京都御所(模型) 京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。 14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。.

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康保

康保(こうほう)は、日本の元号の一つ。応和の後、安和の前。964年から968年までの期間を指す。この時代の天皇は村上天皇、冷泉天皇。.

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仁寿殿

仁寿殿(じじゅうでん・じんじゅでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。中殿とも後殿とも呼ばれた。 内裏のほぼ中央にあり、紫宸殿の北、承香殿の南、清涼殿の東に位置した。北後方には後宮である七殿五舎が存在した。 檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を持ち、東西七間、南北四間の母屋の四面に廂をつけ、東西九間、南北六間の平面規模を持つ建物であった。平安時代初期に天皇の日常生活の居所として使用されたため、天皇が毎朝、伊勢神宮などを遙拝する石灰の壇(いしばいのだん)があった。 平安時代中期の宇多天皇の時代に天皇の日常生活の居所は主に仁寿殿から清涼殿へ移ったと考えられており、天皇の住まいの場が清涼殿へ移ってからは内宴、元服等の儀式を行ったり、庭で行われた相撲、蹴鞠等の各種行事を観覧する場所になった。 院政期以降、仁寿殿は仮に設けられた内裏である里内裏において「仁寿殿代」として再建された事はあるものの、紫宸殿や清涼殿とは違って現在の京都御所には伝わっていない。.

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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伊勢神宮

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」法人としての名称も「神宮」であり、事務をつかさどる機関として「神宮司庁」がある。主たる事務所の所在地は伊勢市宇治館町1番地(神宮司庁の所在地)。。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社のひとつ神宮で神階が無いのは、伊勢神宮と日前神宮、國懸神宮の3宮だけである。。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、すべての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。.

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伴大納言絵詞

伴大納言絵詞(部分、火事場に駆けつける群衆) 伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば、とものだいなごんえことば)とは、応天門の変を題材にした平安時代末期の絵巻物。『伴大納言絵巻』ともいう。日本の国宝。『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』と並んで四大絵巻物と称される。作者は常盤光長(ときわみつなが)とされている。.

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弘徽殿

弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。転じて、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われる。後者で女御の場合は「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」とも呼ぶ。 清涼殿に近く、後宮で最も格の高い殿舎であり、皇后・中宮・女御などが居住した。清涼殿の北、登華殿の南。西庇は細殿と呼ばれる女房らの居室空間で、『源氏物語』では光源氏と朧月夜がここで出逢ったことになっている。細殿は簀子がなく直に遣り戸から入れる構造になっており、清涼殿に出勤する男性官人の通路に面した弘徽殿や登華殿の細殿は男女の接点となる開放的な空間だった。 弘徽殿を賜っていたのが知られるのは、.

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後宮

後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.

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呉竹の台

呉竹の台(くれたけのだい)は、清涼殿の東庭の北寄りの、呉竹を植えた所である。.

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内裏

内裏(だいり)とは、古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所(ごしょ)、禁裏(きんり)、大内(おおうち)などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に 天皇の私的な在所である内裏があった。.

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入母屋造

right 錣屋根 入母屋造(いりもやづくり)は、東アジアの伝統的屋根形式のひとつである。広義には当該形式の屋根をもつ建築物のことを指す。単に入母屋ということもある。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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四方拝

四方拝(しほうはい)とは、毎年1月1日(元日)の早朝、宮中で天皇が天地四方の神祇を拝する儀式。.

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皇居

皇居の正門石橋(この奥に正門鉄橋(通称二重橋が架かる) 皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。.

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火災

火災(かさい)とは、火による災害である。一般的には火事(かじ)ともいう。また、小規模な火災のうちに消し止められたものは小火(ぼや)、焼失面積が大きく被害が甚大なものは大火(たいか)ともいう。被害は有形財産の焼失はもとより、怪我人や死者がでることも頻繁にある。.

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禁秘抄

『禁秘抄』(きんぴしょう)は、第84代順徳天皇自身の手による有職故実の解説書である。現存するのは、上下二巻の体裁をとっているが本来三部構成であることから三巻であったとされる。成立は1221年(承久3年)である。『禁中抄』(きんちゅうしょう)・『建暦御記』(けんりゃくぎょき)などの別称もある。.

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紫宸殿

紫宸殿(ししんでん/ししいでん)は、内裏において天皇元服や立太子、節会などの儀式が行われた正殿。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。 殿舎の南には南庭が広がり、北には仁寿殿が位置する。天皇の普段居住する殿舎である清涼殿に対し紫宸殿は公的な意味合いが強かった。.

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中国の古代の製鉄。炉を使って鉄鉱石を溶かして精錬している。『天工開物』(宋応星編著、1637)より 炉(ろ)とは、火を燃やしたり、香などをたいたりする設備や器具。あるいは、ものを加熱・溶解・焼却する場所や装置のこと。 加熱するための熱源(燃料)としては、ガス、木炭、木薪、石炭・コークス、電熱などが用いられる。 炉は使用目的によって、暖炉(だんろ)、焼成炉(しょうせいろ)、溶練炉(ようれんろ)の他、焼却炉に大別できる。 日本語では、核反応によって熱を発生する装置も「炉」と表現する(原子炉)。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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荒海障子

荒海障子(あらうみのしょうじ)とは、内裏清涼殿の一画にある障子のこと。ただしこの障子とは今でいう襖のことである。.

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飛香舎

飛香舎(ひぎょうしゃ)は、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。初めは七殿に比べ格が低かったらしいが、清涼殿の北西に隣り合った位置であることなどから、平安中期以降中宮や有力な女御の局になった。現在、京都御所に復元されている。 庭に藤が植えられていたことから藤壺(ふじつぼ)の別名があり、この舎で藤や菊を愛でる宴が行われた。 藤原道長の娘で一条天皇中宮・藤原彰子が住んだことで有名。その後も、.

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飛鳥部常則

飛鳥部 常則(あすかべ の つねのり、生没年未詳)は、平安時代中期の宮廷絵師。名は経則とも記される亀田(1979)。官職は左衛門少志幸田(1920)、p.

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襖(ふすま)は、木などでできた骨組みの両面に紙や布を張ったものでそれに縁や引手を付けたもの 特許庁。和室の仕切りに使う建具の一つである。「襖障子」(ふすましょうじ)または「唐紙障子」(からかみしょうじ)と呼ばれることもある。単に「唐紙」と呼ばれることもある。.

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馬形障子

形障子(うまがたのしょうじ)とは、内裏清涼殿にあった衝立障子のこと。.

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鬼門

(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とした。 陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される。 中国から伝わったものとされるが、家相や鬼門に関しては諸説あるが、出典がなく不整合なものばかりが一人歩きしている。.

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関根正直

関根 正直(せきね まさなお、安政7年3月3日(1860年3月24日) - 昭和7年(1932年)5月26日)は、日本の国文学者。.

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里内裏

里内裏(さとだいり)は、平安時代以降、平安宮内裏以外の邸宅を天皇の在所(皇居)として用いたものを指す。「里」とは平安京の里坊(「里」「坊」はいずれも方形に区切られた街区)のことであり、すなわち里内裏とは「京内に置かれた内裏」という意味である。.

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長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。やがて平安京は現在に至るまで洛陽に例えられるようになり、とりわけ南北朝頃からは、洛陽の西方にある副都になぞらえて、長安は平安京の右京(西京)の異称となった。.

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除目

(じもく/じょもく)とは、平安時代中期以降、京官、外官の諸官を任命すること。またその儀式自体である宮中の年中行事を指し、任官した者を列記した帳簿そのものを指す(除書ともいう)。「除」は前官を除いて新官を任ずる意味で、「目」は目録に記すことを意味する。 任命の儀式は、年中恒例の行事で通常、春と秋の年二回行われ、春の除目、秋の除目という。その他に小規模な臨時の除目も随時行われた。除目の儀は、行事を通じて、例えば紙の折り方や墨の磨り方にいたるまで、非常に細かい作法が決められた儀式であった。.

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枕草子

王子猷(王羲之の子)が竹を「此君」と呼んだ事に因む。 『枕草子』(まくらのそうし)とは、平安時代中期に中宮定子に仕えた女房、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」、「枕冊子」、「枕双紙」とも表記され、古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称された。.

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檜皮葺

檜皮葺(東寺) 檜皮葺(ひわだぶき)とは、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する。 日本古来の伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法である。多くの文化財の屋根で檜皮葺を見ることができる。.

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武帝 (漢)

武帝(ぶてい)は、前漢の第7代皇帝。ら3人の同母姉がいる。彼の治世下で、前漢は最盛期を迎える。.

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殿上人

殿上人(てんじょうびと)とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を許された者である。狭義には、公卿を除いた四位以下の者を指す。またその中から更に蔵人も除いて指す場合もある。雲上人(くものうえびと、うんじょうびと)、上人(うえびと)、雲客(うんかく)、堂上(とうしょう)、簡衆(ふだのしゅう)などとも称す。殿上人に対する概念として、昇殿を許されない「地下」(じげ)がある。 狭義の殿上人は、蔵人とともに、殿上間に置かれた日給簡(殿上簡、仙籍)に登録され、蔵人頭の管理下に、交替で天皇の身辺に日夜、仕えた。昇殿制の始まった当初は数名の六位の殿上人もいたが、おおよそは四位・五位に限られた。これに対し、蔵人は六位からも任じられた。 また、院や東宮等にも昇殿の制度があり、昇殿を許されたものを「院殿上人」等と称した。院の殿上人と内裏の殿上人を区別して、後者を「内の殿上人」(うちのてんじょうびと)等とも言う。 昇殿を許されるのは、天皇や院、東宮の一代限りであり、代替わりにあたっては昇殿許可を失い、再び昇殿するには改めて勅許が必要であった。また殿上人本人の昇階の際にも、再度の勅許が必要であった。.

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母屋

母屋・母家(もや、おもや)とは、屋敷内の中心となる建物、また、寝殿造りなどの建物で、廊・庇に対して家屋の中央部分、の2つの意味に、分家や支店に対して本家や本店の意味がある。また、隠語として警察が本署、本部、本庁を言う。 本項は日本建築で使われる空間名称、または小屋組の構造部材の一つについて説明する。.

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清涼殿落雷事件

清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は、平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。.

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漢(かん、)は、中国の王朝である。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなった。以下の記事では王朝について記述する。 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻っていた。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一した。中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いた。この劉邦が開いた前漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡った。初の統一王朝だった秦王朝が統一王朝としては実質的に一代で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになった。 漢王朝の歴史の詳細については、前漢・後漢をそれぞれ参照。.

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漆 漆(うるし)とは、ウルシ科のウルシノキ(漆の木;Poison oak)やブラックツリーから採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料である。塗料とし、漆工などに利用されるほか、接着剤としても利用される。.

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漆喰

漆喰(石灰、しっくい)とは、瓦や石材の接着や目地の充填、壁の上塗りなどに使われる、水酸化カルシウム(消石灰)を主成分とした建材である。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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昆明池障子

昆明池障子(こんめいちのしょうじ)とは、内裏清涼殿にあった衝立障子のこと。ただし「こんめいち」は本来「こめいち」と読むのが正しいという。.

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日給簡

日給簡(にっきゅうのふだ)とは、殿上簡(でんじょうのふだ)・仙籍(せんせき)とも呼ばれ、朝廷において殿上に出仕する者の官位姓名を記載して上番する日を示した簡。.

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時刻

thumb 時刻 (じこく)とは、時間の流れにおけるある一点、連続する時間の中のある瞬間、または時間の区分のこと。ある時点や時間の区分や現在を、他の時点や時間の区分と区別する表現である。この記事は主に、日常生活で用いる時刻を扱う。.

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1855年

記載なし。

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794年

記載なし。

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964年

記載なし。

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