80 関係: 劉シュン膏、劉秉璋、劉瑞芬、劉銘伝、同治、合肥市、壬午軍乱、天津市、天津武備学堂、天津教案、太平天国の乱、安徽省、安慶市、巡撫、左宗棠、上海市、丁汝昌、両江総督、常州市、常勝軍、張樹声、張樹珊、北洋軍閥、北洋艦隊、周盛伝、周盛波、呉長慶、咸豊、イギリス帝国、クルップ、ジェームズ・ホープ、センゲリンチン、光緒、団練、王凱泰、王文韶、緑営、直隷総督、銭鼎銘、聶士成、袁世凱、鮑超、胡イツフン、郭柏蔭、郭松林、郷勇、蘇州市、捻軍、李秀成、李鴻章、...、李氏朝鮮、杭州市、欽差大臣、江南機器製造総局、江蘇省、洋務運動、淮河、清、清仏戦争、湘軍、潘鼎新、新軍、日清戦争、曽国藩、1853年、1858年、1860年、1861年、1862年、1863年、1864年、1865年、1866年、1868年、1870年、1877年、1882年、1884年、1894年、1895年。 インデックスを展開 (30 もっと) »
劉シュン膏
劉 郇膏(りゅう しゅんこう、Liu Xungao、1818年 - 1866年)は清の官僚。字は松巌。河南省太康出身。 道光27年(1847年)に進士となり、江蘇省で知県を歴任する。咸豊3年(1853年)、太平天国軍によって南京・揚州・鎮江が陥落すると、小刀会の劉麗川も蜂起して、上海を占領して、周辺の川沙・南匯・嘉定・宝山・青浦の各県を陥落させた。劉郇膏は江蘇巡撫ジルハンガ(吉爾杭阿)の命で郷勇300人を率いて、嘉定を奪回した。 咸豊8年(1858年)より上海知県となった。劉郇膏は公平であったため、漢人・西洋人双方から尊敬された。やがて太平天国軍が蘇州・杭州を陥落させると上海は孤立、太平天国の李秀成が松江を陥落させて上海に迫ったが、団練と郷勇を動員して防衛に成功した。咸豊元年(1861年)にも太平天国軍は浦東を落として上海を目指したが、再び撃退した。この功績で江蘇按察使、次いで江蘇布政使に任命された。 李鴻章が江蘇巡撫に就任すると淮軍の軍務を統括した。同治4年(1865年)に李鴻章の後任の江蘇巡撫に任命されたが、母の死により辞職、同治5年(1866年)に故郷で死去。.
劉秉璋
劉 秉璋(りゅう へいしょう、Liu Bingzhang、1826年 - 1905年)は、清末の官僚。字は仲良。安徽省廬江出身。 咸豊10年(1860年)に進士となり、庶吉士に選ばれ編修となった。同治元年(1862年)、李鴻章が結成した淮軍に入り上海に赴き、翌2年(1863年)に江蘇省福山・太倉、浙江省嘉善などを転戦し、太平天国軍の鎮圧に尽力した。また江蘇省・安徽省・山東省・河南省・湖北省で捻軍と戦い、その間に江蘇按察使、江西布政使などの職を授かった。同治14年(1875年)に江西巡撫となるが、光緒4年(1878年)に辞職して郷里に戻った。 光緒9年(1883年)、浙江巡撫として再起用、清仏戦争では寧波に海防営務処を設立して防衛体制を固め、鎮海の戦いでの勝利に貢献した。光緒12年(1886年)には四川総督に任命されたが、光緒21年(1895年)に四川省西部の11県の民衆が反教会運動(教案)を起こしたことに宣教師達は不満を抱き、イギリス・フランス・アメリカ公使が劉秉璋の罷免を朝廷に迫った。朝廷は外国の圧力に屈し、劉秉璋は解任されて郷里に帰った。 category:清代の人物 Category:清代の進士 category:清仏戦争の人物 Category:合肥出身の人物 Category:1826年生 Category:1905年没.
劉瑞芬
劉 瑞芬(りゅう ずいふん、Liu Ruifen、1827年 - 1892年)、字は芝田。清の官僚・外交官。 安徽省貴池出身。1862年、李鴻章の淮軍に参加し、兵器の輸送を担当した。1876年、両淮塩運使となり、その後江西按察使・江西布政使を歴任した。1885年、駐英公使・駐露公使となった。その後、駐英公使・駐仏公使・駐伊公使・駐ベルギー公使に改められた。 ロシアが漠河の金鉱の権益を希望した時はただちに総理各国事務衙門に先に開発を進めるように意見を送っている。イギリスがミャンマーを征服してミャンマーからの朝貢が廃止されると、イギリスと交渉して旧に復させた。またイギリスがチベットに軍を進めた時も交渉にあたった。 劉瑞芬は外交に長く携わり、朝鮮の問題にも意見を持っていた。「上策は朝鮮を併合して省を設置すること、次善の策はイギリス・アメリカと共同で管理に当たることで、強国の独占を防ぎ、辺境を固めること」と主張したが、議論されることはなかった。 1889年、広東巡撫に任命された。1892年、在任中に死去。.
劉銘伝
劉 銘伝(りゅう めいでん、1836年9月7日 - 1896年1月12日)は、清末の軍人、政治家。安徽省合肥西郷出身。淮軍を率い、台湾省の初代巡撫に任命された。字は省三、号は大潜山人。.
同治
1871年9月13日の日清修好条規。左頁の右側に明治の日付と伊達宗城の花押、左側に同治の日付と李鴻章の花押が見える。 同治(どうち、満州語:、転写:yooningga dasan)は清の穆宗の治世中に使われた元号。1862年 - 1874年。一世一元の制を採用していたため穆宗は同治帝と称される。.
合肥市
合肥市(ごうひし、がっぴし、合肥市、)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市。安徽省の省人民政府が置かれる省都で、地域の政治・経済・文化の中心である。合肥の日本語読みについては、「ごうひ」が一般的であるが、三国志関連では「がっぴ」と読まれる傾向にある。.
壬午軍乱
壬午軍乱(じんごぐんらん) または 壬午事変(じんごじへん) は、1882年(明治15年)7月23日(旧暦では光緒8年.
天津市
天津市(てんしんし/ティエンジンし、、、)は、中華人民共和国に位置する直轄市。国家中心都市の一つ。略称は津。 天津は華北平原海河の五大支流の合流する所に位置し、東に渤海を、北に燕山を臨む。市内を流れる海河は天津の母親河とも呼ばれる。 環渤海湾地域の経済的中心地であり、中国北方最大の対外開放港である。首都北京市とは高速道路、高速直通列車、京津城際線によって、0.5〜2時間以内で結ばれている。元々は海河の河港であったが、河口の塘沽に大規模な港湾やコンテナターミナル、工業地帯が形成されている。経済成長率の高さはここ数年に渡り、全国トップである。2017年の第13期の全国体育大会の開催が決まっており、夏季ダボスフォーラム常駐開催都市でもある。 市区人口は506万人、都市圏人口は720万人。.
天津武備学堂
天津武備学堂(てんしんぶびがくどう)は清末に直隷総督李鴻章によって天津に創設された陸軍軍人を養成する西洋式の軍学校。1885年に成立したが、1900年、義和団の乱の際に8ヶ国連合軍によって破壊された。北洋武備学堂ともいう。.
天津教案
天津教案とは、1870年に天津で発生した教案(反キリスト教事件)。.
太平天国の乱
太平天国の玉璽。 天王の玉座 天王府のミニチュア 長江での太平天国軍と清軍との戦い 太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。.
安徽省
安徽省(あんきしょう、アンホイしょう、中国語:安徽省、拼音:Ānhuī Shěng、英語:Anhui)は、中華人民共和国の省。名称は安慶の安、徽州(現黄山市)の徽による。省都は合肥市。略称は皖。.
安慶市
安慶市(あんけい-し)は中華人民共和国安徽省に位置する地級市。.
巡撫
巡撫(じゅんぶ)は、中国の明代及び清代に存在した官職名。 明の洪武年間(1368年 - 1398年)から永楽年間(1403年 - 1424年)にかけては中央から地方に派遣される臨時官であったが、宣徳年間(1426年 - 1435年)から常設され、明代末期には1省あるいはその一部を管轄する地方官として20人を超えた。都御史を兼ね、しばしば軍事も兼務し、布政使・按察使・都指揮使の上位として、地方を管轄した。 清代には明の制度を踏襲して巡撫(giyarime dasara amban)は省(golo)の長官とされ、総督(uheri kadalara amban)とほぼ同格として皇帝に直属した(総督は複数の省を管轄するが巡撫は総督同様皇帝直属であった)。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した。.
左宗棠
左宗棠 左宗棠 左 宗棠(さ そうとう、1812年11月10日 - 1885年9月5日)は、清朝末期の著名な大臣。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている(文化大革命期に太平天国が持ち上げられると、逆に評価が下がったこともある)。字は季高、湖南省湘陰県出身。老亮と号する。.
上海市
上海市(シャンハイし、、 ()、呉語発音: 、)は、中華人民共和国の直轄市である。 有数の世界都市であり、同国の商業・金融・工業・交通などの中心地、香港・北京と並ぶ中国最大の都市の一つである。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界9位と評価された。 2012年6月時点の常住人口は2,400万人を超え、市内総生産は2兆3,560億元(約45兆円)であり、いずれも首都の北京市を凌ぎ中国最大である。中華人民共和国国務院により国家中心都市の一つに指定されている。 略称は滬(/こ:フー)だが、古称の申(しん:シェン)も用いられる。.
丁汝昌
丁汝昌(てい じょしょう、1836年11月18日(道光16年10月10日) - 1895年2月12日(光緒21年1月18日)、原名は先達)は清朝末期の軍人である。字は禹廷、号は次章。初めは太平天国の乱に反乱側として参加したが清朝に帰順してからは李鴻章の下で働き、後に北洋艦隊の提督になった。日清戦争中に艦隊戦敗北の責任をとって自決。.
両江総督
両江総督(りょうこうそうとく、giyangnan giyangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。江蘇省・安徽省・江西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも管轄下に南京を有する両江総督は非常に重要なポストであったが、同時に管轄下で起こった太平天国の乱に対応しなければならない等、「非常に難しいポスト」でもあった。この「両江」とは、江蘇・安徽省が清初には「江南省」と呼ばれていたため、「江南省と江西省を統括する総督」と呼んだことに由来する。 1866年からは華中の外国貿易港の監督も両江総督の管轄となったため、両江総督が南洋通商大臣を兼任することになった。.
常州市
常州市(じょうしゅうし、Changzhou)は中華人民共和国江蘇省南部に位置する地級市。二千五百年の歴史を誇る風光明媚な街で、名所・旧跡が多くある。また近年は、モデル工業都市として発展している。また大阪府高槻市及び埼玉県所沢市と姉妹都市である。中国近代化の中で工業が盛んになり、紡績、軽工業、電子機械、化学工業などがめざましい発展を遂げている。気候は、温暖湿潤気候に属し、四季の区別もはっきりしており、年間平均気温は、15℃となっている。.
常勝軍
常勝軍(じょうしょうぐん/ピンイン: cháng shèng jūn、英: Ever Victorious Army)は、アメリカ人のフレデリック・タウンゼント・ウォードが組織した西洋式の中国人傭兵部隊による軍隊である。.
張樹声
張 樹声(ちょう じゅせい、Zhang Shusheng、1824年 - 1884年)は、清朝末期の官僚・軍人。字は振軒。淮軍の将帥。安徽省合肥出身で張樹珊・張樹屏の兄。 稟生であったが弟の張樹珊・張樹屏と共に団練を組織して太平天国軍と戦い、含山、六安、英山、霍山、潜山、無為に出撃した。太湖の戦いでは500人の兵で数万人の陳玉成軍を破り、劉銘伝、周盛波、潘鼎新と連合して安徽省北部を制圧した。また曽国藩の呼びかけに応じて蕪湖を守り、知府に抜擢された。 1862年、李鴻章に従って上海の救援に赴いた。この時李鴻章が淮軍を創設すると劉銘伝と共にその指揮官となった。1864年には常州、湖州を攻略する戦功をあげた。1865年に直隷按察使となり捻軍と戦った。1870年に山西按察使となり、1872年には漕運総督・江蘇巡撫代理に昇進した。1879年に貴州巡撫、広西巡撫を経て両広総督となった。その間、ミャオ族の蜂起を鎮圧している。 1882年、李鴻章が母の死で帰郷すると、直隷総督の代理を務めることとなり、朝鮮で壬午事変が発生すると、呉長慶を派遣して鎮圧した。1883年、再び両広総督に就任。1884年に清仏戦争が発生すると、朝廷に両広総督を辞任して軍務に専念したいと申し出て受理されるが、間もなく病死した。死後、靖達の諡号を贈られた。.
張樹珊
張 樹珊(ちょう じゅさん、Zhang Shushan、1826年 - 1867年)は、清末の軍人である。字は海柯。 .
北洋軍閥
北洋軍閥(ほくようぐんばつ)とは、清朝末から辛亥革命、中華民国成立と中国の権力闘争の中心にいた袁世凱が根拠としていた軍事力を起源とし、袁没後の北京政府(北洋政府)を支配し、または政権を争った中国の地方軍閥の総称である。.
北洋艦隊
北洋艦隊(ほくようかんたい)は、光緒14年(1888年)に編成された清朝の李鴻章の艦隊である。清国では北洋水師と呼ばれた。母港は威海衛、旅順。創設者は北洋通商大臣兼直隷総督の李鴻章で司令官は提督丁汝昌。日清戦争において大日本帝国海軍連合艦隊と交戦(黄海海戦、威海衛海戦)し、日本の威海衛攻略の際に壊滅した。.
周盛伝
周 盛伝(しゅう せいでん、Zhou Shengyun、1833年 - 1885年)は、清末の軍人。字は薪如。 安徽省合肥出身。太平天国が安慶を陥落させると、兄の周盛波らとともに団練を組織して戦い、防戦に功があったとして把総に抜擢された。1861年には寿州に援軍に赴き、千総に昇進した。 1862年、周盛波が李鴻章に従って江蘇省に援軍に行くと、周盛伝は先鋒を務め、嘉定攻略に功績をあげ、遊撃に昇進した。翌年、郷里に戻って兵を募った後、太倉・昆山を陥落させ、バトゥルの称号を得た。江陰攻略でも東門の太平天国軍を破り、奪回に貢献し、参将にあげられた。その後、無錫を攻略し、常州に向かった。1864年、常州を陥落させ、提督の待遇を受けた。さらに自分の率いる3営を「伝字営」として一軍を率いることを認められた。 1865年、捻軍との戦いに赴き、周盛波とともに雉河集の救援にあたり、任柱の騎馬隊を諸軍とともに挟撃して敗走させた。翌年には牛宏升を亳州で破り、戦死させた。1867年、広西右江鎮総兵の職を授かった。冬には任柱・頼文光の東捻軍を殲滅した。1868年、張宗禹率いる西捻軍を山東省と直隷省の間で撃破した。捻軍との戦いが終わると、周盛波は親を養うため郷里に帰り、その全軍を周盛伝が引き継ぎ、李鴻章に従って湖北省に駐屯した。 1870年、回民蜂起の鎮圧の救援に陝西省に赴いた。同年、李鴻章が直隷総督となると京畿に呼ばれ、1873年から天津の大沽砲台の修築を行い、さらに天津付近の治水事業を任された。1882年に湖南提督となったが、天津にとどまり、フランス式の軍事教練を採用し、自ら軍事教本も著している。死後、武壮の諡号を贈られた。 Category:清代の人物 Category:合肥出身の人物 Category:1833年生 Category:1885年没.
周盛波
周 盛波(しゅう せいは、Zhou Shengbo、1830年 - 1888年)は、清末の軍人。字は海舲。 安徽省合肥出身。1853年、太平天国軍が安慶を陥落させると、周氏の兄弟は団練を組織し、太平天国軍と戦った。6人兄弟のうち、4人が戦死し、生き残ったのは周盛波と弟の周盛伝のみで、勇名は広く伝わった。陳玉成と陳得才の侵攻にも、兵2千を率いて数年にわたって持ちこたえ、守備に抜擢された。 1862年、李鴻章が淮軍を編成して江蘇省の救援に赴くと、これに参加した。周氏兄弟の部隊を「盛字営」という。上海で太平天国軍に勝利し、遊撃に昇進し、バトゥルの称号を得た。1863年、太倉を攻略し、昆山を奪回し、副将に昇進した。その後、江陰を攻略し、無錫に侵攻した時には太平天国の軍船100隻余りを破壊し、潮王黄子隆を捕らえる功績をあげた。1864年、常州を諸軍とともに包囲した時には、周盛波は南門に攻め入り、列王の費天将を捕らえた。南京奪回後は掃討戦にあたった。 1865年、曽国藩に従って捻軍との戦いに赴いた。雉河集で安徽布政使の英翰が包囲されていたが、周盛波が援軍に赴いて包囲を解くことに成功した。この功で甘粛涼州鎮総兵となった。翌年には捻軍の牛宏升軍に大勝した。1867年、信陽で任柱軍を破り、応援にきた頼文光も撃破して、東捻軍の平定に貢献した。1868年、西捻軍が北京をうかがうと、諸将とともに防衛にあたり、これを鎮圧した。 1884年、清仏戦争がおこると淮北から10営の兵を募って天津の防衛にあたった。周盛伝が死去すると湖南提督の職を引き継ぐように命じられた。死後、剛敏の諡号が贈られた。 Category:清代の人物 Category:合肥出身の人物 Category:1830年生 Category:1888年没.
呉長慶
呉 長慶(ご ちょうけい、Wu Changqing、1834年 - 1884年)は、清末の軍人。字は筱軒。 読書を好み、兵を愛し、儒将と称された。袁世凱の恩師にあたる。 安徽省廬江出身。団練を率いて廬江や舒城の守備に当たっていたが、李鴻章が淮軍を設立するとこれに加入し、呉長慶の部隊は「慶字営」と称された。1862年に李鴻章に従って上海に赴き、太平天国軍と戦い、遊撃に昇進した。翌年、故郷の廬江に戻って兵を募っていたところ太平天国の忠王李秀成に包囲されたが、これを撃退した。その後、上海に戻り、1864年には勇将として知られる栄王廖発寿が守備する嘉興の攻略に参加している。 1868年に李鴻章が捻軍の鎮圧に向かうとこれに従って、河南省・山東省・直隷省を転戦し、これを鎮圧した。1880年、浙江提督に昇進し、ベトナムめぐってフランスとの関係が緊張すると山東省の軍務の補佐に当たった。1882年に朝鮮に入り、壬午事変を鎮圧した。1884年に帰国して金州の防衛にあたり、そこで病死した。武壮の諡号を贈られた。 Category:清代の人物 Category:合肥出身の人物 Category:1834年生 Category:1884年没.
咸豊
咸豊(かんぽう、満州語:、転写:gubci elgiyengge)は清の文宗の治世中に使われた元号。1851年 - 1861年。一世一元の制を採用していたため文宗は咸豊帝と称される。.
イギリス帝国
イギリス帝国(イギリスていこく、British Empire)は、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。 帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分できる。.
クルップ
ルップ(Krupp)は、ドイツのエッセンにある長い歴史を持つ重工業企業である。1999年にティッセン社と合併し、ティッセンクルップが誕生。巨大な工業コングロマリットとなっている。.
ジェームズ・ホープ
ー・ジェームズ・ホープ(Sir James Hope、1808年3月3日 - 1881年6月9日)は、イギリス海軍の元帥でバス勲章の受勲者。東インド・中国艦隊の司令官として、幕末の対日政策に影響を与えた。.
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センゲリンチン
ンゲリンチン(ᠰᡝᠩᡤᡝᡵᡳᠨᠴᡳᠨ senggerincin、Сэнхэрнцан、中国語:僧格林沁、嘉慶16年(1811年) - 同治4年4月24日(1865年5月18日))は、清の軍人。モンゴル族。 センゲとはチベット語で「獅子」、リンチンとはチベット語で「宝」を意味する。内モンゴルのホルチン左翼後旗の人。ボルジギン氏で、『蒙古世系』によるとチンギス・カンの次弟ジョチ・カサルの26代の子孫に当たるという。.
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光緒
光緒(こうしょ、こうちょ、満州語:、転写:badarangga doro、)は清の徳宗の治世中に使われた元号。1875年 - 1908年。一世一元の制を採用していたため徳宗は光緒帝と称される。.
団練
団練(だんれん)は、清代の地方に存在した武装集団。地方の有力者が盗賊等から郷鎮を自衛するために自発的に組織した民兵組織である。19世紀初頭の白蓮教徒の乱では、正規軍の八旗や緑営の軍隊では鎮圧できず、清朝政府は地方の郷紳に臨時の軍隊の徴募を命じた。これらの軍隊を「郷勇」と呼ぶが、団練はこれらの軍隊の兵員の有力な供給元となった。郷勇は地方民兵組織の団連をもとに創設されてはいるが、あくまで清朝政府の名のもとに臨時に募られた政府の軍隊である。郷勇では湘軍、淮軍が有名である。.
王凱泰
王 凱泰(おう がいたい、Wang Kaitai、1823年 - 1875年)は清の官僚。初名は敦敏、字は补帆。 江蘇省宝応出身。1850年に進士となり、庶吉士に選ばれ、編修の職を授かった。1860年、母の死で帰京したところ、太平天国軍が長江の北に進攻したので、団練を組織して戦った。1863年、江蘇巡撫李鴻章の幕府に入り、1865年に浙江巡撫馬新貽のもとに派遣され、食糧の補給を担当した。1866年、浙江按察使に昇進し、水利事業を行って農業の復興に努めた。1867年には広東布政使となった。1870年、福建巡撫となり、学問の振興、械闘・火葬・女児の間引き・迷信の禁止を行った。日本が台湾出兵を行うと台湾に駐屯したが、病のため福州に戻り、そこで病死した。死後、文勤の諡号が贈られた。.
王文韶
王 文韶(おう ぶんしょう、Wang Wenshao、1830年 - 1908年)は、清末の官僚。字は夔石、号は耕娯または賡虞、晩年は退圃と号した。洋務運動を推進した。浙江省仁和(現在の杭州市)出身。.
緑営
緑営(りょくえい、満州語:、転写:niowanggiyan turun i kūwaran)は、清の軍事組織の1つで、漢人によって編成された部隊。 順治元年(1644年)に明の滅亡に伴って満洲人の清が入関する以前に帰順した漢人によって編成され、緑色の旗を標としたために、緑営と呼ばれた。満洲人によって編成された八旗の補助的な組織として設置されたが、康熙年間の三藩の乱以降に大幅に増強され、弱体化が進んだ八旗に代わって清軍の主力を担うようになった。だが、白蓮教徒の乱では、戦力の劣化を露呈し、太平天国の乱ではほとんど機能しなくなって、郷勇や団練に取って代わられた。.
直隷総督
隷総督(ちょくれいそうとく、ᡷᡞᠯᡞᡠᡥᡝᠷᡞᡣᠠᡩᠠᠯᠠᠷᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:jyli uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。直隷省・河南省・山東省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも、特に首都北京近辺を統括した直隷総督は筆頭格であった。 1870年からは華北の外国貿易港の監督も直隷総督の管轄となったため、直隷総督が北洋通商大臣を兼任することになった。.
銭鼎銘
銭 鼎銘(せん ていめい、Qian Dingming、1824年 - 1875年)は、清の官僚。字は調甫。江蘇省太倉出身。湖北巡撫銭宝琛の子。 道光26年(1846年)に挙人となり、父に従って団練を組織した。小刀会の劉麗川が上海を占拠すると、青浦の周立春が呼応して嘉定を陥落させた。銭鼎銘は郷勇を率いてこれを奪回し、訓導に任命された。咸豊10年(1860年)、太平天国軍の第二次江南大営攻略で包囲網が崩れ、李秀成が上海へ侵攻し江蘇省が危機に陥ると、安慶の曽国藩のもとへ救援の要請に赴いた。同治元年(1862年)、李鴻章が江蘇巡撫になると幕下に入り、道員に昇進した。 同治5年(1866年)、李鴻章が曽国藩に代わって捻軍の鎮圧に赴くと、食糧の補給を担当し滞らせることがなかった。曽国藩が直隷総督に就任するとそれに従い、同治8年(1869年)には直隷按察使、ついで直隷布政使に就任した。同治10年(1871年)に河南巡撫となり、水利事業に尽力した。死後、敏粛の諡号が贈られた。.
聶士成
聶 士成(じょう しせい、Nie Shicheng、1836年 - 1900年)、字は功亭。清末の軍人。.
袁世凱
袁 世凱(えん せいがい、 ユエン・シーカイ 1859年9月16日(咸豊9年8月20日) - 1916年6月6日)は、中国清末民初期の軍人・政治家。北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された元号より洪憲皇帝と呼ばれることもある。字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。.
鮑超
鮑 超(ほう ちょう、Bao Chao、1828年 ‐ 1886年)、字は春霆は、清末の湘軍の指揮官。 四川省奉節県出身。1852年、広西提督向栄が湖北省宜昌で兵を募って「川勇営」を組織したときに参加した。勇猛でしばしば戦功を立てたため、曽国藩に目をかけられ、副将に昇進した。その活躍ぶりはドロンガ(多隆阿)とともに「北多南超」と賞賛された。1856年に胡林翼から自分の部隊を持つことを認められ、長沙で1万5千の兵を集めて「霆字営」を組織した。安徽省南部に駐屯し、1860年に祁門にある湘軍の司令部の守備にあたって、太平天国軍の包囲を撃退し、大いに恐れられた。1862年に浙江提督に昇った。1864年、江蘇省・浙江省で敗れた太平天国軍が江西省に逃れると、その掃討にあたり、南京攻略後の論功行賞で一等軽車都尉を授かった。その後、太平天国の余党の汪海洋・譚体元を広東省で破った。 1866年より捻軍の鎮圧にあたり、湖北省・河南省・陝西省の境界を転戦した。1867年1月、尹隆河の戦いで劉銘伝が苦戦しているところに応援に駆けつけて捻軍を撃破し、捻軍の任柱と頼文光を逃亡させる勝利をおさめた。しかし李鴻章に救援に駆けつけるのが遅かったと弾劾されると、憤慨して職を辞して霆字営を解散させた。 郷里にもどった後は病と称して11年間復職しなかった。1880年になって湖南提督に起用され、ロシアに対する防衛にあたるが、2年後に病として辞職した。清仏戦争がおきると軍を率いて雲南省の防衛にあたるが、和議が成立するとまた郷里に戻った。 死後、太子少保を贈られ、忠壮の諡号を贈られた。.
胡イツフン
胡 燏棻(こ いつふん、Hu Yufen、1840年 - 1906年)は、清末の官僚。字は芸楣または雲眉。安徽省泗州出身(原籍は浙江省蕭山)。.
郭柏蔭
郭 柏蔭(かく はくいん、Guo Baiyin、1807年 - 1884年)は清の官僚。字は遠堂。 福建省侯官出身。1832年、進士となり、庶吉士に選ばれ、編修の職を授かった。その後、御史・給事中・甘肃甘凉道などを歴任した。1853年、福建省に戻って団練を組織し、小刀会から廈門を奪回し、延平の防衛にあたった。その功により郎中に抜擢された。1862年、曽国藩と会って太平天国との戦いに協力することになり、翌年からは江蘇按察使、江蘇布政使、江蘇巡撫として李鴻章率いる淮軍の糧食の補給にあたった。 1867年、広西巡撫に就任したが、湖北巡撫に異動となった。湖広総督代理も兼ね、天地会の蜂起の鎮圧にあたった。1873年、病のため辞職。.
郭松林
郭松林(かく しょうりん、Guo Songlin、1833年 - 1880年)は、清末の軍人。字は子美。 湖南省湘潭出身。1856年、曽国荃軍に属し、把総となり、江西省の救援に従軍する。江西省では石達開軍と戦い、1858年に吉安を落とすのに功績をあげ守備に抜擢された。1860年から安慶を包囲し、小池駅で陳玉成軍と戦った。1861年、安慶を陥落させ、遊撃に昇進し、バトゥルの称号を得た。その後、廬江など長江沿いの要衝を確保し、参将となった。 1861年、李鴻章が淮軍を率いて上海に赴くと、郭松林もそれに従った。李秀成と譚紹光と上海の西で戦い、太平天国軍10万を破った。翌年、太倉・昆山を陥落させ、総兵となった。その後、劉銘伝・周盛波とともに蘇州・無錫を奪回するのに貢献した。1864年、宜興・常州・湖州を次々と陥落させた。太平天国軍は江西省を経て、福建省に逃れたが、1865年に李鴻章は郭松林に兵5千をつけて海から応援に赴かせた。郭松林は漳州を落とし、太平天国軍は広東省嘉応に逃れて壊滅した。 1866年、曽国荃は捻軍との戦いに郭松林を派遣するが、郭松林は負傷し、弟の郭芳珍が戦死した。1867年11月、傷が癒えて戦線に復帰した。捻軍の幹部のうち、任柱はすでに戦死しており、残りの者は海沿いに南下していたが、劉銘伝とともに追撃し、頼文光を破り、范汝増らを戦死させた。頼文光はさらに南下したものの、揚州で捕らえられ、東捻軍は平定された。 1868年、西捻軍が北京をうかがうと潘鼎新とともに防衛にあたり、6月に沙河で捻軍を破り、張宗禹は水死して、西捻軍は平定された。 その後、湖北提督、直隷提督を歴任した。死後、武壮の諡号を贈られた。 Category:清代の人物 Category:湘潭出身の人物 Category:1833年生 Category:1880年没.
郷勇
郷勇(きょうゆう)は清代に臨時に召募された地方の武装補助部隊、すなわち義勇軍である。それぞれ大隊を形成し、勇営と称した。 郷勇の起源は清初めの郷兵にある。雍正8年(1730年)、オルタイが雲南省の烏蒙の反乱を鎮圧した時、郷兵を召募しているが、すぐに解散させている。つまり常設の軍隊ではなかったのである。その後の嘉慶年間の白蓮教徒の乱でも、郷勇は召募されている。地方有力者が郷鎮を盗賊等から自衛するために自発的に組織した武装集団の団練は、郷勇の有力な兵員の供給源となった。 咸豊2年(1852年)に曽国藩が創設した郷勇である湘勇は、後の湘軍に発展した。また咸豊11年(1861年)には李鴻章が後に淮軍となる郷勇を組織している。湘軍と淮軍は太平天国の乱と捻軍の反乱の鎮圧の主力となり、ついに清末には郷勇は陸軍に組み入れられるようになった。 中華民国期に入ると、軍閥が割拠し、土匪が横行するようになったため、地方の有力者たちは郷勇的な地方武装組織を保有した。 Category:清朝の軍事.
蘇州市
蘇州市(そしゅうし、、、)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市。 古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城であり、上海市に隣接する地の利があり、現在も省の経済的中心である。 蘇州で話されている蘇州語(蘇州方言/蘇州話)は、北部呉語を代表する方言と考えられていたが、現在は上海語にその座を譲っている。蘇州方言と上海方言とでは、異なる語彙や発音があるが、しばらく会話すれば意志の疎通に大きな支障はなくなる。但し、学校での普通話(標準語/共通語)一辺倒による教育により、上海語の事例同様、若者は蘇州語を話せなくなってきている。その問題に対し、学校・教育側は方言の授業を設ける等を検討している。また、上海に比べ方言(蘇州語)によるTV番組が多く見られる。.
捻軍
捻軍(ねんぐん)は太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力。「捻」とは「ひねる」「こよる」という意味の語であるが、淮河北方の方言では「一本一本の糸をよりあげる」ことから転じて「人々の集まり」を示す。捻軍の起源は「捻子」という遊民の集団で安徽省・河南省一帯に広がっていった。.
李秀成
李 秀成(り しゅうせい、Li Xiucheng、1823年 - 1864年8月7日)は、太平天国の指導者の1人。広西省藤県出身の客家人。従兄弟に李世賢、養子(一説に実子)に李容発がいる。 太平天国軍が藤県を通過した際に、蜂起に参加した。咸豊8年(1858年)に洪秀全が五軍主将を再建した際に後軍主将となり、翌9年(1859年)に忠王に封ぜられた。 咸豊10年(1860年)に第二次江南大営攻略を成功させ、江蘇省南部を攻略、蘇州に忠王府を建てた。同年、蘇州には配下の慕王譚紹光を駐屯させ、自分は清の部将曽国藩ら湘軍が包囲する安慶の救援作戦に赴き、西進して武漢三鎮を攻撃したが失敗に終わり、安慶の包囲を解くことに失敗してしまった。翌11年(1861年)、杭州を陥落させ浙江省を次々を手中に収めていった。 同治元年(1862年)に上海を攻撃、李鴻章率いる淮軍と外国軍(常勝軍)の抵抗にあって激戦となったが、清軍が天京(南京)を包囲したため、救援に赴くため撤退を余儀なくされた。翌2年(1863年)には天京の包囲を解くために洪秀全から長江を渡って安徽省を攻撃するよう命令されたが、食糧不足のために失敗し、江南に退いた。この戦いで太平天国軍は大きな損失を出した。蘇州が陥落した後は情勢が悪化し、李秀成は洪秀全に天京を放棄するように進言したが拒否され、代わりに天京の守りについた。 同治3年(1864年)初めから天京は湘軍に包囲され、天京攻防戦の末に7月に陥落すると幼天王洪天貴福を守って脱出したが、曽国荃率いる清軍に捕らえられ、取り調べを受けた後に処刑された。5万字ともされる処刑前の供述は『李秀成自述』として後世に伝えられ、多くの写本が作成された。1962年には曽国藩から見て4世に当たる曽紀農が自家に伝わっていた李の肉筆原稿を基に3万3千字の『李秀成自述』を中華民国(台湾)で刊行し、その原稿を台北市の国立故宮博物院に寄贈している。 部下の1人にオーガスタス・リンドレーがおり、著書で肖像画が掲載されている。 Category:太平天国の人物 Category:客家人 Category:梧州出身の人物 Category:刑死した人物 Category:1823年生 Category:1864年没.
李鴻章
李 鴻章(り こうしょう、、1823年2月15日(道光3年1月5日) - 1901年11月7日(光緒27年9月27日))は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。.
李氏朝鮮
李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.
杭州市
杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった。 隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。(上有天堂、下有蘇杭。)」とたたえられた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西には世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。 一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。.
欽差大臣
欽差大臣(きんさだいじん、ᡥᡝᠰᡝ ᡳᠲᠠᡣᡡᠷᠠᡥᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:hese i takūraha amban)は、清朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。 ただ本来は臨時官であったが、中には時代の変遷と共に常設化したものもある。たとえば総督や巡撫といった官は明代の欽差官が定着したものである。すなわち欽差大臣と呼称されるものには、臨時と常設のものとの2種類があるといって良い。以下に挙げるのは本来の意味での臨時の欽差大臣である。.
江南機器製造総局
江南機器製造総局(こうなんききせいぞうそうきょく, 1865年(同治4年)9月20日 - 1917年)は清朝の洋務運動の中で成立した軍事生産機構である。晩清期の中国では最も先進的で重要な軍事工場の1つであり、後の江南造船廠の前身である。 略称は江南製造局あるいは江南製造総局、また上海機器局と別称される事もある。.
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江蘇省
江蘇省(こうそしょう、、、)は、中国東部にある行政区。長江の河口域であり、北部は淮河が流れ黄海に面する。名称は江寧(現南京市)の江、蘇州の蘇による。省都は南京市(中華民国政府が公表している省都は鎮江市)。略称は蘇。.
洋務運動
洋務運動(ようむうんどう)は、中国の清朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動(じきょううんどう)とも。清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが推進者。 福建省福州の造船所・福州船政局.
淮河
河と長江に南北を挟まれる形で流れる 淮河(わいが、)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。長さは1,078km、流域面積は174,000平方kmに及ぶ。 淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい。このため「壊河(ピンインではHuái Hé)」の異名がある。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
清仏戦争
清仏戦争(しんふつせんそう、、、Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、Guerre franco-chinoise)は、1883年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。 フランスが領土領有を達成したためフランスの勝利と考えられているが、士気旺盛な黒旗軍との戦いでは軽視できない損害も被った。.
湘軍
湘軍(しょうぐん)は、清末の湖南地方の軍の呼称で、湘勇ともいう。太平天国の乱を清朝の正規軍(八旗・緑営)は鎮圧できず、やむを得ず清朝政府の命により各地の郷紳に臨時の軍隊を組織させた。これを郷勇と呼び湘軍はその一つであった。.
潘鼎新
潘 鼎新(はん ていしん、Pan Dingxin、1828年 - 1888年)は、清末の官僚。字は琴軒。安徽省廬江県広寒郷出身。後に肥西県三河に移った。 道光29年(1849年)に挙人となった。郷里で団練を組織し、太平天国の鎮圧に参加した。その軍は「鼎字営」と呼ばれ、曽国藩から戦いぶりについて賞賛を受けた。同治元年(1862年)に江蘇省常鎮通海道、按察使、布政使銜に就任、同治4年(1865年)に軍を率いて北上し山東省の捻軍を鎮圧し、山東布政使となった。同治13年(1874年)には雲南布政使となり、光緒2年(1876年)に巡撫に昇格するが雲貴総督劉長佑と合わず、翌3年(1877年)に中央に呼び戻された。 光緒9年(1883年)、ベトナムを巡ってフランスとの関係が緊張すると湖南巡撫として防衛を強化。翌10年(1884年)に清仏戦争が始まると広西巡撫としてランソンに駐屯し、ドンマイ、コクトウンなどの要衝に兵を置いた。しかし朝廷は徹底攻撃を主張せず和平を求めていて、李鴻章も「勝っても進むな、負ければ退け」と潘鼎新に密命を下していた。 光緒11年(1885年)1月、フランス軍の襲撃でランソンが陥落し、潘鼎新は広西省の龍州に退いて罪を請うたが、朝廷は功を立てることで罪を償うことを命じた。2月、フランス軍が中越国境の鎮南関を陥落させると奪回に向かい、蘇元春を先鋒として、鎮南関の奪回に成功した。フランス軍はバンウィエンから龍州へ攻撃を仕掛けたが、淮軍と鄂軍に迎撃させ撃退した。 3月に入ると馮子材ら諸将に命じて鎮南関からバンウィエンを奇襲、フランス軍は3路に分かれて鎮南関に本格的な攻撃を仕掛けたが、2日間の戦闘の結果、フランス軍は壊滅した(鎮南関の戦い)。清軍は追撃にかかりバンウィエンを攻略、潘鼎新は騎兵を率いてランソンを陥落させた。更に淮軍と鄂軍もドンマイ、コクトウンを占領したが、朝廷は既に和平の意思を固めており、潘鼎新は解任された。「兄弟一軍帰故里、河山百戦送蛮夷」との悲歌を残している。 Category:清代の人物 category:清仏戦争の人物 Category:合肥出身の人物 Category:1828年生 Category:1888年没.
新軍
新軍(しんぐん)または「新建陸軍」とは清朝政府が日清戦争後に軍を再編成して新たに作った、近代的陸軍である。新軍は軍制や訓練、装備に至るまで完全に西洋式に切り替えられ、清朝末に正規軍として清国軍の中核を担った。.
日清戦争
日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.
曽国藩
曽 国藩(そう こくはん、、嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))は、中国清代末期の軍人、政治家。字は伯函、号は滌生(てきせい)、諡は文正。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。.
1853年
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1858年
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1860年
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1877年
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1882年
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1884年
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1894年
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