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浅野長照

索引 浅野長照

浅野 長照(あさの ながてる、慶安5年1月17日(1652年2月26日) - 宝永2年11月15日(1705年12月30日))は、第2代備後三次藩主。通称は長蔵(ながぞう)、官位は従五位下・式部少輔(しきぶしょうゆう)。 父は安芸広島藩主浅野光晟、母は前田利常の娘・満姫。兄に浅野綱晟、浅野長尚。室は公家の広幡忠幸の娘・園姫。.

44 関係: 天和 (日本)宝永安芸国寛文享年広島藩広幡忠幸延宝御目見徳川家綱備後国公家元禄前田利常瑤泉院青松寺高田藩越後国赤穂事件赤穂藩自昌院松平光長江戸城浅野光晟浅野綱長浅野綱晟浅野長尚浅野長矩浅野長治浅野長澄播磨国慶安11月15日 (旧暦)12月30日1652年1663年1666年1681年1682年1691年1701年1705年1月17日 (旧暦)2月26日

天和 (日本)

天和(てんな、てんわ)は日本の元号の一つ。延宝の後、貞享の前。1681年から1684年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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宝永

宝永(ほうえい、旧字体: 寶永)は日本の元号の一つ。元禄の後、正徳の前。1704年から1711年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇、中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉、徳川家宣。.

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安芸国

安芸国(あきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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広幡忠幸

広幡 忠幸(ひろはた ただゆき)は、江戸時代前期の公卿。皇族として生まれ、のちに臣籍降下して広幡家を創設し、その初代当主となった。正式の姓名は、源 忠幸(みなもと の ただゆき)である。「忠」の字は兄・八条宮智忠親王より偏諱を賜ったものであり、やがて広幡家の通字となっていった。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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御目見

御目見(おめみえ)とは、江戸時代に大名や旗本が将軍に直接拝謁すること。また、その資格。「上聴」とも呼ばれる。 江戸時代の武士には、どの藩でも藩主にお目通りする資格がある「上士」と、それがない「下士」の区別があった。一般に「侍」(さむらい)と呼ばれたのは前者の方で、後者はかつて戦場でも騎乗の資格がなかったことから「徒歩」(かち)と呼ばれた。 幕府内では、石高一万石未満の徳川家家臣で、総登城や年賀節句など将軍が出御する儀式に参列することが許されている者を「旗本」、そうでない者を「御家人」と呼んだ。また旗本は、規模は小さいながらも実際に知行地をもつ一領主であったことから、庶民からは俗に「殿様」(とのさま)と呼ばれた。一方の御家人は、切米で俸給されたので「旦那様」(だんなさま)と呼ばれた。 江戸城内における年中儀礼の式次第や諸大名の格式をはじめ、故事、旧例、有職、法規などを網羅した注釈書『柳営秘鑑』には、以下の記述がある。 近世武家社会において御目見は家督の相続に際して嫡子として認められる所作のひとつとなっており、成人の嫡子が存在しても御目見を済まさない場合は家督相続者として認められなかった。.

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

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備後国

備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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公家

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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前田利常

前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。.

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瑤泉院

泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年) - 正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。 夫の死後、落飾して瑤泉院と称した。「ようぜいいん」と読まれることが多いが、これは冷泉家の「泉」を「ぜい」と読むことにつられた読み癖(誤読)で、正しくは「ようぜんいん」と読む。.

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青松寺

青松寺(せいしょうじ)は、東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は萬年山(ばんねんざん)。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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自昌院

自昌院(じしょういん、元和5年12月15日(1620年1月19日) - 元禄13年7月27日(1700年9月10日))は、広島藩主浅野光晟の正室。加賀藩主前田利常の三女。母は徳川秀忠の次女・珠姫。実名は満姫(まんひめ)。 寛永12年(1635年)、徳川家光の養女として浅野光晟に嫁ぎ、三男三女を儲けた。 満姫は日蓮宗に帰依した。自昌山暁忍寺を国前寺と改名し、本堂は満姫が、その他諸堂は夫・光晟が建立し直した。.

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松平光長

松平 光長(まつだいら みつなが)は、越後高田藩の藩主。越前北ノ荘藩主・松平忠直の長男で、結城秀康の孫。徳川家康の曾孫、徳川秀忠の外孫に当たる。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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浅野光晟

浅野 光晟(あさの みつあきら)は、安芸広島藩の第2代藩主。浅野宗家3代。.

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浅野綱長

浅野 綱長 (あさの つななが)は、江戸時代前期の国主外様大名。安芸広島藩第4代藩主。浅野家宗家5代。.

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浅野綱晟

浅野 綱晟(あさの つなあきら)は、安芸広島藩の第3代藩主。浅野宗家4代。 第2代藩主・浅野光晟の長男。母は前田利常の娘・満姫。官位は従四位下、弾正大弼、侍従。幼名は岩松。.

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浅野長尚

浅野 長尚(あさの ながなお、正保元年(1644年) - 寛文6年7月28日(1666年8月28日))は、江戸時代前期の三次藩浅野家の世子。第二代三次藩主になるはずであったが、家督する前に死去してしまった。通称は松千代、又六郎。官位は従五位下和泉守。 安芸国広島藩主浅野光晟の次男として生まれる。母は前田利常の娘・満姫。浅野本家の家督は兄浅野綱晟が継いだため、長尚は、明暦元年(1655年)に三次藩主浅野長治の養子に入った。4月15日、はじめて将軍徳川家綱に御目見。万治元年(1658年)12月27日には従五位下和泉守に叙任された。しかしこのあと病にかかり、安芸国広島城に戻って養生していたが、そのまま回復せずに寛文6年(1666年)7月28日に広島で死去した。享年23。安芸国の日通寺に葬られた。法名は顔哲日容浄心院。 なおこの後、長尚の弟の長照が養嗣子に入って家督を継いだ。 なかなお Category:広島藩の人物 Category:1644年生 Category:1666年没.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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浅野長治

浅野 長治(あさの ながはる、1614年5月4日(慶長19年3月26日) - 1675年2月13日(延宝3年1月19日))は、江戸時代前期の大名。備後三次藩初代藩主。正室は常陸笠間藩主浅野長重の娘。通称は又六郎(またろくろう)。官位は従五位下因幡守。 広島藩初代藩主浅野長晟の庶長子として山城国に生まれる。元和5年(1619年)に将軍徳川秀忠に御目見する。寛永7年(1630年)に従五位下因幡守に叙任された。 寛永9年(1632年)11月2日に父の遺領のうち備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となる。11月6日に領地三次に入った。三次藩の基礎を築いた名君であった。 男子がなかったため、本家を継いだ弟・光晟の次男長尚を明暦3年(1657年)に養子に迎え入れたが、まもなく死去したため、三男長照を新たに養子に迎えて家督を継がせた。また、娘に赤穂事件で有名な播磨赤穂藩主浅野長矩の正室・阿久里がいる。 延宝3年(1675年)1月19日に死去した。墓所は広島県三次市にある鳳源寺のある比熊山城跡山麓。法名は俊岳了英鳳源院。.

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浅野長澄

浅野 長澄(あさの ながずみ、寛文11年12月1日(1671年12月31日) - 享保3年8月4日(1718年8月29日))は、第3代備後三次藩主。 安芸広島藩主浅野綱晟の次男。母は左大臣九条道房の娘・八代姫。兄は第4代広島藩主・浅野綱長。正室は小笠原忠雄の娘。子に浅野長経(長男)、浅野長寔(次男)。通称は大助(だいすけ)、官位は従五位下・土佐守。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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慶安

慶安(けいあん)は日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。.

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11月15日 (旧暦)

旧暦11月15日は旧暦11月の15日目である。六曜は先勝である。.

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12月30日

12月30日(じゅうにがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から364日目(閏年では365日目)にあたり、年末まであと1日ある(小晦日)。.

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1652年

記載なし。

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1663年

記載なし。

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1666年

記載なし。

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1681年

記載なし。

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1682年

記載なし。

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1691年

記載なし。

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1705年

記載なし。

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1月17日 (旧暦)

旧暦1月17日は旧暦1月の17日目である。六曜は大安である。.

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2月26日

2月26日(にがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から57日目にあたり、年末まであと308日(閏年では309日)ある。.

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