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浅野長恒

索引 浅野長恒

浅野 長恒 (あさの ながつね、万治元年(1658年) - 享保17年9月7日(1732年10月25日))は、江戸時代中期の武士。江戸幕府の旗本寄合。播磨国赤穂藩浅野家の分家にあたる。通称は長三郎(ちょうさぶろう)のち隼人(はやと)。官位は従五位下、美濃守・壱岐守・市正(いちのかみ)。浅野氏は土岐氏の支流と称しているので、その通りならば本姓は清和源氏。.

55 関係: 吉良義央堺奉行大和国大石良重大石良雄大阪宇陀松山藩寛文山田奉行布衣万治享年享保徳川家綱土岐氏元禄紀伊国織田信武目付遠山友貞赤穂城赤穂事件赤穂藩柳沢信孝正徳 (日本)武士江戸幕府江戸時代泉岳寺清和源氏木下公定浅野長矩浅野長直浅野氏日光山旗本旗本寄合席旗本札播磨国10月25日1658年1670年1671年1693年1694年1699年1700年1701年1702年1703年...1711年1721年1729年1732年9月7日 (旧暦) インデックスを展開 (5 もっと) »

吉良義央

吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件の一方の当事者であり、同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。.

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堺奉行

堺奉行(さかいぶぎょう)は、江戸幕府が江戸以外の幕府直轄領(天領)内の重要な場所に置いた遠国奉行の一つで、堺及び和泉・河内両国の天領を統治した。前身は中世に設けられた堺政所(さかいまんどころ)である。堺奉行は老中支配の元に置かれ、城中では芙蓉の間席で奈良奉行の次席。配下は与力10騎・同心50人(一時与力6騎・同心40人となる)、足高は役高1000石・役料現米600石であった。 役務は、堺に出入する船舶とその荷物の点検、防備及び和泉の政務であった。小事は堺奉行が取計らうが、入り込んでいる事態は大坂町奉行へその対処を任せた。.

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大和国

大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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大石良重

大石良重(おおいし よししげ、元和5年(1619年) - 天和3年5月18日(1683年6月12日))は、江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。通称は頼母助(たのものすけ)。 赤穂浅野家筆頭家老の大石良勝の次男として誕生。兄の大石良欽が大石家1,500石の家禄と筆頭家老職を継いだが、良重も藩主浅野長直の信任を得て450石取りの家老となり、長直の娘・鶴姫を妻にした。その間に、又太郎(早世)・亀之助(早世)・女(浅野長直養女として松平定逸の室)・浅野長恒(分地により3,000石の幕府旗本)・浅野長武(3,000石の幕府旗本浅野長賢の養子)が生まれている。なお、延宝3年(1675年)の「武鑑」に掲載されている家老に「同(大石)頼母」がいる。 延宝5年(1677年)に兄が死去すると、良重は19歳という若年で相続した良欽の子大石良雄の後見人についた。天和3年(1683年)2月に若き藩主浅野長矩がはじめて勅使饗応役に任じられたときには江戸にあり、長矩を補佐した。 同年5月18日に江戸で死去。享年65。芝二本榎の国昌寺に葬られた。 Category:赤穂藩の人物 よししけ Category:1619年生 Category:1683年没.

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大石良雄

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。 「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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宇陀松山藩

宇陀松山藩(うだまつやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁として松山(奈良県宇陀市大宇陀)に陣屋が置かれた。 松山西口関門(国の史跡).

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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山田奉行

山田奉行(やまだぶぎょう、江戸期の読みは「ようだぶぎょう」)は、江戸幕府の役職の一つ。伊勢神宮の守護・造営修理と祭礼、遷宮、門前町の支配、伊勢・志摩における訴訟、鳥羽港の警備・船舶点検などを担当した。伊勢奉行・伊勢町奉行・伊勢郡代・伊勢山田奉行・伊勢山田町奉行とも称された。遠国奉行の1つで老中支配。定員は1~2名、元禄9年(1696年)には2名となり、江戸と現地で交代勤務となる。役高は1000石で、役料1500俵を支給された。配下は与力6騎・同心70人・水主40人。 昭和46年に市の史跡に指定。.

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布衣

布衣(ほい)は、日本の男性用着物の一種で、江戸幕府の制定した服制の1つ。幕府の典礼・儀式に旗本下位の者が着用する狩衣の一種だが、特に無紋(紋様・地紋の無い生地)のものである。下位の旗本(すなわち御目見以上)の礼装は素襖とされているが、幕府より布衣の着用を許されれば六位相当叙位者と見なされた。.

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万治

万治(まんじ)は日本の元号の一つ。明暦の後、寛文の前。1658年から1661年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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享年

享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」という意味であり、この世に存在した年数である。「行年(ぎょうねん)」ともいい「娑婆で修行した年数」、「行(時が進むの意味)『漢字源』学研、「行」の項を参照。の年数」の意味。「享年70(満68歳)」(数え年の場合)のように用いる。享年を数え年ではなく満年齢で表し「享年68(歳)」と表すこともある。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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徳川家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))。 父は第3代将軍徳川家光、母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。.

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土岐氏

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。 南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として五職家の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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紀伊国

紀伊国(きいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。.

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織田信武

織田 信武(おだ のぶたけ)は、大和宇陀松山藩の第4代藩主。高長系織田家3代。.

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目付

付(めつけ)とは、.

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遠山友貞

遠山友貞(とおやま ともさだ、1641年5月11日(寛永18年4月2日) - 1675年6月28日(延宝3年5月6日))は、美濃国苗木藩の第3代藩主。 第2代藩主・遠山秀友の長男。母は滋野井季吉の娘。正室は久世広之の娘。継室は木下利貞の娘。子に遠山友春(長男)、娘(大久保忠香室)、娘(浅野長恒正室)。官位は従五位下、信濃守。 苗木にて生まれる。通称は久大夫。寛永19年(1642年)5月、父が死んだため、わずか2歳で家督を継いだ。慶安4年(1651年)6月29日、将軍徳川家綱にお目見えする。寛文元年(1661年)12月28日、従五位下信濃守に叙任する。江戸城の石垣普請や駿府加番などを勤めた。藩政では新田開発を奨励し、罪人を移住させて新たに開墾させるなどの大きな成果を収めた。延宝3年(1675年)5月6日、熱海で湯治中に病死した。享年35。家督は長男の友春が継いだ。 墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。 ともさた *03 Category:中津川市の歴史 Category:1641年生 Category:1675年没.

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赤穂城

赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二の丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は、赤穂城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」などと表記するものもあった。.

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赤穂事件

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。 この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。 なお、浅野が吉良に斬りかかった理由は、史実としては不明である。赤穂事件を扱ったドラマ・映画等では、浅野が、吉良から要求された賄賂を拒否した事で起きた吉良による嫌がらせを原因として描かれ、また主君の浅野に代わり、家臣が、吉良を討った「仇討ち」事件として描かれることが多い。しかし、事件当時、「仇討ち」は、子が親の仇を討つなど、目上の親族のための復讐を指した。本事件を、「仇討ち」とみなすか「復讐」とみなすか、その意義については論争がある。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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柳沢信孝

柳沢 信孝(やなぎさわ のぶたか、元禄4年(1691年)‐元文4年2月16日(1739年3月25日))は、江戸幕府旗本。柳沢信尹の長男。母は横山刑部左衛門の娘。通称は武次郎のち兵庫、八郎右衛門、右近。子に、娘(小宮山昌雄、妻)らがいる。妻は、浅野長恒の娘。後妻は、岡部定長の娘。 男子が皆、早世したため致仕後に養子の信武が家督を継いだ。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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武士

武士(ぶし)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在した、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。「もののふ」(cf. wikt) とも読み倣わすが、その起源については大伴氏や物部氏の名に求めるなど諸説がある。 同義語として武者(むしゃ、むさ)があるが、「武士」に比べて戦闘員的もしくは修飾的ニュアンスが強い(用例:武者絵、武者修業、武者震い、鎧武者、女武者、若武者、落武者などさらには、「影武者」のように、本義のほかに一般用語としても使われるようになった語もある。)。すなわち、戦闘とは無縁も同然で「武者」と呼びがたい武士とは言え、呼ぶことが間違いというわけではない。はいるが、全ての武者は「武士」である。他に類義語として、侍、兵/兵者(つわもの)、武人(ぶじん)などもあるが、これらは同義ではない(「侍」は該当項目を参照。兵/兵者や武人は、武士に限らず、日本に限らず用いられる)。「武士」は性別を問う語ではなく性別表現に乏しいものの、女性の武士が戦闘員的特徴を強く具える場合に限って女武者(おんなむしゃ)という呼び方をする「女武士」や「姫武士」などという呼称は見られない。。 武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめ、古代を終焉させたとする理解が通常されている。旧来の政権を傀儡として維持したまま自らが実質的に主導する中世社会を構築した後は、近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた。近代に入って武士という存在そのものを廃したのも、多くの武士が参画する近代政府(明治政府)であった。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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泉岳寺

泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる。 現在の住職は駒澤大学名誉教授の小坂機融。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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木下公定

木下 㒶定(きのした きんさだ、承応2年6月7日(1653年7月1日) - 享保15年12月24日(1731年1月31日))は、備中足守藩の第5代藩主。足守藩木下家5代。 第4代藩主・木下利貞の長男。母は金森重頼の娘。正室は木下俊長の娘。官位は従五位下、肥後守。幼名は熊之助。弟に木下藤栄(内記)。養子に木下利安、木下公福、木下利潔。養女に浅野長恒妻(遠山友貞娘)。 延宝7年(1679年)8月14日、父の死去により跡を継ぐ。元禄14年(1701年)3月、赤穂事件で有名な浅野長矩の改易の際、龍野藩主脇坂安照とともに赤穂城の受け取り役を務めた。宝永5年(1708年)5月には仙洞御所と中宮御所の普請で功を挙げた。 藩政においては「桑華蒙求」を著して家臣教育に務めるとともに、果樹栽培を奨励し、領民を豊かにしたと言われている。また、祖父の利当が開いた淡路流槍術の達人でもあった。享保14年(1729年)5月2日、養嗣子の利潔に家督を譲って隠居し、享保15年(1730年)12月24日に78歳で死去した。 法号は敬文院殿観翁慧定大居士。墓所は京都市東山区の高台寺円徳院と岡山市北区足守の大光寺。 弟の利安を養嫡子とするが、不行状を理由に廃嫡。替わって同じ木下一族の豊後日出藩から木下公福を養子としたが、最終的には弟の藤栄(内記)の子・利潔が跡を継いだ。.

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浅野長矩

浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下 内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。.

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浅野長直

浅野 長直(あさの ながなお、慶長15年(1610年) - 寛文12年7月24日(1672年9月15日))は、江戸時代前期の外様大名。浅野氏では初代の播磨赤穂藩主。.

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浅野氏

浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。.

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日光山

日光山(にっこうさん)は、栃木県日光市にある輪王寺の山号である。江戸時代には日光寺社群を総称して日光山と呼んだが、明治時代の神仏分離令により輪王寺の山号となった。 日光山は、栃木県北西部にある男体山(2,486m)、女峰山(2,464m)、太郎山(2,368m)の三山を中心とする山岳の総称としても用いられる。.

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旗本

旗本(はたもと)は、中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。.

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旗本寄合席

旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家が存在した。.

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旗本札

旗本札(はたもとさつ)は、江戸時代に知行地を持つ旗本が自領内において独自に発行した紙幣である。.

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播磨国

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。.

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10月25日

10月25日(じゅうがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から298日目(閏年では299日目)にあたり、年末まであと67日ある。.

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1658年

記載なし。

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1670年

記載なし。

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1671年

記載なし。

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1693年

記載なし。

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1694年

記載なし。

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1699年

記載なし。

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1700年

17世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1701年

18世紀最初の年である。.

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1702年

記載なし。

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1703年

記載なし。

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1711年

記載なし。

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1721年

記載なし。

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1729年

記載なし。

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1732年

記載なし。

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9月7日 (旧暦)

旧暦9月7日(きゅうれきくがつなのか)は旧暦9月の7日目である。六曜は先負である。.

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